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岩打つ波が砕け散る東映マークで始まる映画といえば、男臭いアクション映画と決まっていたが、東映映画からそういう匂いが消えて何年になるであろうか。この状態は非常に不満である。韓国映画「シルミド」は、そうした不満を一掃させる久々の傑作である。「シルミド」は、東映配給作品なのである。そして、これはアメリカ映画なら、ロバート・アルドリッチ風の男の集団活劇であり、東映調でいうなら、「地獄島・殺しの軍団」とか「独裁者の首・殺しの軍団」というタイトルが相応しい内容である。そして、登場する俳優たちの顔つきが素晴らしい。ダイナミックでシャープな展開の中で、個性的で力強い顔が迫ってくる。「殺人の追憶」でも感じたが、韓国映画の強みは「俳優の顔」であろう。韓国では長く封印されてきた事実を、このようなダイナミックな娯楽映画に仕立てあげた力量が、これは韓国映画の力量であり、おそらく民度の高さであろう。これで日本は映画だけでなく、民度でも負けたということである。
2004年06月21日
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本日は映画と時事ネタの2本立て。まずは、「ロスト・イン・トランスレーション」。この映画は、カルチャーギャップについての考察というより異国におけるほのぼのとした心のふれあいドラマ、プチ・ロマンスというべきであろう。この映画から思い起こすのは「ローマの休日」であるが、考えてみれば、この「ローマの休日」は異国の地で異国人2人が出会うドラマにもかかわらず、そのカルチャーギャップがまったく描かれていないという不思議な映画である。それは当時、ヨーロッパに対してリーダー的立場にあったアメリカとしては当然のことであろう。さて、今日の新聞から話題をひろってみる。井上防災担当相が佐世保の事件に絡んで「元気な女性が多くなったのか」と述べた発言について「誤解を招いたことを遺憾に思い、発言を撤回する」と語ったと新聞記事にある。この言葉は非常に判りにくいし、理解できない。「誤解を招いた」とあるが、「『本来の意味』を、『誰が』どのように『誤解』した」というのか?彼の発言を解釈すると「誤解をした」のは、彼以外の人間であるということになる。つまり、こういうことではないか。「私の表現が不十分で、みなさんに誤解を与えてしまった。みなさんも私の発言を誤解している。これは非常に遺憾なことであり、あの発言は取り消すが、後日、別の表現で行う」少なくとも私はそう感じるが、みなさんはいかがでしょうか?要するに、「誤解したのはあなたがたで、私はちっとも悪くはないよ。」と、こういうことのようだ。うーむ、書いていて不愉快な気分。「キャシャーン」の悪口をもう一回書いた方が気持ち良かったかも。それにしても、同じ日本でも永田町語と日常語とののトランスレーションでは、普通の人は、迷子になってしまうぞ!
2004年06月12日
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「グッバイ・レーニン」は「2001年宇宙の旅」から最も影響を受けた、あるいは触発された映画かもしれない。映画を見た者のほとんどが驚嘆した「猿人が放り投げた骨が、宇宙船に変化するシーン」がキーである。「2001年宇宙の旅」が変化に至るドラマであるのに対して、「グッバイ・レーニン」は変化の後のドラマである。「体制の変化・価値観の変化」には多くのドラマが生じる。そのドラマとは、二つの世界をまたがるものであり、以前の価値観に対する新しい価値観へのあてはめ、あるいは対応・翻訳におけるドラマである。もしかしたら、それらの作業には、全く意味がないのかもしれないにもかかわらずである。それは、1989年のドイツ(主として東ドイツ)の人々のみの物語ではない。私たちにもあった。1945年8月15日を境にして連合赤軍事件を境にしてバブル崩壊を境にして湾岸戦争を境にして私たちは、常にロスト(迷子)・イン・トランスレーションなのである。
2004年05月30日
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大々的に宣伝されているわけでもなく、雑誌で特集が組まれていたりしているわけでもなく、さほど知名度の高い作品ではなかったが、見た人が「あれはいいよ」と周辺に伝えながら口コミで広がっている映画というのがある。そういう映画には、あまりはずれがない。「スクール・オブ・ロック」は、そんな映画である。所属するバンドから追放され、働き口もなく、居候先からも立ち退きを要求されている、どちらかというと落ちこぼれのロック・ミュージシャンが名門小学校の代用教員になりすまし、生徒にロック魂をたたきこみ、バンドを結成してバンドコンテストに出場するという物語。物語としては「七人の侍」の変形応用である。20人程度のクラスでバンドになれる人は楽器の技量などから限られているが、この主人公のいいところは、衣装、照明、警備、マネージャーなど裏方の仕事の重要性を説明し、一人一人の持っている才能を見抜きながら、クラスのみんなにそれらの仕事にあてていくところ。演奏が終った後でも、照明の担当になった子どもを抱きしめながら、「実にいい照明だったぞ」とほめる。バンドが結成され、練習から本番までのすべてが、どのように展開され、その為にどのような人によって支えられているかがよく判る。これは映画でも、演劇でも、いや世の中のすべてのことにおいて大事なこと。我々は裏側に隠れている仕事と人のことを忘れがちであるが、この映画はそういうこともきちんと教えてくれる。そして、その精神はエンドタイトルにも表れる。長々と続くエンドタイトルは、その映画に関わったすべての人々への謝辞の意味もあるが、多くの映画では、それらは文字列に過ぎず、退屈なだけであろう。しかし、この映画はエンドタイトルも退屈しないようにきちんと見せてくれる。最後まで、面白い、そして感動の一作である。おすすめです!ロックが嫌いな方にもおすすめできます!
2004年05月18日
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新藤兼人監督作品ではなく、アンドレ・テシネの新作である。上映時間は95分。ちょうどいい長さ。舞台は第二次大戦下のフランス。ナチの侵攻を逃れて、南へ逃れる二人の子どもを連れた未亡人。彼らの前に突然現れた不思議な青年。その彼に導かれて行った森の奥の屋敷で、4人は共同生活を始める。ナチスという突然の来訪者によって日常生活が破られ、そこで得られた日常は青年の出現によって破られ、彼を交えての共同生活の日常もまた新たな来訪者によって破られて・・・。この物語が深い森と田舎の風景の中で繰り広げられる。画面はほとんどが自然の緑である。この作品が描かなかったものは、「結末」である。そこに至る道は迷路である。この作品のほとんどを占める緑の森は物語の結末を隠しているものの象徴であろう。--------------------------------------「かげろう」2003年・フランス映画監督:アンドレ・テシネ主演:エマニュエル・ベアール、ギャスパー・ウリエル「かげろう」1969年・日本映画監督:新藤兼人主演:乙羽信子、伊丹十三
2004年05月13日
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昨日の日記で9990からの訪問者を紹介したが、よくみるとみなさん女性である。おお、私は女性に人気があるのだな、女性にもてないというのは自分の勝手な思い込みであったかと考えております。さて、それはさておき、「アドルフの日記」について再度書いてみる。会員以外でよく書き込んでいただいている明彦さんが、ご自分でも「アドルフの日記」をご覧になって次のような書き込みをされていた。------------------------------------------------------「社会から認められない」という青年アドルフの焦り、そして彼が大勢の人々を動かすことが出来る「政治」に生き甲斐を見つけてしまう過程は、強く印象に残りました。アドルフ役のノア・テイラーという俳優は、深く内面に入り込んでいたと思います。実は観ていて、アドルフ青年が他人とは思えませんでした。-----------------------------------------------------ぼくもこれについては全く同感で、焦燥感と孤独感にさいなまされる青年アドルフに感情移入できた。おそらく彼は、自分の才能や思想を誰かに認めてもらいたかったのであろう。それが、ほんの偶然で、美術の世界ではなく政治の世界に入っていったということである。その最大の理由は、政治の世界が彼を認めてくれたということである。オウム事件のとき、多くの人が「あれだけの高学歴の人が、どうしてあのような犯罪集団に入っていったのか」と言ったが、それは、その人をオウムが認めてくれたということに理由のひとつがあったのであろう。人によっては、それが、企業であったり、球団であったり、芸能プロダクションであったり、政党であったりということだ。人は自分を認めてくれるところに、その活躍の場を求めるのである。青年アドルフは、あの時点で政治にその場を求めたということであろう。歴史には、このようなケースは多くあるのではなかろうか。例えば、映画において、もし、フランソワ・トリュフォーがアンドレ・バザンに出会わなかったら、どうなっていたであろう。さて、偶然にも、「ヒットラー」というテレビ映画が放映される。ヒットラーを演じるのはロバート・カーライルである。このテレビ映画については下記を参照願いたい。http://www.wowow.co.jp/drama/hitler/contents.htmlこれと「アドルフの画集」とを比較するのも一興だと思う。
2004年05月10日
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5月8日の朝、ついにヒット数が10000となりました。9990からの訪問者履歴を見ると「くりむーぶ389さん」、「osmanthusさん」、「エメラマリンさん」、「はなびらさん」、「k-nanaさん」、「まっきい1107さん」とおなじみの方々があり、その合間にゲストさんが。そんな中で10000をゲットされたのは「まっきい1107さん」でした。そして、「osmanthusさん」が10001。実は、こんなに早く10000に到達するとは思わなかった。ここにあげられている方々以外にも、日記をリンクされている方、そして、毎日訪問して下さる方々にお礼を申し上げますと同時にこれからもよろしくお願い致します。本日は「アドルフの画集」を見た。アドルフ・ヒトラーが画家志望であったことは知られているが、もしかしたら、ヒトラー総統ではなく、画家ヒトラーが誕生したかもしれないという内容である。画家志望の孤独な青年ヒトラーと彼に注目した画商、それぞれの人物像にもう少しの深みが欲しかったが、時代背景など丹念に描かれ、ドラマにひきこまれた。画家を目指すという自らの希望が叶えられ、世に出る機会も与えられることもない中での焦燥感にかられながら政治の世界に入っていくその過程と心情はよく描かれていたと思う。それが利用されていると判っていても、そして、それがどのような人や集団であろうとも、人はみな、自分を認めてくれる側についていくものである。
2004年05月09日
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久し振りに連続して映画を見た。まず、「オーシャン・オブ・ファイヤー」、そして「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」である。俳優としては、ヴィゴ・モーテンセンが共通しているが、別にファンではない。「オーシャン・オブ・ファイヤー」の舞台はアラビアの砂漠であるが、物語の発端は、何とウーンデッド・ニーの虐殺である。この部分は、現在のアメリカの軍事行動も、その通りであろうと推察させて秀逸である。こうやって建国したテロ国家だからね、アメリカは。その軍事行動を指示する電報を届けたことで、主人公は先住民虐殺に加担したことで贖罪意識にさいなまれ、アル中になってウエスタン・ショーの役者となっている。この導入部が「ラスト・サムライ」と全く同じであるが、作品の出来は、こちらの方が断然いい。「王の帰還」は、やっと見たが、今や小さいスクリーンに移っており、これは、もっと大きなスクリーンで音響効果もいいところで見るべきであったと後悔。大いに楽しんだが、原作を読んでいないこと、そして1部、2部にも伏線があって、そういうことを知っておれば、もっと楽しめたはずと、ちょっとばかりもどかしい。さて、3日は大阪へ移動。4日は撮影所見学である。これは、今年のGWの最大のお楽しみ!見学内容と感想は日記でも紹介したい。
2004年05月03日
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「キル・ビル」はもともと1本の映画であったものが、一本で公開するには上映時間が長すぎるという配給会社の要望と、カットはいやだという監督側の要望との妥協点が、二つに分けて公開になったということが雑誌などで言われている。もし、これが本当なら、この映画はやはり一本の作品として公開すべきであったと思う。本来はひとつのものを分けて公開する場合、かなりのリスクがあるのではなかろうか。例えば、「ひまわり」(ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ共演)の場合、前半は恋人と新婚夫婦の生活をコミカルな演出で、後半は、深刻で悲劇的なドラマが展開される。続けて見た場合、前半と後半の差が、後半の悲劇をより際立たせる仕掛けなっている。これを前半と後半に分けて半年ほど後に公開したら、観客は、意図する演出を堪能できないのではなかろうか。全編が同じトーンで演出されていれば、ちょうど観客が期待する続きを設定できる区切りで分けることでもいいのであるが、この「キル・ビル」では、「1」と「2」との演出のトーンが、先にあげた「ひまわり」と同様に違っているのである。本来は作品の一部であったはずの演出が、あたかも全体のように評価されることは、その作品にとって決して幸福なことではあるまい。ひとつの作品として公開した場合のリスクは上映時間であろう。おそらく4時間程度の長さになる。興行としては一日に3回程度しかまわせない。ストレートに観客に伝える力が増加することと正当な評価でこのリスクを克服できるか?映画という芸術は、作家の創作課題の実現のみでなく、資金、配給、興行とすべてにわたり満足せねばならいとは、大変に制約が多いものだと思う次第。
2004年04月26日
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「キル・ビル」は2作品を通して主人公は、ユマ・サーマン演じるブライドである。しかし、彼女の復讐の最大のターゲットであり、かっては愛し合った男でもあるビルの側から、この物語を見るとどうなるか?これは愛し合った女、それも一時の愛ではなく、最愛の存在であった、その女に裏切られ、そして尚も翻弄される男の姿を観ることができる。フランソワ・トリュフォー作品の中の言葉を借りると、「恋愛において男はアマチュアであるが、女はプロである」というテーマがこの「キル・ビル」に流れているのではなかろうか。更に、トリュフォーを引用するなら、「キル・ビル」は「1」から「2」を通して見ると、まず、「黒衣の花嫁」から始まって、最後に見終わったら、「暗くなるまでこの恋を」であったと気付くのである。
2004年04月25日
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初日の第1回目に観た!この日記を読んでおられる方にも、まだご覧になっておられない方も多いと思うので、あまり全面的に紹介ことをしないで、少し感想を述べてみたい。「キル・ビル Vol.1」はタランティーノが偏愛する作品群のコラージュ的な再生が異様なエネルギーを醸し出していた。「Vol.2」は、それが更にエスカレートする、あるいは前作のタッチが続くと期待して見た観客は、はぐらかされるのでは、なかろうか。今回は、極めて普遍的な堂々たる語り口の「物語」なのである。もちろん使用される音楽、カット、小道具、人物像など、過去の様々な作品を推定する楽しみは大いにあるが、この作品は、まず「物語」を楽しみたい。そのテーマは、まさに愛である。前作で、コラージュ的展開が楽しむことのできなかった、あるいはそれに嫌悪した観客が、今回は敬遠しようとしているなら、それはやめた方がいいと言っておこう。この映画は「Vol.1」と「Vol.2」を通して1本の映画に再編集して見るべきではなかろうか。もちろん、どんなに長くなろうとも。
2004年04月24日
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韓国映画「殺人の追憶」を見た。非常にエネルギーに満ちた、そして表現力の豊かな作品であった。気付いた点をあげておきたい。(1)この映画のキーワード(キー映像)は「人間の顔」。 ファーストシーンは「畑の中の子供の顔」であり、 ラストシーンも「顔」(ここがポイント)である。 その途中にも「顔」についてのエピソードが多い。(2)風景が実にいい。これは何も眺めがいいとかいうのでは なく、そのドラマにあった風景が描き出されているので ある。 風景を追ってみるだけでも一見の価値あり。(2)については、おそらくフィルム・コミッションの力があったのであろう。わが町のフィルム・コミッションのサポーターを行っている身としては、非常に刺激を受ける。韓国映画を支えるものは作家、技術者、俳優だけではない。非常に層が厚いと実感。
2004年04月13日
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「真実のマレーネ・ディートリッヒ」を見た。実は、88年頃に、やはりドキュメンタリー「マレーネ」を見ている。こちらは、「ニュールンベルグ裁判」で共演したマキシミリアン・シェルの監督作品であったが、マレーネのエキセントリックな面が印象に残り、あまり好感は持たれなかった。(但し、その対立は創造者同志の対立という点では大変に面白かった)今回の作品は、現代史の中のマレーネ・ディートリッヒという扱いになっており、非常な感銘を受けた。1901年に生まれ、女優としてハリウッドへ。第二次大戦中はナチスと戦い、戦後は祖国ドイツとの摩擦と対立。ハリウッドからも離れ、世捨て人のような、というより神話的存在の人物であった。このディートリッヒのすごさは、彼女の活動、歌によって多くの人々を勇気づけ、生きる力を与えたことである。映画は戦時中の最前線への慰問を続ける様を描きながら、そのことを示していく。ナチスと戦う最前線の兵士にとって、ディートリッヒは弾薬、食料、医薬品、あるいは援軍と同等、あるいはそれ以上の存在であったことがよく描かれている。さて、21世紀のディートリッヒは生まれるであろうか?もし生まれるとすれば、彼女の歌は、「イン・ディス・ワールド」や「少女の髪どめ」に登場する人々に向けられるべきであろう。
2004年04月12日
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「ドグヴィル」の、あのセットはどういう意味であろうか?登場人物の住む家など、地面にチョークで線をひいただけ。壁やドアなどはない。しかし、登場人物たちが自宅に入るときはドアのノブをさわるしぐさや、他人の家の場合はノックをするしぐさをする。登場人物以外は、すべてコンピュータ・グラフィックで作ることができるのだという現在の映画製作への皮肉なのではないか。究極的には「映画は人間を描く」ということを主張したものであろう。トリアーは「ドッグヴィル」で映画の真実、あるべき姿を追求した。
2004年03月24日
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「ドッグヴィル」は、外見としては非常に奇抜でユニークなものに見えるが、見ていくうちに、その外見の奇抜さが、実は全く違和感なく受け入れられる。あのめまぐるしいキャメラワークに対しても同様である。これは何故だろうかと考えたとき、ここに描かれたものが「私たちの姿」であるからに他ならない。私たちの自然のふるまいがそのまま描かれているからである。まさにリアルタイム・ドキュメンタリーである。グレースをめぐる村人の、村人に対するグレースの、それぞれの言動は、この映画を見ている私たちの姿そのものである。異なるものを認めない私たち、偏見を持って接する私たち、既存の権威に依存する私たち、それらを徹底的に暴き立てる。この映画が追求したものは、ともすれば獣性を露呈する人間のモラルであろう。「地獄の黙示録」が追求したものと同じである。この映画は鑑賞する一人一人へのテストでもある。
2004年03月23日
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スタイルも内容も極めて衝撃的。映画のテーマとしては「共同体に異人が入ってきて起きるドラマ」である。パゾリーニの「テオレマ」や大島渚の「戦場のメリークリスマス」、「御法度」と同様のものである。ドッグヴィル村への訪問者はグレースという女性(ニコール・キッドマン)であり、彼女を迎える村人たちの対応がドラマの中心となる。グレースは、最初は、ぎこちなくも、やがて村人たちに溶け込み、平和なひとときがやってくるが、所詮、彼女は異人である。やがて平和は崩壊し、彼女は例えようもない苛酷な状況に置かれる。やがて彼女を追ってきた一団によって、彼女は発見されるが、最後にグレースがとった決断とは?この映画はアメリカ・ロケを行うことなく「アメリカを描いた」作品である。ここで二つに見方がある。A:村人たちとグレースとの関係は、新大陸アメリカへ欧州からや ってきた映画作家という関係であり、彼女がおかれる状況は 「ハリウッドの赤狩り」である。B:ラストのグレースの決断は正義の戦いをスローガンにかかげな がら、武力行使を行う現在のアメリカそのものである。
2004年03月22日
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「ペイチェック/消された記憶」とは、また何とも素っ気無いタイトルである。主演がベン・アフレックという風格とは全く関係ないような男優と、その相手は「キル・ビル」でB級アクションの守護天使のイメージを得たユマ・サーマンとくれば、本当にB級映画風である。ところで、みなさんはベン・アフレックとトム・クルーズのイメージは、どのようなものであろうか。私が彼らに持つイメージは「頼りない」、「シャキッとしない」、「知的でない」である。天下の人気スターに、何たることか、特に天下のトム様に、と大方のお叱りをいただくことになりそうであるが、暴言多謝。先に進ませてもらおう。「M:I2」のトム・クルーズは冒頭では、これが本当にエージェントかと思われるくらいに頼りないイメージである。しかし、それはジョン・ウー監督の確信犯的演出であり、その後の「汚名」や「北北西に進路とれ」をベースにした展開が実によく効いてくる。その手法は、今回も同様で、今回も「北北西に進路とれ」をベースにしたような展開である。要するに、頼りない主人公が危機に遭遇するという「巻き込まれ型」の展開なのである。この方が無敵のヒーローよりは観客の感情移入はしやすくなる。「ペイチェック」もその演出で見事に成功。果たして主人公の見た未来は当たっているのかどうか、事件の真相は?ベン・アフレックの頼りない表情を見ながら、観客は不安をかきたてられ快調な演出でラストにたどりつくのである。ジョン・ウー印の「鳩」は、意外な場所に出てくるし、鳥が重要な役割をはたしている。残された19個のガラクタから謎を追求するという知能犯的な展開も含めてB級娯楽映画としては合格点!
2004年03月20日
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アトム・エゴヤンはカナダの映画作家であるが、生まれはエジプトのカイロ。両親はアルメニアからの亡命者である。新作「アララトの聖母」は、そうした彼のルーツをさぐるものである。アルメニアとは、日本ではなかなかなじみがなく、地理的にも歴史的にもすぐに何かが連想されるわけではないが、歴史は極めて古く、周辺の大国の中で幾多の迫害や虐殺という悲惨な状況に置かれてきた。「アララトの聖母」は1915年のトルコによる大虐殺事件を題材にしている。この大虐殺をモチーフに芸術家と母親の絵を描いたアルメニアの画家は、その絵から母親の手の部分を削り取ってしまった。それは何故なのか?その絵は完成したのか、未完成なのか?その画家を研究する女性は、おりしも虐殺事件を扱った映画製作にアドバイサーを依頼される。トルコの官憲を殺害した父親の過去をさぐる息子との間の葛藤。過去の虐殺事件を扱った映画製作の現場を中心に人々の葛藤と摩擦が広がっていく。物語は、それぞれの立場から語られ、そこに映画の為に再現された過去の事実、しかし、それは虚の世界、がからむ。父親の過去を調べる若者は、入国にあたり空港の入国検査管から尋問を受ける。そこで展開される幾多の事実。ここまで書くとお判りであろうが、この映画には黒澤の「羅生門」の手法が巧みに取り入れられている。観客を迷路に導きながら、スリリングな体験をさせる演出である。アルメニアの歴史にはなじみのない観客にも普遍的な人間のモラルをといかける作品である。映画を見ている間も強烈なインパクトを与えるが、見た後に時間を経て、今度は違った重みを感じる作品である。(プロフィールの画像は「アララトの聖母」の中で扱われる絵画です)
2004年03月09日
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一本の映画とは、その出演者についてのドキュメンタリーであるという考え方があるが、この映画「イン・ディス・ワールド」は、まさにそれを実践した映画であるといえよう。こういう作品を観ると、ドキュメンタリーとか劇映画とか、あるいは社会派とか娯楽映画とかの区別をすることに何の意味があるのだろうかという思いにかあられる。キャメラの前にあるものをそのままフィルムに写し取りながらも、そこには作家の姿勢が見事に反映されている。映画とはそういうものであるという定義で充分であると思う。この映画を見ると、小川紳介監督が「ニッポン国古屋敷村」や「1000年刻みの日時計」が先駆的な作品であったことがよくわかる。パキスタンからロンドンまでの難民の旅。その過程の今の世界のありようが描かれている。難民が姿を隠すのが人に群れ、果物や動物など、あるいは自然の猛威から無機的な金属に密閉されたものへとの変化は、いわゆる文明圏へのするどい批判精神であろう。難民と難民を生み出すもの。我々がどちらの側に立っているかは明らかである。わが町ででも「イン・ディス・ワールド」を見ることが出来た。この映画館では明日からは「アララトの聖母」が公開される。この映画館のことは、また後日に紹介しよう。
2004年03月06日
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