・『愛する男』乾ルカ――愛することが、死を招く。それでも人は誰かを愛してしまう。 愛する男は、2026年7月に祥伝社から刊行された乾ルカの長編小説。304ページ。主人公は、幼い頃から「自分が好意を抱いた人が死んでしまう」という数奇な運命を背負う青年・中川宙希。母、祖父母、父を相次いで失い、養護施設で育った宙希は、周囲の人々から愛情を受けながら成長する。しかし、誰かを好きになるたび、その人に死が訪れる。やがて宙希は「愛すること」そのものを恐れるようになる。
・ 物語は、宙希の幼少期から始まる。生まれてすぐ母を失い、その後、祖父母、父も亡くす。孤独の中で養護施設に入った宙希は、そこで友人や心優しい大人たちに囲まれ、少しずつ「人に愛される」という経験を知っていく。しかし、そこには奇妙な法則があった。 宙希が誰かに好意を抱くと、その人が死んでしまう。 最初は偶然だと思えた出来事が、人生を重ねるにつれて偶然では済まされないほど積み重なっていく。やがて宙希は、人を好きになることそのものを恐れるようになる。好きにならなければ、相手は死なない。ならば、誰も愛さなければいい。そうして孤独を選ぼうとする宙希の前に、それでも人との出会いが次々に訪れる。そして彼の「愛」は、単純な恋愛感情を超えて、次第に不穏で謎めいたものへと変貌していく。出版社も本作を「数奇な運命を背負った青年が絶望の果てに見出した、究極の『愛』」を描く作品として紹介している。
・この小説の核心は、 「愛すること」と「相手を幸せにすること」は同じではない という、残酷な問いにある。宙希にとって愛は、普通なら人生を豊かにするものだ。誰かを大切に思う。その人に生きていてほしいと思う。その人と一緒にいたいと思う。ところが彼の場合、その感情そのものが死と結びついてしまう。だから彼にとって、 愛すること=相手を失うこと になる。これは単なる呪いや特殊設定ではない。むしろ、「愛とは何なのか」を極端な形にまで押し広げる装置だ。人を愛するとき、私たちは相手を自分の人生の中に置く。しかし、その瞬間から「失う恐怖」も同時に生まれる。つまり愛とは、幸福だけではなく、 喪失する可能性まで引き受ける行為 でもある。
・ 「愛されること」と「愛すること」の違い
宙希の人生で重要なのは、彼が最初から愛を知らなかったわけではないことだ。養護施設で友人や大人から愛情を注がれる。つまり彼は「愛されること」を知っている。しかし、「愛すること」は違う。誰かを愛するとは、自分の側から相手に価値を与えてしまうことでもある。だからこそ、その相手を失ったときの痛みは深い。宙希はその恐怖から、「愛さなければ失わなくて済む」という方向へ進もうとする。しかし、人間は完全に他者を必要としない状態では生きられない。ここに本作の悲劇がある。 孤独は傷つかないための防御になる。しかし同時に、愛される可能性まで閉ざしてしまう。
・本作でもう一つ印象的なのが、「孤独」の描き方だ。孤独には二種類ある。 誰にも愛されない孤独 と、 愛してはいけないと思って自分から孤独になること 。宙希は後者に近づいていく。これは現代の30~40代にも無関係ではない。仕事が忙しい。一人の時間が快適だ。人間関係は面倒だ。傷つくくらいなら深入りしない。そうやって、自分を守るために少しずつ他者との距離を広げていく。しかし、ある日ふと気づく。 「自分は傷つかなくなった代わりに、誰かに深く触れることもなくなった」 本作の孤独は、その寂しさを極端な物語として可視化している。
・ 『愛する男』は、「人を愛することは幸福なのか、それとも喪失を引き受けることなのか」を問い続ける、愛と孤独の物語だ。 宙希にとって、愛することは死を招く。
だから彼は愛さないことで生き延びようとする。しかし、人間は完全に愛を捨ててしまえば、自分自身の生もまた薄くなってしまう。30~40代でこの小説を読む意味は、そこにある。若い頃のように「誰かを手に入れるための愛」ではなく、 「いつか失うと知っていても、それでも誰かを大切に思えるか」 という、もっと静かな愛の問題が見えてくる。愛とは、失わないことではない。 失う可能性を抱えたまま、それでも愛すること。 乾ルカは、その残酷さを「人を愛すると、その人が死ぬ」という極端な設定に置き換えることで、逆説的に、私たちが普段見ないふりをしている「愛の本質」を浮かび上がらせている。
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