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March 11, 2025
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カテゴリ: カテゴリ未分類
邪馬台国論争の中で、
帯方郡から不彌國までの行程の書き方と、投馬國及び邪馬台国への行程の書き方が全く違い、
不彌國までは連続的に書かれており、しかも距離が「里」で書かれており詳しいのに、
投馬國と邪馬台国への行程は(起点は明記されておらず)方向と距離がざっくりと書かれており、
かつ距離は「日数」で書かれていることから、
これが邪馬台国の比定地論争の大きな争点になっている。

邪馬台国近畿説の人達は魏志倭人伝の記載が、「方角」と言う面で全く合っておらず、
邪馬台国北部九州説の人達は、「距離」と言う面で全く合っていないので、
近畿説の人達が北部九州説の人達を攻撃するのに最も適した部分なので、


確かに魏志倭人伝の書き方は帯方郡から不彌國までと、それ以降で全く違う。
例えば松浦国から伊都国への経路は以下のように書かれている。
東南陸行 五百里 到伊都國
(意訳)
(ここまで松浦国の事について書かれているので松浦国から)
東南(方向)+陸行(動詞)+五百里(距離)+伊都国(目的地)
これは、人が実際に行動した結果を書いているので、
(主語は自分に決まっているので略して)東南の方向へ歩きだすと五百里で伊都国へ着く
と言うことになる。

それに対して投馬國や邪馬台国への行程は、例えば投馬國への行程は、
南至投馬國 水行二十日

(ここまで不弥国について書かれているので、不彌国に対し)
南に投馬國はある(方角)。水行(動詞)+二十日(距離)
と言う順番になっている。
全く文法が違う。
これは人に尋ねて、相手が答えたのを記録した場合の書き方である。

偶然ではなく、ちゃんと理由が有って書き方が変わっているのだと思う。

そこで学者達は、この違いを議論するのに「連続説」と「放射説」と言うのを考え出した。
僕は「実際に行動した部分」と「人に聞いた部分」と解釈するが、
学者達は「不彌國までと投馬國・邪馬台国までの記載は連続している」=連続説
「不彌國までで話は一旦区切れ、投馬國・邪馬台国への行程は不彌國から放射的に書かれている」
=「放射説」
としたのである。
挙句の果てには、北部九州説の古田氏などは不彌国から放射的に書かれているのではなく、
帯方郡から放射的に書かれていると主張する始末である。
これは北部九州説の皆さんは近畿説の人達に一本取られている。
狡猾な近畿説論者の口車に乗ってしまい、考えなくても良い失敗を犯していいると思う。
近畿説は「方角」が弱点なので、「距離」が弱点奴北部九州説の弱い部分に話をそらしている
それだけのことなので、相手の戦略に乗らなければいいのに、お付き合いをしてしまっている。
九州人は正直なのが欠点だと思う。
自分の弱点はごまかして、相手の弱点を攻めればいいのに。

僕は「連続説」とか「放射説」などと考えずに、素直に魏志倭人伝を読めば良いと思う。
陳寿(魏志倭人伝、つまり三国志の編者)のWikiを読めば答えが書いてある。
Wiki(陳寿)から引用する。
「三国志」の項
『三国志』は、編纂された当時から優れた歴史書として名高かった。
夏侯湛は『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという。
南斉の劉勰は、孫盛『晋陽秋』や『魏略』、『呉録』、『江表伝』などといった著作群を、
勿体ぶっていて検証しがたい内容であるか、
あるいは内容が空疎で肝心なことについての記述は少ないかであると非難する一方、
「陳寿の『三国志』のみは文章に洞察と知識とが行き渡っていて、
荀勗と張華が司馬遷と班固に比したのも、妄りに称誉したものではない」と称賛している。
つまり、三国志演義と違い、三国志は編纂当時から評価が高かったのである。
ただ、陳寿は敵が多かったらしい。
三国志自体は評価が高いが、彼自身は「親不孝者」と呼ばれたり、
元が魏ではなく蜀漢の出なので、魏に都合の悪いことを書くのではないかと疑われたりしている。
また、Wiki(三国志)の「裴松之の注」の項には面白いことが書かれているので引用する。
「裴松之の注」の項
陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したために、
『三国志』は非常に簡潔な内容になっていた。
そこで、南朝宋の文帝は裴松之に注を作ることを命じ、
裴松之は作成した注を、元嘉6年(429年)に上表とともに提出した。
注の量はかなり多く、古くは、陳寿の本文に数倍すると見られていた。
しかし、近年の研究で陳寿の本文とほぼ同じ字数であることが判明した。

僕はここに書かれている
「陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除した」
のが、
帯方郡から不彌國までの記載方法と、投馬國・邪馬台国までの記載方法の違いの原因だと思う。
恐らく陳寿が書いた最初の「三国志案」には投馬國と邪馬台国への行程は書かれていなかった?
そう思っている。

不彌國までは中国の使者が実際に使者の職務として残した復命書・旅費計算書を利用して、
正確に書けたので最初の「三国志案」にも書かれていた。
それは前に僕のブログでも書いた。
邪馬台国はどこにあったのか(その66)陳寿は帯方郡から邪馬台国まではどのようにして書いたか
このブログでは書かなかったが、最初の「三国志案」には不彌國までしか書かれていなかった?
おそらくはそうではなかろうか?
陳寿は最初は信憑性の高い資料(復命書・旅費計算書)から得られた情報しか書かなかったのだ。

ところが三国志は「正史」なので、皇帝も見る。
皇帝も見るような物は、皇帝の元に届く前に役人たちがチェックする。
「三国志案」はこのチェックでダメ出しを食らったのだと思う。
役人たちは、魏の時代に倭国の女王卑弥呼に授けた印綬「親魏倭王」は書くべきことで、
それなら卑弥呼が居た邪馬台国についても書くべきだと思い、陳寿に要請したのである。

陳寿は困った。資料が無い。
仕方ないので、不正確ではあるが知りうる範囲で伝わっていた両国の位置だけ書いた。
これが投馬國と邪馬台国への行程の部分である。
その為に、中国の使者の行動の記録である不彌國までの行程は正確で、
距離も「里」で書かれているのに対して、
投馬國と邪馬台国までは(使者は実際には行っていないので)伝聞形式になっており、
両者は文法的に書き方が違うのである。

多分そうなんだと思うし、そう考えればつじつまが合う。

ところが魏志倭人伝には、
その後に女王国の北側の詳しくは分からない国々と狗奴国も書かれている。
これは何か?
恐らく役人たちは、投馬國と邪馬台国への行程がたった2行であることに不満が有り、
かつ「親魏倭王」の印綬を与える原因となった狗奴国についても書くべきだと思ったのである。

陳寿はまた困った。
その時に、お友達か敵かは議論があるけれど、
同時期に魚豢(ぎょかん)が書いた「魏略」の元になった古い資料を使うことにした。
恐らくこれは後に後漢書(何故か後漢書なのに三国志よりも後に完成)の元になった、
後漢時代の倭国の使者との交流時の記録なんだと思う。
それには倭国の色々な情報が書かれており、
陳寿は詳しいことは分からず国名だけなんだけどと断りながら女王国の北側の国について書いた。

その際に役人たちは国の名前だけじゃ満足できず、
おおまかでも良いから女王国の位置が分かるようにして欲しいと要求したので、
陳寿は知恵をしぼって、女王国の北側に在る国の中に「奴國」が有るのを利用して、
既に書いている不彌國までの行程の中にある「奴國」と結びつけることにより、
伊都国の南側に有る奴国と女王国の間に、
その国名しか分からない国々が有る事を示したのである。
(そのせいでちゃんと漢文が読めない人達は「奴國」が二つあるなんて変なことを言うが、
 同じ倭國の中に同名の奴国が2つ有ると言うのは政治的に無理があり、
 例えば卑弥呼や一大率が奴国の人を呼ぶ場合を考えると、
 奴国が2つあれば大混乱に陥るので、倭国の中に奴国が2つ有るとは常識的に考えられない。
 ​ 邪馬台国はどこにあったのか(その62)2つの奴国と言う先生? ​ 
 例えば国連の中で、韓国と北朝鮮が同じ名前を主張したら大変だと思うのだけれども?)

そう考えると、帯方郡から不彌國までの記載方法と投馬國・邪馬台国までの記載方法が
まったく違う意味が分かるのではないかと思う。
違うかなぁ?





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最終更新日  March 11, 2025 08:18:31 PM
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