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凶暴なハリケーンで多くの人が犠牲になっているそうです。アメリカの南部といえば、テキサス。僕は昨年ここでとてもお世話になりました。ブッシュ大統領もテキサス出身でいまは休暇をとっているとか?みんな大丈夫だろうかとちょっと心配です。いまハリケーンはどこを進んでいるんでしょう。
2005年08月30日
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今日は午後から人権講演会がありました。昼食後、電車に乗って大きなホールへ行きました。学校からは30分くらいかかりました。 冷房の効いたホールで在日コリアン3世の人の話を聞きました。その人自身の考え他、かつての在日コリアンの話などなど。それから韓国の舞踊を鑑賞しました。激しいリズムと甲高い音声でした。慣れていないので、ちょっと頭が痛くなりました。(汗まぁまぁいい異文化理解、交流が出来たと思います。 今日の講演のポイントをいうと…・アジア市民、地球市民の単位を意識し、考えること。アジアはおろか、世界を知らない人には正直なところ難しいと感じました。少しでも理解するには、異文化に触れるということが大切だと思います。ただ、理解するというのはほとんど言葉だけで実際には無理だと感じます。というのは、例えば言語を例に挙げていうと、こんな感じ。 英語の文法は、主語、動詞の順で、目的語や補語が続く。こういう風に習いますが、実際には他に単語をたくさん覚えても、それだけでは滑らかな会話は出来ません。そもそも「理解する」というのは、ネイティヴの感覚が備わっていることを言うのだと思います。異国の地に行かず、そこで生活もせず、本当の理解はむずかしいと僕は思います。いろいろ考えさせられる講演だったと思います。 大学に入ったら、広い世界を見に行きたいものです。
2005年08月29日
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病院にいきました。診察を受けて、薬局で処方箋を渡して薬をもらいました。まだ飲んでいませんが、いまは症状が収まりました。明日の朝食後に薬を飲むつもりです。 とりあえず薬をもらえてヨカッタヨカッタ☆
2005年08月26日
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今日はクシャミ、鼻水、目のかゆみに苦しんでいます。目薬をしたら目のかゆみは治りましたが、鼻のムズムズはまだ大変です。 学校のトイレの紙を全て鼻紙として使ってしまいました。それでもまだクシャミもでるので、友達に女子トイレからトイレットペーパーを持ってきてもらいました。使いかけですが、3本も消費しました。おかげで鼻が真っ赤で、痛いです。 5時に近くのお医者さんへ行く予定です。早く薬が欲しいです。 トイレに入ってから困る人がいるのではないかとちょっと心配です。来週、紙の補充をお願いしておこうと思います。
2005年08月26日
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僕が入学した年度から夏休みが8月24日までになりました。僕の学年は新課程になったりと変わったことが多いみたいです。久しぶりに友達に会えたので新学期をがんばる元気をもらった気がします。文化祭の準備もあるので忙しくなりそうです。
2005年08月25日
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人は、何かを誇りたがる生き物だな、感じることがよくあります。思いのほか、クリスチャンにも多いことだと思う。それは、あからさまにではないですが、こんなことはないでしょうか?「私は、心から神さまを信じている!」、「私は、神さまにとっても愛されている!」、「私は、聖書を毎朝毎晩読んでいる!」、「私の祈りは、きっと聞き入れられるはずだ!」、「私は、迫害を受けても負けなかった!」などなど…。 信仰は行いではなく、主の恵みによります。神さまは造られたすべての者を愛しておられることを忘れてはいけません。聖書というラヴレターを与えてくださった神さまを誇るべきです。主は、最善の時と場合、それら全てをご存知です。迫害に負けないのは人の力によるものではありません。 優れた信仰者と呼ばれる人ほど、気をつけるべきことだと思います。 聖書にはどういうことが書かれているのだろう? まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、 すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。 >>詩篇‐2:12 主はこう仰せられる。 「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。 つわものは自分の強さを誇るな。 富む者は自分の富を誇るな。 誇る者は、ただ、これを誇れ。 悟りを得て、わたしを知っていることを。 わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、 わたしがこれらのことを喜ぶからだ」 >>エレミヤ書‐9:23‐24 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。 >>コリント人への手紙 第2‐11:30 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。 真実のことを話すのだからです。 しかし、誇ることは控えましょう。 私について見ること、私から聞くこと以上に、 人が私を過大に評価するといけないからです。 >>コリント人への手紙 第2‐12:6 (救いは)行ないによるのではありません。 だれも誇ることのないためです。 >>エペソ人への手紙‐2:9 私たちはよく「主にあって誇れ」といわれます。これはどういうことでしょうか。僕自身が感じることを書いておきます。「私は主のしもべにすぎませんが、主人である方は優れた愛のある方です」自分やその集団でなくとも、誇ることの出来ることだと思います。自分を殺した上で、主である方を誇ることだと思います。言葉で説明するのが難しいので、また後日補充しようと思います。いつになるかはわかりませんが…。 クリスチャンは、クリスチャンであることを誇らないようにしましょう。自覚するのもまた難しいところで、周囲もそう感じにくいかもしれません。あらゆる場面、事柄において、誇ることのないように心がけたいですね。 最後に、自分が「謙虚」であることを誇らないようにしましょう。 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。 しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。 >>詩篇‐20:7
2005年08月20日
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明日から2日間、模試です。
2005年08月19日
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最近は、雨がよく降ります。昨日は学校のグラウンドが湖になっていました。まさか奈良県で干潟を見れるとは思ってもいませんでした。ぜひとも香川県の早明浦ダムでやってもらいたいものです。ダムが枯れないことを祈っています。 かみなりも元気なものです。今日も頻繁にピカッと光ってゴロゴロ鳴っています。ときたま停電もしました。それにしても、かみなりはうるさいですね。いつも同じような雷音ばかりで芸がないよ。たまにはジャズやクラシックでも鳴らしてほしいものです。 万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、 つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、あなたを訪れる。 >>イザヤ書‐29:6
2005年08月19日
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受験生って忙しいですね。この夏休み、とても忙しいです。普通に学校のある日の方がずっと楽です。塾や予備校に行かないので、自分でスケジュール立てて勉強するのですが、だれも尻を叩いてくれないので、遊びという誘惑に負けてしまいそうです。なので、これほど勉強するのは一生に今だけどと言い聞かせてやっています。あー、早く受験終わってくれないかなぁ。こんなこと言っても、勉強しないと終わらないんですね。 人の目にはまっすぐに見える道がある。 その道の終わりは死の道である。 >>箴言‐14:12
2005年08月14日
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元宣教師のLさんが帰国されるので今日の礼拝は大勢の人が集まりました。他の教会から来られた方もいました。 彼女から特別に教会へのメッセージをいただきました。「いつも神さまに相談するように。」「自分に与えられた計画が教えられるように祈りなさい。」「今日、何をするべきかをたずねるように。」こういった感じのものでした。 中高生には次のような話をされました。「自分の計画と用意された計画が違ったら自分の計画を捨てれるように。」なかなか厳しいことですが、必要なことだと感じました。彼女が帰国してからも引き続き主のために用いられるように祈ります。 心を尽くして主により頼め。 自分の悟りにたよるな。 >>箴言 - 3:5
2005年06月12日
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今日は校内球技大会。競技種目は「バレーボール」です。1ゲーム2セット、セットポイント15点、男女別のトーナメント制です。 1戦目はトーナメントの組み合わせの都合上、不戦勝です。 2戦目はそれほど苦戦することもなく、2セットで勝ちました。 3戦目は準決勝戦です。しかし、ここまでくると強いチームが残っているので一筋縄にはいきません。相手は優勝候補チームで、毎回ブロックも飛んできます。ミスをしないのが相手の1番の強みです。1セット目は順調にアタックも決まり、難なくセットを取ることができました。しかしながら、もう少しのところで2セット目を失いました。そして3セット目に突入しました。レシーブ、トス、アタックが全て華麗に決まり、何とか勝利を収めました。 そして決勝戦。相手は定期考査のずっと前から練習していた強敵です。体育の時間にも対戦しましたが、負けています。しかし、ここまで来たのだから優勝したい!それは、みんな同じ気持ちだったと思います。緊張の中、優勝を賭けたゲームが始まりました!相手はバスケ部を中心としたメンバーでジャンプ力のあるチームです。 1セット目、非常に重要なところですが、落としてしまいました。サーブミスが目立ったのが原因かもしれません。みんな緊張していたようです。先生曰く、プレーが固くなっていて、形を気にしすぎているとのこと。 2セット目、最初からリードすることができました。しかし、途中で流れが変わり、逆転されました。先生がタイムを取り、休憩させてくれました。気合を入れなおしてもう一度です。僕からのサーブでゲームは再開しました。なるべく深めのサーブを心がけました。接戦だったので、相手がすぐにこちらへ返してくると考えられたからです。運良く僕のサーブは連続して敵のミスを誘うことができました。流れを取り戻し、みんなのアタックも決まり、セットを収めました。 さぁこれから最終セット、否応なくここで決着がつきます。両者、交互に点を取り合って15-15のデュース。大切な場面、相手からのサーブです。しかし、ここで僕が失敗をしてしまった!15-16のセットポイントになりました。 ここで先生がタイムをとりました。クラス全員で円陣を組み、先生が気合を入れます。「こころはひとつ!優勝するぞ!」 ゲーム再開。相手から深めのサーブ、冷静にレシーブ。ここでトスをすると見せかけてそのまま返球。相手は反応できず、ボールに触れはしたものの、あさっての方向へ。16-16でデュースアゲイン。こちらのサーブから始まります。ここで鋭いジャンプサーブが決まりました!17-16のセットポイント。もうデュースに戻さずに決めれるか!?更なるジャンプサーブが放たれました!相手は冷静にレシーブ…しかし、強力なあまりに捌ききれず、コートの外へ…。 大歓声が上がりました!!!女子も順調に勝ち進み、僕のクラスは男女ともに優勝しました。 ところが優勝チームに与えられるのは、賞状ではありません。与えられるのは、教員チームとの試合権です。 さぁ本当に最後のゲームが始まりました。またしても円陣を組みました。先生がいなかったので、僕が声をかけることになりました。「ここで、たゆむことなく、最後まで勝って気持ちよくなろう!」僕はいつもレシーブに回っていましたが、アタックを数本決めました。みんなの疲労は相当なものでしたが、無事2セットを取り、勝利を収めました。 もちろん優勝したので賞状を戴きました。副賞として、ひとり¥500分相当の図書券も戴きました。教員チームにも勝ったので、最強チーム賞も戴きました。チームの中からベストプレーヤーも選ばれました。 優勝したうえ、クラスもひとつにまとまることができました。とても素晴らしく熱い1日でした。 私の心はすばらしいことばでわき立っている。 私は王に私の作ったものを語ろう。私の舌は巧みな書記の筆。 >>詩篇 - 45:1
2005年05月27日
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今日でようやく定期考査も終わりです。科目は「英語」と「世界史」です。「英語」は共通一次対策でマーク方式のテストでした。50分間のテストで全90問を解答するものです。そこそこのスピードが要求されますが、何とかなりました。「世界史」はちょっとしくじってしまったような気がします。 試験が終わると避難訓練と掃除がありました。みんなお疲れといった様子でした。 放課後、クラスの友達とバレーボールしました。実は明日、校内球技大会があります。すでにお分かりと思いますが、種目はバレーボール。その練習ということですが、かなり疲れました。大会の前日にこんなに疲れて大丈夫?って感じです。 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。 >>ガラテヤ人への手紙 - 5:1
2005年05月26日
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定期考査第3日目の科目は「古典」、「英語長文読解」。「古典」は苦手なので自信がなかったのですが、人並みに解けたかな。「長文読解」もまぁまぁ、そこそこの出来だったと思います。ただ、どちらも時間配分をしくじってしまい、じっくり問題を解けませんでした。共通1次試験のことも考え、スピードを課題にしなくてはいけないようです。 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。 >>マタイによる福音書 - 24:50
2005年05月25日
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今日の試験科目は「現代文」、「生物」でした。僕のクラスは国公立大学志望と私立大学志望が混同しています。それぞれ受験方法が違ってくるので、通常はクラスごとに分離されています。ですが、それぞれの人数の都合で混同された特殊なクラスのようです。同じクラスでも受ける授業、単位数はもちろんのこと、教室もそれぞれ違います。そうなればもちろん試験科目も異なってきます。私立志望の生徒は「日本史」や「古典」も受験していたようです。 出来具合はどうかといえば「生物」に悪戦苦闘でした。「現代文」は上々の出来だったと思います。ただ、思うところがひとつあります。実は「末裔」という漢字が書けませんでした。昨日はスグに書けたのに、残念です。 3限目、僕は受験科目がありませんでした。そのあいだは図書館で待機していました。とても疲れていたので気分転換に図書館の本を読んでいました。こんな感じの面白い本を見つけましたよ。・「ヒエログリフを書いてみよう」 古代エジプトの象形文字を学ぼう。 神聖文字で自分の名前を書いてみよう。・「ボウリング上達のために」 ボウリングの技術向上のための本。 丁寧な解説イラストつき。・「子どもにつける名前」 いつの時代も「愛」がつく女性の名前は多い。 「松村柚樹」さんだと名前は「木」だらけになる。 3限目が終わってからは卒業写真の撮影がありました。今日は個人写真だけで、集合写真はまた今度だそうです。カメラマンに随分と笑わされました。 考査は明日も続きます。 勤勉な者の手は支配する。無精者は苦役に服する。 >>箴言 - 12:24
2005年05月24日
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定期考査という名の戦いが始まりました。本日の試験科目は「英語記述」、「数学」、「現代社会」。昨夜は遅くまで起きていたので、試験中に睡魔が…。今夜は明日に備えて早めに就寝しようと思います。もちろん勉強してから。 無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。 >>箴言 - 10:4
2005年05月23日
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明日から中間定期考査です。漢字検定もあるのでとてもビジー。結果は主に委ねるとして、最後までがんばろう。 私のたましいを御手にゆだねます。 真実の神、主よ。 あなたは私を贖い出してくださいました。 >>詩篇 - 31:5
2005年05月22日
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試験勉強のために図書館へ行ってきました。万葉ホールという大きな施設に市立図書館があります。広くて静かで綺麗な場所なので、自習には最適です。早速ノートを広げて勉強を始めると、司書の方がやって来ました。どうしたのかと思っていたら、僕は追い出されてしまいました。どういうわけか、この図書館は自習禁止のようです。こういうのを、キツネにつままれたような気分というのではないのかな。だれひとり自習のできない図書館なんて初耳です。ここで食い下がってやろうかと思いましたが、今日は素直に去ることにしました。はるばると自転車をこいでやって来たのに残念です。家に着くと、早速ネットで市のホームページにアクセスしました。図書館で自習できるように「市政への意見・要望」にお願いしておきました。後日、関係部署から回答が来るようです。 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。 神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。 >>ローマ人への手紙 - 13:1
2005年05月21日
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今日は僕の誕生日です。でも昨日まで気がついていませんでした。最近少し忙しかったからかもしれません。 今日は午前中、学校で実力養成講座がありました。理由はわかりませんが、英語がありませんでした。その分朝はいつもよりゆっくり過ごせました。 講座の後は、友達と軽食を摂って、その後はボウリング場へ。僕は部活動をしていないので、運動する機会がほとんどありません。僕にとって、スポーツといえばバスケ、娯楽といえばボウリングです。ボウリングは健康に良いとよく聞きます。手、足、腰に丁度良い負担をかけるので身体にいいのでしょう。いつもは14ポンドボールを使っていますが、今日は15ポンドを使いました。今日は4ゲームをして、その中で1番良かったスコアは165でした。まぁまぁってところだと思います。 今日は誕生日ということで、お祝いのメールをいただきました。思いがけず、とても嬉しくて上機嫌です。今度は僕が友達の誕生日にお祝いしようと思います。 すると、ダビデは、ベエロテ人リモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。 「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。」 >>第2サムエル記 - 4:9
2005年05月14日
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今日は実力養成講座がありましたが、今日は欠席しました。理由は気分が悪く、嘔吐感でいっぱいだったからです。連休で気が抜けてしまっていたのかもしれません。朝6時に起きましたが、水だけ飲んでもう一度ベッドへ。 昨日、学校の友達と約束していました。講座の後、ショッピングをして、ランチをして、スターバックスでエスプレッソ。そんな感じのとても楽しいハズの約束だったのです。楽しみにしていたのですが、本当に申し訳ないです。とりあえず、お詫びのメールを入れておきました。 お昼すぎに、また違う友達からメールが来ました。休んだので心配してくれていたようです。早く体調を万全にしようと思います。 明日は講座がなく、久々に日曜礼拝に参加できます。まだ体調が思わしくありませんが、きっと大丈夫でしょう。 彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。 >>マタイによる福音書 - 8:17
2005年05月07日
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今日は放課後眼科へ行ってきました。校外学習の時にボールを目にぶつけたからです。 僕が行ったところは以前にもお世話になったことのある医院です。診察券を渡してから20分ほど座っていました。看護士さんから症状などを尋ねられました。簡単に説明した後、視力検査を受けました。それから比較的大きな装置で目を検査されました。 しばらくして医師の診察を受けました。細かく症状などを訊かれた後、再び様々な検査を受けました。それから先生は丁寧な説明をしてくださいました。眼球模型を使って、どこがどうなっているのかを一緒に確認しました。それから目薬を処方してもらい、日常生活で注意すべきことも聞きました。本当に親切な先生でした。 先生によると、僕の目は虹彩炎になっているそうです。日本人なら、目の茶色の部分が炎症を起こしているそうです。ぶつけた当時、出血があったようです。そのため血液の成分がガラス体の中に残り、濁った見え方をするそうです。放っておいても治るそうですが、人によっては緑内障になる恐れもあるそうです。だから念のために、来週もう一度診察を受けることになりました。 とりあえず何も問題がなくて気分は上々、主に感謝。 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。 ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。 >>ルカによる福音書 - 1:48
2005年05月06日
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今日の午前中、実力養成講座がありました。僕の苦手な数学の時間の出来事です。今日の先生は少し変わった人で、教え方がとても特殊です。何を言っているのか、よくわかりませんでした。どういうわけか、僕はひたすら当てられました。質問されてもなかなか答えられなかったからです。どうして答えられないのかといえば、質問がわからないからです。今日はとても困りました。数学はもっと勉強が必要なようです。 講座終了後、友達とボウリングへ行く予定がありました。他にも誰か誘っていこうということで、何人か声をかけました。結局予定より1人多くなっただけの4人で行きました。今日こそベストスコアの更新を!と意気込んでいました。ところが、自分にプレッシャーをかけすぎたのでしょうか、上手くいきません。3ゲームしましたが、結局スコアは150を切ってしまいました。アベレージもガクッと落ちてしまい、とても残念です。でも楽しめたことが何よりです。 ボウリングを楽しんだ後は、近くのリサイクルショップに行きました。古着や中古CD、レトロなおもちゃ、楽器などが売られていました。僕が欲しいと思うようなものは売っていませんでした。しばらく友達は商品を眺めていましたが、目当てのものはなかったようです。結局誰も何も買わずにお店を後にしました。 その後はレストランへ行きました。炒飯、ドリア、アイスクリームを食べました。おなかがいっぱいになったので、ひと駅分を歩きました。そこでみんなと別れてそれぞれが帰宅しました。楽しい1日を過ごすことができました。 私は快楽を賛美する。 日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。 これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。 >>伝道者の書 - 8:15 今日という日に主がおられなければ、本当に楽しむことはできませんでした。もし主がおられなければ、全ての華やかなことも虚しいことだからです。
2005年05月05日
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今日は新しく電子辞書を購入しました。先日、情けないことに破損させてしまったからです。当分は紙製の辞書を使うつもりでした。しかし、やはり勉強に必要だろうということで買うことになりました。 壊れてしまった以前の電子辞書は23辞書が収録されているのです。それだけでも驚きですが、今回買ったのは、なんと90辞書を収録しています。だというのに、値段は以前の辞書よりも安かったのです。記憶媒体はどんどん性能を増していいっているようです。薄い機械に天井まで届く程の数の辞書が入っているとは、何とも不思議です。とにかく素晴らしい辞書です。 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。 しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。 そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。 >>ルカによる福音書 - 12:30-31
2005年05月04日
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いのちのことば社のウィングサービスで書籍を注文しました。注文した本は"Revival"(リバイバル)です。著者は"D.M.Lloyd-Jones"(ロイドジョンズ)という有名な説教師です。良書だと聞いたので読んでみることにしました。価格は¥2100+送料です。聖書に優る書物はありませんが、新しい発見ができると思い、とても楽しみです。ちなみに、いのちのことば社ホームページはお気に入りリンクにあります。 "Gospel Information"です。 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。 あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。 ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。 >>ホセア書 - 10:12
2005年05月03日
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今日は校外学習に行ってきました。8:30、二色浜海浜緑地へ向けて出発しました。バーベキューをするための食材などを買うために大型スーパーへ寄りました。食材、備品購入の予算¥8000を大幅にオーバーしてしまいました。結局経費は¥12000となりました。今のところ、超過分の全ては僕が持っています。一時的とはいえ、¥4000の出費は高校生にとってまさしく大出血です。 バスの中では数人がカラオケを楽しんでいました。担任の先生は「乾杯」を熱唱しました。その歌い振りから察するに、なかなかの咽喉をお持ちのようです。 車内で楽しんでいるうちに、二色浜に到着しました。早速バーベキューを始めました。金網で焼くと余分な油が落ちて程よい美味しさになります。油が落ちると煙が出て、燻製にもなり、その味は秀逸です。ナスやエリンギにチーズをのせたり、焼きおにぎりを作ったりしました。これらもまた素晴らしい味でした。 大方の食材を食べ終えた後、炭火を活用して簡単なデザートを作りました。市販のマシュマロを熱してビスケットで挟んだお菓子です。さらにマシュマロにチョコレートを加えたりと様々な工夫をしました。とても美味しいです。ぜひ皆さんもお試しあれ。 食後はクラスでバレーボールとドッヂボールをしました。ドッヂボールをしている時に怪我をしてしまいました。というのは靴に入った砂を出し、履いた直後にボールが相手チームの手に。至近距離から剛速球が飛んできました。そのボールは見事に僕の左目にヒット!あ~痛い。そして何とも無様!脳髄を揺さぶるような衝撃でした。その直後、頭が痺れたような気がします。視神経のボールの情報が走ったのかもしれません。しばらく目が見えなくて驚きましたが、少しずつ視界が開けてきました。クラスメイト曰く、目が赤く腫れていたようです。そういうわけでしばらく冷やしておくことにしました。 それからみんなでスイカ割りを楽しみました。グルグルと回ってフラフラになっている光景は見ていて面白いものです。みんなでスイカを賞味しました。時期の早いスイカでしたが、とても甘く瑞々しいものでした。 デザートはまだまだ続きます。担任の先生がバームクーヘンをご馳走してくれました。美味しいのでぜひみんなに食べさせてあげたいと言うのです。昨年も担任をしていただいた先生ですが、本当に気前の良い方です。いままで食べたバームクーヘンの中で一番美味しいものでした。結構なお値段がしたのではないかと思います。 そのあと各自が自由の行動できる時間があまりました。みんなは数名に固まって海辺へ行ったりボレーボールをしたりしていました。僕も海へ行くことにしましたが、左目が痛みが増してきて、意気消沈。数枚海の写真を撮ってから、ボンヤリと右目で海を眺めていました。海へ行く機会の少ない奈良県民だからでしょうか、非常に気分の良いものです。漣の音を聴いているとウトウトしてきました。少しだけ寝ていたかもしれません。クラスの女の子たちに写真撮影を頼まれました。女の子のほとんどがカメラを持ってきていました。男性諸氏はカメラを持っている人はほとんどいませんでした。思い出を残すことができるのはとても良いことだと思うのですが。 遊泳禁止の海ですが、クラスメイトのひとりは海へ投げ込まれてしまいました。災難に遭ったその彼は着替えをもっていたからです。持っているなら入れということでしょう。無理矢理に入れられたようですが、彼もそれなりに楽しんでしたようです。彼はいじめられっこではありませんが、よくみんなに玩ばれます。 15:00頃、バスに乗り込み二色浜を発ちました。みんなはバスの中で何をしていたかはわかりませんが、僕は熟睡していました。到着して先生の話を聞いた後は解散、家路につきました。 帰宅後、目をよく洗い、腫れ具合などを確認しました。 腫れはほとんど引きましたが、ガーゼで押さえると出血が見られます。目の上に傷がありますが、そこの出血は止まっているようです。瞼の内側にも傷があるのかもしれません。明日も出血が続くようなら眼科へ行こうと思います。スポーツには怪我はよくあること。仕方のないことです。またこれも遠足の一興ですね。こんなことでも過ぎれば笑い話となるでしょう。 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがたのことを心配してくださるからです。 >>ペテロの手紙 第1 - 5:7
2005年05月02日
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今日は朝から例の実力養成講座を受けるため学校へ行きました。いつもより30分早く講義が始まるからいつもより早い電車に乗りました。しかし乗車する予定の電車を逃してしまいました。次の電車に乗り、到着したのは講義の始まる少し前でした。 教室を見渡すと席がわずかに残っているだけでした。しかもいつも隣席に座る友達が揃って休んでいました。ひとりは昨日から体調不良とのことです。もうひとりはサボったようです。結局ひとりぼっちで寂しく座ることになりました。 科目は英語、古典、数学です。硬い木製のイスはずっと座っているとおしりが痛くなります。臀部の骨が当たって非常に痛いです。とはいえ、ひとりなだけに集中できたように思います。 帰宅する途中に友人の家へぶらっと寄ってみました。久しぶりにボウリングへ行くことになりました。ボウリングはおそらく僕の一番得意なスポーツです。前回は190点以上のスコアを取れたので、今日は200点が目標でした。しかし、ソフトボールで痛めた肩が災いしました。痛いにもかかわらず、計7ゲームもしてしまいました。2人しかいなかったので回りが早かったのです。今日一番良かったスコアが153点でした。この成績はとても悔しいです。アベレージが随分と下がってしまいました。当然ながら友達には負けてしまいました。次こそは200点を目標にがんばります。といっても僕は受験生・・・力点が違っています。 朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。 あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。 二つとも同じようにうまくいくかもわからない。 >>伝道者の書 - 11:6 いつした努力が実を結ぶのか、人にはわからないものですね。怠け者の僕にとって、この言葉は大変手厳しいものです。
2005年04月29日
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今日も体育がありました。昨日と同じくソフトボールです。肩が痛かったのでピッチャーは代わってもらいました。僕はサードを守りました。ファーストまで距離があるので少し心配でしたが、うまくいきました。たくさんバッターを刺すことができました。 打撃でも活躍できました。といっても普通のヒットでした。 昨日の試合には負けましたが、今日は勝ちました。ちなみにチーム名は「ハッピーチーム」です。知らないうちにそういうことになっていました。つまり、そのハッピーチームがハッピーになったということです。名は体を表すってことでしょうか。とりあえずみんなで楽しめたのでよかったです。 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。 それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。 >>箴言 - 28:13
2005年04月28日
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今日は体育の授業がありました。種目はソフトボールでした。ポジションはピッチャーでした。僕はスピードにもコントロールにも自信を持てる方です。しかし今日は全然ダメでした。コントロールがつかず、フォアボールが多々ありました。チームのみんなには申し訳なかったです。普通なら苛立つものですが、みんな励ましてくれました。それはそれでとても嬉しかったです。 そこで打撃で取り返そうとがんばりました。ヒットを打つことができました。しかしながら試合には負けました。次の試合には勝ちたいものです。 それからどういうわけか肩がすごく痛みます。おそらくウォーミングアップが不十分だったからだと思います。みなさんも運動する際には十分な準備体操を忘れずに。 順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。 これもあれも神のなさること。 それは後の事を人にわからせないためである。 >>伝道者の書 - 7:14
2005年04月27日
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最近の世界史は西洋史を習っています。当然ながらキリスト教のことがよくでてきます。現在は「宗教改革」を習っています。 僕はたまにこのような質問を受けることがあります。「プロテスタントとカトリックは不仲なの?」誤解して欲しくないのですが、そんなことはありません。確かに歴史では戦ったこともありました。しかしカトリックでもプロテスタントでもギリシャ正教会でも同じです。同じキリスト教で、同じ方を主として信じ、崇めています。ただ、解釈などに違いがあるのでどうしてもそうなってしまいます。簡単に言えば、人の力によって、人がひとつになることはできないわけですね。人によっては他の教派に敵意を覚える方もいます。教派の壁は大きく感じるかもしれませんが、それぞれの根はひとつです。混ぜればよいというものではありませんが、必要以上の党派心は好みません。また、同時にこれは聖書的な考えだとも思っています。 本題に戻って宗教改革の話をしましょう。教会といっても物質的な面では人が管理しているわけです。失敗や間違いも起こりますし、腐敗もあるわけです。歴史を振り返ると多くの宗教改革者がいました。勉強した内容を書いてみます。 ジョン = ウィクリフ 1320頃~84イギリスの宗教改革の先駆者です。オクスフォード大学神学教授でした。聖書を尊重し、教義の唯一の判断基準だと唱えました。聖職ヒエラルキーと修道院制を批判しました。聖書の英訳を提唱しました。 ヤン = フス 1370頃~1415チェコのボヘミアの宗教改革の先駆者です。プラハ大学神学教授でした。ウィクリフに共鳴してカトリック教会の改革を唱えました。チェック人の民族運動を指導しました。コンスタンツ会議に喚問され、異端宣告を受け、焚刑にされました。処刑後、フス派ベーメン住民フシーテンがフス戦争を起こしました。 マルティン = ルター 1483~1546ドイツの宗教改革者です。中部ドイツのザクセンに生まれました。修道士として神学をきわめ、贖宥状発行を批判しました。ヴィッテンベルク教会で九十五箇条の論題を発表しました。聖書中心、信仰義認、万人祭司を唱えました。1520年「キリスト者の自由」を著しました。ザクセン選帝侯フリードリヒの保護を受けました。1521~22の間に、ヴァルトブルグ城で新約聖書をドイツ語訳を完成させました。父は農民の子でマンスフェルト鉱山の銅精錬業者(勤労中産市民)でした。カトリック教会からの破門状を燃やしたりと大胆な人物だったようです。 ジャン = カルヴァン 1509~64フランス出身の宗教改革者です。福音主義のために迫害を受けました。1536年に福音主義を理論化した「キリスト教要綱」を著しました。ジュネーヴの改革派に招かれ、1541年以降は市政を独占しました。政治や宗教の改革に力を尽くしました。ルターと同様に福音主義を説きました。また独自に予定説を説き、長老制度を行いました。 歴史の教科書には出てきませんが、もうひとり有名な改革者がいたと思います。それはまた思い出したときに書き加えようと思います。 ところでルターに関する面白い話を聞きました。ルターが修道士になる経緯です。 雨の日のことでした。 弁護士を目指していたルターは大学の帰りに雨宿りをしていました。 すると雷が彼も足元に落ちました。 危ないと思ったので走って帰ることにしました。 しかし雷が幾つも落ち、何度もルターを撃とうとします。 ルターは叫びました。 「神様、助けてください!そうすれば私はあなたにお仕えします!」 そういうわけで弁護士という優れた地位を捨てて修道士になったそうです。 人というのは、どのようにして神のために召されるかわからないものですね。いつでもそのためのあらゆる準備をしておくべきだと思います。 見よ。わたしは新しい事をする。 今、もうそれが起ころうとしている。 あなたがたは、それを知らないのか。 確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。 >>イザヤ書 - 43:19 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 >>ローマ人への手紙 - 8:28
2005年04月26日
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今日、学校から帰って夕刊を見ました。1面に衝撃的な写真が掲載されていました。電車が脱線、横転、マンションに激突したそうです。先頭車両はペシャンコに潰れているようです。以前、くろしお鉄道でも事故がありましたが、これはもっとひどいみたいです。原因は未だわからないとのこと。それ以上に事故車内に乗員乗客が取り残されているというのです。1秒でも早く全員が救助されることを祈るばかりです。 僕は今、こうして日記を書いています。この今の瞬間にも苦しんでいる人がいると思うと鳥肌が立ちます。それ以上のよくわからない不安や恐怖といった類のものを感じます。腕から脱力するような感覚を覚えます。 僕は通学に電車を使っています。決して他人事ではありません。こういう事故がある度に「電車の先頭車両には乗るな」とはよく言われます。今朝、僕の上にも起きたかもしれないことです。今後、僕の上にも起きるかもしれないことです。僕だけでなく、あなたの上にだって起きないとは言えないことです。無闇に不安や恐怖を煽っているわけではありません。すべての生ける者が考える必要のあることだと思っています。人は、何故生きているのか、誰に生かされているのか? 人のいのちというものは、何ともあっけないものです。朝は「行ってきます」と言ったのに、夜には冷たい亡骸が帰って来ます。家族が「おかえり」と声をかけても返事はありません。戦争や紛争のない平和な場所でも、そんなことが起こっています。戦争がないからといって決して心まで平和だとはいえないのだと感じます。科学や物質の豊かさが心の豊かさをもたらすのではないのだと強く感じます。聖書には、主イエスが語られた次のような喩え話があります。 ある金持ちの畑が豊作であった。 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。 「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」 そして言った。 「こうしよう。あの倉を取りこわして、 もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまおう。 そして、自分のたましいにこう言おう。 たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。 さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」 しかし神は彼に言われた。 「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。 そうしたら、おまえの用意した物は、いったいだれのものになるのか。」 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。 >>ルカによる福音書 - 12:16-21 金持ちの男は、確かに富んでいました。何年間も遊んで暮らせるほどの財産を持っていたのです。しかし、彼は自分の魂を買うことはどうしてもできなかったのです。 あなたがたには、あすのことはわからないのです。 あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。 あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。 >>ヤコブの手紙 - 4:14
2005年04月25日
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今日は日曜日です。僕にとって日曜日といえば、教会です。お昼は教会の人と一緒に食べます。ところが今日は学校があり、教会へ行けませんでした。 僕が通うのは普通の公立高校ですが、実力養成講座というものがあります。受講は各個人の自由ですが、僕は塾や予備校に通っていないので受講しました。この講座は2学期の終わりまでひたすら続くようです。今日がその初日でしたが、これがなかなか結構なものでした。つまり、疲れたということです。 この講座には学校の授業とは別に予習・復習・宿題があります。GWも講座で潰れそうです。今年ばかりはグレイッシュウィークのようですね。泣きたくなる気分なので今日はこのへんで。 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。 初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。 >>詩篇 - 84:6 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。 >>詩篇 - 126:5
2005年04月24日
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模試がありました。国語、英語、数学、生物です。詳しくいえば、国語、リスニング、英語、数学1A、数学2B、生物ですね。数学って何を基準にこれほどいくつにも分けているのだろう。何はともあれ社会科がなかったので気持ちは少し楽でした。けれども、昨日と同様に準備不足といった感じでした。今日も準備の大切さを感じる1日でした。 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。 >>ルカによる福音書 - 12:35 このことを知っておきなさい。 もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、 おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。 あなたがたも用心していなさい。 人の子は、思いがけない時に来るのですから。 >>ルカによる福音書 - 12:39-40 主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、 働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。 >>ルカによる福音書 - 12:47 このことを知っておきなさい。 もしも受験生が、テストの日時を知っていたなら、 おめおめと白紙の解答用紙など提出しなかったでしょう。 あなたがたも用心しておきなさい。 テストは、調べさえすれば日時と会場を知ることができます。 >>受験生の心得1
2005年04月23日
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今日は放課後に世界史と現代社会の模試を受験しました。本当は明日受けるはずなのですが、受験する教科がとてもたくさんあります。1日では受けきることができないので分割するというわけです。 世界史。特に勉強していなかったので、苦戦しました。わずかな記憶から推測と想像で解答しました。これではいけませんね。次回に備えて勉強量を上げていこうと思います。 現代社会。この科目は1年生の時に習いましたが、2年生からは縁遠くなっていました。これもセンター試験では必要な科目です。これからがんばろうと思います。 何事も準備は必要だと強く感じる今日この頃です。ですが、全てをそつなくこなすのは難しいものです。 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、 それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。 >>コリント人への手紙 第2 - 9:10 足には平和の福音の備えをはきなさい。 >>エペソ人への手紙 - 6:15 また、まことのいのちを得るために、 未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。 >>テモテへの手紙 第1 - 6:19 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。 そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、 だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。 >>ペテロの手紙 第1 - 3:15
2005年04月22日
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"Love, Peace & Happiness" というゴスペルを紹介します。コンテンポラリー・ゴスペルの人気グループ "Out of Eden" が歌っています。 歌詞を聴く限りはごく普通のラヴソングです。では一体、誰に歌っているラヴソングなのでしょうか。ゴスペルですから言うまでもなく、ジーザスへのラヴソングです。 「ゴスペル」というと歌詞のひとつひとつに気を遣う感じがあります。しかしこのゴスペルはとても率直なラヴソングだと感じます。 大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。 もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。 >>雅歌 - 8:7
2005年04月20日
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電子辞書が壊れてしまいました。とうのは、液晶が割れてしまったのです。電源を入れても右下の隅っこしか表示されません。一体何が表示されているかなどわかりません。しばらく無期限で分厚い辞書のお世話になります。 普通の紙の辞書を使うのは得意な方です。電子辞書よりも早く引く自信があります。小学校高学年から中学卒業まではずっと辞書を引いていました。ことあるごとに辞書を引きまくっていました。また、意味もなく辞書を読んだりもしていました。父から譲り受けた辞書を使っていたので、今はもうボロボロです。しばらくは懐かしい辞書を引いて勉強しようと思います。 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、 神の下さる建物があることを、私たちは知っています。 それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。 >>コリント人への手紙 第2 - 5:1
2005年04月19日
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世界のどこへ行ってもルールというものがあります。学校などの教育機関でもそれはあります。 僕の学校の校則は随分と緩い方ですが、それなりのものがあります。大抵は「あれをしなさい」「これはいけない」となっています。それを定める校則や校訓といったマニュアルが存在します。教職員はみんな、それらを「守れ、守れ」と言います。規則に沿うことは秩序を保つ上で重要なことです。その上で何らかのマニュアルがあると便利です。しかしそれは時に考えることをやめさせます。すると、どうなってしまうのでしょうか。規則を守る意味や理由を考えなくなると形式主義や儀式主義に陥ります。そういう時、規則は、規則を守るための規則になっています。これは全くといっていいほどに意味がありません。規則とは、自分たちを守るため、より良くするための規則です。これを忘れてはいけません。 ローマ帝政のころ、イスラエルの律法学者や指導者はまさにこのようでした。律法は神との関係のためにあり、神を愛するがゆえに守ることができるのです。しかし彼らは律法を授けた神を愛さず、律法そのものを愛していました。「あの人は律法をよく守っている」「すごいですね」そういった世間体のために律法を守っていたのです。 人というのは盲目なもので、形に捉われすぎると本質を見失います。だからいつも心の目を覚ましている必要があります。 目の見えぬパリサイ人たち。 まず、杯の内側をきよめなさい。 そうすれば、外側もきよくなります。 >>マタイによる福音書 - 23:26
2005年04月18日
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僕はヨーグルトが好きです。毎朝欠かさず食べています。またデザートにヨーグルトを食べることもしばしばあります。僕はヨーグルトの消費量が非常に多いのです。そこで自分で作ることにしました。 容器にヨーグルトを1/4ほど残し、牛乳をいれます。牛乳とヨーグルトが混ざるように十分にかき混ぜます。容器にフタをしてビニール袋で包みます。それからお風呂場などの高温多湿の暗所に置いておきます。すると翌日には牛乳がほとんどヨーグルトに変身しています。あとは冷蔵庫で冷やしてからいただきます。 ヨーグルトというのは発酵してできるものです。古くなって傷んでいっているようですが、より良いものとなっています。同様に人は老いていきますが、その中でも成長していくことはできます。 私たちは、自分の限度を越えてほかの人の働きを誇ることはしません。 ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、 私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます。 >>コリント人への手紙 第2 - 10:15
2005年04月17日
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これまでの僕の日記は、いかにも個人の書く日記という雰囲気かと思います。つまり「~だ。」「~である。」で終わります。僕は読み手をあまり想定していないので、どうしても粗暴な感じです。 僕はいつもいろんな人の日記を読んでいます。その多くが、語りかけるような文章です。どことなく丁寧な雰囲気があります。 そこで今日から文章は丁寧語にし、読み手を意識したものにしようと思います。過去の日記も丁寧語に且つ読みやすく編集しようと思っています。 柔らかな答えは憤りを静める。 しかし激しいことばは怒りを引き起こす。 >>箴言 - 15:1 心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。 >>箴言 - 22:11
2005年04月16日
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今日は学校で身体測定とスポーツテストがありました。視力検査、聴力検査もありました。1年生は心電図検査もあったようです。 2年前、僕は心電図で引っかかったことがあります。洞性徐脈の疑いがありました。放課後に近くの市立病院へ行ったことを覚えています。エコー検査を受けました。結果は異常なしとのことでホッとしました。 ところで昨日は授業が一切合財なかったわけです。視力検査の順番が回ってくるあいだは読書をしたりして過ごしました。また他の測定の順番待ちのあいだは友達と喋ったりしました。昼食後は体育館でバレーボールをして遊んでいました。それから学生食堂の前にある休憩所でお茶をしながらのんびり過ごしました。放課後、帰宅してからも紅茶を淹れてゆったりと過ごしました。昨日は別段時間のことも気にしない1日を過ごしました。満喫した、とそういっても過言ではないだろうと思います。いつも忙しく過ごしていますが、たまにこういう日もあっていいなと感じました。特に何もなかったわけですが、いつもと違う充実感を味わうことができました。 現代人は忙しいことが充実していることだと勘違いしているように思います。仕事でも勉強でも、量より質、時間よりも効率が求められます。人の一生も長ければ良いというわけではないと思います。悲しみに沈み心しおれ涙する1年間。笑顔に溢れ喜び叫ぶ心豊かな1週間。あなたはどちらでも選ぶことができるとして、いったいどちらを選ぶでしょうか。 たとえ僕が明日死ぬことがあっても、「彼は優れた17年を生きた。」そう言われるように日々を過ごしたいものです。 太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。 すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。 同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。 >>ヤコブの手紙 - 1:11 聞きなさい。 「きょうか、あす、これこれの町に行き、 そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。 あなたがたには、あすのことはわからないのです。 あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。 あなたがたは、しばらくの間現われて、 それから消えてしまう霧にすぎません。 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。 「主のみこころなら、私たちは生きていて、 このことを、または、あのことをしよう。」 >>ヤコブの手紙 - 4:13-15 また、朽ちることも汚れることも、 消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。 これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 >>ペテロの手紙 第1 - 1:4
2005年04月15日
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昨日あたりから、考えることが多すぎます。そのため傍から見ればボンヤリな状態のようです。声をかけられても気がつかなかったり、となりに人がいても気がつかなかったり。我ながら、おかしな奴です。これが青春というものなのでしょうか。だったらあまり楽しくないものかもしれないと考えてしまいます。でもどうしてそこまで考えるのでしょうか?考えに考えると、人の脳が草臥れたといいます。考えること、心配することについて、聖書には次のような面白い話があります。 だから、わたしはあなたがたに言います。 自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、 また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。 いのちは食べ物よりたいせつなもの、 からだは着物よりたいせつなものではありませんか。 空の鳥を見なさい。 種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に収めることもしません。 けれども、あなたがたの天の父がこれを養ってくださるのです。 あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、 自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 なぜ着物のことで心配するのですか。 野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。 働きもせず、紡ぎもしません。 しかし、わたしはあなたがたに言います。 栄華を窮めたソロモンでさえ、 このような花の1つほどにも着飾ってはいませんでした。 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれるの野の草さえ、 神はこれほどにも装ってくださるのだから、 ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。 信仰の薄い人たち。 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、 などと言って心配するのはやめなさい。 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。 しかし、あなたがたの天の父は、 それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 だから、神の国とその義をまず第1に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 だから、あすのための心配は無用です。 あすのことはあすが心配します。 労苦はその日その日に、十分あります。 >>マタイによる福音書 - 7:25-34 現代人がこの話を聞いても「そんな馬鹿な」と感じるのではないでしょうか。生きるための食べ物、生きるための飲み物、生きるための着物、だからです。でもここから先を考えることが大切だと思います。生きることはわかりましたが、では何のために生きているのでしょう。人はこれを考えずにここまで来てはいないでしょうか。 だから世のことで考えすぎるのはこれくらいにしておこうと思います。でも、思弁の内容は秘密です。
2005年04月14日
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僕は高校生なので高校で教育を受けています。それは義務教育から一歩進んだ教養を身につけるためです。また大学へ進学するためでもあります。でも単なる知識では人は高ぶるだけです。 ソクラテスの「無知の知」という言葉は非常に有名です。中学校でも社会科の授業ではなかったような気がしますが、習いました。「ソフィーの世界」という小説でも読んだことを覚えています。今日も世界史の時間に少しだけソクラテスの話がでてきました。人には未知のものが沢山あります。とても沢山です。人は昔から知識を求めてきました。科学がこんなに発達してきた今も、人はひたすら知ることを欲しています。聖書には知ること、知識についてどう述べているでしょうか。 主を恐れることは知識の初めである。 >>箴言 - 1:7 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。 わざわいの日が来ないうちに、 また「何の喜びもない。」という年月が近づく前に。 >>伝道者の書 - 12:1 神は、わたしを知りなさい、といわれます。人は、神の愛によって生命が与えられています。そして神の愛によって自由が与えられています。自由や権利というものには大抵、責任が伴なうものです。人は、生きる自由が与えられ、神を求める責任を負っています。そして人生のどの地点で見つけるかというのもそれぞれ違います。その中で聖書には次のようにあります。 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 >>ヨハネの手紙 第1 - 4:8
2005年04月13日
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今日は僕の学校では入学式がありました。といっても上級生は自宅にいるだけです。自分のことでなければ実感もなく感動もありませんでした。それで今日は遅くまで寝ていました。 しかし昨日の体調不良が続いています。頭痛がしたので熱を測ったら結構ありました。普段、低体温なので普通の人の微熱でもつらいものです。春だというのに、風邪をひくとは新学期だというのに、我ながら情けない。とりあえず直すことが先決です。もう一度ベッドにもぐりこみました。 それにしてもどうしてだろう。気の緩みというものでしょうか。それとも変なものでも食べたのでしょうか。しかし拾い食いした覚えなどありません。原因はどうやら花粉症のようです。鼻炎なので薬を飲みました。するとあら不思議。小一時間すると鼻炎の症状が消えるとともに頭痛と熱とが緩和されました。そういえば花粉症でも風邪の諸症状がでる、そう聞いたことがあります。それから僕は自分がしんどいなぁと呟いてばかりいたことに気がつきました。 人は、つらいことがあると愚痴を零します。そういう時、人は感謝すべきことを忘れているものです。聖書にはこんな言葉があります。 ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。 あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。 あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。 >>イザヤ書 - 38:17 神は、誠実な方で、意味のない苦悩を負わせるようなことはされません。試練のあるとき、逆境の日には、まず感謝を忘れてはならないと思います。それを忘れると人は下を向いてしまうからです。下を向けば敵の思うツボです。試練の先にある良いものを見失うからです。いつも前を向くことのできる者でありたいと思います。
2005年04月12日
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新学期、新しいクラスでの生活が始まりましたが、身体が重く感じます。新しい出会い、出来事に好奇心があるのに、何故でしょう。たぶん環境の変化によるものだと思います。しかし、こんなに弱かったかな?と違うことで悩んでしまいます。疲労感とか倦怠感というものでしょうか。すごくフラフラな感じでした。焦らずとも、そのうちなれると思うのですが。 僕は休み時間によく読書をします。案の定、今日も読んでいました。しかし今日は視界に文字が入ってきても、頭に入ってきません。思考も十分に回っていませんでした。仕方ないから本を閉じて眠っていました。時間は流れ、休み時間は終わり、授業が始まりました。しかし授業が始まりしばらくするのに起きなかったので、周りに起こされました。かなり熟睡していたようです。新学期早々情けない思いです。今日の放課後でさえ、眠気は続きました。教室でひと眠りしてから帰ろうか迷った程に睡魔に襲われました。これが「春眠暁を覚えず」というものでしょうか。新しいクラスメイトには、僕がネボスケに映ったんじゃないだろうか心配です。初対面の印象としてはいいものではないようです。まぁ事実、僕はネボスケですから悩んだところで仕方がありませんね。 教室の雰囲気は、仲間を作ろうと一生懸命な感じでした。男子が少ないので仕方がないことだと思います。どうでもよいということはないですが、僕は友達を作ろうと躍起になれません。これまでを振り返っても、そういえばそうだったと思います。おそらく僕は、去る者追わず、来る者拒まず、という性格なのだと思います。受動的な性格かもしれません。やはりこれは直した方がいいのでしょうか。とはいえ、基本的に自分の必要は全て満たされています。実際、僕は全ての必要を満たされ、それ以上のものまでいただいています。泳ぐ意志は大切ですが、自力で泳ごうとすれば敢え無く溺れて沈んでしまいます。ひとりで、もがき、あがき、焦っても前には進まないのです。神は、必要と求めに耳を傾けてくださり、適当な時に、波に乗せてくださいます。力強い風を送ってくださり、扇がずとも帆がいっぱいに張るわけです。その船は、碇を引きちぎらんばかりの勢いで航行します。神に愛されていることを知っているというのは本当に気楽なことだと思います。 あなたは知らないのか。聞いていないのか。 主は永遠の神、地の果てまで創造された方。 疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、 鷲のように翼をかって上ることができる。 走ってもたゆまず、歩いても疲れない。 >>イザヤ書 - 40:28-31
2005年04月11日
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今日の礼拝はちょっと特別でした。元宣教師で長らく日本で働かれていた方が久しぶりに日本へ来たのです。それなりにお歳を召されている方です。ミネソタからの旅は結構大変だったのではと想像します。 アメリカでお世話になった宣教師とは別の人ですが、以前から知っています。といっても、毎週のように顔をあわせていたわけではありません。礼拝の後、写真を見せてもらいました。すごい積雪の光景が写っていました。手作りといった感じのログハウスに暮らしておられるようです。 そして今日はYWAM(Youth With A Mission)の海外伝道師のお友達も一緒でした。なんと彼女は十八歳なのだということで驚きました。ナイジェリアで奉仕されたそうです。僕と同世代なのにすごいことです。日本のクリスチャン人口は1%ともそれ以下とも言われます。非常にマイノリティーですが、一歩踏み出せば全く違うのだと実感しました。また、彼女は礼拝の中で弾き語りで賛美されました。 I Could Sing Of Your Love Forever Over the mountains and the sea Your river runs with love for me And I will open up my heart and let the healer set me free I'm happy to be in the truth And I will daily lift my hands For I will always sing of when Your love came down I could sing of Your love forever, I could sing of Your love forever, I could sing of Your love forever, I could sing of Your love forever Oh I feel like dancing It's foolishness I know But when the world has seen the light They will dance with joy like were dancing now すごく素敵な賛美でした。すごいといえば、昼食時にゲストの2人は箸を使っていました。メニューは焼きそばでしたが、普通に食べていました。日本人は2本の棒で食事する、というのはごく普通です。しかしよく考えてみたら、とても面白いことだと思います。異文化に驚かされることは多々あります。でも自分たちの持つ文化に驚いたのは久しぶりです。自分自身を見つめなおすことは重要だと感じました。そこには良い発見もあり、また悪い発見もあります。自分の目の中の梁を忘れてはいけない、というのが今日のメッセージでした。 さばいてはいけません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、 あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。 >>ヨハネによる福音書 - 7:1-2 今日はもうひとりゲストが来ていました。普段は他の教会へ行かれるようですが、元宣教師の方に会いに来たようです。その人もとても楽しい人でした。
2005年04月10日
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今日、髪の毛を切りました。僕はいつも自分で切っています。2年前くらいから自分でするようになりました。だから、どうしてもガタガタになります。上手くやりくりして捻出できればいいのですが、それがなかなか。とはいえ、髪を切るためのハサミが与えられていることは感謝なことです。 髪の毛といえばこんな聖句を思い出します。 あなたの頭をさして誓ってもいけません。 あなたは、1本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。 >>マタイによる福音書 - 5:36 この句は、人は全て被造物だということも教えてくれます。 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。 それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。 >>エペソ人への手紙 - 2:8 私たちは神の作品であって、 良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 >>エペソ人への手紙 - 2:10 これらの聖句は人はみな被造物であることを明確に告げています。いつもそのことを忘れないように心がけようと思います。
2005年04月09日
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今日から僕は3年生になるようです。担任が昨年と同じためか新鮮味なく、イマイチ実感が湧きません。新しいクラスの顔ぶれは大きく変わりました。知らない人ばかりです。それはそれで新鮮なことだと思います。僅かにいた既知の友人もみんな良くしてくれる人でよかったです。春休みのあいだ、新しいクラスでよい友人が与えられるように祈っていました。それがいま実現されているのだと感じています。こういう時、人は神への感謝を忘れやすく、気をつける必要があります。つまり全ての良い出来事は「幸運」ではなく「主の恵み」だということです。主に祈り、信頼することは大切なことであり、それは主に喜ばれることです。聖書を読むとそれを知ることができます。 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。 >>ローマ人への手紙 - 12:12 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、 感謝をもってささげる祈りと願いによって、 あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 >>ピリピ人への手紙 - 4:6 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがたのことを心配してくださるからです。 >>ペテロの手紙 第1 - 5:7 あなたの道を主にゆだねよ。 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。 >>詩篇 - 37:5 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 >>箴言 - 3:6 にわかに起こる恐怖におびえるな。 悪者どもが襲いかかってもおびえるな。 主があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように、 守ってくださるからだ。 >>箴言 - 3:25-26 人を恐れるとわなにかかる。 しかし主に信頼する者は守られる。 箴言 - 29:25 あなたがたは心を騒がしてはなりません。 神を信じ、またわたしを信じなさい。 >>ヨハネによる福音書 - 14:1 立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、 落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。 >>イザヤ書 - 30:15 これらの聖句から何を学べるでしょうか。主なる神は祈りに答えてくださる方だということがわかります。 人は困難や不安があると、まず神以外の人に頼ろうとしてしまいます。家族や恋人、友人、同僚、以前助けてくれた者。人は浅はかなことに、これら自分と同じ人に頼ろうとしてしまうのです。 まず最初に主である神を頼りにして、助けを求めなくてはいけません。もし主が助け手を備えてくださるなら、最適の者を遣わしてくださるからです。その順序を誤ると不適切な人の助けを受けることになりかねません。そういう時、人はさらに転び深みにはまってしまいます。人の助けは賭け事のようで確かではないからです。 また、人は愛する家族から助けを求められると、応えようとしてしまいます。しかし、真に神を愛し真に家族を愛するなら、まずこう言いたい。「最初に誰を頼りましたか?私ではなく、まず第一に主なる神に頼るべきです。」厳しいかもしれないが、これほど正しく安全な助言はありません。「主に頼れ。」やはりこれ以上の助言はありません。そしてこう言いましょう。「そうすれば神があなたに最良の助け、或いは助け手を与えられるでしょう。」そして、もし自分がそのために遣わされたと思ったらどうするべきでしょう。そのときは、愛と感謝と謙遜の心を持って心から仕えましょう。それはキリストを証しすることであり、主は良い報いを与えてくださいます。 いつも最初に誰を頼みとするか。こんな小さなことであっても信仰を鍛えることに繋がると思います。
2005年04月08日
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明日から新学期。春休みに限らず、休みというのは振り返ってみるといつも短いものです。時間の流れが如何に早いものかを感じます。高校を卒業する時、短かったな、というのだと思います。明日は新しいクラスが発表されます。僕はこの年でもワクワクしています。そして自分はまだまだ子どもだな、と感じています。子どもといえばこんな聖句が浮かびます。 子どものように神の国を受け入れる者でなければ、 決してそこに、入ることはできません。 >>マルコによる福音書 - 10:15 この聖句は幼い子どものように無教養でありなさいというものではありません。先日、京都の聖神中央教会の牧師が逮捕されました。数年間に渡り信者の女児に乱暴したことが明るみに見なったのです。聞くところによると「信仰を試す」と名分だったということです。なんとも気分の悪い話です。他人の信仰を試す前に自分の人間的な理性を備えてもらいたいものです。 問題の聖神中央教会は、癒しの奇跡を持って信徒を洗脳していたようです。奇跡なら悪魔でも為せる業です。エジプトの魔術師もモーセとアロンの前で杖を蛇に変じました。奇跡そのものがキリストの証しにはなりません。 ネットで調べてみると、やはり聖神中央教会はとんでもない教会のようです。正確な情報ではありませんが、このような派閥を「救い派」と呼ぶらしいです。「救い派」は数年前から韓国の新興異端勢力として有名になっていたと聞きます。大韓イエス長老教会などのプロテスタント諸派が異端宣告をしていたようです。教会の雰囲気は統一教会のようだとも聞きます。つまり聖職者が神格化されているわけです。 有名な異端には、エホバの証人、モルモン教、統一教会があります。これに当てはまらないからといって異端ではないとはいえません。ニュースを見てもわかりますが、その信仰はキリストへの信仰とは違っています。例の牧師の教会は、組織信仰、教会信仰、牧師信仰になっているみたいです。全ての教会は他人事だと思い、自分の身には起こるものかと言ってはいけません。人の計ること、為すことに絶対はないからです。常に自分たちの教会が神の目に美しいかどうかを吟味する必要があります。 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、 自分自身をためし、また吟味しなさい。 それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、 自分で認めないのですか。 ――あなたがたがそれに不適格であれば別です。―― >>コリント人への手紙 第2 - 13:5 教会はキリストの花嫁とはよくいわれることです。だから聖く健康で、その頭はキリストでなくてはなりません。 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。 それによって成長し、救いを得るためです。 >>ペテロの手紙 第1 - 2:2 生まれて間もない幼子が人を罵ったり呪ったりするでしょうか。そのように純真な姿勢で聖いものを求めなくてはいけません。 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。 同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。 彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、 自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、 自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。 そして、多くの者が彼らの好色にならい、 そのために真理の道がそしりを受けるのです。 また彼らは、貪欲なので、 作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。 彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、 彼らが滅ぼされないままでいることはありません。 >>ペテロの手紙 第2 - 2:1-3 いいですか。 わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。 ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。 >>マタイによる福音書 - 10:16 あなたがたの従順はすべての人に知られているので、 私はあなたがたのことを喜んでいます。 しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、 悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。 >>ローマ人への手紙 - 16:19 素直さと同時に聡くあらなくてはいけないわけです。ではどう見分けるのでしょうか。 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、 キリストの使徒に変装しているのです。 しかし、驚くには及びません。 サタンさえ、光の御使いに変装するのです。 ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、 格別なことはありません。 彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。 >>コリント人への手紙 第2 - 11:13-15 にせ預言者たちに気をつけなさい。 彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。 ぶどうは、いばらからは取れないし、 いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。 良い木が悪い実をならせることはできないし、 また、悪い木が良い実をならせることもできません。 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。 こういうわけで、あなたがたは、 実によって彼らを見分けることができるのです。 わたしに向かって、 『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、 天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。 『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、 あなたの名によって悪霊を追い出し、 あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。 『わたしはあなたがたを全然知らない。 不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 >>マタイによる福音書 - 7:15-23 教会や牧師に依存しないキリストとの個人的な関係が必要だとわかります。まさに信仰は個人のものだと思います。
2005年04月07日
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最近、株式会社の買収が問題になっています。専門家などのあいだでさまざまな議論がなされているようです。どこでもドアのような会社の若い旦那が活躍しているらしいです。放送会社はその若者と戦っているみたいで複雑な構図です。それぞれの下に社員とその家族がいるんだから、必死になるのは当然でしょう。愛があるとかないとかということも耳にします。 しかしお金のことで愛を語っても様にならないのではないかと思います。そのことに気づかないのでしょうか。ちょっと不思議です。彼は世間にあふれる建前の愛を砕きたいのかもしれません。でも彼自身に愛があるかどうかはしらないので何とも言えません。あくまで僕の想像の一端です。彼は単なる野心家であるかもしれないからです。 確かにお金というのは社会で生きていく上では重要かもしれません。でも執着したら醜さしか残りません。経済や株式の話でどうこう言うつもりはありません。しかし、もし本当に愛を説くなら一度お金から目を離してみてはどうでしょうか。ピストルを持って平和を訴えているような矛盾に比べることができると思います。 金銭を愛する者は金銭に満足しない。 富を愛する者は収益に満足しない。 これもまた、むなしい。 >>伝道者の書 - 5:10 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。 そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 自分の宝は、天にたくわえなさい。 そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 >>マタイによる福音書 - 6:18-21 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 >>コリント人への手紙 第2 - 4:18 金銭を愛する生活をしてはいけません。 いま持っているもので満足しなさい。 主ご自身がこう言われるのです。 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」 >>へブル人への手紙 - 13:5
2005年04月06日
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世間では教科書のことが話題になっているようです。日本の学歴至上主義を緩和させるのが目的なのでしょうか。つまり、こどもの精神面を養うことを意図しているということでしょうか。 しかし、最近のニュースを見ていて思うことがあります。権威ある者が了見のない振舞いをして自らの手でその身を潰している姿。会長や社長などの上級管理職に就く者の汚職も目立ちます。国会議員、市役所、警察、教育機関の所業も醜いものがあります。こどもに教育を施す側の精神面が育っていないのではないのでしょうか。これでどうしてまともな教育ができるでしょうか。聖書に次のような有名な言葉があります。 イエスはまた一つのたとえを話された。 「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。 ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。」 >>ルカによる福音書 - 6:39 あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、 どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。 自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、 「兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。」と言えますか。 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。 そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、 取りのけることができるのです。 >>ルカによる福音書 - 6:41-42 今、さまざまな問題がありますが、まず初めに必要なこととは何でしょうか。自分も対象に含めた人質管理ではないでしょうか。他人を見るためには、まず初めに自分を鏡に映してからです。そうしてから初めて他人の質を見極める資格を得ることができるのだと思います。
2005年04月05日
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ヨハネ・パウロ2世が亡くなられました。僕はプロテスタント教会に通っているので、昨日の礼拝はいつもどおりでした。ローマ法王は世界に対して大きな影響力を持っていました。いや、いまはあえて持っているというべきでしょうか。世界中から大勢の人々がバチカンに訪れているようです。多くの人にとって特別な出来事だったのだということがよくわかります。 しかし、死とは誰にでもありますし、すべての存在は重要なものです。彼だけが重要だというわけではありません。神はすべての人を愛しておられます。確かに法王は社会的な階級でみれば重要な人であることは間違いありません。しかしすべての人と変わらず、同じ人です。神の目に法王は大切で、他の人は大切ではない、ということはありません。おそらくヨハネ・パウロ2世が法王でなかったらどうだったでしょう。老人が亡くなった、と村で情報が流れた程度だと思います。この世では社会的身分に上下の差があります。しかし、全ての人がいのちにおいて等しいことを改めて覚えなくてはいけません。 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、 永遠のいのちをもつためである。 >>ヨハネによる福音書 - 3:16 神はこの世全体を愛しておられます。だから、罪の支配から抜け出すことができるようにキリストを遣わされたのです。
2005年04月04日
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現代人、特に若者はキレやすい、とよく言われます。「切れる」という言葉はそもそも頭の回転がいいことを指すはずです。主にカタカナ表記の「キレる」は怒ることです。おそらく「堪忍袋の緒が切れる」という言葉を略したのだと思います。最近は程度はどうであれ、単純に「怒る」という意味で使われている気がします。どうであれ略されるということは頻繁に使われているということです。つまり人の持つ寛容さが失われてきたということではないでしょうか。それは現代社会に蔓延するストレスのせいでしょうか。その理由は何であるにしても不寛容は何も生みません。人間関係を破壊するだけでネガティブなものです。 僕がアメリカへ行った時、お世話になった宣教師がいます。もちろん日本にいた時も信仰上でも英会話指導でも大変お世話になりました。彼女は在日牧会中、教会でこういうことを言いました。 人が怒る時、その人は感情に支配されることを選択しています。 しかし、その人には同時に怒らないという選択肢も与えられています。 怒りの感情は敵意があるからこそ沸き起こって来ます。その時、その人にとって怒りの対象とは敵であるわけです。彼女はまたこんなことも話してくれました。 宣教師の友人が見知らぬ若者に殴られたことがありました。 その理由は非常に不条理なものでした。 そして彼は大衆の前で屈辱を受けたのです。 しかし彼はやり返すことはなく、その後も怒ることさえしませんでした。 彼は心のうちですでに彼らを赦していたからです。 ちなみに僕は彼女が怒っている姿を見たことがありません。僕が幼い時から彼女のことを知っていますが、いつも笑顔です。聖書にはどうすべきだとあるでしょうか。 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。 「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。 七度まででしょうか。」 イエスは言われた。 「七度まで、などとはわたしは言いません。 七度を七十倍するまでと言います。」 >>マタイによる福音書 - 18:21-22 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。 あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。 あなたをのろう者を祝福しなさい。 あなたを侮辱する者のために祈りなさい。 >>ルカによる福音書 - 6:27-28 お互いに親切にし、心の優しい人となり、 神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、 互いに赦し合いなさい。 >>エペソ人への手紙 - 4:32 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、 かえって祝福を与えなさい。 あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。 >>ペテロの手紙 第1 - 3:9 怒りの気持ちを抑え、相手を赦すことは本当に難しいことです。神は人が弱いことも御存知であり、このような配慮もしてくださっています。 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。 それは、こう書いてあるからです。 「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 >>ローマ人への手紙 - 12:19 人が人を裁いてはいけません。人を赦すこと、敵を愛すること、これは本当に難しいことです。口で言うのは簡単ですが、行いをもって相手を赦せる人になりたいものです。これは僕の生涯における課題といえます。
2005年04月03日
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