文の文

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sarisari2060

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2004.09.11
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詩人のねじめ正一さんがテレビで自作の詩を朗読して、「子供たちは56歳の中年のおじさんが一生懸命発する言葉に反応する」と言った。

それは「言葉の関節をはずす」とかいうテーマで、言葉の繰り返しから生まれる感覚が詩には大事だ、とかいう話だったのだが、それはそれで頷くとして、「56歳の中年」というフレーズが、どうもひっかかる。

56歳は中年だろうか。わたしの感覚では初老なのだが。詩人は長生きするつもりだから、そういう感覚になるのだろうか。あくまで個人的なことなんだろうか。

先だってカルチャーに「焼きなす」という作文―初老のタクシー運転手の話―を提出したとき、高井先生に初老とは何歳のつもりで書いたのかと問われた。

「60歳前」と答えたのだが、先生は「昔の辞書には、初老とは不惑の別称と書かれています」と言った。40歳は中年ではなく初老だったのだ。

人生が50年で終わった時代には、なるほど40歳は老いはじめる年齢なのかもしれない。老いを迎える心構えをここらへんから始めよ!ということなのかもしれない。

では医学やら栄養やらの進歩で、人生がその倍近くに延びてしまったような時代にひとは、いつから老いを意識するのだろう。

きっと、人生の設計図の縮尺割合がどんどんかわってきてるんだろうな。

テレビを見ていると、時々、ひとびとは老いを迎えることを拒んでいるかのように思えたりする。



若く見えることが良いことだという価値観は年をとることへの嫌悪に繋がるようだ。メーキャップする大統領とか政治家を見ているといよいよそんなふうに思えてくる。

わたしにはそれがなんだか違和感なのだ。

それってうまく年を取ることではなく、自分だけは年を取りたくない、とだだをこねて何かにしがみついているだけような気がしてならないのだ。

生長するということが目指すのは、死ぬことではなく、その過程で何を得たかってことで、気取っていうなら、その得たものの豊かさが年を取る意味なのではないのかなあ。

団塊の世代の前後は断絶の世代でもあって、それまでの日本人の土台にあった価値観を受け継がず、良くも悪くも独自の価値観を作ってきたひとびとなのだと思っている。

彼らにはよいお手本がないから、うまく老いを迎えられないのではないかと思ったりするのは、谷間の世代のひがみだろうか。

年寄りは年寄りらしく引っ込んでろ!と言ってきたひとたちが年寄りになって、ずっと引っ込まないのはずるいよね。

年寄りに寄り添ってこなかったから、年寄りの思いがわからないのだろうな。わからないからどこかおそろしくて否定してしまうんだろうな。自分が余計なもの、のけものになってしまうという予感がこわいんだろうな。彼らはいつも真ん中にいたから。

なんてことをうだうだというのはまだまだ青いのかもしれなくて、もっと年齢を重ねたら、それもまたよし、といえる包容力が身につくのかなあ。・・わからんな・・。





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Last updated  2004.09.11 10:04:14
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