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YOUTUBEを見ていたら「アブダクション」について説明する動画が有った。見ていて「これだ」と思った。僕がいつも邪馬台国近畿説の学者先生が、纏向遺跡は3世紀半ばの遺跡で、それ故に邪馬台国はここに有った考古学的証拠である。と主張するのは「論理学的に間違っている。逆は必ずしも真ではない」のだから誤りである。と言うのを主張するのだけれども、その根拠の学問的な証拠である。Wikiの「アブダクション」を見てみる。アブダクション(逆行推論)とは、演繹法が前提となる事象に規則を適用して結論を得るのに対し、結論となる事象に規則を適用して前提を推論する方法である。論理的には後件肯定と呼ばれる誤謬であるが、帰納法と並び仮説形成に重要な役割を演じている。と書いてある。つまり「演繹法」が結論を得られるのに対して「前提を推論する方法」でしかない。と言うことは証拠ではなく、可能性を得るだけなのである。簡単に言い直せば、「纏向遺跡は3世紀半ばの遺跡である」と言うのはここに邪馬台国が有った可能性が有ると言う可能性を推論しているだけで、邪馬台国がここに有ったと言う結論を導き出しているわけではない。TOUTUBEの動画でも解説しているが、論理的推論には、「演繹法」、「帰納法」、「逆行推論法」がある。「演繹法」は確実な結論を得られるが、証明が非常に難しい。例えば「導体の中では電流は必ず+から-に流れる」と言う場合で常に正しい。「帰納法」は経験則の範囲内で正しいが場合によっては正しくない場合が有る。例えば「電流は+から-に流れる」と言う場合で、導体が通常の導体の範囲では正しいが、金属が半導体の場合は例外的に負性抵抗を示すので、正しいとは言い切れない。「逆行推論法」は結論から前提条件を推論するもので、いわゆる「逆」であり正しくない場合が多い。例えば抵抗Aには電流が流れていないので、この抵抗を含む回路は動作していないと言う推論は、抵抗Aの前後で電圧が平衡しているだけで、他の抵抗には電流が流れている可能性があり、この抵抗の電流値だけで判断できるものではなく、(例ホイートストンブリッジのG部分)抵抗Aに電流が流れていないので回路は動作を停止している可能性が有る可能性が有るだけ。但し可能性を推論する方法なので、学問的には有効な方法である。つまり演繹法は正しいがゆえに条件が厳しく、容易には答えが出ないが、「逆行推論法」は可能性を追求するものなので、正しい結論への途中経過としては有意義。そう、可能性を求めて、そこからさらに研究して誤った推論を消していき、最終的に結論を出す場合には有効なのである。なので、「纏向遺跡は3世紀半ばの遺跡で、それ故に邪馬台国はここに有った可能性があるが、 結論を出すには他の要因をさらに調べないといけない」と言うのならば、それは良い事なのだが、頭の悪い学者先生が、それを理解せずに、「「纏向遺跡は3世紀半ばの遺跡で、それ故に邪馬台国はここに有った」と言い切ってしまうので、それは間違いなのである。あるいは、マスコミや一般の人が勘違いするような言い方をするのが間違いなのである。これがアブダクションの弊害である。
September 22, 2024
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8月3日に通電不良のdynabook G83/DNを修理成功したのでブログに書いたんだけど、dynabook G83/DN(通電不良)を修理しました。今回、また別のdynabookS73/FBを買った。通電しなかった。通電しなし、外装が割れているから3100円だけど、新しい機種なので今ヤマダ電機で買えば10万円位する。COREi3なので性能は普通程度だけど、新しいCOREi3だからちょっと前のCOREi5よりも性能は上。なので頑張って修理した。8月3日のブログでも書いたが、ノートパソコンの電源回路はMOSFETを使った降圧回路。8月3日にも載せた原理図を再掲する。昔の電源トランスを使った電源回路と比べて圧倒的に高い変換効率(99%近い)を誇り、サイズが圧倒的に小さく、直流ベースでバッテリーが使えるので、ノートパソコンがノートパソコンであるようになったのはこの回路のお陰である。僕は以前は電源が入らないノートパソコンの場合、電源から順に追って、ここまでこの電圧が来ているから、故障の原因はこの負荷側にあると言う感じでやっていたが、たまに電圧を測るテスターのピンが触ってはいけない部分に触れて壊してしまうことが有った。だから今は電圧を測る代わりに抵抗値を測るパターンが多い。電源回路の元側から計って行って、入力側のヒューズレベルで0Ωならば、上の原理図の19Vラインに原因が有る場合が多い。逆に無限大ならばヒューズが切れている。そしてラインとアース間が数Ω程度であれば2次側に故障が有る場合が多い。数Ωと言うことはコンデンサーがショートしてMOSFETの抵抗が出ていると言うことだから。今回もそうだった、正常な場合は数十Ωを示すか、測定した瞬間に導通して、あっという間に無限大に回復する。コンデンサーなので電圧を加えた瞬間にはたくさんの電流が流れて低抵抗を示し、充電が終わると絶縁状態になるからだ。で今回はもうたくさんの経験を積んだので、簡単に見つかった。上の写真のように怪しい箇所のコンデンサーを4つ外して調べたら、1個ショートしていた。さっそくこれを取り換えて、元のように半田付けしてやると、あっさりと回復した。また手持ちのSSD128GBを取り付けてWindows11をインストールして、YOUTUBEで明菜ちゃんを聞いた。この頃の明菜ちゃんは最高だったなぁ。近藤真彦とジャニーズ事務所(メリーさん)の陰謀(金屏風事件)が無ければ、明菜ちゃんも壊れなかったのに。メリーさんってひどい人だったんだな。まぁ、新しいパソコンが復活できて良かった。
September 19, 2024
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8月19日に愛天堂の★AM/FM2バンドラジオキット[ZX-2051]を作ったのだけれども、キットの内容に不備が有ってAMは何とか鳴るようになったのだけれども、FMはどうしても動作せずに、ついには壊してしまいAM専用ラジオになってしまった。愛天堂の★AM/FM2バンドラジオキット[ZX-2051]を作りましたAMの不備とは愛天堂が「性能向上の為?」にバーアンテナをAMAZON等で売っている従来品の四角いバーアンテナから黒くて丸いバーアンテナを変える際に、間違えて900µH(従来品は660µH)の物にしてしまったせいで、1100kHzよりも高い周波数が受信できなくなってしまっていたことである。これは接続方法を工夫してAMは何とか受信可能になった。でもFMはどうしても問題が解決しなかった。そこで仕方ないのでAMAZONの同等品を買ってリベンジすることにした。ところが、AMAZONに発注したのは8月19日の「AMAZONのラジオ」=四角いバーアンテナだったのに、実際に届いたのは愛天堂のと同じ黒くて円いバージョンだった。このやろうと思ったが、逆に愛えば愛天堂の製作に失敗したラジオのリベンジになるのでOK。さっそく作ってみた。AMは前回と同じでバーアンテナの接続を読み替えて接続したら簡単に鳴るようになった。せっかくなので、接続方法(読み替え)を載せる。付属説明書の一部なんだけれども、a-c間は900~1000µHコアの場所により変化)もあり、バリコンと組み合わせるとインダクタンスが大きすぎて使えない。(8月19日のブログ参照)そこで上の図のようにcの穴にaを、aの穴にbを、bの穴にcを差し込むと、バリコンに並列にa-b(660µH)が接続されて、ICの入力はb-c間になる。回路図を見ると元々b-c間がICの入力なのでインピーダンスもこれで合う。なお、a-b間をバリコンに並列になるようにすれば別の組み合わせでもOK.例えばcの穴にb、aの穴にa、bの穴にcでも良い。但し、この場合受信範囲はa-bがバリコンに並列になるので良いのだが、ICの入力はa-c間になり見かけのインピーダンスが下がるような気がする。参考に回路図を載せる。この回路図がツッコミどころ満載で、まずAMバーアンテナのbcって何でこんな感じなのかなと思ったけれども、中間タップの所にbが無くてcの所にあるのを善意に解釈すると、bとcをショートして660µHとして使えと言うことかもしれないと思った。でもそれならば上の基板の図面もそう書いて欲しいなと思う。また、AMバーアンテナのcから伸びる緑の線がおかしく、これではaとcがショートする。まぁ実際の基板にはこの緑の線は無いので大丈夫。FM用のL1とL2が部品一覧とは入れ替わっている。多分部品一覧の方が正しく、上の回路図は間違いなんだろうと思う。それよりも大変だったのはC-16が121のはずなのに袋の中には120が入っていた。これは明らかな間違いでAM受信に影響するので、もし120が入っていたら121に変えた方が良い。でAMはOKになったんだけれどもFMが動かない。でも今回は前の失敗を教訓に「ここに違いない」と言う場所を特定していたので、さっそく調べてみた。基板のパターンはAMAZONの旧タイプと全く変わっていない。部品もAMのバーアンテナ以外は変わっていない。旧タイプではYOUTUBEを見ると外人さんがみんな製作に成功しているし、日本人でも製作に成功した人がいる。では製作に成功した場合と失敗した場合で何が違うか?それは僕と言う作業者と部品のロットである。僕と言う作業者に関しては、それほどひどいとは思わない。部品の中で怪しいのはセラミックフイルターである。なので、半田付けを外して、愛天堂で買った新しいセラミックフイルターと比較してみた。すると予想はぴったりと当たった。このセラミックフイルターは変じゃん!実証実験には7月18日に作った「愛天堂の水晶発振子周波数測定キットK-XTAL628BでSGもどきを作りました。」で作った周波数測定キットを使った。愛天堂の水晶発振子周波数測定キットK-XTAL628BでSGもどきを作りました。なお、この周波数測定キットはたった950円で、使うコイルにより、1-45MHzを発生し、その周波数が表示される優れものなのだが(自画自賛)、今回は3.3µHを使った。このコイルだとちょうど使いやすいバリコンの回転角度で使える。さすがにプロやハイレベルアマチュアの使うSG(100万円近くもする)と違い950円なので、指で回すバリコンを正確に10.7MHzに合わせるのは難しいが、まぁこのレベルならOK。すると思った通りと言うか、外したセラミックフイルターは全然使えない不良品だった。10.7MHz付近の入力と出力の変化。全然機能してないじゃん!ちなみに下の正常品の試験では入力をCH1(赤い線)、出力をCH2(黄色い線)にしているが、出力がCH2の測定可能レベル(50mV/div)以下なので、この不良品の測定ではCH1とCH2を入れ替えている。(CH1は5mV/divから使える。)入力3Vp-pに対して出力は15mVp-pくらいしか出ていない。ほとんど信号は消えている。対して愛天堂で買った正常品。これを試験する時は面白くて震えた。赤い線で表示された入力が0.8Vp-pで一定なのに出力が10.7MHz付近でグワーッと大きくなる。しかも良く観察すると、その前後で位相がぐるぐるっとひっくり返るような気がする。さすがに950円なので気がするけれども記録に残せるほどの安定さは無い。でも、出力信号のレベルは不良品と正常品でこれほど違うのかと言うくらい違う。FM放送が聞こえないはずだと思った。ちなみに製造メーカーのデータシートを見ると、その特性が載っている。dB表示なので絶対値としての比較はできないが、セラミックフイルターって性能が良いんだな。ここで気になるのが8月19日にも書いたけれども、入出力を入れ替えるとどうなるかである。事前にWindow11のcopilotで調べてみた。これも実験で「その通り!」って感じで確かめられた。事前に僕が想像していたような「10.7MHz付近で信号が遮断される」ことはない。でも特性はcopilotが言うとおりである。まずものすごく不安定で10.3-11.0MHz付近は周波数を固定できない。また、これが「うーんそうだったのか」なんだけれども位相が反転する。これが見たかった。copilotの言う通り。でも実際に目で見たかったのでうれしい。実際に目で見たことがある人って学校の先生でも少ないんじゃないだろうか?まぁ何にしてもセラミックフイルターを取り換えるしかない。取り換えるとあっさりと直った。しかも僕はちゃんと前の失敗の際に色々と研究していたので、FM用のコイルを少し工夫している。通常は4.5Tと5.5Tなんだけれども、足が少し長いのでそれを利用して5Tと6Tにした。多分そうすれば受信範囲が下の方に伸びると思ったから。できれば巻きなおして5.5Tと6.5Tにしたかったけれども、ちょっと気力がなかった。その結果がこれ。だいたい80-100MHzが受信できている。もう少し頑張ればNACK5(79.5MHz)やinnterFMが受信できたかもしれないが、interFMは上の方の周波数は受信できるのでOKだし、NACK5はあきらめれば良い。まぁとにかく僕にとってはニッポン放送が入れば良いので、これでOKである。自分で予想した失敗の原因が判明して、問題を解決できたのでうれしかった。
September 17, 2024
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8月19日のブログで愛天堂の★AM/FM★2バンドラジオキット [K-ZX2051]の記事を書いた。AMラジオ部分は愛天堂の部品がちょっと変な部品が入っており、色々と紆余曲折をしながら改良して何とか動作するようになったが、僕の作り方が悪かったのかFMの方は動作しなかった。そこで再挑戦しようと思ったら、愛天堂の在庫が無くなっており購入できないので、AMAZONの物を注文したが、まだ届かない。仕方ないので、AMAZONから届いた時の為に準備をすることにした。まずは測定器の製作である。測定器は自作は可能で、通常の場合は使えるが、例えば故障品の修理や改良のような、ちゃんとした精度が必要な場合は正規品が欲しい。音が出れば良いと言うレベルなら必要は無いが、何が原因なのかなどと言うような場合はこころもとないから。我家でFM(低周波数のVHF)帯で使えそうな物は周波数カウンターしかない。あとはカウンターとレベルメーターの付いたFMラジオしかないが、レベルメーターは相対値としては使えるが絶対値はほぼ信用できない。オシロスコープは20MHzまでしか使えない。信号の発生器は無い。そこでまずは信号の発生器を作ることにした。ただ、FM帯ともなると安定した信号を出すものを作るのは奇跡に近い。単に発振するだけならば簡単だけれども、温度や周囲の条件に左右されずに安定したものは、恐らくプロでも難しいと思う。(レベルによる)そこでここの部分はAMAZONに頼ることにした。これである。値段が僕にはちょうど良い。しかも76.0MHzから使える。通常売られているものは、87.0~108.0MHzの物が多いので、これは良いと思う。さっそく頼んだら翌日には届いた。なので、これに変調器を付けることにした。せっかく電波を飛ばしても「聞こえないと役に立たない」からである。もちろん、気を付けてスキャンすれば、変調しなくても「ポコッ」と無音になるので分かるのだけれども、全周波数にわたって気を付けてスキャンするのは厳しい。いや、DSPラジオでカウンター付きならば自動でスキャンするので大丈夫なんだけれども、そもそもDSPラジオでカウンター付きなら、こんな測定器はいらない。DSPラジオは鳴るか鳴らないか極端で、自分で修理は(部品の間違いや断線位なら分かるが、複雑な解析は)無理。まずは変調波の発振回路は、6月18日のブログでAM/短波用SGもどきに使った物を使った。愛天堂の水晶発振子周波数測定キットK-XTAL628BでSGもどきを作りました。このページの下の方のタイマー555と言うICを使った発振回路である。ものすごく基本的な回路で、今時ならば学校(工業高校)で習うのかなと言う回路。この回路の出力Outputにコンデンサー102(0.001µF)を付けて、それをFMラジオ送信モジュールのマイクの+側につなぐ。写真だと上の方の足に半田付けする。マイナス側は電源のマイナスに共通である。またマイナスが共通なので「変調ON/OFFスイッチ」は電源のマイナス側につけて、電源と出力の両方のマイナス側を切る。変調回路の電源はFMラジオ送信モジュールと共通で3V。但し、FMラジオ送信モジュールは結構シビアーで、2.6Vの電池なんかだと動かない。できたら手持ちのFMラジオで動作を確認する。FMラジオ送信モジュールから98.0MHz等の放送局の無い適当な周波数の電波を出して、それを手持ちのFMラジオで受ける。FMラジオ送信モジュールかもしくはFMラジオのどちらかのスキャン機能を使うと、上手くいっていれば自動で同調して止まる。当たり前だけれども、ちゃんと同じ周波数表示の所で止まる。このFMラジオ送信モジュールの優秀な所は、特性が「鋭い」こと。上の写真だと98.2MHzだと聞こえなくなる。98.1MHzは弱く聞こえる。当たり前だけれども。変調スイッチを切れば「無音だけれども」ノイズは聞こえない。そしてマイクが並列になっているので、テーブルをたたくと叩く音が聞こえる。そう、変調を切れば普通にFMマイクとして使える(モノラルだけれども)。で、この測定器ができれば何ができるか?まずはFMラジオの動作確認ができる。電波の強度をアンテナの長さや離隔距離で調整できるので、トラッキングが全くとれていないダメなFMラジオでもなんとか聞こえる。地方で電波の弱い場所ではラジオが悪いのかそもそも電波が弱いのか分からない場合があるが、これを使えば大丈夫。電波を受信できたら、アンテナコイルとアンテナ側のトリマーを回して行けば、コイルの定数やバリコンの定数が間違っていなければ、受信感度はどんどん上がる。特に受信したい放送局の周波数が分かれば、このFMラジオ送信モジュールの周波数を合わせ、そこで受信感度を上げてやれば、受信可能になっているはずなので、それでも放送を受信できなければ、屋外の見通しの良い場所に行って聞いてみるしかない。FMラジオ送信モジュールで音がするのに放送を受信できない場合は、気の毒ではあるが、場所のせいである。僕のように「ニッポン放送が受信できればいいや」と言う場合はこれでOK.受信周波数帯の全周波数の感度を上げたい場合は、通常のトラッキング調整をする。FMラジオ送信モジュールで例えば76.0MHzを出して、バリコンを目いっぱい入れた状態で、聞こえるようにOSCコイルを調整し、次にバリコンを全部抜けた状態にして、FMラジオ送信モジュールは例えば94MHzを出して(108.0MHzでも良いんだけれども、日本ではそんなに上の方の周波数は使っていないので)OSCのトリマーを調整して聞こえるようにする。どちらかを調整するたびに、反対側がずれるはずなので、繰り返す。これがうまくいけば受信周波数帯の調整は終わりで、次は感度の調整をする。FMラジオ送信モジュールで例えば76.0MHzを出して、バリコンを目いっぱい入れた状態で、大きく聞こえるようにANTコイルを調整し、次にバリコンを全部抜けた状態にして、FMラジオ送信モジュールは例えば94MHzを出して(108.0MHzでも良いんだけれども、日本ではそんなに上の方の周波数は使っていないので)ANTのトリマーを調整して聞こえるようにする。どちらかを調整するたびに、反対側がずれるはずなので、繰り返す。なお、繰り返しになるけれども、ANT側のこの操作はバンド内の平均的な感度を上げるもので、僕のように「ニッポン放送が聞こえれば良い」人は目的の周波数で同調してコイルとトリマーを最高感度にあがるように調整する。当然他の放送局の感度が下がる場合はあるが、気にしない。ONLYONEなので。最後に周波数バンドの話なんだけれども、もしかすると初期状態では87.0~108.0MHzかも?日本以外の国ではこの方が多いので仕方ない。その場合はVOL+とVOL-を同時に押しながら電源を入れる。(電源スイッチを付けていないならば電池を入れる)するとC1とかC0と表示される。C0が76.0~108.0MHzのモードである。この状態で再起動(VOL+やVOL-を押さないで電源ON)する。すると目的の周波数バンドになる。CIにしたければ同様の動作をすればC0とC1は交互に変わる。ちなみにFRE+とFGRE-の場合はb0やb1と表示されてバックライトのON/OFFなので参考に。
September 11, 2024
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先週愛天堂のラジオK-623のSWを改造してラジオ日経を聞けるようにしたのだけれども、このラジオ愛天堂のホームページの表記周波数範囲:SW5.95〜17.90MHzと、実物のダイヤルの目盛15~16.5MHzが有っておらず、回路図も謎の回路が2つも有って、ちょっとSWは使えないなと言う感じだった。ちなみに回路図はこれ。その謎の(疑惑の)回路のうち1は完全な誤りと言うか、ダイヤル表記が正しく、愛天堂のホームページが誤りだった。そして疑惑の回路2は誤りではないけれども、ちょっと一般的ではないアイデア回路だった。それで不要な(と言うか邪魔な)C12とC14のコンデンサーを外してショートして、バリコンの内蔵コンデンサーを外して代わりに220pFのコンデンサーを並列に追加したら、何とかラジオ日経が受信できた。(但し調整が大変だった。)ただ、調整が鬼のように大変で感度が悪く、ちょっと満足がいかなかった。愛天堂のラジオK-623を作りました。SWを改造してラジオ日経を聞けるようにしました。原因は元々15MHz用のアンテナを単純に6.055MHzに流用する為に、単にコンデンサーを追加しただけだったので、コイルとコンデンサーの組み合わせが悪く、バリコンに対するコイルのインピーダンスが低すぎたせいだと思われるのだけれども、それを実証する測定器が無いので、本当のことが分からなかった。なので、いずれコイルを巻きなおして実験してみようと考えていた。で、やってみた。ただ、前回使ったK-623はさすがにコイルを3回以上半田を付けたり外したりしたので、もう、ちょっと無理が有るなと思い、予備機として買っておいた別の物を使った。まずはコイルを巻きなおすにしても、目標はどのくらいなのかを考えた。バリコンの方は取り換えないので、これのインピーダンスを考えると、約1kΩくらい。同程度のインピーダンスで6MHz付近で同調するコイルは30µHとなる。せっかく使い方を覚えたLTspiceなので、使ってみる。最低受信周波数はこのくらい。コンデンサーはバリコン20pFにトリマーや諸々の静電容量15pFを加えて35pFとしている。もう少し大きい方が良いかな?31か32µHくらい?最高受信周波数はこのくらい。コンデンサーはバリコン0pFにトリマーや諸々の静電容量15pFを加えて15pFとしている。やっぱり31µHくらいの方がいいかな?まぁでもコアを回せば良いか?つまり30µHのコイルを使えば5~7.5MHzが受信可能である。理論的な準備が終わったので、OSCコイルとANTコイルから内蔵コンデンサーを取り外して、既存のコイルの内容をチェックしてみた。両方とも1次側が10回巻き、2次側が4回巻きで「巻き数は同じ」だった。でもOSCは巻く向きが1次側と2次側が逆だった。と言うか何を基準に逆と言えば良いのか分からないけれども、とにかくOSCコイルとANTコイルでは1次と2次の巻く向きが逆だった。OSCコイルは455kHz分同調周波数が高くなるのに、バリコンは同じ変位量20pFなので、当然何らかの違いが必要だが、1次と2次の巻く向きを変えると、相互インダクタンスが片方は「+」で片方は「-」なのでちょうどよく差ができるようだ。また、OSCコイルは正帰還をする為に位相を反転する必要があるので、OSCコイルは1次と2次の巻く向きを反転すると良いのかもしれない。何にせよ、1次側の巻き数10回だと2.35µHしか無いので巻き数を増やす。2次側は理論的な知識の持ち合わせが無いので、1次側との比率が大事なのか、自己インダクタンスによるインピーダンスが大事なのか分からず、エイヤー!っと言う感じで6回巻きにした。(ちなみにMW用のOSCコイルは82:8回巻きである。だから少し減らす?)2次側のコイルを内側にしないといけないので先に2次コイルを巻く。そしてその上に1次コイルを巻くのだが、先に巻き初めを半田付けして、適当に多めにUEW線を準備して、多めに巻いたUEW線をLCメーターで測定しながら減らしていく。この為に巻き初めは半田付けしておくのである。両方とも自由だと暴れて測定が難しい。OSCコイルから始めた際にはこれに気づかず大変に苦労した。そもそもUEW線は細くて挟めず、せっかく片方を挟んだのに今度はもう片方が外れるの繰り返し。だから巻き初めは半田付けしておくにかぎる。OSCコイルの最小インダクタンス、つまりコアを抜いた方。写真を見ると分かるように、もうUEW線は細くて両方とも固定無しだと大変だった。まぁでも慣れて、巻き初めを固定してからは楽勝。コアを目いっぱい入れるとインダクタンスはかなり増える。もう完成しているので、足は両方とも半田付け済。コアを中間にすれば20-30µHの中間の25µHで計画通りになる。後は実装して(半田付けして)受信しながらコアを回して調整するだけ。アンテナコイルも同様にして、LCメーターで計りながら巻き数を調整する。まずは最小インダクタンス、つまりコアを最高に抜いた場合。次に最大インダクタンス、つまりコアを最高に入れた場合。OSCコイルよりも変化量が大きい。相互インダクタンスの+や-のせいかもしれないが、僕の知識レベルでは分からない。結局OSCコイルは36回巻き、ANTコイルは37回巻きにした。でもANTコイルはもう少し減らした方が良いと思う。こんな感じでコイルを変えると、一応ラジオ日経を受信可能になった。但し、思ったほど改善されていない。(ニッポン放送に比べての話で有り、NHK並みで聞こえるレベルにはなる。)前回のコイルはぞのままでコンデンサーを追加した場合よりは相当にましだけど。思うに疑惑の回路2は便利なアイデアだけれども、やはり市販のラジオのようにANTコイルも切り替えた方が良いのかもしれない。また調整は測定器が無いと結構難しい。AMラジオの場合は周波数の分かっている高い周波数の放送局でトリマー、周波数の分かっている低い周波数の放送局でANTコイルを調整できるが、短波の場合は周波数が分かっている放送局が無いので、放送局を受信して調整できない。そこで僕は手持ちのディップメーターを使って6MHz付近の変調がかかった電波を出して、それで6MHz付近で最大感度になるようにANTコイルとトリマーを調整できるが、何も無い人は、僕が前に作ったSGもどき(但しエミッター接地型)を使うと良いと思う。愛天堂の水晶発振子周波数測定キットK-XTAL628BでSGもどきを作りました。多分33µHくらいのインダクターを使うと短波帯の色々な周波数を出せると思う。バリコンを回してカウンターが6055kHz位になるようにして、ラジオに近づけると(変調がかかっているので)音が聞こえると思う。トラッキングが調整できていなくても、十分に近くならば音が聞こえる。音が聞こえたらANTコイル(T6)とトリマーで音を大きくしていけば良い。なお、IFTはAMで調整していれば共通なのでいじくる必要はない。また、AMなんかだと通常はANTコイルとトリマーで全周波数帯の平均的な感度を出すが、これはラジオ日経だけしか聞かないので、平均ではなく1点集中型の調整でOKなので簡単。そして実はANTコイルは疑惑の回路2のせいでもう少し減らした方が良いみたい。基板に半田付けして調整すると、コアを最高に抜いてもまだインダクタンスが大きかった。なのでANT巻き数は35-36回巻きかも?完成品にはマジックで「ラジオにっけい」と書き入れた。だっていちいち探すのは大変だから。ちなみに受信感度は「思ったほど改善されていない」と書いたけれどもMWのNHKと同程度。つまり普通に使える。このラジオMW(いわゆるAM)が優秀過ぎるのだと思う。僕の大好きなニッポン放送なんか、ボリューム最小一歩手前にしても聞こえるし、DSPラジオではギリギリでしか聞こえないTBSや文化放送がガンガン入る。完成品はこちら。ビニールテープの傍にあるのは7mmのドリルの刃。右側のイヤホンジャック用の穴を開けるのに使う。本当は6mmが正しいのだけど持ってない。最後にOSCコイルとANTコイルに使ったのはUEWと言うエナメル線なんだけれども、なるべくこれを使ってください。エナメル線にはいくつかの種類が有り、MWのアンテナ線に使うのは(むき出しで切れると困るので)太いエナメル線が使われており、剥かないと半田付けできないが、UEWはそのまま半田付けが可能です。
September 8, 2024
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愛天堂のラジオK-623は2バンドラジオキットなんだけれども、通常僕らがイメージする2バンド=AM/FMではなくAM/SWである。(SWに対してはAMではなくMWと言うのが正しいが、慣用的にAMと書くことにする。)しかも愛天堂のホームページを見ると、SWは周波数範囲:SW5.95〜17.90MHzと書いている。えー!バンドがそんなに広いの?通常のラジオはスーパーヘテロダイン方式なのでバンド幅は2倍以下になっているはずだけど?どう言う意味かと言うと、スーパーヘテロダイン方式は受信周波数の電波と局部発振周波数の電波を混合、中間周波数とし、この中間周波数の電波を増幅することにより、大きな増幅率を得ると同時に一定の選択度を得るようになっている。まず、大きな増幅率はあるレベルを超えると、漏れた電波が入力側に戻って、それが増幅されることを繰り返して発振してしまい使えなくなる。これが一番大きな理由。発振のきっかけとなる電波はノイズでも構わないので、回路に特定の周波数で発振する。次に選択度は、ストレートラジオでは原理的に避けられないのでスーパーにしないと解決しない。例えば600kHzを受信する場合のバリコンの回転角a度に対する周波数の変化を10kHzとすると、1500kHzの時のa度に対する周波数の変化は2.5倍の25kHzもある。つまり600kHz付近ならば隣り合う放送局が15kHz差があれば両放送局は混信しないが、1500kHzでは15kHz離れていても混信してしまうのである。選択度は高い周波数ほど厳しくなる。スーパーヘテロダイン方式ならば、どの周波数でも選択度は変わらない。なので通常販売されているラジオはスーパーヘテロダイン方式が多い。でも入門者の作るラジオはストレートラジオが多い。何故ならつくるのが圧倒的に簡単だし、部品が少ないので安い。多くの場合、聞こえるか聞こえないかが重要だし、放送局の周波数は十分に離れている。ただSW(短波)になると話は変わる。SWのメリットは電離層による電波の反射で遠くまで聞こえること。僕は(今では無くなったけれども)オーストラリアの日本語放送を聞いたことがある。でも、選択度の話は上で書いたように周波数が高くなるほど厳しくなるので、日本で唯一の短波放送である、ラジオ日経はしばしば某国のラジオの電波に負ける。日本海側の人は某国のせいでラジオ日経は聞こえないのではないかと思う。で、話は戻ってスーパーヘテロダイン方式であるがここまで書くと欠点が無いようにみえるが、実は大きな欠点が有る。イメージ周波数である。受信周波数の電波と局部発振周波数の電波を混合して中間周波数を得るのであるが、原理上、受信周波数の電波は、受信周波数の電波=局部発振周波数+中間周波数の場合と、受信周波数の電波=局部発振周波数-中間周波数の場合がありうる。日本のAM放送は受信周波数の電波=局部発振周波数-中間周波数を採用しているが、もし局部発振周波数+中間周波数にも放送局が有るならば、局部発振周波数-中間周波数の関係にある放送局と混信してしまう。これをイメージ周波数と呼ぶ。なのでバンド幅は中間周波数の2倍以下に抑えるのが普通。まぁでも端々はあまり使わないので、日本の場合ちょっと超えている。もう一つの欠点は局部発振周波数を得る為の発振回路の問題である。発振回路にはインダクタンスLとコンデンサーCを使うが、この2つは周波数に対してインピーダンスが大きく変わり、しかも特性が逆である。なので必然的に周波数に対して同調回路のインピーダンスが大きく変わる。と言うことは発振出力を一定に保つのがものすごく難しい。なので、愛天堂のラジオのホームページに書いてある周波数範囲:SW5.95〜17.90MHzは眉唾なのである。本当なのだろうか?実はラジオのダイヤル目盛を見ると15~16.5MHzと印刷されている。これが本当だろう。実感と合う。バンド幅はこの程度だろう。僕は何とかSW部分を改造してラジオ日経を聞けないかと研究していた。今年の夏は暑かった。家の中に居ると空調に使う電気代はものすごい金額になる。それに仕事もしていないのでヒマだし、年金は安いのでお金が無い。そこで図書館で本を読むことにした。その時にものすごく良い本を見つけた。「LTspiceで独習できる!はじめての電子回路設計(鹿間信介)」である。LTspiceとはパソコンで使える電子回路シミュレーターで無料で使える。貧乏人に優しい。さっそく借りて実際に使ってみた。まずは通常のAMラジオの同調回路をやってみる。バリコンがminの場合、つまり最高周波数である。1620kHz付近。画像の上で右クリックをして出るメニューから「別のタブで画像を開く」を選択すると、別のタブで大きな画像で見られます。おぉー!面白い。良い物を見つけたなぁ。タダで遊べる。次にバリコンがMaxの場合、つまり最低周波数である。520kHz付近。530kHzって書いちゃった。ごめんなさい。どちらでも、山がピークになっている所が受信周波数である。バリコンをminからMaxに回していくと山は左(周波数が低い方)へ動いていく。つまりラジオの受信周波数がバリコンの回転に伴って動くのである。いつも現実のラジオでやっていることがちゃんとグラフで見られると面白い。ちょっと科学的になった感じがする。ここで現実の回路に近い状態にする為に、よく「等価回路」で見られるように抵抗分を追加する。上のバリコンMaxの状態でLとCに並列にR(抵抗)を入れてシミュレーションしてみる。Rが無い場合に比べて山がなだらかになっている。教科書で教えてもらった通り。ピークは下がり、ピークから一定のゲイン(上のグラフでは10dB)下がる周波数範囲は広がる。つまり回路のQが下がっている。このRは無限大つまり無い場合が最高で、抵抗値が下がるほどQは減り山は広がる。うーん、面白い。これを使えば愛天堂のラジオK-623の何が間違っており、どうすれば改善できるか分かりそうな気がする。まずはK-623の回路図を見る。この回路の面白い所はAM/SWの切替をOSC回路の切替だけで済ませている所である。本当にそれで良いの?通常お店で売っているラジオはOSCだけでなくANTも切り替えるよ?まぁ革命的なアイデアが有るのかもしれない。最初はホームページに書かれた周波数範囲:SW5.95〜17.90MHzが正しいのか、ダイヤル目盛を見ると15~16.5MHzが正しいのか調べてみよう。やってみることにした。ANT回路つまり上の回路図の「疑惑の回路1」である。但し大きな難点がある。実はANTコイルのT6はコンデンサーを内蔵した缶入りコイルなので、直接測れない。仕方ないので分解してみた。既に基板に半田付けしてあったので大変だった。まずはコンデンサーを測ってみる。次にコイルを測ってみる。これが大変だった。上の写真のLCメーターは小さいインダクタンスは測れない。途方に暮れていたら、過去に作った自作のLCメーターを思い出した。知らない間にすごいのを作っていたんだなぁ。市販品よりもすごい。我ながら感激。計測結果を元にシミュレーションしてみた。なおコイルもコンデンサーも測定器が低めに表示するのが分かっているので、直近上位の数値に丸めて計算した。えー!15MHz付近じゃん。最低周波数なのに?と言うことは愛天堂のホームページの周波数範囲:SW5.95〜17.90MHzは間違いだな。まぁでもせっかくだから最高周波数もシミュレーションしてみよう。えー!あんまり変わらないじゃん。思うにバリコンが20pFしかないのに、コイル内蔵のコンデンサーが40pFであり、バリコンとコイルの間に入ったC3(回路図だとC12)が10PFで直列なので、バリコンの変化量が全然効いていないのだと思う。ダメじゃん!ダイヤル目盛も怪しいな。じゃぁ、どの位改善できるか分からないけれど、内蔵コンデンサーとC3を削除しよう。そして、そのついでに受信周波数をラジオ日経の6055kHz付近に合わせよう。やってみた。バリコンの20pFに250pF位を抱かせると良いみたいだが、我が家には無いので220pFでやった。まずはバリコンMaxつまり最低受信周波数。なお、これはOSCコイルの方である。なので中間周波数の分周波数が高く、6400-455=5945kHzが受信周波数になる。OSCコイルもANTコイルと同じような構成になっており、使えなかったので、まずはこちらをやってみたのである。コイルに並列なコンデンサーの255pFと言うのは、外付けコンデンサー220pF+バリコン20pF+トリマー他諸々の容量15pF=255pFである。この状態でバリコンminつまり最高受信周波数にして見る。うーんバンド幅が狭いのは、バリコンが20pFと小さいので仕方ないけれど、なんとか5945~6245kHzになるな。上手くいけば使えそうだ。いよいよANTコイルなんだけれども、回路図の「疑惑の回路2」を見ると分かるように変だ。通常の市販ラジオではAM/SWを切り替えるには、OSCコイルとANTコイル両方を切り替える。この回路はOSCコイルとANTコイルが2次側で直列になっている。大丈夫なの?さっそくシミュレーションをしてみた。なお、OSCコイルの実験で余計なコンデンサーを付けるのはダメだと分かっているので、シミュレーションにあたり省略し、抱かせるコンデンサーはラジオ日経に合わせている。まずは最低受信周波数。次に最高受信周波数。うーん。何とか使えそう。実際の基板・回路の改造は、まずはOSCコイルとANTコイルの内蔵コンデンサーを外し、C12とC14をショートして、OSCコイルとANTコイルのそれぞれに220pF(我が家には250pFが無いので)を取り付ける。これで聞こえそうな気がする。但し、調整が滅茶滅茶難しい。実際にはどうするかと言うと、放送波を聞いて調整するのは無理なので、適当な電波の発信源を使って6055kHz付近が聞こえる状態にしておき、その状態でラジオ日経を受信して、調整して最高感度にするしかない。適当な電波の発信源は、僕の場合は手持ちのグリッドディップメーターを使った。最近の測定機に比べるとアバウトだけれども、変調がかけられるので、耳で聞こえる。ディップメーターを6MHzにして、簡単な電線を巻いてアンテナにして、まずは近くに置いて聞こえる状態にして、調整しながら遠くへ離していく。僕の場合概ね2mくらい離しても受信可能になったので、実際に聞いてみた。1日目はダメだった。いや、聞こえなかったのではない。雑音がひどく、なんとなく某国の言葉が聞こえる。多分混信しているのだと思う。つまり遠くの電波が入る夜は某国の電波が邪魔してダメなんだなと気がついた。そこで2日目は昼間にやったら、あっけなく聞こえた。但しベランダでだけれども。今回はベランダでしか聞こえなかったので、次回は自分の部屋(かなり電波条件が悪い)で、聞こえる物を作ろうと思う。今回ベランダでしか聞こえなかったのは、コイルとバリコンの組み合わせが悪いのだと思う。外付けの220pFは無い方がバンド幅が広く、受信感度が上がると思う。なんせコイルが2.5µHと言うことはインピーダンスが100Ωくらいしかなく、ICの入力部分にマッチしていないのだと思うから。だから次回はコイルをほどいて、巻きなおすつもりである。
September 3, 2024
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戸谷学氏の「古事記はなぜ富士を記述しなかったのか」を読みました。初めに御断りしておきますが、この本自体はトンデモ説に近く、お勧めはできません。でもそれはこの方の職業上仕方が無いことです。この方は神社の神職をされておられるので、話がどうしても現実から離れる傾向があります。ただ、この方は博識で非常に参考になる知識を紹介してくれるので、いわば他山の石的な感覚で読むと面白いです。まず戸谷氏は、藤原不比等にとって都合が悪い秘密=聖徳太子を象徴化する為に利用したにもかかわらず、そのせいで富士山を古事記の中に書くと「聖徳太子の富士登山」から「聖徳太子を守護神とした中臣氏」が想起され、それが藤原氏の祖である渡来系海人族の「鹿島」を想起させることになって、藤原氏が鹿島氏同様に「渡来人」であることがバレてしまうから、隠したのだと説きます。当時、渡来人の血統は皇族に連なることはできなかったからです。確かに「秦氏」や「東漢氏」のような渡来人は、たとえば秦氏のように平安京を作る為に活躍しても皇族には入り込むことはできませんでした。桓武天皇による新しい世界を求めての長岡京への遷都では、造営長官‣藤原種継の義父として、種継亡き後は同じく平安京造営長官‣藤原小黒麻呂の義父として、後ろ盾となって新都建設に取組み、秦氏一族は平安京の最大の貢献者になったのですが、それでもです。蘇我氏のように「本当は渡来人ではないか?」と思われる氏族でもそうです。蘇我馬子の祖先達には韓国系を思わせる名前が多く、竹内宿禰-蘇我石川-蘇我満智-蘇我韓子-蘇我高麗-蘇我稲目-蘇我馬子と、もしかすると蘇我氏は渡来人と思うような名前の祖先が並び、さらにこの中の蘇我満智は百済の官人木満致であるかのような記述が、日本書紀の履中紀に書かれてます。ただ、年代が合わないので「蘇我満智=百済の官人木満致」は否定される向きも多いのですが、その後の韓子-高麗もふざけているのかと言うくらい変です。そのせいか、曽我氏は娘達を必死で天皇家に送り込み、やっと願いをはたしています。『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類しています。まぁそれはそれとして、僕が参考になるなと思ったのは、富士山の名称の「富士」の由来となった「富士原」です。え?「藤原」にそっくり?しかも「富士」は訓読みではなく音読みになっている。日本の古い地名なのに何故音読み?ここで戸谷氏は関東には秦の徐福が来て開いた国が有り、その都は大宮の氷川神社付近に有ったと説くのです。いやートンデモ説かなとも思います。ただ、徐福が秦の始皇帝から命ぜられて「不老不死の妙薬」を探しに日本を目指したことは、中国の史書である史記にも書かれています。富士山は「不死の山」から来ていると言うのも古くから言われてきたことです。さらに言えば「かぐや姫」伝説で、かぐや姫が残した不死の薬が焼かれて煙となって立ち上った所でもあります。だから、まぁトンデモ説なんだけれども、一応もしかしたら的な感じではあります。でも戸谷氏の攻撃はまだ続きます。徐福の本来の記述は「徐市(じょふつ)」だと書いてあるのを見ると、もしかするとと思ってしまいます。そう、香取神宮の祭神である経津主神(ふつぬしのかみ)のお名前です。一般的には、刀を振るう時の「フッ」と言う音が由来だと言うことになっていますが、僕には刀を振るう時の音は「フッ」とは聞こえません。刀はそんなに軽くはないです。よほどの名人か力持ちでも「シュッ」だと思います。「フッ」と言う音は、例えばロウソクを吹き消す場合のように軽い音です。まぁそれは冗談にしても「フツ」が「ジョフツ」の「フツ」ならば経津主神=徐福になります。富津には徐福の子孫がおり、たくさんある古墳群はその子孫のものでしょうか?そう気になるのが富津の古墳群です。富津の地名の由来も経津主神同様に刀を振るう時の音と言う説が有るのですが、徐福に由来すると言う方がもっともらしい。そして何よりも富津古墳群の傍に有る飯野陣屋跡が気になります。ここには藤原鎌足の桜があり、鎌足の名前の由来が書いてあるました。鎌足のお母さんは、ここに居た狩野長官の娘で、常陸国鹿島に嫁ぎ、そこで子が生まれた際に白狐が現れて神秘の草刈鎌を授け、その鎌に由来して子に「鎌子」と名付けたのが、後に中臣鎌足となったと言うものです。僕は飯野陣屋跡にそれを見に行って来ました。横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その16)千葉の富津古墳群に行って来ました。伝説なのでどこまでが本当かは不明だが分かりませんが、後世の大鏡にも同様の話が載っていますから本当かもしれません。ならば、藤原氏は鹿島の子孫であるとともに徐福の子孫なのかもしれないと言うことです。そう、だから富士山は関東の人にとっては霊山で「不死の山=富士山」と呼ばれて、そのふもとを富士原と呼ぶようになった。つまり「富士原」が「富士山」の名前の由来ではなく、逆に徐福が生涯をかけて求めた山である「富士山」が「富士原」の元になったと言う事です。また、それ故に中臣鎌足は「藤原」の名をを天智天皇に頂いた。うーん眉唾だけれども面白いなぁ。そうか、だから古事記で経津主神が霊剣として登場するのは、ここに徐福が連れて来た鍛冶職人が居たからか。そうだよな。砂鉄は鉄の材料としては品質が劣るので、当時の日本人では鎌くらいは作れても刀のような強度を必要とする品物は作れないよな。だから九州や近畿の人達は、相当に遅くまで朝鮮半島から鉄の素材(板)を買っていたんだよな。鎌倉や横浜の金沢区は地名的にも鉄の関連を想像させる名前だし、近所には鍛冶ヶ谷や釜利谷のような地名があるし、栄区には古い製鉄遺跡が残っているし、畠山重忠が秩父から鍛冶職人を連れて来たと言う記録が残っているし、この辺が鉄の製造に関連する言い伝えが残るのは、元々古くから鉄を作る職人がいたからかも?そしてその人達は、徐福が中国から連れて来た人達なのかも?じゃぁ、九州や近畿以外に、関東にも大きな国が有ったとしても不思議は無いなぁ。根拠が無くて妄想なんだけれども、面白いなぁ。<参考>根拠にはできないのだけれども、参考にはなると思うので書く。常陸国風土記の香島群(風土記の時代には「鹿島」ではなく「香島」だった)に群役所東方23里に高松浜があり、慶雲元年(704年)、国司の婇女朝臣が鍛冶の佐備大麻呂らを率い、ここの砂鉄を用いて刀を作らせた。と書かれている。鹿島神宮には経津主神の霊剣「経津御魂(ふつのみたま)」が神宝として所蔵されている。つまり古代にはここは鉄と刀の産地で、神武天皇の東征の際に届けられた経津主神の霊剣はここから贈られてきたのかも?まんざら作り話ではないのかもしれない。
August 29, 2024
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月12日に「邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?」を書いて、「稻羽之素菟」(「因幡の白兎」ではない)や天孫降臨について書き、邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その中で「海幸彦・山幸彦」の神話は、兄弟の相続争いのことを書いた物であり、ただ生々しくは書けないので神話の形になったと書いた。その中で皇孫の子孫は当時はまだ宮崎県と鹿児島県の国境付近、都城付近に居り、山幸彦を助けたのは歴史に登場する前の和邇氏の祖先で、それ故に山幸彦の奥様は神話の中で八尋の鰐とされたと書いた。ワニザメが人間の子供を産むわけが無い。和邇氏の娘だから人間の子を産むのである。今回はそこから景行天皇の九州行幸までを「想像たくましく」関連付けてみる。なんせ古事記や日本書紀にもこの辺は神話としてしか残っておらず、確たる証拠は無いのだから、ある程度は想像に頼らざるを得ない。でも僕は魏志倭人伝同様に、古事記や日本書紀に書かれたことはある程度信用すべきとそう思っている。だって天皇が指示して、当時の最高峰のメンバーが編纂した国史がいい加減なはずがない。神話と言えども何らかの史実に基づいていると思うし、誤りは当時のことなので仕方ないけれども間違いは無いと思うから。山幸彦の奥さんがワニザメだったのと同様に、その子の彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(いわゆるウガヤフキアエズのミコト:神武天皇の父)も謎が多い。そのせいか、偽書とされる「ウエツフミ」や「竹内文書」に登場するウガヤフキアエズ王朝は、めちゃくちゃな伝説が多い。なのでこの辺の古事記や日本書紀の記述は「神話」であり意味がないとされ、真面目に研究したり、調べる学者は少ない。(反対にマニアは大好きで良く書いている。)でも本当に神話で研究する価値が無いのだろうか?僕はそうは思わない。この辺のことがはっきりとせずに、ちゃんと記録に残っていないのは、上にも書いた「海幸彦・山幸彦」の神話が兄弟の相続争いのことだったせいだと思う。恐らく相当に混乱して記録が残っていない(あるいは故意に破棄された)からだろうと思う。例えば上に書いた偽書に書かれたウガヤフキアエズ王朝が異常に栄えて永く続いているのは、争いが何代も続いて、片方はいわゆる神武東征に書かれたように大和の地に向かい、宮崎に残された方が(頑張って)作り上げた想像上の王朝だからではないだろうか?大和に向かって成功した片割れをうらやんで残った片割れが書いたからである。そう、僕は宮崎県小林市に有った邪馬台国が狗奴国との戦いの後に2つに分裂して、西都原に有った投馬國のメンバー及び狗奴国の残党と一つの「征服団」を作り、時間をかけて大和へ向かいながら、少しづつ大きくなっていったのが神武東征だと思う。そう考えると全ての疑問がうまく解決する。その疑問とは以下のことである。1.もし古事記や日本書紀に書かれたように日向が天孫降臨の場所ならば、 景行天皇はなぜ南九州を攻めなくては行けなかったのか?2.そもそも神武天皇は何故大和を目指したのか? 父親の彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊やお祖父さんの山幸彦の国である宮崎で大王になり、 それから九州をまとめて、次第に東に国を広げたらよかったのに、 何故突然に東つまり大和に向かったのか? 古事記や日本書紀に書かれているように「葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か」 などと言うのは、そもそも「葦原中国」と言うのがどこなのかから始まり、 当時としては「東のはて」だった大和を目指す意味が分からない。 普通は国を治める際は、都は国の中心では?何で端っこ?3.邪馬台国時代の邪馬台国の官「伊支馬(いきめ)」の名前が付いた古墳(生目古墳群)や 投馬國の官「彌彌(みみ)」が美々津と言う地名で残っており、 伊支馬(いきめ)は垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)のお名前の中にも残っているのに、 それが何故歴史の中で消えていったか?4.継体天皇のお墓(今城塚古墳)や推古天皇の初陵(植山古墳)に有った石棺が、 熊本の馬門石で造られた物で有ったことから、 この時期の天皇家の祖先が熊本付近で有っただろうと言うのは容易に想像できるが、 熊本付近には狗奴国が有ったはずである。ならば天皇家の祖先は狗奴国か? 狗奴国の官はに狗古智卑狗(くくちひこ)であり、これは菊池彦の祖先とされるから。 なお、菊池城が後世の建築であり、菊池氏が平安時代の氏族であることから、 これを否定する人もいるが、 和名類聚抄には「菊池」と書いて「久々知(くくち)」と注釈されており、 僕はそれ以前つまり卑弥呼の時代から使われていた地名だと考える。5.景行天皇の九州行幸は古事記には書かれていない。 熊襲を征伐したのはヤマトタケルの命であり、日本書紀でも2回目はヤマトタケルが行く。 でも景行天皇の業績とヤマトタケルの業績はダブっており、 昔はヤマトタケルは空想上の人で景行天皇が実在したと考えられていたが、 今は景行天皇も空想上の天皇で、 ヤマトタケルの命の業績は複数の人物の業績を一人にまとめたと考える人が多い。以上なんだけど、何故、僕の仮説である、邪馬台国が2つに分裂して、片方は大和を目指し、残った片方が宮崎で熊襲になったと考えると都合が良いかと言うと、疑問1.は自動的に解決するから。なんせ2つに喧嘩別れしたのだから、熊襲が景行天皇に反発するのは当然である。なので景行天皇は邪馬台国の残党である熊襲を攻めたし、熊襲はその後も反乱して、仲哀天皇の時代にも暴れた。疑問2.も自動的に解決する。投馬國は和邇氏との対決上、邪馬台国の神武天皇派を受け入れたが、さすがに自分達の国を乗っ取られるわけにはいかないので、少しの部下を付けて「追い出した」のだと思う。狗奴国は邪馬台国と戦っていた頃に比べて弱体化していたし、元々狗奴国の王は卑弥呼の弟で、神武天皇も他人ではなかったので、ここもていよくあしらって少しの部下を付けて追い出した。こうして神武天皇は新しい地を目指すしか無くなったのだと思う。なので、当時としては一番東の果てである大和に着いたのだと思う。要は居場所が無かった?疑問3.も自動的に解決する。大和に向かったグループは故郷を捨てて行ったのだから、名前は残ったとしても未練はなく、垂仁天皇も、もはや「大和の王」であって、宮崎には垂仁天皇の「親戚」しか残っておらず、その親戚達のお墓が生目古墳群なんだと思う。ただ、垂仁天皇は皇后は丹波道主王の娘をもらって、その子が景行天皇なんだけれども、妃の内の一人は開化天皇の娘で狭穂姫命と言う。僕は実はこのお姫様は西都原古墳群の中の男狭穂塚と女狭穂塚に関係があるお姫様だと思う。もしかしたら女狭穂塚が彼女のお墓なんではとも思っている。彼女はお兄さんの命令で垂仁天皇を殺そうとして、でもそれができず、お兄さんと一緒に焼け死ぬのだけれども、そのお兄さんのお墓が男狭穂塚だと思うのである。疑問4.は狗奴国との関係次第である。元々狗奴国の王が卑弥呼の弟だったのならば、血の濃さの関係はあるが皇位に近く、継承争いは熊襲との間だけではなく、狗奴国の親類との間でも続いたのだと思う。なので、仲哀天皇と神功皇后の不思議な関係となり、仲哀天皇は殺されて、神功皇后は息子の応神天皇を皇位につける為に麛坂皇子、忍熊皇子を殺したのだと思う。神武天皇に随行した狗奴国の人の中に天皇家の中に入り込んだ人がいたのではないだろうか?疑問5.は正直な所は何が本当なのかが分からない。ただ、日本書紀に書かれた景行天皇九州行幸の記述を見ると、面白いことが分かる。筑紫に行ったと言うのに、入ったのは豊前つまり北九州の東側で、帰りは福岡県浮羽郡あたりから直接大和に帰っている。つまり後に九州の中心となる大宰府や邪馬台国時代の奴国・伊都国付近には寄っていない。つまりこの時代の九州の中心は浮羽郡付近だった?後世、白村江の戦いの際に斉明天皇は筑紫の朝倉宮に居た。浮羽郡と朝倉市は隣り合わせである。もしかして朝倉宮は朝倉市または浮羽郡あたりに有ったのではないだろうか?そして5月18日に書いたように、水城は(当時はまだ無かった)大宰府を守る為に作られたのではなく、朝倉宮を守る為に造られたのではないだろうか?邪馬台国はどこにあったか(その49)歴史の真実を求めて九州一周その2以上を景行天皇の九州行幸のルートとして地図にして見た。そうそう、よく熊襲とは何か、どこに居たのかが議論になるが、日本書紀を読む限りは議論の余地はない。宮崎の南側つまり上の地図で言えば宮崎の鰐塚山付近に居た、邪馬台国の宮崎に残った片割れである。それは日本書紀の以下の部分を読めば分かる。<原文>十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。十二月癸巳朔丁 酉、議討熊襲。於是、天皇詔群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・迮 鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥、 其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒 刃之威、坐平其國。」時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾 鹿文乾、此云賦、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以撝 納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」 天皇詔「可也。」~途中略~十三年夏五月、悉平襲國。因以居於高屋宮已六年也<意訳>十一月、日向国に着いて行 宮を建ててお住みになった。これを高屋宮という。十二月五日、熊襲を討つことを相談された。天皇は群卿に詔して、「聞くところによると、襲の国に厚鹿文、迮鹿文という者がおり、この二人は熊襲の強勇の者で手下が多い。これを熊襲の八十枭帥と言っている。勢力が盛んでかなう者がない。軍勢が少なくては、敵を滅ぼすことはできないだろう。しかし、多勢の兵を動かせば、百姓たちに害となる。兵士の威力を借りないで、ひとりでにその国を平定できないものか」と言われた。一人の臣が進み出て言った。「熊襲梟帥に二人の娘があります。姉を市乾鹿文といい、妹を市鹿文といいます。容姿端正で気性も雄々しい者です。沢山の贈物をして手下に入れるのがよいでしよう。梟帥の様子をうかがわせて不意を突けば、刃に血ぬらずして、敵を破ることもできましょう」天皇は、「良い考えだ」と言われた。~途中略~十三年夏五月、ことごとく襲の国を平定した。高屋宮にお出でになること、すでに六年である。つまり日向の高屋宮に来て初めて熊襲梟帥(くまそたける)を始めとした熊襲の討伐を相談し、そこに6年間いる間にことごとくその国を平定している。日向の高屋宮に来るまでは熊襲とは戦っていない。他の賊とは戦っているが、熊襲ではない。特に大分や雲仙の賊は風土記を読むと「土蜘蛛」と書いて熊襲よ区別している。そして景行天皇はここ宮崎(日向国高屋宮)で熊襲を平定した後に筑紫に向かわれるのである。なお、筑紫に行く途中で熊國で熊津彦と戦われるが、「熊襲」ではなく「熊」である。熊襲はちゃんと「熊襲梟帥」と書いており、区別されている。なので、ちゃんとした証拠は無いが、邪馬台国が2つに分裂して、宮崎に残った片割れと、神武天皇以下大和を目指したグループに分かれたと考えると、色々な問題が解決するのである。そうでないと神武天皇が大和を目指した理由と景行天皇が九州行幸を行った理由が説明できない。
August 28, 2024
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7月12日に「邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?」を書いて、「稻羽之素菟」(「因幡の白兎」ではない)や天孫降臨について書き、邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?8月4日に「邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?その2」を書いて、「天岩戸伝説」も単なる伝説ではなく、過去の史実を大人の事情からぼかして書いたために、後世の人達が独自の解釈をしたせいであり得ない話になったと書き、邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その28月4日に「邪馬台国はどこにあったか(その58)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?その3」を書いて、「物部氏が実は朝廷の租税や財産の管理をしており、天皇家を支えていた」ことを書いて、蘇我氏と物部氏の争いが表面上は「崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の争い」に見えるが、実は朝廷の権力を背景にした租税や財産の所有権をめぐる争いだったのだと書いた。邪馬台国はどこにあったか(その58)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その3でも3番目は蘇我氏の時代の話で神話じゃないのではと言われるかもしれないので、ちょっと付け加えると、僕は物部氏とは出雲の大国主の子孫だと思っている。実は古事記と日本書紀では、国譲りの後始末が少し違うのである。国譲りに際して、大国主が代わりに天にも届く社を建ててくれと要求する際の記述である。まずは日本書紀の方。<原文>故、大己貴神、則以其子之辭、白於二神曰「我怙之子、既避去矣。故吾亦當避。如吾防禦者、國內諸神、必當同禦。今我奉避、誰復敢有不順者。<意訳>そこで大己貴神は、その御子(事代主命)の言葉を二柱の神に告げ、「私が頼みとした子はもういません。だから私も身を引きましよう。もし私が抵抗したら、国内の諸神もきっと同じように戦うでしよう。今、私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう」と言われた。つまり単に「降参」しているだけである。ところが古事記には、少し違うことが書いてある。<原文>唯僕住所者如天神御子之天津日繼所知之登陀流天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理於高天原水木多迦斯理而治賜者僕者於百不足八十坰手隱而侍亦僕子等百八十神者卽八重事代主神為神之御尾前而仕奉者違神者非也<意訳>ただ私の住む所は、天津神の御子の天津日嗣(天照大御神の子孫)が治める世のご立派な御殿と同じぐらいに、地の底の岩に宮柱を太くし高天原まで千木が高く達する宮とし、統治していただけれぼ私は国土の隅々の多くから身を引きお仕え中し上げます。また私の子ら八十神はそのまま八重事代主が神々の端に加えさせお仕え申し上げさせますので、違える神はありません。」そもそも世間一般に言われているように、大国主は死んではいない。「(隱而侍)つまり政治の表舞台には出ずお仕えする」と言っている。しかも「(八重事代主神為神之御尾前)つまり八重事代主が神々の端に加えさせお仕え申し上げさせます」と言っている。そうすれば出雲の一族は誰も逆らわないと。つまり出雲の一族は天皇家に仕えて、支えることにより生き延びて、以降も天皇家と婚姻関係を結ぶなどして栄えていたのではなかろうか?大国主命は大和から離れて島根の出雲に隠遁した、それが出雲大社の前身だったのだと思う。そしてここまで書くと分かるように、事代主命は三輪山に葬られており、奥さんは箸墓の主の倭迹迹日百襲姫命である。つまり出雲は滅んだわけではなく、名前を変えて生き延びているのである。僕はそれが物部氏だと思っている。物部氏の祖はニギハヤヒである。ニギハヤヒが義理の兄のナガスネヒコを殺して神武天皇に仕え、その娘をもらって神武天皇に可愛がられたと書かれているのに合っている。古事記や日本書紀は一人の人間の記憶から作られたのではなく、集められた諸家の記録や言い伝えをまとめられたものである。大和朝廷の初期の話も色々な家や人により、少しづつ違っていたのだろう。だから僕は「神武東征」と「国譲り」は一つの争いを2つの側面から見たものと考える。最初は武力衝突から始まったのだろう。そして天皇家はナガスネヒコに負ける。でも宮崎から来た天皇家には味方がいた。同じ海人族の人々が、宮崎から黒潮に乗り尾張、千葉や茨城に流れて国をつくっていたのだ。そこで神武天皇は彼等に助けを求めて味方の来る熊野に回る。お日様を背に受けて戦っても、お日様が助けてくれるわけがない。まずは高倉下、尾張から来た人である。でもまだ戦力が足らず、また敵に負けて、みんな気絶してしまう。その時に千葉から武器が届く。援軍は無理だけれどもと、武器を寄越してくれたのである。布都御魂(ふつのみたま:神剣)である。千葉の鹿島神宮に祀られた剣である。日本書紀等では、国譲りの場面でも鹿島神宮の祭神である「建御雷神」に従って活躍する。経津主神(フツヌシ:布都御魂の神)が刀に変身したことになっているが、現実的ではない。恐らく、兵を送るのは困難だからと武器を送ったのだろう。千葉の香取神宮の祭神である。いずれ書こうと思っているが、千葉の富津の古墳群はこの神々のものだと思っている。そして彼らは鹿島氏、千葉氏や三浦氏につながっていくのだろう。千葉だけではなく三浦半島や横浜市金沢区にも鹿島氏の子孫が残っている。伊豆から東北にかけては砂鉄の産地が多い。鎌倉はその砂鉄から作られた鉄製品から付けられた地名だし、付近には鍛冶ヶ谷とか釜利谷と言う鉄にちなむ地名が多く、金沢区もそうである。栄区には製鉄遺跡も残っているし、金沢区の長浜からは昔は「金くそ(製鉄時に出るスラグ」がとれた。特に金沢区には有名な畠山重忠が秩父から招いた鍛冶職人の話も残っている。なので付近は鉄製品の供給地帯だったのだろう。大和で行われた国譲りや神武東征に千葉県の神々が活躍するのは、ここに天皇家の協力者がいたからである。鉄剣を入手した天皇家は勢いを盛り返して大和に迫る。そこでさすがに疲れ果てた天皇家は劣勢を意識したニギハヤヒに講和を持ちかける。その結果、家来にして大事にしてくれるならとニギハヤヒはナガスネヒコを殺して講和に応じた。それが国譲りなんだと思う。だって島根でせっかく国を譲ってもらったのに、反対側の宮崎に天孫降臨して、結局大和に攻め上るのは理論的に変だから。古事記や日本書紀は、たくさんの資料を集めて編纂したので順序や互いの関係が乱れて、書かれた順番通りじゃないのだと思う。僕はこれが古事記が世の中から消されて、日本書紀に出雲の記述が少ない原因だと思っている。よく藤原不比等が日本書紀に手を加えて、真実の歴史をゆがめたと非難されているが、実はこの当時まで生き残っていた蘇我氏の傍流(石川氏)が暗躍していたのだと思う。藤原不比等にしてみれば、その程度のことで石川氏が協力してくれるなら安いものと考えて、取引の材料にしていたのだろうと思う。つまり古事記が消されたのは、蘇我氏と敵対していた物部氏に最後の一撃を加える為だった。僕はそう思うのである。蘇我蝦夷の館で帝紀と旧辞が焼かれた時に、編纂途中であった古事記には出雲の記述が有った。この時点までは、物部守屋は居なくなってもまだ物部氏の一部は残って抵抗していたから。でも壬申の乱で物部日向は大友皇子側につき、捕虜となって天武天皇側につく。そして物部首は姓を連に改め、社地の名によって布留宿禰姓に改めて、物部氏は消えていく。こうして古事記は物部氏と共に滅ぼされて、日本書紀では出雲と物部氏は陰に隠れた?そう思うのである。違うかなぁ?
August 27, 2024
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いつの日にか卑弥呼のお墓を見つけるのが僕の夢なので、一応安物だけどGOPro(もどき)=アクションカメラと、USBロング光ファイバーカメラ(先端にLEDが付いて穴に差し込んで穴の中を写せるカメラ)を買って有る。でもそれ以前にパット見では丘や山と区別がつかない古墳を探す為に、おそらく古墳に埋まっているだろう鏡や刀剣を探す為に必要な金属探知機を探している。金額が高い物は有るのだが、中途半端なのは高いだけで役にたたない。YOUTUBE等で見ても、せいぜい深さ5cm程度でしかない。いや地表に有るのならば10cm位は何とかなるんだけれども、地中に埋まっているとせいぜい5cmなので役に立たない。なので自分で作ろうと思っているのだけれども難しい。でもまぁ人生先は長いので、まずは基礎からと思い勉強している。学校の勉強は大嫌いだけれども、好きな物の勉強は苦にならない。徹夜でもOK!で、基礎の勉強はまずは作ってみる事だと思ってAMAZONで探してみた。愛天堂にも1つ有るのだけれども、それは過去に作っている。2022年3月21日のブログである。愛天堂の金属探知機[AKIT-400B]を作りました。今回AMAZONの新しい金属探知機を見つけたので作ってみた。これである。何となく愛天堂の物に似ているけれど、大丈夫かなぁ?でも愛天堂のは四角だし、これは円形。でも形が違うだけかも?さっそく買ってみた。まぁ千円未満なので愛天堂のと同じでも良いか。すぐに届いた。開けて見たら中国製の物にしては珍しく、(中国語だけれども)説明書が入っていた。その中に回路図が有った。(上の写真の0.001µHと0.1µHは、それぞれ0.001mHと0.1mHの間違いです。)えー!愛天堂のと同じじゃん。まぁでもせっかく買ったのだから、何か一つだけでも有効活用しよう。そう思って、基板に作られたコイルを計ってみることにした。(上の写真の0.001µHと0.1µHは、それぞれ0.001mHと0.1mHの間違いです。)コイルの両端に写真のように差込口を付けてインダクタンスを計った。なお、コイルL1とL2の一端は共通でVDDにつながっているので差込端子は3つで良いのだが、L2はコンデンサー経由でQ1のベースにつながっている。このコンデンサーの足も差込口にすれば、コンデンサーを変えることが可能になり、共振周波数を変えることができる=もしかしたら周波数を変えれば性能UP?これを確かめられるなと思って、ここも差込端子にしたので4つ差込端子が有る。で計ってみたが、L1の方は小さすぎて僕の測定器では計れなかった。多分0.001mH位だと思う。それに対してL2の方は0.1µHで測定可能だった。(上の写真の0.1µHは0.1mHの間違いです。)L1とL2で1000倍も差があるんだ。L2からL1に正帰還(基盤の裏表にコイルを作ることによりうまく位相を反転している)して発振させているのだから、まぁ1:10くらいかなと思っていたら1:1000。奥が深いと思った。で、愛天堂と同じ回路だと言うのは悔しかったけれども、愛天堂の四角いコイルに対してこちらは丸いのは、効果が有るのか?気のせいかもしれないけれどこちらの方が感度が良い。それは検知するのがコイル部分の個々の銅線部分ではなくコイル全体で検知しているから、多分そうだと思う結果が出た。周辺部つまり銅線部分に金属を近づけても検知せず、中央に近づけると検知する。ニッパーを近づけて実験した。まずは周辺部。LEDがうっすらとしか点かない。ニッパーは接触しているのにである。次に中央部分に近づけてみた。中央部だと3cmくらい浮かしても検知する。つまり(銅線の無い)中央の方が検知能力が高い。多分磁力線なのか電気力線なのか不明だけれども、その密度が高い中央部が検知能力が高いのだ。次に検知する金属の大きさと検知能力を比較してみた。ニッパーよりも小さいドライバーを近づけてみる。まずは周辺部。大きな金属であるニッパーの場合はうっすらとLEDが点灯していたが、こちらは全く点かない。でも中央部に近づけると、ちゃんと点灯する。でも感度は低い。そして、面白いと思って半田(右上のくるくる巻いた半田)でもやってみたら、なんと鉄ではない半田でも検知した。これは意外な結果であり、僕的には「やったー!」と言う結果だった。つまり鉄製の剣ではなく、銅鏡や銅剣でも使えると言うことである。少し希望が出た。いずれコンデンサーを変えてみて周波数の違いによる検知能力の変化も調べよう。そして、コイルの大きさも変えてみよう。何故なら今回の重要な結果である「磁力線なのか電気力線なのか分からないけれど、その密度が高い部分が一番検知できる」ことが分かったので、密度を高くするには巻き数を増やすのが一番かもしれないから実験してみようと思ったから。周波数との関係でコイルの巻き数とコンデンサーの容量は反比例するはずなので、色々な組み合わせが有るはずだなと思う。せめて深さ30cmくらい検知可能な金属探知機を作りたいな。<後日追記>面白かったので、色々と実験してみた。まずは電源電圧を既存の3Vから6Vに上げてみた。周辺部では3Vの時と同様に反応しない。中央部に近づけてみる。3Vの時と大差ない。これは上の方で書いた2022年3月21日のブログでも愛天堂の金属探知機で実験したが、この時も12Vまで電源電圧を上げても発振出力は変わらず感度は変わらなかったので、だいたいそうかなとは思っていた。思うに単に電源電圧を変えても意味が無く、電源電圧を変えると同時にコイル1ターン当たりの電圧も変わるように巻き数を変える等して発振回路の定数を変えないと意味が無いのだと思う。次に半田でも反応したことから、「鉄以外の金属にも反応する」ことが分かったので銅で試した。銅鏡は持っていないので、マイクロ道鏡として10円玉で反応を見てみることにした。まずは周辺部。水分の多い人間の手でも関係するかもしれないので、紙の上に載せた。周辺部では反応なし。次に中央部でやってみた。ちゃんと検知する。つまりうまく作れば「銅鏡でも検知できる!」でもニッパーよりも検知する感度は低く、近づける為に紙を減らしてこの厚さで反応した。そしてやりながら気がついたのだが、ニッパーと10円玉では質量は違うのだが、面積はほぼ同じか10円玉が少し大きい。面積が同じだと言うことは磁力線なのか電気力線なのかは分からないが密度は同じはずである。つまり検知感度の差は金属の材質に影響されるみたいである。そしてついでに気がついたが、銅は磁界の影響は受けないはずなので、検知されると言うことは、この金属探知機は磁界ではなく電界つまり電気力線により検知しているということだ。うーん、色々と分かった。次は周波数の影響を見てみよう。コンデンサーを既存の222(2200pF)から102(1000pF)に変えてみる。高さにして約5mmほど感度が上がったような気がする。(目測なので気持ち)つまりコンデンサーの容量が減って周波数が上がったら感度が上がったみたいである。ちなみにやっていて気がついたが、感度調整用VRは右に回すほど感度が下がるので、LEDが『光る一歩手前」で止めるのだが、写真を見ると分かるようにコンデンサーが222の時よりもだいぶ左になり中央近くになっている。つまり検知感度が上がっているのが感度調整VRでも分かる。今度は逆に222(2200pF)から103(10000pF)に増やしてみる。もう金属を近づけなくてもLEDは点きっぱなし。感度調整VRは右いっぱいに回してもLEDは消えない。つまり検知する感度が低くなって使えない。次は222(2200pF)を471(470pF)にさらに減らしてみる。気持ちだけれどもさらに感度が上がったような気がする。しかし感度調整VRが一番左まで行ってしまい限界である。これ以上は使えない。何となく分かったのは発振周波数が効くようである。いや発振周波数なのだろうか?今はコイルを変えていないので分からないけれども、コイルとコンデンサーの組み合わせかも?一般的に同調回路はコイルのインピーダンスとコンデンサーのインピーダンスが一致する時に最高になる。つまり今は組み合わせがコンデンサーを少なくする方向で最高に近づいているだけかもしれない。但しこの金属探知機のコイルは基板の銅箔を利用しているのでコイルを変えることができず、コンデンサーを変えるにも限界がある様な気がする。うーんコイルも自作しなくては。
August 23, 2024
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ひさしぶりなので★AM/FM★2バンドラジオキット [K-ZX2051]を作ってみた。鳴らなかった。なので色々と調べてみた。すると、AMAZON等で売られている「ZX2051」と言う名前のラジオと少し違うのが分かった。恐らく改善を試みたのだろう。でも、その改善の段階でいくつかの誤りを犯して、裏目にでてしまい、その結果、せっかく優秀なラジオで、しかも安いのに鳴らなかったのだと思う。AMAZON等で売られているK-ZX2051は品質が悪いらしい。特にケースが最悪らしく、割れたとか閉まらないと言う不満がネット上にあふれている。また鳴らない人も多い。多分愛天堂はそれを見て、何とか改善しようと思ったのだろう。ケースの品質はそれなりに改善されている。でも、バリコンのダイヤルがケースの角穴に入らないと山さんが言っていた。そこで買って確かめてみた。組み立てている時に、その理由が分かった。AMAZON等で売られている機種とバーアンテナ及び基盤が違うのである。下の写真で比較する。これがどう影響するか?それが山さんの「バリコンのダイヤルがケースの角穴に合わない」だ。そう、ANAZONの場合はバーアンテナのフォルダーがバリコンと基板の間に挟まる。なのでケースはそれに合わせて穴を開けているが、愛天堂の場合はフォルダーが無く、その厚み分ダイヤルが下になる。なので合わない。じゃぁ何で愛天堂はそんなことをしたか?恐らくは感度と選択度を上げたかったのだと思う。明らかに愛天堂の方がANAZON版よりも品質が上である。Qの大きいコイルは特性が急峻で、そのせいで選択度が高く、選択度が高いと増幅率を上げられるので感度が高くなる。ただ、形状を変えたせいでフォルダーが無くなりケースと合わなくなったのである。なので、この点はバリコンと基板の間に厚紙等を挟んでやれば解決する。厚紙を挟みで切って作ればよいので簡単である。そしてこのバーアンテナの変更は肝心のラジオの機能にも影響する。インダクタンスが大きすぎて、バリコンとの組み合わせが合わず、高い方の周波数が1140kHz以上が聞こえない。上の写真の下の方に愛天堂は周波数とバーアンテナとバリコンの組み合わせを書いているが、これが間違いである。(この組み合わせは本バーアンテナとは別製品に記載)理想的なバリコン、バーアンテナ及び基盤とICなら理論上はこれでよいが、実際はバリコンの上にはトリマーがついており、通常は1/2くらい入っている。トラッキング調整の際に+側や-側に回すので1/2くらい入っているのである。基板の上には配線が走っているので、まぁコンデンサーの塊みたいなものである。ICやトランジスターは半導体なので電圧を加えると容量が発生する。これを利用したバリキャップと言う電圧で容量を変えてチューニングするダイオードがある。そんな感じなので、これらをバリコンの容量に加えなければならない。概ね15-20pF位だと思う。昔の職人的なハムの方は10pFの基板を設計したりしたらしいが。でも900µHの物しかないなら、それを使うしかない。フォルダーなら簡単に作れるが。ぼくは良く巻線をほどいて巻きなおすが、ちょっと面倒くさい。上の写真を見て思いついた。a-b間が660µHじゃん!写真を載せる。a-c間にバリコンをつなぐのが本来なんだけれども、ここは900µH。a-b間ならば660µHなので都合よい。じゃぁ記号を読み替えれば良いじゃん!a→c、b→a、c→bと読み替えて基板のa、b、cにつなげれば良いのじゃないか?巻き初めを基板のcに、タップをaにつなげればいいのである。そうすると何となくうまくいった。ただ、インピーダンス関係が元とは変わるので、最高の感度では無いかもしれない。でも、買い替えるよりはまし。<後日追記>上の読み替えは必然ではありません。要はコイルのa-bがバリコンに並列になれば良いので、他にもいくつかの組み合わせがあり、どれが最上かは実際にやってみるしかありません。その後AMAZON新バージョンを入手したら説明書が入っており、それをみて初めて理解しました。b-cをショートしてる!つまりa-b間の660µHだけしか使っていない、その手があったか!バーアンテナはこれで何とかなったが、実はOSCも変だった。受信範囲が狭く、下を520kHzに合わせると上はバーアンテナ同様に1100kHz位にしかならない。いや、もしかするとバーアンテナの受信周波数と合っているので、こういう受信周波数の国向け?よく分からないけれども僕は「ニッポン放送」が聞こえないラジオはラジオと認めない。松田好花ちゃんが聞けないではないか!調べてみたら、回路図の定数がSONY(ICの製造メーカー)のデータシートと違う。えー!SONYの回路だと、バーアンテナはやっぱり660(回路図上は650)µHじゃん!FMのコイルはSONYのデータシートの記載の方が巻き数が少ない。でもこれはSONYの方はアメリカ等海外向けで87-108MHz用なので巻き数が少ないのかも?それで日本向けに改造した結果かもしれないので、何とも言えない。ただOSC回路のC16は明らかに違うぞ!SONYは6PFでAMAZONや愛天堂は120pF。20倍も違う。そのせいなのか愛天堂のキットには120PFではなく、12PFが入っていた。間違いは間違いのままなんだけれども、121と120なら間違える可能性が有る。まぁこうなるとC16を色々な値に変えて「やってみるしかない」。ただC16は付けたり外したりするので、穴に通して半田付けすると基盤が壊れてしまう。なので穴は通さずに最寄りのバリコン等の足に直接仮半田付けする。愛天堂とAMAZONの違いが無いか基板を比較してみたが、あまり変わらない。愛天堂の基板にはバーアンテナを付けるスペースがあり、現在2つ穴が開いている。多分この2つの穴に付属のインシュロック(白い樹脂製の固定ひも)を差込み、基板をぐるーっと回してバーアンテナを固定するつもりだったのかもしれないが、それだとインシュロックが基盤とケースの間に挟まって干渉するので、僕はもう2つ穴を追加して、インシュロックが基板の外に出ないようにした。基板にはその他には大きな違いは見られないので、違いがあるとすれば部品の数値の違いなんだろうと思う。すると予想に反して120pFが正解だったみたい。と言うか僕は120pFが無く150pFを使った。すると520-1620は無理だけど、結構範囲が広がった。思うにSONYの指定するコイルとバリコンとはFM・AMともに全然違う物なんだろうと思う。このOSCコイルはそれに合っていないんじゃないだろうか?C16が150pFと言うのは通常の考えからすると変な数字なので、バリコンも怪しいけれど、むしろコイルが怪しいと思う。ちなみにOSC回路の発振状況の写真を載せる。まずは下の方。何とかNHKも入る。でもバーアンテナのせいで感度は低く南の部屋ならば大丈夫だが電波状況の悪い僕の部屋はダメ。次に上の方。ラジオ日本が入る。上の方は、僕がニッポン放送を中心にトラッキング調整するので結構入る。南の部屋は当然のこととして、電波状況の悪い僕の部屋でも入る。ここでふと思い出したことを書く。何も知らないで組み立てた人の半分は以下の理由で失敗するかもしれない。セラミックフィルターには方向性が有り、逆に付けてはいけない。逆に付けたことが無いので分からないが、Windous11のコパイロット(AIです)で調べると、特性が逆転するらしい。つまり通常は455kHzを通過するような特性になっているのが、455kHzを遮断するようになるらしい。それを確かめるのに必要な測定器を持っていないので、分からない。そんな感じで、ニッポン放送は十分に聞こえるラジオになったが、FMだけはどうしても分からない。元々このラジオは日本向けのラジオではない。ケースを見ても88-108MHzになっている。なので仕方ないのだけれども、周波数が違うだけならばコイルやコンデンサーを変えれば済む?そう思って色々とやったのだが、うまくいかない。実は気になるのが、このラジオはLEDがついており、これは最初はパイロットランプだと思っていたら、実はチューニングランプだった。普段は消えていて受信すると光る。それがAMではチューニングランプとして機能するのだが、FMでは付きっぱなしになる。何で?思うに何らかの接続か定数がおかしくて、発振状態になっているのかもしれない。(チューニングランプは何らかの信号が入って電圧が発生すると点灯する。 それがたとえ雑音でも一時的には点く。 ならば発振状態になって発振した電波で飽和しているならつきっぱなしになるかなと思った。)でも、それを確認する為の測定器を持っていない。なのでお手上げである。最後にこのバーアンテナの部品間違いや色々な誤りを愛天堂に怒ったら、ごめんなさい。確認が不足していましたと謝ってくれた。なので愛天堂は良心的なお店だと思う。安心してまた買い物ができる。
August 19, 2024
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7月12日に「邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?」を書いて、「稻羽之素菟」(「因幡の白兎」ではない)や天孫降臨について書き、邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?8月4日に「邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?その2」を書いて、「天岩戸伝説」も単なる伝説ではなく、過去の史実を大人の事情からぼかして書いたために、後世の人達が独自の解釈をしたせいであり得ない話になったと書いた。邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その2僕がそう考えるのは、学者先生が古代の天皇家や諸豪族に対してあまりに失礼だからである。天皇が指示して始めた「国家事業」を当時の最高の頭脳達が時間をかけて完成したものが、そんなおとぎ話だと考える学者先生が信じられないからである。例えば令和の時代に天皇が新しい国史の編纂の指示をし、それを受けて岸田総理が編纂事業の為に委員会を設置し、委員長は麻生副総理、委員は文部科学大臣(立場的に副委員長)、外務大臣(他国に配布するのだから対外的な調整が必要)、国土交通大臣(諸国庶民と国土の記録所持者)や、財務大臣(事業の予算整理)と言うそうそうたる面々に、事務局として東大教授陣と京大教授陣が並んだ時に、「今南洋の方ではこんな神話が流行っているそうですから、この神話を載せましょう」と言うと、恐らくその場は凍りついて、発言者は二度と立ち直れないのではないだろうか?それなのに、学者先生達は神話の根拠を南洋諸島(ポリネシア)の昔話に求めたり、ギリシャ神話と比較してみたりしている。なんか真剣さが足らないと思う。まぁ夢が有るのは良いのかもしれないが。でも、上記の令和の国史編纂事業の際に、「フイリッピンにこんな神話があります。我が国の古代史に加えてはどうでしょう?」なんて東大の教授が言ったりしたら、麻生副総理は怒って立ち上がり出て行ってしまうだろう。まぁ、東大の教授は絶対にそんなことはしないので大丈夫だとは思うけれども。天武天皇や持統天皇の時代でも同じだと思う。なので、古事記や日本書紀に載せるに際しては当時の最高の頭脳達は、天皇家や諸家に伝わる話や、各地方から集めた話及び中国や朝鮮など他国の話を並べ、喧々諤々と議論したうえで編纂し、日本書紀の場合にはそれでも調整がつかないで「一書」と言う形での落とし所を見つけ、不満を述べる諸家をなだめる努力をしただろうと思う。何故なら一度国史として書かれてしまうと自家の歴史が定まってしまうからである。それまでは例えば蘇我氏と物部氏のように、諸家の間では争いが有ったはずであり、そもそもその事実を国史に載せて良いかどうかから議論が始まると思う。その結果、史実であっても「大人の事情」からぼかして神話の形を取ったのである。日本では後世になっても、例えば鳥羽僧正(今では彼の作とは疑われているが)の「鳥獣戯画」のように擬人化を行い、ストレートな描写をしない伝統があり、僕は根拠は無いがその伝統は古事記や日本書紀の時代に始まったのだと思っている。鳥獣戯画では草むらから出て来た蛇から逃げ惑うカエル達の姿が描かれたり、相撲を取ったり弓を射る姿が描かれている。例えば有名な場面で、走って逃げる猿の犯人と、それを追跡する兎・蛙の検非違使仰向けにひっくり返った蛙(喧嘩の被害者か)と心配して声をかける兎・蛙、「何ごとか」と振り向く狐の一家。こんな場面がある。これを皮肉と考えると、猿や蛙や兔や狐には、当時の人ならば「あいつのことだ」と分かるモデルがいたのでは?そう思うのである。単に滑稽な話ではないと思う。なので、古代の古事記や日本書紀を編纂した人達の名誉回復の為に、神話を現実的に解釈して、史実はどうだったのかを推理してみたのである。そう言う意味で今日は一つの仮説を書いてみる。ヤマト王権の時代には「部民制(べみんせい)」と言うのが有った。(「部民制」を持ち出すのはまずかったかも。 これを使うと分かりやすいので持ち出したけれど、 後世の部民制から起こった他の「部」とは違い、「物部」氏は相当に古くから有るし、 「八草の姓」や氏姓制度のからみで物部氏の位階からすると部民制の「部」は下位すぎて、 ツッコミ所満載になりそう。でも分かりやすいので使っている。 物部氏の場合はそれらの制度が発足するずーっと前の話なので不適切かもしれない。)王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。分かりやすい例を挙げると、矢をはじめとした武器を作る担当の氏族を「矢部」と名付け、占いや祀り事を行う担当の氏族を「卜部」、埴輪などを作る担当の部族を「土師部」と名付けている。では「物部」氏は何を担当していたのだろうか?よく物部氏は軍事を担当していたと言われている。でも蘇我氏に負けたじゃん?僕は多分、「物」を担当していたから物部氏と言われたんだろうと思う。これは後の世で言う「租(お米)と調(布等の特産物)」の徴収と保管である。つまり今でいう財務省。ただ、集めるのは強制力が必要(黙って納めはしない)だし、保管場所は警備が必要なので、現代で言う警察組織も持っていたと思う。なので、強力な軍事力も持っていたのだと思う。これは古代においても後世においても難しい話で、継体天皇の時代でも岩井は抵抗し、戦争になってしまい、岩井の息子は負けて争わないことを示す為に屯倉(天皇家直轄領)を差し出している。逆に構成では荘園がはこびり、寺社や貴族はその荘園から利益を得ている。いつの時代も「金」がすべてである。ここで気がつくのは「物」部氏の首領って、もしかして「大物主」では?だって名前がそのままだから。「物」部氏の「主(あるじ)」実はそれを思わせる古事記や日本書紀の記載が有る。物部氏の祖は「宇摩志麻遅(うましまじ)命」である。宇摩志麻遅(うましまじ)命は「ニギハヤヒ」の息子である。「ニギハヤヒ」は神武天皇よりも先に大和に来た人で、神武東征に際しては最初は彼の奥さんのお兄さんの「ナガスネヒコ」が神武天皇を撃退し、その後熊野に周って高倉下(タカクラジ)等の味方を得て大軍となった神武天皇に負けて、神武天皇の家来になった人(神?)である。うん?神武天皇の家来になった?一度は勝ったのに?もしかして神武天皇の家来になったと言うよりは和睦して臣下になった?なのでヤマト王権の最重要職である「財務大臣(現代風に言えば)になったのかも?そしてその息子の宇摩志麻遅(うましまじ)命はあとをつぎ、物部氏の世襲となった?そう考えると色々な秘密が解決する。蘇我氏と物部氏の争いである。従来は崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の争いが原因だと言われていたが、渋川廃寺跡が見つかり、これが元は物部守屋の別荘の跡で渋川寺が有ったらしいと分かり、物部氏が排仏派と言うのは現在では否定されている。但し、世の中の大人の世界では、表の話と裏の話は常にあり、要は蘇我氏と物部氏は政権を巡って争っており、仏教の受容はそのきっかけあるいは(直接軍事行動に出ると他の豪族の話もあるので)軍事行動に走る為の言い訳だったのだろうと思う。それで「聖徳太子が白膠木(ぬるで)に四天王を刻み、この像に願をかけて」勝ったとわざとらしく記録されているのだと思う。つまり現実的な話ではなく、仏様に助けてもらったことにしたのである。以後、物部氏はすたれていく。国衙ができて、地方からお金が国の役所に入る前はどうなっていたんだろう?もしかして根拠は無いが、神社や寺がその役目をしていたんじゃないだろうか?神社の神楽を見ていると「四方拝」と言い、弓矢や剣で舞う。何で仏教では(生き物に優しくするはずなのに)みんな武装して怖い顔をしているんだろう?仏敵がいると言うのならば、ありがたいお経で改心させれば良いではないか?高野山には僧兵がいるし、宇佐八幡宮には神兵がいる。もしかして寺や神社は昔のお役所で税金を取って、百姓達を黙らせていた?Wikiの「寺」を見るとこう書いている。「寺(じ)」は、「役所・官舎」の意。西域僧が中国に仏教を伝えた時、はじめ鴻臚寺(こうろじ)に滞在し、のちに白馬寺(はくばじ)を建てて住まわせた。以後、宿泊所に因んで僧の住処を「寺」と呼ぶようになった。もしそうならば、物部氏は神社組織を使って地方から税を集めており、蘇我氏は、神社組織を廃止し、新たに自分に従う「寺組織」を作って物部氏から政権(と言うか税金徴収機能?)を奪い、日本を自分の物にしようとしたのではないだろうか?それが物部氏と蘇我氏の戦いでは?話は戻って、ニギハヤヒ及びその子の宇摩志麻遅(うましまじ)命が「大物主」ならば、古事記や日本書紀の神話が一つ史実になる。そう、大物主は三輪山に祀られた神様で箸墓の主の倭迹迹日百襲姫命の旦那さんである。倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇の娘さんである。えー!じゃぁ物部氏は天皇の娘さんをお嫁さんにもらえる立場だったの?そうなんである。箸墓のすぐ近くの「纏向遺跡」はかっては「大田遺跡」と呼ばれていた。でもちょっと離れた所にある垂仁天皇の纒向珠城(たまき)宮がここに有ったと言うことで、今では纏向遺跡と呼ばれている。でも垂仁天皇陵は奈良の尼ヶ辻に有って、桜井市の纏向遺跡から相当に遠いんだよね。僕は垂仁天皇にはたくさんの秘密が有り、纒向珠城宮はその秘密のせいでここに有った?そう思っている。だって都とお墓が離れすぎ。ただ崇神天皇のお墓は近いので、崇神天皇はこの辺に有ったのだと思う。大田遺跡はここに大田田根子が住んでいたからであり、大田田根子は崇神天皇と箸墓の主の倭迹迹日百襲姫命の夢及び占いにより、大物主を祀る為にここに住んだのである。もう、匂いがぷんぷんするけれども、要は大物主=物部氏の首領ならば、それを祀る大田田根子は物部氏縁故の人では?(夢や占いでは大田田根子は大物主の子と言うことになっている)と言うことは纏向は物部氏の里で、垂仁天皇にも何らかの関係が有った?(例えば平安京は秦氏が土地の提供等により推進したらしいので)物部氏が垂仁天皇の為に纏向に都を造った?そう考えると、物部氏(大物主)と崇神天皇と倭迹迹日百襲姫命の関係がすっきりとし、箸墓の伝説や物部氏の大和政権の中の立ち位置が分かり、古事記や日本書紀の内容が信憑性を持ってくるような気がする。違うかなぁ?ニギハヤヒ=物部氏の祖先で物部氏の首領=大物主命筋が通っていると思うけど。<後日追記>誤解を招く恐れが有るので追記。物部氏は「氏姓制度」上は「連」です。しかし「斎部連」が「斎(ものいみ、いつき)」を担当する「部」であって「連」とされたように、「物部連」も「物」を担当する「部」であって連となったのではないか、つまり氏姓制度や部民制が確立する前から、「部」と言う概念が有ったと考えて書いています。それで「部」が付くのに「連」と言う感じになっているのだと思います。例えば他にも「土師部」も後世には「土師臣」となり「臣」になっています。部民に関しては、日本の官司の原型はヤマト王権(大和朝廷)の行政事務を複数の伴造が分掌して、部民を動員・管理して業務を遂行した組織体であったと考えられている。その後、部民を管理して行政事務の実務を遂行する官人組織が伴部の下に形成されたとされ、いわゆる部民制が「物部」の「部」になったのではないけれども、つまり「部」及び「民」の概念が後世の「お役人」の立場とは違うけれども、まとまりと言う意味で(血縁ではない人も併せて)一つの種族としてとらえたと考え、分かりやすいから使っても良いか?と言う感じで、「物部」の「部」を部民制の「部」と同じような感覚で使っている。部民制で説明すると、例えば時代が違うと血縁集団と職業集団で違うとか、誤解を与えるのであまり適切ではないかもしれないが、一番分かりやすいので、これで説明した。海外でも、この「部」と似たような話はあって、例えば「カーペンター」は大工さんだし、ブッチャーは肉屋だし、フォスターは刃物職人だし、ポッターは陶芸家だし、スミスは鍛冶屋なので、日本同様に昔から、はじめは血縁で相伝、そのうちに多人数になって職業集団となり、その職業が名前になって行ったのかもしれない。
August 11, 2024
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2024年7月12日のブログ「邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?」で、「稻羽之素菟」(「因幡の白兎」とは書かれていない)は神話だけれども、単なるおとぎ話ではなく、史実に基づく話を「大人の事情」のせいで神話にしたと書いた。また「天孫降臨」や「海幸彦と山幸彦」も単なる神話ではなく、実際に有った話を「大人の事情」のせいで神話にしたと書いた。邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?特に最後に書いた(古事記や日本書紀ではないが)出雲国風土記の「国引き神話」は、僕自身も、かっては単なる神話だと思っていたものが、2024年の能登地震の経験から、実は地震に伴う土地隆起による島根半島の成立(元は島だったのが隆起で半島になった)が、科学的知識の無かった昔の人の経験を元に語られた実話が神話になったのものと分かった。今回、8月1日にわの会の講義で知った「鶴岡八幡宮の御神楽」で舞われる「人長舞」から、「古代において鏡がどのように使われたか」が想像でき、それが僕の想像通りならば、古事記や日本書紀における「天岩戸」も単なる神話ではなく、古代に実際に卑弥呼等が行っていた祭祀が古事記や日本書紀に書かれたものなのでは?そう思われるようになったので書く。そもそも「天岩戸」伝説を現実のこととして考える人は、邪馬台国の卑弥呼=天照大御神だと考えて、その根拠としてこれを語る人が多い。天岩戸伝説を「日食」で天照大御神=太陽が隠れたことに重ね合わせて考える人達である。単純に考えればありそうな話だけれども、偶然による部分が多すぎて、ちょっと成立しづらいかなと僕は思う。それは天岩戸伝説では、単に天照大御神が岩戸に隠れたと言う話だけではなく、その時にアメノウズメが踊った話や、八咫鏡を作ったり八尺瓊勾玉を準備しているからである。これ(準備)って天照大御神が岩戸に隠れてから始めたんだよなと思う。日食は長くても1時間くらいしか続かないので暗くなってからでは間に合わないのでは?「お日様が隠れて暗くなってしまった」とあわてふためいて、右往左往する中で、人を集めるだけでも、その位の時間は経ってしまうのでは?そうでなければ事前に「この日のこの時間に日食が有る」と言う情報を持っていないと無理?つまり日食を天照大御神が岩戸に隠れたと考えることの可能性はあるけれど、古事記や日本書紀に書かれたような踊りや儀式は説明できないのでは?なので無理が有ると思う。では僕はどう考えるか。その説明の前に、そもそも「卑弥呼は鏡をどのように使ったのか?」を考えるべきだと思う。これは三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏の皇帝からもらった鏡だと考える人達の主張とも関連する。この人達は卑弥呼が鏡をどのように扱ったと思っているのだろうか?魏志倭人伝にはこう書いている。(原文)前略 銅鏡百枚 途中略 以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也(意訳)(前略)銅鏡百枚を与える。(途中略)汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。銅鏡は百枚与えられており、それを国中の人達に見せなさい。そしてそれにより魏の国が汝(卑弥呼)を支持していることを周知しなさい。そう言っているのである。この文から分かるのは、100枚ももらっていることと、卑弥呼がそれをよく使っていたこと。まず、単なる装飾品ならば100枚はいらない。現代のお金持ちがカルチェの時計を100個持っているのとはわけが違う。そんなことをしても、相手国は「じゃぁ滅ぼして奪ってやろう」と思うだけである。じゃぁ自国民に(私は偉いし魏が味方なんだよ」と見せる為か?この場合も同じで100枚はいらない。100枚並べても5枚でも効果は同じだし、相手国は「じゃぁ滅ぼして奪ってやろう」と思うだけ。じゃぁ100枚にはどのような意味があるか?ここまでは今までの学者先生も同じように考えている。戦争に際して、どちらにつこうかと迷っている国や、味方になりそうな国に渡す為である。渡された国はどちらについた方が有利か、魏が卑弥呼に味方しているのならと考える。なので有効であるから(味方になる国が多いので)枚数は多い方が良いのである。あるいは寝返ってこちらにつきそうな国に渡すのも良いだろう。つまり威信材なら多い方が良いのである。ここでちゃんとものを考える人ならばすぐに気がつくと思う。え?渡しちゃったら卑弥呼の手元には無くなる?あるいはちょっとしか残らない?そうなんである。つまりもし三角縁神獣鏡が魏から渡された鏡ならば、邪馬台国にはあまり残らない、むしろ邪馬台国以外の国から見つかるはずなのである。相手国に渡すのだから。つまり近畿には邪馬台国は無いはずなのである。次に卑弥呼が良く使っていたと言うのは、どのようにして使ったのだろう?これは渡された相手国の使い方にも関係すると思う。渡された相手国の王は卑弥呼と同じ使い方をしていたんだろうと思う。ではどのような使い方?これが最初に書いた、8月1日のわの会で「やっぱりそうだったのか」と思った使い方である。卑弥呼は、もしかすると天照大御神は太陽神の使いであったと思う。彼女達、日の巫女は必ず「神降ろし」を行う。そして神懸った状態で御神託を扱う。それ故に民衆は日の巫女を大事に扱うのである。では「神降ろし」とはどうやるか?僕はずーっと「鏡を使って太陽を反射させ、あたかも天の太陽が鏡に乗り移った」かのように日の巫女の胸に掛けた鏡を利用したのだと思う。卑弥呼から鏡を受け取る際に、受け取った国の巫女達もそのノウハウを受け継いだだろう。もしかすると、卑弥呼はそのノウハウを持った巫女を付けて相手国に送ったかもしれない。相手国の王は、自国民を(武力を使わずに)従えられるので重宝したと思う。国を治める際に、武力で治めるのはもろ刃の剣なのである。自分よりも強い男が出てきたら、娘を与えて身内にするか、自分が強くなるしかない。いわゆる力持ちのインフレーションが起こり、マンガでよくある様に、主人公は際限なく強くなるしかないので大変なんである。王の地位を「神が与えた」とか、強い(自分達の国が従っている)国に与えられたと言うのが、一番無難な方法で、世襲で王位をつなぎやすい。なので、多くの国は(お互いに利益が有るので)友好関係がまとまる。100枚の鏡はその為に使われたのだと思う。僕は今までそう考えていたんだけれども、その裏付けがなかった。ところが8月1日のわの会の講義で「鶴岡八幡宮の御神楽における人長舞」を知って、「やっぱりそうだったんだ」と確信した。人長(にんじょう)とは御神楽の儀を奉仕する神楽人の長で、進行を司る人。吾妻鏡の中で、頼朝が京都から神楽人を招いて、鎌倉に普及させたと言う記事が有り、それは現代に至るまで鶴岡八幡宮に伝わっている。鶴岡八幡宮の御鎮座記念祭で行われる神楽の中で、人長は最初に神を降ろす。一般の神社で行われる神楽(里神楽)とは違い、人長が舞(人長舞)を舞うこの神楽は「御神楽」で、元は宮中で行われていた。その由来は天岩戸の前でアメノウズメが踊った舞になぞらえている。御神楽は「本役(神迎え)」、「中役(神遊び)」、「後役(神送り)」の3つからなり、15の曲からなる組曲で、そのうちの「早韓神」と「其駒」の時のみに人長舞が行われる。手に持つ榊には、「グミの木の枝」を円い輪の形に折り曲げた上に胡粉が塗られた「鏡の輪」が結び付けられ、これを「日の御像(みかた)」とか「八咫鏡(やたのかがみ)」の形と伝えられている。非常に神聖な物で、神鏡を表していると伝えられているらしい。これは今では宮中だけではなく八坂神社などでも行われている。ネットで探すとこんな写真が見つかる。ちょっとお借りする。これが「神降ろし」である。人長が持つ榊に白い輪がついており、これが八咫鏡を模している。つまり宮中には「鏡を使って髪を降ろす」ことが伝わっていたのである。宮中にそれが伝わっていると言う事は、天皇家の祖先の天照大御神もそうしていたのである。ここまで来ると、天岩戸の神話も現実的な話だったと分かる。天照大御神が天岩戸から出てくる際に、その前には榊に差した鏡が有るからである。古事記の該当部分を引用する。(原文)故於是天照大御神見畏開天石屋戶而刺許母理坐也爾高天原皆暗華原中國悉閣因此而常夜往於是萬神之聲者狹蠅那須滿萬妖悉發是以八百萬神於天安之河原神集集而高御產巢日神之子思金神令思(意訳)天照大御神はそれを見て恐れ、天石屋の戸(天岩戸)を開き立てこもってしまいました。すると高天原は皆暗く葦原中国(日本のこと)はみんな暗くなり、常夜になってしまいました。そして、たくさんの神の声がざわめき満ち、たくさんの妖気がそこらじゅうに発せられました。そこで、八百万の神は天安河の河原に集まり、その中で高御産巣日神の子である思会神に(対策を)考えていただきました。上の方に書いたように、もしこれが日食であれば、こんだけ混乱しているので、続いて書かれているように三種の神器を作って祀ったり占い(御神託)の準備などできない?(原文)集常世長鳴鳥令鳴而取天安河之河上之天堅石取天金山之鐵而求鍛人天津麻羅而科伊斯許理度賣命令作鏡科玉祖命令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠而召天兒屋命布刀玉命而內拔天香山之眞男鹿之肩拔而(意訳)思会神の指示に従って常世長鳴島を集めて鳴かせ、天安河の川上の天堅石(天上にある硬い石)を採ってきて天金山(天上の金山)から鉄を採取して、鍛冶をしていただくために天津麻羅の神(鉄人=鍛冶の神)を探してきて、伊斯許理(いしきり)度賣命にお願いして鏡=八咫镜を作らせ、玉祖命にお願いして八尺瓊勾玉これは五百津之御須麻流之珠を作らせました。また、天児屋命布刀(ふと)玉命を呼んで、天香山の真男鹿(牡鹿)の肩甲骨(昔は骨を焼いて占いをした)と天香山の波波迎(ウワミズザクラ)で占いの準備を始めました。ここで分かるように、天照大御神をおびき出すと言いながら、実は3種の神器を作っている。日食だと言い張る学者先生はこれを何と考えるのだろう?神話では天照大御神の姿を写す為としているが、八尺瓊勾玉は何に使ったのか?これは素戔嗚命のオロチ退治前なのであめのむらくもの剣はまだない。つまり、この記述は「三種の神器の由来」を書いているのだと思う。そこで気がつくのは「三種の神器」とは何か?また何の時に使うのか?それは天皇の象徴であり、皇位継承の際に使われるものである。(剣はまだない)もしかすると、天岩戸の神話は皇位継承の由来を書いているのでは?そして八咫镜が「神降ろし」に使われるのであれば、「三種の神器」の中の鏡は皇位継承の儀式の始まりに於いて、神が立ち会う為に、神降ろしをする為に使われるのでは?そしてそれが今でも「御神楽における人長舞」の中に残っているのでは?そう思うのである。え?天岩戸の神話は皇位継承の史実が「大人の事情」で神話になったものなの?僕はそう思うのである。日食なんかではない。天岩戸は亡くなった卑弥呼を祀る墓の石室のフタのことなんだと思う。そしてアメノウズメの舞や神々の宴会はその殯(もがり)の様子であり、天照大御神が天岩戸から出てくるのは、卑弥呼そっくりだった(魏志倭人伝には卑弥呼の宗女=親戚の娘と書いている)壱与であり、人々は卑弥呼の若い頃にそっくりな壱与が石室の中から出てくるのを見て、天照大御神が再び現れたと思ったのである。つまり天岩戸伝説は卑弥呼が亡くなって、そのあとを壱与がスムーズに引き継いだ儀式の記録が、天岩戸神話として後世に伝わったものだと思うのである。そうしないと(国中が王位を求めた男達であふれて乱れるから)思会神は仕組んだのである。で、それが「大人の事情」で神話になったんだと思う。非常に現実的で、夢を壊して申し訳ないが、こう考えると全てのつじつまが合い、天照大御神は卑弥呼と同一人物ではないかもしれないが、(僕は邪馬台国=宮崎県小林市説なので同一人物だと思っているけれども)古事記や日本書紀は正しく日本の歴史を記しており、それは中国の史書である魏志倭人伝につながっているのだと思う。魏志倭人伝も古事記も日本書紀もちゃんと史実を書いているのだと思う。ただ「大人の事情」でちょっと脚色しているだけだと思う。<後日追記>ここまで書くと、じゃぁ三角縁神獣鏡は何なんだ?と言う疑問がわくに違いないので、根拠は薄いが、僕の推理を書く。上に書いたように鏡の使い方が日の神(太陽神)を鏡の中に降ろすこと、つまり卑弥呼や天照大御神が御神託を得る為に神を降ろしたり、また王位継承の際に神に立ち会って頂く為に、神を降ろすものだとしたら、三角縁神獣鏡はあまりにも小さい。神を降ろして民衆にアピールするには、やはり八咫鏡のように八咫(約46cm)くらいの大きさが必要である。では三角縁神獣鏡は何か?神降ろしには使うのだけれども、民衆に見せる目的ではないのだと思う。ではどんな目的か?これは学者先生方の言う通り、降ろした神の神聖な力による破邪が目的だと思う。つまり卑弥呼の鏡の応用で、鏡に神を降ろして、邪悪なものを退けるのである。その良い例が、三角縁神獣鏡を有名にした黒塚古墳である。発掘調査された黒塚古墳の石室はこんな感じ。中央に棺が置かれていたようだが、三角縁神獣鏡はばらまかれていた。そして枕元には一枚の画文帯神獣鏡が置かれていた。つまり被葬者にとって大事だったのは「画文帯神獣鏡」であり、三角縁神獣鏡は被葬者を邪悪なものから守る為の鏡だったのである。恐らくこの三角縁神獣鏡には巫女が神降ろしを行って日の神を宿し、その霊力によって被葬者が守られると信じられていたのだろうと推測される。(もちろん霊力と言うのは現代人にとっては迷信だけれども、 他に手段がなく、まだ神秘的な力を信じていた古代人にとっては強力な力だった。)鏡の使われ方を考えれば、誰にでも分かる事だろうと思う。三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡ならば、魏の皇帝から贈られた鏡がここだけで1/3も使われ、魏の皇帝の言うような効果が無く、意味の無いものになってしまうだろう。つまり結論として卑弥呼の鏡は、御神託の際の神降ろしの為の鏡であり、また王位継承の際に立ち会って頂く神を降ろす為の鏡であり、元は卑弥呼の後ろに魏の皇帝がいると示すのが目的だったのが、この王位継承をスムーズに行えると言うメリットが他国の王族にも支持されて、そして(天岩戸でそれが実証されたので)邪馬台国連合の連携のシンボルとして広まった。これが卑弥呼の鏡の真相だと思う。なおこの王位継承をスムーズに行えると言うメリットが他国の王族にも支持されて、連携のシンボルとして広まったと言うのは前方後円墳も同じである。単に死者を祀るのが目的ならば、円墳でも方墳でも形状にこだわりは無いと思う。各国の王族にもメリットがあるので、ヤマト王権のシンボルとして広まったのだと思う。円墳部分に死者を祀り、本来死者を祀る儀式を行っていた造出が「王位継承のイベントの場」に変化して大きくなり、方墳部として巨大化したのが前方後円墳だと思う。ただ、律令制が進み、地方支配の人事権が朝廷に移って行った為に、「王位継承のイベントの場」の役割が朝廷にとっては邪魔になったので、前方後円墳の方墳部は小さく制限されて、最後は無くなったのだと思う。邪馬台国はどこにあったか(その28)前方後円墳とは
August 4, 2024
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8月1日はわの会だったんだけれども、暑いので金沢公会堂で鎌倉ガイド協会の松林先生の講義を聞いた。鎌倉は寺や神社が多く、たくさんの祭や行事が行われるのだけれども、そのうちの代表的で面白い祭と行事として、1.龍口寺(腰越):9月12日~14日の法難会2.御霊神社(坂ノ下)の例祭:9月18日で行われる鎌倉神楽、面掛行列3.光明寺(材木座):10月12日~14日(令和5年)の十夜法要4.鶴岡八幡宮(雪の下):12月16日の御鎮座記念祭5.長勝寺:2月11日の大国祷会成満祭祈を説明して頂いた。でも僕は罰当たりなので、お寺の教義や権威には興味が無いので、最初は聞かないで帰ろうかと思ったのだけれども、聞いてみて良かった。いくつか「そうだったのか」と思う良い話が聞けたから。なので、それを書いてみる。1.龍口寺の法難会は「ぼたもち供養」として知られる面白いお祭り。境内には露店が建ち並び、万灯が奉安され、法要が終わると名物の「ご難ぼたもち」(難除けぼたもち)が堂内にまかれます。いやー、VTRを見ていると本当にまいている。これは龍口寺の成立に関係があるお祭り。鎌倉時代に日蓮は幕府に逆らって、また他の仏教の宗派の悪口を言って恨みを買い、幕府に捕まって龍ノ口刑場へ処刑の為に護送されるが、その途中でお婆さんがゴマ入りのぼたもちを差し上げたらしい。そして処刑の時に不思議な光がさして、恐れた処刑人が処刑をやめ、日蓮は処刑を免れた、その処刑場がこの地に有ったらしい。龍口寺はその跡地に建てられた日蓮の広めた浄土宗のお寺。そのことから、この日にばらまかれるぼたもちを頂くと日蓮の御利益にあずかれると言う話。そうだったのか。でも九州出身の僕に言わせると、秋は「おはぎ」で初夏に食べるのが「ぼたもち」では?そう思ってしまう。罰当たりかなぁ?まぁそれはそれとして、お祭りでおぉー!っと思ったのが万灯の奉安とまといの舞。万灯は、これってお盆だなぁと思う万灯。ネットから写真をお借りした。手前のお兄さんがぶん回しているのがまとい。でも何で「まとい」?2.御霊神社の鎌倉神楽、面掛行列(めんかけぎょうれつ)も面白かった。何が面白かったかと言うと面掛行列の面々。これもネットから写真をお借りする。上の写真左が有名な阿亀さん。下の写真の皆さんもユニークなお顔です。面掛行列は元々は鶴岡八幡宮の放生会で坂ノ下村の人々が行っていたのが明治以降廃れてしまい、それが御霊神社に引き継がれたものだそうで、行列の中には「白旗」を持った氏子もおり、源頼朝公ゆかりのお祭り(僕調べ)なのだそうです。なので「阿亀」さんは頼朝が浮気したあのお亀さん?(根拠はなく僕の勝手な推理)なのかも?なお鎌倉神楽は富岡八幡宮と同じなので略。3.光明寺の十夜法要は伝統のある古式ゆかしく格調の高い法要で、あちこちの修業僧が集まるものなのだけれども、僕にはあまり興味がわかないので略。4.鶴岡八幡宮の御鎮座記念祭はものすごく盛大なお祭りなのだけれども、ただそれだけなので略。ただ、その中でものすごく僕の興味を引くものが有った。それは人長が行う「神降ろし」人長(にんじょう)とは御神楽の儀を奉仕する神楽人の長で、進行を司る人。吾妻鏡の中で、頼朝が京都から神楽人を招いて、鎌倉に普及させたと言う記事が有り、今回「そうなのか」と思ってしまった。この鶴岡八幡宮の御鎮座記念祭で行われる神楽の中で、人長は最初に神を降ろす。一般の神社で行われる神楽(里神楽)とは違い、人長が舞(人長舞)を舞うこの神楽は「御神楽」で、元は宮中で行われていた。その由来は天岩戸の前でアメノウズメが踊った舞になぞらえている。御神楽は「本役(神迎え)」、「中役(神遊び)」、「後役(神送り)」の3つからなり、15の曲からなる組曲で、そのうちの「早韓神」と「其駒」の時のみに人長舞が行われる。手に持つ榊には、「グミの木の枝」を円い輪の形に折り曲げた上に胡粉が塗られた「鏡の輪」が結び付けられ、これを「日の御像(みかた)」とか「八咫鏡(やたのかがみ)」の形と伝えられている。非常に神聖な物で、神鏡を表していると伝えられているらしい。ネットから写真をお借りして載せる。(八坂神社HPより)おぉー!やっぱりと思った。卑弥呼の鏡じゃん。何故神社には鏡が祀られているかと言うと、天照大御神が「これを私だと思って枕元に置きなさい」と言った、つまり鏡は天照大御神を象徴するものだからなんだけれども、何故そうなったかと言うと、僕は昔は神に使える乙女が、民衆の前で胸元に鏡を持ち、鏡に映った太陽があたかも巫女に乗り移ったかのように見えることから始まったと思っており、これが神降ろしの始まりだと思っているからである。つまり卑弥呼が鏡を大事なものとしたのは、民衆の前で自身に(鏡に太陽を映すことにより)太陽神が乗り移ったと言う演技をする為で、そのせいで(多くの民衆から見えるように)八咫(鏡の寸法で約46cm)鏡の大きさになり、それ(神を鏡に降ろす)が御神楽にも伝わったのだろうと思う。卑弥呼の行う「神降ろし」の儀式に集まった数千に及ぶ人達は、卑弥呼の胸元に掲げられた大きな鏡に反射する太陽の光を見て、卑弥呼に太陽神が乗り移ったのを目の当たりにして、恐れおののき、その後に卑弥呼が大きな声で述べる御神託を聞き、それに従わなければいけないと感じたのではなかろうか?この「鏡=太陽を映して太陽神を巫女に降ろしたように見せる」と言うのは、学者の先生方は誰も言わないけれど、僕は昔からそうなんだと思っていたので、今回、それが(何故か鶴岡八幡宮の神楽で)証明されたと思った。なので、おぉー!やっぱりと思ったのである。なお、付け加えて言うならば鏡を神降ろしに使ったのは民衆の前だけではない。古事記の天岩戸の出来事の際には、卑弥呼を天岩戸から引き出す為に三種神器を作る。(天岩戸の時代にはまだ須佐之男命は八岐大蛇を退治していないので実際は2種の神器)僕はこれが三種の神器の由来で、天皇家が皇位の継承を行うに際して三種の神器を必要とするのは、皇位の継承に際して神を降ろし、立ち会っていただくためだと考えている。それが人長舞の神降ろしの儀式として宮中に残っているのだと思っている。邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その25.の長勝寺の大国祷会成満祭は「世界平和」と「除厄開運」を願う立派な祈祷で、日蓮宗の中山法華経寺で100日間の寒の大荒行を達成した修行僧たちが、出身の寺に帰り、檀信徒・寺の関係者に成満を報告する物なのだそうだけれども、ただそれだけで面白くないので、罰当たりな僕は略。講義はなかなか為になるものだったけれども、僕にとっては特に「神降ろし」が大事だった。一つ自分の考え(古代の鏡の使われ方)に自信が持てて良かったと思った。
August 4, 2024
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今日はうれしかった。多分この一年で一番。ちょっと無理して買ったパソコン(電源が入らない)が修理できたから。難しかった。一週間もかかった。ヤフオクで買ったこんなパソコンです。(写真には8コア8スレッドと書いてあるけれども4コア8スレッドの間違い)送料を加えると4千円近くになるので、僕のお小遣いの上限に近い。売ってくれた会社は、多分技術員がおらず自分で修理できない会社だと思うのだけれども、ここで買うと安い代わりにコネクターが壊れているとかケーブルが外れていることが多い。どうも内部のメモリーやSSD(HDDを含む)を外して別売りにするように、会社から指示されて無理して外す際に壊したり忘れるようである。過去にバッテリーのコネクターが壊れていたりマザーボードのケーブルが外れていたことがあり、そのせいで電源が入らなかったり、起動しなくなっている場合があった。なので、僕ら貧乏で内部をいじくるのが好きなオジサンは大好きな会社。故障しているから外すのか、外す際に壊すのか微妙で分からないけれども、動いているパソコンのメモリーやSSDを外して別売りしてもうけようと考えているならば、バカだなぁと思うし、そのお陰でちょっと修理するだけで直せるならお得だと思う。まぁ故障しているから外すのならば、それは正しいと思うのだけれども。今回のパソコンは壊れていた。だからメモリーやSSDは外して別売りするのは正しい。そしてそれを僕らが修理して遊ぶのは、この値段ならば、まぁありかなと思う。修理の為に分解してみると、電源が入らないのはまずヒューズが切れていたからだった。なのでまずはこれを修理した。でもこの手の表面実装型のヒューズは記号しか記されておらず定格電流が分からない。「N」と記されているので、いくつかのメーカーの物ならば2A。別のメーカーの物ならば5A。えー!どちらだろう?裏ブタを見ると、定格は19V,2.63Aと書いている。通常ヒューズは定格電流の2倍を目安に考えるけれども、2.63X2=5.26A5Aも超えている。ヒューズは通常5Aの上は10A。ヒューズなので切れなければただの導体。仕方ないので手持ちの10Aを使うことにした。元のヒューズを外そうかと思ったけれども、すぐ隣にファンが有って高さが高く、ヒューズの上部に余裕がある。うーん既存のヒューズに「おんぶ」するか?それでも高さ的には大丈夫だろう。さっそく実行。おんぶしても右下に見えるファンよりも高さが低いのでOK.この状態で電源側から見たインピーダンスを計ってみた。(実際にはテスターなので抵抗値)ショートしている。つまりどこかでショートしているのでヒューズが飛んだのだ。ノートパソコンの場合は、ACアダプターからの19~20Vの直流を、DC-DCコンバーターで降圧して、目的の電圧を得ている。概ねこんな回路。見ると分かるように元の19~20Vの直流をスイッチングして目的の電圧を得ている。出力電圧はスイッチングのタイミング(デューティ比=オンとオフの時間割合)で決まる。オンの時間が長いほど高い出力電圧が得られる。回路を見ると分かるように入力側と出力側に2個一組のコンデンサーがついている。オーディオアンプ等の電源では平滑用に大容量の電解コンデンサーを使うが、スイッチング電源の場合は周波数が高い方が効率が良いので、導体をぐるぐる巻きにした電解コンデンサーは、高い周波数では「ぐるぐる巻きにした導体」はコイルに等しいので使えない。高い周波数では電解コンデンサーは大きなコイルと抵抗とみなせる状態になるのである。なので通常スイッチング電源では積層型セラミックコンデンサーを使う。しかも通常1個単体ではなく2個(場合によっては3,4個)を並列にして使う。2個並列と言うとバックアップ(どちらかが切れても他方が残っている)を思い浮かべるが、容量的には確かにそうなので、コンデンサーが1/2の容量で済むと言う利点はあるが、実際にはコンデンサーの故障は短絡(ショート)が多いので、2個並列は危険率が2倍になるだけなので、多分バックアップが目的ではないと僕は想像する。恐らくはESR(コンデンサーの抵抗分)を1/2にするのが目的なのではないかと思う。パソコンの電源故障はコンデンサーの不良が圧倒的に多く、自作パソコンをやっている人ならば、昔台湾製のコンデンサーの不良率が高く、日本製のコンデンサーを売りにしたマザーボードを売っていたことを思い出すだろう。確かその後は「固体コンデンサー」を売り文句にしていたはずだ。あれは電解コンデンサーの大きさを小さくする目的もあるが、電解液の経年劣化を防ぐと言う目的の方が大きかった。なので、ノートパソコンでは電解コンデンサーは滅多に使わない。上のDC-DCコンバーターの19Vラインにつながっているコンデンサーが故障すると、そもそも19Vラインがショートしているので、ここにつながっているコンデンサーはテスターで計るとどれもショートしているように見える。実際は1個なんだけれども、みんな並列なのでどれが故障したコンデンサーなのかは分からない。お金持ち及びプロならば、インピーダンスメーターやラインテスターで調べるけれども、僕等にそんなお金は無い。なので手当たり次第に外して調べるしかない。さっそくやってみた。その結果、予想は当たり、19Vラインにつながる多数のコンデンサーの内の1個が不良だった。それを取り換えると治った。文字で書くと「それを取り換えると治った」の一行だけれども、1週間かかった。上の写真を見れば理由が分かる。狭くて細かいのである。年寄りなので、ピンセットで挟んだコンデンサーがパチンとはじけて飛ぶとおしまい。力が入って手が滑ると隣の部品が壊れておしまい。若い人ならばなんでもないと思う。でも年寄りなので、ルーペで見ながらピンセットで押さえて半田付けするのは大変である。基板は銅を張り付けているので熱容量が大きく、予熱を与えにくいので半田が乗らない。溶けた半田が基板には付かずに丸くなってその辺を転がる。かと思うと突然溶けてつかなくてもいい所についてショートする。新しいコンデンサーを付けようと熱を加えすぎるとせっかく付けた前のコンデンサーが外れる。ルーペに半田ごてがくっついてイヤな匂いがして何度も溶けた。実はヒートガン(ドライヤーの親分みたいな300度を超える熱風を出す機械)を使えば簡単。でも理想を言えば400度近い温度のヒートガンは何万円もする。安いのは使えない。なので、2300円のノートパソコンの修理に数万円の工具を買うのはナンセンスなので、頑張るしかないのである。YOUTUBEなんかで見ると、お金持ちの人は拡大鏡で拡大しながらヒートガンで半田付けする。すごく簡単そうに見える。でもそれは拡大鏡やヒートガンを買う経済的に余裕の有る人の話。貧乏な年寄りには根性しかない。まぁそれでも1週間かけて、何十回もやり直して修理は完了した。で、Windows11を導入してベンチマークソフトを動かしたが、特に問題なく完走。Finalrealityの最後の方の場面。テーブルの上部で宙に浮いた十字型のモニュメントが格好いい。修理がうまくいってうれしかった。ビールがうまい!
August 3, 2024
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わの会自体は7月4日(木)だったんだけれども、風を引いて書く気が起こらず、ついに3週間もすぎてしまったので、これはじじいになってしまうと危機感を感じて、頑張って書くことにした。当日は暑くて体調を崩された方もおられ、僕もいつもよりもペースを落として気を付けて歩いた。集合は江ノ電腰越駅の予定だったんだけれども、周囲にみんなが集まるスペースが無く、近くの諏訪神社に集まった。鳥居にこんなに大きな注連縄がかけられた神社は珍しいと思うので、また鎌倉の中でも位置的に面白い位置に有るので、何かありそうな気がして調べたが分からなかった。この付近は有史以前は海の底だったのが、土地の隆起により形成された所で、それを思わせる「五頭龍伝説」が有るらしい。ここはヤマトタケルの時代から宿場が有り古くから栄えたらしく、頼朝の時代には宿次過書奉行が置かれて通行手形を司っていたらしい。また源義経が平家を滅ぼして戻ってきた際にもここで足止めされている。さらに義経が殺されて、その首が奥州から送られてきた際に和田義盛と梶原景時により首実検された場所とも伝わっているそうである。地名の由来にもなった「五頭龍伝説」を調べてみた。湘南藤沢市のホームページに載っている。鎌倉と海月(なまっているが久良岐郡のこと)の境の深沢と言う地に有った大きな湖に5つの頭を持った龍が住んでいた。龍は山を崩し、洪水台風を起こすなどをして、長い間人々を苦しめていた。欽明天皇13年(552年)のことだが、突如、海上に雲が立ち込め天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れて舞い降りた。雲が晴れると、今まで何もなかった海上にひとつの島(現在の江の島)ができていた。龍はその天女の美しさに一目ぼれをして結婚を申し込みますが、悪行のために断られてしまった。龍は諦めきれず善行を約束し、人々の役に立つことをするようになり、天女は龍を信じ夫婦となり、人々は平和な暮らしを取り戻しました。この五頭龍を奉るのが龍口明神社(鎌倉市腰越)、現在の藤沢市龍口山です。そう、今日最後に行く目的地の龍口寺である。そして龍がまだ悪さをしていた時代に、子供達を食べたので、人々がこの地から逃げて行ったので、この辺を「子死越(ししごえ)」と呼ぶようになり、それがなまって「腰越」になったと言うものである。ちょっと無理があるけれども言い伝え。なお、新編相模国風土記には、山の腰(鎌倉は周囲を山に囲まれている)を越えるようにして移り住んできたことから、腰越となったとかかれているが、こちらの方が信憑性がある。僕も多分、新編相模国風土記に書かれた説が本当かなと思う。本日のルートはこんな感じ。距離的にはいつもよりもだいぶん短いが、今日は暑いので大変そう。最初に向かったのは本龍寺だが、途中に庚申塔が有る。ルート図で供養塔と書いてある場所。この供養塔は右側面に「鎌倉道」とも書かれており、道しるべでもあったらしい。鎌倉道と言えば、新田義貞とが北条氏を攻めた際には大館宗氏がここを攻め上っている。北条氏は上のガイドさんの説明図のように、巨福呂坂と化粧坂と極楽寺坂に防衛拠点を置き、懸命に戦ってはいるが、多勢に無勢、ついには負けてしまう。ここは上の説明図では「極楽寺ルート」。この辺には旗がたなびいていたんだろうな。次に行った本龍寺は日蓮宗のお寺で、付近の八つのお寺と併せて龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。開山の日行上人はこの後に行く法源寺も開いた方で、両寺は兄弟寺にあたる。龍口寺輪番八ヶ寺とは、龍口寺は創建以来明治19年の太政官布達により住職が入山するまで特定の住職を置かず、近くに八つの子寺を建てて、その寺の住職が交代で本寺の住職を務めると言う珍しい制度。普通は大きな寺の住職が子寺の住職を兼ねると言うのは有るが、その逆なのである。ガイドさんの説明では、龍口寺の寺地が日蓮上人の「龍ノ口法難」の霊蹟であり、日蓮宗にとっては大事な霊場であるからと言われたが、常識的には、ならばますます本寺にこそ住職は居るべきであり、もう一つ江の島周辺は真言宗の支配地で、そこに龍口寺が割り込んできた形になり、他宗門徒からの龍口寺防衛の意味もあったからと言う説も有るが、上の地図を見ても分かるように、江の島と龍興寺の間には八ヶ寺は無く防衛にはなっていない。だから理由になっていないのだけれど、恐らくはもっと世俗的な理由なのではないかと思う。例えば有力な住職がおらず、かといってだれもいないのはまずいので、どの住職も同程度に偉いと言う形にして、平和的な解決をしたのだと思う。要は「あがり」をみんなで分配することにしたんだろうなと思う。まぁあまり言うと怒られるので、その辺にして、次は宝善院。かなり奥まった位置に有るので分かりづらい。おぉーそうなのか、江の島周辺の真言宗の寺(龍口寺に敵対する門徒)はここなのか?たしかに敵対する寺がここならば、八ヶ寺は龍口寺を守る位置になるな。では上に書いた地理的に八ヶ寺が龍口寺を守る形になっていないと書いたのは訂正しよう。でも、住職を置かない理由にはなっておらず、龍口寺に住職を置いて八ヶ寺にも住職を置けば良いのでは?しかも江戸時代には宝善院の住職が龍口明神社の別当に任じられたらしい。えー!龍口明神社の真ん前に龍口寺が有るのに???もう関東の神社とお寺は宗教とは関係なく、利害関係だけで成立しているな。まぁ、大陸から仏教が伝わってくる過程で、どうしても地理的に遠い関東は、うまく仏教が伝わらず仕方なかったのかもしれない。本堂は立派だった。上の方を見ると北条の紋が見える。同じ北条の流れなんだから仲良くすればいいのに。隣には大師堂が有って、ここは涼しかったのでしばらく休んだ。次は宝源寺。宝源寺に行く途中に中原観音堂跡がある。ここには十一面観音が有ったらしいが、お堂は既に無く、観音様は宝善院に移されている。お堂の跡には庚申塔等が有った。関東は本当に各所に庚申塔が有る。他県にはこんなにたくさんは無い。よほど(人には言えない)悪いことをした人が多いのか?三猿(見猿・聞か猿・言わ猿)が必ず下部にあるのが気になる。法源寺は工事中で入れなかった。最後は龍口寺である。すごく立地が良く、江ノ電にも近いし前を大きな道路が走る。境内には日蓮上人がつながれた「龍ノ口法難の霊蹟」として伝わる刑場の跡の碑が有る。日蓮上人の直弟子日法が自作の日蓮上人像と首の座の敷皮石を安置したのが龍口寺の始まり。首の座の敷皮石とは首の座(罪人が打ち首の際に座る場所)の敷石のことである。この敷石の上に皮が置かれていたのでそう呼ばれた。文永八年(1271年)9月12日、当時は内乱や蒙古襲来の脅威が広がり、更には飢餓や疫病など悲惨な状況にあり、それを憂いた日蓮聖人は「立正安国論」を幕府に奏上しましたがこれを幕府批判だとされ、龍の口にて打ち首に処せられようとしていた。信徒と共に法華経を唱えながら石の上に座していると、処刑人が刀を振り上げた時に、江の島の方から強い光が飛渡り、この異変に恐れおののいた役人が処刑を取りやめて日蓮上人は打ち首を免れた。日蓮上人はその後佐渡に流されますが、文永十一年(西暦1274年)赦免されて鎌倉に戻る。それを「龍ノ口法難の霊蹟」と呼んでいる。まずは龍口寺仁王門。天井に龍が描かれています。次に山門。親柱と控柱の間の羽目板四面の両面に、中国の史記に関わる故事が彫られている。裏表有るので本当は八面なんだけれども半分しか写真を撮ってない。失敗。本堂は立派な建物。なお、境内には、日蓮上人が処刑(未遂)前の一日幽閉された洞窟がある。こうしてわの会第37回目のイベントは終了したが、龍口寺の史記の故事を彫った八面の元になったストーリーが知りたいので、いつか調べてみようと思う。史記のどの場面なのだろう?
July 23, 2024
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歴史学者は自分達が理解できないことは「うそ」だとか「間違い」と考えて、ちゃんと調べたり、理解しようとはしない。ちゃんとした資料「魏志倭人伝」が有るのに、これを「東と南を間違った」とか「距離を間違えた」などと勝手に解釈してしまい、そのせいで邪馬台国は日本中に散らばっており、未だに解決しない。同様なことが古事記や日本書紀の神話に対しても言える。「歴史とは想像力である」なんて偉い学者先生は言うけれど、何故日本の歴史を書いた「官製の史書」に神話が書かれているのかを理解しようとはしない。世の中の全てのことには理由が有るはずである。僕は、古事記や日本書紀を編纂した昔の偉い人達は、書こうとすれば書ける真実を「大人の事情」からぼかす為に神話にしたのだと思っている。例えば「稻羽之素菟」が良い例だと思う。古事記では「稻羽之素菟」と書かれており、「因幡の白兎」とは書かれていない。古事記では音に仮名をあてて書いているので、因幡のように漢字に2音をあてられないので稻羽としていると言う学者がいるが、じゃぁ素菟はどうなるのかと聞きたい。白兎ではなく素菟としたことに意味があるのだと思う。「菟狭津彦命(うさつひこのみこと)」である。菟狭津彦命は、神武天皇が東征する際に筑紫国の菟狭に上陸したとき、菟狭国造の祖である菟狭津彦と菟狭津媛がおり、菟狭川(大分県宇佐市)の川上に一柱騰宮を造営して饗応の奉仕をした。その人のことではないかと思っている。対する鰐(わに)は和邇氏の祖先で(神武天皇と大和に行った後は京都を根拠地にするが)それ以前は都城付近に居たのだと思う。鰐塚山のふもとである。大分の宇佐の人達と宮崎の都城の人達の争いが「稻羽之素菟」の神話になったのだと思う。じゃぁ何故素直に書かないで神話にしたのか?それは両者がどちらも天皇家の祖先に従う人達で、禍根を残したくないが、でも天皇家の祖先の歴史に関わる一族だから歴史からは消せなかったからである。両者はその後もたびたび戦っている。景行天皇の九州への行幸の際にも(大分側は景行天皇に告げ口して)宮崎(熊襲)を攻め、奈良時代に入ってからも宇佐八幡宮の神兵は隼人を攻めている。宇佐八幡宮付近にはその際の捕虜の首を埋めた(と言う伝説が残る)首塚が残っている。実際に見に行って来ました。宇佐八幡宮近くの首塚なので「稻羽之素菟」は書けない事情が有って神話になったのだろう。ちなみに隼人は一部は大和に移って朝廷に仕え、一部は都城に残って朝廷に反発している。後世、藤原純友の乱の際には大和の隼人が宮崎側の隼人に呼び掛けて、宮崎側の隼人が寝返った為に藤原純友の軍勢は大混乱に陥り、大宰府の軍勢に敗れている。想像でしかないが、恐らく大和に移った都城人が「隼人」で、地元、都城に残った都城人が「熊襲」と呼ばれたんだと思う。でも、「隼人」達の尽力により、都城に残った人達も、後世には「隼人」に統一され、皇室との深い関係は明治維新まで続き、長州と土佐と薩摩は明治維新の立役者になった。歴史って「続く」ものなんだなと思う。天皇家の祖先に関わる「天孫降臨」は大人の事情と言うよりも古代過ぎて神話になったのだと僕は思っている。例えば天孫降臨の際に高千穂の峰から下界を眺めて「韓の国」が見えたのは、地球は丸いのだから、ここから韓国が見えるはずもなく、韓国岳から見える「えびの」のことで、ここには中国もしくは韓国から戦火を逃れて来た人々が住んでいたのだと思っている。つまり「えびの」は俗説に言う「えび色(すすきの色)に染まった野原」が由来ではなく、「夷(えびす=渡来人)が住む野」が由来なんだと思っている。そう考えれば瓊瓊杵尊のお言葉は現実のことである。また「海幸彦と山幸彦」の話も神話ではなく、後継者争いの話で、山幸彦は都城付近に居た和邇氏の祖先を味方につけて後継者争いに勝ったと言う話だと思う。山幸彦は和邇氏の娘を嫁にもらい、その軍勢の助けにより海幸彦を退けたのが鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)の話として残ったのだと思う。その何よりの証拠は、山幸彦の奥さん(海幸彦の釣り針を探しに行った龍宮城のお姫様)の出産の話である。彼女は「豊玉毘売命」と言う名前だが、姿を変えた八尋和邇(やひろわに)である。魚類のワニ(古代日本で言うワニはワニザメつまりサメのこと)が人間の子供を産むわけがない。天皇家の人達が自分の祖先は魚類のワニだと書いた古事記を読んで気持ちが良いはずがない。何も言わないで世の中に古事記や日本書紀を出したのは、魚類のワニではなく和邇氏の娘が祖先だと知っていたからである。ただ、大和の隼人は朝廷に従ったが宮崎の隼人は従わなかったので、素直には書けず、天皇家の祖先が和爾氏であるとは書けず、神話になったのである。そして今日は「出雲の神話=国引き」の話である。これは古事記や日本書紀には載っていないのだけれども、出雲国風土記に載っている神話。当初、作られた出雲国は「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」によれば、「狭布(さの)の稚国なるかも、初国小さく作らせり、故(かれ)、作り縫はな」という失敗作であったという。「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったという。そこで、八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であるという。最初は出雲の国が周囲の国々を征服して広くなっていった過程を神話にしたのだと思っていた。でも「できた土地が現在の島根半島」なら小さくは無いか?ここで重要なのは、「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったと言う部分である。それがあちこちの土地を引っ張って来て大きくなった。これって2024年に実際に有ったぞ!そう能登半島の地震に伴う土地の隆起である。地震により大きく隆起した所は10mも高くなった。港が隆起して陸地になった写真が有る。ものすごいと思う。元の防波堤の外側まで陸地になっている。これがなんと90km位も細長く「陸地が増えた」らしい。それを学会で報告している。「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったのが、地震により隆起して幅広くなっている。現代人だから「地震により隆起した」と科学的に理解できるが、古代の人達ならばどう思うだろう?多分、どこかから神様が土地を引きずって来て「島根半島になった」と考えても不思議ではない。土地が増える前には地震で相当に揺れただろうから、「引きずって来たので揺れた」と考えても何の不思議もない。そう考えれば「神話には根拠が有り、ただ説明できないので神話として書いた」のではないか?ふとそう思ってしまった。古事記や日本書紀の神話部分ってこうしてみると、全て根拠があるのでは?だから当時の知識人や天皇家も「神話」であることを容認したのではないだろうか?
July 12, 2024
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やまさんとコメントを交換していて、何となく僕もK-3839Aを作りたくなったので愛天堂に行ったついでに買ってきた。こんなラジオ。かって世界中のラジオで使われて有名だった東芝のラジオICのTA7613APのセカンドソースD3839を使ったAMラジオである。なんせセカンドソースなので、値段以外はオリジナルとさほど変わらない。よく中華は品質が劣ると言われるけれども、ちゃんと「まねした」物ならば、オリジナルがしっかりしているので大丈夫。むしろ「改良した」方が危ない場合が多い。このキットの場合、プリント基板を見ると愛天堂とは書いておらず、2002年製で別の会社の名前が入っている。えー!2002年?確かに今のガラスエポキシ製のプリント基板とは違いベークライト製だし、(ベークライトは昔のプリント基板でよく使われた樹脂で、銅箔がすぐにはがれ使いにくい)まぁでも、逆に言えば20年以上も使われていると言うことは「信頼性が有る」と言うこと。そう考えれば良いのかな?さっそく組み立てたが、最初は「どこかがショートしてびっくりした」幸いにして僕は低レベルアマチュアなので、「火を入れて鳴ると思うなアマラジオ」と言う格言をしっかりと守っているので、電源を入れる前に電源とラジオの間にテスターを入れて安全をはかっている。多くの製品は多少の余裕があるので、0.2秒くらいならばショートしても大丈夫。すぐに電源を切れば部品は(多分)壊れない。部品が壊れるのは大電流が流れて熱破壊されるからである。ただデジタル系の部品はCMOS回路が使われているので、熱破壊ではなく静電破壊で壊れる場合があり、電圧を加えるだけで壊れるので注意が必要。まぁラジオならば多少は大丈夫。すぐに全回路を見直して一つ一つ部品を調べて、半田部分をやり直した。ハンダブリッジと言って、僕のように年寄りが半田付けをすると端子同士が半田でつながりショートする場合がある。だって見えないんだもの。ルーペが必要。今回もそうだったようで、どこに原因が有ったのか不明だけれども何故か直った。電源端子間の抵抗を測ると何故か大丈夫になっていた。不思議?さっそく電源をつなぐと、無信号時には10~15mAしか流れていない。さっそくバリコンを回すとニッポン放送が受信できた。我家は僕の部屋は電波が入らないので、奥さんの部屋を借りて受信して調整する。でも何故か最初から結構調子よく受信できた。思うにIFT等は部品の出荷時にある程度調整しており、回路に間違いが無ければ受信できるようになっているのだろう。でもここで。やまさんのコメントを思い出した。カウンターをつけると、カウンターの表示が受信周波数とかなりずれると仰っていた。僕のもそうだった。ニッポン放送1242kHzのはずなのにカウンターをつけると1270kHzと表示される。この場合、カウンターはデジタルで、実際の電波の波を「数えている」ので間違いは無い。ニッポン放送はしっかりとした放送局なので、周波数は間違っていないはず。じゃぁ何が原因か?IFTが455kHzではなくずれている(ずれた状態でMaxになるように調整されている)のだ。計算すると1270-1242=28kHzなので、455+28=483kHzくらいになっているのだろう。やまさんが仰っていたのと合っている。なので、IFTを調整し直すことにした。ただ、この作業は難しいので(慣れると簡単なんだけれども)おすすめはしない。やるならば、失敗した時はラジオが聞こえなくなるのを覚悟して自己責任でやること。まずはカウンターの表示が1270kHzよりも少し低い1265kHz位にする。(調整は一番電波が強い放送局の電波を利用して行うので、 僕の場合はニッポン放送の1242kHzで調整している。)多少低くなっても音が小さくなるだけで聞こえるはず。聞こえなければ1267kHz位にする。逆に音が小さくならなければ1260kHz位にする。この塩梅は放送局の電波の強さ次第なので、場所によって違う。音が少し小さくなった状態で白いIFTをほんの少し右へ回す(IFTが455kHzより高い場合)すると音が多少大きくなるので、次に黄色いIFTも同様にすると音はさらに大きくなる。つまり、カウンターの表示が実際の受信周波数に近づくのである。これを繰り返してやると、最終的にはカウンターの表示と受信周波数が一致する。この時にはIFTは455kHzに同調しているはずである。なお、音の大きさが大きくなると書いたけれども、十分に電波が強い場所では、むしろ同調が少し外れた方が音が大きい場合がある。でもこの時には音は歪んでいると思う。歪んだせいで音量が増えてしまったのである。この場合は、音が明瞭になる部分を探す。綺麗に同調すると音楽や人の声が無い場合は無音になる位にきれいになる。この場合が真の同調点である。ただ、電波が弱い場所では音質よりも音量を選択せざるを得ないかもしれない。そうしてうまくいくとこんな感じになる。あとはこのカウンターをどこに付けるかだけなんだけれども、悩みどころ。今はケース上側に接着剤で付けようかなと思っている。せっかくうまく動くようになったので、色々と実験してみた。まずは局部発振回路の出力波形を見てみることにした。ここでオシロのプローブの扱いの大切さがわかった。プローブをそのままで局部発振回路の出力(つまりカウンターの入力)を見ようとすると、こんなに局部発振回路の出力周波数が低い方にずれる。ニッポン放送は周波数が高い方なので、発振回路の同調回路のバリコンの容量は小さく、オシロの入力容量さえも響くのである。10kHzもずれてしまう。そこでプローブをX10にすると端子間容量がかなりキャンセルされるので、局部発振回路の出力周波数はほとんど変わらなくなる。測定器もちゃんと考えて使わないといけないんだなと思った。この時の局部発振回路の出力はこんな感じ。字(特に左下の数値など)が見づらい場合は画像を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選択すると、別タブで大きな画像を見られる。いやー綺麗な正弦波だと思う。ディスクリートで作る6石スーパーだとこんなに安定した出力は出ない。特に低い周波数と高い周波数の出力電圧の差が大きく、2倍以上違うなんてざらである。ラジオ用ICってさすがだなと思う。ちなみに受信電波も何らかの方法で見られないかなと思ったけれども、原理的に微小過ぎてオシロの感度では見られない。さて次はIFT(中間周波数変圧器)部分ではどうなっているかを見ることにした。実は僕も学校で習った「原理」的な知識は有っても実際には見たことが無い。原理的には、局部発振回路の出力周波数(変調無し)-受信周波数(変調有り)=455kHzの変調された波形が見られるはずなんだけれども、大丈夫かな?半分くらい大丈夫だった。おぉー!初めて見た!横軸の目盛は500µs/divなので、ちょうど音声周波数程度。2目盛で1000Hzくらいかな?それを中間周波数(455kHz)が埋めている。つまり変調されている。これが検波されて低周波つまり音声や音楽だけが低周波増幅回路に入り、さらに増幅されてスピーカーから出るんだな。なんか学生時代に戻ったみたいで面白い。ところで、カウンターに切替スイッチが付いていないのに気がついたかもしれないけれども、今回のようにAMしか使わない場合は切替スイッチは必要ない。元のカウンターK-M3610Aの説明を見ると下のようになっている。つまり、LCD Display Rangeは「H]だし、IF Offset for different applicationも1-1つまり「H」-「H」なので、スイッチはOPENになるのだから必要ないのである。いや、ケースに接着剤で付けるならば、スイッチは厚みが有って邪魔なので付けない方が良い?
July 10, 2024
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愛天堂が6月29日に店舗を再開するとホームページに書いてあったので、さっそく行ってみることにした。ただ、奥さんが29日は家の掃除をするからだけだと怒ったので、仕方ないので29日は家の掃除をして、30日に行った。僕は地方出身者で東京の地理に詳しくなく迷った。なので、同じ間違いをして悔しい思いをする人がいないように地図を載せる。地図が無いとすごく分かりづらい。一番最初の愛天堂は秋葉原のすみっこの何も無いお店の1階で誰も気づかない所だったし、(初めて行った時はノートパソコンの「冷陰極管」を買いに行った。 当時日本で売っているお店は愛天堂といくつかのお店しかなく、 他のお店はメチャメチャ高かったので、愛天堂一択だった。)二番目のお店も末広町のビルの2階で入口の掲示板が無いと通り過ぎてしまうお店だったが、(このお店は若い中国のお姉さんがたくさんいて、オジサン族に大人気だった。 オジサン達は本当はちゃんと知っていてもあえて知らないふりしてお姉さんに聞いていた)今回のお店も路地を入っていかないとならず、さらにビルの入口には何も(30cm位の表札みたいな看板は有るが)ないので、通り過ぎるのは確実だから。地下鉄日比谷線「入谷」駅で降りて、4番出口から地上に上る。但し、今は工事中なので「エレベーター」で上る。地上に出ると前を通るのが国道4号線(昭和通り)。この道を三ノ輪方面に向かう。と言ってもどっちが三ノ輪方面なのかと言うと地下鉄の進行方向なんだけど、地上に出たら分からないと思う。確実なのは道路の遠方に横断歩道橋と首都高速道路へ上る坂が見える。こちらが上野方面なので「逆」。反対側に行く。2つ目の信号を左に入って30m程度行くと、右側に学校のような建物が見える。これが「たいとうこども園」。その園門真ん前のビルの2階である。僕は最初迷って「逆」方向の首都高入口側に行ってしまった。ここを斜めに行くのが清州通りで、この付近は「かっぱ橋」。ちょうどお祭りの準備中だった。左手に「スカイツリー」が見える通りまで行ってしまった。この通りが「かっぱ橋通り」で刃物のお店なんかがあるらしいが、急いでいたので寄らなかった。でもスカイツリーが見えたのでうれしかった。何となく反対側に来たような気がしたので、引き返してやっと愛天堂を見つけた。2階に上って中に入ると、昔通り「ごちゃごちゃ」な展示で、床にセール品が入った箱が並び、壁にはたくさん商品がぶら下がっていた。奥には昔通りお姉さん達がレジをやっていた。懐かしい中国のお姉さんも居た。多分彼女がボスなんだな。そして山村紅葉さんそっくりのお姉さんも昔通り居た。目が合うと挨拶してくれたのがうれしかった。店内の品物は通販の物と同じなんだけれども、今日はセールで全部19%引きだったので、いっぱい買った。これからもヒマな時にはかっぱ橋観光も兼ねて遊びに行こうかな。愛天堂ホームページ
July 1, 2024
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倭國のことを考える時に、日本だけではなく中国(魏だけではなく漢や秦を含む)や韓国(特に三国期)のことを知らないと何も分からず、独断と偏見でストーリーを作ってしまいそうな気がして、中国や韓国の本を読み始めた。韓国アレルギーのある日本人や、日本アレルギーのある韓国人はたくさんいて、そのせいで事実関係が滅茶滅茶になっている感じがあるが、日本でも中国でもあるいは韓国でも「史書」とされるものは、他国で読まれることを意識しており、その結果複数の国の史書と比較されるので、史書と呼ばれる本は比較的信頼性が有る。特に「1国対複数国」の比較ではウソを書いてもすぐにばれるので信頼がおける。1国対1国の場合はお互いにゆずらないと思うので、どちらが正しいかは分かりにくいが、韓国の三国史記を読んで(まだ途中だけど)、変だなと思う所もあるけれど、なるほどと思う所も結構ある。なのでこれを使って調べると、日本のいわゆる「空白の4世紀」もある程度わかってくるのではないかと思う。例えば三国史記では、第4代目の新羅王は「倭人」であると書いている。ものすごい事だと思う。自国の王が他国から来た人間だとは普通は書けない。下手をすると本を焼かれる。でもしっかりと書いてある。巻1新羅本紀四に、第4代新羅王として「脱解尼師今(トヘニサコム)」のことが書かれている。西暦57年に62歳で即位しているが、元々は「多婆那國」の出身で、この国は倭国の東北千里の所に有ると書かれている。これをしっかりと読み解けば当時の日本のことが分かるはずである。但し、三国史記の元になった史料のレベルによっては正確さには疑問がある。例えばこの付近の時代に関する記述としては、第8代新羅王の20年(173年)に倭國の女王「卑弥呼」が使臣を遣わして修交したと書いている。卑弥呼が若い頃の話なのか、あるいは記録された時期が不正確なのかが分からないが、時期が不正確なのは資料の時代の不正確さはレベルの低さのせいにしても、流れとしてはある程度信用できるような気がする。三国史記に書かれた倭人の王統は下の系図の通りである。字が見づらいが画像を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと別のタブで、大きな画像で見られる。また倭人の王がいると言うことは倭人の臣もいると言うことで、なんと初代の頃から倭人の重臣がいる。そしてこの第4代新羅王「脱解尼師今」が大事なのは、日本書紀に書かれた神功皇后の事績とけっこう重なるからである。つまり神功皇后そのものに疑義があったとしても、モデルは居たことになる。日本書紀を見てみる。仲哀天皇2年1月に仲哀天皇は神功皇后を后にしている。「気長足姫命」である。この年仲哀天皇は熊襲を討とうと九州に行幸されるが、神功皇后に神の啓示が有り、熊襲なんてとるに足らない、新羅が宝の山である。新羅を攻めれば熊襲も自然と従う。と言うのだが仲哀天皇は信じなかった。仲哀天皇は9年に神の宣旨に従わず熊襲を攻めたのに勝てず、帰って来て亡くなる。そこで神功皇后と竹内宿禰は天皇の死を隠して、熊襲を討つとあっという間に勝った。新羅に出兵した所、新羅の王はこれもすぐに降伏した。これを読むと韓国アレルギーのある日本人や、日本アレルギーのある韓国人は反発して、そんなのは伝説で信じられないと言うだろうが、三国史記を読むと、実は第16代新羅王「訖解尼師今」までは第4代新羅王「脱解尼師今」の子孫であり、もし神功皇后が「多婆那國」の関係者ならば、第16代新羅王「訖解尼師今」が戦いを避けて、それに従ったとしても不思議ではない。三国史記でも、「訖解尼師今」36年に倭兵が攻めて来たが、新羅の軍人である伊伐飡(いばつさん)は静観を決め、兵糧攻めにして、倭兵が退却するのを待っている。つまり倭側から見れば新羅は弱くて戦わなかったと言うことだし、新羅側から見れば倭は兵糧が無くなって退却したと言うことである。「訖解尼師今」36年は346年つまり4世紀中頃なので、もしかしたら日本書紀の神功皇后の事績はこの時のことかもしれない。では何故両者は戦わずして別れたか?それは神功皇后と第16代新羅王「訖解尼師今」が遠い親戚だったからだと思う。神功皇后は「金銀財宝」は欲しかったけれども、自分の兵を危険にさらす必要はなく、成果が得られれば引き返した方が得だったからであり、第16代新羅王「訖解尼師今」も相手がその程度で引き返してくれればよかったのである。では神功皇后と第16代新羅王「訖解尼師今」は遠い親戚だったのか?それは古事記や日本書紀に書いてある。「天之日矛(アメノヒボコ):日本書紀では天日槍」は垂仁天皇の時代に新羅から来た。本人は新羅の王子で、弟に王の座を譲り(妻の後を追って)日本に来たと言ったらしい。妻の後を追ってと言うのは古事記に書かれた伝説なので本当かは疑わしい。天皇は最初播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。古事記では但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けたと書かれている。Wikiにその辺の系図が載っていたので、古事記における系図を載せる。えー!神功皇后は天之日矛の子孫じゃん!もし天之日矛が本当に新羅の王子だったら、神功皇后と第16代新羅王「訖解尼師今」は遠い親戚じゃん!でも結構遠い親戚であって、ほとんど他人じゃんと思うかもしれないけれど、皇子が気軽に渡ってくるほど、日本と新羅が親密だったのならば話は別である。例えば訖解尼師今3年には倭国が使臣を遣わして王子の婚姻を求めてきており、訖解尼師今は阿飡の急利の娘を送っている。つまり日本の朝廷と新羅の王家は親戚関係だったのだと思う。では神功皇后と第16代新羅王「訖解尼師今」は遠い親戚だとして、他には証拠は有るのか?それは日本書紀に書いてある。カギは垂仁天皇紀に出てくる「丹波道主命」である。「丹波道主命」と第4代新羅王「脱解尼師今」の故郷が「多婆那國」である事は関係ないか?韓国では日本の「県」にあたる地域区別を「道」と言う。これが古代日本でもそう呼ばれていて、それを「訖解尼師今」が新羅に(名前を)連れて行ったのならば、「丹波道主命」と言うのは「丹波地方の王様」のことではないか?また「多婆那國」と言うのは「丹波奴國」のことではないか?奴国は領土を広げていく際に、征服した国の名前に「奴」を付ける場合が多い。魏志倭人伝に書かれた女王国の北側の国々の名前を見ても、「彌奴國」、「姐奴國」、「蘇奴國」、「華奴蘇奴國」、「鬼奴國」、「烏奴國」と多い。奴国が東側に国を広げる途中で征服した丹波に有った国なのではないだろうか?そして国が亡びる際に逃げ出した王族の子孫が、新羅に逃げて第4代新羅王「脱解尼師今」になったとしたら話のつじつまが合う。丹波の王子が新羅に逃げて、その子孫の新羅の王子が隣の播磨に戻ってくる。そして地元の昔の親戚たちの中に溶け込んで隣の但馬の人間になり、その子孫が神功皇后である。なお、神功皇后は新羅から帰った後に、仲哀天皇の遺児「麛坂王」、「忍熊王」を滅ぼす時に、播磨や丹波・但馬の力を借りて勝っている。ちなみに「丹波道主命」は崇神天皇紀に出てくる四道将軍の一人で、丹波に派遣された。つまり日本でもこの当時は「四道」と書いており、「道」は地域や方面のことである。と言うか北海道は今でも「道」?第4代新羅王「脱解尼師今」は「丹波道主命」に負けた王の子供では?そう思ってしまった。そうすれば、細かい所には不正確さが残るが、神功皇后(のモデルかもしれない)の実在が証明されて、今まで良く分からなかった「空白の4世紀」が見えてくるのかなと思う。<後日追記>系図の中の第25代新羅王「真智(しんち)」を「まち」と読むのならば面白いと書いたのは、蘇我氏の系図の中に日本人らしくない名前が有り、その人物と年代や名前が重なるから。Wikiから蘇我氏の系図を引用する。蘇我韓子とか蘇我高麗とかはものすごく韓国らしい名前。もっとも国としての高麗は10-14世紀の国なので、ここで言う高麗は高句麗の別称としての高麗である。何でこんなわざとらしい名前にしたのかと考えると、蘇我氏は本当に新羅から来て葛城氏の中に入り込んだのではあるが、素性が知れないので、何とかごまかして祖先を偽作したのではないかと思う。その際にたまたま新羅王が「真智(シンチ)」だったので、それを利用しようとしたが、さすがにそのままでは問題があるので、ちょっと読み方を変えて、同一人物ではないがいかにも関係ありそうな架空の人物を作り上げた、そう言う事だと思う。何の根拠もないけれども、ものすごく面白そうなので書いてみた。
June 27, 2024
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6月6日のわの会は、瀬戸神社から上行寺までとあまり歩かなかったので、ちょっと元気が余ってしまったので、一人で前から行きたかった千葉の市原市の神門古墳群を見に行くことにした。横浜市金沢区からは、片道約2時間半。九州に行くのと変わらない?古墳の場所は市原市役所周辺にあり、周辺には国分寺なんかもあるので、そこも行ってみることにした。なによりも下調べをしていて分かったのだけれども歴史博物館が昨年11月20日にできて、諸般の事情により発見者の方が持っておられた「王賜銘鉄剣」が展示されていると言う話を知り、これは見に行かなくてはと思ったからである。市原市は「市原」と言うJRの駅が有るわけではない。五井駅である。内房線。五井駅からバスに乗る。15分くらいで「市役所前バス停」に着く。若い人ならば歩けるけれども、僕達年寄りには無理。バスに乗る。バスを降りると、進行方向少しの交差点を左折すると、この通りが「国分寺通り」。ちょっと歩くと左手に消防署が見える。ここで面白い物を見つけたので寄り道。消防ポンプである。僕は機械いじりが好きなので、こんなのは大好物。まるで戦艦大和の主砲みたい。説明板が詳しくて、一般の人が読んでも分からないと思うけど、用途別の弁の使い分け等が描かれている。何でこんな説明板を付けた?ここを少し進むと、国分寺中央公園がある。市役所の裏になる。入口に面白い物が有った。埴輪は古墳のある町市原市らしいし、噴水も国分寺の街らしい。ここをさらに進んで、公園の角を左に曲がる。ずーっと先に緑地帯が有るのでそこを一段登って奥まで行くと「祇園原貝塚跡」が有る。僕はいつもそう思うのだけれども、都や都市と言うものは必ず歴史が有り、重要な都市は縄文時代から人が集まって、次第に大きくなったのだと思う。だから夏島や野島そして称名寺に貝塚跡が有る金沢区は、きっと縄文時代から南関東の中心的な地域だったのだろうし、ちゃんと教育委員会が仕事をしていれば、弥生時代や奈良時代の遺跡も有ったのだろうと思う。ただ、気がついた時には既に遅く、主要な遺跡は京浜急行や住宅の開発によって無くなり、金沢区の歴史は闇に埋もれてしまったのだろうと思う。でも市原市はこうして早めに気がついたので、今さかんに調査している。良い事だと思う。祇園原貝塚跡を降り、下の道路に出ると前が「国分尼寺跡」である。祇園原貝塚跡の下の道を交差点まで進み、右に曲がって進むと、国分尼寺展示館に着く。玄関を入ると国分尼寺らしく仏様がお迎えしてくれる。中には大きなホールと展示施設があるが、まずは国分尼寺の説明とジオラマ。国分寺って聖武天皇の時代じゃなかったっけ?千葉もその頃から、こんなに立派なお寺が有ったんだ。しかも尼寺。学校で習った昔の歴史では、女性はかなり虐げられてきたイメージが有ったんだけれども、奈良時代頃には女性も大事にされていたんだ。学校では全然教えてくれないけれども国分寺と同じ位、たくさん全国に国分尼寺が有ったらしい。さすがに東北には無いけれども、九州や四国にも有るじゃん。そう言えばNHKの「ひかる君へ」を見ていたら、教科書で、この世をば…と言う藤原道長の「望月の歌」は「我が世を謳歌した歌」と習ったのに、NHKの道長は人間的で常識人で、意外に弱く、なによりも紫式部を始めとする女性が(立場は弱いが)知性と教養にあふれて、以外にたくましく描かれており、学校で習った世界と少し違うなと思っていたのだけれども、ここに来てみて、当時の女性もちゃんと勉強しており、男達と対等にやりあっていたのかもしれないと思った。だって後から行く「国分寺」とほとんど同じかむしろ国分尼寺の方が大きいのだもの。国分尼寺跡は金堂基壇や回廊と中門も復元している。パノラマ写真の合成に失敗して右側の部分が変になっているが、ほぼ「コの字型」に再現されており、左手には金堂の礎石や基壇も復元されている。写真を右クリックして出るメニューで、新しいタブで画像を開くを選択すると拡大できる。中門は特に見ごたえがあり、柱12本(本柱4本、控柱8本)で支えられた三棟造である。国分尼寺を出て突き当りの道を中学校まで行き、右に折れて1ブロック行くと政庁跡が有る。相当に広いスペースがあるので、大きな役所が有ったのだと思うけれども、まだ未調査。ここをずーっと元の国分寺通りまで行って左に進むと、国分寺通りと稲荷台通りの交差点が有る。この交差点の左手50mくらいの所に稲荷台1号墳が有る。分かりづらいが道の奥。小さな円墳で、日本中にたくさんある古墳の一つと思えば珍しくもないのだが、古墳の評価は「出土品」で決まると言う典型的な例で、ここからは「王賜銘鉄剣」が出土したことで一躍有名になった古墳。埼玉の稲荷山古墳で「ワカタケル:雄略天皇」の銘の入った鉄剣が見つかり、日本の歴史がひっくり返って国宝になった例が有るので、ここも有名になった。ここで発見された鉄剣を展示しているのが、これから行く歴史博物館である。国分寺通りに戻って、稲荷台通りとの交差点を左に曲がると、国分寺通りが突き当りになる。ここを左に曲がって少し進むと「市原中学校入口」の交差点が有る。この標識を見つけないと「歴史博物館」には行けない。交差点を右に曲がると山の中に入り、中学校の正門がある。この先に「歴史博物館」は有る。市原市も頑張ったなぁと思った。この歴史博物館は昨年11月20日にできたばかり。お客さんは僕一人なのに、お姉さんとお母さん4人が迎えてくれた。多分、宣伝が悪いんだと思う。こんなに貴重な展示をしているのに、駅に何も表示やポスターが無いのがいけないと思う。でも、このブログを見た人がちょっと行ってくれたら、お姉さんも喜ぶと思う。さてお待ちかねの「王賜銘鉄剣」はこんな感じ。鉄剣の下の方、金色に輝いている部分に金で象嵌されている。まずは表側。肉眼では分かりづらいがX線で調べると読めるらしい。次は裏側。僕の説明では分からないと思うので、展示の傍に有った解説文を載せる。この「王」が誰かによって評価が大きく変わるので、色々な人が研究しており、歴史博物館では、埼玉の稲荷山古墳に書かれた「わかたける=雄略天皇」より前の、倭王済=允恭天皇と推理しているらしい。僕は違うと思う。国宝の鉄剣が発見された埼玉の稲荷山古墳や熊本の江田船山古墳は「首長墓」らしく大きい。なので雄略天皇の家来とは言っても地方に帰れば「地域の王」である。それに対してこの鉄剣が出土した古墳は小さく、これから行く同じ地域の神門5号墳等に比べてもかなり小さく、埼玉の稲荷山古墳の主などと比べて、天皇家に仕えるほどの地域の首領とは思えない。なので、この鉄剣に刻まれた「王」はこの上総の支配者だったのだろうと思う。とは言っても実は時代的に考えると近畿の天皇家とあまり変わらない「王」だった可能性はある。学者先生は「万世一系の天皇」などと考えるので、奈良時代には日本は一つだったと考えるが、先に見た国分尼寺の分布図を見ると分かるように、聖武天皇の時代にさえ東北は日本ではない。つまりこの鉄剣の時代にはまだ関東も「日本になったばかり」だった可能性が高い。なので、この鉄剣に刻まれた「王」は本当にこの上総の「王」だったのだろう。まだ、ヤマト王権に従ったと言っても別の国だったのである。まぁ、それはそれとして、この歴史博物館には他にも面白い展示物がたくさん有る。例えば、人面付土器と猪型土製品。これが何故大事かって?「もののけ姫」を思い出して欲しい。昔の人は獣の中に神様を見ていたのだと思う。ヤマトタケルを倒したのだってイノシシだし、雄略天皇もイノシシ(に化けた神)と話している。人面付土器も祭祀用の(何か意味の有る)土器なんだと思う。また学者先生なら見向きもしないけれども、僕ら低レベルアマチュアが好きなの物もある。小銅鐸。学者先生の理論に合わないので、先生は無視したいだろうと思う。銅鐸は中国から渡って来た時には「楽器」で、日本では祭祀に使われ、次第に「威信材」へと変化して巨大化したと学者先生は考えている。つまり伝わっていくほどに「見せる」為に大きくなっていく方向に有ると考える。ならば何故(当時は辺境だったはずの上総に)小銅鐸があるの?せっかく近畿で大きくなったのに、また小型化するの?意味不明だと思う。答えは色々と想像がつくが、分かりやすいのは、必ずしも「威信材」ではなく純粋に祭祀用だった場合。豊穣を祝うあるいは願う村祭りに使うものならば、祭祀に使わない場合の収納場所を考えれば、むしろ小さい方が便利だし、祭祀での使用方法、例えば本当に鳴らすのが目的で行列の中で鳴らすのなら小さい方が良い。もう一つは、これがヤマト王権に関係するものではなく、ある集団に属する物の場合。例えば「秦氏」の系列の人達が使う祭祀の道具ならば、(秦氏は「お稲荷様」を信じていた)銅鐸が古墳ではなく村はずれつまり田んぼに近い所で見つかるのは自然だし、お稲荷様同様に農民に密接で、大きな神社にはならず、小さな社で神社の片隅にあるのと同じで、大型化は目指さないと思う。庶民的に小さいままで良いのである。3つ目は非論理的なのだけれども、感覚的な理由。この小銅鐸を使っていたのが女性だと言う説。男性ならば大きい銅鐸を使うのだけれども、女性用なので「かわいい銅鐸」。持ち運びに便利だし、見た目が小さくてかわいいから。古代ではないけれども、市原は昔から舟を操る海人族が居り、港が発達していた。僕は金沢区、特に六浦もそうだと思っているので、ちゃんと研究している市原市がうらやましい。何故金沢市は研究していないんだ?この五大力船は相当に大きく、たくさんの荷物を積めたようだ。ここで誰でも気がつくし、同じ疑問を持つと思うのは、人力で櫓やオールでこぐならば、それで船を操れるけれども、帆に風を受けて進む場合は舵が必要だと思う。でもその舵はどうやって取り付けるのだろう?船の底に穴を開けるわけにはいかないし。その答えがここには有った。なるほど。舵の操作部分は甲板上に有って、舵は船底を貫通する訳じゃないんだ。確かにこの構造ならば水は入らない。今までの疑問が一つ解決した。大きな疑問が解決した後は、次の神門古墳群に向かう。国分寺通りを南に進み、国分寺台中学校の角を右に曲がって少し行った所を左にはいる。こんもりとした山が神門5号墳である。鉄剣は見つかっていないけれど大きい。この古墳は近畿の「纏向の箸墓古墳」よりも古い、3世紀前半の古墳。え?纏向より古い?いや日本には箸墓古墳よりも古い古墳はざらにある。邪馬台国近畿説を唱える学者が認めないだけである。特に千葉は古墳が多く、しかも古い。この神門5号墳が大事なのは、付近の3号墳及び4号墳を併せて「前方後円墳がどうやって発達したのか?」が分かる古墳だから。その説明板がこれ。5号墳が一番古く3世紀前半の築造で、方墳部が最も小さい「いちじく型」4号墳、3号墳と新しくなるに従い方墳部が大きくなって3号墳の頃には箸墓と同じになる。つまり前方後円墳は近畿からその形状が伝搬したのではなく、ほぼ全国で同じように発展した可能性が有るのである。近畿からこんな田舎の千葉まで伝わったのならば(製造技術の伝搬もあるので)、そんなに早く伝わるはずがない。そしていつも僕が主張するように、国が発展するのは農業だけではなく海も関係しており、関東特に南関東では海人族が国を造った場合が多いので、古墳は海のそばの山の上に造られたのだと言うことがここの古墳を見ると分かる。神門古墳群は元は東京湾の入江の傍の山の上に造られており、その前にある「雷神池」が海の入江の名残であることが、上の説明板右上の図でも分かる。ちなみにその雷神池はこんな感じ。神門古墳群をあとにして、すぐそばの戸隠神社に行く。僕は雷神池との位置関係、及び神門古墳群との関係から、この戸隠神社も古墳群だったので有り、ただ後の時代に造られたので古墳は小さくなり、その古墳は仏教の伝来とともに変形して(僧がいなかったので)神社になったのだと思う。神社の境内図をみれば容易に想像できる。恐らくは代々の一族がたくさんの古墳を造り、それが神社として祀られたのだろう。例えば金毘羅宮。(右下を見ると雷神池脇には金沢区瀬戸神社同様に弁財天もあるし)他の神社も同様に、みんなこんもりとした盛土(円墳?塚?)になっている。色々と想像すると楽しい。戸隠神社をあとにすると最終目的地の国分寺に向かう。戸隠神社の裏手になる。立派な仁王門である。この手前に面白いものが有る。将門塔である。え?将門?説明文に書いているように、もちろん将門とは関係ない。でも関東特に千葉や茨城の人にとって将門は大事な神様で、あちこちにこの手の伝承が有る。国分寺の中には薬師堂が有る。由緒が有る薬師堂のようで、立派な茅葺の建物である。ここで不思議な物を見つけた。薬師堂に「鐘」が有る。えー!何で薬師堂に鐘が有るの?まるで神社じゃん!しかも虎がいる?仏教に虎?もしかすると神仏混淆の際に色々とあったのかもしれない。あるいはこの薬師堂は、元は神社だったのかも?面白い物を見てしまった。あちこち歩いていると、色々とあるなぁ。
June 22, 2024
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やまさんとやり取りをしていて、電波が届かない地域にいると、せっかく作ったラジオが、うまくできていないせいで入らないのか、元々電波が弱いせいで入らないのかが分からない場合は、せっかくちゃんとできているラジオをいじくりまわしてダメにしてしまう可能性があり、もったいなと思ったので、何とかできないかと考えた、プロやハイレベルアマチュアならば立派な測定器を持っているので、それを使えば済むのだが、(と言うかプロやハイレベルアマチュアはラジオなんか作らない?)低レベルアマチュアには、そんな測定器を持っている人はいない。そもそも、例えばSG(シグナルジェネレーター:信号発生器)なんて、僕が若い頃は100万円以上して、工場や研究所にしかなかった。学校のクラブ活動なんか、到底買えないレベルの物だった。でも愛天堂のホームページに良い物が有るのを見つけた。これです。何が良いかと言えば、発振回路とデジタル周波数カウンターが初めからついており、しかも値段が950円(税抜き)である。100万円のSGに比べると、1.発振周波数が安定しない。しかもコイルではなく水晶発振子(クリスタル)なので固定。2.発振出力が安定せず、調整できない。3.50MHzまでしか使えない。4.ケースが無く剥き出し。5.そもそも改造できるのかな?と言う欠点があるが、値段が1/1000なので使えればもうそれだけでうれしい。なので、頑張ってみることにした。まずは回路図の検討。画像を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選択すると、別タブで画像が開き、自由に拡大できるので利用してください。なお、左のエミッター接地型コルピッツ発振回路と右の回路図をつないでいる緑線は、ここを接続すると言う意味ではないのでごめんなさい。矢印にするつもりが矢印を書き忘れただけで、この部分を置き換えると言う意味で矢印を書いたつもりで失敗しただけです。その上のコレクター接地型コルピッツ発振回路を置き換える方が赤の矢印なので、赤じゃまずいと思い緑にしたのですが、位置が適切ではなかったです。回路図右部分がカウンター、左部分が発振回路で、両者結合コンデンサーで結ばれている・上の「7550」付近は入力した電源を5Vに変換してPIC12F628(マイコン)を動かしている。左の発振回路は元々の対象が水晶発振子(クリスタル)なのでインピーダンスとQが高いので、コレクター接地型発振回路になっている。右側の9014はLEDのドライブ用。非常に簡潔で分かりやすい。まずは元の回路を利用して、なるべくいじくらずにクリスタルをマイクロインダクターに交換。そしてキモとなる周波数可変用に2つの22pFのコンデンサーを270pFX2のバリコンに交換。(あと何か所か回路定数を変えて基板パターンをいじくった。 特にクリスタルをコイルに変えると直流的にはトランジスターのベースがアースと導電位に なるので、ベースとコイルの間に結合コンデンサーを入れるのでパターンカットが必要)やってみた。一応動作したのだが、バリコンを右側に回すと(つまりmin側抜けきった方)発振が止まる。まぁでも90%位までは発振する。何故か?恐らくバリコンがminの時には周波数が高くなりコンデンサーのインピーダンスが低くなり、ベースの電位が下がりすぎて、エミッター電位+Vbeが取れなくなるのだと思った。だって回路図で言えば22pF2個の部分が例えば0Ωになればアースに落ちて、ベース電圧が0Vになるようなものだから。なので試しにここに50pFのコンデンサーを並列に入れてみたら、若干改善するものの、やはりバリコンmin付近では使えなかった。ではどうするか?プリント基板を削る必要があるけれども「エミッター接地型」にすれば良いのかなと思い、さっそく実験してみた。僕は不器用なので失敗しないように、なるべく基盤を削る箇所を減らすように工夫した。特に今はコレクター接地型なので、コレクターがVCC直結になっているが、ここにマイクロインダクターを挿入すると2か所も基板を削ることになるので、コレクターは基板から浮かして穴に差し込まず、その穴にマイクロインダクターを刺し、マイクロインダクターの2次側とコレクターを半田付けして、そこにカウンターへの結合コンデンサーを半田付けした。(まぁその他にもあるのでどうしても削る箇所は出るが、何とか2か所に抑えた)その結果何とか動作するようになった。バリコンMax(つまりラジオならば低い周波数側)の出力の様子。コレクター側のマイクロインダクターが470µHで小さかったからなのか、下側が電源をオーバーして切れている。1mHの方が良かった?逆にバリコンmin側(つまりラジオならば高い周波数側)はこんな感じ。うーん正弦波とは言い難い。何の影響だろう?レンジを100nsにすると見た目は多少マシになるけれども、何かの抵抗が邪魔している?でも、案外と優秀なのは、周波数が2.5倍も変化しているのに出力電圧の変動が少ないこと。電源が「固定バイアス」でこの程度なら、「電流帰還バイアス」ならばもっと安定する?まぁでも基盤を削るのは大変なので、目的がAMラジオ調整用SG「もどき」なので良いかと思って、これで満足した。ちなみにこのセットの利点はもう一つあり、コイルさえ変えれば50MHzまで使える(はず)。ちょっと470µHを330µHに変えてみた。まずはバリコンMax側やっぱりドライブが大きすぎて、下側がはみ出して切れている。バリコンmin側を見てみる。インダクタンスが減ると出力が減るみたい。おかげで下側の切れが少し改善している。発振周波数は2.46MHzまで上がっている。コイルを33µHとかにすれば短波帯でも使えそう。次にこの高周波発振回路に「変調」をかけることにした。AMラジオでこの電波を受信しても、変調がかかっていないと無音になるからである。変調用の低周波は最初はウイーンブリッジ等でカッコよく正弦波にしようと思ったが、面倒くさかったのでタイマーIC555で矩形波を作ることにした。回路はこんな感じ。標準的な回路である。発振周波数が分かりやすいのが良い。僕はRa=Rb=1kΩ、C=1µFにして作った見た。予定では480Hzである。すると簡単に発振した。発振周波数は465Hz。誤差は3%。まぁ抵抗の精度およびコンデンサーの精度を考えれば上等。ただ、矩形波と言うよりも「台形」になっている。これは多分コンデンサーへの充電にかかる時間のせいだと思うので、コンデンサーと抵抗の組み合わせを変えると矩形波らしくなるのだと思うのだけれども、まぁ実験用なので、これで十分。さて発振回路、カウンター回路、変調波回路ができたので、組み合わせて、百均で買ったアクリルケースに入れることにした。これが最大の難関だった。僕の技術力が未熟なせいである。1回目はバキバキに割れた。最初は丸穴で小さかったので、何とかなったのだけれども、大きな穴を開けようとすると「パキパキ」と音を出して、無残にも割れた。まぁ百均なのでと思い、また買いに行ったが目的のケースよりも電車賃が高い。なので、2回目は1回目の失敗を改善して、色々と考えた。まず一番良いのは、あて木等をして木ごとくりぬけば割れにくいと思うのだが、目的物よりもあて木の方が値段が高くなるのがしゃくにさわるので却下(皆さんはあて木使って下さい)思うに、小さな穴は何とか開くので、最初は小さな穴を開けて、その穴をガイドにして少しづつ大きな穴にしていけば良いのでは?やってみると意外にうまくいった。なお、LED等の角穴は、今回は透明アクリルケースなので、穴を開けなくても良かった。出来上がったのがこちら。左側に「記念に」バキバキに割れたアクリルケースを載せた。もうバキバキ!完成品の方に、「MENU]と書いてるのは、実はこのカウンターは秋月のカウンターと同様にいくつかのモードを切り替えることが可能で、例えば原周波数に450kHzや10.7MHzのオフセット周波数を加えたりすることが可能である。なので、本当は結構優秀なのかも?ついでにコレクター接地型とエミッター接地型も並べてみた。せっかくなので。プロやハイレベルアマチュアは100万円のSGを使うのだろうけれども、低レベルアマチュアがAMラジオの調整をするのに100万円のSGを買うのはナンセンスなので、総額でも2000円にいかないSG「もどき」で十分遊べて、使えるのかなと思う。なお、愛天堂には申し訳ありませんが、AMAZONでも同じ950円で「送料無料」なのでお得です。そうそう、最後の写真に載せましたが、これってアンテナの効果がすごく分かります。アンテナを付けないと50cMくらいしか電波を受信できませんが、たかだか50cm位のアンテナを付けるだけで2m離れても聞こえるようになります。ちなみに奥さんの耳だと10m離れても大丈夫です。(僕は耳が悪い)また、僕にとって最高にうれしかったのは、今までどうやっても見られなかった、変調がかかった高周波をオシロスコープで見られたこと。教科書には載っているけれど、実際に自分で作ったもので、実際に自分のオシロスコープで見られるのって大変なことだと思う。何かうれしかった。
June 18, 2024
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6月6日はわの会のイベントで瀬戸神社宮司様の講演をお聞きしました。これは恐らく会の監事の皆さんが、6月上旬には梅雨入りして通常のように歩くことは大変だろうと気をつかったもので、よく考えて年間スケジュールを組まれておられると思いました。講演は主に神額の字の由来や書いた人とその時代がテーマで、非常に詳しく良いお話でしたが、ただ、ちょっと難しかったです。その後できたばかりの権現山公園を見て、米倉陣屋跡を見て浄行寺に行き、そこで解散しました。でも、どこも前に一度見た所で、既にこのブログにも書いた所でした。なので、あまり書くことは無いのですが、唯一瀬戸神社の所蔵品が見られたのはうれしかったです。特に古い絵図はなかなか個人では見られないので良かった。まずはものすごく大きな絵馬。大宰府の絵馬堂ほどは無いけれども、通常の神社の絵馬としては相当に大きい。奉納されたのは寛文13年(1673年)で、今から350年前、江戸時代初期です。350年たっても色あせずちゃんと残っているのはすごい。また僕がよく話題にする、金龍禅院の飛石について、飛石が当初は裏山の中腹に有った物が、文化9年()の地震で現在の位置に落ちた経緯が分かる、2枚の絵図が、ここには両方あります。まずは落ちる前。裏山の中腹に有ります。この中腹の部分は今でも存在し、飛石とは関係ありませんが石碑が有ります。次に落ちてしまった、現在と同じ位置の絵図。下の本堂脇に有ります。この絵図を見ると、これも僕がよくブログに書く、九覧亭は太子堂とは別に有って、九覧亭は現在九覧亭跡と書かれている市よりも、ずっと奥に有ったと分かるような絵図になっています。横浜市の教育委員会は、何故この絵を見てそれが分からないんだろうと不思議です。講演を聞いた後は境内の紫陽花を見て瀬戸神社をあとにしました。その時にふと気がついて宮司さんに聞いたのですが、この瀬戸神社の鳥居は明神鳥居です。(八幡鳥居かもしれない?)ただお聞きした後に、まずいことを聞いてしまったと後悔しました。実は今は鶴岡八幡宮は神社庁ともめていて、神社庁から脱退すると表明しているからです。瀬戸神社の立場としては、神社庁側につくか鶴岡八幡宮側につくか微妙な立場かもしれず、鳥居の形は神社の由来や成り立ちと関係が有る場合が多いので、宮司さんとしては答えづらかったかもしれません。今の瀬戸神社の鳥居はこんな感じです。八幡宮ではないのに八幡鳥居の形状です。まぁ、明神鳥居ともいえるかな?でも笠木が沿っている?思うに瀬戸神社は源頼朝と関係が深く、元は三島神宮と関係が有るので、微妙なのかも?ちなみに富岡八幡宮の鳥居は、当然八幡宮なので八幡鳥居です。正当八幡鳥居です。貫の先端がちゃんと笠木の先端とそろっています。瀬戸神社は貫がそろっていません。鶴岡八幡宮の鳥居はこんな感じです。え?鶴岡八幡宮の鳥居も貫の先端がそろっていない?何故?瀬戸神社と同じ?昔から宮大工さん達が教科書にしている「当世匠家雛形」と言う本があります。第1/6巻。通常の鳥居の場合は笠木(一番上の木)の先端と貫(その下の横棒)の先端はそろえるもので、そろっていないと言うことは、ちょっと手抜きかな?と言う感じはします。ついでなので他の神社の例を見てみます。出雲大社はこんな感じ。えー!これもそろってないや。伊勢神宮の場合。笠木が「沿っていない」のが分かると思います。しかも貫が「貫いていない!」神門鳥居です。かっては「天津神系」つまり天照大御神の系統の神社はこの「神明鳥居」で、出雲大社や厳島神社などの「国津神」系統の神社は「明神鳥居」と言い「沿って」いました。それで鳥居の形状により神社の祭神が分かったのですが、ある時代以降(天照大御神を信じる人が減って以降)、鳥居は寄進する人の自由になり、今では鳥居を見ても祭神は分からなくなりました。寄進者が知らない場合が増えたので。まぁそれでも宮司さんに鳥居の形について質問したのは、僕の軽率でした。ごめんなさい。最後の開山場所は上行寺ですが、ここの入口には「舟繋ぎ松跡」が有ります。えー?海から相当に離れているのに、何で「舟繋ぎ松跡」?そう思う人は多いかもしれませんが、今回瀬戸神社の所蔵品の絵図の中に、その理由(と言うか事情)が分かる絵図が有りました。昔の横浜の地図です。左下を見ると、今の上行寺付近は海です。そう、今の柳町付近は埋立てられた所で昔は海でした。今日のブログの上の方の「武州金沢八景略図」を見ても、金龍院の下の辺り「内川暮雪」と書かれた辺りは海だったんですね。なので上行寺は海辺だったんです。なので、「舟繋ぎ松跡」はここに有るんですね。この地図を見て、ふと気がつきました。富岡を見ると「岡」の字が今と違う。今では使われていない文字で、今の字ならば多分「罡」かなと思います。インターネットやパソコンの環境によっては表示されないかも?地図の書き込みには「うかんむりに正」と間違って書いていますが、正しくは「冗」の下に「正」です。なんて字だろう?まぁ結論から言うと、「おか」は「おか」で正しいようです。でも「岡」ではない。じゃぁ字を間違えたのだろうか?いや何か意味が有るのかも?色々と調べていると、岡とは違いますが「丘」には昔は「墓」の意味があったみたい。前にこのブログで、富岡は元は「登美丘」だったのではないだろうか?と書いたけれども、それが本当であれば「富岡」は「富=長者」の「岡=墓」だったのではないだろうか?いつも僕が主張する「富岡八幡宮は古墳だよ」です。地震で円墳部が壊れていなければ、どうみても古墳ですから。古代にはここ久良岐(金沢区のこの辺の古い地名)は皇室の直轄地でした。恐らく皇室の財政上の理由から奈良に居られなくなった皇室の分家の子女がここに居り、故郷の奈良の「登美丘」の地名を付けたのではないかと思うのです。しかも和名抄に書かれた久良岐の「鮐浦(ふくら)」と言う地名は、実は「富倉(ふくら)」であり、富の蔵から来ているのかも?と思いました。それが「久良(くら)」岐(き)と言う地名として残っていたのではないか?「岐」とは山のことです。「富(ふ)=長者」の所持する「久良(くら)」の「岐(やま)」だから久良岐?久良岐郡の中の古い地名である「鮐浦(ふくら)」とは富岡のことではないか?上の方では「岡」を「墓」だと考えて富岡八幡宮と、結びつけましたが、「岡」を「墓」ではなくて「山」の意味だっと考えた場合にはこちらの方が合うようです。新編武蔵国風土記の編者は「鮐浦(ふくら)」を六浦だと推理していますが、漢字の読みを考えても富岡の「富倉(ふくら)の方が合いそうです。だって六浦を「鮐浦(ふくら)」と読むのは無理があるから。うーん、自分でも分からないくらいグジャグジャになったので整理すると、534年に「武蔵国造の乱」で朝廷の直轄地になった倉樔屯倉(くらすのみやけ)は後に「久良岐郡」となるのだが、(屯倉とは朝廷の直轄地)「倉樔(くらす)」は「倉樹(くらき)」の誤記だとされている。倉樹つまり、僕はこれを倉(くら)岐(き)つまり朝廷に納める物質の倉の有る山と考える。そうすると久良岐の意味が定まる。富岡は富の納められた倉の有る岡(当時は丘)だと考えると、そこは朝廷の直轄地であるから、朝廷の財政上の理由から奈良に居られなくなった皇室の分家の子女がここに居たと言うことである。それが色々な本に載っている、例えば桓武天皇の孫娘達なんだと思うのである。そのような人がいたので、倉の有る山「倉岐(くらき)」の中でも、この富岡の地は「富倉(ふくら):富の納められた倉」と呼ばれ、それが和名抄に書かれた「鮐浦(ふくら:布久良=富倉)」なのではないだろうか?違うかなぁ?
June 8, 2024
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今回の九州一周でよく分かったけれども、史学(歴史学)と考古学は別のもので、邪馬台国論争が収拾がつかず、論理的に変な議論が多いのは史学に問題が有るのだなと思う。(史学は文献等に基づき歴史を研究する学問で、空想に偏りがち。 考古学は出土品や副葬品など実際の調査により歴史の真実を探る学問)いや、史学そのものは良いのだけれども、末端の史学の先生に問題が有るのだと思う。思うに、史学の先生は、歴史の勉強に打ち込むのは当然だが、論理的思考を養う為に「論理学」も併せて学ぶことが必要なのではないだろうか?元々数少ない「確実な証拠」から真実を求められれば良いのだが、過去に書かれた歴史書は当然「目的を持って」書かれているはずなので、真実と「ある集団や個人に都合の良いうそ」も混在している。なので複数の書物を比較検討して、真実のみをあぶりだして使用する必要があるのだが、人間の本質として、保身や利益誘導は必ず多数派なので、多い方が正しいとは限らない。むしろ少数派に真実が隠されている場合が多いのだが、多数の書物を比較検討する場合、多数派の意見を真実だと考えやすい。そこに末端の史学の先生が陥りやすい落とし穴がある。史学の先生は、その学問の性質から「暗記型」の頭脳の持ち主が多いのだ。書かれた論文を見れば分かる。「○○年○○月に✖✖先生が書いておられる~」と言う書き方がものすごく多い。その結果限られた範囲の分野に関しては異常に詳しい。いやそのこと自体は良いのだが、少しでも外れた分野には全く知識が無い。例えば僕のブログでは良く書くのだけれども、魏志倭人伝に書かれた「中国から来る使者が準構造船に乗ってくる」と信じている人が、圧倒的に多い。(準構造船とは丸木舟に堅板や側板を追加して改良した舟)中国の偉い人がそんな危険を犯してくるわけがない。魏志倭人伝は三国志の一部であるが、三国志には有名な「赤壁の戦い」での船の描写があるが、魏の軍船は結構大きい構造船。つまり技術的には中国側は既にある程度安全な大きな船を持っていたと言うこと。歴史を専門に研究する史学の先生なのだから「三国志」くらい読んでいるはずなのに、自分の専門分野をちょっとでも外れると気がつかない。そういう事例がものすごく多い。史学の先生ではないが、角川春樹は「野生号」、大阪市は「なみはや号」を作り、韓国に渡ろうとして失敗している。準構造船であんな大きくて流れのはやい海峡を渡れるはずがない。みんな埴輪の舟から「想像して」舟を作るからだ。想像から作る物は間違っている可能性が極めて高い。野生号もなみはや号も一応専門家の先生の助けを得て作っているが、その先生は舟については詳しいが三国志を読んでいなかったらしい。もっと極端な例は「太安万侶の墓」と墓誌の発見である。それまでは史学の先生達は、古事記は偽書だと主張する先生が多数いた。「古事記の序」が時代に合わず、書式が上奏文の形で変だからである。これは確かにそうなんだけれども、あれが「古事記の序」だと誰が言ったのか?「序を併せて」と書かれているだけで、古事記の序とは書いていない。僕は日本紀講の序において先生が資料として使う古事記の正しさを説明する為に、自分の家に伝わる太安万侶の上奏文を見せたのを、つまり「日本紀講の序」で使われた文書を併せて書いただけで、先生もまたそれを書き写した生徒も「古事記の序」として書いたつもりは無いのだと思う。つまり史学とは、資料を読む人の解釈だけで真実が変わる性質を持っている。危ない学問だと思う。最近韓国の古代の勉強をしている。日本の古代に関係するものがありそうだから。特に韓国の南側には、明らかに日本由来の前方後円墳が多数ある。なので調べている。日本由来の古墳ではないが、百済の武寧王陵が面白い。韓国の史学者も日本同様なので、全く誰の古墳なのかが分からず、墓の形式が中国の塼築墳であり、南朝のものに合致していた。(塼=せんとは焼き物製のブロック。誤解を恐れずに言えばレンガ。 武寧王が死んだのは523年頃なので日本はまだ古墳時代。百済って進んでいたんだ?)塼には蓮華紋や忍冬紋が刻まれており、平積と縦積を繰り返して壁を構成し、連子格子状の模倣窓の上部には龕(がん)が設けられており燈明皿が置かれていた。出土物も中国色が強く、百済土器等の百済の王であることを示す物は無かった。ただ生活に関連する副葬品は百済の地元の物が多いために、誰の墓かは分からなかった。ところが1971年に「未盗掘」墓であることが分かり、発掘すると「墓誌」が見つかり、その内容から武寧王陵であることが分かり大騒ぎになった。このように「解釈」に頼って真実に迫ろうとする史学は常に変わる可能性があり、出土物や物理的な証拠から真実を求める考古学の力なくしては成り立たないのである。墓誌が出てこなかったら武寧王陵はどうなっていただろうか?<後日追記>こんなに面白い古墳を黙っているのはイヤなので、行ったことはないけれどネットから画像をお借りして載せる。武寧王陵は宗山里古墳群の一つで、(日本も同じだけれども学者は見向きもしなかったので)地元の高校の先生が6号墳まで発掘調査していた。その調査に付随する排水溝の工事の際に「塼」が見つかり、これが第7号墳としての発掘調査の始まりだった。武寧王陵とその入口。大きさはそれほどでもない。円墳らしい。「塼」と言うものがどんなものか、言葉だけでは分かりにくいと思うので発見時の写真。単なるレンガではなく、右上を見ると(多分燈明皿を置く?)穴が有る。日本の古墳の石の代わりに「塼」を縦横に積んで室を作っている。ここで墓誌はが見つかった。ところで武寧王は、実は日本それも九州で生まれた。日本書紀に載っている。武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島→呼子付近の島らしい)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている。僕も九州人なので、武寧王は韓国人なんだけれども親近感を覚える。ところで百済って、後世の扶余褒章もそうなんだけれども、よく王族を日本に送っていたのね。日本側の日本書紀等の書物では人質みたいに書いているけれど、天智天皇時代の扶余褒章を見ても大事にされており、今川に預けられていた徳川家康みたい。「可哀そうじゃない人質」なのかな?そして、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には百済の末多王(牟大、東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしている。なんかドラマが有った匂いがぷんぷんする。武烈天皇もひどいことをした天皇として、日本書紀に書かれており評判が悪く、崩御された時に子供がいなかったので、越に居た応神天皇5世孫の継体天皇が探し出されて、後継の天皇として担ぎ上げられたんだよね。しかも継体天皇は19年もさまよって、なかなか都に入らなかった。(入れなかった?)日韓で同じ時期に、同じように悪い王様が出て、周囲が新しい王様を担ぎ上げる。何で同じ時期?政治の嵐が吹き荒れたのかな?武寧王は日本で生まれ育ったせいなのか、武寧王と王妃の木簡は、コウヤマキという日本にしか自生しない木材で作られていた。うーんなんかありそうな空気が漂っているなぁ。別に韓国の木で作っても良いはずなのに、何で日本の固有種で作るの?本当に武寧王は百済の人なのかなぁ?まさか日本人それも筑紫の人だったりして。そしてその関係が後世まで続いていて、斉明天皇も天智天皇もその子孫だったなら、無謀な白村江の戦いに臨んだのも分かるような気がする。百済は九州の王朝の子孫が造った国?後日追記終わり。そう言えば継体天皇の「今城塚古墳」も史学が考古学に負けた良い例である。宮内庁は別の墓を継体天皇陵としていたために、今城塚古墳は発掘ができ、おかげで色々な事実が明らかになった。天皇陵などは宮内庁が管理しており発掘などもってのほかなので、日本の古代は分からない。史学者は真実が明らかになると自分達の立場が危うくなるので、宮内庁に味方する。史学者は日本の古代研究の為に考古学を大事にして、もっと勉強して欲しい。
June 5, 2024
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僕は身体障害者手帳をもらえるくらい耳が悪いので、マンションに住むととても苦労する。テレビを見ようとするとボリュームが大きくなりすぎて奥さんに怒られる。かと言って奥さんにちょうど良いボリュームだと全く聞こえない。テレビCM(通販)を見ていると、ミライスピーカーと言うのを宣伝していた。自分専用のスピーカーを手元に置けば、他の人の聞くテレビのスピーカーとは別に自分の好きな音量に設定して聞けるのだ。うーん便利。でもすごく高い。自分で安く作れないか?やってみた。素材は百均のスピーカー。ステレオでそこそこ良い音がして300円。安い。イヤホン端子に接続して使えて、電源をUSBから供給して音量を調整できる。さっそく買ってきて分解してみた。USB端子からVCC(5V)とGND(アース)を取っている以外に、D+とD-も使っている。音源はイヤホンから取っているのでD+とD-の意味が分からない。恐らくはテレビのON/OFFを感知して電源のON/OFFをしているのだろう。最近の色々な機器のUSB端子は本体がOFFでも充電したり、外付けHDDのON/OF制御が可能なので、これもそう言う使い方をしているのかなと思う。まぁでも気にしない。さっそく使ってみた。え?そう言えばイヤホン端子に差し込むとテレビ本体の音も消えるのでは?ミライスピーカーはどうやって使えるの?色々と調べたら、最近のテレビは「設定」によって、イヤホン端子にイヤホンを指し仕込んでも本体の音を消さないことができるらしい。設定メニューボタンを押して、音声設定→ヘッドホンモード→親切モードと設定すると、確かにイヤホン端子に300円スピーカーを差し込んでも本体のスピーカーから音が出ている。いやー、最近のテレビ(僕のテレビは東芝のREGZA)は進歩している。ところが奥さんに怒られた、奥さんは僕の数百倍も耳が良いので、僕の手元のスピーカーでさえもうるさいのらしい。我家はカーストが厳しいので勝てない。仕方ないので百均の300円スピーカーを改造してヘッドホンを使えるようにしよう。さっそく再度分解して調べてみた。するとちょっとややこしいことに気がついた。僕の頭は古いので、ヘッドホンはR,GND,Lの三端子なんだけど、300円スピーカーの出力はR,RGND、L、LGNDの4端子なのである。うーん困った。RGNDとLGNDを接続してGNDにしても大丈夫だろうか?調べると大丈夫なICも有るけれど、これに使われているICは大丈夫だと書いていない。しかもデーターシートがなかなか見つからず、等価回路図がのっていないので、諦めてアイソレート(直流的に絶縁して交流のみ流すように)した。こんな感じ。コンデンサーCは直流的に絶縁しているだけなので、いくらでも良いのだけれど手持ちの470µFにした。小さいのにすると低音が出なくなるし、大きいと負荷が大きくなりすぎて壊れそう。多分100~500µFくらいが良いのかな?実験中。あれ?変だな、うまくいかない。ごめんなさい。配線がイヤホンとスピーカーが入れ替わっていました。さっそく直すと、無事にヘッドホンが使えるようになりました。よくできましたと奥さんにほめられて、めでたしめでたし。
June 3, 2024
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昨日の西都原古墳のブログでは書かなかったが、神武天皇は西都原の妻(つま:昨日5月20日のブログの最終部分参照)から船出されている。いよいよ僕が邪馬台国だったと考えている宮崎県小林市(正確には諸県群高原町)に着いた。古事記を読むと、(原文)神倭伊波禮毘古命與其伊呂兄五瀬命二柱坐高千穗宮而議云坐何地者平聞看天下之政猶思東行卽自日向發幸行筑紫故到豐國宇沙之時其土人名宇沙都比古宇沙都比賣二人作足一騰宮而獻大御饗自其地遷移而於筑紫之岡田宮一年坐亦從其國上幸而上幸而於阿岐國之多祁理宮七年坐(意訳)神倭伊波禮毘古命(神武天皇)とそのお兄さん五瀬命の2人は高千穂の宮に住み相談しました。どこの地に行って日本の国を治めればいいかな?やはり東へ行くのが良いだろう。さっそく日向を出発して筑紫に向かいました。そして豊の国(大分)の宇佐に着いた時に、そこの地元の権力者の宇沙都比古と宇沙都比賣の2人が足一騰宮を建てて大御饗(豪華な食事)でもてなしてくれました。その地から筑紫の国の岡田宮(北九州市八幡区)に向かい1年すごしました。またそこから於阿岐國(広島県)の多祁理宮に向かい7年すごしました。なんとものんびりしたものだけれども、この時点では宇佐の人達は皇室とは血縁ではなく家来だったのである。ただその関係で、宇佐八幡宮には比売大神(筑紫の宗像の3女神)が祀られて、神功皇后の時代に八幡神(応神天皇)が宇佐八幡宮の祭神になったのだろう。でそれがなんで今日の目的地の小林市(正確には諸県群高原町)に関係があるか?それは古事記に書いてあるように、神武天皇と兄の五瀬命は日向の高千穂の宮に住んでいたから。大分に近い延岡にも「高千穂峡」はあるが、あれは後世につくられた観光地である。行けばすぐに分かる。有名な高千穂峡の滝は自然の滝ではなく、上に人工の池が有ってそこから注ぐ人工の滝である。さらに言えば付近には天孫の瓊瓊杵尊が下った形跡が無い。古事記にはこう書いてある。(原文)於是詔之此地者向韓國眞來通笠紗之御前而朝日之直刺國夕日之日照國也故此地甚吉地詔而於底津石根宮柱布斗斯理於高天原水椽多迦斯理而坐也(意訳)そこで(瓊瓊杵尊は)仰いました。ここは韓の国(韓国ではなく当時は外国のことを言った)に向かっていて行き来するのに適した笠紗之御前が有る。そして朝日が真っすぐにさして夕日が照らす地なので良い所だ。地面の底にしっかりとした基礎を築き御殿の太い柱を立てて高天原の届く千木を造り、御住みになられた。延岡の高千穂からは韓の国は見えないし、笠紗の岬は無い。(自称の笠紗の岬は愛宕山付近にあるが、人工の高千穂峡同様に観光用。 同じような自称の笠紗の岬は鹿児島の野間岬もそうだがどこも決定打はない。)いや韓の国はどこからも見えないだろう?福岡ならともかく?と言う話は有る。このせいで今までは古事記や日本書紀の神話部分は単なる神話とされてきた。でもちょっと見方を変えれば宮崎ならあり得る話なのである。韓の国と言うのが韓国ではなくて、韓(外国)の人達が住んでいる所なら日本の中でもあり得る?5月18日のブログで書いた「朝倉橘広野宮」が筑後川沿いに有れば九州に韓の国は有り得る。古代には道路は無いので、流通の基本が川を利用した水運だったならば、大陸や朝鮮半島から渡って来た人達は三笠川を利用して博多湾から太宰府までは行ける。また大宰府からは宝満川を利用して朝倉橘広野宮経由で筑後川まで行ける。筑後川まで行けば、佐賀の吉野ヶ里や熊本の八代にはすぐである。現に熊本の八代には「百済来(くたらき)」と言う地名が残り、渡来人の形跡が残る。とすれば、球磨川沿いに上れば、或いは水俣(正確には出水)から川内川を上がれば、宮崎までは来れるのである。<後日追記>女王国は狗奴国の北側に在るので熊本よりも南にはあり得ないのでは?と言う質問が有ったので、解説する。魏志倭人伝には「女王国の南側に狗奴国が有る」とは書いていない。女王国の北側の国々について書かれた部分を読み間違えているのでそうなる。該当部分を載せる。(原文)自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 (途中略)次有奴國 此女王境界所盡其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王自郡至女王國 萬二千餘里(意訳)女王国より北側の国々は、その戸数や行程についてはおおよそは分かるが詳しくは書けない。それら国々は付き合いが無く情報が無く、詳しくは分からないからである。(女王国の)北側には斯馬國がある。その次には巳百支國がある。(途中略)その次には奴国が有る。ここまでが女王国に属する国の境界である。(奴国は帯方郡から不彌國までの行程では北側から南へ順に記載されており、 ここでは南の女王国から北側に記載されており、記載は奴国で合流する。)其の南に狗奴国が有る。王は男である。官がいて有狗古智卑狗と言う。女王国には属さない。帯方郡から女王国までは1万2千里である。学者先生は女王国の北側の国々の説明は「女王国に属する奴国で終わる」と理解するので、「其南有狗奴國」の「其の」を女王国(連合=邪馬台国)と考える。なので「女王国は狗奴国の北側に在る」と考えて来た。はたしてそうだろうか?その答えは「自郡至女王國 萬二千餘里」と言う部分に有る。もし女王国の北側の国々の説明が奴国で終わっているならば、この文は奴国の説明のすぐ後にあるはずである。でも魏志倭人伝はそこではなく、狗奴国の説明の後に書かれている。理由は簡単。狗奴国も(女王国には属さないが)女王国の北側の国々であり。説明は奴国で終わっておらず、狗奴国まで続いているからである。それで狗奴国の説明まで終わって、「自郡至女王國 萬二千餘里」と書かれているのである。つまり「其の」は女王国ではなく、そこまで書いていた奴国をさすのである。そうならば熊本と思われる狗奴国が、福岡と思われる奴国の南にあるのは現実的である。なので狗奴国も女王国の北側の国であり、女王国は熊本よりも南に在ると考えられる。後日追記終わり。魏志倭人伝には邪馬台国に至るには水行10日陸行1月と書いてある。有明海を水行して九州山地を歩くならば宮崎県小林市あたりがちょうどそれにあたる。そして、その際に気になるのが「えびの」である。今はえびのの名称の由来を「えび(すすきの色)」から来ているとしているが、そんな理由ならば日本中どこでもえびのである。僕は「えびの」は「夷(えびす=外国人)の住む野」が由来だと思っている。そうすれば、瓊瓊杵尊の天孫降臨を奴国から宮崎の邪馬台国への行幸だとすれば、その途中に韓の国(えびの)があり、そこを通って宮崎に着き、古事記の記載通りになる。なによりも小林市には「ひなもり」の地名が残り、「夷守(ひなもり」は夷(外国人)から国を守る人又は役職なので、天孫たちをえびのの外国人達から守っていたのだろう。その夷守は魏志倭人伝にも書かれている。東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家の中で(僕は不彌國は奴国などと違い竪穴式住居ではなく高床式住居だったので、 「戸」ではなく「家」で国の規模を表していると考えるので大宰府だと考えている。)「卑奴母離(ひなもり)」と言うのがそれと同じもので、福岡の香椎付近には今でも夷守と言う地名が残っており、小林市と同じである。そんな感じなので、今日の目的地は神武天皇ゆかりの地であり、もし魏志倭人伝に書かれた卑弥呼が天照大御神だったのならば、ここが邪馬台国で、今でも何らかの地名や言い伝えや建物などが残っているのではと思って楽しみだった。付近の地図を燃せる。地図の中に書かれた、韓の国から名づけられたと思う韓国岳や天孫ゆかりの高千穂の峰を、小林駅の2階展望テラスから写真に撮ってみた。googleEarth等で見ると分かるけれども、霧島にはたくさんの火口がある。高千穂の峰から韓国岳の間にある火口のうち、新燃岳はいまだに活動中で、鹿児島の桜島や阿蘇と併せて、九州はまだ地球の息吹を感じさせる地だなと思う。JRに乗っていると韓国岳が夕日に映えて綺麗だったので、車窓越しであるが写真を撮った。古事記に書かれた瓊瓊杵尊が言う「夕日之日照國也」と言うのはこんな感じだったのかな?西都原に向かう途中で書いた高鍋同様に、と言うかここはもっと不便な所である。高原駅を降りると何も無い。タクシーも駅の周辺には無いので、前日に調べて予約しておいた。ちなみにタクシー会社は小林市にあるけれど、小林から乗ったら破産するので、僕は高原駅まではJRで行った。タクシーさんごめんなさい。最初は狭野神社に行った。通常は有名な狭野杉の杉並木を歩くので東側の鳥居から入るが、マイカーではなくタクシーで来ており、待ち時間中もメーターは回るので、本殿(神前)に近い西参道から入る。本殿はこんな感じ。記録が残っていないらしいので(略記に孝昭天皇の時代の創建とあるがさすがに信じられない)いつから有るのかは分からないが、相当に古そう。と言うか、実は失敗して見に行けなかったんだけれども、皇子原に「元宮」が有る。こちらは本当に神話の時代に有ったのかもしれない。この神社と言うかそばの皇子原に神武天皇はお生まれになったらしい。そして成長して、(ここから高原駅に向かう途中に有る)狭野渡から日向に向けて出発された。ただ狭野渡はタクシーの運転手さんもよく場所を知らないし、時間も無いのでいかなかった。本殿を横から見ると面白い。拝殿は現代風の普通の神社だが、奥殿は古い昔の造り。樫木や千木が有る。書かれた通り古い神社が有って、その名残かも?本殿から東に向かうと狭野杉の並木道が有る。高い杉が立ち並ぶ。ここですごい失敗をした。タクシーの運転手さんに皇子原の狭野神社の元宮へ行きたいと言って、一所懸命に説明したのだけれども、運転手さんは知らなくて理解できず別の神社に行ってしまった。ちなみに皇子原の狭野神社の元宮と言うのはこれ。神社と言うよりも古墳で、地元の高原町の教育委員会が「高原古墳」として調査している。かなり古いらしいのだが、報告書を見ても要領をえない。ただ、付近には縄文時代からの遺跡や出土品が多く、この皇子原は相当に古くから人が住んでいたらしい。狭野神社の所で、今の狭野神社が孝昭天皇の時代の創建と言うのは無理が有るが、ここがそうだったと言うのならば有り得るなと思ったのはそれである。縄文時代の遺物が出土しているのならば、そのころから村や国があり、弥生時代以降の卑弥呼や神武天皇がおられた可能性は有るだろう。話は戻って、結局タクシーの運転手さんは元宮ではなく、より有名な霧島東神社に連れて行ってくれた。まぁ元宮は探すのが大変だから、帰りのJRの時間を考えると良かったのかもしれない。ここにきて驚いた。元宮に行けなかったのは悔しいけれど、この神社を見られたのは良かったのかも?この神社も古い。本当かどうかは分からないが、崇神天皇の時代の創建らしい。ちょっと眉唾だけれども、ちょっと信じたくなるのは「狛犬がいない」からである。狛犬は仏教が伝わった際に、それまでは建物が無く注連縄で囲まれただけだった神社を、仏教寺院同様に礼拝の場所として整備する際に、結界のばとしてインドの寺院のマネをして設けられたモニュメントである。なので、狛犬が居る神社は仏教伝来以前には遡れないのだけれども、狛犬がいない神社は仏教伝来以前から有るのだと思えるからである。この神社も相当に古いのかも?残念なのは皇子原の狭野神社の元宮だけれども、またいつか来よう。こうして歴史の真実を求めて九州一周は終わったけれども、結構収穫は有ったし面白かった。次はどこに行こうかな?
May 21, 2024
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宇佐八幡宮(大分)から西都原古墳群(宮崎)は結構遠い。なによりも西都市は市街地をJRが通っていない。その上にJR日豊線は本数が少ないので、事前の計画が非常に重要になる。僕はJRを高鍋駅で降りてバスで西都市に向かった。東京や横浜の感覚で行ってはいけない。JR駅前は何も無いし、バスセンターと言っても小さい。なお、僕は最初は歩く予定だったのでバスセンターの手前の御舟通りで降りた。これがラッキーだった。すぐそばにタクシー会社が有ったから。予定は未定。足のマメも痛いので古墳群までタクシーで行くことにした。運転手さんが詳しい人だったので、鬼の窟古墳前で降ろしてもらった。鬼の窟古墳は見どころが有る古墳である。まずは正面から見る。圧倒される。大きい。でもこの古墳の大事な所は、その形の面白さと石室内に入れることである。この古墳は周濠(堀)とドーナツ形の堤の中央に円墳が有る。珍しい形である。周囲をぐるーっと堤が取り囲んでいる。ドーナツ形の堤部分は上をぐるーっと回れる。堤を降りて石室に向かう。この古墳は6世紀末の建造なので、奈良の石舞台古墳(蘇我馬子の墓7世紀建造)とほぼ同時期。さすがに天下の蘇我馬子の墓に比べれば小さいが、その分整っている。大人が立って入れる大きさがあるのに周囲の積石には隙間が無く、床には石が敷き詰められている。まぁもっともこれは復元された古墳なので、復元前はこんなにきれいではなかったかもしれない。(石にはナンバーリングしてあったので、元の石を使っている。)でも床にきれいに石が敷き詰められた古墳は少ない。鬼の窟古墳には伝説が有り、有名なこのはなさくや姫に恋した鬼が一晩のうちに窟(石室)を造ったのが名前の由来らしい。えー?このはなさくや姫って富士山の神様じゃなかったっけ?いや、実は古事記には天孫の瓊瓊杵尊が一目ぼれして妻にした女性と書かれており、お父さんは大山祇の神。そして妻に迎える時に、大山祇の神はこのはなさくや姫だけでなく姉のいわなが姫も付けて瓊瓊杵尊の元へ送りました。でも瓊瓊杵尊はいわなが姫がブスだったので送り返してしまいます。大山祇の神はいわなが姫も妻にすれば岩のように頑丈な身体になって永遠に生きられたのに、返してしまったのであなたはもう有限の命になってしまったと怒った。それ以来、天孫の子孫や人間は短い寿命しか無くなってしまった。つまり古事記の伝承では大山祇の神も瓊瓊杵尊も日向に居たので、ここに居てもおかしくはない。神話の世界って色々とあるなぁ。鬼の窟古墳を後にして姫塚古墳に向かう。西都原古墳群は相当に広いので、結構歩く。参考に西都原古墳群の全容が分かるように、この付近の国土地理院の地形図を載せる。西都市の出しているMapにしようかと思ったけれど、マンガっぽいし、googleMapからつくるとイメージがわかないけれど、地形図は草木等に隠れてイメージしづらい古墳が一目瞭然に分かるので見やすい。地形図を右クリックして出てくるメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、別のタブで大きな地形図として見られるので参考に。大きくすると古墳がよく分かる。西都原古墳群には200以上の古墳が有り、10以上の支群に分かれている。代表的な古墳は、例えば男狹穂塚・女沙穂塚古墳は第五支群である。地形図を見ると分かるように姫塚は鬼の窟古墳のかなり南で第一支群に在る。行く途中に坂元ノ上横穴墓群を保護する為に造られた覆屋が有る。ここで大失敗したことに気がついた。今日5月20日は月曜日だ!そう公共の博物館などは月曜日はお休みなんである。どうして一番重要な西都原古墳群を月曜日にしちゃったんだろう?いや、九州一周は一週間はかかるのでどこかは月曜日にあたるんだけれども、何で西都原古墳群?相当に後悔したが、すんだことは仕方ない。今日は内部展示は全部諦めよう。仕方ないので先に進んで姫塚に到着。姫塚古墳は西都原古墳群の中でも最終期の古墳で6世紀後半に造られた古墳。2段構成の前方後円墳である。上の写真を見てもちゃんと2段なのが分かる。姫塚と言う名前の由来は、もしかすると神話の中のお姫様から?と思ったら、見た目の優しい形状が名前の由来なんだそうである。確かに柔らかい感じ?姫塚の次は第13号墳。ここは通常ならば石室に入れるらしい。でも今日は月曜日!手前には1/20スケールの模型が有り葺石で覆われている。そうこの古墳は調査時に全体が葺石に覆われていたらしい。石室に入りたかったなぁ。ここから次の目的地の男沙穂塚・女沙穂塚古墳までは相当に歩く。でも通常ならばシャトルバスがぐるーっと回っているので大丈夫なんだけど、今日は月曜日。バスは無い。何で月曜日!途中にガイダンスセンターこのはな館が有る。ここは月曜日だからではなく、現在改修中なので入れない。もう!プンプンである。傍らに三段登り窯が有った。珍しい。展示用の埴輪をこれで焼いたのかな?そしてついに男沙穂塚・女沙穂塚古墳に着く。ここは宮内庁が御陵参考地にしており、中には入れない。相当に大きい。ちゃんと周濠も含めて復元したら近畿の大きな古墳にも負けないと思う。ちなみに御陵参考地なのは、祀られたのが皇室関係者だから。県立西都原考古博物館の北郷(ほんごう)泰道氏らは、「仁徳天皇の妃となった髪長姫と、その父である諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい) ではないか」という仮説を立てている。男狭穂塚と女狭穂塚は、隣接してほぼ同時に作られていることから密接な関係が推測され、当時、女性は出身地に葬られる習慣があったこと。記紀などの文献に具体名として登場する日向の支配者は、諸県君牛諸井だけであることが根拠。でも古墳の形状から分かるように男狭穂塚と女狭穂塚は時期が離れていると思う。それは上の国土地理院の地形図に僕が追加した地形レーダー探査結果の図を見れば分かる。男狭穂塚はホタテ型の前方後円墳で、円墳に造出がついた物ならば初期の前方後円墳、方墳部が縮小化して帆立貝型になったのならば後期の前方後円墳である。女狭穂塚はホタテ型の前方後円墳ではない。また仁徳天皇の奥さんの古墳ならば時代的に円墳部と方墳部の境目に造出が有るはずである。形状からは方墳部が広がっており最終期の前方後円墳だと思う。つまり両者の間には100年程度の違いが有り、親子の古墳ではないと思う。じゃぁ誰の古墳か?分からない。だって記録がないから。宮内庁が御陵参考地をやめれば調査が可能になり、副葬品から分かるかもしれないが、今は1年のうちの特定の日(11月の参拝日1日だけ)に入れるだけ。とても調査はできない。男狭穂塚と女狭穂塚を後にして、その陪塚(家来の墓)だと思われる171号墳を見に行く。九州では珍しい方墳である。しかも正方形。このタイプは出雲や関東に多い。あと蘇我氏系の古墳もそう。と言うか僕は蘇我氏は出雲の子孫だと思っているので当然かも?では何故宮崎の古墳なのに方墳?男狭穂塚と女狭穂塚の陪塚だから、つまり男狭穂塚と女狭穂塚が誰の古墳なのかに関係あると思う。女狭穂塚の主は諸県君として宮崎で亡くなったが、元は出雲や近畿に近い人であり、陪塚に葬られた家来は出雲の人だったのだろうと思う。では女狭穂塚の主は誰か?それは「諸県君牛諸井」。出雲系の景行天皇により日向の諸県君に任命された人だろう。だから家来は出雲の方墳。つまり本郷先生の仮説は半分合っているのだと思う。ただ、仁徳天皇の妃となった髪長姫が余計なだけ。別の人だと思う。恐らくは女沙穂塚古墳の埋葬者が「諸県君牛諸井」であり、男沙穂塚古墳はその御先祖様または子孫なんだと思う。(もし帆立貝型前方後円墳が朝廷の規制により方墳部を大きく造れなかった後期のものなら、 子孫だと思う。)中に入れないので確証はないけれど、陪塚から考えると多分そうだと思う。次はすぐそばの170号墳。ここは写真の「子持家型埴輪」と「舟型埴輪」が出土したので有名な古墳。さらに進むと西都原古墳群の最も北側に着く。ここには西都原考古博物館が有り、その庭には古代生活体験館と復元住居が有る。月曜日なので中には入れなかったが、復元住居が住民参加で建てられたと言うのは面白い。将来の日本を背負ってたつ子供達が考古学に興味を持つのは大事なことだと思う。庭を通って考古博物館の正面に出る。立派だなぁ。月曜日に来るんじゃなかった。中にはここ西都原古墳群の各古墳から出土した副葬品がたくさん有るんだろうなぁ。見たかったなぁ。でも愚痴を言っても仕方ないので、最後の都萬神社に行く事にする。すごく遠いし今日はバスが無いのでタクシーで行く。月曜日だから仕方ない。この神社はすごく古くて、創建の時期は不明だが、続日本後紀に載っている。つまり9世紀にはすでに有ったらしい。近畿地方ならばともかく、九州のしかも南のはてなのにそんな昔から有り知られていた?すごいと思う。神社の中には景行天皇が熊襲を攻めた時に奉納したと伝わる大太刀が有る。ただ現在の物は宝徳2年(1450年)、妻町の付近の鹿野田の住人日下部成家が、備前則次らに鍛えさせ、都萬神社に奉納したもので景行天皇の時代のものではない。残念。ここで大事な推理が有る。この付近は妻と呼ばれている。神社の名前が都萬であることから、「つま」と言う音が有って、妻も都萬も宛て字である。では「つま」と言う名前の由来は何だろう?僕は実はここは「投馬國」だったのだろうと思っている。投馬は「とぅま」なんだと思う。魏志倭人伝の中では投馬國は規模や行き方の分からない女王国の北側の国々とは違って、邪馬台国と同様に不彌國(又は伊都国)から水行20日と記され、5万戸を誇る大国である。邪馬台国の7万戸よりは若干少ないが、戸数が書かれた国の中ではNo2である。しかも「官の名前」も記されている。魏志倭人伝の中では重視されている国である。西都原古墳群の規模から考えても、投馬國=つま と言うのは案外正しいのではと思う。なによりも投馬國の官の名前は「彌彌(みみ)」であり、この辺は明治時代まで美々津と呼ばれていた。「みみ」の津(港)である。気味が悪いほど一致する。水行20日と言う距離と方向もだいたい合っている。邪馬台国近畿説や北部九州説のように、「方角を間違えた」とか「距離を間違えた」と言わなくていい。ちゃんと書かれた通りに着く。西都原こそ投馬國だったのではないだろうか?都萬神社に来て自信を持ってしまった。明日はいよいよ最後の目的地である宮崎県小林市(と言うか諸県群高原町)
May 20, 2024
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福岡をあとにして大分に向かった。1日目はお袋の7回忌で長崎に行ったのだが、今日は古い友人に会うのが一つの目的。彼は両親の介護の為に大分の日田にマンションを買い、そこに住んでいる。周囲に友人がいるのかもしれないけれど、田舎で生活していると退屈だろう。たまに息抜きで2~3時間は外に出て過ごすのも良いのではないか?そう思って宇佐八幡宮で彼に会うことにしたのである。宿は時間的な話(大分を通る日豊線は本数が少ない)を考えて近くの中津にした。中津は福沢諭吉の故郷であり、他には絶景「耶馬渓」がある。ハモ料理も有名。中津駅にはハモにちなんで日本一長い椅子が有った。列車を待つ時間つぶしに改札に降りるには斜行エレベーターに乗る。珍しい。通常上下に動くエレベーターがエスカレーターのように斜めに進む。面白いので数回乗った。改札の手前には中津を紹介する展示が有る。主に福沢諭吉と耶馬渓。耶馬渓は菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で有名である。ここは山国川に沿って細い道が有ったのだが、足を踏み外して崖下に落ちる村人が多かった。旅の途中でここに立ち寄った僧禅海は村人の為に「青の洞門」と言うトンネルを掘り、村人が安全に通行できるようにした。この史実を元に菊池寛は、僧禅海を罪人に脚色して面白くして小説化して、罪人ながら罪滅ぼしに一人村人の為に洞窟を掘る僧が、最初は見向きもされなかったのが、やがて村人も協力するようになり、そんな時に僧を仇と狙う、僧に殺された旗本の子が現れ、切ろうとする。それを村人が止めて、仇討ちは洞門の開通の日まで待つことになる。仇討ちの子も洞門の掘削を手伝うようになり21年目に開通するが、心を打たれた仇討ちの子は仇を討とうとはせず、抱き着いて泣くと言う感動のストーリー。(恩讐とは「恩義」と「恨み」のことである。それが考えさせられるストーリー)僕等の小学校の教科書に載っていたので、よく覚えている。昔の本は良かったなぁ。そんな耶馬渓はこんなに急な崖。JRのPR写真。お姉さん危ない!宇佐八幡宮に着いたが、待ち合わせまで時間が有ったので、周囲を廻ってみることにした。学者先生は皇室と宇佐八幡宮の関係をちゃんと明らかにしていないが、応神天皇と神功皇后の逸話(宇佐八幡宮の祭神)や弓削道鏡事件(宇佐神宮神託)事件等、皇室と密接不可分な関係が有る。出雲大社や伊勢神宮は神話の中でしか関係が語られないが、宇佐八幡宮は神話ではなく歴史上の事件の中で語られているのである。であれば現実的な関係が有ると考えるのが普通だろう。そのせいもあり、最初は「勅使道」に行ってみた。古来、大宰府から宇佐八幡宮には勅使が通っていた。筑紫の水城東門を通る街道は日田道であり、これは日田往還とも呼ばれて、筑紫~日田~中津~宇佐八幡宮に至る。僕は宇佐八幡宮の位置も考えて、昔は宇佐から瀬戸内海経由で京や奈良に至る海路も有ったと思う。それは後述の宇佐八幡宮の鳥居で説明する。勅使道は今ではほとんど農道に近い小さな道。掲示板に書いてある様に、養老4年(720年)に朝廷が大隅・日向の隼人を攻めた際に、宇佐八幡宮の神軍も参加して攻めているが、ここにはその際に捕虜にした隼人の首を埋めたと伝わる「凶首塚」や、隼人の霊を慰める為の百体神社、隼人の霊を慰める為の祭の放生会で使う人形を洗う井戸がある。まずは百体神社。ものすごく古い神社で、本堂は屋根の下に古い神社が有る。神社in神社。横浜市金沢区の富岡八幡宮と同じで、古い神社が八幡宮など他の神社に吸収されたのだろう。本当に隼人の霊を祀っていたのかもしれない。(隼人の話は宇佐八幡宮の御由緒にも書いてある)百体神社から勅使道の坂を登って、右に入る小道を行くと「凶首塚古墳」がある。奈良の明日香の鬼の爼・雪隠と同じじゃん!あそこのは多分地震などで上の蓋部分の石が転げ落ちて2つに分かれ鬼の爼・雪隠になった?これを見るとすぐに分かる。ちなみにこの凶首塚は隼人の首を埋めたとされているが、出土品から6世紀末頃と分かっており、薩摩を攻めた養老4年(720年)と時代が合わない。なのでこの付近の豪族の古墳だろうと言われている。薩摩隼人の首塚の方が面白いのに。さらに坂を登ると化粧井戸が有る。隼人を攻めた時に殺した人達の霊を慰める為に、宇佐八幡宮では放生会を行い、その時に使う人形をこの井戸で洗ったらしい。でも中を見たら今では空井戸だった。年月を感じる。ちなみに宇佐八幡宮の放生会にはもう一つ変わった行事が有ったらしい。宇佐神宮の放生会では、銅鏡を香春神社で造って福岡県田川郡の古宮八幡に運んでいたらしい。放生会の根源であるとする銅鏡奉上儀礼の論(田川郡の採銅所の元宮八幡宮の宮柱が、銅鏡を御正躰として宇佐宮に奉納する儀礼)は、豊日別宮や田川郡香春採銅所に鎮座する豊比売社の宮柱であった長光家に伝わっていたらしい。(この行事は1307年を最後に完全な放生会は途絶え、1420年と1617年に再興するものの、 完全復活とはならず、明治以後は宇佐神宮の仲秋祭として10月の3日間、 和間神社へのみこし御神幸などが行われるのみになったらしい。 なお香春岳の銅鏡の話は宇佐八幡宮の御由緒にもかかれており信憑性は有る)福岡県田川郡の香春町の清祀殿(せいしでん)という史跡が(建物は残っていないが)そうで、(住所:福岡県田川郡香春町大字採銅所でJR日田彦山線「採銅所」駅が有ります。)現在も銅山の穴は残っており、採掘跡は「神間歩(かみまぶ)」と呼ばれているらしい。そこで作られた鏡は御床石(ぎょうしょういし)と呼ばれる石の上に一時置かれるが、御床とは大王や天皇が座る玉座のことである。えー?鏡が大王だったの?まるで卑弥呼みたいじゃん!何か古代日本と皇室の歴史に関係がありそう!まぁこの宇佐八幡宮の放生会の件については、何が真実で信じて良いのかどうか分からず、言い伝えはあるけれど、確かめようもないので、今回は見送ることにした。化粧井戸を西側に進むと、けっこう歩くが駅館川の手前に大分県立歴史博物館が有る。遠いので車で行くのでなければ、宇佐八幡宮参道入口にタクシーがあるので利用したい。若い人ならば歩いた方が早いかも?歴史博物館3階には展望所があり、眼前に古墳群が見える。この歴史博物館は、九州でも有数の(古い)古墳群が有る「宇佐風土記の丘公園」の中に有る。上の写真の部分が下の案内図。駅館川の堤部分に古墳が並んでいる。写真には写っていないが、歴史博物館玄関前の正面には赤塚古墳が有り見学できる。歴史博物館に入るとびっくりするが、正面に熊野摩崖仏の複製がある。上の写真がそう。下の写真は熊野摩崖仏現地。遠いので行けない。摩崖仏の複製の下には曼荼羅の複製も有る。写真に書いてあるように3つの曼荼羅が有り、僕には分からないがそれぞれ意味が有るらしい。そばには臼杵の摩崖仏の復元模型も有った。お土産で有名な臼杵の摩崖仏とは別のタイプ。阿蘇山の裏手にあたるせいで彫りやすい石が多く、摩崖仏が作りやすかったのかも?さらに驚くのは、熊野摩崖仏の右手に進んでいくと「富貴寺」の複製が有る。博物館の中にお寺?実物大と言ってもおかしくないくらい大きい模型。さらに驚くのは、その説明。この富貴寺は宇佐八幡宮の大宮司が死後の極楽往生を祈願して建てたらしい。えー!神社の宮司が「極楽往生」?高天原じゃないの?どうも北九州から大分付近は神仏混淆が激しかった場所らしい。近くに有る英彦山は修験道の名所なんだけど、英彦山神社は寺なのか神社なのか分からないくらいややこしい。日本に仏教が伝わって来た際に蘇我氏と物部氏が争い、蘇我氏が勝って法隆寺を建てるが、その際に推古天皇は甘樫丘付近に「豊浦宮」を開き、蘇我稲目は法隆寺の妹寺として「豊浦寺」を建てる。豊浦って、ここ宇佐は豊の国にあり、文字的に考えても何か関係ありそう。神様と仏様が争ったのをうまく収めた神仏混淆の場として、宇佐八幡宮は関係している?また、公然の秘密ではあるが、推古天皇は継体天皇のお孫さんにあたるんだけれど、継体天皇のお墓である「今城塚古墳」からは阿蘇の馬門石の石棺のかけらが発見されており、また推古天皇の初陵「植山古墳」からも阿蘇の馬門石の石棺が発見されている。うーん。宇佐八幡宮って阿蘇の裏側(どっちが表か分からないけれど)だよな。推古天皇や継体天皇って宇佐八幡宮と関係あるのかな?継体天皇は古事記や日本書紀によれば、応神天皇(八幡神)の5世孫だって書いてあるし、応神天皇のお母さんの神功皇后は、夫である仲哀天皇の嫡男、次男(つまり義理の息子)である麛坂皇子、忍熊皇子を打ち破り、女帝になって、息子の応神天皇に皇位を譲ったんだよな。皇室って宇佐八幡宮の子孫なの?畏れ多いので推測はここまで。上に書いたように歴史博物館の玄関前には赤塚古墳が有る。この付近の古墳はみんなそうなんだけど、奈良の明日香の古墳群よりも古い。(個別に考えると明日香の方に古い古墳もあるが、平均的にはこちらが古い)京都や大阪の古墳等よりももっと古い。しかも前方後円墳。どっちが先でどっちが後?と言う気がするが、もし神功皇后の事績が、神功皇后そのものの史実性は怪しくてもモデルがいるならば、あんがいと宇佐の地が先なのかもしれない。あるいは並行して進行?ただ、現在見つかっている古墳が箸墓よりも新しいだけで、探すと未発見の古い古墳がまだある?歴史博物館の中の展示品が面白い。歴史博物館の傍の小さな古墳、免ヶ平古墳の写真を載せる。なんとここに祀られた2体の被葬者のうちの1人は女性だったらしい。出土した遺物はこんな感じ。えー!鏡と剣じゃん。剣は男の被葬者の物だと思うけれど、鏡は女王の物では?でも卑弥呼は独身だったそうなので、卑弥呼の墓ではない。でも古代九州では女性も権力を持っていたんだな。神功皇后が居ても不思議はない。(注:神功皇后は息長氏の娘つまり近畿の北部の出身です)いや仲哀天皇の奥様の神功皇后と、そのモデルになった九州の女王が、何らかの大人の事情で同一視されたとしても不思議は無い。そもそも神功皇后が、旦那さんの息子たちを滅ぼして女帝になったと言うのが怪しい。いくら血がつながっていなくても、義理の息子達を滅ぼすのを周囲が許すのか?でもまぁ証拠が無いので、ここまで。もっと見ていたかったけれども、友人との待ち合わせ時間が迫ってきたので、あわてて宇佐八幡宮に向かう。宇佐八幡宮参道前のタクシーにお願いして。ちょっと遅れたけれど友人と会えて、二人で「ハモ料理」を食べた。「名物に旨い物なし」と言うけれど、ハモ料理はあまりおいしくなかった。さて宇佐八幡宮に参る。入口の鳥居には特徴が有る。見て分かるように反り返っている。この形の鳥居は他には珍しい。平安時代の書物にもこの鳥居の形状について書かれているので、創建時からかも?しかも2本の柱には黒い輪っかが巻かれており、普通の神社にはつきものの中央の神社のネームプレートが無い。例えば厳島神社の鳥居もこれだけど、ネームプレートは付いている。この大鳥居の先に有る大鳥居は1111年に建てられて、その後17世紀に改修されたそうだが、いわれが知りたい。そう思って調べてみたが、明確な確実な証拠は無かった。鳥居の由来には諸説有り、1.天岩戸伝説の中で、天照大御神を岩戸から誘い出す際に鳴かせた常世の長鳴き鳥に由来。 でもこれは門を伴わない。2.インド仏教寺院の「トーラナ」が鳥居の原型。 でもこれは確かに形状が似ており、「トーラナ」と「鳥居(とりい」は音が似ているが、 仏教を否定する神社にも鳥居が有る。3.中国の華表や鳥竿、牌楼(ぱいろう)を真似した。 これはかなり信憑性が有る。特に牌楼は反り返った屋根が有る門でこの宇佐鳥居に似ている。 もし宇佐の八幡神が僕の考えるように中国の秦の子孫で新羅経由で渡って来たのならば、 この説はぴったりである。(新羅の話は宇佐八幡宮御由緒にも書いている。) しかも隋書に書かれた「筑紫(福岡)の東の秦王国」と言う記述にも一致するし、 日田のダンワラ遺跡で発見された金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡ともつじつまが合う。 金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は象嵌が施された鉄鏡で、 中国の曹操の墓で発見された鉄鏡と同じだと言われている。何となく中国の牌楼が原型なんじゃないかな?牌楼はこんな感じ。反っている所が似ているなぁ。鳥居を入ると左手に変わった形の機関車が有る。クラウス号である。かってこの地には参宮線が存在し、クラウス号が走っていた。さらに中に入って上宮にお参りする。宇佐八幡宮には3つの御殿が有り、一の御殿は八幡大神(応神天皇)、二の御殿は二の御殿は比売大神、三の御殿は神功皇后である。比売大神は日本書紀によれば神代に宇佐嶋に降臨され、一の御殿の八幡大神が降臨されるまで古い神・地主神として祀られていたらしい。つまり横浜市金沢の富岡八幡宮が元おられた祖神と併せて源頼朝が八幡神を祀ったのと同じ。神社の由緒によれば、応神天皇は宇佐の地に571年に示現され、一の御殿は725年、二の御殿は733年、三の御殿は823年に建立されたらしい。またこの宇佐八幡宮はお参りの仕方が他の神社とは違う。二拝四拍手一拝である。僕はそれを守って三つの御殿にお参りした。写真には写っていないが、右手に御許山(大元神社)のは参拝所が有る。御許山には交通が不便で行きにくいし。霊域なのでここでおまいりする。御許山には大元神社が有り、次のように伝えられている。宇佐神宮の奥宮である大元神社は馬城峰・廐岑とも称される御許山の9合目に鎮座している。その由緒は、八幡神が御許山に顕現したとする伝承と、その前史として三柱の比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)が、御許山に降臨されたとする伝承の2つが伝えられている。三柱の比売大神は福岡の宗像の神様で、古事記では素戔嗚尊と天照大御神の誓約の結果生まれた女神様である。やっぱり応神天皇が渡来人だと言う説はこの辺にあるのかな?僕は応神天皇は渡来人ではなく日本人だが、日本書紀を読むと母親の神功皇后は新羅の王族と血のつながりが有る人であり、新羅の王族と血のつながりが有るせいで神功皇后は三韓征伐を行い、新羅から新羅人を連れ帰り、彼らの助力を得て勢力を拡大して女帝になったのだと思っている。上宮からの帰りには外宮にお参りする。説明板にも書いてある通り、上宮は国家の神、外宮は民衆の神なので両方お参りするのである。つまり宇佐八幡宮は上宮と外宮は同じ神様で御殿で分けている。伊勢神宮にも本宮と外宮があるが、伊勢神宮は本宮が天照大御神で外宮が豊受大御神と祀られている神様が違う。この辺が八幡宮が全国に広まった原因なのかな?民衆に受け入れられる説明のうまさがあるなぁ。宇佐八幡宮をぐるーっと回って、友人とは分かれることにした。これから行く大尾神社と護皇神社は遠いので、つき合わせると申し訳ないから。分かれた後、参道でアイスクリームを食べた。イチゴ入りのソフトクリーム、美味しかった。これから向かうのは宇佐神宮の奥に有る大尾神社と護皇神社。お祭りの際に流鏑馬が開かれる馬場の奥に有る。境内図の一番左の川を渡った奥の石段を登ると、二つの神社は有る。またその分岐点には和気清麻呂公の碑も有る。護皇神社は和気清麻呂公を祀った神社で、大尾神社には八幡神の分霊が祭られている。両神社は宇佐八幡宮御神託事件に基づいて建てられた神社である。宇佐八幡宮神託事件は、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇の重祚)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との神託を受け、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件である。その際に和気清麻呂公が宇佐八幡宮に派遣され、宇佐八幡宮大宮司に復した大神田麻呂による託宣を受けて与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現し、再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は、「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。 天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。これにより道教を皇位に着ける事は否定された。同年旧暦の10月1日称徳天皇が詔を発し道鏡には皇位は継がせないと宣言し事件の決着はついた。これに基づいて両神社に和気清麻呂公と大神を祀っているのである。でも、宇佐八幡宮まで来る人は多いかもしれないけれど、ここまで来る人は少ないだろうなぁ。こうして宇佐八幡宮の御参拝は終わったが、宇佐八幡宮と皇室の関係についての疑問はかえって深まっちゃった。明日は宮崎の西都原へ行こう!
May 19, 2024
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水城で大きな疑問(守るべき大宰府よりも先に水城ができていた?)を解決して、何となく九州にはヤマト王権に匹敵する王朝が有ったんだなと言う考えが強くなり、ではその王朝の元になった奴国はどこに有ったのかを調べる為に須玖岡本遺跡に行った。須玖岡本遺跡は奴国の中心地だったと言われている最有力地である。論理学を勉強すれば、纏向がたとえ3世紀半ばに存在した都市遺跡だとしても、それは単に纏向に3世紀半ばの都市が有ったことを証明するだけで、そこに邪馬台国が有ったと言うことの証明にならないのは簡単に分かることである。その都市は出雲の都でも尾張の都でも熊野の都でも構わないのだから。邪馬台国の都だと言う証明が成り立つのは、日本に当時邪馬台国以外に国が無い場合だけで、狗奴国が有ったと言う事実だけで、それは簡単に否定されるのだから近畿説には無理が有る。但し北部九州説も、どのように理屈を考えても「水行10日陸行1月」にはならないので、ここに邪馬台国が有ったと言う証明は難しい。ただ、江戸時代に「漢委奴国王」の金印がこの地で発見されたことから、また、ここが「那の津」と呼ばれており、奴国の名前の名残が残っていることから、奴国がここに有ったと言うことは、ほぼ正しいだろうし、それは定説になっている。かってこの事実の元になっている金印が偽物ではないかと議論されたことが有る。それは今では完全に否定されているが当然だろう。だって、発見されたのが現代ならば偽造の可能性は有るが、(魏志倭人伝の存在は知られていたが)金印が見つかったのは邪馬台国の議論そのものが無かった時代であり、発見者も(金の地金の価値は知っていても)その金印の価値を知らない「お百姓さん」である。偽造する動機が無い。当時の貴金属の流通状況を考えると、金の地金でさえも換金が難しいのに、あえて(その知識も無い)金印の形状にしても何の得にもならない。換金が難しくなるだけである。恐らく現実の発見時の状況もそうだったのだろう。実際は志賀島で拾ったのではなく、奴国の王墓を盗掘して見つけたのだろう。しかし江戸時代の当時はお百姓さんが「金の塊」を持っているだけで怪しまれ、質屋等に持ち込んだ場合は番所に報告されて捕まるだろう。その結果、発見者の2人のお百姓さんは捕縛されて打ち首になる所を、頭の良い役人が助け舟を出したのだろう。そのおかげで2人のお百姓さんはお金は手に入らなかったけれども命だけは助かり、発見場所も実際の場所(王墓)ではなく、志賀島の畑で「拾った」ことにしたのであろう。拾ったのであれば、盗掘とは違い、正直に届ければおとがめは無い。そして金印は福岡藩の物になり、現在まで残されたのだろう。つまり金印は本物だけれども、実際の発見場所は記録には残らなかったのだと思う。ただ、近年の考古学的な調査は進展が著しく、今日行く須玖岡本遺跡は様々な出土物などから「奴国の王都」だった可能性が高い。楽しみ。現地はちょっと不便で、JRの南福岡駅から自衛隊福岡駐屯地をぐるーっと回った先に、「奴国の丘歴史公園」として遺跡を含む公園として整備されている。入口付近には歴史博物館が有り、面白いモニュメントが立っている。モニュメントの周囲には、多分鏡を模したものであろう噴水?が囲んでいる。写真の奥が歴史博物館で、中の展示が面白い。ここの遺跡の特徴の一つで単なる青銅器だけではなく、その製造の為の鋳型等が出ている。鉄に比べて融点の低い青銅ではあるが、それでも1000度近い温度が必要で、単なる「炉」ではなく、ふいごで強制的に空気を送り込み温度を上げている。鋳型は石や粘土で作られているが、高音の青銅が流れると割れるので、厚さや材質などの選定はそれなりに高い技術が必要である。特に鏡や銅鐸は薄いので、鋳型だけでなく本体も割れる恐れが高い。銅鐸の製造風景も描写されていた。剣とは違い内側と外側の2つの鋳型のすきまに流し込むので、バランスとスピードが必要で、一人ではなく複数の人間が役割を分担して作業していたようである。かっては「銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏」と言われて、銅鐸は近畿地方特有の物と学者先生達は言っていたが、出雲の加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡でたくさんの銅鐸が発見され、佐賀で銅鐸の鋳型が発見されるに及び、今では否定されている。確かに傾向としては近畿に銅鐸が多く、九州に銅剣銅矛が多いのであるが絶対ではなく、現在言われているのは、元はどちらも九州経由大陸からで伝わったものであり、元々(九州に有った頃は)祭祀に使われる楽器であった銅鐸が、近畿に伝わる過程で「見せる銅鐸」に変化して巨大化したのだと言われているのである。地道に調査して真実を導き出す考古学と、文献等から想像力で仮説を生む史学は違い、政治的に力が強い史学が、とんでもない仮説を生み出した結果が多くの誤りを生み、日本の歴史を混乱させているのだと思う。そして考古学により新たに発見された証拠により、過去の仮説はみんな覆っているのである。歴史博物館の中には王墓から出土した銅剣・銅矛・銅戈や銅鏡が飾られている。まずは銅矛及び銅戈。銅矛は木の棒の先につけて使う、いわばやりの穂先であり、銅戈は木の棒にクロスして括り付ける、いわば斧である。王墓からは中国製の鏡も多く出土している。すみません。紋ではなく文かも?博物館ではこれらを現代技術で復元している。鏡が光っている。こうしてみると、古墳から出土した時は錆びて青緑の鏡は元は赤く光っていたんだと分かる。これを胸に下げて民衆の前に立ったならばどう見えるだろう?上手く時間を選び、太陽光を反射させると、胸に太陽が乗り移ったように見えると思う。つまり鏡は女王に太陽を乗り移らせる物だったのではないだろうか?だから卑弥呼は鏡を大事にしたのだと思う。(だから天照大御神が岩戸に隠れると世の中は暗くなったのだろう。鏡を上手く使ったのだ。)戦いのあるいは狩りの際は刀よりもむしろ弓矢の方が効果が有る。矢の先端に付ける金属を鉄鏃(てつぞく)と言う。ここの人達は刀子(投げるタイプの小刀)も使っていたようである。さらに高貴な王族の女性は管玉や耳飾りでおしゃれをしていた。いつの時代にも女性は変わらない。博物館を出ると、公園内には王墓の石室の上板や王墓の保存施設(覆屋)もある。その案内図。最初は王墓の上板(石)を見に行った。けっこうでかい。ちなみに僕の両親の実家付近(長崎)の川には石橋がかかっており、ちょうどこんな感じ。調べてみたら、どうも近くに有った古墳の石を運んできて石橋にしたらしい。そう郷土史に書いてあった。今城塚古墳(継体天皇陵)付近の橋もそうだと書いて有ったなぁ。この上石の先に王墓の保存施設が2つ有り、保存の為に覆屋が造られている。甕棺(死者を入れる土器)と集団墓が保護されている。そのうちの1つの写真。上の写真は甕棺の中に死者をどのように葬ったかをホログラムで表現したものである。ホログラムなので幽霊みたいで生々しい。外に出ると真ん前に竪穴式住居が保存されている。通常よく知られている竪穴式住居は丸いのだけれども、ここのは四角い。しかも時代の経過に従い改修・建て直しをしている。通常は別の場所に建てるのに、古い建物の跡に建てている。面白い。他所の遺跡では規模が小さいので、全容を知ることは難しいが、ここは岡本山と呼ばれる山の上にあり、この須玖岡本遺跡以外にも複数の遺跡が付近に有る。たとえばすぐ下の須玖小学校付近には須玖岡本遺跡平岩地区が有るので見に行った。ここは一時調査したのだが、完全には終わっておらず途中なので柵で囲っている。このように付近には多くの遺跡があるのである。須玖岡本遺跡の想像図が有ったので載せる。吉野ヶ里遺跡よりは小さいかな?でも単独の遺跡だけではなく、近くには複数の遺跡が有ったことが分かる。つまり複数の集落が集まって、次第に大きい社会組織を形成していったんだな。奴国の形成の過程が分かる。時代が下るにつれて周囲の村を吸収して大きくなっていったんだろう。その過程では戦争も有ったのかもしれない。そして大王が生まれたのだろう。政治組織が大きくなるにつれて、王位の継承は複雑になっていったんだろう。そのうちに男の王だけでなく、女王が生まれるのは必然である。特に宗教的なものは、自然(例えば太陽)への畏れや、生と死の不思議を考えれば、必然的に王族の力の元として重要になって行っただろう。その場合、単なる筋肉に頼る男よりも、母として慕われ、御婆として経験を積み人心をあやつる女性の方が適していたのかもしれない。ところで実は大事な展示品を載せるのを忘れていたので最後に載せる。計りの権である。珍しくも無い、単なる錘ではと言う人は考えて欲しい。学者先生は、弥生時代には文字や数字は無かったと学校で教える。でも写真上部の説明には「弥生人は10進法を使っていたと権の組み合わせから分かる」とちゃんと書いている。説明板の下の方の絵は、権の組み合わせにより色々な重さが測れると言う説明である。10進法は人間の指が10本有ることからできた数値の表現方法だが、逆に言えば弥生人は数字を理解していたと言うことである。しかも「計りを使っていた」と言うことは、物々交換をしており、その交換物は種類により「価値が違っていた」と言うことである。例えば数えられるものならば、白菜1個はサツマイモ3個と言うように簡単だが、数えられない無形物で計りが必要な物も、重さと価値により交換できていたと言うことである。だったらそれは交易(大きな意味では貿易)である。交易には記録が必須である。何故なら去年はこの位で取引したから今年も同じと考えるから。つまりどんな文字なのかは分からないが、記録に文字を使っていたと言うことである。学者先生は、この計りの権をどう考えるのだろう?これを見ても「文字や数字は使っていなかった」と言うのだろうか?明日は大分の宇佐神宮に行こう。
May 18, 2024
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昨日は都府楼跡(大宰府政庁跡)について書いたところまでで終わったが、最後に、本当に大宰府は「奈良時代の日本の地方機関」だったのだろうか?奈良や京都の「日本の中心都市」よりも先にできているし、当時としてはものすごく大きい都市だし。本当はここは「日本」とは別の国の首都だったんじゃないのか?と書いて終わった。その真実?は今日の「水城跡」の調査でますます深まる。太宰府から北に少し(2km弱?)歩くと水城跡が有る。水城?なんで水の城?竜宮城?そうではない。日本書紀には天智天皇3年12月に次のように書かれている。(原文)十二月甲戌朔乙酉、郭務悰等罷歸。是月、淡海國言「坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稻生、身取而收、日々到富。栗太郡人磐城村主殷之新婦床席頭端、一宿之間稻生而穗、其旦垂頴而熟、明日之夜更生一穗。新婦出庭、兩箇鑰匙自天落前、婦取而與殷、殷得始富。」是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。(意訳)十二月十二日、郭務惊らは帰途についた。(この郭務惊と言うのは百済と日本が白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた後に、 戦後処理の為に日本に兵をひきいてやってきていた占領軍の司令官で、 いわば奈良時代のマッカーサー。それが朝鮮半島に帰ったのである。)この月、淡海国から言ってきた。「坂田郡の人の小竹田史身が飼っている猪の水槽の中に、忽然と稲が実りました。それを穫り入れると、その後、日に日に富が増えました。栗太郡の人の磐城村主殷の新婦の部屋の敷居の端に、一晩のうちに稲が生え穂がついて、翌日はもう熟れて穂が垂れました。次の日の夜、さらに一つの穂が生えました。新婦が庭に出ると、二箇の鍵が天から落ちて来ました。女は拾って殷に渡し、殷はそれから金持ちになったということです」この年(天智天皇3年)、対馬、壱岐、筑紫国などに防人(さきもり)と烽(のろし台)をおいた。また、筑紫に大堤を築いて水を貯えた。これを水城と言う。今回見る水城はこの水城である。つまり、対馬、壱岐、筑紫国などに防人を置き、のろし台を備えると同時に、後世の城の周囲に築いたような大きな堀を造ったのである。実はここは地形的に特殊な場所で、両側から自然の丘陵が迫り、その切れ目に堀と丘を造れば、大きな防衛ラインが造れたのである。googleMapで見ると現代でも防衛ラインとしての水城がイメージできると思う。JRや高速道路が通っているのが東門と西門で、ここには関所的な門が有ったらしい。その跡が残っている。堀はさすがに今は残っていないが、土塁はちゃんと残っている。写真はパノラマ風に4枚の写真を合成しているので短く感じるが、実際の水城は相当に長く続いている。また古代にはその外側と内側に大きな堀が有り、木樋を用いて川から水を引いていたらしい。土塁の下付近からその木樋の跡が発見されている。水城の現地にはこの木樋の展示は無かったのだが、この後に行った奴国の丘歴史博物館になんと水城の木樋が展示されていた。なぜ?さて、ここで最初に書いた「謎はますます深まる」と言う話になる。この水城東門や西門が「大宰府への玄関口」だったことは確かである。それは後世の記録を見ても、例えば寛弘2年(1005年)藤原高遠が大宰大弐として赴任した際に、水城で大宰府の印と鍵を受け取っているし、天平2年に大伴旅人が帰京する際には、水城で役人たちが見送っている。しかし、通説で言うように、「水城は天智天皇が唐や新羅から大宰府を守る為に白村江の敗戦後1年でつくった」のであろうか?確かに天智天皇が造ったと言うのは正しい。日本書紀天智天皇3年に書いている。でも、そこには「大宰府を守る為に」とは書いていない。都府楼跡(大宰府政庁跡)ができたのが7世紀後半。水城ができたのが664年。太宰府よりも水城が先にできていないか?守るべき大宰府が後にできているのならば1年で頑張って造らなくても、大宰府の整備に合わせて造れば良いのでは?何故そんなに急いだのか?僕は水城は多分大宰府を守る為に造ったのではなく、別のものを守る為に造ったのだと思う。ただ、結果として、その「別のもの」が無くなってしまったので、大宰府の防護施設になったのだと思う。その「別のもの」とは斉明天皇の「朝倉橘広野宮」ではないだろうか?斉明天皇は百済から応援の依頼を受けて、御自ら九州に行幸されている。よほど九州が大事だったのだろう。普通ならば将軍を派遣して天皇は宮中で結果を待つものである。何故だろうか?その際に行宮として築かれたのが「朝倉橘広野宮」である。ただ、小競り合いならばともかく、唐や新羅と戦う為の大軍は、兵糧も必要だし、兵舎も必要である。「朝倉橘広野宮」の建設だけではすまないのである。それはどこにあったのだろうか?現在でも見つかっていない。僕は斉明天皇や天智天皇は九州の勢力と近かったのだと思うし、そのせいで天智天皇の皇子の大友皇子は吉野の勢力と近かった天武天皇と戦ったのだと思う。壬申の乱である。単なる甥と叔父の皇位継承争いだとは思えないのである。白村江の戦で大打撃を受けて勢力を失った九州の勢力から、日本の主導権を吉野の勢力が奪ったのではないだろうか?と言うかもしかすると、その当時までは九州の勢力こそが「倭国」で、近畿はその勢力下にあり、白村江の戦いに敗れたせいで力関係が逆転したのではないだろうか?旧唐書には次のように書かれている。「日本国は倭国の別種なり。その国日辺(にっぺん)に在るを以ての故に,日本を以て名となす。 あるいは曰く,倭国自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み,改めて日本となす」「日本国は倭国の別種なり。」つまり倭国と日本は同一の国ではなく別の国だと言う認識で、何らかの理由で両国を統一した際に、倭と言う字が(小さく醜いと言う意味が有るので)倭国と言うのをやめて日本と言う国号にしたそう書いているのである。新唐書では倭国と日本がまとめられている。つまりこの段階(白村江での敗戦後)倭国と日本は一つになったと読めるのである。と言うことは筑紫の君がいた頃までは九州に王朝が有ったのではないか?(但しこの話にはもう一つ別の可能性が有る。 それは九州と近畿はやはり一つの国だったんだが、 天智天皇が唐が近畿まで攻めて来るのを防ぐ為に、 唐に対して「白村江で唐と戦った倭国と我国日本は別の国で我国は唐とは戦いません」と、 ウソをついた場合である。 その嘘が通用していた旧唐書の段階では倭国と日本国は別の国だと信じられており、 新唐書の段階ではウソがばれて修正されてしまったと言う場合である。)九州の勢力は白村江の戦いで敗れて捕虜になり唐に連れていかれたと日本書紀に書かれている。彼つまり筑紫の君の都はどこに有ったのだろうか?それが朝倉橘広野宮なのではなかろうか?つまり筑紫の君の都なので、短期間に兵糧や兵舎が準備できて、斉明天皇の行宮もできたのである。白村江の敗戦後、筑紫の君は唐に捕虜として連れていかれたが、残された家族達はその都におり、守らなければならなかったのではないかと思う。それが水城であり、だから大宰府の造営前に水城が造られたのだと思う。「水城は天智天皇が唐や新羅から大宰府を守る為に白村江の敗戦後1年でつくった」と言う通説は間違いなのだと思う。<後日追記>あと追加するならば、百済から逃げて来た人達である。彼らは何も無い所に住むと地元の住民と激しくいさかいを起すだろう。従って政府としては受け入れる為に(東北大震災や輪島の時のように)仮説住宅を造り、(下の地図の朝倉市山田からは簡易な建物の跡が見つかり建物の用途を検討しているらしい)遊ばせるわけにもいかないので、何らかの仕事を与えただろう。例えば水城の建設や大宰府の建設である。従来からいる住民にこの仕事をさせるのは、米作り等に悪影響を与えるが、百済から逃げて来た人達にやらせるならば、苦役から逃げられる地元住民も喜ぶ。一石二鳥である。また亡命百済人の仮説住宅は日本中から集められた兵士たちが使っていた兵舎が、ちょっと改装されただけで使えたかもしれない。行き場を失った百済の人達を受け入れるのは大変なことだっただろう。後日追記終わり。ちょっと「朝倉橘広野宮」の位置を調べてみたらいくつかの説が見つかった。さすがに「朝倉」なので現在の朝倉市近辺なのだが、現在の大宰府だと主張する人もいる。ただ政庁跡ではなく、付近の別のどこかなのだと思う。色々な人の主張する場所は下の通り。図の中の朝倉市の須川、山田及び杷木と大宰府が候補地である。ここで重要なのは、水城東門がかっては「日田道」が通っていたと言う事実である。日田道は朝倉に続き、筑後川沿いである。筑後川は有明海にそそぎ、吉野ヶ里や熊本につながる。つまり交通の拠点で、道路の無い古代にあっては川による水運は重要な運搬手段。この辺に大きな都市ができても不思議はない。なおかつ日田を経由して宇佐八幡宮に通じ、瀬戸内海を経由して大阪や京都・奈良に通じる。朝倉って古代は重要な場所だったのかも?図中に「筑紫の東にある秦王国」と言うのは日田から中津や宇佐の豊前・豊後地区である。大分県の豊前・豊後地区は秦氏姓が異常に多く、古来から渡来人の子孫だと言われてきた。また日田市のダンワラ遺跡で出土した国宝の「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」は鉄鏡で、魏の曹操の墓から出土した鉄鏡と同じであると言われており、もしかしたら中国から渡って来た渡来人の持って来た鏡では?と思うからである。三角縁神獣鏡のような銅鏡とは違い、鉄の融解温度は1536度と高く当時の倭の技術では無理。刀のような簡単な形状ならば鉄片を活用して少し低い温度でも作れるが、「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」のような複雑な形状で、象嵌を施すのは到底無理である。中国本土でも限られた技術者にしかできなかった鏡だと思う。明日は水城より北の「奴國」が有ったと思われる須玖岡本遺跡に行く。
May 18, 2024
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お袋の7回忌をする為にはるばる長崎まで弟と行くことにした。両親とも亡くなったので実家はもう売ってしまい、親戚も父方は父が末弟なので全て鬼籍に入っており、母方は長寿系の一族なのでみんな生きているが90歳に近く、末妹の叔母と次男の嫁さんが来てくれた。次男の嫁さんは92歳なのに元気で助かる。例によって、せっかく長崎まで来たので、あちこち回って歴史の真実を探ることにした。一日目は法事なので長崎市に宿泊したが、近くで面白いものを発見した。長崎防衛支局の入口にヘリコプターが有った。何で?このヘリコプターはOH-6Jと言い、ちょっと小型で古いが使いやすい機種。説明文を読むと、1990年11月から1995年2月まで続いた雲仙岳の噴火活動雲仙普賢岳の際に活躍したヘリらしい。もう34年もたつんだなぁ。多くの人はもう忘れているかもしれないけれど、大勢の方が亡くなり、島原など周辺はその後も大変だった。雲仙は何回も爆発して、江戸時代寛政4年(1792年)の爆発では1万5千人も亡くなったらしい。地震だけではなく、あらゆる災害に対して準備と対策が必要だと思う。よく自衛隊不要論を言う人がいるけれど、そう言う時は人員及び機材が必要で、自衛隊はとても役に立つので絶対に必要だと思う。アレルギーが強い人の為に、名前を「災害救助予備隊」とかに変更したら良いのかも?翌日、西九州新幹線で福岡県の二日市に向かう。お金を安くするにはバスが良いのだけれども、今回はあちこち回るので時間が大事。なので奮発して新幹線を使った。二日市には大宰府が有る。目的は大宰府参りではなく、都府楼跡なんだけれども一応お参りはしていく。参道は修学旅行?の女子高生でいっぱいだったのでうれしかった。そこでちょっと珍しい「スタバ」を発見した。えー!何これ?スタバが芸術的。組木細工の入口になっている。さすが太宰府だと少し感心した。本宮の方に進んでいくと御神牛がおいでになる。牛は道真公と縁が深く、天神様のお使いなんだそうである。これが外国人観光客に大人気だった。福岡は韓国や中国に近いのでかの国の旅行客が多い。下の写真はこの御神牛様の左手から進んだ先の楼門の隋臣像。お雛様の隋臣と同様に、若い隋臣と老人の隋臣がセットになっている。この隋臣が居る楼門が面白い。入る方(太鼓橋側)から見ると屋根が2層になっており、帰りは(本殿側)から見ると屋根が1層になっている。言われないと気がつかないけれども、気がつくと面白い。この手の込んだ楼門の設計は、近代神社建築の重鎮である安藤時蔵によるものだそうだ。楼門から中に入ると本殿があるのだが、今は令和9年の菅原道真公1125年式年大祭に向けて改修中で仮宮が設けて有った。仮宮なのに、通常の神社の何倍も立派。さすがは大宰府天満宮。屋根の上に自然の山があるみたい。え?もしかして古墳?帰りに右手を見ていたら絵馬堂が有り、前でオジサンが芸をやっていた。この絵馬堂は文化10年(1813)、奥村玉蘭の発願によって建てられたもの。九州に現存する最大最古の絵馬堂。様々な時代の人々の願いが込められた絵馬がご奉納されています。でかい絵馬!鳥居を出た所の社務所裏に浮殿が有った。今は水は張っていないが、水を張った際に水面にその影が映る建物を浮殿と呼ぶ。建物の中を覗くと、写真右上の面白いモニュメントが有った。芸術的。今風。さてここを出ると、いよいよ目的地の都府楼跡へ向かう。途中に戒壇院がある。まぁ、現代で言えば佛教大学だな。次は学校院跡。学校と行っても今の大学とは違い、政府の役人養成所だったのらしい。そう言えば今だって、政府各機関は専門の学校と言うか養成機関をもっているな。建設大学校とか税務大学校とか防衛大学校とか。あれと同じだな。今も昔も偉くなるのは日々勉強が必要だったんだなと思う。学校院の次は官衙の跡。簡単に言えば古代九州の霞ヶ関。うん?官衙跡?政庁跡とは違うのか?つまり都府楼跡(政庁跡)には大宰帥がおられて、今で言えば皇居と同じで、下級機関(実務を司る機関)がここに有ったんだな。だって政庁跡とすぐそばだから。今の皇居と霞ヶ関の関係と同じだ。そしていよいよ都府楼跡(大宰府政庁跡)に着く。広い。ここは大宰府の南側の政庁部分の南門だけなので、都としてはこの南にさらに伸びていた。ジオラマで言えば、中央の大きな道(朱雀大路)の奥の突き当りがこの「南門」である。つまり写真の数十倍の広さがあったのである。造られたのは7世紀後半。その後も大きく造りかえられて、都合3回と言うか3期造りかえられた跡が発掘調査で分かっている。663年10月に韓国の白村江の戦いで日本が敗北して、その後に造られたらしい。都府楼跡の右手には「大宰府展示館」が有る。上のジオラマや写真はここに有る。そして南門正面からは分かりづらかった政庁跡の奥行きはこの展示館脇から見られる。やっぱり広いよ。官衙跡よりもずーっと大きい。太宰府が大きいと思っていたら、条坊制について考えさせられる展示が有った。条坊制(じょうぼうせい)とは、中国・朝鮮半島・日本の宮城都市に見られる都市計画で、南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた左右対称で方形の都市プランであり、日本では藤原京が最初である。ほとんどが京都や奈良で、藤原京・平城京・長岡京・平安京がそうだが、地方には大宰府と多賀城にしか無い。展示を見ていてふと気がついて、あれ?っと思ってしまった。確かに大宰府は大きさでは平城京には及ばないが、平城京よりも先にできているじゃん?じゃぁ太宰府よりも前に有ったはずの藤原京はどうなっているの?調べてみた。藤原京は天武天皇の時代に造り始められたらしいが、その前の飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷したのは694年らしい。えー!大宰府の方が先に造られたのでは?日本で最初の条坊制の都市は藤原京じゃないの?なんで日本の首都である奈良の藤原京の方が後からできたの?しかも藤原京は上の写真の唐の長安城や平城京及び大宰府とは違い、京のほぼ中心に内裏・官衙のある藤原宮を配しているらしい。えー!形が変じゃん!どうも天武天皇が唐に対抗して、長安城とは違う形にしたかったらしい。うーんなんか変だな?本当に大宰府は「奈良時代の日本の地方機関」だったのだろうか?奈良や京都の「日本の中心都市」よりも先にできているし、当時としてはものすごく大きい都市だし。本当はここは「日本」とは別の国の首都だったんじゃないのか?実はこれが今回の旅行の最大の秘密なんである。それは次の訪問地「水城」に続く。明日書く。
May 17, 2024
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邪馬台国=宮崎県小林市論を考える僕は、同時に卑弥呼=天照大御神論でもあるので、魏志倭人伝と古事記・日本書紀を比べてみている所である。そして今日、面白いことを見つけた。八咫鏡って鉄鏡じゃん!それは古事記の次の記述を見れば分かる。天岩戸の部分である。(原文)故於是天照大御神見畏開天石屋戶而刺許母理坐也爾高天原皆暗葦原中國悉闇因此而常夜往於是萬神之聲者狹蠅那須滿萬妖悉發是以八百萬神於天安之河原神集集而高御產巢日神之子思金神令思(意訳)(この前に素戔嗚命が高天原を去るに際して天照大御神に挨拶に来たのは良いが、大暴れして、 忌服屋=天照大御神の機織り屋に天斑馬の皮をはいで投げ込み、 そこに居た機織り女が亡くなると言う出来事がある。)天照大御神はその出来事を見て恐れ、天石屋の戸を開き立てこもってしまいました。天照大御神が岩屋に閉じこもってしまったので高天原は皆暗くなり、葦原中国はすみずみまで暗くなり、常夜になってしまいました。そこで(不安になった)万の神の声がざわめき満ち、たくさんの妖気があちこちに発せられました。そこで、(これは大変だと)八百万の神は天安河の河原に、みんなで寄せ集まり、その中で高御産巢日神の子である思金神に考えていただきました。(原文)集常世長鳴鳥令鳴而取天安河之河上之天堅石取天金山之鐵←ここに「鉄」と書いている!而求鍛人天津麻羅而科伊斯許命賣度理令作鏡科玉祖命令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠而召天兒屋命布刀玉而內拔天香山之眞男鹿之肩拔而(意訳)思金神は常世長鳴鳥を集めて鳴かせ、天安河の川上の天堅石(天上にある硬い石)を採ってきて、天金山(天上の金山)から鉄を採取して、鍛冶をしていただくために天津麻羅の神(鍛冶の神)を探してきて鋳造させ、石凝姥命に担当させて八咫鏡を作らせ、玉祖命に担当させて八尺勾瓊之五百津之御須麻流之珠(八尺瓊勾玉)を作らせました。また、天児屋命·太 玉 命を呼んで、天香山の真男鹿(牡鹿)の肩甲骨を取り、天香山の波波迦(ウワミズザクラ)を取り、占いをする準備をはじめました。(昔は亀の甲羅や動物の骨を焼いて占いをしていました。)上の原文に赤く書いてしまいましたが、はっきりと「天金山の鉄」で「伊斯許命賣」が「鏡」を造ったと書いてあります。つまり「八咫鏡」は「鉄鏡」だったのです。ここで気がつくのは大分県の日田のダンワラ遺跡から出た、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)=国重要文化財です。これについては過去のブログで概要を描きましたが、邪馬台国はどこにあったか(その16)日本で鉄鏡が出土するのは珍しく、また中国の先生は魏の曹操の墓から出土した鏡と同じ?だと言っています。もう卑弥呼の鏡の匂いがぷんぷんなのですが、学者先生は認めていません。学者先生の推す三角縁神獣鏡なんて、本当に魏志倭人伝にある鏡ならば百枚しかないのに、既に600枚以上も見つかっているし、学者先生が卑弥呼の鏡だと主張するきっかけになった黒塚古墳でも33枚も見つかり、全然貴重な鏡には見えません。黒塚古墳では枕元には画文帯神獣鏡が見つかり、三角縁神獣鏡はあたりにばらまかれ、誰が見ても画文帯神獣鏡の方が大事にされているのに、なんで三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡?と思うのですが、先生方の理論は分かりません。ちなみに金銀錯嵌珠龍文鉄鏡はこんな感じです。対する三角縁神獣鏡はこんな感じです。とてもじゃないけれど、勝負になるとは思えない。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡をダイヤモンドとすると、これは屋台のネックレスレベルだと思う。つまり三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡とは思えないレベルなんだと思う。卑弥呼=天照大御神ではないとしても、天照大御神の時代にすでに鉄鏡が有ったのならば、卑弥呼の時代にも当然鉄鏡は有るし、そして金銀錯嵌珠龍文鉄鏡のように立派だったのならば、鉄鏡を選ぶのが普通だと思う。学者先生はなぜ変な所にこだわるのだろう?不思議だ。何か理由が有るのだろうか?学者先生達の最大の欠点は自分達の専門分野以外のことを勉強しないと言うことである。恐らく学者先生達にとっては鉄鏡は滅多に発見されないことから研究の対象外だったのだと思う。なので、古事記に「鉄鏡」と書かれていることは知ってはいたが、「神話だから」と無視していたのだろう。では何故鉄鏡は発見例が少なく銅鏡は発見例が多いのだろうか?それは多くの人が知っているように「さび」のせいである。多くの金属は2種類の錆を察生する。被膜化して内部への錆の浸食を防ぐさびと、そうでない錆である。銅では被膜化して内部への錆の浸食を防ぐさびとして「緑青」が有名である。なので銅は自然状態でも緑青の発生により内部まで錆が進行しづらい。なので銅鏡は比較的長期間残る。では鉄鏡ではそう言うことは起こらないのであろうか?鉄にも「黒錆」と言うのが有り、これは被膜化して内部への錆の浸食を防ぐさびである。但し自然状態では発生しない。相当に高い温度、数百度の熱により発生する。「南部鉄びんの黒皮」がそうである。なので普通は黒錆は発生せず、鉄は錆びて自然に帰る。なので鉄鏡は滅多に発見されないのである。自然科学を勉強しているならば誰でも分かることである。ただ、この鉄鏡の発見に関しては少し特殊だったかもしれないので、あまり先生方を責めるのは良くないかもしれない。この鉄鏡が発見された「ダンワラ遺跡」は大分県日田市に有り、隋書に書かれた「筑紫の東に秦王国有り」と言われる地に比定される場所である。その事には色々な説が有るので確定ができないが、鉄鏡が千数百年にわたって保存できたのには訳があり、こちらは学術的に証明できる。ダンワラ古墳はアカホヤと呼ばれる、水はけの良い火山灰の上に作られており、この火山灰は特殊なガラス質で、これが保存に役立っていたらしいのである。(誤解を恐れずに簡単に表現すれば)ガラス瓶に密閉されたような状態だったのである。だからかなり特別だったのであろう。もしかすると魏からもらった卑弥呼の鏡は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」以外に残っていないのかも?だから学者先生にはもっと勉強して欲しい。地位にあぐらをかいて欲しくない。例えば、何故朝鮮から渡って来た船は「末蘆国」で上陸して陸行するのか?末蘆国などに寄らずに、そのまま伊都国に行けば良いのでは?こんな簡単な問題にまともに答えられる学者先生がいない。僕は過去のブログで書いているので参考に。邪馬台国はどこにあったか(その18)中ほどに写真を載せているように「海王丸」程度の小舟でさえも砂浜では着岸が難しい。潮の満ち引きまで考慮すると、洗掘により常に削られる波打ち際では港は造れない。日本では鎌倉時代位まで人工の港は恒久的には造れなかった。(一時的には可能)そのよい例が北条泰時の造った「和賀江島」で、泰時は何としても貿易港を造りたかったのだが、あまり役には立たず、結局は伊豆や三浦半島(例えば横浜の六浦)に頼っている。海水に浸かっても大丈夫な木材ならば「材木座」でも陸揚げできたが、貿易品では到底無理なので自然の良港が作りやすい呼子(末蘆国)で上陸したのである。学者先生の邪馬台国論争は机上の議論なので、この手の議論は見たことが無い。と言うか過去の学者は「倭人が乗る舟」と「中国の使者が乗ってくる船」の違いが、まったく議論されずに今に至っている。角川の「野生号」や大阪市の「なみはや号」である。両者は日本で発見された舟の絵や埴輪の舟を参考に「現代技術で作られた」。現代の技術で作られても対馬海峡を渡れなかった。韓国には届いていない。対して三国志の「赤壁の戦い」に出てくる船は比べられないほど大きい。中国の使者は倭国に来る時に「命がけの航海」はしない。逆にそのような大きな船は砂浜には着岸できない。でも学者先生は自然科学が分からないので議論できない。同様なのが「纏向は3世紀半ばの遺跡なので邪馬台国の都である」と言う理論である。学者先生には「集合と写像」について勉強して欲しい。高校で習う簡単な理論である。卑弥呼は3世紀半ば頃に居たので、邪馬台国の都は3世紀半ば頃に有ったはずである。これは正しい。しかし、その逆命題である、だから3世紀半ばの遺跡は邪馬台国の都である。これは間違いである。よく「3世紀半ばの都だとしても、何故他の国の都ではいけないのか?」これに答えられないのは論理的に間違っているからである。「集合と写像」を勉強すればすぐに答えが分かる。3世紀半ばの都市で邪馬台国の都だと言えるのは「邪馬台国以外に国が無い時」だけである。でも邪馬台国は狗奴国相手に苦戦している。つまり邪馬台国以外に狗奴国も有る。つまり論理的に誤っているのである。学者先生は自分達の専門外の勉強もするべきだと思う。
May 13, 2024
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本当はわの会のイベントではないのだけれども、概ね活動範囲が重なっているし、わの会で行くお寺や神社の御先祖的な古墳なのでここに書きます。せっかくの天気が良い連休にどこも行かないのはもったいないので、以前、まだ未整備な時に遊びに行った逗子の長柄桜山古墳に行くことにしました。前回行った際の記事はこちら。ヤマトタケルゆかりの古墳へ行って来ました。この当時は本当に未整備で何も無かったんだけれども、平成14年に国の史跡になって10年して、やっと1号墳だけ整備され、4月20日にオープン!でも2号墳はまだ未調査。でもこれは仕方のないことで、逗子市は予算が少なく、古墳等の文化的な用途よりも生活関連の支出に力を注がざるをえない。なので、多少不満が有るのは仕方ないが、将来の楽しみにとっておこう。現地は比較的交通の便がよく、日帰りが十分に可能で子供でも行ける。付近の地図とルートを載せる。前回は5年前で、僕もまだ会社に毎日片道2時間、往復4時間かけて通勤していた時代なので、上の図の「体力自慢コース」を選んだ。これは京浜急行の逗子・葉山駅がまだ新逗子駅だった時代で、南口から1時間強歩いた。と言うか、まぁ高さが120m程度なのでたいしたことは無いけれど「登った」でも道が悪くて狭いし、防御設備が何もないので滑ったら大事故になるので、とてもではないがお奨めしない。今回は年寄りらしく、バスに乗った。始発はJR逗子駅で、1時間に約2本有るのでバスの利用をお勧めする。上の地図の「普通の人コース」である。頂上近くまでバスで行ける。葉桜バス停から普通の人コースを3叉路まで行くと、ここから急な上り坂になる。三叉路付近の写真。普通の人コースならば子供でも大丈夫。少し登ると1号墳が見える。前回来た時にはシートがかけて有って何も無かったが、今回は植栽も有り円墳部は3段になっている。ちゃんと調査したんだなぁ。下には過去の経緯を書いた説明板が有る。この後にも同じような説明板を載せるので、ちょっと繰り返しになるのだけれども、この説明板が大事なのは過去の経緯を載せているからである。古墳そのものの説明よりも発見された経緯が面白い。と言うか僕にはうれしい。そう、地元の東家洋之助さんが「埴輪を発見した」のが発端である。後から埴輪の説明は載せるが、要は昔から古墳らしいと言うことは分かっていたんだけれども、「証拠が無くて」認めてもらえなかった。それが埴輪と言う物的証拠が見つかって、行政も対応せざるを得なくなったと言うことである。僕も金沢区内にいくつか「古墳らしき場所」を見つけているのだけれども、なんせ土地の所有権や立入禁止などの規制が有って確かめることができず、またそのせいで証拠が見つからないので、認めてもらえない。行政とはそう言うものである。そして壊されて初めて認められる。例えば下の写真(等高線図)の左側の山である。写真1,写真2と書いているあたりは、自然の地形がこんなに整っているはずが無い。絶対に人工的に加工された地形だと思う。でも許可なく掘り返すわけにはいかないし、横浜市の教育委員会に話に行っても、聞いてももらえない。教育委員会も仕事が多くて対応できないと言うことなのである。ヒマそうに見えるけれど。なので、アマチュアが発見したこの古墳は元気が出るのである。1号墳の円墳部の頂上に登ってみた。ここは整備後は頂上にも登れるようになっている。写真右手の2人が見ているのが埴輪と埋葬施設の説明板である。三浦半島の古墳は円墳部頂上に埋葬施設が有る場合が多く、木棺が埋まっている場合が多い。ここの円墳部には周囲を囲むように円筒埴輪が有ったらしく、出土した埴輪の内の1つは復元されている。上の写真の奥の左手に有るのがそう。拡大した写真を載せる。埴輪の説明文も載せる。頂上の写真にはこの円筒埴輪を「特殊器台」と書いているのには訳が有る。僕はこの復元された円筒埴輪は、ちょっと違うのではないかと思っている。何故なら上の説明板の円筒埴輪の写真を見て欲しい。朝顔(ラッパ状に開いた部分)が無い。なのでこれは「特殊器台」だと思うのである。特殊器台はこの古墳の時代つまり古墳時代初期の古墳から多く出土するもので、上に土器を載せる為の台である。実は下の写真の1号墳の説明板にも、この特殊器台以外に「高杯や孔の開いた壺」も出ていると書いている。つまりこの特殊器台は単独で使われたのではなく、上に乗せる土器も出ているのである。だから、こんな風に朝顔状にはなっていなかったのではないかと思う。近畿地方、特に吉備付近で発生した埴輪は近畿の古墳でも採用されて日本中に広がるが、その元になった吉備地方の埴輪について上手く説明した写真が有るので載せる。これを見ると僕の主張が分かってもらえると思う。弥生時代には装飾器台の上に土器(装飾壺)を乗せていたものが、古墳時代に入ると器台が大きくなって特殊器台となり、最終的には特殊器台と壺が融合して埴輪に発展するのである。しかし、ここで出土した円筒埴輪は上の朝顔部分が無く、土器が同時に出土している。従って、ここの円筒埴輪は真ん中の時代の物だと分かるのである。なので、間違っているのだと思うのだけれども、埴輪を復元したのが学者ではなく行政の方であれば仕方ないと思う。学者ならば怒られてしかるべきだと思う。さて1号墳の円墳部頂上から方墳部へ下ってみる。この古墳は初期の物なので円墳部が方墳部よりもだいぶ高い。僕が古墳だと思っている富岡八幡宮の裏山の時代には円墳部と方墳部はほぼ同じ高さになる。綺麗に整備されている。ただ綺麗になりすぎて、ここが祭祀の場であったと言う可能性が分かりづらくなっている。そう、円墳部に埋葬施設が有り、その周囲を円筒埴輪が囲んでいるのだから、葬送の儀式はこの方墳部に至る場所で行われていたはずなのである。そのせいで古墳は単なる円墳から「前方後円墳」に発展したと考えられている。後から行く2号墳はちょっと後の時代の古墳なので、1号墳よりも方墳部が大きい。ちゃんと方墳部も役割が有ったのである。その辺も説明板に書いて欲しかったなぁ。<後日追記>僕は前方後円墳は大和王権の発展(地方への広がり)に伴う、各地域の首領の世襲の為の「前王の葬送」と「目に見える権威の世襲」の儀式の場だと思う。それを過去にブログに書いた。前方後円墳とは何か?秦の始皇帝が行ったと言う封禅(新しい皇帝がたち、治世が始まることを天に報告する儀式)や中国の「天円地方(天は北極星を中心に円を描き、地は四神=青龍・白虎・玄武・朱雀が守る)」と言う思想が具現化したものだと思っている。しかもそれは古墳時代が終わっても無くなった訳ではなく、形を変えて残ったのだとも思う。キトラ古墳の中の壁画などが良い例である。天井には北極星を中心とした「天文図」が描かれ、四方には方位に従って四神が描かれており、天井の丸い天文図を前に倒せば、四方の四神と併せて前方後円墳になる。だから、古墳時代前期には細くて小さかった方墳部が、「目に見える権威の世襲」を示す場として高く大きくなっていったんだと思う。1号墳を見終わるとちょっと下り気味に2号墳に向かう。元気な人コースと書いた蘆花記念公園からのコースはずーと上り坂なので、バスに乗ってくる普通の人コースで来て良かったなとつくづく思う。2号墳はまだ未調査で整備はされていない。この写真だけを見ると小さいなと思うかもしれないが、1号墳がそうであったように、古墳は何段かの段が重なった構造になっている。この写真は一番上の段だけなので小さいのである。1号墳と2号墳の両者が載った説明板が有ったので載せる。規模的にはほとんど同じか、むしろ2号墳が大きい。1号墳は円墳部に対して方墳部が細く、古墳時代前期のものだと思う。説明板では4世紀後半になっている。これに対して2号墳は右上の図を見ると方墳部がかなり太い(緑色部分横幅が大きい。)なので数世代後の古墳だと思われる。ただ、まだ未調査なので結論は出せない。2号墳下の方の広場からは江の島や伊豆そして富士山が見える。富士山がうっすらとしか写っていないが、秋なんかだと奇麗に見えると思う。なんか俳句や和歌が詠めそう。ここから下って行くのだけれども、途中に面白い所が有った。これって3号墳では?まぁでも逗子市は予算が少ないから、僕が「宝くじが当たったら」寄付して調査しよう。でも今は無理だなぁ。さらに下って平地に出ると蘆花記念公園が有る。前回来た時よりもだいぶ綺麗になっている。5年もたつからなぁ。蘆花記念公園の説明板ができていましたので載せます。ここを出ると田越川に出るのだが、なんとボード初心者がたくさん練習していた。ここの辺は波も無いし、初心者でも安全だから練習場になっているのだろう。ここから京浜急行の逗子葉山駅に向かう途中に六代御前の墓が有る。入口に六代御前最後の故址の碑が有る。墓まで行ってみようかと思ったけれども、山歩きで疲れたので諦めた。六代御前とは、平高清(1173年-1199年)のことです。父は平維盛。平清盛の曾孫にあたります。六代という名は高清の童名であり、平氏繁栄の基盤をつくった平正盛から数えて六代目です。平家滅亡後の文治元年(1185年)、菖蒲谷に潜んでいたところを北条時政によって捕縛され、殺害されるところでしたが、頼朝の強い協力者で平家打倒に暗躍していた僧侶文覚(もんがく)が頼朝に六代は自分の弟子であるとして助命を嘆願、赦されて文覚に預けられて出家し妙覚と名乗りました。その後、将軍頼家に斬首に処せられ、斬首地はこの墓の田越川の対岸にあった池周辺と言われ、この墓は江戸時代に六代の家臣斎藤氏の末裔を名乗る、水戸藩士斎田三左衛門尉平典盛によって建てられた供養塚です。六代御前の墓を過ぎると京浜急行逗子葉山駅に着きます。その北口付近に、三浦為義遺弧碑が有ります。説明板にも有りますが、まだ10歳にも満たない子供達を切り殺すなんて北条氏は怖いですね。この碑は駅のすぐそばなので、行きのバスの待ち時間や帰りの電車の待ち時間の調整によく、ちょっと見に行くと良いと思います。
May 7, 2024
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5月2日は横須賀の三浦海岸駅付近の和田義盛の伝承の残る地域をわの会で廻った。ルートはこんな感じ。三浦海岸駅に集合して、来福寺まで歩いた。来福寺は道からはずれて、田んぼの中に有り、静かな所。一人で来たら見つからなかったかも?写真の左側の方に門が有る。説明板に書いてあるように開基は和田義盛で、元は鎌倉名越に建立された。建保5年(1217年)にここ和田の地に移転して、和田の乱で敗れた義盛を供養する菩提寺になった。元は天台宗だったが鎌倉光明寺の末となり江戸時代初期に浄土宗の寺となった。下にガイドさんが見せてくれた古い時代の寺の写真を載せるが、確かに藁葺きの屋根であり、禅宗の寺の雰囲気は無く、地域のお百姓さん達の寺の雰囲気。本堂には義盛の位牌と、義盛自身がノミを入れたと伝わる義盛公の木像が有る。来福寺の裏側に抜けて、田畑の中を進んで日枝神社に向かう。ここは塔の台とも呼ばれ、義盛が信仰する行基作の地蔵尊を祀る地蔵堂が有った所らしい。後に承久の乱から生き延びて帰った孫の朝盛が家来と共にこの地に逃れ、高円坊と名乗り、一族の菩提を弔い、田畑を開墾して余生を送った所だそうだ。高円坊の地名はこれに由来すると言われ、前の畑の中には朝盛の碑が有る。この後、五劫寺跡に向かうが既に廃寺となっており、写真には撮れなかった。残念。近くの庚申塔群に寄った。うーん。良く分からない。下に「見猿・言わ猿・聞か猿」の三猿が彫られているので康申搭だと思うのだけれども、碑には「猿田彦大神」と書いている。確かに猿と言う共通点は有るのだが、庚申と言うのは中国の伝説で日本の神様猿田彦は関係ない。本当に宗教と言うのはいい加減なものばかりだなと思う。ここが寺の跡ならば神仏混淆と言う話も有るので、話は分かるのだが五劫寺跡からは離れている。何なんだろう?よく分からなかったけれども、仕方ないので先に進む。ワクリ井戸に到着。田んぼの中のクリークの脇にある。説明板を読もう。こうしてみると和田義盛と言うのは武士なんだけれどもお百姓さんの味方だったんだな。だから北条義時や三浦義村とは話が合わなかったんだ。僕的には和田義盛の方が好感が持てるな。素朴で良い人な感じがする。ここからが問題だった。次の目的地の神明白旗神社に行くには大回りして通常の道を行くか、畑を突っ切るかだが、ガイドさんは畑を突っ切る道を選択した。これが大変だった。なんせクリークの横の道なので雑草がいっぱい。足元はぬかるんで滑る。女性もお年寄りも大勢おられるので、ちょっとまずかったかな?ただ僕的にはラッキーだった。途中で「古墳らしき山」を見つけたから。いや本当は古墳じゃないのかもしれないけれども、夢があるのでOK!最近になって分かってきたのだけれども、山の上に造られた古墳には特徴がある。周囲より少し高くなった円墳部(と思われる部分)には必ず木が植えられている。しかも周囲には木が無い。つまり自然に生えた木ではない。もしかすると「盗掘」防止用に木を植えたのではないだろうか?木が無いと墓荒らしが堀返すだろうけれども、木が有れば大変な作業になり諦めるだろう。違うかな?まぁ違うかもしれないけれども、想像するのが楽しい。大変なクリーク脇の小径を歩いて、まあ何とか神明白旗神社に到着した。この神社は不思議な神社で、もしかすると(もう忘れられてしまっているけれども)古い時代には大事な神社だったのかも?それは屋根に「鰹木」と「千木」が有るから。八幡社等の普通の神社にはこの2つは無い。いわゆる「大社」や「神宮」等の古くから有る神社や大きな神社にしかない特徴である。奈良時代位までに建てられた神社には有ったのだが、平安時代以降には造られなくなる。江戸時代初期に復古意識の高まりから一時期つくられたが、八幡社等は作られなかった。なので、ここは何らかのいわれが有るのだと思う。しかもそれは白旗神社ではない方。白旗神社は源氏特に義経を祀った神社だから新しい。参考までに神奈川県内の有名な「白旗神社」三つの写真を載せる。鎌倉の「元祖?白幡神社」にはさすがに「千木」が有る。でも「鰹木」はない。藤沢と戸塚の白旗神社は新しいのでどちらも無い。白旗神社に合祀される前の神明社に何かいわれがあるのではないだろうか?この後天養院に向かうが、またここで道に迷って、険しい細い坂道を登った。ガイドさんのリーダーは大回りして登って来ていたが、到着時間は一緒だった。天養院はこんな感じ。ここも何故か浄土宗のお寺である。僕等の頭には「武士の宗教=禅宗」と言う感覚が有るが、和田義盛はお百姓さんの味方だったのか、三浦半島は浄土宗や浄土真宗の寺が多い。義盛は良い人だったんだな。天養院の説明板と薬師如来像の説明板を載せる。上の説明板に書かれているように、ここには行基作と伝えられる薬師如来像が有る。この薬師如来像は義盛の持仏であり、和田合戦の際に義盛の身代わりになって顔(右目)から胸・腹まで切られた傷跡がある。伝説では血まで流れたそうである。伝説が本当かどうかは分からないが確かに薬師如来像には傷跡がついている。また、この脇には義盛の位牌が有り、位牌の後ろには義盛の像が有る。ちょっと写真の撮り方が下手で、義盛の像は隠れて見えない。残念。天養院を出て、バス通りに出て南下すると安楽寺に着く。ここには和田義盛の碑が有る。和田義盛の碑の説明板を拡大するとこんな感じ。やっぱり地元の人は和田義盛が好きなんだな。鎌倉の色々な碑には北条氏に好意的な書き方が多いが、ここの書き方は「北条義時の挑発と策謀にのり」と書かれている。義時は悪者である。義盛は「悲運の最期」と書かれている。地元って良いな。この後、この安楽寺で解散したのだけれども、僕は元気が余っていたので、みんなとは別れて和田城址に向かった。ガイドさんは、ここには既に何も残っていないので、ここの見学は省略したと思うのだけれど、ここに来て分かったのは、鎌倉時代の「城」はほぼ「館程度」で、戦争の為のものと言うよりは村役場的な感じだったんだなと分かった。周囲を見たら分かる。一面の畑で、戦場には似ても似つかない。鎌倉とは違う。鎌倉に居る時には「武士としての和田義盛」だったんだけれども、ここに居る時には「みんなの和田義盛」だったんだな。そして和田の地の見学は終わってバスに乗って帰ろうとしたが、失敗&ラッキーなバスだった。失敗は寝過ごし本来降りるべき京浜急行の横須賀中央駅を通過しJR横須賀駅まで行ったこと。ラッキーなのは、そこにヴェルニー公園が有ったことである。ヴェルニー公園には戦艦陸奥の主砲が置いて有る。大事なのは、この「主砲弾の説明」である。普通の人は大砲の玉は、その硬さと重さで相手の鋼板を貫いて破壊すると思っているだろう。でも、それが違うと言うことがこの説明板で分かる。硬さと重さで相手の鋼板を貫くのならば、上部甲板を狙うものである。でもこの砲弾は船腹を狙い、貫いた後に遅延信管が作動して内部で爆発するのである。つまり魚雷と同じ原理である。これならば破壊力は硬さと重さで相手の鋼板を貫く数倍大きい。これを見られて良かった!もう一つ良いものを見られた。米軍のドライドックである。たまたまだけど、米軍の駆逐艦?(違うかも?でもその位の大きさ)と通常型潜水艦が2隻いた。そして、反対側にはイージス艦がいた。バスで寝過ごして良かったなぁ!
May 6, 2024
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連休中はヒマだったので、パソコンを買って修理して遊ぶことにした。でも、もちろん僕のお小遣いの範囲の中なので「ジャンクパソコン」である。運が良かったのか抜群に安いパソコンを落札できた。送料込みで1400円。通常送料は梱包込みで1400円はするので、実質0円である。送料込み1400円、実質0円なので古いパソコンかと思ったら結構新しい。ネットで調べると、今でも売られている現役のノートパソコンである。CPUはCeleron6305つまりTigerLAKEで第11世代である。今、ネットでたくさん出回っているのが第8世代。リース開けのパソコンが出回っているのであるが、それよりはずいぶん新しい。ただCeleronなので低く見られがち。でもさすがに世代が新しいと4~5世代前のCOREi3と変わらない性能である。ネットで探したベンチマークを載せる。メーカーの営業上の話も有るので、情報元によって違いはあるが、概ねこんな感じ。つまりちょっと前の20万円のパソコンには負けない。ただ、さすがにジャンクなのでもう一つ大きな欠点が有った。液晶モニター部分が割れている。でも僕は液晶パネルの交換は得意なので、さっそく分解してみた。えぇー!何この液晶パネル!そう、メーカーが売り文句として「通常より横幅が狭い」のを売りにしているので、通常の液晶パネルが使えないのだ。裏側を見るとよく分かる。幅をかせぐ為にヒンジ(液晶部分を支える金具)と液晶パネルが両面テープで一体化している。なんとか両面テープをはがしたが、液晶パネルそのものが特殊で幅が狭い。これはダメだと諦めかけたが、せっかくの新しいパソコンがもったいない。そこで、ふと思いついた。15.6inchは幅が狭くて無理だけど、14inchや13.3inchならば狭くても大丈夫なのでは?さっそくジャンク箱を探してみたら13.3inchが有った。本当は14ibchが良いと思うのだが、「実質0円」にお金はかけられない。なので13.3inchで修理することにした。結果がこれ。「額縁」が広いと思えば何の問題も無い。ただ解像度は元が1920X1080なのに対して1366X768つまり面積にして半分。でもタダで修理するのだから、その位は我慢。さっそくWindows11を導入した。元々128GBのSSDが付いていた(これもジャンクとして売られていた理由で工夫が必要だった)ので、そこそこ速い。と言うか6年前のパソコンくらいからSSDが標準になり、劇的に速くなっている。CPUの性能よりもSSDに変える方が、体感速度は圧倒的に速くなるので、十分に使えるパソコンになった。連休はヒマだけど、頑張れば遊べるなぁ。
May 3, 2024
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2023年9月23日に、何故「古事記」と「日本書紀」があるのか?(その11)古事記偽書説を書いた。何故「古事記」と「日本書紀」があるのか?(その11)古事記偽書説その中で、古事記の「序」とされている部分は、古事記の序文ではなく、日本書紀の研究の場である「日本紀講筵」の場で、漢文で書かれた日本書紀の特定の部分の日本としての独特の読み方(漢字の訓では読めない)をどう読むのが正しいのかと説明する際に「古事記」を参考書として使っていたのだが、(古事記は本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは 一字一音表記としている。この為、純粋な漢文形式で書かれた日本書紀では読みが分からない 古語や固有名詞が古事記を参考にすれば読めるのである。)その使用する根拠(つまり古事記が正しく古くから伝わる書で信頼できるものだと言う)を先生(弘仁4年(813年) 博士は多人長)が自分の家に残っていた、太安万侶(多人長の祖先でこの序と誤解された上奏文の主)の元明天皇への上奏文を見せて、それを見た生徒が写本に写してしまったのが「序」と誤解されて後世に伝わったと書いた。そもそも朝廷行事である「日本紀講筵」の場で「日本書紀」の参考書として使われたことが、はっきりと記録に残っているのだから古事記本文は偽書ではありえないと思うのである。ただ、序に関しては上に書いたように書写した生徒があいまいな書き方をしており、後世の人がそれが原因で「古事記の序」として勘違いしてしまったもので、最初から「古事記の序」として扱われたものではなく、勘違いした後世の人が悪いと思う。なので、ちょっと「序」を調べてみた。大事なのは最初の部分。(原文)臣安萬侶言夫混元既凝氣象未效無名無爲誰知其形然乾坤初分參神作造化之首(意訳)部下である安萬侶が申し上げます。それ混沌とした世界が固まり始めました。いまだ自然界の形ははっきりとせず、その名前も無く何もなされてはいませんでした。ところが、初めて世界が天と地とに別れ、造化の造化創造主となりました。つまりこのような感じで始まるので、現代人の感覚だと「序文」ではない。どう考えても太安万侶が元明天皇に「説明」しているスタイルである。話はこの後神話の世界から国譲り~神武東征~神功皇后~允恭天皇までのダイジェストが説明されて、天武天皇が壬申の乱で勝利し、正しい天皇である天武天皇により平和になったことを説明し、有名な古事記編纂の経緯になります。ここ(古事記編纂の経緯)が大事なので原文と意訳を下に書く。(原文)於是天皇詔之朕聞諸家之所賣帝紀及本辭既違正實多加虛僞當今之時不改其失未經幾年其旨欲滅斯乃邦家之經緯王化之鴻基焉故惟撰錄帝紀討覈舊辭削僞定實欲流後葉時有舍人姓稗田名阿禮年是廿八爲人聰明度目誦口拂耳勒心卽勅語阿禮令誦習帝皇日繼及先代舊辭然運移世異未行其事矣(意訳)ここに、天皇(今までの経緯から元明天皇ではなく天武天皇?)はこう仰いました。朕の聞くところでは、諸家(各豪族)に伝わる帝紀(帝の系譜)、本辞(旧辞·言い伝え)はすでに真実と違ってきており、多くはうそいつわりが加えられている。もし、今この時(正しいことが)失われてしまうのを改めねば、何年も経たぬうちに本当の内容が消滅してしまうであろう。これすなわち、邦家(支配下の各地の豪族)のいきさつであり、また王化(王権国家にするため)の大いなる基本である。そこで、帝紀(帝の系図)を整理記録し、旧辞(旧い出来事)を調査検討しようと思う。うそいつわりを削り真実を定め、後世に伝えたい。その時にたまたまいたのが、姓を稗田名を阿礼という舎人でした。年龄は28歳で、その人は聡明で、一通り目を通すだけで難読文字も難なく理解し、音訓も瞬間に判断して話し言葉に直し意味の分かる言葉で読み上げられることができました。そこで(天皇は)阿礼に命令を下し膨大な帝紀(天皇の系図)と旧辞(先人の言い伝え)の資料をしっかり読み込み、全体像を把握しておくよう命じられました。けれども、天皇継承などの複雑ないきさつにより混乱し、時が移り世も変わり、未だに完成できませんでした。こんな感じである。ここは今まで色々な人が伝えて来た通りなのだが、問題はこの後である。(原文)伏惟皇帝陛下得一光宅通三亭育御紫宸而德被馬蹄之所極坐玄扈而化照船頭之所逮日浮重暉雲散非烟(意訳)謹んで皇帝陛下が一代で徳を国に大きく広げられ、三統(天·地·人)の徳にて民衆を養い育てられたことを、御推察申し上げます。紫宸(北極星:天皇の威光?)において国中を治められその徳は馬が駆けて行ける限りを覆い、玄扈(天子の座す場所)におかれまして御風習(その威厳)は船を漕いで行ける限りを照らします。日は浮かび輝きを増し、雲は消え霞むこともありません。うーん「皇帝陛下」なの?この言葉が入ってては「序」じゃあり得ないじゃん。そもそも皇帝陛下って誰?天武天皇?元明天皇?話の流れからすると元明天皇だな。だったら、これは天武天皇から命令されたのに何でできなかったの?と言われそうなのを、必死に弁解している(後にお世辞を並べている)だけじゃん。「序」ではない。さらにこの後はさすがに弁解だけではダメだと感じたのか、提出する古事記の「書き方(古い言葉や人名が多いので色々と例外的な部分が多い)や、不確かな内容」について説明する。そしてその後に決定的な記述が続く。よく古事記がたった4か月で作られたと言う誤解を招く表現をする先生がいるのは、下の部分が原因である。(原文)於焉惜舊辭之誤忤正先紀之謬錯以和銅四年九月十八日詔臣安萬侶撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者謹隨詔旨(意訳)旧辞、先紀の誤りや食い違いは惜しまれながら正されました所ですが、和同四年九月十八日に至り、わたくし安万侶に稗田阿礼が先に詔された旧辞を読み上げるところを撰録(選び記録)するよう、詔(命令)されました。このたびこれによって献上します(古事記)は、謹んで御旨に従うところであります。ちゃんと「命令されたので、古事記を献上します」と書いているじゃん。これって「序」じゃないよ。古事記を献上する際の「上奏文」だよ。そして、僕が今まで色々な人から教えてもらった、「古事記は天武天皇が命令して作られた」「命令が有って4か月で作られた」と言うのは間違いだと分かる。「古事記を書け」と言ったのは元明天皇で天武天皇は準備しろとしか言っていない。まず和銅4年と言うのは西暦711年である。天武天皇は686年に崩御されている。つまり天武天皇が「古事記を作れ」とは言ったのではない。ただ、稗田阿礼が覚えている「帝紀」と「本辞(旧辞)」が間違っているので直せとそしてしっかり読み込み、全体像を把握しておくよう命じただけであり、この時点では天武天皇は文書化しろとは言っていない。天武天皇は身分の低い太安万侶には(諸家の説得を伴う)修正は無理だと分かっていたからである。ただ、太安万侶としては文書化の必要性を感じており、焦ってはいた。そして、その作業は和銅4年つまり元明天皇の時代まで修正が終わっていない。それを和銅4年に元明天皇が早くしろ!と怒ったので、「先紀(帝紀)、旧辞(本辞)の誤りや食い違いは惜しまれながら正されました所ですが」、と嘘を言いながら仕方ないので、太安万侶は稗田阿礼の口述を未修正のまま文書化しているのである。なので(本来必要な諸家への根回しはできず)たった4か月で出来上がり、案の定、天武天皇が修正したかった所は修正ができていないのが発覚し、元明天皇に奏上したものの、採用されなかったのだと思う。それで「修正が未完成な」古事記には出雲の記述が多く、修正の終わった日本書紀には出雲の記録が少ないのである。また続日本紀等の後世の書に書かれていないのも当然である。元明天皇により「不可」とされた物なのだから。でもこれは太安万侶のせいではないと思う。天武天皇の「すでに真実と違ってきており多くはうそいつわりが加えられている」と言うのは、「俺にとって都合が悪い。だから俺の好きなように書き換える。お前らは黙って従え」と、諸家(豪族達)に無茶振りをしているのだから、太安万侶のような下位の者にはできない仕事。当時はまだ石川氏(蘇我氏系:出雲の派閥)等が残っており、修正に反対したのだと思う。そして古事記は「修正が未完成」ながらも、日本書紀の原典になり、諸家にも無茶を言える舎人親王を中心とした日本書紀は修正を加え、また新たに収集した資料を加え完成したのだと思う。でもさすがに修正しきれなかった部分は「一書」として日本書紀に残っているのである。古事記は乙巳の変で失われた「帝紀」と「本辞(旧辞)」を稗田阿礼が暗記していたもので、それ故に日本書紀の元本になったのである。なので、「日本紀講筵」の場で「日本書紀」の参考書として使われたのだろうと思う。但し、現代人の考える「古事記」としてではなく、「帝紀・本辞」として。「序」はその説明の為のメモだったのだろう。
April 27, 2024
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BIOSパスワードの解除で難しいのはLet’sNOTEと東芝なんだけれども、TOSHIBAのノートパソコンで面白い事実が分かった。Password=と出た段階で、ちょっといくつかのキーを入力すると下の画面になる。一番上はSerial番号が表示される。これは何回やっても変わらないので、恐らくこの機体特有のIDだと思う。写真は危ないので消している。2番目はやるたびに変わるので、時計などが関係した時点のチャレンジコードだろう。こちらは真似をされても影響ないのでそのままにしている。恐らくその二つから何らかの演算をして出たコードが、その下のResponceコードなんだと思う。富士通などのパソコンで3回「エラー吐き出し用コード」を入力して出てくるコードと、2番目のチャレンジコードが同じ意味を持つ物で、ドッグバードさんが作ってくれたパイソン等で解析するプログラムを使って得られるコードがレスポンスコードと同じ機能を持つ物なのだろう。つまり東芝のノートパソコンの場合も富士通の場合と同じようなプログラムが有れば、BIOSパスワードは解除可能だと言うことである。ちなみに上の写真はチャレンジコードがQRコード付きの複雑な最近の物なんだけれども、以前のチャレンジコードは、富士通のノートパソコンが吐き出すエラーコードによく似た5文字X5組のコードだったし、レスポンスコードも5文字X5組のコードを入力するみたい。つまり以前の物は知れ渡ってしまったので改善したみたい。YOUTUBEやGOOGLEで探しても、古いタイプは成功者が多いのだが、新しいタイプはたった1人外人さんの成功者がいるだけで、彼はどうも有料でしか解除していないので教えてくれそうにない。ogatamaさんはYOUTUBEには無いと言っているけれど1人だけいる。また、ogatamaさんは5万円かかると言うが、僕にはお金が無い。ogatamaさんはROMから読みだす必要が有ると言うが、外人さんは別に分解はしていない。つまりROMを読みだす必要は無い。何か無料でできる良い方法はないだろうか?誰か解除プログラムを知らないだろうか?
April 13, 2024
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4月4日はわの会で鎌倉市の泉水橋から杉本観音辺りまでを歩きました。今日のルートは次の通りです。集合場所は泉水橋。金沢八景から鎌倉へ向かうバスに乗って行きます。現地に着くとすぐに足利公方邸跡が在ります。でも宅地化により何も残っていない。足利氏の祖、足利義兼はあの権力争いの嵐が吹き荒れた鎌倉時代初期から、この地に館を築いてその後270年間もここは足利氏の鎌倉屋敷でした。でも何も残っていない。足利尊氏は京都に室町幕府を開き、鎌倉には東国と甲斐・伊豆・陸奥及び出羽の統治の為に、鎌倉府を置きます。鎌倉府の首長は鎌倉公方と呼ばれて、足利尊氏の子の基氏が初代です。鎌倉公方は基氏の子孫が代々つとめましたが、鎌倉府は室町幕府と対立し始めて、(上杉禅秀の乱等:墓が報国寺に有る)補佐役(と言うか鎌倉府を見張る役)である関東管領の上杉とも対立していた。第四代鎌倉公方の足利持氏はこれに腹をすえかねて上杉憲実を攻めたが、第6代将軍足利義教は逆に上杉憲実と手を組んで鎌倉府を攻め滅ぼした。(永享の乱)しかし、嘉吉の乱により将軍義教が赤松満祐に殺害されると、幕府は関東地方の安定を図るため、上杉氏の専制に対抗して鎌倉府の再興を願い出ていた越後守護上杉房朝や関東地方の武士団の要求に応え、持氏の子永寿王丸(足利成氏)を立てることを許し、ここに鎌倉府は再興された。しかし、第五代成氏の時代に補佐役である関東管領の上杉憲忠とまた不仲になり殺してしまい、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、争いは関東地方一円に拡大した。ここから28年間にわたる関東地区の戦国時代が始まる。(享徳の乱)もうこの乱では敵味方が入り乱れてしっちゃかめっちゃかになるのだが、足利成氏は関東の各地を転戦する中で、北関東の上杉方の攻略に手間取っている間に本拠地の鎌倉を今川範忠により占拠され、鎌倉の勝長寿院にいた成氏の兄弟である成潤が日光山に奔って上杉方と通じた。このため、成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総古河に入った。以後成氏は古河城を本拠地とし、古河公方と呼ばれた。それ以来この地は廃墟となっています。その時(明応6年頃)の関東の勢力図をガイドさんが見せてくれました。扇ヶ谷は上杉、下総は足利になっています。ぶっちゃけ足利は追い払われたんですね。公方邸跡から山側に入っていくと、御馬冷場(おんまひやしば)が有ります。うーん奥にやぐらがあるけれど、ほぼ倉庫。ここは源頼朝の愛馬、生食と麿墨の足洗い場だったと言う伝説が有ります。そう言えばすぐ下には滑川が流れているなぁ。生食と麿墨は宇治川合戦の際に頼朝から佐々木高綱と梶原景季にそれぞれ与えられ、両者は有名な先陣争いをします。景季が先を進んでいて高綱が後方に居たのですが、高綱は景季に「馬の腹帯が緩んでいる。おしめなされ!」と声をかけて、景季が締め直しているすきに高綱は川に馬を乗りいれて向こう岸に渡り、それを見た義経軍は発奮して、木曽義仲軍を打ち破ったと言います。ちょっとずるい!次はいなり道とその脇にある庚申塚。いなり道は後から行く鎌足稲荷神社にちなんで名づけられたらしい。でも、何で鎌足稲荷?と思った。お稲荷様は本来は秦氏の神様である。Wikiの稲荷神から抜粋してみる。 もとは古代社会において、「渡来人であった秦氏の氏神的稲荷信仰をもとに、 秦氏の勢力拡大に伴って伏見稲荷の信仰圏も拡大されていった」 と「日本民俗大辞典」は述べている。 本来の「田の神」の祭場は狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の穴) だったと推測されるが、近世には京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰が広まり、 狐塚に稲荷が祀られるようになった。また、こうも書いている。 五穀をつかさどる御食津神・ウカノミタマと稲荷神が同一視されることから、 総本宮の伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社ではウカノミタマを主祭神としている。まぁそれはそれとしていなり道の庚申塚の写真。本当に関東それも横浜市や鎌倉市には庚申塚が多いなと思う。あちこちにある。いなり道を進んで行くと浄妙寺山門に着く。桜が満開だった。良い時期に来た。京都や奈良のお寺さんとは違い、心が和むなと思う。お寺さんは大きいお寺さんよりも、おじいちゃんやおばあちゃんがおむすびを持って遊びに来れるお寺さんが良いと思う。この付近の地名は浄明寺と言う。住民がお寺さんの名前である浄妙寺では畏れ多いと1字を変えて付けたのらしい。浄妙寺の開山は退耕行勇で、開基は足利義兼。上でも書いた源頼朝挙兵以来、源氏・北条氏に従った足利氏の祖である。足利氏は代々世渡りがうまかったらしい。鎌倉殿の13人がNHKのドラマでも分かるように、梶原氏、畠山氏、比企氏、和田氏、源氏、そして盟友の三浦氏と次々に北条氏に滅ぼされて行ったのに対して、足利氏は最後まで生き延びて、ついには鎌倉幕府を滅ぼしている。ガイドさんがこれについて面白い系図を見せてくれた。見ると分かるように、この浄妙寺の開基で足利氏の祖である義兼を筆頭に、みんな嫡男は北条氏の娘(女)を正妻に迎えて北条氏と血縁関係を強化して、その時々の北条氏のTOPと近い関係になって名前から1字をもらって自分の名前とし、(写真はワープロミスで1次になっていますが1字です。)またそれだけではなく、武功を重ねて北条氏に仕えていました。そして最後には鎌倉幕府を滅ぼして、関東ではなく京都に室町幕府を開いています。実は今日のテーマの足利一族ゆかりの地を行く。と言うのは、お寺を見に行くと言うよりは、足利氏と北条氏及び新田氏の関係を考えるのがテーマだったのかも?話は戻って浄妙寺の本堂。開基は義兼だが、北条氏を滅ぼした後には鎌倉公方足利氏の菩提寺となり、裏には足利貞氏の墓もある。なお、説明板にも有るように、この寺院は大寺院だったようで、本堂左手奥から坂を登った所に有る石窯ガーデンテラス付近には延福寺、またその石窯ガーデンテラスの西側には熊野神社が有るが、ここは大休寺と言う足利尊氏の弟の直義の菩提寺だったらしい。直義は以前行った「鎌倉宮の後醍醐天皇の皇子の護良親王を幽閉し殺害した」人である。横浜市金沢区わの会22回目のイベントに参加しました。また楠木正成を討ち取ったのも彼である。足利尊氏は(ちょうど源頼朝が義経を恐れたように)直義を恐れたらしい。そこで尊氏は直義をここに幽閉し、直義はここで病死した。(毒殺の噂有り)ところで面白い話が有り、教科書等で有名な下の源頼朝の絵は実は直義の絵なのだそうだ。もう本当に歴史の「常識」は次々に覆されてしまい、信用が置けない。これが原因で高校入試や大学入試で失敗する人もいるのだから入試からは歴史を外して欲しい。その直義の墓は浄明寺の本堂裏の山の中腹に有る。横浜市の教育委員会の人は「やぐらは鎌倉時代のもので鎌倉時代にしかない」と言うけれど、あちこちに鎌倉時代以外のやぐらが有るので面白い。でも、この直義の墓は、鎌倉時代は終わっているけれど室町時代の初めだから、ぎりぎり鎌倉時代と言う判断なのかな?でもやっぱり地方公務員の無駄なプライドだな。ここから鎌足稲荷神社へは直接行けないので、一旦浄妙寺に降りて、山門手前から左に出て坂を登る。そこに鎌足稲荷神社が有る。ここで僕があれっと思ったのが写真右下の「神社跡」とやぐらっぽい穴。上のWikiの稲荷神の説明のように、稲荷は本来は田の神(だから稲・荷)であり、渡来人の秦氏の神様である。今は何も残っていないし、証拠も無いのだけれども、本来はこの神社跡が元の神社では?そしてここには稲荷ではなく古い神様が居たのだと思う。但し、それが仏教が入って来た時につぶされそうになり、危機を感じた地元の人が「稲荷神」に改装して生き延びた。それが鎌足稲荷神社の元では?実は千葉の富津にも鎌足の鎌の伝説は残っている。横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ(その16)富津の飯野陣屋跡にはここと全く同じ「鎌足稲荷伝説」と「鎌足桜」が残っている。どちらが本命?僕は実はあんがいとどちらも正しいと思っている。藤原鎌足は実は「中臣氏」ではなく、千葉の豪族の人間で、三浦氏や千葉氏の「母方の」祖先だったのではないだろうか?有名な「大鏡」には藤原鎌足は常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)の出身だと書いている。「大鏡」はいい加減な本ではない。ちゃんとした本である。三浦氏や千葉氏等関東平氏の祖先は「平家」なので中央から下って来たのだが、それを受けいれた地元の豪族が居たのだと思う。またその豪族は実は大和王権の成立に大きく貢献した人達で、だから茨城や千葉に神武東征や国譲りで活躍した「神」を祀る神社が残っているのだと思う。国譲りで出雲の神様達を負かした、建御雷神(タケミカヅチ)を祀る鹿島神宮と、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祀る香取神宮である。日本神話上こんなに大事な神様が近畿ではなく関東におられるのはそのせいではないだろうか?まぁそれはそれとして、この鎌足稲荷神社のある山に「鎌」を埋めたのが「鎌倉」の由来だそうである。え、そうなの?そんな大事な所なの?と思ってしまう。まぁ当然別の説も有り、鎌は実はかまどのことで、鎌倉が東、北、西の三方を山で囲まれかまどの形状をしており、倉は谷のことで、かまどの形状をした谷に囲まれた土地が由来だと言う説も有る。その他には、僕はこれが正しいと思っているのが、埼玉には高麗郡と言う所が有り、朝鮮の高麗から戦火を逃れて来た人達が住んだのが由来で、同様に神奈川にも高座郡と言う所が有り、この「高座」も元は「たかくら」で、高倉=高麗の人達が移り住んだ場所と言うことから、高麗座(こまくら)が「かまくら」になったと言う説も有る。僕は源氏を始めとした八幡神信仰に着目し、八幡神はWikiによれば、 「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を 意味する言葉とみられる。 八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、 神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、 また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる。と書かれていることから、神功皇后(のモデルになった人)が朝鮮から連れて来た人達が、さすがに近畿には住めないので、関東にたくさん住んだことがこの地の始まりだと思っている。そのせいで、後年桓武天皇の時代に桓武天皇の母方(百済の王女)の家来や皇族が、関東に来たのが坂東平氏の始まりだと思っている。なので、高麗座(こまくら)が「かまくら」になったと言う説も有力だと思うのである。そうならば、鎌足と稲荷が結び付いたのもうなづける。そうでなければ何で鎌足と稲荷?と思うのである。鎌足稲荷神社を後にすると、次は法告示である。まずは山門。ここの本堂で面白いことに気がついた。それは「紋」。足利尊氏の紋は写真左上の「足利二つ引両」が有名だが、ここは「丸に二つ引き」。ちなみに新田義貞は「新田一つ引き」。何故か三浦氏の紋によく似ている。北条氏のミツウロコとは似ていない。うーん、やっぱり桓武平氏は元はみんな一つだったのかもしれない。報国寺は本堂裏に禅寺らしく、池とやぐらが有る。このやぐらは開基の足利家時と義久の宝篋印塔である。またここを左に行くと、見事な竹林が有る。好きな人は何時間でも見られる。この竹林を出た所に、鐘楼脇五輪塔群がある。これは元弘三年(1333年)5月の北条一族と新田勢の合戦で死んだ両軍の遺骨を葬った墓だそうだ。すごい量の墓。報国寺を出て、上杉朝宗・氏兼屋敷跡までの道を「田楽辻子の道」と言う。吾妻鏡に書かれた道ってすごい。いや、道は生活に必要なので有るのだけれども名前が残っているなんて。道の終点が上杉朝宗・氏兼屋敷跡。何も残ってはいない。でも、何故か昔のことが想像できて良い。あとは杉本観音バス停で解散したのだけれども、せっかくなので杉本寺。やっぱりお寺は石段が良い。
April 13, 2024
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3月25日に邪馬台国はどこにあったか(その45)魏志倭人伝と古事記や日本書紀を書き、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代3世紀と、古事記や日本書紀ではっきりとは分からないがおおよそ様子が分かる5世紀に挟まれた、日本の様子がはっきりとはわかっていない4世紀を空白の時代と呼んでいることを書いた。邪馬台国はどこにあったか(その45)魏志倭人伝と古事記や日本書紀でもその時に書き忘れたのだけれども、日本書紀はあたかも神功皇后が卑弥呼であるかのように魏志倭人伝を引用して書いている。(原文) 卅九年、是年也太歲己未。 魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。 太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」 卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」 卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」(意訳) 神功皇后39年(日本書紀は編年体で書かれている)、 この年は太歲己未(つちのとひつじ)である。 魏志倭人伝によると、 「明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わし帯方郡に至り、 洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。 太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。」 四十年、魏志にいう、 「正始元年。建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。」 四十三年。魏志にいう、 「正始四年。倭王はまた、使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を遣わして、献上品を届けた。」日本書紀第9巻「神功皇后」の一部である。つまり、神功皇后39年を景初3年で卑弥呼が魏に難斗米を派遣した年で、その翌年、神功皇后40年を正始元年とし、魏の天子が卑弥呼に詔書や印綬を送った年だと、またその3年後神功皇后43年に倭王は魏に伊声者掖耶ら八人を遣わしたと書いているのである。何も考えずに読むと難斗米等を魏に派遣したのは卑弥呼だと魏志倭人伝に書いてあるので、ここで言う倭の女王は神功皇后=卑弥呼と読めてしまう。つまり日本書紀の編者は魏志倭人伝に書かれた卑弥呼は神功皇后だったんだよと主張している。ちなみに神功皇后は景行天皇の孫の仲哀天皇の奥様で、仲哀天皇2年に皇后となられて、仲哀天皇は神功皇后と熊襲征伐に行かれた際に筑紫の香椎宮で亡くなっている。それが仲哀天皇9年2月。神功皇后はその後熊襲を征服し、山門の賊を討ち、新羅征伐を行い、12月にお子様の応神天皇をお産みになった。新羅征伐の間は応神天皇が生まれないように石をお腹に巻いて新羅征伐を行っているのは有名。翌年、仲哀天皇の子の麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が謀反を企み、これを討っている。(多分その年に神功皇后は天皇になったのだと思うのだけれども即位の記事は無い。 でも、紀年体で神功皇后○○年と書いてあるので、神功皇后は天皇の扱いである。)その結果、神功皇后3年には応神天皇が皇太子になっている。ここまで書くと分かるのだけれども、魏志倭人伝の狗奴国に相当する記述が無い。魏志倭人伝では正始8年に卑弥呼は狗奴国との戦いで魏に助けを求めるのだが、上記のように卑弥呼=神功皇后ならば、正始8年は神功皇后47年になるはずだが、日本書紀の神功皇后47年には、百済と新羅が朝貢してきて、百済の使者が(新羅のせいで)貢物が少なくなってしまったと言い訳をしている記事だけである。なお、神功皇后9年には麛坂皇子と忍熊皇子との戦いの話はあるのだけれども、2人は旦那さん(仲哀天皇)の子で、狗奴国とは読めないし、戦争した年が40年以上違う。魏志倭人伝の記述とは合わないのである。だから神功皇后は卑弥呼ではないのだけれども、何故日本書紀の編者はそうほのめかすのか?恐らくは目的は2つあるのだと思う。一つは中国の正史である三国志(含む魏志倭人伝)の登場人物に日本の天皇を結び付けたかった。もう一つは神功皇后を魏志倭人伝の時代にすることにより、それ以前の天皇をはるか昔に設定したかった。明治時代のいわゆる皇紀2600年と同じ発想である。欠史八代や神武天皇等の古代の天皇が100歳を超えているのと同じ原理である。では神功皇后が卑弥呼でないのならば、神功皇后は歴史上どの時代の人か?神功皇后52年9月に以下の記述が有る。(原文) 五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、 則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、 仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、 其邈七日行之不及、當飲是水、 便取是山鐵、以永奉聖朝。」(意訳) 五十二年秋九月十日、久氐(クテイ:百済の人)らは千熊長彦に従ってやってきた。 そして、七枝刀を一口、七子鏡を一面、および種々の重宝を奉った。 「我が国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。 その遠いことは、七日間行っても行きつきません。まさに、この河の水を飲み、 この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と申し上げた。ここに書かれた「七枝刀」が奈良県天理市の石上神宮に伝来した鉄剣で国宝である。七枝刀には表に34字裏に27字の銘が刻まれており、「百済王が倭王に贈った」とされている。このことから、百済の王から神功皇后に送られたと言う日本書紀との整合が取れ、その年も銘(「泰■四年」と一字が不明で「泰和」、「泰始」あるいは「泰初」の議論がある)から概ね372年であろうと推測されている。つまり卑弥呼から約120年後である。ネットで見つけたその写真を載せる。またこれは埼玉の稲荷山古墳から出た金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)に書かれた年代が、ワカタケル(雄略天皇)の時代である辛亥年(471年)とよく合い、僕はほぼ正しいのではないかと思っている。以上から神功皇后は卑弥呼ではないと思う。ただ、神功皇后が天皇であったか天皇ではなく摂政であったかは別として実在したのならば、空白の4世紀は日本書紀が結構(年号は別として)信頼できる資料なのではと思う。
April 4, 2024
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2024年3月30日(土)はシーサイドラインフェスタ2024が開催されました。コロナのせいでずーっと中止されて来たので4年ぶりです。久しぶりだし、今年は幸野ゆりあちゃんが卒業するので、是非と言うことで行きました。3月なのに6月並みの暖かさで晴れ渡り、もうお客さんでいっぱいでした。ただ今年は1月2月が暖かかったのに桜の開花が遅く、お花見には少し早かったです。イベント会場は本館の前で名前は分からないけれど女神さまの像の向こう。奥が本社ビルです。右の木は確か桜なんですがまだつぼみ。幸野ゆりあちゃんはプリンセスプリンセスの「Diamonds」を歌っていました。ゆりあちゃんももう33歳。ファンはもうオジサンが多く年月を感じました。でもゆりあちゃんはまだまだ元気。力いっぱい踊っていました。ゆりあちゃんのコンサートが終わって、車両工場に行きました。工場はすごく広くてちょっとした体育館2つ分くらい。5連結の車両が2つ入るので、この位の大きさは必要です。僕は技術者なので、どうしても車両の色々な装置や仕組みが気になります。まずはシーサイドラインの特徴であるタイヤを見ます。鉄製車輪のJRなどとは違い、高架の上を走るシーサイドラインは騒音防止の為にタイヤです。しかもパンクした際の対策の為に中子式空気タイヤです。タイヤがパンクした場合、複数のタイヤが有るので通常は走行不能にはなりませんが、重大事故で複数のタイヤがパンクすると大変です。(平坦部ならタイヤの交換も可能だと思う。 でも坂の部分だと荷重がかかってジャッキは使えずタイヤ交換は無理だと思う。 シーサイドラインはモノレールとは違って坂が多いから)通常のタイヤではパンクすると車両が大きく傾いてしまいます。傾くと内輪差が生じて走れません。でも中子式の場合は多少傾きますが、走行は可能です。(例えばバランスを取る為に他のタイヤの空気を抜けば内輪差は無くなる。)前回は無かったタイヤの断面も今回は追加されていました。次は主スイッチを見ました。シーサイドラインは電気で動くので、点検時など電気を遮断する必要が有る場合はスイッチが必要です。写真を見ると分かりますが、スイッチはナイフスイッチです。家庭の入口にあるブレーカーは過電流(要は故障等で電流が流れ過ぎた状態)保護の機能が有り、ショートしてもそれを遮断(OFFにする事)ができますが、これは単なるスイッチなので、保護機能は別になります。写真を見るとスイッチは横向きです。何故でしょう?実は電気関係の大きなスイッチはみんな横向きです。地球には重力が有るので、縦向きだと重力で落ちてしまう危険が有るので、横向きなのです。特にシーサイドラインのような車両は振動が有るので、縦向きだと動いてしまいます。よく考えて作られていると思います。次は電動空気圧縮機です。よく見ると上の方がV字型になっています。ここがポンプで、下の円形部分に電動機(モーター)が入っていて、空気を圧縮します。ハーレーのバイクがV型ツインと言うこれに似た形をしていますが、あれはV型部分のシリンダーでガソリンが爆発して発生した圧力を、クランクで下の円形の回転軸に伝えてバイクを動かしますから、V型部分と円形部分の役割が、この電動圧縮機とちょうど逆の関係になっています。次は車両の制御部分です。シーサイドラインは無人運転を行っていますが、これをATO(Automatic Train Operation=自動列車運転装置)と言います。ATOは管理担当部の方にメインの装置が有り、プログラムされた運航を管理していますが、その命令を走行路に配置されたアンテナを通じて列車に伝えて、スピードの制御をしたり、発車・停止そして扉の開閉をしたりします。各駅の扉付近には走行路に白い四角のアンテナが有り、車両の下にはループ状のアンテナが有ります。なお、アンテナはATOだけでなくATC(Automatic Train Control=自動列車制御装置)にも使われます。ATCは車両が信号に従わなくて異常な動きをしたり、速度超過や停止位置で止まらない場合、速度を調整したりブレーキをかける装置で、ATOとは少し違います。よくATCの上位規格がATOだと言う人がいますが、JIS上は別の概念です。ただ、ATOとATCは同じ機器を双方で使うのでアンテナ等は共有します。例えばブレーキは運転速度の調整(ATO)にも使うし、危険防止(ATC)にも使うからです。工場内には子供達の為に色々な体験スペースが設けられていました。まずは運転体験。実際の運転席とほぼ同じ物を使います。またミニ列車にも乗れます。シーサイドラインと京浜急行は密接な関係に有り、京浜急行のミニチュアも有りました。これ欲しい!リビングに置きたい!工場の外の敷地内には警察や消防や他地区の私鉄、そして近所の食品工場の出店も有りましたが、子供達には消防車に乗ったり、白バイに乗るのが大人気でした。この子供用の白バイは警察が広報用に作ったのかなぁ?欲しい。そして最大の展示物はウルトラセブンのポインター号。久しぶりに見ました。ダンなんかが乗っていた車です。でも1957年モデルのインペリアルを改造って書いてある。放送は1967年だから10年前のモデルを改造したんだ。予算が厳しかったんだな。社長の車検切れの車を改造したのかも?色々と廻って楽しかったのですが、最後は幸野ゆりあちゃんとのお別れ会。ゆりあちゃんは健気にも元気にふるまっていましたが、寂しそう。偉い人から花束をもらって、キラキラシーたんとお別れです。ゆりあちゃん7年もプロモーションガールをやっていたんだなぁ。感無量です。これからもお元気で。
April 2, 2024
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よく4世紀頃の日本の様子が分からないことを指して「空白の4世紀」と言う。3世紀は中国の史書三国志の中の倭国(含邪馬台国や卑弥呼)に関する記述があり、いわゆる魏志倭人伝と呼ばれる部分がそうだが、何と他国の本に書かれているので分かる。また古事記や日本書紀に書かれており、またそれを証明する物的証拠が見つかり、例えば埼玉県の稲荷山古墳から発掘された鉄剣「金錯銘鉄剣」に刻まれた銘文から、雄略天皇くらいからはそれなりに実証が可能であるし、不正確ではあるが第10代崇神天皇くらいからは実在が認められそうになっているので、まあ5世紀位からは不正確ではあるが、それなりに想定が可能である。なので間の4世紀が「空白の4世紀」と呼ばれるのであるが、本当に空白なのだろうか?僕は古事記や日本書紀が書かれた時代には、天皇家や各地の豪族には(口述かもしれないが)記憶は残っていたのだと思っている。では何故文書として残っていないのか?よく言われるように文字が無かったからなのか?そんなことは無いと思う。世の中、交易があれば数字や文字は必ず必要になる。例えば昨年の交易では米1俵が鉄(素材)3枚だったものを、2枚にされたら大変である。それは何らかの形で残しておかないと駆け引きができない。なので記録は残すはずである。また、交易の相手も素性のしれない相手とやり取りするのは難しい。相手の素性を知ったり、あるいは身分保障をするには何らかの記録が必要である。交易をする本人が行けば、あるいは顔を知った仲介者がいれば良いのだが、遠い海を隔てて行き来する場合には無理がある。なので恐らくは何らかの「符牒」を使ったと思う。しかもそれは何らかの形で記録しておかないと、息子や孫には伝わらない。いやもっと簡単な方法が有る。交易先(中国)が既に文字を持っているのだから、それを使えばいいのである。だから庶民は字は知らなくても商人や役人は知っていただろう。どうして学者先生は幕末のジョン万次郎のことからそれに気づかないのだろう?つまり学問として文字や数字が必要な場合も有るが、本当に必要なのは商売上の理由だろう。またよく魏志倭人伝から「邪馬台国の位置」を読み解く場合に、距離を間違えたとか方角を間違えたとか言う学者がいるが、机の上で考えて議論する学者先生はそんなばかな議論をするかもしれないが、当時の商売人や渡航者にとっては、距離や方位は実務的な話で有り間違えるはずは無い。せっかくの交易品が行く先不明では破産するだけである。なので記録の仕方は現代とは違うかもしれないが、ちゃんと正確に記録したはずである。例えば数値は縄の結び目等で表したのではないだろうか?そろばんと同じである。縄目の位置で数値を表し、例えば指の数つまり1~5は直接表示し、片手を超える6以上は縄目の位置をずらすなどの工夫をすれば、結構な数値を表現できる。現代とは表現方法が違うだけで、必要に迫られて作られた方法は有ったのだろうと思う。話は戻って、では空白の4世紀は何故古事記や日本書紀には書かれていないのか?多分政治的な理由だろうと思う。1つ目は「過去の日本が中国の冊封体制下であったことを認めたくなかった」からである。卑弥呼の時代は、恐らくは邪馬台国は中国の冊封体制下にあったのだろう。2つ目は天皇家に権威を与えたかったからであろう。恐らくは継体天皇以前は、各豪族を含めた天皇家の中でも争いが続き、記録には残せない色々な大人の事情が有ったのだろうと思う。よく歴史を勉強していると、大海人皇子と大友の皇子が争った壬申の乱が皇位継承争いの最古の例として挙げられているが、古事記や日本書紀を読んでいると、表面化していないだけで似たような例は多い。例えば雄略天皇の前後はメチャメチャである。雄略天皇は允恭天皇の第5子であるが、前の天皇安康天皇は允恭天皇の第3子であり、安康天皇は允恭天皇の皇太子軽皇子を殺し、その奥さんを奪い、天皇になった。日本書紀には軽皇子が暴虐を振るう悪者として書かれているが、その奥さんを奪った時点で安康天皇が怪しすぎる。安康天皇は雄略天皇と中蒂姫命(なかしひめのみこと)を結婚させるが、中蒂姫命はその前に大草香皇子(仁徳天皇皇子)と結婚しており眉輪王を生んでいる。安康天皇はその眉輪王に殺されるのである。雄略天皇はこの眉輪王による安康天皇事件の際に兄2人を殺している。雄略天皇は何故か事件の裏に兄達がいると疑って問い詰め、黙っていた所を殺す。そして雄略天皇の兄と逃げた眉輪王の2人をかくまった円大臣の屋敷で焼き殺すのである。争いはさらに続き、雄略天皇は従兄の市辺押磐皇子を狩りを装ってだまして殺す。人々は雄略天皇のことを恐れて「大悪の天皇」と呼んだらしい。雄略天皇の後を継いだ清寧天皇は雄略天皇の第3子である。皇位継承の際に有力候補であった星川皇子を(大伴室屋大連と東漢掬直を使って)殺している。清寧天皇には子が居なかったので、なんと隠れていた前述の市辺押磐皇子の子が後をつぐ。顕宗天皇と仁賢天皇である。いやなんというか、相続争いがすごい。壬申の乱との違いは戦争の規模の大きさだけで、内容は変わらない。だから4世紀にもこの手の争いが続いていたのだと思う。だから歴史が無かったのではなく、書けなかったのだと思う。天皇家の相続争いだけならば、雄略天皇の前後のように恥ずかしいけれども書こうと思えば書ける。でも周囲の豪族が関わる係争は、それを学習した周囲の豪族に利用されて収拾がつかなくなる。例えば北条氏が源氏一族を利用して比企一族や三浦一族を滅ぼしたように。では書けなかった歴史はどうなったのか?それが神話と言う形で残されているのだと思う。分かりやすい例を付け加えるならば、稻羽之素菟もそうである。「因幡の白ウサギ」ではない。古事記には「因幡の白ウサギ」とは書いていない。「稻羽之素菟」である。因幡風土記は現存せず、出雲風土記には載っていない。日本書紀にも載っていない。それを後世の知恵の有る人が「因幡の白ウサギ」としただけである。理由は大人の事情?日本書紀に載っていないのは子供向けのおとぎ話だからと言う説も有るが、他の神話に比べて子供向きとは思えない。登場キャラクターが子供向けなだけで内容はむしろ難しい。例えば何故舟を使わずに鰐の頭を踏んで島まで渡るのか?何故兄者達はウサギをだましてしまうのか?単なる意地悪?大事なお姫様の所に行くのにそんな暇があるの?無視して行くのが普通では?ツッコミ所は多い。僕はこの話は4世紀頃に有った菟狭津彦命(うさつひこのみこと)と和邇氏の先祖の争いを大人の事情で神話にしたものだと思っている。風刺好きな人ならば菟狭津彦命から素菟を、和邇氏から鰐を連想するだろう。菟狭津彦命は初代宇佐国造である。宇佐神宮の傍には首塚が有り、都城付近の人々の首が埋められている。それは宇佐神宮の神官(実際は神宮の護衛官だと思う)が都城に攻め込んで、大勢の人を殺したらしい。(但しお断りしておきますが、この首塚の戦いは720年頃なので、 この戦いが「稻羽之素菟」の元になったのではありません。 そのずーっと前の景行天皇の時代にも、 宇佐付近の人は景行天皇に熊襲が悪いことをしていると密告して、 景行天皇は現在の西都市の高屋に都を築き日向(都城を含む)をせめています。 僕はさらに前にも両者は戦っていたのだと考えています。 大昔のその頃の戦いが「稻羽之素菟」の元になったのだと思います。)都城は鰐塚山の麓である。何で「鰐塚」山なのか?恐らくは古代にはここに和邇氏の祖先がいたのではないかと思っている。なので鰐の塚(墓)山?日本でワニ(サメのこと)料理を食べるのは岩見をはじめとした山陰地方と宮崎だけ。和邇氏の本拠地は大和国添上郡和邇(現・奈良県天理市和爾町)で、祖先は天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)とされているが、お父さんの孝昭天皇は欠史八代の一人で実在が不明な天皇。和邇氏は上記のように大和国が本拠地だが、山陰から大和まであちこちに「和邇」の地名が残る。例えば有名なのは摂津国和邇や山城国和邇で、琵琶湖湖畔には今でも和邇の地名が残る。つまり、元は都城辺りにいた一族が北上して奈良まで上って来たのではないか?その途中で菟狭津彦命と戦った。勝ったり負けたりして。その戦いは相当に後世まで続き、その言い伝えが「稻羽之素菟」ではないか?ただ、和邇氏は天皇を輩出した名家であり、古事記編纂時まで子孫が残っており、また宇佐八幡宮が弓削の道鏡事件の際に重要な役割を果たしたように宇佐も皇室と縁が深くそれ(両者の争い)をストレートには書けなかった。なので、神話にしてオブラードに包んで残したのでは?また、僕は卑弥呼は天照大御神で狗奴国王は弟の須佐之男命なんだと思っている。天岩戸は亡くなった卑弥呼の塚で行われた壱与への女王位の引継ぎで、岩戸の中が卑弥呼であり、岩戸から出て来たのが卑弥呼そっくりの壱与で、「鏡に映った卑弥呼様のようだ」と言うのが大人の事情で神話になり、邪馬台国の首長達に非難された須佐之男命は新羅に追放され、再度戻って来た際に出雲の国を切り開いたのだろうと思う。だっていやしくも天皇家が指示して書き始めた国の歴史が、単なる神話のはずが無いから。大人の事情を汲みながら、少しぼかして書いただけだと思う。それにより、魏志倭人伝の時代には中国の属国だったと言う事実は無くなり、しかも神話の時代から天皇家は続いていると言う権威の設定ができるのだと思う。だから古事記や日本書紀を書いた時代までは、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代の記憶は残っており、それを素直にかけなかったので神話にした。これが事実だと思う。それは日本書紀の崇神天皇65年秋7月の記載を見ても分かる。(原文) 六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。 任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南。(意訳) 65年秋7月に任那国(恐らくは金官加羅つまり魏志倭人伝に書かれた狗邪韓国)が 遣蘇那曷叱知を派遣して朝貢してきた。 任那は筑紫の国を去ること2000余里。 筑紫の国の北の海を隔てて鶏林(新羅)の西南に在る。魏志倭人伝に書かれた狗邪韓国から伊都国までの経路を意識した記載になっている。つまり日本書紀を書いた編者は魏志倭人伝を読んでおり、その内容を意識していると言う事である。そして常識的に考えれば、日本の歴史を書くに際して魏志倭人伝を参考にしているのであれば、そこに書かれた事と今(日本書紀を書いた時)の日本と魏史倭人伝の内容を結び付けて考えるのは当たり前で有り、現に何とか神功皇后と卑弥呼を関連付けようとして失敗している。何故失敗しているかと言えば、天皇家以外の豪族の中に真実の歴史が残されており、その存在を無視できなかったからだろうと思う。なので仕方なく神話の形で残したのだろうと思う。だから空白の4世紀は歴史が無かったのではなく、大人の事情で書けなかったのだと思う。
March 25, 2024
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2022年5月28日に、BIOSパスワードの解除の備忘録その3:EEPROMショート法について実験してブログに書いた。BIOSパスワードの解除の備忘録その3:EEPROMショート法について実験したEEPROMショート法はBIOSの設定やパスワードを保存しているEEPROMを、システムが読む邪魔をして誤動作を起こさせるのが目的なので、EEPROMの特定の端子をショートさせていたが、その性格上不安定で、うまく行く場合と行かない場合があり、満足のいくものではなかった。実はほぼ上手くいく方法も有るらしい。それはEEPROM内のデーターを読み出し、特定のソフトで改変して、改変後のデーターをEEPROMに書き戻す方法である。この方法ならば確かにうまく行くと思う。ただ、この方法でやったとか、どうやるかと言うのは人には話せないしブログに書けない。何故なら法令に反しているから。法令では知的財産であるプログラムを逆アッセンブルしたり改変することを禁じている。なので、まぁ見ている人は少ないのでお巡りさんに見つかることは無いと思うけれど、見つかったら罰せられる可能性が有るので、人には言えないし書けない。なので僕は書けないのである。じゃぁEEPROMショート法は大丈夫なのか?これは大丈夫である。何故なら法律で禁止されているのは「プログラム」であって「データー」ではないから。そもそも逆アセンブルも改変もしていないし。この理屈はプログラムを包丁、料理人をユーザー、データーを料理に例えれば分かりやすい。確かに料理(データー)は料理人(ユーザー)が包丁(プログラム)を使って作る。しかし、包丁を作るメーカーは料理を作っているわけではない。料理はあくまでも料理人が作り、その技能や料理は料理人の財産である。従ってプログラムの場合も、プログラムそのものはメーカーの物だが、それを使ってユーザーが入力したパスワードや設定値は、プログラムを作成したメーカーも知りえないユーザーの物つまり財産である。なので現にメーカーは「管理者パスワードを忘れた場合はメーカーでも対応できない」と言う。しかしBIOSのプログラムを逆アセンブルしたり改変すればいけない。(こっそりやる分には、赤信号を無視して渡るのと同じで見つからなければ良いのかもしれない)なので、今回法律には引っかからない方法(逆アセンブルも改変も自分ではやらない)で、BIOSをいじくる実験をしてみた。扱うのはあくまでもデーターだけでプログラムは一切触らない。(ただそのせいで管理者パスワードは解除できない。 でもWindows11はインストールできるので僕ら低レベルアマチュアには十分)今回実験に使ったのはこのパソコン。新品が買える裕福な人ならば買わないと思う、色々と問題が有るパソコン。でもCPUは古いとは言え、4コア8スレッドのCOREi5-8250Uでメモリーも8GB有る。なので僕のお小遣いの上限額である5000円は少し超えたが、頑張って買った。電源を入れるとパスワードの入力を求められる。えー!お先真っ暗だよと思ったが、僕は逆に勇気が出るタイプなのでOK。どうするか。まずはBIOSを開いて中を見るしかない。この手のパソコンは上手くいけばUBUNTSU(無料のLINUX)が使える場合が多い。なのでUSB起動のUBUNTSUを使ってみた。動いた。こんな感じ。ここまで来ると、写真に書いているように「systemctr reboot --firmware-setup」で、BIOSが開ける。但し見るだけで多くの設定は管理者パスワードのせいで変更はできない。まずはパスワードの状況を見てみる。おぉー!一番上を見ると管理者パスワードがEnabledになっており、グレーアウトつまりいじくれない。しかも一番下を見るとHDDパスワードがかかっており、何故かDisabledなのにHDDは使えない、何故だろう?(何故かNVMeは使える)ここでHDDパスワードの項で「User+Master]を選ぶとNVMeまで使えなくなった。と言うことは、このDisabledと言うのは「使えない」と言う意味なのだろうか?分からない。次にセキュアブートの項目を見てみた。えー?セキュアブートがDisabledになっている!じゃぁWindows11はインストールできない?実はなんと問題なくインストールできた。後から出てくるが、UBUNTSUの特殊な命令に「MOKUTIL]と言うのが有り、これでセキュアブート関係をいじくれるのだが、この命令で調べると公開鍵はちゃんと残っていた。Windows10やWindows11がセキュアブートを有効にしないとインストールできないのは、確かに悪い改造Windowsを排除すると言うのは有るんだけれども、それ以外にインストールに必要な鍵(昔のWindowsで言えばプロダクトキー的な物)がここに含まれているからなんだと思う。だからだと思うのだけれどもインストールできた。(違うかなぁ?僕レベルでは分からない)次にBOOT順位を見てみた。(最初に写真を撮るのを忘れていたので、申し訳ありませんが、 この写真はUBUNTSUやWindows11インストール後のものです。 UBUNTSU無視でお願いします。)うーんこれもいじくれない。ところが実はUBUNTSUには特殊な命令「efibootmgr」が使えるようにできる。この命令のHELPはこんな感じ。これらの命令を駆使すると、ブート順位や有効や無効を変えることができる。今はウインドウズブートマネージャーが一番上で有効になっているが、これを順位を下げて無効にして、USBHDD(Windows11インストール用)を一番にしてみる。写真に書いた通り、ウインドウズブートマネージャーを最初は無効にしようと思ったんだけれど、Windows11インストールに支障が出ては困るので、決意が揺らいで有効にしてしまった。この状態でHDDはダメだったけれどもNVMeは有効にできたので、SSDを取り付けて、USBHDD(Windows11インストール用)から立ち上げてWindows11をインストールした。するとこんな感じ。デバイスマネージャーにCPUが8個も並ぶと高性能なような錯覚がしてうれしい。8個でうれしいのだから、AMDやXeonのように32個も並ぶとうれしいだろうなぁ。まぁこんな感じでUBUNTSUでBIOSをいじくってみました。プログラムはいじくっていません。データーだけ。なので僕の所有権の有る範囲だけなので、また実験だからOKかなぁ。
March 22, 2024
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3月7日はわの会のイベントで大船の玉縄地区を歩きました。大船は鎌倉時代は関東の産物等を運び出す港が有った所で、鎌倉は砂浜で港が造れなかったので、海の波による洗掘の影響を受けない川岸が選ばれて、この辺が穀物等の主な出荷場所だったそうで、大船の地名は「粟船」から来ているのだそうです。大船駅に集合したら、大船観音がお迎えをしてくれました。今回のルートは下の地図の通りで玉泉寺・龍寶寺・久成寺等を廻ります。最初は玉縄首塚ですが、途中に大船軒の本社が有りました。この建物は1931年建立で、由緒ある建物です。大船軒って何で有名なんだろう?って思っていたら、国鉄の駅弁で有名な会社で、日本で最初に駅弁にサンドイッチを提供して、サンドイッチを日本に広めた会社だそうです。また僕的に「そうだったのか!」と思ったのは、この会社は「鎌倉ハム」の会社で、僕はお歳暮でよく長崎のおじさんやおばさんに鎌倉ハムを送っていたのを思い出しました。親不孝者の僕は長崎の実家に帰らずに横浜に居たので、両親の面倒を見てもらう親戚の叔父さん叔母さんに鎌倉ハムを送っていたんです。玉縄首塚は1526年に安房の里見実堯が攻め込んで来た時に、北条氏氏時が迎えうった際に亡くなった甘糟氏約30名の首を埋めた塚で、右手にはかっては榎が有り、甘糟榎と呼ばれていたらしいのですが、今では枯れて代わりにタブの木が植えられています。傍らには玉泉寺の影響なのか、お地蔵様が6体おられます。次は玉泉寺なのですが、途中の玉縄小学校に寄ります。この小学校の校章は由緒ある校章で、かってこの学校は龍寶寺境内に有ったらしいのですが、この地域(植木)は新井白石の領地で、校章は白石の位牌の「竹に雀」に基づく物だそうだ。中央の「玉縄」の字がうまく図案化されている。ここを過ぎて玉泉寺に着く。本堂左手に欲張り地蔵が有る。欲張り地蔵はどんな願いでもかなえてくれると言われる地蔵で、お願いをする時には泥団子を7つづつお供えして7日間お願いする。そして願いがかなったならば、米粉の団子を7つづつ7日間お供えするのらしい。その脇には天道から地獄道までの六道輪廻が書かれた地蔵が有る。インドの世界観で,すべての衆生が,死ねばその生(しよう)の業(ごう)に従って輪廻転生(りんねてんしよう)するという6種の世界。業によって趣き住む所なのでこれを六趣(ろくしゆ)ともいうが,六道は悪趣ともいって苦の世界である。すなわち天道,人(にん)(間)道,修羅道,畜生道,餓鬼道,地獄道をいい,このうちとくに畜生道,餓鬼道,地獄道を三悪趣(さんなくしゆ)(三悪道)という。六道の苦を脱するのが仏教の解脱(げだつ)である。ここに来る途中の玉縄首塚の脇に6体の地蔵様がおられたが、ここのと同じだろうと思う。玉泉寺には、ここを開いた小林若狭の父と一族の墓が有る。これを見て、横浜市の教育委員会ってウソばっかり書いているなと思った。横浜市教育委員会は、やぐらは鎌倉時代の物で室町時代には無いと言っているけれど、これってやぐらと同じじゃん。まぁ、色々と有るのだと思うけれど先生方って変だと思う。<後日追記>写真に書いた「室町時代までやぐらが有った」のが普通の解釈のようなので訂正します。どうも僕が話を聞いた方が誤って説明されたのか、僕が聞き間違えたのか、話は逆のようで、やぐらは鎌倉時代から室町時代までの鎌倉で、横穴墓内に五輪塔等を設けて法華堂形式に造られた横穴墓を言うのだそうです。なので上の写真は「やぐら」で合っています。なお、同様の物は吉見百穴のように鎌倉以外でも見られるのですが、鎌倉以外の地域の物はやぐらとは呼ばず、単に横穴墓と呼ぶのだそうで、つまり「やぐら」と言うのは鎌倉だけのローカルな「呼び名」であって学問的には横穴墓。何か結論がでたような気がする。今になって思い出したけれども、九州特に熊本の玉名には同様な仏様を祀った横穴墓が多く、あれはやぐらとは呼ばないもんな。つまり「呼び方」の違いだけなんだな。参考までに玉名の「玉名石貫ナギノ横穴古墳」の写真。入口はすごく立派。鎌倉のやぐらよりもずっと洗練されている。そして重要なのは入口は赤く塗られており、装飾古墳である。この古墳(横穴墓)は6~8世紀の横穴墓を室町時代に「改修」したものらしくて、中には千手観音まで祀られている。名前が違うだけでやぐらと同じ機能。と言うか鎌倉のやぐらはせいぜい法華堂なんだけど、ここのは本堂に近い。屋根まで有る。鎌倉のやぐらと大きく違うのは、どうも「火葬」ではなく「風葬」?だったらしいこと。手前の屍床は舟形である。ここに死者を寝かせたらしい。何故「舟形」なのか?ここは熊本=肥後なんだけれども、肥前=長崎には精霊舟が今でも残っている。さすがに海を汚染すると言うことで現代では車が付いた船を町中で引いているが、諫早付近ではちょっと前まで舟に供物(さすがに死者は無理)を乗せて実際に海に流していた。(僕のお婆ちゃんが無くなった時にはみんなで海まで船を担いで行き、 泳ぎの達者な従兄たちが沖まで船を曳いて行った。)日向=宮崎の西都原古墳では舟形埴輪が出土しているし。九州は海人族の国だったんだな。後日追記終わり。それはそれとして付近の家々を見ると桜が咲いている。この付近の桜は玉縄桜と呼ばれており、大船フラワーセンターでソメイヨシノとオオカンザクラの交配により生まれた桜で早咲きの桜。次は龍寶寺。龍寶寺は玉縄城主第三代城主北条綱成が山居と言う所に建てた瑞光院に始まる。秀吉の小田原攻めの際には、北条氏勝は玉縄城に籠城して死を決意していたが、家康の名を受けた時の龍寶寺住職良達などの説得により無血開城したそうである。そう言えばNHK大河でやっていたなぁ。ここには何故か源実朝の位牌が有る。鶴岡八幡宮で公暁により切られた実朝の首が七騎の侍たちの手によりここに運ばれ、追手より逃れたと言う伝説が有り、それにより寺に置かれた物らしい。そのせいで門前には実朝ゆかりの槐(えんじゅ)の木が約百本植えられているそうである。本堂は下の写真だが、中に入れず実朝の位牌は見えなかった。龍寶寺の境内には旧石井家住宅が保存されている。石井家は後北条時代の地侍で、近世は名主をしていたらしい。下の写真奥の車は何だろう?立派だ。よほどの家だったんだろう。龍寶寺の西側には玉縄城址が有る。この城址の貴重な資料と歴史的な品々(よろい等)が境内の玉縄歴史観に有る。中に入ると昔のお姉さん?が説明している。でも僕は急いでいたので自分で見て廻った。中央に玉縄城とその周囲の模型が有った。実はわの会のメンバーはここには入って来なかった。僕だけこっそりと入ったので急いで廻ったのである。壁には玉縄城の詳細が展示されていた。玉縄城は、江戸城、川越城と共に関東3名城と呼ばれていたらしい。写真を右クリックして出るメニューを使うと別タブで拡大できるので説明文が読める。龍寶寺内には北条三代の供養塔と新井白石碑が有る。時間の都合(歴史館を見るのに忙しかった)で白石碑の写真は撮影していないが、室鳩巣(むろきゅうそう)の撰文なのだそうである。龍寶寺を出てしばらく歩くと玉縄城址が見える。本当は本丸はもう少し右手かもしれない。龍寶寺入口には龍寶寺と玉縄城の説明文があったので、参考に載せる。一度玉縄城址を歩いてみたいと思うが、今日は時間が無いので後日一人で歩こうと思う。龍寶寺を後にして貞宗寺に行こうとしたら、ここでつまづいた。どうもお葬式をやっているみたいで入れないのである。ガイドさんも諦めて、仕方ないので次の久成寺に行く事になった。その道すがら、ガイドさんが関東武士団の略系図を見せてくれた。えぇー!NHK大河鎌倉殿の13人に出てくる人間はみんな遠い親戚じゃん!まぁこの時代は、5代遡ればみんな親戚と言うのが普通なのかもしれない。最後は久成寺。開基の梅田尾張の守秀長は元は小田原北条氏家臣なんだけれども、この寺は徳川と縁が深い。また、写真は撮るのを忘れたので写真はネットから借用するが、源実朝を暗殺した公暁を殺した長尾定景の墓と言われる石塔が有る。この碑に書かれているように、定景は上杉謙信の祖先なんだよね。定景は元は大庭の家臣だったらしく、一時は北条氏に殺されそうになったけれども、三浦に助けられて三浦の家臣になったらしい。それで三浦義村に言われて公暁を討ったのか。義村って色々と考える人だったんだな。これで玉縄の探検は終わったけれども、先に書いたようにいつか玉縄城址に行く事にしよう。
March 17, 2024
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去年の11月頃に長野県の篠ノ井塩崎と言う所で、アマチュアの林部直樹さんと言う方が、国土地理院の起伏図を眺めていて、川柳将軍塚古墳と言う、これまで「円墳」だと思われていた古墳が実は前方後円墳だと気づき、それが長野県の3番目に大きい古墳だと言うことになると言われてニュースになった。下にその時の長野朝日放送さんのニュースの映像をお借りして載せる。本当だ!確かにきれいな前方後円墳だ!今までどうして分からなかったのだろう?答えは簡単で、それを調べるツールが今まで無かったからである。それが今では世の中が進歩して、無料で使える便利なツールができたのである。これは使うしかないなと思った。さっそく使ってみた。国土地理院のホームページからその地図(起伏図)を開いてみた。最初は「富士山」が表示される。富士山って本当にきれいな山なんだなと思う。綺麗な円を描いて広がっている。ここからは通常のgoogleMapなどと同じ操作で日本各地を任意の拡大率で見られる。やっぱり僕は古墳が好きなので、最初は世界遺産の大仙古墳。おぉー!見事!左下の履中天皇陵は同形でちょっと小さいが、全く同じ向きである。右下の大きい方は御廟山古墳。宮内庁は応神天皇の陵墓としているが、自信が無くて参考陵。だって応神天皇陵は別に有名なのが有るもの。これです。真ん中の下向きの前方後円墳がそう。ちなみに左側の上向きの古墳は(お父さんだとされている?)仲哀天皇(岡ミサンザイ)陵。右斜め上の古墳は応神天皇の奥様の仲津姫命の前方後円墳。大仙古墳と応神天皇陵の周濠を見ると銅鐸そっくりなのが分かるが、実は僕がいつも主張している横浜市金沢区の富岡八幡宮も銅鐸の形をしている。山そのものは何回かの地震で壊れて、特に左下の円墳部は八幡宮部分が壊れているが、昔の海岸線だった右側の直線部を見ると分かるように、銅鐸が左側に倒れた形をしている。僕はこれは昔の武蔵国久良岐郡の領主の御先祖様のお墓(前方後円墳)であり、御諸別王(みもろわけのみこ)のお墓ではないかと思っている。何故なら「富岡」は「登美丘」に通じ、皇室に縁の深い地名だからである。「登美丘」は奈良の神武天皇が東征したおりに金色の鳶が弓の先にとまった地で、大嘗祭が最初に開かれた地であり、富岡八幡宮の神楽はここで祭祀が開かれていた名残?僕はそう思っているからである。付近には「鳥見塚」と言う地名が残り、かってここで捕らえられた白雉が皇室に献上され、それが古書に残っているらしい。<後日追記>奈良の富岡のWikiを見ると下のように書いている。 登美ヶ丘は、学研奈良登美ヶ丘駅南方一帯に広がる新興住宅地。 その名は古代・中世に見られた大和国添下郡北部の地名「鳥見」に由来し、 鳥見は「登美」や「迹見」、「登弥」などとも書かれた。 鳥見については、『和名抄』に添下郡四郷の一つとして記される「鳥貝郷」 (訓は「止利加比」〈トリカヒ〉)の誤写という説や、 鳥飼部を二字化した鳥部(とべ)からトビ、トミへと変化したとの説がある。 また日本書紀には、皇軍と戦った長髄彦が飛来した金色霊鵄の光により戦意を失って敗れ、 それ以来「長髄邑」が「鵄邑」と呼ばれ、それが訛って「鳥見」になったとあり、 添下郡の鳥見はその鵄邑伝承地の一つとなっている。なんか恐ろしいくらい関係が有りそうな気がする。なお、御諸別王は崇神天皇の子のうち、垂仁天皇に負けて東国に向かった豊城皇子の孫で、上毛野氏や下毛野氏(北関東の群馬県と栃木県南部を合わせた領域が領地)の祖先である。久良岐郡が成立した際(武蔵国造の乱)には他に3つの荘が有ったらしい。(次の3つ。 横渟屯倉(よこぬのみやけ) - 武蔵国横見郡、現在の埼玉県比企郡吉見町 橘花屯倉(たちばなのみやけ) - 武蔵国橘樹郡御宅郷、 現在の神奈川県川崎市幸区北加瀬から横浜市港北区日吉付近 多氷屯倉(おほひのみやけ) - 武蔵国多磨郡(たまぐん:のち多摩郡) 現在の東京都あきる野市)つまり武蔵国造の乱の結果4つの荘が朝廷に献上されたのならば乱は関東全域にわたっており、それならば何故久良岐(主に横浜東京湾沿い)が朝廷の領土になったのかと考えれば、久良岐は関東北部勢力が欲しがった港が有った為で、北部勢力が攻め込んで来て領地化し、港を入手したかったからだと考えている。現に鎌倉時代でも畠山重忠は、元は秩父付近の領主だったのに金沢区付近まで勢力を広げ、北条氏や三浦氏とぶつかって、それが元で北条氏に滅ぼされている。今の東京湾とは違い、当時は利根川もずっと西側に有り(徳川家康が今の位置にした)、東京湾沿岸は湿地帯で、港を造るのに適した地域ではなかったから。現在の春日部あたりに貝塚が有るのは、その辺まで海が迫っていたからである。また、北条氏も同様に鎌倉には港は造れなかったので、金沢に領土を広げて、金沢北条氏を置き、貿易につとめていた。なお、武蔵国造の乱とは『日本書紀』安閑天皇元年(534年?)条に記載されている。同条によると、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい)と同族の小杵(おき・おぎ)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したらしい。上毛野君小熊がからんでいることから、久良岐も元は上毛野君の祖先の御諸別王の領地の一つだったのではないかと思っている。でも何も証拠が残っていないので僕の想像でしかない。でもこの国土地理院の起伏図を見てみると、(地震で形が崩れているけれども)もしかしたらと思うのである。まぁそれはそれとして他の場所も見てみた。次は埼玉古墳群。国宝の金錯銘鉄剣が出土したのは上部円墳の右に有る前方後円墳(稲荷山古墳)である。ここの古墳は向きもそろっており、形状が綺麗。同じ関東の千葉の富津の古墳群。僕は約1日をかけてここの古墳をほぼ全て廻ったんだけど、京都や奈良も古墳がたくさん有るけれど、千葉の方が「数だけは」多いんだよなぁ。最後は有名な箸墓。左下の前方後円墳が箸墓である。中央上は崇神天皇陵。中央下は景行天皇陵である。右下の山は三輪山で出雲の事代主命の祀られている山である。そうなんですよ。箸墓は事代主命の奥様である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)のお墓。そして纏向遺跡は昭和の中頃まで「大田遺跡」と呼ばれていたんです。出雲の太田田根子がここに住んでいて、三輪山の出雲の事代主命を祀っていたから。これらの事実を考えれば、ここ(纏向)は出雲の都だと思うのだけれども、近畿の偉い人達の陰謀で、無理やりこじつけで名前を「纏向遺跡」に変えられたのである。その根拠になる垂仁天皇のお墓はここには無く、遠い北の方にあるのに。政治って恐ろしい。彼らは出雲は島根県に有るからと言うのだけれども、大国主命は島根県の出雲に居た時に2回もお兄さん達に殺され(そうになり)、お母さんに助けられて須佐之男命の元に逃げて、その娘のスセリヒメと結婚して、須佐之男命の元から逃げる際に「新しい国をつくれ」と言われて逃げたので、その新しい国がここなんだと思うのです。お兄さん達を攻め滅ぼしたのだから島根の出雲が大国主命の出雲だと主張する人もいるけれど、それでは「新しい」国ではなく、元の国なので島根の出雲は大国主命の国ではないと思う。まぁそんな空想が、この地図を眺めていると楽しくできるので、この地図はおすすめです。試してみると良いと思います。
March 12, 2024
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邪馬台国の所在地が全国あちこちに比定され、現在に至るまで定まらないのは、学者先生が魏志倭人伝をちゃんと読まないせいだと言うのが僕の持論である。例えば国の規模を示す場合に、戸数を「戸」と書いたり「家」と書いたりしているし、文法的にも、不彌國までは、「東南陸行 五百里 到伊都國」のように、「方角」+「動詞」+「距離」+「到達地」と言う書式で書いているのに、投馬國と邪馬台国は「南至投馬國 水行二十日」のように、「方角」+「目的地」+「動詞」+「距離」と言う書式で書くなど明らかに使い分けているのに、そう言う陳寿のこだわりと言うか、几帳面さを正確に論じている学者はいない。同様に古事記や日本書紀でも同じように言葉を使い分けているのを論じている学者は少ない。それどころか自分が理解できないのを、古代の人達が未熟なのだと馬鹿にする始末である。例えば古事記では「天(アメ)」と「空(ソラ)」を使い分けているが、その違いを論じている学者は少ない。でも今日岩波新書の「古事記の読み方(坂本勝著)」を読んで、やっぱりちゃんと研究している優秀な先生もいるんだなと思った。先生は、現代人は頭上に広がる空間を「空(ソラ}」と呼んでいるが、古代ではソラとは別に「アメ」と言う言い方が有ったと説いている。本居宣長は古事記伝で「天は虚空の上に在って、天神たちの坐します御国なり」と説明し、古代では「天翔ける」と言うことはあっても「空翔ける」と言う例はないと言っていると、坂本先生は書いている。うーん正しいと思った。例えば現代人にとっては「風雨」と言うのは単なる自然現象だが、古代人にとっては神威の現れで、その根源は「空」ではなく「天」だったのである。何故なら雨が水であるならば、雨が降る水源が空に有るのならば空に川や湖があるのか?いやどう見ても頭の上には川も湖も無い。ならば雨はどこからくるのか?それは神々が降らすので天から来るのだと古代人は理解していたのだろうと思う。まぁ現代人は自然現象を科学的に理解しているので、その気持ちは理解できないかも?そう言う事を理解しないと魏志倭人伝は理解できず、いつまでたっても邪馬台国は分からない。学者先生にはそう言う研究をして僕ら庶民に分からせるような発表をして欲しいと思う。もう一つ例を挙げるならば、古事記や日本書紀には「根の国」と「黄泉の国」と「常世の国」と言う死者が関わる国が有る。Wikiの「根の国」を見ると以下のように書かれている。 根の国(ねのくに)は、日本神話に登場する異界である。 『古事記』では「根之堅洲國」(ねのかたすくに)・「妣國」(ははのくに)、 『日本書紀』では根国(ねのくに)・「底根國」(そこつねのくに)、 祝詞では根の国底の国・根國底國(ねのくにそこのくに)・底根の国(そこねのくに)と書かれる。 根の国は、その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂(よもつひらさか)としている記述が 『古事記』にある(大国主の神話)。 しかし六月晦の大祓の祝詞では根の国は地下ではなく海の彼方または海の底にある国としていると書かれている。間違っている。と言うか、もしかしたらちゃんと分かっているのに誤解を与える書き方である。大国主の神話では(何となく地下のような気はするが)地下とはどこにも書いていない。ちゃんと古事記原本を見てみよう。(原文) 爾八十神覓追臻而矢刺之時自木侯漏逃而云可參向須佐能男命所坐之根堅州國必其大神議也(意訳) (2回も殺された大国主命は母に助けられて生き返ったが) それでも八十神(大国主命の兄達)は行方を探し求め追って行き、 八十神が矢を向けた時木の股を潜り抜けて逃げました。 そこで、御母の命は言いました。 「須佐能男命が行かれた根堅州国に向かい参り、必ず大神に相談しなさい。」この後に大国主命は須佐能男命から試練を与えられて、スセリヒメに助けられて、「蛇の部屋」や「ムカデとハチの部屋」及び「火がつけられた野原」の試練をクリアーするが、須佐能男命が眠っている所をスセリヒメと共に逃げ出す。ここにWikiで書かれたように「黄泉平坂」が出てくる。(原文) 寢大神聞驚而引仆其室然解結椽髮之間遠逃故爾追至黃泉比良坂遙望呼謂大穴牟遲神曰 其汝所持之生大刀生弓矢以而汝庶兄弟者追伏坂之御尾亦追撥河之瀬 而意禮為大國主神亦為宇都志國玉神而其我之女須世理毘賣為嫡妻 而於字迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理於高天原氷椽多迦斯理 而居是奴也故持其大刀弓追避其八十神之時每坂御尾追伏每河瀬追撥始作國也(意訳) 寝ていた大神(須佐能男命)はそれ(2人が逃げる時に持っていた天詔琴が大音響で鳴った音) を聞いて驚き、(2人が垂木に結んだ須佐能男命の髪が引っかかって)部屋を引き倒しました。 2人は須佐能男命が垂木に結はれた髪を解いている間に、遠くまで逃げてしまいました。 2人を追いかけ、黄泉比良坂まで来たところで遥かに望み、大穴牟遅神に叫びこう告げました。 お前は持ち出した大刀と弓矢でお前の庶兄弟を坂の峰に追い詰めて倒しまた川の瀬に追い詰め 屈しさせ、大国主の神となり宇都志国玉の神となり私の娘須世理毘売を正妻とし、 宇迎能山の山本(現在の鳥取県西伯郡南部町倭らしい)の地の底の岩に巨大な宮柱を立て、 高天原に届く千木が立つ宮に居れ。それが奴の国だ」 このようにして、大刀と弓を持って八十神を追い立て坂の峰ごとに追い詰めて倒し 河の瀬ごとに追い詰めて屈しさせ、ようやく国を作ったのでした。つまり、Wikiは「根の堅洲国」が地下に有り、そこは「黄泉平坂」の上方にあると解釈し、書いているのである。しかし根の堅洲国が地下の国とは限らない。ただ「根の」なので地下の可能性は有る。でも地下ならば何故黄泉平坂の上?でも「天」と「空」の違いと同様に、「空」のように現実的に死者を埋める「根の国(つまり地下)」又は「根の堅洲国」と、現実ではなく想像の世界の「天」と同様に「死んだ人の行く死後の世界」である「黄泉の国」を書きわけているような気がする。もしそうならば根の国は地下で黄泉の国は(物理的な位置ではないので)黄泉平坂の上で良い。どう言うことかと言うと、須佐之男命の根の堅洲国がイザナミが死んだ時にイザナギが行った黄泉の国と似ているのである。イザナギはイザナミを求めて、髪(みづら)に刺していたクシに火をつけて中に入る。つまりイザナミの居る所は暗いのである。またそこのイザナミには「ウジ」がたかり、頭や腹や胸には雷神(鬼)が乗っかっている。それに驚いたイザナギが逃げる際に追ってくるのはヨモツシコメであり、イザナギが黄泉平坂のふもとまで逃げて来た時に、そこに千引の岩を置いて塞ぐ。イザナギがイザナミを探していく所は地下の「根の国」なんだけれども、黄泉の国の食べ物を食べて、鬼達がいるのは「黄泉の国」である。そして黄泉平坂は現実世界と死者の国の境にあり、イザナギにより千引の岩で塞がれたのである。須佐之男命の根の堅洲国も同様である。須佐之男命の試練に出てくる「蛇の部屋」や「ムカデとハチの部屋」は地下のイメージだし、(ハチはミツバチではなく似我蜂(じがばち)で地中に巣をつくるハチだと思う。 ムカデとハチが同時に居るパターンは地下しかないから)「火がつけられた野原」で助けてくれるのはネズミで地下に居る生き物だから、イザナミが居た黄泉の国と同様に、スサノオが居たのは地下で、大国主の試練は現実のものではなく、スサノオの墓の中の想像上の出来事だと思うから。そこでふと思ったのだが、イザナミ・イザナギの例と、大国主命と須佐之男命の例を現実的に考えると、この2つは古墳のことなのではないだろうか?何故そう思うかと言うと、イザナギは黄泉平坂を「下る」からである。(イザナギがヨモツシコメや8種の雷神達から逃げた先は黄泉平坂のふもとだと書いている。)この事に学者先生はずーっと困っていたらしい。地下に有るはずの「根の国」が「黄泉の国」と同じならば、「黄泉の国」が上に在るはずは無い。どう考えればこの問題は解決するのか?でもこの話が死んだイザナミを忘れられずに古墳の頂上付近の石室に葬られたイザナミを、石室のフタつまり千引の岩を開けて見たイザナギが、腐敗して変わり果てたイザナミを見てショックを受けて、幻を見たのならば、その幻から逃げて、再度千引の岩を閉じて難を逃れて黄泉平坂を下ったのならば、そこには死者を祀る際に置かれた桃の実も有るだろうし、現実的に考えられるのかなと思う。下にイメージ図を作ってみた。大国主命に須佐之男命が国をつくれと言ったのは、スセリヒメと結婚する際に、今は亡き須佐之男命の墓前に祈った大国主命の脳裏に響いた過去の須佐之男命(既に黄泉の国に居る?)に言われた過去の言葉なのではないだろうか?<1日だけど後日追記>簡単に2行でまとめると、死んだ人を埋葬するのが「根の国」(地下)で、死んだ人が行くのが「黄泉の国」なんだと思う。なお、ここでは「常世の国」には触れられていないが、天岩戸で天照大御神が隠れられた際に鳴いたのは常世長鳴鳥であり、死者とは関係ない。「古事記」上巻の記述では、この国を作り固めた後、少彦名神は常世の国に渡ったとあり、別に死んだわけではない。常世の国に渡っただけである。神武天皇の兄である御毛沼命は波の穂を跳みて常世の国に渡ったとのみあるが死んだ訳ではない。「古事記」では垂仁天皇が多遅摩毛理に時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)を、「日本書紀」の垂仁紀では垂仁天皇が田道間守を常世国に遣わして「非時香菓」を求めさせたが、その間に天皇は崩御したという記述があるが田道間守は別に死んで常世の国には行っていない。むしろ垂仁天皇の崩御に間に合わなかっただけである。これらの記述を読むと、常世の国は死者の国ではなく「海の向こうの国」の可能性の方が高い。少彦名神(いわゆるスクナヒコ)は大陸から渡って来た渡来人で大国主命を助け、役目を終えて自国に帰って行ったのではないだろうか?なので「常世の国」を「根の国」や「黄泉の国」と結びつけるのは誤りだと思う。このように従来同じこと、あるいは同じものとして簡単に片づけられていた言葉を、ちゃんと解釈すれば魏志倭人伝も違った読み方になる。例えば冒頭で書いたように、国の規模を示す場合に、戸数を「戸」と書いたり「家」と書いて有ることに意味が有るならば、次のように考えられる。中国の使者は何故わざわざ倭国に来ていたのであろうか?貿易の為?いやそれは使者の仕事ではなく、商人の仕事である。まさか倭国に何かしてあげることが有った?倭国を見下していた中国の偉い人にそれはない。恐らくは中央政府から「倭国に来ている中国の僧や技術者の管理を命ぜられたから」だと思う。後世にフランシスコザビエルが日本に来てキリスト教を広めようとしたように、僧侶や技術者は独自の倫理と決意を持って未開の地に行く。本当は色々な理由は有るのであろうけれど、だからと言って放ってはおけない。だいたいそう言う人達は良家の出身で、偉い人達も放っておけないからである。なので使者は彼らに会って、中国の家族・親戚に報告していたのだろうと思う。なので魏志倭人伝を書いた陳寿は不彌國までは使者に実際の所が聞けたのである。しかるに投馬國や邪馬台国は使者は行っていないので聞けず、手元に有る古い資料に頼った。なので不彌國までは実際に行った行動形式で書かれており、投馬國と邪馬台国は伝聞形式なのである。また不彌國には中国から来た僧侶や技術者がおり、彼らの家は高床式の立派な家であった。なので不彌國の規模を示す戸数は「家」で書かれており、奴国や伊都国のように倭人の家は竪穴式住居だったので「戸」で書かれているのである。「戸」と「家」の使い分けをちゃんと考えていれば、この程度の事は簡単に分かるし、これが分かれば邪馬台国までの経路は分かるのになぁと思う。だから学者先生は魏志倭人伝をちゃんと読むべきだと思う。
March 10, 2024
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愛天堂の液晶表示器付DSPラジオモジュール [M5807LA]は性能が良い。なおかつ表面実装部品は既に実装されているので、半田付けが難しくない。唯一、液晶が半田付けされていないので、これを半田付けする必要があるが、30~40Wの先が細い半田ごてが有れば大丈夫。追加する必要があるのは、タクトスイッチ5個、100µFのコンデンサー2個及びイヤホンだけ。なお、イヤホンはさすがに直付けするのが難しければイヤホンジャックが必要。必要な部品を下に示す。値段的にもお手ごろだと思う。タバコ1~2箱分のお金で液晶付きDSPラジオが作れる。なお、液晶表示器付DSPラジオモジュール[M5807LA]には写真のピンヘッダーは付いていない。けれども通常は配線を半田付けするのでピンヘッダーは無くても大丈夫。ただ、ピンヘッダーは実験する場合は必要。僕は愛天堂のラジオは時々「ちょっと違うなぁ」と言うのが有るので、事前に実験する。今回も事前に実験してから組み立てた。その時の様子。写真だとニッポン放送(ワイドFMで93.0MHz)受信中なんだけれどもちゃんと聞こえている。でも、実は失敗している。何が失敗なのか?僕が天邪鬼だったのが悪くて愛天堂が悪いわけではない。写真を見ると分かるが、イヤホンをDSPラジオモジュールに直付けしているが、これが間違い。僕はイヤホンアンテナが嫌いなので、外付けアンテナを付けるので回路を少し改造する。愛天堂の回路はイヤホンのアース部分をアースから浮かしてANTにつないでいる。その場合、高周波的にはアースから浮かす為にイヤホンのライン側に1µHのインダクターが必要。しかもイヤホンのアース側はアース(GND)にはつながっていない。でも僕は外部アンテナをつなぐので、1µHのインダクターは使わずイヤホンのアースはANTから外してGNDにつないでいる。そしてイヤホンのアース側を外したANT部に外部アンテナをつないでいる。外部アンテナは50㎝くらいのリード線。この時に、ちょっとお茶目をして100µFのコンデンサーまで省略してしまったのである。これが僕のバカな所でROUTとLOUT経由でマイコンのスイッチ回路が不安定になった。ラジオの音は聞こえているのに液晶が表示されず、スイッチがON/OFFできない。また「不安定」なので、写真のようにうまく行く場合もある。なまじ上手くいく場合も有るのが致命的。原因を探っていたら、この100µFのコンデンサーを省略したのが原因だった。僕は耳が悪いので、たとえ100µFでも負荷を減らして大きな音で聞きたかったのが悪かった。ちなみにこの100µFを22µFにすると、かなり音は小さくなり僕にはギリギリ聞こえる位。まぁそれでも原因が分かったのでOK。100均で適当なケースを見つけて組み込んだ。上の写真でイヤホンジャックを基板付きの物にしているが、基板は無くても良いんだけれども、ケースに入れる場合は有ると便利。ケースにイヤホンジャックを付けるのは予想以上に器用さが必要で面倒。基板の穴を使ってネジ止めする方が簡単。配線が無ければ簡単なんだけれども、ケースに取り付けてからの半田付けは難しく、配線を付けてからケースに取り付けるのは配線が邪魔で難しいから。ケースに入れた完成品はこんな感じ。ケースには環奈ちゃんの写真を貼った!可愛い!液晶部分は上手く切り取らないといけないのが大変。小さなスピーカーを付けてみたけれども、音が蚊が鳴くくらいの小さな音なので使えなくて、百均の300円のスピーカーを買ってつけた。これがイヤホンと同じ3.5mmのプラグで接続するので便利。ただ、電源がUSBなので、手元に有った百均のUSB充電用アダプターで5Vを供給している。このスピーカーはアンプ内蔵でボリュームも付いているので便利。僕のマンションみたいにスピーカー使用禁止の建物で、大きい音で聞きたいならばヘッドホンで聞くと良いと思う。良いヘッドホンを付ければ結構良い音で聞こえる。電波があまり入らない僕の部屋でも関東のFMはみんな入るので相当に高性能だと思う。近所の地域の小規模(コミュニティ)FMも入る。(地域のFMは地元のお姉さんがアナウンサーで時間限定で放送中)ベランダで聞くと中華のFMを除き20局以上入る。このDSPラジオユニットはハイレベルアマチュアには物足りないかもしれないけれど、低レベルアマチュアの僕等にはとても良い(安い)おもちゃだと思う。ラジオ製作は初めてだけど自分のオリジナルFMラジオを作りたい人向きです。電源スイッチ付き電池ボックス [BATBOX-T3]は単三2個用は80円ですが、今は品切れ中。
March 2, 2024
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2023年12月6日のブログで「邪馬台国宮崎説の疑問に対する検討」を書いたが、邪馬台国はどこにあったか(その40)邪馬台国宮崎説の疑問に対する検討その際に、魏志倭人伝の行程は帯方郡から不彌國までは、現に中国の使者が行った際の「復命書」を元にしており、実際の行動の記録を元にしており、投馬國と邪馬台国については、後漢書に書かれた「漢委奴国王」の金印を授けられた際の、倭の奴国の使者の説明を中国の人間が記録した物を元にしているので伝聞形式になっており、異なる資料を基に書かれているので両者は連続していないと書いた。その際に通説では「狗奴国は女王国の南側」とされているが、それは狗奴国について「其の南」と書かれた部分の「其の」を誤って女王国と考えたせいで、もし元にした資料が後漢書時代の物又はそれを元にして書かれた後世の魏略等の資料であれば、後漢書の時代には狗奴国は「倭国大乱」以前は邪馬台国の構成国だった可能性が有り、その場合は「其の」はそれまで説明されてきている奴国を指すと考えられると書いた。またそれは、狗奴国の説明の後に「郡より1万2千里」と書かれていることから明らかだと、2024年1月9日のブログで書いた。邪馬台国はどこにあったか(その42)女王国の北側の国とは?奴国までで「女王国の北側の国々」の説明が終わっているならば、ここ(奴国の説明の後)に「郡より1万2千里」と書かれるはずで、狗奴国の後に突然「郡より1万2千里」と書かれているのは、狗奴国も女王国の北側の国だからである。であれば、狗奴国の存在は「倭国大乱」の説明の中では重要な位置を占めるはずだと思う。現に卑弥呼の死の説明の際に、邪馬台国は狗奴国と戦い、魏に助けを求めて来て、張政が派遣され、卑弥呼の死後に宗女の壱与(多分本当は臺与なんだと思う)が新しい女王となり、19年間倭にいた張政は壱与からお供の者たちを大勢付けられて帯方郡に帰る。その際に女王卑弥呼は「以て死す。おおいに塚を造る」のだが、今までの偉い先生方はこの「以て死す」を軽視しているのだと思う。あるいは理解できていないのだと思う。だって、他のことは詳しく書いているのに卑弥呼の死は「以て死す」だけなんだもの。今までの学者先生達の唱えた説は概ね以下の通り。1.張明澄さんは、「以て」は助詞で意味は無く、卑弥呼は単に殺されたと考えている。 でも、それだと何で殺されたか、誰に殺されたかが分からないし、 そもそも単に「殺された」のならば、どうして大きな塚が造られたのかが分からない。 単に殺されたのならば塚は作らない。 塚を造るのは大事な人や偉い人の場合であり、そう言う人は「単に殺されたりしない」。2.狗奴国との戦いの中で死んだ。 これは良くある説で、狗奴国のことを詳しく書いていることから、 戦争の経緯の記録が中国側にも残っていたからだと考えれば可能性は高いと思う。 また女王が戦争の犠牲になったのならば、それは塚を造ると思う。 また僕が過去のブログで書いたように、 狗奴国の王の名前は「狗奴國男王卑弥弓呼素不和」から「卑弥弓呼」と考えられ、 (名前を卑弥弓呼素と言う説もあるが、「素」は元々の意味で、昔から不和つまり 仲が悪かったと考える方が自然だと思う。) 「卑弥呼」と「卑弥弓呼」は「弓」以外は同じで、 女の卑弥呼に対して弓が得意な弟だったと考えれば、 倭国大乱は2人の王位継承戦争だったと想像できるので、この説は有力だと思う。 (例えば大国主命だって八千矛神(やちほこのかみ)と言う別名が有る。 名前の中に得意だった弓の字を入れてもおかしくは無いと思う。)3.卑弥呼は長寿で、もう寿命がきてしまい「以て」死んだと言う説。 これも有力だと思う。何故なら魏志倭人伝には戦争の結末が書かれていないから。 (魏志倭人伝の中には卑弥呼は「年已長大(高齢)」だと書かれている。) もし邪馬台国と狗奴国のどちらかが勝ったのならば、張政はその後19年も居たので、 何らかの関与をしていたはずであり、 何か関連することが書かれていたはずだから、 何も書いていないのは、書けない事情が有ったのか、書く必要が無かったからだと思う。でも、どの説もしっくりこない。何故かと言うと「何故邪馬台国と狗奴国の戦争の結末を書いてないのか」が解決しないから。「更に男王が立つ」と書かれている。この男王は狗奴国の「男王」なのか?だから狗奴国が勝って卑弥呼のあとを継いだのだけれども、国中が納得しなかったので、千人も殺すような戦いが続いている。その結果、13歳の壱与が卑弥呼の後を継いだのか?ただ、卑弥呼は独身だった(「無夫婿」)と書かれているので、宗女の意味が分からない。通説ではなんか親戚の女の子みたいな感じで書かれているが、明確な関係は不明。うーん。そこで僕は大胆な仮説を思いついた。従来の邪馬台国と狗奴国の関係では思いつかない仮説である。でも、魏志倭人伝に書かれた通りの流れと結論になる。該当部分の原文と和訳(意訳)を書いてみる。(原文) 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與(意訳) 卑弥呼は(戦いの最中に寿命が来て)死んだ。大きな塚(墓)を造った。直径百余歩。 殉葬者は奴婢百人余り。 (王位継承権を争う卑弥呼が死んだので弟の)男王が王になった。 でも国中の誰も納得しなかったので更に戦いは続き互いに殺し合い当時千人余りが死んだ。 それで(卑弥呼が女王になった時のように)みんなが宗女である13歳の壱与を王にした。 国中はついに安定し、張政は檄をもって壱与に告喩した(諭した)。最後に壱与に檄を「以て」と書いてあり、これが卑弥呼以死の「以」と同じなので、みんなこれを、「戦争により」とか「寿命により」とか「張政により」と読むのである。また男王が弟だと考える人は今までいなかったので、この男王が誰かが意味不明になり、流れが分からなかったのだが、狗奴国の男王が卑弥呼の弟ならばすっきりとすると思う。つまり卑弥呼は寿命によって死んだのだと思う。そのせいで女王国と狗奴国の戦いは(相続争いだったとすれば)戦う必要が無くなり、戦争は解消し狗奴国王が邪馬台国の王となった。戦いは自然消滅したので、だから魏志倭人伝には戦いの結果は書かれていないのである。ところが男王は人徳が無かったので邪馬台国を構成する各国の王は男王の王位継承に納得せず、王位を目指して互いに戦った。張政はそれを見かねて、狗奴国王を王位から引きずり降ろして、各国の王達と調整を図り、みんなの利害関係に縁が無い若い壱与を祭り上げて女王とした。そのせいで国内は安定したが、13歳の壱与では心もとなく、張政は何回もそれじゃだめだと壱与を教育し(檄を以て告喩し)、その後19年も壱与が権力を掌握できるまで張政は邪馬台国にとどまった。なので、その事に感謝した壱与は張政が帰国する際に贈り物を献上して随行を付けている。その部分を原文と意訳を載せる。(原文) 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹(意訳) 壱与は倭の大夫率(たぶん一大率と同じ)の善中郎將(多分役職)である掖邪拘など20人を 付けて張政たちが帰るのを送った。 薹に詣って男女の生口30人と白珠五千個と青大句珠2枚及び異文雑錦二十匹を献上した。相当に頑張っているのは、壱与が張政によって女王となった感謝のしるしだと思う。これが僕の仮説なんだけれども、今までの学者先生達の1.から3.の通説が、論理的でなく尻切れトンボなのに対して、狗奴国王が卑弥呼の弟だと仮定することにより、かなり筋が通ったと思う。そしてこれって古事記の記載にぴったりと合うんだよなぁ。卑弥呼を天照大御神、狗奴国の王卑弥弓呼を素戔嗚命と考えると、両者が戦って、素戔嗚命が暴れて追放されて、天照大御神が死んで天岩戸(多分古墳の石棺)に埋められて、そこから天照大御神そっくりの(八咫鏡に写った)壱与が出てくると、(卑弥呼は年を取ってからは宮殿にこもって姿を見せなかったので、 壱与は人々の記憶の中に有る卑弥呼とそっくりに見えたのだろう。)天の安原に集まって踊っていた神々に歓迎されると言うストーリーにぴったりと合う。また昔から学者先生方が疑問を感じながら解決できず、色々な説を唱えていた、天岩戸の前は神々をリードしていたのは天照大御神なのに、天岩戸以降は天照大御神は一歩引いて、思兼神がみんなをリードしており、例えば天岩戸の段取りや作戦は全て思兼神が仕切るし、国譲りではほぼ全て思兼神が指示しているのは何故か?何故天岩戸の前後でリーダーが変わるのか?と言う疑問が解決する。天岩戸に隠れた天照大御神は卑弥呼であり、天岩戸から出て来た天照大御神は壱与なんである。そして思兼神が張政であり、壱与である天照大御神は彼の指示に従って動いたのだ。また乱暴者の素戔嗚命を神々が追い払ったのは張政の指示だったからなのだ。思兼神は思金神とも書き、また常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)とも言う。この「常世」とは天界のことを指すとも言うが、遠い世界のことを指すこともある。もしかすると中国から来たのを、倭國の人達は天界から来たと解釈したのかもしれない。邪馬台国宮崎説はちゃんと古事記につながるなぁ。
February 23, 2024
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愛天堂の格安のarduino「びんぼうでぃーの」を作り、ケースをはめてみました。結構きれいにできたので、満足!電源端子部やUSB端子部やリセットスイッチ部及び入出力端子部は穴が開いている。でも、2個の実験用スイッチとISP端子部は穴が開いていない。まぁ実験用スイッチはどのみちシールドに新たにスイッチを設けるし、ISP端子はまず使わないのでいらないと思うので問題は無い。ただ困るのは入出力端子部分がケースの厚み分低いので、シールドを作成する際には接続用のピンヘッダーを長い物にしないと届かないかもしれない。通常のピンヘッダーは全長が11mm強なんだけど、多分差込が浅くなり、接触不良になる恐れが有るので17mmタイプがちょうど良いかも?で、実はバカな話なんだけれども、本当に久しぶりに作ったので最初は動かなかった。何故か?実は写真を見ると分かるように古いタイプ。つまり2年以上前に買った物なので、AVR(写真の長いIC)が他に使われて無くなっており、別に買ったAVRを使ったせい。そう、安く買ったのでブートローダーが書き込まれていない物を買っていたのである。たいした値段の違い(確か40円くらい)は無いのだけれども、貧乏なので。それに気づいたので、久しぶりにブートローダーの書き込みをやった。書き込みは手持ちの別のarduinoにarduinoISP(書き込みプログラム)をインストールして、それに新しいarduinoを接続して書き込む。まずは、手持ちの古いarduinoへarduinoISPをインストールする。手持ちの古いarduinoをパソコンにつなぎ、arduinoIDEを立ち上げると、「ファイル」の中の「スケッチ例」の中にarduinoISPが有るので開く。次に「スケッチ」タブの中の「マイコンボードに書き込む」を選んで実行すると、手持ちの古いarduinoにArduinoISP(書き込みプログラム)がインストールされる。秦さん、お嫁に行ったんだよね。おめでとうございます!ArduinoISP(書き込みプログラム)がインストールされたら、次に書き込む為の設定をする。「ツール」タブの中で、ボードはarduinoUNOを選び、シリアルポートは古いarduinoのインターフェースに合った物を選ぶ。僕の場合はCOM3だったけれども人によって違うので、スタートボタンを右クリックして出てくるメニューからデバイスマネージャーを開いて、ポート(COMとLPT)の中の通信ポートの中から選ぶ。僕の場合は色々とつながっているので、COM1は既に使用済みで、手持ちの古いarduinoはCOM3になっている。設定書き込み装置の設定は「arduino as ISP(arduinoをISPとして使う)」にする。設定が終わったら、「ブートローダーを書き込む」を選択すると書き込みが始まる。するとあっけなくブートローダーが書き込まれる。ブートローダーが書き込まれたら、Lチカ等をプログラムして書き込みテスト確認する。これで新しく作ったarduinoが動き出す。なお、書き込む際の手持ちの古いarduinoと新しく作ったブートローダー無しのarduinoは、下のように接続してブートローダーの書き込みを行う。接続を間違えると大変なので一応確認する。さて新しいarduino(ケース付き)ができたので1602タイプの液晶でも使って、プログラムをいくつか書いてみるかな?
February 21, 2024
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富士通のジャンクノートパソコンを買った。FMVA8404TPと書いてあるので、ネットで調べると「LIFEBOOK A5510/EX」だった。型名から分かるように、Aタイプ15インチでCPUは第10世代COREiである。これは安い!即決でも2800円だ。でも大丈夫かな?お店を見ると怪しいお店ではなさそう。なので買った。すると安い理由が分かった。多分想像だけれども、お店の人がSSDを(個人情報保護の観点から)外そうとして、分解の仕方が分からずに壊してしまったのである。この機種はキーボードやタッチパッドが乗っかる中板が底板と液晶パネルに挟まれていて、液晶パネルを外さないと中板が外れず、マザーボードにアクセスできない。それを知ってか知らずにかは分からないけれども無茶をして、液晶のヒンジ(ちょうつがい)部分をこねてしまい、そこを通っている色々なコードを切ってしまったのだ。液晶そのものは大丈夫なんだけれども、他は部品を調達しなければならない。なのであきらめたのだろう。こんな感じ。上の写真には書いていないがタッチパネルも接続端子が壊れていた。よほどあせっていたのかなぁ?これは他の機種の物を移植しようと頑張ったが、既に基板の方も痛んでおり諦めた。なので当初は有線マウスを使っていたが、今日ダイソーで300円の無線マウスを買った。この手の物は難しく頑張るよりもダイソーのお世話になった方が賢いと思う。無線LANのコードは仕方ないので、マザーボードのICが燃えて使えない他の機種から移植。無線LANとしてはちゃんと使えているが、bluetoothがアンテナのせいか感度が低く、bluetoothイヤホンで試してみると、時々ペアリングが切れてしまう。なのでbluetoothは(他にも使わないので)OFFにした。カメラはいずれは(お小遣いが余ったら)USBカメラを買ってつけることにした。で、さっそくWindows11をインストールした。さすがに第10世代COREi、COREi3とは言ってもそこそこ速い。一応満足。USBカメラを買うことにしたんだけれども、もしかしたらケーブルだけでもヤフオクで見つかるかもしれないと思い探してみた。すると千円以下(つまり僕のおこづかいの範囲内)で良さそうなジャンクが見つかった。つまり、たかがケーブルを手に入れる為に本体を買ったのである。でも、これは失敗だった。カメラそのものは正常品だったんだけれども、機種が古すぎてケーブルが使えないタイプだったのである。失敗したなぁと思ったけれども、まぁ第4世代なのでCPUはCeleron2950Mと古いけれども、せっかくだから修理して遊ぶことにした。カメラのケーブルを手に入れるのには失敗したけれども、遊べるのでOK!こんなパソコン。多分機種が古くて、Celeronなので誰も入札しないのだろうと思う。入札者は僕1人だった。でも第4世代だからWindows7マシンとしては結構優秀なんだけど。液晶の左上部分が割れていて使いにくいので、上記のFMVA8404TPで無線LANケーブルを取ったジャンクパソコンの液晶を使う事にした。また、手持ちにCOREi3-4100Mと言うCPUが有ったのでCeleronを外して換装した。機種名の末尾がMのCPUは例外も有るがたいていはソケットタイプで上位のCPUに換装可能。また、末尾がUの物はマザーボード直付けなので換装できない。かってはCPUが高く基板実装技術が未熟だったので、半田ディップに失敗してもCPUを使えなくならないようにソケット付が多かった。でもCPUの値段が下がり、半田技術が上がった概ね第6世代以降のCPUは直付けになった。と言うか、実はデザイン的な要素も大きく、ソケットが無ければその分薄くできるので、最近のノートは軽くて薄いのが主流なので直付けの方が有利なのだ。この世代のCeleronは2コア2スレッド、COREi3は2コア4スレッドである。CPUを取り換えると概ね性能は倍増するので、体感で分かるほど速くなる。つまり「倍増」とは言い過ぎだが、スレッド(実行ユニットの処理構造)が倍になるので激変する。ハードウエアの改造が終わると、次はWindowsのインストールである。でもここで引っかかった。TPM(セキュリティチップ)は有るし、セキュアモードにも設定できるのだけれども、機種が古すぎマザーボードにWindows10やWindows11のプロダクトキーが埋め込まれてない。つまりWindows10やWindows11自体を直接インストールは可能なんだけれども、インストール後にプロダウトキーを要求される。インストール後にアカウントをチェックするとwindows10が認証されておらず、このデバイス(ノートパソコンのこと)には認証情報(つまりプロダクトキー)が見つからないと表示される。つまりマザーボードに認証の為のプロダクトキーが埋め込まれていないのである。比較的新しい第4世代以降は、メーカーが「Windows10アップグレード可能」とうたっているが、それはマザーボードにプロダクトキーが埋め込まれているからである。なので、この機種はプロダクトキーを買うしかない。でも1000円で買ったパソコンにもうすぐサポートが切れるWindows10をお金をかける意味ある?他の手を考えることにした。今メインで使っているデスクトップは、元はMBRのWindows7だったのを、HDDからSSDに換装してGPTに変えて無料アップグレードでWindows10にして、それをまた無料アップグレードでWindows11にしたものなので、これも可能かもしれないと思い、これもまずはWindows7から始めることにした。なぜなら、裏側にWindows7のプロダクトキーのラベルが張ってあるからである。プロダクトキーが無いと(ヤフオクで買うと言う手はあるが)手間が大変だから。しかし、読みが甘かった。何度やってもうまくいかない。Windows7をインストールすること自体は簡単で、すぐにできる。ちゃんと認証もされているし、CPUもCOREi3-4100Mだと認識されている。しかしこれをアップグレードしようとすると、windows10インストール後にプロダクトキーを要求される。つまりWindows7の認証と言う事実は、既に無料アップグレード期間が終わっているので、Windows10インストールの時点で無視されるのだと思う。仕方ないのでこのマシンはWindows7マシンとして使うことにした。しかし最近(Windows7のサポート終了後)にインストールした方は分かると思うのだけど、実はMICROSOFTのサーバーにつながらないせいで、認証もWindowsUPDATEもできない。え?じゃぁ上の写真のWindows7はどうやってインストールできたの?そう思った方は経験者だと思う。そうなんです。実は秘密のおまじないをしないと認証はできない。KBムニャムニャと言うファイルをインストールしないとダメ。(ムニャムニャ部分は書くとMICROSOFTに怒られそうなので秘密)ところがこのKBムニャムニャと言うファイルはWindowsUPDATEしないと手に入らない。堂々巡りになってしまう。なので、ネットで探しました。するとMICROSOFTのサーバーにつながって認証がOKになり、WindowsUPDATEが可能になる。なんとKBマルマルファイルが163ファイルもある。しかもその更新が終わると、その更新が終わるまで更新リストに表示されないファイルが、新たに50くらい追加されるので、最終的には200を超える。なんせWindows7は古いので更新作業は結構かかる。WindowsUPDATEで更新されるKBマルマルは200強も有るので更新が終わるのは3時間後。まぁでも無事に終了した。最後にやったのはカメラ用のソフトのインストール。なんせWindows7の時代にはPCにカメラが付いた物は少なかった。だってリモートで会議や作業なんて無かったから。こうして久しぶりのWindows7のインストールは成功した。写真を見ると全てのドライバーがあたっているのが分かる。富士通のパソコンの場合にはこれが大変なことである。Windows10以降だとたいていのドライバーは自動で導入されるが、Windows7では自動ではドライバーは自動では導入されない。もしかすると困っている人がいるかもしれないので、一応ヒントを書く。よくある「何か分からないハードウエア(!マークが付く物)」は次の内容である。シンプル通信ハード=インテルマネージメントエンジンSMバス=チップセット内の特殊ドライバーなのでチップセットドライバーが必須ネットワーク=realTEKのNIC(イーサネットアダプター)イーサネット=WiFi(記憶があいまいなので上のネットワークと入れ替わっているかも? クアルコム又はインテルのWiFi)不明なハード2つ=富士通の特殊ハードでネットで探さないと無い。 FUJ02B1とFUJ02E3と言うワードで探すと良い。3000円ちょいでWindows11パソコン1台、Windows7パソコン1台の2台が手に入った。お遊びとしては良かったかな?ただ何となく悔しいので、無料でWindows11にアップグレードできる方法を見つけたら、再度挑戦してみようかな。(ヤフオクには300円くらいでプロダクトキーが売っているのだけれど、 それをたとえ300円でも払ってWindows11をインストールするのはイヤだから。)<後日追記>自分でもダメな奴だとおもうのだけれども、僕はおちょうし者なのでのりやすく、ついついもう一台Windows7パソコンを買ってしまった。これである。値段が安いのは良いのだけれども、CPUがCeleron1037Uつまり第3世代(末期)で、しかもキーボードが使えない。では、何故買ったか?東芝のSatelliteB253Jは、富士通のLifebookとは違い手を抜かないからである。恐らくWindows7機種とはいえ、元はWindows8機種のダウングレードなので、場合によってはマザーボードに認証情報が書き込まれているのではないかと考えたのである。(Windows7まではケース底面にプロダクトキーのシールが貼ってあったのに、 Windows8からはシールが無くなったのはマザーボードに情報を記録するようになったから。 一部機種ではWindows10でさえもシールを張った物が残っていたが、 契約上=コスト上の理由から色々と有ったのだと思う。)つまり富士通はコストを落とす為にマザーボードに情報が載っていなくて、東芝はその辺にプライドが有るのでマザーボードに情報が乗っているのではないかと考えた。それは見事に当たって、これは富士通の方が第4世代であり、これよりも新しいはずなのにWindows10にアップグレードできなかったのに、これは簡単にアップグレードができた。しかもただで。恐らく事情を知らないと何で???と思うだろう。つまりアップグレードの可不可は技術的な問題なのではなく、コストなんだと思う。ちなみにちゃんと認証されている。但しデジタルライセンスであり、Windows10Proのプロダクトキーを買ったわけではない。事情は分かったけれども、なんかなぁ~と言う感じである。なお、キーボードも新しく買うと本体の値段の1100円よりも高くなってしまうので、買うことはせずに、スクリーンキーボードを使うことにした。パソコンを仕事に使うならばofficeではキーボードが必須なんだけれども、ゲームやYOUTUBEに使うならばキーボードが無くても何とかなる。例えばLOGINの際には暗証番号やPINが必要だが、たいした文字数じゃないのでこんな感じ。1100円だと割り切れば結構使えると思う。また富士通では難しかったドライバーのインストールも、Windows7とは違いWindows10では簡単に全部自動でインストールされる。やっぱり東芝の方が良いのかも?
February 13, 2024
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僕が中学生の頃にはアマチュア無線が全盛期で、それを受信する為に無線受信機を作ろうと一所懸命勉強したけれど、なんせ貧乏なので完成品は買えず、かといって部品や測定器はもっと無理だった。特に測定器は当時は親父のボーナス位しており、ちょっと新聞配達したくらいでは2~3年はかかりそうなものばかりだった。社会人になって少しすると自分のボーナスである程度の物が買えるようになり、最初に勝ったのがトリオのグリッドディップメーターだった。グリッドディップメーターとは簡単な発振器なんだけれども、主な用途はコイルとコンデンサーを組み合わせた共振回路の共振周波数を測定する測定器。但し、優れているのは直接接続しなくても近づけるだけで測定できるのが強み。接続するのは本格的な測定器で無いとインピーダンスやノイズのことを考えなければならず、アマチュアレベルでは難しい。今でもオシロスコープで波形を見る場合に回路のインピーダンスなんて結構無視してる。本来は50Ωとか75Ωで終端して計るべきなのにやっていない。なので便利だった。もっとも今ならば、当時百万円単位もしたスペクトラムアナライザーやネットワークアナライザーが手軽に買え、中華製なら数万円で手に入るので、グリッドディップメーターを使うひとなんていないと思う。ただ仕事が忙しくなり、単身赴任で全国を飛び回るようになると、グリッドディップメーターは倉庫の奥にしまい込まれて使えなくなり、つい最近ふと思い立って探してみたら有った。でも、A~Fの6本あるはずのプラグインコイルが5本しかなく、一番低い周波数(1.7~3.0MHz)用のAコイルが無くなっていた。倉庫をひっくり返せば有るのかもしれないが、探す気力が無い。年だなぁ。そこで自分で巻いてみた。ただコイルのデーターが無く、回路図も無い。分解すればバリコンの容量から推定できるかもしれないが、気力が無い。仕方ないので他のコイルのインダクタンスを計って推定することにした。すると3~8MHz用のBコイルが36µH,6~16MHz用のCコイルが7µHだった。これを連立方程式で解くと、概ねバリコン(基盤容量含む)は15~85pF位みたい。なので、Aコイルは115µH位かなと思う。で、これをボビンに巻くのだけれども適当なのが無い。仕方ないので百均で探したら、エアコンのホースに入れる虫よけストッパーが13mm位で丁度良い。これに愛天堂で適当な端子を探してみた。テスターのリード用なんかが良いと思った。さっそく0.08mmのUEW線を巻いていったのだけれども、計算上は97回巻き位が丁度良いはずなのに、途中で巻き数を忘れてしまい、多い分には良いかも?と言う気持ちと、使用目的(ラジオの調整)を考えれば、1.7MHzは高すぎるから1MHz位が良いと言う気持ちが、だったら120回くらい巻いた方が良いかと言う馬鹿な気持ちになってしまい巻き過ぎた。結局なんとなく140µH以上になってしまった。そのせいでAコイルの周波数とはかなりずれてしまったが、AMラジオの上の方の周波数の調整用にはちょうど良くなった。元のコイルの目盛1.7MHz→実測値1.22MHz、以下同文1.8MHz→1.26MHz、1.9MHz→1.31MHz、2.0MHz→1.33MHz、2.1MHz→1.41MHz、2.2MHz→1.47MHz、2.3MHz→1.51MHz、2.4MHz→1.57MHz、2.5MHz→1.61MHzになった。そう、自分で巻くコイルなんで、目盛は元々期待出来ないので、変換表を貼れば良いのである。実際のDM-6と自作プラグインコイル。なんせ百均なので格好は良くない。発振周波数はオシロにつないだコイルを高周波変圧器の2次側と考えて受信している。ディップメーターのレベルメーターが予定通りふれているのがうれしい。これが大事なんだもの。この時のオシロの波形はこんな感じ。周波数は1.614MHz(ディップメーターの目盛だと2.5MHzを示している)。出力が若干小さいけれど、直接接続では無くて「電波」なので十分。そして本来のディップメーターの使い方である「共振回路の周波数測定」もやってみた。たまたまその辺に有った、愛天堂の高感度AMラジオキットAKIT-7642につないだ、これまた、たまたまその辺に有ったアンテナコイルとバリコンである。これがディップメーターの本来の使い方なんだけれど、ディップメーターの発振周波数がアンテナ回路の周波数と一致するとメーターがグンと下がる。メーターの部分を拡大するとこんな感じ。周波数はディップメーターの読みで1.83NHzなので換算すると1275kHz位だと思う。(実はちょっと前までニッポン放送=1242KHzを聞いていたのでその辺が本当かも?)共振回路(つまりラジオのアンテナ)を近づける前までは7強の目盛だったメーターが、共振回路を近づけると4くらいまで下がる。これを利用して共振回路の同調周波数が分かるのである。もちろん正確ではない。けれどもシールドルームの中ではない雑音いっぱいの僕の部屋で、インピーダンスの整合も、ノイズレベルの調整も何もやらない状態なので十分なのである。このディップメーターはラジオの調整にも使える。市販の他のディップメーターにはあまり無い機能なんだけれども、ネオン管を内蔵しており、発振電波に変調がかけられる。つまりディップメーターの電波をラジオが受信した際に音が聞こえる。この機能が使い易く、通常のSGや他のメーカーのディップメーターでは受信しても直観では分からないのに、このディップメーターならば音で受信したことが分かるので、例えばラジオの上限と下限の設定やトラッキング調整に使えるのである。ただオリジナルコイルは1.7MHz以上しか使えないので、(僕の場合には無くしてしまったからなんだけれども)自作プラグインコイルを作って必要な周波数に合わせた方が良いのである。ただ、こんな測定器を使う人は(値段が高かった当時は)そんな使い方はしなかったかも。なお、おまけなんだけれど、愛天堂の高感度AMラジオキットAKIT-7642は気がつかないと最初は音がしません。気がつくと、「なんだこれ」と言う感じなんだけれども、高周波回路出力と低周波回路がつながっておらず、基板に「JP1」と書かれた両回路を結ぶジャンパー線をつながないと聞こえないのです。愛天堂のHPに何も書いていないので、僕も最初は何故?と思ったんだけれど、回路を追って行ったら分かったので、何故か鳴らないなぁと思った方はお試しを。
February 4, 2024
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