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August 11, 2024
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カテゴリ: カテゴリ未分類
7月12日に「邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は
単なる神話なのか?」を書いて、
「稻羽之素菟」 (「因幡の白兎」ではない)や天孫降臨について書き、
邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?

8月4日に「邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は
単なる神話なのか?その2」​を書いて、
「天岩戸伝説」 も単なる伝説ではなく、過去の史実を大人の事情からぼかして書いたために、
後世の人達が独自の解釈をしたせいであり得ない話になったと書いた。
邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その2

僕がそう考えるのは、学者先生が古代の天皇家や諸豪族に対してあまりに失礼だからである。
天皇が指示して始めた「国家事業」を当時の最高の頭脳達が時間をかけて完成したものが、
そんなおとぎ話だと考える学者先生が信じられないからである。

例えば令和の時代に天皇が新しい国史の編纂の指示をし、
それを受けて岸田総理が編纂事業の為に委員会を設置し、
委員長は麻生副総理、委員は文部科学大臣(立場的に副委員長)、外務大臣(他国に配布する
のだから対外的な調整が必要)、国土交通大臣(諸国庶民と国土の記録所持者)や、
財務大臣(事業の予算整理)と言うそうそうたる面々に、
事務局として東大教授陣と京大教授陣が並んだ時に、
「今南洋の方ではこんな神話が流行っているそうですから、この神話を載せましょう」と言うと、


それなのに、学者先生達は神話の根拠を南洋諸島(ポリネシア)の昔話に求めたり、
​ギリシャ神話と比較してみたりしている。
なんか真剣さが足らないと思う。まぁ夢が有るのは良いのかもしれないが。
でも、上記の令和の国史編纂事業の際に、
「フイリッピンにこんな神話があります。我が国の古代史に加えてはどうでしょう?」なんて

まぁ、東大の教授は絶対にそんなことはしないので大丈夫だとは思うけれども。

天武天皇や持統天皇の時代でも同じだと思う。
なので、古事記や日本書紀に載せるに際しては当時の最高の頭脳達は、
天皇家や諸家に伝わる話や、各地方から集めた話及び中国や朝鮮など他国の話を並べ、
喧々諤々と議論したうえで編纂し、
日本書紀の場合にはそれでも調整がつかないで「一書」と言う形での落とし所を見つけ、
不満を述べる諸家をなだめる努力をしただろうと思う。
何故なら一度国史として書かれてしまうと自家の歴史が定まってしまうからである。
それまでは例えば蘇我氏と物部氏のように、諸家の間では争いが有ったはずであり、
そもそもその事実を国史に載せて良いかどうかから議論が始まると思う。

その結果、史実であっても「大人の事情」からぼかして神話の形を取ったのである。
日本では後世になっても、例えば鳥羽僧正(今では彼の作とは疑われているが)の
「鳥獣戯画」のように擬人化を行い、ストレートな描写をしない伝統があり、
僕は根拠は無いがその伝統は古事記や日本書紀の時代に始まったのだと思っている。

鳥獣戯画では草むらから出て来た蛇から逃げ惑うカエル達の姿が描かれたり、
相撲を取ったり弓を射る姿が描かれている。
例えば有名な場面で、
走って逃げる猿の犯人と、それを追跡する兎・蛙の検非違使
仰向けにひっくり返った蛙(喧嘩の被害者か)と心配して声をかける兎・蛙、
「何ごとか」と振り向く狐の一家。
こんな場面がある。
これを皮肉と考えると、
猿や蛙や兔や狐には、当時の人ならば「あいつのことだ」と分かるモデルがいたのでは?
そう思うのである。
単に滑稽な話ではないと思う。

なので、古代の古事記や日本書紀を編纂した人達の名誉回復の為に、
神話を現実的に解釈して、史実はどうだったのかを推理してみたのである。

そう言う意味で今日は一つの仮説を書いてみる。
ヤマト王権の時代には「部民制(べみんせい)」と言うのが有った。
(「部民制」を持ち出すのはまずかったかも。
 これを使うと分かりやすいので持ち出したけれど、
 後世の部民制から起こった他の「部」とは違い、「物部」氏は相当に古くから有るし、
 「八草の姓」や氏姓制度のからみで物部氏の位階からすると部民制の「部」は下位すぎて、
 ツッコミ所満載になりそう。でも分かりやすいので使っている。
 物部氏の場合はそれらの制度が発足するずーっと前の話なので不適切かもしれない。)
王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。
分かりやすい例を挙げると、
矢をはじめとした武器を作る担当の氏族を「矢部」と名付け、
占いや祀り事を行う担当の氏族を「卜部」、埴輪などを作る担当の部族を「土師部」と
名付けている。

では「物部」氏は何を担当していたのだろうか?
よく物部氏は軍事を担当していたと言われている。でも蘇我氏に負けたじゃん?
僕は多分、「物」を担当していたから物部氏と言われたんだろうと思う。
これは後の世で言う「租(お米)と調(布等の特産物)」の徴収と保管である。
つまり今でいう財務省。ただ、集めるのは強制力が必要(黙って納めはしない)だし、
保管場所は警備が必要なので、現代で言う警察組織も持っていたと思う。
なので、強力な軍事力も持っていたのだと思う。

これは古代においても後世においても難しい話で、
継体天皇の時代でも岩井は抵抗し、戦争になってしまい、
岩井の息子は負けて争わないことを示す為に屯倉(天皇家直轄領)を差し出している。
逆に構成では荘園がはこびり、寺社や貴族はその荘園から利益を得ている。
いつの時代も「金」がすべてである。

ここで気がつくのは「物」部氏の首領って、もしかして「大物主」では?
だって名前がそのままだから。「物」部氏の「主(あるじ)」
実はそれを思わせる古事記や日本書紀の記載が有る。
物部氏の祖は「宇摩志麻遅(うましまじ)命」である。
宇摩志麻遅(うましまじ)命は「ニギハヤヒ」の息子である。

「ニギハヤヒ」は神武天皇よりも先に大和に来た人で、
神武東征に際しては最初は彼の奥さんのお兄さんの「ナガスネヒコ」が神武天皇を撃退し、
その後熊野に周って高倉下(タカクラジ)等の味方を得て大軍となった神武天皇に負けて、
神武天皇の家来になった人(神?)である。

うん?神武天皇の家来になった?一度は勝ったのに?
もしかして神武天皇の家来になったと言うよりは和睦して臣下になった?
なのでヤマト王権の最重要職である「財務大臣(現代風に言えば)になったのかも?
そしてその息子の宇摩志麻遅(うましまじ)命はあとをつぎ、物部氏の世襲となった?
そう考えると色々な秘密が解決する。

蘇我氏と物部氏の争いである。
従来は崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の争いが原因だと言われていたが、
渋川廃寺跡が見つかり、これが元は物部守屋の別荘の跡で渋川寺が有ったらしいと分かり、
物部氏が排仏派と言うのは現在では否定されている。
但し、世の中の大人の世界では、表の話と裏の話は常にあり、
要は蘇我氏と物部氏は政権を巡って争っており、
仏教の受容はそのきっかけあるいは(直接軍事行動に出ると他の豪族の話もあるので)
軍事行動に走る為の言い訳だったのだろうと思う。
それで「聖徳太子が白膠木(ぬるで)に四天王を刻み、この像に願をかけて」勝ったと
わざとらしく記録されているのだと思う。
つまり現実的な話ではなく、仏様に助けてもらったことにしたのである。
以後、物部氏はすたれていく。

国衙ができて、地方からお金が国の役所に入る前はどうなっていたんだろう?
もしかして根拠は無いが、神社や寺がその役目をしていたんじゃないだろうか?
神社の神楽を見ていると「四方拝」と言い、弓矢や剣で舞う。
何で仏教では(生き物に優しくするはずなのに)みんな武装して怖い顔をしているんだろう?
仏敵がいると言うのならば、ありがたいお経で改心させれば良いではないか?
高野山には僧兵がいるし、宇佐八幡宮には神兵がいる。
もしかして寺や神社は昔のお役所で税金を取って、百姓達を黙らせていた?

Wikiの「寺」を見るとこう書いている。
「寺(じ)」は、「役所・官舎」の意。
西域僧が中国に仏教を伝えた時、はじめ鴻臚寺(こうろじ)に滞在し、
のちに白馬寺(はくばじ)を建てて住まわせた。
以後、宿泊所に因んで僧の住処を「寺」と呼ぶようになった。
もしそうならば、物部氏は神社組織を使って地方から税を集めており、
蘇我氏は、神社組織を廃止し、
新たに自分に従う「寺組織」を作って物部氏から政権(と言うか税金徴収機能?)を奪い、
日本を自分の物にしようとしたのではないだろうか?
それが物部氏と蘇我氏の戦いでは?

話は戻って、ニギハヤヒ及びその子の宇摩志麻遅(うましまじ)命が「大物主」ならば、
古事記や日本書紀の神話が一つ史実になる。
そう、大物主は三輪山に祀られた神様で箸墓の主の倭迹迹日百襲姫命の旦那さんである。
倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇の娘さんである。
えー!じゃぁ物部氏は天皇の娘さんをお嫁さんにもらえる立場だったの?
そうなんである。
箸墓のすぐ近くの「纏向遺跡」はかっては「大田遺跡」と呼ばれていた。
でもちょっと離れた所にある垂仁天皇の纒向珠城(たまき)宮がここに有ったと言うことで、
今では纏向遺跡と呼ばれている。
でも垂仁天皇陵は奈良の尼ヶ辻に有って、桜井市の纏向遺跡から相当に遠いんだよね。
僕は垂仁天皇にはたくさんの秘密が有り、纒向珠城宮はその秘密のせいでここに有った?
そう思っている。だって都とお墓が離れすぎ。
ただ崇神天皇のお墓は近いので、崇神天皇はこの辺に有ったのだと思う。
大田遺跡はここに大田田根子が住んでいたからであり、
大田田根子は崇神天皇と箸墓の主の倭迹迹日百襲姫命の夢及び占いにより、
大物主を祀る為にここに住んだのである。
もう、匂いがぷんぷんするけれども、
要は大物主=物部氏の首領ならば、それを祀る大田田根子は物部氏縁故の人では?
(夢や占いでは大田田根子は大物主の子と言うことになっている)

と言うことは纏向は物部氏の里で、垂仁天皇にも何らかの関係が有った?
(例えば平安京は秦氏が土地の提供等により推進したらしいので)
物部氏が垂仁天皇の為に纏向に都を造った?
そう考えると、物部氏(大物主)と崇神天皇と倭迹迹日百襲姫命の関係がすっきりとし、
箸墓の伝説や物部氏の大和政権の中の立ち位置が分かり、
古事記や日本書紀の内容が信憑性を持ってくるような気がする。
違うかなぁ?
ニギハヤヒ=物部氏の祖先で物部氏の首領=大物主命
筋が通っていると思うけど。

<後日追記>
誤解を招く恐れが有るので追記。
物部氏は「氏姓制度」上は「連」です。
しかし「斎部連」が「斎(ものいみ、いつき)」を担当する「部」であって「連」とされたように、
「物部連」も「物」を担当する「部」であって連となったのではないか、
つまり氏姓制度や部民制が確立する前から、「部」と言う概念が有ったと考えて書いています。
それで「部」が付くのに「連」と言う感じになっているのだと思います。

例えば他にも「土師部」も後世には「土師臣」となり「臣」になっています。
部民に関しては、
日本の官司の原型はヤマト王権(大和朝廷)の行政事務を複数の伴造が分掌して、
部民を動員・管理して業務を遂行した組織体であったと考えられている。
その後、部民を管理して行政事務の実務を遂行する官人組織が伴部の下に形成されたとされ、
いわゆる部民制が「物部」の「部」になったのではないけれども、
つまり「部」及び「民」の概念が後世の「お役人」の立場とは違うけれども、
まとまりと言う意味で(血縁ではない人も併せて)一つの種族としてとらえたと考え、
分かりやすいから使っても良いか?と言う感じで、
「物部」の「部」を部民制の「部」と同じような感覚で使っている。

部民制で説明すると、例えば時代が違うと血縁集団と職業集団で違うとか、
誤解を与えるのであまり適切ではないかもしれないが、
一番分かりやすいので、これで説明した。
海外でも、この「部」と似たような話はあって、
例えば「カーペンター」は大工さんだし、ブッチャーは肉屋だし、
フォスターは刃物職人だし、ポッターは陶芸家だし、スミスは鍛冶屋なので、
日本同様に昔から、はじめは血縁で相伝、そのうちに多人数になって職業集団となり、
その職業が名前になって行ったのかもしれない。





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最終更新日  August 27, 2024 06:02:03 PM
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