スチュワデスが呆れたドクタートヒモイ公式げすとはうす ~世界は基本的に広い~んですけど・・

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1915年から1919年までの第一次世界大戦の間、セルビア軍はコソボから大規模に撤退した (コソボのすぐ近くのサラエボで勃発した)。その後にはブルガリア王国とオーストリア=ハンガリー帝国の軍がコソボを占領した。セルビア軍は同盟国が支配する地域まで撤退するとき、数万人の兵士が飢餓や厳しい気候、アルバニア人の攻撃によって死亡した。1918年、セルビア軍はコソボを取り返し、アルバニア人(コソボにイっぱい住んでいる)に対して野蛮な行為を働いた。コソボはモンテネグロ領の一部とともに、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に編入された。



1919年から1920年の和平条約によって、新しい南スラヴ人国家の名前は「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」とされ、「ユーゴスラビア」と通称された。王国は1200万人の人口をかかえ、うち50万人はアルバニア人であった。コソボは4つの郡に分けられた(うち3つの郡は旧セルビア領、残り1つは旧モンテネグロ領であった。)その後、地方区分が変更され、3つの郡となった。1929年、王国はユーゴスラビア王国に再編された。



1921年、コソボのアルバニア人たちは、国際連盟に対してコソボのアルバニアへの統合を求めた。彼らは、1918年以降、1万2千人のアルバニア人が殺害され、2万2千人が投獄されたと主張している。コソボでは、アルバニアへの統合を求めて武力闘争を展開するカチャク(Kachak)運動が起こった。その結果、コソボのアルバニア人は、セルビア人からはユーゴスラビア憲法に反する民族統一主義運動の担い手とみられた。1918年から1941年までの間に、9万人から15万人のアルバニア人やその他のムスリムがコソボを去ったと推定されている。



第二次世界大戦中の1941年、ユーゴスラビアはイタリアやドイツなどの枢軸国によって侵攻された。枢軸国の侵攻によって、コソボの大部分はセルビアから切り離され、イタリア支配下のアルバニアの一部となった。東部の一部地方はブルガリア、あるいはナチス・ドイツの傀儡政権によるセルビアの領土とされた。イタリアはアルバニアの支配権を握っており、アルバニアはコソボを自国の一部と定め、域内のセルビア人やモンテネグロ人の追放に着手した。



1943年9月にイタリア王国が降伏すると、ドイツはこの地域の支配権獲得に乗り出した。コソボは1944年の夏にユーゴスラビア・パルチザンによって解放され、ユーゴスラビア民主連邦のセルビア人民共和国の州となった。パルチザンに加わればコソボのアルバニア人の自決権を認めると約束されていたアルバニア人らは、コソボをユーゴスラビア、セルビアの一部としたことに抗議して反乱を起こした。2万人のアルバニア人の反乱は、鎮圧されるまでに6箇月を要した



終戦後、パルチザンの指導者らが打ち立てた社会主義国家・ユーゴスラビア連邦人民共和国の構成国・セルビア人民共和国の内部に、アルバニア人が多数を占める自治州としてコソボ・メトヒヤ自治州が設置された。この時、歴史上で初めて、現在のコソボの境界線が形作られた。州境は、アルバニア人が多数となる地域が自治州に含まれるよう、慎重に選定された。



しかし、「コソボ」という名称が指し示す範囲に関してもセルビア人とアルバニア人とでは認識が異なっていた。チトーは自治州の設置を命じたが、象徴的なものにとどまった。自治州が実効的な権限を持ちはじめたのは、ユーゴスラビアの国名がユーゴスラビア社会主義連邦共和国、セルビアの国名がセルビア社会主義共和国へと改称された1953年以降であり、1960年代を通じて次第に自治州の権限は強化されていった。



1974年のユーゴスラビアの憲法改正では、コソボ社会主義自治州の政府は強大な権限を認められるようになった。コソボには独自の大統領と首相、州議会が置かれ、他のユーゴスラビアの構成共和国と同様にユーゴスラビア大統領評議会に1名の代表者を送り、事実上、ユーゴスラビアの構成国と同等の権限を持つようになったが、形式上は依然、セルビア社会主義共和国の一部とされた。



コソボで大きな人口比率を占めるアルバニア人とセルビア人の言語、アルバニア語とセルビア・クロアチア語は共に州の公用語とされた。アルバニア人は、独自にアルバニア語による学校や大学を開くことも認められた。
セルビア人は、民族別にみたユーゴスラビアの国民の中では最大の比率を持っていた反面、セルビアは8つある共和国や自治州のうちの1つに過ぎないという状態がつくられ、セルビア人の間では自らの権利が不当に抑制されているとの感情を与えることとなった。他方、コソボはマケドニアなどと並んでユーゴスラビアで最も開発の遅れた地域であり、スロベニアなどの先進地域との経済格差への不満があった。また、コソボが形式上は依然としてセルビアの一部とされ、他の連邦構成国と完全に同等ではなかったことに対しても、コソボのアルバニア人の間では不満があった。



1970年代、アルバニア人の民族主義運動は、ユーゴスラビアの枠組みの中で、コソボを完全にセルビアから切り離した独自の共和国とすることを求めるようになり、過激な者は完全独立を主張するようになった。チトー政権は問題に対して迅速に対処したが、一時的な解決策しか取られなかった。それに加えて、アルバニア人の高い出生率と、セルビア人のコソボ域外への移住によって、コソボの民族別の人口比率も変化していった。20世紀後半の間、アルバニア人の人口は3倍近くにまで増加し、コソボでの人口比率は65%程度から90%近くにまで上昇したのに対し、セルビア人の人口はほとんど横ばいから減少に転じ、コソボでの人口比率は30%程度から10%未満にまで低下した。



1981年3月のはじめ、アルバニア人の学生らは、コソボをユーゴスラビアの構成共和国へと昇格させることを求めて抗議活動を展開したが、ユーゴスラビア当局によって厳しく鎮圧された。1980年代の間、民族間の緊張は続き、セルビア人やユーゴスラビアの当局に対する暴力的な襲撃が相次ぎ、セルビア人やその他の少数民族のコソボ域外への流出が進んだ。ユーゴスラビアの指導者らは、民族差別や暴力からの保護を求めるコソボのセルビア人の抗議を黙殺した。1980年代、コソボではセルビア人に対するジェノサイドや組織的なごうかんが行われているとの主張もなされたが、人権団体による調査ではこれらの嫌疑は否定され、セルビア人やアルバニア人の移住の主因は経済問題であったとしている。



1986年、セルビア科学芸術アカデミー(SANU)によってある文書が作成され、これは後にセルビア科学芸術アカデミーの覚書(SANU覚書)と呼ばれるようになった。覚書は、セルビアの政治家に対して、現状が危機であり、それによってどのような結果となるかを警告するものであった。これに含まれるある論文では、ユーゴスラビアを非難し、(連邦内で貧しい地域であった)コソボ・メトヒヤの開発に寄与している構成国はセルビアのみであるとした。覚書によると、ユーゴスラビアは民族分断に直面しており、ユーゴスラビア経済の分断は、やがて経済の分離、地域の分離を経て、連邦を緩やかな国家連合へと変えるものだとした。当時、スロボダン・ミロシェヴィッチはこの文書を非難したものの、後にセルビアで権力を拡大していく際には覚書の指摘するセルビア人の不満を利用し、政治目標として掲げていたと見られている。
ミロシェヴィッチは共産主義者同盟の党員のひとりとして調査のためにコソボに派遣された。ミロシェヴィッチは初期の頃は、セルビア民族主義者とはつながりを持っていなかった。調査の間、ミロシェヴィッチは不満に耳を傾けることに同意した。ミロシェヴィッチとの会合の間、建物の外には不満を口にするために集まったセルビア人の群集と警察の衝突が始まった。建物の外での衝突の音を聞いたミロシェヴィッチは、激しい衝突の続く表へ出て、「誰もこれ以上殴られることはない」と述べた。この事件は夕方のニュースでも報じられ、無名であったミロシェヴィッチは一躍、コソボ問題の表の顔となった。



民族主義者の支持を得たミロシェヴィッチは、セルビア共産主義者同盟の党内での政治クーデターを決行した。ミロシェヴィッチはセルビア共産主義者同盟の支配権を握り、ミロシェヴィッチを権力の座へと導いたコソボ問題を前面に掲げるようになった。1980年代の末には、危機を叫び連邦の権限強化を主張する声が強まっていった。ミロシェヴィッチは、コソボおよびヴォイヴォディナの自治の停止へと向かっていた。



1980年代のコソボでは、民族間の関係は悪化の一途をたどった。特に、コソボでは少数派となるセルビア人に対しては、多数派のアルバニア人住民やアルバニア人主導の政府による差別的な待遇が取られていた。ミロシェヴィッチは、このセルビア人らの不満を自身の権力固めのために利用した。1987年、セルビア大統領イヴァン・スタンボリッチ(Ivan Stambolić)は、「セルビア人の苛立ちを沈静化するために」ミロシェヴィッチをコソボに送った。このコソボ訪問でミロシェヴィッチは、アルバニア人との会合を中断し、プリシュティナ郊外で抗議運動をするセルビア人らに合流した。セルビア人の抗議者らは警官によって警棒で押し戻されていたが、ミロシェヴィッチは彼らに対して「誰もお前たちを殴ることは許されない」と述べた。この事件は後に、ミロシェヴィッチの権力掌握への大きな転換点とみなされるようになった。



ビルクリントンまでいくか?



1989年6月28日、コソボの戦いの600周年を記念し、コソヴォ・ポリェ / フシェ・コソヴァのガジメスタン(Gazimestan)に集まる10万人のセルビア人を前にして行われたミロシェヴィッチの演説は、彼の権力掌握に大きく寄与するものとなった。これ、ミロシェヴィッチはセルビアでの地位を確固たるものにする上で重要な出来事であったと考えられている。
1989年、ミロシェヴィッチは策動や脅迫を用い、セルビアの枠内でのコソボの自治権を大幅に縮小した。その直後からイブラヒム・ルゴヴァを中心とするアルバニア人は、コソボの独立を目指した非暴力の分離運動を展開し、大規模な不服従運動をはじめた。アルバニア人らは国家機関や選挙をボイコットし、独自にアルバニア人の学校や政治機関を組織しはじめた。1990年7月2日、アルバニア人によって独自に設立された非公式の議会がコソボ共和国の独立を宣言したが、ユーゴスラビア政府や外国の政府からの承認は得られなかった。1992年、この議会は独自に住民投票を実施し、投票率80%、うち98%は独立に賛成との結果を出した。



1995年のデイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナ紛争やクロアチア紛争が終結すると、一部のアルバニア人はコソボ解放軍を結成して武装し、セルビアの官憲や民間のセルビア人に対するゲリラ闘争を始めた。コソボ解放軍による暴力と、それに対するセルビア側の報復が続き、やがてコソボ紛争へと発展していった。1998年ごろから西側諸国の関心が高まり、セルビアは西側諸国による停戦合意を受け入れさせられた。リチャード・ホルブルック主導による停戦合意の下では、欧州安全保障協力機構(OSCE)のオブザーバーがコソボに入って停戦を監視し、ユーゴスラビア軍はコソボから部分的に撤退するものとされた。しかし、程なくしてコソボ解放軍によって停戦合意は組織的に破られ、セルビア側による激しい報復がもたらされた。1999年1月16日、ラチャクにて45人のアルバニア人市民のものとされる遺体が発見された。遺体はセルビア軍によって検査された。このラチャクの虐殺と呼ばれる事件は、後のランブイエでの和平交渉の際に大きく取りざたされた。交渉の際、ユーゴスラビアは用意された和平案を拒絶した。ユーゴスラビアが受け入れられなかったのは、コソボのみならずユーゴスラビア全土にNATO軍の出入りを認めさせる条項であり、ユーゴスラビア側はこれをNATOによる自国の軍事占領とみなした。


これをきっかけとして北大西洋条約機構(NATO)による78日間におよぶユーゴスラビア空爆が始まった。初期の頃、その標的はコソボ域内のみであったが、後にユーゴスラビア全土へと拡大され、橋や発電所、工場、放送局、郵便局、病院、民間施設、列車、政府施設などが標的となった。
紛争中、およそ100万人のアルバニア人がコソボ域外への脱出するか追放され、数千人が死亡した(死者数の詳細や民族別の内訳は議論の分かれるところである)。およそ1万から1万2千人のアルバニア人と、3千人のセルビア人が紛争で死亡したと推定されている。3千人程度が行方不明であり、うち2千5百人がアルバニア人、4百人がセルビア人、1百人がロマである[88]。アルバニア人市民に対する最悪の虐殺は、NATOによる空爆後に起こった。ツスカの虐殺、ポドゥイェヴォの虐殺、ヴェリカ・クルシャの虐殺などは、セルビアの軍や警察、あるいは準軍事組織によって引き起こされた虐殺事件である。




紛争はまた多くのコソボの栄光を破壊し、数多くの歴史的建造物もその例外ではなかった。アメリカ合衆国に拠点を置くコソボ文化歴史プロジェクトによってまとめられた報告によると、コソボではセルビア人によってモスクの3分の1が破壊された。この報告によると、このほかにもコソボのアルバニア人に関連する文化的・宗教的建造物は破壊の対象となった。報告はまた、NATOの爆撃による損傷は限定的であったこと、セルビア軍撤退後にセルビア正教会に関連した数多くの遺産がアルバニア人住民によって破壊されたとしている。セルビア文化遺産保護機関の報告によると、セルビア本国にある、25の修道院、34の聖堂、3つのモスク、1つのシナゴーグ、40の市街地建造物、7つの民俗建造物、25の街の広場、13の考古学的遺跡、16の記念碑を含む、160程度の文化遺産がNATOの空爆によって深刻な被害を受けるか、損傷するか、破壊されたとしている。
裏に回ると、ああ、あの頃やられたまま?



紛争終結後、国際連合安全保障理事会は決議1244を可決し、コソボを一時的な国際連合の統治機関(国際連合コソボ暫定行政ミッション、UNMIK)の下に置き、NATO主導のKFORが軍事的に駐留することが認められた。コソボ域外に避難していたアルバニア人難民は帰還し、ほぼ同時にセルビア人住民を攻撃し、数万人のセルビア人や、その他の非アルバニア人がコソボを脱出した(避難民の数については異論があり、6万5千人から25万人まである)。脱出した多くのセルビア人は、国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の保護下であってもなお、故郷への帰還を恐れているが、2006年の時点で、1万6千人のセルビア人がコソボに帰還した。2001年、UNMIKはコソボの憲法的枠組み(Constitutional Framework)を発布し、コソボ議会や大統領、首相などを含む暫定自治政府諸機構が設立された。コソボでは2001年に全域的な総選挙が行われた(自治体の議会選挙は前年に行われている)。UNMIKは、多民族混成による専業の警察機構(コソボ警察)を設立した。
2004年、コソボ紛争以降で最悪の民族間衝突が発生した。このコソボ暴動は、民族間対立に関する小さな出来事が重なって引き起こされたもので、やがて全域的な大規模暴動へと発展した。アルバニア人の群集は多くのセルビア人の家屋や、セルビア正教会の施設(聖堂や修道院など)、国連機関の設備を破壊した。コソボ警察はこの暴動に関する特別捜査チームを設立し、この暴動に関する犯罪として2006年末までに326件が市や郡の検察によって立件され、200件が起訴され、134が有罪となり、8件は無罪、28件が棄却、30件が進行中である。慎重を要する案件については、多国籍の検事や判事が担当した。
2006年、決議1244に定められたコソボの最終的な地位を決定するコソボ地位プロセスが開始された。コソボに対する自国の主権は国際的に認められたものであるとするセルビアに対し、コソボの人口の大部分はコソボの独立を望んでいた。国際連合が支援する両者間の交渉は、国際連合特使となったマルッティ・アハティサーリの主導の下、2006年2月に開始された。技術的問題に関する進展はあったものの、コソボの地位に関する両者の主張は正反対のまま平行線をたどった。2007年2月、アハティサーリは問題解決の草案を作成し、双方の代表者に提案した。草案では、コソボへの国際的な監視の下、事実上独立を認める内容であった。2007年7月の時点で、草案はアメリカ合衆国、イギリスやその他の国際連合安全保障理事会(安保理)のヨーロッパの理事国からの支持を得ており、その後、このような提案は主権を侵害するものであるとのロシアの懸念に対応するために4度にわたって修正が加えられた。ロシアは国連安保理の5つの常任理事国の一つとして拒否権を持っており、同国はセルビアとコソボの双方が受け入れ可能ではない案は支持しないとした。コソボ地位プロセスでコソボの地位に関する交渉が失敗に終わった後、2008年2月17日、コソボ議会は独立を決議し、コソボは一方的にセルビアからの独立を宣言した。
・・・いやはや、人々が集まって編集していくと、事実に正しくなっていくというが。



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最終更新日  2022.04.17 20:58:28コメント(0) | コメントを書く


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