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政治的な発言をしないという選択は、政治的なのだ。 タイトル通り、とりわけ日本の音楽シーンにおける「音楽と政治」のかかわりについて論じた本書が問うのは、政治から逃げようとする政治性である。
2016年、フジロック・フェスティバルに、SEALDsの中心メンバーである奥田愛基(おくだあき)が出演することが明らかになると「音楽に政治を巻き込むなよ」「フジロックって音楽フェスだよね。政治について語られても」といった投稿が相次いだ。 実際にフジロックを知っている人ならば笑止千万なのだが、こういう意見が飛び出てくる事態は放置できない。 なぜって、音楽と政治は分離しているものだよね、と疑わなくなる人が増えてしまうから。
東日本大震災が起き、福島第一原発が大きな事故を起こした。 国策を盲信してきたのではないかという反省や、隠蔽(いんぺい)を繰り返す政府や電力会社への怒りなどが混ぜこぜになったが、日本の音楽シーンで飛び交ったのは憤怒ではなく、「がんばろう!」や「絆」の連呼。そして、「音楽の力」とまとめるような動きだった。 著者による、「音楽産業は『音楽の力』言説のもとでポピュラー音楽の存在意義を誇示しながら、みずからの正当性を主張するようになった」という冷静な分析が鋭い。
自らの楽曲「ずっと好きだった」を「ずっとウソだった」に替えて、原発事故を警告した斉藤和義に対し、いきものがかり・水野良樹がツイッター(現・X)で、この替え歌について「大嫌いだよ」とした上で、 「そもそも僕は音楽に政治的な主張、姿勢(斉藤さんの場合は、怒りでしたが)を直接的に乗せることについて、とても懐疑的な人間です」などと投稿した。つまり、自分は音楽に政治的な主張を乗せないと宣言したわけだが、先述した通り、その宣言もまた、政治的なのである。
あくまでもたとえ話だが、「今年もキレイな桜が咲いた」という歌詞と、「原発事故で入れなくなってしまったあの場所では、今年もキレイな桜が咲いている」という歌詞があったとして、日本の音楽業界が好むのは圧倒的に前者だ。やたらと後者を警戒する。しかし、起きた出来事を体で受け止めているのはどちらなのかと言えば、問うまでもない。繰り返すが、体で受け止めないのも政治的なのだ。
特定秘密保護法、安保法制、共謀罪、東京五輪、新型コロナの行動制限、入管法、武器輸出など、政治権力が強引に物事を決めてしまう事態が続いている。その時に声をあげる音楽家は限られている。何があっても政治から距離を取ろうとする作為性が浮かび上がる一冊だ。一体いつまで、この感じを続けるのだろう。
◆『音楽と政治 ポスト3・11クロニクル』宮入恭平=著 人文書院 定価3080円(税込)ISBN978-4-409-04125-3
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