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2004年11月08日
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テーマ: 心の病(7259)
カテゴリ: メンタルヘルス
今回の病院はイレギュラーでカウンセリングのみ。心理テストを受けてきました。

それこそ大学で心理学をやっている方(つか我が弟とか)には馴染みの深いものだと思いますが、木を描いたり、インクのシミが何に見えるかとか。

最初にまず木を描いて下さい、っていうことで広葉樹を描きました。絵心は殆ど無いに等しいのですが、イメージとしては広葉樹で・・・”どんな?”という風にK先生に聞かれて、なんか初夏のもうすこしまだ若緑の残ったような感じの大きな木だと答えました。”何処にあるの?人の沢山居るところ?”ということだったので、私だけがしっている山奥のような場所。と答えました。


それからなんかインクのシミのテストです。ロール・シャッハ・テストと言うそうです。基本的にインクのシミとはいえ、インクを垂らして紙を折り曲げて左右対称にインクは染みています。とても抽象的な形、それが何に見えるか。微妙に形而上学的な雰囲気というか・・・イマジネーションの支配する世界です。直感的な印象を述べた後、もう一度何故そう見えたのか、何処がそう見えたのか、などを詳しく話して行きます。

† † † † † † † † † † † † †


例えば、一つすごい印象的だったのですが、爬虫類の顔をした大きなマントを纏った悪の帝王だか、ベルセルクやなんかに出てくるモンスターのように最初、私には見えた絵。でもよく見直すとマントの下できちんと足を揃えていて、とても理性的に見えて。この人は元々悪なのではないんじゃないかと。ルシファーや孔雀明王のように悪に身を(”善”という立場から見れば)堕とした、元々は”善”の側に居た、人間なのではないかと。なんかそんな風に見えて来たのです。

世の中は大勢の人間達の無自覚な人間達の”普通”、”常識”による漠然とした善悪や(例えば人を殺してはいけない。という善の考え方。しかし、命は大切だから、などという小学生のような答え以外に確固たる論理、思想を持っている人はまず少ない。) 宗教、思想によって繋がった集団などによる、”教義”や”掟”などによる具体的で形式的な善悪というのがある。

そしてその”善”というものを良しとし、”悪”というのは怖れ、卑下し、排除するものと考える。

善は光と考え、悪は闇と考えても良い。

聖書で確か神は、最初に言葉あれとし、その言葉でもって”光あれ”、と言ったのではなかったかと思う。(少し記憶曖昧)



だから、いつの時代も勧善懲悪の演劇、ドラマというのは思考停止した人間達の娯楽として生き続けるわけだ。水戸黄門や、東山の金さんのような。


しかし、

陰陽道ではなかったかと思うが、黒(陰)と白(陽)が勾玉の様な形でたがいに絡み合い、一つの円を形成しているのを見たことはないだろうか? 安倍晴明とか流行っている今日日、一度くらいは見たことがあるのではないかと思うのだが、

世界はあれが真実であるのだろうと思う。きっと。

キリスト教をけなすわけではない、むしろ、盲信、妄信している人間をけなすだけだが、”光あれ”という神の言葉と、あの陰陽絡みあった、円というのは同じなのだ。

光あれ、と言った瞬間に、”世界”が”無”で無い限り。そう、神自身が、物質も人間も全ての存在が否定する、という、ごく”悪=闇=陰”的な立場で無い限り、”光あれ”と言った瞬間に、世界は光で充ち満ちなどしないのだ。神が我々人間を受け入れ、生きとし生けるもの、そして命のない、小石や岩など、多くのこの世界を構成するモノを肯定するのであれば(それらを肯定しようと否定しようと、それを善であるとか悪であるとかとは思わないが、否定すれば、聖職者は卒倒し世界がひっくり返るとでも思うのだろう)”光あれ”という瞬間に光が拡がり、人間の存在、全ての存在が神に許される限り、それらは光を遮り、影を生む。

私は不信心な仏教徒だが、キリスト教的な光が存在した瞬間に影=闇が存在したことなど私には自明に思える。

しかし、先ほどの、インクのシミの悪の帝王。元々はこの光を信じていたのだと思う。聖職者であったかもしれないし、神の為に戦う十字軍の戦士のような存在であったかもしれない。

最近久しぶりに買ったCDにANGRAというバンドのTemple of Shadowというのがある。このアルバムはコンセプトアルバムで全体を通して一つのストーリがある

十字軍の戦士として”異教徒”から聖地を奪還すべく、神を疑いなく信じ、異教と戦ってきた男が居た。しかし、今度は自分が瀕死の重傷を負う。気が付くと彼は”異教徒”彼にとっては悪であったはずの、イスラム教徒の家族に助けられ、介抱されていた。(この辺りは少し話として綺麗過ぎるかもしれないが)しかし、彼は”異教徒”、”悪魔”と思っていたような人種も同じ人間なのだ、いうことに気が付く。その家族に感謝し、面倒を見てくれていたその家の娘と結婚もし、子供ももうける。平和な生活を送る中で、しかし、彼はその”真実”を自分たちキリスト教徒の仲間に(善、光と信じていた存在)にも伝えねばという使命感に駆られる。しかし、そうすれば”善、悪”という二元論でしか見れず、悪、異なるモノ、異教徒は排除すべしと妄信する過去の”同志”の側に当然のように、彼は”異教徒と交わり、惑わされた悪”として処刑される。彼はそれを知りながらもそれでも、真実を伝えに行く。という話だった。

このインクのシミの”悪”の帝王もきっとそんな感じだったのではないかと思った。彼は元は、光を信じ、神を信じ、善を信じて居たように思う。しかし、自らの属する宗教などの”光”と自ら名乗るような聖職者、宗教屋などの人間達はそもそも穢れている。彼は、光の影となり闇となり、”悪”とレッテルを貼られ卑下され排除される”異なる”だけで”悪”として”光”に踏みつぶされる真実にも気づいてしまう。そういった、光の中の”悪”に対して彼は立ち向かうが、本当は同じ志を持つはずの”光”、穢れた”光”によって、自ら、もしくは自らの家族などを”悪に穢れた存在”として処刑されたのではないか。



そんな風に思った。最初は怖い絵のように見えたが、見直したときはとても哀しい絵にさえ見えた。

† † † † † † † † † † † † †



あ~我ながら長いわ・・・。と、こんなのが10枚続き、やはり結構疲れました。
鏡越しに自分と向き合っているピーター・パンのように見えるものとか
欲望、煩悩に支配されて物質的なモノを取り合い、心の繋がりまでも千切れかけているように見えた絵。

なんかちょっと哀しい絵や怖い絵もありましたが、無事なんかロール・シャッハ・テストも終わり(っていうか一枚につきこのくらい話すから時間はものすごい掛かった)



それで一応心理テストは終了でした。

なんか宿題で、書きかけの文の続きを書くというのもあったので今ちまちまとやっています。

一体またどんな結果が出るのか、なんかドキドキであります。

そんな、月曜日。
これで昼間外出ラッシュは終わったのでヴァンパイア生活リズムに戻そうと思っておりますw





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Last updated  2004年11月09日 18時15分17秒
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