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「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」は当地のシネコンでは9日からは一日一回の上映となった。それも時間としては22時開始で0時12分に終了。ここから見るのは車を持った客か、歩いて帰宅できるような人がほとんど。このような扱いになった背景には、この作品がさほど興行的には良くないということであろう。やはり、19年ぶりでは、あの当時の勢いや魅力は維持できていないということか。私も老けたハリソン・フォードを見て、今ひとつこの作品に魅力を感じなかった。何作か毎に主演俳優を変えて人気を維持している「007シリーズ」のプロデューサーはしたたかである。
2008年08月08日
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この映画を見た後、とにかく原作を読んでみたいと思った。成長したブライオニーが述べたことは、どこまでが真実なのだろうか?彼女自身、あの時点で既に記憶があいまいになってきており、「このようであったら良い」とか「こうであって欲しい」という願望が自然と反映したものが、あの「告白」ではなかったのか。この映画には、それぞれの年代のブライオニーが見た事実、セシーリアとロビーが体験した事実が、それぞれに異なるではなかろうか。まさに「羅生門」状態である。この「つぐない」は、大河ドラマの形式で描いた「羅生門」ではなかろうか。
2008年08月07日
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「エンジェル」に主演のロモーラ・ガライが出演しているのに思わずニヤリ。作家志望の嫌な女性を演じるにはこの女優は最適ではないか。ロモーラ・ガライが最初に登場するシーンは、なかなか効果的。このシーンだけではなく、撤退する連合軍の兵士が集結したダンケルクの数分間の長回しのシーンなどドラマを盛り上げる映像テクニックが見事である。但し、映像テクニック先行ではなく、正面からドラマを演出した堂々たる大河ドラマとしての魅力がこの映画の良さであろう。ラストは名優ヴァネッサ・レッドグレイヴが登場する。老人となったブライオニーが述べたことは果たして真実なのか?
2008年08月05日
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今回の敵はソ連である。時代設定が50年代の東西冷戦時代であるから、ここは当然。しかし、これまでのナチスが敵役であったのと比べると、いまひとつ悪役としての凄みや魅力に欠ける。演技派ケイト・ブランシェットを起用しても、この有様である。そもそもソ連というものが、ナチスに比べると観客全体から「ほぼ絶対的な悪役」という認知を得るにはやや弱いのかもしれない。アメリカ本土には原爆実験や赤狩りもあり、物語の進行もやや重く、このシリーズの良さであった漫画的な展開とは必ずしもマッチしていない。そんなわけで結局は最後の見せ場は、「未知との遭遇」リターンズともいうべき、あの神がかり的スペクタクルを設定せざるを得なくなったのではなかろうか。戦後を背景にこの種の痛快冒険ドラマは、なかなか作り難いという証明ではなかろうか。
2008年07月28日
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見た直後の感想としては、これでこのシリーズも一旦、完了だなということである。主役のハリソン・フォードの老け顔と大仕掛けのアクションシーンとが、まったく不似合い。老け顔でアクション映画に出演していけないということはないのであろうが、それにはそれに合った演出というものがあるのではないか。ラストのハッピーエンドは、これでこのシリーズも一旦は終了して、次はジュニアのシリーズかと思うのであるが、このジュニアは主役をはれるほどの魅力があるだろうか?
2008年07月27日
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「さよなら。いつかわかること」の音楽はクリント・イーストウッド。まさにイーストウッド映画の世界を彷彿とさせるメロディーである。そこでふと思ったのであるが、この作品をイーストウッドが監督しても良いのではなかろうかということ。もちろん、現実の「さよなら。いつかわかること」に不満があるわけではなく、ここで描かれた世界はイーストウッド映画の世界に通じるものがあるということだ。それは喪失の哀しみである。「許されざる者」、「パーフェクト・ワールド」、「ミスティック・リバー」などは、まさに「喪失の哀しみ」を描いたものである。だから、イーストウッド監督の「さよなら。いつかわかること」も十分に期待できるのである。
2008年07月25日
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ジュリー・デルピーという女優は常に話題なるような派手な存在の女優ではないが、15歳でゴダールに見出され、最初の映画出演が彼の「探偵」であり、その後にはレオス・カラックスやクシシュトフ・キェシロフスキという作家の作品にも出演するなど、キャリアとしては見事な女優である。おそらく出演作を選ぶ女優なのであろう。「パリ、恋人たちの2日間」はその彼女の初の監督作品。製作、脚本、音楽、そして主演とほとんどワンマン映画であり、まるでウディ・アレンを連想させるが、作品のティストはよく似ており、大いに楽しめる。ポイントはアメリカとフランスのカルチャー・ギャップ。時事問題もからめて思わずニヤリとさせられる。ラストのクレジットタイトルは普通なら、無味乾燥の文字列であるが、この作品は工夫もあって楽しかった。フランスとアメリカのカルチャー・ギャップといえば、アメリカ人の刑事がフランスに乗り込んで捜査をする「フレンチコネクション2」も印象に残る。
2008年07月22日
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「幻影師アイゼンハイム」の予告編を見たときに、あるシーンについて「これはもしかしたら、本編のラストシーンではないか」と思わせる、そんなシーンがあり、実際に本編を見ると、ラストシーンそのものではないが、ラストシークエンスの一場面であった。実はチラシに「『ショーシャンクの空に』以来の爽快なラスト」とあり、そこからの推理であった。多分、オチはこうではないかと感じたものだが、その推理は的中した。だからといって、見ている間、決して退屈とかつまらないとかは全く感じなく、全体を覆う世紀末ウィーンのムードは実によく出ていて物語の世界に引き込まれた。途中で、これは本当にあのラストに続くのか、私が勝手にラストはきっとこうだと思った予想は間違いかとも思ったりした。だからこの映画はある程度は、筋が判っていても決して退屈するようなものではないと思う。ただひとつ残念だったのはヒロインのジェシカ・ビール。皇太子のフィアンセになるほどの気品や美貌が不足している。少女時代の方が魅力的であった。ヒロインの魅力不足を助演のポール・ジアマッティとルーファス・シーウェルが救っている。
2008年07月21日
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この映画には大きく二つの物語がある。まず、主人公アイゼンハイムとソフィー。そしてソフィーの結婚の相手となっている皇太子。この三角関係の中のアイゼンハイムとソフィーの恋の行方。もうひとつは皇太子に追従することで警察官僚からウィーン市長への出世街道を歩むウール警部。観客はっこのウール警部の視点でこの物語を見ることになる。このウール警部が実はマジックに非常に関心を抱いているという点が効いている。実は、この映画はアイゼンハイムとソフィーの恋物語として見るよりも、ウール警部が権力追従から自己を解放していく物語として見る方が面白いのである。組織の縦社会の中で生きていく苦渋のようなものをウールを演じるポール・ジアマッティが見事に表現していると思う。
2008年07月20日
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ジョン・キューザック演じるスタンレーは最初から最後まで悲しく元気のない表情である。途中で笑ったり、はしゃいだりするシーンはあるのだが、それらは非常に作為的なもの。その理由はただひとつ。「グレース・イズ・ゴーン」である。戦争の悲劇の最大のものは愛する者を失うことである。そしてその本人にとっては自分の人生がそこで断ち切られることである。戦争とは仕方ないことだとか必要悪だとかで認める人々がいるが、その人たちはそのような悲劇をリアルに考えたことがあるだろうか?このような状況に人間を追い込み、死を強制する権利がはたして国家にあるのだろうか?それを命じた者は何ら傷を負うことはないのである。「さよなら。いつかわかること」は、そのような戦争の悲劇を実にリアルに伝えてくれる。この映画には銃弾が飛び交う戦闘シーンは全くないが、まさにストレートな戦争映画であると思った。
2008年07月19日
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父親と娘二人が共に旅をするというだけのシンプルな構成の映画であるが、非常に内容のつまった仕掛けの大きな作品である。ロードムービーによくある旅する人物たちの心情の変化。その変化を促す出来事。それぞれの人物たちの性格。そして、彼らを包み込む社会全体という大きな世界の出来事。それは直接的に描かれることはないが、最も大きく作用している。おそらく父と娘二人が表面上の主人公であるとすれば、その彼らを包み込む社会全体が真の主人公ではなかろうか。何よりも「妻の不在」、これこそがこの作品の最大のポイントである。日本語題名もいいが、原題の「GRACE IS GONE(グレース・イズ・ゴーン)」こそがこの映画のテーマであろう。
2008年07月18日
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監督、脚本、製作をこなしたのは、アニーの実の妹のバーバラ・リーボヴィッツ。ここで言う「レンズの向こうの人生」とは、アニーのキャメラのレンズの向こうにあるセレブたちの人生なのか、それともこの映画の監督の下で動くキャメラのレンズの向こうにあるアニーの人生なのか。この映画は、おそらくアニー本人の実像に迫ることを狙ったのであろうが、それは上にあげた二つのレンズの向こうを共に描くことから初めて出来るものであろう。はたしてそれは成功したのであろうか?極めて疑問である。アニー・リーボヴィッツ という優れた、しかもいささかモーレツな写真家について人物事典的に描くことは出来ても、それ以上のものではないような気がする。もしかしたら、実の妹である監督のねらいは、アニーの内面にするどく迫るのではなく、リーボヴィッツ家の人々への限りなき愛情に満ちたイメージを作ることであったのかも知れない。
2008年06月29日
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旧ユーゴ紛争における集団虐殺の首謀者を追う国連検察官を描いたドキュメンタリー映画「カルラのリスト」と並べて上映したら、もっと面白くなるのではなかろうかと思った。特に、この「ハンティング・パーティ」のラストの背景と後日談を語る部分のブラックユーモアは、「カルラのリスト」を見ておくともっと生きてくる。もちろん、この映画だけでも十分に面白い。リチャード・ギア演じる落ちぶれた戦場レポーターが何か活躍しそうで結局は全く活躍できない男であったという設定が面白い。結局、どのような立場に立とうとも戦場に英雄やヒーローはいないということか。社会派映画でありながら、体裁はアメリカの伝統的な娯楽映画スタイルである「バディムービー」となっている。海千山千の男二人に世の中に出たばかりのお坊ちゃんを一人からませたところは、ロバート・アルドリッチの「北国の帝王」を連想させる。
2008年06月24日
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この映画は面白いかと問われれば、それは断然、「面白い!是非、見に行け!」と答えるだろう。確かに、ボブ・ディランという人物が持つ様々なイメージを6人のキャラクターが演じて、大胆な構成で作られた映画であり、ボブ・ディランについての様々なエピソードが満載のようで、興味をかき立ててくれる作品である。6人のどれが一番、ボブ・ディランに近いのか、そしてそのものなのかという問いについては題名の「アイム・ノット・ゼア」というのが真相なのだろう。しかし、一人の人間の中には様々な要素があることはボブ・ディランのような人物に限らず、誰しもに当てはまること。ひとりの人物を6人の俳優で演じ分けるのも考えてみれば、それほどの新手ではないような感じだ。ボブ・ディランという複雑で巨大な「事実」に翻弄されて作家としての「新解釈」を出しえなかったのが、この面白い作品の最大の欠陥ではなかろうか?私はこの映画を見終わって「市民ケーン」をボブ・ディランを素材にしてリメークしたら、どうなるだろうかと考えた。ボブ・ディランにとって「バラのつぼみ」とは何であろうか?
2008年06月16日
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彼の代表作のひとつ「風に吹かれて」のジャケットのこの写真。これと同じシーンが登場する。ただし、正面からではなく、俯瞰で捉えられている。リチャード・ギア演じるビリーとは当然、ビリー・ザ・キッドのことで、ボブ・ディラン自身が俳優としてペキンパの「ビリー・ザ・キッド21歳の生涯」に脇役であるが、出演していることからのものであろう。シャルロット・ゲンズブールが重要な役で出演していることから、60年代から70年代にかけて俳優、歌手、そしてスキャンダル・メーカーとして時代の顔であったジェーン・バーキンの存在が浮かび上がってくる。この映画はボブ・ディランの6つのイメージと共に60年代から70年代を浮かびあがらせるのである。
2008年06月14日
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「スルース」の脚本はハロルド・ピンターである。ハロルド・ピンターといえば、60年代にはジョセフ・ロージーとのコラボレーションがあり、中でも「召使」と「できごと」は印象深い。今回の「スルース」は、「召使」に非常に近いのではないかと思う。重なる部分はあると思う。「召使」は上流階級の男(ジェームス・フォックス)が召使としてやとった男(ダーク・ボガート)との間でいつの間にか力関係が逆転するという内容で、非常に怖い内容であった。今回の「スルース」にもこの「召使」に通じる部分があるので、期待をした。確かに筋立ては巧く、見るものを飽きさせない。しかし、「召使」ほどのインパクトはない。ピンターの腕が鈍ったのか、ケネス・ブラナーの演出力がだめなのか・・・?ジョセフ・ロージーとピンターのコンビ作のリバイバル公開を期待したくなった。
2008年05月31日
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オリジナル版を見ているので、ストーリーやトリックは判っているが、それでもぐいぐいと引き込まれるのは主役二人の演技力なのか、ケネス・ブラナーの演出力なのか。いやもしかしたら、前作を上回るものがあるかもしれない、それはどこかというこちらの好奇心か、前作より劣るところはどこかというあら探し精神なのか。(「隠し砦の三悪人」もその精神で見に行けば、いいのであるが)今回の作品を決定づけたのはジュード・ローのキャラクターであろう。ハンサム・スターでありながらも、どこか変態的なティストを醸し出す彼のキャラクターが、この作品の雰囲気を支配している。しかし、前作がローレンス・オリビエに代表される旧世代へのマイケル・ケイン代表する新世代への挑戦であり、世代交代宣言であったのに対して、今回はどうであったろうか。ケネス・ブラナーが「俺様宣言」をやろうとして、実はうまくいかなかったということではないかと思うのだが・・・。最後に車で来たのは誰か?これがこの作品のポイントではないだろうか。30年後にジュード・ローがマイケル・ケインの役を演じた「スルース」が登場することを期待したい。
2008年05月29日
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エジプトのアレキサンドリア警察音楽隊がイスラエルに到着したとたんに道に迷う。警察音楽隊らしく威厳のある制服姿で、それぞれ楽器を抱えてホテルもない田舎町で過ごすことになる。ユダヤ人の地へアラブ人が迷い込む。そこに政治的緊張の中で、彼らがどのように対応するのかが、この映画の核かと思ったら、全く違った。迷子になったのは警察音楽隊だけではなく、彼らが迷いこんだイスラエルの田舎の人々もまた、迷子であったのだ。それは人生の迷子。そこには国家間の対立、民族の対立など介入する余裕はなく、次元が違う。そんな中で一夜に出会った人々が模索しながら、迷子であることからいかに抜け出るかを描いた作品である。この映画は、国家間・民族間の対立など幻のもので、それぞれの人はもっと人間としての悩みや希望の中で生きているものだ、もっとそこを見つめようと訴えているようだ。アキ・カウリスマキのようなトーンが魅力的であった。
2008年05月27日
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いろいろと不満の残る「君のためなら千回でも」であるが、「凧揚げ」のシーンは素晴らしい。キャメラも凧と一緒に舞っているようで、見る者に快感を与えてくれる。このような場面は映画ならではであろう。この映画における「凧」は、おそらく自由への憧れであり、自由の象徴として描かれていると思う。「潜水服は蝶の夢を見る」における蝶と同じと思う。「潜水服は蝶の夢を見る」の原型かと思われる「ジョニーは戦場へ行った」のダルトン・トランボは、「パピヨン」のシナリオを書き、そしてアフガニスタンを舞台にした「ホースメン」のシナリオも手がけた。この作品の監督はジョン・フランケンハイマーである。最近、見た映画にはダルトン・トランボやジョン・フランケンハイマーのイメージがつきまとうのは何であろうか?
2008年05月26日
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「君のためなら千回でも」の主人公アミールが故国アフガニスタンを脱出したのはソ連軍侵攻時、そして再び故国に戻ったときの支配者はタリバンであった。「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」の物語は、その中間におさまるわけである。ソ連軍という侵略者が撤退しても、次に支配者となったタリバンの統治はやはり残酷なものであったことが描かれる。タリバン支配によってアフガニスタンは更に荒廃を深めている。ここではソ連軍の支配がどのような状況であったかは描くのを避け、タリバンの苛酷な支配をのみ描いたのはやはりアメリカ映画だからであろうか。当地では偶然にも「君のためなら千回でも」と「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」が同時期に公開されたが、「君のためなら千回でも」を見ることによってチャーリーたちの行動がいかに中途半端なものであったのか、そしてアメリカ映画というものが、状況をいかに巧妙に描きながら良心作のオブラートにくるまれているがわかる。
2008年05月25日
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この作品の監督マーク・フォスターの次回作は「007シリーズ」の新作であることを知って、この映画を見る。彼のこれまでの作品やこの「君のためなら千回でも」と「007」とはかなり隔たりがあることを感じるので、一体、どうなのだろうかと期待と不安である。しかし、「君のためなら千回でも」を見ているうちに、この映画がアクションによくある構成に非常に似ていることに気付く。かって非常に親しく、相棒としてコンビを組んでいた二人。しかし、あるときにふとしたことから相手を見捨てることに。後悔の念を抱きながらも別のミッションで他国へ。あるとき故国から見捨てたかっての相棒が危機に陥っていることを知り、危険をかえりみず故国へ。そして、かっての相棒が死んだことを知り、囚われている彼の家族を救出へ。こう書くと、この映画はよくあるスパイアクション、ヒーローアクションの構成とほとんど同じである。事実、アフガニスタンに戻ったアミールがハッサンの息子を救出するシーンは、「ランボー・シリーズ」の題材にもなりうる。そんなわけで「007/慰めの報酬」も期待できそうだ。この作品の原作は、アメリカに亡命したアフガニスタン人の自伝的小説であるが、映画になったことでアメリカ人の視点に変わっているような気がする。これがもし、完全にアフガニスタン人だけのスタッフで製作したら、どこかどのように変わるのか非常に興味がある。
2008年05月24日
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ジュリア・ロバーツは「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」に出演するにあたって「自分の現実からほど遠い人物を演じたかった」とのこと。「プリティ・ウーマン」や「ノッティングヒルの恋人」の世界にいつまでも囚われていたくないという意欲であろう。ファンとしては、非常にうれしいのであるが、さて、この作品でトム・ハンクスとジュリア・ロバーツの起用は成功したのであろうか?例えば、マイケル・ダグラスとグレン・クローズであれば、この作品はもっと説得力が出たのではないかと思う。それにしても、この作品は、あまりにも事実に寄りかかりすぎだと思う。
2008年05月20日
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正義と民主主義の名のもとに武力介入するアメリカの姿勢のナンセンスさについては、「地獄の黙示録」におけるフレンチ・プランテーションでクリスチャン・マルカン演じるその主人によって痛烈に語られる。マイク・ニコルス自身は、戦争における不条理と矛盾を「キャッチ22」で当時のベトナム戦争を意識して痛烈に描いた。今回の作品「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」がこれらを上回ったかというと、そうではない。そもそも「地獄の黙示録」や「キャッチ22」は何年かに一度の傑作であり、比較自体が無意味かもしれない。それにしても、トム・ハンクスとジュリア・ロバーツがうまく活かされていたかというとそうでもない。全体的にもあまりにも実話であることに寄りかかりすぎで、そこから映画的魅力を生み出したかというと、そこも不満である。こうしてこの映画について欠点をあげると限がないが、アメリカではごく一部の金と発言力と人脈のあるセレブの極めて私的なローカルな動機で簡単に武力行使が出来ることを描いたという点は評価できると思う。アメリカの戦争というものは、そういうものであろう。では、日本はどうか。祖父が出来なかった改憲を自分がやろうという安倍政権の姿勢も似たようなものだ。日本の場合、そういう動機の政権が生まれたということで、これはある意味、アメリカ以上の異常さである。
2008年05月19日
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主演のトム・ハンクス、ジュリア・ロバーツ、フィリップ・シーモア・ホフマン。そして監督のマイク・ニコルズ。すべてアカデミー賞受賞経験者というすごい顔合わせの作品で期待するなという方が無理。しかもジュリア・ロバーツは久々の出演作!彼女とトム・ハンクスとは、これまでどちらも好感度の高い人物を演じており、この二人の顔合わせならば、痛快で陽性な作品が生まれることを期待したくなる。さて、実際はどうかというと、これが全く正反対。二人が演じる人物は、どちらかというと嫌なキャラクターである。ファンとしては、ジュリア・ロバーツにこんな人物を演じて欲しくない。そうした落差に戸惑いながら見ていったわけであるが、この作品は非常に皮肉が効いている。「ひとりのお気楽議員の活躍が世界を劇的に変えた」というキャッチ・コピー、確かにこれは間違いではない。もし、チャーリー・ウィルソンの活躍がなければ、もしかしたら、今のアメリカはなかったかもしれないのだ。ヒマをもてあました一人のセレブ女性の「正義感」が今となってはどのような結果を生んだのか、これは極めて教訓的な物語である。それにしても、アメリカという国は、こんな「戦争」もできる国であることを改めて知らせてくれる。
2008年05月18日
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「戦争と映画は共犯関係だった!」というコピーが帯カバーに記載されている「戦争の映画史」(朝日選書、藤崎康・著)を購入。この帯カバーのコピーは的確な表現で、戦争を暴力という言葉に置き換えても成立する。いきなりPART2で述べられるスピルバーグの「宇宙戦争」から読み始める。非常に面白い論評で、当時、この映画を初めて見たときに抱いた失望感が、実は勝手な思い込みであったことを知り、同時にやはりこれは「9.11」以降でなければ生まれなかった作品であることを改めて感じる。この映画の後が「ミュンヘン」であったことは非常に意味深いと思う。この「宇宙戦争」を公開直後に見た頃の日記をふりかえって見ると次の通りであった。2005年7月15日2005年7月16日2005年7月18日「『宇宙戦争』への批判は、少し早すぎるような気もする。」と結んではいるのだが。
2008年05月15日
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映画「いのちの食べ方」に描かれた食品工場の労働者のことを非人間的だとか、あのような場に慣れてしまっているとか言うことは簡単であるが、あの労働者たちのことは、決して他人事ではないと思う。私たち自身が、そのようなシステムに組み込まれているわけだし、別な面では私たち自身が、そのような側面を持っている。それは異常なるものへの慣れということだ。税金の無駄使い、企業の不祥事など多少の事件が起きても「またか」という感情になること自体が、既に異常なのである。慣れることによって、私たち自身が、気づいたらどうしようもない「ロックト・イン・シンドローム(閉じ込め症候群)」になって、回復できない状況にあるのかも知れない。「いのちの食べかた」も「潜水服は蝶の夢を見る」も極めて政治的なテーマを含んだ現代的な内容の作品である。まさに時代の鏡だと思う。
2008年05月14日
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この映画でショックなことは「命」が、巨大なオートメーション工場の中で「食品」に変えられていくプロセスであり、そのプロセスに従事する人々も淡々としていることである。吊り下げられて次々と運ばれていく豚の足を鋏のようなもので切り取っていく人。鶏の首を切りそろえていく人。いずれも、まるで自動車は電気製品の部品を付け加えるようで、そこには、少し前まで生きていたものを扱うような「畏れ」は感じられない。おそらく人は、あるシステムや仕組みに組み込まれたら、そのようになるのではなかろうか?戦争という場においては、それが最も発揮されるのではなかろうか?かって試し斬りで捕虜を殺したり、銃剣で赤ん坊を殺した兵士も、そこにはためらいや畏れなどはなかったのではなかろうか?まじめに言われた通りにやっただけではなかろうか?この映画は図らずも戦争の本質を描いたのではないかと思った。
2008年05月13日
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この映画を見ながら思い出した作品に「海を飛ぶ夢」と「ジョニーは戦場へ行った」がある。内容としては後者に近い感じがする。これは赤狩りの嵐をくぐりぬけた脚本家ダルトン・トランボの最初で最後の監督作品である。これも非常に悲惨な重い内容であったが、瑞々しい映像が、それを救っていた。このトランボが、その後シナリオを手がけた作品として「パピヨン」がある。無実の罪で投獄された男の執念の脱獄を描いた、まさにいかにもトランボらしい内容であった。題名の「パピヨン」とは、もちろん蝶のこと。蝶とは自由のシンボルである。
2008年05月12日
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この題材であれば、ともすれば、暗く絶望的なトーンになりがちであるが、そこを落ち着いた明るい色調の美しい画面が救っている。いかなる絶望的な状況、がんじがらめになった状況であっても、それを救うのは「想像力」だということであろう。この映画を一人の男に起きた状況ということではなく、がんじがらめにされ、見るものも限定され、動くことも語ることも出来ない管理国家あるいは独裁国家の国民の物語とすれば、この映画はもっと身近になる。権力が最も恐れるものは、人々の「想像力」であろう。だからこそ、「愛国心」などという精神的な範囲にまで権力は法的強制力を及ぼそうとしているわけだ。
2008年05月11日
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この映画を見ながら連想した映画がある。それは「2001年宇宙の旅」である。映画「いのちの食べかた」では音楽が使われることもなく、台詞もなく、またナレーションもないという演出は、映画「2001年宇宙の旅」に非常に似ている。「2001年宇宙の旅」ではクラシックの名曲が実に効果的に使われているが、宇宙船、宇宙ステーション、月面基地など宇宙での日常を描くシーンでは音楽は使われていない。宇宙船ディスカバリー号内部で飛行士たちが運動したり点検しながら走ったり、歩き回るシーンの機械音や空調などの音と、この「いのちの食べかた」の食品工場の内部の音とは非常に良く似ている。思い出してみると、「2001年宇宙の旅」には未知の宇宙で活動しているという感動を個々の登場人物が持っているというより、そこはまさに日常であるという描き方。まさに、宇宙生活のドキュメンタリー映画という内容であった。(但し、後半は一転してスリリングなドラマとなる)この「いのちの食べかた」もまた、それは共通している。「いのち」をいただく仕事であるが、そこには驚きや感動はない。オートメーションの巨大なシステムの一要素となって、淡々と働き動物の命を食品に変えていくのである。この映画では時として、驚くほどに美しいシーンを見せてくれる。それは極めて非日常的な美であり、それも「2001年宇宙の旅」と共通している。
2008年05月10日
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この映画の原題を日本語に訳すると「我らが日々の糧」。その題名通り、この映画は、私たちが毎日食べている肉、魚、野菜、果物などがどのようなプロセスを経て食卓に並ぶのかを描いたドキュメンタリー映画である。かなりショッキングな内容だ。このように言うと牛や豚の屠殺シーンがあるからだろうと思われるかもしれないが、そうではない。ここに描かれているのは2003年から2005年にかけてのヨーロッパ各地の農園や畜産場であるが、まるでSFに登場するような情景が画面に映し出される。最低のコストで最大の生産量と利益をあげる機械化されたもので、オートメーションの自動車工場のようなシステムの中で「生命」が「食品」に変化していく。そうした巨大なシステムの中に「私たち」も位置づけられているということだ。そのことに気づいたときに、私は大きなショックを受ける。エルマンノ・オルミの「木靴の樹」で家畜の屠殺シーンがあるが、あのような土着性や神々しさなどは全く感じられない。
2008年05月06日
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「無関心であってはいけない」「大いなる陰謀」を作るにあたり監督のロバート・レッドフォードが最も言いたかったことは、これであったと思う。この作品を構成する3つのエピソードは、その主張を効果的に表現する為に配置したものであろう。また、地味な内容ゆえ注目度をあげる為にも3名の大スターをキャスティングすることは必要であったと思う。昨日の日記への3名の方のコメントはすべて同意できる。主張をストレートに描くことではなく、あえて作家の苦悩や苛立ちをそのまま表現したことは、もしかしたら、確信犯的行為であったのかも知れない。映画的魅力に欠けると切り捨てるのは簡単であるが、そうはしたくないものがこの作品にある。E.T.さんが書かれているように「4年前のブッシュ大統領再選」のときであれば、もっと違った評価になったのかも知れない。それが出来なかった忸怩たる思いがレッドフォードの中にあったのかも知れない。映画の中のマレー教授と学生トッド。二人ともレッドフォード自身が反映されているのではなかろうか。
2008年05月01日
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日本題名の「大いなる陰謀」から受けるイメージでこの映画に接すると違和感や失望を得ることになるかも知れない。3つのエピソードから成り立っているが、いずれもほとんど会話だけで展開される。いずれも何かの結論が出るわけではなく、そこにはスペクタクルやサスペンスはない。しかし、この映画「大いなる陰謀」は、現代において非常に重要なメッセージを伝えた作品ではなかろうか。対テロ戦争において新しい作戦をマスコミにリークして、プロパガンダをやらせようとする政治家とそこに陰謀を感じ取り、手を打とうというジャーナリスト。アフガニスタンの作戦に兵士として参加した若者。その若者を教えた大学教授の苦悩。これらはアメリカの縮図であろう。とりわけ貧しい階層の若者が結局は兵士として戦場に行かざるを得ない状況は、マイケル・ムーアの「華氏911」でも描かれているが、この作品でも語られる。これは、アメリカ映画であるから、アメリカの現代を反映した作品であるが、単にアメリカのことではなく、日本でもいかに社会に参加するかという課題で考えれば、この作品の中でレッドフォード扮する教授の台詞には教えられることは実に多い。映画の内容としては、あの若者はこれからどうなるという観客の想像力や思考力に委ねた作品である。
2008年04月30日
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主人公は可愛い孫の治療の為、心ならずも風俗店で働く普通の初老の女性。その女性をマリアンヌ・フェイスフルが演じる。彼女はほとんど出ずっぱりで、現在の彼女の姿をたっぷり見ることが出来る。私は「あの胸にもういちど」の彼女を思い浮かべながら、この「やわらかい手」を見ていたが、これら二つの作品のヒロインの間には、さほどの距離感はない。実人生でスキャンダルに満ちた地獄のような日々を通ってきた彼女だからこそ表現できるこの説得力。これはすごいことだと思う。おどおどした様子など、彼女の持つイメージからは遠いが、違和感はない。ラストの近くなるにつれ、彼女の表情にひとつの確固たる意志が顕れてくる。そして、近所の噂好きの女性たちの見下したような態度に対して見事な返り討ちをする。ここは実に痛快。この作品は、もしかしたら、「ライフ・オブ・マリアンヌ・フェイスフル」かもしれない。
2008年04月28日
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現代と50年代をまたぐ物語。死期迫る病床の主人公アンにヴァネッサ・レッドグレイヴその親友ライラにメリル・ストリープ50年代と若き日のアンをクレア・デインズ。若き日ライラはメリル・ストリープの実の娘メイミー・ガマーアンの長女にヴァネッサ・レッドグレイヴの実の娘であるナターシャ・リチャードソンライラの母親はグレン・クローズというすごいキャスティングである。この中では、メリル・ストリープが一番出番が少なく、ラスト近くにわずかなのであるが、彼女が全部さらっていく。さすがである。ヴァネッサ・レッドグレイヴとメリル・ストリープとはもしかしたら、「ジュリア」以来であろうか?物語と人物設定は、ダグラス・サークの「風と共に散る」に似ているようだが、これを実際にご覧になった方はいかがであろうか?
2008年04月24日
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映画「王妃の紋章」では、王は宮廷に命じて王妃の為に薬を調合させ、毎日、決まった時刻に服用させる。それは王妃においては絶対的な掟。その薬には特別な仕掛けがしてある。毒が一気に効くのではなく、長い時間をかけてその効果は顕れてくる。このことは現実の我々自身にもあてはまることである。現実社会の我々の場合には、経済的なものであったり、世俗的な快楽であったり、それらは長い時間かけて我々の神経を麻痺させてしまう。また、これくらいの制限や不自由は仕方ないだろう、これは、もしかしたら、おかしいかも知れないが、歯止めがありそうだから大丈夫だろうと信じこんでも、結果として、その歯止めは何の実効性も発揮しない。これは、まさに現在の日本のことである。
2008年04月22日
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「王妃の紋章」が権力者が、その権力を維持する為にどのようなことを行うかを描いた作品であるのに対して、この「モンゴル」は権力を確立するまでのドラマである。テムジンが全部族統一に向かうことになった背景にあるものは「報復の連鎖」ではなかろうか。テムジンが求めたものは平和であったが、そのような果てにあるものが、果たして平和と言えるものかどうか?現代にも通じるこの問題を、監督がどのように描こうとしたのか、3部作と言われる中の1作だけでは判らない。しかし、激しい戦闘シーンがありながらも、全体のトーンは静謐で、モンゴルの平原の様々な表情を優れた自然描写で見せてくれるこの作品は非常に魅力的である。
2008年04月21日
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マリア・カラスと最初の夫ティッタ・メネギーニとの関係は、まるで「マイ・フェア・レディ」におけるイライザとヒギンズ博士を連想させる。メネギーニにとってカラスは原石から育て上げる対象であり、恋人や妻というよりは父親ではなかったか。一方のオナシスの動機は、おそらくは一流のものを手に入れたい、自分のものにしたいということが最も大きな動機であったろうが、カラスにとっては強くひかれる存在であったのではなかろうか。無一文から海運王にのし上がったその豪腕こそがひかれる要因であったに違いない。カラスにとってオナシスとの恋は、最後の恋であると同時に最初の恋であったと思う。この二つの関係を比較する形で展開すれば、もっと面白い映画になったのではないかと思う。
2008年04月18日
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この映画を見ながら、これはどこかで見たことがあるという感覚が生じた。その映画とは78年のアメリカ映画「愛はエーゲ海に燃ゆ」。原題は「The Greek Tycoon」。オナシスをモデルにした内容で、ジャクリーン・ケネディとの関係をストーリーの機軸にすえ、当然、マリア・カラスに相当する女性も登場するが、ここではオペラ歌手ではなく、舞台女優であった。そのタイクーンを演じたのがアンソニー・クィン。今回、オナシスを演じたジェラール・ダルモンよりずっと適役。さて、今回の「マリア・カラス最後の恋」であるが、原題が「カラスとオナシス」とあるように、これはオペラ歌手としてのカラスというより一人の恋する女性としてのカラスのオナシスとの愛憎劇を描いたという方があたっている。しかし、その愛憎劇も観客に要領よくまとめて描いたという感じで、いまひとつの深みや衝撃はない。単にセレブの愛憎にとどまるのではなく、もっと普遍化したものが欲しかった。主役二人にさほどの存在感がなかったことも、作品自体を貧相にした原因かもしれない。その意味では「永遠のマリア・カラス」のファニー・アルダンは良かった。この映画で最もショックであったのは久しぶりに見たシドニー・ロームである。
2008年04月13日
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「ゴジラ」(1954年版)は日本人の戦争体験と被爆体験が色濃く反映された作品であり、あの作品こそは時代が生んだ傑作だと言えよう。それと同じように「クローバーフィールド」は、アメリカ人が9.11同時多発テロを体験したことによって初めて作られた作品ではなかろうか。その意味では、この「クローバーフィールド」は「ゴジラ」の正統的な後継作品である。「ブレアウィッチ・プロジェクト」風の映像との予想であったが、実際に見てみると「ユナイテッド93」や深作欣二が「現代やくざ人斬り与太」で試みた16ミリで撮って35ミリにブローアップした映像に近い演出だと感じた。物語は徹底的に襲撃を受けた市民の視点である。それゆえ、ラストのセントラルパークの場面には不条理にも巻き込まれていく悲劇的無常観のようなものを感じることが出来た。エンドタイトルで流れる音楽には「ゴジラ」へのオマージュに満ちている。
2008年04月08日
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「現在の境遇がどうであれ、夢に向かって自らの才能を信じて進んでいく」このことは何をやるにしても必要なことであり、同時にこのような生き方は「良き生き方」と評価されると思う。この映画の主人公エンジェルは、まさにそのような生き方を貫いた女性であるが、彼女の人生を見て多くの人は、憧れながらも軽蔑するのではなかろうか。彼女に欠けていたものは何であろうか。この映画は、エンジェルという個別・特殊な女性のことではなく、多くの人に当てはまることではなかろうか。「美しい国づくり」を夢見て総理になった安倍晋三という人物もまた、この映画の主人公エンジェルと同様の「イタイ人物」ではなかったのだろうか。(こちろん、安倍の方がより迷惑度は高いが)そして、死ぬ間際も死後も、エンジェルの作品は、全く顧みられることはなく、それに対して生きているときは不遇であったエスメの絵は、死後に評価され、邸宅はその作品の展示館となるという落差。芸術家として、どちらが幸福であろうか?この作品はオゾンらしいティストは極めて薄味であるが、彼自身が生きている映画界や創作の世界へのひとつの裏目読みであり、自省のメッセージをこめた作品かも知れない。
2008年04月06日
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これまでの王家衛監督作品は、舞台となった場所の空気感、登場人物が話す言語、そしてそれらを写すキャメラ、そして音楽によって成立っていたのではなかろうか。これまでの作品との大きな違いは、・舞台がアメリカであること・登場人物が英語を話す俳優であること・キャメラマンがいつものクリストファー・ドイルではない。であるが、これらの要素が複合作用することによって、従来、彼の世界を覆っていた独特の緊張感がなくなったのではなかろうか。これらのうち、やはりキャメラマンの差は大きいのではなかろうか。今回のキャメラマン、ダリウス・コンディはジュネの作品「デリカテッセン」や「ロスト・チルドレン」、そしてハリウッドでは「セブン」などで、あれだけ独特の特異な世界を表現できたキャメラマンであるにもかかわらず、その技量は発揮できなかったのはどういうことか?もしかしたら、王家衛監督がダリウス・コンディに従来のドイル流を押し付けたのか、それともコンディがドイル流を踏襲しようとして失敗したのか。この作品からは、監督とキャメラマンの相性や共同作業のあり方を伺い知ることができ、非常に興味深い。
2008年04月04日
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王家衛監督の新作「マイ・ブルーベリー・ナイツ」は失敗作である。しかし、過去最大の失敗作「楽園の瑕」と比較すると、これが名誉ある失敗作であるのに対して、今回は単に凡庸なだけの失敗作である。この作品の最大の欠点は、王家衛独特の緊張感がないことである。王家衛とは、これほどまでに女優の使い方が下手であったのか。ノラ・ジョーンズ、レイチェル・ワイズ、そしてナタリー・ポートマンが揃って魅力的ではない。ノラ・ジョーンズはフェイ・ウォンの再来とはならなかった。彼の魅力は、やはりアジアの俳優でクリストファー・ドイルのキャメラによって初めて表現できるのであろうか。物語や描かれている要素は、まさに王家衛の世界だ。香港に戻って、エリザベスにフェイ・ウォン、スー・リンにマギー・チャン、レスリーにチャン・ツィイーでリメークして欲しい。もちろん、キャメラはクリストファー・ドイルで。
2008年04月01日
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25日の日記で「バンテージ・ポイント」の出来は編集技術によると書いたが、この編集技術が大きく支えている作品は、この「バンテージ・ポイント」に限られない。最近の映画の大きな傾向である。登場人物の個性を描くことで、それを演出することでスリルを盛り上げるという手法ではなく、短いショットでアクションシーンをつなぐことで盛り上げようという手法に変わってきている。このことは、「ダイハード」の第1作から昨年公開された「ダイハード4.0」を比較するとよくわかる。「ダイハード」以前のアクション映画の代表的存在といえる「ブリット」や「ダーティー・ハリー」は、まさにヒーローのキャラクターが主役であり、派手なアクションは添え物であったと思う。編集で見せるとは、これは本編ではなく予告編である。「バンテージ・ポイント」は上映時間は約90分と、本編としては短い方であるが、これは「長い予告編」である。それにしても、この予告編的本編はいつ頃から主流になったのであろうか。80年代中期に隆盛を極めたスタローン・シュワのマッチョ破壊アクションあたりが起源かと思うのだが、いかがであろうか。
2008年03月29日
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「バンテージ・ポイント」は面白い映画である。携帯電話などハイテク機器など現代仕様の小道具やカーチェイスもあり、見せ場は多い。しかし、この映画の面白さやスリルは俳優たちの演技や演出ではなく、ほとんどが編集技術に負っているような気がする。だから見終わって、登場人物やそれを演じた俳優たちの印象がほとんど残らない。それに終盤のカーチェイス場面は、実はストーリーとしては、ほとんど終わっているので、あのカーチェイスは場面の激しさほどにはスリルを感じさせないのである。
2008年03月25日
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この作品の上映時間は1時間30分で、最近の映画の中では短い方。もともと娯楽映画の最適な長さはこの程度だと思う。以前、2本立てが主流であった時代の娯楽映画はみなこの程度の上映時間であった。その法則の通り、この映画、非常に面白い。テロ防止に向けての国際的な会議に出席したアメリカ大統領が群集の前で演説しようとしたときに何者かに狙撃され、その狙撃の瞬間を目撃したのは国籍も、職業も、性別もそれぞれ違った8人。この狙撃事件を8人の異なる視点から見直すうちに、そこに隠された真実が次第に明らかになってくるという展開。一人一人の人物の目撃のエピソードが、ある結論につながるという展開はアカデミー賞受賞作品「クラッシュ」のようでもあり、ひとつの事件を異なった人が語るという点で黒澤明の「羅生門」のようでもある。しかし、「羅生門」のように何が真実か観客を翻弄させる衝撃ではなく、エピソード毎に次第に真実が詳細に紹介されるという展開であり、印象としては「クラッシュ」に近い。これはこれで非常に面白い。ただ、欲を言えば、犯人側の動機やその背景の大きさを暗示させ、事件は解決したが、その後もまだ何かが起きるという予感をさせる展開であればと思った。シガニー・ウィーバーがキャスティングされているので、もしかしたら、彼女が対エイリアンのときのように狙撃犯人と対決するのかと思ったら、ほとんど座っているだけの役であった。フォレスト・ウィテカーが持っているビデオカメラがソニー製でるのは、これは当然か。大統領役のウィリアム・ハートは現実の大統領よりも知性と貫禄を感じさせる。(現実がなさすぎかも)
2008年03月21日
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「パンズ・ラビリンス」と「テラビシアにかける橋」とには共通点がある。主人公である子ども(あるいは子どもたち)は決して恵まれた環境にいるわけではない。悲惨な環境にいる子供がファンタジーの世界で遊ぶという点では、この二つの作品にも通じるものがあり、比較するのも面白いのではなかろうか。ファンタジーの世界で遊ぶことを、我々はつい「逃避」だと言いがちであるが、この映画を見ると決してそうだとは思えない。むしろ、そこから現実に向かっていく力を得てるようだ。
2008年03月19日
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主人公である二人の女性の対決はすさまじいものがある。それは二人のそれぞれのキャラクターによるもので、この映画において特筆すべきは、そのうちの一人の過去に戦争体験があり、それが現在の精神状態に深く関係しているという点である。一人の人間にとって、現在と過去の戦争体験がつながっているのである。考えてみたら、このようにして戦争を描いた作品は日本映画には、ほとんどないように思える。実際に分析したわけではないが、多くの日本の戦争映画は、過去にこのようなことがあった、このような人(将校や兵士)がいたということを述べただけのもので、戦争がが現在とつながっていることを述べている作品はほとんどないのではないか。現在とつながっているとはいっても、単に過去を回想したりするだけというものが、ほとんどではなかろうか。そうしたことを考えると、この「4分間のピアニスト」は、戦争というものが現在も生きている、続いているということを描いたことで、作品に奥行きが生じたのではないかと思う。上で述べた「日本の戦争映画についての意見」であるが、このような作品があるぞ、というコメントをいただければ、ありがたいです。
2008年03月18日
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ピアノ教師として刑務所にやってきた女性クリューガーが、類稀なピアノの才能を持った問題児とされている女性ジェニーと出ってという設定からはヒューマンな感動作品を連想しがちであるが、これが全く違う。そもそも登場人物は、揃って不快な人物ばかりである。主人公のピアノ教師にしても、これがありきたりのドラマなら正義感に燃えた心ひろい人物として登場するのであろうが、この作品では全く違う。非常に心狭く、偏狭な精神の持ち主である。この女性二人は極めて緊張した崩壊寸前の師弟関係にあり、やっと決勝の演奏会にたどり着くのであるが、ここでジェニーは、師であるクリューガーを裏切る演奏を行う。しかし、この映画はこのラストが圧倒的に素晴らしい。あの後、この二人はどのような人生を歩むのであろうか。刑務所の中の師弟関係といえば、「あしたのジョー」を思い出すが、この映画の中のピアノ演奏は、まさに格闘技だ。
2008年03月16日
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主人公ジェスの父親を演じているのはロバート・パトリック。あの「ターミネーター2」でT-1000を演じた俳優である。久しぶりである。こんな映画に、こんな役を演じているのか、ちょっと驚き。さて、この映画は少年と少女の悲劇の物語と共に、父親と少年との物語という見方も出来るのではないか。
2008年03月13日
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