中国の習近平国家主席は12月7日にサウジアラビアのリヤドを訪問した。ペルシャ湾岸6カ国の首脳と会談することが目的だが、8日にはパレスチナのマフムード・アッバス大統領とも会い、パレスチナを支持すると語った。
サウジアラビアはイスラエルと同じようにイギリスが作り上げた国であり、米英にとって地政学的に重要。アメリカのドル体制を支える国でもあるが、ロシアに続いて中国とも関係を深め、BRICSへの参加に興味を示している。
サウジアラビアを含むペルシャ湾岸の産油国に対し、習主席は上海石油天然ガス取引所を使い、決済を元で行おうと提案
イランともサウジアラビアは関係を修復しようとしてきた。両国の交渉を仲介していたのはイラク。2020年1月3日にはイランからサウジアラビアへの返書を携え、コッズ軍の司令官だったガーセム・ソレイマーニーがバグダッド国際空港を訪れるのだが、そこでアメリカ軍はUAV(ドローン)で暗殺した。イスラエルから提供された情報を利用したと言われている。ソレイマーニー暗殺はアメリカやイスラエルにとって中東における和平の流れを断ち切る作戦だったのだろうが、成功したとは言えない。
一方、中国も1970年代からアメリカとの関係は緊密だった。そうした関係は言うまでもなく1972年2月にリチャード・ニクソン大統領が北京を訪問してから始まる。それ以降、中国は新自由主義を取り入れるが、そのイデオロギーの教祖的な存在であるミルトン・フリードマンが1980年に中国を訪問している。
1984年に鄧小平を後ろ盾とする趙紫陽はホワイトハウスでロナルド・レーガン米大統領と会談、88年に「経済改革」を実施、つまり新自由主義化を推進するが、これは深刻なインフレを招く。社会は不安定化し、胡耀邦や趙紫陽は窮地に陥った。そして1988年には妻を伴って再び中国を訪問、趙紫陽や江沢民と会談している。
新自由主義の推進を望んでいた中国のエリート学生はジーン・シャープの指揮で反政府活動を展開したが、ジョージ・ソロスともつながっていた。そのソロスと緊密な関係にあったショール・アイゼンベルグは第2次世界大戦中の1940年にヨーロッパを脱出、上海経由で40年、あるいは41年に神戸へ上陸している。当時19歳か20歳だ。
その若者を世話したのが山田忠義。渋沢敬三の秘書などを経て1952年に八幡製鉄へ入社している。山田忠義の息子である山田忠孝はグラクソスミスクライン、ビル・アンド・メリンダ・ゲーツ財団を経て武田薬品に迎えられた。
日本でアイゼンベルグはこうした政財界の大物に世話されたほか、大戦後にはアメリカ第8軍の司令官だったロバート・アイケルバーガーに可愛がられ、ペニシリンの販売で大儲けしたという。
その後、アイゼンベルグは日本から追い出されるが、イスラエルの情報機関モサドの幹部としてさまざまな秘密工作を実行、イスラエルと中国を結びつけたと言われている。そのアイゼンベルグと緊密な関係にあったソロスは新自由主義から離れようとした中国政府を転覆させようとしたわけだ。
それでも中国とイスラエルは結びついていると考えられていたが、ここにきて離れ始めたのかもしれない。