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May 20, 2024
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宇佐八幡宮(大分)から西都原古墳群(宮崎)は結構遠い。
なによりも西都市は市街地をJRが通っていない。
その上にJR日豊線は本数が少ないので、事前の計画が非常に重要になる。
僕はJRを高鍋駅で降りてバスで西都市に向かった。
東京や横浜の感覚で行ってはいけない。
JR駅前は何も無いし、バスセンターと言っても小さい。
なお、僕は最初は歩く予定だったのでバスセンターの手前の御舟通りで降りた。
これがラッキーだった。すぐそばにタクシー会社が有ったから。
予定は未定。足のマメも痛いので古墳群までタクシーで行くことにした。


鬼の窟古墳は見どころが有る古墳である。
まずは正面から見る。圧倒される。


大きい。
でもこの古墳の大事な所は、その形の面白さと石室内に入れることである。
この古墳は周濠(堀)とドーナツ形の堤の中央に円墳が有る。珍しい形である。


周囲をぐるーっと堤が取り囲んでいる。
ドーナツ形の堤部分は上をぐるーっと回れる。堤を降りて石室に向かう。


この古墳は6世紀末の建造なので、奈良の石舞台古墳(蘇我馬子の墓7世紀建造)とほぼ同時期。
さすがに天下の蘇我馬子の墓に比べれば小さいが、その分整っている。
大人が立って入れる大きさがあるのに周囲の積石には隙間が無く、
床には石が敷き詰められている。

(石にはナンバーリングしてあったので、元の石を使っている。)
でも床にきれいに石が敷き詰められた古墳は少ない。

鬼の窟古墳には伝説が有り、
有名なこのはなさくや姫に恋した鬼が一晩のうちに窟(石室)を造ったのが名前の由来らしい。

えー?このはなさくや姫って富士山の神様じゃなかったっけ?

お父さんは大山祇の神。
そして妻に迎える時に、
大山祇の神はこのはなさくや姫だけでなく姉のいわなが姫も付けて瓊瓊杵尊の元へ送りました。
でも瓊瓊杵尊はいわなが姫がブスだったので送り返してしまいます。
大山祇の神はいわなが姫も妻にすれば岩のように頑丈な身体になって永遠に生きられたのに、
返してしまったのであなたはもう有限の命になってしまったと怒った。
それ以来、天孫の子孫や人間は短い寿命しか無くなってしまった。

つまり古事記の伝承では大山祇の神も瓊瓊杵尊も日向に居たので、ここに居てもおかしくはない。
神話の世界って色々とあるなぁ。

鬼の窟古墳を後にして姫塚古墳に向かう。
西都原古墳群は相当に広いので、結構歩く。
参考に西都原古墳群の全容が分かるように、この付近の国土地理院の地形図を載せる。


西都市の出しているMapにしようかと思ったけれど、マンガっぽいし、
googleMapからつくるとイメージがわかないけれど、
地形図は草木等に隠れてイメージしづらい古墳が一目瞭然に分かるので見やすい。
地形図を右クリックして出てくるメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、
別のタブで大きな地形図として見られるので参考に。大きくすると古墳がよく分かる。

西都原古墳群には200以上の古墳が有り、10以上の支群に分かれている。
代表的な古墳は、例えば男狹穂塚・女沙穂塚古墳は第五支群である。

地形図を見ると分かるように姫塚は鬼の窟古墳のかなり南で第一支群に在る。
行く途中に坂元ノ上横穴墓群を保護する為に造られた覆屋が有る。


ここで大失敗したことに気がついた。
今日5月20日は月曜日だ!
そう公共の博物館などは月曜日はお休みなんである。
どうして一番重要な西都原古墳群を月曜日にしちゃったんだろう?
いや、九州一周は一週間はかかるのでどこかは月曜日にあたるんだけれども、
何で西都原古墳群?

相当に後悔したが、すんだことは仕方ない。
今日は内部展示は全部諦めよう。

仕方ないので先に進んで姫塚に到着。


姫塚古墳は西都原古墳群の中でも最終期の古墳で6世紀後半に造られた古墳。
2段構成の前方後円墳である。上の写真を見てもちゃんと2段なのが分かる。
姫塚と言う名前の由来は、もしかすると神話の中のお姫様から?と思ったら、
見た目の優しい形状が名前の由来なんだそうである。確かに柔らかい感じ?

姫塚の次は第13号墳。ここは通常ならば石室に入れるらしい。でも今日は月曜日!


手前には1/20スケールの模型が有り葺石で覆われている。
そうこの古墳は調査時に全体が葺石に覆われていたらしい。
石室に入りたかったなぁ。

ここから次の目的地の男沙穂塚・女沙穂塚古墳までは相当に歩く。
でも通常ならばシャトルバスがぐるーっと回っているので大丈夫なんだけど、
今日は月曜日。バスは無い。何で月曜日!
途中にガイダンスセンターこのはな館が有る。


ここは月曜日だからではなく、現在改修中なので入れない。もう!プンプンである。
傍らに三段登り窯が有った。珍しい。展示用の埴輪をこれで焼いたのかな?

そしてついに男沙穂塚・女沙穂塚古墳に着く。
ここは宮内庁が御陵参考地にしており、中には入れない。


相当に大きい。
ちゃんと周濠も含めて復元したら近畿の大きな古墳にも負けないと思う。
ちなみに御陵参考地なのは、祀られたのが皇室関係者だから。

県立西都原考古博物館の北郷(ほんごう)泰道氏らは、
「仁徳天皇の妃となった髪長姫と、その父である諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)
 ではないか」という仮説を立てている。
男狭穂塚と女狭穂塚は、隣接してほぼ同時に作られていることから密接な関係が推測され、
当時、女性は出身地に葬られる習慣があったこと。
記紀などの文献に具体名として登場する日向の支配者は、諸県君牛諸井だけであることが根拠。

でも古墳の形状から分かるように男狭穂塚と女狭穂塚は時期が離れていると思う。
それは上の国土地理院の地形図に僕が追加した地形レーダー探査結果の図を見れば分かる。
男狭穂塚はホタテ型の前方後円墳で、円墳に造出がついた物ならば初期の前方後円墳、
方墳部が縮小化して帆立貝型になったのならば後期の前方後円墳である。
女狭穂塚はホタテ型の前方後円墳ではない。
また仁徳天皇の奥さんの古墳ならば時代的に円墳部と方墳部の境目に造出が有るはずである。
形状からは方墳部が広がっており最終期の前方後円墳だと思う。
つまり両者の間には100年程度の違いが有り、親子の古墳ではないと思う。

じゃぁ誰の古墳か?分からない。だって記録がないから。
宮内庁が御陵参考地をやめれば調査が可能になり、副葬品から分かるかもしれないが、
今は1年のうちの特定の日(11月の参拝日1日だけ)に入れるだけ。
とても調査はできない。

男狭穂塚と女狭穂塚を後にして、その陪塚(家来の墓)だと思われる171号墳を見に行く。


九州では珍しい方墳である。しかも正方形。
このタイプは出雲や関東に多い。
あと蘇我氏系の古墳もそう。と言うか僕は蘇我氏は出雲の子孫だと思っているので当然かも?

では何故宮崎の古墳なのに方墳?
男狭穂塚と女狭穂塚の陪塚だから、
つまり男狭穂塚と女狭穂塚が誰の古墳なのかに関係あると思う。

女狭穂塚の主は諸県君として宮崎で亡くなったが、元は出雲や近畿に近い人であり、
陪塚に葬られた家来は出雲の人だったのだろうと思う。
では女狭穂塚の主は誰か?それは「諸県君牛諸井」。
出雲系の景行天皇により日向の諸県君に任命された人だろう。
だから家来は出雲の方墳。
つまり本郷先生の仮説は半分合っているのだと思う。
ただ、仁徳天皇の妃となった髪長姫が余計なだけ。
別の人だと思う。
恐らくは女沙穂塚古墳の埋葬者が「諸県君牛諸井」であり、
男沙穂塚古墳はその御先祖様または子孫なんだと思う。
(もし帆立貝型前方後円墳が朝廷の規制により方墳部を大きく造れなかった後期のものなら、
 子孫だと思う。)
中に入れないので確証はないけれど、陪塚から考えると多分そうだと思う。

次はすぐそばの170号墳。


ここは写真の「子持家型埴輪」と「舟型埴輪」が出土したので有名な古墳。

さらに進むと西都原古墳群の最も北側に着く。
ここには西都原考古博物館が有り、その庭には古代生活体験館と復元住居が有る。


月曜日なので中には入れなかったが、復元住居が住民参加で建てられたと言うのは面白い。
将来の日本を背負ってたつ子供達が考古学に興味を持つのは大事なことだと思う。

庭を通って考古博物館の正面に出る。


立派だなぁ。月曜日に来るんじゃなかった。
中にはここ西都原古墳群の各古墳から出土した副葬品がたくさん有るんだろうなぁ。
見たかったなぁ。

でも愚痴を言っても仕方ないので、最後の都萬神社に行く事にする。
すごく遠いし今日はバスが無いのでタクシーで行く。月曜日だから仕方ない。


この神社はすごく古くて、創建の時期は不明だが、続日本後紀に載っている。
つまり9世紀にはすでに有ったらしい。
近畿地方ならばともかく、九州のしかも南のはてなのにそんな昔から有り知られていた?
すごいと思う。
神社の中には景行天皇が熊襲を攻めた時に奉納したと伝わる大太刀が有る。


ただ現在の物は宝徳2年(1450年)、妻町の付近の鹿野田の住人日下部成家が、
備前則次らに鍛えさせ、都萬神社に奉納したもので景行天皇の時代のものではない。
残念。

ここで大事な推理が有る。
この付近は妻と呼ばれている。
神社の名前が都萬であることから、「つま」と言う音が有って、妻も都萬も宛て字である。
では「つま」と言う名前の由来は何だろう?

僕は実はここは「投馬國」だったのだろうと思っている。
投馬は「とぅま」なんだと思う。
魏志倭人伝の中では投馬國は規模や行き方の分からない女王国の北側の国々とは違って、
邪馬台国と同様に不彌國(又は伊都国)から水行20日と記され、5万戸を誇る大国である。
邪馬台国の7万戸よりは若干少ないが、戸数が書かれた国の中ではNo2である。
しかも「官の名前」も記されている。魏志倭人伝の中では重視されている国である。
西都原古墳群の規模から考えても、投馬國=つま と言うのは案外正しいのではと思う。
なによりも投馬國の官の名前は「彌彌(みみ)」であり、
この辺は明治時代まで美々津と呼ばれていた。「みみ」の津(港)である。
気味が悪いほど一致する。
水行20日と言う距離と方向もだいたい合っている。
邪馬台国近畿説や北部九州説のように、
「方角を間違えた」とか「距離を間違えた」と言わなくていい。ちゃんと書かれた通りに着く。

西都原こそ投馬國だったのではないだろうか?
都萬神社に来て自信を持ってしまった。

明日はいよいよ最後の目的地である宮崎県小林市(と言うか諸県群高原町)





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最終更新日  June 1, 2024 12:35:33 AM
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