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先日、別の場所に新しいブログを開設しました。以前ご訪問いただいた方も、そうでない方も、よろしければぜひお越しください。『シチリア脱出計画』(http://blogs.yahoo.co.jp/gnjnrk)
2008年04月06日
突然ですが、このブログを終わりにすることにしました。 “スローフード”とタイトルにあるのに、最近は食に関した記事がほとんどなく、本来の目的から離れてしまっているから。それに、インターンシップも終了して留学もいちおう一区切りついたので、このブログの役割も終わったかなと思います。 もしかすると、いつの日か“シチリアしがない町日記”なんていうブログを始めるかも。もちろん、そのときはお知らせします。 なお、これまで交流のあった方々のブログには、ネット環境が整い次第お邪魔しに行きますので、引き続きよろしくお願いいたします。 最後に、このブログで出会った方、いろいろな助言をくださった方に、この場を借りて感謝いたします。ありがとうございました。
2008年02月18日
“三度目の正直”になることを願って、オルティージャ島の移民局へ。移民局は窓口を開けずに稼動していました。 守衛に事情を話すと間もなく例の女性担当官がやって来て、「いま システムがダウンしている のよ。もう少ししたら別の担当者が来て直ると思うから、悪いけど待っていて。」 そして待つこと小一時間。男性担当官のOK指示で窓口へ行くと、「じゃぁ、フィレンツェでもらった滞在許可書 を出して。」 12月に召還状を持って行ったらシステムがダウンしていて、1月に行ったらシラクーサに直接来るよう指示があったと言うと、「そんな訳ないなぁ。フィレンツェで就学目的から家族目的に書き換えて、それからウチで住所変更するんだ。」 この担当官、フィレンツェ移民局に電話をかけるも土曜日で誰も出ず、「今日は電話で確認できないから、文書で確認するよ。そうだなぁ、1週間くらいかかると思うけど仕方ないよね。」 それまでは私に「そんなにイライラしないで。落ち着いて話さないとダメだよ。」と言っていた主人も、さすがに困ったらしく「先週の水曜に来たとき、帰りの航空券を持って来ればOKとあなたの男性同僚が言っていたんですけど。」と抗議 そして いろいろと あった後、紙の滞在許可書が出ました。ただし、臨時なので 4月いっぱい の短期間限定。こちらに戻り次第改めて電磁式の滞在許可書を申請する必要があります。 次は一度で済んでほしいものです。ま、とりあえず良かった~
2008年02月02日
お義母さんの弟アルフレードにお願いして、再び移民局窓口へ 先週行ったときに必要と言われた書類と上申書(こういう理由ですぐに滞在許可書が必要ですという理由を書いた書類)を持って。 ここはフィレンツェのように大勢の外国人が押しかけるところではないので、来た順に通し番号と名前を(誰かが持ってきた)紙に書いて待つ 仕組み。 地理的にアフリカに近いからか、アフリカ人の多いこと。イタリア人の世話係()に付き添われて、団体で申請に来ています。 さて、待つこと1時間半。窓口にたどり着くと、「平日は忙しいから、土曜に来て。土曜なら申請者がいないからスグに出せるし。じゃぁ、今度の土曜、午前9時ね。」 仕事を休んで来た主人は、また出直しになって、かなりがっかりした様子。私は、「おいおい、閉庁日にアナタ仕事に来るんですか」と疑惑がモクモク。 人の良い主人は、「今度の土曜の9時に来ればすぐに出してくれるって言っていたのを聞いたろうだから窓口は開いているよ」 あぁ、私の滞在許可書はホントに出るのでしょうか~
2008年01月29日
“移民局” というところは、普通のイタリア人には用のないところ。だから、主人の家族親戚一同、 “どこにあるか” どころか、 “存在自体” 知らなかった代物。 だから、お義理母さんの弟の運転でシラクーサのクエストゥーラ(県警本部)にやっとたどり着いたものの、入口で 「滞在許可はオルティージャ島の移民局です。」 と言われ、またまた移動(ヴェネトでも体験済み)。 シラクーサの移民局は、 オルティージャ島の東海岸にあるcommissariato(交番)の建物の中。窓口は平日の11時まで開いているけれど、 滞在許可の申請は火・木のみ。 2つしかない窓口で事情を説明すると、 “2月に一時帰国する場合の再入国”がやはり問題になるとのこと。私のビザが2月19日で切れてしまうため。 結局、出発までに間に合うように、電子許可書ではなく、旧式の紙の許可書を出してもらえることに。ただし、 イタリア~日本の往復航空券のコピー を提出するのが条件。 イタリア→日本は 問題は日本→イタリア。先日ネットで予約した航空券の発券は2月下旬の予定。代金支払い後直ちに発券してもらえるように交渉しないと
2008年01月23日
に、 就学滞在許可のための召集&(イタリア人と結婚したので)滞在許可変更のための手続き をしに行ってきました。 普通は、一緒に手続きってないと思います。でも、 留学期間が4ヶ月と短期間 で、 その間に結婚 してしまったので、 就学滞在許可が出る前(というか召集が済む前)に変更申請 と相成ったわけです。 しかも、 フィレンツェからシチリアへ住所も変更 するため、状況は複雑。更に、 滞在許可が出るであろう前に日本へ帰国&イタリア再入国 となるので、更に更に・・・ さて、主人と一緒に7時半に移民局前に到着すると、すでに入場待ちの列。前回同様、待つこと約1時間。 「就学の滞在許可を申請したけれど、イタリア人と先月結婚した」と入口で言うと、2種類の番号札が 呼び出し順の早かった家族目的滞在許可窓口へ行くと、「シチリアに住むならウチじゃなくてシチリアの移民局へ行って。」就学目的滞在許可関係の提出(すべき)書類の処遇を訊くと、「インフォメーション窓口で訊いて。」 インフォメーション窓口よりも就学目的滞在許可窓口の方が早く順が来たので質問すると、「イタリア人と結婚した段階で家族目的滞在許可になるから、必要ない。でも、シチリアの移民局で説明するときにあったほうがいいから持っているように。」 前回同様、半日費やして、ほとんど進歩ありませんでした まぁ、イタリアですからこんなものでしょう。
2008年01月21日
日本への一時帰国は2月。イタリアへ戻るのは3月上旬の予定。 帰国には、日本で買った往復航空券の残りを使うとして、問題はイタリア行きの航空券。 片道航空券は割高らしいので、往復の安いものを買って復路破棄を検討。(往復航空券の復路破棄は、 事前に航空会社にその旨を連絡 しておけば、後日追加料金を請求されることもないようです。) そこで、ネットで検索してみると、往復も片道もあまり変わらない価格。超短い一時帰国期間中は、なるべく手間は省きたいところ。片道に決定。 一番安いのは、 中国の国営会社。燃油サーチャージ、保険、各種税を合わせても 7万円台。 乗ったことのある人の話では、 特に問題はない らしい。ただし、 予約したはず なのにできていなかったり、 予約の変更 に手間取ったり、そういうトラブルはあるみたい。 結局、オーストリア航空の片道チケットを 各種料金込10万円弱 で予約。クルマが売れれば、多分カバーできるでしょうから我慢です
2008年01月18日
早朝のこと。ちょっとしたことがきっかけで「なに怒っているんだよ」「怒ってなんかいないけど」の押し問答が勃発し、それが“今後どうするか”の長~い話し合いに発展。 主人は、例の青年との初仕事をキャンセルし、私たちは数時間に渡り延々と議論。 フィレンツェとメリッリに住む場合のそれぞれの問題点を挙げて行き、どちらがふたりにとって最良か決めることに。 出た結論は、やっぱりメリッリ。 フィレンツェは主人も気に入っているし、シチリアよりも仕事がある。でも、家賃を払うにはふたりで働かないといけない。第一、今の私たちには家賃と敷金を払うお金がもうありません。 メリッリは、主人の兄が同じ仕事をしているのですぐに働けるし、家賃もずっと安い(お姑さんと同居すればタダ)。問題は、お姑さんとの完全同居とシチリア弁。 お姑さんはいい人だけれど、完全同居となればお互いに気を遣うこともあるし、少しずつギャップが出てくると思う。家は、寝室と居間兼キッチンだけなので、専業主婦となれば足の悪いお姑さんと一日中居間で過ごすことに。それから、義理の妹の子供たち(可愛くて良い子たちだけど、手に負えない)の相手も。 一人っ子(→婿取り)として育ち、大家族の中に嫁として入って行くことを想像だにしていなかったものだから、この環境に慣れるには時間と覚悟が。 そしてシチリア弁。私と話をするときはイタリア語を使ってくれる彼らも、仲間内で話すときはシチリア弁。このシチリア弁、イタリア人でも分からないという人がいるくらいで、外国人の私には別の外国語に聞こえます。食事時の会話はもちろんシチリア弁なので、一人だけ取り残される状態。 自分でどんどん話題を提供して会話をリードして行けば、イタリア語率が高くなると思うけど、そこまでのイタリア語力&地元情報を手にするには、まだまだ時間が。 しかも、メリッリには日本人どころか中国人さえいないのよ~ で、主人の提案。どこかに家を借りる、2~300ユーロくらいで。家でインターネットができるようにしてくれる。それから、学校の先生をしている誰かにお願いして、シチリア弁をタダでレクチャーしてもらう。 まぁ、こんなところでしょうか。人生いろいろです。 イタリア人と結婚してイタリア在住を希望するみなさん、住みたい町に生活の本拠がある方とお付き合いすることをオススメします
2008年01月16日
週明けから、イエローページを頼りに建設会社に電話をかけまくっている主人。面接のために、バスに乗って慣れない街を行ったり来たり。 でも、返ってくる返事は「仕事はあるんだけれど、この天気だからあと1週間は無理だね。」ばかり。 少年の頃からお父さんと仕事をしていて、夏とクリスマスの休暇以外は働いていた主人にとって、何もしない(できない)で家にいなければいけないというのはかなりの苦痛みたい。 しかも、21日以降の家がないので、一家の大黒柱としては家賃確保のためにも早く働きたいし、妻のヒモみたいな生活は格好悪いと感じている模様。(イタリア男はプライド高いですからね~) すったもんだの挙句、ちょっと危なっかしい言動をする青年の会社で1日働いてみることに決定。話が合えば、そこで働いて、そのうちもっと良いところを探す腹づもりらしい。 そして、家。フランコつての家はチェントロにあって便利。私たちの事情を知って、敷金は家賃1月分でいいと言ってくれています。でも、無収入&貯金極少のふたりにとって、700ユーロは高嶺の花。 郊外で誰かとシェアするタイプの家を探してみることに。というわけで、また、告知サイトに投稿する予定。変な人に当たらないといいけれど・・・
2008年01月15日
今日で研修は終了。本当は2月9日までの予定だったのが、結婚してシチリアへ行くことになったという理由で1月下旬までの予定に変更になり、更に、主人が失業してシチリアへ帰るのが早まったという理由で再度短縮して今日まで。 最終日だけれど、特に感慨深いものはナシ。早く終了したくて仕方なかったのが本音だし、従業員も皆さっぱりしていたから。 そして何よりも、「やっぱりフィレンツェで働く」と考えを(いつの間にか)変えた主人の仕事探しの行方が気になって。 Nencioniで10月から研修したけれど、ピッツァとパニーニとサラティーニばかり。研修時間の残り2時間くらいは菓子職人がいる作業場に行けたけれど、そこではクロワッサン作り。 オーナーのシニョーラはヒステリー症で、激高すると手近にあるものを投げるし、とにかく私を含めた外国人女性は皆、シニョーラが機嫌を損ねて怒鳴りださないか、びくびくしながら(顔色を伺いながら)仕事をしている感じ。 イタリア語がペラペラでなく、製菓学校を出ていないから手際が良くない、そんな私がいけないんですが・・・。 いつか機会があればパスティッチェリーアで働きたいけれど、多分、ピッツァとパニーニとサラティーニ担当になるんだろうな~。この経験しかないし
2008年01月14日
主人に助言を求められて困り切った末に、アレッサンドラ宅近くに住む例の国際カップルにSOS B&Bを経営しているから、ムラトーレの情報を持っている可能性もあるし、フィレンツェで苦労しながら頑張っているという点では何がしかのアドバイスがもらえるかもと期待して。 フランコはちょっと強引なところがあるけれど、南の出身で気前が良い人。何人かの知り合いに電話してくれたり、一緒にアパートを見に行ってくれたり(彼曰く、「住まないことには仕事は見つからない。数日で見つかるなんて考えが甘い」)、更に更に、いろいろと親身にアドバイスしてくれました。 二人とも苦労人なので、うちの主人に喝を入れてくれたかっこう。イタリア人にしては気弱な主人、二人の目には「大丈夫かいな」と映ったようです。 この後、先週泊まっていたホテルのシニョーラのところへも。 残念ながら情報はなかったけれど、「ユーロになってからは景気が悪くて困っている。」という認識では主人と話が合って、意気投合 彼らの会話で、どうして主人の仕事が急になくなったか、詳しい理由が判明。会社が設備投資をし過ぎて、しかも今月から銀行の貸出金利がアップして、資金繰りが悪くなってしまったのでした。 ともかく、ちょっとずつ、知り合いを増やしつつ、小まめに情報を集めて、頑張るしかありません。
2008年01月13日
帰宅して部屋の整理を済ませ、ふう~と一息ついているところに主人から電話。 「いまどこにいると思うフィレンツェなんだよぉ」 ヴェネトを引き払ってシチリアに戻る途中、私に会いに来ることにはなっていたけれど、それは明日の予定だったはず・・・。 アパートの大家さんは別のところに住んでいるし、同居のスイス人の女の子は「私のスイスの彼も週末に泊まっているから平気よ。」と言っているので、とりあえず私のアパートに内緒で滞在。 驚いたことに、「フィレンツェで仕事を探すことにしたよ。でも、この数日で見つからなかったら、あきらめてシチリアに帰るけどね。」と発言。シチリアに二人で帰ることに決まっていたはずなのに・・・(帰りづらい何かがある様子) 主人は突然の失業(しかもお金が必要なときに)にかなり動揺していて、「どうしたらいいか分からない。何か助言してくれないか。」と。 日本だったら、「ハローワークに行きなよ。」と言えるけど、ここでは外国人の私、情けないことに、どうしたらいいか私も分かりません。かな~り少ない“ツテ”を頼りに、頑張るしかありません そんなわけで、“フィレンツェ自由時間”は、主人の仕事探しの手伝いに消えることになりました。あぁ~
2008年01月11日
Mさんの家に荷物を取りに行っているとき、主人からかな~り暗い声の電話が。 なんと、 今月いっぱい仕事がない のだとか。 主人は、ヴェネト州でmuratore(左官屋)をしています。いちおう某会社に雇われているのですが、給料は 時給制。だから、天気が悪くて仕事が休みになってしまうと収入減に。 この時期のヴェネトは寒さによる凍結や降雪で仕事が少ない時期。でも、まさか1ヶ月も仕事がないなんて想定外 結婚でお金が出て行ってしまった私たちは経済的に厳しく、なんとか主人に頑張ってもらうしかないのですが・・・(私は無給ですし)。 「収入ナシ、生活費要」は耐えられず、仕方なく、主人は一足先にシチリアに帰ることに。 新婚早々に別居なうえに、収入ゼロって、アンラッキー 私の星回りの悪さが主人に伝染してしまったのかしら
2008年01月09日
語学学校に頼み込んで、どうにかNencioni近くのアパートが見つかりました。 大家さんは、40代後半くらいのシニョーラ。ちょっと若作りな、感じの良い人。もう一人の入居者の女の子には会えなかったけど、スイス人なので真面目な人でしょう。 部屋は思った以上に広くてキレイ。13泊光熱費込みで310ユーロはか・な・り割高だけど、我慢です いま泊まっているホテルのシニョーラは、ご主人を亡くしてからひとりでホテルを切り盛りしています。 イタリア語がペラペラでない私相手に、いろいろと(ほどほどに)語ってくれました。 最近は、ネット予約の波がイタリアにも押し寄せて飛び込みの宿泊客が激減し、さらにアグリツーリズモやB&Bが増えて客を取られてと、なかなか大変なよう。 安宿だけに、変な(お行儀の悪い)宿泊客も多いみたい。酔っ払ってイギリス人墓地を掘り返して、カラビニエーリと一緒に帰ってきたアメリカ人とか シニョーラには息子さんが二人いて、一人はプラートで不動産会社勤務。もう一人は、フィレンツェ市内で浄水器(待合室とかにある“ご自由にお飲みください”という水)の営業マン。 営業マンの方の息子さんは、お昼を食べに来たついでにお手伝い。でも、仕事をやめてまで手伝う覚悟はまだないみたい。 生活して行くって、どこの国でも大変なんだな~と思います。
2008年01月08日
やっとフィレンツェに戻りました 重い荷物を持って、予約した経済的ホテルにチェックイン。経営者のシニョーラは、60代半ばのフィレンツェ人。とってもいい人。 荷物を預かってもらっているKさんに連絡を取ると、なんと 全ての荷物を持って家を出た後。作業着だけ取って、後はアパートが決まってからと思っていたので大焦り 重い荷物を持って戻ってもらうのは悪いので、別の日本人友人Mさんに電話して預かってもらうことに。イタリアでは迷惑かけっぱなしの私です さてさて、フィレンツェに戻って改めて、 フィレンツェの快適さ を感じています。 公共交通機関が発達 しているし、 お店(特にインターネットとか)がいっぱい あるし、なんといっても 自力で行動できる メリッリは、主人曰く “家族に守られて安心” ではあるけれど、 いろんな“ツール” を持ち合わせていないので、独力ではしたいこともなかなかできない。 例えば、インターネットをしたいなと思ったら、隣町まで行かないといけないけど、クルマでないと無理。だから、誰かに「乗せて行って」とお願いしないといけないのです。仮に行けても、日本語読み書きは不可能だし、価格も割高(フィレンツェの物価は高いけど、競争があるので割安) あ~、トスカーナ、トスカーナに住みたい
2008年01月06日
私の滞在許可変更の手続きについては、年末にフィレンツェのクエストゥーラで確認済み。 それでも、主人が自分の耳で確認したがって(あわよくば全ての処理をここで済ませようと目論んで)、しがない村のある県庁所在地ロヴィーゴのクエストゥーラへ。 フィレンツェの移民局の窓口が18あるのに対して、こちらの窓口はたった3つ。しかも、来た順に適当に並んでOK。フィレンツェって都会だったんだなぁと再認識。 主人が窓口の担当官に質問すると、彼女は 「あら、違法滞在者」。どうやら私を中国人と間違えた模様。こちらの人たちには東洋人を見分けるのがとても難しいですからね。 いくつかの書類を提示して事情を説明したところ、フィレンツェで指示されたのと同じ回答が返ってきました。 まず、 フィレンツェで手続きをしてから、シチリアのクエストゥーラへ行く ことになります。 帰り道、インターネットポイントでフィレンツェのホテルを予約。日曜から3泊で計90ユーロ。その後は、語学学校に頼んで部屋を斡旋してもらう予定。出費が痛いけれどしかたありません。 幸い、研修先のオーナーは、「来れる日が決まったら連絡しなさい。」という感じ。えらく怒りっぽいけれど、太っ腹なおばさまです。そういう意味では助かった
2008年01月04日
フォルリ行きの飛行機は、朝の6:40 に出発する予定。家族皆で早起きして5時半に家を出て空港に着くと、案の定30分の遅れ。 そのうち、出発ゲートも変更になり、結局出発したのは 9時少し前。定刻ならフォルリに着いている時間です。 待つことには慣れていると言われているイタリア人が、いらいらして怒鳴っているのですから、イタリアでも普通ではないのでしょう。 そんなわけで、ヴェネトのしがない村に着いたのは 午後2時半すぎ。その間に 雪が降り出し、小雪が舞うなか主人のアパートに戻りました。 それにしても、私たちは “悪天候をもたらすカップル” のようです。シチリアに着いてからはずっと雨だし、ヴェネトに戻ってからは雪ですからね~。
2008年01月03日
シチリアに来てから悪天候が続いていたのが、今日はやっと晴れてくれました。 そして、オルネッラ夫婦と一緒にやっとやっとシラクーサへ ポルト・グランデ近くにクルマをとめてドゥオーモ広場へ。そぞろ歩きしながら、Nさんのお店La Cambusaのある通りへ。 ・・・が、なんと 閉店 しているではありませんか 「カブール通りにそのうち移転します」 という張り紙があるものの・・・ どうりで、お店に電話しても別の一般家庭の家にかかってしまったわけです。でも、ケータイはつながってもいいはずですがねぇ・・・ それにしても、フィレンツェで最後に彼女のブログにアクセスしたときは、移転する様子全然なかったのに、一体どうしたのでしょう もしや、マフィアに誘拐された・・・
2008年01月01日
実はこのブログ、かなり後になってから、思い出し思い出し書いています。だから、いつのできごとか分からなくなって、書いている日と実際の日が前後していたり・・・ というのも、主人の実家では、クリスマス&新年と私たちの結婚が重なって、親戚や知り合いが毎日大勢やって来たので、じっくり文章を書く時間が取れず。 たまにパソコンに向かっていると、義理の妹のちびっこ2人がやって来ておもちゃにしたがるので目を離せません。特に下の子(15ヶ月)は、 目に付くもの全てを手に取り破壊する ので危険 そんなわけで、書ききれないこと、書き忘れたことが多々。残念です~ 今日は1年の最後の日。この1年いろいろありました。ポルティチェッロのフランコさんの家で年越しをしたときは、1年後に結婚している なんて想像もしていませんでした。 フィレンツェに戻ってからの居所がまだないし、親が結婚に反対しているので日本に戻って処理しないといけない事案がたくさんあるし、来年もひともめふたもめありそう。 かといって、後戻りもできないので、しぶとくたくましく生きてゆきます。
2007年12月31日

ついにこの日がやって来ました。「結婚することってあるのかな~。この分だとないかもね~」と思って30数年。ちょっと信じられません。 朝起きてシャワーを浴びた後、オルネッラの運転でショッピングセンターの中の美容室へ。 普通の花嫁は最低でも1ヶ月前に予約を入れて、事前に何回も調整をするらしいので、いきなり「今日結婚するんで、髪をまとめてください。」と来るのはびっくりみたい。 家に戻って、着替えて、メイク(自分でやりました)をして、みんなの前に出ると、一同「きゃぁ~」 彼のお姉さんマリア・グラツィアの息子(もう成人)のクルマで、ふたり揃って町役場へ。(普通は、それぞれの家から教会なり役場なりへ行きます。) 式場は、イタリア式1階にある町議会室。副町長さんの前で 結婚の宣誓 をし、署名と指輪の交換 をして終了。証人は、マリア・グラツィアと彼のお兄さんサルバトーレが引き受けてくれました。 最後に、副町長さんが「こんな世の中ですけど、ふたり力を合わせてよい家庭を築いてください。」という内容のコメントを。 結婚宣誓式の後、役場となりの菓子店で、かなり身内だけの小さなお祝い会。なんと、彼のお母さんが準備してくれていたのです。 派手な結婚で有名なシチリアにあっては、式も披露宴もかなり地味だったけれど、婚姻届を出すだけの日本の地味婚よりも華があって、大満足でした。 どんな感じだったか、ちょっとだけ。親戚の子が撮った写真の写真ですが。洋服、靴、アクセサリーは彼のお母さんからのプレゼント仕立て屋をしているマリア・グラツィアが衣装の調整をしてくれました。 この日のためにいろいろな援助をしてくれた、彼のお母さんロゼッタ、妹のオルネッラ、彼の家族・親戚の皆さんに、この場を借りて感謝します。 そして、晴れて夫となったジュゼッペ、これからもよろしく
2007年12月27日

メリッリのクリスマス名物のひとつになっているものに、 “Presepe Vivente” というものがあります。 プレゼペは、 キリストが生まれたときの様子を再現した人形や模型。イタリアだけでなく、他のヨーロッパ諸国でも見られます。 この “Presepe Vivente” は、フランチェスコ系の修道院で毎年行われている、“実際の人物がプレゼペを演じている” もの。キリスト一家だけでなく、羊飼いや商人などもいて、さながら2千年前の世界にタイムトリップした感じ。 開始時間に出掛けてみたところ、初日&入場無料とあって、門前に長い列 しかもイタリア(シチリア)だけあって、並び方がいい加減。いつの間にか、後から来たグループがずっと前にいたり・・・ 2時間は待ったでしょうか。古代ローマの戦士に扮した係員に促されて中に入ると、そこはまさに2千年前こちらは、左官屋さん油屋さん。オリーブオイルを絞っているところらしい。動物も本物 残念ながら、カメラの夜景モードだと動きのあるものが上手く撮影できなくて、ピンボケしまくり 研究して来年はキレイに撮ります そして、プレゼペのクライマックスがキリスト一家。キリストの両親、ジュゼッペとマリアに扮するのは、地元のカップル。キリスト役の赤ちゃんは、別のカップルのお子さん。 疲れましたが、並んだ甲斐がありました
2007年12月26日

コンラッドの両親の家に行ったときに見た、メリッリのパノラマ写真を撮影した場所へ。 ヴェネトのしがない村にいるときは、自転車か徒歩の彼ですが、ここではスクーター。二人乗り、ヘルメットなしで町の坂道をぶんぶん飛ばして、到着手前右手にあるのが、ドゥオーモ。左手の大きな建物が町役場の庁舎。カターニャ方面の景色。天気がもっと良ければ、エトナ山が見えます。 メリッリはシラクーサ県にありますが、イブレオ丘陵地帯()にあるので、海洋都市のシラクーサとはちょっと違う雰囲気。 シラクーサの水道水は塩辛いけれど、ここの水道水は 湧き水 を利用しているのでそのまま飲めます フィレンツェのアレッサンドラが、フィレンツェの水道水を “市長のスプマンテ” と呼んでいたのを思い出します。こちらのスプマンテのほうが美味しいかも
2007年12月25日

ここ Melilli は、シラクーサの近郊に位置する、丘の上の小さな町。どこに行くにも狭い坂道を登り下り。ちょっとシエナみたい。 家のすぐ上にある教会では、200年前のMelilliを再現した動くプレゼピオ(シチリアではプレゼペ)が展示されています。ライトを調節して朝~昼~夜を再現したり、雨を降らせて見たり。聖母マリア、聖ジュゼッペに見守られた幼子キリストの部分 こちらは、町のドゥオーモ 聖セバスチャーノ教会。 内部はこんな感じ。なんと、イルミネーションと雪のデコレーションが 天井は、フィレンツェと違って板張りになっていて、その上に絵が描かれています。 紫色の布で覆われているところには、幼子キリストの像が。25日の午前零時に布が外されて、キリストの生誕を再現する仕掛け。 シチリアの小さな町、侮れません
2007年12月23日

クリスマスということもあって、大家族のマンマ・ロゼッタのところには、たくさんの親類縁者が挨拶にやってきます。 そのうち、彼のお姉さんマリア・グラツィアの嫁にあたるジョバンナが、セーターとケーキをプレゼントしてくれましたピンク色のケーキは、本来、女の子が生まれたときに食べるものだとか 男3人・女2人の子供がいて、皆が隣近所に住んでいるロゼッタのところには、たくさんの孫たちがやってきてにぎやか。一人っ子で、歳の離れた従兄弟数人しかいない私には別世界 小さな町なので、ここでも皆が顔見知り。彼と一緒に散歩していると、次々に友達や知り合いを紹介されます。親戚だけでざっと150人以上。名前と顔を覚えるのが苦手な私には重労働です
2007年12月22日
カターニャ空港行きの飛行機は夜10時過ぎ。空港のあるフォルリまで行くのに、中間のボローニャで彼と待ち合わせ。 ボローニャに住んでいるミレッラに連絡を取ると、なんと昼食に招待してくれました。ちょうどお姉さんのラウラも帰宅して、1年ぶりの再会。 ところが、彼がまたもや寝不足&体調不良(朝食に変なものを食べたらしい)で、ミレッラ宅で仮眠させてもらうことに。 彼はその後も回復せず、あちこちで戻しまくり。その度に水を飲むので、「胃を休ませるためにも飲食しない方がいいんじゃないの」と言うと、「いや、食べた悪いものを出すために飲んだ方がいいんだよ。」結局、空港に着くまでこんな感じでした 私たちが予約した ウインド・ジェット は、低価格が売り。ただし、 発着時刻が狂う ことで有名。今日も、機材の到着が遅れているとかで、出発が1時間遅れになっていました。 ・・・こんなわけで、空港まで迎えに来てくれたオルネッラと彼女の夫のコンラッドと一緒に彼の実家に着いた頃は、ふたりともひどくぐったりしていました。 で、彼のお母さんロゼッタ、オルネッラの2人の子供、おじさんのアルフレッドに初対面。そして、なんと夕食が始まりました(私たちが到着するまで待っていてくれたのかしら)。 そして、 3時半過ぎ にやっと就寝。ひどく長い一日がやっとやっと終わってくれました。 しかし、ボリュームたっぷりのシチリア家庭料理と夜遅くまで起きている生活習慣は、この後も続くのでした
2007年12月21日
クリスマス前の超忙しいこの時期に、私は一足先に仕事納め。 斡旋会社のマルタがオーナーに連絡したので、「いつ結婚するの」「式はフィレンツェそれともシチリア」などと質問してきました。 そして、その場にいた女性陣(オーナー、古参カメリエーレのフランカ、インド人2人)で、 “何歳で結婚したか” の披露会に。なんと、全員17~18歳でした。 皆さん早かったんですね~。私はその倍くらいの歳になってやっとです。 午後、Kさんがわざわざ家の近くまで荷物運びを手伝いに来てくれました。イタリアで何回も引越しをしましたが、手伝いに来てくれた人は初めて。大感謝です。 居候させてもらえるかどうかの件は、案の定×。ま、いくらイタリアでも、ホームステイしている友達の家への居候、普通は無理でしょう。 こんなわけで、少なくとも数日~1週間はホテル暮らし(予約できれば)。その後は、語学学校に頼んで部屋を斡旋してもらうことになりそう。出費が痛いけれど、仕方ありません。
2007年12月20日
フィレンツェには4日に戻ってくる予定。ですが、とりあえずの居所が未決定。 荷物はKさんが預かってくれます。でも、彼女の家にお世話になれるかは不明。大家さんに訊いてくれると言っていたものの、クリスマス需要で激務をこなしている彼女にその余裕はなし。 エレナ&アデレに電話してみると、案の定、1月上旬はカラーブリア。しかも、お母さんの体調が良くないそうで、場合によるとフィレンツェに戻るのは2月になる可能性あり。 アレッサンドラともめたことのあるカップルが経営するB&Bの呼び鈴を鳴らしてみたものの、年末年始の休業中なのか、応答なし。部屋の電気も真っ暗。 さぁ、どうする私 仕事から帰宅すると、キッチンのテーブルの上に電気料金の請求書が。 見ると、2か月分で263ユーロ 日本円で43,395円(1ユーロ:165円)。一般家庭でこの額はありえません。 恐らく、お風呂場の給湯器が常時作動してしまっているのと、この冬の寒さで反応しやすくなっているのが原因では。 私は洗濯機使っていないし、お風呂も3~4日に1回(←ビデで足とかは洗っています)ですし。 納得できないアレッサンドラは電力会社に電話をかけていました。それでも合点がいかなくて不満顔。 「やっぱり光熱費50ユーロ頂戴」って言ってきたらどうしよ~
2007年12月19日
昨晩のこと。ケータイに番号非通知の着信がありました。 日本だと、こういう場合は絶対に出ないのが常識。でもイタリア人は普通に出るんですね。で、変な電話だったら「もうかけてくるな」と一喝しておしまい。 私もこちらでは番号不明の電話であっても出る習慣がついていて、その電話にも出ました。 かけてきたのは、 30~40歳くらいの日本人男性。もちろん、見ず知らずの人。丁寧に話している様子だけれど、電話が遠くて内容不明。 ただ、私の名前を知っていて、 「○○さんの写真を見たんですが・・・」 と。訳が分からず聞き返すと、電話は切れてしまいました。 “私の写真”とは、私が撮った(そしてブログに載せた)写真 それとも、私が写っている写真 前者の場合、ブログで本名を公開していないので、コンタクトをとってくるなら知っている人のはず。 それでは後者 私が写っている写真を、なぜ見ず知らずの人が見て電話をかけてくるのでしょう そして、思いついたのは、母。私の国際結婚に反対している母が、どこからか私の写真を持ち出して、お見合いを進めている・・・ 勝気な母のこと、乗り気になった相手を説得して、婚姻届を準備して提出してしまうことも考えられます。印鑑を日本に置いてきているので、誰かが私の名前を記入して、印鑑を押せば婚姻届は完成。役所への提出も代理人で問題ありません。(考えすぎかな~) もちろん、“両性の合意”に基づかない婚姻なので、取り消しは可能(最初から無効だったかしら?)。ただ、家庭裁判所に行く必要があるかも。 婚約者に電話し、謎の電話のこと、母が結婚に反対していることecc伝えました。これまでは、「あまり満足していない」という言い方をしていたのですが。 彼は、「僕たちがとても愛し合っているっていうことを言うんだ。そうすれば、分かってもらえるよ。」と言います。イタリアでは、本人たちがいいと思っていれば、親は特に反対しない傾向があるようです。 しかし、我が家はこれが逆効果。“両者の気持ち”よりも“家”なので。「好きなんていう気持ちは1年も持てば良い方よ。恋愛結婚なんかすると、どうせすぐに離婚するんだから。」という母の声が聞こえてきそうです。 こんな母は、父と見合い結婚(しかも、祖父が父を選び、その意向に従った模様)し、家を継いで今に至っています。
2007年12月18日
滞在許可申請がいまの制度に移行してから、早朝のクエストゥーラ通いと長い列は解消したと聞いていました。 しかし 8時前に到着すると、入口前に列が 最後尾の人に訊くと、入場待ちの列。今年一番の寒波が訪れている中、外で 1時間強 の入場待ち 更に、中で自分の順番が来るのを待つこと 3時間半。危うく閉庁時間になるところでした しかも、 端末が壊れている とかで、 来月また来い とのこと。新しい招集日時を訊きに、早起きして4時間半も寒い中で待っていたわけです。 念のため、「近々イタリア人と結婚するので、手続き教えてください。」と質問すると、「結婚証明書と身分証明書、写真4枚を持って我々のところに来なさい。」 イタリア人と結婚したアメリカ人()女性が、窓口で長時間話をしているのを見ました。旦那さんも一緒でしたが、なんか大変そう 次は彼に同行してもらおうかな~。
2007年12月17日
私が部屋を出ると言ってから、アレッサンドラは再び告知サイトに募集広告を打ちました。でも、年末年始のこの時期は反応が少なく、あったとしても気に入ってもらえなかったりしてまだ決まっていない様子。 「家賃は月400ユーロ+光熱費。敷金は0.5か月分。」と説明していますが、家自体が古いので、下見しても他に行ってしまうのかも。 そうそう、家賃が20ユーロアップ この部屋で400ユーロはどうかしら 思い切って300ユーロくらいに落とすと入るかもしれません。 ところで私、シチリアから帰ってきてからの家がありません 元大家さんが紹介してくれた部屋を婚約者が借りるのかと思ったら、「フィレンツェで仕事が見つかってから借りるよ。君はその間、適当なところに住みなよ。」 イタリア人は、次の仕事が決まるまで絶対に仕事をやめません。昔から、仕事がすぐに見つかる保障がない国だから。最近の日本もこんな感じになりつつありますが。 でも、結婚して早速別居っていうのはどうなの 第一、結婚しても同居していないって警察に分かってしまったらおしまいよ~ というのも、イタリアでは、外国人(特に東欧系)女性が滞在許可目的にイタリア人と偽装結婚することが多いので、抜き打ち調査があるのです。 “イスラエルの館”に留まるのは危険。早く出たい。だから、21日でキレイさっぱり退去。 以前、知り合いの日本人Kさんが、「部屋が見つからないんだったら、うちに来なよ。うちのシニョーラはいい人だから。」と言っていたことを思い出し、連絡を取ってみることに。 彼女の発言の真相は、別のところにありました。彼女が居候している家に空き部屋はなく、単に「2~3晩くらい私の部屋にお客様として泊めてあげる。」という意味でした。 エレナ&アデレの家に居候という方法もあり。ただ、私がシチリアから帰ってくる頃はまだカラーブリア。 “夫の仕事が見つかるまでの間”という非常に不確定な期間なので、部屋を見つけようにも見つけられません。いずれにしても短期間であることに変わりはないので、大家さんに断られてしまいます この分だとホテル暮らしかしら~
2007年12月16日
結婚の日が決まりました 私たち(というか婚約者)の希望日、 12月27日の午前12時。場所は、町役場の一室。 個人的には、28日辺りがいいかな~と思っていたの。ところが、「金曜日は嫌だな~」と彼が難色。 Nencioniのシチリア人店員フランカにきいたら、イタリアでは 火曜日と金曜日、そして17日は結婚式を挙げない のだとか。日本の仏滅みたいなものかな。 そして今日は、独身最後のヴェネト行き。結婚を祝して、スプマンテで乾杯 パネットーネ、チョコ、そしてピッツァで二人だけのお祝い会 実は、ピッツァ以外の食べ物は彼が会社からもらったお歳暮。イタリアでは、クリスマスの時期に、会社から従業員にこんなギフトセットがプレゼントされるんですって。“クリスマス・プレゼントはお歳暮”説 がまた有力になりました 余談ですが、“イスラエルの館”のお向かいは、かの エミリオ・プッチ社 のパラッツォ(だから、プッチ通りなんですね)。昨日の夜、従業員対象のクリスマス・パーティ(忘年会)が開かれていました。それはそれは華やかな宴で、私も有名ブランドの社員になりたいと羨ましく思ったものです それにしても、あと12日で結婚って実感が湧きません。急に決まっただけに、マリッジ・ブルーに浸る暇もなしです。
2007年12月15日
オルネッラが投函した書類は、無事に私の手元に届き、その日のうちに署名をして返送しました。 今回、彼女と手紙のやり取りをして知ったのですが、イタリアの郵便局は「本当に」日本よりもずっとアバウトな仕事の仕方をしているようです。 なぜなら、フィレンツェの中心街であってもポストへの郵便物の回収は 一日に1回。しかも、見た限りどこのポストの回収時間も 12:00 で一律。「だいたいお昼くらいに回収しますよ。」ということでしょう。 そして、郵便番号。日本だと7桁で、これを正確に書きさえすれば、極端な話、番地だけで届きます。これは、市町村名の次の部分まで番号が割り振られているお陰 イタリアの場合、5桁の番号が各コムーネ(もしかすると、“主な”コムーネかも~)に割り振られています。 フィレンツェのような都市だと、下3桁の番号が市の大まかな地区ごとに割り振られています。しかし、小さな都市以下だと、そのコムーネ全体でひとつの郵便番号になります。 当然ながら、あて先に県名、コムーネ名、通り名、番地を書くので、郵便番号を書かなくても届くような気がして、あまり意味がないように思います。皆さんはどう思いますか こんなイタリア郵便局ですが、回収前に投函すればシチリアへは 1日で 到着します。(シエナからだと半日で着くらしい でも、多分オルネッラの勘違い)
2007年12月14日
私の結婚について、親、特に母はあまり喜んでいません。 私は、北関東の典型的な零細兼業農家の一人っ子として生まれました。地理的に “陸の孤島” と言われている地域で、 “伝統” が強く残っており、今でも “家(家名)”を残し墓と仏壇を守ること が子としての義務と考えられています。 私の親は、同じ地域の農家出身の次男・三男を婿に取り、私が跡を取ることを希望していました。 ですから、20代の頃に、他県のサラリーマン家庭の長男と付き合っていることが発覚したときは、それはそれは大きな騒ぎになりました。 私が以前働いていた職場には、「一人っ子だからといって絶対婿取りだと言い張っていたら、結婚を逃して結局子孫が途絶えるだろう。だから、うちは娘の相手にこだわっていないよ。」と言う上司もいました。 しかし、うちの親は、たとえ私が結婚を逃しても、どこかよその家の跡取りでない子供を私の養子にして家を守ろうと考えていたようです。 “跡取り” に強くこだわっているのは母。普通は、父親が反対して母親が味方になるという構図。でも、我が家の場合は反対。なぜなら、母自身が “総領娘”(つまり、名字も土地家屋も母のもので、父は婿養子。)で、“家を守る”という意識がとても強いのです。 母は強い信念の持ち主であり、決して考えを変えません。子供の頃から、私の進学・就職ecc.には必ず強く反対し、何度大きな立ち回りを演じたことか 「反対があっても、時間をかけて粘り強く話し合って納得してもらいなさい。必ず分かってもらえるから。」という意見があります。それが人として正しい振る舞いだと思います。 しかし、世の中には、話し合って分かってもらえる人とそうでない人がいるのです。実際、仕事を通してそのようなケースを多々見てきました。 私の母は、後者。このようなタイプの場合、説得は無理 いつの頃からか、実力行使→追認させるという方法をとってきました。就職、転職、退職そして留学・・・全て自力(と父親のささやかな協力)で。 今回のことも、彼が日本人でないことから、当然予想していました。だから、イタリアから「結婚することにした。」と電話で報告。気の毒なのは父。二人の間に挟まれて。婿だから母に従わないわけには行かないし・・・。(お父さん、ゴメンなさい) 2月に一時帰国して、結婚しても私の戸籍はなくならないこと、子供が生まれれば日本国籍も取得できるから、私の戸籍に載ることになり、名字が途絶える心配は当分ないことを説明する必要があるようです。
2007年12月14日

これは、先日紹介したBartoliniの(ドゥオーモから)ちょっと先にある、小さな菓子店のもの。写真右上には「ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家」が 入ったことはないのですが、可愛らしい看板やショーウインドーが前から気になっていました。 おそらく、若い女性(イギリス人)が開いているお店では イタリアのお菓子だけでなく、私たち日本人にも馴染みのある英米風のお菓子もあるようです。 ショーウインドーに並べられているのは、クリスマス用の小さな詰め合わせ(お菓子と小物のセット)。3~5ユーロからと、私でも手が出るお値段。良心的なお店なのかも フィレンツェにいる間にぜひ入らないと
2007年12月13日
“イスラエルの館”に出会うきっかけとなった、ネットでの告知。これをだいぶ後になってから見たイタリア人男子学生から、 日本語とイタリア語の双方向学習 の依頼があったのは1週間ほど前。 単なる興味本位で連絡を取ってくるイタリア男が多いので、こういうメールは無視するのが常。 ただ、この学生の場合、文章がとても礼儀正しく、来年の春に会議と研修を兼ねて沖縄に行くので日本語学習が急務だという内容だったことで、とりあえず会ってみる事に。 待ち合わせ場所に現れたこの学生さんは、とても知的で礼儀正しい好青年。私がこれまで出会ったイタリア人の中では珍しく、理論的というかシャープな話し方をします。それもそのはず、フィレンツェ大学農学部に所属する研究生。ばりばりの理系人間でした。 私のイタリア語のクセを的確に指摘してくれて、更に、日伊文化の違いから来るコミュニケーション上の落とし穴についてアドバイスしてくれました。 私の婚約者がシチリア人だと知ると、「シチリア男は嫉妬深いから、こんなことをしたり言ったりすると後が大変だよ。」とか、「日本人は話をしないでも分かり合えるという文化だけれど、欧米では考えていることを話さないと分かり合えないばかりが、逆に悪い印象を与えるんだ。彼とは何でも話をすべきだよ。」 なんでこんなに力説するのかと思ったら、なんと 彼もシチリア人 でした。ミラッツォという、メッシーナ~チェファル間の町出身。 最後は、 “イタリア男はプレイボーイ” と言われる所以となった文化の背景と現状、イタリア男が女性に声をかけるときの “本気と遊び”の違い(見分け方) まで“講義”してくれました。 “気楽なお勉強会”くらいの気持ちで出掛けて行ったのが、予想に反して非常に内容の濃い2時間半でした。 真面目なシチリア理系人の彼、最後に「今日ボクと会って話をしたって、婚約者には言わないでくださいね。恨まれたら怖いから~」 こんな彼、偶然にも婚約者と同じ名前なんですよ
2007年12月12日

昨日からSs.Annunziata広場に面した 捨て子養育院博物館 の一角で、手工芸品展が開かれています。 手作りの伝統が生きているからなのか、それとも、こういう時代だからこそ手作りの良さが見直されているからなのか、イタリアでは良くこういう展示即売会が開かれます。 出店店舗は10数軒と少な目でしたが、クリスマスらしい品もあれば、思わず心奪われる素敵な小物もありました。 そして、なんとウールのポンチョを衝動買い “節約生活”が身についているにもかかわらず、目に飛び込んできた大好きなヴィオラ色(すみれ色)、売っていた人たちの感じのよさ、そして 18ユーロ という手頃な値段でお買い上げメルカートで初の衝動買い 店のシニョーラの話では、一部機械で作っている部分があるのでこの値段なのだとか。全部手編みのものは、50ユーロ以上。それでも、生産直売でこの価格はお得。 何着も試着させてもらって、結局これに決定。紫系統の色は、カーキみたいに黒とも茶とも合うので、重宝しそうです。
2007年12月11日
婚約者の妹オルネッラは、首尾よく私の書類の認証を済ませてくれました。 日本大使館の話では、シラクーサ県庁では認証できないはずだったのですが。Nさんが結婚したお陰でしょうか ただ、役場に彼と私の署名を提出する必要があるそうで、なんと“イスラエルの館”あてに書類を郵送 こんな状況なので、大家さんと私の仲を疑ったアレッサンドラが、この書類を郵便受けで発見して隠さないという保障はなし。(私も疑心暗鬼) 彼から電話で伝えられて、「それはまずい学校宛に送ってもらわないと」と言うと、“イスラエルの館”に住んでいる状況を知っているはずなのに、「えなにがまずいの」 彼女は、私の部屋の入口のすぐ前でドアを開けたまま仕事をしているので、絶対耳がダンボになっているはず。ますます疑われちゃったかも~ 結局、もう一度役場で書類を発行してもらって、学校気付で送ってもらおうということになり、翌日スーパーに出掛けたとき(アレッサンドラが、どこに何しに行くのか訊くようになったのよ。多分、大家さんとの密会を疑っている)に彼女に電話。 オルネッラは事情をすぐに理解したうえで、原本は彼女が持っているので必要があればファックスなり何らかの方法で送ってくれるとのこと。良かった~ この署名と私のパスポートのコピーが揃ってから 8開庁日 以降に結婚できるそう。普通は 2週間後 なんですけどね~・・・。 ともかく、私たちは12月中に結婚することになるでしょう。日にちが未確定、衣装は現地調達、披露宴も(多分)なし。日本で言うところの“入籍だけで済ませました”結婚です。
2007年12月10日

シエナのエミリア・マンマに会いに行きました。10月にイタリアに戻ってからは初めて なぜなら、週末は婚約者に会いにヴェネトまで行く必要があって(彼は、毎週末会うのが当然と考えているのです)、シエナには行けなかったの・・・ 「エミリアに会いにシエナに行くから、今週末は行かない。」と言ったら、不満げだったけど、「フィレンツェであなたの仕事が見つからなかったら、シチリアに行くことになるでしょ。そうしたら、エミリアには滅多に会えなくなるのよ」と説得。 こうして、8ヶ月ぶりにシエナに降り立ちました。ナンニーニ脇の広場で開かれていた小さいメルカートを覗いて、カンポ広場へ。 行きつけのタバッキで、婚約者の妹への絵葉書を購入。なんと、1枚20チェンテージミ こんな観光のメインスポットでこの価格は驚き。フィレンツェだと、市営の “ダンテの家博物館” の土産物店くらいでしょう(しかもしょぼい、商品も博物館も)。 エミリアの家に行くバスのバス停は loggia del Papa(直訳すると“教皇の宿泊所”)前。ちょうどクリスマスイルミネーションの点灯準備をしていました。なぜユニコーンなのでしょう ちょっと(かなり)遅れて到着するも、エミリアはいつもと同じ笑顔で迎えてくれました。 一人娘のパオラが結婚して独立してからは一人暮らし。冬は語学学校の生徒も少なくなるので、いまは受け入れ学生もなし。のんびり暮らしているようです。 私が間もなくシチリア人と結婚すると報告すると、Che grandissima sorpresa!!(ものすごくびっくりよ!!)そして、Auguri!!(おめでとう!!)と祝福してくれました。 エミリアは彼女の世代にしては先進的と言うかアヴァンギャルドな考えを持っていて、「彼が嫉妬深い人なら、あなたを拘束するかもしれないから注意するのよ。“自由”がなくちゃね。」とか「やっぱり世代の違う人どうしは別に住んだ方がいいのよ。嫁姑に限らずね。気兼ねすることなく、お互い“自由に”暮らした方がいいと思うの。」と言います。 相変わらずの“エミリア節”と手料理(お菓子付き)を堪能し、楽しいひと時を過ごしました。 彼女がいるからかな、シエナが一番ほっとする。フィレンツェよりもずっと小さいけれど、静かだし、チェントロにはひと通り(有名店も含めて)お店があって買い物には困りません。シエナくらいの大きさの町が私には合うのかも バス待ちの間、土砂降りを避けてたまたま入った “キジアーナ音楽院” の建物。キージ・サラチーニ伯爵が20世紀初頭に開いた音楽院。ここの中庭が素敵なことを発見 最後に、回廊の天井に描かれたフレスコ画をご紹介しましょう。 中の部屋を見学するガイドツアーもあります。次回はぜひ参加します
2007年12月09日
料理人でレストラン開店の準備中というアレッサンドラは、現在料理人をやっている気配なし。 コンピュータでデザインの仕事をしていると話しています。時折、ヘブライ語の教授をしていることも最近知りました。(どうやら、彼女はユダヤ系らしいです。) どちらも定職ではないようだから、生活は大変かも。ジョナサンは家賃を払っている様子ないし(←ひも)。 やっぱり、私の家賃で生活しているのかしらだって、この前の夜、「次の人がいつ入るか分からないから、節約しないとね。」と話しているのが聞こえてきたもの ジョナサンがイスラエル人なのは前にも書きました。私たちの部屋の上にも部屋があって、もう一人イスラエル人の女の子が住んでいます。アレッサンドラ、ジョナサンとはかなり親しく、良くうちに来ておしゃべりしたり、ご飯を食べて帰ったりしています。(同胞ですからね) 大家さん対しても“連帯”していて、「あんなバカ女、相手にしちゃダメよ!」と。 “通訳”日本人の話では、1~2年前まで彼女が自宅テラスで 夜な夜な大宴会 を開いて、大変な近所迷惑だったとか。(アメリカ人みたい・・・) アレッサンドラが帰ってきてからは、特にイスラエル人の出入りが多くなった感じ。大抵、うちで一緒に夕食をとって、遅くまでおしゃべり。アレッサンドラは、「家に友達を呼ばないで。私たちだけで静かに暮らしたいから。」って言っていたんですけどね~ この間は、別のイスラエル人()も来て、ヘブライ語の賛美歌をみんなで合唱(○○教みたい・・・) 私はイスラエルという国に対してニュートラルな立場。でも、このシチュエーションだと、ちょっと引いてしまう 早く引越しの日が来ないかなぁ。
2007年12月08日
“結婚後どこの町に住むか” が私たちの問題。 現在、彼は ヴェネト でmuratore(左官)として働いています。一方、私は フィレンツェ で2月まで菓子修行中。 シチリア出身の彼はフィレンツェに友人・知人がいなくて、仕事探しは難航 物価の高いフィレンツェに住むなら、すぐに働く必要あり。 私がヴェネトに行くという手もありますが、しがない村ゆえ、私の仕事がありません。“主婦”に甘んじるなら、(彼が亡くなったお父さんからもらった)家があって生活費も安く済むシチリアへという方針に固まりつつありました。 そんなとき、研修斡旋会社のマルタから、オーナーが私についてこう話していたとききました。「実務経験はないけれど、研修生なのに良く働いている。1月になったら菓子をメインに覚えてもらうつもり。ところで、研修が終わったら帰国してしまうのか」 どうやら、アントニオかマリオのどちらかがもうすぐ退職するらしく、従業員を探している模様。(多分、高血圧でドクターストップがかかっているマリオ。) 今日、「ここ終わったらどうするの結婚するってきいたけど相手はイタリア人」「うちで働くの好き」etcオーナーが訊いて来ました。(“代役”とまではいかなくても、アルバイトで可能性あり) イタリアの飲食店では、「手続きして正式に雇ってあげる」と外国人研修生に言いつつ何もしてくれないところが大半。(外国人を雇うには、ものすごいお金がかかるらしい) そんななか、うちのお店は、外国人を雇うことに抵抗がありません。ちゃんと滞在許可の手続きもしています。事実、インド人がたくさん働いているし。 実現するかどうかは別として、研修を中途で放り出してシチリアへ行くのも忍びない(一応契約してますからね)。ダメもとで賭けてみましょうか 後は、家と彼の仕事。 “最後の手段”、去年住んでいたアパートの大家さんに電話 彼女は、お父さんから引き継いだ不動産会社を持っています。 一緒に住んでいた日本人シニョーラの名前を挙げて名乗ったら、「覚えているわよ~」 オススメ物件があるとかで、見に来たければいつでもOKと。左官の彼の仕事についても、仕事柄心当たりがあるらしいので、彼と直接話してもらいました。 上手く行くといいのですが、果たして
2007年12月07日
なぜ、先日、中途半端な観光をしにローマに行ったかというと、日本大使館に行く必要があったのです。 近々、イタリア人と結婚することになりまして、婚姻予定地の役場に提出する書類を申請したのです。 彼はヴェネト州に住んでいますが、住民票を実家のシチリア州に置いたままなので、私たちはシチリアで婚姻します。そこで、シチリアを管轄するローマの日本大使館で、私の “出生証明” と “婚姻要件具備証明” を申請(各8ユーロ)。ちなみに、ヴェネト州で婚姻するならミラノ領事館。 このブログを読んでいる方で、近々イタリアで国際結婚をする方がいるか分かりませんが、参考までに。申請に必要な書類は、・有効なパスポート・3か月以内に発行された戸籍謄本又は全部事項証明(電子化されたもの)1通・3か月以内に発行された改製原戸籍(戸籍が電子化されている場合)1通・婚約者の身分証明書 本籍地を変更したことがある場合は、従前の戸籍謄本が、婚姻歴がある場合は、従前の婚姻に係る戸籍も必要だそうです。(面倒ですね~) 念のため、申請前に大使館等に電話で確認するのがベスト。「取り寄せた書類をファックスして、翌日電話で問題ないかどうか確認してください。」と指示があるはず。わざわざローマまで来て出直しにならないように、という配慮。とっても日本的な仕事の仕方です。 ちなみに、婚姻予定の役場に提出する書類も、役場ごとに違うことがあるようなので、こちらも確認した方がよいでしょう。私たちの場合、彼の妹がやってくれています。 この後、私の証明書に押された大使館印と大使のサインをシチリアの県庁で認証するという作業が残っています。この認証がないと、証明書の効力が発効しないのです。要するに、役場に提出できないということ。 この認証、どこの県庁でも出来るわけではありません。日本人が多くいる県の県庁にだけ、大使館が印影を送ることにしているから。シチリアの場合、パレルモ、メッシーナそしてカターニャ。 婚姻前に一度シチリアに行かないとならないようです。やれやれ・・・。
2007年12月06日
大家さんから衝撃の事実をきいて数日後、アレッサンドラがサルデーニャから帰ってきました どうやらアレッサンドラがお金に困っているようだと感じるようになってから、今月分の家賃を払う気になりません。 入居のときに払った 敷金が戻ってこない 可能性があるから。第一、アパート全体の家賃(通貨がリラだった頃の契約なので、かなり安い)が私の部屋代とだいたい同じときいて、「私の家賃で生活しているのでは」という疑問がモクモク この部屋は今月中に出る予定なので、敷金を今月分に充当できないものか、彼女と交渉。 次の人を探さないといけないのだから、出ることをもっと早く言うべき云々と言われてしまったけれど、敷金充当についてはOK。 ただ、 2か月分の光熱費 として、なんと 100ユーロ を請求(また電気代)光熱費の相場が1ヶ月50ユーロなのは、一般的に妥当。でも、暖房が壊れていて使えないし、洗濯機も使うと停電するから手洗いするような家に1ヶ月50ユーロはおかしい 結局、日割り計算した家賃の余りを光熱費に充当するということで妥協。これだと、月60ユーロになるけれど、多分戻ってこないお金だから、同じでしょうし。 さぁ、次はどんな出来事が起こるのでしょう
2007年12月05日

この時期、あちこちでクリスマス展示即売会が開かれます。今日は、サンタ・クローチェ教会前広場のクリスマス市に行きました 先週Lilicoさんと行った所は有料でしたが、ここは青空市なので出入り自由。 クリスマスの飾りももちろん売られていますが、プレゼント用の小物やハム・チーズ(クリスマスプレゼントはお歳暮です)の屋台の他に、なぜか飲食店(しかもドイツとか、イギリスとか)もあって、要するに縁日みたいな感じ。 さっそく、先日チェックしておいた、せっけん屋さんへ。クリスマス用のラッピングが可愛らしいのが気に入りました。それもそのはず、フランス製 売り子のシニョーラと話をして分かりました。 繊細でセンスの良いものが欲しいなら、やっぱりフランスシエナのエミリア・マンマにプレゼントします。喜んでくれるかなぁ。 午後、学校に行ったら、渡航前に送った小包が届いていた奇跡としか言いようがありません 「2ヶ月もかかるなんて~」とあきれる一方で、本当に紛失してしまう人もいるのだから、ありがたく思います。これが私へのクリスマス・プレゼントってところでしょうか。
2007年12月04日
あれは、11月最終週のとある日の午後のこと。仕事から帰ってきてアパートの階段を登っていると、運悪く大家さんにばったり 日本語や英語を使ってイタリア語が良く分からないふりをしたものの、大家さんの知り合いの日本人が“通訳”として登場し、話は急展開。 彼ら曰く、アレッサンドラの賃貸契約は 2年前に切れている のに、住み続けているばかりかその間の 家賃を払っていない のだとか。(えぇっ) さらに、大家さんやこの日本人に 無言電話 をかけたり 窓に生卵 を投げつけたりしたこともあったそうで、抗議に行くと 警察 を呼んで騒ぎを大きくしたこともあったそう。 (本当なら怖~い) 「お金がなくて、 電気・ガスを止められた こともあるのよ。あなたの払ったお金でやりすごしているのよ、きっと」という発言をきいて、はっと思い当たることが。 居間の戸棚に入っていた電気の請求書を何気に見たら、「先日請求した電気料金112ユーロを速やかにお支払いください。」と10月末の日付で書いてあった・・・。 そうそう、「月末までに、鍵の保証金として 100ユーロ を前払いしてね。」と言われて払ったっけ・・・。 でも、アレッサンドラそんな悪い人にも見えないのよね~。動きも話もおっとりしているし、アフリカ難民支援とか、そういう基金から(募金依頼の)お知らせが良く来ているから慈善活動にも参加しているみたいだし。(いい人) 一方で、大家さんが、このアパートを早く改修したいのでアレッサンドラを一刻も早く追い出したいのは確かみたい。(悪い人) どちらが本当のこと言っているのかしら ただ、アレッサンドラに「家賃を払ったって一筆を書いてって言われたから書いた。」と話したら“おぉ~、なんてこと”って言っていたことが気になる。法律上問題ない行為ならこんな反応しないはず そういえば、この夏をサルデーニャで過ごしたミレッラが、「サルデーニャ人は、私たちシチリア人に近くてずる賢いところがあるから、注意しないとダメよ。」と話していたわ。 あぁ~、イタリアこれから か・な・り 中身の濃い日々になりそう。ま、いつかは役に立つでしょう、この経験。パニーニ&ピッツァと一緒に、ね。
2007年12月03日

“そうだ、京都へ行こう”みたいな感じで来てしまったわ、ローマ 3年前、上司に苦い顔をされながら、2週間の夏休みをとって留学したローマに遂に帰って来ました~ “遊びに来ました~”という学生ばかりの語学学校にはちょっと不満だったけど、遺跡を見に行ったり、パンナ(生クリーム)付のジェラートを食べまくったり、楽しかった せっかくなので、夜景を見に行こう って思ったのに、連れが「ローマに行くって思ったら、興奮して昨夜眠れなかったから寝たいっ」と言い出し、色気のないローマの夜を過ごしました。 しかも、予約したB&Bの部屋が “排水の問題” で使えないと連絡があって、紹介された安宿が安さに見合った仕様。ローマの宿泊先は外れでした~。 とは言っても、ローマはローマ。何が素敵って、いろいろあるけれど、歩いている男性がおしゃれ 3年前に来たときは夏でラフな格好の人ばかり。でも、いまは冬だから、 スーツやコートを素敵に着こなした男性 があちこちに。良い目の保養になりました とりあえず“トレヴィの泉”に行って、コインを後ろ向きに投げてきました。また戻ってくるわ~。 この後、スペイン広場へ。階段に腰掛けてのんびりしようと思ったら、雨が降ってきて中止。肌寒くて、ジェラートも食べる気にならず・・・。 私の計画では、続いて ナヴォーナ広場~カンポデイフィオーリ~トラステヴェレ というコースを巡る予定だったのです。 が、連れが「足が痛くてもう歩けない~」とギブアップ。「せっかくローマに行くんだから」と意気込んで おしゃれな靴 を履いてきたのよね。旅のイロハが分かっていなかったようです・・・ こんなわけで、観光らしい観光もせず、ジェラートもテルミニ駅でパンナ付きのを食べて済ましました。次はちゃんと観光するぞ
2007年12月02日

Lilicoさんの研修先gromで、今月の新フレーバーをさっそく味見 オレンジ、チェドロと後もうひとつ、柑橘系のフルーツの砂糖漬けが入った、ちょっと甘めの味。クリスマス仕様 Lilicoさんは、ヨーグルトと合うんじゃないかっていうアドバイス。私は、ビターチョコと組み合わせてみました。コーンの中に、生クリームを詰めてくれました。なかなかイケます ここgromは、前回の留学中も友達と来ていました。イタリアでは珍しく、いつまでもおしゃべりしていても平気な雰囲気がよくて。 雑誌にも良く載るので、観光客もやって来ますが、もちろん地元のイタリア人も通ってきます。 国産、季節感、そして清潔感を重視した、トリノ発らしいジェラテリア。通好みって感じでしょうか。 でも、ピスタチオがシリア産に変わっていたのを発見。Lilicoさん曰く、店長も知らなかったとか。何があったのでしょう
2007年12月01日

Lilicoさんと、こんな展示(即売)会に行ってきました。場所は、 Porta prato(プラート門)近くの Stazione Leopolda という展示会場みたいなところ。 門にクリスマス・イルミネーションが輝き、(なぜか)人工雪が降っていたりして、既にクリスマスムード満点 そして中に入ると、いきなり雪だるまの登場子供たちが大喜びしていました。 雪だるまの先には、こんな素敵なイルミネーションが こちらは大人向き 出展しているお店は、クリスマス・デコレーション用の小物が大充実。ツリーのオーナメントから、キャンドル、プレゼピオ、お菓子、瓶詰めの食品・・・。 イタリアで2回目のクリスマスシーズンを迎えて、改めて実感したこと。“キリスト教国のクリスマスは、日本のお正月” ツリー、リースは門松にしめ飾り。クリスマス・プレゼントはお歳暮。クリスマス料理はお節料理。クリスマスの宗教儀式は除夜の鐘と初詣。 こんな風に考えると、ロマンチックなイメージばかりが先走りするクリスマスが、とても身近というか人間くさく(言葉が適当でない)感じませんか ともあれ、イタリアも日本も、この時期は子供たちにとって楽しいことは同じ。大人にとっては懐具合が気になる季節ですが 夕食に、二人そろって ポレンタ を。私はサルシッチャ、Lilicoさんは、ハヤシライス風()のもの。こういう会場のものにしては、イケてました デザートに、 La bottega di cioccolato のラズベリーソース入りアイスケーキ。(勝手に持ち込んだのよ~) 重めのポレンタの後には、チョコケーキよりもこちらの方が軽くてベストチョイスでした。 それにしても、Lilicoさんと出掛けると、つられて甘いものの誘惑に負けてしまうわ~。ま、そういう縁で出掛けているんですけどね。いつもありがとうございます
2007年11月30日
月曜日から、マティアスというアルゼンチン人の料理人()が菓子修行に来ています。 丸刈り、銀縁眼鏡をかけた青い瞳のおとなしい男性で、最初はドイツ人かオランダ人だと思いました。名前もゲルマンっぽいしね。 母国語がスペイン語、イタリア滞在暦7年なので、イタリア語は問題なく 職人頭のアントニオもかなり楽らしく、いろいろと細かい説明をしています。 私もイタリア語がペラペラだったら、もっと実のある研修ができているんだろうな~。 今日なんて、インド人のおば様が「ちょっと ボルドー 取りに行って来るわ。 ボルドー ってなんだか知ってる?」というようなことを言ってきたの。 もちろん、 フランスの高級赤ワイン よねと思ったら、 “ヴェルドゥーラ(野菜)” だった・・・。フィレンツェ訛りで話さないとインド人には通じないみたいです まだまだ道は長い
2007年11月28日
去年の夏、フィレンツェに来たばかりの頃に一緒に住んでいたメキシコ人ヴァレリーとチェントロでお茶をしました。 昨晩、エレナ&アデレの家に行く途中、「きゃぁ、○○コォ~」とすれ違った人が叫んだので、良く見ると彼女だったのです。 「あれ、まだフィレンツェだったの」ときくと、「11月までいて、アメリカに帰ったんだけど、また来たのよ~。もうすぐ帰るんだけどね。」 どうやら、夏から初冬にかけてフィレンツェに滞在する生活を始めたみたい。優雅でいいな で、今日改めてお茶をしていろいろと積もる話をしたわけです。といっても、「イタリアって変な国だよね。」とか、一緒に住んでいたオーストリア人の女の子が パ○ツ一枚で家をうろうろ していた話とか・・・。 ヴァレリーのほかに、もう一人トルコの女の子がいて、彼女はいま現役で同じ語学学校に通っているそう。午後はデザインの学校にも通っているので、宿題が両方あって大変みたい。 フィレンツェにいると、前住んでいたアパートの同居人を見かけたりするけれど、別の国に帰った人同士がばったり(それも夜の9時ごろの静かな通りで)なんて滅多にないでしょう。本当に不思議。何かの縁なのね、きっと。
2007年11月27日

リヨンのヴァレリー宅で寿司を披露したのは約9ヶ月前。今回は、エレナ&アデレの家。 といっても、作ったのは私でなくてMさんとそのお友達2人。握りも軍艦もあり。優秀な寿司職人です。 エレナはカラーブリア料理(ナスとチーズのグラタン)、エレナの友達アンナリーサはシチリア料理(牛肉のインヴォルティーニ)を披露。 今夜やって来たのは、エレナ&アデレの友達2人、Mさんの友達4人(うち2人は外国人)で、総勢10人。 驚いたことに、外国人は全員、お箸を使って寿司を食べていました。和食のこともかなり知りたがっていて、Mさんは辞書とパソコン片手にイタリア語で説明していました(大変そう) ちなみに私は、NencioniのTorta della nonna(おばあさんのケーキ)を持参。これも作ったのは私ではなくて、インド人のラディン・・・。 オーナーに「今夜パーティがあるので、Torta della nonnaを買って帰りたいんですけど~。」と言ったら、なんとプレゼントしてくれました 希望と違う研修をしているんだから、たまにはこんなことがあってもいいかもね。
2007年11月26日
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