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家の周りの木々も色づいてきました。 自転車で遊び呆けていたcyariojiも、イソップのキリギリスと同様大慌てです。 この4日ほどの好天をさいわいに「冬越しの薪割り&薪積み」に大汗をかいてます。 北海道外のみなさんには理解できないと思いますが、一冬に焚く薪の量は2トントラック1台相当。 友人が運んでくれた楢の丸太(長さ60センチ・直径20~25センチ)を電動チエンソーで切断、これをマサカリで半割り~四半分割り~八四半分割りと割るのです(パカーン!と真っ二つに割れた時の爽快感は格別)。 4日間でついに征服、家の周りに積み上げた薪を見回す満足感は、言葉になりません!(きょうは日没で写真を送れませんが次便をお楽しみに、、、) 一風呂浴びてのビールのうまさもまた格別でした。 はれて「明日はサイクリング」、、、が、残念「台風並みの風雨の予報」、久しぶりの骨休めになりそうです。
2006年10月06日
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先便で、狩勝峠越えで泊まる予定の南富良野町落合の「秋田屋旅館」が、その朝不幸にも全焼し「お宿がやけちゃった」と、紹介しました。 ところが、翌々日「焼けた秋田屋のおかみの娘でございます。このたびは大変ご迷惑をおかけし申し訳ありません。家事で愛犬を失い気落ちしている母を助けて、営業再開にせめてもの親孝行と思い、跡片付けを手伝っています。」の書き込みがありビックリ。 さっそくメールで問い合わせると「火事のあと、もしやと思い『秋田屋』で検索し、cyarioji旅日記を見つけたとのこと。ブログの威力を改めて感じた次第です。 秋の短い北海道、自転車シーズンも僅かとなり天気とにらめっこでサイクリングに明け暮れています。「旅日記」の続編は、「自転車納め」の後になりそう、、、、お許しを。
2006年10月05日
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このところアウトドア本番で遊び呆け、日記更新が疎かになりごめんなさい。 きょうは、ホットなハプニングニュースです。 9月8日から2泊3日で、北海道大雪山を周回する『Old Cyariders北海道中央高地トライアングル・サイクリング』を計画し、cyarioji71歳とチャリダチ65歳の二人旅を走ってきました。 ルートは、第1日(8日)旭川~層雲峡~上川・北見・十勝の分水嶺で北海道一の「三国峠」~糠平温泉(YH泊) 第2日(9日)糠平温泉~士幌~鹿追~新得~狩勝峠~南富良野(旅館泊) 第3日(10日)南富良野~富良野~美瑛~旭川 トータル380kmの「北海道第一の山岳コース」です。 旅の詳細はいずれレポートするとして、 第2日午後4時、十勝・新得から汗みどろで狩勝峠に到着、予約してあった南富良野落合の老舗旅館「秋田屋」に「4時半までには到着しますのでよろしく」と、携帯電話を入れたところ、旅館のおかみ「申し訳ありません、お泊り頂く旅館が無くなってしまって、、、」と、 あっけにとられ「えっ、どうして!?」に、「実は今朝、火事になり丸焼けになって、、、」の返事に暫し絶句。 おかみ「私も避難先に身を寄せている身ですが、お客さんお二人の寝床はご用意できますからお寄りください」と健気なご挨拶。 チャリダチのS君と、とりあえず「火事見舞い」も兼ねてと、狩勝峠を猛スピード-で駆け下り、落合へ。 街道筋の「秋田屋」は無残な姿に、、、。 避難先におかみを見舞うと、平身低頭の恐縮ぶり。 「人的被害なし」とのことでなにより、聞けばこの界隈では草分けの「創業120年」という。 「これから民宿で再出発します」の意気込みにエールを送り、おかみに紹介された隣町・幾寅(いくとら・映画「ぽっぽや」のロケ地)の民宿へ向った。 20年来の自転車旅ですが、こんな経験は後にも先にもはじめてのことでした。
2006年09月11日
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○03年9月19日(金)晴のち曇 琵琶湖西岸・今津(R161西近江街道)~海津~福井県・敦賀(本州横断完成)36km 今津~琵琶湖北~敦賀へ 朝、玄関の広い土間の水槽の水替えをやっている主人に話しを聞く「水槽の魚は琵琶湖産、毎朝の水替えが日課です」と目を細める。小魚たちも新鮮な湖水によろこんでいるようだ。 朝日に輝く湖水を右に見ながらR161を北上する。湖岸の待つ並木が素晴らしい。<BR> 快調にペダルを回すうち、敦賀との国境峠にかかる。中国山地の険路を走破したあとだけに、あっさりと峠をクリア、敦賀市に入る。 「本州横断完成」!琵琶湖の水を日本海へ注ぐ 町中をポダリングしながら敦賀港へ向う。 10時、敦賀港着。紀州・新宮~十津川~奈良~京都~大津~琵琶湖西岸~今津~敦賀を結ぶ「本州横断」の完成だ。 岸壁に立ち、琵琶湖の水を日本海に注ぎ、ひとり本州横断を祝った。 敦賀市役所の大歓迎に感激 「横断記念」の証明を貰うべく、事前に連絡済みの敦賀市役所に向う。担当のT係長さんは、地元紙の記者も手配して待って下さり、光栄にも敦賀市長さんに面会のご配慮も。 市長さんからは、ねぎらいの言葉とともにりっぱな記念品までプレゼントくださり、大感激。 持参のロードマップに「平成15年9月19日午前10時30分敦賀市役所前に到着したことを証す 敦賀市長」の証印まで頂戴した。 T係長さんの懇ろなご配慮にあつくお礼を述べ、満足いっぱいの気持ちで市役所を辞した。 本州縦断フアイナルへ さあ、いよいよ『本州縦断最終コース 日光~福島~山形~秋田~青森」へ挑戦だ。 クロネコ・ヤマトで自転車を託送し、次のスタート地点日光へと向う。
2006年09月05日
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Stage11 本州横断 A(内陸8県縦走時走破済み)01年9月27日~9月28日 新宮~十津川~奈良~京都231km B(今回走破分)03年9月18日~9月19日 京都~大津~琵琶湖西岸~今津~国境峠~敦賀 100km○03年9月18日(木)晴 京都~逢坂の関~大津~(琵琶湖西岸)~高島~今津(旅館・泊)150km 本州横断後半の旅へ 2年前「内陸8県縦走」で、本州横断の前半部「紀伊半島・新宮から十津川~奈良~京都」を走っており、今回は「京都~琵琶湖西岸~敦賀」を走り、本州横断(胴切り)への旅となる。 三条大橋で自転車をカメラにおさめ、国道1号線を大津へと向う。一般道最大の幹線「東海道」だけあって、大変な交通量だ。 道は、JR東海道本線、JR湖西線と並走しながら上りの連続。本来は白いはずのガードレールが、排ガスまみれで暗褐色に覆われいる。 行く手には、万葉の時代から歌に詠まれる「逢坂ノ関」があるが、今はその下を長大トンネルで通過することになる。 排ガスにむせながらトンネルを抜けると大津の街だ。 道端の「焼肉店」で遅い昼食で腹ごしらえ。 大津から湖西ルートを今津へ 大津からは琵琶湖を右に見ながらR161・湖西ルートを北上、おおむね平坦な道を快走する。> 今津までは54km、楽勝気分で湖岸のあちこちで道草を食ったのが大誤算。今津の手前で陽はとっぷりと暮れてしまった。(今津では「船宿」でも、、)とのんきに構え、宿を決めていなかったのが急に心配になる。 ライト点灯で走っているうち、いつの間にか今津を抜けてしまった。街を迂回するバイパスだったのだ。 あわてて逆戻り、湖岸の旧街道沿いで「宿探し」。何軒かあたってみるが「満員お断り(どうやら『一見さんはダメ』の雰囲気)」だ。 時刻はもう7時を回っている。テント・寝袋は、次の出発地・日光へ先送りしてしまったことを悔やむことしきり。 あやうく宿無しに、、 これが最後と思われる宿屋(丸よし)で、(ダメかな?)と期待半分で宿を頼むと、「どうぞ」とおかみさんの優しげな声が返ってきた。 広い玄関土間へ「自転車も中へ入れなさい」の気遣いもうれしい。 「あやうく宿無しになるところを助かりました」と、ホンネのあいさつ。「ウチは部屋があればいつでもお泊めしてます。間に合わせでよければ夕食もどうぞ」とうれしい答えが返ってきた。> 風呂上り、茶の間兼用の部屋でおかみさんの給仕を受け夕食。 部屋には、おかみさんの趣味というたくさんの水墨画がかけられている。 古くからの「街道宿」とのことで、おかみさんが「昔は雪が多く旅人が難儀したこと。バイパス開通前は凍結でスリップしたトラックにぶつけられ、店先を壊されたこと一再ならずとか、交通の便がよくなりお客は旅人から釣人に様変わりした、、」など、興味深いお話を聞かせてくれた。 増改築を経ているようだが、黒光りする柱や階段、桁材などが「年代」を感じさせている。 ともあれ「宿無し」にならずによかったと、ほっとして眠りについた。
2006年09月04日
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このところブログの更新を怠りお許しください。暑さも峠を越えそうなこの時期、再開しましたので、折々のチェックお待ち申し上げます。 暑さに弱いグーダラのcyarioji○03年9月18日(金)晴 福知山~綾部~和知~丹波~亀山~老ノ坂~京都86km 福知山から綾部へ 熱いお茶をいれ、昨夜食堂で作ってもらった「おにぎり包み」を開く。 大ぶりのしっかり握られたおにぎりが二つ、玉子焼きと鮭に漬物まで添えられ、心がこもった内容をありがたく頂く。 下では、フロント脇に預かってもらった自転車のそばでホテルの主が待っていてくれ、玄関の鍵を開けてくれる。 家族的なもてなしにお礼をのべ、気持ちよくスタート。 早朝で人気のない福山城をポダリングでゆっくり眺めたあと、JR山陰線沿いに綾部へ向う。 綾部から丹波、亀山へ 昨日までは、山深い静かな中国路だったが、丹波からR9(山陰道)に入ると、切れ目なしの重車両の排ガスをまともに受けての並走になった。 丹波の先、観音峠手前の駐車帯で小休止。 と、なにやら反対側の路肩に「禁止看板」が、」が、読んでみると『大小便禁止』とある。どうやら夜陰にまぎれてこの幹線で、側溝に「ボトボト」とやらかす『剛の者』があとを絶たないらしい。 亀山から老ノ坂を越え京都入り 古代から戦国にかけて、兵馬が東奔西走した山陰道を京都めざして快調にペダルを回すが、京都への喉首「老ノ坂」では、排ガスまみれに泣かされた。 さいわい、最後の登りは「旧道トンネル」が歩行者・自転車専用道となっていて、ほっと一息つくことができた。11時すぎ、京都五条堀川通交差点にゴールイン。本州縦断・中国道シリーズを無事完走した。 「内陸8県縦走」から2年ぶりの京都だが、きょうはこの足で「本州横断の後半・京都~琵琶湖西岸~敦賀」に挑まなければならない。一呼吸おくまもなく、堀川通を上がり、二条城を左に見て御池通~三条大橋~東大路通と中心部をポダリングだし、R1から大津へと向う。
2006年08月18日
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○03年9月17日(水)晴 大原~志引峠(兵庫県)~千種~朝来~和田山~夜久野(京都府)~福知山(BH・泊)114km 大原から志引峠越え 武蔵の里「大原町研修施設・大広間」での一夜が明けた。ナビ図を読むと、今日も山岳路の連続が待ち構えている。携行食の朝食をすませ早立ち。兵庫県境の「志引峠」をめざす。 途中、「武蔵が岩屋」の案内板が見えたがパスし、ひたすら漕ぎ上がる。 9時、峠に立つ。期待した峠の向うも、見渡す限り山また山の連続だ。一気に千種町へとR429を駆け下る。 千種のコンビニで予備食を補充し、軽食と大休止。 千種から朝来へ 風の通らない山地は気温が急上昇、「登りで噴き出す汗が降りで乾く」を繰り返しているうちに、顎の回りにザラザラと塩の結晶が、舐めるとショッパイ。 波賀を過ぎた山道で、こんこんと湧き出る清水の流れを発見。 木陰を利用し、行水としゃれこむ、ひんやりと気持ちがいい。 しんとして鳥の声も聞こえない。 全身の汗を拭い、汗まみれのサイクルジャージもザブザブと洗濯。 さっぱりしたところで、予備食の昼食をとり大休止。 午後、陽も傾き、(もう山道はごめん、、)と弱気になりながらペダルを踏んで行くと、ようやく和田山へ通ずるR312に合流した。 朝来から福知山へ 朝来を抜けてからは「平地走行」となったが、福知山はまだ46km先だ。この先の行程を考え、和田山でキャンプ用品など余分な装備を、次の出発点の日光へ「先送り」する。 ウソみたいに軽快になったペダリング。(こんなことなら「武蔵の里」から送るんだった、、)と、ヨミの甘さを反省しながらR9を東へひた走る。 難関「中国山地」縦断完成! 夜久野からは「秋の陽はつるべ落とし」で、「ナイトラン」となった。涼しくなり、車のライトで楽な路面把握のおかげで快調に走り、午後7時半、JR福知山駅にゴールイン、難関の「中国山地縦断」を達成した。 駅の案内所で紹介してもらったビジネスホテルにを紹介してもらい、部屋に落ち着いたのは8時を回っていた。 バスで汗を流し、急いで食堂へ。遅い夕食を摂りながら「早立ち」に備え、おにぎりをお願いする。 部屋に戻り、明日の早立ち出発準備をしているとドアが「トントン」、下の食堂の女性が「ご注文のおにぎりです」と立っていた。「ありがとう」と受け取ると結構なボリュウムと手重りが伝わってきた。 汗まみれ中国山中湧き水に思いがけずの行水楽しむ (続く)
2006年04月14日
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○03年9月16日(火)霧・晴 新見~北房~落合~津山~勝田~大原(町施設・泊)106km 新見から北房~落合~津山へ 中国山地特有の気象か今朝も霧で明けた。昨夜用意の軽食を済ませ、早立ちする。 この地方は、白壁と赤瓦の家が多いようだ。霧に霞む風景が目にやさしい。 山間を北房から落合まで順調に走り、道の駅「ダイゴノ里」で大休止、モーニングセットで腹ごしらえ。 気温が上がって暑い、汗をかきながら落合から中国道と並走しながらR181を津山へ向う。昼近く津山市に入る。 どこかで「昼飯をと」ポダリングだしているうちに市内を通過。街外れにドライブインを見つけてのれんを潜る。 メニューに「ぶっかけうどん定食1300円」とある。(高い!)が、午後の行程を考え注文。 大きなお膳がやってきた。大丼のうどん、冷奴、煮物の鉢、鮨3貫、デザート(フルーツ)と、値段に恥じない内容にご満悦。 勝田の簡易郵便局で> 津山からR429を勝田町を経て「武蔵の里・大原町」へ向う。曲がりくねった路をひたすらこぎ進む、暑い。 勝田町に入り、簡易郵便局前で商いをしていた「移動スーパー」からおやつを仕入れ、日陰を求めて大休止。 と、郵便局から年配の女性が現れ「暑いでしょう、中は冷房が効いてますからどうぞ、、」と、ありがたいお誘い。 ご好意に甘え、問われるままに旅を語りながら休ませていただいた。別れ際、冷えた麦茶をボトルいっぱいの心遣いに、またまた恐縮。 「武蔵の里・大原町」 宿のメドもないまま(飛び込みの旅館泊まり)をと、午後4時過ぎ大原町に入る。 ところが街道筋で見かけた2~3軒の旅館は、いずれも「空き無し」。折りしもNHK大河ドラマ「宮本武蔵」放映中とあって、ときならぬ「武蔵フィーバー」で、どこも予約でいっぱいという。 頼るは町役場だ。 事情を聞いた役場職員「食事の提供はできないが『武蔵の里』の町営の研修施設でよければ、、」とのありがたい話。 (やれやれ、宿がきまった、、)とほっとしながら、夕暮れの「旧街道白壁通り」を武蔵の里へと向った。 (続く)
2006年04月09日
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○03年9月15日(月)霧・晴 千代田~八千代~三次~庄原~帝釈峡~東城~哲西~新見(BH泊)136km 千代田から三次へ 千代田、濃い霧の朝だった。 早立ちのため、守衛さんに玄関をあけてもらう。守衛さん「私は、第二の人生でこんな仕事しますが、自転車旅とは羨ましい」と感心しきり。 出発準備をしながら求められるままの旅談義。見送ってくれた守衛さんがすぐ見えなくなるほど濃い霧をついて出発。 千代田から八千代のルートは、大きな人造湖(昨夜のキャンプ予定地)が広がり、湖岸は素晴らしいサイクリンング・ロードが続いている。 八千代からR54号線に入ったところで、コンビニを見つけ軽い朝食。 江の川沿いのR54は、交通量も多いが平坦で走りやすい。霧も上がり晴天の中をがんがん飛ばして三次をめざす。 9時20分、JR三次駅に着き、証拠の「入場券」を求め、キオスクのおやつで大休止。 三次から庄原へ 三次からはJR芸備線と並走しながらR183号線を庄原へと向う。 快調に走り11時過ぎ、庄原市に入る。街外れに大きな食堂を見つけ、少し早いが昼食大休止。「定食700円」を注文したが、出されたのは「お膳仕立て・うどん付きの豪華版」でご機嫌の食事となった。 心地よい冷房で冷やされながら、午後のルートを検討する。 早立ちと平坦コースのおかげで予定を大きく上回る距離を稼げたので、午後は、大回りになるが「帝釈峡」経由で新見をめざすルートを採ることにした。 庄原から帝釈峡 腹ごしらえも十分。庄原からR432号線を南下、「栗石トンネル」を越え、総領町から県道25号線の「帝釈峡ルート」を快調に走る。 岡山県哲西から新見へ 県境の東城から岡山県哲西に入るり、JR芸備線沿いにR182を新見へと向う。 午後4時過ぎJR新見駅着。駅前で客待ちのタクシー運転手さんの紹介で近くのビジネスホテルへ。ホテル前で荷解きをしている自転車青年と一緒になる。 「自転車どこに置いたら、、、?」と彼が思案顔。ホテルへ着く前に目星ををつけておいた非常階段の下が良さそうと、フロントへ断ると「どうぞう、どうぞ」の二つ返事。 2台の自転車をぶっ違いに壁に立てかけ、まとめて持参のワイヤーロックで階段の鉄骨に固定し、「旅では、まず自転車の置き場確保が第一だからね」と私。青年「旅なれてますねえ、目の付け所が違います」と感心。 彼は、岡山から鳥取までの「中国山地胴切り」が今回の目的とのこと。夕食後は、彼に請われるまま自転車旅のあれこれを伝授し、早めに床に就いた。 (続く)
2006年04月08日
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○03年9月14日(日)晴 冠山地~松の木峠~吉和~加計~豊平~千代田(公共の宿・泊)85km 冠山地を行く 何事もなく山地のキャンプ場に陽が昇り朝がやってきた。テントは夜露にしっとり濡れている。ロープを張りテントを乾かしながら朝食準備。 小鳥たちの囀りが賑やかだ。朝になってみると、昨夜の心細さも忘れ、ロケーションに恵まれたキャンプ場に見えてくるから現金なものだ。 出発準備を終え、ゴミ袋を管理人?の奥さんに教わったとおりイノシシに荒らされないよう、お礼のメモと一緒に店先の策の上に結びつけ、出発する。 道は、相変らず「押し上げ登山」だ。(ゆうべのキャンプ白は正解だったな、、)と、黙々と登っていく。 松の木峠 ようやく山口と広島の県境、標高776mの「松の木峠」に立つ。一気に吉和村へ爽快なダウンヒルだ。 麓の雑貨屋さんでアイスを求め喉をうるおす。峠越えと聞いて、お店のかあさん「私は、生まれてこの方、一度もあの峠は越えたことないよ」という。 吉和から加計へ 依然山坂続きのR186号線を加計町を目指すが、冠山地のけんろからみれば「楽勝コース」で、快調に距離を稼ぎ、昼前に加計町に入った。駅前食堂で昼食をとりながら、ナビ図で午後のルートを思案する。 第1案、加計からJR可部線沿いに南下し宇津からR261号線を北上して千代田に向う42kmのルート。 第2案は、加計からR433を北上、豊平町経由の千代田の30kmルート。 ナビ図の線形では険しそうだが距離の短い第2案のルートを採ることに決める。 加計から千代田へ とこが第2案、加計の町を出るいきなりの登りが待っていた。 しばし思案するが、意を決して漕ぎ出した。30分ほど漕ぎ上がり(第1案へ戻るか?)と自問するが、これまでの距離が惜しく、続行と決める。 全行程の三分のニに及ぶ大検路を何とか走破し、千代田の町に入ったときは余力は殆ど残っていなかった。 千代田公共の宿 当夜もキャンプの予定だったが、猛暑と疲れで断念。 ガソリンスタンドで教えられた「町立研修宿泊施設」へ、這うような足どりでたどり着いた。 期待以上の大浴場に手足を伸ばしたときは、まさに極楽気分だった。 中国路耐えて走れるわが脚をやさし癒すか千代田の湯宿 (続く)
2006年03月26日
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○03年9月13日(土)曇のち晴 阿東~津和野~日原~六日市~冠山地(キャンプ泊)99km(その2) 日原から六日市へ 六日市へ通ずるR187号線は、高津川支流吉賀川沿いを遡るが、山懐に抱かれた静かな渓谷風景は、岩肌からは勿体無いほどの清流が路肩へ奔流となって流れ落ちるなど、素晴らしいの一言に尽きた。 陽がやや西へ回るころ六日市に着く。ここからは中国自動車道沿いに吉和村まで約30km、日没までには楽勝の距離だが、念のために通りがかりの交番で道路事情を尋ねた。 応対のお巡りさん「え、これから峠越えで吉和まで?そりゃ到底無理、あの辺はクマやイノシシの棲家だから今日は六日市泊まりにして、明日にしたほうがいい」と、びっくりする答えが返ってきた。 ちょっと心配になったが「脚には自信がありますから、、、」と、お礼をのべて六日市をスタートした。 一人ぼっちの冠山地 県道の山口県境までは、登りとはいえペダルが踏めたが、県境を越えR434号線に入ると様相は一変した。 まさに「酷道」。1車線の「羊腸の小径」が行けども行けども、延々と急坂で続いている。 始めのうちは、緩そうな登りはペダルを踏んで頑張ったが、体力の消耗を考えひたすら「押し上げ登山」となった。陽はどんどん傾いていく、人家の気配は全くない。 (お巡りさんの忠告を聞いておけば良かった)も、あとの祭り。これまで感じたことのない不安が波のように押し寄せてくる。 と、やや開けた土地が見え、ペダルを踏んで行くと「山小屋風の飯屋」がポツンと建っていて、店先にはお握りやトマトを篭盛りで売っている。 一息入れたかったが先を急ごうと、非常食用にお握り2個とトマト2個を求めた。 飯屋のおかあさんに、この先の道筋を尋ねているところへ、ご主人が山から下りてきて「これから峠越えは無謀だよ、ここにはキャンプサイトがあるから、今夜泊まっていけば」とすすめてくれる。 自信が揺らいでいたので二つ返事で泊まることに。ご主人が準備してくれた温水シャワーで汗を流し、奥さん手作りの夕食とビールで生き返った心地。 ところが、ビールでほろ酔いのの私に、「じゃ私たちは家に戻るから何かあったらここへ電話してね、、」と、番号メモを渡すと、車で夕闇の彼方へ去っていってしまった。 山中に一人ぼっちで置き去りにされた状態。まれに車は通過するものの、聞こえるものは川の瀬音と木々のざわめきばかり。お巡りさんから聞いたクマ・イノシシが来ないかと、ビクビクして過ごすうち、いつか眠ってしまった。 深山の冠山地われ一人クマに怯えつテントに眠る (続く)
2006年03月02日
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○03年9月13日(土)曇のち晴 阿東~津和野~日原~六日市~冠山地(キャンプ泊)99km(その1) 阿東から津和野へ 明け方、ようやく雨があがった。予備食で腹ごしらえし、入口のキーホルダーにドアキーを吊るし、珍妙なペンションを出発する。 曇天だが、手持ちの気圧計の上昇傾向から、好天を期待しながらR9号線を津和野へ向う。途中の「野坂峠」で、御番所跡を発見、しばし「由来書き」を眺める。 野坂峠を越え、しばらく走り高台のカーブを曲がると、眼下にぽっかりと箱庭のような津和野の町が広がっていた。急坂を駆け下り、町なかをポダリングしながらJR津和野駅へ。 キオスクで何か腹の足しになるものをと、物色していると「あら、先ほど国道を走ってらした方じゃありませんか?」売り子のおねえさん。聞けば、出勤の途中で私を追い越したという。問われるままに暫しの旅談義。 おねえさんのおすすめで、津和野ならではという「赤飯(あかめし、うるち米を赤飯風に炊いたもの)」と、かけ蕎麦をいただく。 「お土産は?」に、「やはり源氏巻(げんじまき=小豆餡をカステラ生地で巻いた津和野銘菓)ね」と、彼女に紹介された近くのH堂へ。 「源氏巻」を留守宅や友人へ何点が発送を手配し、お店を出ようとすると、女主が「道中お気をつけて」と源氏巻のプレゼントが。ますます津和野が好きになってしまった。 津和野から日原へ 晴れ間が出てきた。9号線にもどり、JR山口線と並走しながら快調に日原(ひばら)をめざす。 日原で、大休止を兼ねてルートの再検討。さすが中国山地、左も右も険路だらけ。 第1案は、日原から左の県道を近道し、R488を匹見を経て広島県吉和村へ抜けるルート。 第2案は、日原から右へR187を南下、六日市から冠山地・松の木峠を越えて吉和村へのルート。 ナビ図の道路の線形から「第1案は厳しい」と判断、大回りになるが第2案のルートを採ることに決めて、日原を出発した。 (続く)
2006年03月01日
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本州縦断 01年9月30日~03年9月29日 2023km part1 03年9月12日~9月18日 下関~美祢~山口~阿東~津和野~日原~六日市~冠山地~加計~千代田~三次~新見~津山~大原~朝来~和田山~福知山~綾部~亀岡~京都 722km ○03年9月12日(金)曇・雨 下関~美祢~山口~阿東(ペンション・泊)84km 下関から山口へ 午前6時30分、台風14号接近の気配を感じながら、自転車旅ですっかりなじみとなった下関を出発。 いよいよcyarioji旅の最終コース「本州縦断」の始まりだ。 関門海峡に沿ってR9号線を小月へ、小月で左折しJR山陽本線・山陽新幹線を越え、吉田川沿いに県道を美祢へと中国山地へ分け入って行く。 秋芳町で「秋芳洞」見学の予定だったが、空は暗くなり雲脚も速まる様子が気になり、先を急ぐ。午後1時過ぎ山口市に入り、県庁周辺をポダリングのあと、昼食と大休止。 山口から阿東町へ 昼食後、再びR9に合流しJR山口線と並走しながら阿東へと向う。降りだした雨の中、険しい山道を登って行く先には、難関「木戸峠(標高370m)」が待っている。 重車両の排ガスとタイヤが巻き上げる雨しぶきをまともに浴びながら、じっくり腰をすえて登って行く。峠のトンネルを抜けたところで一息入れ、今夜の宿を思案。 キャンプ泊を予定していたが、阿東の手前に「長門峡」をナビ図で見つけ、(たぶん旅館があるだろう、、)とスタート。 珍妙なペンション泊まり 「長門峡」手前の「道の駅」で尋ねると、「旅館が1軒ある」と道順を教えてくれた。 (やれやれ助かった)と、程近い旅館にたどり着き「一夜の宿を」と頼むと、おかあさんらしき女性が、「ごめんなさい、今日は身内に祝い事があり、『臨時休業』で、、」と、家族総出で「祝い膳」を積み込む慌しさ。 途方にくれていると、おかあさん「この先にペンションがあるから聞いてあげる」と、電話で予約してくれた。 道順を聞くと、いまさっき通過した山中に、不似合いな「ラブホテル風電光看板」がチカチカ点滅していたところとわかった。雨はいよいよ激しい、背に腹は代えられずと、山道をくだんの「ペンション」へ逆戻り。 「電飾アーチ」を潜ると、大きな番号札のついた「ドアキー」が何個かキーホルダーにぶら下がっており、左手に管理棟、その奥に何棟かのペンションが立ち並んでいた。怪訝な表情の管理人に事情を話し、いちばん手前の棟を借りた。 内部は、小さなペンションには不似合いな二人がゆったり入れる大きなバスタブと、12畳の和室の真ん中に派手なカバーのダブルベッドがどーんと置かれていた。 部屋中にロープを張りめぐらし、濡れ衣類一式を絞ってぶら下げ、シャワーを浴び、メニューから「チャーハンとかけそば」を注文。 ダブルベッドは敬遠し、押入れにあった布団を引っ張り出し、「珍妙なペンション」に一夜の夢を結んだ。 (続く)
2006年02月27日
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※このところ、旅行やスキーツアーなどがつづき、UPがすっかりおろそかになり申し訳ありません。ボチボチ再開しますので、ドウゾよろしく。2月27日午前 cyarioji記○02年9月12日(木)晴 池田~井川~三加茂~貞光~川島~徳島ゴール(四国縦横断完成)(CH・泊)81km 池田・密巌寺(YH)で 朝食は、前夜遅く着いた若者グループも加わりにぎやかとなった。 彼らの盛んな食欲で、たちまち飯釜も空になり、奥さんが笑顔でお代わりしてくれる。 食事のあと、夕べのタクシーのお礼にと、僅かばかりの「喜捨」を奥さんに託し、出発準備へ。 ペダルを踏んで出ようとしたとき、住職が現れ、「ご奇特なことです。これは拙僧が仏前に祈願した『身代わりお守り』です。お持ちください」と、立派なお守りを頂戴した。 さっそく自転車のフロント・バッグに結びつけ、改めてお礼を述べて密巌寺を出立した。 吉野川を徳島へ 池田名物の真っ赤な「三好大橋」を渡り、吉野川沿いにR192号線(伊予街道)を一路徳島へ向かう。 四日間の厳しいかった山旅がウソのような、快適サイクリンングが続く。 瀬音を立てていた吉野川も、気が付くと川幅もぐんと広くなり、ときどき野生の鵜の群れも見えて、徳島平野が近いことを感じさせる。 四国縦横断完成 快晴・無風を利して快調に飛ばし、午後3時JR徳島駅にゴールイン!。 四国縦横断を完成することができた。 当夜は、駅前のシティホテルを奮発し、疲れを癒しながら徳島の味と酒を堪能し、翌日は鳴門~淡路島~関西空港経由で家路についた。 三年の月日費やし四国旅山河険しもいまは懐かし 四国路の縦横断を走り来て満足いっぱい酌む酒旨し※四国縦横断も終え、cyariojiの自転車旅も残すところ最後のロング・コース「本州内陸縦断(下関~青森)」となりました。中国山地では、余りの険路に(もっと若い時に走っておけばよかった、、)の弱音も、次回からUPです。
2006年02月26日
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○02年9月11日(水)晴 大豊~穴内大歩危~池田~琴平~丸亀(四国縦断ゴール)~JR~池田(YH・泊)93km 四国縦断完走へ 二晩お世話になった「旅籠」を6時にスタート。きのうの「大トラブル現場」の山道も快調にクリアし、R32号線をJR土讃線と並走しながら大歩危へと向かう。 大歩危は、渓谷を渡る「日本一の大かづら橋」で知られるが、「四国縦断完成」が先決と、後藤新平の碑文を眺め先へ。 「万屋」の店先で こんな山中に?と、コンビニ風の店に立ち寄る。 パン・牛乳を求め、店内を見回すと食料品から衣料はては農具までと、「なんでもござれの「よろずや」さんだった。 店番のおかあさん「昔も今もお店はここ一軒だけ。この店の床下には部落中の一冬分の米・味噌・醤油・酒」を蓄える大きな地下室があるけど、交通の便が良くなって今は空っぽ」とやや寂しげな表情。 池田から猪の鼻峠へ 山城町を過ぎ、池田町に入る手前で、前方の遥か高い山腹に集落を遠望、「さすが山国、あんな高いところにも集落があるんだ」と、感心して眺める(今夜の宿の場所とも知らずに、、)。 10時半、JR池田駅着。すこし早いが、この先の猪の鼻峠に備えて腹ごしらえ。 標高410メートルの猪の鼻峠は、四国の旅最後の難所としてたっぷりの汗をかかされたが、きつい登りの後は、讃岐平野へ一気のダウンヒルが疲れを吹き飛ばしてくれた。 琴平からゴールの丸亀へ 「こんぴらさん」の参道入口で少休止。、客待ちの駕篭やさん「自転車で四国縦横断?その脚力なら駕篭かきもハダシだねえ」と談笑のひと時。 財田町で「讃岐うどん」の遅い昼食のあとは、快調に距離をかせぎ、午後3時半「四国一周以来6年ぶり」のJR丸亀駅にゴールイン。高知から丸亀の四国縦断の完成だ。 今夜の宿は、残る横断路の中継点「池田町」。 休むまもなく自転車を輪行仕様に納め、いま走ってきたルートをJRで逆戻りだ。 山上のYH蜜巌寺 丸亀発の電車を乗り間違え、池田へ着いたときは夕闇だった。 予約のYHに電話を入れると,「迎えの車が行けないので、YHおかあさんとおぼしき人が、「駅前のタクシーに『密巌寺』と言って乗ってきてください」と、私「いや、自転車で行きます」に、YH「いえいえ、とても自転車じゃ登って来れません。タクシーにしてください」と、やや強い口調。 タクシーに乗り、行き先を告げると「あ、ユースにお泊りですね」と心得顔で発車。 街を出ると急な山道をどんどん登って行く。(まるで登山道だ、これじゃ自転車は到底無理、、)と納得。街の灯がはるか下に見えるころ、りっぱなお寺に着いた。料金を払おうとすると「こちらさんとの契約車ですからお客さんからは頂けません」という。 お寺に隣接のYHの戸を開けると、先ほど電話応対の女性が出迎えてくださる。 「タクシー料金を」と言うと、「お出迎えの約束ですから結構です」と受け取ってもらえない。 風呂のあと、「食事を」と案内され、宿坊へ。 「どうぞごゆっくり、、」と、りっぱな造りの宿坊の分厚い座布団に座り、期待以上のたっぷりの夕食を戴いた。 大歩危も小歩危も足早走り過ぎひたすら丸亀縦断ゴールへ 昼間見し山腹遥か集落が一夜の宿も池田の縁しか (続く)
2006年01月15日
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○02年9月10日(火)晴 大豊~(実走)根曳峠~南国~高知(JR)~大豊(実走)~穴内(JR)高知~(JR)大豊(旅籠・泊)40km 大豊から高知へ 今日のルートは、大豊から高知の「四国縦断路」を走り、高知から輪行で大豊へ戻り、再び実走で北上し池田に泊まる予定。 朝霧をついて一路R32号線を南下、穴内川ダムの先に待ち構える「根曳峠」も、朝の涼しさの中で一気にクリア、峠付近で後の変速機がガリガリと嫌な音を出し、ギアチェンジがうまくいかなかったが、峠のの下りと高知までのヘ平坦路は順調に走れ、ギアトラブルを忘れてしまった(あとで大変なトラブルになるとも知らず、、)。 8時半、JR高知駅にゴール。すぐさま自転車を輪行仕様に納め、高知発の特急電車で大豊へ逆戻り。 山中で大トラブル発生! 10時過ぎ、JR大豊駅で自転車を組み立て出発し、池田を目指した。 穴内地区を過ぎ、上りの山道にかかり、ギアを落としながら登坂にかかったとたん、「ガチャン!」の、異常音とともにペダルが回らなくなった。 見ると、後ギアを変速するための「ガイドアーム」が根元から完全に折れてしまっていた。これでは走行不能、万事窮すだ。 周りは人家もない山の中、自転車のプロショップでなければ修理は不能だ。と、すればここらでは高知市しかないだろう。 携帯電話で留守宅の妻を呼び出し、私の部屋の書棚から自転車専門誌を探し出し、専門店を探してもらう。高知のプロショップ城山町の「サイクルショップやまね」が見つかった。 次は、高知までの移動手段だ。ナビ図で、先ほど通過の穴内地区にJR土讃線の穴内駅を発見。壊れた自転車を押しながら駅へと向かう。 待つこと1時間余り、普通電車で高知へ逆戻り。 「サイクルショップやまね」 ご夫妻とも自転車に精通の期待以上のプロショップ。 主の山根博敏さん「長年やってるけど、こんな壊れ方は初めて、険しい四国の山道で『疲労骨折』ですかね、、」といいながら、手際よく変速機を交換してくれた。 奥さんのお茶を頂きながら、これまでの自転車旅をかいつまんでお話しすると、「うらやましい、、」と感心しきりの様子。 修理のできた自転車を自ら試運転、太鼓判を押してもらい、「気をつけて」の夫妻の見送りでJR高知駅へ。 高知から再び「JR輪行」で大豊へ戻り、旅籠「しまむら旅館」に連泊となった。 私にとっては、旅が始まって以来初めての「大トラブル」も、予想外に順調に解決でき、ようやく一息つくことができた。 山中の進退窮すトラブルもケータイ一縷で窮地を脱する (続く)
2006年01月10日
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寒中お見舞い申し上げます。 庭の樹齢40余年の赤エゾとトドマツを、昨春自力で伐採し薪づくり。今冬はストーブで薪がパチパチ爆ぜ、薬缶がゴトゴト煮えたぎる音を懐かしく聴きながら冬篭りと、ゲレンデスキーの日々です。 「cyariojiの旅日記」も、2年目を迎えました。 このところ、日記のアップが遅れ気味ですが、 ○「本州内陸縦断&横断編」の、地図や写真の仕込み?意外と手間取っているのと、 ○雪の遅かった北海道、年の暮れからようやくスキーシーズンを迎え、ゲレンデ通いに明け暮れているのが原因です。ご容赦のほどを、、、 完走までの残りページも少なくなってきましたが、本年もよろしくお願い申しあげます。 2006年1月9日 cyarioji
2006年01月09日
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(続き) ○02年9月9日 (月)晴 久万町・古岩屋~境野峠~池川~吾北~郷ノ峰峠~土佐~大山~大豊(旅籠・泊)97km 「古岩屋荘」を発つ お遍路さんも朝食が早い。 私も、きょうは四国内陸の十字路「大豊」まで約100kmの山道だから早い朝食は助かった。 歩き遍路さんに負けじと山盛りご飯をお代わりして腹に詰め込み、宿自慢の岩清水をボトルに満たして出発する。 きのう難儀して上って来た道を朝の冷気をついて快調に飛ばす。深い木立から朝日がこぼれ、静かな気配がなんともいえず爽快だ。 美川でR494に入ると日差しがきびしく、気温ももどんどん上がってくる。 池川から「与作道」へ 境野峠で高知県池川町に入り、長屋地区でR439号線(地元では「与作(ヨサク)道」と呼ぶ)に入るが、「これが国道?」と首を傾げる狭さと厳しいアップダウンの連続だ。 池川町・用居は、四国の霊峰「石鎚山」の山麓に位置する。山間に肩を寄せ合うように集落を形づくっているが、その一角に「廃校」が佇んでいた。なつかしい木造2階建て、いまにも子どもたちが歓声を上げて駆け出して来そうな感じが却って侘しかった。 小さな雑貨屋で、パンと牛乳を求め日陰で休んでいると、大きな荷を着けたサイクリストがやって来た。 「コンニチワ」とにっこり、外人青年だ。彼もお店でおやつを買って隣りに座る。 アメリカ青年で、私とは逆に「徳島から四国西端の佐田岬を目指し、九州一周の旅」だという。 お互い、不自由な会話だったが、九州事情についていくつか情報を提供し、「グッド・ラッグ」を交換し、前後に別れた。 郷ノ峰峠から大豊へ 山また山で平地のまったく見当たらない「与作道」を汗だくでこぎ進む。 午後3時、「郷ノ峰トンネル」をクリア、ここまでで70kmの「山旅」、疲れた。下りに備え、おやつと大休止。 四国の水がめ「早明浦ダム」を抱える土佐町へ下って行く。土佐町からようやく平地走行に近い走りとなる。「早明浦ダム」への立ち寄りもパスし、(早く宿で休みたい、、、「この暑さ続きではキャンプ泊は無理だ、どこかでキャンプ用具を返送しよう、、」)などと考えながら、きょうのゴール地「大豊」へと急ぐ。 危うく「宿無し」に 「大豊」は、JR土讃線の特急停車駅であり、四国縦横断のクロスポイント。 町の手前の「クロネコ・ヤマト」で、キャンプ用具一式を留守宅へ返送し、女子社員に「大豊の宿かホテルを紹介して、、」と頼むと、彼女、小首をかしげながら「この町にはホテルも旅館も無いみたいですけど、、」と。(さあ大変)と思ったら、隣にいたおじさん「やってるかどうかわからんが、この先左側に一軒だけ『旅館』の看板が出ているから尋ねてみたら、、」と。 少し行くと、「旅館」の看板と木造の古びた家が見つかった。出てきたおかみさんに 「泊めてもらえますか?」と尋ねると、「素泊まりでおなじみさんしか泊めていませんが、それでよかったら、、」で、ようやく宿にありつくことができた。 「しまむら旅館」、通された2階の部屋は、廊下の両側に障子立ての部屋が並び、隣室との境は「襖一枚」という、映画のセットのような「昔風旅籠」そのもの。 風呂も「五右衛門風呂」かと思ったが、さすがに今風の浴室にリフォームされていた。 町のたった一軒の小さな食堂で「うどん定食」の夕食をすませ、部屋に戻ってみると、廊下を挟んだ向かいの部屋から障子越しにチラチラとテレビの明かりが写っており、明かりを消して布団に入っても部屋にテレビの余波が届いてきた。(音声が絞られていたところから「常連客」と思われたが、面白い経験だった) 廃校の今にも子らの歌声が聞こえてきそう秋空青く 与作道(R439)ダンプ来るたび道端にぎりぎり佇みやり過ごすなり 四国道山また山のくたぶれもせせらぎ清さに疲れ癒さる 大豊の旅籠一夜借りぬればテレビの明かり障子越し来ぬ (続く)
2005年12月27日
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stage10 四国縦横断 02年9月8日~9月13日 442km part1 横断編 02年9月8日~9月13日 八幡浜~大洲~久万~吾北~大豊~池田~川島~徳島 259km part2 縦断編 02年9月10日~9月11日 高知~大豊~池田~琴平~丸亀 183km ○02年9月8日 (月)晴 八幡浜~大洲~小田~古岩屋(国民宿舎・泊)84km 四国横断へ 8時、JR八幡浜駅間のホテル・トヨを出発、JR予讃線沿いに大洲へ向かう。大洲までは6年前「四国一周」で走ったルート。 さすが山国・四国、八幡浜を出るとすぐ両側の斜面が道に迫り、その斜面に住宅が張り付くように建っている。 大洲から先は次第に険しい山道へと変わる。厳しい暑さの中、アップダウンを繰り返しながら進むが、思うようにきょりが稼げない。九州縦横断で、やや疲れがたまったようだ。 内子で昼食をと思ったが、早かったので通過。内子川沿いに進むが、山またで食堂らしきものは皆無。暑さとすきっ腹に打ちのめされながら、ようやく美川村のドライブインに到着。 冷房の効いた屋内で、まずは大休止。遅い昼食をとりながら今夜の宿を思案する。予定ではキャンプだったが、この暑さと疲労の度合いでは無理と考え、急遽の宿探し。 久万町の古岩屋群へ 横断ルートからすこし外れるが、八十八ヶ所四十五番札所「岩屋寺」近くの「国民宿舎・古岩屋」(久万町)を、ようやく確保することができほっとする。 深い渓流沿いを遡る「岩屋寺」へのルートは、暑さのなか走り続けた身には結構きつい。 やがて見えてきた岩屋寺は、例のごとく「片手拝み」で通過させてもらい、先を急ぐ。 深い谷あいのルートは、もう夕方の気配。 と、道の両側に山塊というか岩塊というか、「巨大な梵鐘を伏せたような」異様な光景が現れてきた。地殻の営みが生んだ「三羽川系・岩屋群」だった。自転車を降り、周囲の景観をしばらく眺めた。 国民宿舎「岩屋荘」 予約のとき、「満室」と聞いていたが、着いてみて理由がわかった。「岩屋寺お遍路」の定宿的存在だったのだ。 温泉は、バスお遍路さんや歩きお遍路さんで大賑わい。「道中話し」を耳にしながら、きょうの疲れを湯の中に解放する。 湯上りに、コインランドリーに出向句と、先客の「歩き遍路さん」が順番待ちの盛況。お遍路さんに敬意を表してきょうの選択は遠慮した。 走れども往けども飯屋見当たらず空きっ腹なだめつ四国の山路 湯船では歩き遍路の元気さにバスのお遍路ちょっぴり遠慮し (続く)
2005年12月21日
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(続き)○02年9月7日(土)晴 阿蘇~竹田~朝地~犬飼~臼杵ゴール96km。臼杵(フエリー移動)~四国・八幡浜(BH・泊) 豊後・竹田へ> 阿蘇谷の朝は霧に包まれて明けた。バイク、車族のホステラーの出発を見送り、ペアレント夫人とおしゃべりしながら自転車に荷を付ける。自転車族は私ひとりだ。 夫人の「いってらっしゃい」を背にスタート。R57(豊後街道)を東へ向かう。と、まもなく後から「プップー」と車の警笛が聞こえ、隣りに並んだ。見ると、ペアレント夫人「忘れ物よ」と窓から水ボトル。「いや、お恥ずかしい、こんなドジは初めて、、」。 無風を利して快調に走り、峠を越えて大分県入り。所々に「チエーン着脱所(冬季用)」があり、山の深さを物語っている。 詩情豊かな竹田市 10時過ぎ、山間に開けた竹田市に入る。 古い石垣一面にベゴニアが花を付け、古い町並みが続く落ち着いた雰囲気だ。 「竹田市歴史資料館」に入る。縄文・弥生から戦国以降の歴史、彫刻の朝倉文夫、「荒城の月」の瀧廉太郎など、こじんまりとした外観に似合わず充実した展示内容だ。 ここ竹田も「西南戦争」に巻き込まれ、町の大半が焼失したことを知り、残された「武家屋敷群」を見学して、この街をあとにした。 肥後街道を犬飼へ 午後、内陸の気温はぐんぐん上がる。肥後街道となったR57号線の曲がりくねった道を、黙々とペダルを回す。 こんもりとした木立の中に祠を見つけ、木陰で休息。 まわりには、長年の風雨にさらされたお地蔵さんがぽつんぽつんと佇でいる。 臼杵ゴール、四国・八幡浜へ 犬飼からR10号線を野津町へ、波津久からR502(臼杵街道)に入りゴールもまじかだ。 午後3時半過ぎ、JR臼杵駅にゴールイン。九州縦横断の完成だ。 ゆったり市内をポダリングしながらフエリーターミナルへ向かう。 夕刻出航の四国八幡浜行きフエリー、甲板から眺めた九州国東半島の落日は、とりわけ素晴らしい眺めだった。 夜、八幡浜着。宿は、数年前「四国一周」でおせわになったJR八幡浜駅前のビジネスホテル「トヨ」。リピーターとあって自転車もフロント脇に置かせてもらい、近くkの居酒屋でささやかに「九州縦横断完成」を祝った。 四年越し走り馴染みし九州の夕陽眺めつ四国路めざす ※次回からは、「四国縦横断」が始まります。cyarioji
2005年12月18日
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(続き) ○02年9月6日(金)晴 熊本・水前寺~上南部~菊陽~大津~立野~阿蘇(YH・泊)48km 水前寺公園 朝、YH前でバイクの「孝行青年」と写真をとり、別れる。 きょうは阿蘇谷まで50km足らずのショートコースなので、道すがら「水前寺公園」散策に向かう。 門前は、もうバスツアーのお客さんで大賑わいだ。名物の築山群を眺めたあと、R57号線(豊後街道)を菊陽町へと向かう。 F谷さんと偶然の再会 道は平坦、快調に距離をかせいで大津に入り、どこかで昼食をとゆっくり走っていると、その先のドライブインの入り口で、前後には車もないのに女性がこちらへ向かって手を振っている。 人違いだろうと、通り過ぎようとして女性と目が合ってビックリ。なんと、きのう「つばめ」の車中で隣り合わせた熊本のF谷さんだった。 「やはり、あなたでしたか」と、F谷さん。 F谷さん「たまたま所用で大津への途中、自転車姿を見かけ、ひょっとしてと、お待ちしていました」とのこと。 「せっかくの機会、ご迷惑でなければお昼をご一緒に、、」と、思いがけず昼食をご馳走になることになった。 食事をとりながら、F谷さん「きのうのご助言を主人にも話し、近々息子ともよく話し合ってみようということになりました。私もなにか道が開けたようで、、」と、ほっとした様子。 (旅から帰ってまもなく、F谷さんから、お礼状に「息子が休学し自宅に戻り、落ち着いて家業を手伝っている」旨の近況と、自宅でとれたというみごとなカライモが届けられ、またまた恐縮。) 阿蘇のマッサージ まだ陽の高いうちに阿蘇谷に到着。 道筋で見かけた「按摩・針」の看板に(九州縦断で酷使の筋肉を、ここらでほぐしてやろう)と、玄関をまたぐ。応対してくれたのは目の不自由ないかにも本格派といった感じの年配の按摩師。 施術台にうつ伏せになり、揉み始めて「ムム?旦那さんご年配とみたが、競輪の選手かね?」と、私「さすがですね、競輪じゃないが自転車で日本中を旅してます」。按摩師「この辺は競輪選手のトレーニングコースで、よく選手たちの体を揉みますが、旦那もいい筋肉持ってますよ」とほめられる。こんなやり取りから施術中、またまた自転車旅談義となり、按摩師のおじさんも「楽しかった」と喜んでくれた。 阿蘇ユースホステル 阿蘇山へのルートの途中にある阿蘇YH。 年配のご夫婦が客の応対にあたっている。外人客は奥さんが滑らかな英語力でさばいている。 風呂で汗を流し、ロビーで新聞を読んでいると、「温泉に行く方、食事に行く方、ご案内しまーす」と奥さん。かなりの年配とお見受けしたが自らハンドルを握り、お客の送迎サービスだ。 私は「食事組」、行き先はYHおすすめの「川瀬食堂」。 「食事終ったころを見計らってお迎えに来まーす」と、「温泉組」を乗せて去った。 「川瀬食堂」。壁一面に墨太のお品書きを張り巡らし(値段安く、おふくろの味風)、家族が忙しく立ち働いている。長年の旅の経験から(この店はイケルと感じた)。 まずは、おとうさんの話し「ウチの品物は、味噌も醤油も、野菜も米も全部自家製・自家栽培が自慢さ、YHのお客さん用の特別メニューもあるよ」と、私「じゃ、ビールとそのYHバージョンを」と。 ビールを飲んでいると、おかあさんが「はい、YHバージョンよ」と、大盆を運んできた。 大皿に山盛りの野菜入り炒飯と大椀たっぷりの味噌汁に漬物。私「すごいボリュームだね!」、 おかあさん「当店自慢の『高菜炒飯』だよ、YHは朝食が出ないから、みなさん半分は朝食にお持ち帰りしてるよ」という。 高菜漬けを細かく刻み込んだだけの素朴な炒飯は、すばらしい味でビールともよく合い、たっぷり堪能できた。 YHに戻り、ロビーでくつろいでいると、居合わせたホステラーに、ペアレントの主(潮谷 満さん)が、「阿蘇山生成の歴史」を解説してくださるという。阿蘇山の在野の研究家という潮谷さん。お手製のパネルを巧みに使い分けて、判り易く「阿蘇山の今昔」を語ってくださった。 (私も、全国かなりのYHにお世話になってきたが、阿蘇YHの潮谷ペアレントご夫妻は、なかなかの教養人とお見受けした次第) 偶然の出会いがもたらす昼の膳熊本びとの心味わう 阿蘇谷の田舎めしやの高菜飯うまうま頬張り満腹満足 阿蘇山の今昔究めつ阿蘇谷で訥々語りしユースの主 (続く)
2005年12月17日
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(続き) ○02年9月5日(木)晴 加治木~(JR鹿児島本線移動)~西鹿児島~串木野~阿久根~八代~熊本~水前寺(YH・泊) 加治木から鹿児島へ 加治木から普通列車の鹿児島行きに乗ると、回りは元気な中年女性群。聞けば近郊のゴルフ場のキャデーさんの勤務帰りとか。 私の真っ黒日焼けから、またまた「自転車旅談義」と質問攻め、記念にとゴルフ場のテレカをプレゼントされ、「そんな贅沢旅をさせる奥さんがイチバンえらい」が、彼女たちの結論だった。 博多行き「特急つばめ」の人生相談 西鹿児島発「特急つばめ」、車内販売の「つばめ弁当」を平らげ、お茶を飲んでいると、隣席の中年女性客から「トライアスロン(水泳・自転車・マラソンの三種競技)ですか?」とのおたずね。 それがきっかけで、「日本列島一周のあと、九州縦断を終え、これから熊本へ移動し阿蘇から九州横断の予定」などと、質問に応えながらこれまでの自転車旅をかいつまんでお話しする。 女性はF谷さん、なにか屈託ありげな様子が気になっていたところ、「初めての方にこんなお話しはご迷惑と存じますけど、人生の先輩とお見受けしましたので、、」の前置きで、 「息子が念願の鹿児島の大学に入り、明春卒業を前に突然退学すると言い出した。夫と急遽説得に来たが平行線のまま、夫は仕事で一足先に熊本へ戻り、私はギリギリまで粘ってみたが、息子の意思を変えることができず、困り果てている」との話し。 いろいろ経過をお聞きしたが、息子さんも熟慮の末の結論のようにも思われたので、 「人様に助言できる立場ではないが、たまたま私の息子の『退学騒ぎ』を経験からいえば、親が一方的に親の考えを押し付けるのは如何かとおもう。息子さんも一個の大人としての考えなのだろうから、責任を持たせる意味で息子さんの選択に任せてはどうか? 今は、彼も熱くなって「退学」と言っているかとも思うので、冷却期間を設ける意味で「一時・休学」という方法もあるが、、」と、話すと、 F谷さん、はっとした表情で「休学は思いつきませんでした。さっそく主人とも相談し、息子にも話してみます」と。 水前寺ユースホステル 熊本駅でF谷さん、「本当にきょうは貴重なご助言を頂きありがとうございました」と、ていねいにお礼を述べられて下車。 私も少しは参考になったかとほっとしながら、次の水前寺駅で下車、駅近くの「水前寺YH」に入る。 部屋は、珍しく和室6人の相部屋。最後に入室の私は、入り口近くの空きスペースに陣取り、さっそく布団を敷く。 隣りの青年「自転車ですか?」と話しかけてくる。 青年はバイクで福岡から鹿児島ツーリングの帰りとのことだったが、聞くと、病気の父が離村した昔の故郷の様子が知りたいというので、鹿児島の山奥を訪ねての帰りだという。 「荒れ果てた村の様子を、どう父に話したらよいものか、、」と思案顔の孝行息子だった。 coffee break 短歌のお師匠さん 旅日記のところどころに、下手な短歌をのせているが、もともと歌作の心得など無縁の私だった。 私の30年来なじみの居酒屋「A」のおかみは、ちょっと知られる歌人。 カウンターの向うで、なじみ客をもてなしながら、チラシの「裏紙メモ帳」に客のやりとりなどを素材にさりげなく短歌の片句をメモる名人芸の持ち主でもある。 歌集もすでに何冊か出し、彼女の歌風を慕うフアンも多く、地方歌壇でも”生活派歌人”として知られる存在だ。 一方、長年続いている私の自転車旅。 旅の一日が終ると、手短かに景色や人びととのふれあいなどを書き留めるのが日課。 その「箇条書きメモ」がある日、「七五調」に見えたのがきっかけで、私の下手な短歌づくりが始まった。 やってみると、これが結構楽しい。 そんな旅を終えたある夕べ、おかみに、「こんなもの歌といえますかねえ、、」と、何首か批評をお願いしたところ、 「りっぱな短歌です。私らなんぞの頭ん中での言葉のあそびじゃなしに、旅そのものが歌いこまれていてとっても素敵、作法なんかにとらわれず、感じたままを素直に詠むのがいちばんよ」と、うれしい励ましを頂いた。 それからは、「車楽」としゃれて旅の道すがら駄作に親しみ、それが旅の趣を一層ゆたかにしてくれているようだ。 そしてときおり、わが師匠であるおかみと、短歌を肴に飲む酒もまた味わい深い。 cyarioji (続く)
2005年12月11日
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(続き) ○02年9月5日(木)晴 人吉~えびの~吉松~栗野~横川~溝辺~加治木ゴール79km 人吉~えびのループ橋へ 朝、人吉駅前で開店準備の果物屋さん。みごとな梨を積み上げている。 「1個だけ分けてくれます?」に、おばさん「自転車かね、じゃもう1個おまけだよ」とうれしいはからい。 えびの市へ通ずるR221号線、かなり長い登り道を予想して、ペースを押さえゆっくり進む。街路樹の手入れが行き届き気持ちのいい沿道風景が続く。 勾配のきつさが感じられるころ、目の前に巨大な人工構造物が現れた。初めて目にする「人吉ループ橋」だ。 きっちり円形を描くルートを漕ぎ上がっていくと、高度が上がってくるのが面白いほど実感できる。ところが、それとともに猛烈な風が自転車を襲ってきた。 吹き飛ばされないよう、しっかりハンドルをキープしながら橋を上りきった。 橋際の駐車場にいた定期便の運転手さんに、この先の道路事情を聞くと「この先には登りはもうないよ」とのこと。安心して小休止、梨を味わう。> えびの市へ なるほど、えびのまでは快適な高原のサイクリンングが楽しめ、さらにえびのへの下りの「ループ橋」の前後は、豪快なダウンヒルが待っていた。 調子に乗って駆け下ったが、九州南部とはいえすっかり冷え込み、峠茶屋に駆け込み「熱々うどん」をすすり込むはめに。北緯28度を通過 えびのから先は、ゆるやかなアップダウン。吉松町で「北緯28度」の標識を通過、北海道の中央部は北緯43度だから「はるか遠くへ来たもんだ、、」の実感がよぎる。 A市所縁の人が 下界はやはり暑い。横川町で沿道に「果物直売所」をみつけ立ち寄り、みごとな豊水を1個求め日陰を借りてかぶりつく、うまい。 と、私の自転車をあれこれ眺めていた売り子さんの一人が自転車のステッカーを読んで「えっ、お客さん北海道のA市の方ですか!?」とビックリした表情でたずねる。 「そうですけど?」と私、彼女「まあ奇遇ですわねー、私の夫の弟がA市の○○大学で教員をやっていて、私らもつい先年A市まで遊びに行ってきました」と、うれしそうに語る。 この出来事で売り子さんたちもすっかり仲良しに、例により矢継ぎ早の質問に「自転車旅のあれこれ」を応えると、別れ際にはぶどう梨などバッグに納まらないほどのお土産をプレゼントされ、「頑張ってねー」の黄色い声援を背に出立した。(帰宅後、大学に弟さんを訪ねると『義姉からも聞いてました』と、偶然の出会いの経過と故郷の思い出など、楽しいひとときをもつことができました。) 加治木ゴールで九州縦断完成! 横川からは軽快に距離をかせぎ、午後3時過ぎJR日豊本線加治木駅にゴール。無事九州縦断を達成することができた。今夜の宿は、九州横断の起点熊本とあって、休むまもなく「輪行作業」。 ちょうど、高校生の下校時間とあって、JR通学の生徒おたちがいつの間にか輪になって私の作業を見守り、その中の一人が「おじさんはどこから?(と、例の質問)」、「日本列島一周を終えて九州縦横断の旅さ」と私。 たちまちこの話しが伝わり、またもや興味深々の質問攻め。 待ち時間が生徒たちと同じとわかり、ホームでにわかに「自転車旅の講義」。生徒たちも真剣に聞いてくれる。 「人生は一回きり、君たちの人生はこれからだ。仕事だけじゃなく『自分流の趣味』を持ってゆたかな人生をめざしなさい」と結ぶと、いっせいに拍手が起こった。 九州の脊梁ハードに越えきたる疲れもふき飛ぶ加治木のゴール 加治木駅自転車旅に興示す生徒ら相手に旅談義 (続く)
2005年12月06日
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(続き) ○02年9月4日(水)晴 椎葉~飯干峠~湯山峠~市房~多良木~人吉(旅館・泊)84km 昨夜の取材クルーのメンバーと別れ、昭和30年完成の日本初のアーチ式で知られる椎葉ダム沿いに南下する。 ダムを通過すると道はぐんと険しく狭くなる。 無人の椎茸畑 道傍のあちこちに黒いネットの帯が続く。中を覗くと、丸々と育った椎茸がホダ木にびっしりと付いている。周りは誰もいない山の中だ。 わずかな平地をいとおしむかのように稲が育てられている。 椎葉の人々の気質がうかがえてほのぼのとした気持ちで往き過ぎる。 黒木兄弟刑殺の地 小さな谷間の集落で、自然石の碑と「掲札」を見かける。 「黒木六左衛門 田大六兄弟殉難顕彰の碑」とある。 「掲札」には、「この地において享保16年(1731)7月19日、人吉からの藩遣使役人により名主黒木六左衛門田大六兄弟が仕置きされ、村人の嘆願により遺体の引渡しを受け、懇ろに弔い碑を建立。刑殺の理由は、椎葉村民長年の苦境の救済策として、藩林の伐採と搬出の許可を村人連署で願い出たことが、幕府法度の『強訴』に触れたと裁断されたことにある、、」と記されていた。 きれいに清掃された碑には香華が供され、270年を過ぎた今日もなお、無念の黒木兄弟への、村人の追慕の気持ちが深いことを知らされた。 西郷軍と飯干峠 道は九十九折れの登山道並みの険路が続く。 「西南戦争」に敗れた西郷軍の一隊は、追討の政府軍を避けて、椎葉から飯干峠を経て人吉のルートをたどったと伝えられている。 草鞋を失った兵は、道端に捨てられた「馬草鞋」を奪い合い、山人の狭い家は寒さを避ける兵ですし詰め状態になったともいう。 飯干峠の頂上で、はるか人吉・鹿児島方面を望み、往時の西郷軍をしばし偲んだ。 人吉へ 湯山峠を越えると「ご褒美の下り坂」、球磨川沿いに一房~多良木と駆け下って、午後4時ジャストJR人吉駅に着いた。 侍女を従えた殿様のからくり時計が賑やかに4時を告げていた。 観光案内所で紹介の宿へ向かうポダリングの途中、街中に掘りめぐらされたゆたかな水路にそよぐ水藻と鯉に見とれる。戦国期から700年の相良の殿様代々の遺産で、「水路を汚した者には厳しい仕置き」があったという 刑殺の名主慕いて今になお香華絶やさぬ山里の人 飯干の峠に立ちて西郷の敗軍憶い人吉望む 滔々の球磨の流れと競いつつ九州縦断人吉へ (続く)
2005年11月28日
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(続き) ○02年9月3日(火)晴 高森~蘇陽~馬見原~五ヶ瀬~芋ノ八重~国見峠~野老ヶ八重~椎葉(民宿・泊)60km 高森の宿 「YH村田屋旅館」、旧街道筋の老舗旅館の風格が漂う。 玄関は四間(7.2m)幅の屋号入り磨りガラス引き戸、踏み込みを上がると帳場があり、その横に一間(1.8m)幅のがっしりとした木組みの階段が2階に通じている。 廊下は畳敷きで、時代を感じさせる雪洞が灯され、部屋は九尺(2.7m)の天井高の十二畳間、夏らしく花茣蓙が敷き詰められている。 洗濯場・風呂場・トイレは、中庭をめぐる縁側から庭下駄をつっかけて行く構造だが、風呂・トイレは現代風に屋内に作られていた。 部屋には、この土地が木材積み出しで栄えた往年の様子をあらわした古い写真の額が掲げられ、まことに趣がある宿だった。
2005年11月26日
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(続き) ○02年9月2日(月)晴 杖立温泉~小国~阿蘇・大観峰~阿蘇谷~箱石峠~高森(YH・泊)73km 杖立から小国へ 朝、筑後川の渓谷沿いの杖立温泉は、あちこちの湯宿から湯煙が立ち上り、箱庭のような景観だ。 一夜で友達になった宿のワンちゃんの頭をひと撫でして、スタート。深い渓谷の底にはまだ夜明けの名残りか、ひんやりした冷気が漂う。 道は緩やかな登りが続く。 10時、小国町着。低い里山を背に、秋の陽だまりの稲田が広がり、遠くには阿蘇久住連山が望め、剣豪小説の「柳生の里」を彷彿とさせるような、穏やかな風景が広がっていた。 阿蘇へ 南小国を過ぎると視界が開け、「阿蘇くじゅう連山」の山容が徐々に近づいてくる。いつのまにかススキの穂がそよぎ、このあたりからは秋の気配だ。 12時、「大観峰」着。阿蘇谷を挟んで阿蘇の山々を望む景色は『まさに絶景かな、、』大観峰の命名に感心する。 茶店で熊本名物「だご汁定食」で腹ごしらえし、阿蘇谷への急坂を「逆落とし」のダウンヒル。 途中の展望台で休憩していると、私の「北海道から自転車旅」のロゴを見つけたバイク青年が「私も札幌からです」と、学生で、首尾よく「就職内定」をもらい、「社会人になればできないから」と、九州~沖縄の旅だという。 そんなやり取りを聞いていた傍らの女子ライダーも加わり、しばし「「自転車・バイク旅の情報交換」、彼女「うちの父より10歳も年上で、オジさんすごい。帰ったら父に気合を入れなくっちゃ」と。 箱石峠から高森へ 阿蘇谷のJR阿蘇駅で大休止。今夜の宿の高森へ西回りルートを取るか、根子岳(箱石峠越えの東側ルートにするか、しばし思案ののち、根子岳(別名・猫岳)ルートに挑戦と決定。 しばらくは緩やかな登りだったが、根子岳にかかると九十九折れの急坂が待ち構えていた。 「押し上げ登山」もしばしば、喘ぎながら高度をかせいでいると、先ほどの女性ライダーが徐行しながら接近し「頑張ってくださーい!」の激励を一言、アクセルを吹かし手を振りながら駆け上って行く(「俺もアクセル欲しいよ」とつい弱音、、)。下界を振り返ると苦労して登ってきた山道の下に阿蘇谷が望め、シンドさを一瞬忘れる眺めが広がっていた。 苦闘の2時間、峠の材木店の父子らしい二人に「よう頑張って来たなすった。あとは下り一方だよ」と励まされ、ダウンヒル開始。 途中の観光牧場のアイスクリームのうまさが疲れをとってくれる。毎度のことだが、峠の登りが苦しければ苦しいほど、それに倍する素晴らしいダウンヒルが待ってくれている(だから『峠越え』が魅力)。 夕暮れ、昔風の格式ある旅籠を思わせる「YH村田屋旅館」にゴールイン。 洗濯物一式をコインランドリーに放り込み、熱い風呂で汗を流し、浴衣がけのビールは、またまた格別の味だった。 朝霧の消え行く先に阿蘇久住山容仰ぎつペダル漕ぎ往く 大観峰阿蘇連山にダゴ汁と意気軒昂の九州縦断 根子の肩箱石峠ヘアピンを喘ぎ登りし阿蘇の険しさ 猫岳が似合わぬ険しさ箱石の峠下りは韋駄天走り (続く)
2005年11月21日
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stage9 九州縦横断02年8月31日~9月7日 538km part1 縦断編 02年8月31日~9月5日 福岡~大宰府~日田~杖立~阿蘇~国見峠~椎葉~飯干峠~人吉~えびの~加治木 384km ○02年8月31日(土)曇(移動日)北海道~(空路)~福岡(BH泊) 午後、新千歳空港から「台風接近で途中着陸条件付き」で福岡へ向かう。無事福岡に着き、ヤマト運輸営業所で例の「先送り自転車・装備」を受け取り、組み立て。 強風にあおられながら、JR博多駅近くのビジネスホテルへ。 ホテルでは自転車を「大切な物だから目の届く所に、、」と、フロント脇に預かってくれる。 夕食は「名物の屋台」で、と思っていたが、風雨が激しく、駅ビルの地下で済ませ、早々と就寝。 ○02年9月1日(日)晴 福岡~大宰府~甘木~日田~杖立温泉(温泉宿・泊)99km 大宰府へ ゆうべの嵐がウソのような快晴の朝だ。ビジネスホテルの主に見送られ出発。JR博多駅をバックに、高校生にシャッターを押してもらい、いざ「九州縦横断の旅」へ。 九州の動脈3号線を大宰府へ南下、福岡空港まじかとあって、朝の出発便が次々と離陸して高度を上げていく。その下をチャリチャリと時速20kmのcyariojiがいく。 大宰府、たくさんのツアー客が群れている。「学問の神様」だが、筋違いの「交通安全」を祈願し、お守りを自転車につける。 甘木から日田へ 筑紫野でR3号線と別れR386号線を甘木へ、快晴・微風、絶好のツーリング日和となった。暑くならないうちに、せっせとペダルを回し距離をかせいでいく。 甘木を過ぎたあたりから(そろそろどこかで昼飯を、、)と、物色しながら走るがなかなかドライブインらしきものが見えてこない。 うまかチャンポン 空腹を抱えながら走るうち、杷木町の入り口で小さな食堂を見つけた。 入ってみると、赤茶けた畳の小上がりで扇風機だけがブンブンと回り、シンとしていて、お世辞にもきれいな店をはいえない雰囲気。 (お休みかな?)と立っていると、奥からおばさんが、(私の旅姿=サイクルジャージ)を怪訝そうに眺めながら「いらっしゃい」とでてきた。 古ぼけた「お品書き」を眺め、「チャンポンの大盛りを」と注文する。R> 「はいよ」と受けて、やがて出されたチャンポンを一口、(うまい!)、出し味・野菜のいため具合とも申し分なく、麺にからんで喉越しもいい。 汗を拭き拭き「美味いねえ、、」と、おばさん「気に入ってくれた?」とうれしそうな表情。 おばさん自慢の一品だという。チャンポンの合間に飲むコップの水がまたうまい。 「ここのお水?」と聞くと、「毎週阿蘇の産山(うぶやま)まで汲みに行く」とのこと。 自転車旅で九州縦断中と知ると「すごいねー、きょうも暑いから気をつけて、これ道中でお飲みなさい」と、冷蔵庫から産山名水をつめたペットボトルをプレゼントしてくれた。ありがとう! 杷木から杖立温泉へ 前方に阿蘇連山が近づいてきた。道も次第に険しさを増してくる。暑い、しばしば産山水で渇きを癒し、今夜の「テント泊適地」を物色しながら登っていく。 広かった筑後川もこのあたりまで来ると川幅が狭くなり、両岸の切り立った崖からは豊富な湧き水が惜しげもなく川に注ぎ落ちている。 (この暑さじゃテントはきびしいなあ、、)と思いながら登っていくと、「一泊○○○○円・空室あり」の立て看板を発見。杖立温泉宿泊まりとする。 杖立温泉の由来は、江戸時代から「湯治のおかげで杖を立てたまま忘れて帰る」からきたとされ、文人墨客が好んだ名湯とのこと。 泊まった宿にも、江戸期からという「蒸し風呂」があり、電灯のない薄暗い「蒸し部屋」のスノコの上に手足を伸ばし、湯気に包まれながら筑後川の瀬音を聞くのは、なかなか趣のあるものだった。、 訪ないも憚かり気味の杷木の店絶品チャンポン舌もたじろぐ 杖立の蒸し風呂湯気に包まれて瀬音ききつつ疲れ癒さる (続く)
2005年11月18日
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(続き) ○05年9月7日(水)曇・雨 幌延~豊富~サロベツ原野~稚内ゴール 55km 民宿・サロベツ 台風接近で今にも雨になりそうな空模様。 「早立ち」でお願いしていた早目の朝食を頂いていると、主の高橋さん夫妻が「自転車で北海道縦横断は感動モノです。これはほんの気持ちです」と、お弁当を作って下さった。 新築間もない民宿「サロベツ」は、JR幌延駅のまん前に位置し、パソコン・FAXの設備もあり、明るく快適な造り。 先代が55歳で急に亡くなり、高橋さんが跡を継いで55歳になったのを機会に新築したという。 前夜から、結構な料理を美人おかみのお接待で頂いたことにもお礼をのべ、夫妻の「またいらして下さい、お気をつけて」の声を背に、幌延をあとにした。 ゴールの稚内へ 幌延から豊富にかけては広大なサロベツ原野が広がる。 あいにくの空模様だが、緩やかな起伏を快適なペースで稚内を目指す。稚内市の手前の小高い丘を登りきると、目の前に稚内市が広がり、その向こうに宗谷海峡が一望できた。 午前11時、稚内市・声問(こえとい)海岸にゴールイン。 10日間1221km、北海道縦横断再トライは無事完走することができた。 雲の垂れ込めた宗谷海峡を眺めていると、ゴールインを待っていたかのようにポツリポツリと雨が落ちてきた。 雨を避けてJR南稚内駅に駆け込み、自転車を輪行仕様に畳む。 「民宿弁当」を食べる あとはJRの出発時間を待つだけ。 ほっとして、昼食にとりかかる。「一人祝杯」をと、キヨスクで缶ビールを求め、今朝頂いた弁当を開く。 大きなおにぎりに焼き魚・玉子焼き、そしておしぼりまで添えられており、主夫妻の気配りの細やかさが伝わってくる。 お礼の気持ちもこめ、缶ビールをグイッ、、、 (あ、いけない)、ビールを口に含んだ瞬間、ゆうべ宿の夕食のとき、おかみと自転車旅の話しをしながら飲んだ「生ビール」の支払いを忘れてきてしまったことに気づいたのだ。 (帰宅してから、なにかお詫びの品を添えてお返ししよう)と、きめておいしく弁当を頂いた。 南稚内13時40分発「特急・サロベツ」に乗ってまもなく、私の携帯が鳴った。 出ると、「民宿サロベツの高橋です。お部屋にTシャツの忘れ物がありましたので、サロベツ駅のホームへ家内が届けに出ます、、」とのこと。 次の停車駅は幌延、デッキに出ていると、雨の中を夫妻が「忘れ物」をビニール袋に包装し、「もしあなたに会えなかったら車掌さんに託そうと」名札まで張る心遣い。 私、お礼とともに「無銭飲食代」を差し出すと、主の高橋さん「いえ、あれはあなたのゴールの前祝です」と、 短い停車時間をさいわいに、むりやり主の掌の中へ何がしかの代金を押し付け、感謝の手を振りながら別れた。 かくして「北海道縦横断再トライ」は、またも往く先々の善意と人情に支えられ、豊かに実を結ぶこととなりました。 朴訥な民宿夫妻の気遣いにサロベツ旅はたわわな実り※次回からは「九州縦横断の旅」が始まります。引き続きのお出でをお待ちしています。 cyarioji
2005年11月15日
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(続き) ○05年9月6日(火)晴 士別~名寄~音威子府~中川~幌延(民宿・泊)へ142km 名寄へ向かう さすが北海道北部の士別、深い霧の朝で気温も10度そこそこ。 (きょうは天気も良さそうだから)「幌延あたりまでかな?」と、つぶやきながら自転車に荷を付けていると、宿の主が「自転車でそこまで行けるとは」と興味深げに出発準備を眺めている。 朝霧のなかR40号線を北上。 このあたりは「稲作の北限地帯」とあって、早くも稲田が黄金色だ。 名寄市に入り、北海道第二の河川「天塩川」を渡る。石狩川・十勝川とも「南流」して日本海・太平洋に注ぐが、天塩川は「北流」して天塩町で日本海に注ぐ。 音威子府へ 名寄を過ぎ、「美深・道の駅」で昼食。午後の長丁場を考え「ジャンボ焼きそば」を注文したところ、たっぷり2人前以上ものボリュームに面食らう。周囲を見ると、3~4人で小皿に取り分けて食べている。食べる方では自慢の私だったが、残念にも三分の一を残してギブアップしてしまった。 R40号線は、緩やかな天塩川の流れと並走しながら北上する。「SL」の全盛期、「鉄道の町」として知られた音威子府(おといねっぷ)も、昔日の面影はみられない。 北緯45度を通過し幌延へ 接近する台風の影響で高曇りの天北原野。「利尻富士」は無理だろうなあと走っていると、意外にもサロベツ原野の向こうにぽっかりと優美な姿を見せてくれた。 日没時、北緯45度ラインを通過し、JR幌延駅前の民宿「サロベツ」に到着したとき、地元の人たちも「めったに見られないほど」という、みごとな「サロベツの夕焼け」が西空いっぱいに広がり、しばし目を奪われた。 サロベツの向こうにぽっかり利尻富士ゴール近いと励ましくれるか (続く)
2005年11月11日
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(続き) ○05年9月5日(月)晴 糠平湖~三国峠~大雪湖~層雲峡~上川~比布~塩狩峠~和寒~士別(民宿・泊)へ143きめ 三国峠へ YHオーナーの計らいで「早立ち朝食」を頂き、7時過ぎ糠平温泉を出発。今シリーズ最大のスケールを誇る三国峠攻略に向かう。 早朝とあって、前も後も車ゼロのR273号線(糠平国道)を腰をすえてじっくり攻め上る。この街道、北海道でも「鹿の交通事故」の多いことでも知られている。「鹿とび出し注意」の看板が頻繁だが、鹿には読めないのが残念だ。 一見平坦に見える直線路だが、勾配は意外にきつい。 途中、YHオーナーが搬送した「マウンテンバイク・ダウンヒル・ツアー」の面々が「ガンバッテー」の声を残して颯爽と駆け下っていく。こちらは時速6km後の「山登り」。 三国峠から上川盆地へ 10時半、三国峠に立つ。中国語のツアー客がにぎわう中、うどんを一杯かき込み、ダウンヒル開始。ここから「大雪湖」でR39号線(北見国道)に合流し、層雲峡~上川~愛別を経て、稚内へ通ずるR40号線(名寄国道)の比布町まで、延々50kmの「ご褒美の下り道」だ。 層雲峡では、このホームページにご来訪のみなさんにサービスをと、自動車通行禁止区域の「景勝・神削壁」まで足をのばしカメラにおさめる。 40km前後の快速を維持しながら爽快な気分で駆け下る。狩勝峠の「十勝平原への駆け下りの雄大な広がり」に対して、三国峠ラインは「北海道の脊梁越えのスケールの大きさ」を実感できる。 層雲峡の名付け親である明治の文豪「大町桂月」が、「富士に登って山の高さを知れ、大雪に登って山の大きさを知れ」と語ったと伝えれるが、そのことを体感できるコースでもある。 午後6時過ぎ、ダイナミックな峠越えの一日で、快い疲労感とともに士別の民宿に到着。 (続く)
2005年11月10日
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(続き) ○05年9月4日(日)晴 広尾~更別~中札内~帯広~音更~士幌~上士幌~糠平湖(YH・泊)へ143km 十勝平野縦断へ 前夜のうちに準備を整え、7時前宿を発とうと玄関に出た私に、若おかみが「これをどうぞ、、」と、おにぎりの包みを渡してくれる。 「お代を、、」というと、「いいんです、ほんの気持ちですから」と、ありがたく頂戴する。 先日の「腹冷え事件」に懲り、おかみに古新聞をもらい、ジャ-ジの下に挟み込み広尾を出発。 きょうは十勝平野を南から北へと縦断し、北端の上士幌からさらに大雪山・糠平温泉までの長距離走だ。 はるか大雪山地に向けて登りの地形だが、古新聞の「保温効果」で腹も冷えず、左に日高山系を眺めながら快調に走る。 このあたりは、ジャガイモ・とうもろこし・豆類・長芋と豊かな畑作地帯が続く。 帯広駅前で 更別から中札内を経て、正午過ぎJR帯広駅に到着。 キヨスクでお茶を求め、駅前の陽だまりのベンチで「おかみ差し入れの包み」を開く。 しっかり握られた大ぶりのおにぎり、茄子の漬物、栄養剤のドリンクまで添えられていた。感謝の気持ちで口にする(暖かい人情が詰まっていて格別の味わいだ)。 となりのベンチで弁当を使っていた青年、「自転車旅ですか、いいですねー」から、話をかわす。 青年(H間さん)も「自転車が趣味で、学生時代「北海道旅行」を楽しんだが、社会人で北海道転勤となったものの、仕事に追われ自転車があくびしています」と、苦笑。私が「51歳からの日本旅行」を話すと、H間さん「勇気づけられました、チャレンジします」と。 十勝川を渡り上士幌へ 帯広と音更の間を流れる十勝川を一跨ぎする「巨大な竪琴状(斜張橋というらしい)の十勝大橋」を渡る。 依然真っ直ぐな道を北上するが、勾配がしだいにきつくなるのがペダルに伝わってくる。 午後3時、遠くに霞んでいた大雪山系がまじかに見えるころ、十勝平野の北端の上士幌町清水谷に到着した。 糠平湖への山間に入ると陽がかげり、気温がぐんと下がってくる。紅葉にはまだ早いが秋の気配だ。 山道をたどり、トンネルをいくつかくぐり「糠平ダム」のダムサイトをかわすと、谷間に肩を寄せ合うような糠平温泉街が見えてきた。 宿は糠平東たいせつYH。「大雪山の豊かな自然」を紹介しようと、首都圏から移住し開業の意欲的な若いペアレント夫妻が好印象。 客も、登山、カヌー、MTBダウンヒルなど、多彩なアウトドア派でにぎわっていた。 朝広尾夕べに糠平走り来てつくづく思う十勝の広さ (続く)
2005年11月09日
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(続き) ○05年9月3日(土)晴 釧路~(JR移動)~帯広~(路線バス移動)~中札内~広尾(民宿・泊) 釧路から帯広へJR移動 末広町の民宿で出発の準備をしていると、民宿のおかあさん(輪行=自転車を分解し袋詰め)を「自転車って便利なんですねえ」と感心して眺めている。 後輪部分のフアスナーを開き、バッグのベルトを肩にかけスルスルと引きながら「お世話さま」と別れを告げると、ビックリして目を丸くしている。(注:後輪を転がしながら手軽に移動できるこの「輪行バッグ」は、東京・世田谷の長谷川自転車商会tel03-3420-3365の主、長谷川弘さん考案の商品名『くるくるバッグ』で、私の自転車旅には欠かせない重宝グッズです) 釧路発7時39分おおぞら2号で帯広へ 駅前バスセンターの「広尾行き」にいってみると。先客に折り畳み自転車をパッキングした女性がいた。 帯広から路線バスで広尾へ 自転車旅同士、待ち時間の間にうちとけてあれこれと旅談義。 女性は首都圏のOL・K子さん。 「自転車の北海道旅行が夢でしたが、自転車の分解が苦手なのと、細いタイヤではパンクが心配なので『折り畳み』にしました。結構JRやバスも利用できて満足、きょうは中札内をぶらつき帯広空港から帰ります」と。 「折り畳み」にはちょっと抵抗感のあった私、試みに持たせてもらうと意外に軽い。テント・寝袋もうまくパッキングされている。 「用意がいいですねえ、、」に、「宿無しであせって事故るのも嫌ですから」とK子さん(しっかりした考えだ)。 中札内までの車中でも、「これからの自転車旅の参考に、、」とのK子さんのリクエストに応えて、彼女に役立ちそうなノウハウのあれこれを伝えると、熱心にメモを取りながら的確な質問をぶつけてくる(仕事もキレ者の感じ)。 別れ際「興味があったら私の自転車旅のホームページも覗いてください」とアドレスを渡した。 (このページ発信の3日後、K子さんから「思いもかけず自転車旅の達人にお会いでき幸せ、ホームページも感激です」とのお礼のハガキが届いた) 昼過ぎ、自転車旅では14年ぶりの広尾町着。 民宿「めぐみ屋」で、明日からの「縦断」に備え、ゆっくり休養をとる。 (続く)
2005年11月07日
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(続き) ○05年9月2日(金)晴 阿寒湖温泉~阿寒横断道路~弟子屈~虹別~中標津~標津ゴールイン(横断完走)101km(完走後、釧路へ移動) 阿寒横断道路へ 朝、民宿「山口」のおかみの見送りを受け阿寒湖温泉街を出発、rR241号線(阿寒横断道路)へ向かう。 弟子屈まで35kmの前半「双湖台」まで10kmは、きびしい上り坂が続くが、「双湖台」では素晴らしい眺めが待っていた。 「双湖台」から弟子屈までは、快調なダウンヒルが続き距離をかせぐ。 根釧原野 弟子屈から先は、なだらかな起伏の根釧原野(こんせんげんや)」が果てしなく続く。 ちょうど牧草の収穫期で、広い牧草畑には白や黒のビニールできっちり梱包された牧草のロールが散らばり、面白い構図を見せている。 ソロの女子サイクリストに会う そんな景色を眺めながら進んでいくと、めずらしく前方に自転車旅のソロ・サイクリストを発見。 徐々に距離が詰まって見ると、ピンクのTシャツから女性とわかった。BR> 追いつき並走しながら「コンチワー」とあいさつを送ると、彼女飛び上がってビックリ、「のんびりした景色に見とれて、ちっとも気が付かなかったものですから、、」と。 関西の学生でY子さん。テント・寝袋装備の本格派。「自転車の方との同道は初めて」との彼女と、自転車旅のあれこれを語りながらゆっくりペダルを踏む。 Y子さんからは自転車旅のノウハウについての質問がもっぱら、「荷物を少なくする方法やコンパクトな積み込み方、資料やパンフ・土産物などは郵便パックでこまめに自宅送りする、走りながら洗濯物を乾かす法、給食や給水のコツ等など」を伝授する。 「初めて聞くことばかり、参考になります、、」と、真剣そのもの。 標津にゴールイン 中標津泊まりという彼女と別れ、ピッチを上げながら快走し、午後4時過ぎ、横断のゴール地点「標津町役場」に到着した。 バスターミナルで「釧路行き」の時間を確認すると、約2時間後の午後5時50分出発という。 自転車を「輪行仕様」に納め、鮨屋で早めの夕食をかね一人祝杯を傾けた。 午後5時50分、釧路行きバスに乗車。先ほど走って来たコースを折り返し、中標津経由で釧路駅に着いたのは午後9時に近かった。 横断の標津漁港に走り来て クナシリまじかにゴールを実感 (続く)
2005年11月04日
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(続き) ○05年9月1日(木)晴 池田~本別~足寄~足寄峠~阿寒湖温泉(民宿・泊)101km 池田・北ノコタンユースホステル 十勝の朝は、好天のしるしの深い霧が立ち込めていた。バイク派の青年たちは距離をかせぐため早立ちしていた。 シリコンバレーのA君、主の宮田さんと3人の朝食。宮田さんは十勝の風土が大好きで京都から移住してユースホステルを開いて20年というから、もう本物の「道産子」だ。 夕食のあとの談話室で、その日のホステラーの集合写真を撮り、丹念にアルバムに整理し、リピーターにさりげなく見せてくれる記憶力は、たいしたもの。 若いころは、奥さんといっしょに「清貧旅行」のアウトドア派で、池田を起点とする道東一帯の観光スポットの距離・所要時間をそらんじている傑物でもある。 おいしいコーヒーを頂き出発しようとすると、A君が「何もあげられる物がなくて、、」と、バナナを一本差し出してくれる。さすがサイクル・アスリートらしい気遣いだ。 十勝平原の「緊急事態」 池田から、朝霧に包まれたR242号線(陸別国道)を、第3セクター「銀河鉄道」沿いに本別~広尾をめざす。交通量も少なく快調に距離をかせいでいるうち、下腹が急に差し込んできた。うっかり「朝の冷気の防寒対策」を怠ったツケが回ってきたのだ。 事は急を告げている。「借用」しようにも人家もなく、見渡す限り「視界360度」の牧草地帯。 と、運良く橋が見えてきた。急ぎ橋の下へ駆け込み、手じかの棒切れで慌しく「穴を掘り」辛うじてセーフ。 事後をていねいに埋め戻し、橋に感謝の黙礼。20年に及ぶ自転車旅で、2度目の「緊急事態」をようやく回避することができた。 松山千春の故郷・足寄 11時、足寄町着。足寄はフオークソング歌手松山千春と彼の盟友「鈴木宗男元代議士」の故郷。 「郵政民営化総選挙の北海道地域新党『大地』のお膝元」とあって、街に入ると「大地」のポスター一色。 銀河鉄道・足寄駅(千春記念館が併設されている)で、名物の「足寄アイスクリーム」をなめながら大休止。鉄道フアン人気の銀河鉄道だったが、累積赤字に押しつぶされ、平成18年3月で廃業がきまっている。記念に「入場券」を求め、足寄を後にする。 「茂足寄」から足寄峠へ 道は次第に登りにかかる。 「上足寄」の雑貨屋前で「じゃがいもバター200円」を見つけ大休止。 店のおかあさん「上足寄は、男爵イモと水がおいしいのが自慢」というだけあり、すこぶるつきの美味さ。水ボトルも満たし出発、じっくりペダルを漕いで行く。 きょうも暑い、水がどんどん減り水の補給をお願いしようと沿道の農家をたずねるがいずれも不在。 「水切れ」で峠越えがにが心配になるころ、「茂足寄」で一軒の酪農家を見つけ立ち寄る。運良く奥さんが在宅で「暑い中大変ね」と、水に加え「絞りたてをどうぞ」と、コップなみなみのフレッシュ牛乳のサービスまで頂く。(標札から「H・S」さん宅」と知る) 10kmほど行くと、山中にめずらしくしゃれたログハウス作りのドライブインが、「くまげら」とある。 峠越えに備えて腹ごしらえをと入る。 店内には2~3組のお客、と、その中の一人の中年女性から「やはりお会いできましたね、、」と、声をかけらられビックリ。 (人違えでは?)と怪訝に思っていると、「牛乳おいしかったでしょう」で、先ほどのH・Sさん宅のご夫人(以下Hさん)とわかり、すすめられ同席に。 Hさん(農家の主婦とはみえないしゃれた装いで)「このお店には、毎日この時間に牛乳を届けながら気分転換の一服に来ています」と、 Hさんは、ケーキとコーヒー、私はカレーライスを囲みながらしばしの談笑。(100頭近い乳牛を飼いながらの酪農経営の暮らしを伺うことができたが、わずかの時間をうまく利用して「気分転換」をはかるHさんの生活の知恵にも感心させられた) 阿寒湖温泉へ けっこう厳しい足寄峠越えだったが、あとは寒いほどの風を切りながら、5時過ぎ阿寒湖温泉の民宿「山口」に到着した。 往年は、繁盛の温泉旅館風の造りだが、いまはシニア夫妻でこじんまりとやっているらしい。 「温泉はかけ流しで熱いから、水をジャンジャン出して湯桶で掻い出してから入ってね」の、おかみの声を聞きながら浴室へ。 なるほど、太い鉄管からの熱泉が滔々と湯船からあふれ流れて、手を入れるのもためらわれる熱さだ。忠告どおり冷水をふんだんに注ぎながら湯桶でせっせと温泉を汲み出す(勿体無いと思いながら「こんな経験は初めて」)。一仕事のあと湯船に体を沈めると、鉄分の強い泉質が体にピリピリ滲みる感じでまことに気分がいい。 夕食は、客5人と経営者一家(92歳のしっかりおばあちゃんとお友達も)もにパートさんとが、和気藹々の楽しい雰囲気で、すっかり気に入ってしまった。 惜しげなく熱泉せっせと汲み捨ててひとり湯船の阿寒の夜 (続く)
2005年11月02日
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(続き) ○05年8月31日(水)晴 富良野~樹海峠~落合~狩勝峠~新得~清水~帯広~幕別~池田(YH・泊)152km 樹海峠から南富良野へ きょうの長丁場に備え、前夜用意のコンビニ弁当の朝食を済ませ、富良野を7時にスタート、R38号線(狩勝国道)を東へ向かう。 きょうも暑くなる気配だが、山部から西達布と暑さ知らずで順調に走り、樹海峠の登りにかかる。「直登」が続き、手強い登りが待っていた。 狩勝峠に備え、じっくり攻め上る。 峠は文字通り「樹海」の中にあるが、朝もやであまり眺望が利かないのが残念。峠を下った南富良野町のコンビニで一休み。 南富良野から狩勝峠の登り口の落合までは、平坦に見えるがダラダラとした登りの連続で、けっこう脚を使わせられる。 10時過ぎ落合着。郵便局でナビ図に切手スタンプを貰う。 狩勝峠から十勝の国へ 峠には、必ずといっていいほど、「一方の登りが険しければ、もう一方は緩やかといったような『二つの顔』がある」。 今回で4度目の狩勝越えになるが、私の感覚では「富良野側」からの登りが緩やかに感ずる。 しかし、石狩と十勝の国境だけにそのスケールは大きい。 上り始めは「これが狩勝峠?」と、いぶかるほどの勾配の直線が続くが、これが曲者。大きな景観の中の直線路のため、錯覚で緩く見える。 「シンドイな、、」と気が付いた時にはかなり脚を使わせられていることになる。 頂上からの十勝側の眺望はいつ眺めても、日本離れした雄大なスケールだ。 十勝への下りは、数年前までは路側帯もない片側1車線の厳しい道路事情だったが、いまは複線化の改良が進み、胸のすくような豪快ななダウンヒルが楽しめる。 新得で、名物の「新得そば」の腹ごしらえ。十勝清水、芽室、帯広へと緩やかな下りコースを、いかにも十勝らしい広々とした景観を楽しみながら、快調に駆け下る。 予定以上に距離をかせぐことができたので、「帯広泊り」を「池田泊まり」へ変更する。 5時過ぎ、昨年もおせわになった池田YH「北のコタン」にゴールイン。ペアレント夫妻が笑顔で迎えてくれた。 同室者は、サンフランシスコ・シリコンバレーで働く「ITプロ」のA君(日本人)。 夏休み(期間は3週間プラス日本往復2日の24日間だという)を利用して里帰り。「乗鞍ヒルクライム自転車レース」にチャレンジしたあと、道内旅行中という日本の若者が羨ましがる結構なご身分だ。 夕食後、A君らと「土・日とわずか2~3日の休暇」であわただしく「道内バイク旅行中」の青年たちとの間で、日米の「労働と休暇事情のちがい」が、つまるところ政治が問題との話題がしきりだった。 (続く)
2005年11月01日
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(続き) ○05年8月30日(火)晴 札幌~江別~岩見沢~美唄~滝川~芦別~富良野(民宿・泊)143km 石狩平野を走る きょうも快晴だ。札幌を出て道北・道東を結ぶ大動脈のR12号線(中央国道)を北上。 石狩平野の真ん中を貫通する12号線は、平坦路が続き、交通量は多いが、南の追風を受けて江別~岩見沢と快調に距離をかせぐ。 太陽と風を背にして、北海道らしい景観を眺めながらピッチを上げて走るのはまことに快適だ。日本一の直線道路 美唄市を過ぎると、道路脇に「日本一の直線道路29.2km起点」大きな標識が建っている。 説明文によると「美唄市光珠内から滝川市新町までの直線道路29.2kmは、JR室蘭本線の沼ノ端~白老間28.7kmをしのぎ、陸上交通手段としては『日本一の長さを誇る』」とある。 私の自転車ツーリングの平均時速は20km前後だから、1時間半を要する直線コースだが、追風と平坦路のおかげで1時間10分で走り、12時半滝川市に入った。 ただし、カーブのない直線コースは、自転車で走っても眠気を催すほどの単調なものでもあった。 滝川市の中心街に入ると、整理の警官も出動する思わぬ人だかり。「事件?」と周囲の人にたずねると「郵政民営化選挙の刺客候補と自民党大物幹部の街頭演説会」とのことだった。 人ごみを避け、「ラーメン・ライス」で腹ごしらえ。 滝川から富良野へ 滝川からは、R38号線(芦別国道)を経て富良野へ。 石狩平野に続く空知平野と別れ、空知川の渓谷沿いにJR根室線と並走しながらを進む。 この沿線は、かつて戦後日本の産業を支えた炭鉱地帯だったが、いまは自然に還ろうと草木を茂らせるボタ山の跡を残すばかりだ。 芦別から富良野間の「野花南」から先は、空知川の人造湖「滝里ダム」で山側に移された新国道の快適なツーリングコースが待っていた。 夕刻、余裕をもって富良野の民宿に到着。 日本一呆れるほどの直線路わが影追いかけ空知の平野 (続く)
2005年10月31日
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(続き) ○05年8月29日(月)晴 ニセコ~真狩~留寿都~喜茂別~中山峠~定山渓~札幌(YH・泊)96km 羊蹄山麓を行く 早立ちの私にあわせてくれた朝食を頂き、民宿を出発する。 ひんやりした朝の冷気のなか、ニセコアンヌプリの中腹からいったんニセコの町へ下るが、しばしばブレーキをあてながらのスピードで駆け下る。きのうのニセコからの上りが苦しかったのもうなずける。 ニセコから真狩~留寿都~喜茂別ににかけては、羊蹄山を左手に眺めながら麓を周回するコースだ。 ゆるやかなアップダウンが続く丘陵地帯は、北海道でも有数の「男爵(ジャガイモ)」の産地で知られ、収穫がたけなわ。 ひと昔まえまでの「手篭片手の手掘り作業」に変わって、大型のトラクターに引かれた「イモ掘り機」が大きなドラムを回しながらジャガイモを掘りあげて行く様子は、工場の流れ作業のようだ。 中山峠へ 喜茂別からR230号線(中山国道)へ右折、いよいよ山登りだ。 「ゆでトウキビ」を食べようと、農家の庭先の店に「コンニチワ」と立ち寄ると、おばさんが「あービックリした」と大声。こっちもその声にビックリしていると、「車なら音がするからわかるけど、いきなりの声でビックリしたよ」と。 もぎたての、みごとに実の詰まった大きなトウキビが200円。おばさんとあれこれ会話を楽しみながら甘く香ばしい味に大満足。 「きをつけてね」の声に送られてアタック開始。 あいかわらずの真夏並みの暑さのなか、8年前の横断の旅では、豪快なダウンヒルを楽しんだ峠道を、ギアを落として黙々と登って行く。北へ向かう道筋とあって木陰も得られず、カンカン照りのなかでしばしば給水おやつの小休止、喜茂別で補給したが水の残量が心配になってくる。 突然の豪雨 もう少しで峠というあたりで、路面にポツリと雨粒。上空はいつの間にやら真っ黒な雲が覆っていて、はげしい雨足が近づいている。 大急ぎで、荷のなかからカッパを引き出すと同時にどっと豪雨が襲ってきた。カッパを着けたが雨宿りの場所などあろうはずがない。高度が高いだけあって急速に気温が下がってきた。(このままでは風邪をひいてしまう) 路肩にイタドリが群生しているのを見つけ、急ぎ茂みの下に避難する。大きな葉が重なりあっていて、はげしい雨粒に直接曝されないだけでも助かった。先ほどまで乾ききっていた側溝には、滝となった水が走っている。 なすこともなく、イタドリの茂みにしゃがみこんで雨をやり過ごしながら、ポケットの「携帯電話」のカメラで撮ったのが上の写真です。 20分ほどで豪雨は去ったが、さっきまでの暑さが信じられないほどの寒さに変わった。トレーナーとカッパを着込み、ようやくの思いで中山峠に到着、食堂の熱いラーメンにほっとした。 札幌へ 札幌への下りは「ご褒美のダウンヒル」。 定山渓~簾舞~藤野~真駒内と、往復4車線への整備が進むR230号線を軽快に走り、夕刻、「札幌国際ユースホステル」にゴールインした。 イタドリの茂みにもぐる雨宿り熊鹿たちも同じだろうか (続く)
2005年10月29日
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stage8北海道縦横断 part1横断編 2005年8月27日~9月2日 瀬棚~長万部~黒松内~ニセコ~中山峠~札幌~滝川~富良野~狩勝峠~帯広~池田~足寄~阿寒湖~阿寒横断道路~弟子屈~標津 734km おことわり 「北海道縦横断」は、95年7月から96年9月にかけ、すでに走破済みですが記録・写真等が一部散逸してしまいました。 ホームグラウンドのレポートが不備のままでは申し訳ないと考え、この機会に「縦横断に再トライ」しました。 以下は、ホットなレポートです。 ○05年8月27日(移動日) JRで輪行、札幌経由長万部下車。路線バスで渡島半島日本海側の瀬棚へ(民宿・泊) ○05年8月28日 瀬棚から渡島半島を横断~国縫~長万部~黒松内~蘭越~ニセコ(民宿・泊)132km 渡島半島横断へ 28日 朝、「民宿おがわ」のおかあさんに見送られ、瀬棚をスタート。 2年ぶりの長旅だが、今回は「民宿・ユースホステル」泊まり歩きの軽快な旅だ。 渡島半島日本海側の瀬棚から海岸線を南下し、すぐ渡島半島横断のR230号線(今金国道)に入る。 農村地帯の北桧山・今金を抜けると深い山道が続く。 ひさしぶりのツーリング、オーバーペースにならぬよう抑え気味に走るが、どうしても初日は張り切ってペースが上がってしまう。 美利河(ピリカ)ダムを左に見て、ピリカ峠を上りきると長万部入りだ。噴火湾沿いのR5号線を北上、10時過ぎ長万部町に到着。 コンビニで、これからの後志山中を考え、おやつ・食料を補給する。 後志山中へ 太平洋を背に、前途の後志山塊を目指すが、R5号線は比較的緩やかで交通量も少なく走りやすい。 黒松内で、「自由の森・無断立入禁止」の奇妙な野立て看板を発見、はて?と首を傾げる。 近くの分教場の用務員さん宅でボトルに水を満たして頂き、道端で軽食をとる。このコースは、ドライブインがほとんどなく、長万部の食料補給が正解でした。 午後、渡島半島横断のオーバーペースのツケが脚にきて、登りではペースが落ちる。(歳のせいかも?) 「蘭越・道の駅」で遅い昼食(ジャガイモ料理がおいしい!)と大休止、今夜はニセコ泊まりとし、民宿の手配も。JRニセコ駅から3kmほどアンヌプリの山へ向かった民宿がとれたが、夕食は提供でいないという。 ニセコが遠い 前回「横断のとき」泊まった蘭越・昆布温泉を過ぎ、ニセコ町に入るが、「午前中のツケ」が完全に脚にきてしまい、ちょっとした登りりにもヒイヒイと筋肉が悲鳴をあげる。 ニセコ町内に入ると、それまで見え隠れしていた後志の主峰・羊蹄山が目の前にどっしりと姿を現し、疲れも忘れて見とれる。 ニセコから宿までのダラダラ上りがこたえた。脚をなだめながら上って行くと目の前に「JR昆布駅まで500m」の標識が現れてがっくり。 先ほど通過した「昆布温泉」のすぐ隣りとは露知らず、10km近くも大回りしてしまったのだ。疲れがどっと加わり、ようやく宿の扉を開けた。 宿のおかみ「てっきりニセコ駅からの電話と思って、蘭越からとは知らずにごめんなさい」、 私「いやいや、私こそ蘭越からと知らせるべきでした」と、お互いに反省しきりのやり取り。 風呂上りに、食堂で持参のコンビニ弁当でビールを飲んでいると、おかみ「おつまみにどうぞ、、」と茹でたての枝豆をどっさり。 これですっかりご機嫌の夕食となりました。 (続く)
2005年10月28日
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(続き) ○01年10月10日(水)雨 吉祥寺~青梅街道~新宿通り~内掘通り~有楽町~中央通り~日本橋ゴール 24Km 旧友に見送られ O原君手作りの朝食を頂き、降りしきる雨の中、彼の見送りを受け出発。 ラッシュで混雑する青梅街道を新宿をめざす。 自転車の利を生かして「バスレーン」を拝借し、時には歩道走行利用で、思ったより快調に距離をかせぐ。 内掘通りへ 新宿通りをあっけないほどのタイムで通過し、内掘通りに着いてしまった。 ゴールの「日本橋・道路元標」には、10時ゴールインの予定で、恩師のK先生・京都でも一緒だったAさん夫妻や千葉の弟夫婦がが待っているはず。 やや小降りになった内掘通りを、きびしかった「内陸8県縦走の旅」を振り返りながらゆっくりポダリング。 日本橋ゴール 桜田門から有楽町を過ぎ中央通りを日本橋へ向かうころから、雨脚が再びはげしくなってきた。 日本橋では、首都高速のガード下に雨を避けながら、K先生・Aさん夫妻・千葉の弟夫婦が待ち構え、拍手と花束でゴールを祝ってくれた。 日本橋雨も厭わずわれ待ちてゴール祝いし友らのうれしく 難関の内陸走破苦しさもゴール友らの笑顔に癒さる 日本橋道路元標たずね来て諸道の源しっかと足下に ※「内陸8県縦走」を終わり、次回からは「列島内陸縦横断の旅」がはじまります。引き続いてのアクセスをお待ちしています。 cyarioji
2005年10月25日
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(続き) ○01年10月9日(火)晴 大月~上野原~藤野~大垂水峠~東京都・八王子~吉祥寺(友人宅・泊)83km 大月は雨で明けた。残りのコースは、東京・日本橋まで100km余りのフアイナル・ランだ。 カッパを着込み、R20号線・甲州街道を東進する。沿道は「甲州ぶどう・梨」の売店が連なる。 上野原で雨が上がる。カッパを脱ぎ、上野原郵便局でナビ図に切手スタンプを貰い、県境を越え神奈川県・藤野町へ。 晴れ間も出てきて、気温もどんどんあがってくる。 大垂水峠から八王子へ 神奈川と東京の県境の大垂水峠(標高392m)は、今シリーズ最後の峠だが、安房・碓氷・金精・笹子の名だたる峠をクリアしてきた身には、「あれ?もう峠の上?」と思うほどの楽勝でクリアし、東京都入りした。 正午、JR八王子駅に到着、駅前郵便局でナビ図に切手スタンプを貰う。 久しぶりの大都会の雰囲気に浸るべく、しゃれたレストランでランチ。 ところが気が付くと、まわりの視線が私の方をチラチラ(真っ黒日焼けに薄汚れたサイクリンング姿では、むりもないか?)。 午後、交通量がぐんと増えた甲州街道を国立~府中と走り、調布市で左折し吉祥寺へ向かう。 45年ぶりの再会 きょうの宿は、学生時代からの友人O原君宅で、彼からは、「自転車旅で通るときは、必ず泊まってくれ」と以前から誘われていた。 調布で電話を入れると、詳しい道順を教えてくれて、「待ってるから気をつけて」と。 深大寺郵便局でナビ図に切手スタンプを貰う。 O原君宅に近づくと、辻に彼が待っていて大きく手を振っている。 年賀状のやりとりは続いているが、45年ぶりの再会だった。 先年、奥さんを亡くされた彼は、「男やもめだから、、」といいつつも、風呂をたてて待っていてくれ、彼のもてなしを受けながら、懐かしい話題が夜更けまで続いた。 大垂水越え来て喧騒八王子内陸八県縦走実感 紅顔の時を隔てて四十五年男手もてなす友の情けよ (続く)
2005年10月24日
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(続き) ○01年10月8日(月)曇・雨 奥秩父~雁坂峠~山梨県・三富村~牧丘~山梨~一宮~笹子峠~大月(BH泊)91Km 雁坂峠へ 昨夜の集落のおじさんたちの助言を受けて、「峠越えその2・自転車プラス・ヒッチハイキング」で、峠チャレンジときめた。 7時、YHを出る。あたり一面朝霧が立ち込めほとんど見通しがきかない中、集落の急坂・細道を押し上げて行く。 と、昨夜のおじさんの一人が、家の前に立っていた。「昨夜はどうも、、」と、しばしの立ち話しのあと、「これからが上りの本番、こっちへ戻ってこないように頑張れや」と見送ってくれる。 集落は、ほとんど45度とも見える急傾斜の斜面に、張り付くように点在している。わずかな畑と林業が生活手段のようだ。 不発の「自転車・ヒッチ」 悪戦苦闘の90分、ようやく雁坂峠トンネルの入り口が見えてきた。 公衆電話と駐車帯のある場所に陣取る。 戦術は、「ヒッチ・サイクリンング」の試みを1時間。1時間で車が止まってくれなければ、公衆電話から大滝村へ電話を入れ、タクシーをチャーターして峠越え。の2段構えをとることにした。 自転車を積んでもらうため、軽トラックと、トラックかライトバン・にポイントをあて、初めての「ヒッチサイン」を送るが、反応は芳しくない。10分が30分にも思える時間が過ぎて行く。 救いの神「地元のAさん」 (やはり「自転車・ヒッチ」は無理かな、、)と弱気になりかかっていたとき、「プップー」と警笛を鳴らしながら軽トラックが寄ってきてくれた。 ラッキーよかった!と運転席を見ると、なんと!先ほど「戻ってくるなよ」と見送ってくれたおじさん(Aさんと仮称)の笑顔が運転席に。 Aさん、ニコニコ笑いながら下りてきて、「やっぱり居たね、自転車乗せな」と、恐縮していると、 「遠慮いらんよ、甲府までちょっと用足しに行くついでだからさ」と、ありがたく自転車を荷台に。 全47都道府県走破達成 「雁坂トンネル」。なるほど入り口には監視カメラが、中は道幅は広いが上りが続く。Aさん「この上りにへばって、県境まで行けずに『逆送』される連中が結構いるようだよ」と。 安房峠トンネルは旧道が残され、苦しくとも自転車越えができるが、雁坂トンネルは迂回道すらないのに「自転車禁止」は、全く納得がいかない。 「ここが県境だよ」と、Aさんが路側帯に車を止めてくれた。 急いで荷台の自転車越しにシャッターを押す。「山梨県入り(ついに47都道府県歴訪達成)」の瞬間だが、『自転車ダメ』で素直に喜べない心境。 ほどなく山梨県側の出口。 自転車を下ろし、Aさんにあつくお礼をのべ「おところとお名前を」と伺ったが、笑って手を振り「いいんだよ、私らは甲府へしょっちゅう買い物にくるから気にせんでいい。あとの道中気をつけて」と、さわやかな笑顔で走り去って行った。 笹子峠から大月へ R140号線を三富~山梨と下り、石和町でR20号線甲州街道に入る。空模様が怪しくなってきた。 笹子峠手前の小さな集落の雑貨屋前で小休止、店番のおばあちゃんから「板チョコ」を求め、銀紙を開いてみると白く粉をふきカチンカチンの硬さ(かなり長期の在庫品らしい)。丹念に噛みながらコーラで飲み下す。 雨がはげしくなってきた。笹子トンネルは、今シリーズ最後の長大トンネル。排ガスまみれの空気がトンネル内に充満している。息が詰まる。重車両の排ガスをまともに浴びながら、ようやくの思いでクリアした。 午後4時半、降りしきる雨の中をJR大月駅に到着。駅前のビジネスホテルに宿をとり、小さなバスタブに身を沈めながら、「内陸8県縦走&47都道府県歴訪完成」をあらためて振り返った。 朝霧が深い奥秩父ひたすら押し往く雁坂峠 軽トラのヒッチでクリア峠越え心根うれし雁坂峠 あなうれし全都道府県歴訪の足どりしみじみ感謝の思い (続く)
2005年10月22日
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(続き) ○01年10月7日(日)晴・曇 宇都宮~鹿沼~佐野~館林~羽生~熊谷~長瀞~秩父~奥秩父(YH泊)142Km 関東平野を走る 朝7時、サイクルレース大会の準備に忙しい栃木県サイクリンング協会のみなさんに、昨夕以来のおもてなしのお礼を述べて出発。 鹿沼のコンビニで、着替えなど不用品を留守宅へ託送し、ぐっと身軽になる。 関東平野の西の縁を快調に走り、佐野市から再び群馬県・館林に入る。このあたりは栃木・群馬・埼玉の県境が複雑に入り組んでいる。 埼玉県入り 館林からひとまたぎで羽生市へ、「埼玉県入り(46都道府県め)」だ。 前夜、コースのチェックに出かけ、今朝も早朝からコースに出て会えなかったK山さんに、携帯で「埼玉県入りと、みなさんからの歓待」にお礼と別れのあいさつを送る。 熊谷から奥秩父へ 熊谷で関東平野と別れR140号線を秩父山地へ向かう。 行楽客でにぎわう国指定の天然記念物「長瀞岩畳」の長瀞で、遅い昼食と大休止。 しだいに山が迫り、道も険しさを増してくるが、道路状態もよく予想より順調な走りで秩父を通過。荒川村から埼玉県の最奥部大滝村にかかるあたりから、「奥秩父」を思わせる山岳路となってきた。 「雁坂峠」自転車ダメ?! 日没近く、秩父湖に到着。 行楽客の交通整理をしていたお巡りさんに、軽い気持ちで「雁坂峠までの道路状況は?」とたずねると、 お巡りさんは私の上から下まで職業的な視線ですばやく検分し、(こんなことも知らずにやって来たのか、といわんばかりに)「峠は『有料道路』で、自転車は通行禁止だよ」と、冷たい通告。 しばし絶句。(安房峠の一件を思い出し)「じゃ、旧道の峠道あります?」に、「峠道というより登山道だよ、自転車はとても無理だね。ま、青梅まで戻って山梨に入るしかないね」と、お巡りさん。 私の「内陸8県縦走」は、県境を走り継ぐことに意味があるわけで、ここで青梅まで後退するわけにはいかない。(何か手立てはないものか)ぐったり疲れが出た体で、予約の「奥秩父YH」に入ったときは、秋の日はとっぷり暮れていた。 峠越えの妙案 夕食後温泉へ、浴室には土地の人らしいおじさんが四人ほど。 そのうちの一人のおじさんが、私の日焼けした体を眺めて「みごとに焼けているけどどんな商売?」とたずねてきた(やはり土地の集落の人たちだった)。 「商売じゃなくて、自転車で日本中を旅してます」と、ざっとお話しすると、みなさん大いに興味をもって聞いてくれる。 (そうだ、「峠越え」の知恵を借りよう)と、先ほどのお巡りさんとのやり取りを話すと、口々に次のような話しを聞かせてくれる。 ○よく峠越えをめざしてくる自転車旅の若者がいる。 ○「峠越え」その1 峠の埼玉県側には監視カメラはあるが「ゲート」がないから、強行突入するようだ。 ○トンネル内の県境を越えれば、山梨県道路公社のパトカーに収容され、山梨県へ出られるが、県境の手前で収容されると埼玉県側に「逆送」されるらしい。 ○「峠越え」その2 トンネル近くで「ヒッチハイク」で車に乗せてもらう。私らも山梨へ用足しに出かけるので、何度か乗せてやったこともあるから、事情を知っている地元の「秩父か甲府の軽トラック」が期待できるようだ。 「ここまで来たんだから、シッポを巻かずにチャレンジして、、」と励まされた。(この情報に少し力づけられ、なんとかなるかな?)と期待しながら、床に就いた。 (続く)
2005年10月21日
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(続き) ○01年10月6日(土)晴 片品温泉~金精峠~栃木県・奥日光~日光街道~宇都宮(サイクリンング・ターミナル泊)108Km 切り火に送られて 朝7時、出発準備を終え、女将に挨拶し出立しようとしたしたとき、女将がすっと寄ってきて、「チャッチャッチャッ」と、私の体に「切り火」を、そして自転車にも「ご主人様を大切に運んであげてね」といいながら、切り火をしてくれた。 16年の長旅でも初めてのことで、思わずジンときた。 「これ、私の手作り。お守り代わりに付けて行ってください」と、手渡されたのは、ビニール袋入りの小ちゃな和紙人形をあしらった手のひらサイズの短冊で、「ダメ、ゼッタイ、覚せい剤・シンナー 片品村更生保護婦人会」とある。 ありがたく頂き、「こんな平和な村に『覚せい剤』ですか?」と聞くと、「『白地は染め易い』の譬えで、抵抗力がないだけ汚染されやすいのです。これを通学カバンに付けるよう活動しています」とのことだった。 「心のこもった一夜をありがとう」と、礼をのべ「ちぎら旅館」を後にした。 金精峠越え 快晴のR120号線「日本ロマンチック街道」を、標高1870mの金精峠めざし上って行く。片品村を最後に人里の気配が全くない「山行」となった。強行せずに片品選択が正解だったと思いながら漕ぎ上がる。 いよいよきびしい登りだ。しかし、安房峠の経験から無理をせず苦しくなると「押し上げ」に切り替え、じっくりと上って行く。 高度をかせぐうち、周囲はいつのまにか「紅葉」に変わっていく。 11時、金精峠に着く。うれしいことに「トンネル」が口をあけて待っていた。 大休止のあと、一気にトンネルを駆け抜けて「栃木県入り(45都道府県め)」。 トンネル出口付近は大勢の人だかりと車の列が、何事か?と思って人々が見上げる先を見遣ると、周囲の高い岩肌に目にも鮮やかな赤・黄・紅の「紅葉が真っ盛り」。しばしわれを忘れる思いで「奥日光・紅葉」を見惚れる。 目を転ずれば、男体山の頂がほとんど私の目線と同じ位置にある。 いよいよここからは、宇都宮まで下り一直線だ。戦場ヶ原を経て、日光湯本で昼食にトンカツを張り込む。 日光街道 自転車でも前後のブレーキングを甘くすると、路外転落の危険が待っている「いろは坂」を、行楽客の車と並走しながら慎重に下る。 国史跡・日光街道杉並木に入ると、現金なもので「沼田~片品~金精峠」の辛い道中では、この道中を勧めてくれたK山さんを(少しだけ)恨めしく思ったことなどすっかり忘れ、迫力ある景観に、「さすが日本ロマンチック街道!」と上機嫌の走り。 下り一方のR11号線を快調に駆け下り、午後4時半宇都宮市郊外の「宇都宮サイクリンング・ターミナル」にゴールイン。 K山さんから連絡が入っていたらしく、あすのレースの準備をしていた「栃木県サイクリンング協会」の方々が、拍手で到着を歓迎してくれた。 夜は、協会の皆さんの夕食の席にに招かれた。「日光からここへ直行」と聞くと、一人がわざわざ「宇都宮名物ギョウザ」を買いに走るなど、飛び込みの初対面にもおかまいなく、「47都道府県走破達成激励会」のような、手厚いおもてなしを頂いた。 尾瀬近し高度かせげば黄紅の紅葉綾なす金精峠 白根山肩を越え行くトンネルを抜ければ見下ろす中禅寺湖の 日光の杉の並木駆けくだり快哉発せり関東平野 宇都宮自転車仲間の待ち受けて名物ギョウザに旅を癒され (続く)
2005年10月20日
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(続き) ○01年10月5日(金)晴 高崎~渋川~沼田~片品温泉(旅館泊)75Km コンビに弁当の朝食を終え、出発準備をしていると、フロンとバッグを自転車に固定する留め金が壊れているのを発見。 手持ちのワイヤーで応急修理。岐阜~長野~群馬の山岳路走破が原因らしい。 日本ロマンチック街道へ 「内陸8県縦走」も、残るは栃木・埼玉・山梨の3県のみ。 当初は、高崎~伊勢崎~大田~栃木県・佐野~館林~埼玉県・行田~奥秩父の比較的楽なコースを予定していた。 しかし、宇都宮のK山さんの助言で、白根山の肩「金精峠(1860m)」を越え、日光街道から宇都宮へと、「日本ロマンチック街道」を大回りして走ることになった。 ゆうべからの雨も上がり、高崎からまっすぐ北上の県道12号線を渋川へ向け出発する。道はおおむね平坦、交通量も少なく順調に走る。群馬町で郵便局でナビ図に切手スタンプを貰う。 渋川で小休止。ここから先はややきつい上りが続く。R17号線をJR上越線と並走しながら水上へ。沿道は秋の花々が鮮やかに咲き乱れ「ロマンチック街道」の雰囲気を演出してくれている。 沼田から片品へ 渋川・沼田間で、右手の赤城山の眺めを期待していたが、雲が低く見ることができない。沼田に近づき上り勾配はさらにきつくなる。 正午、沼田着。山登りに備え、ラーメンと炒飯で腹ごしらえ。 沼田で上越線、関越自動車道とも分かれ、R120号線を片品へ向かう。道は山岳路になる。陽はまだ高い、ギアを落としじっくりペダルを回して攻めていく。 白沢村で椎坂峠を越えると、山はいちだんと深くなる。 小休止のたびに「ナビ図」を眺め(きょうのうちに「金精峠」を越えるか?片品泊まりにするか?)時計とにらめっこしながら思案する。 結論のでないまま、3時半片品村に着く。落ち着いた温泉郷が気に入った。 片品温泉・ちぎら旅館 (よし、きょうは余力を残して片品泊まり)ときめ、村役場へ宿の紹介をお願いに行く。 「自転車旅で北海道から」と知った職員さん、「きっと気に入ってもらえますよ」と、紹介されたのが、落ち着いた和風の「ちぎら旅館」。 年配の女将、「自転車は主と同じ、どうぞ中へ」と、広い玄関の中へ入れてくれる(第一印象good!)。広い部屋をあてがわれ、案内された浴室は、白い玉砂利を敷き詰めたヒノキ風呂。 樋からは豊かな温泉が滔々と流れ落ち、掃除も行き届きまことに気分がよい。 (きょうの選択は最高だったなあ、、)と、ひとりのうのうと手足を伸ばし湯船に浸かった。 夕食時、食堂は山小屋風の丸太造りのテーブル、床几には絣の座布団。 傍らで接待の女将の話しを聞きながら、山の幸を肴に地酒を飲む。 問わず語りの女将の話し、「夫は根っからの職業軍人、一命はお国のもの、生活の糧にと小さな旅館を残して戦死。温泉宿で子育てし、一時期は建て替えもできましたが、大きな資本のホテルに押され、あとをついでくれた息子一家との家内営業です。少ないお客様を大事におもてなしし、喜んで頂ければ幸せです。」と、越しかたの苦労を少しも感じさせない、穏やかな話しぶりだった。 厨房から、「天然ものです」と、きりりとしまった印象の息子さんが、これまで見たこともない大ぶりの見事な鮎の塩焼きを出してくれた。 「頑固な息子で、お客様がテーブルに着かれてから、焼き始めるんですよ、、」と、女将。 他に、四、五人のお客もあったが、宿の雰囲気がすっかり気に入り、地酒の酔いが心地よく体をほぐしてくれた。 片品に昔気質の湯宿あり凛たる母子のもてなしさわやか (続く)
2005年10月19日
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(続き) ○01年10月4日(木)晴 松本~三才山峠~小諸~軽井沢~碓氷峠~群馬県・松井田~安中~高崎(BH泊)124Km YHの朝 食堂でパン・牛乳・チーズ・バナナを広げていると、「イイデスカ?」と、英語圏かららしい夫妻と女の子連れが同席になった。 彼らの食事。500g(私の3食分)のヨーグルト2個、1リットルの牛乳パック・大ぶりのパン・バター・ジャム・ハム、父親がナイフで鮮やかにパン・ハムを切り分け、母が紙コップに牛乳を注ぎ分ける。女の子も300gのヨーグルトを抱えている。 なるほどと、彼らのパワーの源を改めて感じさせられた次第。 三才山(みさやま)峠 連泊でなじみとなったオーナーに見送られ、R254号線を三才山峠から小諸へと向かう。 三才山峠は、うれしいことにトンネルが口をあけていたが、ものものしい重車両が出入りし、工事の真っ最中らしい(いやな予感)。 「交互通行」の入り口で待機していると、「旗振り」の人がやってきて「中は片側通行だが、自転車は閉鎖されている『左側』を走っていいよ」と、うれしい話。 中は、左側はほぼ完成し、資材置き場となっており、右側が「交互通行」で路盤工事中だった。延長5Kmの長大トンネル、交互通行の片方が通過するとしばらくは車が途絶え静かになる。そんな中を「臨時の自転車専用道」を走るのは涼しくもあり、まことに快適だった。 小諸から軽井沢へ 好天に恵まれ長門町を経て小諸へ。 期待の浅間山がどっしりとした山容を左手に見せてきた。長野を実感しながら快調にペダルを踏む。正午、小諸着。碓氷峠越えに備え、昼食は「焼肉」を奮発した。 午後、強い日差しを浴びながら軽井沢に入る。 小説や映画の舞台ともなる日本最初の本格リゾート地だけあって、豊かな緑に覆われた贅沢な空間が広がっている。 ところが、国道に併設された「自転車専用道」が、レンガ舗道としゃれた造りだが、小さな凹凸の連続でひどく走りにくい。設計者はおそらく「サイクリンング音痴」ではなかったのか?。 碓氷峠と妙義山 いつのまにか雲が広がり気温も下がってきた。> 群馬県境の碓氷峠だ。気持ちを引き締め、じっくり攻め上って行くが意外に楽な上りだ。安房峠の苦戦に比べれば、あっけないほどの「楽勝」で峠に立った。 目の前に、初めて見る妙義山の山容が強く印象に残る。「群馬県入り(44都道府県め)」だ。 峠から松井田への下りにかかる。急勾配の九十九折れが延々と続く。 なるほど碓氷峠は群馬県側からは、きびしい峠道であることに納得する。 雨の高崎へ 安中を過ぎたあたりから、暗くなり雨も落ちてきた。今夜の宿は未定。 あせる気持ちを抑えながら夕闇せまるころ、JR高崎駅到着。駅観光案内所で素泊まりのビジネスホテルを紹介してもらう。 夕食がてら街へ出てみると、ネオン街の店の前に黒いスーツ姿のお兄さん方がたむろしている。 ちょっと不安に思ったが、試みに「食事のおすすめの店は?」とたずねると、礼儀正しくていねいな言葉遣いで教えてくれた(先入観はいけないと反省)。紹介された店も、十分満足のいく内容だった。 宿へ戻り、今回のプランをあらかじめ知らせておいた、宇都宮の自転車友人K山さんへ電話を入れ、「明後日には宇都宮入りの予定、、」と伝えると、彼、「予定通りとはすごい、待ってますよ」と。 続けてK山さん、「7日の日曜日は、宇都宮サイクリンング・ターミナルスタートの『長距離サイクル・ロードレース』があり、私たち競技役員は6日夕刻からターミナルに入るので、一緒に泊まりましょう」とのありがたい配慮も。 (K山さんとは、先年神戸で開催の「全国サイクリンング大会」以来の友人で、今回も「高崎~宇都宮」のコースは、沼田~片品~金精峠~日光~宇都宮の「日本ロマンチック街道」をぜひと、すすめてくれていた。) 浅間山おいらが信州主なのさどっしり貫禄秋空高し よう来たと招く姿も妙なるか妙義の山を仰ぎつ群馬へ (続く)
2005年10月18日
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(続き) ○01年10月3日(水)晴 松本滞在(休養とポダリング)・浅間温泉(YH泊)30Km きょうは休養日・松本散策 昨夜、到着のときYHのペアレントさんから、「浅間の火祭りにようこそ」といわれ、キョトンとしていると、「きょう・あすのお客さんは、みなさん『火祭り』がお目当てです。ご存じなかった?」と、四百年の伝統をもつ「日本三大奇祭りのひとつ・浅間の火祭り」を説明してくれた。 せっかくの機会、きょうは休養日とし、松本市内のポダリングと「火祭り見物」にあてることにした。 日中は、自転車でのんびり松本市内の散策。 旧制松本高等学校の校舎を使った「旧制高等学校記念館」。 地元にこだわらず旧制高校の資料を集めた記念館は、教育熱心な松本地方の気質がうかがえたし、国宝・松本城、隣接の市立博物館や、松本民芸館も多くの収穫があった。 夕方、浅間温泉に戻り、昨夜の「港の湯」で汗を流し、温泉街をぶらつく。 辻々には火祭りに備え、大人四人では抱えきれないような「巨大松明」が注連飾りをつけて鎮座している。 一方では、かわいらしい松明が、子どもたちの手で出番の準備がされている。 浅間の火祭り 暗くなるのを待って、打ち上げ花火を合図に「火祭り」が始まった。 巨大松明に火が点ぜられ大団扇で扇いで炎を立てるが、煙もすごい。 やがて「松明徒御」が始まる。 威勢のよい若者たちが、そろいの法被にねじり鉢巻で、掛け声をかけながら「引き手」となって、路面をずるずると引き摺って行く。 後ろからは後ろ向きになった「押し手」が、火の粉や煙りを浴びながら背中で松明を押す。 子どもたちも、浴衣姿のかわいいかけ声で、小さな松明を曳いて行く。 通りに面したお店の人たちは、柄杓で飛び散る火の粉に水をかけ、用意のお神酒を「引き手・押し手」に振舞うなど大忙し(私もチャッカリお相伴に、、)。 沿道は、松明の煙で見通しがきかないほどだが、たいへんな人出だ。 なるほど「奇祭り」の伝統にふさわしい。 万一に備え、松明ごとにバケツ・柄杓を持った消火班が付き添い、最後尾には本職の「消防車」もついて行く。 浅間の火祭りの謂われは、豊作をもたらした祭神が、収穫を終えた麦藁の松明の煙に乗って社にお還りになるということだから、盛大な煙が必要なわけだ。 祭りが終わり、YHに戻った私も、「祭神」並みに煙の匂いが染み付いていた。 旧制の高校お城と姿(かた)遺し文武に篤い松本気質 四百年伝統誇る松明が消防お供に火焔も盛ん 松明に柄杓で水かけ神酒飲ませ氏子忙し浅間の火祭り 浴衣着てチビ松明を曳き歩く熱そ煙そな浅間の子らの (続く)
2005年10月17日
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(続き) ○01年10月2日(火)曇のち晴 高山~平湯峠~平湯温泉~安房峠~長野県・安曇野~松本~浅間温泉(YH泊)105km 朗報? 朝食のとき、合席の男性から「安房峠はトンネルが開通し、峠越えをしなくともよくなった」との耳よりの情報を得た。 (つらい峠越えが一つ減ったホッとした気持ちと残念さが半々の心境だが、、)。 奥飛騨・平湯峠へ いよいよ北アルプス越えの日だ。 コンビニで予備食を求め、R158号線を奥飛騨へ向かう。高山を出るとすぐ上りが始まる。 昨夜、ナビ図でコースを十分研究済みなので、じっくり腰をすえて上っていく。天気も日が差してきた。 高度をかせぐうち、周囲は秋の気配を深めていく。 かなりな斜面を、ぜいぜいと酸素補給しながらしばらく上っていくと、旗鉾という集落で簡易郵便局を見つけ、ナビ図に切手スタンプを貰うべく立ち寄る。局員はふたり、「内陸8県縦走中」と聞くと、若い局員は、わざわざ記念スタンプの日付を入れ替えてナビ図に押してくれた。 「まだ上りは続きますか?」の問いに、「これからが平湯峠の本番の上り、頑張ってください」の励ましに腹をくくる。 なるほど、北アルプス乗鞍岳の肩を乗っ越すだけに、きびしい九十九折れ路が延々と続く。 ようやく平湯峠に立つ。 ふと眼を下に転ずると、はるか下界に平湯温泉街と、街外れには開通した「安房トンネル」らしいものも見える。 (せっかくここまで上ってきて下りるのは惜しいなあ、、とつぶやきながら)、防寒用にカッパを着込み、ダウンヒル開始。平湯温泉に着いたときは、体に震えがくるほどに冷えていた。 平湯にくつろぐ 「トンネル通過で時間に余裕ができた」と、名物の「露天風呂」で体を温めることにする。料金を払い、民芸風の脱衣所を経て温泉へ。平日のせいかいくつかある露天風呂も閑散のようで、私が入る岩風呂も貸しきり状態だった。 滔々と流れ落ちる温泉と、頭上の木々の葉ずれの音に耳を傾け、「極楽、極楽」とひとり悦に入る。 気持ちよくほてった体で食堂へ赴き、ざるそば2枚を平らげ大満足。 悠々とトンネルに向かう。 ???!。なんと!トンネルは「高速自動車道」で、『歩行者・自転車・原付き自転車は通行禁止』とある。キツネにつままれたとは、まさにこのこと。 他人さまの一言を鵜呑みにして、自ら確かめなかった軽率さを責めながら「旧道」へと引き返す。 安房峠の苦行 すでに午後2時、きょうは平湯泊まりにし、あす再チャレンジも考えるが、ナビ図を読むと「平湯~安房峠は5km」とある。所々山道を「押し上げ歩き」をしたとしても、3時過ぎには安房峠頂上だろうと思い直し出発する。 道は、たちまち先ほどの平湯峠の比でない「胸突き八丁」の急坂となった。最初から「押し上げ歩き」だ。 トンネル開通で、交通はほとんど皆無。九十九折れの急坂を、黙々と押し上げ歩き。 高度が上がるにつれて山の様相が紅葉から落葉に変わってきた。落ち葉を踏みながら、最初はハンドルをつかみ押し上げていたが、さらに道は急になり、サドルを抱えて押し上げねばならなくなった。 平湯で予備食の補充を忘れ、残っているのはアンパン1個と小さな角チーズが1個だけ。小休止ごとにアンパン四分の一を口に入れるが、それもなくなる。自転車の距離計は平湯からとうに5kmを超え、時間も2時間近くを過ぎているが、峠の気配は見えない。 急斜面の山肌を回りきり、「こんどこそ峠か?」と大沢越しを見ると、はるか上方に白いガードレールの帯が見え隠れしている。 安房峠に立つ チーズもなくなり空腹感がつのる。(いっそ平湯へ戻ろうか?、山の遭難はこんなことが原因になるのかな?)などと、つぶやきながら重い足を運んで行く。 と、上の方から冷たい風が吹き付けてきた。峠直前によく現れる現象だが、きょうはすでに何回もこの種の「ダマシ風」にあっているので、顔も上げずになおも自転車を押して行くと、不意に自転車が軽くなった! ビックリして顔を上げた目の前に、「安房峠・海抜1760m」の大きな道標が立っていた! 「やった!」という感動よりも、信じられない気持ちでしばらく看板を眺め続けた。 やがて、長野県側から「ビー」と、か細いエンジン音をたてながら「原付きバイク」が登ってきて、私の前で停まった。 「スイマセン。安房峠はまだ先でしょうか?」と若者。「ここが峠だよ」と答えると、「ああ、よかった!ガソリンが切れそうで、どうしようかと困っていました」とのこと。 「こちとらは、人間エンジンのガス欠寸前さ」と笑い交わしながら、前後に別れた。 苦行の末の「長野県入り(43都道府県め)」だ。 いっきに豪快なダウンヒルを期待していたが、ままならず。九十九折れの急坂に加え、路面の荒れ方がハンパでない。 安曇野から松本へ 慎重にコーナーを切りながら安曇野のドライブインに着く。 何はともあれ「熱いうどんを一杯」と、食堂に駆け込むと「たったいま閉店しました」の門前払い。 あるのは自販機の飲料だけ、がっかりして清涼飲料を求め、一口飲んだところへ、こんな事情を見てたらしい若い男女の二人連れが「よかったらどうぞ」と、遠慮がちに煎餅を3枚差し出してきた。 なんとうれしい心遣いだろう。折からの夕陽にふたりは黄金色に輝いて見えた。 好意の煎餅に力をもらい、あとは一瀉千里、日暮れから夕闇へと変わるR158号線(野麦街道)を、一気に松本市へと駆け下った。 宿は、浅間温泉YH.。江戸期から続く町湯(温泉)「港の湯」の石風呂に身を沈め、きびしかった今日の足どりを振り返った。 峠越え平湯に浸る露天風呂梢わたる風音聞きつつ 乗鞍の肩を乗っ越す山岳路信州遠いぞ安房の峠 日も暮れて九十九折れ道駆け下る夜道の先に松本の灯が (続く)
2005年10月16日
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cyariojiメモ 12日~14日まで2泊3日「十勝パークゴルフ・ツアー」に行ってきました。 3日間とも「十勝晴れ」に恵まれ、広大な十勝平原の広々としたグリーンの向こうに大雪・日高の山並みを望みながら、思いっきりボールを打ち上げ、夜は「十勝川のモール温泉」と湯上りビールをこれまた思いっきり楽しみました。 いま十勝は「秋真っ盛り」、紅葉も素晴らしかったです。十勝へおでかけの節は、やはり食べ物がいちだんと美味しくなるこの時期がお勧めです。 (続き) ○01年10月1日(月)雨のち晴 関ヶ原~大垣~岐阜~各務原~美濃加茂~金山~下呂~小阪~高山(国民宿舎泊)189Km きょうは、飛騨高山まで約190Kmの長丁場だ。 朝、まだ雨が残っていたが、K西君ご一家の見送りを受けて出発。 岐阜・美濃加茂へ クラスメートとの再会を楽しく振り返りながら、雨の中を大垣から岐阜へとR21号線を進む。さすが中京の工業地帯の一角をになうだけに、大小の工場群が続く。 各務原で雨はあがったが、また降りたそうな気配から、カッパを後荷台にくくりつけて走る。きのうの午後以来の「カッパ走り」だっただけに、軽快な走りとなった。 下呂温泉へ 美濃加茂からは、飛騨木曽川国定公園の益田川を、JR高山本線と並走するR41号線(益田街道)を北上する。 渓谷沿いの遡上から、三日前の「十津川渓谷」並みの難行を覚悟していたが、十津川を経験した脚には走りやすい道のりが続く。 渓谷の両岸に迫る山塊の頂上付近は、霞にさえぎられているが明るさも増してきている。 七宗から金山と黙々と漕ぎ続け、2時過ぎ、JR下呂駅に着いた。下呂郵便局でナビ図に切手スタンプを貰い、駅前食堂で「大盛りカツ丼」で腹ごしらえ。 飛騨高山へ 下呂温泉から高山までは50Km余り。あいかわらず山は深いが、緩やかなアップダウンに変わり、晴れ間も出てきてぐんと走りやすくなった。 九野町で、小説・映画の女工哀史の舞台となった「野麦峠」への分岐路に出会い、しばし道標を眺め小休止。 夕刻、久しぶりの長躯189Kmを走破してJR高山駅に到着。高山郵便局でナビ図に切手スタンプを貰い、今夜の宿に向かう。 宿舎の「国民宿舎・飛騨」は、くたびれた脚ではペダルを回せないほどの高台だったが、うれしいことに湯量豊富な温泉がこんこんと沸いていた。 コインランドリーに洗濯物を放り込み、温泉でよく働いてくれた脚をゆっくりもみほぐした。 夜、あすの奥飛騨から「安房峠越え」を考え、高山の街の散歩はパスし、早々に床に着いた。 (続く)
2005年10月15日
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(続き) ○01年9月30日(日)曇・雨 京都~逢坂の関~滋賀県・大津~近江八幡~彦根~米原~岐阜県・関ヶ原(友人宅泊)118km 朝寝坊 朝6時半、Aさんからの携帯で起こされた(しまった!)。 昨夜、別れ際にAさんが、「あなたの出発を見送ってから東京へ帰る」というので、6時半出発を約束したのがこの始末。 大慌てで身支度しロビーに下りると、Aさんは悠然と新聞を読んでいる(さすが元大新聞記者で鳴らした行動派だ)。 「日本橋ゴールでの再会」の再会を約し、握手でAさんと別れ、大津へ向かう。 逢坂の関から滋賀県へ 琵琶湖と京都を扼する「逢坂の関」は、万葉の昔から雅な歌と、中山道・東海道の難所で知られ、いまも国道1号線が走る大動脈だ。今朝も夜通し走ってきた大型トレーラーが、ディーゼルの黒煙を吐きながら延々と上って行く。 ひどい排ガスだ。白いはずのガードレールもすっかり鉛色に煤けている。こんなとき、普段の何倍もの酸素を取り込みながらの、自転車の峠登りは悲劇の一語に尽きる。 琵琶湖東岸を走る 逢坂峠を越えて「滋賀県(41都道府県め)入り」。草津市でR1号線と別れ、琵琶湖湖東岸の「自転車専用道」に入り、思い切り深呼吸しながら小休止。 「自転車日本一周中」のロゴを見つけ、湖岸で休んでいた高校ボート部の少年たちが寄ってきた。 「きょうはどこからどこまで?」「一日何キロくらい走るの?」「おじさんいくつ?エッうちのおじいちゃんと同じ年?スゴイ!」の、質問ぜめにていねいに答える。 お返しにと、琵琶湖をバックにシャッターを押してもらう。 琵琶湖東岸を走る「湖東サイクリンング・ロード」は、琵琶湖大橋からJR彦根駅を結ぶ延長55kmの快適な自転車専用道。左に湖を眺めながら快調に走る。 だが残念なのは、日曜日なのにこんな立派な自転車道に、サイクリストの姿をほとんど見かけないこと。自転車のマイナーな状態がくやしい。 湖面では、高校や大学のボート部が、色鮮やかなユニホーム姿で、コックスの掛け声にあわせ、快調に滑っていく。さすが日本一の湖だ。 思わぬケガ 降りそうだった空が雨となりカッパを着ける。 近江八幡で自転車道を下り、安土城址を遠望しようと県道2号線を北上する。 安土町で、信号待ちし右折しようとしてバランスをくずして珍しくも転倒、悪いことに打った路面に落ちていた小砂利に右膝下を打ち、思わぬケガ。 ポコッと膝下に穴があき出血している。手当ての「雨宿り」をとあたりをみると、近くに「カー・コンビニ」があった。 事情を話すと、事務所を提供され、救急箱まで貸してくださる。患部を水で洗い流し、消毒・傷薬・防水ネットで包帯と、万全のた手当てができた。それを待って、熱いお茶の接待にすっかり恐縮。 問われるままに、「自転車旅」のあれこれを話すと、スタッフのみなさんも興味深々で聞いてくれた。 旅の情けは身に滲みる。みなさんにあつくお礼を申し上げ、再スタート。 15年にわたる自転車旅で、初めてのケガだ。自戒しよう。 午後1時、JR彦根駅着。米原から関ヶ原への「伊吹山越え」に備え、カツ丼でしっかり腹ごしらえ。 食後、傷の再手当て、出血も止まり心配ないようだ。 今夜の宿、関ヶ原在住の高校時代の旧友K西君に、「午後5時までには到着見込み」と電話を入れると、「気をつけて、風呂と酒を用意して待ってるよ!」のうれしい返事。。 中山道・関ヶ原へ 午後、はげしい雨をついて慎重に進む。秋雨に煙る中山道・醒井の宿を越えて「岐阜県入り(42都道府県め)入り」。 午後4時、関ヶ原に入る。旧友K西君は心配して国道まで出て、傘をさして到着を待っていてくれた。 お宅では「主の遠来の同級生」とあって、一家挙げての大歓迎。 まずは風呂をとすすめられ、恐縮にもその間に奥さんは、「濡れ装束一式」を洗濯し乾燥機にと、ありがたい気配り。 夜は、心づくしの料理・お酒を振舞われ、思い出話しに時を忘れて楽しく過ごした。 話しは尽きないが、奥さんに明朝の「はや立ち」をお願いし、やすませてもらった。 あこがれの雅な古歌の逢坂も排ガスむせつつ登るつらさよ 不可思議は四囲山削り琵琶湖生み歴史も生みし水の力よ 学び舎の悪童幾歳大人(たいじん)の風格穏やか久闊を叙し (続く)
2005年10月12日
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(続き) ○01年9月29日(土)晴 五條~大淀~吉野~明日香~桜井~天理~奈良~宇治~京都(公共の宿泊)100km 明日香村へ 朝は冷え込んだ。風防ベストを着込んで8時、出発する。 きょうのコースは、奈良盆地から京都盆地への平坦路なので、少し大回りだが吉野~明日香~桜井に変更した。 吉野へ出るまではアップダウンが多かったが、吉野から明日香の道は、気温も上がり、車も少なく快適に走る。 10時、近鉄・飛鳥駅着。観光センターでもらった地図を頼りに、古代の雅人を想像しながら周辺をポダリング。 明日香村は、歴史の積み重ねが大きいだけに、どことなくおおらかな落ち着きを感ずる。 奈良から京都へ 桜井からR169号線に入り、汗をかきながらも順調に距離をかせぎ、正午過ぎ、奈良に入る。きのうの険路越えの褒美のような快調な走りだ。 京都へのR24号線をポダリングしながら「昼食ポイント」を物色、北小路町でちょっと気になる「一二三屋食堂」を見かけ、中に入る。 カウンター7、8席だけの居酒屋風の変わった造りで、年配の夫婦二人が立ち働いている。 「なんになさいます?」と、奥さん。「自転車旅なんで、消化がよくて腹持ちのいいものは?」と私。「じゃ、うどん定食などいかが?」で、決まり。 傍らのご主人が「自転車旅」に興味ありで、食べながらの旅談義。 お二人は、この地で35年間「うどん屋さん」を経営、夜は息子さんが「居酒屋」、昼は二人の体力に合わせながらの「定食屋」だという。 こしのしっかりしたうどんに煮物の定食は、年季の入った味わいだった。> 午後も依然快調な走り。宇治市を次田あたりからさすがに交通量も大都市の様相となり、3時過ぎJR京都駅に着く。 新装成った京都駅、初めて見たが、賛否両論で世論が二分されただけに、「ウーム?」と首を傾げながら、しばし超モダンな建築物を眺めた。 都大路を、きょうの宿のある京都御所方向へポダリング。歩道が広くポダリングには快適だ。3時半過ぎ、御所・蛤門前の公共の宿「平安会館」にはいる。 旧友Aさんとバッタリ 風呂で汗を流し、外で夕食をと支度をしていると、携帯が鳴った。(99年秋、松江へ向かう途次、恩師K先生と一緒に銀座で「激励会」をしてくれたAさん) 「Aです。いまどのあたり?」と、「3時過ぎ京都入りし、これから夕飯でも食おうかと、、」。 「えっ、僕も仕事でいま京都、ちょうどよかった、じゃ一緒に飯を、、」と。(彼Aさんとは、この旅の最終ゴール・東京日本橋で会うことにし、およその行程を知らせて置いたのだが、この京都で会えるとは、、) やがて現れたAさん、「東京へ帰る予定をキャンセルした」ということで、京都の夜は、思わぬ楽しい一夕を過ごすことになった。 明日香路に古人(いにしえびと)の行き交うをうつつに見るか秋の陽だまり いにしえに牛車の往きし烏丸をチャリも軽やかわれは行くなり (続く)
2005年10月11日
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