1

【フェイクシティ~ある男のルール~ 】「それでワシントンと俺を殺そうとしたのか!? 壁の(内側に隠した膨大な)金を増やすために?」「俺たちの金だ。チームの金だ。シルキーの弁護料もここから出た。お前の老後資金もだ。不備な制度を是正したのさ。お巡り同士が助け合って暮らしていける(中略)」「“悪者を捕まえる”って役目は?」「人間は皆、性悪さ」キアヌ・リーブスという役者さんは、自分がどんなキャラクターを演じれば視聴者が喜ぶのかを実によくわきまえている人物だと思う。作品を観る前から何となくキアヌの演じるキャラや設定が見えてしまうのも、おそらくその辺りの所以であろう。作品冒頭部、キアヌ演じるラドローがコンビニでウォッカのミニボトルを購入し、それをあおるように飲みながら運転するあたりからして、アウトローな刑事であることをムンムンに漂わせている。しかし、このあたりの演出はサスペンスモノやスリラーモノには欠かせない物語の導入部であるため、何か“ワケありの刑事”風情を出すにはまずまずの成功と言える。ロス市警のラドロー刑事は、正義のためなら手段を選ばないタフな男。強引なやり口で事件解決に導いていくため、多大な被害も避けられない。そんな時、上司のワンダー警部だけはラドローをかばい、尻拭いをして来た。ある日、かつてのパートナーであったワシントン刑事が、ラドローの行き過ぎた捜査を密告しているとワンダーらから聞く。ラドローは真相を知るためにワシントンを尾行するが、その途中、強盗事件に巻き込まれワシントンは撃ち殺されてしまうのだった。内容的には特に目新しさはないものの、出演俳優たちの顔ぶれには胸が躍った。ワンダー警部役のフォレスト・ウィテカーは、言わずと知れたオスカー俳優で、この役者さんがほほ笑みを浮かべただけで何か黒い影が見えてしまうのは何故だろう?(笑)唾を飛ばしながら自論を展開するシーンなど、あまりのパラノイアぶりに驚かされる。 それほどの存在感、そして演技力に脱帽なのだ。ここのところサスペンス映画から離れていたためか、久しぶりに引き込まれるような楽しさを覚えた作品であった。2009年公開【監督】デヴィッド・エアー【出演】キアヌ・リーブス、フォレスト・ウィテカー
2014.03.16
閲覧総数 652
2

【ミステリーの系譜/松本清張】◆人は気付かぬうちに誰かを傷つけているちまたの推理小説家の中でも、群を抜いて優れているのが松本清張である。松本清張の緻密な資料集めと分析能力、それに現場百ぺんの徹底したリアリズムは、たいていのミステリー好きな読者の度肝を抜く。頭の中でちょこちょこっとこしらえた非現実的なドラマとは、まるで違うものだ。だから事件を大げさに煽る修飾的な言葉もなければ、余計な主観を読者に植え付ける描写もない。とにかく淡々と冷静に、時系列に沿った文体なのだ。犯罪は犯罪であり、同情をかってはならず、それ以上でもそれ以下でもいけないということなのだろう。『ミステリーの系譜』は、「闇に駆ける猟銃」「肉鍋を食う女」「二人の真犯人」の3篇が収められているが、3つとも大正、昭和史に残る犯罪実話である。「闇に駆ける猟銃」は、映画『八つ墓村』のもとになったもので、無論、ノンフィクションだ。昭和13年の岡山県津山で起きた、いわゆる“津山事件”で、当時21歳の犯人が、その日のうちに村人の28人を死に至らしめ、他に重傷死2人、重軽傷2人という大量殺人行為をはたらいたものだ。犯人は健康上の悩みを抱えていたようだが、どうやら本人の被害妄想、自意識過剰から来るもののようで、医学的にはさほどのことはなかったようだ。性格はいわゆるネクラタイプで、対人関係が苦手だった。とはいえ、農村にはこの手の晩生な青年は珍しくもなく、これといった異常性を見出すことはできない。学業は優秀で、容姿も悪くなく、むしろ色白の美青年だったようだ。松本清張の着眼点がスゴイと思うのは、このようにどこにでもいそうな、平凡でありふれた青年が短時間でこれほどの大惨事を引き起こす可能性があるのだという事実に注目したことだ。犯人に前科があるわけでもなく、田舎の農村を舞台に、ある日突然、降ってわくのだ。 この日常生活に潜む、どうしようもない不気味な現実は、過去のことではなく、現在を生きる我々にも同様の危険が孕んでいることをうかがわせる。「人はだれでも他人からの日常的な被害感を持っている。悪口、軽蔑、中傷、妨害・・・それは“加害者”が気づかぬくらいに作為のない、些細なことであっても、受けた側の精神的な傷は、存外に深いものである」私たちは知らない間に誰かを傷つけ、苦しませているのかもしれない。だとしたら自分の言葉に責任を持つことで、無用な噂話や無駄口は慎むべきだろう。誰かの耳に入った時、あるいは復讐に燃え滾るその人物から、腹部と乳房に貫通銃創を受けるかもしれないので・・・。『ミステリーの系譜』松本清張・著~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る!
2012.10.16
閲覧総数 236
3

「教えて下さい。聞きづらいのですが・・・あなたの娘さんは23年前に亡くなりました。でもあなたはここにいる。部屋も当時のままです。・・・どうしてなんですか? 私の家内も5ヶ月前に・・・。でも泣けません。変ですよね・・・」「刑事さんは知りたいのね、なぜ私がこうやって生きてるのか・・・。でも自分でも分からないの」この作品の冒頭では、幼児性愛の性癖を持つ二人の男が、いかがわしい8ミリフィルムを見ているシーンから始まる。もうすでにこの冒頭部からして、かなり深刻なドラマを想像させるのだから、作品としての完成度は高い。事件は、人っ子一人いない真昼の麦畑で犯行に及ぶ。静寂とした空間で、聞こえてくるのは被害者少女のバタバタともがく音、うめき声。これがまた一層残酷さを際立たせるのだ。この作品はおおむね孤独をテーマにしたものだとは思うが、犯罪の質が特殊で、いたいけな少女が犠牲者となっているプロットを考えると、視聴者を選ぶ内容になっている、と思われる。(決して過激な映像があるわけではないのだが・・・)23年前、ゾマーとティモは、赤い車に乗って田舎道をドライブしていた。その途中、自転車に乗る11歳の少女ピアを見かける。ゾマーは、麦畑の人気のないところまで自転車を追いかけると、ピアを押し倒し、暴行に及ぶ。ところが必死で抵抗するピアに思い余って、ゾマーは石で殴り殺してしまうのだった。 車内で一部始終を傍観していたティモは、恐怖に脅え、ゾマーのもとを去ることにした。 その後、ティモは結婚して姓を変え、建築デザイナーとして成功し、家庭も持っていた。 そんな悪夢も風化して久しい23年後、全く同じ場所の同じ日付で、13歳の少女ジニカが失踪する事件が起こった。事件をテレビのニュースで知ったティモは、ひどく動揺するのだった。この作品に登場する様々なキャラクターの持つ背景は、かなり興味深いと思った。まず、事件を担当するダーヴィッドという刑事だが、5ヶ月前に妻を亡くしていて少し神経を病んでいる状態だ。また、この事件を23年前に担当し、定年を迎えたクリシャンという元刑事が、被害者の母親と仲良くなり男女の間柄になる。さらに、ダーヴィッドの同僚である女性刑事ヤナは、臨月近い妊婦で、歩くだけでも難儀な状態。だがそんな身重の体で、目撃された犯人の乗る車種の割り出しのために、一軒一軒聞き込みに回るのだ。こういう登場人物が、様々な思惑と絡み合って物語が重厚さを増していく一方で、今一つの感も否めない。ドイツ映画であることを考慮してみても、可もなく不可もなくと言ったところだ。2010年(独)公開 ※日本では劇場未公開【監督】バラン・ボー・オダー【出演】ウルリク・トムセン、ヴォーダン・ヴィルケ・メーリングまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.11.13
閲覧総数 1325
4

【レッド・オクトーバーを追え!】「私もこれに似た故郷の川で祖父から釣りを習った。“海は人々に新しい希望をもたらす”“眠りが夢を運ぶように”・・・コロンブスの言葉だ。」「新しい世界へようこそ。」冷戦時代末期、当時ソビエトの体制に不満を抱くインテリ層は、こぞって西側へと亡命を果たした。映画はそんな社会的世相を鋭く反映しているから頼もしい。この作品「レッド・オクトーバーを追え!」も、ソビエト海軍の優秀な逸材である艦長が、多くは語らないけれども国家に対する何らかの不満を抱き、アメリカへ亡命するという内容だ。まぁ製作者がアメリカ人なので、西側に肩入れしているのは仕方ないとしても、事実、当時東側からの亡命はある種の社会問題にまでなったのだから否めない。いよいよ社会主義体制の崩壊を予感していたに違いない。(無論、資本主義体制が完璧であるとは言えないけれど。)ソビエト海軍の最新鋭ミサイル原子力潜水艦レッド・オクトーバー(※)が、ムルマンスク港を出航。艦長は、世界の軍事関係者の誰もが一目置いているマルコ・ラミウスであった。だがラミウスは、ソ連の体制に不満を持ち、アメリカへの亡命を画策していた。一方、アメリカではソ連軍の動きを警戒し、レッド・オクトーバー撃沈の命令が下されようとしていた。しかしCIAアナリストであるジャック・ライアンは、ラミウス亡命の意図を読み、命を懸けそして英知を持ってラミウスと連絡を取ることに成功する。映画というのは大衆の娯楽でありながら、同時に社会史の記録でもあるのだとつくづく感じた。1990年に公開されたこの作品を、20年近く経過した現在観たところで、この物語の背景を知らなければまずピンと来ないだろう。多くの映画に馴染み親しんでいる若き視聴者の皆さんは、こういう作品とたくさんめぐり合って、その歴史を知ることで映画のテーマを探っていただきたい。日本史・世界史離れと言われて久しい現代、せめて映画というメディアを通じて楽しく歴史を学んでいこうではないか。映画が永遠に大衆娯楽であり続ければ、自然とそこに“政治性”“社会性”が絡んで、我々にとって最も親しみ易い教材と成り得るに違いないからだ。※レッド・オクトーバー・・・「十月革命」にちなんで付けられた名前。【参照:ウィキペディア】1990年公開【原作】トム・クランシー【監督】ジョン・マクティアナン【出演】ショーン・コネリー、アレック・ボールドウィン
2009.01.13
閲覧総数 1283
5

【江戸川乱歩/幽霊塔】◆黒岩涙香の翻案を乱歩が再創作もともと推理小説とか怪奇小説というジャンルは、通俗小説の筆頭にあげられるものである。そのため、作品としての評価が今一つ盛り上がらないのは致し方ない。言わずと知れた江戸川乱歩は、西洋と比べると立ち遅れていた日本の創作小説というものを確立した人物であると言っても過言ではない。かの大谷崎も、江戸川乱歩の描くおどろおどろしい世界観に早くから目をつけており、高く評価している。日本人が実は、根っからのエロ・グロ好みである気質を、鋭く見抜いていたという点では、江戸川乱歩は谷崎に勝るとも劣らない文士なのだ。江戸川乱歩といえば、『怪人二十面相』に始まる少年読み物が代表作であるのは疑う余地もないことだが、昨今でも一般読者の圧倒的な支持を集めるのは、この『幽霊塔』である。この作品はもともと黒岩涙香の翻案したものを、さらに乱歩が再創作した小説である。〈※ウィキペディア参照〉巻末にある乱歩本人による注釈だと、当時はこの黒岩涙香の翻訳した原作というものが分からなかったとのこと。だが最近になって原作が判明。アリス・マリエル・ウィリアムソンによる『灰色の女』がベースとなっているようだ。 『幽霊塔』のあらすじはこうだ。舞台は長崎の片田舎、K町。時代は大正初期。主人公・北川光雄の叔父が、時計塔のそびえる古風な西洋館を地所ごと買い取った。光雄は改築を命じられ、はるばる下見にやって来たのだ。ところがこの西洋館には、幽霊が出るといういわくつきの物件だった。というのも、もともとの持ち主は徳川末期の大富豪渡海屋市郎兵衛で、維新前の物情騒然たる時世ゆえに財宝の隠し場所としてからくり部屋を作ったところ、出入り口が分からなくなってしまい、そのからくり部屋で巨万の富とともに絶命した。その非業の死が悲痛な魂となって屋敷内をさまよっているという伝説が、まことしやかに囁かれていた。その後、時計屋敷はお鉄婆さんという老婆の持ち物となったのだが、いっしょに住んでいた養女に殺されるという悲運な最期を遂げた。このような因縁めいた屋敷に不安を覚えつつ見回っていたところ、光雄は突然、美しい女性と出くわす。それはそれは神秘的で、凛とした美しさを持つ、野末秋子という女性だった。秋子はなぜか時計屋敷について詳しく、大時計の巻き方なども知っており、持ち主である光雄の叔父にも挨拶がてらその旨、教えたいとのこと。こうして光雄は、秋子に対して深い詮索もせず、その魅力的な美貌から、徐々に気持ちが秋子の方へと傾いてゆくのだった。内容は古めかしく、時代性を感じさせるものだが、登場人物の善悪がハッキリ分かれているし、不透明感のない結末は、読後、清々しい。ラストでこれだけ後日談がきちんと語られていると、本当の意味でのハッピーエンドを味わえる。とかく社会派ミステリーなどにはつき物の、絶望的な後味の悪さは、乱歩の描くこの作品には皆無である。怪奇小説、スリラー小説は苦手だという人も、この『幽霊塔』なら、あるいは最後まで楽しめるかもしれない。『幽霊塔』江戸川乱歩・著(原作・アリス・マリエル・ウィリアムソン『灰色の女』より)☆次回(読書案内No.115)は寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.03.01
閲覧総数 501
6

【葉室麟/散り椿】◆清く正しく美しく生きる姿に、胸が熱くなる。私は今年44歳になったが、中学時代の恩師とはいまだに年賀状のやりとりや、たまのメール交換などをしている。定年を前にした恩師は、これまで以上に読書の幅を広げ、心の琴線に触れるような作品と出合った際には教え子に惜しみなく紹介していこうと思っているようだ。最近、久しぶりに届いたメールにも、やはりお勧めの一冊についての感想が寄せられていた。それが葉室麟(はむろ・りん)の『散り椿』である。もしかしたら私が、「歴史・時代小説が好き」だと言ったことがあるのを覚えていたのかもしれない。だとしても純愛をテーマにしたこの『散り椿』という小説は、恩師がこの一冊としてエントリーした作品に相応しいものだとつくづく思った。 著者の葉室麟は、北九州市小倉の出身で西南学院大学卒である。『銀漢の賦』で松本清張賞を受賞し、『蜩ノ記』で直木賞を受賞するという飛ぶ鳥を落とす勢いのある作家なのだ。(ウィキペディア参照)この小説を何の先入観もなく読んでいると、もしや著者は平成の新鋭か?と思ったりする。それぐらい文体がみずみずしく、しかも純朴な感性に心を打たれるからだ。ところがプロフィールによれば1951年生まれ、御年64歳。いや、驚いた。 あらすじはこうだ。瓜生新兵衛は、ゆえあって故郷を離れ、愛妻の篠とともに京都の地蔵院に身を寄せていた。病床に臥す篠を一生懸命に介護するものの、その甲斐もなく、篠は亡くなってしまう。新兵衛は生前、妻と約束したことを果たすべく、故郷へと帰藩したかつて一刀流道場の四天王と呼ばれた勘定方の新兵衛は、その実直さから上役の不正を訴え、藩を追われていたのだ。帰る家のない新兵衛が身を寄せたのは、篠の妹である坂下里美のもとだった。里見の夫・源之進は、新兵衛の旧友であり四天王の一人だったが、無実の使途不明金を糾問され、自害していた。里見と源之進には一人息子である藤吾がいたが、父親の二の舞にはなるまいと、殖産方として日夜励んでいた。そんな中、藤吾にとっては伯父に当たる新兵衛がやって来たため、心中、穏やかではない。18年も前とはいえ、追放になった親戚が訪ねて来ようとは、はた迷惑な話だと思うのだった。そんな藤吾の複雑な心境をよそに、母の里見はかいがいしく新兵衛をもてなし、新兵衛もまた遠慮のない気さくな態度で接していた。一方、藤吾には秘かに武士として尊敬している人物がいた。それはやはり四天王の一人である榊原采女で、新兵衛の旧友だった。采女は冷静沈着にして容姿端麗。いずれ家老にまで昇りつめるのは間違いないと見られていた。その采女が、実は新兵衛の妻である篠にずっと想いを寄せており、いまだ妻を娶ることのない独り身であることを、藤吾は知ったのである。 『散り椿』は時代小説なので、厳密に言えば歴史考察に難のある個所はそれなりにあると思われる。だが、それで良いと思う。その時代を必死に、懸命に生きる人々を生き生きと自在に描くことに意義があるからだ。現代人には忘れがちな純粋さや素朴さが際立って美しくよみがえる。不正を良しとせず、まじめに生きようとする者が追われる世の中であってはならない。清く正しく美しく生きる姿に、胸が熱くなる。父から息子への代替わり、純粋な恋、不正を許さぬ誠実さ、すべてがドラマチックに描かれている。藤沢周平の筆致にも似ているかもしれないが、葉室麟の方がやや現代的で、若い世代にも受け入れられ易いかもしれない。 「読む本がない」と嘆いているあなた、「感動したい」と切望しているあなた、ぜひともこの作品をお勧めしたい。必読の書である。 『散り椿』葉室麟・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.12.19
閲覧総数 428
7

【松浦理英子/ナチュラル・ウーマン】◆生殖行為から解放された進化形の恋愛これまでボーイズ・ラブ的な小説は何冊か読んで来た。映画(イギリス映画)においても、フォースター原作の『モーリス』など、それはもう耽美的で、うっとりしてしまったものだ。だが年齢とともに、そういう同性愛のお話には限界を感じて来た。自分なりにあれこれ考えてみたのだが、やはり友情としての域を超えてしまった時点で、それは異空間のお話になるのだ。人は、作中の登場人物に何らかのシンパシーを感じないと、なかなかその作品に入って行くことができない。つまり、私に同性愛嗜好がない限り、その小説は私にとっての恋愛小説とはなり得ず、ファンタジーかオカルト的な作品に思えてしまうわけだ。なぜそれが若いうちには受け入れられたのかは、今ならなんとなく分かる。おそらく女性としての性からの逃避ではなかっただろうか?もちろん、興味本位もあったことは確かだが。そんな中、『ナチュラル・ウーマン』を読んでみた。これはボーイズ・ラブとは対極にある、女性の同性愛を扱った小説である。いや、これには驚いた。自分がいかにその方面(?)に疎いか、思い知らされた。女性が女性のまま女性を愛するプロセスを小説にしたものだが、友情とはベクトルの向きが全く違うのだ。つまり、正真正銘の恋愛なのだ。だが私は、つまらない疑問を抱いてしまった。そもそも女性同士が愛し合う(?)ことって、あり得るのだろうかと。心配無用。その疑問は、読了後にすっかり払拭された(笑)話はこうだ。22歳の容子は、サークルで知り合った花世に夢中だ。ある時、容子は花世のアパートに一緒に帰ることになった。そしてそこで、二人は官能的な愉しみを覚えることになった。花世はクールで知的で誰にもたやすく心を明け渡すことのない、誇り高い女性だ。そんな花世を好きになる男は多く、何人か交際したが、長続きしなかった。一方、容子もそれなりに男から声をかけられ、一応付き合ってみたものの、余りの退屈さにうんざりしてしまった。友人たちの恋愛話を聞いても、羨ましさを感じることはなく、おそらく自分は一生恋愛しないに違いないと思い込んでいた。ところがサークルに入会し、花世と出逢ったことで、恋愛の対象が同性である花世であることに気付いてしまったのだ。この作品は官能小説ではなく、性愛小説だ。ものすごく実験的なものを感じるし、男女間では感じにくい、耽美的で、しかし貪欲な性の愉しみを垣間見ることができる。また作中、男性の登場人物は皆無で、ほとんどが女性だ。生殖を伴わない、生殖行為からの解放は、女性解放にもつながる。何やら私は物凄く進化形の恋愛を見たような気がするのだが、みなさんはこの異色の作品をどう捉えるでしょうか?『ナチュラル・ウーマン』・松浦理英子著☆次回(読書案内No.65)は山崎豊子の『花のれん』を予定しています。コチラ
2013.05.01
閲覧総数 361
8

【宮廷画家ゴヤは見た】「“修道士”ロレンゾ、わかってほしい。君への恨みはない。公平に裁きを下す。君は・・・邪悪で汚れた思想の化身となった。“人間は神より偉大だ”などと公言し、“福音書はデタラメで有害だ”とも言った。二度と再び同じ罪を繰り返してはならない。よって教会は君を有罪と認め、罰として死刑を言い渡す。しかしもしも君が悔い改めるなら、教会は慈悲を持って命を助けよう」この作品について語る前に、少しだけゴヤのお勉強。ゴヤは18世紀スペインの画家で、ロココ風の装飾的画風で人気を得た。また宮廷画家として多くの肖像画を残している。しかしその一方で、混沌とした時代を生きたゴヤは、戦争によって無惨に殺戮された民衆や、犬・猫のように犯された女性たちなど、人間の残忍性を赤裸々に表現した版画も残した。その流れは、現代画家(ニュー・ウェーヴ)によって度々引用されている。さて、本作ではこのゴヤを取り巻く歴史的事柄を、重厚な演技とムダのないストーリーで、我々にじわじわと歴史の重みを語ってくれる。時代は18世紀、スペインのマドリード。当時のカトリック教会は失墜しかけている権力を取り戻すために躍起になっていた。その一つに、ユダヤ教徒などの異教徒をムリヤリ探し出しては異端審問にかけ、拷問を繰り返していた。ある日、裕福な商人ビルバトゥア家の令嬢イネスが、兄弟とともに居酒屋で豚肉を食べなかったと言うだけで異端の疑いをかけられる。ビルバトゥアは何とかして娘を助けたいと、スペイン王室の宮廷画家ゴヤに、修道士ロレンゾとの面会を依頼するのだった。一方、獄中のイネスは、裸のまま鎖に繋がれ、ロレンゾの慰み者になっていた。「ノーカントリー」でもおなじみのスペイン人俳優のハビエル・バルデムは、やっぱり天才だ!この独特なインパクトのある容姿も手伝ってか、この役者さんが登場するだけで何かよからぬ企み、あるいは陰鬱なものを感じさせるから不思議だ。何と言っても彼の存在感は、他の追随を許さない不思議な魅力の持ち主なのだ。さらに、ナタリー・ポートマンも役柄に合わせてげっそりとやせ細り、貧相な体つきで正気を失ったしぐさなど、もはや演技の枠を越えていた。久しぶりの歴史ヒューマンドラマを鑑賞後は、思わず現代を生きる自分を、つくづく幸せに感じた。おすすめの秀作である。2006年(西)、2008年(日)公開【監督】ミロス・フォアマン【出演】ハビエル・バルデム、ナタリー・ポートマン、ステラン・スカルスガルド
2014.02.18
閲覧総数 210
9

『しょうがねぇなぁ』9月21日は、古今亭志ん生師の40回目の命日であった。お亡くなりになられて早40年になるのだ。彼岸の時に彼岸にいかれるとは誠に志ん生師らしいではないか。心中の落語でたしかこういうクスグリがあった。花魁との心中を決意した金公は今生の暇乞いにまわる。「旅に出る」と言う金公に親方は問う。「いつ帰ってくるんでぇ?」そして金公はこう応えるのだ。「彼岸時分」最後の最後まで落語を地でいった感じがして見事だと思う。「志ん生に間にあった」世代のシッポに属する身としては、そういうところに特別な感慨を抱くのだ。だから、気のせいか彼岸時分に聞く志ん生師は事のほか熱を帯びて感じる。余計なお世話かもしれないがこの時分の怪談は禁じ手である。ゾクゾクッとし過ぎるのだ。彼岸時の志ん生師は滑稽噺につきる。我ながら凝り性なもので(笑)、そこへ持ってきて矢野誠一さんの著著で「五代目古今亭志ん生師くらい多くの人びとによって、その藝と人について書き記された例をほかに知らない。」という一文をかつて目にしてから、志ん生師に関する文献を読み漁ったがいまだ尽きない。馴染みの図書館では絶版となった志ん生師の関連書物が宝の山になっている。幸か不幸か同好の志もいないようでいつでも好きなものを借りられるのがうれしい。そしていままでに読んだ文献を通してふたつの感想をもった。ひとつは、人それぞれにそれぞれの志ん生師がいる、ということ。もうひとつは、志ん生師は噺に頻出する『しょうがねぇなぁ』にすべて尽きる、ということである。最初の一つは山頭火と比肩できること大なのだ。これについては、まだ書物が出ていないようであるから一考の余地ありだと内心思っている(笑)。結構な比較論を展開できそうだ。まあ、意義はさほど認められないのだが(汗)二つ目は即ち志ん生師を解くキーワードである。志ん生師の落語やその人生を考えるとき、現代で今の常識にあてはめてそれを考えるのは、今を普通に生きる我々には理解と想像をおおいに超えるのである。それこそが志ん生師と並の落語家の違うところなのであるが、そこの理解なくして志ん生師の落語は納得できないのだ。それを解くのが『しょうがねぇなぁ』である。何だかわかったようなわからないようなことを言って申し訳ないのだが、そういうことなのである(笑)詳細は後日お伝え致したいと思います(^^)v(わかったようなわからないようなお話ですがね♪)そんなことで(笑)、五代目古今亭志ん生、噺はモチのロンで関連文献(落語筆記本、志ん生師口述筆記もアリ)も読んで面白く飽くことはない。ところで21日は宮沢賢治の命日でもあった。賢治がとてつもなく素晴らしい人であればあるほど、志ん生師との乖離(というより落差か・笑)を感じ、それも落語っぽく感じ、何より亡くなった日が賢治と同じくすることも志ん生師らしいではないか。そして命日が落差ならコチラも落差。賢治の命日を扱った新聞のコラムは何社もあった。去年もそうでありはっきりと記憶している。惜しむらくは、というか当然かもしれないが、志ん生師の命日を扱ったコラムはひとつもなし!これまた志ん生師っぽくなくでもないが、シッポとはいえ「志ん生に間にあった」世代としては少し不当な扱いを感じなくでもないのだ、残念。『しょうがねぇなぁ』ひとりごち、空にむかって手を合わせるのであった。
2013.09.23
閲覧総数 166
10

秋風や眼中のもの皆俳句 高濱虚子そうはいってもナカナカ一句が浮かびません(汗)素材豊富なれども、素養貧弱なり(涙)それから・・かの斉藤茂吉氏は一首に数週間も苦吟したそうな!吟遊映人は、そんな根性もありません(笑)ちなみに正岡子規先生はと申しますと、秋は物凄い数の俳句を残しています!!どれくらい凄いかというと、「秋の風」だけでも読み耽ったら半日は費やしてしまいそうな句数なのです(汗)少しご紹介しますと・・『何とせん 母痩せたまふ 秋の風』明治27年末は逆縁の身ながら、ご母堂の健康を気遣う子規なのであります。もの悲しさを誘う一句です。『馬の尾に 仏性ありや 秋の風』明治34年晩年ゆえ、病床で詠んだ一句でしょうか。経典の「質直意柔軟 一心欲見仏」の一節を想起させ、病にやつれつつも心穏やかに句作に励む子規の心情を感じました。そして最後に一句。『さらばよ君 明日はいづこの 秋の風』最晩年の句ではありませんが、こうやって並べると子規の達観が感じられ、あらためて子規先生の偉大さを感じたのでありました♪さて、ここで一句・・・が、出てこない(悲涙)
2012.09.25
閲覧総数 108
11

【 小野正嗣 / 九年前の祈り 】先月、久しぶりに友人のMさんと会った。お互い県内の西と東に分かれて住んでいるため、そうそう会うことは叶わない。今回は、県内の中部に当たる静岡で待ち合わせをし、久能山東照宮に参拝に行って来た。お互い、御朱印を集めてホクホクする仲なので、バスやロープウェイを乗り継いで行くのも厭わない。天気にも恵まれ、足取りは軽やかだった。国宝にも指定されている社殿を前に、私たちは帽子を脱ぎ、賽銭を投げ、柏手を打って、頭を垂れた。すんなりと頭を上げてしまった私の横で、Mさんはまだ頭を下げていた。一体何を祈っているのかは分からない。だが私の脳裏には、彼女のたった1人の息子さんのことが、ふと、過ぎる。息子さんは重度の知的障害者だった。その日は息子さんをデイサービスに預け、お迎えはご主人に頼んで、静岡までやって来たのだ。そんな折、私は小野正嗣の『九年前の祈り』を読んだ。あらすじは次の通り。今年35歳になるさなえは、息子の希敏(ケビン)を連れて、九州の田舎に戻って来た。希敏は少し他の子どもとは違い、スイッチが入ると大声で泣き叫んだ。まるで不当な酷い仕打ちを受けているかのように。そんな中さなえは、経済的にも心理的にも母子2人で東京で暮らすことに限界を感じていたのだ。九年前、国際交流のため町にやって来たカナダ人のジャックの案内で、カナダ旅行へ行くことになった。旅行メンバーは、町の社協職員と特養に勤めるヘルパー仲間だった。旅行は皆でワイワイ楽しかったが、移動で利用した地下鉄でハプニングが起きる。土曜日の午後ということもあり、地下鉄は混雑しており、仲間の2人を見失ってしまったのだ。皆を案内しているジャックは、友人のフレデリックと話し合い、ジャックだけ逸れた2人を探しに行くことにした。そして残った皆はフレデリックに連れられ、いったん地上に出て、ジャックが逸れた2人を連れ戻って来るのを待つことにしたのだ。そして、ふと目にした教会に、吸い込まれるように入っていった。そこではクリスチャンらしき人々が祈りを捧げている。さなえを始めとする日本人も、そのマネをして、一刻も早く逸れた2人が見つかるように祈りを捧げる。だがその中の1人、みっちゃん姉だけは、みんなが祈りを済ませてもまだ祈り続けていた。さなえはその長く祈りを捧げるみっちゃん姉の姿を、九年後になっても忘れられず、記憶として鮮明に残っていた。希敏の父親というのは、この時、カナダ旅行の現地で案内役を務めてくれたジャックの友人フレデリックであった。作者の小野正嗣は、1970年生まれ、大分県出身。東京大学教養学部卒。本作『九年前の祈り』で第152回芥川賞を受賞している。代表作に、三島由紀夫賞を受賞した『にぎやかな湾に背負われた船』がある。私と同世代ということもあるのか、内容がすんなりと頭に入って来て、琴線に触れるものがあった。文体は上品でしかも丁寧。おそらく第3の新人と呼ばれる戦後の新しい作家群の作品を読み耽ったのではなかろうか?祈りが単に願望、欲望の域を出ないものであったとしてもなお、人間が人間であり続けるための営みを描いた遠藤周作の『深い河』に通じる何かを垣間見た気がする。私は『九年前の祈り』を読み始めたとき、すぐに思い浮かんだのは、共生・共存への理解というテーマだった。例えばそれは外国人との共生だったり、発達障害などの様々な要因に対する理解、あるいは支援。言わば福祉の観点から描かれたヒューマン・ドラマなんだろうと推測していた。だが違った。それはモントリオールの教会で、みっちゃん姉が誰よりも長く祈り続ける姿を見た主人公のさなえが、九年後の未来に自分の姿と重ね合わせるところで理解する。みっちゃん姉には一人息子がいて、その息子は普通とは少し違っている。さなえにも希敏がいて、やはり普通とは違う。母と子の絆と言ってしまえば聞こえはいいが、キレイゴトとして捉えられてしまうので、この際もっと露骨に言ってしまおう。これは、切っても切れない縁、言わば因果なのである。そこにある事実から目を背けることはできない。そしてどうすることもできない状況に直面したとき、人々は跪き、祈りを捧げる。信仰心や奇跡を起こそうというものではない。もはや人間にとって最後に残された手段、それが「祈り」なのだと。私は、主人公のさなえが九年前に目にしたみっちゃん姉の祈る姿をずっと覚えていたと言う意味が、九年後になって初めて(点と線が)繋がったと思った。人は成長する。年月とともに変化し、物事を柔軟に受け入れるようになる。『九年前の祈り』は、人が祈りを捧げるときの本来の意味を教えてくれるものである。追記: 文庫本では、本作以外に『ウミガメの夜』『お見舞い』『悪の花』の計4編が収められている。これらはどうやら一本の線で繋がる関連した作品に思える。どの作品にも人間の深い業が描かれているものの、悪人は登場しない。『九年前の祈り』小野正嗣・著(講談社文庫)第152回芥川賞受賞作品 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ どうも、筆頭管理人です。記事とはまったく関係ありませんが、吟遊さんから「このごろ熱中しているもの」を二つお聞きしました。傑作でしたので、皆さんにもご披露しますね(^_-)その一、当初は「そんなの努力義務でしょ」と鼻で笑っていた吟遊さんですが、思うことあってヘルメットを購入したそうですよ!意気揚々と走る吟遊さんの姿を想像するに易いもんです(*^_^*)それでね、自転車の運動量(カロリー消費)にすっかり感激し、こまめに運動量をチェックしているようですが、自転車によって余計に食べた分が計算に入っていないから、結構なプラスになっていたりして(>_<)その二、チャッピーに夢中とか。でもね、変なプロンプト入れてチャッピーを困らせ、それで思い通りにならないと悪態ついたりと、傍若無人にふるまうもんだから、最後にはチャッピーもけつをまくったそうな!結果、AIと人間がトンチンカンなやりとりしているみたいですよ(*'ω'*)以上、皆さんには吟遊さんの近況をご案内致しました、おそまつでしたm(_ _)m ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ★吟遊映人『読書案内』 第1弾(1~99)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾(100~199)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第3弾(200~ )はコチラから
2026.07.04
閲覧総数 65
12

【東野圭吾/秘密】◆我が子の肉体で人生を二度謳歌する女この本を貸してくれた友人は大絶賛だった。涙なしには読めなかったとも。それは大げさでも何でもなく、事実そうだったに違いない。友人は言った。「豊かな感情を持たない人には、分からないと思うよ」と。私が一読してまず感じたのは、ああファンタジー小説だな、というものだ。あまりにざっくり言い過ぎてしまい恐縮だが、肉体と精神が完全に別人格であるという設定は、ヒューマンドラマとしてはちょっと読みづらい。ならばラブ・ストーリーとして捉えれば良いではないかと読み直してみれば、親子愛にしてはあまりに淡白過ぎるし、夫婦愛ではラストのオチで失敗している。だがファンタジー小説としてなら、どこをどう突いたところで申し分なく、まるでドラマのように美しく流れていく。鮮やかな映像を、見て来たように思い描くことが出きるのも、東野圭吾の一流作家としての手腕だとさえ思う。ここからこの小説のあらましをご紹介してしまうので、この先は『秘密』を読もうとしている方々はご遠慮下さい。文字通り、秘密が秘密ではなくなってしまうので・・・。40歳を目前にした平介は、妻・直子と11歳の娘・藻奈美の3人家族。小学校の春休みを利用して、直子と藻奈美は長野のスキー場に出かけた。ところが志賀高原を目指していたスキーバスが、長野市内の国道で転落事故を起こしてしまうのだった。テレビの報道で事故を知った平介は、急遽、長野の病院まで車を飛ばす。主治医の所見によれば、直子の方は外傷が酷く、ガラスの破片が心臓にまで達していると。また、藻奈美の方は植物人間のような状態であると言う。結局、直子の方は助からなかった。娘を助けようと、覆いかぶさるようにして藻奈美を守り抜いた、命の代償であった。ところがどうしたことか、息を引き取った直子の隣で、植物人間と化していた藻奈美の意識が戻ったのである。しかも、あろうことか、藻奈美のものであるはずの人格が、完全に直子に取って代わっているではないか。肉体は間違いなく11歳の藻奈美のものであるのに。驚きを隠せない平介は、すぐには現実を受け入れられないでいた。物語は、妻・直子の人格(精神)に取って代わった藻奈美の行方を追う。直子は単なる主婦でしかなかった自分を省みて、娘の肉体を我が物にした今、猛勉強を始める。(いつ本来の藻奈美の意識が回復しても良いように、という前提のもとにだが)そして体力作りのためにテニス部にも所属し、淡い恋も経験する。嫉妬に狂った平介の、ストーカー的行為にうんざりしながらも、人生をやり直すことに意義を見出す直子。人は皆、少なからず過去に後悔を抱きながら生きている。その時、その行為を、ゲームのようにリセットできないことが分かっているから、未練に駆られ、後悔に苦しむのだ。『秘密』において、それは見事に覆され、人生のリセットが為されている。直子というキャラクターが、小説の中とはいえ、多くの女性の願望を叶えてくれるのだ。こうしたら良かった、ああしたら良かったと反省し、悩み抜いて来たことを一つ一つ成就する。努力の末、医大に合格し、その後、相性の良いパートナーを見つける。ラストは、完全に平介を孤独のどん底に突き落とすものだ。藻奈美が直子の人格そのままであることが分かっても、どうすることも出来ない。直子はすでに新しい人生をスタートさせようとしているからだ。肉体が藻奈美のものである限り、一生、藻奈美として生きていかねばならない。だが直子にとってそれは苦痛ではない。若くエネルギッシュな実の娘の肉体を譲り受けた今、人生を二度謳歌するというものなのだ。一方、平介は、藻奈美の真実を墓場まで持って行くしかない。直子との関係はすでに破綻しており、その肉体のない直子の死という事実は、もはや亡霊でしかない。こうして作者は、平介に最大の苦悩を宣告したわけだ。この結末は、おそらく賛否両論あるに違いない。そうは言っても、何やら目覚めた女性たちのシュプレヒコールがこだまするようだ。「直子に同感! 自立できる女になりたい! 気持ちだけでなく、経済的にも。一流の女になりたい!」そんなわけで、私個人的には、世の女性に向けたファンタジー小説として捉えたら、最高にして最良の名著と成り得る小説だと思うのだ。さて、あなたはこの作品をどう捉えるだろうか?『秘密』東野圭吾・著☆次回(読書案内No.58)は赤川次郎の『ヴァージン・ロード』を予定しています。コチラ
2013.04.06
閲覧総数 626
13

「フランク、俺は死神とデートするんだ。そして大統領もな。邪魔するとお前もだ」「俺のケツとデートさせてやる!」「いいか、お前など簡単に殺せる。何度お前の部屋に出入りしたと思う? お前は生かしてやってるんだ。少しは俺に感謝しやがれ!!」自分自身を演じるって、一体どういうことなのだろう?答えは『マルコヴィッチの穴』を観ていただきたい。とにかく、ジョン・マルコヴィッチという役者さんの強烈なインパクトに度肝を抜いてしまう。屈折した攻撃性を持つキャラクターを演じさせたら、この人の右に出る者はいないだろう。『ザ・シークレット・サービス』では、往年のスターであるイーストウッドと共演しているが、完全に悪役であるマルコヴィッチの存在感に飲まれてしまっている。イーストウッドだってかなりクセのあるシークレット・サービスのエージェントという役柄なのに、なんだか物凄くまともに見えてしまうのだから、敵役のマルコヴィッチがいかに強烈なアクの強さを持っているか、その辺りからも推察できる。『ザ・シークレット・サービス』という作品そのものは、さほどの斬新さもなければ、アクション性も高い方ではない。では何がおもしろいかと問われれば、悪を体現したようなマルコヴィッチの芸術的とも言える演技だ。つまり、思わず引き込まれてしまうマルコヴィッチの演技こそこの映画の見どころであろう。シークレット・サービスのエージェントであるフランクは、相棒のアルとともに、大統領の警護を任された。というのも、大統領の暗殺を企てている、疑わしき人物が浮上したのだ。その人物はリアリーという素性の知れない男で、演説会場などに何食わぬ顔で出現していた。度々電話でリアリーからフランク宛に連絡があり、その都度、逆探知を試みるものの、巧みな回路操作で居所がつかめず、やきもきするフランク。ところがある日、リアリーの指紋から大変なことが判明する。それはなんと、リアリーは元CIA諜報員で、暗殺を担当していた殺し屋の異名を持つ男だったのだ。主役を演じたクリント・イーストウッドは、可もなく不可もなくと言ったところだ。というのも、70年代~80年代まで長きに渡ってシリーズ化された『ダーティハリー』シリーズの、一匹狼的刑事役のイメージが固定化し、この作品でもベテランすご腕のシークレット・サービスのエージェントというキャラで活躍しているからだ。(正に、イメージ通り)敵役のマルコヴィッチとは、一見、うまく渡り合っているように思われがちだが、完全にマルコヴィッチの主演級悪役に持っていかれている節がある。ある意味、イーストウッドがカバン持ちに徹した作品と言っても過言ではないかもしれない。まずまずの映画だ。1993年公開【監督】ウォルフガング・ペーターゼン【出演】クリント・イーストウッド、ジョン・マルコヴィッチまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.10.13
閲覧総数 441
14

「悪い予感がする。どうやら終わりらしい」「(いや)助かるよ」「やっぱり神なんていない。神はいないよ・・・おい、どこへ行く?」「神がいることを証明するのさ」どういうわけか、ニコラス・ケイジという役者さんは、ちょっと一般的ではないセリフを臆面もなく言い、それがちゃんとサマになっているから不思議なのだ。ドラマチックを超えた劇場型の表現を、素晴らしく巧みに言い回す人物である。本作は、凶悪な囚人たちの中に唯一、仮釈放の身となる元軍人のポーがいて、その正義感の強さをこれでもかと言うほどに発揮し、披露してくれるアクション映画なのだ。見どころとしてはやはり、凶悪な囚人たちの個性強すぎるキャラクターぶりであろうか。 例えばそんな彼らのリーダー格とも言えるサイラスは、人生のほとんどを服役しているが、天才的頭脳の持ち主で、博士号を取得している。また、ガーランド・グリーンなる人物は、30人もの連続殺人を犯し、殺害した少女を助手席に乗せドライブしたというのは、もはや伝説となっていた。リーダー格のサイラスでさえグリーンには一目置き、「あんたのファンだ」と言わしめた、ほとんどVIP待遇(?)扱いであった。そんな狂人たちの中、ポーは一体どうやって脱出し、愛する家族のもとへと帰るのか、というストーリーなのだ。元軍人のキャメロン・ポーは、ショット・バーで妻と久しぶりに再会を果たしていた。 ところがチンピラ3人組にからまれ、取っ組み合いの喧嘩になる。そのうちの一人を過って殺害してしまい、このことが原因で過失致死罪で服役することになってしまう。その後、仮釈放が決まったのだが、アラバマ空港までコン・エアーで搬送される途中、サイラスという凶悪囚人たちの脱獄計画に巻き込まれてしまった。サイラス役に扮したのはやっぱりこの人、ジョン・マルコヴィッチである。この役者さんは政治的思想において強烈な鷹派として有名で、そのせいかどうかは分からないが、妙に悪役が多いし、似合っている。一方、グリーン役のスティーヴ・ブシュミ。この人は本作において、30人もの連続殺人犯の役で、厳重な拘束具で固定されてコン・エアーに乗り込んで来たスーパー凶悪囚人であるが、実際には敬虔なクリスチャンで、下積み生活が長く、元々消防士として働く労働者であった。9.11テロの際は、素性を隠し、瓦礫の山の中、黙々と作業をして救出活動を行なった。【ウィキペディア参照】そんな背景を知った上で本作「コン・エアー」を観ると、ラストで凶悪犯のグリーンがカジノで朗らかに笑っている姿に胸を打たれるのである。1997年公開【監督】サイモン・ウェスト【出演】ニコラス・ケイジ、ジョン・マルコヴィッチ、ジョン・キューザックまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.11.01
閲覧総数 1171
15

【ダイ・ハード2】「よかった。もう会えないかと思った。」「私もよ。」「愛してるぜ。」「テロだったそうね。」「うん、そうらしい。」(中略)「愛してるよ。」「なぜ私たちこんな目にばかり遭うの?」「帰ろう。」どの作品にも言えることかもしれないが、続編が前作を越えるというのは非常に難しい。 前作が好評であればあるほど、製作者サイドは肩に力が入ることだろう。「前作を上回る作品を作らねば」、そんな気持ちでスタッフ一丸となって作り上げているに違いない。そんなことをあれこれと想像しながら「ダイ・ハード2」を観てみた。前作同様、不死身の男ブルース・ウィリスはここでも大活躍を見せてくれた。マクレーンはクリスマスを妻のホリーといっしょにすごすため、ダラス国際空港まで迎えにやって来た。空港内で不審な2人組の男を見かけ、マクレーンは密かに尾行する。2人組が荷物室で挙動不審な行為に及んだところ、マクレーンが声をかけたことから銃撃戦が始まる。彼らはテロリストの一味だったのである。その後、あれよあれよと言う間にダラス空港はテロリストたちに占拠されてしまい、マクレーンは勇敢にも一人事件に立ち向かって行くのだ。作品の後半部に雪原をスノーモービルで追跡するシーンが出て来るが、アクション映画ならではのスリリングな臨場感に圧巻。さらにラスト、テロリストたちを壊滅させた後のクライマックスシーンのBGMに、シベリウスの「フィンランディア」が高らかに流れるのは興味深い。難を言えば、テロリストが見せしめにイギリス旅客機を爆発炎上させるシーンが出て来るのだが、果たしていかがなものか・・・。また、マクレーンがつららを真っすぐ敵の目に突き刺すシーン、それに航空機のエンジンに人を巻き込んで鮮血が飛び散るシーンなどは、もはやホラー的なニオイを感じてしまった。そんな点も含めて、かなりチャレンジ精神旺盛な作品に仕上がっていると思われた。1990年公開【監督】レニー・ハーリン【出演】ブルース・ウィリス(マクレーン刑事)
2008.01.25
閲覧総数 29
16

【藤枝静男/欣求浄土】◆彼岸での一家団欒こそ至福の時白樺派の文学に傾倒した藤枝静男は、志賀直哉の虜となる。だから作品はどれも白樺派の流れを汲み、己を冷静で客観的な視点から捉え、私的な事柄を赤裸々に、だが格調高く表現することに成功している。プロフィールによれば、藤枝静男は現在の静岡県藤枝市出身なので、おそらくペンネームもそのあたりから拝借したのかもしれない。作品は静岡県中部、西部地方が多く舞台となっており、作中の登場人物のセリフが方言丸出しで、かえって好感が持てる。気取っていなくて、それでいて硬質な文体という優れものだ。私が思わず涙したのは、『欣求浄土』という連作の中の一つ、〔一家団欒〕である。これは究極のファンタジー小説と言っても過言ではない。それなのにリアリティに溢れ、読み手が物語にすっと入り込んでしまうのだから不思議だ。これは主人公・寺沢章がこの世の生を終えて、親・兄弟の眠る墓地へ出向くところから始まる。そこに妻の存在はない。妻は明らかに外部の者であり、章(藤枝静男)にとって彼岸の向こうでは、いわば、他人なのだ。話はこうだ。寺沢章は、美しい茶畑に囲まれた菩提寺を訪れた。そして両親と兄弟らが眠る墓石の下にもぐって行った。「章が来たによ」と父が出迎えてくれると、続いて姉が「あれまぁ」と懐かしい声を響かせる。姉は18歳で亡くなっているので、その年齢のままの姿なのだ。章は亡くなったとき59歳なので、姉よりもずっと老けていて、頭も禿げている。しかも死亡時に臓器提供しているため、父が心配して「章、交通事故にでもあったかえ」と訊いた。「そうじゃあない。内臓をみんな向こうへ寄附してきたで、眼玉もくり抜いて来ただよ」 「お前も相変わらず思い切ったことをするのう」章は、父を前にすると、急に胸が迫ってきて涙がこみあげて来た。「父ちゃん、僕は父ちゃんに悪いことばかりして、悪かったやぁ」「ええに、ええに。お前はええ子だっけによ」そう言って父は、章を一切責めることなく、慰めるのであった。ここでの章という人物は、正しく藤枝静男自身のことであり、あの世での肉親との再会は切実な願望に違いない。本職が眼科医であった藤枝は、医療に携わる傍ら、私小説を書き続けた人である。そこには、過酷なまでに自分を見据えた、拷問のような眼差しを注いでいる。全編に自虐的な、甘やかしのないメスで切り刻んでいく鋭さが感じられるのだから、さすがは医師である。常に両親に対する侘びの気持ちが溢れていて、過去を赦せない自分を持て余しているようにも思える。だが〔一家団欒〕では、全てが報われ、癒され、救われている。家族そろってお祭りに出かける場面は、何とも言えない郷愁を誘う。この作品を読むと、生を全うした後、必ずや訪れる死の影も、まんざら悪くはないと思わせる不思議な優しさを感じるのだ。藤枝静男は、知る人ぞ知る作家ではあるけれど、一読するとやみつきになってしまう独特の世界観に覆われている。『欣求浄土』の他に『悲しいだけ』という作品もあるが、これも併せてお勧めしたい傑作だ。『欣求浄土』藤枝静男・著コチラ
2013.06.15
閲覧総数 595
17

「拳銃が欲しいんです。」「分かりました戸辺さん。もしイヴの日にどこかのコインロッカーのキーが届いたら、私からのイヴの贈り物だと思ってください。」原作の白川道氏の作品は、残念ながらまだ読んだことがない。「イヴの贈り物」の作風に限って言えば、浅田次郎の短編小説を彷彿とさせる。いわゆる「純愛」をテーマにしたものだろうか。だがこの作品から感じられるのは、もっとセンチメンタルで同情的でしかもやみくもな感情だ。この作中の誰かに感情移入する必要などない。我々は全て、傍観者なのだ。この日本のどこかで起こっている「かもしれない」ドラマなのだ。一流商社マンの戸辺は、派閥闘争に敗れ左遷。安らぎの場であるはずの家庭も夫婦仲は冷め切っており、会話と言えば妻の愚痴を聞かされるのが関の山だった。一人娘はすでに病気で亡くなっており、人生の生きがいは仕事に打ち込むことだけだった。そんな中、行きつけのカフェで19歳の女性アルバイト店員、中沢恵子と出会う。戸辺は彼女に亡くした愛娘の面影を追っていた。ある時、恵子が暗い路地で柄の悪い男にからまれている現場を目撃し、声をかける。戸辺のおかげで助けられた恵子は、安心感のある戸辺に全てを打ち明けるのだった。父親の残した借金のせいで、いまだにお金を取り立てられていること。母親が女手一つで自分を育ててくれたこと。クリスマスイヴにはろくな思い出がないことなど。そして二人は、いつしか客と店員という関係からもっと親密であたたかな関係に変化してゆくのだった。佐藤監督がメガホンを取ると、なぜか人生の無情とか哀切が一層際立つ。男と女の関係を単なる肉欲の対象にせず、もっと深く、精神的な結びつきとして表現してくれるから嬉しい。人をいたわる気持ち、愛おしむ気持ちは、人間の最も崇高な魂なのだ。それが間違った方向の行為であっても、全力で傾ける純粋な愛は、孤独さえも凌駕してしまうと言いたげなラストであった。エリート商社マンから一気に奈落の底に落ちぶれた主人公を、舘ひろしが好演。胃がんを患って頬がこけている様はごく自然で、メイクではなかった。舘ひろしの役者魂を見たような気がした。また、貫地谷しほりの可憐で初々しい演技も良かった。男性視聴者を釘付けにしたに違いない。2007年 WOWOWにて放送【監督】佐藤純彌【出演】舘ひろし、貫地谷しほりまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.28
閲覧総数 363
18

【眉村卓/妻に捧げた1778話】残暑お見舞い申し上げます。しばらくブログの更新が滞っていました。とくに多忙を極めていたわけでもなく、ごくごく日常をすごしていただけなのに、何か物事を継続するというのは大変難しい。根気と努力が物を言う哲学のような気もする。一週間に一冊本を読もう、一週間に一回DVDを鑑賞しよう、一週間に一度ウォーキングをしよう。何度となく自分に課して来た目標なのに、それが今日まで継続できたためしはない。ましてや毎日ショートショートを1本ずつ書くという気の遠くなるような継続は、たとえ作家と言えども容易なことではなかったであろう。 私は眉村卓の『妻に捧げた1778話』を読んだ。この作品はテレビのバラエティー番組『アメトーーク!』の“読書芸人”という企画において取り上げられ、ベストセラーとなっている。発売されたのはすでに2004年なので、10年以上も経って再燃しているのだ。(テレビの影響力というのはスゴイものである。) 内容は、末期ガンを宣告された妻のために、1日1話ショートショートを書いた中の19話が抜粋され、エッセイとともに掲載されている。眉村卓は大阪市西成区出身で、大阪大学経済学部卒である。もともとはサラリーマンとして働きながらSF同人誌に参加していたようだ。代表作に『ねらわれた学園』『なぞの転校生』などがある。2011年には実話をもとにした映画『僕と妻の1778の物語』が公開されている。(ウェキペディア参照) 内容もさることながら、何がスゴイかと言えば、1997年に妻のガン宣告を受けてから亡くなる2002年5月28日遺体が戻った自宅で最終回を書くまで、一日たりとも途切れることなく書き続けたという事実である。この継続力は見事な哲学と言っても過言ではあるまい。某インタビュー記事を読むと、「1日1話を始めたのはなぜか」という質問に対し、次のように答えている。 「家内のために、ほかにできることがなかったからです。(中略)看病するにしても、素人ができることはそんなにありません」 作家として分をわきまえたこの物言いに感銘を受けた。読書好きの妻のために「にやりと笑える話」を日々書き続けるという精神力と根気強さ。なかなかどうして簡単にできることではない。 作中、私はたいへん共鳴したところがあった。それは眉村卓の妻が、「わたし、してもらいたいことがある」と病床の身ながらハッキリと口にしたことである。「お葬式の名前は、作家眉村卓夫人・村上悦子にして欲しい」とのこと。私はこの言葉に胸が熱くなった。私も同じ立場ならそれを望んだかもしれない。(ちなみに通夜と告別式の案内のために道筋に立てられた表示板には、そのとおりがしるされたらしい。)夫の職業に誇りを持ち、生涯協力者であり続けた妻の最後の願いに、涙が止まらなくなる。 本来なら作品一つ一つの主だった感想を述べるところだが、私が評価するのは何より、この作家の根気と努力である。一つのことを淡々と継続していくことがどれほど大変なことか、おそらく皆さんもお分かりであろう。「継続は力なり」という格言があるけれども、『妻に捧げた1778話』はその筆頭かもしれない。熱しやすく冷めやすい方々、どうかこの作品のショートショートとエッセイを読んで、物事を続けていく意義とか意味を一考していただきたい。暑い夏こそ、我が身を冷静に省みるのはいかがだろうか?! 『妻に捧げた1778話』 眉村卓・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2018.08.11
閲覧総数 365
19

【キュア〜禁断の隔離病棟〜】『我々は病んでいる。病が胆汁のように込み上げ、喉の奥に苦いあと味を残す。テーブルを囲む皆が病んでいる。だが我々は認めないのだ。体が心に反してこう叫ぶまで。私は病気だ!』昔はとにかく日本人の働きすぎる民族性を海外のメディアから非難されたものだ。例えば、都心の通勤ラッシュ時の満員電車なんか、今でこそ外国人観光客に面白がられ、インスタなどにアップされているけれど、昔はこの模様がかなり深刻に受け止められていたのだ。余談だが、学生時代、午後の講義を受けていると、先生の単調な話が子守唄となり、大半の学生が船を漕ぎ出す(笑)すると先生が苦笑いしながら「君たちにもシエスタが必要だなぁ」と言ったものだ。シエスタ(※)とは、スペイン発祥の昼休憩を指す時間帯のことだが、日本の昼休憩が約1時間であるのに対し、スペインはなんと3時間なのだ⁉︎※シエスタの慣習は、EU統合により廃止の傾向が見られる。(Wikipedia参照)もちろん、その国の持つ歴史的背景とか文化があるので、シエスタが良いか悪いかは一概には言えない。ただ、そうは言っても働きすぎることで、人には様々な弊害が生じるのは否めない。(例)過労死・家庭不和・精神疾患・自死etc・・・そんな折、amazonプライムを検索していたら、『キュア〜禁断の隔離病棟〜』という作品を見つけた。これは正に、冒頭からして過労死に対する警鐘かと思った。と言うのも、ウォール街のさる金融商社で、深夜まで働き詰めのビジネスマン(モリス)が、心不全で倒れるシーンから始まるからだ。あらすじは次のとおり。ウォール街の大手金融会社のエリートビジネスマンであるロックハートは、取締役会から呼び出しを受ける。そこではロックハートの不正を追求されるのだが、警察に突き出さない代わりとして、ある条件を突きつけられる。それは、スイスに行ってCEOであるペンブロークを連れ戻すというものだった。ペンブロークは休暇療養のためにアルプス山中にある療養所に入所しているのだが、会社には戻らないという手紙を送って来たのである。ロックハートは、CEOを連れ戻すのなら彼と親しくしているモリスの方が適任であると答えたところ、そのモリスが心不全で亡くなったと一蹴される。仕方なくロックハートはスイスへと旅立つ。スイスへ向かう途中、ロックハートは幼い頃のことを思い出す。かつて、パリパリの金融マンだった父は、心労による精神の崩壊で、車内に幼いロックハートを残したまま橋の欄干から飛び降りてしまった。そんな父の最後を目撃していながらも、皮肉なことに、自分も同じ道を歩むことになってしまった。毎日が仕事漬けでまともに睡眠も取れず、青白い顔をしているロックハート。スイスに到着してさっそく山奥にある療養所に向かうが、タクシーの運転手からその施設にまつわる言い伝えを聞く。それは、200年程前にはバロンという貴族の城があって、高貴な血を絶やさないようにと城主は妹と交わっていたというのだ。近親結婚を忌み嫌った村人たちは、バロンとその妹を火炙りにするという忌まわしい出来事のあった場所こそが、その療養所のあるところなのだと。さらには不思議なことに、その療養所に行く者は年間に何人もいるが、そこから出て来る人はほとんどいないというものだった。ロックハートは一抹の不安を覚えるものの、とにかくNYの本社へとCEOを連れ戻さねばならないと思うのだった。この作品そのものは、かなり評価の分かれるものだと思う。私も一回見ただけでは上手く消化できず、せめてもう一回見てから記事を書きたいと思ったぐらいだ。とは言え、娯楽であるはずの映画を小難しく考えるのも意に沿わないので、私なりのざっくりとした感想を書き留めておくことにした。この作品はおそらく、〝仕事のし過ぎには気をつけろ!〟と言いたいに違いない。あと、〝怪しげな健康飲料(水)には手を出すな!〟とも受け取れる。監督であるゴア・ヴァービンスキーは、日本のホラー映画である『リング』をハリウッド版にリメイクした人物でもあるので、『キュア』のカテゴリにはずいぶんと悩んでしまった。で、結局のところ【サスペンス&スリラー】として分類してみた。(でも本当のところは【ホラー】にも当てはまる)独特のムードがあって、場面ごとに闇を感じさせるのに、ストーリー展開が追いついていない。こういうのを支離滅裂とでも言うのだろうか。(ごめんなさい)なぜなのかは不明。脚本がイマイチなのか?素材が良いだけに、ものすごく惜しいような残念な気持ちでいっぱいだ。(ネタバレごめん)ラストのロックハートとハンナが療養所から自転車で逃げるシーン。2人は自転車をこいで山を下りるのだが、シビレを切らしてCEOを迎えに来た会社の役員連中とバッタリ遭遇してしまう。その役員らはロックハートに自分たちと一緒に戻るよう命じるのだが、それを断り、ハンナとともに走り去って行く。このシーンは、私には決して清々しいものには感じられなかった。多くのレビューでは、ロックハートが笑顔で走り去ると捉えているが、私にはそうは見えなかった。古い映画だが、ダスティン・ホフマン主演の『卒業』を見たことがある人なら、私の言おうとしていることに理解を示してもらえるかもしれない。ダスティン・ホフマン扮するベンジャミンが、式場から花嫁であるエレーンを連れ出すあのラストはあまりにも有名だ。その後、嬉々として路線バスに乗り込むものの、ふと我に返ったベンジャミンは、虚な表情を見せるのだ。それはまるで、将来への漠然とした不安を暗示させるものなのである。私には、ロックハートがハンナを連れて逃げ出すこの一連のシーンが、どうしても『卒業』のラストと重なって仕方がないのだ。2017年(米)(独)公開【監督】ゴア・ヴァービンスキー【出演】デイン・デハーン、ジェイソン・アイザックス、ミア・ゴス
2024.04.27
閲覧総数 630
20

【天童荒太/永遠の仔】◆虐待から逃れるためには、親を殺すか己が死ぬか最近は目が疲れやすくなって小さい字を追うのが面倒になりつつある。だからよっぽど惹きつけられる小説でなければ、長編を読了するのは本当にしんどい。高村薫の『レディ・ジョーカー』は、上下巻2冊の長編だったが、一気呵成に読了した。それだけ著者の技巧が優れているということだろう。読者を飽きさせない見事な筆致。今回は『永遠の仔』、天童荒太の書き下ろしだ。天童荒太の代表作といえば『家族狩り』で、山本周五郎賞を受賞している。読後は何とも言えない重苦しさに喘いだような記憶がある。それがどうだ、『永遠の仔』の方がさらに輪をかけた如く息苦しさに見舞われた。なんなんだ、この閉塞感は?!限りなく結末の見えないラストに苛立つし、絶望的なまでの孤独感に襲われる。あらゆる意味でドラマチックで、読後は放心状態になってしまう。いや本当に。まず念頭に置きたいのが、幼い子どもらに向けられる虐待がいかなるものか、その辺をきちんと整理しながら読み進めないと、単なる小説の中の絵空事で終わってしまう。現実に性的虐待などで心身ともに病んでしまった子どもたちを収容する施設と、養護学校が存在することを踏まえた上で、主人公ら3人の壮絶な成長を追っていくのが望ましい。話はこうだ。舞台は愛媛県のとある田舎町。双海小児総合病院は、様々な理由で精神状態の落ち着かない子どもたちを受け入れていた。優希もその一人で、ある事情から外界を遮断するスイッチを持つようになった。そんな新入りの優希に興味を持ったのは、ジラフ(キリンの意)とモウル(モグラの意)と呼ばれる二人の少年たちだった。ジラフは母親からタバコを体じゅうに押し付けられたせいで、丸い火傷の痕がキリンの模様のように付いていた。それは大切な性器や尻に至るまで、まるで悪ふざけのように火傷痕が残っていた。モウルは、母親が知らない男を連れて帰る度に暗い押入れの中に閉じ込められ、男が帰るまでトイレにも行けず、自分の性器をちぎれるほど握りしめて堪えなくてはならない状況下にあった。そのせいで、灯りのない場所に極度の恐怖と不安を覚えるようになり、おまけに男性としての機能が全く働かない身体となってしまったのだ。そして優希は、なんと、実の父親から性的虐待を受けていたのだった。物語は、17年後の現在、優希が看護士、ジラフが刑事、モウルが弁護士となった今と、17年前の小児精神科の治療を受けていたころと、交互に進んでいく。3人の辛く哀しい過去が現在まで尾を引き、様々な形で事件につながっていく。どうしようもない過去から目を背けて生きて来たところ、3人が再会することで、否が応でも打ち消すことの出来ない記憶を辿らなくてはならない。背負うものが余りにも重過ぎて、苦しさから逃れられない。このどうしようもない絶望的な嘆きの前に、神も仏もなく、ただ傷口を舐め合う仔犬のようにうずくまるのだ。ラストは、読者各々が感覚として捉えた輪郭をなぞるものだと思う。それは形がなく、曖昧で、無性に孤独を促す結末かもしれないが、寝る間も惜しむほどに引き摺りこまれる作品だった。『永遠の仔』天童荒太・著☆次回(読書案内No.50)は藤沢周平の『蝉しぐれ』を予定しています。コチラ
2013.03.09
閲覧総数 4280
21

「もう戦わなくていい。十分証明できた」「僕が弱くてすぐあきらめるってことを? 本当のカンフーは違う。“絶望から立ち直るのは自分次第”って言ったよね? (僕が)立ち上がるのに手を貸して!」こういう作品は、青春映画の代表格と言って差し支えないだろう。弱虫で臆病な少年が、自分に自信を持つことで克服してゆく。その自信は人によって様々だが、本作においてはたまたま“カンフー”であっただけのこと。だがその“カンフー”との出合いにより、少年は大きく成長を遂げるのだ。本作でカンフーの師匠役になるのはジャッキー・チェンだが、やっぱりこの人のアクションは本物だ。ここ最近は、アクションに頼らないシリアス・ドラマに傾倒していたジャッキー・チェンだが、本来の持ち味からして、やっぱりアクションあっての役者さんのような気がする。そういう点で、本作「ベスト・キッド」におけるカンフーの師匠という役柄は、ジャッキー・チェンにとって面目躍如たるものであろう。ジャッキー・チェンの代表作に「ドランクモンキー酔拳」「スネーキーモンキー蛇拳」「クレイジーモンキー笑拳」などがあり、香港ではもちろん、日本でも大ヒットを博した。当時のジャッキー・チェンの凄まじい人気を、今の若い人たちは知っているだろうか? 母子家庭に育つドレは、デトロイトから北京へと引っ越す。黒人少年で、しかも北京語の分からない12歳のドレにとっては、戸惑うことばかりであった。公園でバイオリンの練習をしている少女メイと出会い、仲良くしゃべっていたところ、いきなりドレは数人の少年たちからからまれる。カンフーに長けた、少年たちの執拗ないじめを受けたドレは、学校に通うのも億劫になる。ある日、いじめを受け、トドメをさされそうになったドレを助けたのは、アパートの管理人のハン。ドレは強くなりたいと思い、ハンにカンフーの教えを請うのだった。主人公ドレ役に扮するのはジェイデン・スミスで、周知の通り、ジェイデンの父親はウィル・スミスである。吟遊映人が察するに、ウィル・スミス自身が強くなりたいと思って、ブルース・リーあたりに傾倒したのかもしれない。根強い人種差別や、将来的な不安などを抱えた若かりし頃、強い男になって他者を見返してやりたいと、意気込んだ時期があるのではなかろうか。その執念が、息子であるジェイデンに受け継がれるようにして、ウィル・スミス自身は製作者サイドに回り、思いを託したのかもしれない。作中にある(上着を)脱ぎ→落とし→拾い→(ラックに)掛ける、という一連の行為が、カンフーの中に生きるというくだりがすばらしい。日常の何気ない動作が、身を守る防御となり、攻撃の姿勢にもなるという自然主義的発想は、東洋哲学にも似て大変おもしろかった。本作は、青春の苦悩と克服を描いた、力強く爽やかな作品であった。2010年公開【監督】ハラルド・ズワルト【製作】ウィル・スミス他【出演】ジェイデン・スミス、ジャッキー・チェンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.03.25
閲覧総数 185


![]()