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哲学者アリストテレスは「政治学」で寡頭制について論じた。少数者による堕落した政治形態で、少数の富裕者が政治を私物化し、政治がゆがめられた状態と言える。「政治とカネ」は、日本固有の問題でなく、古代ギリシャの時代にまでさかのぼるのだ。
今回の裏金問題は、“プルートクラシー”の存在を浮き彫りにした。
プルートスはギリシャ神話における富と収穫の神。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーはカネ持ちによる支配のことをプルートクラシーと呼んだ。資金力のある人たちが発言力を強めるため権力に近づき、権力を握る者にどんどんカネが集まる。カネの側面を強調した寡頭制とも言える。
プルートクラシーは世界的な現象だ。ソ連崩壊後の民営化で誕生した「オリガルヒ」もそう。 米国のトランプ前大統領が当選した時は、大金持ちが貧しい者の味方を気取り、権力を握ったということで、プルートポピュリズムという言葉が使われた。
経団連の会長 が裏金問題は批判しつつも「民主主義の維持にはコストがかかる」として、企業からのクリーンな寄付は「一種の社会貢献」と発言した(昨年12月4日の記者会見)。 自分らに有利な体制を維持するためにはカネを出し惜しみません というプルートクラシー的な発言に聞こえる。
■排除される市民
民主主義の基本は、財産や思想に関係なく政治的に平等であること。それにもかかわらず、一枚数万円のパーティー券を何枚も買う余裕のない市民は政治決定の場から排除され、無力感を覚える。また、平場で市民が議論したら首をかしげるような政策も出てくる。例えば、五輪や万博の報道を見ながら、なぜこれだけの税金を使ってまで開催したいのだろうと思う人は多いだろう。
政権交代が定期的に起きることは、プルートクラシーの誘惑への一つの抑止になる。緊張感が生まれ、いくら大金を積まれても政治家はある程度自制するはずだ。
そうすると選挙がますます重要になると思うかもしれない。だが、むしろ選挙はプルートクラシーと親和的だ。フランスの思想家モンテスキューは「法の精神」で「選択による選出(=選挙)は貴族政の本性にふさわしい」と書いた。つまり、 選挙で当選しやすいのは名望家やカネ持ち。その結果、どうしても世襲議員が多くなる。選挙はそういう性質も持っている。
政治家へのカネの入りをゼロにすればよい、という意見もあるだろう。だが、ウェーバーが「仕事としての政治」で書いているが、政治家とカネを切り離すと、政治のために無給で働いてくれる人だけしか政治家になれなくなる。資産家だけが政治家になり、ほとんどの人が政治から排除されてしまう。これもカネ持ち支配の一種だ。
■ビジョン見えず
不信感を抱くのは分かるが、政治にカネの問題はつきもの、というさめた認識を持つことも大事だろう。どこまでだったら許せるのか、どこからはアウトなのかを見極めることが有権者には求められる。
ただ、今の日本ではその見極めが非常に難しくなっている。政治家にビジョンが無くなっているからだ。
田中角栄は金権政治の象徴であった。だが、彼はやりたいことがはっきりしていた。国民に理想を語った。国民はどこまでだったら彼の欠点を許し託すべきか、と考えることができた。
しかし、今の政治家は理想を語らない。無理して裏金を作ってまでしたいことは何なのかがよくわからない。 このわからなさが、一連の現象をグロテスクなものにしている。
ではどうすればいいのか。選挙以外の民主的なルートを確保することが必要だろう。 無作為抽出された市民による熟議の場である「ミニパブリクス」と呼ばれる手法や住民投票などを組み込みながら、民主政治を豊かにしていく。 プルートクラシーにあらがうにはこういった民主主義の制度の多元化が不可欠だ。
(構成・田島知樹)
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