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1.period:090301-0907242.# of trades:1053.expectancy:\12064.stdev:\59845.SQN:3.26.mkts:USD/JPY7.used system:System4per contract1contract=10k units
Jul 26, 2009
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グラッドエルの『天才!』が愚かしい本だったので第一回目の「反例提示」として、エヴァリスト・ガロアを挙げる。先ず、「中流階級のコミュニティによる文明的教育により『天才』は後天的に生み出される」の部分だが、1.ガロアの父親は公立学校校長で後に町長となった。2.ガロアの母親は親族に教授職の者が多く、教養豊かな女性だった。19世紀前半フランスの典型的な中流家庭であり、ガロアが子供時代に虐待暴行を数年間に亘って受けて育ったと言う記録は特に無い。学校教育を受け始めた頃のガロアは語学の成績が最初は優秀だったものの、直ぐに素行不良の問題生徒となり、留年もするようになった。今で言う反抗期のようなものだろう。ティーンエイジャーになったガロアは、数学に興味を示し、のめり込んでいく。17歳と18歳の2回にわたり理工科学校を受験。最初は不合格。18歳のときに父親が政敵に追い詰められて苦悩し自殺したが、ガロア自身は二度目の受験をした。しかし、一浪後のこの試験のときに、口述試験で「対数の問題で何故そんな愚問を出すのか」と試験官に食って掛かり不合格。・・この辺りの話は『天才!』のクリス・ランガンと良く似ている。・・理工科学校の受験は2回までしか認められていなかったのでその後のガロアは高等師範へ進む。その後は政治的な運動の中に飛び入り、21歳のときに決闘で倒れ、生涯を終える。ガロアの数学理論が注目され始めるのはその死後10年以上経ってから。「時代が違う」とか「時代の荒波に飲み込まれたせい」とか言い出したら、結局、「教育問題レベルだけでどうにかしましょう」と言う「提言めいた出任せ」が陳腐になるだけである。
Jul 26, 2009
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再び、相対評価vs絶対評価の「文脈」で。本書との関連性は原題 outliersグラドウエルのこの本は「『相対評価』は素晴らしい!!」と手放しで、褒め称えている訳では無いにしろ、「もう少し、『相対評価』の重要性と言うものについて、考え直してみてはどうか」と現代アメリカ人に対して、「提言」をしているとも受け取れる。それを、「他者比較」や「相対評価」や、もっと、はっきり言うと、「偏差値教育」が当然の1960年代以降に生まれた日本人が「感銘を受けちゃっている」方がずっと奇妙である。先のトピックで述べた事だが「課題達成」型の教育が行われている場合重要なのは、その生徒自身が「最初はAが出来なかったが、教育学習訓練に拠って、Aが出来るようになる」と言うことであり、他の生徒がAが出来るかどうか、Aの習得スピードが他の生徒よりも速いか遅いか、と言うのは二次的な問題である。・・即ち、集団教育における「効率性」の問題であり、学校単位やクラス単位で考えたときに初めて問題になるのであり、その生徒個人にとっては「他者比較」など、まるで問題ではない。・・教育の場面で、一般にアメリカ人にとって馴染み深い「絶対評価」と言うのは「出来なかった事が出来るようになる」と言う事が重要で、純粋に個人的な問題だからこの考え方は「自己責任」と非常に親和性が高い。しかし、此処までが「教育の場面」と言う「学校での頭の良さ」の話であり、世の中に出たら「他者比較」が待っている。・・此れは、「他人との協調性」云々の問題も含まれる。チームで仕事をする場合、スタッフとしてA氏とB氏とではどちらの方が相応しいか、と言う場面等など・・要するに、「おまいら、もっと他人の事を気にしろ!」と、余りにも「他人の事を気にし過ぎなかった」アメリカ人に対して、「説教している」ような本でもある。もう一度言うが、outliers とは「他者比較」の文脈で意味を持つ。「あいつが、あれだけの高給を取っているのは並みの人間と『比べて』、何処が違うのだ。その違いは何故、生じたのか。」と言う「他者比較」の本であり、「相対評価」「偏差値教育」、更に「他人の事を気にし過ぎる」文化圏の日本人が、「我が意を得たり!」と膝を打つのも判らなくは無い。所謂「個性の教育」に対する「揺り戻し」的な評価をする向きも現代日本では多いかも知れない。また、続くかも。blink との連続性で考えると、「個人的な感覚」の「第1感」と outlires の「他者比較」「相対評価」は全然、正反対のテーマを扱っている。寧ろ、「第1感」に優れた人が本質的な意味でそして、本来的な意味での「天才」と言うべきだが、「社会的協調性ナンタラ」の部分で読者を混乱させているだけである。日本では出版社が異なるから、と言う事情も有るだろうが、グラドウエル自身の中での「整合性の付け方」はまた、別問題だろう。しかし、学者でも何でもないジャーナリストに対して前著との「整合性問題」なんぞ聞いてみても意味は無かろう。基本的に、一冊ごとの本が売れりゃ良い訳だから。
Jul 26, 2009
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『天才!』と言う愚かしき訳語のみならず、本書がアメリカで高評価を・・勿論、原書 outliers で・・受けている点、更に、「並みのレベルのアメリカ被れの日本人」まで、outlier と言う、純粋に日本的な「相対評価」による、所謂「偏差値教育」を今度は、「先祖がえり」的に手放しで褒め称えている事の方に、もっと強い違和感を感じるのでこのトピックを書く。outliers 「外れ値」である限りは、当然「他者比較」である。社会「科学」的な統計リサーチの結果と言う「文脈」ではこんな事は当然である。しかし、一般的なアメリカ人にとって「他者比較」による「相対評価」と言うのは非常に馴染みが薄い。アメリカ人にとって、一般的に重要なのは「課題が達成できればそれで良し」と言う「絶対評価」である。この考え方では「他者との比較」には意味が無い。詰まり、100点満点のテストで、どんどん100点を取り続ける生徒は、どんどん先へ行くことが出来るので、所謂「飛び級」は当然のように行われる。本書では、ハーバードやイエールの入学者選考に当たり抽選を用いる、と言う話まで飛び出している。例えば、英語リーディングや数学のテストで満点を取った者が多数で、入学定員より多かった場合などは抽選にせざるを得ないと言う記述まである。はっきり言って、「噴飯もの!」だ。日本人の感覚で考えると。日本の有名大学で何故このような愚かしい事態が発生しないのか、また絶対に発生させない事が可能なのか、その理由は簡単だ。大学入試の問題それ自体が難しいからである。即ち、「相対評価」の為の試験であり、「他者との比較・競争」の為の試験であり、「選別・選考」を目的とした試験であり、もっと、有体に言えば「落とす為の試験」であり、決して「課題達成」型の「能力チェックテスト」などではないからである。この点でアメリカ人と現代日本人の比較文化的考察、特に「教育観に関する考え方の相違点」を読む前に、頭に入れておくべき本である。この話は、続く。前後するがこの書評のテーマは相対評価vs絶対評価である。blink もそうだが、グラドウエルは現代アメリカ人の持つ「既成の社会的通念・価値観」をひっくり返しているので「向こうで」受けているのだろう。
Jul 25, 2009
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現在、某密林大河書店にて天才論を展開中。
Jul 21, 2009
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それほどマジでもないけれど徒然なるままに続きを書く。「優先順位」の話である。兼好は188段で「一の大事」と呼んでいる。段階としては1:自分の人生で中心となる事柄を比較検討して「一の大事」となるものを決定する。2:「一の大事」以外のものは思い切って全部切り捨ててしまう。非常にシンプルだ。しかし、1の「決定」は「心の問題」だが、2の「捨てる」は「実際の行動」である。兼好という人自身は「隠者」であり「隠遁の哲学者」だったから、『徒然草』の様なエセーを書くのが、その時は「一の大事」だったのかもしれない。でも、仏教の坊さんだったから、そんなに「拘り」は無かっただろう。ヘンリー・デヴィッド・ソローも「隠遁者」だった。詰まり、兼好にしろソローにしろ「世捨て人」だったから「捨てる」と言う実践が「日常生活」レベルで出来ていた。じゃ、「優先事項」としての「一の大事」は?と言えばそれは『徒然草』や『森の生活』他を読めば判る。NNタレブの『ブラックスワン』上巻の「リムジン哲学者」近辺で、タレブがもう「世捨て人」みたいに生きようとしてたりするのを感じる。取りあえず自分にとっての「一の大事」について考えて見たい人は此方を。また、「捨てる」に当たっての「具体的な方法」を知りたい人は此方を。
Jul 19, 2009
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まだ続くぜ!「洒落にならねー!」マジで「相場徒然草」シリーズ。189段では兼好が「不確実性」を扱っている。行動経済のような人間の行動の不合理性辺りから話をしているが・・・。今日はAをやろうと思っていた。しかし、取るに足らない些細な用事Bが出来た。何故か知らないが人間は、如何でも良い事のBに一生懸命になり、結局、一日中Bをやって、Aをやらずに一日を終えてしまう。・・・そんな人生。いや、そんな「毎日」が繰り返されるだけで、人生が終ってしまう。「無常観」とか何とかじゃなくてやはり「不合理な行動」の連続と言うことだろう。少なくとも此処では、私はそう解釈する。その後には「予想・期待が悉く外れる」と言う内容がある。1.来ると思っていた人が何かの用事で来られない。2.来るとは思ってもいなかった人が突然の急用でやって来る。3.うまく行くだろうと期待していた事が失敗に終る。4.どうせ駄目だろう、と思っていた事が予想外に大成功。5.これは相当面倒だろう、と思っていた事が至極簡単に解決してしまう。6.ラクショーと思っていた事が、酷くややこしい事になってしまって今じゃ心労の種、「欝」になりそう。最初の時点での「気の持ち様」じゃないのか、と言う気もするが兼好によれば、人生と言うのは上記の様な事の連続で出来上がっているらしい。じゃあ、「予想」も「期待」も「将来の予測」もしなけりゃいいじゃん、となると、「予測」した事が悉く外れてくれりゃ「予測」なんかしなくなっちゃうんだが、困った事に中には偶然、『まぐれ』で「予測的中」が有り得る。で、結局「予測」すりゃ良いんだか悪いんだか、判らなくなる。或いは、上手な「予測方法」ってのが有って、自分はまだ、それを知らないのかもしれないし、人類がまだ見つけていないのかも知れない。「未来予測テクノロジー」が2000万年後には出来るかも知れない。この段での兼好は「万事不確実」の心得を述べている。でも考え方によっては「時間管理行動管理術」でそこそこ対応できるかも。
Jul 19, 2009
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マジの「相場徒然草」シリーズがまだ続く。211段だが「精神的な『幅』の広さ」の話に為っていく。ものの考え方や見方「パースペクティヴ」が左右にも前後にも大きい。そんな「構え方・マインドセット」を兼好は薦めている。此れは、「左右」ならば「他者を頼みとする」と言う「依存」の文脈になり、「前後」ならば、「将来・過去」と言う「時間軸上の考え方」に為るだろう。詰まり、「期待」であり「予想」であり「将来予測」となる。しかし、「天地のように広大無辺」な心構えでは「可能性としての将来」が無限に存在する事を前提に生きる事になるので、「将来はきっとこうなるだろう」と考えたりしなくなってしまう。この辺が、NNタレブの「歴史の予測不能性」であり、「結果的にこうだった」と言う後付けで考える事しか出来ない、と言う部分とオーバーラップすると解釈できると、私は思う。『まぐれ』では、複数のパス「経路」を通じて複数の「別の歴史」を幾らでもジェネレイト出来ると言う話をしている。また、「左右」の広がりが無限ならば、「頼みにする『何か』や『誰か』」を限定できない。その意味では生き方の選択肢に関して、特定のものに執着しない、と言った「人生戦略」とも読める。この点は「相場戦略」でも同様で、「自由な発想」がそのトレーダー自身のedge となり、裁量トレーディングのみに当てはまるのかと言うとトレーディング・システムの発想の部分にも大きく関わってくる。また、複雑なルールで自分をガチガチに縛ってしまわない話をカーティス・フェイスがしている。カーティスの本は、predictionには意義があるのか、と言う観点から、システム・トレーディングを考える事も出来る。特に「最適化」の部分辺りで「最適化を絶対しない」とか「最適化を徹底する」とかどちらも「不自由」だ。
Jul 18, 2009
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相変わらず「洒落にならねー!」レベルのマジの「相場徒然草」シリーズである。211段だが、「当てにする」を将来的な「期待・予想」とする考え方は、『ブラックスワン』の上巻の最初の方で書かれているレバノン内戦や、20世紀の東欧ロシアの亡命者達の話に近い。この「当てにする」を「頼みにする」で解釈して見ると、兼好の「自己責任論」になる。expect Aではなくdepend on Aになるのだ。「依存」の対象が権勢・財・才能・徳性・上司・部下・他人・等・・・・。他人に対する「依存」はそのまんま「自己責任の放棄」だが、自分自身の「才覚・能力・人徳・人格性・品性」、そして自分自身の「権限・財産」は、自分自身のマネッジメントの対象である。だからこそ、自分の能力も長所も、社会的立場の強さも経済的幸福の追求の領域も全部、自分が責任を持ち自分の胸一つで全てを決定する。そして、その決定は絶対であり、他人なんぞ一切「当てにはしない」し、「頼みにする」事も無い。
Jul 17, 2009
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人間なんか大っ嫌いだが、数字が好きだ。だから、03年の時点で普通株を辞めて、日経先物の方へシフトした。株式会社は人間の集団であり投資対象としては大嫌いだったからだ。更に、人間なんか大っ嫌いだが金が大好きだ。だから、07年の時点で通貨へとシフトして行った。そして、勉強が大好きだ。
Jul 17, 2009
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再び兼好へシフトして、『徒然草』211段。もう、何度か書いている事だがexpectには1.予想する2.期待するの両方の意味がある。211段で「当てにする」対象を次々と挙げながら、「苦悩」は「期待・予想」から生じる事を兼好は書いている。権勢・財・才能・徳・上司・部下・他人・・等など。才能があっても、それに期待できない事について「孔子すら時機に恵まれていなかった」し、徳に関しては、顔回の例を挙げている。孔子やその弟子たちも「果ての国」の住人だったらしい。現在のアカデミズムも恐らく似たようなものだろう。諸子百家死屍累々。実際に儒教が中国王朝に取り上げられたのは漢王朝期。秦王朝期では「焚書坑儒」の方が有名。更に、この段では「精神的な視野の広さ」の話になるが、今回はパス。
Jul 16, 2009
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一度、兼好から離れて西洋哲学の懐疑論の方へ。「世界5分前起源説」はイギリスのバートランド・ラッセルによる。20世紀の人物である。世界は5分前に突然出現し始まった。貴方が5分前以前の記憶があったとしても、それは「模造記憶」であり、それをインストールされた状態で世界とともに5分前に突然出現したに過ぎない。これは勿論「仮説」である。しかし、そうではない事を「実証」する事も不可能。詰まり、「反証」出来ない。だが、同時にそれが正しい事も「実証」出来ない。結局、この仮説は「実証」も「反証」も不可能。根拠は無い。根拠は無くても仮説は立つ。単なる「思考実験」に過ぎないが、検証不可能。世界創造とか世界の終焉を説く宗教の類も同じ。「金融危機」は無かったかも知れない。プライスは「最初から」安いままだったかもしれない。5分以上前の記憶は「妄想」である。チャートが残っていても5分前の時点でその形で突如出現したのかも知れない。勿論、仮説である。
Jul 13, 2009
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「衣食住・健康」と言っても「兼好」法師に掛けた訳ではない。『徒然草』123段では兼好が「富」について語っている。鎌倉期の仏教の坊さんだから現世利益的なことを言うわけは無いが、次の4つが注目点。1.着るもの2.食べ物3.住まい4.健康この4点が足りている状態が「富」との事。それ以上を求めるのは「贅」であり、仏教的な「貪欲に対する戒め」となる。ここで「欲深はいけません」と言った有り勝ちな説教などしても意味が無いが、重要なのはこの「衣食住・健康」が不足していなければ「幸福」と言った「幸福論」とも読める点。仏教的、と言うよりも「宗教的幸福論」となるとやれ「精神的にどう」とか「霊的・スピリチュアルにどう」とかその類の「密」の領域の話ばかりしたがる「凡百のアホクサ説教好き」と兼好が、確実に異なる事が判る段である。「日常性」を重んじると言う考え方は14世紀前半の中世日本にあっては革新的だったと言えよう。現代日本人にとっては「衣食住・健康」の「衣食」の部分はほぼOKだろうが「住」の部分は相変わらずのようだ。マイホーム・ローンと言うビジネスモデルが700年後の今でも「幸福の象徴」めいたイメージを用いて、繁盛している。長明の『方丈記』などはそのアンチテーゼだが、此方は13世紀に書かれている。「健康」については人間が生物である以上、永遠のテーマだろう。ビジネスモデルで言えば、入院保険が繁盛していると言ったところか。
Jul 12, 2009
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タレブの『ブラックスワン』の科学哲学・科学史的なテーマから少し離れる感があるが、スケプティシズムの点で注目すべきが、吉田兼好と鴨長明である。特に、兼好の『徒然草』だが、Dr. Alex Elder が日本文化の中で、殊更注目しているのがこの本である。これは『投資苑』シリーズには記述が無く、雑誌インタビューの中で答えていた内容。01年ごろの私は、ジャーナルをつける事の重要性の文脈で理解していたが、今、NNタレブを読んでみるとこの時代の中世期の日本人が「顕密」の両方の精神生活を送りながらも、兼好や長明が徹底的に「顕」の領域の思索を通じて、「密」の領域を相対化しようとしていたのが判る。詰まり、「日常的意識状態」のコモンセンスとも言うべき「明晰さ・明確さ」を持ってオカルト的思考法、依然述べた「呪術的思考・魔術的思考」に対する懐疑論の書になっているのが判るのだ。『徒然草』の89段には「猫又」の話が出ているが「正体見たり枯れ尾花」のような簡単な話で済ませられるのは現代人だからである。オカルティズムの例で言うならば昨今の金融危機は「何がしかの陰謀によるものである」と言う「陰謀論」を鵜呑みにしていたら・・少なくとも自分の失敗については・・単にリスクを大きく取り過ぎていただけであり、こんな事は「しょーがくよねんせー」れべるの「さんすー」でも説明出来る事だった、と言った事が理解できればまだ良いのだが多くの人間は「マーケットの猫又」をナイーヴにも信じ込んでしまい、「金融市場には魑魅魍魎が巣くっている」とばかり、中世鎌倉期の日本人とメンタリティの点で然して違いが無かったりする。「相場では、人のこころは何時の世も変わらない」と言うリヴァモアの言葉は上記のような文脈において意味を持つ。
Jul 10, 2009
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「バスカヴィルの犬」シグナルに従い、2日ほど前に買い玉を度天して、売りエントリー。昨日夜、92円70銭近辺で利喰い。「バスカヴィルの犬」シグナルについては、『投資苑』シリーズ特に、『投資苑2』に詳しい。
Jul 9, 2009
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昔、使ってたPCはVAIOノート。128メモリ。CPUは忘れてしまった。これで、ISDNに常時接続。DLJ時代のマーケットスピードで邦銀の5分足チャート・リアルタイム表示を見ながら、デイ・トレーディング。01年前半だから、8年も前。最近の中古PCの方がスペックが高い。これなんか、メモリ1.28Gでスーパーマルチ。こっちはモバイル。メモリ1G以上で外付けスーパーマルチ付き。オフィス2007が動きそーもねーと言う人には、このオフィス20005000円もしない。メモリ増設も遣ってくれるが古いパソコンってのは、メモリ自体が値段が高いのが難点。最新型なら2G、4Gのメモリを自分で買って、ドライバー一本でどんどん増設しちゃうんだけどねー。まあ、年配者向きのサービスに為りつつある昨今のPC状況である。こっちはフローラ。02年か03年頃買おうかと思っていた。でも現在に至るまで、全部ノートPCを使っている。この上記のフローラはオフィスが付いている。メモリ512なので増設するといいでしょう。CPUはセレロン1.73Gです。まあ、昨今のビジネス用PCと比べて遜色ないと言うより、XPでオフィスが昔のヴァージョンだから、トレーディング専用機としては、使い勝手がいいかも。勿論、発注の時に不具合とかだと困るから、システム開発と検証用と言う事で。自動売買ソフトもOKなんだがいざと言うときの為に、検証専用機にして発注専用機はMT4やトレステ等を最新鋭機に仕込んで置いて、それを使うと。まあ、そんなところですよ。あー、あとHDDが40Gしかないので外付けポータブルの320Gとか500Gとかも用意しておくと良い。最近のはコンパクトだから。例えば、こんな風。あと、前後するけれどオフィス2003があった。12800円。付け加えておくが、こっちもフローラ。ペンティアム4で2G。オフィスはキングソフトだった。お嫌いな方は、マイクロソフトの上記の中古の2000や2003を別にインストールって事で。
Jul 7, 2009
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昨日は95円ちょうどで利喰い。同時に度天して買い玉をホールド。原油・金を初め安値で引けている。日本株がどうなるかは特に興味なし。でも円高がストップしたと見た場合は輸出セクターで安い所見繕って買いに回ればいいんじゃないの?
Jul 7, 2009
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カール・ポパーの考え方では1:実証2:反証の2つしかないと考えて宜しかろう。金融占星術の類が「科学的」かどうかは、さて置き、取りあえず現時点までは、「正しい」と実証されている。この実証主義は、フランシス・ベーコンの考え方。そして、ある時突然、反証される。常に、反証可能なので「それが絶対に正しい」と検証の結果、結論付ける事が不可能。「理論が検証不可能」とは以上の文脈に拠る。脳科学がブームの時代なので今回はポパーのこの本。
Jul 6, 2009
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例によって金融占星術の話から始める。科学なのかオカルトなのかで、喧々諤々の「大論争」と言うほどじゃ無かったが、カール・ポパーの考え方では「学問体系」「理論体系」「仮説体系」、更に場合によっては「妄想体系」かもしれないが、こういう「占い」の類も「科学的理論」と考えるのであって、取りあえず、現段階では「正しい」と実証されてはいるが、この後、突然「正しくなくなる」可能性を常に持つものが「科学的」とされる。詰まり、「反証可能性」を持つものが「科学的事実」という考え方である。繰り返しになるが、金融アストロロジーの検証結果を纏めた章があるのが此方。しかし、オカルトも科学も全部同じじゃ幾らなんでも、と異を唱えたのがこの人。言わずと知れた「パラダイム」の人だが、「パラダイム」の語が一般的には誤解されているのもまた、有名な話である。今回はポパーによる「フレームワーク本」を取り上げてみた。
Jul 5, 2009
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実証主義の為なら死んでもいいさ、と思っていたのがこの人。このフランシス・ベーコンという人物は、倫理社会・・現在の倫理・・のサブテキストにも登場したりするほど有名なのだが、鶏を凍死させる実験の最中に、自分自身が凍死してしまった、と言う間抜けなエピソードでもっと有名な人物である。ナシム・タレブの BLACKSWANでも名前が挙がっているが、実証主義精神の先駆者とも言えよう。時代が時代ならば、大儲けしているトレーダーに為っていた可能性大。今は上の様な本で「実験哲学」的なアプローチが出来る。
Jul 3, 2009
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検証と反証に関して記事を書き続けているが、これまで見たとおり、検証の対象と為っていたのは、オカルティズムである。オカルティズムは「宗教的仮説」「神秘思想体系」かもしれないが、「科学的理論」ではない。「科学的事実」の反証可能性の問題はカール・ポパーに詳しい。反証可能なるが故に「科学的」であり、従い、「検証不可能」となる。
Jul 1, 2009
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理論は検証不可能だ。当然だ!そんな事は。日本人大衆は7年以上もそんな事が理解できなかったのかよ。ラルフ・ビンスの以下の本では1:数学的アプローチが前半部に:「理論モデル世界」を扱っている。しかし、「現場」の声として、数学的理論モデルを具体的にどの様に適用させればよいのかと言う要望に対して、後半部で解答を示している。2:物理学的アプローチが後半部に:「現象世界」を扱っている。NNタレブが「現象世界」から「数学的理論モデル世界」を「撃つ!」事により、「理論は検証不可能」と言っているのとは全く真逆のアプローチである。ビンスが「数学的理論モデル」についてのみ書いた本がこちら。まだ道半ばだった、と言う感がある。
Jul 1, 2009
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