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新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。昔は毎年お正月のTVは午前中から落語、漫才の番組をつけていました。海老一染之助・染太郎さんの顔を見ないと新年が始まらない気がしました。最近はTVも落語、漫才も見なくなったので、これまでご紹介した落語、漫才も含めて、自分で新春お笑い寄席を作ってみました。当時はちょっとしつこいかなと思っていた林家三平師匠の芸風は今見ると気配りに満ちていたように思います。春やすこけいこさんの漫才は今、見るとパンチが効いて面白いです。2022.3.23リンク切れにより差し替え2022.10.10.リンク切れにより差し替え。■参考リンクツービート(1972-):ビートきよし、ビートたけし横山やすし・西川きよし、星セント・ルイス、春日三球・照代、B&B 、紳助・竜介、海老一染之助・染太郎三遊亭圓歌「中沢家の人々」(1992)、国鉄漫談、授業中人情噺 文七元結(2007) 監督:山田洋次、出演:十八世中村 勘三郎、中村 扇雀、中村 勘九郎、中村 芝のぶと、『いだてん』から考える歌舞伎役者と大河ドラマの深い関係浮かび上がる襲名の法則!?Wikipedia:林家三平芸風・エピソードテレビ時代の申し子と謳われた三平は、テレビが生んだ最初のお笑いブーム、「(第一次)演芸ブーム」の火付け役かつ中心的存在であり、また「爆笑王」の盛名をほしいままにした(今は当然のように在京のテレビ局ではそのように呼ばれているが、存命時はそれほど飛びぬけていたわけではない。当初爆笑王と呼んだことには何らかの意図がうかがわれる)[3][注釈 8][注釈 9]。売れる前は父・正蔵と同じく古典落語を主に高座で行っていたものの、「囃の途中で言葉につまる」、「登場人物の名を忘れる」などの致命的なミスが目立つことが多かったため、仲間内から「大変下手な奴」、「鷹が生んだ鳶」、などと馬鹿にされていた。観客の中にも「この人は本当に落語を喋れるのか」と思うものは少なくなかった[3]。だが3代目三遊亭金馬だけはその素質を感じ、「あいつはいつか大化けする」と将来の大成を予言していた。額に手をやる三平の仕草時事ネタを中心に、「よし子さん」「どうもすいません」[3]「こうやったら笑って下さい(と額にゲンコツをかざす)」「身体だけは大事にして下さい」「もう大変なんすから」「ゆうべ寝ないで考えたんすから」[3]「坊主が二人で和尚がツ―(お正月)。」などの数々のギャグと仕種で一気にたたみかける爆笑落語で人気を博した。そして、「――このネタのどこが面白いかと言いますと……」と現在でいう「スベリ芸」を先駆けるネタも用いたことでも知られている。因みに「どうもすいません」、額にゲンコツをかざす仕草は、元々は父の7代正蔵が客いじりで使用し、息子たちも時折見せる、海老名家のお家芸とも言えるポーズである。なお、「どうもすいません」について3代目三遊亭圓歌は、『NHKアーカイブス』の中で、東京タワーからのテレビ放送で司会をしていた三平が台詞を忘れてしまい、「どうもすいません」と額にゲンコツをかざしたところ、お客に大いに受けたのが始まりであると語っている。子供が泣けばあやす、客がトイレに行けばそれをいじるなど、客いじりにも造詣があった[3]。 持ち時間制限が厳しいテレビでの露出が目立ったという事情もあり、小噺を繋いだ漫談風落語が一般の印象に強く、本格的な古典は苦手と受け取られがちである。しかし、実際には古典落語もきっちりこなせるだけの技術と素養を持っている噺家であった。Wikipedia:橘家圓蔵 (8代目)8代目橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう、1934年〈昭和9年〉4月3日 - 2015年〈平成27年〉10月7日)は、日本の落語家。本名、大山おおやま 武雄たけお。落語協会所属、同協会相談役。出囃子は『虎退治』。前名の5代目月の家圓鏡としても広く知られていた。来歴・人物東京府東京市(現:東京都江戸川区)平井出身[1]。生涯を通して平井に在住していたため、『平井の師匠』という通り名があった[1]。1960年代から1980年代にかけて「ヨイショの圓鏡」の異名で、落語家としてもラジオスターとしても一時代を築いた。徹底的に明朗かつ座持ちの良い芸風で、座敷(旦那衆相手に幇間よろしくヨイショで稼ぎまくっていた)[要出典]のみならず、高座、ラジオ、テレビ、CMを問わず大活躍し、圓鏡の声が聞こえない日はなかったほどの人気を得る。また7代目(自称5代目)立川談志を兄貴分として信頼していた。持ち前の頭の回転の速さからなぞかけを得意とし、テレビやラジオなどの放送番組で人気を博す。この時代にラジオ台本を多く手がけていたのが半村良(作家としてはまだ短編を時折発表する程度だった)で、交友は半村の晩年まで続いている。得意のなぞかけから、自宅の表札の裏に「そのココロは?」と書いてあるとも噂された。また頭の回転を活かした頓知も発揮し、大喜利やクイズでも逸早く回答して「早いが取り柄の出前と圓鏡」「早いと言えば、圓鏡か新幹線か」と自称した。強度の近視のため、黒縁眼鏡を掛けたまま高座に上がっていたが、これは従来の寄席演芸のタブーを破るもので、トレードマークになった。兄弟子の初代林家三平が「ヨシコさん」で売ったのに対抗し、愛妻の節子夫人[2]をネタにした「ウチのセツコが」というフレーズが大いにウケた。1960年代から1980年代初頭まで、CMキャラクターとしてもお茶の間でお馴染みの存在となり、人気者になった。
2021.01.01
このドラマがやっていた時は高校受験の頃であまり熱心に見ませんでした。奥様は18歳で二枚目だった石立鉄男さんが三枚目を演じたのが印象的だったり、墨田とはまた違った感じの下町の風景、都電等を覚えています。YouTubeで第一話の一部を見ると、森繫久彌さんが出るなど意外とシリアスなドラマだったと思い、あらためて、観たくなりました。シンガーズ・スリーのオープニングの主題歌もぽわんとして好きでした。日産自動車の歌が懐かしいです。2021.9.9リンク切れにより一部差替え。■参考リンクWikipedia:水もれ甲介『水もれ甲介』(みずもれこうすけ)は、日本テレビ系列で放送されたテレビドラマである。石立鉄男・ユニオン映画シリーズの5作目で、放送期間は1974年10月13日から1975年3月30日までの全25話。あらすじ下町の水道屋三ッ森工業所の主人・保太郎は危篤状態に。最初は病院へ行くのも断った長男・甲介だが、危篤と聞き駆けつけると、保太郎はこれまで話さずにきた家族の秘密を明かした上で一言を残し息絶える。結果、甲介は一度は勘当された身でありながら三ッ森工業所を切り盛りしていくことに。主題歌「水もれ甲介」 作詞:白井章生、作・編曲:大野雄二、歌:シンガーズ・スリーこの主題歌はアルバム「コメディードラマ・ソングブック」、「日曜夜のテレビは哀愁」、「ソフトロック・ドライヴィン 美しい誤解」に収録されたオリジナルのフルコーラス版の他、大野雄二のアルバム「Made in Y.O.」にも新規録音にて収録されている[1]。Wikipedia:シンガーズ・スリーシンガーズ・スリーは、女性3人組による、日本の女声コーラス・グループ。日産自動車のCMソング「世界の恋人」が代表曲として知られている。都営交通が描かれた映画・ドラマ第3回「パパと呼ばないで」「水もれ甲介」泉麻人が行く 東京 都電 トロリーバスが走った道 1 | NO.5水もれ甲介「鉄ちゃんの人間のデカさに圧倒されて」と原田大二郎 [懐かし映画・ドラマ]:戦後史の激動
2020.12.08
来年1月から久々に宮藤官九郎さんのドラマが始まります。宮藤さんの作品で一番好きなタイガー&ドラゴン主演の長瀬智也さんが主人公なので期待してます。同じ宮藤さんの別のドラマを観ていて、長瀬さんが主役をやっていたら別の展開になっていたろうなと残念に思っていたくらい長瀬さんの演技は好きです。役者さんによっては長い年月の間に、昔輝いてたのが鈍ってくることもありますが、4年前のTOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬも、そこそこ面白かったし、楽しみにしています。今回のテーマの一つに介護があります。Wikipediaを見たら宮藤さんももう50歳で親の介護をそろそろ意識する時期なのかなと思いました。作品で介護をどう扱うかも興味津々です。このドラマでは資産家である父と婚約するヘルパーという設定があります。親の介護をしていたとき、聞いた話で、世話をするヘルパーに遺産を一部上げると高齢者が約束してくれたのに、いざ亡くなったら、もらえなくて残念だったとこぼしたヘルパーがいたり、資産をたくさん持つお医者さんが介護保険を使わず自費でヘルパーさんを雇い、気前よくヘルパーに高額のお金をあげたりとか、介護保険の契約以上の関係に、高齢者とヘルパーがなることが、まれでは無いと知りました。そう思うと、今回のドラマも、絵空事でなく実際にありうることとしてみておくとよさそうに思います。もう一つ、今回のテーマのプロレスという設定に興味があります。15年くらい前に、飲み友達が仕事で入手した大日本プロレスのチケットで、よく後楽園ホールのリングサイドで見に連れて行ってくれました。はじめてプロレスを会場で見ましたが、場外乱闘に巻き込まれないように逃げたりとかの臨場感が迫力がありました。関本大介選手や伊東竜二選手を応援してました。TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬに、関本大介選手が出ていたことからすると、宮藤さんも大日本プロレスファンなのかなと思います。宮藤さんのプロレス観がどう描かれるかも楽しみです。ついでにいうと、当時は女子のアップルみゆき選手を応援してました。ブロマイドにサインしてもらって握手してもらったのが懐かしいです。■参考リンクWikipedia:俺の家の話長瀬智也「最後のドラマ」にクドカンが施した仕掛け2020年10月15日Friday Digitalただのホームドラマに終わるはずがないTOKIO・長瀬智也(41)の新作ドラマの役柄が、父親の介護のために現役を引退するプロレスラーに決まった。この役柄に扮するのは約3年半ぶりの主演連続ドラマ『俺の家の話』(TBS、来年1月スタート)。長瀬は同3月末にTOKIOを離脱し、同時にジャニーズ事務所も離れることが決定済みで、以降は「裏方としてゼロから新しい仕事の形を創り上げていく」と表明していることから、ひとまず最後のドラマということになる。TOKIOではボーカルとギターを担当してきた長瀬。役者としても活動し、高評価を受け続けてきた。演じられる役柄の幅の広さが特徴の1つで、これまでにトラブルシューターや落語家兼ヤクザ、超恋愛体質の刑事、天才医師などに扮し、いずれも自分のものにしてきた。どうして役柄の幅が広いのかというと、インテリも愚か者も演じられる希有な存在だから。どちらも自然体で演じるのはベテラン役者すら難しい。もちろん、善玉も悪玉もOK。上品な男も下品な男もやれる。最後の作品でも守りに入らず、引退したプロレスラーという新境地に挑むが、精悍ということもあり、この役もハマるだろう。長瀬本人はこう語っている。「磯山プロデューサーと宮藤さんと11年ぶりにタッグが組めて幸せに思います。演じる気持ちは『IWGP(池袋ウエストゲートパーク)』の頃と何も変わりません」(TBSホームページより)そう、プロデュースするのは磯山晶さん(53)で、脚本を書くのはクドカンこと宮藤官九郎氏(50)。『池袋ウエストゲートパーク』(2000年)『タイガー&ドラゴン』(2005年)、『うぬぼれ刑事』(2010年)と一緒だ。NHK連続テレビ小説『あまちゃん』(2012年)などを大成功させたクドカンの才能と実力はもはや説明するまでもないだろうが、磯山さんもドラマ界で誰もが天才と認める数少ない人である。アシスタントプロデューサーのころには漫画『プロデューサーになりたい』を週刊ヤングマガジンで連載し、高い評価を受けた。おそらく漫画家に転身しても成功を収めたに違いない。企画にゴーサインを出す編成部に異動になっていた当時は『逃げるは恥だが役に立つ』(2016年)を大ヒットさせ、制作現場に戻ると『恋はつづくよどこまでも』(2020年)をチーフプロデューサーとして大当たりさせた。視聴率が取れる人であるだけでなく、ドラマ界に新風を吹き込み続けているのである。長瀬の秘められていた魅力や眠っていた才能を引き出した人でもある。最後のドラマはこれ以上にない布陣でつくられると言ってよい。ストーリーはクドカンのオリジナル。小説や漫画を原作する連ドラが圧倒的に多くなってしまった中、クドカンが創作者としての矜持を見せる形だ。そのストーリーは次の通り。長瀬が演じるのは、ブリザード寿というリングネームで活動するプロレスラーの観山寿一。リングネームに早くもクドカンらしさが表れている。寿一は過去には大規模プロレス団体に所属する人気レスラーで、プロレスが盛んなプエルトリコのチャンピオンにまでなったが(このマニアックな設定もクドカンっぽい)、ケガや年齢の問題もあって、今は小規模団体で細々と試合に出ている。そんな寿一のもとに父親が危篤との報せが入る。この父親が超大物。能楽師の観山寿三郎で、二十七世観山流宗家にして人間国宝であり、全国に1万人以上の門弟がいる。これは実在する能の流派、観世流のパロディに違いない。プロレスラーになる前の寿一は寿三郎の跡を継ぐと目されていたが、あまりに厳しい父の指導に反発して家出。以降、20年以上も寿三郎ら家族と没交渉だった。その後、寿一は寿三郎の危篤を知るや急いで自宅に戻る。その顔を見て驚く家族たち。一方、寿三郎は奇跡的に一命を取りとめる。そして寿一らに自分の介護ヘルパーの女性を紹介。その女性と婚約し、遺産もすべて譲ると言い出す。人間国宝で門弟1万人だから、遺産はさぞ莫大だろう。一方、寿一はプロレスラーを引退し、自宅に戻り、寿三郎の介護をすることを決意。ただし、疎遠だった家族や遺産総取りヘルパー女性の存在がある。介護と遺産相続を巡る激しいバトルのゴングが鳴る・・・。TBS側の説明によると、カテゴリーはホームドラマ。家族の姿が描かれるのだから、そう位置付けられるだろう。家族のいる人の大半が経験する介護と相続も浮き彫りにされる。そもそもTBSは『寺内貫太郎一家』(1974年)や『渡る世間は鬼ばかり』(1990年~)などを制作してきており、ホームドラマはお家芸の1つだ。もっとも、長瀬と磯山さん、クドカンが組むのだから、既視感のあるホームドラマにはならないはず。『池袋ウエストゲートパーク』なども斬新としか言いようがない連ドラだったが、『俺の家の話』も令和期ならではの清新なホームドラマになるに違いない。クドカンはこう語っている。「長瀬くん、磯山プロデューサーと、またドラマが作れる。こんなにうれしいことはないです。僕にとっては長瀬くん自体が、連載少年マンガの主人公のような存在です」(TBSホームページより)長瀬はどんな役柄であろうが、狙い通りに面白く演じてくれる、という意味らしい。さらに、こう続けている。「『長瀬くんと次やるなら、プロレスラーが親の介護をするホームドラマがいいです』。こんな提案を受け入れてくれるプロデューサーは磯山さんだけだし、なんの疑問も持たずに肉体作りに励んでくれるのは長瀬くんしかいません」(同)確かにクドカンの提案はぶっ飛んでいるし、受け入れた磯山さんは随分と懐が深い。長瀬は元プロレスラーらしい体をつくろうとしているという。身長185センチで均整がとれているから、十分そう見えるようになるだろう。磯山さんは次のように語っている。「このドラマは、長瀬くんと長期にわたって相談してきた企画であり、彼本人の思いもたくさん詰まっています。宮藤くんとは、とにかく『現時点での長瀬智也の最高傑作を作ろう!』とずっと話し合って来ました。前代未聞の設定ですが、『家族っていいな』と思える王道のホームドラマを目指しております。是非、期待してください」TBSはこれが長瀬の最後のドラマになるとは謳っていないし、長瀬自身もそれには触れていない。冒頭で書いた通り、長瀬はジャニーズ事務所を退所したら「裏方になる」と宣言済みだが、ぜひ反故にしてほしい。少なくともドラマファンは公約違反を責めないはずだ。これが最後では勿体ないし、淋しすぎる。TBS:俺の家の話TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ(2016):監督・脚本 宮藤官九郎、出演 長瀬智也 神木隆之介 尾野真千子 森川葵 桐谷健太 清野菜名 皆川猿時 古舘寛治 清 古田新太 宮沢りえ 坂井真紀 荒川良々Wikipedia:ハイビスカスみぃ(旧アップルみゆき)
2020.10.16
金曜夜8時のプロレスが終了してこの番組が始まった当時は観ていませんでしたが、高校生になってクラスの話題についていくために試しに観たら結構面白くて見続けました。うろ覚えですが、確か冒頭のオープニングでヤマさんがマッチ箱に入った1000円札だか10000円札だかの謝礼をタレコミの情報提供者に差し出すシーンが気に入ってました。2020.10.10.リンク切れにより別のものに差替え。2020.11.1.リンク切れにより別のものに差替え。2020.12.6.リンク切れにより別のものに差替え。2021.6.3一部リンク切れにより削除。■参考リンクWikipedia:太陽にほえろ!『太陽にほえろ!』(たいようにほえろ)は、1972年(昭和47年)7月21日から1986年(昭和61年)11月14日まで、日本テレビ系列で金曜日20時から1時間枠で放送された刑事ドラマ。全718回。企画など太陽にほえろ! 誕生まで『太陽にほえろ!』の企画は、日本プロレスのクーデターで打ち切りとなった『日本プロレス中継』の代替案として立案された。かねてから編成の核となる看板番組の制作を目指していた岡田プロデューサーは、刑事を主役とした「青春アクションドラマ」の構想を抱いていた。これに、物語に厚みを出すため黒澤明の『野良犬』にも影響を与えたセミ・ドキュメンタリー形式の刑事物の古典映画である『裸の町』をモデルとして、リアルな犯罪捜査を描くことを加えて、当初の企画は立てられた。それまでの日本の刑事ドラマは『七人の刑事』(TBSテレビ)や『特別機動捜査隊』(NETテレビ(現・テレビ朝日)などが主流の、大人向きで渋いイメージが強かった。他にも『ザ・ガードマン』や『キイハンター』(共にTBSテレビ)などがあったが、前者は民間企業たる警備会社、後者は警察とは言えど派手なアクションを駆使した全く架空の特殊チームで、若年層向けとしては桜木健一主演『刑事くん』(TBSテレビ)ぐらいしかなかった。なお、本作はその『刑事くん』の第1部第12話(1971年11月22日放送)にゲスト出演した萩原健一が新人刑事が主役の企画を各所に持ち込んだ結果、本作のスタッフの目に留まって実現したものとも言われている[43]。それまでの「刑事物」は「事件物」と呼ばれて、親が子供に見せたくないドラマの一つだった。初期企画書の題名は「明日に燃えろ」で、ニューヨーク市警察(NYPD)で研修を受けたばかりのキャリア・藤堂英介を筆頭に、初めて刑事になった風間健一の活躍を描くドラマとして1972年2月に企画された。撮影の遅れを出さないために出演俳優を増員。撮影隊をA・B二班体制にし、同時に進行させていくシステムを採用。主人公が潜入捜査官では目立った活動もできず、拳銃携帯もできなかったことから、拳銃を携帯できる私服刑事と設定した。さらに、当時流行していたアメリカの刑事映画(『ブリット』(1968年)、『ダーティハリー』(1971年)など)の要素も取り入れ、刑事のキャラクターを全面に押し出すことを主にし、犯罪者側の描写を控えた。初期段階から新人刑事の成長物語を主軸に描くことは決まっていたが、当初の性格設定は生真面目で規則一辺倒な若者だったので、メインライターの小川英はもっと今風な若者にしようと提案する。当時の世相として高度成長・公害・蒸発が新聞紙面を賑わし、学生運動で学内は荒れ、内ゲバ(暴行事件)が頻発。街ではアングラやヒッピーが流行り、新しい価値観や文化が話題となった。海外ではベトナム戦争が交戦中で、少年誌で『あしたのジョー』が大ヒットしていた時節だった。これらの社会現象や風俗を作品の要素に取り入れた。2月にあさま山荘事件で連合赤軍と機動隊の死闘がテレビ中継され、実際に隊員が殉職するなど、警察がヒーローとして注目される風潮が出てきた。主人公は、当時、刑事役としては異例の長髪で[44]、ファッショナブルな衣装の「NOWな若者」を主人公とするよう変更した。警察という組織にありながらも、反体制的で自己主張するキャラクターに変更。10月の開始予定が7月に前倒しされ、急ピッチで製作が進められる。主役はザ・テンプターズのメンバーとして人気を博し、映画『約束』で注目された萩原健一に決定した(ショーケン自身、テンプターズ解散後、俳優への転向を摸索していた時期でもある)。野崎役は藤木悠(『東京バイパス指令』のレギュラー)を考えていたが、藤木が東映製作のドラマと契約書に印鑑を押した一か月後に太陽にほえろ!の打診があり、藤木は生涯に渡って後悔したと言う。その後、何人かの俳優のテストを経て下川辰平に決まった。銀幕のスター・石原裕次郎はテレビという媒体への出演に懐疑的だったが、自身が経営する石原プロモーションの台所事情もあり、1クール契約で出演を承諾。他にも大映倒産後に東宝入りした関根恵子や、東宝所属の竜雷太などのキャストが集められた。裕次郎に出演が打診された当初、先述の理由などから本人は乗り気でなかったが、まき子夫人が「裕さんと同年代の人は今頃皆、家庭を持ち、父親になっているころだよね。今回の役が息子を待つ父親みたいな役どころっていうのは裕さんにとっていいと思う」と夫に出演を勧めたと言われている[45]。『太陽にほえろ!』のタイトルで制作が決定。当初は主人公・早見淳は皆から「坊や」と呼ばれる予定だったが[46]、ショーケンが猛反発。衣装のイメージから「マカロニ」のニックネームが決まる。新人刑事の活躍を斬新に描いた番組は当時の小中学生から一般視聴者層に受け入れられ、『水戸黄門』と並んで国民的人気番組と称せられるようになった。「これからはテレビの時代です!」と、1クールで契約切れになった裕次郎の続投を本人に強く推したのは竜雷太だと伝えられる。実際に、最初の撮影では、16ミリフィルムのカメラを見て、映画俳優だった裕次郎は、「そんな小さいカメラで俺が撮れるのか」と馬鹿にするように言い放ったという。テキサス刑事編で当時の最高視聴率を記録した際、裕次郎が『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に出演した時に司会の芳村真理から「以前は街中でも〝裕ちゃん〟と呼ばれることが多かったと思いますが、最近では〝ボス〟と呼ばれることが多いんじゃないですか?」と聞かれ「イヤ…テレビの影響って凄いですね。どこへ行ってもボスですから…」と答えている。本作のヒットによりテレビの影響力を知った裕次郎は、石原プロモーションで『大都会』や『西部警察』といったテレビドラマの制作を手がけるようになったという。逸話本放送の放映中にはファンクラブ(FC)が作られ、情報誌が少ない時代に番組とファンとのパイプ役を務めた。代表的なサークルは「SUNRISE」、研究会「七曲署」などで、「10周年記念号」にFC主要メンバーがファン代表として掲載された。現在[いつ?]は活動休止し、かつての会員がネット上やコミックマーケットで活動している。石原裕次郎は解離性大動脈瘤で長期闘病生活からの復帰初仕事は、自身がオーナーである石原プロ制作の『西部警察』よりも、『太陽にほえろ!』を優先し先に復帰した。ただし、放送当初の頃は「東宝(国際放映)の作品に出演しているのだから」(裕次郎は日活出身)と、あくまでビジネスとして割り切っていたふしがあった[88]。その他の理由として、『西部警察』の脚本が裕次郎の不在を前提として描かれていたために復帰が遅れたとする説もある。裕次郎が多忙を極めていた頃、滞在先のハワイまでセットを持ち込んで、電話を取って対応するシーンだけを貯め撮りしていたということがあった[89]。岩城と妻の令子の間にできた双子の名前は裕太と陽子であり、石原裕次郎が命名した。双子の設定は小野寺昭の実生活を参考にした、とプロデューサーの岡田晋吉が『太陽にほえろ!1980 DVD-BOX I』映像特典内のインタビューで語っている。早見役の萩原健一は、自ら殉職と言う形で降板を希望したが「人が死ぬ間際には、どんなことを思ったり言ったりするのだろうか?」と悩み、下川辰平に相談。下川は「戦争中の特攻隊員が故郷のお母さんのことを思い叫びながら、敵機に突っ込んで行った」と語り、そのアドバイスをもとに早見の最期のセリフが決まった[90]。これに対して、松田優作は、「人間の生と死」とは何かを考え、「人間が死を前にすると、見栄を張り、カッコよく見せて、死を受け入れるのではなく、貪欲に、無様に、生を求め、死にたくないと考えるのではないだろうか」と考え、殉職シーンを作り上げた。殉職にて降板(出演者やスタッフらは「番組卒業」と表現することがある)の際、ストーリーはある程度殉職刑事の意向が脚本家や番組スタッフに受け入れられ、「最後の花道」を作ったと語られる[91]。松田優作はオーディション当時、家にテレビが無く、見ていなかったため、「シーン演じて」と言われても、全て感覚で演じた。これがスタッフに気に入られた。放送開始以来、新人刑事には役名に「ジュン」と命名することが暗黙の了解となっていたが、4代目新人刑事である田口良にはそれが出来なかった(3代目である三上「順」が存命していたため)。そこで田口役の宮内「淳」に芸名として「ジュン」が命名された[92]。これに関連して、6代目新人刑事である五代潤の名前には「5代目のジュン」という意味が含まれているが、実際は劇中で「ジュン」と名乗った新人刑事は彼が4代目である。それでも5代目とされたのは前述のとおり、番組としては宮内淳が4代目「ジュン」とみなされていたからである。7代目新人刑事である竹本淳二の名前には「(早見淳に次ぐ)二代目の淳」という意味が込められている。またそのために竹本の登場から5年後に殉職、その約1年後に番組最後の新人刑事となる太宰準が着任するまでの約6年間、「ジュン」を名乗る新任刑事が登場することはなかった。山村刑事は妻・高子が心臓病で危篤状態の時でも捜査に奔走していた。事件が解決した時、高子は既に帰らぬ人となっていた。台本では病院へ駆けつけた山村が亡き高子に語りかけるセリフがあったがカットされた。それは山村役の露口が本物の涙をこぼし、セリフがなくとも充分に悲しみが伝わったからである(第206話「刑事の妻が死んだ日」)。[93][94]小野寺昭演じる島公之が事故死するシーンの現場となったロケ地の神奈川県小田原市のある海岸(旧国道135号(現・神奈川県道740号小田原湯河原線)石橋山古戦場すぐ近くの高台)に、「島公之殉職之碑」がファンによって作られていたという[95][96]。その小野寺は、5年目に一度降板を申し入れたところ岡田プロデューサーに「絶対ダメだ!」と叱責されたためその後は申し入れを封印していた。しかし1979年頃「このままでは刑事以外の役が演じられなくなってしまう」と危機感を抱き改めて降板を申し入れ、あと1年間演じるという条件で認めてもらった。その際、岡田から「局から正式に発表するまでは、ほかの出演者であっても一切口外しないように」と厳命され遵守していたにもかかわらず、まもなく竜雷太から「お前、辞めるんだって?」と声を掛けられ仰天した。その理由は、竜も小野寺とほぼ同時期に降板を申し入れ、岡田から「殿下の卒業がもう決まっているので、あと2年待ってくれ」と慰留されたためである。石塚役の竜雷太は8年目に一度降板を申し入れたが、上述の通り小野寺の降板が決まっていたために実現しなかった。それから殉職するまでの約2年間、竜は本作のみに仕事を絞り、1982年の岩城殉職編の撮影時期に再度降板を申し入れた。岡田プロデューサーが懸命に説得する[97] が本人の意志が固く、第525話「石塚刑事殉職」は番組史上初の90分スペシャルとして放送された。また竜は歴代の殉職刑事でただ一人、藤堂役の石原裕次郎にその臨終を看取られている[98]。下川辰平によると、野崎が犯人を護送中に襲撃され殉職する話[99] を下川自ら提案したが没になったという。下川は生前、初期メンバーの中で自分だけ殉職しなかったことが、今でも心残りだと発言していた。他にも孫が産まれる話も予定されたが、実現されずに終わった。滝刑事役の沖雅也はレギュラーながら当初わずか半年で番組を一旦去ったが、これは加入時に既に決まっていたことであった。理由としては沖が当時半年以上の出演オファーを受けない方針だったことや、“七曲署一係のチームワークを乱す役”としての起用であったことから半年以上は持たないであろうという制作側の判断による。卒業後、2度のゲスト出演を経て1980年から3年ぶりに復帰したが、これはまず番組卒業の決まっていた小野寺の(ポジション的な)後釜が必要だったことや、裏番組の『3年B組金八先生』に追い上げられ番組人気に陰りが見えた事がある。沖は出演に積極的ではなかったが、岡田プロデューサーの頼みを断れずの復帰だった事は岡田プロデューサー自身が沖についてコメントしている、復帰にあたっては前回のように期限を切らず長期出演とした。第一期の沖は他の一係メンバーと対立する役柄であったが、その姿勢は休憩時間にも徹底され他のレギュラー陣と談笑したりせず一人離れて過ごしていた。しかし本来の沖は明るく社交的な青年であったので、卒業後に岡田プロデューサーは当番組での熱演への感謝を込めて、沖を主人公に据え彼本来の明るい性格を前面に出したキャラクターとして企画したのが『俺たちは天使だ!』である。復帰後の沖は精神的な疲労もあって2度にわたって復帰目処の立たない長期休演を余儀なくされ、制作側では欠場のまま番組卒業とすることも考えたが、沖が「きちんとケジメを付けたい」という意向だったことから症状が落ち着いた時点で番組復帰のうえ殉職という形で卒業することになった。卒業にあたっては、番組中ただ一人の「病死」という形をとったが、これは沖自身が提案したものである。西條は同僚刑事に彼独自のニックネームをつけていた。ゴリさん→ゴロウさん、スコッチ→ブランデー、ロッキー→アルプス、スニーカー→スパイク(またはスリッパ)、ジプシー→カルメン、ボギー→イチ、ラガー→ラッキョ、ブルース→パイナップル(「パイナップル頭」から)、マイコン→コンポリ(「コンピューター・ポリス」の略)、DJ→ダサい準(またはDちゃん)、といった具合。西條が殉職しなかったことについて、神田正輝本人は「次は俺と思ってても次から次と後輩が死んでいく。いつ死ぬんだろう? と思っていたら、先に番組の方が死んでしまった」とワイドショー番組のインタビューでコメントしていた。原刑事役の三田村邦彦は当初長期出演になる予定であったが、当時並行して出演していた『新必殺仕事人』(朝日放送)の降板を朝日放送側から認めてもらえず[100]、撮影のために東京と京都を往復する多忙が続いてパンク寸前となり、双方が中途半端に終わってしまうという危機感を抱いたことから、苦渋の思いで『太陽』を降板する決断を下さざるを得なくなった。事情を理解した『太陽』側はこの申し出を快諾、短期間の出演ながら多忙な中での奮闘に敬意を表するとともに「またいつか、ジプシー刑事として戻ってきてもらいたい」という思いを込めてあえて殉職とせず、栄転という形で送り出した(実際降板から約1年後、第593話「ジプシー再び」で一話限りの復帰を果たしている)。地井武男は、第19話(DVDなどでは欠番)に犯人役でゲスト出演した時に、ロケ先で石原裕次郎からカツカレーを馳走してもらったことを裕次郎が覚えており、レギュラー入りの会見の席でその話をされて感動したという。春日部役の世良公則は当初1年で殉職する予定であり本人もそのつもりであったが、地井武男らの説得により半年延命。結果、春日部殉職後の後任の予定だった澤村が交代劇のないままに登場し、春日部とよきコンビぶりを見せた。ロック歌手であった世良だが、挿入歌歌唱の申し入れに対しては「『太陽』には役者で来ているのだから」「自分の歌は『太陽』には合わないから歌わない」と固辞した。竹本刑事殉職の放映の翌日、渡辺徹主演の『気になるあいつ』(日本テレビ)がスタート。その冒頭のシーンは青年医師役の渡辺がテレビの中の竹本に向かって「ラガー死ぬな!」と叫ぶものだった。また、渡辺は、出演中に体型が変ってしまったため、殉職シーンの撮影中、履いていたズボンの臀部が破れ、下着が丸見えとなりNGになってしまい、普通は殉職シーンの撮影では出演者やスタッフも、これで最後ということもあり、しんみりした雰囲気になるのだが、そのせいで撮影中は皆が笑いをこらえていたので、まったくしんみりした雰囲気にならずに撮影が終了したと、後に渡辺が回想している。又野誠治演じる澤村は、本来 "12人目の殉職刑事" になる予定であった。しかし病欠していた石原裕次郎の体調が思わしくなくレギュラー復帰を断念し番組が終了、予定されていた澤村殉職編もお蔵入りとなってしまった。番組が続行していれば澤村の後任として京本政樹の登場が予定され、番組15周年に当たる1987年7月17日[101] にアフリカロケの作品(未制作)が放送される予定であった。島津刑事役の金田賢一は、既に決まっていた舞台出演のスケジュール上の都合から番組の終了を待たず急遽降板することになってしまったため、制作の都合上準備が多くなる「殉職」ではなく「転勤」という形での番組卒業となった。これは以前に金田本人が自身の公式サイト上で明らかにしていた(現在ページは削除されている模様)。藤岡琢也は、城北署の鮫島勘五郎刑事役(愛称:ゴロンボの鮫、鮫やん、ジョーズ刑事)として初期作品からセミ・レギュラー出演。警察退職後は様々な職業を経てその時々の若手刑事と共演、番組中盤から後期にかけてしばらく登場しなかったが、最終回直前の第711話「ジョーズ刑事の華麗な復活」にて西山浩司演じる太宰と共演。この鮫島刑事というキャラクターは市川森一によって生み出されたもので、出演5作目の第206話「ジョーズ探偵の悲しい事件簿」までは市川が脚本を担当した。その後市川は番組を離れたが鮫島刑事は好評を得ていたため、他の脚本家に引き継がれることになった。犯人を逮捕する際、正当防衛や緊急避難以外で暴行を加えることは違法行為だが、当局は劇中の演出を黙認していた。ドン・ジョンソン主演『刑事ナッシュ・ブリッジス』ではナッシュ自身が金庫破りに扮して盗賊団に潜入して犯罪を食い止めるという、本作の第62話「プロフェッショナル」と酷似した作品と、白骨死体から復顔した顔と瓜二つの人物を真犯人に突きつけて自白させる第66話「生き返った白骨美人」と似たエピソードがある。第84話「人質」と『刑事コジャック』テレビシリーズ1話は酷似しているが、どちらもアムステルダムで起きた実際の篭城事件が元になっている。落語家になる前の立川志の輔がエキストラのバーテンダー役で出演したほか、第196話「言葉の波紋」では、自動車整備工役で出演している[102]。著名声優のゲスト出演も多く、『サザエさん』のマスオの声で知られる増岡弘は脇役で数多く出演したほか、高橋和枝、家弓家正、石丸博也、中田浩二、安原義人、阪脩、中尾隆聖(竹尾智晴)、小山茉美、二又一成、池田秀一、中田譲治なども出演歴がある。また、異色の例として熊倉一雄がメインを張った回などが存在する(第162話「したたかな目撃者」)。熊倉が座長を務めるテアトル・エコー所属の俳優(納谷悟朗、八代駿など)の出演も多く、同劇団の研究生だったラサール石井も石井章雄名義で第275話「迷路」に出演(ただし、遠くで洗車しているのみでセリフは無し)。熊倉は元日本テレビ社員(開局した1953年から1年間だけ在籍)である。また出演はないが、大山のぶ代が本作の脚本を5本ほど担当している。2005年11月よりニューギン製のパチンコのキャラクターに採用された。権利などの関係から、実写映像は使われていない。「太陽にほえろ!」誕生の背景
2020.09.21
小学校を卒業する春から1年続いた番組です。テーマ曲が刺激的でした。学園ドラマと言えば、知的できれいな若い女性の先生も楽しみで憧れでした。酒井和歌子さんの23歳は今見ても、ぴったりの役です。生徒の片桐、山本役で出演された剛達人さん、保積ぺぺさんは印象的でした。保積ぺぺさんの苗字珍しいので調べましたが、穂積隆信さんとは関係なさそうです。ちょっとしもぶくれで愛嬌のある顔の女性徒役の青木英美さんもセクシーで好きでした。あの頃は日曜夜8時の青春ドラマがが楽しみでした。2022.1.28リンク切れにより差替え2022.6.5リンク切れにより差し替え。■参考リンクWikipedia:飛び出せ!青春『飛び出せ!青春』(とびだせせいしゅん)は、村野武範主演による東宝制作、テアトル・プロ共同制作の日本テレビ系で放送された『青春とはなんだ』(1965年)を起点とする青春学園シリーズの1作である。1972年2月から翌年2月にかけて一年間放送された。主題歌『太陽がくれた季節』も大ヒットした。学園青春ドラマの代表的作品。物語「来る者は拒まない」という校長の方針により、無試験入学制度をとっている太陽学園高等学校には全国から落ちこぼれが集まっていた。中でもサッカー部は劣等生の集まりだった。新任の教師・河野武は、赴任早々のトラブルで教頭に疎んじられ、さっそくサッカー部の部長を押し付けられる。だが、河野は持ち前のチャレンジ精神と同僚の女教師・本倉明子の協力を得て生徒たちに熱き思いを伝えてゆくのだった。第1話のタイトルでもある「レッツ・ビギン Let's begin!」がこのドラマを通しての合言葉でテーマである。概要本作は1965年の『青春とはなんだ』を第1作とする東宝制作、テアトル・プロ共同制作、日本テレビ放映の学園青春ドラマの第6作にあたる。このシリーズは『炎の青春』(1969年)を最後に休止していたが、松竹製作の『おれは男だ!』のヒットを受け、その後番組として再開された。青い三角定規が歌った主題歌『太陽がくれた季節』も大ヒットとなっている。番組終了直後に映画化され、東宝チャンピオンまつりの1本として公開された(下記を参照)。舞台となった太陽学園のロケ地は日本大学明誠高等学校(山梨県上野原市)だった[1]。撮影のある休日ともなると、ロケ見学者が殺到した。それ以外のロケも、主に同校の周辺で行われた(海辺のシーンは、静岡県伊豆の下田海岸)。たびたび登場する東山駅[2]も上野原の隣の四方津駅で、今も面影を残している。ホームでのシーンや電車の到着シーンは上野原駅と四方津駅で撮られている。「(舞台の)太陽学園に入学したい」という問い合わせも多かったという。なお、太陽学園の設定はシリーズ次作の『われら青春!』にも引き継がれ、生徒の大部分を除く主な登場人物たちは引き続き、同一のキャストでほぼそのまま登場している(下記、および『われら青春!』の項目も参照のこと)。2017年に11月11日のBSフジの「クイズ!脳ベルSHOW」の11時間特番の中で村野武範と石橋正次が特殊メイクで放送当時の顔になりシーンを再現した。これが他局のバラエティ特番とはいえ終了後久しぶりの新作となる。備考オープニングの映像には3種類ある。第1話から第7話までは、灯台が映し出された画面にタイトルが表示され、村野武範と酒井和歌子のみが登場するものが使用され、第8話からは冒頭に山に立つ村野が映し出された画面にタイトルが表示され、村野とサッカー部の部員たちが登場するものが使用された。さらに第10話からは、基本的に第8話からと同じものに、タイトル部分のみ真っ赤な太陽が映し出されるバージョンに変更された。主要な生徒のひとりである高木を演じた石橋正次は、第14話から第27話までの間(第22・25話を除く)、高木が休学したという設定のもと、出演していない。これは「夜明けの停車場」の大ヒットにより、石橋が歌手として多忙になったための措置で、第28話で“復学”した後は、準レギュラーとして最終回まで出演している[3]。東宝、テアトル・プロ、日本テレビ制作の青春学園シリーズの次作であり最終作となった『われら青春!』(1974年)では、舞台である太陽学園の設定がそのまま踏襲され、村野武範が演じた河野武の後輩である、中村雅俊演じる沖田俊が赴任した形になった。このこともあり『われら青春!』第14話「われら同級生!」には、村野のほか生徒を演じていた剛達人、頭師佳孝、降旗文子、沖正夫らが同じ役でゲスト出演をした。なお、保積ぺぺと青木英美はそれぞれ『飛び出せ!青春』出演時と同じ役を演じており、それぞれレギュラー、準レギュラーであった。
2020.09.12
先日亡くなった大物俳優さんのニュースを見ていたら、デビューのきっかけはオーディションに友人や家族が勝手に履歴書を応募したとのことでした。子供の頃、TVでアイドルのオーディション番組を見ているとよくそんな話を聞きましたその頃は素直に信じていましたが果たしてどうだったのでしょうか。今、考えると私文書偽造にもなりそうですし、友人が履歴書に記入する個人情報をすべて知っているわけでもないでしょうし。芸能界に取材したニュースを見つけたのでご紹介します。■参考リンク【芸能都市伝説】「家族が勝手に履歴書を送った」、それって本当にホント?2019/1/27(若葉イチロウ ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)多くのアイドル歌手や若手俳優が、デビューのきっかけとして、本人からよく聞く話が「親(または兄弟、友人)が勝手に履歴書を送った」である。特にあの美少年を扱う事務所のタレントやローティーン雑誌などのジュニアモデルなどはこの傾向が高いという。しかし、勝手に他人の履歴書が芸能事務所に送られてくるなど本当にあるのだろうか?ある芸能事務所のスタッフはこう語る。「今までに自分が立ち会った経験から言いますと、親や友人に勧められてというのはよくあります。ですが、(本人が)元から芸能界に興味があって、という人の方が圧倒的に多いです。履歴書も自分の意志で送ってくる、またオーディション等にも自分から率先して参加するというのが大多数です」言い換えれば、親、兄弟や仲の良い友人が勝手に履歴書を送ったという御託は、本人がイメージづくりをするための建前であることがほとんどだという。また男子に限っては、芸能界に自分から入りたかったと告白するには気恥ずかしいために、このような口実を使うという。以下略応募したのは自分ではない:発言小町生活・身近な話題おばさん2007年3月16日 11:17 私が若かったとき、テレビでタレントのオーディション番組が、多数ありましたが、その人たちがデビューしたとき、決まって言っていたのが、「本当は友達が出場する予定だったが、急に出場するのを嫌がって、それで替わりに出場して優勝した」 あれ、所属プロから言わされていたんですかね。 最近はミス、コンテストで「母親が勝手に応募した」です。薦められて、ならまだわかるのですが。履歴書くらいなら書けるだろうけど、写真もいるのに勝手に出来るものか、また、審査会場に強制的に連れていかれたのならともかく、自分の足で歩いて行っているのに、こういうことを言うのはどうか、と私は思うのですが。あるコンテスト優勝者の談話に「自分の意思で応募しました」と書かれていて、すごくすがすがしく感じました。 こんなことを思う私がおかしいのかな。毎日、能天気に暮らしている幼稚なばあさん、と思われるでしょうが。 Yahoo!知恵袋友達や家族が、オーディションに勝手に応募してっていうパターンをかなり見かけますが応募する時の写真とかどうしてるんですか?家族ならまだしも、友達は応募用の証明写真みたいのは普通持ってないですよね?ガールズちゃんねる:芸能人の芸能界入りしたきっかけ、経緯122コメント2016/09/10(土) 20:461. 匿名 2016/09/09(金) 16:18:23 新垣結衣女子小中学生向けファッション誌『ニコラ』の読者であった姉に「私はもうできないから」と推されてモデルオーディションに応募してグランプリを獲得3. 匿名 2016/09/09(金) 16:19:34 相葉雅紀SMAPと一緒にバスケがしたくて8. 匿名 2016/09/09(金) 16:20:23 竹内結子原宿でスカウトされたちなみに中学の同級生です10. 匿名 2016/09/09(金) 16:21:14 ジャニーズあるあるお姉ちゃんや親戚のお姉さんが勝手に履歴書送りがち。12. 匿名 2016/09/09(金) 16:24:53 優香池袋パルコ前でスカウトされた。その数分後に別のホリプロの別のスタッフに池袋で、藤原竜也もスカウトされたらしい。20. 匿名 2016/09/09(金) 16:28:19 吉高由里子原宿でスカウトされる佐藤健原宿竹下通りで吉高由里子をスカウトした人にスカウトされる26. 匿名 2016/09/09(金) 16:33:12 2世を伏せて出てきたけど、実は○○の子供でした!ってパターンも結局デビューさせるために動いてた人とかは最初から親の顔を知ってたんだろうなって思ってる28. 匿名 2016/09/09(金) 16:34:04 武井壮バーで犬用ガム噛んでるところをピエール瀧が見てた29. 匿名 2016/09/09(金) 16:35:10 吉高由里子は原宿でスカウトだけどその前の小学生時代、銀色夏生の子供と同じ小学校に通っていた時たまたま見かけた銀色夏生に気に入られて詩集に写真が載せられている子供の頃からオーラがすごいんだろうな30. 匿名 2016/09/09(金) 16:36:13 ジャニーズの本人以外が願書を出した話は絶対本人が出したと思ってるwあと友達の付き添いで行ったら自分が受かった話も。31. 匿名 2016/09/09(金) 16:36:35 昔の芸能人の皆さん 主に歌手ですが スター誕生色んなオーディション番組あったけど ここの出身は 息が長い ちゃんとしてたからね32. 匿名 2016/09/09(金) 16:36:36 山Pは母子家庭で、自分達のために苦労して働いてるお母さんに楽をさせてあげたくて小学生でも働けるのはと自分で考えてジャニーズに応募した。今では、祖父母も呼んで、なるべく一緒にいられる時間を作れるようにって山Pが用意した同じマンションで暮らして生活面も山Pがサポートしてる。山Pのお母さんは、山Pがもうたくさん稼ぐようになって、仕事やめていいよって言ったときも、「まだあんたに養ってもらうほどもうろくしてないわよ」と言って、頼りきりにならなかったそう。山Pが大学生のときには、「今の時代、普通の大学生がバイトでいったいいくら稼げると思う?」ってお母さんに言われて、山Pはそうだなって思って大学4年間は大学生がバイトで稼げる平均的な額を一月のおこづかいとして生活してたんだって。33. 匿名 2016/09/09(金) 16:37:20 中川家礼二、芸能界に興味が無く、兄に漫才をやろうと誘われても断り続けていた。お笑いは好きだったので、兄に「劇場に漫才見に行こうや」と言われて、なんばグランド花月に行った後、謎のビルの一室で面接を受ける。それがNSCの面接で見事に合格→合格した途端、その気になり芸人の道へ。35. 匿名 2016/09/09(金) 16:41:22 沢尻エリカは安室ちゃんに会いたくて芸能界に入った37. 匿名 2016/09/09(金) 16:42:51 手越くん明大中野中学で男子校でモテなかったから、自らジャニーズに応募。実は中学受験で第一志望が青学だったからメンバーの加藤君と同じクラスになってただろうけど、共学なのでジャニーズには入ってなかったかもしれない。だから加藤君と手越君は運命で出会ったような感じ。39. 匿名 2016/09/09(金) 16:51:17 櫻井翔くんは、自分で履歴書応募。お父さんに大反対されたけど、学業を怠らないという条件で、認めてもらえる。撮影やライブでどんなに忙しくても、お父さんとの約束を守り抜き、現役で卒業。41. 匿名 2016/09/09(金) 16:53:54 友達の付き添いで沖縄アクターズスクールへ興味を持つも、多額の月謝が必要なことを知り、母子家庭の為断念帰ろうとバス停で待っていると、スクール校長に声を掛けられ、特待生としてレッスンに通うことにその後、ガールズグループでデビューしたのが安室ちゃん43. 匿名 2016/09/09(金) 16:55:21 柴咲コウ母親の病気の治療費の為に、事務所に履歴書送り、そこから面接したいと依頼がきてモデルから芸能界へ。私は同級生です、絶対売れると思ってた!親孝行な娘さんです!45. 匿名 2016/09/09(金) 17:00:07 稲森いずみ モデル志望で出版社でバイト、an・anの編集者の目に留まり誌面デビュー。からのプロデューサーに「私を女優にしてください」と直談判。母が高校時代クラスメイトでした。隣の高校から見に来る生徒がいるくらい美人だったそうです。46. 匿名 2016/09/09(金) 17:00:47 要潤はバイトしてたイタリアンの店にスカウトマンが来てスカウトされた厨房で料理作ってて客席のフロアには出てないのに厨房と客席の仕切り(?)みたいになってる小さな窓みたいな所からいきなり名刺渡されたって49. 匿名 2016/09/09(金) 17:04:35 >>43柴咲コウはスカウトだよ中学の時にスカウトされたけどお父さんに反対された高校生になってやっとOKが出てお母さんと一緒に事務所に行ったお母さんが病気になったのは事実だけど、芸能界入りとお母さんの病気は無関係だよ過去自分でテレビで話しているし公式の出版物にもちゃんと書いてある52. 匿名 2016/09/09(金) 17:07:47 水野美紀 原宿でスカウトされて断り、表参道でスカウトされて断ったが3回目のスカウトがコーセーのCMオーディションの話でどうしても出たくて一度だけの約束でCMオーディションを受けて合格。53. 匿名 2016/09/09(金) 17:11:14 TOKIO長瀬ハンバーグ食べに行くって言われて姉について行ったらジャニのレッスンだった。54. 匿名 2016/09/09(金) 17:11:55 「家族が勝手に履歴書を事務所に送っちゃって…。」っていうのは出しゃばりじゃない方が好感が持たれるっていう日本の奥ゆかしさを美徳とする考え方から定番になったのかしら?でもそれが今となっては白々しいし、時代遅れということ?57. 匿名 2016/09/09(金) 17:16:48 綾瀬はるか夏休みに友達のオーディションについて行ったら自分が受かった。って言いなさいと事務所から言われました、と口を滑らせた。65. 匿名 2016/09/09(金) 17:33:46 >>10ホントそれあるあるww私がお姉ちゃんや従姉妹でも勝手には履歴書送らないけど…ウソくさ〜ww自分から芸能界入りたい気満々でしょうが。67. 匿名 2016/09/09(金) 17:35:11 小栗旬小学生の時、内田由紀のファンで同級生に顔が内田由紀に似てるから弟役が出来るんじゃないかと劇団に入った70. 匿名 2016/09/09(金) 17:38:28 TOKIOの松岡さんが前にいいともで話してたけど、小学生低学年までモテモテだったのにトシちゃん(田原俊彦さん)がテレビに出だしたら女子が夢中になって自分なんか相手にされなくなった。だから自分も芸能人になろうと思った…みたいなこと話してて、この人正直な人だな〜って思いました(•‿•)74. 匿名 2016/09/09(金) 17:49:53 板尾創路さんもともとはヤンキーで高校卒業後、すぐに就職したがすぐに退職その後もいろいろな職を転々としていたがある日、TVで芸人を見てなんとなく芸人を目指す当時からTVで有名だった島田紳助にダメ元で弟子にしてもらおうと自宅へケーキを持って訪問案の定、断られたが紳助がNSC(吉本の養成所)への入学を薦めたのでそのままNSCへ入学75. 匿名 2016/09/09(金) 17:52:34 瀬戸朝香もスカウトだよね。瀬戸市でスカウトマンがいろいろ聞き込みしてたら皆が同じ人の名前出して、それが瀬戸朝香だったんだって。Wikipediaにも記されてるし、昔何かの番組でもやってた記憶がある。77. 匿名 2016/09/09(金) 18:10:20 ラブリ六本木のパン屋でバイトしてたらやくざのおっさんに気に入られてそのままバーニングの社長に紹介されたw92. 匿名 2016/09/09(金) 19:43:14 タッキーがジャニーズの誰かが勝手に応募は殆どが嘘だと思ってるって言ってたwそんなタッキーはプロレスのジムに断られてジャニーズ行こうって決めたらしいから、まあ子供だったし当たり前だろうけど本当に断ってくれたプロレス団体グッジョブ!w93. 匿名 2016/09/09(金) 19:58:05 山口もえ。ダンスの無料教室だと思ったら芸能事務所で、騙されたって。じゃあ辞めれば良かったのにね(笑)96. 匿名 2016/09/09(金) 20:03:05 SMAP中居くんはクラスメート(?)がすでにジャニーズJr.で、「面白そうだから俺達も入ってみよう」って数人でオーディション行ったら中居くんだけ受かった。先に入ってたクラスメートのJr.は中学卒業前にやめた。木村くんは親戚の人が履歴書送った。吾郎ちゃんはお姉さんが履歴書送った。草彅くんは少年隊を見て憧れて自分から入った。慎吾くんは集団行動が苦手な慎吾くんを見兼ねて母親がジャニーズとボーイスカウトに応募。そして先に返事が来たジャニーズへ。100. 匿名 2016/09/09(金) 20:34:40 私の妹は某オーディションに勝手に母に応募された。書類審査受かったけど、本人が拒否したのでそこで終わった。全部がそうかはわからないけど、家族が勝手に応募っていうケースも本当にあると思う。101. 匿名 2016/09/09(金) 20:41:18 >>100やっぱりかわいかったんですか?102. 匿名 2016/09/09(金) 20:45:12 >>101学校で一番とまではいかないけど、クラスでは確実に一番くらいの可愛さ。ちなみに私は似てるけど残念な顔。有村架純のお姉ちゃんの気持ちがよくわかる…103. 匿名 2016/09/09(金) 20:49:24 吉田拓郎さん大学生の頃、音楽仲間とインディーズアルバムを作成したら、そのアルバムから2曲をレコード会社が勝手にシングル版にして発売した。(しかも編集が雑で酷い物だった)怒った拓郎さんがレコード会社に抗議したら、気に入らないなら録音し直せと言われて、拓郎さんは2曲を再度録音して再発売した。一般的にはこれがデビューシングルとされているが、同じ曲でも勝手に作ったバージョンと再録音バージョンの2通りが出回っている。104. 匿名 2016/09/09(金) 20:50:03 「家族が勝手に応募して」とか「友達のオーディションに付き添いで」とかの謙遜話の方が美談になるの?「もう、芸能人になりたくてキャーキャー言われたくて頑張りました!応募しまくって原宿歩きまくりました!」の方が正直で好きだ。105. 匿名 2016/09/09(金) 20:59:42 ジャニーズの家族が勝手に応募した話合格しても自分が嫌なら行かない選択もできるよね家族だって本人が嫌がれば無理強いはできないだろうしそれを考えると、受かった時点でノリノリだったと思うけどそれさえも否定してる人は、ちょっとカッコ悪いと思う106. 匿名 2016/09/09(金) 21:29:49 KinKi Kidsは二人とも自分の知らないうちにお姉さんが履歴書送ってて直接ジャニーさんから電話があったからオーディションは受けてない。本人達は入る気なかったって。ただ二人が同じ日に横浜アリーナに呼ばれてその日の光GENJIのコンサートを見て、その圧倒的なオーラとキラキラした眩しさに一瞬で心を奪われて、やってみたくなったって言ってた。断るつもりだったのに。二人が実は受かった時点でノリノリだったかどうかは知らない。116. 匿名 2016/09/10(土) 15:16:37 広瀬すずアリスがseventeenモデルになって、事務所の人から、「次はすずちゃんだよ」と声をかけられた。→のち、ミスseventeenに応募し、姉のアリスは最初反対したそうだが、見事seventeenに入り姉妹共演実現→そして、幽やかな彼女をきっかけに女優業もやるようになった118. 匿名 2016/09/10(土) 15:20:33 有名だけど、小林麻耶ちゃんと麻央ちゃんは、恋のから騒ぎに出演して、それから話題に!のちに二人とも、アナウンサーになった今は、ゆっくり自身の体を大事にしてほしいです。
2020.08.31
ぽすれんのDVDで視聴。時間ですよ、寺内貫太郎一家脚本の向田邦子さんの遺作となった小説を久世光彦さんがドラマ化した作品です。Google検索しても、アマゾン以外レビューはみあたらず、放っておくと埋没しそうな地味な作品です。前半は退屈で、やや早回しで見ていました。あまり観たことのない松田優作さん出演のホームドラマ的な作品ぐらいが特徴かと思ってましたが、中盤以降松田さんが付き合っている桃井さんの実家に行って以降の家族の変化が生き生きと描かれていて面白かったです。ちょっと辛口のオチも良かったです。どたばたや大笑いといった派手な展開はありませんが、演技巧者が揃って、観終わってからいろいろ考えさせられる佳作だと思いました。主人公の桃井さんに語らせる向田さんの人間観察力は、1点最近似たような経験をしたこともあり、さすがだなと思いました。Wikipedia:春が来た (小説)Wikipedia:向田邦子略歴ホームドラマ作品の脚本家として現在も知名度は高く、『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』といった人気作品を数多く送り出した。全盛期である1970年代には倉本聰・山田太一と並んで「シナリオライター御三家」と呼ばれた。1981年(昭和56年)8月22日、取材旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去。享年51。エピソード雄鶏社という出版社に就職したばかりの頃は、黒いニットのトップスに黒いロングスカートという服装が多かったため、同僚からは「黒ちゃん」と呼ばれていた。後に妹の向田和子が自著の文中にて「その黒いロングスカート姿で仙台へ帰省してきた姉が、当時は黒い服を礼服以外の目的で着ていた人が少なかったこともあり、町へ出るととても目立った」と当時を回想している。洋裁が得意であり、一時はコートまで仕立てていた。戦中~戦後の物資の乏しい時期には弟妹達の手袋、マフラーも手編みで用意し、2人の妹にはセーラー服まで作った。生地の入手自体が困難だったため、古着を仕立て直すなど工夫していた。赤旗新聞の愛読者であることを自ら明かした。[3]精力的に海外旅行をしていたが、実は飛行機嫌いであった。1981年5月に「ヒコーキ」(『霊長類ヒト科動物図鑑』)というエッセイで、「私はいまでも離着陸のときは平静ではいられない」と書き、あまり片付けて出発すると「やっぱりムシが知らせたんだね」などと言われそうで、縁起を担いで汚いままで旅行に出ると述懐していた。しかしながら、験担ぎも虚しくこの僅か3か月後には飛行機事故で命を落とすこととなった。当時珍しかった留守番電話を早い時期に導入していた。機械に慣れない人々が面白いメッセージを多く残したが、中でも秀逸は黒柳徹子で、一分/一通話のシステムでは足りなかったらしく、特有の早口で九通話連続で吹き込まれていたというものであった。しかし用件には全く触れられておらず「後で直に会って話すわね。」という楽しいオチであったため、消去せずに保存して来客に聞かせて、もてなしの一つとしていた。幼少時より虫が大嫌いだった。虫偏の漢字も嫌いだったが、唯一「虹」だけは好きだった(『クイズダービー』にてこのエピソードが出題された)。遅筆、乱筆で有名であり、切羽詰まると「四」の字を横棒4本で済ましたという逸話がある[4]。余りの遅筆に痺れを切らした樹木希林が「話の筋だけ考えてくれたら、後は現場で何とかする」と電話を掛けて喧嘩になったことがある[5][6]。なぜ”虫”偏が使われている?世界で異なる「虹」の由来:ウエザーニュース漢字では「虫」+「工」box0では、日本に目を向けて見ましょう。もっとも一般的な漢字は「虹」ですがこの他にも、蜺、蝃、蝀、虹霓、虹桟なども同じ虹を表しています。このことから分かるように、「虫偏」のものが多く存在しています。きれいな虹と虫…あまり結びつかないように思われますが、かつては空に掛かる大きな蛇と見ていたようです。大蛇が天空を貫く時に出現この考え方の根源は中国。古代中国では、大蛇が天に昇って龍になると考えられていました。虹は、龍になる大蛇が天空を貫く時に空に作られるものと想像されていたため、蛇を表す虫偏。さらに、「貫く」とか「天と地をつなぐ」などを意味する「工」の字で「虹」という漢字ができたんだとか。ちなみに、日本では虹が出ると幸せな気分になったりしますが、古代の中国人にとっては虹は不吉なものの象徴で、虹が出ると良くないことが起こると信じていたようです。世界によって、虹への想いが違うことが分かりますね。次に虹を見つけたら、何に見えるかな、と想像してみてはいかがでしょうか。
2020.08.17
首都圏外郭放水路で行った春日部で思い出しましたが、高校生の当時、春日部のてっちゃんこと、いまに哲夫アナウンサー(ニッポン放送)の歌謡パレードニッポンを、平日家にいるとき、よく聴いてました。いまにアナウンサーの語りが親しみやすくてききやすかったです。西村知江子の決め台詞「あなたのチエよ」もかわいらしくてよかったです。当時ラジオアナウンサーのお顔は、簡単に見ることはできませんでしたが、今見るといまにアナウンサーは落語家さんのような風貌を想像していたら、予想外にダンディなのにびっくり。西村さんはやはり美人でした。■参考リンク2023.1.14内容の追加。西村知江子にしむらちえこフリーアナウンサー
2020.08.13
この国の空で見た利重剛さんのお母さんが3年B組金八先生の脚本家の小山内美江子さんと知り、感動を超えて衝撃を受けた腐ったミカンの方程式の回を思い出しました。中島みゆきさんの世情がうまくドラマの進行にかぶさっていました。2020.9.4リンク切れにより差替え。2020.11.8リンク切れにより差替え。2020.12.30リンク切れにより差替え。内容の追加。2021.2.19リンク切れにより一部削除。2021.7.3リンク切れにより一部削除。2021.10.9リンク切れにより差替え。2022.6.28リンク切れにより差し替え。2023.1.24リンク切れにより差し替え。■参考リンク[あれから]<8>「腐ったミカン」3年B組・加藤の40年…1980年10月2020/11/15 10:09 読売新聞東京・下町の中学校を舞台に様々な社会問題に切り込み、1979~2011年に放送されたTBS系テレビドラマ「3年B組金八先生」。中でも、非行や校内暴力を扱った第2シリーズ(80~81年)は絶大な人気を集めた。 「腐ったミカン」こと、不良生徒・加藤優の存在感が抜群だったからだろう。 強烈な排除の論理と、それを否定し生徒と向き合った金八先生、そして、社会からはみ出した孤独と葛藤を、無骨な体で演じた加藤役の少年の姿は、人々の心に深く刻まれた。その少年こそ、直江喜一さん(57)。「時の人」となり、波に乗って役者を続けるつもりだった。だが、人生はそうは進まなかった。以下略。Wikipedia:利重剛来歴・人物高校時代、母が『3年B組金八先生』の脚本を執筆することになり、友人たちを集めて話し合いの場を作り、実際の10代の率直な意見として母に数々の助言をした。Wikipedia:3年B組金八先生『3年B組金八先生』(さんねんビーぐみ きんぱちせんせい)は、1979年(昭和54年)から2011年(平成23年)までの32年間[1][注 1]にわたって、TBS系で断続的に制作・放送されたテレビドラマシリーズ。日本の学園ドラマの金字塔と称される作品である。補足大反響を呼んだ第1シリーズの放送終了半年後に制作されたこのシリーズは、『腐ったミカンの方程式』『クソまみれの英雄達』『卒業式前の暴力』などの名エピソードが数多くあり、平均視聴率26.3%というシリーズ歴代最高の数字を記録した。第24話で加藤と松浦が友人3名と荒谷二中に殴りこみ(但しこの5名は暴力行為や器物損壊は一切しておらず、騒ぎに乗じて他の生徒が器物損壊をした)、過去の非を校長に詫びさせたあと、学校側の通報で駆けつけた刑事に取り押さえられて連行されるシーンでは、スローモーションの映像でセリフを一切用いずに、代わりに世情(中島みゆき)をフルコーラスで流すという演出が行われ、金八が放送室のドア越しに「加藤!松浦!」と絶叫したり、加藤らが逮捕されるシーンでの「俺の生徒になんばすっとか、きさん[68]」、警察署での緊急会議の際に「我々はミカンや機械を作ってるんじゃないんです。我々は毎日、人間を作ってるんです。人間の触れ合いの中で我々は生きてるんです。」と語るシーン、釈放された加藤、松浦をビンタした後、号泣する2人の頭を抱き寄せるシーン等は、シリーズのみならずドラマ史に残る名場面となった。
2020.08.11
久々に斉藤とも子さんの記事を見つけました。生い立ちから苦労され、結婚、離婚を経て大学、大学院で学び、今は女優業のかたわらデイサービスのヘルパーもされているとのこと。斉藤さんと言えば私は『男たちの旅路』の「車輪の一歩」が印象に残ります。今の活躍の礎になっていたのかもしれません。山田太一さんのドラマは心にずしんと響きます。ニコニコ動画:山田太一シリーズ『男たちの旅路』より「車輪の一歩」 名場面集バックに流れるゴダイゴの曲も元気が出ました。NHK「若い広場」のマイブックも、うっすらと覚えてます。7/25から公開される「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」のナレーターも務められるとのこと。■参考リンク斉藤とも子、人生で一番大事なのは「出会いから何を学ぼうとするか」波乱の人生と一念発起の大学進学2020年7月18日 10時0分スポーツ報知 女優・斉藤とも子(59)がナレーションを担当したドキュメンタリー映画「沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」(太田隆文監督)が25日に封切られる。16歳での女優デビューから43年。笑みを絶やさない印象を与えるが、歩んできた人生は波乱に富む。10代は優等生イメージに苦しみ、26歳で結婚後は出産、離婚を経験。一念発起して38歳で大学、そして大学院に進んだ。2人の子供も既に成人。孫を持つおばあちゃんでもある。「人生で一番大事なのは職業や肩書ではない。出会いから何を学ぼうとするか」だと話す。(内野 小百美) 「18歳の時に映画『ひめゆりの塔』にも出ましたが、人の痛みを理解できていなかった。年を重ねるほどその思いが強まって。沖縄の人たちの痛みの上に平和はあると思うので」と、この仕事を引き受けた背景を明かす。今作は沖縄戦の体験者、専門家の証言で構成。14歳の子も兵隊に取られたこと、海で一度は助かりながら波にさらわれて離れ離れになった人のこと…。つらい記憶が勇気を持って語られていく。 斉藤の父は医師だった。幼い頃の過酷な経験で独特の死生観が芽生えた。姉を2歳で亡くし、小6で母をがんで見送る。3歳だった姉は大人が目を離した間にベランダから落ちる事故。母は自分を責め続け、病魔とも闘い生を全うした。その喪失感を埋めてくれるのが「人に感動を与えられる」女優の仕事だと思い、自ら芸能界に飛び込んだ。数年で立て続けに話題のドラマに出るが、優等生役が続く。もともと思考性の強い子だった。 「実際の私は優等生なんかではない。みんなの知る私が本当の自分でない恐ろしさがどんどん膨らんで」。生きることに苦しさを覚えるような状態で高校も中退していた。「その気持ちをどこか引きずりながら結婚し、子供を産んでしまったと思うんですね」。当時、関西に住んでいたが転機は95年の阪神大震災。「自分は何をやってきたのか」。社会の仕組みも構造も分からない。子供を守ろうにも誰かの役に立とうにも無力であることを思い知る。 ほどなくしてドキュメンタリーの撮影でタイへ。粗末な環境で子供たちが一心不乱に勉強する姿に衝撃を受けた。「私も真剣に勉強して違う道を歩みたい、と思って」。33歳で離婚。既に成人した娘と息子がいる。大学入学資格検定(現・高校卒業程度認定)試験を受け、4度目のチャレンジで東洋大社会学部社会福祉学科に入る。 3浪してダメだった時のことが忘れられないという。「涙も出ないほど」精根尽き果て、受験を諦めかけた。「ランドセル背負って帰ってくるなり娘が『ママどうだった?』と。『うん、ダメだった…』。娘が抱きついておいおい泣き出したんです。『でもママは頑張ったんだから。諦めないで!』。逆に励まされた。これは絶対やめられないと思い直したんです」。育児で反省することは多いそう。しかし、母親が努力する姿を見て人の痛みの分かる子に育っていた。 今では福祉のスペシャリスト。学ぶことが、自分自身を大きく変えてくれたという。「自分がいかに弱かったのか、にも気づかされた。でももし、あの時諦めていたら。子供たちをどうやって育てていけばいいのかすらも分からなくなっていたと思う」。それが今、孫を持つおばあちゃんでもある。 子供の頃の記憶が家族とのつらい別れで始まっただけに「よく命のミラクルさを感じますよ。でも人生で大事なのは肩書や職業でなく、出会い。そこから何を感じ、何を吸収することができるのか」。折り目正しく生きてきた人の言葉だった。以下略2020.07.24【ズバリ!近況】「ゆうひが丘の総理大臣」優等生役の斉藤とも子さんは介護職で子供育て上げ孫2人著者:中野裕子 ENCOUNT
2020.07.25
梓英子さんと楡家の人びとについて検索していたらグラフNHK1972.4.15.に特集が組まれていることを発見して入手しました。もう映像では見れない懐かしい登場人物の写真とコメントが掲載されていて、薄れていたり欠如していたドラマの記憶がよみがえりました。米国役の柳生博さんや下田のばあやが出てなかったのがちょっと残念です。グラフNHKを読むと確かに風変わりな登場人物たちだったなと思います。ただ、みんな愛すべき人たちで生き生きと描かれてます。バロック音楽みたいなテーマ音楽がもう一度聴きたいです。宇野重吉さんの演じた楡喜一郎は、ひょうひょうとしながらも明治、大正の日本人の象徴みたいな生き方で好きでした。今の日本には失われたものがまた復活する日は来るのか。滝田栄さんと同じ劇団でおしんにも出演された長岡輝子さん。どっしりした存在感でした。たしか駆け落ちして貧しいうちに病気で亡くなる聖子役はきれいな人だと思っていましたが、今回佐藤友美さんと知りました。結城美栄子さん演じるちょっとませたおてんば娘だった桃子ですが、スチール写真を見て、かわいかったのにびっくり。浜畑賢吉さんはてっきり自分の頭の中では梓英子さんの恋人の城木建紀役だとずっと思ってました。龍さま役の岡田茉莉子さんの威圧感がすごかったですが、凛としたところが好きでした。内藤武敏さんも婿に入った先のお父さんがスーパースターで奥さんも怖い人といった中で、生きる斎藤茂吉をうまく演じてました。欧州役の伊丹十三さんをこのドラマで初めて知りましたがおおらかさに魅力を感じました。藍子役の梓英子さんがはかなくてよ方です。喜一郎の信頼の厚い院代勝俣役の加藤嘉さんも神経質だけどコミカルな演技でした。熊五郎役の草野大悟さんも親分の米国との掛け合いが良かったです。■参考リンク銀河テレビ小説 楡家の人々 | NHK放送史(動画・記事)楡家の人びと - ドラマ詳細データ - テレビドラマデータベース主な出演 岡田茉莉子、宇野 重吉、浜畑 賢吉、佐藤 友美、長岡 輝子、伊丹 十三、草野 大悟、柳生 博、梓 英子、隅田 和世、織賀 邦江懐かしのテレラジオ録音コレクション銀河テレビ小説データベース・所蔵主題歌リストWikipedia:楡家の人びと『楡家の人びと』(にれけのひとびと)は、北杜夫作の長編小説。雑誌『新潮』に1962年(昭和37年)1月 - 12月にかけて第一部が、1963年(昭和38年)9月 - 1964年(昭和39年)3月にかけて第二部「残された人々」がそれぞれ連載、1964年4月『楡家の人びと』として新潮社より出版された。作者が尊敬するドイツの作家トーマス・マンの長編『ブッデンブローク家の人々』の影響を受け、自身の家族をモデルに大正、昭和戦前期にわたる精神科医一家を描いている。あらすじ大正初め、東京青山に西洋の御殿のような精神病院「帝国脳病院」が聳えていた。そこを舞台に、院長の楡基一郎、その妻ひさ、勝気な長女龍子、学究肌の夫徹吉、などの一家とそれを取り巻く人々が織りなす人間模様。初め、虚栄に満ちた華やかな生活を送る楡家の一族であったが、基一郎の議員落選、二女聖子の出奔が続き、震災直後の病院の焼失と基一郎の急死を経て、昭和の動乱期に入ると、楡家は、いったんは全盛期を超える規模の大病院にまで復活するものの、大戦勃発を受けて、ゆるやかだが確実に没落の一途をたどっていく。概説3部構成で、大正初めの全盛期から病院焼失を経て、1926年(大正15年)の基一郎の死までを第一部、昭和初め、病院復興を背景に徹吉院長と龍子夫妻の軋轢を中心とし、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦までを第二部、戦中から空襲による病院の再度の焼失、そして没落という終戦後までを第三部としている。北杜夫は、父斎藤茂吉、祖父斎藤紀一へとつらなる生家の変遷を小説にすることを長年の課題とし、既に大学時代から「神尾家の人びと」という仮題で構想を練っていた。そして、「私は漠然と、それを書く時期を四十代と思っていたが、急に予定を繰り上げることになったのは、自分の健康に自信を失ったためと、昔の事を知っている人たちがぼつぼつ死にはじめたからである」とあるように、1961年(昭和36年)の夏に創作に取り掛かり、親類縁者からの聞き取りや父茂吉の日記、随筆、メモ類、大正年間の新聞などの資料をもとに執筆を開始している。ネーミングなどはモデルからかなり自由に行われているが、紀一→基一郎、西洋→欧州、愛子、百子→桃子、藍子など、微妙にずらしたり交換したりしているものもある。 創作部分も自在で、実際の茂吉には精神医学に関する大著はなく(その替わりに小説では文学活動が一切ない)、戦後数年間までは健在であったほか、茂吉には次女もいた、長女は軍医の許婚者と結ばれているなど、モデルとは大幅に変更されている設定も多い。作者自身も松本高校に落第はしていない。紀一の次男米国は、妻ひさと共にそのままの名前で登場している数少ない例だが、「実際は小説に書かれたよりもずっとまっとうな、大好きな叔父であった」と後年の随筆で回顧されている。作品の価値三島由紀夫は、「戦後に書かれたもつとも重要な小説の一つである。この小説の出現によつて、日本文学は、真に市民的な作品をはじめて持ち」「これほど巨大で、しかも不健全な観念性を見事に脱却した小説を、今までわれわれは夢想することも出来なかつた」[1]と称賛している。時代に翻弄される市民の姿を淡々とした筆遣いで描き、近代文学最初の市民小説として高く評価される。発表後、1964年(昭和39年)11月には第18回毎日出版文化賞を受賞。さらには1965年にTBS水曜劇場で、1972年4~6月にはNHK「銀河テレビ小説」第1作としてそれぞれテレビドラマ化されるなど、北杜夫の代表作となった。主な登場人物楡基一郎 - 第一部の主人公。「帝国脳病院」院長。山形の片田舎から出て一代で巨大な病院を作る。再建途上に急死。作者の祖父・斎藤紀一がモデル。楡ひさ - 基一郎の妻。寡黙だが、病院の実権を握っている。作者の祖母・斎藤ひさがモデル。楡龍子 - 基一郎の長女。男勝りの性格で、基一郎没後の病院再建を目指す。作者の母・斎藤輝子がモデル。楡徹吉 - 基一郎の養子で龍子の夫。2代目院長となるが、医学の研究に生きがいを求めている。作者の父・斎藤茂吉がモデル。ただし文学者としての要素は意識的に排除されている。楡聖子 - 基一郎の次女。美貌だが、父に背き家を出で恋人のもとに走り、貧窮の中、悲惨な死を遂げる楡桃子 - 基一郎の三女。お転婆で、基一郎により意に沿わぬ結婚をさせられたため、楡家の偽善性に反感を持っている。楡欧州 - 基一郎の長男。ずぼらな性格で父の後を継いで医者となるも、医業よりも趣味の世界に耽溺する。作者の叔父・斎藤西洋がモデル。楡米国 - 基一郎の二男。腺病質で病気には強迫観念を持っている。日中戦争で消息不明となる。作者の叔父・斎藤米国がモデル。楡辰次 - 基一郎の養子。後関取「蔵王山」。戦前期の力士出羽ヶ嶽文治郎 がモデル。楡峻一 - 徹吉の長男。出征し、命からがら復員する。作者の兄・斎藤茂太がモデル。楡藍子 - 徹吉の長女。兄の友人・城木の恋人。城木の戦死後、性格が一変して暗くなり、戦災で顔に火傷を負う羽目になる。楡周二 - 徹吉の二男。作者自身がモデル。楡四郎 - 桃子の夫。旧姓高柳。有能な外科医として養子になるが、徹吉と衝突し、不遇のうちに腹膜炎で急逝する。楡聡 - 桃子と四郎との子。桃子に溺愛されるが、夭折する。勝俣秀吉 - 病院の事務長で痩身の小男。「院長代理」の役職名を持つ。「院代先生」と呼ばれる。下田ナオ - 「下田の婆や」子供たちに献身的に仕える。佐久間熊五郎 - 書生。厚かましい性格で、米国の子分となり農園を作ったり、勝手に「楡熊五郎」と自称する。出征してソ連軍の捕虜となり消息不明。城木建紀 - 峻一の友人。藍子と恋仲になるが、海軍に出征後、太平洋上で戦死。空母「瑞鶴」に勤務していた宮尾直哉(北杜夫の義兄)がモデル[2]。大石 - 小心な病院の会計係。伊助 - 病院の賄い担当。「伊助じいさん」と呼ばれ、辰次の面倒をみる。「日本一の飯を炊く」と基一郎の自慢の種である。ビリケン - 患者。独特の口調で新聞を朗読する癖がある。病院の火災で焼死。三瓶城吉 - 徹吉の弟。大酒飲みで山形弁丸出しで喋る。青雲堂 - 本名は高田。始基一郎の病院で働いていたが、病院近くの文房具店の主人となる。
2020.05.24
チェ・ジウさんが女の子を出産されました。おめでとうございます。還流嫌いな私もなぜか冬のソナタのDVDBOX持ってます。本当にきれいな女優さんです。■参考リンク「冬のソナタ」の女優チェ・ジウ、きょう(16日)結婚2年で第一子である女の子を出産 ワウコリア 最終更新:2020/05/16 15:32 韓国女優チェ・ジウ(45)が、きょう(16日)第一子を出産した。2018年3月に結婚して以来、2年2か月で母親になった。2002年、韓国ドラマ「冬のソナタ」で俳優ペ・ヨンジュンと共演し、2004年には日本で社会現象を巻き起こしていた張本人である。16日の午前、チェ・ジウはソウルの産婦人科で長女を出産した。母親のチェ・ジウと娘は、母子ともに健康であることが分かった。先立って今月6日にチェ・ジウは、自身の公式ファンサイトに自筆の手紙を掲載して近況を伝えていた。手紙でチェ・ジウは、「この年になって子供を持ち、コロナウイルスに気を遣いながら準備をしてみると、改めて母親たちを尊敬する」とし、「新米ママたちも『高齢出産のアイコン』である私を見て、さらに頑張ってほしい」と伝えた。それと共にチェ・ジウは、「すべての幸せがファンのおかげだと、感謝の気持ちで幸せな家庭を作っていく」とし、「コロナで大変な時期にすべての方の家庭の安寧を祈る」と願った。チェ・ジウは、結婚をする時も直筆の手紙を通じてファンに近況を明らかにした。2018年3月29日に直筆の手紙を公開し、「私は今日、人生の伴侶と一緒に新たなスタートを約束した」と、「家族だけで集まって静かに結婚式を挙げた」とした。1994年、放送局「MBC」第23期公開採用タレントでデビューしたチェ・ジウは、お茶の間とスクリーンを行き来し、韓流スターとして高い人気を博している。「オルガミ~罠」(1997)で主演を務めたのを皮切りに、「ピアノを弾く大統領」(2002年)、「誰にでも秘密がある」(2004年)、「連理の枝」(2006)、「女優たち」(2009)、「好きになって」(2016)などの映画で主演を務めた。テレビでも活躍し、ドラマ「真実」(2000)が高い人気を得たのに続いて「冬のソナタ」(2002年)、「天国の階段」(2003年)、「エア・シティ」(2007)などの作品を通じて、「ジウ姫」という愛称を得て、韓流スターとしての地位を固めた。バラエティ「花よりじいさん」(2015)と「コーヒーフレンズ」(2019)では、几帳面で気さくな姿で好感を得た。チェ・ジウ、出産を半月後に控え直筆の手紙と臨月姿を公開「高齢出産のアイコンの私と一緒にがんばりましょう」 ワウコリア 2020/05/06 22:52配信 女優のチェ・ジウの出産が間近に迫った中直々に綴った手紙を送った。チェ・ジウは6日公式ファンサイトを通じて直筆の手紙とともに1枚の写真を掲載した。写真の中にはチェ・ジウは臨月の体にドレスを身に着けている。特にチェ・ジウは美しいDラインとともにまぶしい美貌を誇り感嘆を誘った。そしてチェ・ジウは直筆の手紙を通じて「まずコロナで大変な時期に皆さんの家庭が無事であることを祈ります。私はついに予定日を半月後に控えています。簡単に家で自撮り写真も撮りました」と明かした。そしてチェ・ジウは「年を重ねてから子どもをもうけコロナに気を使いながら準備をしていると、あらためて大韓民国の母親たちを尊敬しています。出産準備に苦労している予備ママたちも“高齢出産のアイコン”の私を見てさらにがんばっていただけたら幸いです」と応援を送った。一方、チェ・ジウは2018年に1年間交際した9歳年下の一般人の夫と結婚し、昨年12月に妊娠のニュースを知らせた。
2020.05.18
ぽすれんDVDで視聴。VLC media Playerをインストールして、WINDOWS10でもDVDが観られるようになり、以前から観たかったビートたけしさんの出ているドクターXを観ました。シリーズ唯一のスペシャルで、石川・金沢でロケが行われ、ちょっとした旅行気分を味わえます。2019年のドクターXを観て、毎年のように制作されてスタッフも出演者もちょっとマンネリ気味に思っていたところだったので、このスペシャルは新鮮でした。米倉さんが固辞されているとのことで今年はやらないのではとの報道もありますが、新型肺炎もありますし、1年お休みして、ロケ中心にして、水戸黄門や寅さんみたいに、旅行く先々で患者を治すとかのシリーズにしても新鮮に思います。ロケのせいか、いつも見れない米倉さんの笑顔が見られました。イノシシの漁師に米倉さんはお世話になります。能登のあまめはぎというお面でしょうか、印象的です。20年以上前に行った金沢のお寿司屋さんもこんな感じで広かったです。寒ブリが飛び上がるほどおいしかったです。金沢の茶屋街でしょうか、映像が美しかったです。自分が散歩している気分にさせてくれました。■参考リンクドクターX ~外科医・大門未知子~ スペシャル抜粋“外科医としての最大の武器”を奪われた未知子の「私、失敗したので」という衝撃発言とともに描かれる“壮絶な物語”に、ぜひご期待ください。米倉涼子が初めて金沢を訪問! 夜の茶屋街で風情あふれる景色を堪能 2016年夏、初のスペシャルドラマとなって帰ってくる米倉涼子主演、驚異の大ヒットドラマ・シリーズ『ドクターX ~外科医・大門未知子~』が今年2月中旬に、石川県金沢市および加賀市で“シリーズ初の地方ロケ”を敢行! 金沢の三大茶屋街のひとつ「主計町(かずえまち)茶屋街」や、加賀海岸で最も日本海に突き出した「加佐ノ岬(かさのみさき)」で撮影を行いました。実は「金沢を訪れるのは今回が初めて」という米倉。ロケが決まった時から楽しみにしていたといいます。「温泉宿がいっぱい並んでいて、どこを歩いても器屋さんがあるイメージを抱いていた」という米倉ですが、3日間という短い期間に撮影を詰め込んでいたこともあり、残念ながら観光する時間的余裕は皆無…。しかし、主計町茶屋街に隣接する「中の橋」で行われたナイト・ロケでは、暖色の街灯で古き良き建物がふんわりと照らし出され、風情を増した茶屋街の景色を堪能! 同じシーンに出演した勝村政信や鈴木浩介と「少しでもこういう風景が見られて、よかったね!」と、興奮まじりに言葉を交わし、夜の茶屋街に負けない素敵な笑顔を見せていました。春一番と強雨で荒れに荒れる断崖絶壁で、米倉の力強い女優魂が炸裂! そして遂に迎えたロケ最終日にして、クランクアップの日――。米倉は金沢市の中心から約45km南へ下った場所に位置する加佐ノ岬へ。オープニングおよび、大門未知子(米倉)が“外科医としての最大の武器”を奪われた後に“人生の転機”を迎える局面で、日本海に面した断崖で立ち尽くすというシーンを撮影しました。ところが、そこで思わぬハプニングが…!? 実はこの日、北陸では低気圧の影響で「春一番」が発現。加佐ノ岬でも激しい雨が降った上に、突風が吹き荒れたのです! その凄まじさたるや…もともと予定していたポイントでは立っていられないほどの風が吹きつけたため、場所の変更を余儀なくされたほど。そんな状況下でも怯むことなく、颯爽と断崖絶壁へと向かった米倉! かろうじて立ってはいられるものの、冷たい風と雨は容赦なく襲ってきます…。しかし米倉は、失敗しない外科医・未知子同様に弱音を吐くことなく、むしろ嵐に戦いを挑む勢いでロケを続行。その力強い女優魂のおかげで、無事に全シーンを撮り終えることができたのでした。「壮絶なロケ」を乗り越え、遂にクランクアップ! 米倉が晴れやかな表情で胸の内を語る クランクアップの瞬間を迎えた米倉は「壮絶なロケでした! もともと寒さは覚悟していましたけど、こんなに風があるとは…。今回のスペシャルの撮影で一番辛かったのは、確実に今日のロケです!」と吐露しながらも、その表情は天候と真逆で晴れやか! 「ずっと一緒にやってきた、まるで“田舎の親戚”のような共演者やスタッフの皆さんともまたご一緒できて、すごく居心地がよかったです。絶対に手放したくない仲間たちだなって、改めて感じました。今回は露天風呂や、生まれて初めての五右衛門風呂など、新しいお風呂場にも行けましたし(笑)、すごく新鮮で楽しかったです!」と、声を弾ませました。米倉涼子 コメント 金沢を訪れるのは今回が初めてです。温泉宿がいっぱい並んでいて、どこを歩いても器屋さんがあるイメージを抱いていたんですけど、今回はそういった街並みが残る場所へはあまり行けず…。でも、主計町茶屋街での撮影では風情ある街並みを堪能できたので、勝村(政信)さんたちとも「少しでもこういう風景が見られて、よかったね!」と話していたんです。 断崖絶壁のロケは、壮絶でした! もともと寒さは覚悟していましたけど、こんなに風があるとは…。今回のスペシャルの撮影で一番辛かったのは、確実に今日のロケです! 『ドクターX』の現場は久々でしたが、ずっと一緒にやってきた、まるで“田舎の親戚”のような共演者やスタッフの皆さんともまたご一緒できて、すごく居心地がよかったです。絶対に手放したくない仲間たちだなって、改めて感じました。今回は露天風呂や、生まれて初めての五右衛門風呂など、新しいお風呂場にも行けましたし(笑)、すごく新鮮で楽しかったです! 『ドクターX』復活のニュースが世に出た後、習い事の場でも、街を歩いている最中もたくさんの方から「またやるの!?」と声を掛けていただきました。今まで出演したドラマの中で一番の反響を肌で感じて、すごくうれしかったです! 演者である私が唯一客観的になれるのは初めて台本を読む時なんですけど、その時に声を上げて笑ってしまったほど、今回のストーリーもものすごく面白いんですよ! ですから、きっと皆さんのご期待に応えられると思いますし、私自身も早く完成作を見たいです。「ドクターX」制作未定 “ポスト米倉”は内藤剛志&金田明夫公開日:2020/05/13 06:00 更新日:2020/05/14 16:48 日刊ゲンダイDIGITAL 今年10月に放送予定だったテレ朝のドル箱コンテンツであるドラマ「ドクターX」第7弾の制作が暗礁に乗り上げている。理由は主演の米倉涼子(44)の承諾が得られないことにあるのだが、その理由は判然としていない。編成関係者はこう話す。「最悪、企画変更も避けられない状態なのです。独立騒動やギャラを巡るトラブル説もあるが定かではない。テレ朝にとって『ドクターX』と『相棒』はドラマの二枚看板だった。今回、米倉が出演を固辞したことでその一角が崩れたことになる。その一方で、同局でもうひとつの米倉が主演した『リーガルV』を始動させるとの見方もある。いずれにせよ、テレ朝上層部の焦りは相当なものです」以下略2019.07.29 MON 13:30Windows 10でDVDを再生する方法。「Windows 10 DVDプレイヤー」をインストールしよう【Windows Tips】
2020.05.17
高校生の頃、平日夕方4時ころにやっていた再放送で、学校からから帰るとよく見てました。そんなに時代劇が好きなわけではないですが、主人公の中村梅之助さんの人間味が好きだったり、最後に指でよよよいよいと締めるのも気に入ってました。橋幸夫さんの主題歌も調子が良くて好きでした。2021.3.10リンク切れにより差替え。2021.8.19リンク切れにより差替え。2022.10.6リンク切れにより差し替え。2023.6.6リンク切れにより削除。伝七捕物帳 主題歌・江戸の花(Full)唄:橋幸夫 最初はエンディング曲、途中からはオープニング曲として使われました。 めでてえな!2023.6.6内容の追加。時代劇シリーズ:( ・ω・)∩伝七捕物帳のEDです ニコニコ動画2020.7.15.リンク切れによりバトルシーンに差替え。■参考リンクWikipedia:伝七捕物帳『伝七捕物帳』(でんしちとりものちょう)は陣出達朗らによる日本の時代小説シリーズ。捕物作家クラブ(現・日本作家クラブおよび日本文芸家クラブ)参加の多数の作家による合同企画として「黒門町の傳七捕物帳」と題して京都新聞に連載された後、陣出達朗が単独で『伝七捕物帳』シリーズを執筆した。高田浩吉主演による劇場映画シリーズ、中村梅之助主演によるテレビドラマシリーズなど、たびたび映像化されている。テレビドラマ(中村梅之助版)『伝七捕物帳』(でんしち・とりものちょう)は中村梅之助主演のテレビ時代劇。日本テレビ版:製作はユニオン映画。1973年10月2日から1977年10月11日まで(全160話)、毎週火曜日午後8時より放送。テレビ朝日版:製作はテレビ朝日。1979年2月11日から1979年9月30日まで(全30話)、毎週日曜日午後8時より放送。梅之助の1970年代中後半の当たり役の一つとなった。内容1970年から3年間にわたりNET系で放送された『遠山の金さん捕物帳』(原作者は本作と同じ陣出達朗)で人気スターとなった前進座の中村梅之助が、情に厚く、正木流免許皆伝の十手術と万力鎖の技で悪に立ち向かう岡っ引、「黒門町の伝七」を演じた。伝七の十手の房は、本来与力をあらわす紫色である。これは元々罪人だった伝七の器量と気っ風の良さに惚れ込んだ北町奉行・遠山左衛門尉(中村梅之助・二役)が特別に赦免する代わりに岡っ引に任じたためである。通常岡っ引は同心が私的に雇う非公認のものだが、伝七の場合は「奉行に直接雇われた、与力の権限を持つ岡っ引」という特殊な立場という設定だった。設定上の相違点日本テレビ版とテレビ朝日版とでは、伝七や伝七に関わる登場人物、その背景などに設定の相違がみられる。例えば、日本テレビ版で伝七は独身だがテレビ朝日版では妻帯者[注 2](テレビ朝日版で伝七の妻を演じたのは、日本テレビ版で小春を演じた和田幾子)。また、日本テレビ版とテレビ朝日版では伝七や五平を使う同心が異なる、テレビ朝日版には伝七の上司としての遠山金四郎が一切登場しない(テレビ朝日版では伝七は同心・泉の配下、ということになっている)、五平の人物設定などで、そうした相違が作風の違いにもなっている。8時の男「中村梅之助」が「遠山の金さん」で見せたスタッフへの気遣い2021年01月03日 11時31分 デイリー新潮 niftyニュース抜粋金さん終了後、もうひとつの当たり役となったのが、「伝七捕物帳」(73~77年・日本テレビ)だ。捕物名人の証である紫房の十手を持つ黒門町の伝七親分の活躍を描いたこのシリーズでは、事件解決後、子分たちと「ヨヨヨイ、ヨヨヨイ」「めでてえな」と指締めする場面も名物で、私もこどものころ、よくマネした。伝七は、独特の様式がある金さんより、肩の力が抜けた感じで笑顔も多い。なお、「伝七」シリーズは平成29(2017)年に息子の中村梅雀がNHK-BS時代劇枠で継承。息子の主演を喜んだ梅之助は当時、愛用した十手を譲った。
2020.05.12
小中高とプロ野球は巨人ファンで、ラジオのナイター中継はニッポン放送のショウアップナイター一択でした。解説者の中でも関根潤三さんのファンでした。穏やかな口調で淡々とした解説は安心感があり、聴きやすかったです。今、聴いても心地よい解説でした。小学校の時、一度ナイターが始まる前のリスナーとスタジオを電話で結ぶやりとりの番組に当選して、出演することになったものの、いざ電話がつながると急に怖気づいて電話を切ってしまいました。当時からのチキンな性格は今に至るまで治りません。しかし、巨人が勝ったからといって巨人は自分に何もしてくれないのに、なぜあれほど夢中になったのか不思議です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。■参考リンク関根潤三さん 93歳大往生 ノムさんに続き…[2020年4月10日7時44分 ]日刊スポーツ大洋(現DeNA)、ヤクルトで監督を務めた関根潤三氏が9日午前9時45分、老衰のため都内の病院で死去した。93歳だった。法大から1950年(昭25)に近鉄に入団。投手として通算65勝、打者としても通算1137安打、59本塁打を放った。引退後は広島、巨人、大洋、ヤクルトと指導者を歴任。数々の選手を育てた。解説者としても穏やかな語り口で広く愛され、03年に野球殿堂入りしていた。葬儀・告別式は家族葬で行われ、日程は未定。喪主は長男優一(ゆういち)さん。昭和の野球史に名を刻んだ関根氏が、静かに天寿をまっとうした。93歳の大往生。投手、打者として、そして指導者、解説者として野球ファンに愛され続けた。投手としてプロ野球の道を歩んだ。日大三中(現日大三高)から法大に進み、左腕エースとして東京6大学リーグ通算41勝を挙げ、50年に近鉄入団。53年から3年連続2桁勝利を挙げた。しかし57年、突然打者転向を宣言。日大三中時代からの捕手、故根本陸夫氏(元ダイエー球団社長)には「右打者ひざ元の速球を打たれたら終わり」と話したという。打者としても活躍し、オールスターに5度出場した。投手と野手の両部門でファン投票により初選出された「元祖・二刀流」。15年に日本ハム大谷が選出されるまで、ただ1人の先人だった。65年に巨人で現役引退。選手の長所を伸ばす能力にたけ、広島のコーチ時代には、山本、衣笠らを指導した。大洋の監督を経て、87年からはヤクルト監督に就任。広沢、池山ら若手を見いだし、中心選手へと育て上げた。野村監督が率いる黄金時代の礎を築いた3年間だった。ラジオ、テレビの解説者としては「よろしく、どうぞ」のあいさつとともに、柔和な語り口と、鋭い指摘でお茶の間に親しまれた。03年に野球殿堂入りした際には「選手、監督・コーチ、解説の3つが重なって殿堂に入れていただいた。周りの人に恵まれました」と話していた。ヤクルト元監督では、2月の野村氏に続く訃報。2人とも、優勝の報告を待ち望んでいるに違いない。◆関根潤三(せきね・じゅんぞう)1927年(昭2)3月15日、東京都生まれ。日大三中(現日大三高)から法大に進み、投手として東京6大学リーグ通算41勝。49年10月には、来日した米3Aサンフランシスコ・シールズ相手に延長13回を投げ抜いた。50年近鉄入団。投手として通算65勝を挙げ、57年に志願して打者に転向。打者としては通算1137安打、59本塁打を放った。防御率10傑入り1度、打撃10傑入り5度を記録。オールスターには5度出場し、53年は投手、63年は外野手としてファン投票選出。65年に巨人で1年間プレーし引退。引退後は70年の広島打撃コーチ時代に山本浩、衣笠らを育て、巨人では75年ヘッドコーチ、76年2軍監督。大洋(現DeNA)、ヤクルトでは監督を務めた。03年野球殿堂入り。現役時代は173センチ、65キロ。左投げ左打ち。Wikipedia:ニッポン放送ショウアップナイター『ニッポン放送ショウアップナイター』(ニッポンほうそうショウアップナイター、Nippon Broadcasting System Show Up Nighter)は、ニッポン放送が放送しているプロ野球ナイトゲーム中継番組である。月〜金曜はNRN全国中継担当となっていることもあり、日本の民放ラジオ局で唯一プロ野球全12球団のホームゲームを放送できる体制を取っている。以下略
2020.04.10
アマゾンプライムビデオで視聴。生瀬勝久さんの作品を探していたら見つけた作品です。特に下記の説明を読むまでもない、文句なしに面白い、元気の出るお勧めの作品です。俳優も私好みの方が多数出演されています。サントリー創業者の生涯をたどる中で、国産ワイン、ウィキー誕生までの苦労、サントリーのCMがなぜ頭一つ抜け出ているのか、ニッカウィスキーとの関係、戦前はビールもやっていた、角瓶誕生の秘話、関東大震災は大阪でも揺れていたとかが自然とわかり、2時間があっという間に過ぎます。俳優さんがそれぞれいい仕事してます。日経ドラマスペシャル「琥珀の夢」:テレビ東京■参考リンクWikipedia:琥珀の夢『琥珀の夢』(こはくのゆめ)は、伊集院静の長編小説。『琥珀の夢 -- 小説、鳥井信治郎と末裔』と題し日本経済新聞に2016年7月1日から2017年9月5日まで連載[1][2]、『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』(こはくのゆめ しょうせつ とりいしんじろう)と題して集英社より2017年10月5日に上下巻にて刊行された。日本初の国産ウイスキー造りに挑んだサントリー創業者・鳥井信治郎の生涯を描く。『日経ドラマスペシャル 琥珀の夢』(にっけいドラマスペシャル こはくのゆめ)と題してテレビ東京・BSテレ東により2018年にテレビドラマ化された。出演者 内野聖陽檀れい生瀬勝久山本耕史大東駿介田口浩正倉科カナ中村梅雀伊武雅刀市川左團次原田美枝子西田敏行ナレーター 渡辺いっけいWikipedia:サントリー歴史・概要創業1899年(明治32年)2月に、鳥井信治郎が、葡萄酒の製造販売を目的とした鳥井商店(とりいしょうてん)を大阪市西区靱中通2丁目(現・靱本町1丁目)に創業。これを母体として、1921年(大正10年)12月1日に、大阪市東区住吉町(現・中央区松屋町住吉)に株式会社壽屋(ことぶきや)を設立。ブランド名「サントリー」の誕生1929年(昭和4年)4月、初めて発売したウイスキーに鳥井信治郎が「サントリー」と名付けた。これは当時発売していた赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立ててサン(英語のsun)とし、これに鳥井の姓をつけて "sun" + "鳥井"(とりい)= "サントリー" とした。 創業の基となった赤玉ポートワインに感謝し、太陽を忘れるなと言う思いを込めたものである。 「鳥井さん」(とりい・さん)を逆さにしてサントリーとした、鳥井に三人の男子がいたから「三鳥井」にした、という説も広まっているが、これは誤りである。[3] 創業者の「佐治」さんと「鳥井」さんを合わせて、「サントリー」という説もある。Wikipedia:ニッカウヰスキー1934年(昭和9年)、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)出身の竹鶴政孝によって北海道余市郡余市町に前身である「大日本果汁株式会社」が設立され、同社の略称「日果(にっか)」の片仮名書きが現在のブランド名になっている。2001年(平成13年)、筆頭株主のアサヒビール株式会社(現在のアサヒグループホールディングス)が全株式を取得して完全子会社化された。ニッカウヰスキーが製造する商品の販売はアサヒビールが行なっている。歴史概要寿屋(サントリーホールディングスやサントリースピリッツの前身)でウイスキー製造に従事していた竹鶴政孝が、スコットランドに近い気候の北海道でウイスキー作りをするために退社し、資本を集めて北海道余市で創業したのが始まりである。最初期の筆頭株主は、加賀証券社長の加賀正太郎。加賀は社内では「御主人様」と呼ばれ、創業者の竹鶴は専務と呼ばれた。ウイスキーは製造開始から出荷まで数年かかるため、最初期は余市周辺の特産品であったリンゴを原料に、リンゴジュース(商品名は日果林檎ジュース、のちに敵性語排斥によって日果林檎汁に改名)、リンゴワイン、リンゴゼリー、リンゴケチャップなどを製造・販売していた。しかし、創業者竹鶴の品質へのこだわりはリンゴジュースにも及び、高価な果汁100%ジュースしか出荷しなかったため、あまり売れなかったという[3]。1940年(昭和15年)にウイスキーの出荷を開始[4]。製品はリンゴジュースの商品名「日果」をカタカナにし、ニッカウヰスキーと名づけられた。直後にウイスキーは統制品となり、大日本果汁は海軍監督工場となった。当時スコッチウイスキーの国内最大の消費者は帝国海軍であったが、イギリスからのウイスキー輸入が途絶えたため、日本国産ウイスキーへの需要が高まった。このときは将校への配給用の酒を製造するために優先的に原料の大麦が割り当てられたため、事業の継続が可能となった[5]。
2020.04.08
どてらい男で思い出すのは花登筺さんの細うで繁盛記です。中高生の頃、平日夕方4:00頃の再放送で見た記憶があります。残念ながらYouTubeに動画はありませんでした。主人公の新珠三千代さんよりも、冨士眞奈美さんの印象が強烈でした。母が、この人は今はこういう役やっているけど若い頃はきれいだったと話していたのを覚えています。男性の俳優さんも神山繁さん、内田朝雄さん、滝田裕介さんと豪華でした。神山繁さんは東宝の戦争映画での軍の高官の役がいつも似合っていました。■参考リンク2023.5.7リンク切れの修正。2023.5.13内容の追加。2022.10.23内容の追加。2023.2.11リンク切れにより削除、内容の追加。2024.1.1内容の追加。Wikipedia:細うで繁盛記『細うで繁盛記』(ほそうではんじょうき)は、1970年1月8日から1971年4月1日まで、よみうりテレビで製作され、日本テレビ系列で放送されたテレビドラマ。毎週木曜日の21時30分から22時26分に放送された。解説近畿地区では最高視聴率38.0%を記録した。好評だったため続編が作られ、1972年1月6日 - 1973年3月29日に第2シリーズ、1973年8月23日 - 1974年2月14日に「新・細うで繁盛記」が放送された。オープニングで「銭の花の色は清らかに白い。だが蕾は血がにじんだように赤く、その香りは汗の匂いがする」という主人公・加代役の新珠三千代のナレーションが入った。正子役の冨士眞奈美は牛乳瓶の底のような近眼鏡をかけ、静岡弁で「ちょっくら! 加代、おみゃーの出る幕じゃあ にゃーズラよ!」「加代!おみゃーの言うとおりにゃさせにゃーで!」「犬にやる飯はあってもおみゃーにやる飯はにゃーだで!」というようなセリフを口にして、視聴者に強烈な印象を与えた。本作では「憎まれ役」だが意外にも視聴者の人気を得て、これらをパロディーにしたテレビCMも製作された。冨士がCMの最後ににっこり微笑みながら眼鏡を外すシーンを見て、意外に美人なのがまた話題になった。以後、「どてらい男」の坂田軍曹役の藤岡重慶と並び 、「憎まれ役が人気者になる」パターンを作り上げた。その後、放送局をフジテレビ系列に移し、1994年・1995年・2006年に金曜エンタテイメント枠で、2007年に金曜プレステージ枠でスペシャルドラマが放送された。原作花登筺『銭の花』(静岡新聞夕刊に連載されていた小説)。テレビドラマ化の際に、関東では銭という言葉に抵抗感があるという理由で、細うで繁盛記というタイトルに変更された。あらすじ大阪生まれの加代が、伊豆・熱川温泉の老舗旅館「山水館」の元に嫁ぎ、旅館を盛り立てていく物語。大阪の料亭南地楼の孫娘加代は「こいさん」と呼ばれ、その時々に祖母ゆうから大阪商人の心構えを聞かされていた。そして、若い板前清さんにほのかな恋心をいだいていた。しかし、終戦後南地楼は没落し、加代は騙されるようにして伊豆熱川の小さな旅館山水館の正吾の元に嫁ぐ。熱川の旅館は伝統的な営業方針を守ろうとする福原屋派と、新しい時代の温泉ホテルへ変わろうとする大西館派に分かれていた。山水館は福原屋についていた。結婚初夜、夫正吾は戦傷のため男としての努めを果たせない身体であることが分かる。加代は山水館をもり立てて大きな旅館にすることを夢見る。復員してきたかつての恋人清二、南地楼の番頭の善三、仲居のお多福が加代の元に次々に集まってきた。しかし、伝統的な商売を続けていこうとする義父、正吾、正子はことごとく加代の夢の実現の邪魔をする。ただ一人、義妹の春江だけが加代の味方となった。戦後の復興期の中で徐々に温泉地への客が増え始めていた。加代はその商機をのがさず、新しいアイデアと温かい心遣いで徐々に客を増やし続けていく。そして十数年、山水館は熱川でも指折りの大旅館に成長する。加代は夫とは言えない夫である正吾に操をたて(それは山水館の女将の立場を確保するためでもあるが)、恋心を抱く清二とは結ばれようとはしなかった。義妹の春江が清二と結婚したいと申し出た時にそれを許し、正吾の妻、山水館の女将であり続けた。続編では、加代は正子たちの策略にかかり山水館の経営権を奪われてしまう。失意の加代は、半島の西海岸にある土肥にあてもなく流されてしまう。そこで安楽館の若い主人と知り合い、新しい旅館海花亭を開く。しかし、土肥は金鉱山の採掘に伴い源泉が枯れ温泉地として危機に瀕していた。加代は俊作を助けて土肥温泉復活のために働いていく。善三たちが山中で見つけた新しい源泉によって土肥温泉は復活した。次に客を運ぶためにバスを確保するように運動を続けた。一方熱川では、義妹春江と清二らの働きによって再び山水館の経営権は取り戻されていた。しかし、春江は清二の子供を産んだ後、亡くなってしまう。その後加代は伊豆の稲取に新しい旅館松船閣を建ててその経営をお多福に任せる。そして山水館をますます大きく発展させていく。この節の加筆が望まれています。『新・細うで繁盛記』は前2作とは内容が異なり「大阪を舞台に、若い未亡人が複雑な婚家の人間関係のなかに身を置きながら、夫の残した借財を持ちまえの根性とアイデア商法によって完済するドラマ」である。キャスト関口 加代 - 新珠三千代原田 正吾(加代の夫) - 滝田裕介正子(正吾の妹) - 冨士眞奈美春江(正吾の妹) - 柏木由紀子正吾の父 - 吉田義夫正吾の叔父 - 田中春男 ※第1シリーズ途中で病気降板し、石浜祐次郎が代演。第2シリーズで復帰。正吾の叔母 - 赤木春恵清二(山水館板長) - 高島忠夫善三(山水館板前) - 大村崑お多福(山水館仲居・善三の妻) - 園佳也子徳川(山水館仕入れ係) - 谷幹一大西館の主人 - 神山繁大西館の妻(正吾の許嫁) - 弓恵子福原屋の主人 - 内田朝雄糸商の旦さん - 大友柳太朗ゆう(加代の祖母) - 浪花千栄子俊作(安楽館の主人) - 本郷功次郎土肥(町長) - 加東大介松村達雄志津江(春江の娘) - 徳永れい子(成人期)※第2シーズンより敬一(善三の息子) - 朝倉隆 ※第2シーズンより太郎(正子の息子) - うたた賢 ※第2シーズンよりスタッフ原作・脚本 - 花登筺『銭の花』より演出 - 小泉勲音楽 - 小川寛興製作 - よみうりテレビ・東宝2022.4.1内容の追加。dailymotion: 新珠三千代 * 大村崑
2020.03.25
中学1年の頃NHK銀河小説でやっていた、楡家の人びとで楡藍子役で登場した梓英子さんがきれいな人だなと思っていました。楡家の人びとはもうビデオテープがないようで残念です。その後、どてらい男の主人公の奥さん役もかわいかったです。西郷輝彦さんといい感じの夫婦でした。最近調べたら小学校の頃やっていた清水次郎長の奥さん役もされていたそうです。時代劇にしては堅苦しくなく楽しめた作品でした。手の届かない銀幕のスターというより、ちょっとがんばればこんな女性も奥さんになってくれるのかなと淡い期待を抱かせてくれるような女優さんでした。2020.5.24.追記楡家の人びと■参考リンク2020.5.14.リンク切れにより差し替え。2021.2.3リンク切れにより差替え。2020.6.28.リンク切れによりどてらい男、清水次郎長・ザ・ガードマンを削除。2022.2.23.リンク切れにより差し替え。2023.8.13リンク切れにより削除、内容の追加。楡家の人びと(楡家の人々):テレビドラマデータベース東京・青山にある病院長一家を中心に繰り広げられる悲喜劇をユーモアと詩情をこめて描く。「銀河テレビ小説」としての第1作。(後年、このドラマ以前のこの枠のドラマに遡及して「銀河テレビ小説」と呼ぶ場合もあるが厳密には正しくない)キー局 NHK 放送曜日 月~金 放送期間 1972/04/03~1972/06/30放送時間 22:00-22:15 放送回数 65 回 連続/単発 連続番組名 銀河テレビ小説主な出演 岡田茉莉子、宇野 重吉、浜畑 賢吉、佐藤 友美、長岡 輝子、伊丹 十三、草野 大悟、柳生 博、梓 英子、隅田 和世、織賀 邦江、主な脚本 石堂 淑朗主な演出 吉田 直哉、松尾 武、都成 潔原作 北 杜夫局系列 NHK制作会社 NHK銀河テレビ小説 楡家の人々:NHK
2020.03.21
幼稚園だか小学校低学年の頃てなもんや三度笠が面白くてよく見ていました。たまたま先月zakzakの記事に藤田まことさんが出ていて、いろいろ舞台裏は大変だったんだなと思いました。藤田さんといえば、1975年のドラマで若尾文子さんと共演されたあなただけ今晩はが強烈に印象に残っています。もう見られないのが残念です。ストーリーはゴーストみたいですが、面白くて暖かい夫婦愛を描いた作品でした。倉本聰さんのの脚本なのを最近知りました。■参考リンク【藤田まことが魅せる 時代劇の世界】てなもんや三度笠 秒単位の過酷現場、アドリブじゃない「前田のクラッカー」 2020.2.24 zakzak多くの名シリーズを遺した藤田まことが世を去って17日で丸10年がたった。その足跡を主演した時代劇で振り返る。 根っからの関西人と思われがちだが、藤田は東京・池袋生まれ。父は無声映画時代の二枚目俳優、藤間林太郎だった。若くして旅一座とかかわり、舞台に立った藤田は大阪で人気の「ダイマルラケット劇団」に入り、コメディー番組に端役で出演するようになった。そして1962年、主役で登場したのが時代劇バラエティー「てなもんや三度笠」である。 面長で「馬」呼ばわりされる渡世人・あんかけの時次郎(藤田)とおいしい物に目がない小僧さんの珍念(白木みのる)が旅の道中で騒動に巻き込まれる。名コンビの軽妙なやりとりと勧善懲悪の痛快ストーリー、山本リンダや島倉千代子、グループサウンズまで多彩なゲストを巻き込んで、歌あり、ギャグあり、人情ありの番組は人気爆発。放送309回の平均視聴率が東京で26・6%、大阪で37・5%。66年2月20日には64・8%という驚異的な数字を記録した。 お茶の間のトップスターになる大成功だ。舞台裏も明るく楽しいに違いないと思っていたが、ご本人に聞いたのは過酷な実情だった。まず主役をやるからには他の番組で脇役をするのはよくないとプロデューサー、澤田隆治氏のアドバイスで5本以上あったレギュラー番組をすべて降板。安定した脇役生活を捨てて「てなもんや」に賭けたが、先輩からは主役になったことを妬まれた。以下略Wikipedia:必殺仕事人 (1979年のテレビドラマ)『必殺仕事人』(ひっさつしごとにん)は1979年5月18日から1981年1月30日まで、朝日放送と松竹(京都映画撮影所、現・松竹撮影所)の共同製作により、テレビ朝日系で、毎週金曜日22:00 - 22:54に全84話が放送された、テレビ時代劇。主演は藤田まこと。必殺シリーズの第15作、必殺仕事人シリーズの第1作、中村主水シリーズの7作目である。Wikipedia:あなただけ今晩は (テレビドラマ) 『あなただけ今晩は』(あなただけこんばんは)は、1975年7月26日から9月27日までフジテレビ系列の土曜夜9時(土曜劇場)枠で放映された倉本聰の脚本によるテレビドラマ。全10回。作品内容病のために急死した夕子は、有効期限49日の天国行き切符を手に三途の川まで来たが、先輩幽霊の秋子に拒否され、天国行きを一時断念。そして四十九日を前に、現世の夫・六助との再会を試みるが、秋子の入れ知恵でいたずらはエスカレートする一方。夕子たちが日ごと夜ごとに現世を浮遊するため、六助の周りにはオカルト現象が多発する…。そんな六助たちの行動を夕子たちがあの世から見たりする様子などをコメディー調に描いたドラマ。以下略。1975【立風書房】『あなただけ今晩は』倉本聰ヤフオク
2020.03.04
フジTV花王名人劇場の激突!漫才新幹線の出場者の動画を掲載してみました。春日三球・照代の照代さんが、どこに話が飛んでいくかわからない三球さんを観客とうまくつなげるのが結構好きでした。一世を風靡したB&Bの動画が思ったより少ないのが残念。昔は新年は元旦から寄席中継で円歌さんや海老一染之助・染太郎さんを見るのが、楽しみでしたが、昭和は遠くなった感じです。2021.1.1リンク切れにより差替え
2020.02.08
ツービートをはじめてTVでみたのは花王名人劇場の激突!漫才新幹線と思っていたら、間違いだったことが今回わかりました。あのテンポの良い漫才はB&Bの影響を受けたものだと知りびっくり。今。聞いても大爆笑で、全然古さを感じません。ぼーっと立ってるとばかり思っていたきよしさんが、実は先を観る眼や、マネジメント能力を持っていたことにも驚かされます。■参考リンク2021.5.22リンク切れにより差替え。2023.8.1リンク切れにより差替え。Wikipedia:ツービート経歴コンビ結成元々、浅草の通称「公園六区」にあったストリップ劇場で、兼子二郎(ビートきよし)は浅草ロック座で劇場進行の修行をし、北野武(ビートたけし)は浅草フランス座(現在は演芸場の浅草東洋館)で深見千三郎門下のコメディアンとしてコントの下積み修行をしていた。たけしは当初、同じフランス座の同僚、春木こと愛称「カーキー」とコンビを組んでコントを演じたこともあったが、相方の男性が神経性の病気から入院したため、自然消滅(後のビートたけしの楽曲『浅草キッド』はこのカーキーとの時代を歌ったもの。「夢は捨てたと言わないで」のくだりはカーキーが病室で「もう夢は捨てた」と発言したことによる)きよしもレオナルド熊の弟子と漫才コンビを組んで名古屋の大須演芸場に出演することになっていたが、レオナルド熊がその弟子を破門したため、代わりの相方を探していた[2]。きよしは、以前ストリップの幕間のコントで共演したことがあったたけしに新パートナーの提案を持ちかける。ここで、後のツービートの前身となるコンビが結成されることとなる[3]。たけしの師、深見千三郎は弟子の漫才への転向を認めず、たけしを即刻破門。これにて漫才コンビ結成への障壁が消滅。当初は、きよしがネタを作りボケ、たけしが突っ込むスタイルだったが、コンビは全く評価されない状況が続いた。当時、楽屋内でも師匠と弟子の師弟関係にあたる縦のラインが強い漫才業界の集団で、舞台コント(軽芝居)からの転向組という立場は彼らを浮き上がらせていた。きよしの「やはり有名な師匠の所に居ないとだめだよ」との発案で松鶴家千代若・千代菊門下に入門し、松鶴家二郎・次郎を名乗って活動を行った。また、きよしがコロムビア・ライトの付き人経験があったことから、空たかし・きよしとして舞台に上がったこともあったが、状況は相変わらずだった(ライトが相方であるコロムビア・トップと絶縁状態にあったため、青空一門ではなく個人の預かりとして芸名が青のない「空」になっている)。芸人社会の顔で人望のあった深見千三郎が一言、「たけしを頼む」と周囲に声をかけたなら事情も変わったとする見方もあるが、深見はたけしを可愛く思いながら、最後まで弟子の漫才転向を醒めた視線で捉えていた。ツービートにこの八方塞がりの状況で、たけしがきよしに代わって主導権を握ることとなり、コンビ名をツービートと改名[4]。余りの受けなさに舞台で性器を露出したり、客を毒舌でいじるなどの追いつめられて行った行動が徐々にスタイルになり、ツービートの原型となったが、決定的だったのは、大阪の新進漫才師・B&Bの島田洋七との出会いである。後に紳助・竜介も倣う、シンプルで間を減らしたテンポの速い『16ビートの漫才』『客を完全に飲み込み唖然とさせる漫才』を見て衝撃を受ける。ツービートもこれを取り入れ、たけしがひたすら猛烈な勢いでしゃべり倒し、アトランダムにきよしが突っ込む高速漫才へ変貌する。「山形いじめ」のネタは、B&Bの「広島岡山漫才」を真似たもので、こうして開き直ったたけしは、それまでの下ネタはもちろん、差別用語から、放送禁止用語まで、およそ今までの漫才ではタブー視されていたものをあえて取り入れ評判を呼び、まず同業のプロ仲間から評価を上げていった[5]。テレビ進出1970年代後半から状況はさまざまに変化を見せ、立川談志や漫画家の高信太郎らがツービートを評価し出し、所属事務所も太田プロダクションへ移籍し、1975年に東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『ライバル大爆笑!』でテレビ初出演。大阪で興ったB&Bに加え、テレビ『ヤングおー!おー!』に出演していた若手達のコンビ、そしてツービートなど、以前とはスタイルの違う新世代の漫才師を一つのムーブメントとして過去の“漫才”から一線を画する意味で“マンザイ”、“MANZAI”としてフジテレビで『THE MANZAI』(全11回で終了)として番組に構成。これらのメンバーを中心に、1979年頃より1981年頃にかけて漫才ブームと呼ばれる社会現象になった『THE MANZAI』の出演者は、服装もツナギ(紳助・竜介)やコンビロゴの入ったスウェットシャツ(B&B)、DCブランド(ツービート)、アイビールック(ザ・ぼんち)とバラエティに富み、アイドル性を加味している。ただし、ツービートの2人は他の若手が20代だったのに対して既に30代に突入しており、外見的にも業界用語でいう「汚れ」であって[6]、アイドル人気ということでは一歩遅れを取っていた。さらに、ツービートはテンポが速いのみならず、“毒舌”と評される「ジジイ」、「ババア」、「ブス」をはじめとした単語を多用し、それまでは穏和で、ある意味媚びたスタンス漫才師が一般的であった背景からコンサバ層(婦人、中高年齢層)には受け容れられず、『THE MANZAI』出演当時も事実、人気は5番目あたり(本人談)に位置し、当時はほぼ完全に若手サラリーマンや大学生と言った、教育レベルが比較的高く、新しい刺激やスタイルに直感的に敏感な世代のみに支持されていた。後にテレビ番組『ダウンタウンDX』でゲスト出演の紳助が「実際はB&Bと紳助・竜介、ツービートだけが新しいもので他は既存のものであった」と語っている。『THE MANZAI』は当時関西ばかりにタレントが揃い、東京勢が希少であった[7] にもかかわらず、自らの意思で第5回をもって出演を最後にしている。ツービートの漫才が浸透し要望が高まっていた頃にはすでに『THE MANZAI』から姿を消していたのである。漫才の舞台から姿を消すのと同時期にたけしはソロ活動を開始。1981年1月1日からのニッポン放送『ビートたけしのオールナイトニッポン』では深夜放送のヘヴィユーザーである受験生に絶大な支持を受け、勤労層の若者は録音で愉しみ、テープを回し何度もその早口を聞き取ることを喜びとした。漫才ブームが始まった頃のギャランティは月額30万円程度だったが、ブームが到来すると半年で月1600万円になっていたという[8]。2017年に公表された御田晃生による、絶頂期の1980年には年収が20億円であったとする文も存在する(当時の大卒初任給の平均は11万円)[9]。浅草キッドの浅草キッド抜粋ビートきよしさんは今までうなずいてばかりいる人という印象しかありませんでしたが、たけしさんに漫才への転向を勧めた、いわば歴史を動かした人と知りびっくり。Wikipedia:激突!漫才新幹線抜粋『激突!漫才新幹線』(げきとつ まんざいしんかんせん)とは、フジテレビ系列の『花王名人劇場』でシリーズ化されていた関西テレビ製作の漫才番組である[1]。同タイトルで5回放送されたが、ここでは1980年代の漫才ブームを興したことで知られる1980年1月20日の第1回放送について[2]特に記述する。概要国立劇場などにて行われた横山やすし・西川きよし、星セント・ルイスといった東西を代表する漫才コンビの競演を放送した。当時若手だったB&Bがもう1組として抜擢されて出演し、B&Bが爆発的人気を得たため、これが漫才ブームを起こすきっかけとなった[3][4][5][6]。ゴールデンタイムの1時間枠を司会なしで、やすしきよし、星セント・ルイス、B&Bの三組が、おのおの10数分間の持ち時間で漫才のみを行い、舞台袖で他コンビの漫才を見守る様子を中継するなどカメラワークも工夫し、当時としても異例中の異例の番組であった[3][4][7]。第1回となった1980年1月の放送でB&Bは「もみじまんじゅう」などのお国自慢ネタを披露し、視聴率は関東では15.8%、関西では27.2%を獲得した[8]。『激突!漫才新幹線』は大成功を収め、漫才は高視聴率を稼げるソフトとして一躍脚光を浴びた[4]。各局がこぞってお笑い番組を始め、出演者はアイドル並みの人気を得た[4]。仕掛け人・澤田隆治プロデューサーは「話術だけで、こんなに笑えるモノがある。視聴者がそれに気づいたんやね」と話している[4]。この放送が漫才ブームと起点となり[8]、視聴率的に苦戦していた『花王名人劇場』も漫才をメインとする番組と路線変更するきっかけとなった[9]。企画経緯番組がスタートした当初の『花王名人劇場』は昭和の多彩な名人芸を紹介するコンセプトの番組で、単発ドラマも放送していたが[9]、視聴率的には苦戦しており、打開策として取り上げられたのが漫才だった[8]。そもそもは、あらんどろん、B&B、ツービート、Wヤングの4組の漫才の激突という企画だった[10][11]。1979年10月22日のプログラムに載っている同年12月5日の国立劇場演芸場の公演の予告には、「激突!漫才新幹線」のタイトルと共にあらんどろんら4組の名前が入っていた[10]。ところが1979年10月25日、Wヤングの中田治雄が熱海で自殺するという事態が起きてこの企画は潰れた[8]。この4組の中で売りものになるのは当時Wヤングだけだった。あとの3組は既にテレビには出てはいたが、とてもゴールデンタイムに登場させる看板ではなく、企画の括りでトライさせてみようという目論見であった。やむなく1979年12月22日、改めて漫才企画としてやすしきよし、セント・ルイスの激突にB&Bを入れた構成で録画し、翌1980年1月20日にテレビ放送された[10]。時代背景「漫才は西(関西)の芸」というのが一般の認識で、テレビの世界では漫才は、まだまだ全国区ではなかった[4]。吉本興業の木村政雄は「若者はゴールデンタイムに漫才なんて見たことがなかったと思う」と述べている[4]。当時は上方漫才が活気を失っていた時期でもあった。大阪万博時には観光客で劇場は賑わったが、以降テレビではバラエティ番組が主流となり、漫才師は「漫才」以外で重宝されていた。やすしきよしも主に司会で売っていて[4]、漫才をテレビでやるのも2年ぶりだった[12]。打ち切られるローカル演芸番組も多く、本当に漫才が好きな人だけが松竹の角座や吉本の花月に通っている状況だった[4][13]。さらに野球賭博等で上方のお笑い界がガタガタになっていたところへWヤング中田の自殺が起き、「漫才はもうなくなるのでは」とまで囁かれていた[14]。
2020.02.07
2/2の東京新聞によればNHKに続いて、民放各社もネットでの同時配信を始めるようです。テレビ離れは私もなので、若者に限らないと思います。全世帯視聴率はグラフのとおり20年前から右肩下がりを続けています。ドラマの合格水準の視聴率も昔と比べて下がっています。以前、ドラマの低視聴率の原因を調べた時に、全体の視聴率が下がっていることに加えて、制作の主体がTV局から大手芸能事務所に代わって、良質な作品が少なくなったことが挙げられていました。ネット同時配信を機に地上波デジタルとあわせて、視聴率の計測は簡単になったと思うので、新しい時代のモノサシとなるような「新視聴率」が開発されるとよいと思います。個人的にドラマをリアルタイムでTVで観ないで、ネットで追いかけて観る人の視聴率は結構高いように思います。また、TV局も芸能事務所も、危機感を覚えて、配役も含めてドラマ作りの構造を見直すとよいと思います。■参考リンク主要テレビ局の複数年にわたる視聴率推移をグラフ化してみる(最新)2019/11/20 05:20 ガベージニュース東京新聞【経済】民放キー5局 今秋ネット同時配信へ 若者のテレビ離れ対応2020年2月2日 朝刊民放キー局五局が今秋以降、テレビ番組を放送と同時にインターネットに流す同時配信を始める方向で準備していることが分かった。テレビ離れが進んでいるとされる若者層を中心に、スマートフォンなどで広く番組を見てもらうのが狙い。民放は採算が合わないと慎重だったが、三月から同時配信を始めるNHKに追随。放送と通信の融合が本格化する。 各局の関係者によると、同時配信は需要がある時間帯に限定する。日本テレビは十月開始を目指し、ゴールデンタイム(午後七~十時)やプライムタイム(同七~十一時)で検討。テレビ朝日やTBS、フジテレビなども準備を進めており、若者の視聴者が多いとされる深夜帯のドラマやバラエティー番組の配信可能性を探っている局もある。 各局は夏の東京五輪・パラリンピック中継は同時配信する見通し。あるキー局社員は「五輪で視聴者に認知してもらい、その流れでレギュラー番組の同時配信を利用してもらえると理想的」とし、開始時期は各局の足並みがそろう可能性もある。 各局とも同時配信の視聴可能地域を制限しない方針。関東限定で放送している番組もネット上では全国で見られるようになるため、系列局の反発が予想され、本格的な調整が必要だ。 ネット上ではテレビで放送するCMはカットし、視聴者の属性に合わせたターゲット広告を導入する。一部の番組は出演者らの許諾が得られず配信できないことも想定され、該当する映像を隠す「蓋(ふた)かぶせ」で対応。放送後の番組の見逃し配信サイト「TVer(ティーバー)」などで視聴できるようにしたい考え。 NHKは三月一日から同時配信を試験的に実施し、四月一日午前六時からは一日十八時間程度の本格運用を始める。<インターネット同時配信> 放送をネット上で同時に楽しめるサービス。英国BBCが2008年からテレビの同時配信を始めるなど、海外での普及が進んでいる。日本では、NHKが今年3月1日から総合テレビとEテレの番組で試験運用を始める。テレビの受信契約を結んでいる世帯の人が対象で、追加料金なしで視聴可能。日本のラジオは民放が10年、NHKが11年から実施している。日本人の「テレビ離れ」はいつはじまったのか?データが明かす真実ターニングポイントは「1993年」2018.3.6. 週刊現代日本のドラマがこの10年で急速につまらなくなった、本当の理由こうして「良質な作品」は消えた田崎 健太 2017.9.3. 現代ビジネス大手芸能事務所に支配された「平成テレビドラマ全史」日本のドラマがつまらなくなった理由②田崎 健太 2017.9.10. 現代ビジネスNHK大河ドラマの平均視聴率推移社会実情データ図録 Honkawa Data Tribune
2020.02.02
泉里香さんのインスタグラムで紹介されていました。泉里香の小顔に比べてチコちゃんの顔がデカッ!調べたら小柄な男性の方がチコちゃんの中の人だそうで、泉里香さんと手をつないでうらやましいというか顔だけでもかぶってると重そうです。泉里香■参考リンク泉里香:チコちゃんに𠮟られる 2/1(土)AM8:15 NHK総合チコちゃんの中身は誰?中の人は小さい身長のスーツアクター!松之丞
2020.02.01
小学生からの巨人ファンでしたが、2000年を過ぎたあたりからプロ野球を見なくなりました。最近の若い選手を見ても区別がつきにくくなってきたのも年齢のせいかも知れません。江夏・堀内両投手の投げ合いとか、王選手の山田投手から奪った日本シリーズでのホームランとか、昔のプロ野球は人間くさかったように思います。近鉄戦での江夏投手のの21球や、オールスター9連続奪三振は特に印象に残っています。NHKの番組は今回はじめて観ましたが、21球それぞれに背景があることや、衣笠さんのアドバイスが江夏投手をふっきれさせたこと、野村さんの解説が面白かったです。江川投手も高校からプロに入っていれば、もっとすごい記録が出せたかもしれません。屋根の無い天燃芝の後楽園球場で、またプロ野球を観たいです。2021.7.19リンク切れにより差替え。■参考リンクWikipedia:江夏の21球NHK特集・スポーツドキュメント「江夏の21球」山際淳司の作品を読んだ近鉄ファンの佐藤寿美・報道ディレクターが企画を提出した。本人にスポーツ番組の経験はなく、すでに出版されているドキュメンタリーと同じ題材をNHK特集で取り上げることには反対が強かった。番組制作の条件として部長から、山際の作品を超えるものを作れと言われたという。制作にあたり、スポーツ番組の経験がなかった佐藤は山際の「江夏の21球」を掲載した『Sports Graphic Number』の初代編集長の岡崎満義のところに相談に行き、岡崎と山際の協力も得て事実上NHKと『Sports Graphic Number』のコラボレーションで制作されたのだという[24]。そのため、番組のスタッフロールには「協力」として山際の名もクレジットされている。江夏へのインタビューは山際・岡崎・佐藤の3人で担当。3人が交代で江夏に質問を行い、それに対して江夏が1球1球説明を行ったため、収録に8時間かかったという。ちなみに、江夏・山際・佐藤の3人は同じ1948年生まれ、さらに江夏と佐藤は同じショートホープを好んで吸っていた[25]という偶然もあって馬が合ったことも番組制作の上でプラスとなった[26]。当時の試合映像は当日中継を行った毎日放送にも残っていなかった。NHK広島放送局の職員がたまたま録画したビデオテープをロッカーに置いてあったものが見つかった。しかしニュースでダイジェスト用に使うために用意したものだったため、実況は入っていなかった。ラジオで実況をしたNHKの島村俊治アナウンサー[27]自分で録音していたテープがあり、ようやく素材をそろえることができた。山際の文章では要所にのみ加えられた野村克也の解説を、独自性を出すために1球ごとに解説を加えるようにし、画面上にボールの軌跡を描くことを手作業で行った。また、スコアボードに代打・佐々木が表示される場面など、残された試合映像にないシーンを大阪球場で新規にロケ収録して補った。野村は冒頭の解説で「プロ野球は半世紀が流れていますけど、これ程の場面に出くわしたことはない。おそらくこれからも出るか出ないか分からないと思う。それぐらいの名場面が1979年の広島VS近鉄の日本シリーズじゃなかったかと思います」と話した。2010年10月にNHKエンタープライズからDVDが発売されている。奇しくも佐藤はこのDVDの発売当時、NHKエンタープライズの常務取締役を務めており、発売後の2011年2月から2013年6月までは同社の社長を務めた。なおDVD化にあたり、番組内の音楽はOA版のヴァンゲリス(アルバム「天国と地獄」より)から全部差し替えられた。また、この作品がきっかけで山際とNHKの縁ができ、山際は1988年にはメジャーリーグ紹介番組『大リーグアワー』、晩年の1994年4月3日から1995年5月14日まで[28]NHKのスポーツ情報番組『サンデースポーツ』のキャスターを務めた。2018年10月28日にNHK総合「あの日あの時あの番組」でこの番組が再放送された。ゲストは江夏と大野豊(NHKプロ野球解説者)。Wikipedia:江夏のオールスター9連続奪三振背景日本プロ野球、セントラル・リーグの阪神タイガースに所属していた江夏豊は1971年5月5日に先発投手として登板していたが、3回1死後に脈拍数が160を超え、降板した[1]。当時の球団は江夏に対してこれを秘密にしていたが「何万人に1人」の心臓病だと言われていた。また江夏は酒は飲まないが、タバコを多い時で1日あたり最大で約80本吸い(後に同約20本に減らした)、不規則・不摂生の生活を送っていた[1]。それだけではなく、前年に起こった黒い霧事件にも巻き込まれていた[1]。7月に入ってからの江夏は「何でか知らんが、今年はコントロールが悪いねん」と自分の投球内容に対しての不満を述べていたという[1]。この年のオールスターゲーム前の成績は防御率3.12で6勝9敗と負け越していたが、7月9日に結果が発表されたオールスターのファン投票では、セントラル・リーグの投手部門で見事1位に輝いた[1]。江夏は日刊スポーツ紙の取材で、日本プロ野球どころか過去のメジャーリーグベースボールでも1度も達成されていない9連続奪三振の達成を予告したが、「江夏は九人全部、三振にとったるワ…とジョークも言った」と2面のほんの片隅に、わずか一行記事で片付けられた[2]。記録の背景にはスポーツ紙の記者の挑発があった。この年は球宴前まで6勝9敗。ファン投票で選ばれたのが申し訳ないほどだった。記者は「ようそんな成績で出てきたな。ちょっとお客さんが喜ぶようなことをやってみな」とたきつけてくる。自分がお客さんを喜ばせるとしたら三振しかないだろう—私の履歴書 江夏豊(日本経済新聞、2017年12月20日)7月17日に西宮球場で開催されたオールスターゲーム第1戦の全セの先発バッテリーは江夏と田淵幸一。この年の田淵は腎炎を罹った影響で捕手としてほとんど試合に出ておらず(主に右翼手として出場。捕手は辻恭彦が務めていた。)、シーズン中にはまだ一度も組まれていないバッテリーだった[2]。Wikipedia:江夏豊オールスター9者連続奪三振詳細は「江夏のオールスター9連続奪三振」を参照1971年7月17日、阪急西宮球場で行われたオールスターゲーム第1戦で、速球と正確なコントロールで打者のバットにことごとく空を切らせ、初の9者連続奪三振を記録した。オールスターゲームは、投手は規定で3イニングまでしか登板できないため、これは1試合における事実上最高の奪三振数であり[注 2]、現在でもオールスターにおける単独記録である。この後全セは、江夏の後を受けて登板した渡辺秀武、高橋一三、水谷寿伸、小谷正勝の継投で全パを1四球1失策16奪三振で無安打に抑えて、継投によるノーヒットノーランを達成している[11]。この9連続三振の前年には連続5三振、翌日には1三振を奪っており、この3試合を合わせた連続15奪三振もオールスター記録となっている。更にこの試合で江夏は、1960年の巽一に次ぐ史上2人目となる、オールスターでの投手による本塁打を放っており、これを最後にオールスターにおける投手による本塁打は記録されていない。この試合で、キャッチャーフライを追った田淵幸一に「捕るな!」と叫んだとされているが、実際には、スタンドに入るだろうしテンポ良く投げたかったため「追うな!」と叫んだものであると、江夏は著書の中で語っている。この9連続奪三振を達成した時のボールは、江夏の手元にはない。これはこの時キャッチャーを務めていた田淵が、三振のコールを聞くと同時に無意識にボールを放り投げてしまい、そのために行方が判らなくなったためとされている。当時の映像でも、田淵がコールの確認直後に立ち上がり、ベンチ方向へと歩き出しながらボールを後方に放り投げる様子が確認できる。ただ、後年江夏が番組で王理恵と共演した際には、「(三振のあと)田淵というキャッチャーはボールを放り投げてしまった。でも君のお父さん(王貞治)が拾ってくれてスっと渡してくれたんだよ」とも述べている。江夏の21球 (角川新書) (日本語) 新書 – 2017/7/10山際 淳司 (著)
2020.01.07
年末は怒涛のような慌しさで、1個でも持て余すような案件を4本同時に走らせて悲鳴を上げていたのが、ここにきてやっと休戦状態に入りました。ひまになると不思議なもので昔観たTVのことが思い浮かびました。おはよう!こどもショーの中で、「草の芽のびて 葉がのびて♪」という歌が好きでしたが、「おーい!たいそうだい」という楠トシエさんの歌だそうです。いかにも山本直純さんらしい曲です。YouTubeにはご本人の歌は見つかりませんでしたが、CDで出ていてアマゾンで1番だけ視聴できます。楠トシエさんのCMソングも結構いいです。黄桜は名曲だと思います。またロンパールームのおやつの時間に、たしかマグカップで出ていた飲み物が子供の頃、とても飲みたかったです。中が見えないだけ、おいしそうに見えました。幼稚園の頃でしたが、うつみみどりさんがすごくきれいに見えました。ロバくんの相川欽也さんはロンパールームでうつみみどりさんと知り合って結婚したのかとずっと思ってましたが、ロバくんはおはよう!こどもショーでした。■参考リンクおーい!たいそうだい(作詞:NTV, 作曲:山本直純、歌:楠トシエ、ひばり児童合唱団)Wikipedia:おはよう!こどもショー『おはよう! こどもショー』は, 1965年11月8日から1980年9月28日まで日本テレビ系列局で毎週月曜日から日曜日の早朝(7時 - 8時頃)に放送されていた子供向け番組。平日版は1979年3月2日をもって終了。土日版は一部ネット局で1980年9月まで継続した。“元祖コマソンの女王”楠トシエ大全 CD楠トシエヤフー知恵袋:ロンパールームでおやつのコーナーって牛乳だけでしたか?私はふかふかのムシパンを食べているのを見た記憶があるのです。すごくおいしそうでした。ベストアンサーに選ばれた回答ID非公開さん 2005/10/2809:10:20同級生でロンパールームに実際に出たことのある人の証言によると牛乳だけ。しかも量も底のほうにちょこっとだけというなんともわびしい内容だったそうです。Wikipedia:ロンパールーム『ロンパールーム』は、1963年10月7日から1979年9月28日まで日本テレビ系列局で放送されていた子供向け番組。当初は月曜 - 土曜の放送だったが、のちに土曜[1]は廃止された。アメリカの同名の番組“Romper Room”を参考にして製作された番組。同番組のフランチャイズはフリーマントルメディアによって行われ、アメリカ国内のボルチモア(オリジナル)、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスをはじめ、カナダ、オーストラリア、北アイルランド、イギリス、プエルトリコ、香港でも放送されている。題名の“Romper”とは「腕白・やんちゃ」を意味する言葉、および子供用のつなぎ服“rompers”(ロンパース)から取られた。教育の時間ミツバチを擬人化したキャラクター人形「にこちゃん」(良い子)「こまったちゃん」(悪い子)があり、毎週お約束が書かれていた。遊びの時間初期 - 中期には、パンチボールや倒れそうなブロック積みなどのゲーム(いずれも、番組提供社である野村トーイ製品)が行われた。おやつの時間、絵本の時間「おやつの時間」というコーナーがあり、出演する子供にお菓子や牛乳が振舞われた。鏡よ鏡よ鏡さん絵本の時間に続いて番組の最後に、みどり先生が丸型で取っ手の付いた銀ラメの鏡を持ち出して「鏡よ鏡よ鏡さん、みんなに会わせて下さいな。そ~っと会わせて下さいな…」と呪文を唱え、イメージシーンが挿入された後に鏡が枠だけになり、枠からみどり先生が顔を覗かせ、視聴者の子どもの名前を呼ぶコーナーがあった。視聴者の母親からは「子供が泣いてしまうのでぜひ呼んでほしい」という意見が多かった[2]。これもアメリカ版からそのまま引き継いでいる。残されたぬいぐるみの都市伝説この番組にはとある都市伝説がある。先生からゲームとして「『き』で始まるものの名前を答えて下さい」と言われた幼児の1人が、「きんたま」と口にして、先生が「もっときれいなもので答えてね」と言ったところ、今度は「きれいなきんたま」と答えた。そこで番組は「しばらくお待ち下さい」と放送が中断し、再開されるとその幼児が座っていた場所にはクマのぬいぐるみが置かれていて、この幼児はいなくなっていた、というものである。生放送中の出来事とされる[11]。いつ頃から流布している話なのかは正確には不明だが、1982年には作家の落合恵子が友人から聞いた「あるテレビ局の子ども番組での出来事」として、「きれいなきんたま」と発言したという部分までを雑誌で紹介している[12]。また、同年のラジオ番組「アニメトピア」において三ツ矢雄二が「パンダのキャン玉(金玉)事件」として話題にしている。1990年には武蔵野音楽大学講師の行方均がある学生からこの話を聞いたとして都市伝説の翻訳本に記している。どちらも『ロンパールーム』と断定しておらず、落合は「あるテレビ局の子ども番組」[12]、行方は「あるテレビの公開子供番組――『ロンパールーム』という説が多い」としている[11]。2002年12月29日放送の『さんまのSUPERからくりTV』(TBS)で、「キンタマ」という単語を連発する司会の明石家さんまに、2代目先生のうつみ宮土理が「そういう子がロンパールームにいたのよ。言うことを聞かなくてうるさいから出て行ってもらったの」と発言した。それに対してさんまは「で、コマーシャルが終わったらその子の席にぬいぐるみが置かれていたんでしょ」と聞き返し、うつみは「そう」と肯定した。2005年4月28日放送の『ビーバップ!ハイヒール』(朝日放送、関西ローカル)も検証コーナーとして特集を組み、うつみにこの件について確認したところ、うつみが実際に起きた出来事であると証言する模様が流れた。この時にうつみは、「自分が番組を担当していた時に実際に起こった」、「収録はVTRだったが、当時はVTR編集には時間もお金も掛かり、ドラマなどを別にすると編集をしないで放送するいわゆる「撮って出し」が普通であり、この時も多少問題にはなったのだが、結局、そのまま放送することになった」、「当時は、VTRは非常に高価だったため、VTRの使い回しが普通だったので、その回のVTRはおそらく現存しないはず」と証言した。非常に時間を取った詳細な証言であった。また、2005年9月21日放送の『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)の「テレフォンショッキング[13]」にて、ある観客が「番組が年内終了するのか?[14]」とタモリに繰り返し質問したことからスタッフにつまみ出され、CMの後、その席には実際にクマのぬいぐるみが置かれていた(後に、その観客には了承を得た上で退席してもらい、スタッフが急遽ぬいぐるみを用意したと説明された)。番組が違うとはいえ、都市伝説が現実化した例と言える。これ以外に、漫画『かってに改蔵』(単行本11巻より)や『GTO』(週刊少年マガジン09年28号)・『喧嘩商売』(単行本16巻より)でも生放送の番組で問題発言をしたキャラが、番組途中でぬいぐるみと入れ替わるというパロディが描かれたことがある。このほかにも1987年のミスタードーナツのCMでは、所ジョージの「(販促品の)お弁当箱欲しい人」という子供たちへの問いかけに対して、1人だけ「要らん」と絶叫した子供がスタッフにつまみ出され(その間、「このまましばらくお待ちください」というフリップが掲げられるが、演出上の掲出なので後ろで一部始終が見える)、代わりに狸の信楽焼が置かれたうえで再度問い掛けなおすという、この事件とよく似たモチーフのストーリーが描かれたことがある(ただし、この件にヒントを得たものかどうかは不明である)。なお、番組に出演中の幼児が暴言や卑猥なセリフを言ってしまったために番組が中断されてしまうという都市伝説は、日本のみならず世界各地で知られており、例えばジャン・ハロルド・ブルンヴァンは「道化師ボーゾー(英語版)」や「アンクル・ハウディ」といった番組の例をあげている[15]。
2019.12.30
中学生の頃よく見た番組で、せんだみつおさん、湯原昌幸さん、木ノ葉のこさん、シェリーさん、あのねのねとか印象にのこっています。マギー・ミネンコさんの燃えるブンブンという歌は当時はそれほど好きでなかったけれど、今でも耳に残ってます。タモリさんがこの番組に出てたのは覚えてませんでしたが、ビデオを見ると面白いです。和田アキ子さんは、「ゴッド姉ちゃん」のイメージが定着するのを嫌ったことや、歌手に専念したいとのことで番組を降番されましたが、今でもあのキャラのままのように思います。■参考リンクWikipedia:金曜10時!うわさのチャンネル!!『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(きんようじゅうじ うわさのチャンネル)は、日本テレビ系列局で放送された日本テレビ製作のバラエティ番組。和田アキ子とタモリが最初に共演した番組でもある。製作局の日本テレビでは1973年10月5日から1979年6月29日まで、毎週金曜 22:00 - 22:54 (JST) に生放送。遅れネット局では録画放送。番組開始の経緯当初この時間帯では、渡辺プロ制作による第2の『シャボン玉ホリデー』と言えるバラエティ番組の放送を予定していたが、月曜20時台の番組を巡っての日本テレビと渡辺プロの対立(→それに関連する記述)によって頓挫。再度企画を練り直して生まれたのがこの番組である。この渡辺プロとの抗争の矢面に立った井原高忠が制作(チーフプロデューサーと同義)で参加。彼がスタッフに「この番組は何が何でも当てろ!」と猛烈にハッパを掛け、当時のバラエティ番組としては類の無い型破りでエネルギッシュなものとなった。番組の歴史初回(1973年10月5日放送分)の視聴率は4.7%だったが、和田アキ子とザ・デストロイヤー、せんだみつおらの掛け合いが人気となり、1か月も経つと20%を突破[1]。井原は後年「この番組がヒットして正直ホッとして胸をなで下ろした」と述懐している。全盛期には視聴率30%を超える人気番組となったが、和田が「ゴッド姉ちゃん」のイメージが定着してしまったのを嫌ったことや、歌手に専念したいとの意向で日本テレビへ強引に降板を申し入れたことから、1978年春で降板[2](この一件が原因で以後2年間、和田は日本テレビへの出入りが禁止されるなど両者は折り合いが悪くなった。後に和解し『歌のトップテン』[3]や『ミンナのテレビ』などに出演した)。和田と並ぶ番組の顔であったせんだも同年末で病気療養による長期芸能活動停止に伴い番組を降板。両者が番組を去った後は、千昌夫を中心に和田メインの頃からのレギュラーであるタモリ・所ジョージ・木の葉のこが千のサポートに回るような形で放送を続けたものの、この頃より番組の人気が急激に低迷。さらには徳光和夫が『ズームイン!!朝!』の総合司会に就任するため降板したことも相俟って視聴率が下落し、1979年秋の改編を待たずに打ち切りとなった。本番組は、同局の人気オーディション番組『スター誕生!』の出身歌手たちをサポートする役割も果たしていた。また、ほとんどの期間においてはモノラル放送だったが、1978年9月29日放送回から最終回まではステレオ放送で行われていた。アコのゴッド姉ちゃんこのコーナーは、和田アキ子が、ガキ大将的存在の「ゴッド姉ちゃん」に、せんだみつお、ザ・デストロイヤー(なぜかドイツ軍兵士のヘルメットを被っている)らが、仲間の悪ガキどもに扮したメインコーナー。和田は連中をひたすらののしり、ハリセンでどつき倒したが、犬やヘビには弱く、せんだらがたまにダレ犬をけしかけて逆襲したり、ザ・デストロイヤーがヘビのおもちゃを出して和田に悲鳴を上げさせたりする場面もあった。この番組への出演を機に、和田の「姉御肌」のキャラクターが定着した。このコーナーの中で、ゲストがザ・デストロイヤーに4の字固めをかけられて悶絶することがよくあったが、それがきっかけでブレイクしたタレントも多い。当時日本テレビアナウンサーの徳光和夫はそれまではスポーツ関係のアナウンサーという印象でしかなかったが、このコーナー出演をきっかけにバラエティへも進出し、後の「おもしろまじめ」で小林完吾と共演するきっかけにもなっている。また、ガッツ石松がまだ現役のプロボクシング世界チャンピオンの時にこのコーナーに出演して、「ぼくさーボクサーなの」というギャグを発していた。出演者レギュラー和田アキ子(番組のメイン格。1978年3月まで)せんだみつお(開始〜終了まで ※途中、病欠期間あり)ザ・デストロイヤー(プロレスラー、開始〜1978年まで)湯原昌幸(開始〜1977年3月まで)あのねのね(清水國明・原田伸郎、開始〜1976年9月まで)山城新伍(1977年4月〜1978年まで)千昌夫(1978年4月より和田の後継メイン格として番組終了まで出演)タモリ(1976年10月〜終了まで)所ジョージ(1978年〜終了まで)マギー・ミネンコ(開始〜1975年まで)シェリー(1975年〜1977年まで)木ノ葉のこ(1977年〜終了まで)五月みどり(1976年頃に出演)ラビット関根魁三太郎轟二郎スタッフ企画:阿久悠制作(チーフ・プロデューサー):井原高忠、笈田光則制作協力:田辺エージェンシー製作著作:日本テレビ
2019.12.09
アマゾンプライムビデオで視聴。宮沢賢治といえば小学校の頃、伝記を読んで、そこにあった写真からも、また雨にも負けずの内容からも、文学、音楽、宗教、教育に人生をささげたストイックな方とイメージしてました。生涯を描いた影像作品もあまり見たことがなく、興味がありました。宮沢賢治の青春時代を描いた作品で、たびたび作品に登場する妹さんとのかかわり、実家の暮らし向き、学校での生徒への接し方とかがわかって親近感が湧きました。出演者も市川実日子さん、神野三鈴さん、平田満さんと私の好きな方が登場されいて楽しめました。石橋杏奈さんが可愛くて兄思いの妹をうまく演じていました。1時間の作品の5話連続ですが、恋愛の進展の描き方で、つっかえるところがあり、さくっと一気には見れませんでしたが、まずまずの作品だと思います。「このドラマは史実を基にしたフィクション」とあるので、思い切った展開にしてもよかったと思います。NHKの大河ドラマも、こういった近現代の偉人の伝記とかをとりあげたら、幅が広がるように思います。■参考リンクWikipedia:宮沢賢治の食卓『宮沢賢治の食卓』(みやざわけんじのしょくたく)は、魚乃目三太による日本の漫画。『思い出食堂』(少年画報社)2014年15号から2017年32号に全10話が不定期に連載、思い出食堂コミックスより2017年3月27日に刊行された。全1巻。『銀河鉄道の夜』や『雨ニモマケズ』の作者・宮沢賢治が稗貫農学校(のち花巻農学校)で教職員をしていたころのエピソードを1話完結形式で、各エピソードにちなんだ賢治の作品や当時の食べ物を紹介しつつ描く。WOWOWの「連続ドラマW」枠でテレビドラマ化され、2017年6月17日から7月15日まで放送された[1]。全5回。Wikipedia:宮沢賢治恋愛・性愛観賢治は生涯独身だった。盛岡高等農林学校在籍時に出会った一年後輩の保阪嘉内との間で、互いに「恋人」と呼び合うような親しい間柄になり、嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情の表出、率直な心情の吐露が認められ、手紙に記された文面は、時にあたかも恋人に宛てたような表現になった。嘉内からは情緒的にも思想的にも強い影響を受け、とりわけ『銀河鉄道の夜』の成立には、20代の頃に嘉内と二人で登山し共に語り合って夜を明かした体験が濃厚に反映され、登場人物の「ジョバンニ」を賢治自身とするなら、「カムパネルラ」は保阪嘉内を表していると考える研究者もいる[139]。妹・トシ1898年11月5日生 - 1922年11月27日没子供の頃から成績優秀で、岩手県立花巻高等女学校でも4年間首席、卒業式では総代として答辞を務める。卒業後、東京の日本女子大学校家政学部予科に入学する。女学校卒業前に音楽教師との恋の噂の記事が地元の新聞に掲載されたことに傷つき、実家を離れる進学が許可されたのではないかと言われる[150]。女子大卒業前に入院するが、卒業を認められる。体調が回復してから母校の花巻女学校教諭心得として英語と家事を担当するが、翌年喀血、以後は療養生活を送る[151]。1922年11月27日午後8時30分死去[55]。24歳だった。
2019.12.08
アマゾンプライムビデオで視聴。金曜のGSOMIA延長のニュースはほっとしたような、大韓人民共和国誕生への第一歩が見られなくてちょっと残念だったような複雑な気持ちです。米ソ(露)がINF条約でミサイル開発をお休みしていた間に中国が予算を投入し、ミサイル開発を進め、日本の安全を脅かしています。攻撃をしかけられて、75時間以内に首都東京が陥落すると休戦に持ち込めず敗北に終わるそうで、首都を守るための地対空ミサイル中SAMを紹介した45分のドキュメンタリーです。自衛隊全面協力です。災害救助ばかりに最近は目が行きますが、こういう演習を見ると頼もしいです。最後のほうで、赤化統一した場合の韓国の脅威についても触れています。こっちのところを本当はこのドキュメンタリーでは言いたかったのかも知れません。いったい誰が何の目的でこのドキュメンタリーを作ったのか興味があります。戦争が始まる兆候は数ヶ月前から銅等の軍事物資の価格が上昇するそうです。初期には混乱を狙って毒ガス攻撃をしかけてくるとか。中SAMは全国に配備されているそうです。首都圏を守るのは下記の4箇所。中SAMは三菱電機製で、命中率は米軍も驚く99.9%。発射台からのレーダーだけでなく、中SAM自体からもレーダーの電波を出すことで正確性が増しているとのこと。昔、湾岸戦争の頃、パトリオットがなかなかイラクのスカッドミサイルに当らなかったのが、はるか昔のようです。最近ロシアがマッハ27のミサイルを開発したそうです。これらの脅威に対抗するため、レーザー兵器等を開発すれば、正確性も増し、弾頭なら1発10万円するのが、数百円ですむので、よいのではと評論家は述べています。2020.1.2.追記年末の産経の記事を読むと、新兵器開発のための予算確保に向けての世論へのPRにように思います。■参考リンクWikipedia:03式中距離地対空誘導弾03式中距離地対空誘導弾(まるさんしきちゅうきょりちたいくうゆうどうだん、略称:SAM-4、通称:中SAM)は、地対空誘導弾 改良ホークの後継システムとして開発された、陸上自衛隊が運用する純国産の中距離防空用地対空ミサイル・システム。三菱電機が主契約者としてシステム取りまとめ企業となり、三菱重工業が誘導弾、東芝がレーダーを製造している。本ページでは発展型の後継システム03式中距離地対空誘導弾(改)も記述する。以下略Wikipedia:アバンガルド (極超音速滑空体)アバンガルド (ロシア語: Авангард、ラテン文字転写例:Avangard)はロシアが開発した極超音速滑空体であり[1][2]、通常弾頭または核弾頭の搭載が可能[3][4][5][6]である。オブイェークト4202 (Objekt 4202)、Yu-71 または Yu-74 とも呼ばれる。アバンガルドは、2018年3月1日にロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンが年次教書演説の中で発表した6つの新型戦略兵器の1つである[7]。概要UR-100NやR-36、RS-28などの重ICBMに搭載して発射される。発射後、搭載するスクラムジェットエンジンで加速して極超音速飛行を行う。アバンガルドはマッハ20以上の超高速で飛行し、あらゆるミサイル防衛システムをも回避・突破しうる高い機動性も有する[8]。2018年12月26日の試射はウラジミール・プーチン大統領の観閲のもと行われた。アバンガルドは2018年末から2019年頭にかけて配備に就く予定とされていた[9][10][11]。ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンは2018年3月1日に連邦議会での演説で、試験が完了して量産体制に入っていると発表した[12][13]。ロシア軍もそれを認め[14][15][16]、ロシア戦略ロケット軍司令官セルゲイ・カラカエフ中将も「アバンガルドシステムの試験は完了している」としている。 また、プーチン大統領は演説の中で、アバンガルドは「隕石あるいは火の玉のように」目標に到達し、ミサイル防衛システムはもはや無力である、と述べている[17][18]。2018年11月29日、ロシア国営イタルタス通信はロシア軍産複合体筋の情報として、2019年中には発射機を含むアバンガルドシステムが2基配備されると報じた。同筋によると、2027年にはそれぞれアバンガルドシステム6基を装備した2個ミサイル連隊がオレンブルクのミサイル師団に配置される予定であるが、2個連隊という数は最終決定ではなく、国際情勢により変わりうるという[19]。防衛省、北の新型ミサイル対応で新迎撃システム開発へ2019.12.28 19:00 産経新聞防衛省は、北朝鮮などの弾道ミサイルの脅威が高まっていることを受け、新たな迎撃ミサイルシステムを開発する検討に入った。陸上自衛隊の03式中距離地対空誘導弾(中SAM)を改修し、弾道ミサイル迎撃能力を付与する研究を来年から始める。北朝鮮が開発している変則軌道で飛来する新型ミサイルなどに対応する性能を目指す。 複数の政府関係者が28日、明らかにした。完成すれば、海上自衛隊のイージス艦が発射する迎撃ミサイルSM3、航空自衛隊の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)に続く“第3”の迎撃システムとなり、防空体制が強化される。 中SAMは国産のミサイルシステムで、100キロメートル未満とされる射程を大幅に延伸した改良版が来年末から順次、陸自部隊に配備される。敵の戦闘機や巡航ミサイルを撃ち落とせるが、弾道ミサイルには対応しておらず、防衛省は弾道ミサイルを着弾間際に迎撃できるよう中SAM改良版の改修を進める。以下略。
2019.11.22
大学生の頃やっていたドラマで西田敏行さんのもしもピアノが弾けたならに惹かれてパート2から観ました。ストーリーも暖かく面白く、登場する俳優さんも藤谷美和子さん、坂口良子さんと美人が出て、丹阿弥谷津子さんもおだやかで上品で好きでした。宇野重吉さんも枯れた渋い演技でした。3人の子役も可愛かったです。坂口良子さん、三浦洋一さん、松尾和子さん、長門裕之さんと、多くの出演者が亡くなって時代を感じます。鶴のシーンで、かかるBGMが美しく好きでしたが、今回見つけられませんでした。宿題です。2021.10.27内容の追加長年の間、もう一度観たかった鶴のシーンがアップされてました。2:15あたりからです。音楽と映像がマッチしていて、とても好きです。Dailymotion:池中玄太2024.2.24リンク切れにより差し替え。■参考リンクWikipedia:池中玄太80キロキャスト池中家池中玄太 - 西田敏行池中絵里(長女) - 杉田かおる池中未来(みく)(次女) - 有馬加奈子[1]、河合美智子(パートIIIのみ)池中弥子(やこ)(三女) - 安孫子里香鳴山暁子→池中暁子(特番から玄太と結婚)- 坂口良子その他前川秀也(ヒデ) - 三浦洋一杉野透(半ペラ) - 井上純一昌代 -丘みつ子[2]鳴山春江 - 丹阿弥谷津子本城理三郎 - 宇野重吉飯島歌子(ママ)/喫茶店マイウェイ店主(のち楠夫人) - 松尾和子楠英政(楠公さん)/大京通信社写真部長→大京グラフ編集長 - 長門裕之秋田チエ(チエちゃん)/喫茶店マイウェイ店員(パートIIでは大京グラフ見習記者) - 藤谷美和子高橋隆子(鶴子の実姉、三姉妹の伯母) - 高田敏江
2019.11.15
90年代後半から2000年代前半にかけて日曜夜8:00にNTVで特命リサーチ200Xがやっていて、これと深夜の、松山香織さんのニュースJAPAN WEEKENDを見るのが楽しみでした。ただ実際は、家でじっとせず、夜、遊びに出かけることが多く、特命リサーチ200Xのほうはあまり見られませんでしたが。怪奇現象や、超常現象をまじめに調査する点に好感が持てました。好きな高島礼子さんと菅野美穂さんが出ているのもよかったです。結構YouTubeにたくさんアップされていることに気づいたので、ぼちぼち見て行きたいと思います。今、この番組がやっていたら、昨今の異常気象をどう科学するか気になります。また、やってほしい番組です。謎の発光物体は、HARPの研究や、気象を変動させる装置の研究に結び付けて面白いです。2019.12.8.リンク切れにより削除。2020.8.1.リンク切れにより東京大停電、透明人間になれるのか!?、人間は冬眠出来るようになるのか!?を削除、怪談話解明ファイル、恐怖は快感をもたらすを追加。2020.9.7.リンク切れにより日本の長寿地域の謎を削除。突然死を防げを追加。2020.12.6.追記。2022.12.18リンク切れにより差し替え。2019.12.8.追記人気の「特命リサーチ200X」動画 12本 - ニコニコ動画特命リサーチ200X:dailmotion■参考リンクWikipedia:特命リサーチ200X『特命リサーチ200X』(とくめいリサーチ にせんエックス)は、1996年10月27日から2002年1月27日まで日本テレビ系列局で放送されていた日本テレビ製作の情報バラエティ番組である。その後も2002年2月3日から2004年3月7日まで『特命リサーチ200X-II』( - セカンド)と題して放送されていた。概要毎回さまざまな超常現象や現代の奇病などについて調査し、それらの原因についてまとめた映像をドラマ仕立てのパートも交えながら見せていた番組[1][2]。調査内容は環境問題の日常生活との関わりやFBIが行っている科学捜査の最新事情を紹介するなど学術的なものからダイエットについての調査結果、レストランの食べ放題で効率的に食べる方法など生活に密着したものまで幅広いものだった。制作陣の吉川圭三によると、マイケル・クライトンの初期小説や「謎の円盤UFO」「怪奇大作戦」などの集団で謎に取り組む作品が、この番組の企画の基礎だったという[3]。番組は各回での調査・報告内容を、架空の民間調査機関「ファー・イースト・リサーチ」(通称:F.E.R.C.)のエージェントたちがクライアントからの依頼で作成したという「極秘調査報告ファイル」に基づくものとして紹介していた[1]。また、番組公式サイトに寄せられた視聴者からの調査依頼も番組で取り上げ、それらの投稿者を「個人クライアント」と呼んでいた。通常は1回の放送で複数の依頼があったが、稀に番組全編を使って1件だけを報告することもあった。調査結果の報告終了後にはルームメンバー同士によるやり取りがあり、その際にコメディリリーフ的な役割の人物がオチを担当するエピローグがよく流されていた。毎回の調査・報告内容は、番組「独自の調査」によるものとされている[1]。エンディングのスタッフロールには、調査に使用した施設や参考文献などを「リサーチ協力」として提示していたものの、それらは施設名や書名を出すだけの非常に簡素なものだった。また、そういった調査・検証をいったい何処の誰が行い、結論を出してまとめているのかについては曖昧にされていた。はっきりとした原因を突き止められなかった現象については、とりあえず「真相がわかり次第、追って報告する」というナレーションで締めくくってその場は終了とするのが恒例になっていたが、その後も続報が無く、番組自体の終了によって結局解明されないままとなった依頼も少なくなかった[2]。松岡ルーム松岡征二(演:佐野史郎)伊達徹(演:稲垣吾郎(SMAP))吉川美佐(演:高島礼子)和田栄一(演:中野英雄)鷹木慎之介(演:真木蔵人)松沢明(演:福澤朗)片山健(演:関口知宏)マイケル高田(演:川平慈英)オペレーター尾崎久美(演:伊藤裕子)田口豊子(演:柴咲コウ)(演:長井律子)(演:吉川めい)インターネットセクション山名研一(演:森本レオ)桐島夏子(演:菅野美穂)小杉良子(演:中森友香)渡辺弘子(演:松丘小椰)桜田直美(演:村田和美)飯島真智子(演:野仲美貴)香取恵(演:一宮里絵)安斉真理香(演:小林千香子)桜田信二(演:矢部太郎)以上のほか、宇津井健と古尾谷雅人がゲスト出演したこともある。
2019.11.10
以前DVDで観た結婚できない男の続編がやると聞いて楽しみにしていたら、肝心の夏川結衣さんが出ないと知り、すっかりノーマークでした。先日デイリー新潮で結婚できない男の記事が出ていて、自分と同じ考えの人が結構いるんだなと思いました。あのドラマは、私も夏川結衣さん、高島礼子さん、国仲涼子さんの3点セットでもっていたように思います。夏川結衣さんの演技をはじめて観たのは孤高のメスで、きれいな方だなと思って、その後、結婚できない男、遠まわりの雨とDVDを観ました。看護師、医者、町工場の社長夫人のどれを演じてもなりきってます。丸顔の日本美人で、好奇心旺盛で、ちょっとわがままで気の強い感じのしっかり者というイメージが魅力で夏川さんに見つめられたら無理なことでも引き受けてしまいそうなところが魅力です。結婚できない男 桑野の告白シーン「結婚できない男」最終回 2chの実況板が鯖落ちしたほど盛り上がった名シーン先日ご紹介した久世光彦監督の怪談にも出演されています。可愛い女優さんだなと思ってよく観たら25歳の夏川結衣さんでした。あの瞳で下からじっと見つめられたら、ブラックホールに吸い寄せられたみたいで、柳葉敏郎さんでなくてもでれでれになってしまいそうです。この作品は夏川さんと久世監督の隠れた傑作だと思います。怪談II ろくろ首 Kwaidan RokurokubiTanuki Bakero: dailymotion■参考リンク阿部寛「まだ結婚できない男」に何かが足りない 夏川結衣の不在が影響か芸能2019年10月29日掲載 デイリー新潮抜粋「今回は、基本的に前シリーズと同じキャスティングですが、変わったのはヒロインたち。前シリーズで阿部ちゃん演じる桑野に、好意を寄せる女性は3人いました。この3人がいずれも今回は出演していません。まず桑野の隣に住んでいた国仲涼子(40)は、深川麻衣(28)に。国仲は01年の朝ドラ『ちゅらさん』(NHK総合)で、ヒロインを演じて大人気となり、ドラマは朝ドラには珍しく第4シリーズまで作られました。その後の活動も順調で、『結婚できない男』でも、最初は毛嫌いしていた桑野に段々惹かれていく魅力的なヒロインでした。それに比べると、今回の深川は、正直言って力不足と言わざるを得ません。彼女は乃木坂46を卒業して、女優に転向し、朝ドラ『まんぷく』ではヒロイン(安藤サクラ)の姪を演じましたが、そのくらいのポジションがいいのでしょうね。今作では、元アイドルの女優の卵という、自身と同じ役どころを演じているのですが、国仲と比べるのは気の毒でしょう」 国仲は、14年に向井理と結婚した。二児の母ともなり、さすがに今回、桑野に好意をいだく若い女性を演じるのは難しいか。夏川結衣は吉田羊に「そして前シリーズで、ついに結ばれると思ったのが、結婚できない女医を演じた夏川結衣(51)。今回、第1話で“富豪と結婚したらしい”とチラッと紹介されていました。SNSでも彼女が出演しないことに不満の声が多いようですね。出演しない原因として、激太りとか、チュートリアル・徳井義実との破局を引きずっているため……などと、好き勝手なことが言われているようです。確かに最近のテレビドラマの出演と言えば、『中学聖日記』(TBS)で岡田健史の母親役を演じたくらいですからね。まあ、第1シリーズで桑野と結婚直前までいったヒロインをまた使うというのも芸がない。あえてキャスティングしなかったのではないでしょうか。夏川に変わるヒロインが、結婚できない女弁護士役の吉田羊。彼女も綺麗ですけど、夏川ほどの色気や可愛げがないのがちょっと残念なところです」 そしてもうひとりのヒロインが、高島礼子(55)姐さんである。「高島さんは、桑野に一方的に好意を抱いていたが、仕事仲間としてしか見られていないことがわかって諦めるという役柄でした。仕事上のパートナーとして今回も出演しておかしくないところですが、ちょっと難しいでしょうね。前シリーズには当時は夫だった高知東生も、桑野のライバルで女たらしの建築家として出演していました。高知は16年に覚醒剤と大麻所持の容疑で逮捕され、高島さんとも離婚。彼が今回出演することはあり得ませんが、高島さんだって出たいはずがない。その代わりのヒロイン的な存在として今回出演しているのが、カフェの店長を演じる稲森いずみ(47)です。彼女はこのドラマで、連ドラレギュラー出演の記録を連続26年に更新していますが、高島さんと比べるとどうしても格が落ちたと言わざるを得ない」 視聴者にとって、女優の好みは人それぞれだが、ヒロインに今ひとつ魅力を感じないというのが、物足りなさの一因かも……。Wikipedia:夏川結衣夏川 結衣(なつかわ ゆい、1968年6月1日 - )は、日本の女優、元モデル。本名、宮川 美紀[2](みやがわ みき[要出典])。熊本県八代市出身[3]。八代白百合学園高等学校卒業[3]。テアトル・ド・ポッシュ所属[注 1]。1991年度ユニチカスイムウェアキャンペーンモデル[4]。来歴高校卒業後、福岡でモデル活動をしていたが、スカウトされ22歳で東京に進出する[5]。雑誌『non-no』のモデルやユニチカスイムウェアキャンペーンモデル[4]などを経て[注 2]、1992年にドラマ『愛という名のもとに』で女優としてデビュー、『空がこんなに青いわけがない』(1993年公開)で映画デビューし、『夜がまた来る』(1994年公開)で映画初主演を務める[2]。『人間ドキュメント 夏目雅子物語』で夏目雅子役に抜擢されるなど第二の夏目雅子と言われるほどの美貌で人気を博した[6][5]。人物・エピソード女優という職業について、雑誌のインタビューで「20代から30代前半は悩んでばかりだった。気持ちに余裕ができて楽になり始めたのは35歳のころ」と語っている[7]。主な親しい著名人は、阿部寛、堤真一、橋爪功、山本未來、鈴木砂羽、永作博美、映画監督の是枝裕和など。2010年のドラマ『新参者』のゲスト出演は「寿司をおごるから出てくれ」と主演の阿部寛から直接オファーされた[8]。夏川は自身のことを「不器用で小心者で欲張り」と評し(是枝裕和曰く「不器用で染まらない人」とも)[9]、人前に出ることをあまり好まないが、近年は所属事務所の移籍などを機にトーク番組などにも出演するようになった。その際、共演者に私生活の様子を公開され、一人で回転寿司や牛丼屋などへ行けることや、姉御肌で明るい性格であることを明らかにされた[9]。橋爪功やTBSアナウンサーの安住紳一郎からは「熱い人」と評されている。特に橋爪は映画『東京家族』の撮影の際、夏川から監督の映画にかける想いを熱弁され叱られた、と語っている[10]。横綱級の酒豪であると言われている。上京前にしゃぶしゃぶ店でアルバイト中、客に勧められるまま酒を飲んでしまい、解雇されてしまったという逸話がある[11]。趣味は読書、数独[要出典]。愛読書はさいとう・たかをの『鬼平犯科帳』[12]。お風呂が大好きである[13]。左利き[注 3][要出典]。
2019.11.05
セカンド・チャンスは当時からファンの田中美佐子さんが出演されていたので可愛いなと思いつつ観ていました。私と同じ年齢の田中さんですがいつまでもお若いです。セカンド・チャンス DVD-BOXドラマはストーリーも大事ですが、やはり同じくらい出演者も大事だと思います。脚本家が好きでも、出演者が余り好きでないと一歩引いてしまいます。2023.6.2リンク切れにより差し替え。セカンド・チャンス2019.11.25.内容の追加帰ってきたセカンド・チャンスという番組もあったそうでYoutubeに見つけたので削除される前に観ておこうと思います。出だしをちょっと観たら面白そうでした。リンク切れにより削除岡本真夜さんの歌もドラマとマッチしてよかったです。■参考リンクWikipedia:セカンド・チャンス (テレビドラマ)セカンド・チャンスは、1995年4月14日~6月30日にTBS系で金曜21:00-21:53に全12回放送されたテレビドラマ。主演は田中美佐子と赤井英和。概要シングルマザーとシングルファザーが出会い、次第に惹かれあう様になり、周囲の反対を乗り越えながら結婚するまでを描いたコメディドラマ。平均視聴率は16.7%。また、このドラマの主題歌である 岡本真夜の「TOMORROW」も大ヒットとなった。VHS化はなされなかった(後述の「帰ってきたセカンド・チャンス」のみ、1997年2月28日にVHSが発売されている)が、2010年8月4日に全12話収録の6枚と「帰ってきたセカンド・チャンス」を含む7枚組での形態でのDVD-BOXとして発売された。田中美佐子、萩本欽一からオーディションの相手役に指名「覚えてるのはキムタクさん」「中居くん、香取くんも」2019年10月27日 8時24分スポーツ報知
2019.11.03
5年くらい前だったかレンタルで借りた医龍が面白くて夢中で観ました。英会話のレアジョブで先生にそのことを話すと別の生徒からドクターXを紹介されて観ているとのこと。それがきっかけで私もドクターXを観始めました。医療ドラマの中でもコンセプトが似ていてしかも出演者が一部被っていますが両方好きです。坂口憲二さんが、病気で芸能事務所を辞められて心配していましたが、コーヒー屋さんを始めたとのこと。第二の人生が成功するように応援しています。IRYU Team Medical Dragon 1祝 医龍4放送記念チームメディカルドラゴン 1 ニコニコ動画■参考リンク芸能活動を休止中の坂口憲二さん、コーヒー焙煎士になっていた。新たなチャレンジにかけた思いを聞いた2019.10.23. Huff Post病の治療に専念するため、無期限で芸能活動を休止している坂口憲二さん。坂口さんは今、こだわりの焙煎豆を提供するコーヒービジネスにチャレンジしている。プライベートレッスンで技術を学び、自ら焙煎を手がける。 拠点は坂口さんが愛するサーフィンの聖地、千葉県・九十九里。2018年夏に焙煎所を開設し、サーフショップやカフェでコーヒー豆やグッズの卸販売をはじめた。オンラインショップも展開し、2019年春には東京都内に初店舗もオープン。地域密着型のため、住所は非公表だ。以下略。坂口憲二 コーヒー焙煎士転身が大反響!サイトには注文殺到記事投稿日:2019/10/24 19:28 最終更新日:2019/10/24 19:33 女性自身芸能活動休止中の俳優・坂口憲二(43)がハフポスト日本版のインタビューに応じ、コーヒービジネスにチャレンジしていることを告白。ネット上ではファンを中心に、大きな反響を呼んでいる。1999年にモデルとしてデビューし、その後は俳優としても第一線で活躍してきた坂口。しかし2015年に特発性大腿骨頭壊死症を発症、2018年3月末をもって無期限で芸能活動を休止するとを発表した。現在は治療に専念している。そんななか、坂口はアメリカ・オレゴン州のポートランドを訪問。そこでコーヒーが深く根ざしている生活文化に惹かれ、コーヒー焙煎士としてセカンドキャリアを歩むと決断したという。焙煎技術はプライベートレッスンを受け、約1年半かけて少しずつ道具を準備。「The Rising Sun Coffee」というブランド名で2018年夏に千葉・九十九里で焙煎所を開設。2019年春には東京都内に初店舗を構えているという。以下略。
2019.10.30
ドクターXが始まりました。珍しく第2話はリアルタイムで視聴。今回のゲストは上白石萌歌さんと清原翔さんの若いお二人で、地味だなと思いつつ、一回見たら忘れない俳優さんだと思っていたら、NHKドラマ等で活躍中の方でした。またどこかでお会いしそうです。相変わらずドクターXの脚本にはいつも感心させられます。ほぼ決まったパターンが毎週展開されるにも関わらず、飽きさせることなく観ている者の心をいきなりつかみます。時節柄のテーマをとりあげていますが、上っ面に流されることなくよく調べて核心を衝いているのがすごいと思います。調べたら私と同年齢の中園ミホさんがメインで担当されているようで、Wikipediaを読んでも人間的に魅力のある方のようです。今からだとさすがに無理ですが、自分も生まれ変わったら脚本家とかになって人を感動させる作品を作ってみたい気もします。今シリーズのテーマはAI治療。今のところAIは大門未知子に対して劣勢ですが、今後どう展開していくか楽しみです。今回のテーマはドミノでしたが、予測不能な結末で驚かされました。ただ医療知識の乏しい自分には手術方式に少し疑問があったり、結末部分をいつものパターンに持って行くことで、AI治療との整合性が取れなくなっているのではと、ふと思いました。■参考リンク2019.10.24. テレビ朝日『ドクターX ~外科医・大門未知子~』第2話 拡大スペシャル2019年10月23日上白石萌歌&清原翔!大河ドラマ&朝ドラで話題の、今、最注目の若手俳優二人が『ドクターX』で“満を持して”初共演!「肉眼で見た米倉涼子さんは想像の100倍くらい美しかった」第20回「テレビ朝日新人シナリオ大賞」開催についてドクターX~外科医・大門未知子~OSTWikipedia;中園ミホ中園 ミホ(なかぞの ミホ、1959年7月16日 - )は、日本の脚本家。本名は中園 美保(読み同じ)。日本大学第二高等学校[2]、日本大学芸術学部卒。2010年度から日本大学芸術学部客員教授を務める。略歴東京都中野区生まれ。10歳で父を、19歳で母を病気で亡くす。大学卒業後、広告代理店に入社。社の同僚がシナリオ講座に申し込んだものの行けなくなったため、その代わりとしてノートをとるため、シナリオ講座に参加した。1年3か月で広告代理店を退職したのち、コピーライター、四柱推命の占い師などの職業を経験。偶然知り合った脚本家の田中陽造の清書係に就く。その後、同じく脚本家の桃井章と知り合い、桃井の妻を世話するなど懇意になり、これらをきっかけにシナリオライターとなる。1988年、『ニュータウン仮分署』でデビューする。脚本家で生きていく決心をしたのは、1993年に34歳で未婚のまま長男を産んだ時だといい、家で子供を育てながら続けられるのは脚本家しかないと覚悟を決めたという[3]。長男の出産後、1995年のフジテレビ月9ドラマ『For You』で復帰。同作品では主演の中山美穂が未婚の母親を演じたが、これには中園自身の未婚の母としての経験が反映されているという[4]。連続ドラマの代表作に、フジテレビの『Age,35 恋しくて』『やまとなでしこ』『スタアの恋』、日本テレビの『anego[アネゴ]』『ハケンの品格』、テレビ朝日の『Doctor-X 外科医・大門未知子』、NHK連続テレビ小説『花子とアン』などがある。人物中園自身は広告代理店退職後、24歳で占い師に弟子入りし、中学生の頃覚えた四柱推命の腕を認められ、有名政治家や企業のトップも占ったことで、人間の表面で見せる立派な顔より裏側のほころびの方がチャーミングだと気づき、人間の見方を覚えたといい、このときの経験が脚本家に生かされていると語っている。[5]「取材力の中園ミホ」と称されるように、マーケティングリサーチが得意な書き手の1人であり[6]、『ハケンの品格』の脚本を書くにあたっても数多くの派遣社員の実態を取材したため、派遣社員の実態に同情的である。2007年11月12日に放送されたNHKスペシャル『1000人にきく ハケンの本音』にゲスト出演した際には、同じくゲスト出演し、隣に座っていた奥谷禮子の「派遣社員は幸せである」との、派遣社員の実情を無視した断定的意見に対し、「この(座席)間に深くて大きな川が流れているような気がしたんですけど」と異を唱えた[7][要ページ番号][8]。本人曰く、「自分はなまけものだから、全部脚本書いてやろうと思わないです」。実際、大部分を中園が書いているものの、他の脚本家が1、2話書いているドラマが多い。『やまとなでしこ』での神野桜子の人生観は、中園本人の考え方と相通じるところが多いという。中園は「権力にすり寄らず、自分の足で立ち、自分の考えで動く人」[9]をいい女と考え、「女性たちの生の声を聞き、それを描いて、彼女たちを応援する」[10]ためにドラマを執筆していると語っている。代々木ゼミナールの人気数学講師の岡本寛は小学校時代の同級生であり、自身の代表作『やまとなでしこ』の中原欧介役(演:堤真一)は彼をモデルにしているという。また中原の台詞に使われた公式、証明、定理などは岡本が監修。テレビ局から企画を持ちかけられ、明石家さんまを主演に脚本を書いたが、さんまのスケジュールが取れずお蔵入りになったことを『さんまのまんま』出演時に明かしている[11]。『花子とアン』放送当時、同作と合わせて直後に生放送される『あさイチ』も視聴し、同キャスター陣が行う「朝ドラ受け」(詳細は「あさイチ」を参照)も楽しんでいた。本人曰く「朝ドラ受けあっての朝ドラ」[12]。パソコンでの文字入力は、親指シフトを使っている[13]。少女期より『徹子の部屋』が毎日のように見る程大好きで、社会人となったOL時代には就業中にこっそり会議室で見てしまい、上司から呆れ顔をされた[14]。ぐーたら女の成功術 (文春e-book) Kindle版中園ミホ (著)
2019.10.26
時効警察が始まりました。スペシャル、第一話ともに良く作りこまれていて見ごたえがあります。最近は1週間くらいTV局のサイトで、見逃した人向けに無料で見せてくれるので助かります。一時停止したり巻き戻したりできるので、細かい工夫に気づいたりしてうれしいです。この番組も2回目に観るほうが面白さが更に伝わってきます。やはりこの番組は週末の深夜にハイボールとか飲みながらうつらうつら見るのが良さそうで、スペシャルの2時間は少し長いように思いました。■参考リンク麻生久美子さんとオダギリジョーさんが変わらないのにびっくり。この番組を観て麻生さんのファンになっていろいろな作品をその後観ました。いろいろクセのある登場人物をうまく交通整理して、物語の展開にテンポをつけてます。時効警察はじめました:テレビ朝日小雪さんの代わらぬ美しさは圧巻でした。あのセクシーな声で話しかけられたら、思わず顔がにやけてしまいます。前回ご紹介した麻生久美子さんといい、三木聡監督のセーラー服姿への思い入れをいちどインタビューでお聞きしたいです。登場人物もほぼ全員が戻ってきてくれたのがうれしいです。岩松了さんが結構貫禄ついたなと思ったら67歳、自分と7歳違いです。自分のことはなかなかみれないので、案外他人からそう思われているかも、特に後姿とか。ちょっと好きなえぐちのりこさんは妊娠中という設定でした。小泉今日子さんの恋人の豊原功補さんも独特の存在感を占めています。三木聡監督や宮藤官九郎さんの作品にたびたび登場される五頭岳夫さん。全体の中で見落としがちの役でも、おおぜいの方の力が合わさってドラマができているんだと思います。Wikipedia:五頭岳夫村松利史さんと伊勢志摩さん。村松利史さんの面白い顔がメークでよくわからないのがちょっと残念でした。吉岡里帆さん、アクの強い共演者たちの中で、健闘してました。私服でジュースを飲む姿がかわいかったです。ふせえりさん。三木聡監督の奥さんと今回知りました。昔チラ見した温泉へ行こうで面白かったのを覚えてます。こいもうさぎさんのブログを拝見すると、仲の良いユニークなご夫婦のようです。今回の設定では息子が同じ署の鑑識に配属されてます。ふせえりさんの年齢を調べたら57歳、私とそんなに違わないのにびっくり。これからもどんどん面白いことをやってくれたらと思います。こいもうさぎのブログ:ふせえりの旦那は三木聡!娘は?若い頃はビシバシステム?ドラマ映画は?Wikipedia:時効警察監督 三木聡岩松了園子温ケラリーノ・サンドロヴィッチ塚本連平麻生学安見悟朗オダギリジョー大九明子今泉力哉森ガキ侑大出演者 オダギリジョー麻生久美子豊原功補ふせえり江口のりこ緋田康人光石研岩松了吉岡里帆磯村勇斗内藤理沙田中真琴
2019.10.17
アテンションプリーズの歌を急に聴きたくなってYouTubeで見つけました。てっきり一人で歌っていると思ったら、バーズという双子歌手が歌ってました。ドラマの写真を見るとスチュワーデス役のどの方も美人です。特に好きだったのは意地悪な役の皆川妙子さんでした。クールな美人という感じです。山内賢さんや佐原健二さんが懐かしいです。 ■参考リンクWikipedia:アテンションプリーズ『アテンションプリーズ』は、1970年に東宝が制作し、TBS系列で放映されたテレビドラマ。初めて客室乗務員を扱ったテレビドラマである。タイトルの由来は、空港および航空機内での旅客向けアナウンスに際して前置される「Attention Please」(皆様にご案内申し上げます)から。2006年にリメイクされ、フジテレビ系列で放送された。1970年版概要1970年8月23日から1971年3月28日の毎週日曜19時30分から30分枠『不二家の時間』(不二家一社提供)で、TBS系にて全32話が放映された。主演は紀比呂子。九州・佐賀県出身の主人公が高校卒業後、スチュワーデス試験に合格して上京し、厳しい訓練を経て国際線スチュワーデスとして活躍するまでを描いている。スチュワーデスという職業への認知を高めたといわれる。表現されるテーマは「美しい心」、名台詞に「大空は私の恋人」「私は世界一のスチュワーデスになる」がある。日本航空の協力により制作されたという共通点があり、本作の14年後に制作されることになる『スチュワーデス物語』(主演:堀ちえみ)とよく比較される。本作企画のきっかけは、TBSプロデューサーの土井利泰が東京新聞の記事で「日航が大型ジャンボ機購入」「スチュワーデスの制服も森英恵デザインのものに一新」という記事を見てピンと来て「これで行こう」と思ったことだったという[1]。「スポ根(サインはV)の次は“職業根性ドラマ”だ」としており、タイトルもある日買い物をしていた先のデパートの店内放送を聞いて「飛行機に乗った時に必ず聞くアナウンス」だとして思い付いたものだったという[1]。プロデューサー、脚本家と共に多くのスチュワーデスに会って話を聞き、主人公の人物設定や様々なエピソード作りを進めた[1]。そして出演者は全員、1970年6月3日から一週間、東京の羽田にある日航乗員研修センターで研修を受けた[1]。前作『サインはV』とは違えて、超人的なヒロインの登場は避けており、32本という放送回数は日航との協力体制もあって「これが限度」として決められたものだった[1]。また、番組の最後には「このドラマは、日本航空の協力により制作されましたが、ドラマの内容は全て架空のものです」とのテロップが入れられた[1]。しかし土井プロデューサー曰く、本作の放送によって日本航空は喜んだという反応があったが、本作に日航のイメージが強く付いたという印象もあって、スポンサーの不二家の社内ではかなり不満が強かったという[1]。2006年4月にフジテレビ地上波で新作が放送されることに伴って、その前後の時期にCS放送フジテレビ721でデジタルリマスター版が放送された。併せてDVD-BOX(キングレコード、2006年5月発売)もリリースされた。キャスト美咲洋子:紀比呂子主人公。佐賀県出身で神主の娘。兄が山で遭難し、父一人娘一人になる。父の反対を押し切って兄との約束である雲海を見るためにスチュワーデスになろうとする。断トツの劣等生で英語が特に苦手だが、持ち前のがんばりと明るさで切り抜けていく。国体での卓球の試合で香川妙子と決勝戦で当たり、勝って優勝している。田村早苗:范文雀北海道出身。本来は100期訓練生だったが落第し、洋子たちと同じ101期生となる。周囲と溶け込まない孤高の存在だったが、洋子の熱意でしだいに打ち解けていく。のちに洋子のよき相談相手になる。演じた范は前番組『サインはV』で人気者となり、この作品に出演(スピンオフ)した。香川妙子:皆川妙子病院の娘。101期生では、常にトップの成績を収めている優等生。国体の卓球の試合で負けただけではなく、ある理由から洋子を毛嫌いし、目の敵にしている。三上教官:佐原健二パーサー兼任の101期の担任教官。厳しいが暖かく洋子たち訓練生を見守っている。「スチュワーデスにとって一番大切なことは"心"だ」と言い続けている。堤健二:山内賢パイロット訓練生。洋子と同じように親(母)一人子一人の境遇にある。洋子と同じくお節介な面がある。洋子とは喧嘩友だち。寮のおばさん:千石規子日本航空芙蓉寮。訓練生の洋子たちを暖かく見守っている。高村機長:竜雷太堤健二の教官。三上教官と高村夫妻は古くからの友人であり、洋子たちにも家庭料理を振舞ってもらう。ザ・バーズと言っても双子の姉妹Wikipedia:バーズ (音楽ユニット)豊田順子(姉)、豊田礼子(妹)の双生児姉妹によるユニット名。埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身。1968年、メジャーデビュー。ザ・バーズ(日本テレビ音楽学院)日本テレビ放送網の関連団体である日本テレビエンタープライズ(現・日テレイベンツ)が運営する芸能学校「日本テレビ音楽学院」(1995年に「日本テレビタレントセンター」、更に2005年には「日テレ学院タレントコース」に改める)に所属する生徒の中から選抜されたメンバーによるユニット名。スクールメイツと同じように、所属タレントは音楽・バラエティー番組のバックダンサーや応援(かつて女性メンバーがチアリーダー風の衣装で出演したこともある)、あるいはドラマやCMなどにも多数出演している他、全国高等学校サッカー選手権大会のイメージソング「ふり向くな君は美しい」をはじめとしたレコード歌手としての活動も行われている。Wikipedia:皆川妙子皆川 妙子(みながわ たえこ、1950年8月18日[1][2] - )は、日本の元女優。本名同じ[1][2]。東京都出身[1][2]。杉野学園女子大学短期大学部中退[2]。来歴宝仙学園高等学校在学中、モデルとしてスカウトされるが、家族の反対により断念する[2]。大学進学とともにCMモデルとして活動後、1969年の映画『華麗なる闘い』出演を経て、1970年に東宝テレビ部に所属する[1][2]。1970年のテレビドラマ『アテンションプリーズ』に、ヒロインの紀比呂子が演じる美咲洋子のライバル役である香川妙子役でレギュラー出演[1][2]。『アテンションプリーズ』当時のプロフィールでは「香川妙子の役は自分とは正反対で、最初は「あまりいじめないで」という手紙も来ましたが、最近は「妙子の立場になれば理解できます」という手紙も来るようになり、一生懸命この作品に取り組んでいます」と述べている[1]。『アテンションプリーズ』終了後は、『ワン・ツウ・アタック!』『光る海』などの青春ドラマを中心に活動した[2]。特技は、スキー、洋裁で、自身の服は自分でデザインして着用していた[2]。
2019.09.15
女子高生と先生が結婚してしかも同じ高校で教え学ぶという今なら通らないかもしれない設定と、岡崎友紀さんと石立鉄男さんの魅力で、毎週楽しみにしていた番組です。岡崎友紀さんが輝いてました。石立鉄男さんはもてる先生役で、その後、水もれ甲介で3枚目役を演じたのにはちょっと驚きました。松坂慶子さんが出演されていたのも覚えてます。後年の大女優になることを感じさせる美しさでした。Dailymotion:おくさまは18歳 (第1回) 岡崎友紀 石立鉄男■参考リンクWikipedia:おくさまは18歳『おくさまは18歳』(おくさまはじゅうはっさい)は本村三四子作の少女漫画。およびこれを原作としたテレビドラマと劇場用映画。少女漫画集英社「週刊マーガレット」に1969年8月より1970年8月まで連載された。ラブコメディの典型的なスタイルを生み出した作品とされる。舞台はアメリカのカレッジ「スイートピー学園」。青年教師のリッキー・ネルソンと女学生のリンダ・ネルソンは結婚している事を隠して学園生活を送っているが、次々に事件に巻き込まれ、秘密がばれそうになるというもの。テレビドラマ(1970年版)1970年9月29日から1971年9月28日までTBS系列で全53回が放送された。企画1969年秋、取材先の北海道網走の食堂で、偶然週刊マーガレットに連載中の原作を見出した脚本家の佐々木守は、設定を日本の高校に移し替えたドラマの制作を思いつき、企画を大映テレビ室のプロデューサー、春日千春に持ち込み、TBSで放映が決定した[1]。佐々木の構想では、本作は恋愛が成就するまでを描く「青春ドラマ」とも、結婚生活から始まる「ホームドラマ」とも違う、密かに結婚したカップルが共に学園生活を送るという、かつて無かった「思春期ドラマ」であり、“笑いとサスペンスに満ちたライトコメディ”としている。佐々木の当初の案は、イメージキャストの第一候補として、主役の高木飛鳥役と高木哲也役にそれぞれ吉沢京子と西郷輝彦を充て、放送時間も夜9時台を予定していたが、春日はコメディ演技に関しては未知数だった岡崎友紀と石立鉄男を敢えて起用し、放送時間も子供にも見てもらえる時間帯として夜7時台に変更された。そのため露骨な性描写は抑えられ、演出もリアリティよりもメルヘン的な雰囲気を強調したものにされた(なお、高木飛鳥という役名は、当時佐々木が関心を持っていた日本古代史から飛鳥地方に因んだものである)[1]。しかし、石立はこのオファーに難色を示した。理由はそれまで自分に来る役と言えば好青年役ばかりだったので「もっと大人の役がやりたい」ということだったが、海外放浪の旅に出ていた頃にニューヨークで出会った友人から言われた「俳優なら仕事はナルシシズムで選ばず、まず有名になれ。みんなに楽しんでもらえることで初めてプロの俳優と言えるんだ」という言葉を思い出し、まずはやってみようと最終的にはこのオファーを受けたという[1]。脚本・演技・演出佐々木の用意した脚本は型破りなもので、ト書きまでが砕けた会話調で書かれたポップな乗りで、スタッフや出演者のイメージを喚起し、演出プランやアドリブ演技が次々と生み出されていった。石立は、本作を単なるドタバタ劇に終わらせまいと、台詞のやり取りで面白さを表現するファルス(笑劇)の効果を狙った演出プランを提案し、台詞のメリハリとリズム感を強調して対話のスピードを通常よりも大幅にテンポアップした。それを受けて、佐々木たちは30分ドラマに1時間ドラマに相当する分量の台詞を盛り込んだ。最初は気後れしていた岡崎も天性の感性の良さを発揮して、すぐに石立の演技に喰らいついてゆき(ルシル・ボールの演技を参考にしたと発言している)、絶妙な夫婦コンビを作り上げていった(後年、石立は岡崎の演技について「2週間で僕の芝居を覚えてしまった。僕がこれまでに会った女優さんの中で一番感性のいい人だった。」と回想している)[1]。メイン監督の湯浅憲明は「三段落ちショット」とも呼ばれる、シーンの変わり目に女性スキャットをバックに小道具の花や人形などの約1秒間のアイキャッチを3ショット連続で挿入し、場面の状況を明示してテンポ良くストーリーを展開する演出法を作り上げた。そのほか、湯浅の「コメディは三拍子が面白い」という持論から生まれた、うつみみどり(現・うつみ宮土理)演ずる花咲ユメ子が発する「くやしいわ、くやしいわ、なんだかとってもくやしいわ(様々なバリエーションあり)」という台詞も評判を呼び、流行語となった。ドラマの後半では、佐々木が本作とかけもちで手掛けていたドラマ「お荷物小荷物」(1970年 朝日放送)で使用された、ドラマの中で出演者が唐突に視聴者に語りかける「脱ドラマ演出」も試みられている。この演出法は次回作の「なんたって18歳!」でも取り入れられた。なお、本作のシチュエーション・コメディとしての「主人公にまつわる秘密を巡り、騒動が巻き起こる」という“黄金の設定”による構成に米国ドラマ『奥さまは魔女』からの影響を指摘する向きもある(『動画王 vol.02 スーパー魔女っ子大戦』「特撮魔法少女列伝」二神啓通 )。反響本作は放送が始まると同時に人気を獲得し、最高視聴率33.1%を記録。このため2クール26話の最初の放送予定が1年間53話に延長された(全体の平均視聴率は25%)。岡崎友紀は本作によって1970年度テレビ大賞新人賞を受賞した。映画評論家の宇田川幸洋は「(本作を)超えるラブコメディはいまだにない。(中略)一生見つづけても飽きることのない夢のような傑作である」と賞賛している。現在でも知名度の高い人気作品であり、再放送も多くされた。後にソフト化もされておりこれまでにVHSビデオ、LD、DVD版が発売されている。本作によって国民的アイドルの座を確立した岡崎の人気とキャラクターに立脚した「18歳シリーズ(ライトコメディシリーズ)」(-1974年)が後続番組として製作され、さらに本作の設定を一部変更した「秘密のデカちゃん」(1981年)、「だんなさまは18歳」(1982年 以上TBS)、「お願いダーリン!」(1993年 フジテレビ)といった実質的リメイク作品が新たに製作されるなど、主人公にまつわる秘密を巡って騒動が展開するという黄金の設定による和製シチュエーション・コメディ/ラブコメディの典型的王道的スタイルが定着した[2]。「日本のテレビ史上に燦然と輝くライトコメディの傑作、どれをとっても空前絶後の出来栄えだった」(花崎真也)[3]。あらすじ飛鳥は高校三年の18歳。病床にある祖母に花嫁姿を見せるために、父親同士が決めた婚約者・高木哲也と田舎で結婚し、哲也の勤める北辰学園に転校することとなった。しかし、学園長は二人の事情を認めつつも、同じ学校の教師と生徒が婚姻関係にあるのは、教育上問題があるとして、学園の精神に則り、二人の関係を秘密にすることを厳命、もしばれたら哲也は即刻解雇、飛鳥も同様に退学だと約束させられる。かくして哲也は表向きは独身となり、毎日のように司書の小山先生や渋沢先生、女生徒たちからもアタックされてしまう。飛鳥はそんな哲也をやきもきしながら見守るが、自分も男子生徒たちの人気の的となり、担任の男性教諭・海沼からも慕われてしまう始末。さらには自宅の隣に住むおばさんも哲也と飛鳥を兄妹だと思い、たびたび哲也に縁談を持ち込むので、二人は学校でもプライベートでも常に波乱に巻き込まれるのだった。キャスト高木(志村)飛鳥:岡崎友紀高木哲也:石立鉄男海沼先生:寺尾聰渋沢民子:冨士眞奈美大山園長:森川信小山美矢子:秋山ゆり山本達子:横山道代花咲ユメ子:うつみ宮土理芦野史郎:内田喜郎松木エミ:松坂慶子 ※第41話 -
2019.09.13
2019.9.13.追記キャストが発表になりました。黒木華さんがいなくて残念。2019.9.15.追記ドクターXの秘書役に河北麻友子が出演されるそうです。そういえばあまり気にしてませんでしたが、このドラマで秘書は独特のスパイスとなって、大学病院の異質な世界を際立たせてくれる存在に思います。ドクターXの放送が近づいてきました。番組のゲストとか、くわしくはサイトでまだアナウンスされてません。春頃、黒木華さんの名前が挙がってましたが、好きな女優さんなので出演してくれるとうれしいです。エキストラで、『医師役として「御意」が言える30~50代の男性』を募集してたので、応募してみました。そういえば後1ヶ月で50代でなくなります。2019.12.22.リンク切れにより差し替え。以前もご紹介しましたがドクターXの中で最も好きな曲です。何回聴いても良いです。今回はロングバージョンで。■参考リンク2019/05/08 18:15米倉涼子「ドクターX」次回作を匂わせ!浮上した共演者は件の“驚異の若手”Asa-Jo抜粋しかし、第6弾ともなれば今までと同じメンバーだけでは、平均視聴率20%超えは難しいと見る向きもある。そこでこんな秘策を囁く声が出始めている。「4月22日に放送されたバラエティ番組『1番だけが知っているSP』(TBS系)に出演した米倉は、『驚異を感じる若手女優は誰か?』の質問に『疑惑』で共演した黒木華の名前を挙げ、『種類の違う人間』と評価していました。そこで演技派として知られる黒木を次回の『ドクターX』に出演させてはどうかという声が、4月に配信された『日刊ゲンダイDIGITAL』にも上がっています」(スポーツ紙デスク) 平成の“視聴率の女王”が、令和にも君臨することができるのか。それは次の作品次第!?テレビ朝日『ドクターX ~外科医・大門未知子~』エキストラ募集抜粋◇募集概要:医師役として「御意」が言える30~50代の男性。2019.09.15 デイイースポーツドクターXに河北麻友子 3年ぶり連ドラ“西田院長”の秘書役 先輩・米倉涼子と初共演「ドクターX」第6シリーズに市村正親、ユースケ・サンタマリア、武田真治ら参加2019年9月12日 5:00 映画ナタリー
2019.09.10
アマゾンプライムビデオでかもめ食堂が始まったので、同じ小林聡美さんのドラマすいかを思い出しました。10年くらい前にレンタルで観て面白かったので、その後オークションでVHSを全巻購入しました。仕事の人間関係に疲れたときとか、何年かに1回観るとすっきりして明日もがんばろうとなるようなドラマです。ノスタルジーや、女性だけの賄いつき下宿の大家、住人の心の触れ合いが心に暖かさを感じさせてくれて、男性の自分にも居心地が良いです。小林聡美さんのドラマ、TVの中では一番のおすすめの作品だと思います。市川実日子さんはよく小林聡美さんと共演しますが、いつも楽しみに観ています。この女優さんが入るとドラマに不思議なスパイスが加わります。信金のお金を横領した女子職員馬場 万里子役の小泉今日子さんは、生き生きと演じてました。2017年TBSで囚人の馬場カヨ役をやりましたが、すいかの役名を気に入って同じ犯罪者役なので馬場という名前を持ってきたのではと思いました。■参考リンク登場人物早川 基子〈34〉演 - 小林聡美(中学生期:出村真実)ハピネス三茶3号室の入居者。代田谷信用金庫の職員。16年間コツコツと働いてきたマジメなOL。自己主張しない人生を送ってきたが、同僚の馬場万里子が起こした横領事件を機に依存していた母と決別し、ハピネス三茶に転がり込む。亀山 絆〈27〉演 - ともさかりえ ハピネス三茶5号室の入居者。生活のためエロ漫画を描いている売れない漫画家。1999年に双子の姉を亡くしたことがきっかけで、未来に希望を持てないでいる。「綱吉(ツナヨシ)」という猫を飼っている。芝本 ゆか〈20〉演 - 市川実日子 女子大生。スリランカに行ってしまったいい加減な父親に押し付けられて、オンボロ下宿、ハピネス三茶の家主を務める。嫌々賄いを作っていたが、新メニューにも挑戦するなど前向きなところも。崎谷 夏子〈年齢不詳〉演 - 浅丘ルリ子 大学教授。女学生の頃から39年、ハピネス三茶に住み続ける。ハピネス三茶と共に過ぎ去っていった月日と人々のことを見続けてきた。思ったことをストレートに言い、学生にも厳しいが、心から涙を流す人には優しい。小川 演 - 中丸新将 代田谷信用金庫の部長。基子の上司。課長 演 - 六角精児 代田谷信用金庫の課長。基子の上司。女性職員 演 - 奥野ミカ 代田谷信用金庫の職員。仲井 演 - 秋山実希 代田谷信用金庫の職員。馬場 万里子〈34〉演 - 小泉今日子(友情出演)代田谷信用金庫の元職員。代田谷信用金庫から3億円を横領して逃亡中。バーテンダー演 - 井澤健ママ〈年齢不詳〉演 - もたいまさこ間々田 伝〈45〉演 - 高橋克実野口 響一〈22〉演 - 金子貴俊スミちゃん 演 - たくませいこ生沢 冴子 演 - 片桐はいり早川 梅子〈57〉演 - 白石加代子亀山 結 演 - ともさかりえWikipedia:すいか (テレビドラマ)『すいか』は、2003年7月12日から9月20日まで毎週土曜日21:00 - 21:54に、日本テレビ系の「土曜ドラマ」枠で放送された日本のテレビドラマ。概要世のしがらみでガンジガラメになり、にっちもさっちもいかなくなり行き詰まっている30代半ばの信用金庫職員が、売れない漫画家、大学教授、大学生の大家など、風変わりな人々が住む"賄い付き下宿"のハピネス三茶での出会いや出来事を通して、本当の自分を発見し成長してゆくドラマ。舞台は世田谷区三軒茶屋。視聴率はあまりふるわなかったが、主演の小林聡美をはじめ出演者の演技や脚本への評価は高く、第41回ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞[1]、第21回ATP賞テレビ記者賞[2]、第22回向田邦子賞(木皿泉)[3]を受賞。シナリオ集が2004年11月に日本テレビ放送網株式会社から刊行された。同書は長らく絶版となっていたが、2013年8月に河出文庫から『すいか1』『すいか2』として刊行される。なお、この『2』には、「オマケ」として、基子たち主要登場人物の10年後が描かれている。この作品の後も木皿泉は河野プロデューサーとペアを組み、日本テレビで『野ブタ。をプロデュース』、『セクシーボイスアンドロボ』、『Q10』の3作を世に送り出していくこととなる。話題性の高い原作や旬のアイドル、俳優などを使うようになったのは本作の低視聴率を反省しての局側の判断だと思われる。
2019.08.31
先日、テーブルに置いてあった携帯に見なれない番号から着信歴が。折り返しかけてみると、以前応募した時効警察のエキストラからの撮影案内です。大喜びで参加を申し出るも、電話を切った後によく考えるとその時間にははずせない予定が前から入ってました。このためすぐキャンセルの連絡を入れました。せっかくTVデビューできると思ったのに残念。ドクターXもエキストラを募集してたことがあったし、こりずにまた応募しようと思います。ちなみにこれまでTVに出たのは1970年ころ小学生の時、日本テレビのドライブ・ゲームの観覧者として映ったか映らないくらあいで出たのが、最初で最後です。おみやげにもらったひよこのお菓子が美味しくて強烈に印象に残り、以後ひよこファンになりました。■参考リンクテレビ朝日:時効警察はじめました 時効警察・復活スペシャル 2019年9月29日(日)よる9:00~放送 2019年10月スタート! 【毎週金曜】よる11:15~放送テレビ朝日「時効警察はじめました」エキストラ募集Wikipedia:ドライブ・ゲーム『ドライブ・ゲーム』は、1964年10月30日から1969年3月28日まで日本テレビ系列局で放送されていた日本テレビ製作のゲームバラエティ番組である。和菓子メーカー・ひよ子の一社提供。概要遊園地などにあるゴーカートをスタジオに持ち込んで行われていた公開形式の視聴者参加型番組で、一般からの参加者たちが優勝を目指して競いあっていた。司会は、当時日本テレビのアナウンサーだった久保晴生と徳光和夫が務めていた。参加者たちは2人1組+各回のゲストとチームを組んで出場。出場チームは4組。子供たちへの交通安全教育指導が番組の企画コンセプトになっていたが[1]、参加者の応募制限は特に無く、年齢・性別を問わずに出場することができた[2]。ゲームは「リモートコントロールカー・ゲーム」「シミュレーター・ゲーム」「豆自動車ゲーム」の3つ。参加者たちにはひよ子の和菓子が記念品として贈呈されていた。第八回 - ひよ子本舗吉野堂物語東京では、「ドライブゲーム」東京に進出したひよ子は、昭和41年、日本テレビで「ドライブゲーム」という30分番組を提供。幼児に交通安全を指導教育したいとの趣旨で企画された番組で、司会には、当時若手のホープ徳光和夫氏を起用。番組中では、参加者に、「ひよ子」をプレゼントし、東京での話題づくりに一役かったものでした。
2019.08.24
以前ご紹介した藤谷美和子さんの雪女は小泉八雲の怪談を扱ったTVドラマの一部と知りました。耳なし芳一やろくろ首が久世光彦さんの作品と知りました。久世さんの手にかかると耳なし芳一も10分の艶っぽいドラマに変わるのを見ると相変わらず驚かせてくれると思います。長良屋お園の怪は見つからなかったので宿題です。怪談II ろくろ首 Kwaidan Rokurokubi■参考リンクWikipedia:怪談 KWAIDAN『怪談 KWAIDAN』(かいだん)は、フジテレビで放送された小泉八雲の『怪談』を原作としたスペシャルドラマ。同じく小泉八雲の怪談を原作とした『怪談 KWAIDAN II』と『怪談 KWAIDAN III 牡丹燈籠』も本項で取り扱う。『怪談 KWAIDAN』(かいだん)は、フジテレビで放送された小泉八雲の『怪談』を原作としたスペシャルドラマ。同じく小泉八雲の怪談を原作とした『怪談 KWAIDAN II』と『怪談 KWAIDAN III 牡丹燈籠』も本項で取り扱う。「耳なし芳一」脚本:岸田理生監督:久世光彦「むじな」脚本:岸田理生監督:三輪源一「雪女」脚本:岸田理生監督:瀧川治水「ろくろ首」脚本:石井隆監督:久世光彦「長良屋お園の怪」脚本:岸田理生監督:瀧川治水牡丹燈籠原作:三遊亭円朝脚本:末谷眞澄、扇澤延男監督:瀧川治水キャスト「耳なし芳一」芳一:三上博史二位の尼、お志津:中村久美ジョニー大倉和尚:名古屋章弥生みつき芥正彦清水宏「むじな」太兵衛:春風亭小朝夜道の女:弥生みつき夜道の男:梅津栄「雪女」雪女:藤谷美和子巳之吉:天宮良巳之吉の母:原知佐子横山道代今福将雄村上冬樹伊牟田麻矢小川知子「ろくろ首」旅の僧・回竜:柳葉敏郎月乃:夏川結衣木樵:名古屋章六平直政岩崎加根子半海一晃大富士「長良屋お園の怪」お園:清水美砂長良屋宇平:内藤剛志お近:広田玲央名三田村邦彦おもよ:日向明子お民:でんでん「牡丹燈籠」田原俊彦水野真紀佳那晃子内藤剛志田村高廣平泉成あいはら友子日向明子田口トモロヲ徳井優上田耕一
2019.08.13
時間ですよ、寺内貫太郎一家とか、久世光彦さん演出のドラマは若いころよく見ました。何年たっても古びない笑いのクオリティの高さや、物語へぐいいぐい引き付けるあっと驚かせる演出は斬新で子供心にも天才だと思っていました。いくつものドラマの中で人間万事塞翁が丙午が好きでした。ただ、レンタルビデオになっておらず残念に思っていたところ、たまたま1話だけYouTubeで発見。桃井かおりさんがわかくてきれいで、梅宮辰夫さんがかっこいいです。登場人物が、前略おふくろ様と寺内貫太郎一家をミックスしたみたいです。再放送をTBSチャンネルあたりでやってくれると嬉しいです。2020.2.6.リンク切れにより差し替え。2020.6.3.リンク切れにより動画を削除。■参考リンクWikipedia:人間万事塞翁が丙午『人間万事塞翁が丙午』(にんげん(じんかん)ばんじさいおうがひのえうま)は、青島幸男作の小説。著者の母をモデルとしている。書名は主人公ハナが丙午に生まれたことによる。戦中から戦後にかけての下町の生活を、講談調で記述している点に特徴がある。タイトルは中国の古書「淮南子」に書かれている故事「人間万事塞翁が馬」のパロディ。1981年第85回直木三十五賞(直木賞)受賞作品。1982年にTBSによりテレビドラマ化された。なお、本作には以下の様な特徴がある。直木賞を取ると周囲に公言して執筆を始めた作品小説としては処女作処女作での主要文芸賞の受賞このような要素が重なった作品は日本の文学史を見渡しても他に無く、「超マルチタレント」とも称された青島の優れた才能の一端を示すエピソードとして知られる。出演者桃井かおり梅宮辰夫殿山泰司加藤治子川田あつ子山口いづみ木内みどり大友柳太郎ケーシー高峰小松政夫柄本明左とん平野村昭子天地総子Wikipedia:久世光彦久世 光彦(くぜ てるひこ、1935年4月19日 - 2006年3月2日)は、日本の演出家、小説家、実業家、テレビプロデューサー。テレビ制作会社「株式会社カノックス」創業者。テレビドラマ、小説ともに受賞多数。歌謡曲作詞や脚本家としてのペンネームに市川 睦月(いちかわ むつき)、小谷 夏(こたに なつ)、林 紫乃(はやし しの)など。なお、兄は元参院議員・金融再生委員長を務めた久世公堯。久世 光彦(くぜ てるひこ、1935年4月19日 - 2006年3月2日)は、日本の演出家、小説家、実業家、テレビプロデューサー。テレビ制作会社「株式会社カノックス」創業者。テレビドラマ、小説ともに受賞多数。エピソード代表作『寺内貫太郎一家』、『時間ですよ』はいずれも脚本家向田邦子とのコンビ作品。2004年1月2日に放送されたドラマ『テレビ50年ドラマ特別企画 向田邦子の恋文』(原作:向田和子、TBS)でも演出を担当。自身のエッセイ同様、1981年、台湾での飛行機事故で客死した向田への想いが込められた作品となった[7]。ヘビースモーカーで知られ、「缶ピース」を愛煙した。新人タレントへの厳しい演技指導で知られ、数多くの人気タレントを育てた。葬儀の際に浅田美代子は「親にも叩かれた事がないのに久世さんには何度も叩かれた」と明かしている。『ムー一族』…郷ひろみと樹木希林のデュエットによる番組挿入歌「林檎殺人事件」がヒットした。樹木が本作の打ち上げパーティーのスピーチで、久世と「近松屋のともこ」役の女優のぐちともこが不倫関係にあり、既にのぐちがこの時、妊娠8か月であった事を暴露したことから、一大スキャンダルに発展(発覚当時、久世の妻は「認知などさせない」と強硬な姿勢だったが、後に正式離婚し、のぐちと再婚)[8]。久世と樹木は1996年放送のドラマ「坊ちゃんちゃん」まで絶縁状態となった。ただ久世とのぐちの関係は当時関係者や出演者の間で「公然の秘密」とされており周知の間柄だったが、樹木には周囲の共演者らと険悪な関係になりながらも「久世さんがああした状況の中でなし崩しにショボショボしていくのが耐えられなかった」「2人の気持ちを軽くしてやろうと思った」との真意があった。また、こうした場での暴露を非難する声に対しても「ああいう見せかけの優しさが久世さんをダメにした」と反論している[4]。『寺内貫太郎一家2』…開始間もなく過激な喧嘩シーンを収録していて西城秀樹が骨折、休養。最終回(30回目)は、向田が乳がんの手術のために「原案・向田邦子」「脚本・林紫乃」(久世のペンネームで紫乃というのは久世の長女の名前をもじったもの)となった。この時のことを久世は「雁の別れ」(『触れもせで - 向田邦子との二十年間』講談社文庫)に書いている。喜劇的要素が強い作風のテレビドラマが多いことで知られるが、この要素を取り入れるため自ら志願して当時所属していたTBSの大人気バラエティ番組『8時だョ!全員集合』のコント演出を数回行っている。これをきっかけとして、同番組のプロデューサーだった居作昌果、出演していたザ・ドリフターズのリーダー・いかりや長介を「師匠」として尊敬するようになった。『時間ですよ・昭和元年』…1974年3月にザ・ドリフターズを脱退した荒井注は、「8時だョ!全員集合」の客員ディレクターを務めたこともある久世の出演要請により、1974年10月放送開始の本作で芸能界へ復帰した。作詞家としても活躍し、市川睦月(いちかわ・むつき)名義で1993年の第35回日本レコード大賞受賞曲である香西かおり「無言坂」などを作詞。「市川」は、師匠と尊敬する市川崑に由来する。沢田研二主演、coba音楽による音楽劇の演出にも参加、5作品を担当しているが、その5作目で、川上弘美原作、テレビドラマの舞台化作品『センセイの鞄』(2005年、共演坂井真紀)が最後の演出作品となった。沢田への思い入れは並々ならないものがあり、「沢田研二の存在があるからこそ現在の仕事を続けている」と語るほどだった。TBS時代には、沢田とエレベーターに2人で乗ると、緊張して乗っている時間が長く感じたとも語っている。2006年に制作されたフジテレビの特別ドラマ『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』(リリー・フランキー原作)はクランクイン直前の3月に久世が死去したため西谷弘が演出を引き継ぎ、出演者の山本圭一が起こした不祥事が7月19日に発覚したことへの対応として塚地武雅の代役による取り直しと再編集が行われたことで2006年7月29日の放送予定を11月18日に延期して放送された。自身の制作会社カノックス (KANOX)は、久世演出のドラマの他、『料理バンザイ!』を製作していたが、同番組がスポンサーの雪印グループの相次ぐ不祥事から2002年3月限りで打ち切りとなったこともあり売り上げが大幅に減少し、2004年3月に民事再生法の適用を申請した。飛行機恐怖症で、海外に出かけたのは2、3回しかなかったという[10]。
2019.08.12
この2週間久しぶりにいだてんを見てます。のんさんがこの報道の通り10月以降出てくれたら嬉しいですが。もし仮に本当だとしても、第二次大戦で戦艦大和を最後まで温存していたみたいでもったいない使い方になるようで、ちょっと残念です。2019.7.22.追記SMAPの件で公取委が動いて、のんさんの件も急にクローズアップされてきました。事務所の社長のコメントで、これまでTV復帰がささやかれつつも、叶わなかった理由がやっと分かりました。うまく事態が好転してくれるといいですが。この際、芸能界のシステム自体も法律を整備して近代化したらよいと思います。■参考リンクのんがついに出演? 低迷するNHK大河ドラマ『いだてん』第2部に“マル秘台本”が存在か日刊サイゾー (2019/07/08 23:58)抜粋そんなのんに、かねてから囁かれているのが、NHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』への出演。第一部で大河ドラマ史上ワースト視聴率を記録した同作に、のんがサプライズ出演するかもしれないというのだ。「脚本家の宮藤官九郎とは、NHK朝ドラ『あまちゃん』でタッグを組んでいたことから、のんの起用は早くから取り沙汰されていたものの、あくまで希望的観測でしかなかった。ところが、7月6日発売の『FRIDAY』(講談社)によれば、第2部にはメディア非公開の“マル秘指定”された台本が存在するといいます。第一部は全話に渡って閲覧可能だったことから、これがのんの出演を想定したものではないかと、業界内で話題となっています。9月放送分までは撮影が終わっているため、のんが登場するとしたら10月以降。能年玲奈の出演は大きな起爆剤になるのは間違いない。視聴率のV字回復も期待できます」(スポーツ紙記者)ついに「いだてん」出演!?のん、サプライズ起用が現実味を帯びてきたAsagei Biz2019年7月14日 10:007月5日発売の「フライデー」が、NHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺(ばなし)〜」に、女優・のんがサプライズ出演する可能性を報じた。記事によれば、同ドラマの台本には、マスコミに明かされなかった謎の部分が見られるという。「これまで様々なメディアが、のんのサプライズ出演の可能性を報じてきたものの、実現には至っていません。しかし『フライデー』の取材によれば、第1部は全話観覧可能だった台本が、第2部になって“マル秘指定”された部分があるというのです。それだけに一部では、『いよいよ、のんが出演するのではないか』と噂になっているそうです」(テレビ誌記者) また「いだてん」の撮影は、すでに9月分まで撮り終えているため、もしのんが出演するならば、10月以降の登場になるとのこと。しかし問題は、重要な役がすでに他の役者で埋まっていることだという。以下略ジャニーズに続き、公取委から相応の処分を受けそうな大手芸能プロが急浮上 文=日刊サイゾー編集部(@cyzo)(2019/07/22 06:58)のん復活を立憲民主党・辻元清美が後押し? 参院選後に”応援団”が公取委を動かすか 文=日刊サイゾー編集部(@cyzo)(2019/07/21 11:58)「のんも同席していた『スピーディ』社の忘年会には、立憲民主党の辻元清美、寺田学、国民民主党代表・玉木雄一郎、同党の岸本周平といった国会議員が駆けつけているんです。公正取引委員会は行政機関の一つ。政治家の“圧力”によってテレビ各局へ踏み込んだ調査を指示することもできる。干されてすぐ消える芸能人が大多数の中で、SMAP同様にオファーが絶えないのはのんに才能と人気がある証拠とも言えます。辻元議員らも参院選後に何とかしてやりたいと思っているはずでしょう」(前出・芸能記者)エンタメ産業の未来 2019年7月18日 NEWS:Speedy
2019.07.10
高校2年の秋から翌年春にかけてやったドラマです。当時ファンだった木之内みどりさん目当てに観てました。観ていると好きな俳優さんが出ていて面白く、台詞が結構重くて考えさせられるようなのが多かったです。今でも憶えてるのがあります。半妻さんの言った「おれ、やなやつになっちゃったなあ」とか。当時、学校帰りによく近所の図書館でたまたま一緒になった好きだったけど、とうとう一言も声をかけられなかった同級生の女の子が木場の手前に住んでました。このドラマの舞台は深川ですが、ドラマを見るたびに彼女がオーバーラップして切なくなった思い出があります。ドラマの舞台の料亭川波は深川の門前仲町あたりかとずっと思ってましたが、今回YouTubeを見ていたら、志賀勝さんが、「深川森下町」と聞こえるように電話で叫んでるシーンがあって、なんだ自分の住んでる町の隣の隣だったのかとわかり、ちょっとびっくり。森下は料亭とかあんまり無いのにとちょっと不思議に思いました。https://youtu.be/fhAisz4yiK8?t=2270この3月に無くなった萩原健一さんのご冥福をお祈りします。■参考リンク「ギラギラしていた」倉本聰さん、萩原健一さんを悼む2019.4.8 18:00 産経新聞この役の八千草薫さんが一可愛らしくて番好きです。仲居さん役の新井晴美さんが地味ながら光ってるなと思っていたら、半年後にNHK朝の連続ドラマ風見鶏のヒロインになってました。当時は田中絹代さんを見てもそれほどでなかったですが、今見ると大女優だなと感じます。滝田ゆうさんのイラスト、音楽、ナレーションが懐かしいです。やっぱり木之内みどりさんは可愛いです。2020.12.20リンク切れにより差替え。この歌のレコード持ってます。確かに坂口良子さんはきれいでした。2021.1.20内容の追加。
2019.07.05
1978年のNHKの連続TV小説です。その年に隅田川の花火大会が復活するので、それにあわせて浅草が舞台になったドラマをやったように思います。友里千賀子さんが健康的で可愛くて、古手川祐子さんをはじめてみて、顔が小さくて美人ではっとしたのを覚えてます。NHKに現存するテープが数話しかないそうで残念です。NHK連続テレビ小説 おていちゃん原作は沢村貞子さんの私の浅草。明治生まれのちょっと怖いけど、筋の通った女優さんだったように思います。祖父のきょうだいで昔料亭をやっていた怖いけどお小遣いをくれる親戚のおばさんを思い出します。私の浅草 (暮しの手帖エッセイライブラリー) 単行本 – 2010/11/19沢村貞子 (著), 花森安治 (イラスト)隅田川花火大会が復活する前が一番浅草は元気が無かったように思います。六区とか閑散としていました。隅田川花火大会が復活したのは大学1年のときでしたが、せっかく入った大学もうまくなじめず、家族がみんなで花火を見に行く中で、家でリアルタイムで聴こえてくる花火の音だけを悶々と聴いていました。隅田川花火大会を楽しめるようになったのは会社に入って2年目に彼女ができて一緒に行ってからでした。(公式)隅田川花火大会エンディングの歌も好きでした。隅田川花火大会のあとは背景の画像が花火大会になり、当時家にあった8ミリフィルムで撮影した記憶があります。歌っているのが今回森山良子さんと知りびっくり。確かに声を聴くとなるほどと思います。森山良子 - わたしの祭りうた■参考リンクWikipedia:隅田川花火大会隅田川花火大会(すみだがわはなびたいかい)は、東京都の隅田川沿い(台東区浅草(右岸)・墨田区向島(左岸)周辺)の河川敷において毎年7月最終土曜日に行われる花火大会である。毎年8月に開催される江戸川区花火大会とともに東京二大花火大会の一つに数えられる。概要この大会は、大飢饉とコレラの流行によって江戸で多くの死者が出た1732年、8代将軍・徳川吉宗が大川端(現在の隅田川河畔)で催した「川施餓鬼」(死者の霊を弔う法会)に遡る。1733年7月9日(享保18年5月28日)、幕府は前年にならって川施餓鬼とあわせ、慰霊と悪病退散を祈願する目的で、両国の川開きの日に水神祭を実施。その際に花火を打ち上げたのが、現在の花火大会のルーツとされる。この当時は20発前後の花火で、かなりのんびりとしたものであった。打ち上げは最初期は鍵屋が担当した。歴史は鍵屋のほうが古く、江戸での創業は1659年。7代目鍵屋の番頭(玉屋清吉、のちの玉屋市兵衛)が暖簾分けで、1808年に玉屋を創業し、2業者体制となり、双方が腕を競いあっていた。鍵屋と玉屋は異なる打ち揚げ場所から交互に花火を揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、良いと感じた業者の名を呼んだ。これが、花火見物でおなじみの「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来といわれる。当時評判がよかったのは玉屋のほうで、「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」と川柳にあるように、玉屋の掛け声ばかりで鍵屋の名を呼ぶものがいない、といわれた時代もある。ただし、玉屋は幕末期(1843年)に失火事故を起こし、半丁ほどの町並みを焼失させた罪で、江戸処払い(追放)を命じられ、1代限りで断絶した。ただし、その後も江戸のすぐ近くで細々と営業していたという説もある。一方の鍵屋は、日本最古の花火会社「株式会社宗家花火鍵屋」として現存している。因みに、それまで難しい技術とされていた、同心円状に飛散する花火を明治期に及させたのが鍵屋である。日本で最初に花火を観賞した人物は、一般的には徳川家康と言われている。江戸時代に書かれた「駿府政事録」などに、1613年、イギリス国王使節ジョン・セーリスが駿府城を訪れた際、中国人を使って、家康に花火を見せたという記述が残されている。この時の花火は現在の打ち上げ花火とは異なり、竹筒から火の粉が噴き出す単純なものであった。これを機に家康が三河の砲術隊に命じて、観賞用の花火を作らせるようになったのが、日本における花火の起源とされる[1]。両国川開きの花火は、明治維新や第二次世界大戦などにより数度中断した。1961年から1977年まで、交通事情の悪化や、隅田川の水質汚濁による臭害等により中断するが、1978年に現在の「隅田川花火大会」に名称を変えて復活し、以後毎年続けられている。毎年100万人近い人出が見込まれるこの大会は、桜橋下流から言問橋上流までの第1会場と、駒形橋下流から厩橋上流の第2会場合計で2万発以上の花火が打ち上がり、同時に、花火コンクールが行われる。なお、3年に一度7月に参議院議員選挙が行われるため、その年の開催日(土曜日)の翌日が選挙投票日にあたる場合、開催日が雨天や強風の場合の順延はなし(事実上中止)となる。東京都知事選挙が実施された2016年も同様である[3]。これは投票所が花火大会会場内にあるため、安全上の理由によるものである。2000年(第23回大会)は、九州・沖縄サミットが開催された影響により、8月開催に延期された。なお、浅草サンバカーニバルは同年9月9日に開催された。2011年(第34回大会)は東日本大震災の影響で都内の花火大会が次々と中止を決める中、東京都副知事猪瀬直樹が8月27日に日程を変更して開催することを表明した[4]。この開催延期の影響に伴い、浅草サンバカーニバルの開催が中止となる事態が発生した[5]。2013年(第36回大会)は、雨天および強風により大雨・洪水警報と雷注意報が発表され、開始30分足らずの19時40分に大会中止が発表され、途中打ち切りとなりコンクールも競技不成立となったが順延は行われなかった。1997年(第20回大会)に雨天による延期という例があったが、完全に中止となったのは2013年が初めてである。なお、翌年の2014年(第37回大会)は、雨は降らず予定通り開催され無事に終了した。2018年(第41回大会)は、当初7月28日に予定されていたが台風12号の接近に伴い、7月29日に延期[6][7]して開催された。なお、同日は2020年東京オリンピック・パラリンピックを見据えて、本大会の警備に人工知能(AI)が初めて導入された[8][9]。地域への影響本大会の花火の眺望を期待して周辺のマンションを購入する動きも見られる。2006年には、マンション分譲業者が花火の眺望を売りにして販売したにも関わらず、数年と経たない内に隣接地に別のマンションを建設して花火が見られなくなったとして、住人が業者を提訴した事例もある。東京地裁は、花火の眺望を「いかなる場合にも法的に保護すべき利益とまではいえない」としながらも、「信義則上の配慮義務がある売り主の会社自身が眺望を妨げた特殊な事案」であるとして、業者側に慰謝料の支払いを命じる判決を出している[10]。
2019.06.15
Googleが拾ってきてくれたニュースです。内容がさっぱりわかりませんが、そこが楽しみなマンガを原作にしたドラマです。特に宗教色が強いというわけでもなさそうです。イエスとブッダは両方とも好きなのでどんな展開になるのか期待がもてます。元はオンライン動画のドラマだったようです。YouTube:実写ドラマ「聖☆おにいさん」本予告NHK 聖☆おにいさん主演:松山ケンイチ&染谷将太 原作:中村光 × 監督・脚本:福田雄一 × 制作統括:山田孝之【放送予定】総合 2019年6月22日(土)、29日(土)、7月6日(土) 夜11時30分から 3週連続放送◆第1回 (6月22日放送予定) 「ブッダの休日」「ブッダとイエスのできるかな」「出前のシステム」 ◆第2回 (6月29日放送予定)「バカンスin立川」「奇跡の物件」「福も来た!鬼も来た!」「白い聖人たち」◆第3回 (7月6日放送予定)「ホスピタル フィーバー」「天国よいとこ一度はおいで!」「サンパツ沐浴ドランカー」■参考リンク「攻めてんな~NHK」「テレビ東京だと思った」 実写ドラマ「聖☆おにいさん」、NHKでの地上波初放送決定にファン驚き [佐藤星生,ねとらぼ]Wikipedia:聖☆おにいさんNHK:聖☆おにいさん
2019.05.21
人生の歯車の狂った男と、それまでの常識では考えられなかったことで大金を稼ぐようになったが、それを周囲に理解されない若者がふとしたことで知り合い、交流を深めていく話です。登場人物は少ないですが、それぞれの心理がうわべだけでなく深くしっかり描かれている山田太一さんらしい観る価値十分の作品だと思います。リーマンショックの前年の2007年の作品ですが、2年後に作られていたらちょっと違った結末になっていたかもしれません。井川比佐志さん。円熟味の増した演技でした。いつもと違った笹野高史さんの演技は人間の心の奥のどす黒い面が描かれてます。結婚できない男でもそうでしたが、またちょっと見たくなる心にひっかかる魅力を国仲涼子さんは持っていると思います。福田沙紀さんは、父への複雑な感情をよく表現していました。久々に見たいしだあゆみさん。ほとんどの人にとっては彼女の言葉が今となっては正しかったように思います。
2019.04.28
カックラキン大放送!!は高校生時代に観たバラエティ番組です。アイドル歌手の意外な気さくで楽しい一面が見られて金曜の夕方だったか楽しみにしていました。YouTube:カックラキン大放送OP+ED 五郎・ナオコ・二郎(78.4.7)野口五郎さんの曲はこれが一番好きです。YouTube:野口五郎 A3 「きらめき」 from ゴールデン・ヒット・アルバム西城秀樹さんのはこれです、中2のときの曲です。YouTube:西城秀樹 青春に賭けよう■参考リンクWikipedia:カックラキン大放送!!『カックラキン大放送!!』(カックラキンだいほうそう)は、1975年4月4日から1986年3月28日まで日本テレビで毎週金曜 19:30 - 20:00 (JST) に放送されていたバラエティ番組である。マチャアキ・二郎さんのシチュエーション本番組が生まれたきっかけは、演出の白井荘也が所要で行った大阪で藤山寛美の松竹新喜劇を見たことで、「それなら俺は東京新喜劇を作る」と思い立ったことだったという[1]。当初は『コント55号のなんでそうなるの?』の補完番組として、1975年4月より半年間の放送予定で坂上二郎・野口五郎・研ナオコをメインキャストに据えてスタート。その後、半年間『コント55号のなんでそうなるの?』が放送された後、1976年4月より同じく坂上・野口・研のトリオを引き続き起用して第2シリーズがスタートした。元々、第2期も第1期と同様に半年間の予定で放送枠を確保しており、秋からはこれまでコント55号と約半年ずつ交互に同時間枠で番組を受け持ってきた堺正章を久々にメインに据えた別のバラエティー番組を制作する意図があったが、スタート当初から視聴率も堅調に推移していたこともあり、秋以降も正式のレギュラー番組として定着。同番組の継続が決まったため、堺司会の新番組の話は流れたが、その代替策として、1977年春でスケジュールの都合で一旦降板することになった野口の後任として同番組のメインキャストとして堺を新たに起用。“日本テレビ金曜19時後半枠=「マチャアキ・55号」枠”の集大成として話題を集めることになった。新御三家レギュラー時代(番組の黄金期)やがて新御三家の中で日本テレビが支援する野口五郎が主役になり、その人柄の良さやタレント性を視聴者にアピールする番組となった。特に、1978年春に堺正章が降板してからは、同じく新御三家の郷ひろみが新たに加わり、1980年代前半にかけてほぼ1年交互でメインキャストとして活躍。さらに西城秀樹も時折ゲスト出演し、アイドル歌手がメインのお笑いバラエティ番組としての地位を築いていった。 また、1980年から起用された高田みづえは同番組でのレギュラー出演を通してコメディエンヌとしての才能を開眼。同番組出演をきっかけに、1980年代前半にかけて歌手だけにとどまらない活躍で幅広い層からの人気を獲得していった。
2019.04.13
ぽすれんのDVDで視聴。手塚治虫先生の医学部時代から、漫画家としてのデビューやその後の活躍、挫折、復活までをコンパクトに90分にまとめた作品です。概要を知り次に何を観るかとかにつながるきっかけを作るのに良い作品と思います。最近のドラマのようにあっちゃこっちゃ話が飛んで分かりづらいのが苦手な自分には、まだ昭和の香りの残る作品は安心して観られました。出てくる俳優さんが懐かしくて楽しめました。できれば10回のドラマにしてもう少し掘り下げて欲しかったです。特に高校時代に読んだブラックジャックや火の鳥ができるまでとか知りたいです。手塚治虫物語 いとしき生命のために:東映ビデオWikipedia:手塚治虫Wikipediaを読むと、ジャングル大帝や鉄腕アトムなど連載の執筆で忙しい中でも医師免許を取得されていたと知りびっくり。暖かい家庭があってこそあれだけの作品が描けたのをドラマで知りました。竹中直人さんが若いです。うかうかしていてアマゾンプライムビデオのブッダを見逃してしまいました。
2019.04.10
学園ドラマといえば私の世代では、昭和40年代はじめの日曜夜8時のシリーズが強烈な印象ですが、TBSのおおヒバリ!と、思えば遠くへ来たもんだも地味に面白かったです。先日北大路欣也さんのことをWikipediaで調べていたら、おおヒバリ!が出演作として出ていて、YouTubeに何かあるか調べたら幸運にも主題歌がありました。学園ドラマにしては珍しくシャンソンみたいなのが、印象的で好きでした。山田孝夫さんは今とそんなに変わらず、制服を着て今でも高校生役をやれそうです。穂積隆信さんは学園ドラマには欠かせない存在でした。北大路欣也さんは、ドラマではオニヤマと呼ばれていましたが、そんなに怖くなかったのが不思議でした。数年前ドクターXで元気にご活躍されているのをみてうれしかったです。このドラマは自分が高3の秋から大学1年の春にかけてのモラトリアムな時期にやっていて、NHKの大統領の陰謀のドラマと同じ時期だったと思います。かなり印象に残ったドラマです。もう一度観たい作品です。2022.8.8リンク切れにより差し替え。YouTube:TBS テレビドラマ 「おおヒバリ!」主題歌出演者 北大路欣也、古谷一行、島田陽子、秋野暢子、葦原邦子、穂積隆信、名古屋章、桜木健一、山田隆夫、高橋洋子思えば遠くへ来たもんだは曲が好きで、映画を観に行った記憶があります。ドラマも面白かったです。古谷一行さんが歌も歌っていましたが、現在YouTubeにはありません。「そうさーぼくもー17の頃ー、人生はー無限だと思っていたー♪」という17才の頃という歌も良かったです。こちらは待っていればTBSチャンネルで見られそうです。思えば遠くへ来たもんだ出演古谷一行、池上季実子、森下愛子、時任三郎、斉藤とも子、岸部シロー、山田隆夫、名古屋章 ほか続・思えば遠くへ来たもんだ出演古谷一行、紺野美沙子、渡辺篤史、山田隆夫、森川正太、伊佐山ひろ子、太宰久雄、下条正己、松村達雄、土屋嘉男、野村昭子、佳那晃子 ほか2019.10.3.リンク切れによりリンクを削除。YouTube:『思えば遠くへ来たもんだ』(海援隊).นพพล. 素晴らしい..祝い■参考リンクWikipedia:おおヒバリ!『おおヒバリ!』は、1977年10月25日から1978年5月30日まで、TBS系列にて放映された学園ドラマ。放送時間は毎週火曜日20:00~20:55。全30話。Wikipedia:思えば遠くへ来たもんだ『思えば遠くへ来たもんだ』(おもえばとおくへきたもんだ)は、海援隊の楽曲、松竹配給の日本映画、TBS系列で放映されたテレビドラマ。ここでは、同系列で放映されたテレビドラマ「続・思えば遠くへ来たもんだ」についても記述する。思えば遠くへ来たもんだ1981年(昭和56年)3月17日から全3話で放映された。制作は木下プロダクション。続・思えば遠くへ来たもんだ1981年10月6日から全6話で放映された。制作はドリマックス・テレビジョン。
2019.03.12
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