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かつての戦時下の日本では、国のために死ぬことや天皇のために死ぬことが、美しい精神として称揚されていた。 国や時代の雰囲気に強制された死がそこにはあった。 そういう時代をへて戦後の日本は、死を遠ざけるようになった。生がすべてだという時代をつくったのである。だが近年では、死についてという封印されていた箱の蓋(ふた)が、開けられ始めたように感じる。死を見つめることによって生についても深くとらえられる。あるいは 生と死のつながりをとらえ直したい。 そんな感情が、特に若い世代の人たちに広がり始めた。
その背景には、環境問題への関心の高まりがあるのではないかと、私は思っている。環境問題は、若い人ほど切実な問題として意識されている。地球の温暖化にしても、原発の廃棄物にしても、その問題を引き受けていくのは、いまの若い人たちだからである。
環境問題についての議論が始まった初期の頃は、それは生の世界を脅かすものとしてとらえられていた。有害な化学物質の多用は、生の世界に影響を及ぼす、というように。ところが今日では、 環境問題を循環の破綻としてとらえる 傾向か生まれてきた。
たとえば原発は、事故が起きなかったとしても人間たちが共存しうる物質循環のあり方からはかけ離れている。食べ物の残りであれば、。放置しておいてもバクテリアなどによって分解され、そう遠くなく土や自然の中にのみ込まれていくだろう。自然から生まれたものが自然に還っていくという循環が、ここでは成立する。だが原発から出る廃棄物ば完全に無害化されるまでに何十万年という途方もない時間が必要になる。この物質循環は、人間では制御できない。
放出されたC02が大気中にとどまりつづけるように、 物質循環がうまくいかなくなって、人間では制御できなくなるとき、解決のつかない環境問題は発生する。 とすると、人間がつくりだしたすべての物質が無事に終焉(しゅうえん)のときを迎え、自然のなかに還っていくことができれば、環境問題は、深刻なこととしては発生しないはずなのである。大事なのは終焉のあり方である。
すべてのものは誕生し、終焉を迎える。その循環が破綻したとき、重大な環境問題が生じる。そしてひとつの物質の終焉を物質の死としてとらえれば、 すべてのものの無事な死こそが、次の無事な時代をつくりだす基盤になる。
終焉のあり方、すなわち死のあり方を抜きにして、環境問題は議論できないのである。そしてそのことを感じ始めたとき、死を見つめることなく生に執着する今日の社会のあり方に、疑問を抱く人たちがふえてきた。
死についての質問を多く受けるようになった背景には、このことがあるように私には感じられる。環境思想を深めるためには、生と死のつながりを見つけ直さなければいけないことに、私たちは気づき始めたのではないか、と。
(哲学者)
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