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それで思い立ち、子供たちの成長につれ数年おきに放映されたスペシャル編を含むシリーズ全話を、数カ月越しで鑑賞した。
初見なのに懐かしい。まさに国民的ドラマ。登場人物たちの育ち老いる歳月を、視聴者が共に過ごした希少な実験的放送である。
連続ドラマの開始は1981年。シリーズ打ち切りが2002年。バブル経済前夜から「失われた30年」の前半に当たる。
バブル自体は描かれず、都会に背を向けた家族の原野暮らしが、この国で起きたあらがいがたい変化を映し出す。時代の構造と心。その陰画を見るようだ。
登場人物一人一人も「国民」だ。数えると、純と蛍は団塊ジュニア、就職氷河期世代。就いた職業はゴミ収集と看護師。汚れた町と病んだ人の世話をする。
ドラマは今やタブーの男らしさや女らしさが当たり前。今の若者は変に思うだろう。でも心なしか人間関係に潤いがある。社会は進歩すると干からびるのか。
全編を通じ正直さが、物語の重要な推進力になっている。黒板五郎も純も蛍も、正直であることを大切にし、でもウソをつく。気に病み、言動がもつれ、誤解と争いと和解が劇を織り成す。
共感されたのは、正直さがそれだけ規範力を持っていたわけだ。政治指導者への評価やSNSの交信で、今の私たちはそんな正直さをとうに手放している。
進歩により得るものと失うものは釣り合っているだろうか。
脚本家の倉本聰氏は、ライフワークで書き継ぐつもりだったから、放映打ち切り後も方々で、その後の構想を明かしている。
蛍は消防士の夫と福島県に住み、東日本大震災に襲われ、夫は行方不明になる。純は福島第1原発事故のがれき処理に従事し、国家の後始末に組み込まれる。
五郎はますます社会から離れ、自然と一体化して姿を消す。もはや国民でもない存在か。
幻の「北の国から」も、個人と国家の関係を、原野の家族の小さな人生が問いかけてくる。
倉本氏はドラマの舞台の地で、俳優・脚本家養成の「富良野塾」を四半世紀運営した。塾生にアンケートで生きるのに必要な物を尋ねたら、上位は水・ナイフ・食料。数人が「人」と答えた。
テレビ局が東京・渋谷で都会の若者に質問したら、カネ・携帯電話・テレビだった。今は三つ、スマホ1台で済む。
(専門編集委員)
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