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図書館で『イギリス断片図鑑』という本を、手にしたのです。アメリカ人はあまり好きになれないが、イギリス人はそうでもないという大雑把な理由でチョイスしたのです。【イギリス断片図鑑】エディング著・編、自由国民社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりローマ帝国と戦ったケルトの女王は?最初にネッシーを目撃したとされる守護聖人は?イギリス王室の公邸といえば?ヘンリー8世の王妃の幽霊が出る宮殿は?17世紀半ば、イングランド共和国を成立させた指導者は?イギリスの丘陵地帯に描かれた巨大な地上絵とは?「プリンキピア」とよばれる本の著者である科学者は?1889年、男性同性愛者が摘発された事件とは?1920年11月21日、アイルランド独立運動で起きた惨劇は?1項目3分読書!<読む前の大使寸評>アメリカ人はあまり好きになれないが、イギリス人はそうでもないという大雑把な理由でチョイスしたのです。rakutenイギリス断片図鑑測量船ビーグル号イギリス人科学者のトップバッターとしてチャールズ・ダーウィンを見てみましょう。p10~11<№03 チャールズ・ダーウィン> チャールズ・ダーウィンは、生物は自然によって選択されて進化すること(自然選択説)をアルフレッド・ウォレスと共に提唱した人物。 その功績から生物学者とされるが、自身は地質学者を名乗っていた。1859年に有名な『種の起源』を刊行している。なお、進化の概念を最初に生物学に取り入れたのは、祖父のエラズマス・ダーウィンだった。 1808年にイングランド西部のシュルーズベリーで生まれたダーウィンは幼少の頃から自然に親しみ、植物や貝殻、鉱物の採集を行っていた。1825年に家業の医師になるべくエディンバラ大学に進学するが、流血を伴う実習に馴染むことができず、興味は博物学へと移っていく。エディンバラ大学中退後はケンブリッジ大学に入学したが、ここで牧師であり植物学者のジョン・スティーブンス・ヘンズローと出会い、ダーウィンの人生は大きく変わっていく。 卒業後、ヘンズローからの紹介で、イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船する。1831年から5年間の航海でヨーロッパから南米、ガラパゴス諸島、オーストラリアと世界を巡り、様々な土地の動植物や地層を観察、研究する。この公開において、自然選択による生存競争を経て、生物は進化するのではないか、という考えを固める。 当時はキリスト教の教義が絶対視されていたが、1858年にロンドン・リンネ学会で自然選択説が代読により発表される。 当初は批判が多く、宗教的、哲学的論争を巻き起こしたが、すでに進化論に関する論文が複数発表されており、ダーウィンの理論をより実証する研究者が現れたり、新説学問としての素地は整っていった。そして1870年代になると、科学者だけでなくイギリスの大衆にも広く進化論が受け入れられ、生物進化の研究は急速に発展する。 1882年に自宅で死去するとその功績が称えられ、国葬が執り行われ、ウェストミンスター寺院に埋葬された。
2024.11.27
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図書館で『三蔵法師が行くシルクロード』という本を手にしたが・・・・国名をドングリスタンとした大使は、この本が説くような西域に憧れるわけでおます。ちょっと、ジャンルは異なるが諸星大二郎が描いた西遊記の世界もええなぁ。【三蔵法師が行くシルクロード】菅谷文則著、新日本出版社、2013年刊<「BOOK」データベース>より「西遊記」の舞台をめぐるユニークな歴史発掘紀行。【目次】序 日本とシルクロード/1 玄奘三蔵(三蔵法師)とシルクロード/2 シルクロード探訪(東ローマの金貨/アフガニスタン/中央アジア/キルギス/シリア、イラク、イラン、ロシア/中原と匈奴/インド/ソグド移民/海の道)/3 シルクロード研究の今後<読む前の大使寸評>国名をドングリスタンとした大使は、この本が説くような西域に憧れるわけでおます。ちょっと、ジャンルは異なるが諸星大二郎が描いた西遊記の世界もええなぁ。rakuten三蔵法師が行くシルクロード西域記の日本への来着を見てみましょう。<死後も旅する玄奘三蔵>p18~20 1942(昭和17)年12月に日本軍が南京で玄奘の頂骨の納められた石棺を掘り出した。翌年2月23日に時の親日政権である汪兆銘・南京政府に引き渡され、その一部が2年後に日本側に分骨された。そしてさいたま市の慈恩寺に、玄奘の舎利塔として十三重石塔が建立され、丁重に祀られた。 玄奘が長安に帰着後に、太宗李世民の命により、インド・西域に関する書物を執筆し、646年7月13日に完成したものが、『大唐西域記12巻』である。玄奘が詳しく足跡を残した111国、伝聞した28国などに関する最新の状況を提供したものである。ちなみに『西遊記』はこれらを基に書かれた。 『大唐西域記12巻』が日本に伝来したのは、日本に戒律を伝えた鑑真(688~763年)が、754年に来着した時に持参した『玄奘法師西域記1本12巻』が最初であった。 玄奘の求法の経過と、その仏典の翻訳などの事蹟を記述した『大唐大慈恩寺三蔵法師伝10巻』があり、奈良の法隆寺、興福寺には古い写本が伝えられている。法隆寺には、法師などの足跡を知るための地図さえ残されている。 シルクロード地図、なかでも中央アジアの東部は、玄奘の足跡が色濃く残された地域である。私たち考古学徒は、そのルートを出土品や遺構からさぐり、玄奘がたどった以外のルートをもさがすことを目的に、中国から中央アジアを研究調査している。そのシルクロードから日本に伝えられたさまざまな文物をひもときながら、絹の道がもたらした文化を考えてみたい。玄奘さんの功績の一端を見てみましょう。<シャカの教えを広めた人々>p28~30 入竺、つまりインドの仏蹟に向かう僧の目的は、玄奘までの多くの僧は、経典の将来であったようである。もちろん、天竺や西域の経典は漢文ではなく梵語(サンスクリット)や、その他の多くの言語で書かれていたので、いわゆる語学の修得も大きい目的であった。 中国の仏教に関するテキスト、つまり経典は、先に記したクラマンジュー・鳩摩羅什などが翻訳した35部300余巻の旧訳経典に、玄奘が翻訳した74部1335巻の新訳がある。その違いの一例を記しておくと、観世音菩薩が旧訳で、観自在菩薩が新訳である。このためよく知られている般若心経の冒頭の経文は、『南無観自在菩薩・・・』である。ただし、観世音菩薩、略して観音は世に広く知られていたので、それが習慣的に用いられ、現在に至っている。(中略) 玄奘が伊吾(現在の新疆ウイグル自治区ハミ市)に至った日に、伊吾の仏寺に泊めてもらった。すると寺には漢人の僧が三人もいて、そのうちの老僧は、唐僧が来寺したことを知って、僧衣に帯も結ばず、裸足で飛び出してきて、玄奘に抱きついて、この年になって、再び漢人に会えるとは夢にも思わなかったといい、号泣した。 この伊吾は、のちに唐領となるが、この時は、高昌国と関係が深い胡国の国であった。 玄奘が伊吾に到着したのは628年と推定されている。唐朝の成立は、618年であるので、この老僧は隋か、あるいはその前の北周に中国から西に向かった僧であった。隋と唐は異境への旅を厳禁していたが、北周はかなりゆるやかであった。著者の菅谷さんが、白馬寺を訪ねています。<明帝の感夢と仏教伝説>p158~159 中国大陸の北部では儒の思想が孔子により誕生し、のちの宗教として儒教となる。一方、中部から南部では神仙説などが各地に種々のかたちで生まれ、のち道教となっていく。 現在の日本や韓国の仏教は、ともに漢文に翻訳された経典を用いているが、本来は北インドからネパールにおいて説法していたシャカの教えである。仏教がパミール高原を越え、あるいはヒマラヤ山脈やヒンズークシ山脈を越えて中国に、いつ、どのように入ってきたかは定説がない。 仏教の中国初伝について正史の記述は『後漢書』である。ただし、後漢書の編述は南北朝の宋(420~479年)の歴史家ハンヨウであるので、それ以前のさまざまな伝承が混在している。『後漢書』の記述は、後漢・明帝の感夢求法説といわれている。この記述と白馬寺伝説が結びつく。 「明帝が夢の中で神人が身体から光を放ち宮殿の前に飛来してくるのを見た。帝は大いに喜び、翌日群臣に、この神は何であるかと問うた」と『後漢書』にある。続いて明帝は使者を大月氏国に遣わして『42章経』を写させたという。そして宮外に寺を建て、洛陽城の城門の上に仏像を安置した。こうして国豊かに民はやすらかとなり、夷人も中国(後漢)を慕ったとある。最後は、儒の教えの帝徳を美化する場合の常套表現である。 白馬寺は、この時に建てられたという。白馬寺伝説では、42章経と仏の画像を白馬に載せて帰ったという。そこで寺を建て白馬寺といった。 仏教の確実な中国での始まりは、文献研究を中心とした研究法、磨崖に彫られた彫像の研究、石窟の壁画や題記からの研究、経典の漢文への翻訳史からの研究など、多方面で論じられているが、最終結論には至っていない。 実は、仏教を始めたブッダは、歴史上に存在したガウタマ・シッダールタの称号である。漢訳では釈迦牟尼と表現され、シャカといいならわされている。シャカは著述を残しておらず、弟子や信者の質問に答え、大衆のために説法をした。その亡くなったすぐあとから、その説法がまとめられ、現在の経典に受け継がれていく。 私が初めて白馬寺を訪れたのは1980年2月の寒い日で、ロウ海鉄道の白馬寺駅で下車して、寒々とした道をたどった。現在では参詣者のための食堂や土産店が軒を並べ、寺内にも香煙がたえることがない。 白馬寺の大門の左右には、赤く塗られた焼成レンガのセン積みのハの字に開く高い壁がある。よく見ると、すべて後漢の画像碑である。70年代の文化大革命期に古代書が破壊されて大量に出た墓セン(レンガ)の再利用であった。西遊妖猿伝西域編公式サイトより
2015.08.09
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図書館で『実録アヘン戦争』という新書を、手にしたのです。かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。【実録アヘン戦争】陳舜臣著、中央公論新社、1971年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データ無し<読む前の大使寸評>かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。amazon実録アヘン戦争東インド会社の退潮を、見てみましょう。p66~69<選手交替> イギリスの対中国貿易は、東インド会社に独占権が与えられていた。その免許状は20年ごとに切りかえられる。1834年が免許状切りかえの年にあたっていたが、1832年のイギリス国会は、免許状の期限の延長を認めないという決議をした。 長いあいだ対中国貿易を独占してきた東インド会社が、舞台から退場するのである。 それにはいろんな理由があった。 まず産業革命後に起こった産業都市の市民が、選挙権を獲得したことが挙げられるだろう。それまでは、十ポンド以上の税金を納めている「家持ち」だけが、世襲的に選挙権をもっていた。それが改正されたことは、貴族時代が終わって、商工市民の時代を迎えたことを意味する。 世襲と保守と領地の時代はすぎて、自由と進取と工場の時代が、それにとってかわった。新興商工市民は、対外貿易についても自由競争を主張した。彼らにとっては、独占権などもってのほかのことだったのだ。 つぎに、東インド会社の対中国貿易が、きわめて非能率的なものになっていたことも、免許状取消しの大きな理由になった。 東インド会社の商船は千二百トンから千三百トンで、一航海で広州においてあげる純益が、米ドルにして平均三万ドルから四万ドルにすぎない。ところが、アメリカの商人は、平均僅か三百五十トンという小型商船を操って、毎船四万ドルから六万ドルの純益をあげていた。 東インド会社は官僚化して、小回りがきかず、「親方日の丸」的になるのであろう。アメリカ商人の場合は、利益のあるところには、ためらわずに突っ込んだ。彼らはアメリカの農産物をヨーロッパにはこんで、スペイン銀貨に換え、インドからアヘンをマカオへ運搬し、広州で中国の茶葉や絹を仕入れて帰米した。 イギリスの商人がアメリカの商人に劣るとは考えられない。それは機構の差による。とすれば、ここは特許会社の独占を廃して、商人の自由競争にまかせたほうがよいのではあるまいか。・・・イギリス国会の1832年の決議は、そのような判断を背景にしていたのである。 東インド会社が独占していたといっても、プライベート・トレイダー(個人貿易商)と呼ばれる連中が、その下請けのようなかたちで、対中国貿易にかなり活躍していた。ジャーディン・マセソン商会やデント商会などは、その代表的な商社だった。 東インド会社は広州に特派委員を出していて、清国側ではそれを「大班」と呼んでいた。会社が対中国貿易の舞台からひきさがれば、このような会社の代表者もいなくなるわけだ。しかし、貿易の指導や監督をする仕事はなくならない。それどころか、かえって強化する必要があった。なにしろ大資本とがっちりした機構をもった東インド会社のかわりに、資本も組織も弱いプライベート・トレイダーばかりになるのだから。 そこでイギリス政府は、新たに駐清商務監督の職を設けることになった。領事のことである。会社の代表の代わりに、政府の代表が広州に派遣されることになったわけだ。 これはたんなる交替ではない。 大班は会社が派遣した社員にすぎないが、商務監督はいやしくも国家を代表する正式の官吏なのだ。女王陛下の官吏は、それ相応の処遇を受けねばならない。 初代商務監督はウィリアム・ジョン・ネーピアであった。47歳。海軍大佐。サーの称号を持つ。 しかしながら、清国側にすれば、東インド会社であろうが大英帝国であろうが、そんな選手交替は、こちらの知ったことではないのである。「世界史の窓」というサイトで、ジャーディン=マセソン商会について見てみました。ジャーディン=マセソン商会より 1832年、広州で設立されたイギリスの貿易商社。アヘン貿易などで大きな利益をあげた。 中国では怡和洋行(いわようこう)という。1832年に広州(の近くのマカオ)で、スコットランド人のW.ジャーディンとJ.マセソンが設立したイギリスの貿易商社で、茶や生糸の買い付け、アヘンの密貿易などに従事し、いわゆる三角貿易で大きな利益を得た。 1834年に東インド会社の中国貿易独占権廃止によって、民間の商社として急速に活動範囲を広げ、船舶を所有して運輸業を行い、建設や銀行業にも進出した。 アヘン戦争の最中に、当時ほぼ無人島だった香港に本店を移転し(香港で認可された最初の外国商社となった)、さらに上海にも支店を開いて大陸に進出(上海租界で最初に土地を取得し、建物を建てた。1920年に改築された同社ビルは現在も残っている)、清朝政府に対して借款を行うまでになった。 その後、中華民国となってからも鉄道の敷設権や営業権を得て、深くその経済に関わった。中華人民共和国成立後は活動を香港だけに限定していたが、中国の改革開放以降は本土との取引を再開し、現在でも活発な貿易、金融活動、ホテル経営などを展開している。【Episode 幕末日本でも活動】 ジャーディン=マセソン商会は横浜にも支店を出し(日本で活動した外国資本の最初。その商館は山下町の現在のシルクセンターのところにあって「英一番館」と言われていた)、幕末の日本でも活動した。1863年、長州藩が井上聞多、伊藤博文らをロンドンに留学させたときはそれを支援した。坂本竜馬もジャーディン=マセソン商会から支援を受けている。長州藩など討幕派に協力する一方、幕府に対してアームストロング砲などの武器を提供し、利益を上げている。 19世紀から現代に至るイギリス商人の代表的な存在であり、大英帝国の典型的な「尖兵」的商社だったといえる。この本も陳舜臣アンソロジーR7に収めておくものとします。『実録アヘン戦争』1:貿易品としての茶とアヘン
2018.07.28
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図書館で『ギャバンの帽子、アルヌールのコート』という本を、手にしたのです。ヨーロッパ映画のアンソロジー集ってか・・・興味深いのである♪【ギャバンの帽子、アルヌールのコート】川本三郎著、春秋社、2013年刊<「BOOK」データベース>より「追憶の名画座」へ、ようこそ。心にしみいる暗さと魅力にあふれた、いにしえのヨーロッパ映画。戦争映画から、詩情をたたえた悲恋物語、シニカルな喜劇まで、永遠の映画少年が50~60年代を中心に、今ひとたび酔いしれたい傑作をふりかえる。<読む前の大使寸評>追って記入rakutenギャバンの帽子、アルヌールのコート「ドイツ映画」、「戦争映画」というツボが疼く『橋』という作品から、見てみましょう。p191~197<少年たちの戦いと死 『橋』> 戦争末期、敗色濃いドイツでは、兵隊が足りなくなり、十代の少年たちを徴兵し、戦場に送るようになった。 1959年に作られ翌60年に日本で公開されたドイツ映画『橋』は、七人の十代の少年たちが自分たちの住む小さな町の橋を守るため、アメリカの戦車隊と戦い、1人を残して無残に死んでゆく戦争映画。15、6歳で死んでいった少年たちへの静かな鎮魂歌になっている。 高校一年生の時、ちょうど少年たちと同じ年齢で見たので、胸が痛くなる感動を覚えた。 ナチスという絶対悪を生んだ国だけに、戦後のドイツ(旧西ドイツ)では、戦争を自分たちの側から描く映画は数少なかった。 戦争の圧倒的な加害者だったから、自分たちも悲惨な目にあったとは語りにくかったのだろう。 わずかにオーストリアとユーゴの合作映画で、ドイツ人のヘルムート・コイトナーが監督した『最後の橋』(54)が、戦争を内側から描いた作品として記憶に残るくらい。敵であるユーゴのパルティザンに捕らえられ、その負傷兵を診ることになったドイツの女医が、「祖国愛か人間愛か」の板挟みに苦しむ物語で、ヒロインを演じたマリア・シェルがカンヌ映画祭で女優演技賞を受賞するなど、国際的に高い評価を得た。 この『最後の橋』でパルティザンの隊長を演じたのがベルンハルト・ヴィッキで、のち監督に転じ作ったのが『橋』。ドイツ人と思われがちだがスイス国籍で戦争体験はないという。それだから冷静に少年たちの敗戦直前の死を描けたのかも知れない。 少年たちはほとんどが素人。従って本稿では俳優名を記さず、役名だけにする。 1945年4月。中部ドイツの小さな町。連合軍(主力はアメリカ)が刻々と迫っている。それでも町にはまだ日常生活が静かに営まれている。 町の高校では普通に授業が行われている。日本と違って敵国の英語の授業もある。シェイクスピアを読む。前半は、七人の少年と、その親たちがスケッチされてゆく。 戦争がそこまで迫っているとは思えないほど一見、平穏に見える。少年たちにとってはまだ戦争は身近に感じられていない。 4月、米軍の飛行機がその町にはじめて爆弾を落としたが、たいした被害はなかったので少年たちは、「どうせ爆弾を落とすなら、学校に落としてくれればよかったのに」「嫌いな数学の授業の前にな」と笑い合う。「爆撃のあとを見に行こう」とピクニック気分もある。 少年たちにとっては、戦争はまだリアルなものというより、どちらかといえば戦争ごっことしてしか理解されていない。だからみんな楽天的だし、勇ましい。後半の悲惨な戦闘をまったく予想していない。無邪気に「敵をやっつける」といいあう。(中略) 七人の少年たちに召集令状が来る。 まだ戦争の現実を知らない少年たちは喜ぶ。国のために戦うことに誇りを覚え、喜んで兵隊になる。戦争ごっこが戦争になる。 前半、高校生だった彼らは、半ズボン姿。英語の恋愛詩を読んだり、恋をしたり、将来の夢を語ったりしている。恋をする者もいる。 それが一転して招集されると、鉄かぶとをかぶり、銃を持つ。「少年」が「兵隊」になる。 七人の少年の先生は、彼らのことを危惧し、以前、先生をしていたという大尉に、何とか危険の少ない部署につかせてくれと頼みに行く。善意からのこの行為が、結果として仇になってしまう。 大尉は少年たちを町はずれの橋の護衛にあたらせる。どうせ、アメリカ軍が進軍してきたら爆破してしまう小さな、小さな橋。大尉としては、少年たちを安全なところに配置したつもりだったが、それが不幸なことになる。 アメリカ軍が橋に近づいて来た時、少年たちは、本気で、橋を死守しようとする。そこから悲劇が始まる。 橋の上に、七人の少年がぽつんと立つ姿を俯瞰でとらえる。大人たちから取り残されたように見える。突然、爆音と共に敵機があらわれる。橋めがけて機上掃射する。少年たちはあわてて地に伏せる。静けさが戻る。少年たちが起き上がる。しかし、1人だけそのままの少年がいる。撃たれていた。最年少のジギー。少年たちは、はじめて戦場の恐怖を知る。 完全に夜が明ける。向こうから米軍のせんしゃがあらわれる。戦闘が始まる。ヴィッキはそのむごいさまをリアルに、そして、感情をこめず、無表情にとらえていく。 たたかわなくてもいい戦いに少年たちは入り込んでゆく。おざなりな軍事訓練を受けてだけの十代の少年たちが、アメリカの精鋭部隊と戦って勝てるわけがない。 最年少のジギーをはじめ、ユルゲン、ワルターと、次々に死んでゆく。それまで戦争ごっこ気分だった少年たちが、戦場のすさまじさに恐怖し、銃声に怯える。小便をもらす。恐怖のあまり錯乱してしまう者もいる。「戦争は格好いい」「国のために命を捧げる」といっていた少年たちが現実の戦闘に直面し、幻想を吹き飛ばされてしまう。その姿が、非情に描かれてゆく。 全編、白黒。音楽もほとんどない。時折り金属音が入るだけ。あとは銃声、戦車の音、叫び声、泣き声といった現実音。画面は墨絵のように黒っぽく、勇壮な戦争映画の雰囲気は微塵もない。 七人の少年たちのうち五人までが死んでしまう。昨日まで元気だった仲間がいまはもういない。生き残ったリーダーのハンスとアルバートが疲れきり、とぼとぼ家へと帰る。そこにドイツ兵がやって来て二人にいう。「橋をこれから破壊する。もともと壊す予定にあったのに余計なことをした」。ドイツ軍はアメリカ軍の侵攻を防ぐためライン河をはじめいくつもの河にかかる橋を破壊した。この橋もそのひとつだった。少年たちに同情した大尉があえて危険の少ない橋の警備にあたらせたのだが、その温情がかえって仇になってしまった。 自分たちの必死の戦いは無駄な戦いだった。仲間の死は無駄死にだった。それを知ってそれまで終始冷静だったハンスが激情にとらわれる。そして橋を破壊しようとするドイツ兵を撃ち、もう一人の兵に撃たれて死んでしまう。 ハンスを助けようとドイツ兵を殺してしまったアルバートが一人、ハンスの死体を引きずりながら「家へ帰ろう、家へ帰ろう」と狂ったようにいうところで、映画は終わる。ここで、くだんの映画鑑賞フォームでこの映画のデータを見てみましょう。【橋】ベルンハルト・ヴィッキ監督、1959年独制作、1960年頃観賞<Movie Walker ストーリー>より敗戦前夜の中部ドイツ。高等学校の最上級生は十六歳。それより上はすでに戦場に狩り出されていた。こんなある日、はじめての空襲警報が鳴った。連合軍の飛行機が町はずれの橋に爆弾を落したのだ。ここは生徒たちの遊び場であり集会所であった。最上級生--母ひとり子ひとりの洗濯屋の息子ジギー、理髪店の息子カール、代々軍人の地主の息子ユルゲン、ナチの地区指導者の息子ヴァルター。疎開して来たクラウス、父を戦場に送ったアルバートと彼の家に同居しているハンスそれとクラウスと仲のいい女生徒フランツィスカの八人は早速出かけていった。橋は無事だった。翌日とぼしい材料を集めてボートを作っていた一同のところに召集令状が来た。親たちの心配をよそに少年たちは“祖国のために”雄々しく入隊していった。その夜突如として非常召集が発せられた。アメリカ軍が近接したのである。少年たちは勇んで出陣した。彼らの守備位置は橋だった。少年たちを戦火にまき込みたくない--と願う隊長のせめてもの思いやりだった。ところが意外にもここに戦車が来た。やがて戦略的に破壊される橋とも知らず少年たちは勇敢に戦った。その反撃は一時的に敵を後退させるほどだった。しかしやがて橋はドイツ軍のため爆破されようとした。生き残ったハンスとアルバートは呆然とするとともにはげしいいかりにかられた。アルバートの銃口がドイツ兵に向けられた。“橋”は残った。あとにはハンスの死体をひきずって町に向うアルバートの姿があった。<大使寸評>追って記入Movie Walker橋
2024.11.01
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ブログのトップ画面に【今夜の一曲】を掲げて、気分によって載せ代えているのだが・・・・歴代の曲をストックから並べてみます。【新規追加】薬師丸ひろ子を追加しました。・知りたくないの・コニーフランシス 翻訳 甘く切ない歌声を・夜の歌といえばmea culpa(夜は恋人)ですね♪・Edith Piaf-La foule・青江三奈メドレー1はどや。大人の歌やでぇ♪・Das gibt`s nur einmalはどないだ。元気が出るでぇ♪・枯れ葉散る秋たけなわとなりましたが、La Bohemeでも聴きましょう・道頓堀人情 天童よしみ上方の根性を見せたりんかい♪・A demain sur la lune (1969)落ち込んでいるので、こんな明るさがいいかも♪・めまい小倉桂は天才だなあ、やっぱり♪・愛しき日々小倉桂は天才だなあ、やっぱり♪・泣きたい夜もあるだろうPink Martini feat. Saori Yuki - Mas Que Nadaでも聴いて、元気出してよ♪・泣きたい夜もあるだろう由紀さおりの手紙でも聴いて、元気出してよ♪・PPMの悲惨な戦争はどないだ♪・桃色吐息【in N.Y '93】高橋真梨子はどないだ♪・Parlez moi d'amourムスクーリ風のこぶしがええでぇ♪・青江三奈メドレー1はどないだ♪・泣きたい夜もあるだろう高橋真梨子 ワインレッドの心でも聴いて、元気出してよ♪・踊り子~村下孝蔵~はどないだ♪・泣きたい夜もあるだろう時代 中島みゆきでも聴いて、元気出してよ♪・復活した薬師丸ひろ子 Woman "Wの悲劇"は、どないだ♪*********************************************************************【掲載候補】・情熱の花・内気なジョニー/ジョニー・ソマーズ・カレンダー・ガール/ニール・セダカ・John Denver-Take Me Home, Country Roads・Toi Qui Regarde La Mer (papillon theme) / Nicole Grisoni・さくらんぼの実る頃・弘田三枝子 60'sメドレー*********************************************************************【カラオケの錆び落とし】:カラオケ禁断症状が出そうより・寺尾聰 - Re-Cool ルビーの指環・時の流れに身をまかせ・李成愛 カスマプゲ・思いで迷子 チョー・ヨンピル・サチコ ニックニューサ・「思案橋ブルース」中井昭・高橋勝 とコロラティーノ・長崎ブルース 青江三奈・青江三奈メドレー1・踊り子~村下孝蔵~
2014.01.03
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簡易型ユニットバス「ほくさんバスオール」が登場した63年頃は、大使はまだ関西に出ていなかったので、実物を見たわけではないが・・・まるで、異国人がカプセルホテルを称賛するように、「ほくさんバスオール」がクールに見えるのでおます♪2006年まで販売されたそうだが、残念、実物は見ていません。2016.3.30(勝手に関西遺産)コンパクト どこでも風呂~より■バスオール 日本初の大規模ニュータウンといえば、千里ニュータウン。大阪府の吹田市と豊中市に広がり、1962年に入居が始まる。そのうち府営住宅約1万戸には風呂がなかった。 住民は地区ごとにある公衆浴場を利用したが、混み合ったり、仕事で遅くなって入り損ねたり。高度成長期の幸せを味わいつつ、ちょっと手間のかかる暮らし。そこへ登場したのが、簡易型ユニットバス「ほくさんバスオール」。63年のことだ。 電話ボックス状の箱に、浴槽、シャワー、湯沸かし器がそろう。室内やベランダでも半畳あれば置けた。酸素やプロパンガスを扱う北海酸素(ほくさん)が、ガスをたくさん使ってもらう狙いで売り出した。価格は6万円ほどだった。 これが千里ニュータウンで爆発的にヒット。最初に入居が始まった吹田市佐竹台に住み、管理人も務めた西田絢子さん(86)は、「早い家は入居の翌年ぐらいから使い始めた」。同じく佐竹台の畠中栄子さん(75)は73年ごろ、洗い場もある一回り大きいタイプをベランダに。「入っていると体がゴツンと当たることはあったけれど、お風呂ができて、それはうれしかった。置いていない家は数えるほどでした」と振り返る。建物が増築されるまで、使われ続けた。 ほくさんの流れをくむ会社「エア・ウォーター」(大阪市)の専務、赤津敏彦さん(70)は、営業マンとして東京や大阪を拠点に駆け回った。ほとんどが直販で、ベッドタウンの駅前や商店街、縁日で実演販売するのが基本だった。「寅さんと同じことをしていました」。お客に知人や親戚を紹介してもらいたくて、購入先の家まで出向いて歯磨き粉で磨き上げたこともあった。 「♪お風呂がほしい それならほくさんバスオール」というCMソングがつくられ、67年の映画「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」では、無人島にいる技術者らが使うキッチンにバスオールが登場。ほくさんの社報によると、吉永小百合さんとも映画で“共演”したという。利用者の声を反映してモデルチェンジを繰り返し、2006年まで販売された。 吹田市立博物館に3タイプの現物が並ぶ。おそらく、日本でここだけの光景だ。2台は博物館の所蔵で、屋根がすぼんでいる最初期の1台はエア・ウォーターが寄託した。 学芸員の五月女賢司さん(41)はこう話す。「ウサギ小屋とも呼ばれた家の中で、機能を小さくまとめる技術はたいしたもの。昔を知る人は懐かしみ、若い世代は箱庭みたいな『小宇宙』を備えた未知の存在として楽しんでくれています」(編集委員・大西若人)■デザイン評論家 柏木博さん(69) 千里ニュータウンは一つの住区内で生活が完結しがちだったので、話が広まるのも早いし、自分で何とかしなければ、という気持ちも強いと思う。バスオールのヒットの背景でしょう。 日本らしい小型化というより、最小の空間で最大の効果を生もうとするアメリカの建築家で発明家のバックミンスター・フラーの発想に近い。どこでも置けるという考え方が面白く、災害時も活用できそうですね。お風呂アドバイザーさんのバスオール 博物館へ行くがディープでおます。バスオール NHKテレビ登場決定!よりいま吹田市立博物館では、日本初の家庭用ユニットバス・バスオール 1号から洗い場つきまで、3台を観ることができます。向かって右の1号は、2012年末にメーカーのエア・ウォーター社さんから寄託されたもの。中央は、2006年の千里ニュータウン展を観た方からの寄贈品。左の洗い場付きは、【洗いの殿堂】の記事を見たcaveさんが2010年に寄贈したものです。勝手に関西遺産8勝手に関西遺産7勝手に関西遺産6
2016.04.09
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最近は、品が無くて騒がしいバラエティ番組が多いので・・・見るに耐えない大使は、即チャンネルをスルーしているのです。 一方で、知っている人は知っている「探偵!ナイトスクープ」という長寿番組があるんですが、関西の視聴率では3位~5位あたりをウロウロしていて健闘しているわけです。とにかく「探偵!ナイトスクープ」では、市井の民がおおらかな可笑しさを謳歌していて、ええでぇ♪ちょっと気に食わないのは、西田某という八方美人の異邦人を局長に据えたことであるが・・・まあいいとしよう。 この番組の黎明期(1991年)に、「全国アホ・バカ分布」を実地調査したことがあり、大うけであったことは関西人はよく覚えているが・・・・民俗学的なフィールドワークとしてもバッチグーであり、学者連中を唸らせたわけですね♪この番組によって結実した「全国アホ・バカ分布図」です・・・すご~い♪蔵書録を作っていたとき「全国アホ・バカ分布考」という本を見つけたので紹介します。なるほど傑作ノンフィクションですか・・・Amazonで買おうかと思っているところです。【全国アホ・バカ分布考】松本修著、新潮社、1996年刊<「BOOK」データベースより>大阪はアホ。東京はバカ。境界線はどこ?人気TV番組に寄せられた小さな疑問が全ての発端だった。調査を経るうち、境界という問題を越え、全国のアホ・バカ表現の分布調査という壮大な試みへと発展。各市町村へのローラー作戦、古辞書類の渉猟、そして思索。ホンズナス、ホウケ、ダラ、ダボ…。それらの分布は一体何を意味するのか。知的興奮に満ちた傑作ノンフィクション。 <大使寸評>番組に依頼した人の着眼がよかったのか、それを採用し追及させた松本修プロデューサーが偉かったのか♪Amazon全国アホ・バカ分布考ノンフィクション100選★全国アホ・バカ分布考|松本修ところで、同志社大学中退にして「永遠の0」の著者でもある百田尚樹さんは放送作家となった後、『探偵!ナイトスクープ』の構成も手がけていたそうです。やはり、どこかアホの雰囲気のある人なんでしょうね(詳しくは知らないけど)さきほど、Amazonに「全国アホ・バカ分布考」を発注したので、14日までに手元に届く予定です。読後の感想は後ほどに♪wikipediaでアホ・バカ分布図の成り立ちを調べました。wikipediaアホ・バカ分布図より 1990年(平成2年)1月、関東人の夫がよく「バカ」という言葉を使うのに疑問を持ったという関西人の女性(自身は「アホ」を使うという)からの「アホとバカの境界線はどこか調べて欲しい」といった内容の依頼が『探偵!ナイトスクープ』で紹介された。この依頼を担当した北野誠が、アホとバカの境界線を調べるべく東京駅から調査に乗り出したものの、名古屋駅前での調査では「アホ」でも「バカ」でもない第三の言葉として「タワケ」が使われていたため、急遽「アホ」と「タワケ」の境界線を探ることに変更。岐阜県関ケ原町の住宅街で「アホ」と「タワケ」の境界線と思われる地域を発見したため、岐阜県関ケ原町が「アホ」と「タワケ」の境界である、といった結論を出した。 ところが、当時局長だった上岡龍太郎は、「では、バカとタワケの境界線はどこなんですか?」と問いかけた。また他の探偵からも「大阪の西の境界線はどうなっているのか」などの質問が相次いだため、上岡は「今年一杯かかっても、きちっと地図に境界線を入れてください。」と北野に継続調査を行うことを命令。こうして、本格的なアホとバカの境界線の調査に探偵局は乗り出したが、視聴者からの情報投稿を元に第一次、第二次の分布図を作成した後、しばらくこの件に関する調査は休止状態となった。・・・・ 追加予算を得た番組スタッフは、言語学者の徳川宗賢のアドバイスを受けつつ、それまでの予算規模では困難だった地方自治体の教育委員会への大規模なアンケート調査を行い、1991年(平成3年)5月に「日本全国アホ・バカ分布図」が完成。アンケート結果に基づく追加ロケを行ったうえで特番として放送された。 そして、1991年(平成3年)日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞受賞・第29回ギャラクシー賞選奨・第9回ATP賞グランプリを受賞した。
2012.07.12
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元旦那さんの没後に休養していた西原理恵子さんですが・・・毎日新聞に毎日かあさんが復活したようです。パソコン雑誌でときどき見ていた程度のファンですが・・・・NHKの“つながるテレビ@ヒューマン”でドスのきいた?ご尊顔を拝見して以来、その作品より作者のほうが気になるのです。さいばら彼女の作品群は、いずれ・・・ドングリスタンの国定図書となるんでしょう。ウィキペディアによる西原理恵子さんのプロフィールが凄いですね。(ウィキペディア編者の入れ込みも凄いが)私立土佐女子高等学校在学中に飲酒によって退学処分を受け、その処分をめぐって学校側を訴える。その訴訟の際に、フリーライターの保坂展人(現社民党衆院議員)と知り合う。その後大検に合格し、武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に入学。飲食店で皿洗いやミニスカパブでホステスのアルバイトをしながら成人雑誌のカットを描いていた。カットを目にした小学館の編集者八巻和弘にスカウトされ、同校在学中に1988年『ちくろ幼稚園』(『週刊ヤングサンデー』)でデビュー。多くの女流漫画家フォロワー(追従者)を生み出すが、彼女たちは西原の作風の表層的な部分を受け継いだにとどまり、西原の作品の根本にある凄みや鮮烈な叙情に欠けていると見られてしまうことが多い。例えばいしかわじゅんには「女の無頼は西原理恵子一人で充分」と言わしめた。これは西原自身もそう考えているようで、倉田には「あなたが進んでいる道の先に、私はいない」という意味のアドバイスをしている。だんだんとへたになる画風というのが・・・・笑ってしまいます。西原理恵子
2007.06.29
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「図書館大好き」として、日頃から図書館を愛顧している大使にとって、出版不況と図書館の関係は、他人事と思えないわけです。このたび、朝日新聞に次の記事が載ったので、興味深く読んだのです。2015.10.29本が売れぬのは図書館のせい? 新刊貸し出し「待った」より 公立図書館の貸し出しにより本が売れなくなっているとして、大手出版社や作家らが、発売から一定期間、新刊本の貸し出しをやめるよう求める動きがある。背景には、深刻化する出版不況に、図書館の増加、サービス拡充もある。本を売る者と貸す者、相反する利害のはざまで、出版文化のあり方が問われている。 「増刷できたはずのものができなくなり、出版社が非常に苦労している」。10月半ば、東京都内で開かれた全国図書館大会の「出版と図書館」分科会。図書館関係者が多くを占める会場で、新潮社の佐藤隆信社長が、売れるべき本が売れない要因の一つは図書館の貸し出しにある、と口火を切った。 佐藤社長は、ある人気作家の過去作品を例に、全国の図書館が発売から数カ月で貸し出した延べ冊数の数万部のうち、少しでも売れていれば増刷できていた計算になると説明。司会役の調布市立図書館(東京都)の小池信彦館長が「それは微妙な問題で……」と言葉を濁す場面もあった。 新潮社を旗振り役に大手書店やエンターテインメント系作家らが、著者と版元の合意がある新刊について「貸し出しの1年猶予」を求める文書を、11月にも図書館側に送る予定だ。■困惑する図書館協会 背景には、2000年代以降、深刻化する出版不況がある。国内の書籍(雑誌を除く)の売り上げはピークの1996年から減る一方で、14年は7割弱に落ち込んだ。漫画などを持たない文芸系出版社はとりわけ苦境にある。 大手出版社の文芸作品は一般的に、最初に刷った部数(初版)の9割が売れて採算ラインに乗り、増刷分が利益となるといわれる。数十万部に到達するベストセラーはまれで、大御所から中堅人気作家による初版2万~3万程度の作品で収益を確保できるかが死活問題だ。だが、近年はこれらの作品でなかなか増刷が出ないという。 出版不況の一方、全国の公共図書館(ほぼ公立)は増加傾向にある。10年で400館以上増え、3246館に。貸出冊数も軌を一にする。 今回の「貸し出し猶予」の要請の動きに、日本図書館協会は困惑する。山本宏義副理事長は「図書館の影響で出版社の売り上げがどのくらい減るかという実証的なデータがあるわけではない」と話す。 貸し出し猶予をめぐっては、作家の樋口毅宏さんが11年に出した『雑司ケ谷R.I.P.』(新潮社)の巻末に、発売から半年間、「貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げます」と記したケースもある。その際に応じた図書館もあったといい、今回準備が進む要請に対しても、図書館ごとの自主判断に任せることになるという。■海外では国による補填も 問題は、今に始まった話ではない。00年代初めごろ、作家らから「図書館が無料貸本屋化している」という批判が表面化。 02年には大手出版社による「出版社11社の会」が発足し、一つの図書館が人気作品を複数冊購入する「複本」を問題視してきた。 03年には、図書館協会と日本書籍出版協会が、複本の商業的影響の実態調査をしたが、数字の評価をめぐって双方の議論が平行線をたどった経緯がある。 「発端は70年代にさかのぼる」。そう分析するのは、慶応大の根本彰教授(図書館情報学)だ。根本教授によると、高度経済成長を背景に自治体が住民サービスを重視しはじめ、その中で図書館は「貸し出し」の機能を強く打ち出すようになったという。「出版は江戸時代以来、根付いてきた産業。そこに公共による資料の無料提供という全く異なる理念が乗っかった」 海外はどうか。EU(欧州連合)では図書館で貸し出された分を国が著者に補填する制度を導入する国も。英米でも、貸し出しの一部有料化や図書館用の本を仕立てて高価格化するなどの方策がとられているという。 しかし日本では、公立図書館が入館料その他の「いかなる対価をも徴収してはならない」と規定する図書館法に抵触するか、そもそも議論が低調なままだ。 根本教授は「貸し出し猶予の要請は、出版社側のエゴと批判が出そうだが、図書館にも問題はある。コンビニ的に貸し出しする図書館運営ではなく、高度な参照サービスや地域・行政資料を蓄える機能を重視し、商業出版とのすみ分けのあり方を考える時期に来ている」と話している。(板垣麻衣子)大使なら、出版文化維持のためなら「貸し出しの1年猶予」も、我慢できるんだけど。・・・と言いつつも、本屋で見つけた新刊本を、図書館に借出し予約している裏切り者である(汗)。神戸市図書館も人気作品を複数冊購入する「複本」を行っているが、この「複本」のおかげで、予約待機期間が劇的に緩和されているわけで・・・・心中、複雑な思いがあるわけです。
2015.11.02
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<『実録アヘン戦争』1>図書館で『実録アヘン戦争』という新書を、手にしたのです。かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。【実録アヘン戦争】陳舜臣著、中央公論新社、1971年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データ無し<読む前の大使寸評>かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。amazon実録アヘン戦争貿易品としての茶とアヘンを、見てみましょう。p30~38<奇形通商> 茶は16世紀のはじめ、船員や伝道士によってヨーロッパに紹介され、はじめは薬屋で貴重薬としてはかり売りなどをしていたが、しだいに喫茶の風習が一般にひろまり、とくにイギリスでは、19世紀にはいってから「ティー・タイム」が習慣化し、茶の需要は急増した。 茶の供給源は中国にしかなかった。アッサムやセイロンで茶の栽培がはじめられたのは、後年のことである。だから、金額にしてもおびただしい額の茶葉を、イギリスは中国から輸入しなければならなかった。 ところが、それに対して、イギリス側では、適当な見返りの輸出品がなかった。毛織物の輸出に力を入れようとしたが、それがどうしても中国人の好みに合わないことがわかって、輸出量も伸び悩んだ。時計や望遠鏡など、たしかに乾隆帝の勅諭にもみえているように、奢侈品であって、無くてもすませるものだった。 中国の出超、イギリスの入超という、いわゆる「片貿易」になる。見返りの輸出品がないので、巨額の茶葉購買の代金は、どうしても現金決済となる。このようにして、イギリス船はメキシコ・ドル、スペイン・ドルなどの銀貨を積んで広州へ行き、そして茶葉を積んで帰るということになった。(中略) 中国で本格的に銀貨が出現するのは、辛亥革命以後のことで、孫文や袁世凱の像をもった一元銀貨が出まわり、前者は「孫頭」、後者は「袁頭」と称されていた。 おれはともかく、最も多く流通したのはメキシコ銀貨で、これは鷹の模様があったので「鷹洋」と呼ばれた。「洋」とは洋銀、つまり西洋の銀貨という意味である。 茶葉の輸出代金として、この洋銀が中国に流れ込み、そのまま流通するようになったわけだが、現銀が国内に溢れているとき、庶民はわりあい暮らしやすい。その反対のケースになれば、人民の生活は圧迫されるのだ。 茶葉を大量に輸出し、みるべき輸入品がないうちは、銀は国内にだぶついていた。ところが、みるべき輸出品どころか、こんどはとんでもない輸入品が、中国の市場に出現したのである。 アヘンである。 インド製のアヘンの輸入が、清国の貿易形態を逆転してしまった。イギリスはこのアヘンという新製品を開発することによって、万年入超という、アンバランスな対清貿易を正常化しようとしたのである。 それは成功した。 成功しすぎたのである。 イギリスが清国から輸入する茶葉の額よりも、清国に販売するアヘンの額のほうが、はるかに多くなったのだ。そうすると、これまでとは逆の現象が起こる。清国側としては、アヘン購入代金の見返りとして、茶葉の輸出だけでは足りなくなって、現銀を充てねばならなくなった。銀がどんどん海外に流出して行くのである。 極端な出超から、極端な入超へ。・・・このアブノーマルな劇的逆転は、とうぜん人民の生活のうえに、黒い影をなげかけた。(中略)<芥子の妖魔> 明の季時珍の著わした『本草綱目』に、 ・・・鴉片前代窄聞、近方有用之者。 とある。前代にはめったに聞かなかったものだが、最近の処方にこれを用いることがあるというのだ。だから、もともとアヘンは中国にあったものではない。opiumの語原はアラビア語であるから、アヘン吸食の風習は、おそらく中近東あたりが発生地であろう。 いったんアヘンにとりつかれると、なかなかそれをやめることができない。 ジャン・コクトオは ・・・芥子は気が長い。いちどアヘンをのんだ者はまたのむはずだ。アヘンは待つことを知っている。 とか、あるいは、 ・・・いちどアヘンを知ったあとでは、アヘンなしで生きることは難しい。 と、のべている。(中略) 明の万暦17年(1589)の関税表によれば、アヘン二斤の値は銀条二個に相当し、その税率は十斤につき銀二銭と定められていた。正式の輸入が認められていたわけだが、もちろん薬材としてであって、その数量も微々たるものであった。 このアヘンが、病気を治す薬としてではなく、嗜好品として中国にひろまったのは、清代にはいってからである。この本も陳舜臣アンソロジーR7に収めておくものとします。
2018.07.28
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NHKスペシャル「中国文明の謎」シリーズの続きです。3回シリーズのうち、最終の今回は「始皇帝の野望」がテーマであり興味深いが・・・・臍が曲がった大使はどうしても「奢る中華も久しからず」という見方になるのです(笑)・・・・先ず番組HPを覗いてみましょう。中国文明の謎:第3集より始皇帝 紀元前770年に始まる春秋戦国時代は、群雄が割拠した激しい戦乱の時代だった。その戦乱を終わらせ、今の「中国」の原型を築いたのが「秦」の始皇帝である。最近の研究で、「秦」はさまざまな勢力を支配するにあたって、「夏」王朝の権威を巧みに利用していたことがわかってきた。「中華(=夏)」という思想がどのように誕生したのかを探っていく。この番組を見ながらツイッターでメモしたのです。(ビデオ録画すればいいのだが、ビデオ付きテレビは嫁さんがほぼ独占しているので、ツイッターでメモするしかないのです)1:21時からNHKスペシャル「中国文明の謎」第3集がはじまるでぇ・・・・ 奢る中華も久しからずということか。(コレ コレ)2:毎朝、日の出に合わせて国旗掲揚、それを見る数万の群衆・・・・中華とは何なのか?兵馬俑が語る・・・中華の謎・・・・5色に彩色されていた2000年前の兵馬俑5族を平定した始皇帝の中華帝国とは?・・・今回のイントロである。3:夏王朝の謎の儀式発掘された封泥が極廟(都の中心)の存在を示した。皇帝という称号をつくり、自らを始皇帝と称した。中心の中華に対して、東夷、西戎、南蛮、北狄秦発祥の地(秦〇村)に馬車が埋葬されていた。4:西戎の覇王はたびたび中原に向かうが全滅をくりかえした。中原の国々が抱いた危機感が中華思想を生む。夏王朝以来の伝統の儀式で結束を深めた(牛耳る:儀式で牛耳の血を飲む)中原の国々を正統とし、周囲を野蛮と見るのが中華思想であるが、秦は反発した。5:秦が中原の一角を落とした・・・楚の国民の反発が、発想の転換を促した。占領地域を含め同化することで子供を夏子とした。なるほど、現在の新疆、チベット占領と同じだ。中夏が中華に変わる。6:金印が中華の一員であり冊封国であることの証しとした。秦の都は天体に合わせて都市計画された。極廟は北極星に重なった。中華とは宇宙の中心とは畏れ入ったものだ。7:1911年辛亥革命により最後の王朝が滅んだが・・・・5族の同化をもって中華民族とする・・・毛沢東もこの思想を継承した。始皇帝が生んだ中華という世界観は4000年の歴史を経て今も生きている。・・・・奢る中華と言われる由縁なんでしょう。(大使談)posted at 21:49:49なるほど、秦の膨張主義が中華思想を生んだということがよく分かる内容となっていました。これが、今も帝政を敷く中国共産党の覇権主義に繋がっているんでしょうね。(コレコレ、その解釈はバイアスがかかっておるぞよ)東夷の国の民として、冊封と辺境についてお勉強です。wikipedia冊封より 冊封が行われる中国側の理由には華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想は世界を「文明」と「非文明」に分ける文明思想である。中国を文化の高い華(=文明)であるとし、周辺部を礼を知らない夷狄(=非文明)として、峻別する思想である。これに対して王化思想はそれら夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることが出来ると言う思想である。つまり夷狄である周辺国は冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。 冊封国側の理由としては、中国からの軍事的圧力を回避できること、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築けること、当時朝貢しない外国との貿易は原則認めなかった中国との貿易で莫大な利益を生むことが出来ることなどがあった。また冊封国にとっては冊封国家同士の貿易関係も密にできるという効果もあった。wikipedia辛亥革命より<チベット・モンゴル・満洲・東トルキスタンなどの辺境 >1913年1月11日、チベット・モンゴルは相互に独立承認を行い、外部からの攻撃に対しては相互に援助しあうことなどが約された。チベットは1949年に人民解放軍の侵攻を受けるまで独立を維持した。しかし、中華民国は南モンゴルを支配下に組み込んだためソビエトの支援を受けた北モンゴルのみが独立を達成できた。1930年代に入ると満洲では満洲国が建国され、東トルキスタンでは東トルキスタン共和国が建国されるなどしたが、漢民族による国共内戦が終結し中華人民共和国が建国されると、辛亥革命後に孫文が提唱した通りに多くの周辺民族地域を中国に組み込むことに成功した。NHKスペシャル「中国文明の謎」2NHKスペシャル「中国文明の謎」1さあ今からETV特集『東京という夢 YASUJIと杉浦日向子』や・・今晩は忙しいこっちゃ♪その漫画は今から25年前に世に出た。卒業アルバムに「タイムマシンがほしい」と書いた杉浦日向子
2012.12.03
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図書館で『犬のしっぽを撫でながら』という本を、手にしたのです。おお 小川洋子のエッセイ集か♪…個人的な小川洋子ミニブームの一環で借りたわけでおます。【犬のしっぽを撫でながら】小川洋子著、集英社、2006年刊<商品の説明>より『博士が愛した数式』の著者の痛快エッセイ。数の不思議に魅せられた著者の「数にまつわる」書き下ろしエッセイのほか野球の話、本の話、犬の話などを収録。<読む前の大使寸評>個人的な小川洋子ミニブームの一環で借りたわけでおます。rakuten犬のしっぽを撫でながら小川さんの仏語訳小説の出版社について、見てみましょう。p46~49<アルルの出版社> 私の小説を初めて翻訳出版してくれたのは、フランスだった。今から十年近く前のことだ。 日本語で小説を書いても、世界で読まれる可能性は低い。日本に外国文学が入ってくるのと同じ勢いで、日本文学も外国へ、という訳にはいかない。文学に限っては、アンバランスな輸入超過が続いている。 そんななかで、ベストセラー作家でもない私の作品が、十年もフランス語で出版され続けているのは、幸運というよりほかにない。素晴らしい翻訳家と出版社に巡り合えたおかげである。 出版社はACTES SUDといい、南仏のアルルに本社がある。パリではないことからも分かるとおり、ごく小さな出版社だ。しかし小さいからこそ、遠い極東の国の小説に目をとめ、大事にすくい上げるだけの精神的なゆとりがあったように思う。 2003年の9月、初めてアルルを訪れる機会に恵まれた。出版社は町の中心にあり、それでいて騒々しさは一切なく、目の前をローヌ川がゆったりと流れている。 中世の建物をそのまま利用しており、一階は書店、レストラン、映画館、ギャラリーなどになっている。その上がオフィスである。本作りだけでなく、もっと広くアルルの文化的な要素が、その建物に凝縮されているようだった。(中略) アルル滞在中、出版社の社長のご夫婦が、ランチへ招待して下さった。町の中心から、ひまわり畑が広がる中を車で15分くらい走ったところに、ご自宅があった。フランス革命の頃建てられた農家を改装したという、素晴らしいお家だった。緑豊かな庭が広がり、オリーブの林があり、時間のしみ込んだ石造りの家全体に蔦が絡まっている。地中海から吹いてくる風が、その蔦の葉を優しく揺らしていた。 社長はユベール・ニセン氏。最初はたった5人からスタートして、ACTES SUDを作り、育ててきた。髪はすっかり真っ白だが、ブルーのシャツに同じ色のバンダナを首に巻いて、とても若々しい。奥さんのクリスティーヌさんは、ポール・オースターの翻訳者である。 奥さんが用意して下さったのは、心のこもった、家庭の匂いのする温かいお料理だった。デザートは庭に野生している木苺だった。開け放した食堂のドアから緑の香りが吹き込み、時折り遠くで、教会の鐘が鳴っていた。日本の小説について、日本語について、夢中で話し、お代わりをすすめられるままに夢中で食べている間、私たちの足元で、黒いラブラドールの老犬が居眠りをしていた。 食事が終ったあと、二階にあるニセン氏の仕事部屋へ案内された。20畳くらいはあっただろうか。三方の壁はびっしり、天井まで届く本で埋め尽くされていた。南向きのアーチ形の窓からは、オリーブ林が見えた。隅のテーブルにやりかけのゲームが出しっぱなしになっていたり、たった今文芸欄を切り抜いたばかり、といった感じでル・モンドが広がっていたり、ニセン氏の体温がそのまま伝わってくるような部屋だった。 「あそこからスタートしたんだよ」 窓の向こうを指差してニセン氏は言った。そこは元々牛小屋だったという建物だった。 「いい本を作りたい、ただそれだけの情熱で、あの牛小屋からスタートしたんだ」 決して自慢気ではなく、しかし誇りに満ちた口調だった。 「ここに君の書いた本はすべてあるよ」 今度は部屋の本棚を示して言った。 「十年前、君はフランスでは全くの無名だった。しかし今では、君の小説を多くのフランス人が読んでいる。たとえ君がこれから一冊の本も書かなかったとしても、ここにある本は永遠に残る。私の仕事とは、つまりそういうことなんだ」 私は胸が一杯になり、メルシー…とただ繰り返すしかなかった。私の小さな仕事部屋で書かれた小説が、アルルのニセン氏の書斎にたどり着くまでの、長い道のりを思った。そこに携わってくれた、文学を愛する人々すべてに、感謝を捧げたい気持だった。1
2017.09.21
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図書館で『実録アヘン戦争』という新書を、手にしたのです。かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。【実録アヘン戦争】陳舜臣著、中央公論新社、1971年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データ無し<読む前の大使寸評>かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。amazon実録アヘン戦争英メネシス号の中国兵船砲撃アヘン戦争開戦前夜あたりを、見てみましょう。p128~130<実力行使> 公行は大へんな問題を背負い込んだ。 夷人がこの国に来るのは、アヘンを売って、茶葉を買うためである。 アヘンを持ち込めば殺されてもよい。・・・そんな誓約書に、夷人たちがおいそれとサインをするはずがない。 そのうえ、現在夷人が〇〇沖にストックしているアヘンを、ぜんぶ没収されるために供出せよというのだ。 困ったことに、天朝である中国には対等の国家がなく、したがって外交関係もありえないという“たてまえ”である。したがって、外交を担当する役所もない。夷人のことは、すべて公行というルートを通してなされる。たとえば、すべての外国船が広州にはいるとき、公行のメンバーの誰かが保証人とならねばならない。国家の外交と通商事務を、民間の同業組合が一手に引受けているという変則的な形態である。商売のうえでは独占ということになって、大そうけっこうであるが、こんどのような難題がもちあがると、たちまち頭が痛くなるのだった。 期限と定められた三日のあいだに、公行総商の伍紹栄はげっそりと痩せてしまった。問題が解決する見通しはまったくなかった。 いったい、公行は正式の特許商人だから、アヘンは扱うことができない。それなのに、アヘン問題から起こったゴタゴタで、こんな苦しい板挟みになるのだから、割の合わない話である。 かつて公行のメンバーであった同泰行という店が、自分が保証人になった外国船からアヘンが発見されたというだけで、貨物の50倍の罰金刑を受けたことがあった。 …弛禁論が実現しておれば、こんな苦労もなかっただろう。 そんな愚痴がメンバーの口からもれたであろう。 夷人たちは、公行から示された諭帖を、頭から拒絶した。話し合いの余地もないという態度であった。 約束の期限は2月7日であった。新暦では3月21日で、春分にあたる。そのためか、林則徐はその日、なんの行動も起こさなかった。翌日も代理の役人を十三行街に派遣いただけである。 伍紹栄はけんめいに夷人たちのあいだを説いてまわった。 …どうせこの国の役人のことだ。こけおどしにすぎない。賄賂をはずめということだろうが、そうはさせないぞ。 夷人の大部分は、そんなふうに考えていた。これまで清国の役人は、ソデの下をつかませると、どうにでもなったからである。 伍紹栄は、「欽差大臣」という役職を説明し、これは非常のときにしか任命されないもので、最近では7年まえの台湾叛乱にさいして、福州将軍瑚松額が任命された一例のみだから、ことは重大だ、と熱っぽく説く。やっと夷人たちも、こんどは金で解決できそうもないとわかったようだ。 欽差大臣ともあろう者が、いったん言い出したことを、かんたんに引っ込めることはできないだろう。では、すこし奮発して、面子を立ててやるか。…こうして、夷人たちもちょっぴり譲歩した。 誓約書のことにはふれずに、ストックのアヘン1037箱を供出しようと答えたのである。だが、林則徐は各方面の情報を検討して、アヘン母船にストックされているアヘンは、約2万箱あると推定していた。 …千箱などでは問題にならん! と、その申し出は一蹴された。 追い打ちをかけるように、欽差大臣から夷館内の一英人に逮捕状が出された。 デント商会のデントである。 もともと林則徐は代表的アヘン商人としてジャーディン・マセソン商会のジャーディンを逮捕して、みせしめにするつもりであった。ところが、かんじんの本人が、林則徐着任五日まえに、イギリスに帰国していたのである。デントはその身代りであった。この本も陳舜臣アンソロジーR7に収めておくものとします。なお、東インド会社については『東インド会社とアジアの海賊』という本が面白いのです。『実録アヘン戦争』2:東インド会社の退潮『実録アヘン戦争』1:貿易品としての茶とアヘン
2018.07.28
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図書館で『中国人のものさし日本人のものさし』という本を、手にしたのです。北京五輪の聖火リレーで、どこに行っても繰り広げられたいざこざがあり、「どこに行っても嫌われる中国人」という側面が見えてきたわけで・・・これがチャイナ・スタンダードというものかと思ったものです。つまり、いつまでたっても自己認識ができないのが、中華という由縁なんでしょうか?【中国人のものさし日本人のものさし】村山孚著、草思社、1995年刊<「MARC」データベース>より日本と中国は末長く仲よくつきあっていかなければならない隣り同士。中国人を知るユニークな比較文化論。挨拶、食願望、マナーなど暮らしの中で探った中国人の考え方の規準と行動原理を紹介。<読む前の大使寸評>北京五輪の聖火リレーで、どこに行っても繰り広げられたいざこざがあり、「どこに行っても嫌われる中国人」という側面が見えてきたわけで・・・これがチャイナ・スタンダードというものかと思ったものです。amazon中国人のものさし日本人のものさし日中の「ありがとう」と「すみません」を、見てみましょう。p85~87<「ありがとう」と「すみません」> ある商工団体の講演会で、中国人が客をもてなすことにかけて天才的であり、よく人を遇するという話をしたところ、質問の時間で異論をとなえる人がいた。その人は、ラジオトテレビで中国語を独習し、大いに張り切って団体の中国旅行に初参加したのだが、商店やレストランのサービスぶりにガッカリしたという。 それでも、友誼商店では「謝謝」といわれたが、町のデパートや本屋ではついぞ耳にしたことがなく、レストランでウェイトレスが運んできたスープをこぼしても「対不起」(すいません)ということばが出なかった、あれはどういうことなのか、というのであった。たしかにこれはおかしい。 一方、日本にきて半年ほどになる中国人の留学生から、日本人は礼儀正しく民主的だと思っていたが、住んでみると「ありがとう」、「すみません」は口先だけのことが多いし、敬語も相手の身分によってきびしく使い分けなければならない、これはどういうことですかと言われたことがある。これもたしかにおかしい。 双方がおかしいと感じあうことは、理解への第一歩を踏みだしたわけで、歓迎すべきことだ。きれいごとのつきあいでは長続きしないし深まりもしない。 サービスの問題はあとまわしにして、まず「謝謝」と「対不起」から検証していこう。いうまでもなく、訳せばそれぞれ「ありがとう」、「すみません」になるわけだが、使い方にはちがいがある。もともと、ことば、とくに会話はTPO抜きには考えられない。 その意味では、「ありがとう」と「謝謝」はちがうのだ。もちろん「ありがとう」と「サンキュウ」だってちがう。わたしははじめて飛行機内の案内の英語アナウンスを聞いたとき、おわりにいちいち「サンキュウ」というのに違和感を感じたものだった。 日本人は“礼譲民族”で、やたらに丁寧語や尊敬語を使い、とくにサービス部門従業員の客に対するそれは念入りだが、客のほうは横柄なことば使いをする連中が少なくない。たとえば、レストランで注文するとき、「サンキュウ語族」は注文品の名を言ったあとに、必ず「プリーズ」をつけるようだが、海外旅行で彼らの本拠を訪れる日本人はこれをつけず、ウェイトレスには「傲慢な客」の印象を与えることがあるらしい。 習慣や背景を考えなければあらないわけで、われら「ありがとう多用族」のものさしで「われこそは世界に冠たる礼譲民族なり」と胸を張り、「謝謝稀少族」に非礼のレッテルを貼りつけるのは見当ちがいだろう。 たしかに中国第三次産業のサービスぶりは、自他ともに認めるほど問題が多い。国営商店では「売ってくださる」のだから「謝謝」は客のほうから言わねばならぬ。だが、「謝謝」ということば自体に限っていえば、必ずしも従業員だけの罪ではなく、「謝謝」ということば自体が、「ありがとう」や「サンキュウ」のように気軽には出てこない重い意味を持っているように思われる。ウーム 「ありがとう」、「サンキュウ」、「謝謝」の意味にこれだけ重いものがあったのか。『中国人のものさし日本人のものさし』1
2018.11.07
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図書館で「漆・柿渋と木工」というわりと地味な本を手にしたのだが…これだ、これだ♪木地師が載っているし、民俗学と木工がダブルで語られるとは、ドングリ・ワールドなんですね。それと『脊梁山脈』を読む前に、木地師について勉強しておこうとも思うわけです。【漆・柿渋と木工】田村善次郎監修、農山漁村文化協会、2012年刊<「BOOK」データベース>より阿波半田の塗師、宮城県鳴子の漆かき、越前大野の木地屋と塗師、各地の柿渋屋、南会津の太鼓屋など、伝統工芸を受継いできた人々を訪ねる。 <読む前の大使寸評>これだ、これだ♪木地師が載っているし、民俗学と木工が語られるとは、大使のツボを突いているわけです。全国で五ヶ所の民俗学的フィールドワークが紹介されているが、いずれも昭和52年から61年までのレポートであり、これらが産業として今も残っているか、やや不安を覚えるのです。Amazon漆・柿渋と木工木地師はいろんな職人集団のなかでも最も上流側で、下請けにあまんじていたようです。<木地屋のくらし:須藤護>よりp173~174 木地屋の生活の場も仕事場も山であった。古くは家族ともども年間通しての山暮らしであったが、越前地方では次第に里村や大野市に降り、春から秋までの雪の降らない間だけ山に入るようになったようである。スエさん夫婦も結婚した当初は、冬期間も山を降りなかったというから、大正時代の後期ごろまでは山から山へ渡り歩く木地屋の姿があったとみられる。 さて、越前地方の木地業はかなり早くから分業が成立していたようである。深い山に入って仕事をする職人は先山師とアラガタを挽く木地屋であった。先山師は原木を倒し、円筒形の木片をつくる職人、それを足踏みロクロを使ってアラガタをつくる職人を木地屋といった。アラガタは漆器の産地である河和田や山中に送られて、さらに仕上げをする。この作業をする職人もまた木地屋であった。 先山師の仕事は原木であるトチやケヤキの大木をヨキとノコギリで伐採することから始まる。まず木を倒す方向を見定めて、ヨキグチをあける。ヨキグチというのは倒したい方向にヨキで木の側面をえぐり取ることで、木の芯までヨキが入ると、今度はその背後からノコギリで挽いて見定めた方向に木を倒す。倒した木は3尺の長さに玉切りをして、切断面に椀の大きさに合わせて円を描く。これが椀の直径にあたるが、このときアガタ(芯の赤味)は、はずして木取りをしなければならない。次に円と円との間のいらない部分に溝を掘るようにヨキで削り取り、玉切りした木から円筒状のトボ(丸太)を取り出す。これをヒを掘るという。 ここまでの作業は原木の伐採現場で行い、トボを背負って作業小屋まで運ぶ。夫婦で入っている先山師は、男がトボをつくり、運ぶのは主に女の役目であったという。 そして作業小屋の中でダイギリとよばれるノコギリで椀や鉢の高さに合わせて挽き、円盤状の木片をつくる。これを枚切りといい、木取りの方法はタテキドリである。この枚切りも夫婦で行う場合が多かった。そして枚切りしたものを木地小屋に運び、それからが木地屋の仕事になる。 木地屋の仕事はロクロ挽きである。枚切りした木片をロクロにかけ、まず内側を挽き、次に木片をひっくりかえして外側を挽く。そして最後にコウダイの内部を挽いて大体の椀の形にする。これをアラガタといい、アラガタは1ヶ月ほど煙乾燥した後に、河和田や山中に送られる。<越前の木地屋の歴史:須藤護>よりp180 元亀3年の文書は、当時木地ものを扱う職人として、板物木地の職人と、椀などの丸物木地をつくる職人、そして塗物をする職人が分化していたことを示している。引物師とあるものは挽物師の意とみるのが自然であるが、轆轤師も挽物師も、ロクロを使って丸物をつくる職人ということになるので、あるいは膳や箱物をつくる指物師のことであったかもしれない。 また永禄と天正の文書では、轆轤師と塗物師とが一つの職業集団を形成していたことを暗示している。これから、漆器の産地とまではいわないにしても、漆器を生産する小規模な職業集団が、越前の地に成立していたことが考えられる。それらの地は、「越前州今南東郡吉河、鞍谷、大同丸保」であろう。今日の鞍安川の谷口にある味真野町がその中心地であったとみられる。さらに、年代は明らかではないが、その北の今立町粟田部、河和田町片山なども、古い漆器の産地であったことが知られている。これらの地で生産された漆器が、府中(武生市)、一条谷などに出されていたのではないだろうか。 また、これらの職業集団では、古くは轆轤師の頭が主導権を握っていたと思われるが、轆轤師よりも先に塗師屋が書かれている文書をみると、次第に塗師の力が大きくなっていったことを感ずる。漆器は木地よりも漆のかけ方によって、製品の良し悪しが決定される。したがって漆器の仕上げをする塗師、そして顧客により近いところにいる塗師の力が、轆轤師よりも大きくなっていくことは当然のなりゆきであろう。近世に入って各地に漆器産地が成立し、塗師の力が強くなっていくのだが、その前段階の過程が、これらの文書の中に現れているように思える。それは、主に木地を売りものにしていたであろう中世の轆轤師が、近世の塗師の下請業としての「木地屋」、もしくは「木地師」へと変貌をとげていく過程でもあったように思える。大使が車で帰省するときは吉野川沿いの徳島自動車道を通るが、吉野川SAの手前に半田町があることさえ知らなかったのです。この半田町がかつては「半田塗」として知られた漆器の大産地だったようです。<木地椀が消える:姫田道子>よりp19~20「半田塗という名称は明治時代、小学校の地理の教科書にも収録されていたから、日本中に知られていた。特に郷土の人々には、日常の食生活にかかすことができない膳、椀中心の生活必要品であったから、半田漆器の名は非常に親しみ深いものであった」 これは竹内さんが見せてくれた昭和40年2月の徳島新聞の記事です。ところが竹内さんの仕事場には、膳などはあっても椀は見ることが出来ません。私はそれが気になりました。どうしてお椀がないのかしら。竹内さんのお話では、椀をつくっていたのは、専ら敷地屋という半田では唯一の漆器問屋だったらしい。そして半田周辺の山や、半田の町なかに住んでいた木地師たちがつくった椀木地は、すべてその敷地屋に納められていたといいます。独占でした。また明治20年代の記録では、逢坂には40軒の塗師屋がありましたが、そのうちのほとんどが、敷地屋の賃仕事をしていたといいます。たぶん半田のお椀の大多数は、そういう家々によってつくられたのでしょう。「峠庵から逢坂見れば、朝も早よから椀みがき」「食うや食わずの椀みがき」と替歌にして唄われていた歌があるとも聞きました。 一階の書斎の戸棚に、わずかに1、2個ずつの白木地と錆下地をした椀がありました。竹内さん父子の手によって、仕残されたものではなさそうでした。竹内さんのお話では、お父さんの年代になってからは、山に住んでロクロを挽く木地師たちが、半田に見切りをつけて山を去って行ったといいます。山からの椀木地の供給が絶えた後は、里に蓄積された椀木地を頼りに、里に住む仕上げロクロ師が細々と椀づくりをつづけたようですが、その仕上げロクロ師も転業してゆき、角物専門指物大工の檜木地類に変わっていったようでした。 最後まで漆椀をつくっていたのは、敷地屋の下請けの塗師屋で、椀は椀、膳は膳とそれぞれ専業でやっていたようです。素地と漆と道具を敷地屋から預かり、賃仕事として敷地屋に納めます。ところが大正15年に敷地屋が廃業してからは、そのまま椀の木地も漆も道具も下請職人のものになりました。そしてしばらくは、下請け職人が自ら塗って売るという時代がつづき、やがて手持ちの漆もなくなり、木地もなくなり、半田の椀づくりは、じりじりなくなって行ったようでした。 これはひとつの例ですが、美原安夫さんという人の家では、御自分は役場に勤めながらも、家には職人を入れて御自分も昭和23年まで塗り、そして31年までには漆器類は売り尽し、大量に残った塗ってない椀木地など、若干の木地類を記念に残してあるだけで、他は全部風呂の焚き木にしてしまったとおっしゃるのでした。プラスチック容器の出現などにより伝統産業が衰退していく様が語られていますね。なにげなく見ている地方都市の光景の裏には、時代の流れに取り残された哀惜が隠れているようです。<木地の道:姫田道子>よりp26~31 車で降り立ったところは、中屋といわれる山の中腹で陽が当たり、上を見上げると更に高い尾根がとりまいています。「あそこは蔭の名、おそくまで雪が残るところ。馬越から蔭の嶺へと尾根伝いに東祖谷山の道に通じています。昔、木地師と問屋を往復する中持人が、この下のあの道を登り、そして尾根へと歩いてゆく」と竹内さんは説明して下さると、折りしも指をさした下の道を、長い杖を持って郵便配達人が、段々畑の柔らかな畦道を確実な足どりで登ってきました。平坦地から海抜700メートルの高さまで点在する半田町の農家をつなぐ道は、郵便配達人が通る道であり、かつては木地師の作る椀の荒挽を運ぶ人達の生活の道でもあったのです。(中略) また半田から南東の剣山の麓近くの村、一宇村葛籠までは、峠を越え尾根道をゆき渓谷ぞいの道を歩いて25キロ。竹内さんはここで昔、木地師をしていた小椋忠左ヱ門さん夫妻をさがし当てました。51年の1月と51年の秋に二度訪れております。おそらく阿波の山でこの方ひとりが半田漆器と敷地屋とに、かかわりあいを持った最後の木地師ではないかと思われます。 竹内さんは小椋さん夫妻から、「半田から一宇方面には、定まった中持人が来ていて、敷地屋から木地小屋までを上げ荷といった。来た日は一泊して疲れを取り、翌朝早く木地類を持って出発した。草履は一足余分に腰につけてきている。持ち帰る木地類は品物によっては数量も重さも違うが、菓子皿の場合だったら一荷400枚が定数であった、重さも12,3貫(約50キロ)であった。 冬の山は寒さが厳しく、その上とても寂しい。正月前は半田からやってくる中持人をまだか、まだかと待っていた。(問屋との清算の取引は盆と正月の年2回)」と、お聞きしたと云う。柿渋についてはここに載せています。日本木地師学界HP
2014.01.19
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図書館で『楽園のしっぽ』という本を、手にしたのです。表紙に馬の写真があるように・・・中を覗くと、馬とか田舎暮らしのお話が載っていて著者のアウトドア志向が見えるわけで、ええでぇ♪【楽園のしっぽ】村山由佳著、文藝春秋、2009年刊<「BOOK」データベース>より房総の丘で動物たちに囲まれ、自給自足の生活を送ってきた著者のユーモアあふれるエッセイ集。愛馬シューティが生まれた瞬間の感動、卵から孵し大きくしたニワトリへの愛情、雨不足が田を干上がらせていく風景に“分かちがたい天と地のつながり”を見る視線ー著者の小説世界を育んできた源泉を知る一冊。新たに最終章を収録。<読む前の大使寸評>中を覗くと、馬とか田舎暮らしのお話が載っていて著者のアウトドア志向が見えるわけで、ええでぇ♪rakuten楽園のしっぽ沙漠が大使のツボということで・・・モンゴル・トレッキングが出て来るあたりを見てみましょう。p128~130<十年> モンゴルへ行くことになった。『トレッキング・エッセイ紀行』という、NHK・BS2の番組のロケである(放送 2004年11月1日「まぼろしの湖を求めて」)。 行き先が行き先だけあって、4日間にわたるトレッキングのうち丸1日は朝から晩までみっちりと馬で移動するのだという。それ以外の日も、人が渡れない川などは馬の助けを借りて渡るのだという。「行きます! いえ、行かせて!」 意気込んで返事をしてから、あらためて世界地図をひろげてみると、モンゴルという国はロシアと中国の間にはさまれていて、思っていたよりずっと大きいのだった。「昼夜の気温の差が激しいんで、防寒の用意だけはしっかりお願いしますね。昼間は30度をこえる炎天下ですけど、夜は零下まで冷えこみますから。何しろ緯度で言ったら北海道と同じくらいなんですから」 最初の打ち合わせでそう脅かされはしたけれど、連続真夏日記録を更新中だった関東にいて、まじめに寒さを心配しろというほうが無理である。へへーんだ、寒いといっても夏なんだし、ひと口に北海道ったって広いじゃんね、と半ばナメモードで確認したところ・・・うそッ! 首都のウランバートルって稚内より来たやんけ。ひゅーるりー、ひゅーるりーらら。 しかも、トレッキングのコースはさらに北へ北へと向かい、大草原から湿地帯をこえて針葉樹林に入り、山を登り、最終目的地である「まぼろしの湖」に至っては遊牧民の人たちでさえ見た者は少ないというくらいの奥地にあるのだった。「お馬さんに乗っけたげるよ」 という誘惑がなかったら、さっさと断っていたと思う。 ともあれ、依頼を受けてから実際に出発するまでは2ヶ月ほどあったので、その間に私がまずしたのは体重を落とすことだった。そう、前にもお話ししたダイエットの努力は、このモンゴル行きのため(というかモンゴルの馬たちのため)でもあったのだ。何せ蒙古馬は体が小さいと聞く。その背中にあんまりなデブが乗っているのが映って、視聴者の皆さんから動物虐待だと抗議の電話が来たりしたら悲しいではないか。蒙古馬 さらに日々のワークアウトの合間には、うちのジャックに付き合ってもらって乗馬の練習もした。向こうの馬がどんな荒れ地を走っても落っこちないで済むようにと、あぶみから足を抜いて乗ってみたりもした。 そうして、どうにか体重を4キロ落とすことに成功した私は、行く先に待ちうける馬たちとの出会いに胸躍らせて、モンゴル行きの飛行機に乗りこんだのだったが――。 飛ぶこと4時間半、窓の下はるかに赤茶けたゴビ砂漠が見えはじめた頃だった。 座席の横を通り過ぎようとした女性が、ふと立ち止まり、まじまじと私の顔をのぞきこんだ。「うそ・・・ムラヤマさん?」 なんと、もう十年も前に朝のニュース番組の仕事を共にした女性だった。『楽園のしっぽ』1:ツバメの子
2022.03.19
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図書館で『姫椿』という本を、手にしたのです。おお 浅田次郎の初期の短篇集ではないか♪出版当時には名前も知られていなくて、借りることもなかったでしょうけど。【姫椿】浅田次郎著、文藝春秋、2003年刊<「BOOK」データベース>より飼い猫が死んでしまったOL、経営に行き詰まり、死に場所を探す社長、三十年前に別れた恋人への絶ち難い思いを心に秘めた男、妻に先立たれ、思い出の競馬場に通う大学助教授…。凍てついた心を抱えながら日々を暮す人々に、冬の日溜りにも似た微かなぬくもりが、舞い降りる。魂を揺さぶる全八篇の短篇集。【目次】(「BOOK」データベースより)シエ(xi`e)/姫椿/再会/マダムの咽仏/トラブル・メーカー/オリンポスの聖女/零下の災厄/永遠の緑<読む前の大使寸評>おお 浅田次郎の初期の短篇集ではないか♪出版当時には名前も知られていなくて、借りることもなかったでしょうけど。rakuten姫椿八篇のうち『再会』の語り口を、見てみましょう。p79~81『再会』 九鬼の生家は都心のオフィス街で小さな喫茶店を経営していた。あの地価高騰の時代に生家を高値で売り、テナントビルやマンションを十数棟も所有する資産家にのし上がったのだという噂は、どうやら的を外れているようである。 好景気の時代のうまい話には耳を貸さず、やがて地価も金利も下がったころに、有利な条件で不動産をひとつひとつ取得して行った。いかにもおとなしい優等生だった九鬼にふさわしい筋書きだった。 「神田の店は?」 「ああ おふくろと出戻りの姉貴とで、まだやっている。昔のまんまだ」 「へえ。また、どうして?」 資産家の母と姉が、いまだに20坪ばかりの喫茶店を営んでいる。私の素朴な疑問に、九鬼はむしろふしぎそうな顔を向けた。 「どうしてって 家族が生活して行くには、ころあいの商売だからさ。この店さえあれば末代まで食いっぱぐれはないから、決して手放すなというおやじの遺言だった」 私はふと、学生時代に何度か会ったことのある、九鬼の父親の顔を思い出した。 言葉をかわしたという記憶はない。ほの暗い喫茶店の、古ぼけたカウンターの向こうで、九鬼の父親はいつも生真面目な顔でコーヒーを淹れていた。 テラスから射し入る午後の弱日を受けた九鬼の顔は、無口で謹厳な父親に良く似ていた。 「似てますでしょう、おとうさんに」 と、ソファから腰を上げて妻が言った。 「ああ、そっくりです。久しぶりにこうして会っても、さほど様変わりしたように思えないのは、考えてみればおとうさんと彼とを混同している」 「性格までうりふたつなんですよ」 「冷静沈着、ですか」 「良く言えば。反対に悪く言いますとね、感情がないんです。泣かない、笑わない、怒らない。何を考えているのかわからないの」 まるで妻の評価を証明するように、九鬼は面白くもおかしくもない顔で、「もう、さがりなさい」と言った。 それから九鬼は、学者のような口調で景気の先行きの話を始めた。ゆったりと間を置いて、言葉のひとつひとつを正確に選別するような口ぶりも昔のままだった。この本も浅田次郎の世界R13に収めておくものとします。
2018.07.29
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『漢字とアジア』という文庫本を読んでいるが、この本では思いの外、ハングルについて語られているわけで・・・ 『韓国が漢字を復活できない理由』という本を復刻して読み直してみようと、思い立ったのです。*********************************************************たとえ不自由はあろうとも「日本隠し」を続ける意地はすごいけど・・・隣国の民として「漢字・ハングル混じり文」だけは復活してほしいと思うのだ。豊田さんのこの本を読んで、切にそう思ったのです。【韓国が漢字を復活できない理由】豊田有恒著、祥伝社、2012年刊<「BOOK」データベースより>韓国はもともと漢字の国だった。中国への従属関係から公文書はすべて漢文であり、世宗王が創製したハングルは蔑まれ、知識階級が使うことはなかった。日本統治時代、日本製の漢語が大量に流入する。韓国で使われた漢字熟語の七、八割は和製漢語なのである。なぜ、韓国は、漢字を廃止したのか。その後、復活論がわき起こるたびに潰されてきたのはなぜか。韓国研究で名高い著者が、その深い謎に迫る。 <大使寸評>豊田有恒と言えばSF作家とばかり思っていたが、著者の著述分野の多彩さにまず驚いた次第です。この本も書店で衝動買いした1冊でおま♪(Amazon豊田有恒参照)Amazon韓国が漢字を復活できない理由内容の一部を紹介します。<李承晩大統領が出した「ハングル専用法」>p50~52 1945年8月15日、韓国で言う光復の日から、すでに67年、その間、韓国の漢字政策は、朝令暮改、試行錯誤の連続だった。 戦前の日本教育世代の多くの方々は、漢字・ハングル混じり文の効用を知っているから、日本語の言い換えと並行して、国語を再編成するに当って、漢字語の重要性を説いたが、李承晩大統領は、ハングル優先政策を採った。日本統治を逃れて、アメリカに亡命していた李大統領は、アメリカ人の夫人を伴い帰国し、大韓民国初代の大統領に任命されると時を同じくして、正式な建国の1948年に早くも「ハングル専用法」を公布し、公文書のハングル表記を命じた。「大韓民国の公文書はハングルで書くものとする。ただし、当分のあいだ必用な時には漢字を併用することができる。 付則、この法律は公布の日から実施する」 この「ハングル専用法」は、公文書のみを対象としたものだが、それでも漢字の併用を認めている。終戦後3年、韓国も大韓民国を称して独立したものの、いまだに言語そのものが、日本語の影響から逃れなかったのである。 李大統領は、日本漁船を拿捕するなど、反日をむき出しにした。ハングル政策も、その反日の一環だったのだが、必要な場合は漢字を併記することも認めざるをえなかった。やはり漢字抜きでは無理があると、考えたからであろう。 日本統治時代、植民地ではなく、併合していたのだから、国語といえば日本語だった。朝鮮総督府は、台湾でも同様だったが、日本語を国語とし、国語常用家庭を表彰するなど、日鮮一体化政策を遂行したが、必ずしも漢字・ハングル混じり文を、禁止したわけではなかった。慶応義塾に籍を置いたことのある筆者は、呼び捨てにしにくいので、あえて福沢諭吉先生と呼ばせてもらう。すでに併合以前、福沢諭吉先生は、王朝時代の漢文至上主義を批判し、みずからハングル活字を作らせ、漢字・ハングル併用を、推進しているほどである。こうした経緯については、のちほど詳しく説明する。 ただ、第二次世界大戦後、このことが仇となり、漢字・ハングル併用は、日本帝国主義の残滓のように誤解され、排斥の対象とされるようになった。その一方で、ハングルは、民族のシンボルの域にまで祭り上げられることになった。<朴正熙は、なぜ漢字追放に踏み切ったのか>p52~54 ここで、ハングル派の言い分にも、耳を傾けてみよう。たしかに、ハングル派の努力によって、ハングルは、韓国社会に定着している。韓国は、日本と同様、識字率の高い国だが、日本時代の初等教育の普及と、ハングル教育に負うところが少なくない。ハングル派の言い分は、要約すれば、漢字論者への反論である。「ハングルは、韓国語の表記に適している。また、文字の機械化にも適している。それにもかかわらず、せっかく定着しているハングルに、漢字表記を加えることは、歴史の歯車を元に戻すようなものである」と、言うのだ。 これに対して、漢字混用論者は、こう主張する。まるで人体実験のように、韓国語の70%を占める漢字語を排斥した結果、相当数の教養欠落者を出した。教育効果を増進する漢字を、ただちに復活すべきである。 その後も、折に触れて、日本時代の教養を有する知識人たちは、ハングル至上主義による知識、教養の低下を憂え、漢字復活を建議し続けた。中には、漢字復活を訴え、ハングル至上の国粋派の指弾を受けて、大学の職を追われた教授すらあった。 韓国中興の祖とされる朴正熙大統領は、いわゆる第三共和国の一時期(1968~72年)、教育カリキュラムから、漢字を追放した。大邸師範学校を卒業した朴大統領自身は、必ずしもハングル至上主義ではなかったのだが、日本統治時代に奨励された漢字・ハングル混じり文が、いわゆる日帝のシンボルとして槍玉に挙げられたのである。 朴大統領は、日本の軍歴を持ち、日本寄りと見做されることも少なくなかった。朴大統領は、国民の大反対を押し切って、日韓基本条約を締結した。国民のポピュリズムに迎合しない姿勢は、高く評価されるべきだが、その代償のように漢字がスケープゴートにされたわけである。
2024.08.25
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早朝に散歩する太子であるが、南東の空に月と金星が見えるのです。ちょうど三日月の内側に金星が位置しているが、これって中東諸国が好むマークではないか。また、このマークは春分と関係があるのではないか?『日本のならわしとしきたり』という蔵書に二十四節季の記事があることを思い出したのです。今年の温暖化は確実に進んでいるようで、11月には夏冬夏冬という異常気象がありましたね。我が季節感も確実に混迷を深めておるようで・・・なんか気候が荒々しく感じられる昨今です。【日本のならわしとしきたり】ムック、 徳間書店、2012年刊<内容紹介>ありふれたムック本ということなのか、ネットにはデータがありません。<大使寸評>とにかく「今日は二十四節季でいえば、何になるか♪」を知りたいロボジーにとって、座右の書となるでしょう♪Amazon日本のならわしとしきたり新嘗祭この本で、小雪(しょうせつ)のあたりを見てみましょう。和暦p29<小雪>収穫を感謝する「新嘗祭」と「勤労感謝の日」 「小雪」は現行の暦では、11月22日ころ、第1日目を迎え、大雪(12月7日ころ)に入る前日までの15日間をいう。初日の1日を指す場合は、「小雪節季」とか「小雪の日」で区分されている。 11月も下旬になると、年の瀬を意識してか、慌ただしい空気が街に流れ始める。また、日没がどんどん早くなり、冬至の日にピークを迎える。 所によっては、降雪が見られる、この頃降った雪は「根雪」となり、春になるまで解けない。 少し遅れて紅葉時期に入る都心では、黄色に染まった街路樹が見頃を迎える。また、染まりきった銀杏の黄落が、道路を埋め尽くす勢いで始まり、黄葉の乱舞となる。車の通るごとに風に舞う様は圧巻だ。(中略)『暦便覧』では、小雪の気候を「冷ゆるが故に雨も雪と也てくだるが故也」と説明している。 恒例の年賀ハガキが発売されるのもこのころ。喪中や年賀欠礼のハガキはこのころの郵送となる。 小雪の期間の七十二候は、次の通り。 初候 「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」虹を見かけなくなる。 次候 「朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)」北風が木の葉を払い除ける。 末候 「橘始黄(たちばなはじめてきばむ)」橘の葉が鷹揚し始める、である。 西洋占星術では、小雪の日が、人馬宮(いて座)の始まりとなっている。ケヤキ並木の黄葉はピ-クを過ぎようとしているが、イチョウの黄葉はまだピーク前であり、これって例年並みなのか? 東北地方で積もった雪は根雪となるのか?・・・我が季節感に困惑が生じておるようです。二十四節季の立冬に注目(復刻3)二十四節季の大寒に注目(復刻)
2024.11.22
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<『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』3>図書館で『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、おお「アラビアのロレンス」にも触れているではないか・・・これが借りる決め手になったのです。【サイクス=ピコ協定 百年の呪縛】池内恵著、新潮社、2016年刊<「BOOK」データベース>より百年前の「秘密協定」は、本当に諸悪の根源なのか?いまや中東の地は、ヨーロッパへ世界へと難民、テロを拡散する「蓋のないパンドラの箱」と化している。1916年、英・仏の協定によって地図の上に無理やり引かれた国境線こそが、その混乱を運命づけたとする説が今日では専らだ。しかし、中東の歴史と現実、複雑な国家間の関係を深く知らなければ、決して正解には至れない。危機の本質を捉える緊急出版!<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、おお「アラビアのロレンス」にも触れているではないか・・・これがかりる決め手になったのです。rakutenサイクス=ピコ協定 百年の呪縛協定区域地図の上に無理やり引かれた国境線こそが諸悪の根源だともっぱら言われるが、果して?p19~21<第1章 サイクス=ピコ協定とは何だったのか>■分かった気にさせるマジックワード「結局、サイクス=ピコ協定が諸悪の根源だ」 近頃、こういったフレーズをよく聞くようになった。中東の混迷の原因は何なのか。一帯誰が悪いのか。誰もが自然に思い浮かべる素朴な義憤に、単純明快な答えを見つけたような気にさせてくれる万能のマジックワードが「サイクス=ピコ協定」である。 要するに、中東の混乱の原因は、イギリスとフランスが、サイクス=ピコ協定によってアラブ世界に不自然な国境線を引いたからである。だからシリアやイラクなど、民族や宗派が違う人々が同じ国に住まされて、まとまりがなく、争いが絶えないのである…云々。にわか仕込みのテレビ・コメンテーターなどが急にこの言葉を用いるようになった。 確かに、こう言ってしまいたくなる気持ちは分かる。「アラブの春」以来、中東情勢の混迷は一向に収束する気配がない。「イスラーム国」が行なって誇示する処刑やテロなどの蛮行の数々は、一般的な感覚からは到底理解が不可能だろう。何か一つのキーワードで「要するに…」と大雑把にまとめてしまってスッキリしたい、という気持ちは分からないでもない。 そして、実際に「サイクス=ピコ協定」は重要な文書である。現在の中東の成り立ちの、ある根本的な部分を基礎づけている。確かにサイクス=ピコ協定は「悪い」。帝国主義・植民地主義の時代にイギリスやフランスやロシアなど「西欧列強」が、そして冷戦時代はアメリカとソビエト連邦など超大国が、中東に介入し、影響力を競ったことで、どれだけ大きな混乱が、戦争の惨禍が、中東を襲ってきたことか。 しかし同時に、「サイクス=ピコ協定が悪い」と言っているだけでは、現実を理解するという意味でも、将来を見通すという意味でも、そして解決策を見出すという意味でも、先に進めない。 これは東アジアに置き換えて考えてみれば少し分かりやすくなるかもしれない。例えば、北朝鮮の核兵器・ミサイル開発の問題について、「そもそも日本が朝鮮半島で帝国主義・植民地支配をしたから悪い」とだけ言い続ければどうなるだろうか。日本が植民地支配をした挙句、太平洋戦争で敗れて朝鮮半島から撤退したから、朝鮮半島は米ソ冷戦の最前線となって、南北に国家は分断された。 いつ戦争が再開されてもおかしくない緊張状態が続き、北朝鮮は独裁化し、核兵器やミサイルを開発して威嚇する。悪いのは日本の植民地支配だ…と主張したら、どうだろうか。確かに、日本が朝鮮半島を併合して支配していなければ、朝鮮半島は今のような状態にはなっていないかもしれない。おそらく、現在の朝鮮半島の政治情勢に、日本のかつての植民地支配は、多くの日本人が現在意識しているよりももっと大きく影響を及ぼしているだろう。 しかし植民地主義の時代から現代までの間には長い時間が経っており、その間の、より大きな影響を与えた多くの出来事が生じている。もし日本による統治の時代がなければ、もちろん朝鮮半島の歴史は大きく変わっていただろうが、日本の統治下に入る以外の可能性がどれだけあったかとというところが定かでなく、しかも別の可能性がよりましなものであったとも言えない。ロシアや中国に併合されて、現在独立国でいることができなかったかもしれない。それを現在の南北朝鮮の国民の感覚からは、到底受け入れられないだろう。 さらに言えば、現在の朝鮮半島の国家や国際関係が抱える問題に日本が責任がある、ということであれば、「日本が責任を取ってもう一度朝鮮半島に介入して今度はきちんと問題を解決するべきだ」ということにもなりかねない。もちろん、そんなことを現在の日本で本気で主張して実行しようとする人は皆無に近いだろうし、朝鮮半島の民族も決して求めないことだろう。 同じように、「結局、サイクス=ピコ協定が悪いのだ」という議論も、中東の歴史を方向づけた非常に重要な歴史の事象に触れているのだが、それだけでは現在の中東を読み解き、将来を展望するのに十分ではない。『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』1:アラビアのロレンス『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』2:20世紀は難民の世紀
2017.11.29
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大使の故郷・幡多には思いのほか、京都なまりが残っているので、それらを思い出してみます。そんな言葉が残っている訳は・・・言ってみれば「遠流(おんる)の地」だったからでしょうね。・おおきに(ありがとう)・ほたえる(たわむれる)・まろぶ(ころぶ)・ざまに(すごい、すごく)・~ちや(~だって)・~けん(~だから)・へんしも(すぐに、急いで)・がいな(乱暴な)・づつない(とても悲しい)・えっころ(相当)京都新聞に「遠流(おんる)の地」が報じられていたので、見てみましょう。2020/5/15土佐への遠流、京とのゆかり 石畑匡基氏より 新型コロナウイルス感染の流行はいつまで続くのだろうか。高知県立歴史民俗資料館(高知県南国市)の企画展「遠流(おんる)の地 土佐」では、3月10日までの会期を全うすることなく、3月5日で閉幕した。 企画展の準備をしたものの、全く開館することなく閉幕を迎える博物館が増えている現状からすれば、会期のほとんどを終えることができ、幸いであったのかもしれない。この企画展では、古代から日本で行われた刑罰である流罪をテーマに取り上げた。流罪には、罪の軽重によって「近流(こんる)」「中流(ちゅうる)」「遠流」があった。土佐(高知県)はその中でも最も重い「遠流」に規定されていたことに因んだものである。 京都からも、多くの人々が土佐へ流されている。その一人が土御門上皇である。父の後鳥羽上皇と弟の順徳天皇が、1221(承久3)年に鎌倉幕府打倒を画策して「承久の乱」を起こしたことが影響し、土佐へ配流(はいる)となった。その後、土佐は遠すぎるという理由で阿波(徳島県)へ移され、同地で亡くなった。 展示で特別協力をいただいた冷泉家時雨亭文庫(京都市上京区)は、土御門上皇が配流中に土佐で詠んだ和歌が載る「土御門院御集」と、上皇の女官が記した「土御門院女房(日記)」を所蔵している。それらを四国で初めて公開できた。 作品返却に訪問した際には「このように取り上げられて土御門上皇も喜んでいらっしゃるだろう」と言われ、改めて開催の意義を実感した。 ところで、土御門上皇のように、配流地で無念のまま亡くなった人がいた一方、罪を許され土佐での観光を楽しんで帰京した人もいる。その一人が江戸時代の公家である滋野井実光だ。ディープな幡多弁が遅咲きのヒマワリより遅咲きで振り返る四万十「幡多弁」で見られます。多和田葉子さんが『容疑者の夜行列車』という本で、スイス方言について語っています。
2021.01.05
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図書館に予約していた『ぜんぶ、すてれば』という本を、待つこと〇ほどでゲットしたのです。〝中野流・逆輸入型広報戦略〟によって構成されたようなこの本であるが・・・面白そうである♪【ぜんぶ、すてれば】中野善壽著、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2020年刊<商品説明>より【隈研吾 推薦】「ビジネスとかアートとか、結局のところ「切れ味」だということを、日本で唯一中野さんだけが直感的に理解し実践している!」"今日がすべて。颯爽と軽やかに、ぜんぶ捨てれば""人の評価は気にしない。 自分自身が納得できるか""準備万端の日は一生来ない。 何も考えず、思い切ればいい"<読む前の大使寸評>〝中野流・逆輸入型広報戦略〟によって構成されたようなこの本であるが・・・面白そうである♪<図書館予約:(11/07予約、副本?、予約?)>rakutenぜんぶ、すてれば著者の過激なライフスタイルを、見てみましょう。p44~45<捨てる以前に、持たなくていい。家もクルマも、時計さえも>「捨てる」ことについての話を進める前に。僕は捨てる以前に、モノをできるだけ「持たない」ライフスタイルを選んできました。言えは台湾に一応ありますが、賃貸暮らし。家具もごく限られた最小限のものだけで、日本で仕事をするときには、ホテルなどに滞在しています。クルマもなし。高価な腕時計にも興味はなく、仕事の打ち合わせを時間内で終えるための液晶時計が一つあれば十分です。日用品も決して高級品ではありません。服は通りすがりのアジア各地でパパッと、いつでも捨てられるくらいの気軽なものを。食べ物はコンビニの新商品を選ぶのが一番楽しい。御馳走は会食でいただくだけで満足。「経営者としての収入を、家財に費やせばそれなりものが手に入るでしょうに」と不思議がる人も多いのですが、僕はまったくモノに執着がありません。持たなければ、生活がモノで埋め尽くされないし、土地や家を売買する上での繁雑な手続きもしなくていい。何よりも災害での心配が一つ減る。何より身軽な生き方が好きなのです。ところで、斎藤新知事が19日の初登庁に際して「ワンチームで、謙虚に」と、クレバーな発言があったが・・・どうしても胡散臭いのである。公選法の不備をつくようなSNS重視の戦略と、県民に分断を持ち込んだ自己中心には驚くのです。今後ものっけから百条委員会とのヤリトリが予定されていて・・・罪は深いのではないか?また、にわかに斎藤氏を応援した県民の反応の幼稚さ?も想定外であったし、普段からSNSには近付かない私に落ち度があったのか?『ぜんぶ、すてれば』2:スマホを捨てる『ぜんぶ、すてれば』1:プロローグのような辺り
2024.11.20
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図書館で『江戸ペディア』という本を、手にしたのです。パラパラと覗いてみると、モノクロではあるがまさに図鑑のような装丁で・・・私の好きなビジュアル本なので、チョイスしたのです。【江戸ペディア】飯田泰子著、芙蓉書房出版、2021年刊<「BOOK」データベース>より品川は江戸ではなかった!二割に満たない土地に商人、職人、犬猫がひしめく町。象も駱駝もやって来る、両国と浅草の見世物小屋が大盛況!リサイクルは江戸人の基本技。江戸にもあった「百円ショップ」。シャンプーは月1回。江戸時代の税金事情 長屋の住人は無税!軽い病は売薬で、流行病はひたすら祈る。一攫千金!富くじは夢の宝くじ。お城には国会・内閣・裁判所が完備。江戸の町をパトロールしていたのは精鋭の町方同心たった十二人。火消の面々は半鐘が鳴れば飛び出すファイアーファイター…江戸時代に関わる蘊蓄を集めた豆知識の事典!6つのカテゴリーの300項目。すべて挿絵つき。<読む前の大使寸評>モノクロではあるがまさに図鑑のような装丁で・・・私の好きなビジュアル本なので、チョイスしたのです。rakuten江戸ペディア「灰買いなどの行商」(一番左側が灰買い)「第三章・生業」で商いとお金事情に触れたあたりが興味深いので、見てみましょう。冒頭に「再利用」が出てくるエコな基本技というか。p65~69<日用品はとことん使い、買取の商人は大繁盛!> 例えば裏長屋で一人暮らしを始めるとすると、日用の雑器や夜具の果てまで古物を商う店でまかなえる。日々の生活に要るものは、わざわざ新品を誂えなくとも間に合ったのが江戸時代。 道具類は道具屋で、衣類は古着屋で見繕う。呉服屋の店策で反物を品定めをし、仕立てるとなれば高くつくので、庶民は古着で良しとするのが当たり前だった。 手放す人から買取り、次の利用者に売る。貴重品だった紙はもとより、使い切った蝋燭や竈(かまど)の灰までもゴミにはしない。使い古しの紙は漉き直して再生紙に、灰は肥料や灰汁抜きに使われた大切な資源。リサイクル、リユースは江戸っ子の暮らしのの基本といえる。■紙屑買い 古くなった帳簿や書損じの紙を買取る商売。「屑屋お祓い」と呼掛けながら町内を回って歩く。買い取ったものは選り分けた後、専門の漉き返し屋へ売られ、再生する。「浅草紙」と呼ばれたちり紙はもっぱらこの再生紙だった。■竹馬古着屋 江戸には古着の店が集まる街があちこちにあったが、行商人もいた。すぐに着られる着物ばかりでなく、古着を解いて衿、裏などに分けて竹籠に積み、長屋などを売り歩いた。■蝋燭流れ買い 専ら武家や大店の灯りとした使われた蝋燭は高価なもので、燃え尽きた後も再生された。この解けて流れ出た蠟を買い集めるのが蝋燭の流れ買い。風呂敷を背負い、秤持参で買い歩く。■灰買い 台所で薪を燃やし、煮炊きをした後に出る竈(かまど)の灰を買い取る商人もいる。「灰買い」は、肥料になる農家の必需品の灰を都市部の家々から集めて問屋に売った。■樽買い 酒や醤油を入れる樽は各々の製造元から商人、消費者の間を巡り、とことん使い回される。樽買いは買い集めた樽を空樽問屋に売り、問屋は製造元などに売る。『江戸ペディア』1:関西と関東に触れたあたり
2024.11.27
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作家・活動家の雨宮処凛さんがコラム(一期一会)で「生きづらい人を一人たりとも放っておかない優しさ」と語っているので、紹介します。右翼出身の活動家というアウトサイダーだが、「生きさせろ!」というメッセージが鮮烈ですね。(11/10デジタル朝日・コラム(一期一会)から転記しました)■生きづらい人間は、革命家になるしかない 格差と貧困の問題に、10年前から警鐘を鳴らしていた。不安定な雇用、低賃金労働にあえぐ若者たちに向けて「生きるのがつらい時も、自分を責めるな」と著書やブログで訴え、デモを呼びかけてきた。かつての自分自身がそうだったからだ。 美大進学を志して北海道から上京するが挫折し、アルバイトを転々としていた1990年代半ば。服を買っても、バンドの「追っかけ」をしても、心は満たされない。「死にたい」とリストカットを繰り返した。 「自分の内側に閉じこもり、自傷行為で、心の痛みを体の痛みにごまかしていた。社会に居場所がない。お金もない。何者にもなれない。ショボい自分を罰していたんです」 そんな日々を、作家の見沢知廉(みさわちれん)さんとの出会いが変えた。96年発表の獄中ノンフィクション「囚人狂時代」を読み、「この人なら死にたいほどの心の痛みを理解してくれるかも」と感じ、読者イベントに足を運んだのが最初だ。「弟子」の1人となり、薫陶を受けるようになった。 見沢さんは10代で左翼思想に共鳴し、成田闘争にも関わった後、右翼へ転向。急進化し、82年には英国大使館に火炎瓶を投げ、殺人を犯してしまう。94年に出所後、純文学「天皇ごっこ」などを発表。雑誌の記事では、社会への怒りを忘れた若者たちを、熱い言葉でたきつけていた。 自分の「生きづらさ」を吐露すると、師匠の答えは明確だった。「社会のせいだ。全ての価値がカネに置き換えられてしまう今の世の中で、生きてる実感がないのは当然。消費社会はお前に『消費だけする人間に変われ』と言う。逆だ。お前がこの社会を変えろ。毛沢東だって最初は無名、無一文だった。生きづらい人間は、革命家になるしかないんだ」 見沢さんは2005年、自ら命を絶った。「文学への情熱と、人を殺めた罪を償う苦しみ。その間で、引き裂かれていたのかも知れない」 「革命」の志を受け継ぐように、翌06年から反貧困を訴え始めた。 「火炎瓶を投げる代わりに、私は見沢さんが身をもって教えてくれた『生きづらい人を一人たりとも放っておかない優しさ』を理想に掲げて闘う。弱者への徹底したあの優しさは、見沢さんの強さであり弱さだった気がします」(寺下真理加) * 1975年、北海道滝川市生まれ。2000年、自伝的エッセー「生き地獄天国」でデビュー。「生きさせろ! 難民化する若者たち」(07年)で日本ジャーナリスト会議賞。「反貧困ネットワーク」世話人。(一語一会)作家・活動家、雨宮処凛さん2016.11.10 この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2016.11.13
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くだんの大学図書館で、「未来世紀ブラジル」を観たのです。で・・・いつもの鑑賞フォーマットで書きとめててみます。【未来世紀ブラジル】テリー・ギリアム監督、H24.1.23観賞<大使寸評>未来は徹底的な管理社会で、金持ちはアンチエイジング(若返り)なのか・・・・誇張されているとは言え、お先真っ暗な未来に暗然とします。goo映画未来世紀ブラジル警護用に鎧すがたのロボットが現れたりして、日本人なら、おお大魔神や!と思うわけですね。町中いたるところでテロによる爆発があり、レストランでは爆発があっても営業はストップしません。そしてアパートの空調ダクトの修理を依頼したら、スパイダーマンのようなモグリの修理屋が銃を持って闖入してくるわけです。上流階級のご婦人方は、明けても暮れてもアンチエイジングに勤しむ様が滑稽でもあり、おぞましいのです。ネタバレになるので、ぼかして書きますが・・・・ラスト近くで、これでクレジットのシーンかと思いきや・・・・それから結構長く続き、ハッピーエンドとバッドエンドのくり返しがあるのです。さて、どう終わるのか?(キーワードはロボトミー)未来は管理されたディストピアということでは、村上龍の「歌うクジラ」を彷彿とします。階層化された未来では、上層階級はアンチエイジングに明け暮れるというところが同じですね。新自由主義を野放しにしておくと、かくもおぞましい社会となるのか・・・・作者はディストピアを描くことで現在に警鐘をあげているわけなので・・・・正しく鑑賞しましょうね。(大使、見方が堅いのでは?)【歌うクジラ】 BOOK ashahi『歌うクジラ』より『歌うクジラ』は人間が不老不死を手に入れた2117年の日本を舞台とし、流刑地「新出島」から来た少年「タナカアキラ」の壮絶な旅を追うことで、「理想的な」管理社会の暗黒部を徹底して描く。2022年、クジラから不老不死の遺伝子が発見される。移民内乱の鎮圧後、日本は「文化経済効率化運動」と、「最適生態」の理念による上・中・下層の棲(す)み分け政策を推進。遺伝子操作による医学的賞罰(功労者は不老不死に、犯罪者は「生命時計(テロメア)」を切断されて死ぬ)や、精神薬による人心統制、性と記憶のコントロールが行われる。アキラは父の託した人類の秘密をある老人に届けにいく。なお、近日中の鑑賞、感想としては以下の予定とします。・パンズラビリンス・ミリオンダラー・ベイビー・許されざる者
2012.01.24
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「万聖書園」店主・劉蘇里さんがインタビューで「半分解放された国、言論弾圧には限界」と説いているので、紹介します。弾圧が強まるかの地で、このような書店が許されているのが稀有なことにも思えるのだが?おお インタビュアーは吉岡桂子委員ではないか♪(劉蘇里さんへのインタビューを9/12デジタル朝日から転記しました) 北京の大学街にリベラルな知識人が集う民営の書店「万聖書園」がある。出版や言論の自由が限られ、人権派弁護士らモノ言う知識人への弾圧も強まる中国で、書店の果たす役割とは――。創業から20年あまりずっと、自ら選んだ本を並べてきた店主の劉蘇里(リウスーリー)さんは、書棚に何を託しているのだろう。Q:3年前、北京の書店から、中国でも人気の村上春樹さんをはじめ、日本の書籍が一斉に消えたことがありました。日本政府による尖閣諸島国有化への反発が高まったときのことです。A:私の店では何も変わりありませんでした。店頭から日本の書籍を排除する行為は、中国政府の上からの正式な命令というよりも、中間の役人か書店自身が空気を忖度(そんたく)して取った行動でしょう。 むしろ5年ほど前から、日本にかかわる本が売れ始めました。文学、政治、経済、法律、歴史や実用書など非常に幅広い分野にわたります。日本について、もっと深く理解したいと考える中国人が増えているからです。この100年で初めてのことでしょう。Q:明治維新後の日本の書籍を翻訳して、西洋の知識を取り入れようとした時代以来ということですね。ただ、国交正常化後、とりわけ1980年代には日本文化ブームがありました。A:80年代は政府主導の『中日友好』によるものでした。改革開放直後で、中国人にとってすべてがめずらしい時代でした。現在は、人々自身が世界と交流を深めるなかで、日本をもっと理解したいと思うようになった表れです。 中国人は旅行や留学、仕事を通じた自らの経験や口コミ、ネット情報を通じて、日本についての中国政府の伝え方はどうも正しくない、と分かったのです。これは米国や台湾に対しても同じです。Q:しかし、人々が目覚めるいっぽうで、習近平体制のもと、言論の弾圧は激しくなっています。市民活動家や人権派弁護士ら知識人が大勢、拘束されています。A:著作についても、出版もネットでの意見表明も許されない人、ネットなら論考を発表できる人、過去の作品すら書店に並べてはならない人……。知識人ごとに縛りがある。全方位に管理は厳しくなっています。しかし、長い歴史で言えば一時的でしょう。川は曲がりながらも前へ流れていくもの。知識人に不満がたまっているだけでなく、党内の意見も必ずしも一致していないはずです。 ■ ■Q:教育相が今年はじめ、西側の価値観を広める教材を大学に入れるな、と発言しました。書店には数多くの翻訳本がありますが。A:授業で使うには申請が必要だと言われています。大学の先生たちも最初は用心するでしょうが、遅かれ早かれ廃れるのではないでしょうか。当局の指示と需要の間に大きな矛盾があるからです。 中国政府は、最先端の科学技術や文化を取り入れ、世界に追いつき、溶け込みたいと考えています。また、西洋との学術交流や留学を奨励しています。そしてネット上には、制限しても満天の星のごとく西洋の考え方、知識があふれています。Q:中国当局は大学で、ネットに書き込みをする「情報員」を養成しようとしているそうですね。A:若者の心を毀損する話です。将来を心配する若者に、小さな利益を与えて(問題ある書き込みを当局に)言いつけさせたり、意味のない書き込みをさせたりする。目が覚めたら、悪いことをしたと悔やむでしょう。その罪悪に気がつかない人や認めたくない人は、さらに問題です。若者の精神を汚そうとする執政党(共産党)は、なんと罪深いことでしょうか。Q:大学に対しては2年ほど前から、「七不講」として、人類の普遍的価値、報道の自由、公民(市民)社会、公民の権利、共産党の歴史的誤り、権貴(特権)資産階級、司法の独立を論じてはならない、とも指示しています。A:中国の大学を文化大革命時代に、いや清朝時代以前に戻せというのでしょうか。マルクスだって西洋人です。いまの中国は、半分は開放された国家です。半分でも開いた窓から風は入ってくるのです。すべての窓をしめるわけにもいかない。中国の発展に、外からの風が必要だからです。歴史の潮流に逆行する規定はいっときは有用でも、長続きはしません。 飛躍的な経済成長をとげた中国は、世界との関係もますます密接になっています。世界との共通言語が、金もうけだけでいいはずがない。価値を共有できなければ、中国に対する誤解や無理解を外国に広げてしまう。そのことが、中国脅威論にもつながっていることを自覚すべきです。 ■ ■Q:万聖書園は知識人の交流の場にもなってきましたね。A:時代を動かしうる精鋭が集う公共空間をつくりたいと思い、講師を招いてセミナーを開いてきました。これとは別に私自身は、7年前から中国と世界の関係を議論する研究会に参加しています。中心は30代前半の大学の博士課程や准教授クラスの数十人です。何かが起きてからでは遅いですから。Q:何かが起きる、とは。A:いまの中国では、社会、経済、政治、どんな危機だって生じうる。そして危機が起きれば、崩壊の局面になりうる。ソ連が崩壊したとき、軍隊も秘密警察も中央政治局だって強大でした。でも結果はどうでしょう。グローバリゼーションが進むなかで、これほど大きな国家に危機が起きれば、災難は中国にとどまらない。この国は共産党の国家ではなく、我々の国なのです。前途は自分たちで考えなければなりません。 人は知識を得ることが力になるのです。私は六四事件(天安門事件)の後、大学の講師に戻れず、図書館の職員に回された。それなら書店を開いて、知識を社会に提供できる仕事をしようと考えました。自分の選んだ本が並ぶ書棚は、私がメッセージを伝える『メディア』でもあるのです。 六四事件は中国共産党だけの罪悪だとは考えません。我々民族共同の罪であり、傷であり、悲劇です。現代化、民主、憲政や自由といった理想を追求する過程で、政治の未成熟を露呈した事件だったと思います。Q:当時と比べて、いまは?A:いまも未熟です。人は社会で果たすべき責任や義務を知り、公民(市民)として成熟していきます。にもかかわらず、公民社会を築こうと動く人々が拘束されています。知識人の分裂も激しい。30年にわたる改革がもたらした格差など、負の責任はどこにあるのか。党か、市場か、米国の陰謀か。現代化に向かって強めるべきは、国家の権力か、市場の力か。ここ数年は民主主義に反対する知識人すら現れています。Q:金融危機のような民主主義国家の経済的失敗が原因ですか。A:個人の経済的な利益にも関係しています。この体制下で先に利益を得た人たちは、民主化で失うことが怖いのでしょう。 最大の問題は政治制度です。統治の手法と社会の発展の間に、深刻なねじれがある。不満を表現する手段を持たない集団が、危機に直面したらどうなるか。その混乱を思うと楽観できません。Q:答えはあるのですか。A:大きな国がうまくやっていくには、個人的には連邦制だろうと思っています。地方にもっと権力を移譲すべきでしょう。新疆ウイグル自治区では、資源を持っていかれるだけで地元にはいいことがない、という怒りがある。上海や深セン(広東省)など都会には別の怒りがある。自分たちが稼いだ税金で地方を養っている、と。こうした不満を抑えて国を安定させるには、人々に近いところに権力を分散して移す改革が必要です。 *劉蘇里:1960年生まれ。北京政法大学講師の時、天安門事件にかかわり、20ヶ月拘束された。釈放後、93年に北京で民営書店「万聖書園」を創業。■知識の抑圧が発展阻む 東京大学准教授・阿古智子さん 万聖書園には、私も10年以上、通っています。本を売るだけでなく、読書サロンや社会・政治問題に関するセミナーなどを通じた、北京の知識人の交流の場でもあります。そのネットワークの中心にいる劉さんは大学講師時代、中国共産党中央組織部に協力して行政改革をめざした調査に取り組んでいました。1989年の天安門事件で逮捕され、党籍を剥奪されましたが、逆に言えば、そのころまでは、共産党は改革をめざす人物を幅広く抱えていたわけですところが四半世紀が過ぎたいま、自らの頭で考える人を育て、様々な分野の知識人をつなぐ役割を果たす劉さんのような存在を、共産党はむしろ脅威として遠ざけようとしています。書店のサロンも縮小されたと聞きます。 広東省では今夏、教育事業や老人ホームなどをてがける企業家の信力建氏が不正会計処理の疑いで拘束されました。出稼ぎ労働者の子どもを受け入れる学校や孤児院を設立するなど社会貢献活動に取り組み、左右両派の研究者や弁護士、メディア関係者を集める議論の場を作ってきた人です。日本の知識人と交流したいと、中国の研究者や記者ら約20人を自腹で連れて来日したこともありました。 中国では、弁護士や市民活動家ら知識人の逮捕が相次ぎ、才能ある多くの人が口をつぐみ、防御的になっています。当局は庶民にわずかばかりのお金を渡し、政府の趣旨に反する言動を密告させている。まるで文化大革命の時代のような監視が広がっているのです。 しかし、権力を維持するために、党・政府が正しいとする情報や知識だけを一方的に与えようとすれば、新しいアイデアはうまれにくくなります。中国経済が発展し続けるために欠かせないイノベーション(技術革新)も進まないでしょう。共産党の権力維持と経済の発展を両立させることが難しい段階に入っています。 *阿古智子:1971年生まれ。現代中国の社会変動を研究。著書に「貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告」など。<取材を終えて> 万聖書園の店内には、カフェ「醒客カーフェイ庁(Thinker's Cafe Bar)」がある。中国語と英語の発音をかけた名前が示す通り、「考える人」たちがくつろぎ、本を読み、語り合う場になっている。私が時々取材をしていた市民活動家も常連で、面会にはいつもここを指定した。その彼は捕らえられ、刑務所にいる。 劉さんは、戦中の上海で日本人が経営し、日中知識人の交流の場にもなった「内山書店」の名をあげて言った。「あの時代、敵国どうしでも深く交流できる書店があった。今できないわけがないでしょう」。共産党は頭や心の内側まで管理しきれない、とも。 ここに集う人々が中国13億人の多数派か、といえばそうではないだろう。だからこそ、自らの社会の行方を自らの言葉で考えずにはいられない隣国の人々との出会いを、大切にしたいと思う。(編集委員・吉岡桂子)書棚から見える中国 書店「万聖書園」劉蘇里2015.9.12この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2015.09.14
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今回借りた7冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「マンガ&日本アパッチ族」でしょうか。西原理恵子、東海林さだお、小松左京を括るものは「マンガ」であり、廃墟と小松左京を括るものとは、大阪砲兵工廠に巣食う「日本アパッチ族」になります。なお、「峠」は大作であるが今回の目玉というか、2週間の期限では読みきれないと思うのですが。<大学図書館>・どうころんでも社会科・もっとコロッケな日本語を・地中の廃墟から<市立図書館>・さよなら小松左京・毎日かあさん4・アジアMANGAサミット・「峠」1 「アパッチ族」アンソロジーbyドングリ*************************************************************【どうころんでも社会科】清水義範×西原理恵子著、講談社、2002年刊<「BOOK」データベースより>沖縄の人はどうして北海道の昆布をたくさん食べるの?リアス式海岸のリアスってなに?素朴な疑問を解き明かせば社会科の奥深さ、面白さの虜に。独自の人生哲学に裏打ちされた西原ガハクのマンガも、ますます過激に冴えわたる痛快エッセイ。『おもしろくても理科』に始まった「お勉強」シリーズ第3弾。 <読む前の大使寸評>この本の売りは、西原理恵子のマンガか清水義範のエッセイか?と問われても、清水義範who?の大使である。だけど、清水義範さんのエッセイも、薀蓄やペーソスもそれなりに良さそう。西原理恵子がメジャーになった今では、このコンビの本はもう出ないだろうな~。(楽天ブックスでは取り扱ってないので、Amazonで検索下さい)【もっとコロッケな日本語を】東海林さだお著、文藝春秋 、2006年刊<「BOOK」データベースより>長年にわたるドーダ学研究の成果を発表すべく、フィールドワークの現場として選ばれたのは銀座のクラブ。果たしてそこは宝庫であった-。懐かしの歌声喫茶で大声を張りあげ、自分で打った蕎麦に舌鼓をうち、標高4.5メートルの“日本一低い山”に登る。そして読み物屋・ショージ君の理想とする文章とは。<読む前の大使寸評>知る人ぞ知る♪ショージ君はエッセイの達人なんですね。最強のエッセイストを選ぶとなると、大使としては兼好法師、米原万里、ショージ君あたりになるわけです。「文章の書き方、教えます」という、直裁な章もあり参考になります。ユーモア路線で、破れかぶれが一番大事とのことです。つまり・・・・一に破れかぶれが大事、二にダメもと、三にギリギリの下品。最強のエッセイストrakutenもっとコロッケな日本語を【地中の廃墟から】河村直哉著、作品社、1999年刊<「BOOK」データベースより>大阪城公園の地下には、アジア最大の兵器工場の廃墟がいまも眠っている。45人の記憶の中の歴史―どのような意識で膨大な死者を生み出し、そして忘却したのか。 <大使寸評>大阪城公園から何を連想するかといえば、大使の場合は「日本アパッチ族」を通じて知った大阪砲兵工廠になるわけです。今では、広大な公園の中に工廠を示す構造物はほぼ消滅していて・・・・この本などでよすがを偲ぶしかないようです。大阪ビジネスパークの明るいホテルで聞く、工廠関係者への聞き取りには、時を隔てて光と闇が現れてくるが・・・・戦後、日本人はこの廃墟をどのように忘れたのかと、著者は問うています。(楽天ブックスでは取り扱ってないので、Amazonで検索下さい)この本の一部を紹介します。<工廠跡の闇―アパッチ族>p208~210 「戦後」は加速する。 1955年、自由民主党が結成され55年体制が成立した。神武景気といわれる大型景気の時代に入り、56年の経済白書には有名な「もはや戦後ではない」という言葉が登場する。日本は高度成長の明るい坂道をかけのぼっていく。 ぼくは今日も、大阪城公園、大阪ビジネスパーク、森之宮、そして京橋を歩いている。それは、ぼくの一部になっている。忘れられた地、ごまかされた地、欲望の発熱するような地。この日本で、前々からそれはぼくの一部だった。 東京タワーが完成し、長嶋茂雄がデビューした58年。この明るい日本の夜な夜な、公園整備が本格化していた大阪砲兵工廠の跡地の闇に、男たちがあらわれるようになる。男たちは組を作り、立ち入り禁止の一帯から金属類を掘り出した。新聞は、当時人気のあった西部劇にちなんで、彼らを「アパッチ族」と名づけた。 ほとんどは在日韓国・朝鮮の人たちだった。日本の復興から繁栄の正史の裏で、在日の人たちの戦いが工廠の跡地に刻まれていくことになる。在日二世の作家、梁石日さんもアパッチとして跡地に忍び込んだ。 こわいですよ、夜の工廠の跡は。あっこはね、ふつうの人は入らないからね、あんなとこ。あれはもうほんとに、昼、あの横通っていくでしょ、環状線かなんかで。昼見ても気持ち悪い。広大だしね。もう瓦礫の山ですからね。夜なんかは、もう。 戦後13年ですか。(市内には)もう焼け跡とかなかったです。廃墟っていうのはあそこぐらいのもんじゃないかな。当時ね、第二寝屋川をはさんだ工廠の対岸にアパッチ部落があってね。朝鮮人集落ですけどね。バラックですよ。貧しい。朝鮮料理の香辛料のにおいとか、それから共同便所だから、そんなにおいとかね。夜、そこに集まって、弁天橋のあたりから忍び込むんです。【さよなら小松左京】小松左京著、徳間書店、2011年刊<「BOOK」データベースより>新発見の短篇小説やラジオ台本や創作ノートに鼎談・インタビュー、多種多様な友人・関係者の証言などで構成する永久保存版パーフェクトガイド。手塚治虫との貴重な対談CD付。 <大使寸評>小松左京といえば、処女長編作品の「日本アパッチ族」の面白さが衝撃的であった。「日本沈没」などの大作もあるが、大使にとってのベストは「日本アパッチ族」になるのです。大阪在住の小松さんだから書けたSFだったかも知れないですね。漫才の原稿や漫画も書いた小松さんであるが・・・・多芸、多彩な関西人だったと思うのです。大阪万博のプランナーとして、梅棹忠夫や岡本太郎と親交があったようだが・・・SF作家の枠に収まりきらなかった人である。さよなら小松左京♪rakutenさよなら小松左京【毎日かあさん4】西原理恵子著、毎日新聞社、2007年刊<「BOOK」データベースより>戻ってきた夫・鴨ちゃんとの輝く日々を描くシリーズ最高の描き下ろし、一挙20ページ収録。 <大使寸評>カンボジア取材や鴨ちゃんが亡くなるシーンもあり、笑ったり、シュンとしたりと、見どころの多い本になっています。rakuten毎日かあさん4【アジアMANGAサミット】関口シュン×秋田孝宏著、子どもの未来社、2005年刊<「MARC」データベースより>「アジアMANGAサミット」のあゆみ、第5回日本大会開催を成し遂げたマンガ家たちの記録を収録。日本、中国、韓国、香港、マレーシア、台湾など、アジアに広がるマンガ文化の現状と未来を展望する。 <大使寸評>アジア5ヶ所でのサミット開催レポートや世界9ヶ所のマンガ事情など読みどころ満載であり、漫画ファンにはお奨めです。rakutenアジアMANGAサミット【「峠」1】司馬遼太郎著、文藝春秋、1972年刊<「BOOK」データベースより>古書につき、データ無し。<読む前の大使寸評>司馬遼太郎の紀行文などはよく読んだが、大作小説を読むのは、「竜馬がゆく」以来で約半世紀ぶりではないだろうか(そんな大仰な)(楽天ブックスでは取り扱ってないので、Amazonで検索下さい)*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。2/03図書館大好き231/17図書館大好き22
2013.02.20
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図書館で『日本人が誤解している東南アジア近現代史』という新書を、手にしたのです。中国の経済成長に陰りが見える今、次の成長セクターは東南アジアになるとのことで・・・対中認識を改める必要があるようです。【日本人が誤解している東南アジア近現代史】川島博之著、扶桑社、2020年刊<「BOOK」データベース>より「日本が侵略した」「日本が解放した」どちらも間違い!!11ヵ国、6億5000万人を抱える東南アジアの多彩な歴史と文化の実相!日本人だからこそ知っておくべき東南アジアの歴史の真実!<読む前の大使寸評>中国の経済成長に陰りが見える今、次の成長セクターは東南アジアになるとのことで・・・対中認識を改める必要があるようです。rakuten日本人が誤解している東南アジア近現代史「第3章」でベトナムでのスマホ普及などが語られているので、見てみましょう。p212~215<スマホと自動車> スマホをいじっていると時間が潰れるので、スマホ以外のものを欲しがらなくなると言われるが、それは日本だけの現象ではないようだ。筆者が最も興味を持って見ているのは、東南アジアにおける自動車の普及である。工業生産の中で自動車の占める役割は大きい。自動車は裾野が広い産業である。1人当たりGDPが3000ドルを超えると自動車が急速に普及すると言われる。現在、東南アジアではインドネシア、フィリピン、ベトナムなどがその時期を迎えている。しかし、スマホが普及した現在、そのような過去の経験則はあまり役に立たないと考える。 自動車は移動手段であるとともに富の象徴だった。人はお金持ちになると、押し出しのよい大きな車に乗りたがる。日本には車には富の象徴としての役割があった。私が覚えているCMに「隣の車が小さく見えます」、「いつかはクラウン」などというキャッチフレーズがあった。自家用車は移動手段であるとともに、見栄を満たすものであった。 それは中国でも同じだった。中国人は日本人よりももっと見栄っ張りだから、どの国の人よりも自動車を欲しがった。それも大きくて豪華な車。中国では小型車は人気がないと聞いた。 しかし、そんな中国でも変化が起きている。2017年頃から車の販売が低迷し始めた。エコノミストはその原因はスマホの普及にありそうだ。中国のスマホの普及は日本以上である。スマホが普及すると、新たな現象がいくつも起きる。その一つがシェア自転車であった。これは一時のブームで終わったようだが、それでも一時はすごい人気であった。 スマホはシェア経済に向いている。自動車のシェアも普及し始めた。ただ、シェア自動車はそれなりに面倒臭い。シェア自転車で問題になったように、管理が難しいためだ。みんなで所有するものは管理が難しい。社会学でいうところの“コモンズの悲劇”である。中国のシェア自転車のブームがあっと言う間に去ったように、シェアは経済の主流にはならないと思う。 その一方で移動手段に革命が起きている。それはウーバーやグラブに代表されるスマホを用いたタクシー・システムである。これは、東南アジアの交通事情に革命的な影響を与えている。<スマホでタクシーを呼べるベトナム> 東南アジアでは、本格的な自動車の普及はこれからである。ベトナムでの自動車の普及は日本より50年、中国より20年は遅れている。現在、ベトナムの年間自動車販売台数は30万台に過ぎない。それは日本が500万台、中国が2800万台であることを考えると、極めて少ない。 そんなベトナムではスマホを利用したグラブに代表されるタクシー・システムが急速に普及した。数年前まで、ベトナムのタクシーは信頼できなかった。遠回りをしたりメーターを改造したり、外国人だけでなくベトナムの人々もその柄の悪さを嫌っていた。 しかし、数年前からスマホを用いたシステムが普及し始めると、状況は大きく変わった。ここで重要な役割を果したのが白タク(免許を持たない一般人が運転するタクシー)である。ベトナムでは、誰もがスマホを用いてタクシー業を始めることができる。その結果、自家用車を持っている人が暇な時間を利用して、こずかい稼ぎを始めた。また、自家用車を貸して、借りた人がタクシーとして使うことも増えた。 一般の人がタクシーを安心して使えるようになった。スマート・タクシーでは動いた道筋が記録に残る。決済もスマホで行うことができる。現金で払ってもよいが、現金を使わなくてもよい。そんなシステムでは過大な請求をされることはない。 人件費が安いこともあり、ベトナムのタクシーは安い。それに加えて、白タクがライバルになったために、プロのタクシーはよほどサービスをよくしないと、白タクにお客を奪われてしまう。『日本人が誤解している東南アジア近現代史』1:華僑
2023.08.27
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図書館で『日本の異国』という本を、手にしたのです。この本の目次を見ると以下載っていて興味深いのです♪足立区のフィリピンパブ、埼玉県川口市の多文化共生、西葛西のリトル・インディア、新大久保の未来など。【日本の異国】室橋裕和著、晶文社、2019年刊<「BOOK」データベース>より2017年末で250万人を超えたという海外からの日本移住者。留学生や観光客などの中期滞在者を含めれば、その数は何倍にもなる。今や、都心を中心に街を歩けば視界に必ず外国人の姿が入るようになったが、彼らの暮らしの実態はどのようなものかはあまり知られていない。私たちの知らない「在日外国人」の日々に迫る。<読む前の大使寸評>探検家・高野秀行さんがこの本を高く評価しているので、きっと面白い本なんでしょう♪rakuten日本の異国足立区のおじさんたちに愛されるフィリピンパブが報告されているので、見てみましょう。p13~19<竹ノ塚 魅惑の癒しスポット、リトル・マニラ>■リトル・マニラは朝5時から営業「足立区のおじさんたちは、口は悪いけど目が優しいんだよね」 アニーさんはそう言って笑う。「『このヤロ』『バカヤロ』でまず始まるけど、言っていることは正しかったりする。接客のマナーや態度についてよく怒られたけど、勉強になりましたよ」 そんな足立区を拠点に、日本で働くこと25年以上。アニーさんはいま、東武スカイツリーライン竹ノ塚駅のそばにあるフィリピンパブ「カリン」のママだ。 店はなんと朝5時から営業している。「タクシーの運転手たちから、夜勤が明ける朝方に店を開けてほしいって言われて」 運転手たちだけではない。夜の仕事を終えた日本人のホステスやホストたちも飲みにくる。夜が明ける頃になると、今度は年金暮らしのおじいちゃんたちが訪れる。雑多というか、もはや意味不明な客層かもしれない。朝方に飲める店はほかにもあるだろう。でも、足立の人々は老若男女、ここにやってくるのだ。 朝5時から11時までは、飲み放題、歌い放題で、さらに和定食がついて3時間2000円。一般的なアジアンパブだと、1時間3000~5000円というところが多いだろうか。早朝だからか、やたらに安いのである。それにフィリピン人がパブの台所で和食を仕込むという姿もまた足立区ならでは、かもしれない。「あまりお金がなくても、ここに来れば友達がいて会話して、好きな歌を歌って楽しめる。朝や昼のお客さんは増えてますよ」 店内に漂うのは、南国そのままのほどよい脱力感だ。扉を開けたとたんに、ゆるい空気に包まれる。そして出迎えてくれるのは、熱帯の花のような笑顔。いきなり温度と湿度が上がったような気さえする。 そして妙に距離が近いのだ。エッチな意味ではない。お店のフィリピーナたちは、会ったとたんに友達感覚というか、やけに気安いというか、ぜんぜん気を遣わせてくれないのである。かっちり身構えて緊張感すら漂わせながら接客する日本スタイルとはぜんぜん違う。テキトーにがちゃがちゃ水割りをつくり、ほかのフィリピーナとタガログ語でなにやらバカ笑い」をして、かと思ったらじっと目を見つめてきて「オツカレサマ」なんて言ったりする。くだらない冗談ひとつにケタケタと笑い転げてお腹を抱えたり、「ほらほら」とスマホで故郷の農村や家族の写真を見せてきたりする。 どのテーブルもこんな感じで、なんだか女子高の教室にお邪魔しているようなかしましさなのである。彼女たちももちろん仕事だからこうやって接してくれるのだろうが、それにしたって距離が近い。仕事とプライベートの区別がぜんぜんついていない。「みんな一緒に遊んでいるだけだから」 とアニーさんは笑うが、脚とホステスという垣根を取っ払ったような友達感覚は日本のキャバクラやガールズバーとはまったく違う。 客もだんだん、染まってくる。 明るいうちから泥酔して寝込んでいるおじさん。外出したかと思ったらハンバーガーとチキンを買ってきて店にいる人々に振る舞う人。流暢なタガログ語でカラオケを熱唱しては、ギャルたちをどっかんどっかん盛り上げているおじさん。そして家で作ってきたという故郷の料理を持ち寄るフィリピーナたち・・・。 いい意味で弛緩したアットホームな空気と、常連でなくともすぐになじめる親しみやすさは、アジアそのものだ。ひと昔前の淫靡なフィリピンパブのイメージは、あまりない。 フィリピンパブというと誤解されがちだが、お客の多くが求めているのは性的なサービスではない。フィリピーナの大らかさと、ホスピタリティに甘えに、癒されにやってくるのだ。彼女たちとひとときバカ騒ぎをして、腹の底から笑うことで、救われている日本のおじさんたちがいる。■黎明期は1980年代 昭和の昔に一世を風靡したフィリピンパブ。その黎明期は1980年代初頭であったといわれる。当時はまだ貧しかったフィリピンなどの東南アジアから、高度経済成長に沸く日本を目指す女たちの流れがあったのだ。彼女たちは「じゃぱゆきさん」と呼ばれた。 背景はいくつもある。まずフィリピンでは「海外への出稼ぎ」というものが一般的であったこと。アメリカの植民地だった経験もあって英語力が高く、フィリピン人の労働力は世界中で歓迎された。男は建設現場などの肉体労働、女は飲食やメイド。そして夜のサービスに従事する(あるいは十字させられる)こともあった。 国外で働くフィリピン人はOFW(Overseas Filipino Workers)と呼ばれ、現在では一億の母国人口のうちおよそ一割を占める。彼らからの送金は貴重な外貨獲得源であり、故郷の家族を支える。フィリピン人にとって、海外で働くハードルはもともと低いのだ。
2024.10.06
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図書館で『誰も書かなかった統一教会』という本を、手にしたのです。安倍ファミリーと統一教会の関係が語られているようだが、政治資金規正法違反(不記載)など自民党の闇にも触れているようで、興味深いのです。【誰も書かなかった統一教会】有田芳正著、集英社、2024年刊<「BOOK」データベース>より2022年7月の安倍元首相銃撃事件後、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と政界の癒着を中心に多くの報道があった。だが、メディアが報じたのは全体像のごく一部だった。教団をめぐる多くの問題が残されたまま事件の風化を憂慮したジャーナリストが、教団の政治への浸食の実態、霊感商法の問題はもちろん、「勝共=反共」にもかかわらず北朝鮮に接近していた事実、教団の実態を早くから認識していたアメリカのフレイザー委員会報告書、教団関係者による銃砲店経営、原理研究会の武装組織、「世界日報」編集局長襲撃事件、公安が教団関係者を調査していた事実等、その全貌を公開する。<読む前の大使寸評>安倍ファミリーと統一教会の関係が語られているようだが、政治資金規正法違反(不記載)など自民党の闇にも触れているようで、興味深いのです。<図書館予約(7/27予約、副本?、予約?)>rakuten誰も書かなかった統一教会「第5章 フレイザー委員会報告書」で統一教会の商法が語られているので、見てみましょう。p147~151<教団が世界に保有する富の資金源は日本> 数多あるアメリカの教団系企業の中でも、最大の成功を収めたのが「トゥルー・ワールド・フーズ」だ。40種類以上のサーモンや5種類の鯛、イクラの加工品などの魚介類だけでなく、鰻のタレ、ゆずなどの柑橘類、さらには庖丁まで、アメリカの寿司職人が必要とするおよそすべての商品を扱っている。現在では、アメリカ17州に加えて、イギリス、カナダ、スペイン、韓国、そして日本にも支社に持つまでに成長を遂げた。 米紙「ニューヨーク・タイムズ」の記事「The Untold Story of Sushi in Àmerica」(2021年11月5日付)によれば、トゥルー・ワールド・フーズは、2021年度、アメリカとカナダに8300以上の顧客を持ち、日本支社はアメリカに年間1000トン以上の鮮魚を輸出している。アメリカの高級・中級の寿司店向けの鮮魚販売の実に7~8割を同社が占め、グループ全体の年間売上高は5億ドル(当時の為替レートで約570億円)を超えるという。 だが、トゥルー・ワールド・フーズの成功や、同社を筆頭とするアメリカの統一教会系企業の隆盛は、日本の統一教会系による霊感商法や事実上強制的な献金が下支えしていたのだ。アメリカの教団系企業の多くが、70年代後半から80年代前半に設立されているが、日本で霊感商法がピークに達していた時期と重なる。いわば、日本人の被害によって、教団が言うところのアメリカン・ドリームは成就したのだ。 英紙「フィナンシャル・タイムズ」(2022年7月16日付)は「教会の指導者らが、日本から米国へ送金された数十億ドルをふくむ信者の労働力と資産を、企業帝国を築き上げるために搾取している」との批判があると指摘し、「日本は教団が世界で保有する富の最大の資金源」というのが多くの識者の一致した見方だとしている。 文鮮明教祖は1975年から日本の統一教会に月20億円の送金命令を下し、約10年間で送金された額は2000億円に上ったことが元幹部信者の告発で明らかになっている。(中略) アメリカの教団系企業の成功を支えたのが、資金面では日本からの送金だったが、人的に大きな貢献をしたのもまた日本から渡米した数百人の信者だった。選抜されたエリート信者たちはアメリカに入国すると、国際合同結婚式でアメリカ人とマッチングする。こうしてアメリカ市民権を取得した後、教団系企業で薄給、あるいは無給で寝食を忘れて献身的に働き続けたのだ。 アメリカでもっとも成功した教団系企業体となったトゥルー・ワールド・グループは、現在、「統一教会インターナショナル」(1977年設立)が所有する。問題なのは、教団の反共運動やリトルエンジェルス芸術団などの文化活動、プロパガンダを行うメディア企業、教団の脱税をめぐる訴訟費用などに統一教会インターナショナルが資金を提供していることだ。 さらに憂慮すべきは、こうした資金提供が、時には文鮮明機関のペーパーカンパニーやトンネル法人を経由して行われている可能性が高いことだ。無数の組織や企業を抱える文鮮明機関を介した資金移動を、当局が捕捉するのは極めて困難なのである。『誰も書かなかった統一教会』1:安倍晋三と統一教会
2024.11.18
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図書館で『華僑二世徐翆珍的在日』という本を、手にしたのです。神戸には南京町という観光名所ができているが、華僑にはわりと寛容な気風があるわけでチョイスした次第です。【華僑二世徐翠珍的在日】 徐翠珍著、東方出版、2020年刊<出版社>より日本に生きた「在日華僑」の闘いの記録。日本の植民地政策の残存の象徴でもある「国籍条項」「外国人登録法」「入管法」をめぐる闘いの一つの結果として、外国籍公務員第一号となる。その他、指紋押捺拒否や「思いやり予算」返還訴訟、靖国訴訟などを提訴、「非暴力・反戦反差別平和」を理念に活動を続けている。<読む前の大使寸評>神戸には南京町という観光名所ができているが、華僑にはわりと寛容な気風があるわけでチョイスした次第です。rakuten華僑二世徐翆珍的在日神戸の定時制高校を経て大坂の西成区に移った後も著者が受けた辛苦を、「第2章 国籍条項」で見てみましょう。p17~19<西成で 黙っていては、中国人として生きられない!> 1970年、結婚し大阪の西成区に移りました。初めて多くの在日韓国・朝鮮人、あるいは私と同じ、在日中国人が日本社会の様々な偏見や差別によって同化を強いられていることを知りました。 それぞれの民族性が肯定的なものとしてではなく多くの場合は否定的なものとして扱われていること、日本人学校に多くの在日韓国・朝鮮人や、在日中国人の子どもたちが在籍していることにそれまで気がつきませんでした。在日中国人であることを主張して生きていながら、より多くの在日中国人や同じような歴史を持ってこれまで歩んできた在日韓国・朝鮮人が日本社会でどのような状況の中で生きているのかさえ知らなかったことに初めて気づかされました。 こうして、この西成で民族差別を実感していくことになります。 それでも私は、「貧乏ったれ」であったがために生きにくかった在日中国人社会からこの西成に移り、まさに水を得た魚のように「貧乏ったれ」を堂々と肯定的に生き始めることが出来たのです。 西成に移った私はまず、仕事を探し始めました。自分の住む地域近辺のすべての保育所、幼稚園に保母としての採用を打診して回りました。結局どこからも良い返事がありませんでした。近所の工場で数ヶ月働いている間にある民間の保育園から連絡があり、面接に行くことになりました。 履歴書を持参し、家からすぐ近くにある大阪社会福祉法人キリスト教社会館めぐみ保育園に出向いて行きました。キリスト教の牧師である園長は私の履歴書を見ながら「来て下さい」と話し正式職員として採用となりました。1970年11月19日のことです。 しかし「名前は徐では読みにくいので」という理由で、私の連れ合いの苗字である林を日本語読みの「はやし」と読んで「はやし先生で」と条件がつきました。良心的な園長とは言え、外国人の人権には、まだまだ疎かったのでしょう。 私はやっと仕事をみつけたのに、情けなくなりました。自分の名前が「ダメだ!」「日本名にしろ」と言われるなんて、情けなくて、悔しくて、こんなことは初めてでした。 私はそのまま、そこに就職しました。でも、どうしよう。、「はやし」なんかで生きていける筈がないのに、と内心思っていました。 私はずっと中国人として生きてきました。でも、この西成に来て、初めて黙っていては、中国人として生きられなくなることを思い知らされていくことになるのです。 就職してすぐに私は、「はやし」として紹介されたのですが、1ヶ月もたたないうちに私は職員や子どもたちみんなに「はやし」ではない、在日中国人だから「リンです」と主張しました。 71年1月から「リン」となりました。徐(ジョ)ではなかったけれども、私は少なくとも中国人であることを取り戻したのです。私は中国人保母として在日韓国・朝鮮人が半数近くも在籍するこの保育園の子どもたちの前にやっと堂々と立つことができたのです。 1970年の時点ですでにめぐみ保育園の公立への移転計画が持ち上がっていました。1971年7月1日には民間保育園から大阪市立長橋第三保育所に変わり、園長は大正区の新しい民間保育所に委託されることが決まりました。 私たち職員は、この保育所が市立になってもそのまま残る人と、大正区の新保育所に移る人と、それぞれ自由意志で選択することとなり、大阪キリスト教社会館職員組合を通じて具体的交渉に入りました。 私が、在日中国人であることもあってか、在日韓国・朝鮮人の保護者たちともつながりができ、オモニ(お母さん)たちと民族差別の実態や子どもたちへの思いなどを話し合えるようになりました。家庭訪問などを通じて、在日を生きてきたオモニ(お母さん)・アボジ(お父さん)たちの被差別の実態などを聞かせてもらいながら、私はここで多くのことを学び、私のやることをやっと見つけたような気がしていました。『華僑二世徐翆珍的在日』1:私の原点―闘いの軌跡
2024.11.23
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図書館で『疑史世界伝』という本を、手にしたのです。おお 清水義範さんのパスティーシュ短編集ではないか♪フェイクが混じるかもしれないが、軽く読み飛ばす分には許されるだろう♪・・・ということでチョイスしたのです。【疑史世界伝】清水義範著、集英社、2007年刊<「BOOK」データベース>よりソクラテスとオリンピックの意外な関係(「戦場のソクラテス」)、超スピードで語り尽くす中国三千年の歴史(「あわただ史記」前編・後編)、あの十字軍遠征をイスラム社会側から見てみると…?(「フランクが来た」)などなど、おもしろ世界史短編全19編。<読む前の大使寸評>おお 清水義範さんのパスティーシュ短編集ではないか♪フェイクが混じるかもしれないが、軽く読み飛ばす分には許されるだろう♪・・・ということでチョイスしたのです。rakuten疑史世界伝「中国三千年の歴史の後半」が語られているあたりを、見てみましょう。宋と金とに分裂して戦っていた時代の史記なんですが。p267~271<あわただ史記・後編> やれって言われりゃなんとかやってみるけれど、中国三千年の歴史の後半を、原稿用紙30枚にまとめるってのは暴挙だよなあ。前半では、唐が滅んだところまでを語った。それって10世紀の初頭のことだよ。そこからあと千年分を語らなきゃいけないのだよ。 千年を30枚ってことは、計算してみたら1年分を12字で書かなきゃいけないわけなんだが、やめよう、そんな計算をして愚痴をこぼしているからそれだけでもう10年分ぐらい使っちゃったじゃないか。 中国の歴史だけを語ろう。 さて黄巣の乱がきっかけとなって唐は907年に滅びたのだが、すぐさまそれに代わる大きな王朝が始まるわけではない。50年ばかりの間、華北では王朝が五つ入れ替わり、そしてそのほかには小国が十ばかり乱立した時代があったのだ。その50年あまりを、五代十国の時代、という。 華北の五つの王朝を順に並べると、後梁、後唐、後晋、後漢、後周である。地方政権である十国の名は省略しよう。とにかく、互いに戦いに明け暮れ、次々に王朝が入れ替わる争乱の時代だったのだ。 そうしてようやく960年になって、趙匡胤が後周を倒して、宋を建国したのである。趙は初代皇帝となり、太祖と呼ばれる。 宋の時代は、新しい社会システムが作られた時代である。宋は、唐などにくらべると、国を外に向かって広げていくだけの国力を持たず、かろうじて現状を守るのが精いっぱいという王朝だった。中国東北地方に遼(契丹)という別の王朝があったが、これを倒して全中国を平定することはできず、条約を結んで並立していたくらいだ。 しかし一方では、国内を整備し、学問を盛んにし、芸術も花開いた。三大発明として知られる火薬、羅針盤、印刷術の発明は宋代のものとされているのだ。 宋では、中央集権的な官僚の支配システムがつくられ、軍制も整備され、道路網も完備されていった。科挙の制度はますます重要なものになり、学校教育の初歩のものが始まったと言ってもいい。 芸術のほうを見れば、庭園の造営が盛んになり、絵画では、山水画や文人画が発達した。 だから宋は決して弱小王朝だったわけではない。日本の平清盛は大いに日宋貿易をしたぐらいである。 だが北方に悩みの種を抱えているのが宋であった。遼のほかに、ウイグル地方にも西夏という王朝ができたが、討伐することはできなかった。(中略) かつて5世紀に、五胡十六国時代の後、北に北魏、南に宋があって並行する時代があり、6世紀末に隋によって統一されるまで分裂していた頃を南北朝時代と言っていた。今、12世紀になって、北に金、南に南宋のある時代もまた、もうひとつの南北朝時代と言うべきかもしれない。 南宋は、宰相たちの時代である。それはつまり、皇帝たちの権力が弱かったということである。初代の高宗にしても、正式な譲位なしにどさくさにまぎれて帝位についているので、正当性に疑問を持たれていたのだ。そんな中で、なんとかふんばって南宋を成立させたのである。南宋のほうが米がよく稔る豊かな土地だったことが幸いしたのだ。
2024.11.24
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