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恒治郎の万歳新聞の記事をみると、彼の趣向性がにじみ出てくる。。。彼のもつ感性を僕がもし本当に引き継いでいるというのならば、まず、彼はほとんど総ての人が知らずに従っている<常識>といったものをひどく嫌いなものであったのではないかということだ。そしてまた、その偽善的な振る舞いを煙ったがりながら、体制側に媚を売る連中を嫌い、何よりもその日本人の風習そのものを毛嫌いしていたことであろう。それは、生活全般にわたっており、何も政治や経済といった事柄に囚われたちっぽけなものではなかったように感じる。彼がさしたる思想と呼べるものなど本当は持ち合わせてはいなかったのではないかと一方で感じる。それは、彼の生き様そのものが、世間の中で主流を気取る気配そのものに反感を抱いており、その裏にある真実の世界を見出し、それを明るみにすることをほとんど使命とさえ感じながら、行動していたように思えてならないのだ。。。これは、たぶん<取り残されたものたち>に対する精一杯の励ましであり、苦しみしか感じ取れない世界に対する精一杯の彼流の賛辞だ。始まって間もない、明治42年の記事に、吉原をはじめとする風俗の記事がふんだんに書かれており、それを意気揚々と楽しんでおきながら、明治43年頃には、ほとんど固執するかのように、「自殺」をテーマにかがげている。各地に実際におきていた、世間が目を背けるタブーを常にすっぱ抜いていたのだ。。。男女の情事の悲哀や、それもとりわけ自殺に至るまでの人間ドラマに、極上の食事をしているかのような舌鼓で記事を書いている。。。ここに、本当の生のドラマがあるのだと、偽善的、独善的国家の狂乱の日々に、「江戸」そのものを語っていたのだ。。。誇りに思っていい。僕は。Eili ...
2005年10月31日
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大逆事件 たいぎゃくじけん幸徳事件ともいう。明治天皇暗殺を計画したとの容疑で多数の社会主義者,無政府主義者が逮捕・処刑された事件。事件は,1910 年 5 月宮下太吉ら 4 人が爆発物取締罰則違反で検挙されたのがきっかけで,その後,検挙者は全国各地で数百名にものぼった。うち 26 名が刑法 73 条の大逆罪にあたるものとして起訴された。同年 12 月 10 日から 29 日まで大審院特別刑事部は 16 回の公判を非公開でおこない, 11 年 1 月 18 日判決 (これのみ公開,裁判長鶴丈一郎) を宣告した。 表 のように幸徳秋水 (伝次郎) ら 24 名は大逆罪により死刑, 2 名は爆発物取締罰則違反の有期懲役で,大審院一審のみの終審となった。翌 19 日坂本清馬ら 12 名は明治天皇の特赦により無期懲役に減刑された。 1 月 24 日午前 8 時の幸徳に始まり,30 ~ 40 分おきに 11 名が市谷の東京監獄刑場において死刑の執行をうけ, 管野スガのみ翌朝死刑となった。戦前の四つの大逆事件 (虎の門事件,朴烈事件, 桜田門事件) のうち最初のもので,大半の被告は天皇,皇太子の暗殺計画とは無関係で,近代日本の裁判史上最大の〈暗黒裁判〉であった。この弾圧の威力は大きく,社会主義運動はもとより労働運動などもしばらくは〈冬の時代〉に入ることを強いられた。事件の反響は大きく,日本の文学者,石川啄木,徳冨蘆花,森宝外,永井荷風らが当時の作品あるいは日記などで政府に対する批判姿勢を表現しており,国内だけでなく全世界に衝撃を与え,アメリカ,イギリス,フランスなどで抗議運動が起こり,社会主義者たちが日本政府に対し抗議・質問を浴びせた。 無期懲役となった 12 名のうち 5 名は獄死, 1929 年以降 7 名が仮出獄したが,敗戦時までに成石勘三郎,武田九平が死去 (小松丑治は 1945 年 10 月に死去), 47 年 2 月 24 日に坂本と岡林寅松,48 年 6 月 26 日に崎久保誓一,飛松与次郎が刑の失効の特赦をうけた。しかし 55 年までに坂本以外はすべて死去した。判決は当時国内の一部の新聞に報道されたにすぎず,内容の検討・批判は許されず,事件の真相究明が本格的に始まったのは戦後になってからである。 判決によると,1908 年 6 月の赤旗事件で社会主義者が弾圧されたのち,その報復のため幸徳は大石誠之助,森近運平,のちに松尾卯一太も加えて〈諸方衙を焼毀し,当路の顕官を殺し,且つ宮城に迫りて大逆罪を犯す〉との陰謀を企てた。また別に幸徳,管野は,宮下,新村忠雄, 古河力作が 09 年 2 月以来爆弾を試作し,大逆の計画をもっているのを知り,〈爆裂弾を以て大逆罪を犯し革命の端を発せん〉ことを協議した。さらに内山愚童は 09 年 1 月に幸徳,管野を訪ね〈皇太子殿下を指斥し,弑逆を行ふべき旨〉と〈爆裂弾あれば身命を抛て革命運動に従事すべき意思〉を告げ,準備をすすめた。この三つの謀議をまとめて,ひとつの大逆事件が形成されたとしたのである。しかし,実際に計画をすすめたのは宮下,新村,古河,管野の 4 人とみられ,被告の大部分は,単に彼らと顔見知りであるというだけで事件と関連づけられた。幸徳の場合は〈事件に関係ないわけがない〉というまったく官憲の推量だけで検挙され,証拠はきわめて薄弱であった。坂本にいたっては幸徳方に書生として同居していたことが根拠となっている。 判決から 50 年目,唯一人の生存者坂本と森近の実妹栄子は,第 2 次大戦直後から生存者と連絡をとりあっていた森長英三郎弁護士らを代理人として大逆事件再審請求の申立てを東京高裁に提出した。以来再審手続にもとづく公開裁判を通じて,その真相は全国民の前に提示された。 1960 年 2 月には〈大逆事件の真実をあきらかにする会〉も結成されている。新たな真相究明の努力もすすみ,弁護側の証拠資料は 108 点の多きを数えた。そこでは,元老山県有朋をはじめ明治政府の裁判への関与, 〈奔馬の如き裁判〉 (大逆事件弁護人今村力三郎の言),拷問による聴取書と事件のでっちあげ過程等事件と裁判の実態が明らかにされた。また宮下,管野,新村,古河のいわゆる〈明科 (あかしな) 事件〉の謀議はかろうじて推定しうるとしても幸徳の関係は疑わしいこと,しかし爆発物取締罰則違反の 2 名を加えた計 7 名を除く 19 名は少なくとも嘘罪 (えんざい)であるという慎重な主張もおこなわれた。 〈明科事件〉を唯一の口実として,全国にわたる大規模な事件をでっちあげたことが明白にされたのである。 しかし 1965 年 12 月,長谷川成二裁判長は他の裁判官との合議の有無に疑問を残したまま請求を棄却した。ただちに特別抗告の手続がおこなわれたが,最高裁は 67 年 7 月大法廷横田正俊裁判長以下 14 名の裁判官の連署をもって,この特別抗告の請求を棄却した。ここに,裁判の場で大逆事件の真相を究明することはいちおう終止符が打たれたが,歴史家や〈大逆事件の真実をあきらかにする会〉等によって運動は続けられている。 ネットで百科から引用Eili ...
2005年10月31日
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恒治郎がなくなってから、今年で91年目を迎える。もし成仏せずに彷徨える(もしくは幽閉される)ままこの時をすごしているのだとしたらどうだろう。。。(※この幽閉とは政府によるものではなく、親族によるものだ。)この世で比較しうる裁きがあるとしたらさしずめ無期懲役の刑罰くらいなものか。実際は無期懲役の服役囚でさえ16~20年で仮出所される場合が多い点で、この肉体次元での囚われよりも、霊界での囚われのほうが遥かに永きに渡って存続するのだ。しかも、霊界では生前徳を積まない魂には、覚者はなかなか現われるものではない。。。僕自身のこの得体の知れない「首の痛み」は、「訴え」であると。正直、除霊したいほど苦しんでいるが、決して除霊はしたくはない。浄霊でなくて魂が浮かばれるわけはないのだから。僕は、曽祖父の死の原因を探っている。犯した罪が許されないものだったとしても、その原因を探ると、どうやら、彼を追い込んでいったのは、時勢によるものが極めて大きいことが解ってきた。すなわちそれは、「大逆事件」である。この事件の真相を解明していきたい。Eili ...
2005年10月31日
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かなり濃密な日々なので、一日の出来事を一日のうちに書き綴ることができない。。。すべてを取りこぼしなく。。。というとほとんど不可能だ。。。昨日までの2日間も、その体験を綴るには日記という枠をはるかに超えてしまう。。。恒治郎の思想を探求すると、たどり着いたものは「社会主義思想」であったが、それはそれほど確証のあるものではない。もうひとつ、気になっているのは、トルストイだ。万歳新聞の記事には「綾子」の小説が邦訳で連載されており、これは「社会主義思想」とは関係なく哲学思想の範疇である。後、宗教に関してだが、この当時の社会主義思想の持ち主に、キリスト教の信者が多いのも調査の対象となる。もしかするとクリスチャンだったか?についても気になるところだ。また、仏教徒であった場合、あまり重要ではないかもしれないが、その宗派と帰依仏がなんであったのかも興味深い。例の岡田(屋)は現在その跡地に立つ中屋のお上さんの話に寄れば、もともとは「観音様の土地」とおっしゃってた。当然、惣菜屋、岡田の人々は、観音様の信仰を持ち合わせていたはずだ。また、すぐ隣にある弁財天に対しても、当然であるがお参りくらいはしているはずで、そうした信仰の度合いがどのくらい影響を与えるものかは実際のところわからないが、(恐らく微々たる物であろう)しかし、時代を超える大きなスケールでは影響を少なからず与えるものなのだという感じがする。今回、僕は恒治郎の魂の供養を、他ならぬ観世音菩薩の身・口・意のなかにおける口の化身とも言われるパテゥル・リンポチェの直伝の「リクパの智慧」の瞑想を通じて行うことができたのが、何よりの収穫だと思われる。。。人っ子一人こない砂漠で迷子の魂に出会い、安全な世界へ連れて帰ってきたような。。。そんな錯覚を覚えた。観世音菩薩の真言を1~2度唱えた程度で、何の効果も見られないであろう。しかし、迷える魂には、わずかであっても最高のガイドライン映るのではないだろうか、ちょっとばかしそういう気がした。Eili ...
2005年10月31日
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本日は伊豆のどこだか解らない・・・村(今井浜海岸駅近く)にきている。ゾクチェン、パテゥル・リンポチェの「リクパの智慧」の説法会、本邦初公開である。僕は、全く心の準備もないまま、永年近づくことすら憚れた存在に近づいた。初めてのリンポチェに面識を得ることができた。。。午前の説法が終わり、昼食を頂いてからしばらく説法の休み時間であるが、リンポチェ自らの修行風景ともいえる、お経の声が小一時間響き渡る。。。本場チベットのゾクチェンによる生のお経を聞く中で、僕は瞑想に入ることができた。。。すっかり蓮華座からも遠ざかっていたのにも関わらずだ。。。タイムトリップしたような感覚。突然に死が訪れるように、突然、菩薩との出会いも始まる。。。どこかぎこちない、僕の挙動に何かを感じることがあったかどうかはわからないけれども僕は初対面でしかも、思い起こせば、間違った宗教によるチベット密教の紹介からそれらの知識と想像を思い描いていたものの、真実の姿に今、触れたのだ。10年前、出家までして、掴もうとした真理の、その基盤となっていた宗教の本物の習慣をこの目で見聞きし、そしてまたその真髄を、恐らく誤解していたであろう原因はなんであったのかを、今、この瞬間に目の前にしているのである。。。ここに今、語られる内容の、法話の語彙一つ一つが懐かしく、また正直言って、だいぶ忘れ去っているような教説を再度出会っている縁の不思議さをかみしめている。。。どういう因果か、恒治郎と精神が一緒になったところで、僕は覚者、パテゥル・リンポチェに面識を得るのである。。。自殺した魂の供養として、これほどの救いがあるだろうか。。。もしかしたら、僕は、実際に、針の穴を通すほど難しい、人生の境遇の瞬間に立ち会っているかもしれないのだ。。。恒治郎が僕の心の中で叫んでいた。。。その無念と苦しみが充分に、心と身体に入ってきている。。。それを僕は避けない。。。避けたくない。。。それが霊障であっても、その霊のどうしようもない助け声を僕は聞くことができる。だが、しかし、未熟な僕は、彼を背負いながらも自滅しそうな危なっかしい生き方をしている・・・。だけれども、霊性に菩提心が培われれば、供養できるかもしれないと。。。そんな万に一つの可能性が残されているものだと感じた。。。僕が、チベット密教とどういう縁を持ち合わせているかは正直言って解らない。。。朋友のような、力強い縁を取り立てて感じているわけではないのだ。。。しかし、世界に散らばる奇特な魂。聖者、覚者と呼ばれているものや、賢者、識者と呼ばれる魂に、僕は事のほか、弱い。。。自分が、信じる信じないという発想ではなく、ただ「この過酷な生」の克服を魂の次元から行っている人物に、僕は敬意を感じてならないのだ。。。そしてまた、それは、昔のような権威じみた存在ではなくなってきているのだ。。。実に純朴に、人懐っこく、冗談好きで、それでいて輪廻の苦しみを説きあかし、時に呪術的に、またもしかしたら煩悩的であるかもしれず、それでいて、この生の衣を脱ぐ瞬間には見事に悟りの境地を準備完了させているような。。。そんな感じの魂。恒治郎と、その祖先の魂が輪廻の大海から抜け出せますように!Eili ...
2005年10月30日
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自分のルーツを調べることの大切さを感じてならない。今日、僕は念願の資料をやっと探し出し、手に入れることができた。。。国会図書館にて、とうとう万歳新聞のマイクロフィルムを見ることができたのだ。。。資料は1909.9~121910.5~81911.1~41911.12を閲覧できた。求めていたものは、最初の発行号である 1909.9.1 日のものに早くも現われた。曽祖父、泉恒治郎の記事は、発刊にいたるあいさつ文で、登場したのだ。一種風変わりの新聞 本紙の目的 泉恒治郎風変わり、風変わりとは世間並みの新聞(もの)でないことを意味する。世間並みのものではないとは何なものか、先輩の諸新聞は社会の総てを具備した一般的新聞で、更に間然するところはないが社会のある部分を充分に読みたいとすると他の普通新聞にはそれぞれ紙面に限りがあって読者にこの満足を与えることはできない、風変わりはすなわちここだ、民生新聞の発展改題する所以もまたここだ、僕らが前々よりの理想として現代社会が進歩するにつれて、だんだんその事情が複雑になる、複雑になるから社会の人はいろいろな事情を知りたくなるまた識る必要もある。。。恒治郎の肉声が聞こえてきた思いだ。。。ここにきて、いままで想像して聞き及んでいただけの謎の存在であった、曽祖父の生の声を聴くことができた。感涙である。Eili ...
2005年10月29日
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この万歳新聞のはじめたきっかけについて、おばあちゃんから流れてきた気になる情報がある。それは、「万歳新聞を彼は買い取った」という表現だ。彼の気になる背景は、ずばり言うと「社会主義思想」なのだけれど、当時1901年頃から社会主義に関する動向は目が離せない。社会主義思想を掲げる「社会民主党」はその発足が1901年の5月20日で、翌日には禁止されてしまう。なんとスピーディーな敗北・・・と、驚きを隠せないが、その発足よりも前から当局に目をつけられていたようで、彼らの行動は、その後、様々な新聞社を立ち上げては発言を繰り返し、そしてまた、その度に弾圧を受け、発禁処分になるということを繰り返している。。。最も有名な人は。。。幸徳秋水という人だ。この時期の「社会主義思想」の流れを追ってくことは非常に重要になってきそうだ。ここでは、しかし、恒治郎が、既存の新聞社に何らかのトラブルがあり、廃刊に追い込まれそうになっていたところを、その意思を引き継ぐ形で、万歳新聞というものを立ち上げていったのではないか、という推論が最も信憑性を感じている。この新聞にまつわることは、僕自身にも、ちょっと気になる事が思い出され、正直言うとこの話も他人事には思えないのだ。。。Eili ...
2005年10月28日
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万歳という言葉をただ闇雲にググってみても、HITするのは、筋違いの「万歳」の語源。確かに、明治時代初頭、流行った言葉に違いなく、万歳新聞社というのもそこから来ているのだろう。しかし、今ここで調べたいのは、まさに万歳新聞がどういった記事を載せてきたのか、そしてまた、それが当時の帝国日本に、どう写っていたのかだろう。本当は、記事を読みたいのだ。。。ただ、それは今は叶わない。きっと手に入れて見せるが・・・僕は、前回の万歳新聞のHITに歓喜した反面、その時代背景にまだ疑問を感じていた。もう少し、別の方面からの調べ方で、以下の情報を入手することができた。【国会図書館の記録】================================================東京電報新聞:1258号(明治38年4月28日)~1661号(明治39年9月20日)民声新聞:1662号(明治39年9月25日)~2520号(明治42年8月15日)万歳新聞:2521号(明治42年9月1日)~3362号(明治44年12月29日)====================================================================これはどうしたことだろう。。。こんなことがあるのだろうか。。。同じ新聞社が同時代に???よく見ると、その年代がちがう。。。前回の調査では、万歳新聞は、大阪つまり関西のほうの新聞社らしく、時期は明治34年の8月頃。。。今回HITした情報によれば、その生存期間はかぶってはおらず、8年後くらいに東京で、つまり関東圏で発行されたものらしいということだ。。。先祖が関西にいたことは、まだ話には出ておらず(それは情報がないというだけで否定し去ることはもちろんできないけれども)恒治郎の職は、前職で通訳・・・横浜の貿易船で通訳をしていたというから、「関東の」万歳新聞のほうが、ひょっとすると信憑性があるのではないかと感じる。。。いずれにせよ、2つ別の時代に存在していたわけだから、双方調査してゆくことになるだろうかと思う。。。ただ、嬉しいことに、国会図書館の記録によれば、記事はマイクロフィルムに取られているというではないか。。。嬉しい限りだ。。。できれば明日にでも。。。取り寄せにいきたい。。。国会図書館など行った事ないけれど。Eili ...
2005年10月28日
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【史実】1897/08/19 M30 万歳新聞起訴1901/08/11 M34 朝刊 5面 2段 万歳新聞、22号の記事「社会主義」が秩序壊乱とされ発売停止/大阪この記事から、僕の調査ははじまった。生きている年代がおぼろげながら掴める。。。ただ、気になるのは、この時代は「日露戦争」よりも前であるという点だ。社会主義の取りしまりがちょうど厳しくなるとはいえ、この年はむしろ「社会民主党」の発足の年。5月20日に発足して、禁止されるのが翌日というから、その動乱は異様な感じを受ける。しかし、まだこのときは、政府といってもそんなには厳しい取締りをしていたとは思えないのだ。。。恒治郎が親族によって座敷牢に閉じ込められるのは、夜逃げして兄のところに転がり込んできてからだ。。。ただ、解っているのは、それが浅草寺の周辺のどこかだったということだ。ようやく聞き出すことの出来た情報は、「弁天山」の鐘の近くで当時「岡田屋」というちょっとした規模の料亭だたということだ。。。これに関しては、僕はネットでさんざん明治時代の地図を探したが、何もでてこなかった。これでも仕事の合間を縫って、1週間近くはだいぶ探していたのだけれど。。。見つからなかった。そもそも明治時代の地図自体が出てこないのだ。。。江戸時代の古地図は探し出せても、明治時代や大正時代の地図がHITしないのは、それなりに理由があるらしい。。。一説には、戦前東京の地図測量は軍部が実権を握っていたということだ。。。僕は、ようやく台東区の中央図書館の民族・資料コーナーで古地図をみつけることができた。。。大正10年の浅草寺界隈の地図にそれはあった。そこにはなんと「岡田」の名が記されているでないか。。。(感激!!!)まさに弁天山のふもと。あの二尊像の横に位置している場所だった。小料理屋とあり、その広さといい、伝え聞いた内容とほぼ一致している。明治時代の地図で住宅地図は手に入らなかったけれど、ほぼこれに間違いがないだろう。。。だんだん、手がかりが掴めてきた。。。Eili ...
2005年10月28日
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前世探求・・・それは、私がどこからきて、どこに向かおうとしているのか・・・の探求。真実の自分に気づき、魂の求めている世界にはやくたどり着けるようにするための、紛れもない調査。恒治郎のことはあまりにも知られていないことが多く、当時の知り合いの方もほぼ亡くなってしまっているのでなかなか情報が集まらない。僕のところにかろうじて今集まってきている情報といえば、明治時代の日露戦争の前後あたりで、当時思想的なことを語り、当局に睨まれるようになった。。。ということくらいだった。その後悲惨な運命が待ち受けているようなのだが、なかなか詳細を教えてはくれない。。。ただ「彼は半狂乱だったので座敷牢に閉じ込められた」とか「いや座敷牢に閉じ込めたのでおかしくなったのだ」という話をきくとかなり過酷な運命が待ち受けていたのだと思われる。。。その後、まだ生きている祖母の言葉で、「万歳新聞」という手がかりとなる名前を掴んだ。。。その、表現媒体が「万歳新聞」といわれるものであり、本当にそんなのがあったのかどうかは知らないのだけれど、その新聞社を立ち上げるか、買い取るかして、何かの記事を書いたようだ。それがどういう内容だったのかは知らない。けれども、その後その記事が理由で、せっかく立ち上げた新聞社自体も廃刊に追い込まれるようになったとは、興味を感じざるを得ない。。。いったい、何があったのだ。。。未だ知れぬ闇に、まだ漠然とした思いしか想いが立ち込める。。。Eili ...
2005年10月28日
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昨日夜中僕は、東京の浅草寺にきていた。雷門から通じているあの有名で賑やかな仲見世通りを通りすぎると、宝蔵門の手前にある料亭「今半」を横におれて、すこし入ったところにある弁天山の麓で、だいぶ時間を費やしていた。何もすることがなく黄昏ていたといえば、そうなのだけれど、<あるもの>を探すために、どうしても、この地に訪れなくてはならなかったんだ。。。僕は、いま少々サイキックになっていると思う。。。それにはいろいろと訳があるのだけれど、ここにしか置いていない<忘れ物>がある気がしてならないんだ。こんなことを感じるようになったのは、先々月、ふとしたきっかけで知った、先祖の方のお墓参りをしてからなのだけれど、本当にめまぐるしく、自分の霊性が変化してきている。。。僕は、親族がもう80年近く、誰もお参りすることのなかった、その<関わりある>祖先に対座してから、たくさんのメッセージが届くようになった。彼は、名を泉恒治郎といって、僕の母方の祖先で、僕から見ると曽祖父にあたる。時代は、明治後半頃。。。日露戦争前後あたり。いつ産まれ、いつなくなられたのかは、戸籍謄本を見れば一発なのだろうけれど、あいにく、まだその情報が揃ってはいない。。。来月までには・・・手に入れたい。僕は、先走る思いと、自分に生じている<謎のカルマ>を見定めるために、探求をはじめていた。。。彼のことは、母から紹介されたとわいえ、あまりにも深いベールに包まれていて、その素性を推し量ることはまだ到底出来ないのだけれども、それだけに正直、興味をそそられていた。「あなたは、恒治郎さん(の魂)を、受け継いでいるの・・・!」そう、母に言われてから、僕は、この突然の種明かしに似た告白に少々躊躇いながらも、その事実を受け入れるために、彼を理解する必要を感じた。死因は不明だけれども、かなり繊細な事柄に思えた。。。これは決して間違ってはならない!!!けれども、もう会うことが出来なくなってしまった人に対して、最大限の接触を試みるつもりだ。。。これは、僕にとっても死活問題なのだ。。。他でもない、僕自身が、そのことを一番よく知っている。。。周りが腫れ物を触るようにして生きている僕からすれば、壮絶な敗北と絶望の元に自殺してしまったとも言われている恒治郎のことを知ることは、生きている中で座標をなくしかけている僕にとっては、それでも<指標>なんだ。。。親族が、恥ずかしく、厭わしく思っているとしても、僕には大切な事柄だ。それは、恒治郎にとってもだろう。。。こんなにも長い間、親族から見捨てられ、暗い霊界を彷徨いながら、何を感じ、何を伝えたくて、僕にあったというのだろう。。。!それに、それは僕にとっても、喉から手が出るくらいに、知りたい事柄。。「麻原」とはいったい、何者で、僕は何のために、あそこに出家までしていたというのだろう。。。彼のことを神の化身とまで信じ込まされていた僕達がみた、絶望的敗北・・その果てにあった、彼の不気味に深い<意図>。。。それが事あるごとに、僕の精神の古傷を呼び起こす。。。・・・恒治郎、君の生きていた時代には何があったのだ?何があったというのだ!教えてくれ!Eili ...
2005年10月28日
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ここ1ヶ月あまり。。。僕は、不思議な空間に紛れ込んでいた。きっと、この<形のない電子空間>も似たようなものなのだろう。。。同じにおいがする。。。僕は、<今自分が生きている>自分を切り刻んでいった。。。こんなところに<相手>の見えないものに、まるですがる様に書き綴っているのは、それでしか、癒されそうもないからだ。。。ここに人が訪れたとしても、訪れなかったとしても。そのはじめの人に向かって。僕は、ここに吐漏するしかない。。。Eili ...ああ、声が届かない。 どうしてるだろうか。。。どうしようもない・ん・・だ!僕には、以前から、年に数度しか会わなかったのだけれど、親友がいた。。。携帯を叩き割ってしまってから、僕はひどく落ち込み、天涯孤独のような気持ちに何度も襲われていたのだけれど、こんな僕にもいたんだ。。。たった数人だけなんだけど。。。もう、何もかも終わってしまえ。。。と思うくらいならば、最後に、何を語ろう。。。誰に。僕は、すっかり忘れていたが、一日何十通ものメールの中に埋もれて行方不明になってしまった、友達の手がかりをおいかけていた。。。彼は、去年、アメリカに渡米してしまったのだから、今の僕には会うことが出来ないのだけれども・・・それでも、今、彼がほしい。。。彼しか語り合えない。。。そう思った。なんども変更のあったアドレスに片っ端から送信すると、やっとだけれど音信があった。このアドレスを見つけ出したときの安堵感といったらなかったけれど、その後、ワクワクしながら待ち望み、もう1年以上会ってもいない彼からの返事が来た時には、もう歓喜状態だった。。。会えないことは辛いけど、この心境は、そばにいてくれたところで語り落とせるものでもないな。。。そう感じながら、僕は彼とこれまでのいきさつを語り始めた。。。彼のことは、そのうち、ここでも交流したいものだ。。。少し元気になってきたよ・・・!友人は大切だよ。。。かけがえのないもの。。。地獄の審判のときに、必ず、呼びかけることになるから。。。Eili ...
2005年10月27日
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いつの間にか、世間から取り残されていた。それに気づいたのは、仕事に忙殺されていた自分が、ふとしたきっかけで、その期待していた未来を見失い、本来の自分にすーっと戻ってしまった時だった。まだ・・・せいぜい1ヶ月くらい前の出来事だ。。。しばらくは、ボーっと、辺りを見渡すような生活が続いた。叩き割った携帯の中の知人のすべてのアドレスと連絡先を失った僕は、その言いようのない失望感の中で、いままでずっと押さえ込んでいた限界をその時、打ち破ったことに、驚きながらもどこか予感していた。また、僕は以前のように、あの陰湿な精神の牢獄が訪れるのかと思うと、その鋭敏な経験がよみがえってきて僕は果てしない虚無の空間に、身を投じるだけの気力もない。。。ただ、ひとつ、不思議にも気づいていなかった事だが、僕には<友人>が一人もいなくなってしまった事にようやく気づいた事だった。。。それは、何度も思い出そうとしても、だめだった。彼女がいなくなったとして、僕に残されるのは、誰だろう。。。誰なのだろう。。。こんなにも親しく、<ふたりぼっち>に付き合ってきた彼女を失ったとしたのならば、いったい、僕には何が残るのだろう。。。誰が、僕を見つけてくれるのだろう。。。僕は、果てしなく寂寥感を感じ始め、それから、まっすぐに現実にも、社会にも、仕事にも向き合えなくなってしまった。ただ、ただ、<生きながら死んでいる自分>を、僕は感じるしかなかった。まるで、報われない怨霊のように、僕はこの世界で肉体を与えられ、そこに縛り付けられていた。そんな自分に、強い衝撃を持って、気づかされる。ただ、見ているしかない。見つめてくれるものは、他にない。そして、ここから抜け出す術も持ち合わせていない。。。この不安な知覚をどうやら止めることはできず、まるで目を背けたくなる光景を嫌というほど、自分の意思に関わりなく見つめさせられている感覚。そんな感覚なんだ・・・Eili ...
2005年10月27日
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結局僕は、たくさんの人たちと、日常の生活の中で、表面的に付き合うことは、まるで出来なくて、そのかわり、数少ない人たちと、魂の真髄にまで触れながら交流することを、心の底から望んだ。。。それがたとえ非日常的なものになってしまったとしても、同じ時代に生きることができなかったとしても、世界を垣間見た人たちとの交流を探求することにした。Eili ...
2005年10月27日
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