2012/06/10
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ポロポロ山

 貞元11年(795年)2月、奉誠可汗(ホウセイカガン)が死去し、子がいなかったため、国人たちは宰相である阿跌(エディス)氏の骨咄禄(クトゥルク)を立てて可汗とした。

 骨咄禄(クトゥルク)は同年の6月に 唐から 回鶻可汗国の第7代可汗・懐信可汗(カイシンカガン、在位:795年-805年)として、冊立されている。

 これによって回鶻の薬羅葛(ヤグラカル)政権が終わり、阿跌(エディス)政権が始まったことになる。

 懐信可汗はマニ教を再び受容し、西方からの文化を受け入れていった。 この後、マニ教は回鶻可汗国の国教になっていきます。

 骨咄禄はもと阿跌(エディス)氏で、幼くして回鶻の大首領に養われ、合骨咄禄毘伽可汗の時に何度か主兵を率いたため、諸酋に慕われるようになり、回鶻可汗国のとなった。

 骨咄禄は阿跌氏であったが、薬羅葛氏に恩義があったため、あえてその氏族名を名乗らなかった。

 こうして薬羅葛氏の政権が終わり、阿跌氏の政権が始まる。

 唐帝国・徳宗皇帝は秘書監の張薦に節を持たせて骨咄禄を冊立し、騰里邏羽録没密施合禄胡毘伽懐信可汗(テングリで・ウルグ・ボルミシュ・アルプ・区トゥルク・キュリュグ・ビルゲ・カガン)の称号を授けている。



 回鶻可汗国は元和(806年-820年)の初め、再び朝献し始め、摩尼(マニ)を唐に至らせています。 マニ教が復興していた。

 また、元和3年(808年)には、滕里野合倶録毘伽可汗は咸安公主の喪を唐に報告させている。

 咸安公主は四人の四可汗に嫁ぎ(レビラト婚)、回鶻にいること21年間に及んでいた。

 間もなくして滕里野合倶録毘伽可汗も死んだので、憲宗は宗正少卿の李孝誠に冊拜させて 保義可汗(ホギカガン、愛登里羅汨蜜施合毘伽保義可汗)を任命した。

 即位した保義可汗(ホギカガン)は 元和4年(809年)、唐に遣使を送って国号を迴鶻(回鶻)と改めたことを報告している。

 元和8年(813年)4月、保義可汗は使者の伊難珠を唐に遣わして請婚した。

 しかし、唐がそれに応じなかったため、保義可汗は3千騎を率いて鵜泉に至り、唐の辺境を脅かした。

 唐の辺軍は戒厳令を敷き、両国に緊張が走った。

 皇帝・憲宗は使者を送り、回鶻・保義可汗を説得させたが、保義可汗は求婚をあきらめず、翌年にまた合達干(アルブ・タルカン)らを送って 再び 強行に求昏させている。

ビシュバリク




 しかし、唐がそれに応じなかったため、保義可汗は3千騎を率いて鵜泉に至り、唐の辺境を脅かした。

 憲宗(在位:806年-820年)は宗正少卿の李孝誠と太常博士の殷侑を回鶻に赴かせ、説得させたが、保義可汗は求婚をあきらめず、更に 強行姿勢をとった。

 長慶元年(821年)、穆宗皇帝(在位:821年-824年)の代になってようやく許しが出たが、保義可汗はこの世を去ってしまう。

 そこで穆宗は皇妹である太和公主を次の崇徳可汗(在位:821年-824年)に出嫁することにし、太和公主が新たな回鶻可敦(ウイグル・カトゥン、皇后)となった。

 ≪ 回鶻可汗国の可汗にとって 己の皇后が唐の皇女である事で、支配する諸氏族・豪族を抑制する権威になっていたのです。≫



 穆宗は 主体性に欠け、享楽に耽る生活を送っていた。 このため宦官による専横がこの穆宗の時代にさらに顕著化し、“牛李の党争”と呼ばれる官僚らの派閥闘争が激化した。

 なすすべもなく、自らの長命のために道士が勧めた金丹中毒により、31歳にして崩御している。

 因みに、 穆宗の後継者・敬宗(ケイソウ)皇帝は12歳で景王となり、翌年に皇太子となる。

 穆宗の崩御により即位するが、史書によれば暗愚で暴虐な人物であったとされる。 敬宗は相撲などの遊興に耽った上、

 宦官を粛清するなどしたために、これに不満を持った宦官の劉克明らによって、19歳の時に寝所で暗殺されている。

 文宗(ブンソウ)皇帝が 唐朝の第17代皇帝として跡を継ぐが、宦官に対する大量粛清の計画が事前に露見し、文宗も捕らえられて幽閉されることとなった“甘露の変”で死す 】

遊牧の故郷

 保義可汗(808年-821年)の治世には、ジュンガル(北庭大都護府所在地域)盆地を制圧してカルルクを服属させ、タリム(タクラマカン砂漠)盆地を制圧し、交易路を確保しているが、南東の戦線では吐蕃が優勢を保持していた。

 長慶元年(821年)2月、保義可汗が薨去したので、穆宗皇帝は使者を送って弔問させ、4月に新たな回鶻君長を冊立して 崇徳可汗(スウトクカガン、登羅羽録没密施句主録毘伽可汗)を冊立した。

 当時、回鶻可汗(ウイグル・カカン)国の辺境では、809年に吐蕃が再度霊州から豊州の一帯を制圧して、回鶻-唐間の直道を遮断していた。

 813年、回鶻可汗の保義可汗は 漠南で吐蕃軍を撃ち破ると勝ちに乗じて河西まで追撃したが、816年には吐蕃軍が牙帳から3日の距離まで進軍し 周辺を制圧されている。

 821年、唐は回鶻との連合を より強固な結束に図るため 公主を降嫁させる決意をいている。 が、この年に、長慶元年(821年)2月、保義可汗が薨去したのです。

 穆宗は使者を送って弔問させ、4月に新たな回鶻君長を冊立して登羅羽録没密施句主録毘伽可汗とした。

 保義可汗は生前、何度も唐の憲宗に請婚をしたが、ことごとく断られ、ついに唐の辺境を侵すようになっていた。

 保義可汗の他界で、回鶻可汗国と唐帝国のぎくしゃくする問題は霧散し、穆宗は皇妹(第10皇女)である太和公主を崇徳可汗(スウトクカガン)に出嫁することにした。

 崇徳可汗(スウトクカガン)は、保義可汗が薨去すると、穆宗皇帝が使者を送って弔問させ、4月に新たな回鶻君長を冊立しせねばならぬ折、

 正嗣を崇徳可汗(スウトクカガン、登羅羽録没密施句主録毘伽可汗)と命名し、回鶻可汗国の第10代可汗に即位させた人物です。

 長慶元年(821年)5月、崇徳可汗は回鶻宰相の伊難珠と句録,都督の思結,葉護公主,摩尼(マニ僧)ら573人を唐に入朝させて太和公主を迎えるとともに、葉護公主を穆宗皇帝に娶らせた。

 互いに王女を嫁がせている。

 翌年の長慶2年(822年)2月、「 唐は回鶻に馬価絹5万匹を賜う。 3月、さらに馬価絹7万匹を賜う。 この月、唐の裴度は幽州・鎮州の乱鎮圧に回鶻を招こうと考え、回鶻の方でも反乱鎮圧に協力することを請願した。」と 史書にあります。

 しかし、唐の朝廷は宝応元年(762年)の史朝義討伐“安史の乱”の事を思い起こし、回鶻には参加させないことを決めた とも追記されています。

 この決定がすぐに回鶻に伝えられるが、気の早い回鶻軍はすでに豊州の北界まできており、命令を聞かされても、引き返そうとはしなかった。

 そこで 穆宗皇帝は詔で絹帛7万匹を回鶻に賜うことによって彼らを帰らせている。

 閏10月、太和公主は金吾大将軍の胡証らに護衛されて回鶻可汗国に到着した。

 太和公主は早速、崇徳可汗と面会し、回鶻風の儀式を受けて回鶻可敦(ウイグル・カトゥン、皇后)に即位した。

 崇徳可汗はこの御返しとして唐に遣使を送り、国信4床・女6人・葛禄(カルルク)捕虜4人を献上している。

 824年に、河西街道(シルクロード)の武威・白塔寺で 吐蕃と唐が停戦協定を行なう状況に至って以降は、

 回鶻軍は専ら西部で戦闘を継続し 吐蕃との抗争を繰り広げる。 そして、840年に和睦するまでの間に、漠南を奪還し河西地域を征服してた。

 吐蕃と唐が停戦協定を結んだ年(824年)に崇徳可汗が他界し、その弟の曷薩特勒(カツサツ・テギン)が立って可汗に即位した。

 翌年の宝暦元年(825年)5月、唐は新可汗を冊立して昭礼可汗(ショウレイカガン、愛登里?汨没蜜施合毘伽昭礼可汗)とし 認証している。

河西状況


内乱と可汗国の崩壊

 崇徳可汗(スウトクカガン)の次は親弟の曷薩特勒(カツサツ・テギン)が立って昭礼可汗(ショウレイカガン、在位:824年-832年)となったが、彼はその配下に殺されてしまう。 大和6年(832年)のクーデターです。

 続いて従子の胡特勒(コ・テギン)が立って彰信可汗(ショウSンカガン、在位:832年-839年)となったが、彼もまた宰相の掘羅勿(キュレビル)に殺される。

 開成(836年?840年)の初め、回鶻宰相で安允合という者がおり、王族の柴革とともに彰信可汗簒奪を欲したが、 彰信可汗に発覚し、柴革と安允合は殺された。 しかし、

 開成4年(839年)、宰相の掘羅勿は彰信可汗が柴革と安允合を誅殺したことを怨み、沙陀族(サダ族、8世紀から10世紀頃まで、華北-オルドス-山西近辺の地域で繁栄したテュルク系民族・突厥の一部族)を招き寄せて彰信可汗を攻めたため、彰信可汗は自殺したのです。

 国人は?特勒(コウソウ・テギン)を推戴し、立てて可汗とした。

 時に回鶻では連年、疫病と飢餓に悩まされた上、大雪にも見まわされたため、多くの羊や馬を死なせてしまっていた。

 そんな中、渠長(キョウチョウ:将軍)の句録莫賀(キュリュグ・バガ)は 宰相の掘羅勿を恨み、北の黠戛斯(キルギス)軍10万騎を招き寄せて回鶻城(オルド・バリク)を破り、?可汗と掘羅勿を殺してその牙帳を焼き払った。

 これによって回鶻の衆は散り散りになって諸蕃に奔走することとなり、宰相の?職(ソウショク)は外甥の?特勤(ホウ・デギン)および男鹿并遏粉ら兄弟5人、計15部を擁して西の葛邏禄(カルルク)に奔走し、一部は吐蕃へ、一部は安西(亀茲)へ投じた。

 また可汗の牙帳近くの13部は、烏介特勤(ウグ・デギン、昭礼可汗の弟で、彰信可汗の叔父)を可汗に推戴し、南の錯子山に割拠した。

 回鶻を破った黠戛斯(キルギス)は太和公主を得る。

 こうして 北方から南下した黠戛斯(キルギス)族に モンゴル高原に覇を唱えた回鶻可汗国は崩壊させられた。

 これによって回鶻可汗国は崩壊し、諸部は分散した。


可汗国の崩壊後

 回鶻可汗国の崩壊後、モンゴル高原を支配したのは黠戛斯(キルギス)であったが、その支配は長続きせず、860年代には東方のタタル族によって高原を追い出されてしまう。

 以後、モンゴル高原は諸部族が割拠する時代に入り、ジンギスハーンの大蒙古帝国が現れるまで統一政権が生まれなくなる。

 一方、回鶻のいくつかの勢力は逃げ延びた地域で力を持ち、天山ウイグルや甘州ウイグル,亀茲ウイグルなどの諸王国が生まれることとなった。

 中でも天山ウイグルは 大蒙古帝国の支配下にあっても存在し続け、13世紀までその勢力を保ち、その文化的昇華は 現代のシルキロードのロマンなのです。

マニ教


                     _____ 続く _____





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Last updated  2012/06/13 11:48:09 AM コメントを書く


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