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主人公が詩人であるという設定が面白い。前半で主人公が圧倒的なエネルギーで語る内容が含蓄があっていいのであるが、彼独特のアクの強さや勢いに辟易する方もおられるのではなかろうか。物語は奇跡的なハッピーエンドであるが、このラストでチャップリンの「街の灯」を連想させる。ロベルト・ベニーニはイタリア本国では、現代のチャップリンと呼ばれているらしく、愛とヒューマニズムをテーマに社会悪を背景に作品を作っている点は納得である。今回の背景はイラク戦争である。
2007年03月18日
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カズオ・イシグロには、戦前の上海租界を舞台に描いた『わたしたちが孤児だったころ』という小説がある。私はまだ読んでいないのであるが、もしかしたら、脚本を担当した「上海の伯爵夫人」と関連があるのでなかろうか?そんなことで、今、この小説を読んでみたくなってきた。
2007年03月15日
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グスタフといえば、グスタフ・マーラーとグスタフ・クリムトこの二人のグスタフに関係したアルマ・マーラー。ミューズにしてファム・ファタル。映画「クリムト」に彼女が登場しなかったのは、単に描いている時代ゆえなのだろうか?
2007年03月14日
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犠牲になる女性で最も重要な役柄が「赤毛のローラ」であることに思わず笑ってしまった。
2007年03月13日
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マーチャント・アイボリー版「カサブランカ」というべきであろうか。その喩えも決して間違っていないと思うが、私にはマーチャント・アイボリーがアンゲロプロスの「エレニの旅」にチャンレジしたのではないかと感じた。上海を脱出してからの彼らの行く手には決して幸福な日々が待っているとは思えないが、船上でのヒロインの娘の行動と表情とには、希望を抱かせるものがある。
2007年03月12日
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それらしきものはあるが、「それ」はない。しかし、非常に判りやすい映画である。その判りやすさが、この映画が本来持っておくべきものから遠ざけている。
2007年03月11日
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イギリス映画界の正統派の二枚目スターであるマイケル・レッドグレープ。その娘であるヴァネッサとリン。60年代にイギリス映画界の新しい波の旗手として登場したトニー・リチャードソンは、ヴァネッサと結婚して娘ナターシャが生まれる。映画「上海の伯爵夫人」は、ナターシャ・リチャードソンを主役に、ヴァネッサ・レッドグレーブとリン・レッドグレーブが印象的な脇役とキャスティングされている。王家衛の世界の視覚化にはなくてはならない撮影監督クリストファー・ドイル。日本のアクションスターから、そのキャリアをスタートさせた真田広之。彼らをまとめたマーチャント・アイボリーのコンビ。こうしてみると、この「上海の伯爵夫人」は世界の映画史を体現したようであり、「映画は越境して歴史を作る」を実現したようなものだ。
2007年03月10日
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映画「クリムト」は彼が臨終の床にある場面から始まる。死ぬ間際の彼の回想という形で展開される。このシーンを見ながら、私はあの不思議な部屋で最初の生涯を終えようとするボーマン船長を思い出した。映画「クリムト」は、ウィーンという不思議な都市を中心として虚構と現実をめぐる旅であり、「2001年宇宙の旅」もまた、モノリスに導かれる不思議な旅であった。「クリムト」と「2001年宇宙の旅」、この2作品から共通するものは「不思議の国のアリス」である。
2007年03月07日
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表面的にはアールヌーボーの代表的な画家であるグスタフ・クリムトの伝記映画であるが、実際の内容はかなり違う。むしろ、当時のウィーンとパリの比較論という様相を呈している。様々な芸術家、思想家、科学者などが入り乱れ、そこから新しいものが生み出された不思議な都市である世紀末のウィーンには、不思議なカオスのような魅力を感じるのであるが、映画ではそのウィーンに対して気鋭の都市パリを登場させて比較している点が面白い。保守的なウィーンと進取のパリという比較である。「映画」という新しいメディア、芸術はそのパリで生まれたが、その「映画」も、この作品の中では重要な役割を果たす。
2007年03月06日
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複数の波紋がお互いに関連しあって新たな波を生み出す。「インファナル・アフェア」3部作の特長を表現すれば、このような言い方になるのであろうか。「過去」、「現在」、「その後」の時を越えた様々な要素が相互に関連しあう様は、まるで数学の構造のような美しさを持つ。そのリメークの「ディパーテッド」には、そのようなものはない。ひたすら即物的にある限定された世界での出来事を描いている。それは緊迫感を持って見事に描かれているのであるが、「インファナル・アフェア」の美に魅せられた観客には物足りないかも知れない。マーティン・スコセッシがアカデミー監督賞を受賞したのはうれしいが、こんなことなら、「グッド・フェローズ」や「カジノ」で取っても良かったのではないかと思う。
2007年02月28日
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アカデミー作品賞と監督賞受賞であるが、何とも不運な作品である。そもそもリメークしたという時点で、この映画には一種のイメージがついてまわっている。「よく出来ているけど、所詮はリメーク。オリジナルには敵わない」という評価にほとんどの人が納得するのではなかろうか。しかし、この映画は、オリジナルとかなりの違いがある。オリジナルが編集を主体にムードで展開しているのに対して、このリメーク版は、即物的でアクション主体である。オリジナルが濡れた情緒があるのに対して、こちらは、ドライである。二つの作品の差はなく、どちらがどちらがいいかというのは「好み」の差でしかないのではなかろうか。潜入、密告、なりすまし、更には盗聴が日常的に行われ、それを行う者にも苦悩の表情がないという現在のアメリカの姿がよく表現されていると思った。この作品はスコセッシが企画中の「沈黙」(遠藤周作原作)への予習という位置づけではなかろうか。
2007年02月27日
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この映画の内容は決して政治的なものではない。製作意図自体が家族愛である。もちろん、北朝鮮への批判はあるものの、それが大きな要素ではなく、家族愛が国家を動かしていく過程を描いたもので、その過程で登場する政府の態度の卑小さが目立ってくる。一見、対極にあるような「ディア・ピョンヤン」と共通するものがある作品と思う。北朝鮮政府を讃える父をめぐる娘の思い、北朝鮮政府に拉致された娘を取り返したい両親の思い。両方とも、その「思い」の部分は両方の国家が見捨てているのではなかろうか?
2007年02月25日
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今でこそ「北朝鮮による拉致事件」と言われるが、発生した当時は「少女失踪事件」であった。この映画は、「失踪事件」から「拉致事件」に至るまでの定点観測である。事件の呼称の変化が日本社会の変化を生み出していくわけであるが、その変化が果たして良い結果となるのかどうかは不明である。それは、戦後日本の精神が試されているというべきであろう。この映画は、国家と個人との関係を考える素材として提示されているようにも思える。
2007年02月24日
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「麦の穂をゆらす風」の主人公ダミアンの変貌とその行方には、かっての連合赤軍の戦士たちが重なる。一線を越えたということの意味を考えさせる。「一線を越えたこと」に対して「過激」というレッテルを貼っても、そこからは何も学ぶことは出来ない。若松孝二が取り組む「実録・連合赤軍」は、ここをどのように描いているのであろうか。
2007年02月18日
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「ピクニック・at・ハンギングロック」をひたすら崇めている者としては、この映画を見逃すわけにはいかない。「ピクニック・at・ハンギングロック」では、そこに描かれる神々しいまでの美にひきつけられていき、もはや意識を失わんばかりに夢中になったのであるが、この「エコール」は、冒頭から「不安」にかられる。見る者をこれほど「不安」な気持ちにさせる作品も珍しいのではなかろうか。すべてが説明不足のまま、謎のままに提示される。川面のシーンは、ルノアールの「ピクニック」を連想させるなど映画的記憶が散りばめられていたり、「服従こそが幸福への道なのよ。」という学園の女教師の言葉から政治的な裏目読みをするのは簡単なのであるが、この映画の作者の意図はそのようなところにはないのであろう。
2007年02月04日
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「敬愛なるベートーヴェン」は、なかなかユニークな構成を持った作品である。普通なら終盤に置かれるクライマックスとなる場面が中央部にある。これは「武士の一分」でもクライマックスと思われた決闘シーンを終盤よりやや中央部に置き、その後に本当のクライマックスを置いているのと同じような構成だ。交響曲第9番の初演シーンを中央部に置いたことでこの映画がベートーヴェンの伝記映画ではなく、アンナが主人公の映画であることが判る。この映画の主人公はアンナなのである。ドラマの終盤ではベートヴェンを切捨て、アンナに集中していく。ラストのアンナが歩き出すシーンは、まさに彼女の新しい出発を表現して実に清清しい。この映画では、もしかしたら、ベートーヴェンはマクガフィンかも知れない。
2007年02月01日
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手と手を触れ合わせることによって愛の交歓を描いた作品では、まず「バーバレラ」が記憶に残る。ガラス越しのラブシーンもそれと同じであり、「また逢う日まで」や「ミッドナイト・エクスプレス」がある。他にもあるかも知れない。そうした中で「E.T.」は、指と指を触れ合うことを信頼のシンボルにまで昇華させた作品である。そして、「敬愛なるベートーヴェン」における交響曲9番の初演シーンのベートヴェンと彼をリードするアンナのシーンは、まさにこの種の動作の名シーンとして追加できるであろう。このシーンは、まさにクライマックスであるが、このシーンがあることで傑作と評価していいと思う。
2007年01月31日
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「麦の穂をゆらす風」を見た友人からメールで感想が送られてきて、その中に全ての「レジスタンス」は「テロ」と言い換えが可能なのでしょうね。とあった。その通りだと思う。主人公ダミアンたちの行動はイギリス側に立てば、イギリス人の生命・財産を脅かす無法テロリストであり、(条件付き)独立後の分裂は、自治能力のないアイルランド人たちの内紛であり、内ゲバであるということであろう。「ホテル・ルワンダ」でも民族紛争が、大国の支配の中で生まれたものであるように、アイルランドの場合もイギリスの狡猾な統治によって内紛が引き起こされたといえよう。「レジスタンス」は見方を変えれば、「テロ」であるということを知ることも、この「麦の穂をゆらす風」のねらいであることは明らかだと思う。
2007年01月29日
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アイルランド独立運動を背景にした映画で最もポピュラーなものはデヴィッド・リーンの「ライアンの娘」であろうか。この「麦の穂をゆらす風」は、その「ライアンの娘」の時代から数年後という設定のようだ。見ていて痛切に感じるのは、この映画は決して1920年代のアイルランドの話ではなく、極めて現代的であるということだ。ここで描かれるすべてのエピソードは、現代の日本でも起きうることである。主人公が口にする印象的なセリフとして「一線を越えたかも知れない」というものがある。裏切った同胞を射殺した直後のセリフである。状況の中で、すべての人はある時点で、ある判断、ある行動によって一線を越えていくのであろう。改憲、共謀罪、教育基本法の改訂、防衛省設置などを目論みながらそれをひとつづつ実現している政権与党に一票を投じることは、いずれ同朋を殺すことになるという一線を越えた判断である。この映画は、極めてドラマティックな展開であると同時に、その中に観客を巻き込んでいく展開は、見事であり、映画を見る魅力を堪能できるが、同時に一つ一つの場面で観客を試し、「あること」を突きつけている。
2007年01月21日
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家族を描き、9歳の女の子が主人公的なのであるが、「PG12」という不思議な作品である。傑作ロードムービーである。ここでは移動の手段である自動車自体が大きな役割を果たしている。このような設定は珍しいのではなかろうか。この映画を見ながら思い出した作品が2つ。ひとつは「フォーリング・ダウン」これは町をめぐるロードムービーであるが、それが地獄めぐりになっている。不幸がフーヴァー一家に次々と襲いかかるという設定は、この「フォーリング・ダウン」でマイケル・ダグラス演じる主人公に次々と不幸に見舞われるのと非常に似ている。もうひとつは山田洋次監督の傑作「家族」ラストでの祖父の死が共通しているが、この映画では日本の高度経済成長の裏側にあるものをリアルに描き出している。それと同じようにこの「リトル・ミス・サンシャイン」では、女の子の勝ち組のシンボルのひとつである少女のミスコンの下品さを見事に描いてる。
2007年01月15日
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アフリカ映画の父と称されるウスマン・センベーヌ監督。80歳を超す年齢であるが、映像の若さとエネルギーには「老い」というものは感じられない。この映画は今も残る女子割礼を取り巻く人々の姿を描いている。伝統的な風習を頑なに守ろうとする男性とそれを打ち破ろうとする女性という図式は「エミタイ」と同じであるが、非常に説得力がある。ここで描かれているのはアフリカのある地域の問題ではなく、私たちの問題でもある。女性割礼を止めさせようとする女性たちの原点は「痛いことはいやだ」と「おかしい」というごく普通の発想なのである。この発想は、非常に大事なことである。私たちの周辺にも非常に多くのおかしいことがある。権力はそれらのおかしいことを生活のあらゆる面で、私たちに押し付けようとしている。これらに対して、「否」の声を上げるには、国家論や政策論が必要なわけではない。私たち自身が痛い目にあう、血を流すこと、おかしいと思ったことをはっきりと言うことではないか。この映画は、私たちに反権力というものの原点を改めて教えてくれる。
2006年12月25日
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3部作の第1作目で、今回はドラゴン・ライダーの誕生編である。少年エラゴンをドラゴンライダーに導くのは、かっての勇士ブロムとドラゴンのサフィラ。ここで興味深いのはサフィラの設定。メスのドラゴンなのである。ドラゴンのサフィラとエラゴンの関係は、母であり、姉であり、恋人であるという多様な側面がある。まるでMに導かれて「007」となったジェームズ・ボンドを連想させた。これでサフィラの声がジュディ・デンチであれば・・・。エラゴンに絡む女性としてはアーリアがいるが、この関係がどうなるかは今のところ判らないが、エラゴンをリードする一人であろう。女性に導かれるヒーローが今のトレンドなのであろうか。
2006年12月22日
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ジュリアン・ムーアの役名はジュリアンか。クライヴ・オーウェンはけだるい、途方にくれたような表情が巧い。彼はボンド役の候補のひとりであったらしいが、彼がボンドになったらどうなのだろうか。破壊されかかった殺伐とした街。このセットは美術監督の腕の見せ所だなと思いながら見ていた。戦闘の中を主人公たちが赤ん坊と共に脱出するシーンでは、赤ん坊を目にした兵士たちが銃を下ろし、戦闘を休止する。ここは非常に印象に残る。現実の戦闘においても、今、求められるものはこの赤ん坊の存在であろう。現実は赤ん坊も子供も殺されている戦闘において、それを停止させる力を持つものは何であろうか。エンド・クレジットでは子供たちの笑い声が満ちている。2027年という近未来を描いた作品であるが、今の世界に向けての強烈なメッセージがこめられている。
2006年12月14日
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映画検定の前日。本来ならば検定用テキストや予想問題集を使って勉強すべきであろうが、映画の最大の勉強は映画を見ることと考えて、映画館へ行く。見たのは「007/カジノ・ロワイヤル」。今回は、007誕生の物語である。従ってこの作品で見るボンドは、殺しのライセンスを持ったベテラン諜報部員ではなく、未熟で荒削りである。今回のアクションシーンは、これまでにないスピード感、熱気、そして若さが感じられる。主演俳優がダニエル・クレイグとなって、新しいボンドを圧倒的な迫力で見せてくれる。新しいシリーズの第1作にふさわしい。そんなボンドであるから、失敗もする。窮地に追い込まれる。彼を厳しくサポートするのは、お馴染みの上司M。ボンドとMとの関係も、これまでの作品と違っている。ここではあくまでもボンドをリードする指導者である。Mを演じるのはジュディ・ディンチ。この映画、もしかしたらMI6版「プラダを着た悪魔」ではなかろうか。
2006年12月03日
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「よく出来た、気持ちよくさせてくれる映画」だと書いたが、気になることがあったので書いておきたい。主人公アンディは一旦は恋人も友も裏切り、棄てて新しい世界に入っていくが、また戻ってくる。そんな戻り方でいいのか?あの事件は、新しい世界を振り切らせるほどに決定的な出来事であったのか?この映画はそのあたりの説明や演出が不足だと思う。しかし、そういう見ている間は、そんな気持ちを持たせることなく観客をのせていく。それが娯楽映画演出の肝心なところであろう。しかし、冷静になった今、アンディのあの行動はそれでいいのかという気持ちになる。
2006年11月29日
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やたらと評判のいい本作品であるが、確かによく出来た、そして気持ちよくさせてくれる映画である。華やかに着飾って、シャープな感じのビジネスマンやキャリアウーマンが颯爽と歩くニューヨークを舞台にしたこの映画見ると、私たちにとっては、これは一種のファンタジー映画である。そもそもアン・ハサウェイの美貌とスタイルで「あんたダサイ」と言われては、困ってしまい、このあたり私には全く説得力がない。事実、最初の部分の服装、特にブルーのセーターなど実に良く似合っていたと思うのであるが・・・。最後の出演者のクレジットでは「アズ・ヒムセルフ」と書かれた人が数人あり、業界の有名人たちが、実際の本名で登場しているようだ。このあたりは、関心のある方には見どころであろう。さて、ファッションやブランドに全く興味のない私のような人には面白くないかと言えば、決してそうではなく、そこがこの映画のいいところであろう。ガンマンや剣の達人を目指して厳しい師匠のもとで修行に励む若者を描く映画はよくありますが、それと同じパターンだと思えば、ファッションに興味のない方も面白く見ることが出来ます。黒澤明の「赤ひげ」を連想しながら見てもいいのではないかと思う。何よりもこの映画の良さは、若者の成長と勧善懲悪という典型的な娯楽映画のパターンを踏みながら、「仕事とは何か?」、「人生を満足させるとは何か?」を考えるきっかけを与えてくれるところだろう。
2006年11月28日
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現在、長崎県美術館では「フランス印象派からエコール・ド・パリへ」とが開催中であるが、29日にはその関連企画でジャン・ルノアールの「ピクニック」が上映された。映画史をひもとくと必ずと言っていいほど登場するこの作品を見るのは初めてである。予想以上にひきこまれた。見ているうちにたちまちにしていくつかの映画が連想された。ピクニックのシーンから「眺めのいい部屋」とヴァルダの「幸福」ブランコのシーンからは「故郷の香り」ロメールの作品のような展開そしてラストの再会では「舞踏会の手帖」この映画は同時代あるいは後世の映画にいろいろと影響を与えているのではなかろうか。小船で川遊びのシーンの水面の表情からは「地獄の黙示録」のメコン川を連想させた。上映時間はわずか40分。量より質を実感した映画体験であった。
2006年10月29日
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映画「太陽」の観客には、かなり高齢の方もおられた。天皇を神と教え込まれ、天皇の為に命を投げ出すことが尊いという価値観を持った世代である。この映画で描かれた当事者意識の欠如した天皇を見て、どのように感じたであろうか?さて、戦後派の私の感想は「天皇というものが本当に必要なのか」ということである。人間が「神」に祀り上げられることの「非人間性」がこの映画で描かれたのではないだろうか。それは「象徴」であっても同じことであろう。麻生外相は核武装をめぐる議論を容認するにあたり、「この国は言論統制はされていない。共産主義や社会主義国家とは違う。言論を封鎖する考え方にはくみしない」という考えを示した。なるほど。それなら「天皇は本当に必要なのか」という議論をしてみたらどうであろうか。この過程で皇室にどれだけの税金が使われているかを示したらいい。私の意見は「天皇なんかいらないよ!」だ。日本国憲法は1条から8条までの「第1章天皇」は削除。「第9条 戦争放棄」が第1条になる。こういう改憲なら賛成だ。
2006年10月25日
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かって昭和天皇が新聞記者に「戦争責任についてどのように考えているか」と聞かれて、「そういう言葉のアヤについて私は文学方面は研究もしていないので、よくわかりませんからそういう問題についてはお答えできかねます」と答えた。昭和天皇のこの返答を知ったときに、あまりの当事者意識のなさに唖然としたのであるが、この映画「太陽」を見て、彼はそういう人間であったのだということが判った。この映画を見ながら思い出したのは「ヒトラー ~最期の12日間」である。共にあの戦争の当事者であり、責任者である。その二人が、戦争末期をどのように生きたのかをそれぞれ描いた作品である。一方は体制崩壊の中で自殺し、一方は戦後40年以上も生きた。共通していることは、共に周辺とまともなコミュニケーションをとることが出来ないということだ。映画「太陽」は、そのコミュニケーションが成立たないこと、当事者意識がないことが喜劇となって描かれる。日本人の映画作家ではないから、昭和天皇ヒロヒトをこのように描くことが出来たのであろうか。私は日本の映画作家にこそ、このような天皇像を描いて欲しかった。
2006年10月24日
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最近、わが国では「美しい」という言葉が、すっかり安っぽく、またグロテスクになってしまったが、この映画は素晴らしい。9人の女性をめぐる9つの物語からなるオムニバス映画。9つの物語はそれぞれワンシーン・ワンカットで描かれており、また、あるエピソードのある人物が他のエピソードでも登場するという凝った演出がなされている。このような技巧派の作品は、見ていて非常に快感である。この9つのうち「マギー」ではグレン・クローズとダコタ・ファニングという新旧演技派が母娘で出演しているが、これが実にミステリアス。一種のホラーとでもいうべきか。カポーティーの「ミリアム」を連想させる。
2006年10月22日
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先日、亡くなられた田中登監督の「屋根裏の散歩者」のラストシーンは、関東大震災の焼け跡で娘がポンプから水を汲みあげ、その水がやがて血の色になっていくというものであった。虚構の世界と現実の世界が出会った瞬間であった。この映画「ブラック・ダリア」を見たときの印象は、この「屋根裏の散歩者」のラストシーンであった。実話をもとに構成されたこの作品の時代背景は、戦勝気分に満ちていたはずのアメリカである。しかし、この作品の中にはそのような空気は一切感じられない。ハリウッドの赤狩り前夜の異様な空気とでもいうべきであろうか。ハリウッドという夢の世界に憧れてやってきた若い女性が陥った悲劇は、その後の赤狩りという夢の世界と現実の政治との遭遇を予感させる。映画「ブラック・ダリア」は、いささか説明不足な演出で、人物関係も明快に説明できているわけではないが、そのような戦勝気分に満ちていたはずのアメリカのもうひとつの側面を実にリアルに描いていると思う。主人公たちが追う事件からエリザベス・ショートの死体が発見される瞬間を長回しのキャメラで見せるシーンは本当に素晴らしい。
2006年10月18日
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マイケル・ダグラス主演の映画とは、全く久しぶりではないか。彼がシークレット・サービスを演じるが、もちろん彼が演じるのであるから、誠実・忠実なシークレット・サービスではない。ファースト・れでぃと密かに愛し合う関係という大胆不敵な設定。そのファースト・レディを演じるのが、何とキム・ベイシンガーである。彼女も共演だというので、これはきっと彼女もシークレット・サービスの1人を演じて、「ブロンディー/女銀行強盗」のようなアクションを演じるのかと思ったら、これはサプライズなキャスティング。デミ・ムーアがファースト・レディよりはいいか。さて、内容であるが、大胆な設定の割りには、平凡な展開である。但し、物語はうまくまとめているので、退屈はしない。それにしても、自分の妻がシークレット・サービスと恋愛中であることも見抜けない大統領で、テロとの戦いなど世界各国の統率が出来るのか?
2006年10月07日
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「ユナイテッド93」と「グエムル 漢江の怪物」。前者は、事実に基づいた内容。機内の状況については製作者たちが想像した部分もあるかも知れないが、全編のほとんどは事実に基づいたもの。後者は完全な空想の物語。しかし、創作の余地がほとんどない前者が、全編創作の後者より娯楽映画としてのパターンを踏襲できており、後者は娯楽映画としてのパターンを破っていた。これらの作品を不快に思い、否定する人がいるとすれば、その理由は、その「ねじれ」にあるのではなかろうか。
2006年09月11日
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わが町では、この映画は9月1日で終了。意外と早く終了となった。全編、ノンストップのアクションシーンの連続で、爆破シーンも極めて多く、実に派手である。しかし、何か物足りない。主演のトム・クルーズをはじめとして登場人物たちが、インポッシブルなミッションを遂行するような知性が感じられないこと。これは致命的だと思う。だからこそ、ド派手な爆破シーンが多数必要なのだろうけど。私がIMFのトップなら、このチームはリストラ対象にあげるぞ、と思っていたら、トム・クルーズは本当にパラマウントからリストラされてしまった。これは第1作でジム・フェルプスを殉職させ、挙句に裏切り者に設定したことに対するファンの呪いではないのだろうか?
2006年09月05日
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かって「ディア・ハンター」を見たときに、私は非常に不愉快な気持ちと同時に怒りを覚えた。ここに描かれたようにアメリカの若者たちの悲劇はあったことは確かだ。しかし、その前にアメリカは土足でベトナムに入り込み、多くのベトナム人たちを殺したのではないか、そこにはやはり悲劇的な若者たちの姿があったのではないか。それに対してはどうなのか。そのことを無視して、アメリカの若者たちの悲劇のみを描いたこの映画は何なのだという気持ちが湧き上がった。映画「ユナイテッド93」の最後に「この映画を9.11同時多発テロ事件で亡くなったすべての人に捧ぐ」という字幕が出る。もし、ここで「9.11同時多発テロ事件をきっかけに亡くなった各国の人々に捧ぐ」と出ていれば、私は、この映画を「不愉快だ」とは思わなかったのではなかろうか。この映画の内容に国際的な視点や広がりを持たせることは困難だと思う。しかし、最後の字幕にその趣旨を入れることは出来たはずだ。この事件からその後のアメリカの軍事行動は世界各国に大きな影響を与え、犠牲者を出した。この映画にそのような国際的視点が欠けていることは、この映画の致命傷だと思う。
2006年09月04日
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よく出来た映画だと思う。あの事件と切り離して見るならば、究極のパニック映画である。あの事件と絡めて見れば、非常に不愉快な映画である。このような映画こそが、プロパガンダ映画というのではないか。何よりも、あれだけその影響が世界に拡がったにも関わらず、この映画の製作者たちの視野はアメリカ国内にしか向いていない点が不愉快だ。
2006年09月03日
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昨日の続きであるが、シリーズの全作品を見ているわけではないので、断定は出来ないが、スーパーマンが戦う悪人には「政治性」や「イデオロギー」というものが感じられない。レックス・ルーサーにしても、飽くなき欲望を抱いているが、それは権力欲というより、もっと無邪気なお山の大将への野望なのである。また、今回の作品の中で戦う相手もテロリストではなく、銀行強盗のようなものである。このように悪人の存在を限りなく現実から遠ざけて(もちろん、このような犯罪者は現実に多いのであるが)いることもこの作品の大きな特長である。しかし、だからといって現実から乖離しているわけではなく、「スーパーマンは必要か」というテーマを考えさせてくれるのである。
2006年08月31日
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「スーパーマン リターンズ」の良さは、ある種のレトロ感ではなかろうか。クラーク・ケントが育った家は、アメリカの典型的な田舎の家である。アカデミー監督賞の「ブロークバック・マウンテン」が、アメリカの原風景にせまったように「スーパーマン リターンズ」もそうである。しかし、これは今回に限ったことではなく、79年の作品からそのコンセプトである。このコンセプトを守る限り、このシリーズは高い好感度を維持できるのではなかろうか。
2006年08月30日
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「美しき運命の傷痕」の原題は「地獄」であるが、まさに「愛の地獄」というべき内容だ。本来ならドロドロの愛憎劇であるところを見事な格調高い演出で、それでいてインパクトある展開で見る者を引き込んでいく。素晴らしい映像と俳優たちの存在感と演技に圧倒され、母親と娘の関係では、「ジャスミンの花開く」も連想させる。いつの時代にも、そこに矛盾や苦悩があるからこそ、人々は愛を求めがちだ。愛は確かに人を救うかも知れないが、果たして愛はオールマイティであろうか。「愛は必要なのか、もし、必要とすれば、それは何故なのか、またどのような愛なのか」と、これは「スーパーマン リターンズ」での「スーパーマンは必要なのか、何故、必要なのか」と同じ問いかけがなされたような気がする。「スーパーマン リターンズ」と「美しき運命の傷痕」とでは、全く異質の作品のようだが、こうして考えるとこれらの映画が生み出された2005年から2006年にかけての時代が見事に反映されて共通点のある「同時代の映画」だと思う。
2006年08月29日
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素晴らしいクレジット・タイトルの映画を続けて見た。まず、「スーパーマン リターンズ」。これは旧作と同じであるが、CGの進化により更に効果的になったようだ。久々に娯楽映画が始まるという興奮を与えてくれる。翌日に見た「美しき運命の傷痕」。鳥の巣、卵、孵化するヒナを万華鏡のような画面で描く。赤に近い茶色系統の色彩が素晴らしい。このタイトルで、この物語のすべてを語っているのではないだろうか。これによって、この映画のキャメラワークが期待されるが、その期待は裏切られることはなかった。大きな空間の中で人間を捉えて、そこから語っていくという手法は、全編を支配し、キャメラワーク自体がこの映画のテーマともなっているのではないか。とにかく奥の深い映画であることを堪能した。2時間もない上映時間とは思えない重量感である。
2006年08月28日
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この映画には隠し味がある。それは、重要な役で出演しているエヴァ・マリー・セイントと「特別出演」のマーロン・ブランド。この二人の共演作といえばエリア・カザンの「波止場」である。この映画「波止場」は、エリア・カザン・リターンズともいうべき作品である。もちろん、あの赤狩りからの生還である。但し、ダルトン・トランボとは違って「転向者・裏切り者」という汚名がつきまとうことになる。映画作家に主張は必要なのか?映画作家には何故、主張が必要なのか?この「スーパーマン・リターンズ」では「スーパーマンは必要なのか」と問いかけがある。スーパーマンは、エリア・カザンとは違ってあらゆる人々から歓迎されるが、時代が何を求めているのか、また求めているのは誰なのかについて、エリア・カザンとスーパーマンの事例は非常に示唆に富む。
2006年08月26日
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ただでさえ珍しいスペイン映画で、しかもナンセンス喜劇。原作は、スペインで40年以上にわたって愛され続けた同名人気コミックであり、本国では大ヒット映画であるという。また、評価も高いようだ。スペインの諜報機関の研究所で、世紀の発明品・最新兵器が完成しようとしていた。ところが、研究所に侵入した男がまんまとそれを奪い去った!諜報機関のトップは、兵器奪還のため、海外から凄腕トップ諜報員フレディを呼び寄せる。ところが、機関一番の無能スパイコンビ、モルタデロとフィレモンが「外国人に負けてたまるか」と行動開始。このふたりの登場で、事態は・・・・!諜報機関、スパイ、独裁国、その独裁者の世襲問題、その独裁国が放った兵器とは?など現実の国や事件を連想させながら展開する、これはとんでもないナンセンス喜劇。ナンセンス喜劇だから気楽に見ることが出来ると思ったら、とんでもない。かなりきつい。さすがはダリやピカソを生んだ国だ。色彩、ドラマの表現がとんでもない。俳優にしても、よくぞこんな人相・容貌・体格の人を集めたものと感心。アクション表現も残酷味があり、ブラックでシュールだ。全体的に非常に濃く、その濃さが「観客を選ぶ」のかも知れない。日本人には決して作れない内容だと思う。喜劇というものは、国の風土や人間性によってかなり変わってきて、なじめないものもあるということを知っておいた方がいかもしれない。
2006年08月03日
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「白バラは死なず」という映画があった。82年のドイツ映画。内容は題名通り白バラグループの物語。「白バラの祈り」がゾフィー・ショルを中心に描いていたのに対して、「白バラは死なず」はグループの結成から処刑までを描いている。大学を舞台にしたナチ政権下の青春映画という雰囲気であった。両作品に共通していることは、どちらもあえてドラマ的な盛り上がりや煽りを排除した作り方であることだ。それゆえ、非常に効果的である。さて、この白バラ・グループについてはハリウッドでも映画化されるとのこと。こちらは、どのようなタッチになるのであろうか?ドイツ出身ということで、監督がウォルフガング・ペーターゼンになる・・・・。まさか・・・・?
2006年07月27日
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「白バラの祈り」を見て、感じることは、これは当時の記録を基に作られた再現ドラマではなく、きわめて今日性のある現在進行形のドラマであるということだ。ここで共謀罪の問題を示唆していることは明らかとして、更に次の点が感じられる。まず、「国論を二分することは、いけないことか?」ということ。ひとつの論を権力があからさまに強制するのではなく、まず、「国論が二分されていると、相手につけこまれる。」というもっともらしい空気を作り、「一方の論を述べること利敵行為」と断罪されるという状況を生み出す。ファシズムというものは圧倒的な政治権力よりも、国民の支持が生み出すものであること。それは国民が判断力や思考力を放棄したときに成立するもので、国民のひとりひとりが自らの判断力・思考力を持つことが権力には、いかに怖いことであるのかということ。ファシズム政権を支持する人々の根底にあるものは情緒的なものであり、決して冷静は思考ではない。ヒトラーがめざしたものも、「美しい国」であり、国民が自信と誇りを持つ国ではなかったのか?
2006年07月26日
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「Jの悲劇」を見た。冒頭のショッキングな出来事から、物語の中心部をなすストーカー事件、そして終結まで緊張感に満ちた演出で語られる。内容やテーマも非常に強い印象を与えるが、注目すべきは、主演のダニエル・クレイグ。ダニエル・クレイグとは6代目007に決定した役者である。これより前には「シルヴィア」で彼女の夫を演じていた。また、「トゥームレイダー」にも出演していたが、これらから007という卓越した個性の人物を演じる役者とは思えないというのが正直な感想。しかし、この「Jの悲劇」において、人が死ぬことに直面したときに見せる苦悩や心の傷のようなものを実に見事に表現できていると思った。彼のこのような表現力やキャラクターからは、これまでにない新しいボンド像を見せてくれるのではないかと思う。これまでにこのイメージに最も近かったのはティモシー・ダルトンであったが、ダニエル・クレイグはそれを更に進め深くしていけるのではないかと思う。
2006年07月12日
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この映画が描いている最大のものはコミュニケーションというものではなかろうか。主人公が訪ねる女性は4人。最初はシャロン・ストーン。なるほど、彼女のこれまでのフィルモグラフィーから、そのようなキャラクターに設定したわけか。それにしても娘の名前がロリータとは・・・。3番目はジェシカ・ラング。動物の言葉が判るとはデビュー作の「キングコング」のヒロインへのパロディか?訪問する毎に女性とのコミュニケーションは壊滅的になっていく。しかし、改めて考えると最初の訪問先においてもコミュニケーションは成立していたのであろうか。映画の冒頭で手紙が投函されて相手に届くまでが描かれる。機械処理のいかにスムーズなことか。それに比べて人間同士のコミュニケーションは何と困難なことか。冒頭のこの場面は、物語の流れを作る上でも、テーマを語る上でも必然であったということだ。
2006年07月05日
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昨年のカンヌ映画祭は「子供」がキーワードであったのだろうか。パルムドール受賞の「ある子供」も審査員特別賞受賞の「ブロークン・フラワーズ」も子供が重要なキーワードである。また、同じく受賞は果たさなかったが、コンペティションに出品の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」との共通点としては、過去への追求という点が共通している。アメリカの原風景に迫った「ブロークバック・マウンテン」も、そのものズバリの「ニューワールド」も、過去にある原点を追及した作品と言えると思う。「インサイド・マン」にしてもあの銀行の原点を考えれば、これは過去への追求という側面がある。ヴィム・ヴェンダースの「ランド・オブ・プレンティ」もまた、ある人物を求めてのロードムービーで「ブロークン・フラワーズ」と共通点がある。今、優れた映画作家たちが、何かある方向に向かって追求を始め、それを我々に提示しようとしているのではないか。アンゲロプロスが「エレニの旅」から取り組み出した現代史3部作がその頂点にあるのかも知れない。他にどんな作家がこのようなアプローチを行っているのか?今、映画から眼が離せない!
2006年07月03日
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ヒッチコックによって考案されたマクガフィンという概念がある。これは、作劇上で、登場人物への動機付けや物語を進めるために用いられる、仕掛けのひとつである。物語の登場人物たちは、非常に重要なものだと考えているにも関わらず、観客にはほとんど説明されていない「何か」である。ほとんどの場合、それは観客にはその物語を鑑賞する上では価値がないようなものである。具体例として「汚名」の「ウラニウムが隠されたワインボトル」「北北西に進路を取れ」の「マイクロフィルムの中の情報」などが説明されている。確かにこれらの映画では、それぞれのアイテムは物語を進める要素ではあるが、それ自体は何の意味もない。観客が、そのことを追求しても意味はなく、もし、そのことに重点をおいてこれらの映画を評価すれば、さほどいい評価にはならないだろう。従って、マクガフィンの扱い方についても映画作家にとってはかなりの技術力を要するということだ。「インサイド・マン」において「銀行強盗」が、マクガフィンであったとしたら、どうであろうか。そもそもこの映画の目的が、銀行強盗という一事件をきっかけに、いろんな場で露呈することになった人種差別や、第一級とされる人物のの汚らわしい過去を描いたものであり、そのような状況をあらゆる立場の人が担って「流血の場こそが金儲けの最大の機会」として実践しているということ描くことにあったとすれば、スパイク・リーがヒッチコックほどにマクガフィンの扱い方が洗練されていないという欠点はあるにしても、この映画の否定派はもう少し減るのではなかろうか。「インサイド・マン」について否定的な評価が案外と多く、それが銀行強盗の動機や目的の描き方に因るものであることから、ふと、そんなことを考えてみた。
2006年06月24日
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そこで主なスターたちについて感想を。◎デンゼル・ワシントン いつも正義漢の役であるが、今回はややダーティーな人物を好演。「病院での事件」とは「ジョンQ」のことか?◎ジョディ・フォスター「パニック・ルーム」、「フライトプラン」と不調であるが、今回は嫌味な役柄を好演。しかし、あえて彼女である必要はないと思うが・・・。◎クリストファー・プラマー「サウンド・オブ・ミュージック」ではナチに抵抗した軍人の役であったが、ここではその正反対。貫禄の悪役。もしかして、次のアカデミー助演男優賞にノミネート?◎ウィレム・デフォーきっと何かあると思ったが、何もない。一体、何の為の出演か?この人が黒幕かとミスリードする為のキャスティングか?◎クライヴ・オーウェン役名はダルトン。ダルトンといえば、4代目ボンド。先のリメーク版「ピンク・パンサー」と同じようにキャスティングされなかったボンドがらみのギャグなのかと思うと面白い。ほとんど顔を見せないという設定であるが、この映画で最も好演であった。脇役でも、趣向をこらしたキャスティングがあるのかも知れない。教えていただければ、ありがたい。シドニー・ポワチエとアル・パチーノもカメオ出演して欲しかった。この映画は、スパイク・リーで成功であるが、もし彼以外であれば、故人であるが、ロバート・アルドリッチがいい。
2006年06月21日
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大変に面白く見た。頻繁に登場する映画ネタも面白いのであるが、この映画が持っているシャープな批判精神がいい。最大のものは「流血の場こそが金儲けの最大の機会」という趣旨の言葉。この映画の中の物語では第二次大戦中にナチに協力して金儲けをした男の行状を指すのであるが、このことが9.11への報復を理由にして、ブッシュ政権一派の石油利権により私腹を肥やしていることへの痛烈な批判であることは明白。だからこそ、1人として殺さない計画が必要であったのだろう。題名の「インサイド・マン」とはリーダーであるダルトン自身のことであり、また国家の内部(中枢)にありながら国民を裏切っている人物のことではなかろうか。
2006年06月19日
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