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日本の面影の檀ふみさんを観て思い出した番組です。当時から檀さんは知的でした。小学生のころからやっていた番組で結構長く続いていました。家族そろって観るクイズ番組の代表と思います。水沢アキさんがかわいくて結構印象に残っています。大和田獏さんも親しみやすく好きでした。いいコンビだったと思います。タイムトンネル&エドちゃんNHK連想ゲーム2024.3.19リンク切れにより差し替え。
2022.10.20
Wikipediaで山田太一さんの脚本作品を探していて見つけた作品です。この作品が放映された1984年当時は入社三年目で、遊びまわるのに忙しく、TVで予告編をみて、観たいと思ったものの、見逃してずっと気になっていた作品です。小泉八雲の日本での自然を愛でながらの生活、結婚、東大に転職する経緯、奥さんの小泉セツさんの「怪談」に果たした役割を山田太一さんが生き生きと描いている貴重な作品です。■参考リンクWikipedia:日本の面影一部単語を省略。日本の面影』(にほんのおもかげ)は1984年3月3日から1984年3月24日まで放送されたテレビドラマ。脚本は山田太一。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を主人公に、主に明治時代の日本を舞台としている。後に舞台劇に脚色され、1993年に地人会制作で紀伊國屋ホールにて初演[1]。2012年には「朗読座」でも上演された。ドラマ化の経緯山田はハーンの生涯をドラマ化することを以前から考えていたが、関心を示す制作者はなかなか現れなかった[2]。「石炭と石油、原子力発電と3代でエネルギーに関わった家庭を題材にして、日本の近代化を描くドラマ」の企画を依頼された際に、その趣旨に同意できずにハーンのドラマ企画を提案したところ、実現の運びとなった[3]。ハーン役を誰にするかについて、山田がダスティン・ホフマンの名をあげると「ギャラだけで制作費が飛ぶ」と却下された[3]。アメリカでのオーディションとなり、これを知ったジョージ・チャキリスが自らもハーンと同じギリシャ系であると名乗り出た[3]。チャキリスは日本語を全く解さなかったが、出演前に日本語トレーナーから訓練を受けて撮影に臨んだという[4]。作品の特徴シナリオでは多くの日本人の登場人物が全編にわたって出身地の方言で会話している(これは実際のドラマでもほぼそのまま演じられている)。ハーンの台詞は、日本語で話す部分は(仮名の部分が)カタカナ、英語で話す部分はその意味に相当する通常の日本語で記される。また、ハーンの著作『怪談』『骨董』の中から「むじな」「幽霊滝の伝説」「雪女」「耳なし芳一」の4つの作品が劇中劇として登場する(「むじな」は人形劇、他の3つは実写)。「むじな」以外の3作品は小泉セツが語るのを聞きながらハーンが思い浮かべているという設定が取られており、「雪女」ではセツの語る設定にハーンが異を唱えて変更されるのに合わせて映像も変わったり[5]、西田千太郎の訃報を受けた直後の「耳なし芳一」では芳一がハーンの想像で西田の姿になっている[6][7]といった演出が取り入れられている。
2022.10.19
1972年の日本はすごいパンダブームだったです。かなりの混雑で、実際に間近で観たのはずっと後会社に入ってからの事でした。当時世界に1200頭ぐらいしかいないパンダのうち、育てるのが難しい野生生まれの子供の2歳の2頭が中国から贈られたとのこと。日本の環境に慣れさせるための最初の10日が勝負とのことで、その間に餌を食べなかったり、風邪をひいたりで、国賓待遇を死なせてはいけないと飼育係や、獣医の苦労は大変だったようです。獰猛で神経質と言われるトラが心を開く、飼育係の本間勝男さんの動物への接し方は、パンダの心も開き病気が治ります。これは人間の接し方にも参考になります。本間さんが上野動物園に就職したきっかけが、戦後シベリアに抑留されてようやく帰ってきたら、ソ連の教育を受けているのではと疑われ雇ってもらえず人間不信に陥っていたところ、ようやく親戚にみつけてもらったという経緯が時代を感じさせます。札幌オリンピック、あさま山荘事件、ミュンヘンオリンピック事件、パンダ来日と、1972年は記憶に残る出来事の多い年でした。■参考リンクWikipedia:カンカンとランランカンカン(康康)とランラン(蘭蘭)は、東京都恩賜上野動物園で飼育されていた2頭のジャイアントパンダである。概要1972年9月の日中国交正常化を記念して中華人民共和国から贈呈された[1]。当時北京動物園で飼育されていた個体の中から容姿・性格など最も優れた2頭が選ばれた[2]。中国名はシンシン(新興)とアルシン(二興)で、来日時にシンシンはカンカン(康康)と、アルシンはランラン(蘭蘭)と改めて命名された[3]。同年10月28日来園[4]。当時の内閣官房長官二階堂進が羽田空港まで赴いて2頭を乗せた専用機を出迎えた[5]。11月5日に一般公開されて日本中に大フィーバーを巻き起こした[2]。公開初日には見物客が約6万人[6]、最盛期には毎日平均1万5千人が訪れ[5]、長さ2キロメートルにわたる2時間待ちの行列ができ、観覧時間はわずか30秒であった[2]。1979年8月、ランランは自然妊娠後に妊娠中毒症や尿毒症などの合併症(腎不全[7])で倒れる。腹膜透析など懸命な看護が行われたが[8]同年9月4日に死亡。また、次いでカンカンも1980年6月30日に心不全で死亡した[4]。ランランの剥製は1980年6月17日から多摩動物公園で展示されている。カンカンの剥製は上野動物園で1981年1月27日から3月1日まで展示された後、同年3月3日から多摩動物公園に展示されている。2頭の剥製は全国の動物園や博物館への貸し出しも頻繁に行われている[9]。剥製製作は都内にある尼ヶ崎剥製標本社である[9]。
2022.10.18
二人の若者の結婚を機に両家顔合わせで会った2つの家族が、その5日後の東日本大震災で大きく運命が変わります。花婿のほうの家族は漁師で海辺に住み、花婿はじめ多くの家族や家を失い、一家崩壊になりますが、花嫁家族はサラリーマンで高台に住み何も失いません。この二つの家族のふれあいを描くことで、東日本大震災にとどまらず、極限状況下の人間の弱さや、本当に欲するものとは何かを考えさせることによって、人間の本質を見事に描いた作品で、おすすめの作品です。ちょっと辛口な中にも、山田太一さんの優しさがにじみ出る作品です。東日本大震災をモチーフにしたフィクションとありますが、きっとどなたかこれに似た体験をされたように思います。たまたま知り合った人から、以前この種類の経験をされた話を聞いたことがあり、リアリティさを余計感じました。■参考リンクWikipedia:時は立ちどまらない『時は立ちどまらない』(ときはたちどまらない)は、2014年(平成26年)2月22日(土曜)の21:00 - 23:06[1](JST)にテレビ朝日系列で放送されたスペシャルドラマ。テレビ朝日開局55周年記念ドラマ。視聴率14.7%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)[2]。あらすじ東北のとある海沿いの街に住む2つの家族。高台の家に住む西郷家と、漁師の家である浜口家。浜口家の長男・修一と西郷家の長女・千晶の結婚で一緒になるはずの2組の家族を東日本大震災の津波が襲った。西郷家は被害を免れ、浜口家は津波で家と家族を失う。2組の家族の運命の歯車が大きく狂い始める。テレビドラマデータベース:時は立ちどまらない(新聞ラテ欄表記…「時は立ちどまらない~山田太一が贈る家族愛の物語~結婚式直前津波が奪った夫婦、親子…運命を分けた両家 あの3・11から3年!「生きる」涙と感動の結末!!」)(誤り…時は立ち止まらない)第69回文化庁芸術祭大賞受賞作品。第40回放送文化基金賞番組部門・テレビドラマ番組最優秀賞受賞作品。第51回ギャラクシー優秀賞受賞作品。「放送人グランプリ 2014」グランプリ受賞作品。第19回アジア・テレビ賞(ATA)単発ドラマ・テレビ映画番組部門最優秀賞受賞作品(同時にテレビ朝日が同賞の地上波放送局奨励賞を受賞)。平成26年日本民間放送連盟賞番組部門・テレビドラマ番組優秀賞受賞作品。東京ドラマアウォード2014単発ドラマ部門作品賞グランプリ受賞作品。「MIPCOM BUYERS'AWARD for Japanese Drama」グランプリ受賞作品。第23回橋田賞受賞作品。「東北の海沿いの街で生まれ育った西郷良介(中井貴一)は地元の信用金庫の支店長となり、妻の麻子(樋口可南子)、母・奈美(吉行和子)、市役所に勤務するひとり娘・千晶(黒木メイサ)と共に、海を見下ろす小高い丘にささやかな家を建て、平凡な生活を送っていた。ある休日、良介たちは千晶の恋人・浜口修一(渡辺大)の自宅に、初めての両家顔合わせに向かった。浜口家は代々漁師で、修一の父・克己(柳葉敏郎)、母・正代(岸本加世子)、祖父・吉也(橋爪功)、祖母・いく(倍賞美津子)、弟の光彦(神木隆之介)の6人家族…。千晶は将来、政界で活躍する夢を抱いており、良介と麻子は娘が漁師の家に嫁ぐことに複雑な想いを抱いていたが、それはまた浜口家の面々も同じだった。だが、2人の結婚への意思は固く、両家はそれぞれ子どもたちの結婚を認めることに。そして、この宴席で、良介と克己は互いに、中学の同級生だったことに気づく…。しかし、それから5日後の2011年3月11日、東日本を襲った地震と津波が、2つの家族の運命を大きく変えてしまう。浜口家は、正代、いく、修一が津波に襲われ、他界。自宅も船も失った。一方の西郷家は高台にあったため被害をまぬがれ、全員無事だった。市役所勤めの千晶は、婚約者を失った悲しみを感じる隙もないほど仕事に追われる。良介や麻子は浜口家の力になりたいと考え、うちに泊まってくれと申し出る。だが、西郷家を訪れた克己、吉也、光彦は何を思ったか、その晩、大暴れして…!?【この項、番組広報資料より引用】」Taichi Yamada, Scriptwriter松竹の助監督を経て、昭和40年代から脚本家としてテレビドラマに関わってきた経験や自信のドラマ論について語った。「マイナスを遠ざけ、忌避しようとする現代社会にあって、マイナス部分を書き入れた人間を描くことこそテレビドラマの役割だと思う」と。司会 川戸惠子 日本記者クラブ企画委員(TBSテレビシニアコメンテーター)日本記者クラブのページhttp://www.jnpc.or.jp/activities/news...会見詳録http://www.jnpc.or.jp/files/2014/11/0...~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~記者による会見リポート(日本記者クラブ会報12月号に掲載)鋭い洞察力で社会の「マイナス」に分け入る東日本大震災後、NHKや民放で多くのドキュメンタリーが作られたが、震災を題材にしたドラマは極めて少ない。2月にテレビ朝日で放送された山田太一さんの「時は立ちどまらない」はその1つだ。被災地でも、津波で肉親や家を失った人と被災を免れた人では、打撃の大きさや心の傷が異なる。2つの家族で交錯する複雑な思いを浮き彫りにした。「被災者は自分のせいじゃないのに、誰にも『ありがとう、ありがとう』と言わなければならない無念さを抱えている。家族が助かった人にしても、どこかに後ろめたさがある。ドキュメンタリーはそういうマイナスの部分に立ち入れず、ドラマこそが描くべき領域と思いましてね」山田さんの話は、松竹の助監督時代、テレビの世界に転じたいきさつを経て、「マイナス」という言葉がキーワードになった。核家族の崩壊と再出発を描いた代表作の「岸辺のアルバム」も、「戦後社会の澱(おり)のようなものが一家族にたまっている」とのモチーフから作られたという。ごく普通の人間や家族を通して、社会の現実や時代の空気をリアルに描いてきた。穏やかな語り口で、時にユーモアを交じえながらも、現代への洞察力は相変わらず鋭い。「僕より上の世代は軍隊を経験し、人には言えない闇を心の中に閉じ込めた。戦後の混乱期にも多くのマイナスがあった。いまも別のマイナスがたくさんあるのに、みんなが見ないようにしている。いまの若い人は優しいと言われるが、何となく孤立しているとか、頑張りたくても頑張れないという悩みがある。そこに分け入るのがドラマの役割じゃないか」会場からは、政治への関心など幅広い質問が飛び出した。松竹時代に仕えた木下恵介監督への評価を聞かれると、「悪いところもいいと言う義理はないが、口にしないくらいの義理はありますよね」と笑わせた。読売新聞出身鈴木 嘉一
2022.10.17
YouTubeを検索していたら発見!番組が観られない今となっては貴重な当時の映像もあります。削除される前にソッコーで保存しました。2023.2.11リンク切れにより差し替え。予想通り動画は削除されましたので画像を置いておきます。2024.1.1内容の追加。2024.6.2リンク切れにより削除、内容の追加。■参考リンク細うで繁盛記(1970):日本テレビ 出演:新珠三千代、冨士眞奈美、高島忠夫
2022.10.14
今回の主役は帝国ホテル総料理長だった村上信夫さんがリーダーシップを取って、1964年東京五輪での選手村での選手への食事提供を成功させたお話です。村上さんの若いころからの人生も描いていて非常に興味深いです。浅草のブラジルコーヒーから料理人としての人生をスタートさせ、殴られたりしながら苦労して料理を覚え、フランス語を勉強して、帝国ホテルの犬丸社長にフランス留学させてもらい、パリのリッツホテルで修行して一流の料理人となりました。東京五輪では選手村の料理長として、世界の多くの料理を研究していくつもの統一レシピを作り、また全国から300人の料理人を募集、指導して、またニチレイと協力して食品をおいしく冷凍してそれを戻す料理法を開発するなどして、選手に好評を博し、日本の料理人を世界にアピールしました。一方、NHKのきょうの料理に出演されるなど、一流の味を惜しげもなく公開しました。番組を観ていて、若いころから非常にいい笑顔の方だと思いました。ご本人の才能に加えて、この笑顔が運を引き寄せたのではと思います。観終わった後、Wikipediaを見たらますます興味が湧きました。そういえば20年くらい前に、日本経済新聞の私の履歴書に村上信夫さんが登場されてました。たまに読むくらいでしたが面白かったのを覚えてます。2006年に高嶋政伸さん主演でドラマもあったようです。私の履歴書も含めてドラマも観てみたいです。番組にはご本人も登場されます。2006年の作品なのでなくなる4年前です。貴重な映像と思います。観る価値は大いにある作品だと思います。NHK土曜ドラマ 人生はフルコース■参考リンク新価格版 プロジェクトX 挑戦者たち 料理人たち 炎の東京オリンピック【収録内容】1964年のオリンピックを控えた東京。世界各地から集まる7000人の選手の食事を作る大役を任せられたのが、帝国ホテルの村上信夫をリーダーとする料理人たち。オリンピックを裏から支えた彼らの知られざる料理作りに迫る。2024.3.9内容の追加NHKアーカイブス あの人に会いたい:村上信夫むらかみのぶおシェフWikipedia:村上信夫 (シェフ)村上 信夫(むらかみ のぶお、1921年5月27日 - 2005年8月2日)は、日本のフランス料理シェフ。元帝国ホテル顧問。愛称は「ムッシュ村上」。日本でフランス料理を広めた功労者。帝国ホテルの料理長を26年間務め、『きょうの料理』の名物講師として家庭へプロの味を広めた。バイキング方式での食べ放題型料理提供を考案した人物として知られている。経歴1921年、淡路島(兵庫県洲本市)の網元の息子で、東京で萬歳亭という食堂を営んでいた父・延太郎と、埼玉県春日部の農家の娘だった母・いよ[1]の長男として、東京市神田区松枝町(現・千代田区神田岩本町)に生まれる。小学校5年生の時、両親が死去[2][3]。1933年、第3日暮里小学校卒業後、浅草ブラジルコーヒーにコックとして入店[3]。その後、銀座つばさグリル、新橋第一ホテル、糖業会館レストラン・リッツなどで働く[3]。1939年、帝国ホテルに見習いとして入社[4]。1942年、大日本帝国陸軍に入隊。1945年、中国で終戦を迎え、シベリア抑留を経て[3]帰国する。シベリアでアイスクリームとリンゴ料理を作り、傷病兵に生きる勇気を与えた経験から「コックを天命の職として決意」したという[3]。1947年、帝国ホテルに復職。1955年、在ベルギー日本大使館へ出向。1957年、パリのホテル・リッツで研修を受け、翌年帰国。帰国後、帝国ホテルメインダイニング料理長。1958年、村上は新たなレストランのオープンにあたり、北欧の伝統料理「スモーガスボード」を研究して、日本初のブフェ形式レストラン「インペリアルバイキング」の開店を主導する[5][6]。これが日本の「バイキング」のさきがけとなった[5]。1960年、NHK「きょうの料理」レギュラー講師[4]、1964年、東京オリンピック女子選手村食堂『富士食堂』料理長を務める[4]。1969年、再度パリのホテル・リッツへ渡り、帰国後、第11代帝国ホテル料理長に就任[6]。1970年、同ホテル取締役料理長。1982年、同ホテル常務取締役料理長。1984年、黄綬褒章受章[6]。1985年、「現代の名工」に選ばれる[6]。1990年、同ホテル専務取締役料理長。1994年ホテル専務取締役総料理長。同年、勲四等瑞宝章受章[6]。1996年、同ホテル料理顧問。1999年、松戸市民栄誉賞受賞[7]。2000年、フランス農事功労章シュヴァリエを受章[6]。2005年8月2日[6]、千葉県松戸市小金原の自宅にて心不全で死去。享年84[6]。逸話軍隊関連陸軍入隊時には、帝國ホテルの先輩の餞別のフライパンと包丁を持参した[8]。本来は軍隊に私物の持ちこみは一切許されないが、野戦調理に有用と認められ特別に所持が許可された[8]。従軍時代には経歴から何度か調理任務への異動勧誘があったが、本人が前線勤務を希望し、また歩兵砲の砲手として有能だったため上官が拒否していた[8]。非公式に炊事係も兼任し、敵陣への総攻撃前夜に兵士たちに出す特別料理を作るよう命令されて餞別のフライパンでカレーを作ったところ、漂う匂いに気づいた中国軍の指揮官が翌日の大攻勢を予測して夜中に撤退したり、シベリア抑留中に瀕死の戦友の希望でリンゴをパイナップル味に真似たデザートを作ったりしたエピソードが残る[8]。オリンピック関連1964年の東京オリンピックでは「女子選手村」の総料理長として300人以上のコックのリーダーを務め、各国の選手のために腕をふるった。村上はルセットの統一を行い、全てのコックが同じ料理を作れるように工夫した[9]。この時、指導を受けたコックが地元に戻って洋食店を開き、日本各地に洋食文化が広まるきっかけとなった[5]。また、料理を大量に供給するために、食材の冷凍保存に要する設備や調理法の調査・研究が進められ、村上は積極的に冷凍食材の使用に挑戦し、その後の日本における冷凍技術の普及を後押しした[5]。一方、男子選手村兼選手村総料理長はサリー・ワイルの弟子で日活国際ホテルの馬場久で、これはホテル料理人の人脈であるホテルニューグランド系(馬場)と帝国ホテル系(村上)に二分されたという意味合いも強い。料理関連ある時、自身の後継者として帝国ホテル料理長となった田中健一郎に、「一番おいしい料理とは何か」と問い、田中が答えに窮していると、「他のどんな料理よりも気持ちが篭っている、お母さんの料理だ」という模範解答を示したという[10]。村上は小学校5年の時に両親を亡くしており、お母さんのように愛情と真心と工夫をこめた料理を作りたいと語っていた[2]。『きょうの料理』内では「これでよろしいですね」「全然むずかしくありませんね」「ベリーグッドです」という3つの口癖が多用された[要出典]。当時料理は先輩の料理を見様見真似で覚え、更には技を盗むのが普通だったため、食材の量は目分量だった[要出典]。しかし、一度しか放送しない番組ではそうはいかないため、食材をグラム単位で紹介するなどわかり易く紹介することに努めた[要出典]。包丁にこだわり、愛用の包丁はアタッシェケース型の木製ケースに収めて、外部の依頼があった際にはどこにでも持参し、これは妻にさえ触らせなかった[11]。二番弟子三國清三には、村上直筆の書を贈って激励している[12]。趣味ナイフ、日本刀、硯、カメラの蒐集が趣味[3]。日本刀は包丁類を買い集めているうちに手が出るようになったという。講道館柔道六段の腕前である[要出典]。なお、元NHK所属のフリーアナウンサーの村上信夫とは同姓同名の別人である。かつてNHKニュースおはよう日本で同姓同名同士によるインタビューが放送されたことがある。村上信夫を描いた作品NHK土曜ドラマ 人生はフルコース『人生はフルコース』(NHK土曜ドラマ)2024.3.9リンク切れにより差し替え。帝国ホテル厨房物語 文庫 – 2004/7/1村上 信夫 (著)
2022.10.11
子供のころ読んだ少年雑誌や学習雑誌で夏休みの時とかに、ミステリー特集が組まれ、バミューダトライアングルとかを取り上げていました。その中で飛行機がカリブ海で突然失踪し何十年も経過して現れたという話があり、ちょうどその回だけ読まずに気になっていました。たまたま思い出して、検索したらYouTubeで仰天フライトニュースという動画を発見。ナレーション担当の紫都木 龍麻さんが上手です。失踪事件のほうは結果を観てなーんだぁと思いましたがこれですっきり。あわせて日本航空123便墜落、コンコルド墜落、BOAC富士山上空空中分解、大韓航空機撃墜の解説動画をご紹介します。事故の時は、新聞、TVの断片的な情報だけでしたが、こうやって総合的に観ると、全体がよくわかります。■参考リンクパンアメリカン航空-914便 | ミステリー小説 - アルファポリスWikipedia:日本航空123便墜落事故Wikipedia:コンコルドWikipedia:英国海外航空機空中分解事故Wikipedia:大韓航空機撃墜事件
2022.10.07
高校生のころからやっていた番組です。イントロクイズとか好きでした。高島忠夫さんの司会が良かったです。今思うと不思議なくらいTVに夢中になっていました。学校の話題もTVが主流で、まさしく娯楽=TVの時代でした。リンク切れの削除、内容の追加。■参考リンクWikipedia:クイズ・ドレミファドン!『クイズ・ドレミファドン!』は、フジテレビにて1976年10月3日から1988年4月3日までレギュラー放送されていた音楽系クイズバラエティ番組である。渡辺プロダクション制作。2008年からは不定期特別番組として放送されている。司会はレギュラー放送時代は高島忠夫、特別番組化以降は中山秀征。概要後に日本中で認知されるところになった楽曲当てクイズ、いわゆる「イントロクイズ」の元祖。ただし、この番組では純粋に曲のイントロのみで曲名を当てるイントロクイズ以外にも音楽に関する事柄や芸能界に関するクイズも出題される。なお、複数の歌手がゲストとして出演し最新ヒット曲を披露するコーナーもあったことから、クイズ番組でありながら音楽番組の役割も果たしていた。ただしステレオ放送化はレギュラー放送時代はもとよりスペシャル版においても実施されず、地上デジタルテレビ放送化後の現状においても送出信号はステレオ、音源はモノラル(モノステレオ放送)のままであったが、近年ではステレオ音源で放送されている。イントロクイズ・ウルトライントロクイズ・超ウルトライントロクイズ番組終盤のクライマックスといえる、目玉コーナー。イントロ、すなわち曲の出だしを聴いて、曲名を早押しで当てるクイズである。開始冒頭では司会者が「ここまでの皆さんの点数を見てみましょう。得点ドーン!」と言い、各チームのここまで獲得した合計点をSEと共に表示させた。曲の出だしは、コーナーが進むごとに短くなる。超ウルトラではほとんど最初の一音しか流れない。得点はイントロクイズが1問5点、ウルトラは1問10点、超ウルトラは1問20点。コーナーの切り替わり毎に効果音が鳴り、超ウルトライントロクイズの終了時にはブザーが鳴った。イントロクイズの冒頭の数問は、「CMソング」、「繰り返し言葉」、「曲名に数字がつく」などのテーマが設けられる。冒頭で高島が「まずは○○特集」「○○シリーズ」などとテーマを提示するが、テーマが提示されず、テーマに気づいたチームが有利となる回や、テーマ問題そのものが無かった回もあった。一連のイントロクイズで出題する曲がゲストの曲に該当する場合は、司会者の背後に座っているゲスト(芸能人大会の時は解答者の1人)の顔にカメラが高速でズームインする。司会者の曲が出題される場合も同様に司会者にズームインが行われる。お手つきをしたり誤答をするとマイナス5点となり、チームの一方が前述のバッテンマスクを装着し、後ろの席に座り、コーナー終了まで以降の解答権を失う(必ずしも誤答をした本人が下がる必要はない)。そして、早押し順2位のチームに解答権が移る。なお、解答席には全チームの早押しの順番が表示される。芸能人大会等で1チームが3人いる場合も1人だけが下がる。ペアのどちらも(3人の場合はチーム全員)が解答権を失うと失格(リタイア)。得点表示板の上に巨大な赤い×マークが貼られ、得点はすべて没収され0点となる。芸能人大会の場合は、イントロクイズ・ウルトライントロで失格になった場合、得点をすべて没収された上で(まれに得点半減ですむ場合もあった)、超ウルトラから再び参加できる措置もとられた。一方のみが解答権を失っている場合は基本的にはそのままだが、回によってはその解答者も復活できる場合もあった(復活できる場合でも得点は変わらない)。ただし、超ウルトラでの失格は復活の機会が無く、0点で終了となる。出題時の司会者のかけ声は「クイズ・ドレミファ・ドン!」(イントロクイズ、イントロクイズ以外のクイズ)、「ウルトラ・ドン!」(ウルトライントロクイズ)、「超ウルトラ・ドン!」(超ウルトライントロクイズ)だった。ウルトライントロが採用された初期は、CMを置かずにすぐウルトライントロを開始したが、中期からはCMを挟んで行う様になった。その時はアイキャッチとして、江藤がゲスト歌手のひとり(芸能人大会の時は解答者のひとり)のCMやギャグのパロディをやるのが毎回のパターンだった。例:とんねるずがゲストの時は、「おっとっと」のCMパロディで「タコだ!クジラだ!ドレミファドンだ!!」。松鶴家千とせが解答者の時は、「次はウルトライントロだよ!分かるかなァ、分っかんねぇだろうなァ!」。
2022.10.03
1970年代の2度にわたる石油危機のころ、アラビア石油は光り輝いていました。年間利益の額は日本トップクラスでしたが、利益の多くが、油田のあるサウジアラビアとクウェートに流れていくのが、残念に思いました。その後、油田の権益がうまく更新できず、のちに上場廃止になったのは寂しかったものです。今回のプロジェクトXを参考にWikipedia等で同社の歴史を知りました。サウジアラビアの権益は無難に獲得できたものの、クウェートのほうは石油メジャーの横やりが入って難航しましたが、NHKによればクウェートの有力者が日本びいきで、契約に便宜を図ってくれたため、Wikipediaではアラブ諸国のメジャーへの反発のためとのことで、獲得できたというのが面白かったです。実際の採掘では普通100本掘って数本石油が出れば上々のところ、資金的に1本しか掘れないのを、おまけに難易度の高い海上油田で成功させた技術力はすごいと思いました。化石燃料から、クリーンエネルギーへの転換が推進されていますが、今年のエネルギー危機をみても、まだまだ重要性は高いと思うので、資源確保は重要と思います。■参考リンク「炎のアラビア 一発必中 油を当てろ」初回放送日: 2022年8月30日日本初のアラビア油田開発に挑んだ技術者たちの物語。敗戦後、石油の99%は輸入だった。サンフランシスコ平和条約の後、サウジアラビア沖合で洋上油田の開発に乗りだす。NHK:新価格版 プロジェクトX 挑戦者たち 炎のアラビア一発必中 起死回生アラビアの友よ■前半20世紀、世界の工業発展と敗戦後の日本を支えた魔法の液体、石油。石油の安定確保の陰には、壮絶なドラマがあった。次々と襲いかかる難題を技術者たちはどう乗り越えていくのか。日本の命運をかけ、闘った技術者たちの意地と執念の物語。Wikipedia:アラビア石油アラビア石油株式会社(アラビアせきゆ、ARABIAN OIL COMPANY, LTD.)は、石油や天然ガスの開発事業を主業務としていた日本の企業である。現在は開発事業から事実上撤退し、クウェートからの原油購入・販売を主業務としている。 概要1958年(昭和33年)に「アラビア太郎」あるいは「山師太郎」などと呼ばれた山下太郎が設立した。国策油田を持とうと設立された石油業界の結束企業だった[1]。「日の丸油田」と呼ばれる日本の自主開発油田をサウジアラビアやクウェートなどから獲得し、日本の自主開発油田の約50%を占める採掘を行い、石油の安定供給に貢献してきた。大規模海底油田カフジ油田は、硫黄(いおう)含有量が多く、重質油であった。需要先と協力して排煙脱硫装置を設置するなどの努力を重ねるとともに、1971年(昭和46年)重質油の分解処理に携わるユリカ工業を設立した。1968年(昭和43年)から1985年(昭和60年)の間、国内経常利益ベストテン企業に登場し、1974年 - 1976年(昭和49年 - 51年)、1979年 - 1980年(昭和54年 - 55年)の間、経常利益でトヨタ自動車などを抑え首位であった[1]。その後、サウジアラビアとクウェートとの石油利権協定を延長するための交渉が行われてきた。サウジアラビアとの交渉では、利権更新の条件として日本の負担による鉱山鉄道の建設・運営を求めるサウジアラビア側と、採算の問題から難色を示す日本側との交渉が難航。結局、石油利権の更新はならず、2000年(平成12年)にサウジアラビアの採掘権を失った。この結果、日量約30万バレルの権益の半分がサウジアラビアに接収されることになった。2003年(平成15年)にはクウェートの採掘権を失った。ただし、クウェートとは2023年までの原油売買契約が結ばれている。以降はクウェートを中心にオペレーターを務める企業などに技術者を派遣する形で事業の継続を行ってきた。また同2003年(平成15年)、富士石油と経営統合し、持株会社のAOCホールディングスを設立、富士石油とともにその子会社となった。2008年(平成20年)にクウェートとの技術サービス契約が終了し、事業規模が縮小。2012年(平成24年)12月、持株会社AOCホールディングスは、石油・天然ガスの開発・生産事業(石油上流事業、"アップストリーム")からの事実上の撤退を発表[2]。2013年(平成25年)4月1日、会社分割によりJX日鉱日石開発テクニカルサービス株式会社を設立し、石油上流事業関連の人員を承継した上で、その全株式をJX日鉱日石開発(現・JX石油開発)株式会社に譲渡した[2][3][4]。2013年(平成25年)にAOCホールディングスは富士石油株式会社となり、現在は富士石油の子会社となった。「挽歌・アラビア石油 (私の追想録)」:前田高行消えゆくアラビア石油昨年(2012 年)12 月 27 日、一部上場企業 AOC ホールディングスは子会社のアラビア石油社員を包括的に JX 日鉱日石開発に移籍させることを発表した。正確に言うならば 4 月 1 日付けで石油開発の技術・経験を持つ人員を承継する新会社を設立した上で、全株式を JX 日鉱日石開発に譲渡するということになる(同社プレスリリースより)。これにより 1958(昭和 33)年に設立されたアラビア石油は 55 年の歴史を終えて表舞台から完全に姿を消すことになった。筆者はアラビア石油創立 18 年後の 1976(昭 51)年に中途入社した。そして 2000 年にサウジアラビアとの利権契約が終結し同社が人員整理を断行した時、当時出向中の中東関連の財団法人に移籍し、60 歳定年に達した 2004 年に退職した。それ以来、中東と石油に関する二つのブログを立ち上げて今日に至っているという次第である。アラビア石油に勤めた期間は同社 55 年の歴史の半分にも満たず、また中堅管理職でしかなかった筆者が会社について語るのはおこがましいことであるが、これほど激しく歴史に揉まれた企業も珍しいと言えよう。人間にたとえれば数奇な運命にもてあそばれた企業であった。既に語り尽くされたことではあるが、アラビア石油はその誕生からドラマに満ちている。筆者が入社した1970年代は原油価格が急騰しアラビア石油は日本屈指の高収益会社ともてはやされた。しかし1980年以降、会社の操業現場であるペルシャ(アラビア)湾では戦争が絶えなかった。1980 年にイラン・イラク戦争が勃発、さらにイラクのクウェイト侵攻(1990 年)と翌年の湾岸戦争(1991 年)では操業基地カフジが戦場となったこともある。その後の 1990 年代は 2000 年に期限を迎えるサウジアラビアとの利権契約延長のため、アラビア石油は日本政府を動かして必死の努力を重ねた。しかし結局契約延長は失敗、2003年には残るクウェイトとの契約も終結し今日を迎えたのである。この間の日本国内の動きに目を向けると、石油開発事業では政府の強力な後押しによりいわゆる「日の丸原油」の獲得を目指して多数のプロジェクトが計画され実行された。しかし石油開発は極めてリスクの高いビジネスである。アラビア石油もカフジ油田に続く事業では運に見放され、今では石油開発の業界地図も大きく塗り替わっている。国内の石油精製事業でも地殻変動が起こり以前とは様変わりしている。アラビア石油の草創期及び日本の石油産業を俯瞰することは筆者の力の及ぶところではない。したがって本稿は 1970 年代から今日までの中東と石油の動きを織り込んだ筆者の随想録なのである。Wikipedia:山下太郎 (アラビア石油)山下 太郎(やました たろう、1889年(明治22年)4月24日 - 1967年(昭和42年)6月9日)は、日本の実業家。その業績から「満州太郎」「アラビア太郎」「山師太郎」などと呼ばれた。アラビア石油の創立戦後は日本の復興のために石油資源の獲得に奔走、昭和31年(1956年)、日本輸出石油株式会社を創立し、翌1957年にペルシャ湾海底油田の開発利権を獲得して1958年「アラビア石油株式会社」を創立した[2]。山下は、産業の根幹をなす石油が100%アメリカ合衆国の供給と統制に依存している現実を危惧しており、日本国政府・財界等の要路をまわり、経済発展のため日本が自前で確保するよう説いて回ったといわれている。世界の予想に反して、サウジアラビア、クウェートの両国から採掘の利権を獲得したが、とくにクウェートが数多くのライバルの中から日本に権利を与えたのは、山下の努力・人柄もさることながら、欧米諸国に対するアラブ人たちの民族感情が左右していたともみられている。山下が苦心して採掘権を得て設立したアラビア石油は1960年1月31日、1回目のボーリングで大規模海底油田(日産1,000kl)を発見した[2]。これが、カフジ油田であり、世界第1級の大噴油について「アラビア太郎、100万ドルの笑顔」と世界中で報道された[2]。以降も順調に石油メジャーに拠らない「日の丸油田」と呼ばれる油田の発見と採掘・輸出を進めた。山下太郎は心筋梗塞のため昭和42年(1967年)、78歳にて死去した。周囲にのこした言葉は「俺はまだやることがある」であったという。故郷の横手市大森町大慈寺に墓がある[注釈 3]。死後、民間人としてはめずらしい従三位勲一等瑞宝章が追贈された[1]。
2022.09.21
ひさしぶりに「あなたの知らない世界」を検索したら、いっぱいアップされていたのでご紹介します。再現ドラマは今観ても古びておらず面白いです。あの頃の夏休みの興奮がよみがえります。削除される前に保存しておかないと。■参考リンクWikipedia:あなたの知らない世界『怪奇特集!!あなたの知らない世界』(かいきとくしゅう・あなたのしらないせかい)は、日本テレビ放送網の『お昼のワイドショー』で、毎週木曜日と主に夏休みなどの長期休暇に放映された特集コーナー及び同コーナーの再現ドラマを独立させたドラマの名称である。一般視聴者らが体験した恐怖・心霊体験を再現ドラマや取材などを交えて検証し、それを霊能力に強い関係者や新倉イワオ(放送作家)らが分析・解説したものだった。『お昼のワイドショー』枠で1973年から毎年、7-8月のお盆シーズンに毎週水曜日に放映していたコーナーであったが1979年7月からは、毎週木曜日のレギュラーで放映していたコーナーであった。かなり人気が高く、春、夏、冬休みといった長期休暇には、毎日(二週間程度)放映していた(ただし、長期休暇期間中の再現ドラマは過去に放送したものの再放送が多かった)。『午後は○○おもいッきりテレビ』に同枠が受け継がれてからも夏休みのみ放映が続いていた。また1988年には『土曜スーパースペシャル』でも放送された事が有った。1997年の夏休みを以って一旦この特集は幕を閉じたが、2005年の夏休みに『新・あなたの知らない世界2005』として復活している。書籍新倉イワオにより日本テレビ放送網から1980年から1992年まで単行本が20巻刊行されていた。ただし、実質19巻までで、20巻(ISBN 4820392301)はそれまでの総集編である。つのだじろう:恐怖新聞Ⅱ(1990-1993)、学園七不思議(1986-1989)
2022.09.16
昭和47年のあさま山荘事件は、2月13日に札幌五輪が終わって余韻も残る2月19日に発生しました。当時小学6年生でしたが、TVにくぎ付けになっていました。今回のプロジェクトXでは人質救出の鉄球と放水作戦の苦労や、思わぬアクシデントを2回にわたり描いています。手に汗握る傑作と思います。YouTubeでみつけた『ドキュメント連合赤軍「あさま山荘」事件 「東大安田講堂」から「集団リンチ事件」までの1200日(文藝春秋)』が見ごたえがあります。当時警備実施及び広報担当幕僚長の佐々淳行警視正(警備局付兼警務局監察官)の、あさま山荘事件に至る背景や、事件の経緯の当事者としての冷静な語り口が、事件の迫力を増します。当時、自衛隊を派遣せず、機動隊が派遣された経緯の説明が興味深かったです。プロジェクトXとともに、ぜひ観ておきたい作品と思います。この事件で、過激派への社会の目が厳しくなったことは良いことだと思いますが、その一方で3名の殉職された警官のほかにも多くの警官が事件での負傷が元で、今に至るまで後遺症に悩まされていることを今回知りました。尊い犠牲の上に、平和な社会が訪れたことに感謝したいと思います。また、人質や犯人の家族の報道に問題がありましたが、犯罪の被害者の報道も含めて、あらためて考えてルールを作る必要があると思いました。■参考リンクNHKプロジェクトX:特集 あさま山荘 衝撃の鉄球作戦 ~第1部・第2部~【収録内容】2月19日、警察に追われていた連合赤軍のメンバー5人は、あさま山荘に侵入し、管理人の妻を人質にとって立てこもった。建物は急斜面にあり、警官隊は容易に近づくことができない。犯人たちは、大量の銃や弾薬を所持していた上、山荘には1か月分の食糧が備蓄してあった。籠城が長引くほど、恐怖と寒さに晒された人質の安否が気遣われた。村人たちも、土嚢作りやあたたかい食事の差し入れなど、できる限りの協力を惜しまなかった。しかし、膠着状態が続き、ついに突入作戦に踏み切る。決行は2月28日。突入にあたって、人質が監禁されていると見られた2階と、犯人たちが籠城する3階を分断するため、解体用の鉄球で階段部分を破壊することになった。しかし、そのためにはクレーン車で建物手前7メートルまで接近し、鉄球を正確に振り下ろさなければならない。わずか20センチでもそれれば、柱に当たって建物自体が崩れ落ち、人質に危険が及ぶからだ。誰もがこの困難な作業に尻込みする中、ある重機オペレーターの兄弟が名乗りを上げた。(2002年1月8日放送)Wikipedia:あさま山荘事件あさま山荘事件または浅間山荘事件[注釈 1](あさまさんそうじけん)は、1972年(昭和47年)2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所(本社・静岡県浜松市)の保養所「浅間山荘」[注釈 2]において連合赤軍の残党が人質をとって立てこもった事件である。鉄球作戦佐々淳行によると、当時テレビの前の視聴者の度肝を抜いた鉄球作戦は、実は東大安田講堂事件の時、当時警視庁警備第一課長として現場指揮担当であった佐々自身が提案したものが、後に浅間山荘で実施されたのだという[28]。佐々は全共闘による建物上部からの抵抗から機動隊員を守り、かつ速やかに占拠された建物への突破口・進入路を安全に確保するために、安田講堂の正面入口を建物解体用のモンケンで一気に破壊する、という正面突破作戦を具申したが、秦野章警視総監(当時)から却下された。その理由として、安田講堂は国の登録有形文化財第1号[53][注釈 25]であり、安田財閥の創始者・安田善次郎からの寄付でもあるための配慮があったのではないか、としている。加藤倫教はクレーン車が出現したときの心境について「山荘に入ったときから、『勝負にならない』と思ってはいたが、このクレーン車の出現にはまるで歯が立たないと絶望感を覚えた」と振り返っている[55]。なお近年のテレビ番組において、警察側に重機、鉄球クレーンを提供した機材会社、また実際にクレーン車を操縦した民間協力者が実名で報じられている。以前は報復を警戒して、テレビ番組では当事者が否定していた。だが、警察の努力により連合赤軍及びそのシンパが報復活動に出ることが不可能となった(要するに連合赤軍が壊滅した)ため、この状況を以って、当事者が実名で現れても報復の心配がなくなったことが証明されたといわれる。使用された鉄球は2018年時点において、長野市内の株式会社白田組に残されている。Dailymotion:あさま山荘事件 立てこもり10日間の真相
2022.09.14
中学3年生のころからやっていた番組です。最近YouTubeでたまたま見かけて今日久しぶりに、これまで観たことのないものを中心に観てみました。市原悦子さんと常田富士男さんの語りが懐かしいです。ストーリーが新鮮です。今回、「時空旅人 2021年9月号」をキンドルアンリミテッドで読んで、監修の川内康範さんが義理の娘さんとともに、母から子へ伝えられた日本の昔話をアニメを通じて、後世に残したいと企画されたことを知りました。最初は周囲に理解されなかったそうですが、当時の三木首相にお孫さんと一緒に笠地蔵を観ていただいて展望が開けたそうです。今思っても、地味な企画がテレビに合うのかとも思いますが、高度成長に邁進し日本人が、忘れかけていた心の原点の昔話のニーズを呼び起こした川内さんの企画力はすごいと思います。2024.1.9リンク切れにより差し替え、削除、内容の追加。■参考リンクWikipedia:まんが日本昔ばなし『まんが日本昔ばなし』(まんがにっぽんむかしばなし)は、愛企画センター、グループ・タック、毎日放送の共同制作により放送されたアニメ作品およびテレビアニメである。概要・番組の歴史放送開始から1994年まで1975年(昭和50年)に開始。放送枠は30分で、作詞家の川内康範が監修に携わり、川内の娘で童話作家である川内彩友美が企画。毎回日本各地に伝わる昔話が映像化され、市原悦子と常田富士男の両名が、一人で何役もの声を使い分ける独特の語りによって紹介する。スタッフに一流のベテランアニメーターやイラストレーターが多数起用された。番組内で使われた音楽にも川内の甥である北原じゅんの純邦楽からロック、フォーク、ラテン、クラシックなどを織り込んだ多彩かつ無国籍な音楽が使用された。文芸は当初、「リボンの騎士」などの脚本を担当した平見修二がメインでスタートしたが、2クール目から終了までは沖島勲がほとんどを執筆した。なお、本シリーズでは原話から演出家がダイレクトに絵コンテを描き、脚本を経ないケースが多かったため、「脚本」ではなく「文芸」ないし「ダイアローグ」としてクレジットしている。毎日放送(MBSテレビ)制作で最初はNETテレビ(現:テレビ朝日)系列で1975年3月25日までの火曜日午後7時から7時30分まで放映されたが開始から3か月でいったん放映は終了し、9か月のブランクを挟んでTBSテレビ系列へ移動して再開された。放送時間帯は土曜日の午後7時から7時30分頃までだった。このブランクの原因は、本来この番組は在外日本人向けとして制作されていたもので、番組改編の都合で空いた枠の穴埋め放映として使用したが、反響の高さから改めてレギュラー番組化されるという経緯によるものである。この間にMBSテレビと朝日放送(ABCテレビ)がネットチェンジしていたために全国レベルではNETテレビ系列からTBSテレビ系列へ移籍する形になった。同時にこの枠でアニメが放送されるのは、『はじめ人間ギャートルズ』(朝日放送制作。NETテレビ系列の同時間帯へ移行)以来9か月ぶりである。また、当初は1976年4月に再開予定だったが、1月になったのは前番組『仮面ライダーストロンガー』を当初の予定より早く終了させたことによる[1]。ホームビデオが広く普及する前の時代には音声だけ収録したLPレコードとカセットテープが販売され、1995年に日本コロムビアからCDも発売された。旧厚生省が運営していた中央児童福祉審議会の推薦など、公共性の高いこのアニメ作品に着目した公共広告機構(現・ACジャパン)は、テレビCMとして1982年から1986年にかけて「もったいないお化け」など全5作品の日本昔話シリーズを展開。番組と同一のアニメーション・語り手を起用し、礼儀や人付き合いの大切さを独特の世界観のあるCMで伝えていた。放送する年にもよるがレギュラー放送とは別で、正月3が日の午前中に「お正月大会」と称した特別番組を放送したことがある。1985年(昭和60年)には番組10周年を記念して映画『ごんぎつね』(新美南吉原作)が制作された。上映時間は約1時間。一般映画館ではなく、ホールを借りて上映する地方巡回方式で上映された。主題歌は葛城ユキの「心からイエスタディ」である。また、2006年8月9日の放送では、夏休みスペシャルとしてこの『ごんぎつね』が18時55分 - 19時54分(JST)に下記で触れるハイビジョン・字幕放送も取り入れた上で、テレビ放送の1時間の尺に合わせて再編集されたものが放送された。PR TRIMES:伝説のアニメ「まんが日本昔ばなし」から傑作怪談を振り返る。『時空旅人 2021年9月号』発売三栄2021年7月28日 11時00分時空旅人 2021年9月号 [雑誌] Kindle版
2022.09.12
いつも愛読して、経済や為替相場を読む参考にさせている藤巻健史先生の藤巻プロパガンダに、先日亡くなった古谷一行さんの思い出が書かれていて、古谷さんの若いころを知ることができました。古谷さんについては以前おおヒバリ!と、思えば遠くへきたもんだで、取り上げていたのでまあいいかと思ってましたが、藤巻先生に刺激されて、急遽犬神家の一族を取り上げます。心よりお悔やみ申し上げます。映画のほうは観に行きましたが、石坂浩二さんのひょうひょうとした演技に加えて、テーマ音楽が美しくて好きでした。久しぶりに聴いてもやっぱり心に響きます。湖に浮かぶ二本の足のシーンが忘れられません。古谷一行さん演じるTVドラマも好きでした。たしかエンディングの茶木みやこさんの「まぼろしの人」という歌も好きでした。混浴露天風呂連続殺人は観たことありません、てか混浴自体人生で経験したことありません。機会があれば一度くらい経験したいです。2023.2.11リンク切れの差替え。■参考リンク藤巻プロパガンダ:7.「古谷写真館」私の出身小学校(東京教育大学附属)の近くに古谷写真館という写真館があり、そこの店主の方が、いつも林間学校、臨海学校、遠足、学芸会についてきて写真を撮っていた。後日、その写真が教室の壁に張られ、名前を書いて購入する仕組みだった。誰もがカメラなど持っていなかった頃の話だ。50歳くらいになった時のクラス会の時、女性陣が「古谷さんの息子さんは、時々、林間学校などにもついてきたけれど、カッコよかったわよね~。みんなキャ、キャ、言ってたわよね」と盛り上がっていた。以下略古谷一行さん死去、78歳 「金田一耕助」秘話、下っ端だからと生み出した「逆立ち」「劇中でもゲタ履きで走らされ、鍛えられた」2/2ページ2022.9/4 10:00夕刊フジ「金田一耕助」シリーズや「混浴露天風呂連続殺人」シリーズでおなじみの俳優、古谷一行さんが8月23日に急死していた。78歳だった。死因は明らかにされていないが、満身創痍(そうい)ながらも病を克服し、復帰に向けてトレーニングに励んでいた矢先だった。Wikipedia:古谷一行古谷 一行(ふるや いっこう、1944年1月2日 - 2022年8月23日)は、日本の俳優。本名:古谷 一行(ふるや かずゆき)[1]。フロム・ファーストプロダクション所属。来歴・人物東京都出身。東京都立板橋高等学校を経て中央大学法学部卒業。大学在学中、俳優座の研修生から俳優生活を開始[2]。1977年からの『横溝正史シリーズ・名探偵金田一耕助シリーズ』などでの主人公・金田一耕助役を一貫して演じ、当たり役となる(2019年12月21日には、NEWSの加藤シゲアキが金田一耕助を演じる『悪魔の手毬唄〜金田一耕助、ふたたび〜』に磯川常次郎警部役で出演し、加藤と古谷の新旧金田一役俳優の共演が実現[3]。磯川を演じることについて古谷は「最初は戸惑いましたが、年を重ね、今の自分が金田一のバディである磯川警部を演じたらどうなるのか次第に興味が沸いて、ぜひやってみようかなと思いお受けしました」と話している)。1982年から2007年までの25年間、『土曜ワイド劇場』では「混浴露天風呂連続殺人」シリーズの主役・左近太郎役を演じて再び当たり役となる。ゲスト出演した浅井理恵からは不倫を暴露されるが、迅速に謝罪会見し話題となった。Wikipedia:愛のバラード「愛のバラード」(あいのバラード)は、1976年公開の角川映画第1作『犬神家の一族』のテーマ曲。大野雄二とファンタスティック・ブルーのシングルとして1976年9月25日に発売されたほか、金子由香利によるヴォーカル・ヴァージョンも、同年リリースされた。解説本曲の特徴的な旋律は、ハンマード・ダルシマー(演奏:生明慶二)によるものである[1]。本レコードのミキシングは、伊豫部富治がスケジュールの都合で参加できず、急遽吉田保に依頼してできあがった。後日、このレコードを聴いた伊豫部は、「あまりの見事なサウンドに焦ったと同時に、一番おいしいところを保さんにあげてしまったと思った」という[2]。1978年公開のドキュメンタリー映画『野性号の航海 翔べ 怪鳥モアのように』の中で航海の最中、角川春樹は船の中でこの「愛のバラード」をかけて、「手前味噌ながら、感慨深い思いを感じた」という[3]。TBS学園ドラマ:おおヒバリ!(1977.10.-1978.5.)と、思えば遠くへ来たもんだ(1981.3.-4.)と、続・思えば遠くへ来たもんだ(1981.10.-11.)
2022.09.08
今回のNHKプロジェクトXは谷川岳を貫く全長11キロの関越トンネルの工事で、割と地味な回だと思って最初は観てました。坑道を掘削すると山の圧力で坑道の壁から岩が飛んでくる山ハネという現象に悩まされた問題は同じころ工事をしていた、上越新幹線の工事で熊谷組が開発したロックボルトを壁に埋め込む工法で解決したときは、それなら、上越新幹線の工事のほうをプロジェクトXで取り上げたらよいのにと思いました。しかし、1979年の東名高速日本坂トンネルで173台が焼失し、7名が死亡する火災事故を機に、高速道路のトンネルの規制が厳しくなり、それをクリアするための関係者の努力が興味深かったです。観終わった後、YouTubeで高速道路の火災時の対応を検索すると、首都高速については具体的な手順がわかりやすく解説してあり、いざまきこまれたときどう対処したらよいかわかり、大変参考になりました。しかし、他の高速道路はそういった動画はみあたりませんでした。Googleで検索すると、中日本高速道路のサイトに見つけましたが、首都高速のほうが具体的でわかりやすいと思います。飛行機でも離陸する前に、緊急時の脱出方法のビデオを見ますが、高速のトンネルも、トンネルに入る前に緊急時の対応方法をカーナビの画面で観せたり、あらかじめYouTubeで観せたりして、周知徹底をはかったほうが良いと思いました。また、トンネル火災時の煙を吸う集塵装置が、万が一全電源喪失時はどうなるのかも気になりました。自分は運転はしませんが、観光バスや高速バスで利用することもあるので、他人事ではないと思いました。■参考リンクNHKプロジェクトX:悲願の関越トンネル 一発発破に懸ける日本屈指の峻厳(しゅんげん)な山、谷川岳。1977(昭和52)年、そのふもとで空前の工事が始まった。全長11キロ、日本最長の道路トンネル「関越トンネル」の工事である。このトンネルは、「裏日本」とも呼ばれ、物流が厳しかった新潟・越後にとって悲願の道でもあった。わずか8年の間に、山を掘り抜くことを課せられた土木技術者たちは、大量のダイナマイトで一気に掘り進む大作戦に打って出る。「一発発破」に懸けた男たちのドラマを追う。Wikipedia:日本坂トンネル火災事故日本坂トンネル火災事故(にほんざかトンネルかさいじこ)とは、1979年(昭和54年)7月11日18時40分ごろ、東名高速道路の日本坂トンネル下り線で発生した多重衝突事故を原因とした車両火災事故である。衝突事故の被害者のうち4名が即死、3名が車両から脱出できずに焼死し、2名が負傷した。合計173台の車両がトンネル内で火災に巻き込まれて焼失し、鎮火までに約65時間を要すなど大きな被害を出した。NEXCOドライバーズサイト:トンネル内で火災が発生!
2022.09.02
去年の秋にNHKでやっていた「オリバーな犬」の続編が近々放映されます。出演者や設定を見ても、時効警察の焼き直しかと思っていましたが、観ているとそこそこ面白くて、NHKにしてはそこそこエロくて、本田翼さんがかわいくて、オダギリジョーさんの感性で時効警察が若返ったような感じで3回とも観ました。当時検索しても、Wikipediaを見ても、視聴率が分かりませんでしたが、週刊実話を見るとそれほど良くなかったようです。秋の楽しみが増えました。■参考リンク「オリバーな犬」続編、放送日決定!ビジュアルも公開 2022年8月25日 15時47分8/24シネマトゥディ オダギリジョーが脚本・演出・編集を手掛け、昨年秋に放送されたNHKドラマ「オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ」の続編が、9月20日より3週にわたって放送されることが決定した。NHK総合で9月20日・27日・10月4日、午後10:00~10:45。描かれるのはシーズン1の10日後の物語で、池松壮亮、オダギリジョー、永瀬正敏、麻生久美子、本田翼、岡山天音、玉城ティナ、くっきー!(野性爆弾)、松重豊、柄本明、橋爪功、佐藤浩市ら前作のキャストが集結。池松演じる主人公の警察犬係ハンドラーと、犬のオリバーが横たわるビジュアルも公開された。 オダギリが犬の着ぐるみ姿でぐうたらな警察犬を演じ、池松演じる主人公・警察犬係のハンドラー・青葉一平との名(迷?)コンビぶりや豪華出演者で話題を呼んだシーズン1。シーズン2は、謎を残して幕を閉じたシーズン1の10日後という設定で、これまでの物語の流れを引き継ぎ、前作の出演者もそのままにストーリーが展開。シーズン2から参加する新キャストも多数登場予定だという。主題歌はEGO-WRAPPIN’の「The Hunter」、音楽は森雅樹。以下略オダギリジョーの“大惨敗ドラマ”即映画化が決定したワケ~銭で見えてくる『テレビ・芸能マル秘報告書』2021.10.22週刊実話2021年11月4日号NHKのジャッジの速さに、民放キー局幹部らが震え上がっている。10月1日に最終回を迎えた俳優のオダギリジョーが脚本と演出を手掛けたドラマ『オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ』の映画化を早々に決断したのだ。「ドラマは、警察犬係の主人公と相棒の警察犬が、謎めいた町で繰り広げられる事件に挑む物語。放送はたったの3回のみ。世帯視聴率も9月17日が4.7%、24日が3.6%、10月1日が3.5%と、大惨敗の結果だった」(芸能記者)民放では絶対にありえない映画化。なぜ、NHKは放送終了から3週間もたたないうちに決断したのか?「コスパです。ドラマの制作費は1話あたり4000万円。しかし、出演者の顔ぶれを見れば2倍の金額になってもおかしくない。民放では絶対に不可能なキャスティングが実現したのが理由です」(NHK関係者)以下略NHK:「オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ」
2022.08.28
1999年に打ち上げ失敗に終わり、太平洋の小笠原近辺3000mの海底に沈んだH-IIロケット8号機の3mくらいのエンジンを探し出すお話です。飛行機のブラックボックスの信号みたいな装置は無く、弾道計算をもとに、船からソナー等を使って手探りで探し出す苦労を描いています。見つかったエンジンをもとに原因が究明され、以降の国産ロケットの発展に役立ちましたので、この発見は大きな功績と思います。秒速5cmに出てきた種子島でのロケット発射シーンを思い出しました。いつかロケットの発射を見に行きたいです。■参考リンクプロジェクトX 挑戦者たち 海底3000メートルの大捜索~HIIロケットエンジンを探し出せ~【収録内容】1999(平成11)年11月、「国産HIIロケットの打ち上げ失敗」のニュースは日本中に衝撃を与えた。謎を究明するために必要なエンジン本体は、太平洋の深海に沈んで見つからない。水深3000メートルの暗闇の中で、執念のエンジン探しが続けられた。海と宇宙のプロたちが不可能に挑戦した奇跡の捜索を追う。Wikipedia:H-IIロケット8号機H-IIロケット8号機は、宇宙開発事業団(NASDA)が打上げたH-IIロケットのうち7番目に打ち上げた機体。 1999年11月15日に種子島宇宙センターから運輸多目的衛星1号(MTSAT-1)を搭載して打ち上げたが、1段目エンジンのLE-7が破損し推力を失ったため地上からの指令で破壊、残骸とペイロードは父島の北西約380kmの海中に落下した。打上げ順番の変更で、6号機→5号機→8号機→7号機の順番で打ち上げが予定されていたが、8号機の打ち上げ失敗により7号機はキャンセル、この8号機がH-IIの最終号機体となった。失敗の原因H-IIロケット8号機LE-7エンジンテレメトリ情報の解析から、LE-7の液体燃料の供給系に何らかのトラブルが発生し燃料の供給が止まったことが推力喪失の原因と考えられた。具体的な原因を調査するため海洋科学技術センター(現JAMSTEC)に依頼して、11月19日から深海調査船による捜索を実施した。この第1次調査でロケットの残骸の一部が発見できたため12月20日から第2次調査を行い、12月24日にLE-7エンジン本体を発見、翌2000年1月に3000mの深海からの回収に成功した。太平洋の海底3000mから僅か3m四方の物体を発見し回収できたことは奇跡的と言える。なお、回収されたLE-7エンジンは現在角田宇宙センターで展示されている。引き上げたエンジン本体の解析の結果、液体水素ターボポンプ入り口のインデューサの羽車が疲労破壊で折損していることがわかった。このためインデューサの動作試験を行った結果、インデューサから液体水素供給パイプ上流に向かって旋回キャビテーションが発生、これによりパイプ内の動圧変動が誘起されてインデューサの羽根車を振動させ疲労破壊に至ったと推定された。この破壊により供給配管の圧力が瞬時に過大になって破損、液体水素が漏出したためエンジン燃焼室への燃料供給がとまりエンジンが停止したのである。開発過程で旋回キャビテーションの発生の可能性は予期できたものの、複合的要因によってインデューサ等が破壊することまでは予見できなかったという。H-IIAロケットで用いられるLE-7Aエンジンではこの失敗経験を生かし、旋回キャビテーション対策を施すとともに、通常動作外の動作環境でも異常が見られないよう設計変更を行い、高信頼性を確保することができた。失敗の影響H-IIロケット5号機では2段目のエンジンで失敗し、2段目をH-IIAロケットの2段目に取り替えた8号機では1段目のエンジンで失敗したため、次に打ち上げる予定だった7号機は、製作済みであったが打上げをキャンセルされH-IIロケットの運用が終了することになった。失われたペイロードである運輸多目的衛星 MTSAT-1は、航空管制用通信衛星・気象観測衛星などの機能を統合した人工衛星であり、特に設計寿命を2000年に迎える気象衛星ひまわり5号の後継衛星でもあった(同衛星の静止位置に置かれる予定だった)。このためひまわり5号はそのまま寿命を超えて使われることになった。 2003年5月22日からは、2005年のMTSAT-1R(後のひまわり6号)打ち上げ・運用開始までの間、米国NOAAからGOES-9を借用して観測が続けられた。また、この事故によりH-IIAロケットはヒューズ社やESAを始めとする顧客の受注を失い、ロケットの商業打ち上げ計画に大きな影響がでた。また間接的には、日本の宇宙開発諸機関の統合化が促進されて宇宙開発事業団(NASDA)・文部省宇宙科学研究所(ISAS)・航空宇宙技術研究所(NAL)の3機関の統合が決定し、後の宇宙航空研究開発機構(JAXA)の誕生に繋がった。加えてH-IIAロケットは開発終了後早期に民間企業に移管することになった。
2022.08.27
幼稚園から小学一年生のころ、一家で楽しく観ていた番組にNHKの「お笑い三人組」があります。今日その出演者だった三遊亭金翁(当時三遊亭小金馬)さんが亡くなったとのニュースを見てびっくりしました。一龍齋貞鳳さんや、3代目江戸家猫八さんは結構前に亡くなっていたので、てっきり金翁さんもすでに他界されていると思い込んでいました。感覚的に2世代前の方と思い込んでいたのでびっっくりです。YouTubeを探したら、ご本人の語るお笑い三人組誕生の秘話が面白いです。当時は歌奴さんとならぶ人気者だったそうです。こういう映像は貴重だと思います。また笑点のメンバーでもあったそうです。心よりご冥福をお祈りします。NHK放送史:お笑い三人組■参考リンク三遊亭金翁さん死去、93歳 4代目三遊亭金馬で活躍、NHK「お笑い三人組」で人気者に[2022年8月27日8時9分]NHKの「お笑い三人組」で人気者になった落語家で、長く4代目三遊亭金馬として活躍した三遊亭金翁(さんゆうてい・きんおう、本名松本龍典=まつもと・りゅうすけ)さんが27日午前1時30分ごろ、死去した。93歳。東京都出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。1941年に三代目金馬に入門。45年小金馬を名乗り、58年真打ち昇進。腹話術や司会などでラジオやテレビで活躍、NHKのバラエティー番組「お笑い三人組」には物まねの3代目江戸家猫八さん、講談師の一龍斎貞鳳さん(いずれも故人)らと出演し、人気者になった。師匠没後、67年に4代目金馬を襲名。「文七元結(ぶんしちもっとい)」「芝浜」などを得意とし、誠実な人柄そのままの高座で親しまれた。2020年に「金馬」の名跡を弟子でもある次男に譲り、自身は隠居名として「金翁」を名乗った。(共同)Weikipedia:三遊亭金翁 (2代目)三遊亭 金翁(さんゆうてい きんおう、1929年3月19日 - 2022年8月27日)は、東京都江東区出身の落語家。落語協会顧問、日本演芸家連合五代目会長、日本芸能実演家団体協議会顧問。本名∶松本 龍典。出囃子は『翁千歳三番叟』。柳家小袁治による「当代金馬は、自分の大師匠を知っている大ベテラン」との発言からも窺える通、令和期まで生きた唯一の戦中入門の落語家[1]である。芸歴1941年7月∶三代目三遊亭金馬に入門。前座名「山遊亭金時」。1945年∶二ツ目昇進、「三遊亭小金馬」に改名。1958年∶真打昇進。1967年四代目三遊亭金馬を襲名。落語協会常任理事、日本演芸家連合理事に就任。2004年∶日本演芸家連合会長に就任。2010年∶落語協会常任理事を退き顧問に就任。2017年∶日本演芸家連合会長を退任し、名誉会長へ。2020年9月21日∶「二代目三遊亭金翁」を襲名。2022年8月27日∶1時30分死去[2]。93歳没。来歴子供の頃は兵隊に憧れ予科練を夢見たが、柳家金語楼のSPレコードを聴いたことで落語に興味を持つようになる[3]。家族や近所の人に落語を披露しては爆笑をとっていた。1941年7月、小学校卒業の12歳のとき、寄席の支配人の伝手で三代目三遊亭金馬に入門[3]。少年落語家・山遊亭金時として初高座を踏む。1945年終戦直後の8月18日に、二ツ目昇進[3]。三遊亭小金馬と改名。小金馬時代にはコキンホースという競走馬の馬主でもあった。1953年、日本テレビ開局記念番組放送中、放送事故が発生。急遽、小金馬、二代目三遊亭歌奴、一龍齋貞鳳、三代目江戸家猫八の4人で即興のインチキプロレス(プロレスコント)を放送。開局祝賀会場は爆笑の渦に包まれた。これを見た同局社長・正力松太郎の指示により、直ちに彼らをメインとしたレギュラー番組が作られた。いわば金馬は、元祖テレビバラエティータレントである。1955年、歌奴を除く3人をメインにNHKに引き抜かれる形で『お笑い三人組』がスタート。国民的番組となる。このため、これらを知っている世代には未だに前々名の「小金馬」の名が通用する場合がある。プラモデルファンで、テレビ放送初期にプラモデルの番組『陸と海と空』(フジテレビ)の司会をしていた。1958年3月、真打昇進。1967年3月、三代目の三回忌に四代目三遊亭金馬を襲名。同年、落語協会常任理事に就任する。1969年11月9日から1970年6月14日まで『笑点』の大喜利メンバーを務める[1]。加入時の満年齢は40歳であり、2006年に春風亭昇太(当時46歳)が加入するまでは新加入最高齢者であった。『お笑い三人組』で人気者になっていたため、休演も数回あった[1]。国立演芸場開設に尽力した功労者であり、1970年には芸術祭優秀賞を受賞し、警視総監表彰を受けた。三代目古今亭志ん朝没後、志ん朝の手掛けていた夏の「住吉踊り」を承継。毎年8月、浅草演芸ホールの中席で披露していたが、膝を痛めたことと、高齢のために現在は引退した。『お笑い三人組』で共演した桜京美の病死が判明した1989年1月6日には、「もっと会って話をしておけばよかった」というコメントを寄せて桜を偲んだ。2010年代以降は膝を悪くし、釈台を置いて落語を演じている。愛嬌のある笑顔と独特のダミ声はいまだ健在[1]。2017年9月6日・7日にBSフジのクイズバラエティ番組『クイズ!脳ベルSHOW』に出演。番組出演者の中では今までの最高齢(89歳)[4]でありながら優秀な成績をおさめ、週末のチャンピオン大会にも出場。2018年6月6日には「おもしろ選抜脳ベル選手権2018」80代部門に出演し、2019年7月4日には番組のレギュラー放送500回を記念してお祝いメッセージを寄せる。同年9月25日・26日には再びスタジオに出場、再度27日のチャンピオン大会にも出演した。また、2020年8月28日には「聞けば納得クイズ!何でそうなった!?」に出題者として三遊亭金時とともにVTR出演した。2018年7月、東京都内の自宅で呼吸が苦しくなり、自力で救急車を呼んで病院に搬送される[5]。心不全と脳梗塞を発症したためだという[6]。数日間意識が戻らず、一時はICU(集中治療室)に入院したものの[7]、2019年の鈴本演芸場正月興行で高座復帰を果たした。2019年6月、自身の健康状態も考慮し、翌2020年秋に「三遊亭金馬」の名跡を次男の三遊亭金時に譲り、自身は隠居名となる「三遊亭金翁」を襲名することが明らかになった[8]。2020年9月21日、鈴本演芸場での自身と息子の五代三遊亭金馬襲名披露興行初日を以て正式に三遊亭金翁を襲名した[9]。その後も寄席を中心に最晩年まで出演を続けたが、生前最後の出演は2022年1月19日、新宿末廣亭の高座となった[10]。2022年8月26日夜、自宅で倒れているのを家族が見つけ病院に運ばれたが、翌27日1時33分、心不全のため、死去した[2][10][11]。93歳没。
2022.08.26
芥川隆行さんのナレーションで、久々に水戸黄門を聴きたくなって探すも見つかりませんでした。代わりに見つかった番組オープニングや、演歌のイントロの紹介、番組、CM等をついついどんどん聴いてしまいました。非常に印象的な語り口で歌や、商品、番組を盛り上げ、聴きほれてしまいます。スクールウォーズオープニングの麻倉未稀さんの「ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO」は、今、聴いてもいい歌です。2022.12.30リンク切れにより差替え。2023.3.21リンク切れにより差し替え。2024.3.30リンク切れにより差替え。■参考リンクWikipedia:芥川隆行芥川 隆行(あくたがわ たかゆき、1919年3月6日 - 1990年10月2日[1])は、日本の元アナウンサー、ナレーター、司会者。本名は同じ[2][3]。東京府(1943年7月以後の東京都)出身[4]。1951年10月にラジオ東京(現TBS)[注釈 1]にアナウンサー第1期生として入社。1959年12月にラジオ東京を退社。1960年1月にフリーとなり芥川企画を設立し司会者・ナレーターとしても活躍した。日本におけるナレーターの草分け的存在でもあり[2]、時代劇、演歌番組において、芥川節と呼ばれるめりはりのきいた渋い語り口で活躍[3]。代表作には『木枯し紋次郎』、『必殺シリーズ』、『西遊記』、『水戸黄門』等[5]。顔のない名優といわれた[2]。妻はラジオ東京アナウンサー第1期生の本田節子[6][7][注釈 2][9]。略歴1941年、慶應義塾大学経済学部[5]を卒業後、川西機械製作所(兵庫県神戸市)に入社[10]。1941年12月、入隊[10]。復員後、大分県の高等学校教員等を務める[10][11]。1951年10月、ラジオ東京(現TBS)[注釈 1]へアナウンサー第1期生として入社、放送界入り。1959年12月、ラジオ東京を退社。1960年1月、フリーとなり、芥川企画を立ち上げる。1990年10月2日、肺癌により死去。71歳没。人物先祖は福岡県柳川市出身[2]。父は計器類製造・販売経営者[11]。弟がいる[12][注釈 3]。現在の東京都港区白金生まれ[10][11]。子供の頃から足が速く中学・大学では陸上部所属[13]。祖父は福沢諭吉の侍医の一人で、父も慶應義塾大学に通い、[11]慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1941年、慶應義塾大学経済学部を卒業後、「すべてが無計画で、その場その場のでき心で行動しているんです。」と、川西機械(兵庫県神戸市)に入社したが出社したのがふた月だけだった[10]。1941年12月、入隊、北支那方面軍に配属され、以降中国戦線を転戦。士官候補試験に合格して陸軍中尉となり、斎南の補給廠に勤めている時に敗戦を迎えた。[11]1946年、復員。[11]1948年、野球選手の芥田武夫と間違えられて大分県の高等学校教員となり、国東高等学校、森高等学校で教鞭[11]等を経て[10][注釈 4]、1951年10月にラジオ東京[注釈 1]へアナウンサー第1期生として入社[6][7]、アナウンサー募集に応募した際には既に32歳だったことから願書も受け付けてもらえなかったが、「役者にも老け役が必要であろう」との鶴の一声で受験可能となったため[14][11]。主に、スポーツ番組、ラジオドラマの語り手、芸能番組を担当した[15][16]。その間、編成局アナウンサー室[17](1953年2月編成局アナウンス課[18]→同年8月1日編成局アナウンス部[19])を振り出しに、編成局テレビ演出部映画課兼アナウンス部(1957年6月)→テレビ編成局演出部兼アナウンス部(1958年5月)→テレビ編成局編成部兼アナウンス部(1959年5月)へそれぞれ在籍した[16]。1957年、TBSアナウンサー第1期生の本田節子と結婚。2男をもうける[9]。芥川の声は美声というのではなく、音色(おんしょく)と語り口で聞かせるタイプで美声になっては雰囲気が台無しになるものであったが、やはり風邪をひかないことを第一に心掛けていた[13]。幼少の頃に祖母に連れられて、浪花節や講談、無声映画の活弁に馴染んだことが聞き手の耳へ分かりやすく伝える発声法を生み出し、人気に繋がった[10]。1959年12月の退社[15][16]後は、民放第1号のフリーアナウンサーへ転身[16][20]。芥川企画を立ち上げ、主にナレーターとして活動するようになる。その際、「入社した時、クセがありすぎるというので、ほされる状態が8年続いた。のんきなのでそれでも気にせず、60年、行き先も考えず、フリーになった」[10]と語っている。1961年から放映されたテレビドラマ『新選組始末記』のTBSでのテレビドラマ化が決定すると、原作者の子母沢寛を訪ねて語り台本を自ら書く許可を得て、語り手としてドラマを盛り上げた。同番組はドラマの画面に語りを入れる番組作りの嚆矢ともなり、[21]語りに節をつけた彼独特の調子「芥川節」が誕生し「いまの時代のテンポに合わせていきたい。」と派手さがなかった[10]。番組の最後のほうで三橋美智也による主題歌をバックにしてのナレーションで当時の視聴者に強烈な印象を与え、同時に出世作となった。以来、ナレーションの第一人者として、TBS『ナショナル劇場』、や『ザ・ガードマン』、『キイハンター』、『シークレット部隊』、『木枯し紋次郎』、『西遊記』、『Gメン'75』、『必殺シリーズ』、『スクール☆ウォーズ』、『ポニーテールはふり向かない』、『乳姉妹』、『もりもりぼっくん』、『三匹が斬る』など数々の人気時代劇・ドラマを手がけた[21]。中でもTBS系土曜21時台の歴代ドラマでは、多数の作品で芥川隆行がナレーターを務めていた(1986年の『親子ゲーム』は例外)。黄桜のCMでも、『河童の歌』を使用していた時代にはナレーションも長期に亘り務めていた。TBS紀行番組『兼高かおる世界の旅』では、ナレーションではなく、旅行家の兼高かおるの旅の様子の聞き手を務め30年に亘る長寿番組となる[21]。1970年、大川栄策が恩師古賀政男の曲を歌ったカヴァーアルバム『大川栄策 古賀メロディーを歌う』では、語り部として起用され、これが日本初のナレーション入りアルバムにもなった[2]。ラジオでも、1971年、文化放送朝の生ワイド番組『オハヨー! 日本列島』の司会を務め、番組終了後は『お元気ですか 芥川隆行です』を担当[21]。ラジオ日本では演歌専門番組『芥川隆行の演歌だヨ!』(1974年)と『芥川隆行演歌ひとすじ』のパーソナリティを務めた。イントロに独特の語りをいれる「ナレーション演歌」は、番組の名物となった。1980年から1990年に亡くなるまでラジオ日本に朝から晩までレギュラー番組・コーナーを数多く持ち、ラジオ日本の顔として人気番組に育て上げた[21]。1988年12月、仕事の集大成である『名調子芥川隆行が語る名作シリーズ・カセットブック(全15巻)』(デラ)を出版[3]。1990年7月31日、うだるような暑さの中ジャンパーを着込んでラジオ日本に出社し『芥川隆行の演歌だヨ!』の生放送に出演するが、帰宅後に体調不良を訴え入院。最初は急性肺炎と診断されたが、8月1日の精密検査の結果、放射能治療も手術も不可能な肺癌と判明。この事は芥川に知られないよう親族にだけ知らされた[2][3]。芥川は1日で40本のタバコを吸う愛煙家でもあったという[2]。入院後も医師の外出許可をもらった上でレギュラー番組の収録に出掛けており、8月20日には『スクール☆ウォーズ2』第3-4話のナレーション収録を行ったが、それが遺作となった(第5話以降のナレーションは城達也が務めた)[2][3]。9月、病気により『ナショナル劇場』ナレーションを降板し、TBSアナウンサーで2年後輩の杉山真太郎に交代[2][3]。9月4日、最後の仕事となった『兼高かおる世界の旅』最終回のナレーション収録に参加。この時点では胸を押さえながら必死で挑んだが、普段のようには声が響いておらず「芥川節」は本調子ではなかった[2]。同年10月2日午前8時10分、肺癌のため立正佼成会附属佼成病院で死去。71歳没[22]。芥川の死は芸能界にも衝撃が走った[2]。戒名は「信融院一竟日隆居士(しんゆういんいっきょうにちりゅうこじ)」[23][24]。墓所は菩提寺の立行寺[12][25]。ラジオ日本でパーソナリティを務めていた『芥川隆行お昼の名作文庫』は、収録済みの内容については当面お断りを入れて放送[2][3]。『芥川隆行の演歌だヨ!』、『芥川隆行の懐しの演歌』についてはラジオ日本アナウンサーが代役を務めていた[2][3]。10月3日、入院中の9月6日に書き下ろした『兼高かおる世界の旅』でコンビを組んだ兼高との思い出を振り返る内容の文が、「一つの旅の終焉」というタイトルで雑誌『鳩よ!』(マガジンハウス)に絶筆掲載された[26]。好きな言葉は「明日は明日の風が吹く」。自分の事を計画性がないと言いながらも、活動は硬軟取り混ぜて朗読、対談、ナレーションと万能で、その語り口は品が良く、物静かだったという[10]。
2022.08.21
中3の時、高校受験で忙しかった中で夢中になったドラマです。主題歌も好きで最近になってい小椋佳さんの歌と知りました。以前探したときはあまり情報がありませんでしたが、今回、結構情報がありました。出演されていた女優さんが事故で亡くなったのは大変残念でした。ちなみに出演されていた下條アトムさんの本名のアトムの由来が面白かったのでご紹介します。名前をつけた寅さんのおいちゃんは結構ハイカラな方だったと知り、びっくり。テーマソング:小椋佳『海辺の恋』NHK放送史:銀河テレビ小説 黄色い涙詳細偶然知り合った夢を抱く若者たちが、狭いアパートの一室で共同生活をする。行きつけの喫茶店や食堂の人々の日常とともに若者の夢と現実が織りなす、青春の歓びと苦味がたっぷりつまった群像劇。永島慎二原作の人気漫画「若者たち」を、市川森一がNHKで初めて脚本を担当した。病気の母を上京入院させるため、息子が、ニセ医者を仕立て母に付き添わせようとするエピソードは市川森一の体験を元にした。(全20話)■参考リンクWikipedia:黄色い涙『黄色い涙』(きいろいなみだ)は、永島慎二の漫画作品『若者たち』を原作として1974年に放送された日本のテレビドラマ、および2007年4月14日に公開された日本映画。脚本はテレビドラマ・映画いずれも市川森一がつとめた。テレビドラマ1974年11月25日 - 12月20日に、NHK総合テレビの月曜 - 金曜21時40分 - 22時00分に『銀河テレビ小説』枠で放送された。全20回。NHK名古屋放送局製作。市川森一にとって、NHKで初めて脚本を担当した作品である。ドラマ化に際しては、既に原作漫画と同名タイトルのテレビドラマ「若者たち」が存在していたため、原作漫画のシリーズ名「シリーズ黄色い涙」を引用した「黄色い涙」にタイトルが改められた。1963年(昭和38年)12月。ひょんな事から知り合って早々東京・阿佐ヶ谷のアパートの一室で共同生活をする事になった一流の漫画家・画家・小説家・歌手を志す若者4人と、彼らの行きつけの喫茶店、食堂の人々の日常を描く。森本レオがNHKに原作を自分の主演、友人の市川森一の脚本で売り込んだ事から企画がスタートした[1]。オープニング映像には永島が描いた出演者たちの似顔絵が使われている。永島慎二がスタジオ見学のついでにさかえ食堂の客の一人として出演している[1]。最終回ではフランスの作家・モンテルラン(1896‐1972)による詩の一節が登場する[2]。全編スタジオにてVTR収録。番組終了後に放送用ビデオテープが消去されたため、NHKに映像は残っていなかった。 しかし、主演の森本レオが家庭用ビデオで録画していた映像が現存しており、「NHKビデオギャラリー」1989年3月19日放送回では最終回が放送された。現在は森本レオ録画分の全20回がNHKアーカイブスに所蔵されており、NHK各放送局および関連施設にある「番組公開ライブラリー」にて無料で閲覧することができる。 NHKに本作のスチール写真は保存されていない[3]。市川森一による全20話分の脚本は、単行本として1984年に大和書房から発売されている。そのあとがきによれば、東京で入院する病気の母親が乗って来る夜行列車に、知り合いに医者を装わせ乗り込ませる冒頭のドラマオリジナルのエピソードは市川自身の体験を元にしているという。キャスト村岡栄介:森本レオ下川圭:下條アトム向井竜三:岸部シロー井上章一:長澄修時江:児島美ゆき貞吉:新間正次若い男:団明雄千恵子:保倉幸恵「シップ」のマスター:山谷初男ほかスタッフ原作:永島慎二『若者たち』脚本:市川森一音楽:小林秀雄テーマソング:小椋佳『海辺の恋』制作:秋山成次美術:山内賢一技術:安田敏雄効果:滝川雅己演出:鈴木基次、日下部亮介、松沢健製作:NHK名古屋放送局テレビドラマデータベース:黄色い涙 永島慎二・作品集より(黄色い泪…誤り)息子は病気の母をどうにかして上京させようと、ニセ医者を仕立てて、母に付き添わせようとする。市川森一のNHK初執筆作品で代表作のひとつ。60年代青春群像を描く。喫茶店「シップ」の千恵子を演じた保倉幸恵は1975年7月8日、22歳で自殺、帰らぬ人となった。【役名(演技者)】村岡栄介(森本レオ)、下川 圭(下條アトム)、向井竜三(岸部シロー)、「シップ」のマスター(山谷初男)、井上章一(長澄修)、時江(児島美ゆき)、時江の父[貞吉](新間正次)、千恵子(保倉幸恵)、若い男(団明雄)。【出典:ドラマ本体のクレジット表示より採録(採録:古崎康成(1))】【情報協力:たぶれっと】Wikipedia:下條アトム人物アトムという名前は本名であり、父・正巳が第二次世界大戦後間もなく生まれた息子を、将来は日本でもアメリカのように名前・苗字の順に呼ぶようになり[3]、ローマ字の順に名簿も作られるだろうと考え、ならばアルファベットのAで始まる名前なら最初に呼ばれるという理由で、さらに「今後の原子力は戦争ではなく発電など平和のために使われるはずである」という願いを込めて、原子を意味する英語atomから名付けた。手塚治虫の漫画『鉄腕アトム』は下條アトムの命名より後に描かれたものであり、同名となったのは偶然の一致である。『鉄腕アトム』の連載当時、アトムという名の少年が実在することが話題となり、当時少年だった下條は手塚治虫と対面している[3]。また、ウランという名の女性が小学生時代の同級生におり、当時のテレビ番組『私の秘密』に2人で出演したこともある[3]。ともに現在の日本においても珍しい名前であり、これは非常にまれな出来事である。『今夜は最高!』にゲスト出演した時に『鉄腕アトム』のパロディでアトムを演じ[4]、最後に「これ一度やってみたかった」とつぶやいている。
2022.08.20
今回のプロジェクトXは、ホンダ がエンジンを改良し、1961年マン島TTレース参戦3年目で優勝するまでを描いています。プロジェクトに携わったホンダの元社長の河島氏、久米氏が当時の職名でNHKのスタジオに登場するなど、このプロジェクトにかけたホンダの熱い思いが伝わってきます。レースに優勝したことでホンダの名前は世界中に広まり、会社が発展する足掛かりとなりました。YouTubeを探していたら、レースの記録フィルムのようなものを見つけました。河島氏らしき方が非常に若いです。公道を走るマン島レースの牧歌的な一面にも気づきました。■参考リンクNHKプロジェクトX:制覇せよ 世界最高峰レース ~マン島・オートバイにかけた若者たち~(本田技研工業)【収録内容】マン島TT(Tourist Trophy)レースとは、1907年から続くオートバイレースの最高峰。1周60キロ、高低差400m、219のコーナーが連なる公道レースは、世界でも最も過酷なレースといわれる。戦後の焼け野原で倒産の危機にあえぐ極東の無名バイクメーカーにとって、それは無謀すぎる“宣言”だった。プロジェクトリーダーに指名されたのは河島喜好。開発は、久米是志、八木静夫ら入社間もないエンジニアが担当。ライダーは、完成検査係の秋山邦彦、谷口尚己らが志願した。しかし、世界とのレベルの差があまりに大きく、エンジンは、目標とする外国製の半分の馬力にも達しない。さらに、マン島レース初出場を2か月後に控えた昭和34年、ライダーの秋山が不慮の事故で他界、亡き仲間の遺影を胸に挑んだ初めてのマン島TTレースは、6位入賞を果たすも、目標の「世界一」には及ばなかった。「井戸の中のカエル」であることを痛感した河島らは、3年後の“成長”を誓う。(2002年5月7日放送)Wikipedia:マン島TTレース抜粋WGP第二次大戦後の1949年、FIMはロードレース世界選手権(WGP)を開始して、マン島TTレースはイギリスラウンドとして世界選手権シリーズの一戦に組み込まれた。その後もWGPの中でも最も重要な一戦として位置づけられていた。1954年から1959年まではクリプス・コース(Clypse Course)が使われた。マウンテン・コースの南東に位置する1周17.38kmの公道を使用したロードコースで、マウンテン・コースの一部も使用した。コース名は、人造湖のクリプス湖(Clypse Resevoir)を周回することに因んで名付けられた[8]。1960年からは再びスネーフェルマウンテンコースが使用された。年々のマシンの性能向上は著しく、1957年にはボブ・マッキンタイヤが初めて100mphを超える平均速度(オーバー・ザ・トン)を記録した。1959年は日本のホンダが初めて125ccクラスに参戦して完走して谷口尚己が6位入賞、2年後の1961年にはマイク・ヘイルウッドの手によりマン島初優勝を記録した。1963年の50ccクラスではスズキの伊藤光夫が日本人として初優勝した。
2022.08.17
うれしいことに竹脇無我さんの坊っちゃんのDVDが、5/26に発売されるそうです。もう無理かと思っていたのでうれしいです。値段はアマゾンでも15,000円とまだちょっと高いのでレンタルされるまで待ちたいと思います。2023.4.18内容の追加。竹脇無我主演 坊っちゃん コレクターズDVD 【昭和の名作ライブラリー 第115集】 [DVD]子供のころに観たドラマで、もう一度観たい作品の一つが竹脇無我さんの坊っちゃんで、自分が小学5年生のときの作品です。主演の竹脇無我さんのちょっとぶっきらぼうでわがままなところとか、すべての配役が今考えてもぴったりでした。東京で待つきよ役は誰だったか。8/15お盆休みを利用して国会図書館に行き、当時のTVガイドを見たらラッキーなことにカラー写真がありました。テレビドラマデータベースから推測するに、かつてホームドラマチャンネルで再放送されていた可能性があります。いつかもう一度観たい作品です。週刊TVガイド1970.10.16号より:「坊っちゃん」のテレビ化は今回で、三度目。市川染五郎、津川雅彦に次いで、三代目の”坊っちゃん”を演じるのは竹脇無我。「江戸っ子の威勢のよさ 姿三四郎にはなかった知性をだして 坊っちゃんの持つイメージの最大公約数をがっちりとつかむ」と張りきること張りきること。「竹脇さんの大ファン」という山本陽子は あこがれのマドンナ役、ちなみに共演者は米倉斉加年(赤シャツ)松村達雄(校長)田村高広(山嵐)牟田悌三(野ダイコ)小松政夫(うらなり)といった具合い。”坊っちゃん”といえば松山が舞台。坊っちゃんが松山へ到着するくだりや、中学生と師範学校の生徒との大ゲンカ マドンナとの出会いなど主要シーンはすべて四国・松山でのロケ。久しぶりの松山ロケとあってロケ現場には地元の無我ファンがどっと押し寄せ、押すな押すなの盛況だった。■参考リンクテレビドラマデータベース:坊っちゃん(坊ちゃん…誤り)松山の中学に赴任した一本気な江戸っ子教師・小川次郎の奮闘ぶりをユーモラスに描く。一本気な江戸っ子教師・小川次郎(竹脇無我)が、松山の中学に赴任。ところが、学校にいるのは校長のたぬき(松村達雄)や教頭の赤シャツ(米倉斉加年)、同僚教師の野だいこ(牟田悌三)といった気にくわない連中ばかり。次郎は、そんな連中を相手に奮闘を重ねていくのだが…。【以上、ホームドラマチャンネル広報資料より引用】提供:カルピス食品工業、ハウス食品工業。協力・松山市道後温泉、伊予鉄道、伊予・松山城、愛媛県北宇和郡吉田町、T・A・K、松山市、道後温泉旅館協同組合。【出典:ドラマ本体のクレジット表示より採録(採録:古崎康成(3)(6))】Wikipedia:坊つちやん (テレビドラマ)1970年日本テレビ版キャスト坊っちゃん:竹脇無我マドンナ:山本陽子山嵐:田村高廣赤シャツ:米倉斉加年野だいこ:牟田悌三うらなり:小松政夫狸:松村達雄その他:財津一郎、木田三千雄、佐々木すみ江、江戸家小猫(現:四代目猫八)、野島昭生、安原義人竹脇無我主演、 夏目漱石の名作を好演し大ヒットした昭和の傑作ドラマ『坊っちゃん』が、放送から50年以上の時を経て待望の初ソフト化!5/26DVDで発売!株式会社ベストフィールド2023.02.24 12:00 Press Walker昭和の名作、想い出のアニメ、甦るヒーローなどをテーマとしてDVD・Blu-rayの企画、発売を手掛ける株式会社ベストフィールド(本社:東京都新宿区 代表取締役:添田 弘幸)は、竹脇無我主演、夏目漱石の名作のを好演し大ヒットした昭和の傑作ドラマ『坊っちゃん』が、放送から50年以上の時を経て待望の初ソフト化を決定し、2023年5月26日に発売します。竹脇無我主演 坊っちゃん コレクターズDVD【参考価格】税込:19,800円/18,000円(税抜)Amazon:https://amzn.to/3IQASbG【封入特典】解説書【作品内容】愛媛県松山市の中学に赴任した若き数学教師(坊っちゃん)の奮闘ぶりをユーモラスに描いたドラマ。はるばる赴任した松山の中学にいたのは、校長、教頭をはじめ同僚までも気に食わない風変わりな連中ばかりだった・・・。“坊っちゃん”には竹脇無我、”山嵐”には田村高廣、”赤シャツ”には米倉斉加年、”野だいこ“には牟田悌三、”たぬき”には松村達雄、”うらなり”には小松政夫、”マドンナ”には山本陽子という豪華俳優陣が集結!明治39年、坊っちゃんが、四国、松山の中学に数学の教師として赴任するところから始まり、赤シャツ、野だいこと対決したあと松山を去るまでを、原作を忠実に映像化した作品。初回放送:1970年(昭和45年)10月26日~11月30日/日本テレビ系【作品ポイント】★竹脇無我が「姿三四郎」に続き主演した大ヒットドラマ!★数ある「坊っちゃん」の映像化作品の中でも最も人気の高い作品!★坊っちゃんが四国・松山の中学に赴任するところから、赤シャツ、野だいこと対決したあと松山を去るま でを、原作を忠実にドラマ化している!★マドンナ役に山本陽子、そのほか田村高廣、松村達雄、米倉斉加年、牟田悌三、小松政夫、北林谷栄、 財津一郎など、豪華俳優陣が顔を揃えている!【キャスト】竹脇無我、山本陽子、田村高廣、松村達雄、米倉斉加年、牟田悌三、小松政夫、北林谷栄、財津一郎、佐々木すみ江、木田三千雄 ほか
2022.08.15
今回のプロジェクトXは国内地図情報最大手のゼンリンが全国の住宅地図を完成させるまでの苦労のお話です。別府の観光案内冊子のオマケの地図が評判になり、九州から全国展開を目指しました。途中名古屋の込み入った地下街や、秋葉原に軒を並べる小さなパーツ屋さん、北海道の広大な土地に点在する家の問題を知恵で克服したのは素晴らしいと思いました。1つ1つの家を歩いて調査する人海戦術は気が遠くなりそうです。この住宅地図のおかげで、役所・警察・郵便・消防・電気・電話・ガス会社、営業等は仕事がしやすくなり、便利になったと思います。また近年ではカーナビやインターネット等にも展開しています。数年前にGoogleでの地図の提供をやめたとのニュースを見てあらためて便利さに気づかされました。最近の業績は必ずしも右肩上がりというわけではありませんが、今後の発展に期待したいところです。海外展開とかあれば面白いと思います。ゼンリンの由来は社名は創業者が好んだ言葉「善隣友好」から採られたそうです。■参考リンクNHKプロジェクトX:列島踏破30万人 執念の住宅地図(ゼンリン)内容説明世界中で日本にしかない地図がある。「住宅地図」、一軒一軒の名が入った詳細図。日本全国の99.9%をカバー。緊急自動車の出動や災害時の安否確認などで力を発揮する。この住宅地図、始まりは敗戦間もない大分・別府の温泉案内図だった。地図は世の中を便利にする、と全国すべての地図作りに乗り出した。しかし名古屋の地下街や東京の超過密ビル、果ては、北海道の広大な大地が行く手を阻む。世界に誇る地図作りの壮絶な物語。Wikipedia:ゼンリン株式会社ゼンリンは、地図情報の調査・制作・販売を行う日本の企業。日本国内で4社存在するデジタル地図調製業者のうちの1社で[2]、地図情報会社として日本国内最大手[3]。自社で調査した情報を基に住宅地図やGISなどを制作・販売するほか、他社に対してデジタル地図やカーナビゲーション用データなどを供給している。歴史創業大分県宇佐市出身の大迫正冨(1921年6月16日 - 1980年5月23日)が、1948年4月に別府市で友人と創業した観光文化宣伝社を前身とし、この年を創業としている。別府市内で宣伝や観光案内などの事業を行い、正冨は専務取締役として出版部門を担当したが、翌1949年に独立して華交観光協会を設立。観光客向けに名所旧跡を紹介する小冊子『年刊別府』を制作したところ、巻末付録であった詳細な市街地図が土地勘のない観光客の間で好評で、地図への掲載要望が相次いだ[4]。これに手応えを感じた正冨は、翌1950年に社名を善隣出版社と改め、2冊目となる『観光別府』を制作する。『観光別府』では付録の地図情報が一層充実し、住宅地図に近いものとなった。社名は正冨が好んだ言葉「善隣友好」から採られた。戦時においては地図は軍事機密となるため「平和でなければ地図づくりは出来ない」という思いが込められている[5]。住宅地図の制作これら2冊の成功を受け、1952年6月に『別府市住宅案内図』が販売された。江戸時代の古地図や戦前の町内案内図などから着想を得て、一軒一軒の建物の情報が記載された地図は、商店や官公庁など各方面で評価され、発行地域を広げた。1954年3月には販路拡大を目指して福岡県小倉市下到津(現在の北九州市小倉北区)へ移転し、『住宅案内図』の名称も『住宅地図』へと改めた。全国展開以降、住宅地図の発行エリアを順次拡大を進め、1980年には47都道府県全てにおいて住宅地図の発行を開始。以後2018年現在に至るまで、住宅地図を全国展開しているのはゼンリンが唯一となっている。住宅地図全国展開の経過は、のち2004年10月にNHKのドキュメンタリー番組プロジェクトX〜挑戦者たち〜で「列島踏破30万人 執念の住宅地図」として放映・書籍化された。1952年に大分県別府市で住宅地図の発行を始めてから29年目での全国制覇となったが、同年5月、それを見届けるかのように創業者の正冨が社長在職のまま59歳で病没。後任には正冨の長男である大迫忍が就いた。電子化からカーナビへ世界初のGPSカーナビが搭載されたユーノス・コスモ1980年代に入ると2代目社長となった大迫忍の主導により他社に先駆けて地図のデータベース化に着手。1984年に日立製作所と「住宅地図情報利用システム」を開発した。これにより出版物だけでなく地図データの販売も可能となり、1988年にはCD-ROMに地図データを収録した『Zmap電子地図』を販売。1990年には、GPSに対応した世界初のカーナビゲーションシステムを三菱電機と開発し、ユーノス・コスモに搭載された[6]。1990年代にはカーナビゲーションやパソコンが一般化。80年代に行ったデジタル化への先行投資が実を結んで売上を伸ばし、1994年(平成6年)9月には福岡証券取引所へ、1996年(平成8年)9月には東証・大証各2部への上場を果たした。地方の地図出版社であったゼンリンをデジタル化の推進によって国内最大手の地図情報会社へと飛躍させた2代目社長の大迫忍は「年を取ると老害になる。55歳で引退する」[7]として2001年をもって20年間務めた社長を勇退し経営から退いた。同時に「同族経営は弊害を生む」として同族企業から脱却させ、後任には創業家以外から原田康が就任した。媒体の多様化2000年代には携帯電話・ノートパソコン・携帯ゲーム機・スマートフォンなどの普及に伴い、これらのデバイスに対して地図サービスの提供を行った。2000年4月、インターネットの普及を受け、ネットワーク配信事業を行うゼンリンデータコムを設立。同年6月には携帯電話向け地図閲覧サービス『ゼンリン携帯マップ』を開始。当初はラスター形式による地図配信であったが、翌年には携帯電話上での地図描画として世界初となるベクター形式による配信を実現した[8]。2001年8月、3D地図を開発するジオ技術研究所を設立。2005年7月、Google マップの日本向けサービス開始と同時にデータ提供を開始 [9]。 同年8月、住宅地図のネット配信サービス『ZNET TOWN』を発売開始[10](2019年3月まで)。2006年4月、PlayStation Portable用の地図ソフト『みんなの地図』を発売。2006年に東証一部に上場を果たすと、「経営環境の変化に対応するため、若い経営陣に任せたい」として2008年に原田が57歳で退任[11]。初の生え抜きとして高山善司が45歳の若さで4代目社長に就任した。近年の動向2010年代に入ると、自動運転やドローン、雑貨などの新たな分野へ地図データを活用した商品化が進んだ。2022/05/18ゼンリン:2022.3期 期末 決算説明資料(1,868KB)グーグルと別れても、ゼンリンが案外しぶとい1000人が足で築いた地図で競合も抜き去る山内 哲夫 : 東洋経済 記者 2019/04/01 4:50
2022.08.14
小学5年生の正月からやっていた1年間のドラマです。かなりの鳴り物入りで始まりましたが、Wikipediaにあるように、松の廊下の話まで5回を要するなど、小学生の自分にはテンポが遅く、てっきり忠臣蔵は松の廊下と討ち入りの2つだけと思いこんでいた自分にはついていけず、途中で挫折したままにしてましたが、年末に討ち入りだけは観た覚えがあります。出演者が豪華絢爛で、市川中車さんや、上月晃さんとか、懐かしい名前が並んでます。少し時間もできたことなので、また挑戦したい気もありますが、今度は続くか。アマゾンプライムや、またGyaoでは第1話が無料で観られます。オープニングが重々しい中にも優しさがあり好きでしたが、富田勲さんの作品でした。Gyao!:大忠臣蔵 第1話 風雲はらむ赤穂城■参考リンクWikipedia:大忠臣蔵 (1971年のテレビドラマ)『大忠臣蔵』(だいちゅうしんぐら)は、全52回にわたり、1971年(昭和46年)1月5日から12月28日まで、NETテレビ(現在のテレビ朝日)系列ほかで(毎週火曜午後9時)に放送されたテレビドラマである。 三船敏郎のテレビ初主演作品。概要民放番組としては異例ともいえる規模を誇る大作時代劇で、“民放版大河ドラマ“ともいえる作品。当時よりNHK大河ドラマを意識した、あるいは大河ドラマに対抗するべく立ち上げられた時代劇企画は少なくなかったが、下記の点が当作について、NHK大河ドラマに匹敵する大作として語られる所以となっている。主な役だけではなく、端役に至るまで当時テレビ出演が可能であった大物俳優をこぞって出演させた。当時人気があったタレントやコメディアンも端役などで数多く起用している(コント55号、堺正章など)。主題曲は勇壮なオーケストラであった。なお、作曲者の冨田勲は大河ドラマの音楽を5回担当している。放送期間がまる1年間、1時間枠で全52話という大規模なものであった。物語は浅野内匠頭の祝言から始まり、江戸城松の廊下の刃傷事件によりおこる赤穂藩の悲劇を経て、多くの名場面を綴りながら討入りに向かっていくという、大石内蔵助たち赤穂浪士を中心に描く、定番の忠臣蔵作品。江戸城松の廊下の刃傷沙汰については、原因は製塩法を巡る播州浅野家と吉良家との軋轢が元との解釈を採っている。一年間放映の長丁場を生かして刃傷までの経緯も丁寧に描かれ、事件発生は第5回であった。既に多くの時代劇で剣豪を演じて固まっていた主演・三船の“強い侍“のイメージを生かし、彼が得意とする殺陣を番組の売りのひとつにする狙いもあって、大石が東軍流剣術の心得があった史実を取り入れ、三船演じる大石を剣の達人に設定、大石が刺客や隠密たちと自ら渡り合う場面がふんだんに描かれた。既存の原作は用いず、オリジナル脚本で制作することと、忠臣蔵で一般によく知られている挿話については洩らさず取りあげて長丁場を生かすこと、という2点が物語面での方針として徹底されていた[1]といい、公儀隠密を束ねる柳生家が柳沢の意を受けて赤穂浪士たちの討入り阻止のため諜報作戦を展開、その活動が多くのお馴染みの名場面にも絡んでいくという、企業スパイの横行した放映当時の世相も取り込む形[1]で、スパイサスペンスの趣向も盛り込まれた。このため赤穂浪士たちが諜報作戦にも立ち向かいながら本懐を目指す物語[2]となっており、多くの名場面を盛り込んだ、全体として定番の忠臣蔵作品でありながら、挿話それぞれの描き方においてはかなり特徴的な展開がみられ、本作の個性となっている。最高視聴率は、第50回「討入り その一」の32.8%(「テレビ朝日開局60周年記念 年代別にすべて発表!! 番組視聴率ランキング」の1970年代視聴率ランキング 7位)で、この回は実際の討入りの日であった12月14日に放送されている。後述のとおり、討入り場面の撮影前に上野介役の市川中車が急逝してしまったため、第47話以降は実弟の市川小太夫が後任として上野介を演じた。現在、DVD版が発売されており視聴可能である(全13巻・レンタルもあり)。スタッフプロデューサー:勝田康三(NET)、西川善男脚本:放映リスト参照音楽:冨田勲演奏:スクリーンミュージック撮影監督:斎藤孝雄美術監督:植田寛撮影:斎藤孝雄、佐藤正美術:植田寛、高山彦三郎、石田良之監督補佐:安井治助監督:安井治、鹿島章弘、尾中洋一、村石宏實編集:阿良木佳弘効果:東宝効果集団殺陣:久世竜、宇仁貫三語り:小山田宗徳監督:放映リスト参照企画制作:NET、三船プロダクション配役浅野家/赤穂藩大石内蔵助:三船敏郎浅野内匠頭:尾上菊之助浅野大学:河原崎建三大石主税:長澄修りく:司葉子大石吉千代:中原剛大石くう:斉藤里花瑤泉院:佐久間良子大石無人:辰巳柳太郎大石三平:竜崎勝大野九郎兵衛:伊藤雄之助大野郡右衛門:島田景一郎堀部安兵衛:渡哲也堀部弥兵衛:有島一郎堀部幸:赤座美代子弥兵衛の妻/きち:堀越節子岡野金右衛門:浜村純岡野しず:矢吹寿子不破数右衛門:新克利不破ぬい:伊藤榮子神崎与五郎:中丸忠雄奥田孫太夫:河野秋武富森助右衛門:石田太郎矢頭右衛門七:田村正和矢頭長助:加藤嘉長助の妻/おかつ:露原千草娘/みつ:平林利香娘/すえ:平林美香大高源五:御木本伸介片岡源五右衛門:江原真二郎片岡志津:原知佐子原惣右衛門:香川良介小野寺十内:伴淳三郎小野寺丹女:夏川静枝吉田忠左衛門:中村伸郎吉田沢右衛門:柴田侊彦大石瀬左衛門:三上真一郎赤埴源蔵:フランキー堺礒貝十郎左衛門:長谷川明男礒貝の母/わか:音羽久米子早水藤左衛門:和崎俊哉竹林唯七:砂塚秀夫三村次郎左衛門:左右田一平三村の妻/お葉:金井由美潮田又之丞:横森久潮田の妻/おゆう:島かおり岡島八十右衛門:河原崎長一郎岡野金右衛門(九十郎):中村賀津雄おつや:鮎川いずみ岡野新伍:早川保岡野れん:牧紀子勝田新左衛門:寺田農茅野和助:島田順司杉野十平次:宗方勝巳近松勘六:工藤堅太郎間喜兵衛:野々村潔間十次郎:蜷川幸雄前原伊助:若林豪矢田五郎右衛門:田中浩[3] 寺坂吉右衛門:小林昭二萱野三平:石坂浩二お軽:山本陽子 与市兵衛:菅井一郎おかや:浦辺粂子大野定九郎:村井国夫高田郡兵衛:田村高廣内田三郎右衛門:堀雄二内田美弥:珠めぐみ落合与左衛門:清水将夫小山源五右衛門:北竜二進藤源四郎:玉川伊佐男毛利小平太:高橋悦史 小山田庄左衛門:中山仁小山田一閃:河津清三郎橋本平左衛門:大出俊八助:美川陽一郎金沢兵庫:丹羽又三郎橋本八十八:井川比佐志橋本くみ:岩本多代萩原兵助:福田豊土荻原弥兵衛:田島義文伴甚太夫:勝部演之皆川庄六:地井武男島彌助:田村亮島その:真屋順子佐枝:小林千登勢おたか:園千雅子おしの:中野良子小雪:北川美佳定太郎:中村光輝お浜:西尾恵美子おつた:桜町弘子相羽志乃:中村玉緒志乃の夫/相羽兵庫:林成年兵太郎:山崎亮一粕谷勘左衛門:徳大寺伸加代:柴田美保子戸田局:東郷晴子田中貞四郎:木村博人→宮浩之藤井彦四郎:田口計藤井又左衛門:浅野進治郎安井彦右衛門:小栗一也建部喜六:本郷淳月岡治右衛門:永井秀明多川九左衛門:矢野宣正岡達之進:信欣三加代:徳永礼子玉虫七郎右衛門:川野耕司本家浅野家々老:近藤準三次浅野家々老:湊俊一瑤泉院の腰元:毛利幸子、川口節子江戸藩士:鈴木治夫三次浅野家腰元:伊藤清美吉良家・上杉家吉良上野介:市川中車→市川小太夫(中車の急逝に伴い実弟の小太夫に交代。第47回の番組冒頭では、本編放映に先立ち小太夫が黒紋付姿で登場し、上野介姿の亡兄の遺影を傍らに立て、兄の急逝と上野介役の引き継ぎについて、視聴者に向けた異例の口上を行っている。)千坂兵部[4]:丹波哲郎吉良義周(左兵衛):中村米吉小林平八郎:芦田伸介[5]清水一学:天知茂おせい:長谷川峯子上杉綱憲:天田俊明上杉吉憲:池田秀一松原多仲:神田隆鳥居利右衛門:大友柳太朗鳥居の娘/おせつ:梓英子鳥居の妻/おふじ:橘公子宮石新左衛門:村上冬樹山之辺一平:戸上城太郎大須賀治部右衛門:睦五朗斉藤清左衛門:今井健二関三郎兵衛:奥野匡山際三左衛門:富田仲次郎津田又兵衛:北城寿太郎榊原平右衛門:久富惟晴荒巻一心斉:青木義朗高坂:小笠原弘山崎:大里健太郎岸川:原田力浪岡清之助:仲村絋一侍:北村晃一侍:藤森達雄幕府関係者 他徳川綱吉:高橋昌也柳沢吉保(側用人):神山繁桂昌院:高杉早苗脇坂淡路守:中村錦之助仙石伯耆守(大目付):市村竹之丞柳生俊方:仲谷昇松平紀伊守(京都所司代):佐藤慶戸川備前守(勘定奉行):北上弥太郎稲葉丹後守(老中):細川俊夫土屋相模守(老中):明石潮阿部豊後守(老中):岡部正伊達左京亮:中吉卓郎土屋主税:土屋嘉男 梶川与惣兵衛:稲葉義男多門伝八郎(目付):中村竹弥戸田采女正:山本耕一戸田源五右衛門(戸田家):佐々木孝丸小山孫六:清水一郎佐々小左衛門:山崎直樹進藤八郎右衛門:宇佐美淳也石束源五兵衛:見明凡太郎お蘭(柳生の隠密):上月晃加倉井林蔵(公儀隠密の頭領):高松英郎山田新之助:堀田真三上島源之助:相原巨典平野半平:原鉄建部政宇(京/伏見奉行):加藤武青山若狭守:加賀邦男大友近江守:夏川大二郎禹助:露口茂与助:上野山功一耳助:滝川潤覚雲:天本英世久六:大木正司お梅:二本柳敏恵三島三六:石橋雅史五条竜太:内田勝正唖の三蔵:永山一夫鬼丸祐之進:山本清滝立仙:山形勲滝うめ:津島恵子滝雪太郎:吉田次昭丸木七之介:千波丈太郎遠藤三左衛門:川合伸旺川上十兵衛:長島隆一金子市之助:宮口二郎畠山民部(高家):田中志幸本多和泉守(大坂東町奉行):中村梅之助松野河内守(大坂西町奉行):北原義郎西野信之助:伊達三郎宗達:田川恒夫宗円:広田竜治田村右京大夫:武内亨山田五郎右衛門(田村家):松尾文人庄田下総守(大目付):幸田宗丸[6] 大久保権右衛門(目付):西田昭市[7]栗崎道有(御典医):宮口精二坂木養慶:伊沢一郎浅野本家家老:近藤準浅野三次家家老:湊俊一大友修理(脇坂家):北沢彪榊原幸右衛門(伊達家):真弓田一夫荒木十左衛門(目付):永井玄哉榊原采女(目付):加地健太郎成川増右衛門:小山源喜長沢典膳:織本順吉辻村平左衛門:滝田裕介岡田荘太夫:高木二朗室生竜介:木村博人長山佐馬之助:沢村昌之助谷村友之進:多田幸雄野村孝之進(旗本):森山周一郎黒沼弥兵衛:松枝錦治室井要介:笠原弘孝山田源八:柿木香二忠助:金内喜久夫鴨坂伴内:池田忠夫黒太夫:木村元荒木:弘松三郎近藤(仙石家用人):牧田正嗣八木市太夫:柄沢英二安場一平:小林亘老中:吉頂寺晃控えの間の侍:緒方燐作奉行所役人:立川雄三奉行所役人:大木史朗その他立花左近:松本幸四郎俵星玄蕃:勝新太郎天野屋利兵衛:中村翫右衛門木屋太兵衛:曾我廼家五郎八夕霧:池内淳子お藤:花柳小菊堀内伝右衛門(細川家):志村喬兼康祐元:曾我廼家明蝶久兵衛:桂小金治お紋:京塚昌子松吉:堺正章祐海:島田正吾戒首座/和尚:小杉勇公弁法親王:東千代之介細井広沢:原保美山田宗徧:岡田英次山田宗徧の娘/千代:十朱幸代おまき:小山明子山口左全:十朱久雄堀内源太左衛門:平田昭彦奈良屋茂左衛門:三島雅夫宝井其角:尾上菊蔵村田喜大夫:安部徹鍵屋市兵衛:田崎潤大友近江守:夏川大二郎魚定:三角八郎米三/畳屋:柳谷寛次郎吉:坂上二郎(コント55号)金三:萩本欽一(コント55号)与助:関敬六お松:玉川スミ和助/浜子頭:堺左千夫吉:小川安三与右衛門:田武謙三佐兵衛:高桐真大庄屋彦左衛門:内田朝雄三浜五郎兵衛:佐伯徹三州屋九太夫:清水元北村嘉助:宮川洋一おとよ:磯野洋子濱田庫之介/同心:江原達怡留吉:人見きよし為五郎:大泉滉丑五郎:小松方正朴兵衛:花沢徳衛おはつ:二木てるみ忠吉:香川秀人お米:清水美佐子おさん:村田芙実子青木又之進:黒木進和泉屋茂兵衛:永田靖お浜:西尾恵美子朝吉:小林勝彦魚定:三角八朗弥市:住吉正博三吉:桂小かん佐藤條右衛門:田中春男堀部九十郎:杉山渥典磯貝の兄/内藤万右衛門:小瀬格源蔵の兄/塩山伊左衛門:溝井哲夫山尾十兵衛(細川家):河村弘二松井源兵衛(細川家):中原成男鵜飼惣右衛門(毛利家):石井宏明講釈師:ケーシー高峰健太:宮城けんじ(Wけんじ)健次:東けんじ(Wけんじ)和泉屋源兵衛:島田洋介お初:今喜多代礼次:正司玲児(正司敏江・玲児)お敏:正司敏江(正司敏江・玲児)ぴゅん助:雷門助六門番:鮎川浩源十:池田忠夫光右衛門:青沼三郎庄右衛門:土方弘お絹:利根はる恵煙管売り:菅沼赫宿の亭主:杉田俊也弥太郎:穂積隆信次郎兵衛:天草四郎棟梁/吉兵衛:浜田寅彦お蝶:水原麻紀中村哲之助:渡辺明百姓:左奈田恒夫百姓:上田忠好五平:里木左甫良万六:矢野目がん源太:中村是好与太郎:石浜祐次郎幇間:桜川ぴん助すえ:伊東ひでみたみ:西山真砂おしん:奈美悦子小太夫:八代万智子お才:赤木春恵平吉:三井弘次善兵衛:木田三千雄万助:向井淳一郎一八:丘寵児比丘尼:小松紀子町村:三島新太郎夕顔:藤本三重子筆安東庵:瀬良明茂左衛門:立岡晃左兵衛:山本郷一平助:大前亘忠助:飯沼慧藤村:岡本隆お花:藤江リカ永井:田中浩足助:永井譲滋吉兵衛:松山照久勘六:中井啓輔理助:森本景武お浜:霧島八千代島崎:沼田曜一お栄:工藤明子半次:牧伸二お琴:岡田可愛谷村長助:稲吉靖お崎:沢田雅美芸者置屋女将:藤里まゆみ梅奴:小畑通子芳兵衛:村上不二夫お菊:吉永倫子野間屋久兵衛:福山象三調べ役:北九州男本間兵衛:南川直三吉:田村保武士:森脇邦浩武士:山波宏市左衛門:中村公三郎お花:和田幾子助五郎:桂淳平牢屋同心:瀬川新蔵次郎作:鈴木慎畑野藤左衛門:刈谷潤お信:深町稜子善作:市川祥之助半太郎:河合憲与次郎:江藤潤容吉:高瀬美樹庄吉:中村上治小女:間島純茂十:池田生二竿竹屋:小高まさる御典医:日恵野晃赤穂の町人:佐田豊隈部:藤木卓砥師:稲川善一番頭:鈴木志郎塩山家女中:本庄和子牛乳運びの老婆:辻伊万里小山屋の主人:高松政雄小山屋の小僧:藤田漸水野家の門番:東洋健児
2022.08.05
日本のプロ野球界ともめて近鉄を対談した野茂英雄投手が、1995年に米国にわたって大活躍したのは衝撃でした。当時はたまにニュースでちらっと見るくらいで深い事情は知りませんでしたので、今回YouTubeとWikipediaで勉強しました。球団、監督との確執に端を発して、日本プロ野球界、マスコミを敵に回して打ち勝ったのはすごいと思いました。現在の日本選手の米国での活躍も野茂投手抜きには語れません。当時イリノイに住んでいた自分は、友人たちと自動車に乗って隣の州で行われた野茂投手が予告先発するセントルイスカージナルス戦に応援に行きました。野茂投手の活躍に自分を奮い立たせたものです。2022.8.22リンク切れの差し替え。2022.12.14リンク切れの削除、差し替え。野茂投手といえば、トミー・ラソーダ監督と、マイク・ピアッツァ捕手が忘れられません。■参考リンクWikipedia:野茂 英雄野茂 英雄(のも ひでお、1968年〈昭和43年〉8月31日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。サンディエゴ・パドレス アドバイザー。概要「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームから繰り出されるフォークなどで三振を量産し、NPBとMLBで活躍した。NPB時代はパリーグ初の沢村栄治賞を受賞(大阪近鉄バファローズが存在した時代に受賞した唯一の近鉄出身投手でもある)、平成初の投手三冠王を達成、パ・リーグ最多タイ記録となる最多勝利を4回獲得している。MLB時代にはノーヒットノーランを2回達成、最多奪三振を2回獲得、新人王受賞といういずれもアジア人史上初の偉業を成し遂げている[1][2]。日米通算最多奪三振(3122)記録保持者。ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。2016年2月からサンディエゴ・パドレスのアドバイザーに就任[3][4][5]。近鉄退団の経緯Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: "野茂英雄" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年11月)球団との確執1994年の契約更改では複数年契約と、団野村を代理人とした代理人交渉制度を希望したが、球団は肩を故障してシーズン後半を棒に振ったことを理由に拒否。この際球団は「君はもう近鉄の顔ではない」と告げたとされている。球団社長はマスコミに「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と述べ、要求はあくまで「年俸吊り上げのための口実」であり、「次の更改ではサインするでしょう」と楽観視していた。これに対し野茂は「お金の問題じゃないんです」と反論したが、この一連の動きに対してはマスコミも近鉄の意見に同調し、次第に孤立していった。更に球団フロントに対しては後に確執が表面化することになる球団OBの投手出身鈴木啓示に対して鈴木が監督になる以前の仰木彬監督の時代から不満をいだいていたと語っている。開幕投手であるにも関わらず、球団関係者に本社の人間が来るので車を動かすよう要求された(藤井寺球場には選手専用駐車場が無かった)[11][12]。観客動員が増えることで収入が増え、優勝したらその分年俸を上げなくてはいけなくなるため、契約更改の席で「(10.19決戦のように)熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われた。4年連続最多勝のシーズンオフに現状維持の年俸を提示された[13]。球団は野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限り、トレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとした。自由契約にならない限り他球団でのプレーは出来ないためであるが、これがメジャーリーグへの挑戦を決意する1つ目の理由となった。代理人団野村は、野茂は当初からメジャー移籍を模索しており、近鉄球団から任意引退を引き出したのは作戦であったと後に明かしている[14]。監督との確執もう1つの理由は、仰木の後任である鈴木啓示との確執だった[15]。野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げていた。当時の監督仰木彬はこれを快諾し[16][17]調整方法も本人に任せたため、野茂は仰木を信頼して尊敬するようになった。これに関してはメジャー在籍時の晩年に「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。更に1993年に監督に就任した鈴木は、自身が主に先発で317勝という実績を挙げた投手出身ということもあってか、フォームや調整法など様々な事に関して干渉した。また選手指導としても厳しい姿勢を見せつけていた。例として野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木はオープン戦から結果を要求していた。立花龍司とのマンツーマン指導で遠投など自己流でスタミナを作っていたが、鈴木はひたすら走りこむことを要求し「では一体何周走ればいいんですか?」と問うと鈴木は「何周とかと違う。野球選手はひたすら走るもんなんや」と持論を押し通した。近鉄投手陣は立花に信頼を寄せていたが、立花が鈴木の冷遇によって1993年に近鉄を退団したため、投手陣の反発を買うこととなった。監督就任直後、鈴木は道上洋三のラジオ番組への出演時に野茂について「三振は取るが四球が多すぎる。(投球)フォームを改造しなければ」「いまのフォームではいずれ通用しなくなる。その時に私に頭を下げてこられるかどうかだ」と野茂の制球力の悪さに不満を持ち、完全に野茂のフォームを否定していた。こうした指導法が元で鈴木と対立するようになり、近鉄退団を決意する2つ目の理由になった。当時野茂とチームメイトだった金村義明は著書「勝てる監督 負けるボス」で、野茂の「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」という発言を紹介している。これらの要因が重なった結果、野茂は球団フロントの制止を振り切り近鉄を退団しメジャーリーグに挑戦することとなった。自由契約ではなく任意引退扱いなので日本プロ野球界に帰った場合、近鉄に保有権があることになった。当時の野球協約68条第2項には「全保留選手は、他の球団と選手契約に関する交渉を行い、または他の球団の為に試合或るいは合同練習等、全ての野球活動をする事は禁止される」 となっていたが、任意引退前にコミッショナー事務局から任意引退による球団の保有権が外国の球団にまで及ばないことの言質を得ていたため、メジャー球団と契約することが可能になった(その後、任意引退による日本人選手の流出に危機感を感じたNPB側が1999年に協約を改正し「外国のいかなるプロフェッショナル野球組織の球団をも含め」という条文を追加したため、現在では日本のみならずメジャー球団を含め、任意引退した選手は世界各国のプロ野球球団と契約することが出来なくなった)。なお、近鉄は2004年にオリックスと合併したため、保有権はオリックスに移行したと解釈されている。村上雅則による批判1995年3月、村上雅則は週刊ベースボール誌で野茂を批判した[18][要追加記述]。
2022.07.31
家政夫のミタゾノの第1シリーズを観ました。最初は、女装した家政夫なんて非現実的で雇い主があるんだろうかとか、家政婦はみたとか、家政婦のミタの3番煎じではとか、否定的でした。しかし観始めるとレギュラーもゲストも役者ぞろいで、脚本もよく、観るのが楽しみになりました。一番良かったのは松岡昌宏さんのパートナーの清水富美加さんです。何気ないしぐさや、ちょこまかした動きが愛嬌がありとてもかわいらしかったです。第2シリーズになり降板されたのは残念でした。同僚の家政婦さんも第2シリーズになり若い人に交代しましたが、生活感のある中年女性のほうが良かったと思いました。ぽすれんのDVDで観始めましたが、途中で新シリーズが始まり、借りにくくなったのでオンライン動画のTELASAで観終えました。スクリーンショットができないのにびっくり。暮らしの知恵も取得できて、おすすめの作品です。■参考リンクWikipedia:家政夫のミタゾノ『家政夫のミタゾノ』(かせいふのミタゾノ)は、テレビ朝日系で2016年から放送されている日本のテレビドラマシリーズ。放送開始当初から一話完結の構成となっている。主演はTOKIOの松岡昌宏[1]。概要TOKIOの松岡昌宏が女装した大柄な家政夫・三田園薫(青々としたひげの剃り跡で口紅である)に扮し、派遣先の内情を覗き、秘密を暴いて家庭を崩壊させ、そして再生へと導いていく、痛快"覗き見"ヒューマンドラマである。本作品は『家政婦は見た!』『家政婦のミタ』を下敷きに新しい家政婦ドラマとして制作されており、劇中には他作品のオマージュや時事ネタ、本人および所属事務所に関するネタを数多く含むなど、コメディ要素を盛り込んだ奇想天外な作品となっている。オープニングアニメーションも映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のパロディである。ドラマ本編には毎回生活に役立つ家事テクニックも挿入される。三田園のパートナーとなる若手の家政婦は第1シリーズが清水富美加、第2シリーズが剛力彩芽、第3シリーズが川栄李奈、第4シリーズは飯豊まりえ、第5シリーズは山本舞香とシリーズごとに交代している。なお、第3シリーズからは新たにHey! Say! JUMPの伊野尾慧も加わり、続く第4・5シリーズにも登場し、ミタゾノの相棒としては唯一の続投を果たしている。2022.9.19リンク切れにより差し替え
2022.07.29
プロジェクトXでいつもニコニコして番組を盛り上げていらした久保純子さんが、ニューヨークで幼稚園の先生に転身のニュースを見てびっくり。てっきりフリーのアナウンサーになったとばかり思っていました。いつまでも若々しく、興味を持ったことに挑戦する姿勢がその秘訣かもしれません。■参考リンクWikipedia:久保純子久保 純子(くぼ じゅんこ、1972年1月24日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者。元NHKアナウンサー。本名、清重 純子(きよしげ じゅんこ)旧姓、久保。愛称は「クボジュン・ジュンジュン」。来歴・人物両親ともにアナウンサー経験者である(後述)。小学校4年間をイギリス、高校時代をアメリカで過ごした。東京都立調布北高等学校入学後、ウィスコンシンの高校を経てニューヨークパイオニア・セントラル高校→上智大学比較文化学部比較文化学科を経て、慶應義塾大学文学部英米文学科卒業。1994年にNHK入局[1](最初の勤務地は大阪放送局)。2年後の1996年に東京アナウンス室へ異動となる。NHKでは珍しく「アイドルアナウンサー」と称され、受信料制度周知キャンペーンなどに起用された。1999年に一度だけ、NHKの現役の局員としては異例の民放番組出演を果たしている(後述)。2000年に結婚。2002年に長女を出産後、NHKに契約職員(専属契約。事実上嘱託)として復帰。2004年3月31日の契約満了を以って、フリーランスとなる。2008年には次女を出産。2011年夏から夫の米国転勤に家族で同伴するため、当時のレギュラー番組をすべて降板。帰国後の2013年秋から活動再開。2022年2月からニューヨークで幼稚園の先生として勤務していることを明らかにしている[2]。7/12サンスポ:元NHKアナ久保純子、ニューヨークで幼稚園の先生に転身していた
2022.07.23
今回のプロジェクトXは、戦後食糧難の時代に、米国で普及していた冷凍食品の技術を日本に導入し、普及させたニチレイのお話です。名前からして単なる冷凍倉庫の会社とばかり思っていましたが、冷凍食品分野で国内トップ企業と知りびっくり。そういえば、築地に印象的なロゴの大きな本社ビルがあるのを思い出しました。冷凍食品市場/2017年度1兆4342億円に、ホテル向け需要拡大2018年09月05日 / 商品:流通ニュース冷凍食品には悪いイメージしか持たなかった日本人の意識を変える製品開発や、ユニークな販売手法の工夫が面白かったです。これらがきっかけになって日本の冷蔵庫が、木の箱に氷を入れた物から電気冷蔵庫や、冷凍室付きの電気冷蔵庫に進化していったのかと思うと、大きな功績だと思います。最近よく冷凍のスパゲッティや焼きそばを食べますが、安く味も生とそれほど変わらずおいしいです。今後のさらなる進化が楽しみです。■参考リンクNHKプロジェクトX:瞬間凍結 時間よ止まれ商品紹介現在、3000種類にも及ぶ日本の冷凍食品。登場したのは終戦直後。しかし、当時はまったく受け入れられなかった。新製品の開発、奇想天外の営業作戦で食卓を変えた人々の物語。Wikipedia:ニチレイ株式会社ニチレイ(英: NICHIREI CORPORATION)は、ニチレイグループを統括する持株会社である。主に4つの事業会社が(1)加工食品事業、(2)水産・畜産事業、(3)低温物流事業、(4)医薬品・機能性素材事業などを行っている。日本で初めて冷凍食品を作った企業であり、冷凍食品事業および低温物流事業において国内最大手である。日経平均株価の構成銘柄の一つ[2]。沿革1942年12月24日 - 帝国水産統制株式会社設立。1945年12月1日 - 日本冷蔵株式会社に商号変更。1985年2月1日 - 株式会社ニチレイに商号変更。
2022.07.22
前にも書きましたが、自分とバイクとの関りは、友人に影響されて40代半ばではじめて50ccを購入し、家の近所を4kmほど走ったところで、交差点を押していた時、間違ってアクセルをひねったところ、突然私を置いて走り出し、ガードレールにぶつかり、私は前方に転んでGパンが破けて膝をすりむいて、以後怖くなってバイク屋さんに売り戻し、それ以来かかわっていません。そんなバイク音痴の私でも楽しめるのが、今回のプロジェクトXです。町工場のおやじさんが、進駐軍兵のバイクを改造したのをきっかけに技術をゴッドハンドとたたえられ頭角を現し、大手メーカーホンダからその技術を脅威とみなされ、部品供給を止められたり、米パートナーの裏切り、火災による後遺症等の困難を家族や親密メーカー等の協力を得て克服して、鈴鹿8時間耐久レースに出場するまでを描いています。YouTubeにもヨシムラの動画はいくつもあるなど、この世界では伝説の方みたいです。プロジェクトXの中でも10本の指に入るエキサイティングな作品です。■参考リンクNHKプロジェクトX:不屈の町工場・走れ 魂のバイク(ヨシムラジャパン)日本のバイクレース史の中で、伝説として語られる男、吉村秀雄。第1回鈴鹿8時間耐久ロードレースに、吉村は、家族と従業員わずか8人のスタッフを率いて出場した。挑んだ相手は、当時最速といわれたマシンRCBを擁する大企業ホンダ。そんなホンダを相手に、なぜ吉村は無謀な戦いを挑んだのか…。【収録内容】吉村秀雄の前半生は波乱の連続だった。19歳で航空機関士に合格するも、その技術を活かす間もなくすぐに終戦。実家は鉄工所を営むが、居場所がない吉村は花札博打にのめり込む。そんなとき、オートバイに出会い、レース用のチューニングを手がけるようになった吉村は、才能を開花させた。「ヨシムラモータース」がチューニングしたマシンは草レースで連戦連勝。吉村は「ゴットハンド」として名を馳せ、やがて東京進出を果たす。しかし、苦難は再び訪れる。部品の提供を受けていたホンダから、突然の供給停止。レースに資金をつぎ込んだための経営難。アメリカ進出に乗り出すも詐欺にあい挫折。ついには火事で、職人の命、両手に大やけどを負ってしまう。そんなどん底の吉村を支えたのは、家族と、吉村を「親父」と呼んで家族同然に慕う弟子たちだった。「鈴鹿8耐」は、吉村とその家族が、再生をかけて挑んだ“戦争”だったのだ。(2004年4月13日放送)Wikipedia:ヨシムラジャパン概要同社の製作するエキゾーストシステム社名は創立者である"ポップ吉村"こと吉村秀雄の姓から名付けられている。「ポップ」(Pop)とは「オヤジ」の意で、戦後間もない頃英語が喋れる秀雄はバイクのチューニングを依頼してくる若いアメリカ兵から父のように慕われていたためこの愛称で呼ばれるようになったといわれる。秀雄は生前「4ストロークのチューナーだけが成功する」という持論を展開していた[注釈 1]ため、ヨシムラが製造販売するパーツは、基本的に4ストローク用のみとなっている。現在の代表取締役社長は秀雄の長男の吉村不二雄。2007年からは秀雄の娘婿の加藤昇平の息子である加藤陽平(秀雄の孫。同姓同名の俳優とは別人)がレースチームの監督に就任している。また秀雄の長女の南海子はモリワキエンジニアリング創設者で、過去ヨシムラのレーサー・メカニックとして活躍した森脇護の妻である。特に日本のバイク黎明期に大きな存在感を示し、第一回鈴鹿8時間耐久レース(8耐)にて、当時わずか数名の町工場チームであったヨシムラが大企業ホンダを打ち破るストーリーは、NHKの『プロジェクトX』でも取り上げられるほどの語り草となっている[1]。その原動力となったのは「集合管マフラー」で、マフラーの本数が多いほど良いとされてきた当時は画期的な発明であった。日本以上に北米での知名度が高く、不二雄は「アメリカ人でバイク乗ってる人で"ヨシムラ"というカタカナの読めない人はいない」と豪語している[2]。
2022.07.19
ひるの歌謡曲は大学生のころ、良く聴いたNHKのFMラジオ音楽番組です。好きな歌手の特集をラジカセをセットしておき、録音しました。今は死語になってると思いますが当時はエアチェックと読んでました。レコードを買わないで、きれいな音で録音出来て重宝してました。今でも押入れの奥に何十本もカセットテープがしまってあります。私が聴いていたころは斎藤光太郎アナウンサーで落ち着いて親しみやすい話し方が好きでした。懐かしいオープニングテーマ曲とともに忘れられない番組です。■参考リンクWikipedia:ひるの歌謡曲『ひるの歌謡曲』(ひるのかようきょく)は、NHK-FM放送で1974年4月1日[1]から2006年3月31日[2]まで平日(祝日含む)12:15 - 13:00に放送していた音楽番組である。NHKワールド・ラジオ日本でも週1回放送。概要FMステレオ放送が日本全国[注釈 1]で聴ける体制になったため、NHKによる同放送のステレオ番組を増やす方針に伴い生まれた番組のひとつである。『ひる休みの音楽』(1963年4月 - )→『ひるのミュージック・コーナー』(1971年4月 - )の流れを受けて、1974年4月から放送された。一時、1990年から1997年3月28日までは後枠の『歌謡スクランブル』と一体化して『ひるのワイド歌謡曲』と名乗っていた時期があった。番組テーマ曲は、番組開始当初からまったく同じものが使われ、番組が終了したあともそのまま『歌謡スクランブル』に引き継がれている。番組開始当初からは、ジャズや歌謡番組などで活躍しているビッグバンドによる演奏だったが、その後は時代の流れに伴い、シンセサイザーによる演奏で、ポップ調のアレンジに変更されている。斎藤光太郎(元NHKアナウンサー)が永らく進行役を務め、幾度かNHKアナウンサーが歴任したが、2004年度(2005年3月)までは、ほぼ1週おきのローテーションで中江陽三(元NHKアナウンサー)と梶幹雄(元ニッポン放送アナウンサー)の2名がパーソナリティを務めた。番組進行は、オープニング(テーマ曲がバックに流れる)の後で、その日にとりあげる歌手の簡単なプロフィールを紹介し、曲名紹介のあとで曲がかかる[注釈 2]。選曲はだいたい1週間ごとに特集[注釈 3]を組み、曜日毎に番組を構成していた[注釈 4]。時折、歌手本人のトークを交えて曲をかけるときもあった。現役でない歌手[注釈 5]の最後の曲は、新曲を歌うことが多い。また、金曜日は番組独自の公開録音の模様を放送する週もあった[注釈 6]。末期(2005年度)は、パーソナリティを若手・中堅演歌歌手が週替わりで担当する放送に変更された。これは、それまで(ラジオ第1放送)で12:30から放送されていた『ひるの散歩道』が2005年度は13:05スタートに変更されたことを配慮に入れたものと考えられる[独自研究?]。基本的に毎週月曜日から木曜日は、従来に同じく毎日ある演歌歌手(または演歌グループ)を1人(組)ずつ紹介し、その演歌歌手の楽曲を特集して放送。金曜日についてはその週のパーソナリティ(演歌歌手)が自分の個性や好みに応じた楽曲をセレクトする「(出演者名)のマイ・セレクション」のコーナーを放送している。また不定期だが金曜日に各地で行われる公開録音から放送することもある[注釈 7]。その場合「マイ・セレクション」は木曜日に繰り上がる。2006年4月から『ひるのいこい』と『ひるの散歩道』がラジオ第1放送とのサイマル放送となる煽りを受けて、2006年3月31日をもって放送終了となり、1974年4月から放送されていたこの番組は32年の歴史に幕を降ろした。
2022.07.15
今やソニーの売り上げ・利益のそれぞれ10.8%、12.9%を占めるイメージング&センシング・ソリューション事業のもととなったCCD開発のお話です。ソニーが 岩間和夫氏の強力なリーダーシップのもと、度重なる困難を乗り越え、CCD開発を成功させていった経緯がよくわかります。高度なデジタル技術の結晶と思っていたCCDも、生産工程で不良品を少なくするための女子社員たちの工夫がアナログだけどユニークでした。先日JALの機内でまさに見た車輪に取り付けたCCDカメラによる、離陸時の映像や空からの景色、夜景も、もともとは岩間さんがCCD開発の停滞を打破するために、実用化がまださtれていないのになにか簡単な製品をまず作ってみようと、航空会社から注文を取ってきたと知り、びっくり。63歳の若さで亡くなられたのが残念です。/>■参考リンクNHKプロジェクトX:革命ビデオカメラ 至難の小型化総力戦【収録内容】結婚式や我が子の誕生……かけがえのない一瞬は、かつて写真でしか記録できなかった。そこに革命が起きた。ホームビデオカメラの誕生である。鍵は、わずか1センチ四方の薄い板で映像をとらえる「CCD」という部品の開発。挑んだのは、ソニーで日陰の技術者たちだった。だが、開発は、1000分の1ミリを争う極小世界の加工。次々に大きな壁が立ちはだかる。そのとき、立ち上がったのは生産現場の女性たちだった。Wikipedia:岩間和夫岩間 和夫(いわま かずお、1919年2月7日 - 1982年8月24日)は日本の技術者、経営者、実業家である。第4代ソニー社長。トランジスタに着目し、日本における半導体産業の基盤を創った男ともいわれた。愛知県名古屋市出身。来歴・人物「井深が見つけ、岩間が作り、盛田が売った」と語られ、ソニー第三の創業者と評されることも多い。妻は盛田久左衛門の長女・菊子(盛田昭夫の妹)で、義兄に盛田元社長の盛田和昭、義弟にソニー生命保険元会長の盛田正明がいる(正明は高嶋ちさ子の義父)。東京帝国大学(現・東京大学)理学部地球物理学科卒。東京通信工業(現・ソニー)入社前は東京帝国大学地震研究所(現・東京大学地震研究所)に所属していた。戦時中はレーダー撹乱作戦に従事し日本軍のキスカ島撤退作戦に貢献した。特筆すべきこと製品トランジスタ1948年にトランジスタが世に発表されたが、歩留まりや温度特性の悪さなどからラジオへの使用は当時現実的ではないとされていた。しかし、東通工はトランジスタラジオの開発を決定し、そのトランジスタに関する研究が必要となった。そこで、1954年に当時東通工の取締役であった岩間は米国のウエスタン・エレクトリック(WE)へ赴いた。そして、工場を見学し、そこで得たトランジスタに関する製造技術をまとめた「岩間レポート」を作成し、それを東京の東通工へ日々送り続けた。このレポートを参考として、東通工で世界初となるトランジスタラジオの試作品が実現された。CCDイメージセンサ1969年にアメリカのベル研究所によりCCD(Charge Coupled Device)が発表された。このCCDに対し、ソニー中央研究所研究員であった越智成之は興味を持ち、様々な機器を試作していた。その時、当時副社長兼ソニー中央研究所所長であった岩間はこのCCDの将来性を感じ取り、本格的な開発を指揮した。その際、岩間は「CCDを使って5年以内に、5万円のビデオカメラをつくるんだ。競争相手は電機メーカーではない。フィルムメーカーのイーストマン・コダック社だよ。」と述べたといわれる[1]。そして、ソニーは1970年からCCDカメラの研究開発を開始し、その8年後の1978年についにそのCCDカメラの開発に成功した。岩間の功績により、没後の岩間の墓石にはCCDチップが埋め込まれている。GIZMODO:岩間氏も墓石の影で笑顔? ソニー年末年始フル稼働でもセンサー生産が追い付かない2020.01.09 10:008,445author satomiスマホの3眼化で年末年始も無休。センサーの追い風でSONY(ソニー)がうれしい悲鳴!半導体子会社社長の清水照士常務がブルームバーグの取材に答えて、2019年を「ToF元年」と総括し、「これだけ投資してキャパを作っても、まだ足らないかもしれない」「(5Gスマホを中心に) 作り切れないくらい需要があり、顧客に謝りながらやっている」とうれしい悲鳴をあげていますよ。 来春には大阪研究拠点、長崎新工場の開設も予定されているのに、それでも追い付かないってすご過ぎますよね。「いつ日の目を見るともわからないものに200億円もかけて」と社内で叩かれ続けた日陰のセンサーが、まさか家電、ゲームの不振を支える第2の主力になるとは…40年前には誰が予想したでしょう。ソニーグループ株式会社2021年度セグメント別業績ソニーグループ(株)株価Wikipedia:CCDイメージセンサCCDイメージセンサ (シーシーディーイメージセンサ、英: CCD image sensor)は固体撮像素子のひとつで、ビデオカメラ、デジタルカメラ、光検出器などに広く使用されている半導体素子である。単にCCDと呼ばれることも多い[1][2][3][4]が、「CCD」という頭字語自体には、CMOSイメージセンサの「CMOS」の部分と同様に、「イメージセンサ」という意味は全く含まれておらず、実際にイメージセンサ以外へのCCD(電荷結合素子)の応用は複数存在する。概要歴史CCD通常の半導体集積回路では、一般に、その上に作り込まれたそれぞれの素子の間は金属層のパターンによる配線によって、電気的に接続され信号がやりとりされる。これに対し、隣り合った素子の間の電荷的な結合を利用して、次々と電荷の状態が送り出されることにより信号がやりとりされる素子がCharge-Coupled Device(CCD・電荷結合素子)である。歴史CCDは、1969年、アメリカ電信電話[5]ベル研究所にいたウィラード・ボイルとジョージ・E・スミスによって、磁気バブルメモリの動作原理から着想し、半導体に応用することによって発明された[6]。フェアチャイルドセミコンダクター、RCA、テキサス・インスツルメンツを含むさまざまな会社がその発明を採用し、プログラム開発を始めた。フェアチャイルドが、商用デバイスに利用した最初の会社となった。1974年までに、500セルの一次元素子との100x100セルの二次元デバイスを発売した。岩間和夫によるリーダーシップのもと、ソニーは、注目すべき額の投資を含むCCDへの大きな開発努力を始めた。結局、ソニーは自社のカムコーダー用にCCDを大量生産することが可能になった[7]。
2022.07.05
通天閣とその周辺の商店街、飲食街は、以前新垣結衣さんのポッキーのCMで観て活気があり楽しそうでした。今回のプロジェクトXは第二次大戦時に火災で焼失した通天閣を、市役所担当者のアドバイスや、名古屋塔を手掛けた塔建築のエキスパートの力を借りながら、民間の力だけで復活させた商店主たちのお話です。いろいろ知恵を絞ってよく完成させたものだと驚かされます。周辺は新世界という繁華街、天王寺動物園、四天王寺、大阪公立大学医学部付属病院、飛田新地と様々な施設に囲まれて、カオスな感じもしますが、エネルギッシュな大阪を体験しにいつか訪れてすっぽん鍋を食べてみたいです。それから通天閣のネオンサインがなぜ関東の「日立」なのか、ずっと不思議でしたが、今回そのなぞを調べて分かりすっきりしました。■参考リンクNHKスクエア:新価格版 プロジェクトX 挑戦者たち 通天閣 熱き7人~商店主と塔博士の挑戦~【収録内容】大阪のシンボル「通天閣」。戦時中に一度焼失したこの塔を、1956(昭和31)年に再建したのは、行政でも企業でもなく、古着屋、写真屋など、地元・新世界の7人の商店主たちだった。1912(明治45)年に「東洋一のタワー」として建設された通天閣の再建は、新世界の復興をかけた人々の願いだった。焼け跡から立ち上がった庶民が、行政、専門家を巻き込み、後に大阪のシンボルとなる一本の塔を建てるまでの、意地と執念のドラマを描く。Wikipedia:通天閣通天閣(つうてんかく)は、大阪府大阪市浪速区の新世界中心部に建つ展望塔である。登録有形文化財である[1]。公式キャラクターは「ビリケン」。大阪の観光名所ならびにシンボルタワーとして知られる。初代通天閣1903年の第5回内国勧業博覧会誘致において、東京との激しい招致合戦に勝利、パリに飛びパリ万国博の仕組みを詳細に調査して成功に導いた、当時の大阪商業会議所会頭・土居通夫が理想的娯楽園を作るために[2]、この博覧会の跡地に新世界ルナパーク、パリのエッフェル塔を真似た通天閣の建設を構想する。他者の構想をインパクトがないとして次々と没にした土居は周囲の猛反対を押し切って、パリの凱旋門にエッフェル塔の上半分を乗せたような初代通天閣を提案、1912年7月3日にルナパークと共に建設された[2][3]。設計は設楽貞雄。建設費用は約9万7000円で、当初の入場料は10銭。高さは300尺(91メートル)と宣伝されたが、実際は250尺、約75メートルであった[4]。 初代通天閣は昭和18年(1943年)1月に火災で大破した後、戦時下での鉄材供出のために解体・撤去された[5]。再建への経緯1943年1月に初代通天閣が間近にあった映画館からの延焼火災で焼け落ちた[13]。同年2月20日から鉄骨の切断、解体工事が行われ、解体された金属資材は「米英撃滅」に往った[14]。1953年頃、地元新世界の有志らにより再建話が持ち上がり、「通天閣再建委員会」へと発展した[13]。当初は笑い話として地元では相手にもされなかったが、再建話は徐々に現実味を帯びてゆく[13]。だが初代通天閣の有った場所には既に民家が建ち並んでおり、ほど近い公園に再建することとなった[* 3][13]。設計の内藤が紹介した竹中工務店とは予算面で折り合いがつかず、2億7000万円で奥村組が施行することとなった(その後の追加工事で、最終的に建築費総額は3億4000万円となった)[9]。1955年8月17日に起工された建築工事については死者などは出なかったが[15]、事務所スペースの確保をすっかり忘れており、工事の途中に慌てて中2階を付け足すといったトラブルがあった[15]。構造材の鉄骨は溶融亜鉛めっきされた品質の高い物で、1996年の改修工事時に確認したところ、びくともしていなかったという[16]。運営会社については資金調達に難儀し、資本金として3500万円を予定したところ2500万円足らずしか集められず[9]、再建に携わった人員の一部が個人的に高利貸しから資金を調達し、それに充てることとなった[9]。さらに登記の2 - 3日前に他の人物が「通天閣株式会社」を登記しており、やむなく「通天閣観光株式会社」として発足した[9]。ネオン広告再建翌年の1957年から、総合電機企業の日立製作所が、塔の側面に文字広告を掲出[* 4][* 5]。当初は、松下電器産業(現:パナソニック)に広告の掲出を打診したが、当時社長だった松下幸之助の判断で掲出を見送った。幸之助は配線工として初代通天閣の工事に携わっていた(詳細後述)が、日立のネオンが「地元の名物」として広く認知された後年に、広告の掲出を見送ったことを悔いたという[17]。日立と通天閣の歴史抜粋1957年7月22日、二代目通天閣にネオンサインがともったその日、15年ぶりの点灯に大阪の街は感動に包まれたといいます。明治時代の最後の年に誕生した初代通天閣が、戦時中にやむをえず解体されて以来、通天閣の再建は、通天閣の周りに広がる繁華街である新世界の人々の悲願でした。戦後、世の中の復興とともにその熱意が実り、二代目通天閣の建設がスタートしましたが、資金繰りは簡単ではありませんでした。多額の建設費用を賄うために考えられた案が「広告収入」。ところが、その条件が厳しいものであったのか、なかなか話はまとまりませんでした。建設後も広告スポンサー探しは続き、広告代理店から東京の取引先であった日立に声がかかりました。おりしも、日立は通天閣が再建された1956年に白黒テレビ第1号機を発売し、家電事業に本格参入した時期でした。競合がひしめく関西エリアで日立の名を広めたいという強い志と、通天閣を再建したいという地元の想いが合致して、日立が通天閣にネオンサインを出すに至ったのです。日立は約5年ごとにネオンサインのリニューアルを行いその都度、時代に即したメッセージや文言等を掲げています。また、東西南北4面の看板がありますが、西面は通天閣と契約当初からの約束で日立の広告ではなく公共面と位置づけて、社会貢献や地域の活性化を目的とした標語や文言などを掲載し続けています好きなCM 新垣結衣さん グリコポッキー、 中川家礼二さんと、もう一つWikipedia:新世界 (大阪)新世界(しんせかい)は、大阪府大阪市浪速区恵美須東に位置する繁華街。中央やや北寄りに通天閣が建ち、南東部にジャンジャン横丁がある。現在ジャンジャン横丁戦前から庶民的な繁華街として親しまれてきた新世界だが、大手私鉄のターミナル駅に恵まれなかったことや観光の多様化などに伴い、前述の通り、1970年代以降は長期にわたって低迷が続いていた。しかし、1990年代辺りから「昭和の名残」を感じさせるレトロな街の雰囲気が戦後を知らない世代などに再評価され、新たな観光地として変貌を遂げつつある。あいりん地区や飛田新地に近いロケーションながら、街全体を覆う独特の雰囲気に惹きつけられる人も徐々に増え、小説や漫画の舞台となったり、テレビや雑誌で街を好意的に紹介される機会も多くなっていった。
2022.06.30
ドーバー海峡間の全長50kmの英仏海峡トンネルは90年代、そういう話が持ち上がってるなと思っていたらあっという間に3年半ででき上って、当時びっくりしたものです。青函トンネルの17年に比べて大きな短縮です。それに一役買ったのが日本の川崎重工のシールド工法と今回プロジェクトXで知りました。契約後に工期の短縮を求めたフランス側の態度に違和感を覚えましたが、それを受け入れ、難局を乗り越え、期限よりもはるか前に完成させた日本の土木技術の底力を感じさせる作品だと思いました。このトンネルのおかげで現在ロンドン-パリ間は2時間ちょっとで結ばれているそうです。東京名古屋間くらいでしょうか。意外に近いのにびっくり。参考リンクに貼っておいた『知られざる建設技術の世界「第04回 トンネル・地底を支える』のNo.1が面白かったです。これだけの技術力があれば、全長90kmくらいの日韓海底トンネルはサクッと掘れそうですが、わざわざトンネルを掘ってまでお近づきになりたくないやっかいな隣人という政治的なカベがあるので、まだずっと先の話になりそうです。■参考リンク知られざる建設技術の世界「第04回 トンネル・地底を支える」(01 of 02)知られざる建設技術の世界「第04回 トンネル・地底を支える」(02 of 02)NHKスクエア:新価格版 プロジェクトX 挑戦者たち 巨大モグラ ドーバーを掘れ~地下一筋・男たちは国境を越えた~2000年~2005年にNHK総合で放送された「プロジェクトX 挑戦者たち」。熱い情熱を抱き、使命感に燃えて、様々な困難を乗り越え"夢"を実現させてきた「無名の日本人」たちの姿は、全国で感動を呼び、社会現象にもなった。直面する障害を乗り越え、さまざまな「プロジェクト」を完遂してきた"先達"たちの物語がよみがえる。【収録内容】1991(平成3)年春、イギリスとフランスをつなぐ海底トンネル「ドーバー海峡鉄道トンネル」が貫通した。ヨーロッパを陸続きにする壮大な夢を実現させたのは、「鉄のモグラ」といわれる巨大なトンネル掘削機だった。軟弱な地盤と無数の断層、高い水圧の中、16kmをわずか3年で掘り抜くという前代未聞の計画に挑んだのは、川崎重工の技術者たちだった。ヨーロッパの夢をかけた世紀の大工事を成し遂げた日本人技術者の意地と執念のドラマを紹介する。Wikipedia:英仏海峡トンネル英仏海峡トンネル(えいふつかいきょうトンネル、英: Channel Tunnel, 仏: Tunnel sous la Manche)は、グレートブリテン島(イギリス)とヨーロッパ大陸(フランス)間のドーバー海峡(英仏海峡)の両岸を結ぶ、鉄道用海底トンネルである。他にドーバー海峡トンネルまたはユーロトンネルと呼ばれる場合もある。ゲットリンクが保有・管理している。データ全長:50.49km海底部長:37.9km水深(最大):60m軌間(レール幅):標準軌(1,435mm)構造:2本の本トンネルとサービストンネル掘削方法:TBM工法及びシールド工法建設費用:約1兆8,000億円建設英仏海峡トンネル イギリスのフォークストン側の出口遠景(写真中央からやや左が実際の出口)英仏海峡トンネルはおもにTBM工法で作られたが、シールド工法も可能なTBMが使われ、地盤が弱い区間などでシールド工法が用いられた。計11機(イギリス製6機、日本製4機、アメリカ製1機)のTBMが発注され、イギリス側から6機、フランス側から5機で掘り進められた。日本製のうち2機は川崎重工業製である。フランス側からの掘削に参加した川崎重工業がかなりの難工事をこなしたことで、『プロジェクトX』にも取り上げられている(放送は2001年9月25日)。ほか、en:George Wimpeyやベクテルが施工に参加している。通常、トンネルの両端から掘り進むTBMはトンネル中央部まで来ると、自身をトンネル構造物の一部にしたり、左右に掘り進んでトンネル経路を外れそのまま埋めて投棄したりする。TBMが各建設事業ごとのオーダーメイドで他の工事では使えないこと、地上まで運び出すよりは埋めてしまったほうが安上がりなことなどから、このような方法がとられる。イギリス側のTBMは掘削完了後、トンネル経路より下方向に潜り込ませ投棄されたが、フランス側のロビンス/コマツ、ロビンス/川崎重工業のTBMはイギリスまで進み、地上に記念展示されたのち分解された。運用イギリスのフォークストン(Folkestone)とフランスのカレー(Calais)を結ぶ。運営はゲットリンク。トンネル内を通過する列車は、ユーロスター、車運搬用シャトル列車(Eurotunnel Shuttle)、貨物列車である。列車の最高速度ユーロスターの営業最高速度は300km/hだが、英仏海峡トンネル区間では160km/hに制限されている。陸上部で最高速度140km/hのユーロトンネルシャトルおよび貨物列車とのすれ違いがあるためだが、青函トンネルと異なり単線並列でのすれ違いによる影響を考慮する必要のないトンネル区間も同様に制限されている[2]。線路使用料トンネルを通過する列車を運行する会社は、ゲットリンクに対して線路使用料を支払う。線路使用料の額は、2008年以降は貨物列車1本あたりの平均で3,000ポンドまたは4,500ユーロである。これは2006年のユーロトンネルグループ(2007年6月27日以前の企業名)経営破綻とその後の再建計画の中で、使用料を減額して通過量の増大を図ったもので、2007年までは1列車平均5,300ポンドまたは8,000ユーロであった。また積み荷の種類やトン数による複雑な課金体系だったものを、列車のスピードと時間帯による単純な課金体系に改めている[3]。歴史1751年 : アミアンアカデミーが新しい海峡横断交通のアイデアを募集する。1752年 : 鉱山技師アルベール・マチュー(Albert Mathieu)が海峡トンネル案をアミアンアカデミーに送る。1802年 : アルベール・マチューがナポレオン1世に海峡トンネルを提案。1833年 : トム・デュ・ガモン(Thome du Gamond)が最初の地質調査を行う。1855年 : パリ万博に海峡トンネルの模型が展示される。1868年 : 英国海峡トンネル委員(British Channel Tunnel Committee)発足。1869年 : 英国海峡トンネル委員会が試掘トンネルの掘削を決定。1872年 : 海峡トンネル会社(Channel Tunnel Company)設立。1881年 : 海峡トンネル会社がイギリス側からトンネル掘削開始。1883年 : 建設中止。1956年 : 海峡トンネル研究会(Channel Tunnel Study Group)発足。1969年 : 「海底トンネル委員会」発足。1978年 : 掘削開始、その後中止。1986年2月 : 英仏両政府による事業認可。5月 : 工事着工。1990年12月1日 : トンネル貫通。1994年5月6日 : 開通式[1]。11月14日 : ユーロスター開業[4]。1996年11月18日 : 貨物シャトル列車上のトラックより出火し、トンネル内火災。1997年5月15日 : 全面復旧[5]。2006年8月2日 : 総額91億ユーロ(約1兆5,000億円)の債務により、運営会社ユーロトンネルグループ破綻。2007年1月30日 : サンガット難民収容所問題に関して、常設仲裁裁判所から勝訴判決を得るものの、賠償額の算定は後日に回される。5月25日 : 91億ユーロの債務から41億ユーロ(約6,900億円)までの減額と、新会社グループ・ユーロトンネルへの株式交換が、株主により認められる。2008年9月11日 : 貨物シャトル列車上のトラックから火災が発生し、一時閉鎖された。2009年12月18日: ヨーロッパを襲った寒気の影響でトンネルの電気系統が故障し、ユーロスター合計5本がトンネル内で立ち往生するトラブルが発生。2012年7月 : フランスからイギリスに向かう南トンネル内で、フランス側の事業者による2Gおよび3G通信サービスが開始。南トンネル内での携帯電話の使用が可能になった。2014年5月 : 北トンネル内で、イギリス側の事業者による2Gおよび3G通信サービスが開始。ほぼ全線で携帯電話の通話が可能になる。2017年11月20日: トンネル保有・管理会社がグループ・ユーロトンネルからゲットリンクに改称。
2022.06.24
以前ご紹介した宮藤官九郎さんの「離婚しようよ」ですが、3月にキャストがすでに発表されていました。仲里依紗さんは純喫茶磯辺が印象に残っています。好きな役者さんもいて楽しみです。また宮藤さんのWikipediaを観ていたら、11月に浅草寺の裏で行う中村 勘九郎さん、中村 七之助さん演じる歌舞伎の脚本を書かれているそうです。落語の唐茄子屋政談がもとのように思います。行けるかどうかまだわかりませんが、気になる作品です。TBS:離婚しようよ猿若町発祥180年記念 平成中村座「十一月大歌舞伎」平成中村座「十一月大歌舞伎」藤官九郎 作新作歌舞伎唐茄子屋(とうなすや)~不思議国之若旦那~(ふしぎのくにのわかだんな)■参考リンクWikipedia:離婚しようよ『離婚しようよ』(りこんしようよ)は、TBS制作によるNetflixシリーズの第3弾として、2023年に全世界に配信予定の配信ドラマ[1][2][3]。脚本は宮藤官九郎と大石静、主演は松坂桃李[1][2][3]。主人公を演じる松坂の妻役を仲里依紗が務める[1][2][3]。新人議員である東海林大志と俳優である黒澤ゆいの結婚5年目の夫婦は世間体のためにおしどり夫婦を演じてはいるが、SNSの生配信の時くらいしか会話がなく夫婦仲が冷め切っていた。本作は様々な事情により離婚への道が険しい夫婦が一致団結して離婚へと突き進むホームコメディとして描かれる[2][3]。AV Watch:Netflix、松坂桃李主演ドラマ「離婚しようよ」平山真子2022年3月4日 18:00コメント全文脚本・宮藤官九郎絶妙なキャスティングと自負しております。育ちはいいけど脇が甘いイケメン国会議員の夫。妻はプライド高めな、たたき上げの人気女優。倦怠期の夫婦の悲喜交々を重すぎない絶妙な塩梅で描きました。松坂桃李くんと仲里依紗さん。2人とも、僕と大石さんが、大きな信頼を寄せる俳優さんだけあって、今のところ本の内容に関して、質問ゼロです。さすが!頼もしい!!!!でもって、お久しぶりの錦戸くん。今回は色っぽい役です。いつかご一緒したかった山本さん、板谷さん。楽しみです。いつもすいませんの古田さん。いつもすいません。ああ、早く観たいです!脚本・大石静以前ご一緒した時に、その芝居のうまさに唸った松坂さんと仲さん!再会出来て幸せです。脇を固める役者さんたちも見事な芸達者揃いで、「こんなの初めて!」ってくらいに、絶妙なキャスティングです。宮藤さんと2人で力一杯書いたせいか、押しの強いぶっ飛んだ台本になってしまいました。主役2人、母親たちも、浮気相手たち、弁護士たちも、政治家や秘書、愛媛の選挙民たちも、役者さんたちがどんな命を吹き込んでくれるのか、夢は膨らみますが、仕上がりは読めません。私的には、初めてお仕事する錦戸くんの色気が炸裂することを願っています。松坂桃李最初に、大石静さんと宮藤官九郎さんの共同脚本によるオリジナルストーリーということを伺い、お2人が共同で生み出す作品というだけでもワクワクしました。絶対に面白いだろうという期待も大いにありました。実際に出来上がってきた台本を読ませていただき、これは本当に傑作だなと心の底から思いました。仲里依紗さんは初めてご一緒するのですが、カメラテスト、本読みを経て、良い夫婦関係を築けていけそうな、そんな信頼感のある役者さんだと改めて感じました。作品の内容的には、夫婦円満というわけではないですが。他のキャストの方々も個性豊かで、この作品の世界観の中で、強力なスパイスとなる頼もしい方々ばかりなので、撮影に入るのが待ち遠しいです。夫婦の在り方や大切さを考えさせられる作品になればよいなと思います。宜しくお願い致します。仲里依紗今回の作品では、女優役を演じさせていただきます。宮藤さんの世界観と大石さんのスパイスが見事に盛り込まれたとても面白い台本ですが、演じるのは大変そうです……(笑)。女優らしくない私にできるか不安もありますが、キャストのみなさんと楽しく撮影していきたいと思います。錦戸亮またお芝居ができる機会をいただき光栄です。大石さんは初めてのご一緒で楽しみですし、宮藤さんの作品には何度か呼んでいただきましたが、またお呼びいただきとてもうれしいです。2人の脚本家が紡ぐ「離婚しようよ」という物語の中で、加納恭二としてしっかり機能できるよう精一杯励みます。松坂桃李さん、仲里依紗さんをはじめ、素敵で個性豊かな共演者の方々と、お芝居出来ることに今からワクワクしています。暗いニュースが目立つ世の中ではありますが、皆様にほんの少しでも笑っていただける作品が出来上がると確信しています。配信日まで楽しみにしてください。板谷由夏弁護士、印田薫を演じます。いんでんちゃん、でお願いします。台本はもう爆笑です。このストーリーが、映像になると、きっととんでもないことになると思っているのですが、わたしも早く観たいです(笑)。とにかく楽しめるよう、いんでんちゃんを作っていけたらな、と思っています!よろしくお願いします。山本耕史宮藤官九郎さん、大石静さんの共同脚本という新しい試みで、僕も「この部分はどちらが書かれたんだろう?」などと予想しながら読んでしまいました。登場人物やストーリー面でも「え?これってもしかしてあの人のことじゃ!?」なんて思わされたり、それでいて予想外の展開に驚かされたり。でも今ここでネタバレしたら偉い人たちにすごい怒られると思うので、僕からは一言だけ……そうだ!選挙へGO!想田豪、想田豪に清き一票を!古田新太何か科白がいっぱいあるな、大変そうだな。でも(松坂)桃李と(仲)里依紗だしな、頑張るんだろうな、おいら。板谷さんは初めてだから楽しみだな。ストーリー夫は新人議員、妻は俳優。結婚5年目の東海林夫妻は、夫婦生活の危機を迎えていた。仕事や世間体のためにおしどり夫婦を演じているが、家ではSNSの生配信の時しかほとんど会話が無く、顔も合わせることもない。実家からのプレッシャーやスポンサー契約など、離婚への道のりは険しいが、愛はもう冷めきってしまった。離婚という揺るぎない目標に向かって、二人はともに歩み始めるが……。Wikipedia:唐茄子屋政談唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)は落語の演目。唐茄子屋(とうなすや)[1][2]とも。上方落語における南瓜屋政談(なんきんやせんだん)、南瓜政談(なんきんせいだん)[3]もこの項目で説明する。概要人情噺。すべて口演すると長大になるため、2部に分け、その前半が演じられることが多い。「唐茄子」「なんきん(南瓜/南京)」は、いずれもカボチャの異称である。主な演者に、東京では3代目三遊亭金馬、5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生、3代目古今亭志ん朝、柳家さん遊が、上方では4代目桂福團治が知られる。
2022.06.23
子供のころ、確か絵本とアニメで観たちびくろサンボという童話がありました。トラが木の周りをぐるぐる回っているうちにバターになってしまうという展開が好きでした。大人になって、いつの間にか差別的であるとして、絶版になったのには驚いたものです。カルピスの商標やダッコちゃん人形にも影響が出たのにも驚きました。日本語アニメをご紹介します。おしまいまで無かったので、気になる方は英語版もご覧ください。オリジナルの童話は、あの後、続きがあったことをWikipediaを読んで今回知りました。■参考リンクWikipedia:ちびくろサンボ『ちびくろサンボ』(英: The Story of Little Black Sambo)は、世界的に広く読まれている童話、絵本。もとは軍医であった夫とインドに滞在していたスコットランド人、ヘレン・バンナーマン(ヘレン・バナマン)が、自分の子供たちのために書いた手作りの絵本であった。のちに公刊され、多くの海賊版(後述)によって広く流布した。概説著作権の混乱から、アメリカ合衆国ではいわゆる海賊版が横行した。改変された箇所も多く、特に絵は原作と違うものが使われることが多かった。その多くは主人公をインドの少年から、アメリカに住むアフリカ系黒人の少年に置き換えたものであった。このことが、後に人種差別問題と深く関わってくることになる。またアメリカ版では、かなりの部分で設定の置き換えが行われた。一例をあげれば、主人公の少年が迷い込むジャングルは竹やぶから森に替えられ、またある挿絵では、少年の母親はアフリカ系婦人のふくよかな特徴を与えられた。しかしトラが登場する箇所に関しては、当時のアメリカの海賊版編集者の多くが実物を見たことがなく、イメージできなかったためか、改変を免れている。こうして一部の海賊版では、アフリカを想起させる背景描写と、インドを想起させるトラの混在が行われるようになった。日本語版日本で広く知られるようになった、岩波書店の日本語版『ちびくろ・さんぼ』(1953年(昭和28年)刊、120万部以上が売れたとされる)も、こうしたアメリカ版の1つであるマクミラン社版(1927年刊)に使われていたフランク・ドビアスの絵を用いている(ただし、岩波版では絵のレイアウトなどが、翻訳者である光吉夏弥によって改変されている)。日本でもアメリカ同様にこの絵本には著作権がないとみなされていたため、海賊版が横行し、国内の主要な出版社ほとんどすべてから70種類を越えるいろいろな『ちびくろサンボ』が出版された。日本で出版されたものの多くは、主人公の名前を「サンボ」と片仮名書きし、「ちびくろ」を平仮名で形容詞的に用いていたため、『ちびくろサンボ』という表記が最も一般的なものとなり、これらのいろいろな異本を総称する場合も『ちびくろサンボ』とするのが普通である(そこで、この項目でもこの表記を見出しとして用いている)。このように多くの異本が出回った中で、岩波書店版は最初に広く普及したものであったことから、オリジナルと違う絵が使われていたにもかかわらず、日本ではいわゆる定本と見なされてきた。しかしその後、アメリカでの黒人の公民権運動の高まりと連動して黒人差別であるとの批判を受けるようになり、1988年(昭和63年)には出版社が一斉に絶版させる処置を行った(後述)。これにより岩波書店版を含め、事実上すべての出版社のものが自主的に絶版となり、書店から回収されるに至った[1]。一斉絶版問題以前には、ヘレン・バンナーマンによる原作そのままを日本語訳したものは出版されないままであった。原作そのものの日本語版が出版されたのは、1999年(平成11年)の『ちびくろさんぼのおはなし』(灘本昌久訳・径書房刊)が初めてである。同じ径書房から英語の完全復刻版も出版されている。一斉絶版問題イギリスでもアメリカでも、この絵本は広く受け入れられ、一時は黒人のイメージを向上させる本として図書館の推薦図書にまでなっていたが、公民権運動が進展した1970年以降に人種差別との関連性が指摘されはじめ、各地の書店や図書館から姿を消した(しかし、発売禁止や絶版の措置が取られたわけではなく、注文すれば購入できる状態ではあった)。問題とされたのは、作品の中の男の子の名前「サンボ」がアメリカ合衆国とイギリスにおける黒人に対する蔑称と共通しているということ[4]、サンボが169枚のパンケーキを平らげる描写が「大喰らいの黒人」を馬鹿にしているのではないか、サンボの派手なファッションは黒人の美的センスを見くびっている、黒人のステレオタイプな表現[5]などである。日本でも1953年(昭和28年)に岩波版が登場して以来、常に人気の高い絵本であり、主要な出版社から70種類を越えるいろいろな版が出版されていた。1971年と1976年には光村図書刊行の教科書『しょうがくしんこくご 二年上』に掲載されている[5]。1974年には児童文学家の灰谷健次郎が「おやすみなさい『ちびくろ・さんぼ』」において、差別的であると指摘しているが、鳥越信や石井桃子による「良書である」という評価が優勢であり、大きな動きにならなかった[6]。1988年、事実上すべての出版社がこの絵本の出版を自主的に取りやめてしまうことになった。1988年7月22日にワシントン・ポストに掲載されたそごう東京店の黒人マネキン[7]に対する批判記事(マーガレット・シャピロ/東郷茂彦記者)を発端として海外の黒人表現を見直す動きに誘発され、当時結成したばかりの有田喜美子とその家族で構成される市民団体「黒人差別をなくす会」がこの絵本の主要な発売主である岩波書店およびその他の「サンボ」の日本語版絵本を出版していた各出版社に本書は差別的であると抗議。岩波書店はこの本を絶版にし、他の出版社もこれに追随した。当時オリンピック誘致活動を行っていた長野市では、市内の学校や家庭にある『ちびくろサンボ』の書籍を廃棄処分にするようにという要請を行った[8]が、行き過ぎであるという批判もあり、撤回されている[9]。これらは、マスコミによって大きく取り上げられ、差別表現に神経質となった世論の影響が大きい。またカルピスの商標、ダッコちゃん人形[10]など、その他の黒人表現の自主規制にも繋がった[11]。さらにこの運動の余波を受け、1989年には堺市女性団体連絡協議会が「童話・絵本研究会」を設立し、『白雪姫』『みにくいアヒルの子』『こぶとりじいさん』などが差別的であるとして修正・改善を求める要望を各出版社に送るなど、童話に関連する差別問題は賛否両論を起こした[8]。こうした絶版措置を支持する声もある一方で、『ちびくろサンボ』に愛着を持つ人々からは絶版措置に不満が起った。サンボ(zambo)は南アメリカにおいて、インディオと黒人の混血を指す語であり差別語ではないとする反論や、「サンボ」「マンボ」「ジャンボ」はシェルパ族の中では一般的な人名であるという反論もなされている[誰?]。なお一部では、「発売禁止」措置が取られたかのように誤解されているが、出版社による自主的な市場からの撤退であり、発売禁止になったわけではない。日本では言論出版の自由が日本国憲法に明記されており、地方裁判所の事前抑制として、出版差し止めの仮執行を行うことが理論的には可能なことを除いては、民間や政府が「発売禁止」を行うことはできない。またサンボの名についてはタミル人の文化から名付けられたとも指摘されている。タミルでのサンボ(Sambo)の名前自体、ヒンドゥー教のシヴァ神からの由来の名前の一つ、シャンボー(Shambho)の変化した名前であり、タミルの現地ではサンボの名前は幅広く使われている。作者のヘレン・バンナーマン自身、ヒンドゥー教を信仰するタミル人が住む南インドのタミル・ナードゥ州マドラスに在住していた事からバンナーマンもインドでイラストを描いた際、現地のサンボを視覚的に描いていたとも指摘されている[12]。なのでサンボとは黒人の事では無く、作品に登場するサンボと言う名前のタミル人の子供の事を示しているとの指摘もある。同様の植民地時代における黒人蔑視の思想を孕んでいると指摘される作品としては、『ぞうのババール』、『ドリトル先生』シリーズなどがあるが、それらのいずれも日本国内で絶版措置はとられていない。この事実はポリティカル・コレクトネスによる一方的な「黒人に類似した見た目」という理由だけでむしろ人種の多様性を蔑視(差別)しているエスノセントリズムによって引き起こされた文化多様性を欠く言論統制・文化浄化をはらんだ問題であるともいえる。2005年(平成17年)守一雄は、1988年に岩波書店がこの本を一斉に絶版にした真の理由は、この本の出版契約を正式に交わしておらず、著作権上の問題があったためではないかという指摘をしている[13]。2010-12-28商標から見るタブー表現~「へんな商標?」ボツネタ集2~
2022.06.17
今回のプロジェクトXは昭和20年代の広島東洋カープ球団創設時の金銭的苦労のお話です。最近プロ野球は全然観てませんが、少し前の時代は広島は選手が一流になって年俸が上がると払いきれないといって、他球団に放出したニュースをみたような記憶があります。親会社のバックを持たない市民球団ゆえの悲哀かと思っていましたが、大昔はもっと大変なのを知りびっくりしました。最初の監督の石本監督は阪神で2度優勝経験があったり、名監督だったそうです。新聞記者出身でもあり、創設期の広島で、グランド内外で大奮闘されたおかげで、チームは解散せず、今があるそうです。Wikiediaを見るとこの後もいろいろあり、球団史をドラマ化してもいいように思います。広島というチームについて再認識しました。文句なしに面白いおすすめの作品です。広島カープの由来も面白いです。■参考リンクNHKプロジェクトX:熱き心、炎のごとく 史上最大の集金作戦 - 広島カープ市民とナインの熱い日々 紀伊国屋書店内容説明広島カープ。県や市が出資する日本で唯一の“市民球団”として、昭和25年に誕生した。原爆で深い傷を受けた広島にとっては、復興への大きな希望の星だった。 初代監督を引き受けたのは、石本秀一(52)。広島商業を3度の全国制覇に導き、その後タイガースの監督も務めた、野球の鬼だった。両親と兄弟を原爆で失った石本は、故郷復興へに役立ちたいと、広島に駆けつけた。 しかし大企業の後ろ盾がない球団は深刻な資金不足だった。有名選手を集められなかった。石本は、高卒の新人や、喫茶店のマスターをしていた元プロ野球選手までかき集めた。合宿所の窓は閉まらず、雨が吹き込んだ。遠征の時は3等列車の床で寝た。シーズンが終了してみれば圧倒的な最下位 だった。 そして、結成翌年の3月、資金難から、カープの解散が発表された。石本と選手たちは唖然とした。 その時、立ち上がったのが広島の市民たちだった。路面電車の運転手、坂田政利(23)は私設応援団を結成。球場の前で一人一人に募金を呼びかけた。 「復興への希望の灯を消すな!」。それを合い言葉に、全市民を巻き込んだ募金作戦が展開されていく。それは想像を超えた壮絶なものとなっていった・・・。“市民球団”広島カープが、存続の危機を乗り越えていく感動のドラマを描く。闘魂こめて、六甲おろし、燃えよドラゴンズ!、それ行けカープ 〜若き鯉たち〜、東京音頭、行くぞ大洋と、阪神タイガース バース、掛布、岡田 伝説のバックスクリーン3連発、昭和50年 広島カープ初優勝までWikipedia:広島東洋カープ広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、英: Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属。通称は、「広島」「カープ」。概要特定の親会社を持たない市民球団を源流としており[注 1]、原爆に打ちひしがれた広島の街に希望の光を与えることを創設目的とする[5]という、他球団と比較して特異な歴史を有する[6][7][8][9][10][11][12]。地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する[13]。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており[14]、経営陣の派遣は行う[注 2]ものの、球団への資金提供(赤字補填など)といった積極的関与は行っていない。むしろ、マツダ創業家である松田家一族の所有株式のみを合計するだけで議決権ベースでは過半数に達する[注 3]。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同家による同族経営であるとの見方もある[15]。「市民が直接株式を保有する」という意味での市民球団ではないが「特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせている」という意味では今なお市民球団のイメージを有する[13][15][16][17][18]。球団の歴史球団創設1949年正力松太郎の二リーグ構想の前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた[10][12][19]。広島は昔からスポーツが盛んで[20]、特に野球に熱狂的な土地柄[21][22][23]。戦前から広島商や広陵中、呉港中といった名門校があり、鶴岡一人や白石勝巳、藤村富美男などの名選手を輩出した野球どころという下地があった[9][10][24][25][26]。正力の二リーグ構想が公に出た4月から[10][27][28]、4か月後の8月中旬、中国新聞社東京支社長・河口豪は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた[29]。四人の話題はプロ野球の話に終始。広島は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が...と四人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した[13][29][30]。河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり[注 4]、三人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島二区選出の衆議院議員・谷川昇と金鯱軍代表の広島県人・山口勲が訪ねてきて、「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と話した[30]。谷川は当時公職追放中で公務からは外されていた[12]。谷川は元々サッカー選手で野球とは無縁だったが[10]、山口に助力を要請され[31]、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた[12][32]。先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した[29]。谷川は実務は河口と山口に任せて、ニックネームの想を練った[29]。アトムズ、ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、鯉は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた(詳細は後述)。谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・築藤鞆一が大賛成した[29]。9月28日、中国新聞紙上に初めて「広島カープ (Hiroshima Carp)」という五文字が一般にお目見得した[29]。「チーム名は"鯉" 広島プロ球団誕生か」という見出しで、「チーム名はカープ(鯉)と決定した」と書かれた[28][29]。翌9月29日の同紙に「広島市にフランチャイズをおく広島野球クラブ・カープ(鯉)の創設は急速に進み、9月28日午後、谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3氏[注 5]連名をもって正式に日本野球連盟に届け出が行われた」と書かれた[28][33][29]。11月28日に谷川は巨人軍代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた[注 6]。河口が早稲田大学出身のため、早大OBの伊達正男に監督を依頼するつもりでいたが[19]、中国新聞の記事を読んだ大陽ロビンスの監督・石本秀一が「郷里の球団で是非とも最後の花を咲かせたい」と河口に売り込みに訪れ[19][29]、郷土チームにうってつけの監督と、一も二もなく12月3日、初代監督に石本の就任が決定した[10][29][34]。この時、石本は「私が大陽の二軍選手をそっくり連れて行く。チーム作りに心配はかけません」と言うので[29]、チーム作りは石本に一任した[35]。石本の監督就任ニュースは大きな反響を呼んだ[29]。当時の既存チームの主力には広島出身者がたくさんいたため[9]、広島県民は「みんな帰って来たら強いチームが出来るだろう」ぐらいに考え、選手集めには楽観視していたといわれる[9]。設立資金は、広島県と広島市、福山市など県内の各市で出すことにした[35]。本拠地は広島総合球場とした。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく[注 7]、12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。大陽ロビンスが松竹から資金援助を受け松竹ロビンスになるために、二軍選手の放出をストップしたからである[29]。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は広島出身選手に「みんな、広島に帰って来い!」と呼びかけ[37]、既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、12月29日、コーチにすると口説いて無理矢理入団させた灰山元治、投手では内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章ら23人を入団選手として発表した[29]。1950年代1950年1月15日、西練兵場跡(現在の広島県庁一帯)でチーム結成披露式が行われ[38]、ファン約1万人が押し寄せた[30][注 8]。人気選手、前巨人の白石勝巳がまだ広島に到着しておらず、石本監督が一番有名であった[29][41]。この日は辻井弘ら7名の追加選手を発表している。翌16日には広島総合球場で新人採用テストが行われ[43][44]、この中にいた長谷川良平は即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる[8]。16日から合宿に入り、西日本重工業広島造船所(現・三菱重工業広島製作所、広島市西区観音新町)の社員寮を宿舎として借りた[19][30]。暖かいキャンプ地に行けるはずもないので、合宿所近くの広島総合球場を県の計らいで無料で2月1日からキャンプを張った[30]。石本監督は集金旅行(金策奔走)で忙しくて不在の日が多く、白石勝巳助監督が事実上の指揮官であった[30]。決して高額ではない合宿代も払えず、三菱重工から明け渡し請求を起こされ[12]、4月に合宿所は皆実町(現・南区)の「御幸荘」に引っ越す[10][30][32]。3月10日に福岡市の平和台野球場でセ・リーグ開幕戦が行われ、西日本パイレーツとのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5-6で敗れている[33]。3月14日の国鉄戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。11月13日の大洋とのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなど惨憺さんたんたるチーム状況で、この年優勝した松竹ロビンスには59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ[45]。さらに勝率.299で、両リーグで唯一3割に到達できなかった。白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた[43]。そのため当初1,100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込んでいった。さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資を見込んだ計画であったが、各自治体の予算執行が次年度に持ち越されたため、議会が金を出すのに難色を示した[35]。当初2,500万円を予定していた資本金は1950年4月の時点でわずかに600万円しかなかった。5月以降、ようやく各自治体からの出資が相次いだものの、最終的に予定額2,000万円の半分しか集まらなかった。このため「株式会社広島野球クラブ」が設立できたのは1950年9月までずれ込んだ[19]。こうして開幕から僅か3ヵ月で経営危機説が流れるようになった[46]。5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生、二軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみだった。130~140万円相当のユニフォームや、グローブなど、野球用具一式を運動具店に納入させたものの代金が払えず、その運動具店を倒産させた[19] 6月25日、セ・リーグ連盟は加盟金300万円の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったため、やむを得ず経営合理化策として給料の支払いが滞っていた二軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせている[注 9]。さらに7月12日に竹原市出身の池田勇人大蔵大臣に「後援会会長」の名目で球団幹部に就任してもらうことで、ようやく連盟からの督促を回避した。リーグ加盟金300万円は足かけ3年間支払えなかった[19]。12月7日、選手会は球団に対して「給料の遅配を解消すること」を旨とした要望書を提出し、受け入れられない場合は全選手退団も辞さないと通告した。これに対して12月26日、球団側は12月分の給料支払いとチーム再建策を選手会に提示し、ようやく選手会も了承した。1951年年明け早々、セ・リーグ連盟顧問に就任したばかりの鈴木龍二が、日刊スポーツ1月9日付け紙上で、2年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープと西日本パイレーツに対して、「われわれは潰そうとしていない、何らかの形で残したいというのが希望だ。だから広島は大洋の傘下に入って"広島"とか"カープ"の名を残せばいい。西日本は今年どうしてもやっていけないなら"1年間休めばいい"」などと猛烈に批判した[46]。球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうと、まずは寿屋(現・サントリー)に相談を持ちかけ、600万円で球団買収することで話がまとまったものの、「1年間の税金6,000万円のうち600万円を値切ること」を条件に求められ、後援会会長の大蔵大臣池田勇人に許可を求めたがもちろん「国家に仕える身でもあり、まかりならぬ」と却下されてしまった。続いて専売公社に話を持ち込み、こちらも買収に前向きな回答をもらったものの、「公社が球団を持つことに池田大臣の許可を貰うよう」条件を付けられ、結果「特例は認められない」と、またしても却下されてしまった。最後にはアサヒビールに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまった[48]。こうして親会社が決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、3月16日から甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められた。白石助監督が「旅費がないなら甲子園まで歩いていこうじゃないか。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気盛んだったが[19]、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪、大平正芳(後援会会長・池田勇人の代理)はセ・リーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まり[45]、その日のNHKラジオが夜のニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じた[10][45]が、役員会に遅れて参加した石本らの説得で合併方針は撤回され、3月15日にナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に出発。しかし旅館代がなく、選手は甲子園のアルプススタンド下の薄暗い部屋で雑魚寝した[19]。石本は3月16日の中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」と訴え[45][49][50]、3月20日には広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表した[45][44][51]。3月15日、前述の準公式トーナメント大会の上阪に帯同していた球団代表代理の河口豪、石本監督、球団監査役の横山周一は日本野球連盟関西支社において鈴木龍二セ・リーグ顧問と会談し、球団側は合併をせず継続させていく意思を伝えた。また、具体的な再建方策については、同月24、25日頃に池田勇人後援会長と永野重雄代表が連盟立会いのもとで協議することとなった。同15日に鈴木は甲子園球場の選手控え室を訪れ、チーム継続の了承を伝え、「セ・リーグとしては当初の予定通り7球団でペナント・レースのスタートを切る」と語っている[52]。こうして3月23日、鈴木龍二セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定した[33]。しかし数日後、連盟側は急遽先述の継続承認の内容を反故にした。球団側としては、連盟側がそれまでに要求してきた地元広島開催を除く過密なスケジュールを受け入れていたにも関わらず、チームとして安定的に試合を行えるようにさらに600万円の拠出金を要求してきた。この要求に対して球団側は、15日の鈴木談話と「全くくつがえっている」として、3月28日に開催された連盟の代表者会議にも出席しなかった。この代表者会議欠席がきっかけとなり、セ・リーグは第2節までのカープの公式戦日程を認めないという「日程延期問題」が発生した[52]。連盟の通告を受けて、檜山袖四郎球団社長は3月30日に広島商工会議所において重役会を開き、「広島としてはあくまで既定方針通りにやってゆく。檜山社長が上京し連盟首脳と話合う」ことで決定した。翌31日に檜山は上京し、連盟当局者や在京の広島県出身の有力者にも積極的にあたり、4月2日に連盟の松島鹿夫セ・リーグ会長と会談し、球団側と連盟側の折り合いがついたことにより[52]、4月2日に棚上げしていた公式戦の開催を正式決定した[45]。これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対大阪タイガース戦となった[33]。石本監督が発案した後援会には職場単位、あるいは個人での入会者が後を絶たず、「おらがチームを潰すな」の純粋な思いで子どもはなけなしの小遣いを、大人は酒代、タバコ代を削って金を出した[9][45]。石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回って辻説法を行い、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた[8][32][34]。また石本や白石は試合後に選手を連れて県内へ出向いて講演会をしたり、歌をうたったり、カープグッズ第1号ともいわれる"カープ鉛筆"を売ったりした[12][35][38][43][53][54]。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、カープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、本拠地の広島総合球場前での酒樽の中に募金を入れる「樽募金」[38]も合わせ1951年末までに集まった支援金は約440万円(当時)[54]。その結果、この年130万円の黒字を計上した[45]。この一件は、通称「昭和の樽募金」と呼ばれ、2001年5月1日放送のNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた[10]。しかし、前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約でもめた末オフに退団し、シーズン途中に巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日(日米野球)があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった[55]。12月25日には、エースの長谷川良平が自由契約選手として名古屋ドラゴンズへの移籍を表明する[注 10]が、翌年3月10日のコミッショナー裁定により長谷川の広島復帰が決まっている[33]。
2022.06.16
先日YouTubeで仮面の忍者赤影を観ていたら、青影のお姉さん陽炎役で第4部に出演されていた時美沙さんをみつけました。赤影は全部観ていたはずなのにすっかり記憶が抜け落ちていました。また観たくなるような美しい方だと思います。昔風に言うと「男好きのする」というか、今風に言うと、「エロい」とでもいうんでしょうか。何か男性を惹きつけるフェロモンを放つ女優さんです。予告編の動画から、キャプションを撮ってみました。2023.11.4リンク切れにより差替え。2024.5.9リンク切れにより差替え。2024.5.22リンク切れにより差替え。5:25過ぎ■参考リンクWikipedia:仮面の忍者 赤影第4部 魔風篇(第40 - 52話)陽炎(かげろう) - 時美沙第4部魔風編に登場。青影の姉で、烈風斎をおじさまと呼ぶ。盲目であるが、二里四方の音を感知できる。烈風斎から黄金の仮面を託され、紅影や黒影と共に影一族の館を抜け、赤影と合流する。黄金の仮面の秘密を知っている。重要ポイント、重要アイテムデウスの鐘第2部第1話で織田信長が堺の商人から手に入れる。マリアの鐘第2部第6話で女の行商人が彦根で赤影に渡す。サタンの鐘第2部第7話では当初、鳴門海峡の難破船に隠されていたと考えられていた。しかし難破船の中にはなく、いかるがの里にあった。お互いを近づけて鳴らすと共鳴を起こし、呼び合う。デウス、マリアの鐘と揃えると、竜、牙、島の絵柄が出る。影一族 盲目の美女 陽炎男が寄ってくる「男好き」する女の特徴2020年9月7日 17:23 All Aboutなぜか周りに男が寄ってきて、モテる女性がいます。「なぜか周りに男が寄ってきてちやほやしてしまうという意味を込めて「姫力」と呼ばれることもあるようです。その要因は決して女性の見た目……つまり、美醜だけによるものではない、ということがわかります。絶世の美女ならば逆に許せるのですが、同じ女性として、「えっ! なんであの女がモテるわけ?」と、嫉妬を含んだ疑問を抱いたりしてしまうもの。そんなわけでここでは、男好きする女の“姫力”を細かく分析してみましょう。以下略
2022.06.09
2005年代はじめ、北海道の旭山動物園がすごいと結構話題になっていました。なにがすごいのかよくわかりませんでしたが、今回2005年制作のプロジェクトXを観てそのすごさがよくわかりました。地方都市による動物園建設ブームに乗ってできたものの、予算不足と経営ノウハウ不足によって、閉園の危機にあった動物園が、獣医を中心にみんなでアイデアを出し合って手作り感満載の動物園に変えることによってよみがえらせ、魅力的な施設を増設していくというストーリーはなかなか面白かったです。一時は年間300万人を超えた入場者数も最近は落ち込んでいるようですが、全国の動物園がここを手本に模倣すれば、競合が増えて落ち込むのも当然かと思いますので、入場者数にこだわらず、がんばっていただきたいものです。冬に行われるペンギンの散歩をぜひ見たいです。20年前に行った近くにある北竜町のヒマワリとともにこの動物園を訪れたいです。■参考リンクNHKプロジェクトX:旭山動物園 ペンギン翔ぶ ~閉園からの復活~今や年間200万人以上、国内はもちろん世界レベルでもトップクラスの入場者数を誇る北海道・旭山動物園。一時は閉園の危機にあった動物園を新たな施策で立て直し、人気動物園に育て上げた獣医と飼育係たちの苦闘の軌跡を追う。【収録内容】高度成長期の昭和40年代、多くの地方都市に動物園が建設された。日本最北の動物園「旭山動物園」もそのひとつ。昭和42年にオープンし、順調に入場者を増やしていった。しかし、昭和50年代後半、旭川市が財政難に陥ると運営予算が削られ、徐々に動物の数も減少。施設も老朽化が目立つようになる。次第に市民の足も遠ざかり、入場者数は減少の一途をたどった。パンダやコアラのような人気動物を展示する予算もないこの動物園に、どうしたら市民が来てくれるのか。獣医の小菅正夫が「飼育係しか見ることができない動物の素顔を客に知ってもらおう」と提案。飼育係がゴリラやカバの檻の前で、動物たちの知られざる生態を紹介する、ガイド作戦を始めた。これが話題となり、徐々に入場者を増やしていった。勇気づけられた飼育係たちは、新たな夢を語り合う。水鳥たちが飛び立つ姿、ペンギンたちが泳ぐ姿、猛獣たちの寝顔…動物たちの自然な姿を観客に見てもらうことができないだろうか。しかしそんな折、緊急事態が発生。ゴリラのゴンタが急死したのだ。原因は、人間にも感染する恐れがある寄生虫エキノコックスだった。平成6年、動物園は閉園。果たして飼育係たちの夢は実現するのか…。(2005年11月15日放送)平成 30 年度包括外部監査の結果に関する報告書第 1 テーマ 旭山動物園に関する事務の執行について
2022.06.06
中西龍さんといえば国盗り物語の朗々とした力強い中にもしっとりした優しさや色気を感じるナレーションが印象に残っています。水戸黄門のナレーターの芥川隆行さんと並んで好きです。高校3年の受験勉強に忙しかったころはよくにっぽんのメロディーを聴きました。郷愁を誘う赤とんぼに合わせた中西さんの声を今、あらためて聴くと遠い昔に思いを馳せます。昭和を代表するナレーターでした。NHK大河ドラマ 国盗り物語 総集編 後編■参考リンクWikipedia:中西龍中西 龍(なかにし りょう、1928年6月16日 - 1998年10月29日)は、元NHKアナウンサー、ナレーター。東京都出身。来歴・人物1953年に明治学院大学英文科を卒業後、NHK入局(同学年の同僚に鈴木健二がいる)。熊本、鹿児島、旭川、富山、名古屋、大阪、東京などで勤務した。独特の濁り漂う声質と淡々とした話術で『NHKのど自慢』の司会、『ひるのプレゼント』の司会、時代劇『文五捕物絵図』、NHK大河ドラマ『国盗り物語』、『きらめくリズム』『連続テレビ小説』の語り手、『みんなの茶の間』、文芸作品の朗読などを担当。NHK在職中、美空ひばりの懇願で彼女が歌う民放番組の収録に協力。ライブテープにも声の出演を果たしている。1970年代後半ごろには、週一度の泊勤務の際にNHKラジオ第2放送で22時から放送される気象通報を担当することもあった。一人称として「私」ではなく「当マイクロフォン」を使った。1977年から1991年までNHKラジオ第1放送で放送された『にっぽんのメロディー』では、「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます。」のオープニングナレーションがリスナーに強い印象を残した。思い入れたっぷりの語り口は、アナウンサーとしては異例ながら、歌謡番組にはぴったりとはまり人気を呼ぶ。1980年前後には、毎年暮に放送される明智小五郎ものの連続ラジオドラマのナレーターでは、明智を演じる広川太一郎に次ぐ第二主役ともいうべき名調子ぶりで、原作当時の流行歌などをたっぷり織り込む箇所では「ここでしばし、にっぽんのメロディの時間です」などと脚本の遊びもあった。1984年6月16日、NHKを希望退職。『にっぽんのメロディー』のほか、フジテレビ『鬼平犯科帳』やCMのナレーションを担当し、フリーとして活動の場を広げた。1998年10月29日、脳梗塞のため死去。Wikipedia:にっぽんのメロディー概要この番組は中西龍がNHK退職前後からパーソナリティを務め、主として戦前 - 戦後初期の懐メロにスポットライトを当てて、リスナーから寄せられたメッセージとともに当時の楽曲を放送していた。なおリスナーから寄せられたリクエストに対しては必ず放送日を事前に告知したという。「赤とんぼ」のメロディーに載せて展開されるオープニングの口上「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます。皆さんこんばんは、にっぽんのメロディー、中西龍でございます」という挨拶と、エンディングの俳句にまつわるエピソードの紹介は中西節として親しまれた。当初はNHKプロ野球の中継があった場合、放送が出来ない日もあった。
2022.06.05
米国の自動車の排気ガスの有害物質を1/10に減らすという実現不可能と思われたマスキー法を1972年に世界で初めてクリアしたホンダのCVCCエンジン開発の物語です。その後有害物質は1/100にまで削減され、マスキー法やCVCCエンジンは環境問題に大きく貢献しました。プロジェクトX初期の作品らしく力強く熱気にあふれ、一流の人物が登場し、昭和40年代のホンダがわかり、おすすめの感動的な作品です。CVCCエンジンがすごいことはわかっていましたが、具体的にどうすごいかはわかりませんでしたが、この作品を観てちょっとわかった気がします。このエンジンは、物資不足に悩むソ連のエンジンをヒントに作られたそうです。米国での環境規制試験でのアクシデントへの対応は神がかっていると思いました。またこのエンジン開発を機に本田社長が引退された理由もわかり、ホンダの社風をあらためて理解し、すごい会社だと思いました。カリスマ経営者が引退すれば一気に崩れる会社もある中で、さすがです。ホンダなので関連動画は豊富にありました。自分でもまだ全部観てませんが、掲載しておきます。■参考リンクプロジェクトX4Kリストア版 選「世界を驚かせた一台の車」昭和40年代、世界が驚く低公害エンジンを開発したホンダの技術者たちの熱きドラマ。若手と社長・本田宗一郎が激しく衝突。F1レースで培った技術が決め手の一つになる。昭和45年、アメリカで大気汚染防止の法律が改正。一酸化炭素などの排出量を10分の1以下にすることが盛り込まれた。ビックスリーもさじを投げるほどの厳しい基準。初めてクリアしたのはホンダが開発したCVCCエンジンだった。人気車種に欠陥が見つかり、会社存亡の危機にあったホンダは「低公害エンジンプロジェクト」に社運をかけていた。若手技術者たちが社長の本田宗一郎と衝突しながら画期的なエンジンをつくり上げる。【出演】中嶋悟,毬谷友子,【司会】国井雅比古,久保純子,【語り】田口トモロヲWikipedia:CVCCCVCC(シーブイシーシー、Compound Vortex Controlled Combustion)とは、1972年に発表した本田技研工業の低公害エンジンである。複合渦流調整燃焼方式の略称。概要CVCCは、リーンバーン(希薄燃焼)させることで排出ガス中の有害物質を少なくする技術である。混合気をリーン(希薄)にしていくと、排出ガス中の有害物質を低減できるが、逆に失火しやすくなり、生ガスによる有害物質が増えてしまう。そこで、副燃焼室専用の吸気バルブ、専用のインテークマニホールド、専用のキャブレターを持ち、副燃焼室に通常よりリッチ(濃い)な混合気を導入し、点火プラグで確実に着火させ、トーチ孔からの燃焼火炎で主燃焼室のリーン混合気を燃焼させる。これにより排出ガス中の有害物質が低減される[1]。この副室式燃焼室は、燃料供給や着火方法こそ異なるが、予燃焼室式や渦流室式といった熟成されたディーゼルエンジン技術の応用である。CVCCについては、旧ソ連の副室式エンジンに関する技術論文に基づいている。排出ガス対策の種類としては、エンジン本体の改良で有害成分を少なくする技術を「前処理」、排出ガスを触媒などで低減する技術を「後処理」と呼んでいる。これは当時、酸化触媒ではエアポンプやリードバルブによる酸素の供給が必要だったり、経年変化により処理能力が落ちるため、内部のペレットを定期的に交換する必要があるなど、課題が多かった。そのため、ホンダでは前処理方式を選択した。当初は触媒を使用しなかったので、有鉛ガソリンの使用も可能だった。開発過程元々の研究開始は、1966年に本田技術研究所内に「大気汚染対策研究室」、通称「AP研」(APはAir Pollutionの略)が設置されたことに遡る[2]。同年に行われた日本自動車工業会によるアメリカ視察旅行に参加したホンダの技術者が、当時の米国での排出ガス研究の状況を目の当たりにし、かねてから大気汚染研究の必要性を訴えていたメンバーと共に、当時の所長だった杉浦英男に研究室の設置を要望し認められたのがきっかけとなった[2]。元々本田宗一郎は、研究開始当初から「既存のレシプロエンジンの改造レベルで対応できる技術」の開発を求めていたこと、また有害物質である一酸化炭素(CO)・炭化水素(HC)・窒素酸化物(NOx)の3つを同時に低減するには希薄燃焼しかないという考えから、東京大学教授の浅沼強の指導の元さまざまな研究を行っていた[3]。そのアイデアの一つとして副燃焼室式の採用が持ち上がり、既にホンダでは汎用エンジンとして副室式ディーゼルエンジンを製品化していたことから、まずはそれをガソリンエンジンに改造しての基礎データ取りから始まり、後にN600用エンジンを単気筒化した改造エンジンでの実験へと移った。また当時ホンダには実験用に使える自社製の水冷エンジンがなかったため、日産など他メーカーのエンジンを使っての研究も行われた[4]。1971年2月に開発成功が公表されるが、実はこの段階では燃料供給方式がまだ決まっていなかった[5]。また特許申請も途中だったため、「CVCC」の略称も「名前から構造の一部でも分かるようなことがあってはならない」との理由から決められた[5]。その後シビックへ搭載した上でマスキー法をクリアするためには2リッターのエンジンが必要になることが判明したため、そのための実用エンジン開発を急ピッチで進め、1972年10月の正式発表に至った。CVCCに対する評価当時世界一厳しく、パスすることは不可能とまで言われた米国のマスキー法という排出ガス規制法(1970年12月発効)の規制値を、最初にクリアしたエンジンである。その功績により「CIVIC CVCC」はSAE(米国自動車技術者協会)の月刊機関誌(『AUTOMOTIVE ENGINEERING』)上で20世紀優秀技術車(Best Engineered Car)の1970年代優秀技術車に選ばれた[6]。当時社長であった本田宗一郎はCVCC開発の報を聞き大幅な売上が見込めると大喜びしたが「排気ガス問題を減らし、少しでも空気が綺麗になるように願って開発したものであって、社の売上に貢献するためではない」と開発陣からの主張を聞き、本田は反省した[7]。社団法人自動車技術会 (JSAE)の「日本の自動車技術180選」の「ガソリンエンジン」部門で、「マスキー法を後処理(エアポンプや触媒等)なしでクリアできる最初のエンジンとしてアメリカ合衆国環境保護庁 (EPA) より認められた複合渦流調速燃焼方式」として選出されている。2007年に、日本機械学会が創立110年を記念し制定した機械遺産(6号)に、「日本の排出ガス低減技術を世界のトップに引上げた歴史的な機械」として認定されている。その後、触媒技術やエンジン本体の燃焼解析技術の進歩により、CVCC以外のエンジンでも排気ガス浄化が可能になり、ホンダからCVCCの技術を導入し、研究や試験的発売もしていたメーカーは採用を止め[8][9]、世界的な流れには成りえなかった。長く採用していたホンダ自体も、排気ガス規制が強化されるにつれCVCCに触媒を追加し、さらにその後にはCVCCの採用を止めている。歴史1973年12月12日に、CVCCをシビックに搭載し発売。1980年4月25日に、CVCC-IIをアコードおよびプレリュードに搭載し発表。副燃焼室の位置を中央よりに変更、トーチ孔を多孔化したセンタートーチ燃焼室と、希薄混合気とEGR(排気ガス再循環)の比率を走行条件に合わせたラピッドレスポンスコントロールシステムを採用、燃費効率向上を実現。1981年10月29日に、新ファンネル型燃焼室を採用し、超ロングストロークで高い燃焼効率を実現したCOMBAX(COMpact Blazing combustion AXiom:高密度速炎燃焼原理)エンジンを、シティに採用。1982年11月25日に、コンパクトなルーフ型主燃焼室とB・Cトーチ(Branched・Conduitトーチ:分岐トーチ)により高圧縮比9.4を達成したエンジンを、プレリュードに搭載し発売。※CVCCおよびその派生型エンジンは、1970年代・1980年代のホンダ製の自動車のほとんどに搭載された。Wikipedia:エドマンド・マスキーエドマンド・シクストゥス・"エド"・マスキー(英語: Edmund Sixtus "Ed" Muskie, 1914年3月28日 - 1996年3月26日)は、アメリカ合衆国の政治家。メイン州選出上院議員、第64代メイン州知事、ジミー・カーター政権で第58代アメリカ合衆国国務長官を務めた。上院における最初の環境保護論者として有名である。1968年アメリカ合衆国大統領選挙での民主党の副大統領候補であった。人物上院議員時代には大気汚染防止法を提出し、同法案はマスキー法として知られた。1970年にカリフォルニア州大気資源局によって制定されようとしたが、1974年に廃案となった。自動車の排気ガス量を10分の1に削減するという法案で、この法案の提出・制定の動きは日本の自動車業界にも大きな影響を与え、その後自動車開発における環境保護の重要性が認識されるようになった。マスキーは1968年アメリカ合衆国大統領選挙において民主党のアメリカ合衆国副大統領候補であった。1972年アメリカ合衆国大統領選挙では民主党のアメリカ合衆国大統領候補として考えられていた。しかしベトナム反戦を正面に掲げたサウスダコタ州選出のジョージ・マクガヴァン上院議員候補に勢いを奪われ、アイオワ州の党員集会とニューハンプシャー州での予備選挙では小差で勝利したものの、その後の各州での予備選挙では振るわず、結局民主党の指名はマクガバンに敗れた。保守的な新聞が夫人のジェーンの喫煙などを批判し、マスキーが涙を流したことが敗北の原因と考えられているが、マスキーは後に屋外でのコメントだったため解けた雪が涙のように見えたのだと主張した(これ以降「大統領を目指す者は公の場で決して涙を見せてはならない」というのが選挙戦の不文律となった)。マスキーが大統領候補に指名されていたならばリチャード・ニクソンを破ることができたのではないかと考える者もいる。2023.11.21リンク切れにより差替え。
2022.06.04
小学4年生のころ、NHKでやっていた少年ドラマです。主題歌が確か、「からくりからくり、からりんと、久留米ーの儀右衛門どん♪」とかいうやつだったと思います。内容は忘れてしまいましたが、結構面白くてよく観てました。からくり儀右衛門がのちの東芝創業者の田中久重と後になって知りびっくり。NHKのサイトを見たら動画配信準備中とあり、楽しみにしています。■参考リンクグラフNHK1969.5.1号よりテレビドラマデータベース:からくり儀右衛門江戸時代、儀右衛門という少年が、いろんな発明をしていく物語。時代考証家の林美一氏は本作を放送当時評している。「『からくり儀右衛門』は少年少女むけの番組だが、幕末の発明家田中久重の少年時代を描く。こういう作品にこそ時代考証者をつけてほしいものだ。企画もまじめで、話も面白いのだが、演出がおそまつすぎる。大人の視聴に耐えてこそ立派な少年少女向け番組といえよう。【この項、文:林美一(「放送朝日」(雑誌、朝日放送刊)1969年6月号掲載「時代風俗・考証手帖」)より引用】」【参考資料:webサイト「脚本データベース」(2021/12/03参照、http://db.nkac.or.jp/top.htm)】キー局 NHK 放送曜日 土 放送期間 1969/04/12~1970/04/04放送時間 18:05-18:35 放送回数 連続/単発 連続主な出演 佐山 泰三(2)、川島 育恵(2)、織本 順吉(2)、岸 旗江(2)、上原ゆかり、信 欣三(信 欽三)(2)、冨田浩太郎(富田浩太郎)(2)、庄司 永建(庄司 永健)(2)、笹森 満子、福島きよ子、高原 駿雄、倉丘伸太郎、神田 隆、玉川伊佐男、木下 秀雄、宮阪 将嘉、本田 統(2)、菅沼 赫(2)、牧 さゆり(2)、石原 三吉(2)、芝田 好子(2)、福山きよ子(2)、田村 元治(2)、川代 家継(32)-(34)(42)(45)(46)、(語り手:柳沢 真一(2)、)主な脚本 横田 弘行(2)局系列 NHK制作会社 NHKNHKアーカイブス:からくり儀右衛門詳細江戸後期から明治初期にかけて活躍し、“東洋のエジソン”“からくり儀右衛門”と呼ばれた発明家・田中久重の少年時代をユーモラスに描いた。儀右衛門がしくじりながらも真剣にユニークな発明に取り組む姿を通して、子どもたちに科学の目を開かせるとともに、少年らしい正義感とヒューマニズムを伝えた。総合(土)午後6時台の30分番組で全46回放送。作:横田弘行。音楽:柳沢剛。出演:佐山泰三、織本順吉、岸旗江ほか。作:横田弘行 音楽:宇野誠一郎 語り:柳沢真一 Wikipedia:田中久重田中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)11月7日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。生涯田中製作所の設立まで寛政11年9月18日(1799年10月16日)、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。幼名は儀右衛門。幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになる。20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知られるようになる。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている[1][2]。天保5年(1834年)には上方へ上り、大坂船場の伏見町(大阪市中央区伏見町)に居を構えた。同年に折りたたみ式の「懐中燭台」、天保8年(1837年)に圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案した。その後京都へ移り、弘化4年(1847年)に天文学を学ぶために土御門家に入門。嘉永2年(1849年)には、優れた職人に与えられる「近江大掾」(おうみだいじょう)の称号を得た。翌嘉永3年(1850年)には、天動説を具現化した須弥山儀(しゅみせんぎ)を完成させた。この頃に蘭学者の廣瀨元恭が営む「時習堂」(じしゅうどう)に入門し、様々な西洋の技術を学ぶ。嘉永4年(1851年)には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動くなどの、様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させた[1]。以下略
2022.06.03
小学生のころ切手を集めていて、1964年発行の太平洋横断ケーブル開通記念という、今でも12円でしか取引されていない地味な10円切手がありました。当時は記念切手にするほどすごいことなのかと思っていましたが今回のプロジェクトXを見てよくわかりました。1964年の太平洋横断ケーブルの段階では、1つのケーブルで100本の電話線くらいしか一度につなげなかったのが、今回番組でとりあげた約30年前に敷設された1本の光ファイバーケーブルは10万回線以上のインターネット等の通信ができるそうです。これのおかげで日米間の電話料金が劇的に安くなったり、インターネットでが普及したそうですごいことだと思いました。ちなみに衛星による通信の割合はごくわずかです。敷設工事に際しては、サメがかじったりするのを防ぐとか、推進8000メートルの日本海溝に敷設するのとか、敷設船内での船員と技術者の確執とかいろいろあったようですが、無事に敷設できたおかげで今日の便利な暮らしが実現できたと思います。ところで、各国間の通信が、家庭の光ファイバーと一緒で線で結ばれていることを知り、ちょっとびっくり。衛星を使うには、ものすごい強力な電波が必要なのでしょうか。また、有事の際は海底ケーブルを切断するのが常套手段だそうで、防御策と代替手段が必要と思いました。さらに、スノーデン氏が以前暴露したように、海底ケーブルは盗聴されているそうです。これによって、テロが未然に防げたり、他国が攻め入ってくるのを事前に察知できたりすればいいですが、悪用されるのは怖いと思いました。■参考リンク1964年 太平洋横断ケーブル開通記念 10円×1枚24日のNHK「プロジェクトX」は世界最長海底ケーブル阿部邦弘2022年3月23日 20:00AV WatchNHKは、24日10時からのドキュメント番組「プロジェクトX 4Kリストア版」にて、海底ケーブル開発と敷設を描いた「太平洋1万キロ 決死の海底ケーブル」を放送する。チャンネルはBS4Kで、時間は午前10時から10時43分。1989年、光ファイバーを利用した海底ケーブルが太平洋を横断した。海底ケーブルは、国際電話やインターネットなどの情報化社会を支える血脈。番組では、ケーブル開発と洋上での敷設の壮絶なドラマを描く。TPC-3(第3次太平洋横断ケーブル)は、開通した当時、世界最長の海底ケーブル。日本とアメリカの双方から敷設し、太平洋の真ん中で連結するという壮大なプロジェクトだった。水深1万メートル日本海溝の水圧にも耐えうるケーブルを開発。敷設船に乗り込んだのは80人の男たちだった。海底の岩場にぶつかってズタズタになるなど、トラブルが続出。ようやく日本側のケーブルを敷き終えるとアメリカ側からSOSの連絡が入る。アナウンサーは国井雅比古、膳場貴子。語りは田口トモロヲ。写真家が捉えた、これが「NSAが監視する海底ケーブル」:Wired海底ケーブル:世界中の大陸をつなぐ通信ケーブル高橋 健太郎 日経クロステック/日経NETWORK2020.07.01ヤバすぎる日本の海底ケーブル 台湾有事でネット接続全滅リスク2022年1月31日エコノミストonlineWikipedia:海底ケーブル接続ポイントからの盗聴外国の通信を傍受するのに、海底ケーブルの接続ポイントから容易に情報を得ることが出来るとされる。最近の例では、アメリカによるアンゲラ・メルケル独首相盗聴疑惑がある。デンマーク公共放送によれば、デンマーク政府は2012~2014年にかけて、アメリカ国家安全保障局(NSA)にメルケル首相やフランス政府高官らに対するスパイ活動を行うため、海底ケーブルへの接続を許可していたと放送[59]。メルケル首相らに対するスパイ活動は、2013年、中央情報局(CIA) のエドワード・スノーデン元職員により持ち出された情報をもとに盗聴疑惑が明らかになったが、この報道が事実であれば、アメリカはその後も活動を継続していたことになる。ウィキリークスは2015年に、NSAが日本の財務省、経済産業省、日本銀行などを盗聴し、日本の通商政策や地球温暖化対策などの情報を集めていた疑いを暴露し、時の副大統領ジョー・バイデンが安倍晋三首相に電話し陳謝している。米国では海底ケーブルは情報の宝庫としていて、2020年にグーグルやフェイスブックなどが計画した、ロサンゼルス - 香港間 の海底ケーブル敷設は、香港で中国側に情報を盗まれる恐れがあるとして警告し、計画は頓挫した。今日では、光ファイバに置き換わっているため非破壊での傍受は極めて困難である。かつては海底に設置された中継器のアンプから漏洩する電気信号から傍受が可能であったが、1997年以降からは光増幅器に変わったために不可能になった[60]。
2022.05.30
小学生のころ、最新型の貨物船や飛行機が就航すると、子供向け学習雑誌や漫画雑誌に特集が組まれ、ジャンボジェット、コンコルド、大型タンカー等興味津々で眺めたものでした。同級生のお父さんが船員をされていて、1度東京港に停泊している貨物船を見学させていただいたことがあります。うろ覚えですが、大きな船で、船に乗り込むのは客船みたいに陸地と船を橋で結ぶのでなく、小さな船で近くまで行って、そこから垂直のはしごで甲板まで上るのが怖かったです。食事のビフテキがアメリカンビーフみたいで、分厚いけど硬かったです。今思うと貴重なありがたい経験でした。今回のプロジェクトXは世界初のVLCC(20万重量トンを超えたタンカー)出光丸の誕生のお話です。全長342mですから333mの東京タワーよりも長い計算です。いかに大きい船かわかります。はじめての大型船の建造だけにいろいろな苦労がありました。丈夫な鉄板を使ったために普通の溶接が困難になったり、あまりにも船が大きくて、気象条件が建造に影響を与えたようです。労災で片足を失った経験を持つ現場指揮官は何千何万人からなる巨大プロジェクトを束ねるご苦労は大変だったと思います。現場作業はいつも事故によるけがや死と隣り合わせで、ずっと事務職の自分の理解を超えた厳しい世界だと思いました。出光丸の記録映画があるそうですが、残念ながらYouTubeにはありませんでした。ただ同じ出光興産の日章丸の映画を観つけたのでご紹介します。タンカーに乗ってクウエートにいった気分になれます。Wikipedia:出光丸出光丸(いでみつまる)は、出光興産の子会社である出光タンカーが所有・運航していた原油タンカーの船名。3代存在し、初代が1966年、2代目が1985年、3代目が2007年にそれぞれ建造された。石川島播磨重工横浜工場(現:ジャパン マリンユナイテッド磯子工場)で建造され、1966年12月7日に竣工した。当時、このタンカーは世界最大であり、かつ史上初めてのVLCC(20万重量トンを超えたタンカー)であった。 ペルシア湾と出光興産徳山製油所を年間平均9.5往復して日本への原油輸送に大いに貢献したが船体の老朽化により1980年に解体処分された。出光丸 (初代)基本情報経歴起工 1966年2月1日進水 1966年9月5日竣工 1966年12月7日その後 1980年解体要目総トン数 107,957 トン載貨重量 209,302 トン(209,413 トンの資料あり)全長 342.0 m(344.3 mの資料あり)垂線間長 326.0 m型幅 49.8 m型深さ 23.2 m喫水 17.685 m主機関 蒸気タービン 1基出力 33,000馬力最大速力 16.79ノット航海速力 16.35ノット(原油満載時)乗組員 32名記録映画初代・出光丸は建造時の記録映画が製作されているタイトル『日本人の誇り 出光丸』制作:田中清広監督:田中実、竹内亮脚本:高村武次撮影:小村静夫、三角善四郎製作:岩波映画製作所カラーワイド、36分公開日: 1967年8月15日受賞第19回東京都教育映画コンクール 銀賞第11回日本紹介映画コンクール 金賞1967年キネマ旬報ベスト・テン 短編映画第7位5/17NHKプロジェクトX「世界最大の船 火花散る闘い」:NHK昭和41年、横浜で世界最大の船の建造が始まった。船体の長さ342メートル。積み荷は原油。当時の日本の1日の消費量を一気に運ぶ。全国から1千社36万人が集結する。昭和40年代、世界中のタンカーは欧米の石油メジャーに握られ、日本は割高な油に苦しんでいた。出光興産は、自前のタンカーで、直接中東から買い付けようと動き出す。船の建造を請け負ったのは石川島播磨重工業。その下に電気、機械、鉄鋼など全国から1千社、36万人が集う。現場の指揮官は、事故で片足を失っても現場を歩き続けた不屈の男だった。鍵になったのは溶接。溶接箇所を合算すると、実に長さ400キロにも及んだ。【司会】国井雅比古,膳場貴子,【語り】田口トモロヲ
2022.05.26
今年1月に生まれて初めて胃カメラ(内視鏡)検査を受けましたが、体の中の状況が克明にビデオでわかるのに驚きました。今回は東大の医師とオリンパスの技術者たちによる世界初の内視鏡検査開発のお話です。昭和20年代半ば、キティ台風の影響で中央線高尾駅近辺に立ち往生した列車の中で出会った東大の医師はオリンパスの技術者を説得し、内視鏡の開発に取り組みました。それまでの内視鏡は、固い管によるもので、食道を突き破る死亡事故を起こすなど実用的ではありませんでした。東大の医師とオリンパスの技術者たちはこれをチューブに変え、様々な機能をチューブに詰め込み、胃の内部を撮影する特殊な電球を開発するなどして、苦心の末に、胃の内部を撮影する内視鏡の開発に成功しました。これが戦後間もない物資の不足した1950年のことだから驚きです。その後の、東大の医師とオリンパスの技術者の歩んだ道も、名もなき技術者の物語であるプロジェクトXらしくて好きです。現在のオリンパスの売り上げの半分以上を占めるくらいですから、東大やオリンパスに残っていれば、大きな顔をして、高い地位や収入、ひょっとしてノーベル賞も狙えたように思います。その後、胃がんの死亡率は大きく減少したので大発明と思います。プロジェクトX全作品の上位10%に入る作品と思います。ゲスト出演されたいしだあゆみさんの笑顔が素敵でしたので1枚保存しておきました。■参考リンク新価格版 プロジェクトX 挑戦者たち ガンを探し出せ ~完全国産・胃カメラ開発~:NHKスクエア先端医療が発達した現代でも、ガン治療の最善策は早期発見・早期治療。そのために不可欠な装置が内視鏡、いわゆる「胃カメラ」だ。胃カメラを発明したのは、一人の日本人医師を中心に、医師と技術者が手を組んだプロジェクトチームだった。人々の命を救いたいという一心から数々の困難を乗り越え、世界初の胃カメラを世に送り出した男たちの執念を描く。【収録内容】昭和24年、東京大学附属病院の外科医・宇治達郎は、ガン患者の治療に悩んでいた。多くの患者が、早期発見できずに手遅れとなっていた。胃の中を直接見ることができれば…。宇治は、かつて中国戦線に召集され軍医として従軍したことがある。そこで、医師でありながら多くの命を救うことができなかったことに、心を痛めていたのだ。宇治が、協力を要請したのはオリンパス研究所の主任技師・杉浦睦夫だった。ほどなく若い精密技術者・深海正治が加わってプロジェクトがスタート。しかし、直径わずか12ミリの中にカメラのすべての機能を収めることは、欧米でも不可能と言われたほど困難な技術だった。最大の難関が光源だ。真っ暗の胃の中を照らす充分な明るさ、しかも許された大きさは直径5ミリ。行く先々の工場で断られた杉浦は、ある日、電球づくりの名人がいるという町工場を訪ねた…。(2000年4月18日放送)2023年3月期 経営方針:OLYMPUS生まれてはじめての胃カメラ検査を受ける!!と、キッチン藤 ( 錦糸町)と、ミクロの決死圏Wikipedia:内視鏡歴史起源内視鏡の歴史は、古代に遡ることができる。しかし、現代において見られる内視鏡の原型となった機器は、19世紀に登場する。創世時は「硬性鏡」であり、1804年に、ドイツのフィリップ・ボッチーニが「Lichtleiter(英語Light Conductor:導光器)」を開発し、直腸・膣・尿道・耳・口腔内等の観察を行った記録を最初として、1853年にフランスのアントワーヌ・ジャン・デソルモが「endoscope(内視鏡)」を開発し、膀胱や尿道の観察を行った。その後1868年に、ドイツのフライブルク大学内科学教授のアドルフ・クスマウルが「Magenspiegelung(胃鏡)」で、剣を呑む芸(英語版)をする大道芸人を対象としてではあるが、世界で初めて生体の胃の観察を行った。Lange-Meltzing camera.jpg1898年にドイツのフリッツ・ランゲとメルチングは、1本のフィルムで多数のコマ撮影ができる胃カメラを発明し、臨床で15例に使用して胃壁の撮影を行った。軟性管の先端部分は、フィルム格納部、レンズ部、ランプ部から構成されていた[1][2][3]。その後、1929年にオーストリアで「Gastrophotor」という針穴式立体胃カメラ[4]や1931年にドイツで胃カメラが製作され臨床で撮影が行われたが、いずれも臨床診断に使用できるような機器ではなく実用化はできなかった[5]。1932年にドイツのルドルフ・シンドラーとゲオルク・ヴォルフは、軟性胃鏡を開発した[6][7]。照明は豆電球を使用し、先端に近い全長の約1/3の軟性部分は内部に多数のレンズを配列し、約30度曲げることが可能であった[8]。「Lehrbuch und Atlas der Gastroskopie」という本を出版したシンドラーは、「胃鏡の父」と称されている[7]。胃の観察が行われたが、胃全体を観察できない、患者の苦痛が大きい、非常に故障し易い、穿孔のリスクが高いなどの問題があった[8]。開発1950年(昭和25年)10月28日、東京大学医学部附属病院分院の副手だった宇治達郎とオリンパス光学工業(現・オリンパス)の杉浦睦夫、深海正治が、極めて小さなカメラ本体及び光源(超小型電球)を軟性管の先端に取り付けた国内で初めての胃カメラ「ガストロカメラGT-I」を開発した[9]。同年に3人を発明者として「腹腔内臓器撮影用写真機(ガストロカメラ)」の名で特許が出願され、1954年(昭和29年)に発明協会から創立50周年記念全国表彰として朝日新聞発明賞を、1990年(平成2年)に吉川英治文化賞を受賞している。この開発の経緯は、2000年(平成12年)4月18日に、日本放送協会のプロジェクトX〜挑戦者たち〜第4回「「ガンを探し出せ」~完全国産・胃カメラ開発」として放映された。また1980年(昭和55年)に、吉村昭が読売新聞の朝刊に小説「光る壁画」として連載しており、1981年(昭和56年)に新潮社より出版された。日本機械学会では「オリンパスガストロカメラ GT-1」を「機械遺産」第19号として認定した。だが、宇治は父親が開業する医院を継ぐため大学を去り研究を中断した。東大病院分院の城所仂と今井光之助は研究を引き継ぎ、カラー撮影の研究を行った[10]。当時の胃カメラは故障が頻繁に発生し、臨床現場では使いものにならなかった[11][12][13]。1953年(昭和28年)に東大病院本院の田坂内科(現・第一内科)第八研究室の﨑田隆夫、芦澤真六達は胃カメラの研究を始め、カラー撮影の実用化研究、撮影技法の確立を行い、胃カメラ改良の提案と要請を重ねて1956年(昭和31年)に胃カメラを実用化し[14][15][16]、撮影技法や画像の読影法を講習するなどの普及活動を行った[17][18]。これらにオリンパス光学工業から中坪寿雄、松橋章をはじめとする技術者や関係者が協力した[19]。本院の田坂定孝は、この研究を評価し積極的に後援した。1958年(昭和33年)、胃カメラ検査に健康保険の適用が認められた[20]。﨑田と城所の相談により1955年(昭和30年)に発足した胃カメラ研究会が発展し[21]、1959年(昭和34年)第1回日本胃カメラ学会(後に日本消化器内視鏡学会)が会長田坂のもとで開催された[22]。胃カメラは、内視鏡医療の基礎を築いた[23]。現在でも上部消化管内視鏡を総称して、俗に「胃カメラ」と呼んでいる。1960年代になると、光ファイバーを利用したファイバースコープが開発され(バジル・ハーショヴィッツ他)、医師の目で直接胃の内部を観察することができるようになった。胃ファイバースコープには、銀塩カメラが取り付けられるようになり、客観的な検査結果として、他の医師にも写真を供覧できるようになった。1970年代から使用された直視型のファイバースコープ1970年代には、スチルカメラ付きファイバースコープが広く用いられるようになった。電子機器の発達に伴い、スチルカメラにビデオカメラを取り付けた機種や、CCDセンサを取り付けた電子内視鏡(ビデオスコープ)が登場し、現在多くの病院で使用されている内視鏡の原型が誕生となった。ビデオ装置を用いると、複数の医師やコメディカルスタッフが同時に病変を確認することができ、診断と治療に大いに役立った。世界的に主流となったオリンパスは、モノクロCCDをプロセッサー側に使用し、3色の光を連続的に照射して、その反射光をプロセッサー側で合成するという方法を採用していた。対するフジノン(富士フイルム)は、白色光を照射し、カラーCCDカメラを採用していた。いずれにしても、この頃の機種は光ファイバーで画像をプロセッサーに送っていたので、解像度は光ファイバーの密度に左右された。やがてCCDはカメラの先端に内蔵されるようになった。また画像処理のデジタル化が進められた。発展大腸内視鏡カメラの操作部。同心円のダイヤル、左から左右アングルロック、左右アングル、上下アングル、上下アングルロック。大きなボタンは上側が吸引、下側が送気/送水ボタンその後は、超音波センサを取り付けた超音波内視鏡が登場したり、センシング技術の向上だけでなく、軟性管部の改良(口径の縮小、材質の改善)、内視鏡的処置を行うためのサブルーメン(チャネルと呼ぶ)の追加など、内視鏡を直接治療目的で応用するための改良も行われた。画像精度・画質は映像機器の発達と共に大きく発展し、ハイビジョン撮影や拡大内視鏡による拡大観察が可能となってきた。また、内視鏡の細径化も進み、経鼻内視鏡も登場した。2000年代になると、イスラエルのギブン・イメージングや、日本のオリンパスが、カプセル型の内視鏡の開発を進め、2007年(平成19年)4月には、日本においてもカプセル内視鏡を用いた画像診断システムが実用化に至った胃がん、肝臓がんが、大きく減っている背景にあるもの第6回 罹患の原因が明確で「予防対策を講じやすいがん」2019/9/25 津金昌一郎=国立がん研究センター日経Gooday
2022.05.20
空襲で石垣だけになってしまった名古屋城を、金のしゃちほこも含めて、官民一体となって復元させたお話です。再建費用が1億円足りなかったのを商店主たちのアイデアで寄付を集めたのは面白かったです。また、独特の積み方で崩れないようになっている石垣を一から積みなおしたのには感心しました。金のしゃちほこを作り直して上から金を張り付ける技術はおどろくとともに、今の職人さんでできる人はいるんだろうかと思いました。プロジェクトXが終ってからもうすぐ20年ですが、引き継がれた技術の伝承の上でも、新・プロジェクトXの制作が必要ではと思いました。私も金のしゃちほこをぺたぺた触ってみたかったです。名古屋という街はこれまで地味なイメージがしましたが、一度行ってみたくなりました。間組の神部社長は、古き良き愛すべき土建屋の親父さんというイメージで好きです。
2022.05.17
今回のお話は、実に32年もかけて、共食いや謎の衝突事故等、数々の困難を克服してクロマグロの完全養殖を成功させた近畿大学水産研究所のお話です。国の音頭取りで始まったクロマグロ養殖研究事業ですが、途中資金が打ち切りになった後も、別の魚の養殖で資金を確保しながら、研究を続けた近畿大学の実学の精神は立派だと思いました。銀座に近代マグロのお店があり食べログで3.5の高評価なようで、機会を見つけて行ってみたいです。近畿大学といえば勢いのあるマンモス大学というイメージでしたが、今回調べたら、同じマンモス日大から経営分離したことを知りびっくり。初代総長・理事長の世耕 弘一氏は、戦後、隠退蔵物資事を国会で追及されたことを3か月前に苫米地英人先生の「日本人の99%が知らない戦後洗脳史」で読みました。いろいろつながってるんだなと思いました。■参考リンクNHKプロジェクトX:挑戦者たち 海のダイヤ 世界初クロマグロ完全養殖内容説明日本人が最も消費する魚・マグロ。昭和40年代、その漁獲量が頭打ちとなり、安定供給の危機が迫った。そのとき、立ち上がったのは近畿大学水産研究所の男たち。戦後、ハマチやタイ、ヒラメなど、海魚の養殖技術一筋に生きてきた研究者。「海のダイヤ」の異名を持つマグロの王様・クロマグロの完全養殖に乗り出した。世界初の挑戦。魚は共食いや謎の衝突死で全滅するばかり。それでも、30年の苦闘の末、見事、初出荷に成功する。近畿大学水産研究所 銀座店 - 日比谷(居酒屋) - 食べログWiki:近大マグロ近大マグロ(きんだいマグロ)とは、近畿大学水産研究所が1970年から研究を開始し、2002年6月に完全養殖に成功したクロマグロ[1]。近畿大学のベンチャー企業「株式会社アーマリン近大」の販売するクロマグロの登録商標である。概要稚魚を天然から捕獲して養殖した畜養マグロと異なり、養殖施設で人工孵化した完全養殖マグロであり、これによりマグロ資源の減少を防ぐことが可能とされる。マグロの稚魚は皮膚が弱く刺激に過敏であり、光などの僅かな刺激でも水槽の壁で衝突死したり、底部への沈降死をする上に共食いをするため、研究当初は人工孵化した稚魚が大量死してしまい研究は難航したものの、研究を積み重ね対策を講じた結果、2002年6月に完全養殖に成功するに至った[1]。クロマグロは本マグロとも呼ばれる最も大型なマグロで、近大マグロの最大記録は、全長287cm、重量403kgにもなる。現在、年間漁獲量は約2.5万トンでマグロ類全体に占める割合は1.4%。高価であるため「海のダイヤ」と称される。2015年8月からは海の養殖場ではなく、水槽での完全養殖研究を開始[2]。富山県射水市の富山実験場で直径10メートル、深さ3メートルの水槽を使い研究が進められている[2]。産業化当初クロマグロは生き餌しか食べないとされていたが、研究の結果、2008年にはクロマグロ用の配合飼料も開発され、産業化が可能となった。稚魚から幼魚にする「中間育成」も近畿大学と豊田通商の子会社「ツナドリーム五島」により、従来生存率2~3%だったものが、2011年に生存率35% まであげる事に成功し、量産が可能となった[3]。2014年7月16日、近畿大学が豊田通商との提携関係を拡大し、完全養殖マグロの大量生産を始めると発表[4][5][6]。近大の技術を使い産卵や稚魚育成を行う種苗センターを豊田通商が長崎県五島市に建設し、2015年5月に稼働させ、2020年に日本国内の養殖需要の半分に相当する年間30万尾の「近大マグロ」の稚魚を生産する計画[4][5][6]。2014年11月26日、近畿大学と豊田通商が完全養殖クロマグロの生産量を2020年に現在の年80トンから約3倍の240トン(約6000匹)に増やすと発表[7][8]。2017年度には、北米やアジアへの輸出も開始する予定[9]。2015年7月23日、近畿大学と豊田通商がクロマグロの養殖施設「ツナドリーム五島」の隣接地にいけすに入れる前の稚魚を育てる「ツナドリーム五島種苗センター」を新設[10]。「ツナドリーム五島種苗センター」でクロマグロを卵からふ化させて、約30日かけて体長5センチメートル前後の稚魚になるまで育成し、その後、「ツナドリーム五島」で稚魚をいけすに受け入れ、養殖業者に出荷できる体長30センチメートル、重さ約1キログラムの幼魚「ヨコワ」に育てる[10]。「ヨコワ」の多くは養殖業者に販売し、一部成魚まで育て「近大マグロ」として販売している[11]。2017年10月5日、豊田通商と近畿大学は「近大マグロ」の海外輸出を本格的に始めると発表した[12]。2020年に約2000匹の輸出を目指すとしている[12]。販売近畿大学の関連会社である「アーマリン近大」を通じて、成魚が百貨店・飲食店等に販売されている。2014年12月1日、近畿大学とエースコックは共同開発した「近大マグロ」を使ったカップ麺を限定150万食で発売したと発表[13][14]。近大が展開する専門料理店ででたマグロの中骨からエキスを炊き出してスープにしたもので、近大はこれまで中骨を廃棄処分していたが、近大からエースコックに再利用の検討要請をし、共同開発が決まった[13]。大手でマグロのカップ麺は初めてとなる[13]。このほか、中骨エキス入りカレーパン(第一屋製パン)、美容液(UHA味覚糖)が発売された。兵庫県姫路市に本社を置くコードバンは、近大マグロの皮をなめした皮革で名刺入れや財布などを生産・販売している[15]。近大卒の魚と紀州の恵み 近畿大学水産研究所2013年4月26日、大阪駅北側の再開発地区・うめきた内:グランフロント大阪の北館「ナレッジキャピタル」6階に、近畿大学とアーマリン近大、およびサントリーグループと和歌山県との連携による養殖魚専門の料理店「近大卒の魚と紀州の恵み 近畿大学水産研究所」(大阪店)が開店した。同店では、水産研究所が育てた「近大マグロ」などの養殖魚を中心とした魚料理をはじめ、水産研究所が所在する和歌山県の協力を得て、和歌山県産の食材にこだわった料理を提供している。店舗開発、運営等については飲食ビジネスに精通したサントリーグループがパートナーとなった。大学が研究の成果として自ら生産したものを、産官学が連携して専門料理店にて消費者に直接提供するケースは、日本の大学では初の試みとのことである。2013年12月4日には第2号店として、東京都中央区銀座6丁目の銀座コリドー街に、銀座店が開業した[4]。Wikipedia:近畿大学近畿大学(きんきだいがく、英語: Kindai University)は、大阪府東大阪市小若江3-4-1に本部を置く日本の私立大学である。1943年に設置された。大学の略称は近大(きんだい)。文理合わせて15学部49学科を擁する総合大学である[1]。概観近畿大学は1925年に財団法人日本大学が設立した日本大学専門学校を淵源とし(初代校長・市村光恵)、1939年に日本大学大阪専門学校と改称し、翌年には日大から経営分離した。太平洋戦争下の1943年に大阪理工科大学を開学[2]。1943~44年に起きた「大専騒動」[3] の混乱を収束するために東京から派遣された世耕弘一(日本大学理事)が大阪専門学校の校長と大阪理工科大学の学長になり、戦後も引き続いて新制近畿大学総長及び理事長に就任したことから、世耕が事実上の創設者と看做されている[4]。日本国内の私立大学において、有数の学部・学科数、並びに在学生・卒業生数を有する伝統や歴史のある大学として知られており、マンモス大学としても知られる。近畿大学によると、短期大学を含め約3万3400人の大学生が在籍し、西日本では最大級としている[1]。尚、朝日新聞出版発行「大学ランキング・2012年度版」の「大学別同窓会員数ランキング」で同学は、日本大学(約100万人)、早稲田大学(約60万人)、明治大学(約50万人)に次ぐ第4位(約45万人、西日本の大学では第1位)となっている。2014年3月6日に近畿大学は、2014年(平成26年)度の一般入試志願者数が過去最高の10万5890人に、総志願者数も14万人を超えたと発表した[7]。これは早稲田大学、明治大学、法政大学、日本大学などを上回り、首都圏以外の大学では初めての「志願者数日本一」となるものであった[8]。Wikiipedia:世耕弘一世耕 弘一(せこう こういち、1893年3月30日 - 1965年4月27日)は日本の教育者・政治家。衆議院議員(8期)、経済企画庁長官(第2次岸内閣)、学校法人近畿大学理事長などを歴任した。来歴・人物和歌山県東牟婁郡敷屋村(熊野川町をへて現・新宮市)に中農・世耕佐七の五男として生まれる。一旦は材木店に丁稚奉公をするが、その後苦学して、日本大学法文学部に入学。日大の政治経済海外研究員としてベルリン大学に5年間留学。帰国後の1931年に日本大学教授。1944年に日大と関係の深い大阪専門学校の校長と大阪理工科大学長に就任。学制改革に伴い、大阪専門学校と大阪理工科大学が合併し近畿大学となると初代の総長及び理事長に就任した。また、1932年に故郷の和歌山県から第18回衆議院議員総選挙に立候補し当選、その後幾度かの落選をしながらも通算で23年間にわたって衆議院議員を務めた。戦前は立憲政友会に所属し、戦後は自由党の結成に参加した。1947年3月の衆議院決算委員会で「日銀の地下倉庫に隠退蔵物資のダイヤモンドがあり、密かに売買されている」と発言。隠退蔵物資事件を暴露する。この軍需品払下問題にからむ大規模な詐欺横領事件は経済問題から保守政党の党費にからむ政治問題になった。日銀の地下倉庫の隠退蔵物資が、その後も密かに運用され、俗にM資金と呼ばれるとの噂が絶えなかった。またこの噂を利用して多くの詐欺事件も発生した。1948年、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[1]。第2次岸内閣で経済企画庁長官を務めた。1965年4月27日死去。享年72。日本人の99%が知らない戦後洗脳史 Kindle版 苫米地英人 (著)年間売り上げ27億円! 養殖魚ムーブメントの立役者 - 集英社抜粋現在の売り上げは養殖用稚魚などの販売で年間約27億円。今もその中から研究費の一部が捻出されている。それほどまでして研究を続ける素地がどこにあったのか?
2022.05.13
TOTOがウォシュレット開発に至るまでの開発の苦労話です。これまで世の中に無かった機能の製品で、しかもあまり表には出しにくい分野の製品なので、男性はもとより女性の実験モニターを集めるのに苦労されたようです。広告を打とうとしても、便器ということで、新聞、雑誌等には難色を示され、TVCMに賭けたそうです。コピーライターは仲畑貴志さんが起用され、戸川純さんが出演されてあのCMが登場しました。仲畑貴志さんのCMはこのほか、サントリーの子犬のCM、ウォークマンのサルのCM、心も満タンに、コ・ス・モ・石・油、目の付け所がシャープでしょ!とか、多数あります。エーザイ・チョコラBBのCMコピー「世の中、バカが多くて疲れません?」で、世間から反発を買うと、それをユーモアのあるCMで返すところはさすがだと思いました。ウォシュレットが、海外にイマイチ普及しない理由を調べました。水質の問題、衛生上の問題、コンセントの問題、治安上の問題とかいろいろあるそうです。外人に受け入れられないというよりも、やむをえず設置できないというのが真相と思えました。■参考リンク5/10NHKプロジェクトX:革命トイレ 市場を制す作品内容今や日本のトイレのほぼ2軒に1軒の割合で設置されている「温水洗浄便座」。心地よいお湯でお尻を洗い温風で乾かす。古来「ご不浄」と呼ばれ、不潔の代名詞だったトイレのイメージを、「快適」で「清潔」な空間へと変えた革命的な製品である。清潔志向の高まりから、不況の中でも売り上げを伸ばすヒット商品でもある。その開発の影には、ひたむきにトイレと向き合い続けた技術者たちの姿があった。 昭和36年、北九州の街に降り立った男がいた。本村久。早稲田大学理工学部を卒業、就職したのは東洋陶器(現TOTO)。戦前から続く国内最大手のトイレメーカーだった。ウォシュレットが海外で普及しない理由:配管のすべてがわかる【配管百科】日本に来た外国人観光客の驚くもののひとつがトイレのウォシュレット機能です。実は海外ではこのウォシュレットはほぼ普及していません。そこには日本とは違う海外ならではの事情がありました。1980年の販売開始から一般家庭を中心に浸透し、近年は一般家庭以外にも急速な広がりを見せているウォシュレット。今では商業施設やホテル・旅館など、設置されている場所はたくさんあります。しかし海外ではあまり普及していません海外の人達はほとんどウォシュレットの存在自体を知りません。日本では公共交通機関のトイレやショッピングモールのトイレですら結構目にしますが、海外では殆ど普及していません。マドンナが2005年に来日した時「ウォシュレットに会いに来たわ」とコメントしたほどで、アメリカでも普及していないのが現状です。ではなぜ海外ではウォシュレットの普及が進まないのか?水質の問題日本の水は「軟水」ですが、海外では「硬水」の地域が非常に多く、この水質の違いこそが海外でのウォシュレット普及の妨げになっていると考えられています。ヨーロッパでは水道水が石灰分を含んだ、飲料にも適さない硬水であり、これをウォシュレットに使用すると、含まれている石灰分が内部で凝固し、ポンプが故障したりノズルが詰まることがあります。そのため、トイレ便座洗浄器のような微妙な水の出方が問われるものには向いていないのです。以下略好きなCM:戸川純TOTO ウォシュレット おしりだって洗ってほしい、テレフォンショッキング、蘇州夜曲 2021.07.27選手村のウォシュレット「日本、すごい」と話題 海外選手も狂喜乱舞「オーマイガー!」著者:ENCOUNT編集部東京五輪の男子競泳ニュージーランド代表ルイス・クレアバートが自身のTikTokを更新。女性選手たちと選手村自室の温水洗浄便座をチェックし、ウォシュレットに歓声を上げる様子を公開している。以下略。進化するトイレと海外展開の行方2017.06.24:SPEEDAWikipedia:仲畑貴志仲畑 貴志(なかはた たかし、1947年8月20日[1] - )は、日本のコピーライター。事業構想大学院大学教授[2]。京都府京都市生まれ[3][4]、京都市立洛陽工業高等学校機械科卒業[5]。東京コピーライターズクラブ会長[6]。仲畑広告制作所・仲畑広告映像所主宰[4]。宣伝会議コピーライター養成講座校長[7]。株式会社ナカハタ社長[8][9]。糸井重里や川崎徹などと共に広告業界から頭角をあらわし、コピーライターブームの立役者となった一人として知られる[要出典]。「コピーライターの神様」と称される[10]。これまで手掛けたキャッチコピータコなのよ、タコ。タコが言うのよ。(サントリー・マイルドウォッカ樹氷)樹氷にしてねと、あの娘は言った。(同上)みんな悩んで大きくなった。(サントリー・サントリーゴールド900)トリスの味は人間味。(サントリー・トリスウイスキー)※カンヌ国際広告映画祭金賞受賞働いているお父さんより、遊んでるお父さんのほうが、好きですか。(サントリー・オールド)ウイスキーも音楽もなかったら、心がグシャグシャになってしまうなぁ。(サントリー・ホワイト)初めて会ったのに、親友だと思った。(同上)いい曲は、企画書からは生まれない。(同上)知性の差が顔に出るらしいよ……困ったね。(新潮社・新潮文庫)知性って、すぐ眠りたがるから……若いうちよ。(同上)おしりだって、洗ってほしい。(TOTO・ウォシュレット)やっぱり、おしりは締まり屋さん。(同上)好きな人のもにおうから。(同上)カゼは社会の迷惑です。(武田薬品工業・ベンザエース)ベンザエースを買ってください。(同上)そこにカゼがある限り、ベンザエースは許しません。(同上)キミがつらそうだと、あのヒトもつらい。(リクルート・Bing)キミが幸せになっても、誰も困らない。(同上)キミが幸せだと、よろこぶヒトは多い。(同上)夢中になれば、みんな少年少女だね。(ニチイ・現イオンリテール)大人の気持ちが、子供にわかって、たまるか。(ワールド ゴールド カウンシル)私は、あなたの、おかげです。(岩田屋)できれば、あなたと、くっつき虫。(同上)にんげん、岩田のつもりです。(同上)昨日は、何時間生きていましたか。(パルコ)荒野に出ることだけが、冒険じゃない。(同上)学校じゃ教えてくれなかったけど、知りたいこと、知りたかった。(同上)目的があるから、弾丸は速く飛ぶ。(同上)ケンカはやめた。だから、もう負けない。(同上)死んだらどうなるのだろう。考えていたら涙が出ちゃった。(同上)心を動かしても、汗を流せることを知った。(同上)賛成1、反対9。どちらも、まちがいじゃない。(同上)奇麗なものと奇妙なものは、どこか似ているね。(同上)あなたも、わたしも、ちょっとずつ狂っています。(同上)こんなに憎み合うのは、あんなに愛し合ってたからですか。(同上)キミがいないと、みんなさみしがるよ。(同上)顔は、ハダカ。(コーセー・アンテリージュ)毎日の、毎日が、変わる。(毎日新聞社・毎日新聞)なんだ、ぜんぶ人間のせいじゃないか。(同上)歴史は、あっちこっちでつくられる。(朝日新聞社・朝日新聞)勝つのは、負けるより大変だ。(講談社・CADET)※現在は廃刊。好きだから、あげる。(丸井・1980年キャンペーンCM)ソニー製ではない。ソニー生まれである。(SONY・AIBO)「むずかしい」を「カンタン」に。(IBM)反省だけなら猿でもできる。(大鵬薬品工業・チオビタドリンク)無くしてわかるありがたさ。親と健康とセロテープ。(ニチバン・セロテープ)目のつけどころが、シャープでしょ。(シャープ)ではどこで選ぶか? お答えします。(同上)今日、私は、街で泣いている人を見ました。(エーザイ・チョコラBB)男が、大泣きしたって、いいじゃないか。(月桂冠)明るいニュースだけの新聞は無いか?(同上)人類はアブナイものをつくり過ぎた。(農協)農業が壊れたら、日本人は全員会社員になるのだろうか?(同上)痛いのはイヤだ。苦しいのはイヤだ。殺されるのもイヤだ。(アムネスティ・インターナショナル)仲良くしていれば、ケンカにならない。(住友林業)会社、コンクリート。帰ったら、木の家。妻、美人。(同上)愛とか、勇気とか、見えないものも乗せている。(JR九州)夢とか、希望とか、見えないものも乗せている。(同上)顔を見ないと話せない。顔を見たら話さなくていい。好きなふたりは、行ったり来たり。(同上)心配だから、列車でおいで。(同上)一緒なら、きっと、うまく行くさ。(セゾンカード)生きるが勝ちだよ、だいじょうぶ。(同上)いわゆる、キミの味方になれそうだ。(同上)あなたの人間は、大丈夫ですか。(同上)技はいろいろ、カードはひとつ。(同上)百年、貯めたっていい。(同上・永久不滅ポイント)ココロも満タンに、コスモ石油。(コスモ石油)アデランスは誰でしょう?(アデランス)地球の上、野菜があってよかった。(ピエトロ・ドレッシング)ココロも、カラダも、動かすマピオン (マピオン)愛が、多すぎる。(南海電気鉄道)他多数
2022.05.11
小学生のころ、記念切手を趣味で集めていた中に姫路城もありました。高価な切手でもなく多色刷りでもなかったので印象は薄かったけど覚えています。今回プロジェクトXを見て、高さ48mがすべて木造建築だったのを解体して、また木造で組みなおすという作業にびっくりしました。また2本の25mの心柱のうち、1本が腐っていて、代わりを見つけるのに苦労されたお話が良かったと思います。薬師寺の再建の話と合わせておすすめの作品です。白い美しいお城で、いつか桜の季節に訪ねてみたいお城です。姫路城修理○発行日 1964.6.1:日本郵便趣味協会■参考リンクNHKプロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ 白鷺舞え - 空前の解体工事姫路城・定年前の大仕事内容説明世界でも有数の巨大木造建築、国宝・姫路城。終戦後、倒壊寸前にまで荒廃していたこの城を救ったのは、昭和31年から8年間にわたって行われた解体修理である。高さ50メートルの天守閣をいったんバラバラに解体して、一から組み直す前代未聞の難工事となった。リーダーに指名されたのは、まじめ一途な文部技官・加藤得二。奈良で寺院の修復を手がけていた加藤にとって、姫路城は経験したこともない巨大建築物だった。ふるさとの城を救えと、地元の大工など100人が参加し、「播州一の宮大工」と謳われた和田通 夫が、棟梁を務めた。最大の問題は、城の要となる長さ25メートルの心柱(しんばしら)。大きく傾き、内部が腐っていた。代わりとなる、巨大なヒノキを求めて、加藤は日本中を歩き回る。巨木探しのさなかを襲った、思いがけない事故。プロジェクト最大の危機に、和田が発した起死回生の一言とは・・・誇りと技をかけて、天下の名城をよみがえらせるために闘った男達の壮絶なドラマを描く。
2022.05.08
久々に水戸黄門第5部の安里姫(小林由枝さん)の動画を探していたら、鉄羅漢玄竜(天津敏さんの)動画で見つけることが出来ました。玄竜は水戸黄門の中でも割と強烈なキャラで、安里姫とセットで今でも覚えてます。宮園純子さんは水戸黄門では、小林由枝さんの次に好きです。Wikipediaをみると、あの頃の水戸黄門は製作総指揮松下幸之助さん、製作松下正治さんと、気合が入ってたんだなと思います。2022.8.22リンク切れにより差し替え。2022.9.18リンク切れにより差し替え。安里姫(小林由枝さん)は0:46あたりから。安里姫(小林由枝さん)?は0:08あたりから。安里姫(小林由枝さん)は2:00あたりから。2023.8.20リンク切れにより差替え。2023.9.2リンク切れにより差替え。テレビが生んだ悪役スタア 天津敏 (日本個性派俳優列伝) 単行本 – 2005/7/1天都 カネ子 (監修), 中田 雅喜 (編集), 円尾 敏郎 (編集)amazon猛虎の伸助さん@taketora_0520水戸黄門5部、最終話■参考リンクWikipedia:水戸黄門 (第1-13部)「水戸黄門 第5部」(みとこうもん だい5ぶ)は1974年4月1日から1974年9月30日までTBSで放送されたナショナル劇場のドラマ。製作はC.A.L。全26話(通算154回)。ストーリー光圀の行列に直訴した五島氏の姫から、城代家老・宍戸源左衛門(安部徹)の悪事により危機にさらされている肥前五島列島の福江藩の実情を知らされ、藩を救うため旅に出る。メインレギュラー水戸光圀:東野英治郎佐々木助三郎:里見浩太朗渥美格之進:横内正うっかり八兵衛:高橋元太郎霞のお新:宮園純子風車の弥七:中谷一郎安里姫:小林由枝鉄羅漢玄竜:天津敏解説水戸黄門史上初めての片道道中。第1話と第2話では玄竜の目をひくために偽黄門一行を仕立てて旅をする。偽黄門一行は第2話で玄竜の手の者に襲われてお新を除いて全員死亡する。第24話に光圀の旧友・鍋島光茂役で森繁久彌が初の特別出演。森繁は第1部で初代黄門を演じる予定だったが、東宝のスターであった森繁が東映の撮影所である京都太秦で黄門役を演じることに東宝が難色を示し、結果的に東野が初代黄門に決まった。小林由枝(現:小林かおり)さん:「水戸黄門第5部」安里姫役(1974)、「黄金の日日」お市の方役(1978)とCM:日本海味噌、ハトヤ
2022.05.06
日頃、当たり前のように利用している衛星中継や衛星放送(Bs,CS)ですが、BSとCSの違いはもとよりどんな仕組みかさっぱり知りませんでした。今回のプロジェクトXは1964年の東京オリンピック開催を前にして、オリンピックの衛星中継を実現させるべく、巨大なアンテナを立てて、初の日米衛星中継を実現させたお話です。衛星の微弱な電波をキャッチするのは、米国で灯した電球の熱を日本で感じ取るものだとの例えにはびっくりしました。YouTubeでたまたま見つけた、「衛星通信:東京シネマ(1964年製作)」も面白かったです。衛星中継の仕組みが良くわかりました。東京タワーの建設の映画といい、こういった技術の記録映画は、脚色が無く、素朴で楽しいです。初の日米衛星中継の2回目でケネディ米大統領暗殺を実況された、毎日放送元アナウンサーの前田治郎特派員の話も興味深かったです。おすすめの作品です。■参考リンク「衝撃のケネディ暗殺 日米衛星中継」 ―復興の懸け橋 プロジェクトX~挑戦者たち~ Kindle版昭和38年11月23日。日米初の衛星中継実験に挑んだ人々の物語。衛星からの電波はわずか10兆分の1ワット。アメリカで灯(とも)した電球の熱を日本で感じ取るような難易度。アメリカ側は、日本には技術力がないと参加を拒んだほどだった。しかし、日本の技術者たちは、3年の歳月をかけ、高性能アンテナを完成。実験にこぎつけた。そのとき、送られてきたのは、衝撃の「ケネディ暗殺」のニュースだった。NHK放送史:初の日米宇宙中継 大統領暗殺の悲報「BS」と「CS」の違い:オールガイドWikipedia:前田治郎前田 治郎(まえだ じろう、1928年 - 2014年3月12日)は、毎日放送の元・アナウンサー、プロデューサー、報道記者、および国際室長。ニューヨーク特派員時代の1963年11月23日(日本時間)に、ジョン・F・ケネディ(第35代アメリカ合衆国大統領)暗殺事件(ケネディ大統領暗殺事件)の第一報を、放送では初めて日本に伝えたことで知られる[1]。経歴東京府(現在の東京都)の出身[2] で、商社への勤務を経て、1960年に中途採用(32歳)で毎日放送へ入社した。毎日放送にはアナウンサーとして採用されたが、プロデューサーへの転身を経て、35歳だった1963年2月からニューヨーク支局(当時は毎日放送が単独で運営)に特派員として赴任。赴任からおよそ9ヶ月後の11月23日午後9時(日本時間)に、ケネディ大統領暗殺事件の第一報を、ABC(アメリカ)の社長室から日本に向けて伝えた(詳細後述)[3]。特派員の任期満了を機に日本へ帰国してからも、毎日放送への勤務を継続。国際室長を最後に退職すると、1991年から神戸学院女子短期大学の教授を務めた[2]。2014年3月12日の10時37分に、呼吸不全のため兵庫県西宮市の病院で逝去[1][4]。85歳没。日米間初の「テレビ宇宙中継」でケネディ大統領暗殺事件を報道(1963年)事件が発生した1963年11月23日(日本時間)は、通信衛星によるアメリカ合衆国から日本へのテレビ放送通信伝送の実験日で、午前5時27分50秒(当項での時刻は特記のない限り日本時間)に第1回の実験(NASAの電波発信基地があったモハーヴェ砂漠の風景映像の伝送)が成功したばかりであった[5]。この実験では、ケネディから日本の視聴者へ向けたメッセージ映像(事前収録)の送信も予定されていたが、開始の直前にNASAからの申し入れで急遽取りやめられた。アメリカのテキサス州を遊説中だったケネディが、ダラスでのパレード中(午前4時頃)の銃撃によって急逝していたことによる。前田は当日、マンハッタンに所在していた毎日放送のニューヨーク支局から、ニューヨーク万国博覧会 (1964年)の工事現場の視察に向かっていた。他の日本人記者と同乗していたバスが高速道路の料金所へ差し掛かったところ、料金所の係員が発した"Kennedy, Dead!"(「ケネディが死んだ!」)との叫び声を耳にしたことから、前田は視察の予定を急遽変更。工事現場からマンハッタンへ引き返すと、当時毎日放送と業務提携を結んでいたABCの国際部門オフィスへ直行した。さらに、日本へのリポートに向けて資料を集めている最中に、ABCの広報担当者から「今日は通信衛星の(テレビ放送通信伝送)実験の日で、1回目は成功したが、もう1回実験できるようになっている。2回目の実験は(ニューヨークの現地時間で11月22日の午前7時から)15分間で、君がここ(ABC)にいるのだから、日本語で(現職大統領の暗殺という)この大事件のニュースを日本に送ったらどうか?」と勧められた。前田は後年「自信はなかった」と述懐していたが、実際にはこの提案をすぐに受け入れると、第2回実験の開始と同時に「これは輝かしい日米テレビ中継の2回目のテストであります。この電波に乗せて、誠に悲しむべきニュースをお送りしなければなりません」という言葉でリポートを始めた。さらに、事件関連の映像、ABCスタッフからのメモ、本人曰く「アナウンサーとしての経験」を頼りに、刻々と寄せられる情報(事件発生の模様、リー・ハーヴェイ・オズワルド容疑者の逮捕、リンドン・ジョンソン副大統領の大統領就任など)を13分12秒にわたって伝えた[3]。ちなみに、前田は通信衛星での伝送映像に合わせて社長室から国際電話でリポートを送っていたが、放送上はナレーションを入れただけで映像には登場していない。日本では、第2回実験での配信映像と前田のリポートを、NHK総合テレビと(毎日放送を含む)民放テレビ全局が「テレビ宇宙中継」と称して全国に放送。翌1964年5月12日に日本民間放送連盟が開催した第12回民放大会では、前田によるリポートが、「ケネディ前大統領暗殺事件に伴う報道活動」としてテレビ報道活動賞揚部門で最優秀賞の1つに選ばれた[6]。さらに、NHKで2004年11月30日に放送された『プロジェクトX~挑戦者たち~』第106回「衝撃のケネディ暗殺 日米衛星中継」には、前田がゲストで出演。NHKアーカイブスでは、NHKが『1963年ニュースハイライト』で放送した前田のリポート音源と中継の録画映像(モノクロ)から、冒頭部分のみ「初の日米宇宙中継 大統領暗殺の悲報」というタイトルで公開されている。
2022.05.03
小学5年生のころ、1970年の大阪万博に連れて行ってもらったときは、近未来的な各国のパビリオンに驚かされました。ただもっと驚いたのは関西の鉄道でした。ホテル神戸というホテルに泊まって千里の会場へ電車で行く際、東京では機関車とかに使われていたけれども姿を消した茶色い色の電車が走っていたり、駅が自動改札になっていたのにびっくりしました。結局東京のJRに自動改札が導入されたのは1990年頃と、大きく遅れました。たしか東急は1978年頃大学の時、東横線ですでに導入していたので、もう少し早かったと思います。今回のプロジェクトXは立石電機(現オムロン)による自動改札機の開発の話です。実用化の成功に至るまでのいくつもの難題を解決していく技術者の工夫が興味深いです。パンチ式で穴が券面に空くタイプから磁気式への転換や、大きな荷物を持った人を正しく認識するセンサーの開発、ななめに入れた切符を正しく認識する技術の話は面白かったです。オムロンの創業者立石一真氏の私の履歴書を中学生のころ、日経新聞で読んだことがあります。いまだに印象に残るくらいですからすごく面白かったと思います、内容は忘れましたが。日経電子版で読めるそうなので、時間をみつけて読んでみたいと思います。今なら2か月無料ですし。立石一真氏は若いベンチャー経営者の育成にも熱心でした。デイリー新潮を読むと、日本電産の永守会長とのかかわりが面白いです。NHKプロジェクトXの中でもおすすめの1本です。■参考リンク新価格版 プロジェクトX 挑戦者たち:通勤ラッシュを退治せよ ~世界初・自動改札機誕生~【収録内容】今や全国の鉄道駅で2万台以上設置されている自動改札機。この機械を世界で初めて開発したのは、日本のある部品メーカーだった。壁に突き当たる度に小さなヒントを見逃さず、斬新なアイディアで切り抜け見事に解決。ついに、昭和42年、大阪の北千里駅に日本初の自動改札機が誕生した。オムロン創業者の立石一真 駅の自動改札機を開発した男の「7:3の原理」ビジネス 企業・業界2021年11月08日:デイリー新潮抜粋1987年、長兄の孝雄の後を継ぎ47歳で社長になる。立石電機は工場所在地の地名である京都市右京区花園の通称「御室(おむろ)」に由来するオムロンへ社名を変更したが、この社名の変更やカンパニー制の導入など社内改革に、義雄は取り組んだ。オムロンの創業者の一真は晩年、日本初のベンチャーキャピタルを創設し、日本電産の永守重信ら若い起業家の育成に力を注いだ。京都から京セラ、日本電産といった有力企業を輩出し、ベンチャーの都といわれる礎(いしずえ)を築いた。オムロンはオートメーション時代の必需品となった交通管制システムなどの情報システムや自動券売機、キャッシュ・ディスペンサー(CD=現金自動支払機)、オートマチック・テラー・マシン(ATM=現金自動預け払い機)を開発してきた。近年普及が著しい非接触型ICカードを使った乗車券/プリペイド・カードは得意とする分野だ。 1960年代は、1964(昭和39)年の東京五輪開催に向けて社会全体がうねっていた。通勤地獄と呼ばれ、毎朝、駅の改札には長い行列ができ、けが人も出た。 混雑を解消するために名乗り挙げた企業が立石電機、現在のオムロンだった。取り組むテーマは改札の自動化である。大阪万博と自動改札培ってきた磁気や光学の技術を結集して、自動改札機の開発に名乗りを上げた。 日本初の自動改札機を、どこに設置するかが議論になった。「人類と進歩の調和」をテーマとする世界的イベントが間近に迫っていた。1970(昭和45)年の大阪万国博覧会である。タイムリミットが決まった。 大阪万博の開催を3年後に控えた1967(昭和42)年、〈開発が進む千里丘陵に新設された阪急電鉄北千里駅に、多能式自動券売機、カード式定期券発行機、自動改札装置を組み合わせた世界で初めての「無人駅システム」を実現〉させた。 オムロンのホームページの「創業者物語~立石一真、挑戦の90年~」に、こう誇らしげに記されている。 もっとも、最初は乗客も戸惑ったようだ。改札機に定期券ごと入れたり、紙幣やコインを入れたり、混乱もあった。このため、立石電機の担当者や駅員たちが改札に待機して、使い方を丁寧に説明したという逸話が残っている。以下略日本経済新聞:立石一真(立石電機社長)1974年5月24日~6月21日掲載立石一真(1)熊本生まれ貧困の中で人生学ぶ 祖父の盃屋は父の代に傾く「最もよく人を幸せにする人が最もよく幸せになる」──これが七十余年に及ぶ人生を振り返って得た結論であり、同時に私の信条信念でもある。私の人生で、貧困は少年時代から始まった。従って生い立ちを話すと「ずいぶん苦労されましたね」とよくいわれる。しかし、その貧しい境遇が今日の幸せをもたらしたといえる。また、よそ目には非常に苦労しているとうつっても自分自身にとっては初めての経験ばかり。「人生とはこんなも...この記事は会員限定です。登録すると続きをお読みいただけます。Wikipedia:自動改札機自動改札機(じどうかいさつき、英: automatic ticket gate[1])は、改札業務を自動化するために鉄道駅や空港の改札口(搭乗口)に設置されている機械。ただし、信用乗車方式を採用している地域では一部の路線を除き一般的には導入されておらず廃止された地域もある(後述)。自動改札機の導入状況日本日本では主に改札方式がとられており、駅には自動改札機などの設備が設置されている。(地方の一部路線や、無人駅を除く)なお、簡易改札機(主にICカードの簡易読み取り機)は扉付きではないため、自動改札機には含まれない場合が多い。改札方式が採用されている理由としては、運賃収入の確実な収受(不正乗車の防止)のほか、旅客の安全確保の観点から都市部の狭い駅スペースへ多数の旅客が集中しないように駅構内へ立ち入る旅客数を制限することができるといった理由がある[20]。現在の主流である磁気乗車券を使用した日本初の自動改札機は、1967年(昭和42年)に京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)北千里駅に設置された立石電機(現在のオムロン)製の10台で、定期券専用である[21][22]。その後、札幌市営地下鉄(1971年、昭和46年)や横浜市営地下鉄(1972年、昭和47年)がそれぞれ開業時に全面導入しているほか、他の鉄道事業者においても部分的な導入事例があったものの、自動改札機の導入への動きはあまり広まらず、営団地下鉄(当時)有楽町線のようにいったん撤去した例もみられた。しかし、国鉄の分割民営化で発足したJR東日本が導入に舵を切ると、関東地方の各私鉄や地下鉄、四国旅客鉄道(JR四国)[注 6] を除くJR他社でも自動改札機の設置が標準となり、1990年代後半からは大都市圏以外の地域や新幹線の駅などでも導入する動きが加速した。2000年代以降はICカードの導入に合わせて自動改札機も導入することが多い。磁気乗車券用改札機の実用化現代の主流である磁気化乗車券を使用した自動改札機は、1969年に近畿日本鉄道が学園前駅で試験導入した日本信号製[注 8] が実用化の端緒である。日本で最初に本格導入されたのは、前述の通り1967年の京阪神急行電鉄北千里駅であった。当初、定期乗車券と普通乗車券とでは改札方式が異なり、定期乗車券はパンチカード方式、普通乗車券は磁気化情報読取(バーコード)方式を採用していたが、その後、定期乗車券も磁気化方式に統一され、1972年には、定期乗車券・普通乗車券共用の自動改札機に更新されている。一方、首都圏では、1971年2月20日に東京急行電鉄が東横線の3駅[注 16] に15台を設置。翌'72年には都立大学駅にも5台を設置することで実用化試験を開始した。その結果、1974年6月に7駅[注 17]に39台を設置することで本格採用に踏み切った。その一方、自動改札機については「首都圏特有の交通体系から連絡運輸の比重が高く、国鉄・私鉄界での同時的大量普及が行なわれない限りシステムメリットが生じないため、これ以上の導入は考えていない」[37]と評されていた。その中、1977年4月7日に新玉川線が開業すると、三軒茶屋駅に当初より設置され、その後の1980年代に入ってからも、入場改札の自動化が中心であったとはいえ順次拡大[注 18]されてゆき、東急は、当時の首都圏でもっとも積極的に導入を進めた鉄道事業者となっていた[注 19]。
2022.04.29
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