顕正会脱会のススメ!

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2013.02.14
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 宗門史上、現在は行方不明とされている二箇の相承書ですが、古くからの文献には様々な箇所に引用され、また写本類も伝えられて、その存在をうかがい知ることができます。これについて、宗内ではいくつかの研究論文も発表されており、それらの成果をふまえた上で、二箇相承書の伝承を、ある程度確実とされる文献に絞(しぼ)った上で訪ねてみることにします。

 「次に日興上人は是(これ)日蓮聖人の付処(ふしょ)本門所伝の導師也。禀承(ぼんじょう)五人に超え紹継(しょうけい)章安に並ぶ」(富要二巻二二)
と見られます。また『摧邪立正抄』には、
 「日興上人に授(さず)くる遺札(いさつ)には白蓮(びゃくれん)阿闍梨と云々」(富要二巻五○)
とあります。初めの『血脈』の方だけではすぐに判らなくても、『摧邪抄』を合わせ見れば、両書が二箇の相承書を指していることに気がつきます。ちなみに『摧邪抄』にある「白蓮阿闍梨」とは日興上人の阿闍梨号ですが、宗祖御在世中にこの号を見るのは、二箇の相承書を除けば、御入滅間近の十月八日、六老僧選定の時しかありません(宗祖御遷化記録・新一八六三)。したがって「日興上人に授くる遺札」とは、二箇の相承書を指していることは明らかです。
 次に、大聖人滅後一八七年のことですが、応仁(おうにん)二(一四六八)年十月十三日、京都要法寺の前身である住本寺十代日広(要法寺歴代としては十六代)が、重須寺(後の本門寺)に詣(もう)で、二箇の相承書を謹写している事実があります。この奥書に日広が、
 「富士重須本門寺に於いて御正筆を以て書し奉り畢(おわん)ぬ、応仁二年十月十三日」
と書いた後に、日在(要法寺十八代)が、

と、自山先師の行蹟であることを明記して伝えています。
 なおこの写本をさらに大遠坊日是(亨保七年寂)が転写したものが、今日まで大石寺に所蔵されています。
 要法寺ではさらに十九代広蔵院日辰が重須を訪れ、弘治(こうじ)二(一五五六)年七月七日、時の住持八代日耀(にちよう)に二箇の相承書を臨写(りんしゃ)せしめたことは、以前にも触れました(現在西山本門寺藏)。臨写とは正本(原本)を横に置いて、行数・字配り・字形に至るまで忠実に模写(もしゃ)することです。ゆえに臨写本は、大聖人が日興上人へ授けられた正本の形態をもっとも正確に伝えていると言えます。そして、日辰はこの臨写本をさらに転写した上で開版頒布(はんぷ)したということで(夏期講習録二巻9)、それが宗内で刊行された『法華経の原理一念三千法門』(小笠原慈聞著・昭和二十五年刊)巻頭に収録されています。
 日亨上人もこの臨写本によって、二箇の相承書御正本(原本)の雰囲気を、いささかなりとも偲(しの)ぶに足りると評されています(興詳伝一五二)。
 この臨写本の奥に、日辰は自ら由来を書き添えています。
 「我(われ)日誉等と弘治二丙辰(ひのえたつ)年七月五日、駿河国富士郡重須本門寺に至る。同七日己午(つちのとうま)二刻此二ヶ御相承並本門寺額安国論等を拝閲せしめ畢(おわん)ぬ。後証の為住持日耀(にちよう)上人をして之を写さしめ、以て隨身上洛に備える。時に同月廿二日也 弘治三丁巳(ひのとみ)八月朔日(ついたち) 日辰(花押)」(原漢文)
 以後、話しを進めていくなかで、この臨写本を仮に「日辰所持本」としておきます。
 これまで、日蓮正宗で編纂(へんさん)されてきた御書全集が数種類ありますが、日亨上人が編纂された従来のもの、現在刊行されている『平成新編御書』、さらに『昭和新定御書』『平成改定御書』の何れについても、二箇の相承書は日辰所持本と大差のない内容であることが判ります。すなわち、成立の由来も明らかな日辰所持本は、かなりの信頼性をもって扱われてきたと言えます。
  二箇の相承書写本の中でも、たとえば日有上人の晩年、尊門より大石寺に帰依した左京日教の著した『類聚翰集私(るいじゅかんしゅうし)』と『六人立義破立抄私記(りゅうぎはりゅうしょうしき)』中に、二箇の相承書が引用され、日付が『身延山付嘱書』を九月十三日とし、『一期弘法抄』は十月十三日と、日辰所持本とほぼ逆転して写されています(これと同様、逆転した日付となっているものに、他門本成寺日現の『五人所破抄斥』がある)。しかし以上の例は正本を見るのが不可能な状況における誤りと思われ、これ等の写本が存在しても、日辰所持本の正確さを揺るがすものではありません。
 また日付について、前項に紹介した日顕上人御教示に基づいても、神力品に準(なぞら)える『一期弘法付嘱書』が先となり、嘱累品に準える『身延山付嘱書』が後に来てこそ、理(り)に称(かな)っていると言えます。
 日辰所持本で一点問題となるのは、『身延山付嘱書』の文中、「身遠山久遠寺別当」とある箇所です。つまり本来なら「身延山久遠寺別当」でなくてはならないということです。

 こう考えるもう一つの裏付けとして、大石寺に所蔵されてきた第十四世日主上人の写本にも、「身遠山」となっていることを考慮しておく必要があります。
 大石寺に蔵されている二箇の相承書として、現在最古の写本は日主上人のものです。同上人が御法主に就(つ)かれていた期間は、天正(てんしょう)元(一五七三)年より慶長(けいちょう)元(一五九六)年の間です。すなわち日主上人は、重須重宝強奪事件(天正九年)の最中に大石寺御法主に就かれていたのであり(重須の事件に大石寺はもちろん無関係)、その御登座期間における相承書筆写について、富士年表では一応「天正年間」としています。問題は、日主上人が果たして二箇の相承書を写されるに当たり、その元本としたのは何(いず)れであったかということです。
 日主上人の頃、大石寺は重須と親交があったようには思われず、日主上人が、日辰のように重須に出向いて二箇の相承書を写されたとは考えにくい状況です。もちろん、二箇の相承書御正本が重須にあったことを前提とした論考です。
 いわゆる、日目上人が晩年おられたのが大石寺であるゆえに、日目上人への付嘱の書である『日興跡条々事(にっこうあとじょうじょうのこと)』御正本が、大石寺に所蔵されてきたのと同様、二箇の相承書の御正本は日興上人が生前ずっと所持され、御遷化を迎えた重須に蔵されてきたと考えるのが自然です。とは言え、大石寺にはそれまで、二箇の相承書の写本が全く伝えられていなかったとは考えられず、日目上人への付嘱を内々に定められていた日興上人であれば、御存生の時代における古写本(現在は伝わらないが)はすでに大石寺日目上人の許(もと)に存し、日主上人はそれをもって写されたのではないかと推考するものです。
 ちなみに日辰所持本と日主上人写本(『諸記録』掲載の写真による)を比べてみると、『一期弘法抄』は字配(くば)りや字形等ほぼ同一で、最後の「日蓮在御判」「血脈次第 日蓮日興」の二箇所に違いが見られるだけですが、『身延山付嘱書』については文字数、字配り、行数までが異なり、それぞれ写した時の元本は別々のものであったことは明らかです。





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Last updated  2013.02.14 15:15:41


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