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『東京パック』や「時事漫画」に触れた『日本近代漫画の誕生』という本を以下のとおり再読してみようと思い立ったのです。*********************************************************図書館で『日本近代漫画の誕生』という本を手にしたのです。この「日本史リブレット」というシリーズであるが・・・図が多く、薄くて手頃で、元祖ビジュアル本という体裁がええでぇ♪【日本近代漫画の誕生】清水勲著、山川出版社、2001年刊<「BOOK」データベース>より本書は、近代漫画誕生の経過を七つのエピソードで紹介する。【目次】)1 幕末諷刺画の誕生とその発展/2 自由民権期の『団団珍聞』/3 『パック』と日本近代漫画/4 「漫画」という言葉の誕生/5 国際漫画雑誌『東京パック』の登場/6 日本最長寿漫画誌『大阪パック』/7 柳瀬正夢の漫画表現の変遷<読む前の大使寸評>この「日本史リブレット」というシリーズであるが・・・図が多く、薄くて手頃で、元祖ビジュアル本という体裁がええでぇ♪rakuten日本近代漫画の誕生北沢楽天と東京パックの盛衰を、見てみましょう。p67~72 <近代的漫画スタイルの完成> 明治末期の漫画ブームの火付け役となった『東京パック』には、漫画の持込みや投稿もあった。そうした作品や才能ある青年たちの作品も数多く掲載された。そのなかに小川治平・幸内純一らがいた。 また有楽社が発売していた美術文芸雑誌『平旦』が明治39(1906)年4月に廃刊になると、その執筆メンバーたちを楽天は活用した。41年4月15日号(三周年記念号)は、作者名入りで漫画が掲載されるが、その20余の人々も『東京パック』の常連漫画家であったろう。したがって、第一次『東京パック』の漫画執筆者は少なくとも35人はいたことになる。 楽天は即戦力の画学生を導入する一方で、長期的にみた漫画家の養成も行なった。明治39年、『東京パック』に載せた漫画家養成の広告に最初に応じて弟子に採用されたのは、下川貞矩(凹天)であった。 『東京パック』が与えたもう一つの影響は、類似雑誌をたくさん生んだことである。前述の『東京ハーピー』『パック』、それに国木田独歩が独歩社の経営不振挽回策として出した『上等ポンチ』(明治39年8月創刊)、関西版として赤松麟作らが関係したといわれる『大阪パック』(明治39年11月創刊)などである。 しかし、楽天主筆の『東京パック』の終焉はあっけなかった。明治44年の大逆事件後、楽天の筆力がにぶって売れ行きが落ちる。それによって有楽社社主の中村弥二郎とうまくいかなくなる。そんな折、中村が他の事業で借金をつくり、7人の金貸しの抵当に楽天と『東京パック』が入れられ、債権者に渡るという事件が起こる。 楽天は「私は抵当物ではない」と、有楽社を明治45年5月退職してしまう。こうして第一次『東京パック』は終わり、楽天抜きの第二次『東京』が同年6月からスタートする。その中心メンバーは小川治平と森田太三郎であった。 有楽社を退職した楽天は、明治45年6月15日、独自で漫画雑誌『楽天パック』を創刊し、続いて7月1日、婦人向け娯楽雑誌『家庭パック』を創刊する。しかし、そのころには漫画ブームは去り、いずれも2年半ほどで廃刊に追い込まれた。そこで楽天は再び古巣の『時事新報』の仕事に本腰を入れるようになる。この楽天の本格的復帰によって、『時事新報』は時々色刷り日曜付録「時事漫画」を出すようになった。 大正7(1918)年ごろ、楽天は力量のある弟子を養成するために、研究会「漫画好楽会」を結成した。定期刊行の漫画付録を発行するためにその人材養成を行なったのである。そして、大正10年2月から『時事新報』日曜付録「時事漫画」を定期刊行する。そのおもなスタッフは小川治平・穂積稲天・河盛久夫・長崎抜天・在田凋らであった。「時事漫画」は昭和6(1931)年7月に『漫画と読物』と改題、さらに昭和7年5月に『漫画と写真』と改題し、同年10月に終刊する。楽天は時事新報社を退職し、現役漫画家を引退する。かくして明治28年、横浜でスタートした楽天の漫画家生活は38年目にそのピリオドを打った。 楽天の創始した『東京パック』(第一次)は、明治45年に編集者が代わって以来、第二次(明治45年~大正4年)、第三次(大正8年~12年)、そして昭和戦前期(昭和3年~16年)の第四次まで発行される。 それらはいずれも多色刷による絵画性豊かな作品、すなわち風刺美術を生み出し、西洋漫画に強い影響を受けた近代的漫画スタイルの最高傑作の数々を生み出した。近代漫画は、この四次にわたる『東京パック』によって完成されたといってよいだろう。『日本近代漫画の誕生』3:近代的漫画スタイルの完成『日本近代漫画の誕生』2:北沢楽天『日本近代漫画の誕生』1:この本の冒頭
2023.12.10
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先日『コンテンポラリー・イラストレーション』という展覧会資料で蓬田やすひろのイラストに惹かれたのです。とにかく、扱う題材といい、描くイラストといい、小村雪岱を彷彿とさせるのです。蓬田さんがイラストレーション感を述べています。「より欲を言えば人間性や日本古来からある習慣や、風土から生れた季節ごとの美しい行事など失われつつある情感を追い描いていきたい」蓬田やすひろ氏のインタビューがネットに出ています。蓬田やすひろ先生インタビューより2002年4月に刊行を開始した『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズ。第一巻「陽炎ノ辻」からカバーイラストを担当されている蓬田やすひろさんにお話を伺い、普段のお仕事振りやシリーズの印象を語ってもらいました。■普段のお仕事振りについて編集部:普段のお仕事の流れから伺いたいと思います。まずは、出版社から依頼があって着手されることと思いますが?蓬田:そうですね、出版社の方からお仕事の依頼をいただいて、まずは初校や再校ゲラを送っていただきますね。編集部:編集者と打ち合わせもされて……。蓬田:最近、ほとんど打ち合わせしないんですよ(笑)。 打ち合わせが嫌なわけじゃないんですけど、自分に全部お任せいただくことが多い。 ただね、作品によって違いますし、編集者によっても違いますけど、「人物を強調してほしい」とか「遠景でお願いします」とか、 その程度の要望はありますけど、最近は「ゲラを読んでイメージを掴んでいただいて、描いてください」っていうのが多いですね。 編集部:では、ゲラをお読みになって、シーンを選んでいかれるんでしょうか?蓬田:その時その時によって違うんですが、原稿を読んでいって、こうやってゲラを折っていくんですよ。 それで、そこに全部メモしていく。それで、最終的にイメージを掴む場合に参考にするんです。 そこからさらに煮詰めていく。 編集部:1つのシーンだけではなくて、いくつかのシーンを選びながら、それらのシーンをトータルしてイメージを膨らませていく感じなんですね。蓬田:そうです。イメージを固めて、ラフ画を描いて構図を決めて。 着色を始めるんですけど……、でもね、完成させるまで考えちゃうんですよ。 特にシリーズものの場合は、他の巻との兼ね合いもあるから、色とかシーンとかね。 「前回は夜のシーンだったな」と思って、昼のシーンを選ぼうとしても、画になるものが無かったりして。 そうすると、同じ夜のシーンでも、少し違う色にしようとかね。 編集部:例えば、日没直後とか深夜、夜明け前とかで、夜空の色調を変えるとかですか?蓬田:そうです。そういう具合に色に変化をつけて違う色味を出す。 灯りがあるか無いかで、闇の深さも変わりますしね。あとは、人物を入れてみた時、「何となく似ちゃうかな」と思ったりしてね。 絵としては全然違うんですよ、でもね、何となくそう思えてきちゃう。だから、描きながら何度も何度もゲラをひっくり返しますよ。 描きながらゲラを再読していく感じなんです。場合によっては極端だけど、半分くらいまで着色しても、書き換えちゃう時もありますよ。 編集部:最初から書き換えですか? 蓬田:ラフ画から書き換えますよ。 もともと僕の場合、さっきのメモ書きのところにも小さいラフ画を描いておくんです。 でも、実際に大きいラフ画を描いてみると、意外と間延びしていたり、ちょっと物足りなかったりとかあって。 そうすると、またゲラに戻って、何か付随する素材はないか探したり……。でも、大概無いですけどね(笑)。 小村雪岱の魅力を語る本を紹介します。【小村雪岱 物語る意匠】大越久子, 埼玉県立近代美術館、東京美術、2014年刊<「BOOK」データベース>より小村雪岱は、大正から昭和の戦前期にかけて、装幀、挿絵、舞台美術など、多彩な分野で名を馳せた美術家です。本書では、雪岱の仕事に共通する天性の魅力を「意匠」ととらえ、その才能を最も開花させた装幀と挿絵の世界を中心に紹介します。【目次】1 鏡花本の世界/2 ふたりの女おせんとお傳/3 装幀の仕事/4 挿絵の仕事/5 雪岱のわすれがたみ<読む前の大使寸評>小村雪岱の版画と装丁による本は、宝石のように美しいのだが・・・この本の装丁もまあまあでんな♪rakuten小村雪岱 物語る意匠『小村雪岱 物語る意匠』1
2019.08.16
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図書館で『会社人間だった父と偽装請負だった僕』という本を手にしたのです。著者は大阪出身で、塾講師、銀行マン、風俗店、トラック運転手などを経て現在は週刊誌記者というすさまじい職歴である。関西の底辺をレポートしているが、語られる関西弁が大使にひびくのおます♪【会社人間だった父と偽装請負だった僕】赤澤竜也著、ダイヤモンド社、2009年刊<「BOOK」データベース>よりかつて会社は永遠だった。「負け組」「下流」という言葉が跋扈し、会社は平気で人を切り捨てるようになった。この国が目指した先にどんな社会があるのか、今、誰もが気づき始めている。企業戦士として生き抜いた父の人生と自らの体験を通して、働くことの意味と社会のあるべき姿を問いかける渾身のノンフィクション。<大使寸評>著者は大阪出身で、塾講師、銀行マン、風俗店、トラック運転手などを経て現在は週刊誌記者というすさまじい職歴である。関西の底辺をレポートしているが、語られる関西弁が大使にひびくのおます♪企業戦士を父に持ち、荒れる中学校を生き抜いた著者は、大学を卒業するまでに、いやというほどの学生間格差を体験し、どこかが壊れていたのではないか?rakuten会社人間だった父と偽装請負だった僕赤澤さんの父の秘密を見てみましょう。p120~123 <父の秘密> 米国マスコミの論調が、1銀行の事件というスタンスを離れ、日本の金融システムや政府批判へと様変わりするにつれ、新聞だけでなく週刊誌にも大きく報道されるようになった。 僕自身、大和銀行の庇護下で育った企業舎弟を自認する人間だけに興味を持って読んだ。 そんななか、一つの記事が目にとまった。 手に取った時の衝撃は忘れられない。 ・・・思い通りにいかない国際部門の立て直しのため、安倍川氏が白羽の矢をたてたのが、赤澤克彦専務(当時)だった。安倍川氏が社内でただひとり、自らの寺尾イズムを継承する後継者と目していた人物だった。 赤澤専務は業務畑が専門。英語も得意とはいえず、国際部門は全く未知の世界だった。国際総合部長として心労を重ねたのだろう。就任翌年の88年2月2日、会議の席上、脳出血で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。 「赤澤さんは戦死した・・・」 それが大和銀行幹部の一致した思いだった。 「思いかえせば、赤澤さんが国際総合部長に任命された87年は、ダイワ・バンク・トラストの損失が約9千6百万ドルにまで膨れあがった年です。赤澤さんはその処理のためにかけずり回っていたのかもしれません」(1995年10月26日号、週間文春) なんと父は井口被告の犯罪の遠因となる米国子会社の損失処理を命ぜられていたというのである。 僕は長らく自らの引き起こした不祥事が父の心労を増し、死に至らしめたと思い続けていた。ところが僕の駈け落ちと同じころ、社命により不法な処理に走り回っていたというのである。 記事を目を通した僕はすぐに母へ電話をかけた。 「お母さん、週刊誌の記事、読んだ?」 「ええ、何回も読んだわ」 「お父さんがこんなことしてたこと、知ってたん?」 「いいえ、全然知らなかったわ。お父さんは家ではお仕事のことあんまりおっしゃらなかったから・・・」 1995年(平成7年)11月3日、ニューヨーク連邦地検は大和銀行を重罪隠匿、詐欺、金融機関検査妨害など24の罪でニューヨーク連邦地裁に起訴したと発表。また米連邦捜査局(FBI)は津田前支店長を重罪隠匿や文書偽造などの容疑で逮捕、告発した。同時に大和銀行は米国金融当局からのコンセント・オーダーにより、翌年2月2日以前に米国内のすべての拠点での業務停止を命ぜられる。 大和銀行は米国の市場から永久追放されてしまった。 FRB規則では、アメリカで業務を行う外国銀行、ならびにその支店、出張所に対して、刑事事件容疑が発覚してから30日以内に司法当局およびFRBに報告しなければならない旨が定められている。 大和銀行が井口氏から報告状を受け取ってから、米国当局へ通報するまで56日が経過していた。しかも、発覚から2週間後、大蔵省には報告している点に米国の怒りは集中し、これほどまでに厳しい処置となった。 経営側には当局に報告しておけばそれで事足りるという甘えがあった。当局にはそれを是正するに足る知識も指導力もなかった。護送船団方式での密室金融行政がいかに前近代的なものであったかを図らずも象徴的に露呈することとなった。 テレビ各社はニューヨークのビルから銀行の看板を外す映像をセンセーショナルに報道した。南麻布のマンションでビールを飲みながら熱っぽく語る父の顔が思い浮かんだ。 「詳しくは言えんけど、今香港の米銀買収を手がけてる。久しぶりに大きな仕事なんや。もしこれが成功したら大和銀行の国際部ももっと強くなると思うねん」 「そりゃ英語はあまり得意やないけど、大丈夫や。仕事なんかしょせんハート・トゥ・ハートや。真心を込めて接したらわかり合える」 国際業務発展に心血を注いでいた父がこの光景を目にしたらいったい何を感じるのだろう。そう考えざるを得なかった。父と自分を題材にした、すさまじいドキュメンタリーになっているが、どこで道をまちがえたのか・・・考え込むのです。
2016.10.14
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図書館で『浮世絵に見る江戸の食卓』という本を手にしたが・・・にぎり寿司、天ぷら、うなぎ、蕎麦など現代でも愛される食文化が江戸時代に確立していたことがすごいと思うわけでおます。【浮世絵に見る江戸の食卓】林綾野著、美術出版社、2014年刊年刊<商品説明>より食のシーンは、浮世絵の世界に度々描かれてきました。鰹の初売り、夏の白玉、雪中の蕎麦屋など。そこには今もなお受け継がれる食文化があり、また失われてしまった食習慣に気づくこともあります。食を描いた浮世絵を紐解きつつ、そのレシピも紹介する一冊。<読む前の大使寸評>にぎり寿司、天ぷら、うなぎ、蕎麦など現代でも愛される食文化が江戸時代に確立していたことがすごいと思うわけでおます。rakuten浮世絵に見る江戸の食卓《江戸じまん名物くらべ 深川のむきみ》東京出張時、大使が帰路で購入する駅弁は深川飯の一点張りでおました♪とにかく、庶民的な趣きがあり、美味くてコスパがいいわけで申し分おません。・・・ということで、「深川丼」を見てみましょう。p42~43 <深川丼:漁師のまかない飯> 左手に貝、右手に包丁を持つ女性。馬の尻尾と呼ばれる、洗い髪をそのままに結った髷にはだけた胸元はいかにも漁師町の女房という風情。 背後には、地引き網、右上に干されている青柳の身が目を引く。そして、左上には富岡八幡の一の鳥居が描かれている。 ここ深川の地は寛永6年(1629)より、隅田川の河口を埋め立て、漁師町として栄えた。年貢の代わりに新鮮な魚を幕府に納め、日本橋の魚河岸にも魚を送るほど漁場は豊かであった。辺りには魚介の仲買人など多くの人が集まり、町は賑やかだった。 国芳がこの《江戸じまん名物くらべ 深川のむきみ》を描いた頃、深川はすでに漁師町として200年以上の歴史を積み、すっかり江戸の名所となっていた。 女性が手にしている貝は青柳。「馬鹿貝」と呼ばれたこの貝はあまり砂をかまないので、生のままむきみにされた。振り売りが江戸の町で売り歩く姿もよく見られ、長屋に暮らす人たちも気軽に買うことができた。 深川では青柳にかぎらず浅蜊や蛤などその場でとれた貝を味噌でさっと煮て、ご飯にかけて食べるのが日常食だった。いわゆる漁師のまかない飯は、いつの間にか深川丼と呼ばれるようになり、江戸の郷土料理となっていった。 この絵にあるように、赤い身の部分を乾物にして保存するほど、青柳は豊富にとれたのであろう。干した青柳は網の上でさっとあぶっていただけば、酒の肴にぴったりだ。江戸の漁師町ならではの食模様が深川には根づいていた。《鬼あざみ清吉》鬼に金棒、江戸っ子に蕎麦!ということで(誰が言った、大使が言った)、「蕎麦」を見てみましょう。p24~25 <雪中のあたたかなかけ蕎麦> 蕎麦は、古くから「蕎麦がき」として食べられてきた。その後、「蕎麦切り」と呼ばれる細長く切った蕎麦が登場し、蒸して食べるようになった。醤油の普及からつけ汁が発達し、江戸後期には、茹でた蕎麦を汁につけて食べるようになる。 《守山 達磨大師》のように蒸籠に盛られた蕎麦を座敷で食べさせる店は、万延元年(1860)、江戸に3763軒もあったようだ。ひとつの町に1、2軒の蕎麦屋があり、それとは別に屋台も多くでていたのだから、蕎麦はまさしく江戸の外食産業の要だった。 風鈴蕎麦、二八蕎麦とも呼ばれた屋台では昼夜を問わず蕎麦を食べることができた。《鬼あざみ清吉》に見られるように、肩に担ぐ棒が渡してある簡素な屋台である。 風鈴蕎麦は風鈴をつけていたためだが、二八蕎麦の命名には諸説ある。当時の蕎麦は一杯十六文。二×八で十六で二八蕎麦とする説。蕎麦8につなぎの小麦2という分量から二八蕎麦になったという二説がある。 絵の中で、男は空になった「かけ蕎麦」の丼を手にしている。「ぶっかけ蕎麦」を略して「かけ」と呼ぶようになったが、もとは屋台で立ちながら食べやすいように考案されたスタイルだった。 屋台で気軽に、店ではお酒とともに蕎麦を楽しんだ江戸の人々。江戸で育まれた蕎麦への愛着と親しみは、変わることなく現代まで続いている。
2018.11.03
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坂本龍一さんが癌で亡くなったそうですね。大江健三郎さんに続いて、日本が誇る二人の芸術家が亡くなったことになるわけだ。坂本さんといえば映画『ラストエンペラー』の音楽と演技を思い出すわけで・・・過去の日記から以下のとおり復刻してみます。***********************************************************本棚に積んどく状態になっている映画パンフレットを整理していて・・・つい、『ラストエンペラー』の記事にひかれて、読みふけっていたのです。【ラストエンペラー】ベルナルド・ベルトルッチ監督、1987年イタリア・中国制作<商品の説明>より映画パンフレット「ラスト・エンペラー」(1988年刊)、出演 ジョン・ローン/坂本龍一/ジョアン・チェン/ピーター・オトゥール/高松英郎/立花ハジメ<大使寸評>新開地の古書店で、このパンフレットを300円で買ったのだが・・・定価500円だからリーズナブルなんでしょうね。amazonラストエンペラーベルトリッチ監督や坂本龍一が語られているので、見てみましょう。<幻影の王国とスペクタクル:武邑光裕> アルベルト・モラビアの小説『コンフォルミスト』(日本公開名『暗殺の森』)を映画化したベルトリッチにとって、『ラストエンペラー』の映画化はまさに絶好の題材であったといえる。2年程前に、ベルトリッチが清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀の生涯を映画化するという話を耳にした時、僕のイメージの中で増殖した作品が『暗殺の森』である。 ヨーロッパと中国という相違はあっても、ベルトリッチが描く中国最後の皇帝の映像っは、ジャン=ルイ・トランティニャンとドミニク・サンダが彷徨したヨーロッパ現代史の森の中へと融解していく。(中略) 『暗殺の森』や『1900年』を延長させるベルトリッチの新作『ラストエンペラー』は、現代史の急変する時代状況の中で翻弄される人間たちの姿を、過去の時空の中で停滞させるのではなく、常に現代の時間軸から遡行していく視点移動によって表現した。そして、ドラスティックな物語の空間は、綿密な構成と計測されたカメラによって、緊張を呼び覚まし、まさに映画的空間における独自のスケールを設定したのである。しかし、ベルトリッチ4年がかりの大作は、興行的に思わぬ強敵と戦わなくてはならなかった。 『ラストエンペラー』の公開と共に、昨年の暮れの映画界に大きな話題を提供していたのが、スピルバーグの『太陽の帝国』である。激変する中国の現代史と絡み合う人間ドラマである『太陽の帝国』は、『ラストエンペラー』同様、急変する中国現代史を舞台とした作品として、タイムリーな話題を喚起していたのである。 すでにロスアンゼルスのチャイニーズ・シアターで一足早く見る機会を持った『太陽の帝国』は、先鋭的なSF作家J・G・バラードの原作になる極めて刺激的な作品であった。最も、原作であるバラードの世界は、限りなくスピルバーグの世界へと移管されており、そういった意味からもスピルバーグという最もメジャーな映画作家が放ったアート・フィルムは、『ラストエンペラー』のベルトリッチと共に、エンターテイメイトとアートの狭間をめぐる大作映画のニュー・スタイルとして大変興味深い作品であった。 ベルトリッチの中国でのロケーション、特に紫禁城ロケは圧巻であったが、スピルバーグの上海ロケを中心とした中国での撮影は、『ラストエンペラー』の映像空間を上回る程の驚くべき密度を持っていた。昨年の2月、スピルバーグの撮影隊とほぼ同時期に、上海に滞在していた僕は、『太陽の帝国』の上海ロケが、すべて上海の街路での実際の撮影であることを直ぐさま確認できた。 何より、スピルバーグの『太陽の帝国』は、『ラストエンペラー』との対比の中で語られるだろうが、この二つの作品は、'87年から'88年にかけてのアメリカ映画に、最も大きな話題を提供することは疑い得ない。私的な余談を付け加えれば、『太陽の帝国』でガッツ石松と山田隆夫、そして伊武雅刀の絶妙な存在感を引き出したスピルバーグの才能には、三船敏郎以来、アメリカ映画の中の日本人像を改変する力学が働いているかに思えたのだ。それは、描出されるキャラクターの設定にこそ違いがあるが、『ラストエンペラー』における坂本龍一にも相通じる文脈を提出させたのである。 ともあれ、かつてヨーロッパの現代史にうごめいていたテロルの人間たちに魅せられたベルトリッチは、イタリアやフランスのヨーロッパ風景の暗部の中に、壮絶な人間ドラマを凝縮してきたが、『ラストエンペラー』における映像ランドスケープは、まさに紫禁城という迷宮の構図に遡行する溥儀の回想と記憶によって織り成されていた。 城郭の外縁に、開かれた世界を求めた溥儀が、ヨーロッパ近代への追慕を断ち切られ、その幻想の王国に写像された満州国に最後の皇帝の意思つなぎとめる時、さらに、文革の中国を生き抜き、10年以上に及ぶ収容所生活を経て特赦された溥儀が、かつて栄華を誇った紫禁城を訪れ、歴史というドラマを演じた自己の存在を透視する瞬間に、人間を覆いつくす制度と思想の回廊が浮上してくるのである。 急変する歴史の回転期に揺れ動く人間のドラマを、中国の巨大な制度変換と写し鏡のように描いたベルトリッチは、その一貫した映像美学の中でスペクタクルという映画の持つパースペクティブを再編する。それは、ビットリオ・ストローラの計測されたカメラであるばかりか、紫禁城を中心に二万人に及ぶエキストラによって設定された壮大な構図にのみあるのではない。それは、ベルトリッチによって描かれたグラン・ロマンが放つ、映画そのものの愉楽に起因するのだ。 2時間43分に及ぶ長尺の物語が、暗闇に身を沈める画像体験であるという最も基本的な抑制であることを考えれば、この物語を形成させうる巨大な力とは、映像によって放たれる俯瞰や鳥瞰のロング・ショットに写し出される壮大さと、細部に宿る神ならぬディティールの意匠との緊密な対称構図である。(中略) 溥儀の乳母の乳房に始まり、皇帝のみが着用できる黄色の服、大統領の自動車、ピーター・オトゥールが演ずる英国人家庭教師レジナルド・ジョンストンがもたらす自転車とテニス、そして坂本龍一が演じた甘粕大尉の映画カメラに至るまでのディティールは、実はオーソドックスを装う映像の組織的な運動が、極めて細部にわたって設定されていることの証左あるといえる。 ベルトリッチが設定した歴史の時間運動は、人間の時間がどのように歴史という時間に仕組まれていったかを、裏返しで投射することで、多彩な人間模様を描出させ得たのである。愛新覚羅溥儀が、制度の変換の中で固執した幻影の王国が満州であれば、甘粕が固執した満州は、まさに映画カメラの中でのみ機能する幻影の王国であり、日本の民族支配におけるイニシエーションを象徴する現実のシミュレーション映像でもあった。 溥儀のジョン・ローン、甘粕の坂本龍一という興味深い体面も、この映画を飾るハイライトである。『戦場のメリークリスマス』以来、映画俳優と音楽監督として参加した坂本は、ベルトリッチのスタイリッシュな演出と設定を借りて、極めて印象深い役柄を演じたといえよう。デビッド・バーンとスー・ソンとの競作となった音楽も、全篇、坂本龍一の手によって入念に仕上げられている印象を持った。 映画音楽という緻密で綿密な作業が、ベルトリッチの映像と絡み合う瞬間も、いわば映画が所有する映像の組織運動であれば『ラストエンペラー』における坂本の才能は真にワールド・ワイドな時空へと開花したのである。『ラストエンペラー』と『太陽の帝国』の制作が同時進行していたのか・・・CGXのない時代だから現地撮影とエキストラの大量動員が欠かせないわけで、中国側の協力が成功の前提条件だったようですね。映画パンフレット『ラストエンペラー』:関東軍によってつくられた「満州」という国
2023.04.03
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いしいひさいちの多彩な引き出しから、大使一押しのキャラクターです。豪放磊落大胆不敵な藤原ひとみ先生ワールドは、どないだ♪藤原ひとみ先生・藤原ひとみ先生の近況・女には向かない職業1、おぼえてないわ・女には向かない職業2、なんとかなるわよ(笑)いしい商店で藤原ひとみ先生の近況を見てみましょう。二日酔いは日常茶飯事なひとみ先生であるが、この日はシャキっとしていますね?♪【女には向かない職業1、おぼえてないわ】いしいひさいち著、東京創元社、2006年刊<内容紹介より>朝日新聞でおなじみの、ののちゃんの担任の藤原瞳先生。その藤原先生が新人賞を受賞してミステリ作家に転身!? 大酒飲みで時間にルーズ。しかも書下しのペースで連載の仕事を引き受けてしまう、ザ・大物の作家藤原瞳に明日はあるのか。ゴーイング・マイウェイの極致、藤原先生の痛快テキトー生活が遂に文庫で登場。巻末に「COMICAL MYSTERY TOUR」の未収録作品も加えた、いしいファン必携の一冊。<大使寸評>この本では瞳先生の本性がよく表れているが・・・・朝日新聞でここまで本性をさらすと、読者からクレームが出ると思われるので、現状の連載スタイルを続けるほうが無難でしょうね。tsogen女には向かない職業1、おぼえてないわ【女には向かない職業2、なんとかなるわよ】いしいひさいち著、東京創元社、2006年刊<内容紹介より>ミステリ作家・藤原瞳はいかにして形成されたのか? 高校生時代、小学校教師時代にも垣間見える、作家としての輝く文才。そして今もかわらず超テキトーな「なんとかなるわよ」的性格。豪放磊落大胆不敵。ちょっとやそっとじゃ動じない、そんな藤原先生の自由気ままな日常生活を、ドタバタ四コマ漫画でお贈りします。おなじみホームズとワトソンに、A先生や(依願)退職刑事など、充実のおまけ漫画も嬉しい、文庫化第二弾!<大使寸評>瞳さんはもともと、朝日新聞でののちゃんの担任として登場したが、このシリーズでは小学校を退職し、専業作家になっています。豪放磊落大胆不敵な片鱗が見える高校生時代の素顔が面白い♪瞳さんの両親も出てくるが、これがわりとまともでほんのり爽やかで、いしい作品のなかで異彩を放っている。瞳さんと言うか、いしいさんがフォルクローレなどの中南米サウンドが好きなことが垣間見えます。tsogen女には向かない職業2、なんとかなるわよいしいさんがなんで、こんなに女性心理の機微に詳しいのか?ムック本『いしいひさいち、仁義なきお笑い』によれば・・・何人かの女性編集者の合成です。ルックスはともかくこんなのばかり担当にまわされていたわけです。・・・だそうです。いしいひさいちの世界byドングリ
2013.08.06
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<「このバカタレが!」と言いたいことが多い>最近「このバカタレが!」と言いたいことが多いが・・・・この本によれば「バカタレ」は関西弁なんだそうです。で、「バカタレ」のルーツを知りたいと思うわけですね。<「バカモン」「バカタレ」は関西弁>p248~252 報告書にまとめたいと思ったのは、分布図23語に含まれなかったその他の語彙や、都道府県別の語彙集だけではなかった。「フムリン」や「ホンジナシ」の調査結果についても報告したいし、さらにもうひとつ、果たさねばならないことがあった。それは「バカ」という、日本を広く支配する言葉の謎に少しでも迫ることである。実は「バカ」について、私は早い時点からひとつの大きな疑問にとりつかれていた。 その疑問とは、「バカ」には、「戯け者」「惚れ者」「惚け者」「あやかり者」、あるいはほとんど文献にしか残らない「痴れ者」「空け者」と同じように、もとは「者」が必用だったのではないかという疑問である。現に「バカ」は、今も「馬鹿者」という言い方が一般的であるのに対して、「アホ」の場合、「阿呆者」という言い方はしないのが普通である。 疑問の発端は、近畿の周辺部からの回答に「バカ」ではなく、「バカタレ」が多いことに気づいたこと、さらに図に見るように「バカタレ」と「バカモン」が東北の北部や九州に数多く見られたことにある。「タレ」や「モノ」など接尾語つきの「バカ」こそが、古い形を残しているのではないか? 近畿地方で「バカタレ」が回答されたのは、次の15の市町村であった。 滋賀県・・・・余呉町・甲南町・中主町 京都府・・・・舞鶴市・亀岡市・伊根町 兵庫県・・・・新宮町・美方町・温泉町・朝来町・洲本市 三重県・・・・阿山町・伊勢市 和歌山県・・・美浜町・那智勝浦町 一方、「バカモン」の回答はわずか数件にとどまった。滋賀県甲南町の回答者・真泉善常氏は、「バカモン」「バカタレ」などは若い世代はあまり使わなくなったとし、その代わりに台頭しつつあるのが「アホ」「バカ」であると指摘しておられる。 こうした回答を眺めて、ある日私は胸を突かれた。うかつにも今までまったく意識していなかったが、「バカモン」「バカタレ」が、実は今に生きる関西弁であったことにハタと気づいたのである。上記の地域だけではない。「バカモン」「バカタレ」は、京阪神でもよく耳にする言葉だった。「バカ系語」は関西弁ではない、という確立された常識に対して、それはコペルニクス的な発想の転換を強いる、衝撃的な事実であった。 回答が近畿周辺部からにのみ限られたのは、近畿中央部よりももっと使用頻度が高いからか、あるいは回答者の方言に対する意識の鋭さからだろう。 「バカモン」「バカタレ」が関西の言葉であることを意識してから、私は仕事場で、改めてまわりの人たちが使う言葉に注意してみた。すると京都・大阪・神戸、どこの出身者もやはり「バカモン」「バカタレ」を使っているのである。男性ばかりでなく、短大を出てきたばかりの年若い女の子たちも、ときに威勢よく使うことがある。上方漫才のやりとりの中で、これらが使われるのはごく当たり前のことのようでもあった。 ある日、京都の室町で育った友人が訪ねて来た際に、子供のころどんな言葉で叱られてきたかを尋ねてみた。 「うちの家系はずっと京都人ですが、親父から『アホ』と言われたことは、一回もないですね。いつも『バカモン』『バカタレ』で叱られてきました」 納得のできる答えだった。「アホ」や「ドアホ」「アホンダラ」「ボケ」「カス」などでは子供の喧嘩のようであるし、父親の権威で堂々と叱りつける場合は、やはり「バカモン」「バカタレ」でなければならないということだろう。 京都や大阪では普通、「バカ」という言い方はしない。だから東京人が、関西に出向いて「バカ」などと言ったら、非常に当惑され、気分を悪くされる可能性がある。「バカ」は耳慣れない言葉であり、不当に蔑まれたように思えるのである。これは逆に東京人が、関西人から「アホ」と言われて、耐え難い不快感を覚えるのと似ている。 しかしながら関西人は、「バカモン!」「バカタレ!」と言われても、そうした類いの不快感を示すことは絶対にあり得ない。 横浜で育った女性ディレクターに聞くと、関西に来て面白く思った言葉のひとつが「バカタレ」だったという。 「関西の人は『バカ』は絶対言わないのに、なぜ『バカタレ』は使うんだろう?」 関東人から見ても「バカタレ」はやはり関西弁なのだった。ここまで、読んできて大使は「番組プロジューサーといえばルポルタージュはお手の物だから、構成も文章もなかなかのもんだ♪」と思ったのだが・・・・巻末の解説で俵万智さんが、松本さんの文章を絶賛しています。曰く「著者は、映像の人であると同時に、言葉の人でもあるのだ。テレビ界の人にしておくのは、もったいないかも、とさえ思われた」ちなみに、相手をののしる場合の「アホ」「ボケ」「ドアホ」などの使用例を中島らも著「西方冗土」より紹介します。〇:なんやと?おのれ誰に向かって口きいとんじゃ、このドアホ!▲:あははは、いや冗談でんがな。〇:冗談?寝言は寝てからぬかせ、このボケ!▲:えろうすんまへん。〇:“すんまへん”ですんだら警察はいらんのじゃ、このカス!▲:・・・・なんもそこまで言わんかて・・・・〇:やかまっしゃい、ミソ汁で顔あろて出直してこい、このスカタン!(このような関西人には、「アホ」は親愛の言葉で、効き目はない。「ボケ」「カス」ときて、初めてムッとするのである)【全国アホ・バカ分布考】松本修著、新潮社、1996年刊<「BOOK」データベースより>大阪はアホ。東京はバカ。境界線はどこ?人気TV番組に寄せられた小さな疑問が全ての発端だった。調査を経るうち、境界という問題を越え、全国のアホ・バカ表現の分布調査という壮大な試みへと発展。各市町村へのローラー作戦、古辞書類の渉猟、そして思索。ホンズナス、ホウケ、ダラ、ダボ…。それらの分布は一体何を意味するのか。知的興奮に満ちた傑作ノンフィクション。 <大使寸評>番組に依頼した人の着眼がよかったのか、それを採用し追及させた松本修プロデューサーが偉かったのか♪Amazon全国アホ・バカ分布考ノンフィクション100選★全国アホ・バカ分布考|松本修全国アホ・バカ分布図「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#1「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#2「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#3「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#4「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#5
2012.07.29
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図書館で『日本近代漫画の誕生』という本を手にしたのです。この「日本史リブレット」というシリーズであるが・・・図が多く、薄くて手頃で、元祖ビジュアル本という体裁がええでぇ♪【日本近代漫画の誕生】清水勲著、山川出版社、2001年刊<「BOOK」データベース>より本書は、近代漫画誕生の経過を七つのエピソードで紹介する。【目次】)1 幕末諷刺画の誕生とその発展/2 自由民権期の『団団珍聞』/3 『パック』と日本近代漫画/4 「漫画」という言葉の誕生/5 国際漫画雑誌『東京パック』の登場/6 日本最長寿漫画誌『大阪パック』/7 柳瀬正夢の漫画表現の変遷<読む前の大使寸評>この「日本史リブレット」というシリーズであるが・・・図が多く、薄くて手頃で、元祖ビジュアル本という体裁がええでぇ♪rakuten日本近代漫画の誕生「近代漫画の創始者」とも言われる北沢楽天を、見てみましょう。p42~51 <『パック』の清親・楽天への影響> 明治15(1882)年8月より、本多に代わって『団団珍聞』の風刺画を担当しだした小林清親は、『パック』からどんな影響を受けたのだろうか。清親は本多が見ていた『パンチ』や『パック』を当然見ていたと思われる。このほか、イギリス人画家C・ワーグマンの主宰する『ジャパン・パンチ』も見ていたことが判明している。 週刊の『団団珍聞』に毎号2、3点の風刺画を描かねばならない清親にとって、参考になる資料は、そうした外国漫画雑誌の作品だったことは想像にかたくない。(中略) 明治18年2月から3月にかけて、フランス人画家ビゴーが『団団珍聞』に漫画を3点寄稿しているが、そのうちの2点は日本的な洒落や発想が色濃く出ているから、日本人との共同作業でつくられたように思われる。その日本人とは、当時の同誌の漫画担当者・小林清親にほかならない。 清親は明治18年ごろから明治20年代初頭にかけて、ビゴーとの接触や外国漫画雑誌の閲覧によって、力強い漫画表現とは何かを追求した。日本人画家としては珍しい銅版刷風刺画を試み、石版刷漫画やコマ漫画をこの時期多数生み出したのも、外国漫画から触発されたものと思われる。 『パック』の漫画から多くの影響を受けたもう一人の漫画家は北沢楽天である。清親作品よりも楽天作品のほうが、影響関係がより明瞭である。 「鉄道の国営」の鉄道公営化による駅長・助役・駅夫の官員きどりの客扱いと運賃値上げを風刺した、巨人駅員のアイデアは、「現代の鉄道巨人」からヒントを得ているように思われる。両者の間に27年の時間差があるが、J・ケプラーの強烈な印象を与える鉄道界風刺画がずっと楽天の脳裡にあって、同じ鉄道界の風刺に巨人像を使用したのであろう。(中略) 日本の近代漫画のスタイルをつくり出した二人の巨人・小林清親と北沢楽天が、その風刺画の創作にあたって、欧米の漫画雑誌や来日欧米人の漫画雑誌から多くのヒントを得ていたことが、具体的にわかってきた。英仏からだけでなく、アメリカからもこんなに早くから影響を受けていたことが、『パック』誌によって証明された。『日本近代漫画の誕生』1
2019.10.01
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図書館で『中国「国恥地図」の謎を解く』という本を、手にしたのです。この本にも南シナ海の九段線が出てくるが、聞き捨てできないアイテムなので借りた次第です。【中国「国恥地図」の謎を解く】 譚ろ美著、 新潮社、2021年刊<「BOOK」データベース>よりかつて中国が列強に奪われた領土、すなわち「中国の恥」を描いた地図があるという。その名も「国恥地図」。その実物を手にした筆者は唖然とした。国境線は近隣十八か国を呑み込み、日本をはじめ三か国を切り取り、南シナ海をほぼ囲い込んでいたのだ。こんな地図がなぜ教科書に?誰がなぜ作らせた?なぜ図面に「日本語」が?-執念の調査と取材で数々の謎を解き、中国の領土的野望の起源を明らかにする。<読む前の大使寸評>この本にも南シナ海の九段線が出てくるが、聞き捨てできないアイテムなので借りた次第です。rakuten中国「国恥地図」の謎を解く「はじめに」で中華民族(漢族)の「革新的利益」と称される価値観が地図上で語られているので、見てみましょう。p9~11<はじめに> 2020年6月、新型コロナ・ウイルスが世界中で猛威をふるう中、中国政府は香港に「香港国家安全維持法」を制定して、即自施行した。 香港では前年の4月に、中国への容疑者移送を盛りこんだ「逃亡犯条例」改定草案が議会に提出されたことから、市民の反対運動が起こり、百万人規模の反対デモが何度も続いて、都市機能が完全に麻痺していた。中国政府はコロナ感染の防止を口実に市民集会を禁止し、警察権力を行使して市民に暴力をふるった。その末に「香港国家安全維持法」を導入して、香港の司法と行政を完全に掌握したのである。 堪能な日本語と可憐な面差しで知られる周丹羽さん、筋金入りの学生活動家の黄之峰さん、香港の民主活動の後ろ盾となった「リンゴ日報」創業者の黎智英氏ら、「民主」と「自由」を掲げて市民運動を率いてきたリーダーたちは次々に逮捕され、実刑判決が下っている。「リンゴ日報」は廃刊に追いこまれ、香港議会から民主派議員も締め出された。海外へ移民しようとする人々はこの1年で急増した。 中国が、50年間維持すると約束した「一国二制度」は、23年目にして反故にされたのだ。「香港返還」当時、だれがこんな事態になることなど想像しただろう。 いや、どこかで予想はついていた。あの1997年6月30日、私がいたのは返還式典会場と棟続きになったグランド・ハイアット・ホテルの中庭の一角だった。特別報道番組のゲストとして出演してほしいと依頼されたのは、その二週間前のこと。およそテレビの世界とは無縁の私が迷った末に引き受けたのは、歴史的な瞬間を間近で見られる貴重な機会だと思ったからだ。「返還式典を見て、いかがですか?」と、キャスターが私に聞いた。「香港は私のホームタウンです。イギリスの西洋文化と中国の伝統文化が融合した魅力ある町で、子供の頃から慣れ親しんできました。それが今失われるとおもうと、心にぽっかり穴が開いたような気がします」と、私は遠慮気味に口にした。 だが、内心では動揺が収まらず、この場にいることを後悔していた。ほんとうならホテルの部屋に閉じこもり、誰にも邪魔されずに泣いたり喚いたり、悪態の限りを尽くして、青春時代のかけがえのない記憶が抹殺されることへの悲しみを発散したかったのだ。 その半年後に、「国恥地図」というものがあると耳にした。香港在住の友人によると、それは中国の古い地図で、復刻版が発売されて話題になっているという。 「国の恥を描いた地図」とは、なんとおぞましい名称だろう。そこには深い恨みと憎悪の念がこめられているようで、聞くだけで恐ろしかったが、怖いもの見たさから興味も湧いた。 ネットで探してみると、国恥地図には五、六種類のパターンがあり、過去百年間の戦争によって外国に奪われた中国の国土範囲を表した地図のようだ。戦前の中華民国の時代に作られたものらしいということもわかった。 無論、現在の国際基準に従ったものではなく、「領土」として示す範囲は実際の中国のゆうに二倍以上はあろうかという荒唐無稽な代物だ。こんな怪しげな地図を、いったいだれが、なんの目的で作ったのか。私は呆然とするばかりだった。『中国「国恥地図」の謎を解く』1:南シナ海の「九段線」
2023.07.03
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図書館で『描かれた倭寇』という本を、手にしたのです。下半身丸出し、はだしで、日本刀を携えた姿で知られる倭寇であるが・・・中国人が描いたこの絵が興味深いのです。【描かれた倭寇】東京大学史料編纂所編、吉川弘文館、2015年刊<「BOOK」データベース>より16世紀、時代の転換点にあって、東アジアの海域秩序を乱した倭寇。彼らを描いた作品として著名な「倭寇図巻」。それと非常によく似た「抗倭図巻」。日中の共同研究による最新の成果をビジュアルに紹介。【目次】第1章 「倭寇図巻」の魅力を探る/第2章 二つめの倭寇図巻ー「抗倭図巻」の発見/第3章 比較検討「倭寇図巻」と「抗倭図巻」(図巻を解剖する/蘇州片の世界/文字は語る)/第4章 三つめの倭寇図巻?-幻の「平倭図巻」(「文徴明画平倭図記」を読む/「乍浦・梁荘の勝利」と胡宗憲/成立と流布)/第5章 倭寇の記憶ー「太平抗倭図」の世界(民間絵画「太平抗倭図」/「太平抗倭図」に描かれた倭寇)<読む前の大使寸評>下半身丸出し、はだしで、日本刀を携えた姿で知られる倭寇であるが・・・中国人が描いたこの絵が興味深いのです。rakuten描かれた倭寇東シナ海を遊弋した海賊には、倭寇もいたし、中国人もいたわけで・・・アナーキーではあるが、勇壮な時代の背景を知りたいわけでおます。p79~80 <「嘉靖大倭寇」の「終焉」> 「嘉靖大倭寇」とは、嘉靖30年代(1550年代)、中国沿岸部、とりわけ江南地方で発生した一連の動乱である。嘉靖27年(1548年)、浙江巡撫兼福建海道提督軍務であった朱ガンは、海賊の巣窟とみなされていた双ショをはじめとする浙江・福建沿岸の密貿易港を攻撃、陥落させた。 これは結果として、密貿易集団・海賊集団の拡散化・過激化を招き、以後、主として江南・浙江・福建の沿海部は厳しい攻撃にさらされることとなった。このなかで一大勢力としてのし上がったのが王直で、彼は金トウ島北西部の烈港に拠点を置いていた。 嘉靖32年(1553)、明軍は烈港を攻撃、王直は日本平戸に逃亡した。こののち海賊の襲撃はさらに激しさを増すこととなった。 事態を憂慮した明朝は、嘉靖34年(1555)、王直の招撫と日本国王への倭寇禁圧要求を目的として、蒋洲らを日本に遣わした。彼らはまず王直と接触し、帰国すれば貿易活動を認めると称してこれを承諾させ、ついで王直と同道して、豊後大友氏のところに向かい、倭寇禁圧を説いた。 嘉靖36年(1557)4月、蒋洲・王直は大友氏使者徳陽らとともに帰国の途につき、蒋洲・王直は7月に、嵐にあって遅れた王直は10月に舟山の港に到着した。しかし、明朝は、徳陽らが勘合等を持参していなかったことを理由にこれを正式の使者として認めず、蒋洲を獄に下し、ついで王直をも捕縛して、翌嘉靖37年正月、杭州按察司の獄に繋いだ。これをみた徳陽らは逃亡し、王直は嘉靖38年、斬首された。 後期倭寇と呼ばれる現象は、隆慶元年(1568)前後、明朝が海禁政策を緩めることで、やや落ち着き、16世紀末、日本に統一政権が生まれることによって終息に向かう。嘉靖38年の王直の死によって倭寇活動が止んだわけではなかったが「嘉靖大倭寇」は、王直の死を以て終焉とみなされることが多い。
2016.11.19
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図書館で『ヒエロニムス・ボスの世界』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると・・・部分的な拡大図がたくさん図鑑のように並んでいて圧巻です。 【ヒエロニムス・ボスの世界】ボルヒェルト,ティルホルガー著、パイインターナショナル、2019年刊<出版社>より拡大で見る!奇想の画家ボスによる奇々怪々のモノたちと風景美。《こんなにディテールを拡大して見られるボスの本は、他に無い!》15世紀末から16世紀初め、ダ・ヴィンチと同時代に活躍したボス。人間の快楽や罪と罰、異形ながらも憎めない悪魔や愉快な怪物たちなど、ボスの細かな描写を高精細の拡大画像で紹介します。近年、再評価された風景画の草分けとしての功績にも着目したファン必携の1冊です。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・部分的な拡大図がたくさん図鑑のように並んでいて圧巻です。 rakutenヒエロニムス・ボスの世界「樹木人間」最も有名な絵画《快楽の園》の「樹木人間」が語られているあたりを、見てみましょうp260~261<快楽の園 部分> 《快楽の園》の地獄の翼扉で中心的な位置を占めるいわゆる「樹木人間」は、ヒエロニムス・ボスの最も有名な視覚的創意の一つであることは疑いない。ボスは、この擬人化された造形の別のヴァリエーションの一つとして、さまざまなモティーフが加えられた印象的な素描を加えている。 この画家に近い親類もまた、別の素描において関連する作品を作っている。ただ、現在一般的になっている「樹木人間」という呼称は誤解を招きやすい。このグロテスクな姿には確かに、2本の枯れ木が2本のボートにつけられているが、その上半身はむしろ、卵あるいは食用のムラサキイガイのようだ。貝のような表皮には枯れた枝が刺さっており、それは肋骨にも似た効果を生み出している。怪物の上半身の後部は引きちぎられ、体の内部が露出している。 そこには薄暗い宿の情景があり、そこに悪魔の子分たちが集まっており、悪魔の宿屋としての地獄を連想させる。カンテラではなく水差しをもち、尻をあらわにした夜の警備人が梯子を上り、いうなれば、肛門から悪魔のパブへと入っている。 怪物の人間の顔は肩越しに振り返り、体の中で動き回るものを見ている。研究者の中には、これが芸術家の偽装された自画像なのではないかと考える人もいる。しかし、全体的な造形上の文脈はこれと適合しない。この芸儒家が、自分の欲望に屈して人間でなくなった存在のエンブレムとして自分を使った可能性は低い。 これは結局のところ、この人物の頭の上に、呪われた魂たちがバグパイプの音に合わせて円を描いて躍ると言う意味なのだ。ボスは、15世紀にオランダで描かれた「生命の木」のイメージから、船に浮かぶ木のモティーフを描いたのだろう。教養のある同時代人はこの像を、“arbor malus”、すなわちエデンの園にある木の対になるもの、と認識し理解したことであろう。『ヒエロニムス・ボスの世界』1:Introduction
2023.02.10
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図書館で『哲学者にならない方法』という本を手にしたのです。著者は週刊文春などメディアにたくさんのユーモアエッセイを連載している著名な学者なので、期待できそうである。【哲学者にならない方法】土屋賢二著、東京書籍、2013年刊<「BOOK」データベース>より寄天烈な寮生たち、麻雀、ジャズ、ドストエフスキー、『存在と時間』…。ツチヤ教授のバカバカしくもどこかせつない青春の1ページ。初の自伝的エッセイ!<読む前の大使寸評>著者は週刊文春などメディアにたくさんのユーモアエッセイを連載している著名な学者なので、期待できそうである。rakuten哲学者にならない方法「第1章 親の教育」で土屋家の特異な内情が出てくるので、見てみましょう。p24~27<好きなことしかやらない> わたしの家のように父1人が家事から子育てから商売からギャンブルから何から何まで獅子奮迅の働きをする家で育つと、子どもはどうなるだろうか。そういう父の姿を見て育ったわたしが身につけた生活態度は、できるだけ仕事もせず、安逸に娯楽に興じるという母の態度だった。父の勤勉さはかけらも受け継がなかった。 わたしが子どもの頃から持ち続けている信念は、「好きなことしかやらない」というものだ。これこそ母の生活態度だった。母は、勉強、努力、労働、奉仕などには完全に背を向け、父の苦労に報いようともせず、好きなことしかやろうとしなかった。母は箏を教えていたが、それも母が箏を弾くのが好きだったからだろう。それ以外には、縦のものを横にもしようとしなかった。父が一生懸命働いているのを目の当たりにしてもその態度は崩さず、申し訳ないと思ったり感謝しているという様子は微塵も見せなかった。 母は威張っているわけではなかった。むしろ、か弱さを全面に出し、「わたしは何にもできない」という態度をアピールしていた。それでいて、明るい性格で裏表がなかった。楽しいことしかしていないのだから明るくしていられるのも当然だったかもしれないが。 楽しいことしかしない生活なら、だれでもしたがるはずだと思われるかもしれないが、どれを選ぶかは本人の考え方次第だという状況が多いが、意外なことに、苦しい面ばかり選び取って苦しい思いをする人が非常に多いのだ。実際、多くの人は自分の長所には一顧だにせず、欠点を気にして苦しんでいるではないか。結婚後10年もたつと、妻は夫の欠点しか見なくなるではないか。 ともあれ、わたしは母と同じ生活態度を身につけて育った。わたしが大学を出て哲学に進み、朝から晩まで論文を読みふけり、長時間研究に励んでいるように見えても、「努力」しているつもりはまったくない。やらないでは気がすまないことを夢中でやっているだけで、勤勉に仕事をしているという感覚をもったことがない。 もちろん食べていくためにはイヤなこともしなくてはならないが、わたしはそれが最小限になるような生活を選ぶことを心がけてきた。だからサラリーマンになる気はまったくなかった。人生の大半の時間を他人が決めたことに費やすのは耐えられず、それぐらいなら貧乏でも拘束時間が少ない仕事をした方がいいと思っていた。結局、大学に職を得てサラリーマンになったが、それは哲学の研究をしながら食べていけるのはこの職業しかなかったからだ。 当時は高度成長期でモーレツ社員が多い時代だったが、私は勤労意欲がかけらもなかった。働くことが尊いとは思えず、好きなことだけをして世の中を渡りたいとムシのいいことしか考えなかった。かりに遺産で食べていけたり、大富豪の娘と結婚して働く必要がなければ、就職もせず、毎日哲学や音楽やギャンブルに明け暮れていただろう。これが母から受け継いだ性質だった。意外なことに、この性質もわたしを哲学に追い込む一因となった。 哲学はともかく、母のように徹底して楽しもうとする生活態度の貴重さに気づいたのは最近になってからだ。それを与えてくれた母にそのことを伝えられなかったことが残念でならない。 働き者の父親をもつと家族は大きい影響を受けるが、それがいい影響なのかどうか分からない。少なくともわたしは働き者にはならなかった。大人になって働き者になるには、父親が怠惰で、子どもが一生懸命働かないと生き延びられないという家庭環境に育つ方がいいのかもしれない。
2023.12.09
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戦後生まれで、サンデー毎日で、収入源は年金のみという生活を続けているが・・・『シルバー・デモクラシー』という本を、復刻して読み直そうではないか。********************************************************* <『シルバー・デモクラシー』4>図書館で『シルバー・デモクラシー』という新書を、手にしたのです。ぱらぱらめくって見ると…シルバーの身を切るような提言が見られます。寺島実郎さんは1947年生まれの団塊世代であるが、大使も安穏としている場合ではないのかも?【シルバー・デモクラシー】寺島実郎著、岩波書店、2017年刊<「BOOK」データベース>より戦後日本人の先頭として民主主義、高度成長の恩恵を受けてきた団塊の世代。世界的な民主主義の危機が語られる今、1980年の論稿「われら戦後世代の『坂の上の雲』」のタイムカプセルを開け、35年後の高齢化した都市新中間層の現状をみつめ、シルバーが貢献する新たなデモクラシーへの視界を探る。参画型社会構築への提言。<読む前の大使寸評>ぱらぱらめくって見ると…シルバーの身を切るような提言が見られます。寺島実郎さんは1947年生まれの団塊世代であるが、大使も安穏としている場合ではないのかも?rakutenシルバー・デモクラシー都市新中間層としての我らを見てみましょう。p54~56■都市新中間層として 「僕って何?」…新世代作家といわれる三田誠広の小説での問いかけは、ジェームズ・クネンの『いちご白書』(角川文庫、1971年)での問いかけでもあった。自分のアイデンティティをいかなる組織・集団・権威にも見出しえず、それゆえにそうした問いかけを続けねばならあいこと自体が、きわめて戦後世代的な問題の立て方なのであろう。そして私も、自らを映す鏡をのぞき込むように、戦後世代の実像を問い詰めてみたい。 すでに論じてきたような要因によって規定されてきた戦後世代は、いま、どこでどのように生活しているのであろうか。そのことは、戦後世代の歴史的形成要因の帰結を確認し、将来に対して戦後世代が果たす役割を展望するうえで重大である。未来はじつに現在の中に萌芽しているのである。その意味で、戦後世代の現在の生活を規定している二つの社会経済的特色に注目しなければなるまい。 一つは、戦後世代の多くが「都市」という空間の中で生活をしており、都市文化の形成主体となっていることであり、他の一つは、社会参加しはじめた戦後世代の多くが、「新中間層」といわれる職業階層に帰属していることである。 昭和50年現在、人口10万以上の都市に居住する人口は総人口の54.9%を占め、全国的な「都市化」の進展が見られるが、この時点での戦後世代の中で15歳の就業年齢に達した者は約2800万人であり、そのうち人口10万人以上の都市に居住する者は約65%と、とくに若者の都市集中が顕著である。我ら団塊世代とは何だったのか?…回顧してみましょう。p26~28■「戦争」はあった 1970年前後に『戦争を知らない子供たち』という歌がはやったことがあった。思えばその時点では、「戦争を知らない」ことが一つの画期的なこととして表現されねばならぬほど、「戦争」という出来事の意味がまだ重くたれこめていたのである。しかし、日本にとってその後に続く10年間の意味は大きかった。 いまや、戦後の昭和20年代生まれの者はすべて成人し、昭和30年代以降の人間を加えたいわゆる「戦後生まれ世代」は、すでに日本の総人口の60%に迫り、選挙権をもつ成人人口の35%を占めるに至っている。もはや、「戦争を知らない」ことはあえて表現される必要もないほど当然のこととなり、「戦後」という概念は「戦無」という概念にとってかわられている。 より具体的な現実として、企業および官公庁などの職場組織においては、いわゆる「定年制」によって、成人として戦争を体験した世代は、第一線から姿を消しはじめている。「80年代」を問うとき、与件として認識しておかねばならぬことは、80年代を生きる人間、すなわち社会構成主体の大部分が「戦後世代」となるということであろう。 量的に戦後世代が台頭しているというだけではない。後で述べるように、戦後世代のもつ性格・行動様式はたんに若さに付随する積極的活動力によってだけではなく、「戦後」という時代の性格との相互規定関係において社会全体を席巻する大波を引き起こしている。現在、主潮となっている政治の「保革」枠の流動化も、劇画やニューミュージックの隆盛も、すべて戦後世代の台頭と密接な関係をもつものである。それはまた「戦後」という特異な時代環境を土壌として成長した世代が、自らが成長した土壌を問い詰め、自らの課題を明らかにし、真正面から問題に挑戦していくべきときが始まっていることをも意味する。 ほかならぬ私自身も、昭和22年生まれの「戦後世代」の一人として、しかも、もはや若者ではなく、大人になった戦後世代として、自分たちが新しい役割を担いつつあることを意識せざるをえない。 前の世代の論者から「モラトリアム世代」「仮性成熟世代」「三無世代」「不機嫌世代」などという呼称をいただき、「なるほど、そんなものかなあ」と社会学のサンプルに甘んずるときではなく、当事者意識をもって「われらが時代」を語るべきときなのである。ウン 寺島さんは「われらが団塊時代」を代弁してくれているんだなあ♪『シルバー・デモクラシー』1:日本の貧困化と世代間格差p123~128『シルバー・デモクラシー』2:現在進行中の国家資本主義p151~153『シルバー・デモクラシー』3:日本の産業構造のあり方p174~177『シルバー・デモクラシー』4:我ら団塊世代とはp26~28 ********************************************************* ■2017.09.17『シルバー・デモクラシー』4https://plaza.rakuten.co.jp/foret/diary/201709170000/
2025.05.14
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*********************************************************著名な絵本作家といえば、私の場合ショーン・タンが筆頭になるわけで・・・『ショーン・タンの世界』という本を復刻して読み直そうと思ったのです。油彩画や彫刻まで手掛けているようだが、モノクロの線描画が一押しでおます♪*********************************************************図書館で『ショーン・タンの世界』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、油彩画や彫刻まで載っていてショーン・タンのすべてが見られるわけで・・・ええでぇ♪【ショーン・タンの世界】ショーン・タン著、求龍堂、2019年刊<出版社>よりオーストラリアの作家ショーン・タン(1974年~)は、1999年に刊行した初めての絵本『ロスト・シング』を元に、2010年に短編アニメーション映画を発表し、同年の第83回アカデミー賞の短編アニメ賞を受賞しました。2006年に発表した文字なし絵本『アライバル』は大きな反響を呼び、各国で刊行されています。本書は、2019年5月に開催される日本初の展覧会『ショーン・タンの世界 どこでもないどこかへ』展の図録兼書籍として刊行。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、油彩画や彫刻まで載っていてショーン・タンのすべてが見られるわけで・・・ええでぇ♪rakutenショーン・タンの世界『ロスト・シング』原島恵さん(ちひろ美術館主任学芸員)の解説を、見てみましょう。p178~179<ショーン・タンのまだ語られていない物語をもとめて:原島恵> 2019年1月、私はショーン・タンに会いにメルボルンへ行った。案内されたアトリエは、コロニアル風の建物が建ち並ぶ静かな住宅街の一角にあった。うっそうとした緑に囲まれた小さな平屋建ての家は、100年以上前にたてられたものだという。終始穏やかな彼は、幼い子供たちの世話のために度々中座しては、私たちの要求や質問に根気よく応えてくれた。 笑うと少年のような表情になるこの作家の内側に、創作への妥協のない情熱が持続していることがはっきりと感じられた。そして常に公正に意見を受け止め、面白いことを共有しようとする態度は、彼の作品から感じられるものと同じだった。(中略) 彼が初めて原稿料を手にしたのは1990年16歳のとき、SF雑誌の表紙絵である。公表されていない作品であれば、さらに時を遡る。幼いことからアニメーションやSF映画に親しんでいたタンは、11歳のときに絵入りのSF長編物語を自作している。大学では美術と英文学を学ぶ傍ら、SF雑誌にイラストレーションを描き、同人誌に短編小説も発表している。 タンにとって、物語をつくることと、それを視覚的にとらえることは、当初から分かちがたき結びついているのだろう。その後、ヤングアダルト向けのホラー小説シリーズに絵を描き、本格的にイラストレーターとしてデヴューする。 彼が初めて取り組んだ絵本は、ゲアリー・クルーと組んだ『ヴューワー』(1998年)だ。物語は、少年がゴミ捨て場で見つけたのぞき眼鏡のような道具を通して、戦争や災害の歴史を目の当たりにするという内容である。(中略) 絵を中心に場面が展開し、文章も画面のなかの視覚的効果を考えて配置している。翌年、ふたりは、第一次世界大戦に従軍したオーストラリアの男を描いた絵本『思い出』で再び共同する。男の人生に沿って、1本の樹の変遷が見開きページで挿入され、過去の出来事を表す場面では、ひとつの場面にいくつかのコマを配置して、そこに写真を元にシタモノクロームの絵を描いている。コマや写真を使い、時空間を移動する表現は後の『アライバル』へつながっていく。(中略) タンが初めて絵と文を共に手がけた絵本は『ロスト・シング』(2000年)だ。彼は、絵とことば、それぞれが語るものと欠落部分を読者に意識させるように場面を構成している。 文で「そいつ」または「迷子」と呼ばれる生き物は、絵では、異形の生き物として描かれている。「迷子」には顔がないため、煙突のような部分から吐き出される煙や、ストーブのような体から出ている触手から感情を推測するしかない。 背景には、威圧的な建物や規格品のような家や電車に乗る無表情な人々が描かれ、そこは管理主義的な社会であることが読み取れる。絵本そのものに貼られた「国家書籍管理局」による検閲済みのラベルがその推測7を確かなものにする。「迷子」はこの社会からはみだした存在だ。語り手である少年は紆余曲折の末、「迷子」に適していそうな場所を見つけるが、「この話の教訓はなにかなんて、聞かないでほしい。」と書かれている通り、結末をどうとらえるかは私たちに委ねられている。 物語の筋立てとことばは単純だが、絵にはいくつもの視覚的要素が織り交ぜられ、多くのことW語りかけてくる。例えば、表紙はオーストラリアの画家、ジェフリー・スマートの絵を下敷きにしている。他にも、エドワード・ホッパーやヒエロニスム・ボスの絵、物理の教科書、1930年代の機械、メルボルンのトラム、チャールズ・シーラーの写真など多岐にわたる。視覚的要素が参照や引用されている。 だが、「迷子」は何者で、どこに帰属するのか、その正解は描かれていない。目には見えているけれど、感嘆に名前をつけたり、置き場所を決めたりできないものを前に、私たちは途方に暮れ、自分の記憶を探る。タンはその意味をこう語る。「最終的に物語は意味を持ち、私たちが広い心を持って日常の中にある曖昧さを積極的に受け入れることの大切さを思い出させます。こうして私たちは、閉ざされた意味の忘れられた状態、息詰まったリテラシーから救われるのです」『ショーン・タンの世界』4:夏のルール『ショーン・タンの世界』3:ロスト・シング『ショーン・タンの世界』2:インタビューQ3『ショーン・タンの世界』1:インタビューQ1、Q2
2026.07.22
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図書館に借出し予約していた『沢田マンションの冒険』という本を予約4日後にゲットしたのです。沢田マンションの魅力とは?・・・・大使思うに、アナーキーな、執着と奔放さではないだろうか♪【沢田マンションの冒険】加賀谷哲朗著、筑摩書房、2015年刊<「BOOK」データベース>より他に類を見ない巨大セルフビルド建築、沢田マンション。日本版サグラダファミリアとも称されるこの建物がどのように継ぎ足しながら作られ、いかに住民に使いこなされてきたのか。4階に釣堀、5階に水田が広がり、屋上の自家製クレーン、謎の地下室、お座敷バスまである建築物の魅力に迫る。住民主催の沢マン祭りなどコミュニティとしての魅力も!<読む前の大使寸評>巨大セルフビルド建築ということでは、ガウディ並みに気宇壮大である♪沢田マンションの魅力とは?・・・・大使思うに、アナーキーな、執着と奔放さではないだろうか♪<図書館予約:(7/18予約、7/22受取)>rakuten沢田マンションの冒険大使が四国に帰省する際に、高知近辺を通っているのだが、まだ沢田マンションを見ていないのです。で、とにかく「日本の九龍城」とも呼ばれる沢田マンションを、訪ねてみたいわけです。まず、予備知識としてネット情報を見てみましょう。香港の旅行雑誌に沢田マンションが掲載されたとのこと。wikipediaの沢田マンションを見てみると・・・ま~、すごいわ♪wikipedia沢田マンションより 沢田マンションは、高知県高知市薊野(あぞうの)北町に建設された、集合住宅である。鉄筋コンクリート建築を専門職として手掛けたことのない者が、夫婦二人で造りあげた。通称「沢マン」(さわマン)、「軍艦島マンション」とも。現況は、鉄骨鉄筋コンクリート構造、敷地550坪、地下1階地上5階建て、入居戸数約70世帯、約100人居住。 自身の製材業経験やマンション建設過程での発電・給湯などに由来する、沢田嘉農の発動機コレクションが展示してある。 増築に増築を重ねた外観から、軍艦島とともに並んで「日本の九龍城」とも呼ばれ、建築物探訪の名所のひとつとして知られる。 小学生の娘まで動員し「届かない足でレッカー車を運転して」生コンクリートを運び、セメントの練り込みをしたという。「設計図はわしの頭の中にある」として、きちんとした図面もなく独自に工事をしていった。屋上には夫妻自作のクレーンや製材所が設けられた。 手作りの沢田マンションの歴史はまた、度重なる行政指導や工事中止命令などの軋轢の歴史でもあった。現在では、住民で自主防災組織を結成し、年に1度の避難訓練を行なうなどして、行政との関係も概ね良好である。この本で、沢田嘉農さんの「100世帯アパート経営」に賭けた人生を見てみましょう。<はじめてのアパート建設>p58~63 ときは太平洋戦争の末期。17歳になり軍隊に徴集されてノコギリやヤスリの手入れを任されるものの、翌年夏に日本は敗戦し、嘉農青年の短い軍隊生活は終わります。その後も自分で製材業を続けますが、数年後に最愛の母・寅絵さんを亡くし、ほどなくして父が後妻を連れて来たころ、27歳になった嘉農青年は家を出る決意をしました。 なんら蓄えがなかった嘉農さんは橋の下で寝泊りしながらよその製材所で働きはじめます。その後アパート住まいを経て、いよいよ「100世帯アパート経営」の準備にかかりました。四万十川の河口近く、中村のお金持ちから2ヶ月の期限つきで土地を8万円で借り、河原から石を運びこんで整地、知人から譲り受けた巨木を材に挽き、ひと月半ではじめてのアパートを完成させました。えっ、乾燥してない生木でつくったの?という指摘もあるでしょうが、そこは「嘉農ワールド」ですから目をつむりましょう。 そのアパートは18万で販売することができました。材料はタダ、人件費もゼロですから、不動産屋の販売手数料5%の9000円と借地代8万円を引いても9万1000円の利益でした。これを元手に建てた2件目のアパートで、嘉農さんにとってはじめての賃貸アパート経営が実現します。その賃貸アパートに入居したうちの1世帯が、のちの奥さんとなる裕江さんの家族でした。(中略) 詐欺にあったとはいえ、中村で準備してきた建材は残っていました。嘉農さんは新たに高知市中万々の造成地を見つけて家を建てはじめます。ひとしきり建ち上がったころ、巨大な台風がやってきました。とても強い風で、周囲に建ちはじめていた家がほとんど壊れてしまったそうです。そのなかで沢田夫妻が建てた家だけが、なぜかほとんど無傷で残っていました。周辺の家よりも太い材木を使っていたことが幸いしたようですが、そういった理由以上の強運もあったのでしょう。地元の生きる伝説となった二人の建てる家は、値段が安いこともあって後から後から注文が舞いこみました。(中略) 仕事の増えた沢田夫妻は自分たちの建てた建売住宅に住み、その住宅が売れるとまた新しく建てた建売住宅へ転々と移り住みました。このことは家賃を節約できるだけでなく、自分たちのつくった家の済み心地を、そこに住まう人の立場で体感することのできる貴重な機会でした。そして1965年、貯まったお金で薊野に土地を買い、作業所を併設したアパートをつくって大家業を再会します。その後も、家賃収入を生み出すアパートを10棟以上つくり、アパート経営を拡大していきました。沢田マンションの運営方針がいい加減で大らかなのが…ええでぇ♪<引越しと改装のハーモニー>p260~263 マンション内引越しが頻発する理由を沢田マンションの運営方針から探ると、大家がよい意味でいい加減なので契約は簡単、礼金・更新料などが不要というのが大きな要因です。また家賃がずいぶんと感覚的に設定されているので、うまく掘り出し部屋を見つければ割安感を味わえます。ふつうの賃貸住まいで「試しに住んでみる」なんて不可能ですが、沢田マンションでは、まるで洋服を試着するような気軽さで部屋を選べるのですから、試しに引越ししてみたくもなるというものです。 ちなみに同じ住戸に住み続ける限りは家賃がずっと一定で値上げがないというのも特徴で、古くから住んでいる人のなかには相場よりかなり低い家賃で住んでいる方もいます。<出て行かないのと、出て行けないのと> 入居者側の要因もあります。 沢田マンションの中で、いまの自分によりフィットした住戸があればそっちに住みたいというのがマンション内引越しの基本原動力です。「フィット」の中身は広さ、家賃、日当り、階数、設備や内装の新しさなどなど、人それぞれの趣味や事情によります。 それでも引越しの選択肢を沢田マンションだけに限定しているのは、左記のような理由があります。 沢田マンションの建物や人間関係が好きだからというポジティブな理由の人、通勤・通学や買い物などに便利な立地や手ごろな家賃がよいからという人のような「出て行きたくない」ケースと同時に、個々の事情から半ば「出て行けない」ケースもあります。 沢田マンションの入居審査は人物本位ですが、一般の賃貸住まいでは本人に非がなくとも入居審査で保証人不在などの理由をつけて入居を断ることがよくあります。そのような世帯がマンション内の引越しで生活の変化に対応できているのだから、わざわざ大変な努力をしてまでよその建物に移り住む必然性がないのです。 けれど、みんなが少しずつよい住戸へのステップアップを求めてマンション内を玉突きのように移り住んでいき、同時に外から入居してくる人もいるのですから、いよいよ「よい住戸」が足りなくなってきます。 この問題をブレークスルーするための荒業として住戸の合体による拡張、「2コ1化」があります。「2コ1化」は、入居者が減少した時期に考えた「マンション経営改善」でした。従来のコンパクトな間取りが時代にそぐわなくなってきたことを敏感に察知して、部屋を広くすることで需要を喚起しようとしたのです。結果的に新規の入居者が再び増えはじめるとともにマンション内引越しのモチベーションも引き上げられました。「より広い部屋に住みたい!」というわけです。<引越しと改装のいい関係> マンション内引越しは入居者をキープしながら、住戸が空いた機会に順次改装していくことでマンション全体がリフレッシュしていくチャンスも生み出します。 入居者と大家の個性が響き合うことで、循環と新陳代謝を続ける空間が存在しているのです。沢マン見学のマナーがネットに出ています。sawaman gallary room38より沢田マンションはマンションです。見学する際にはマナーを守って下さい。特に以下の点はご注意下さい。・許可のない撮影行為・喫煙・ポイ捨て・住居スペースへの進入・その他住人のプライバシーを損なう行為はご遠慮下さい。 住人がボランティアで沢マンツアーも行ってます。仕事等でツアーが出来ない場合もあります。大使の故郷は四国西南部の中村であるが・・・・若き日の沢田さんは、中村で建売アパートを建てて賃貸アパート経営をスタートしたそうです。もしかして大使とニアミスしていた可能性もあったわけで、無縁ではないのです♪
2015.07.27
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図書館に予約していた『日本の「アジール」を訪ねて』という本を、待つこと約4ヶ月でゲットしたのです。この本は日本の底辺をめぐって綴った民俗学的フィールドワークであり、大使のツボがうずくわけでおます♪【日本の「アジール」を訪ねて】筒井功著、河出書房新社、2016年刊<「BOOK」データベース>よりどこに住み、暮らしたのか。戦後まだ、いたるところで、乞食、サンカ、病者、芸能民、被差別民などの漂泊放浪民が移動生活をおこなっていた。かれらが、社会制度をはなれ、生活のよすがとした洞窟などの拠点「アジール」を全国に訪ね、その暮らしの実態を追うノンフィクション。もうひとつの戦後昭和史の貴重な記録。【目次】第1章 サンカとハンセン病者がいた谷間/第2章 土窟から上る煙/第3章 大都市わきの乞食村/第4章 カッタイ道は実在したか/第5章 洞窟を住みかとして/第6章 有籍の民、無籍の民/第7章 川に生きる/第8章 地名に残る非定住民の歴史<読む前の大使寸評>この本は日本の底辺をめぐって綴った民俗学的フィールドワークであり・・・・大使のツボがうずくわけでおます♪<図書館予約:(1/25予約済み、6/04受取)>heibonsha日本の「アジール」を訪ねてまず土地勘のあるドングリ国周辺のアジールを、見てみましょう。p65~70<「ともにゆく人」清水精一> 『大地に生きる』は昭和9年(1934)、同朋園出版部から上梓されている。同朋園は、清水がミカン山の乞食たちを普通の生活者にするため、兵庫県武庫郡山田村上谷上(現神戸市北区山田町上谷上)に建設した更正・授産施設であった。同書は、そこを版元にしているが、おそらく自費による出版だったと思われる。清水は、この2年後にも『共にゆくもの』と題した単行本を、同じ形で出版している。清水の著書としては、この2冊があるだけのようである。 両書とも清水精一の一種の自伝だが、「魂と求道の記録」といった趣きがあり、そこでは著者の経歴などはほとんど語られていない。清水が「大阪の高槻」で生まれたことは記されていても、それがいつのことかわからないほどである。著者はまた自らの体験を、しばしば綿密に述べているが、それらの時期がはっきりしない場合も少なくない。精神的、形而上的な世界へのこだわりが強すぎて、時期とか場所については不自然なくらい関心を欠いていたといってよいだろう。 清水の経歴などに触れた記録は、わたしが気づいたかぎりでは皆無に近い。それで、大阪・天王寺の乞食村についての理解を少しでも助けるためと、この「求道の人」というべき人物の生涯を紹介するために履歴書のようなものを記しておきたい。 典拠は右の2冊の本と、遺族の方々のお話である。ただし前述のように、著書ではいつ、どこでのことか判然としない場合も多く、また身内の中には詳しく語ることを好まれない方もいる。 清水は長く乞食とともに暮らした人であり、それは彼らの救済のためだったとはいえ、そのような生き方に反対した実弟は血書をしたためて自殺している。清水の行為は、一族にとって必ずしも好ましいことばかりでもなかったのである。 清水精一師(以下、こう呼ぶことにしたい)は明治21年(1888)10月、現在の大阪府高槻市野田で生まれている。家は、かなりの土地を所有する地主であり、高槻でも有数の旧家であった。同34年の年末、師が数えの14歳のとき、この一帯で小作争議が起き、隣村では小作人に襲われた地主の1人が死亡、1人が重傷を負っている。父は襲撃を恐れて身を隠したのだった。その折り、朝夕、笑顔で接していた小作人たちの態度の急変が、師にさまざまのことを考えさせるきっかけになったという。 清水師は、前記の2著書では自分の学歴にはいっさい触れていない。ただし、新潟県新発田市の骨董・古美術の店「宝珠庵」の経営者がインターネットに載せているブログによると、京都帝国大学に学んだということである。何かの出典あってのことであろう。 師は、そのあと京都・伏見に酒造会社を設立、経営に当たっていたらしい。しかし師は、この種の事業には天性、不向きな人間であった。おそらく1,2年で、その職を退き、大正元年(1912)の秋、京都・嵯峨の臨済宗天龍寺の寺男になっている。数えの25歳であった。半年ほどで雲水(行脚僧)になっているが、正式の僧ではなかった。同寺にいたのは足かけ3年であった。 大正3年の秋から同5年の春にかけて、「丹後と若狭と山城の3州が連なって居る深山」で独居生活を送る。しかし、丹後と若狭は接しているが、山城はいずれとも少し離れている。どうも、そこは京都府の北部、丹波高地のどこかだったようである。とにかく、人の姿など全くない山中に粗末な小屋を建て、松の葉や木の実、自然の果実のみで腹を満たしつつ、座禅などの修行に日を送ったのだった。 大正5年(1916)の春に山を下り、大阪の貧民窟で暮らしたあと、同年12月に初めて天王寺ミカン山の乞食村を訪ねている。そうして、「ドン底のドン底から湧き出て来る真情の水を味はねばならぬと感じ」(『大地に生きる』)、翌年2月から彼らの仲間になるのである。30歳であった。<親分と娘> もとのミカン山すなわち、いまの大阪市立大病院の現住所は、大阪市阿倍野区旭町1丁目になる。天王寺区は、すぐ北側のJRの線路より北になる。しかし、清水精一師がミカン山で暮らしはじめたころ、そこは東成郡天王寺村に属していた。つまり、まだ大阪市外であった。 その小高い雑木の林に天幕や小屋を掛けていた乞食は、記述のように300人ばかりもいた。親分を「チャン」と呼んでいた。それは大阪や近隣の同種集団のあいだでも同じだったが、この呼称が使われていた範囲について、わたしは確認していない。 大正6年(1917)当時、ミカン山のチャンは関東の人間であった。埼玉県・秩父の出身か、明治32年ごろ娘が生まれてたとき秩父にいた。そうして、大正の初めまで関東地方で暮らしていた。 チャンの一家は代々乞食であった。何代もつづけて、乞食を稼業としてきたのである。それは無籍であることを意味した。おそらく、家族全員が文盲であったろう。清水師は、ミカン山の住民60人から乞食になった「動機」について聞き取りをし、その結果を『大地に生きる』に書き残している。 賭博癖 15人 ライ病 2人 飲酒癖 15人 父母による理由 5人 精神病者 2人 親譲り 21人 右の「父母による理由」とは、「継父母などの虐待」を指している。「親譲り」が代々乞食のことで、聞き取り対象者の三分の一ほどを占めていたことがわかる。全員を調べても、その比率はほぼ同じになったのではないか。とにかく、もっとも数が多く、かつ集団内での勢力も他を圧していた。(中略) チャンには妻と、少なくとも娘が二人いた。子供のうち上の娘がミカン山にいたことは、はっきりしている。清水師は、その女性と結婚しているのだから、チャンやその家族について詳しく知っていたはずである。しかし、著書では彼らのことに、ほとんど触れていない。一つには、チャン一家への配慮からだと思われ、また一つには自らの家族、親族への心ない中傷を避けたかったためではないかと推測される。更に読み進めました。p75~76<乞食村を出て> 大正9年、清水師は行政に働きかけて、70人の大部分を大阪市と天王寺村の掃除夫に雇ってもらう。さらに、その翌年には若い者たちに手に職をもたせようと、大阪・飛田の菓子屋と交渉して、そこへの就職も実現させている。つづいて体力のある者を静岡県富士郡の富士山麓へ送り込んで、開墾に従事させたこともあった。ほかにも、二ヶ所くらいに一部の人びとを移して、更正・授産施設としていた。 彼らをひとまとめにしたのは、昭和5年(1930)のことである。兵庫県武庫郡山田村上谷上(現神戸市北区山田町上谷上)に1万坪の山林を確保し、ここを開拓して農地にすることにしたのだった。もちろん地内に住宅も建設され、それらを含めて「同朋園」と名づけられた。そこは神戸有馬電車の谷上駅から北へ200メートルばかり、いま兵庫県立上野ケ原特別支援学校ひかりの森分教室が建っているところに当たる。 清水師の一家も、ここに住んでいた。このころになると、師は社会活動家として一部の人びとには、よく知られていたようである。しばしば各方面から講演を依頼され、あちこちを飛びまわる日々がつづいていた。留守を守ったのは妻であった。前にも記したように、山田村へ移る直前の昭和4年(1929)から同10年にかけて4人の子供が生まれている。その世話に加えて、同朋園の運営もあった。長女は平成26年3月、わたしの電話取材に対して次のように話していた。 「父は講演などで留守がちでした。母はそのあいだ家と園とを守っていましたが、病身でしたから、とても苦労をしました。父は、自分たちには厳しい人でした。だけど、いつも人には優しくしなさいと言われていましたね」 この女性は生涯、独身であった。母を助けたいという思いからだったかもしれない。
2017.06.09
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図書館で『日本近代漫画の誕生』という本を手にしたのです。この「日本史リブレット」というシリーズであるが・・・図が多く、薄くて手頃で、元祖ビジュアル本という体裁がええでぇ♪【日本近代漫画の誕生】清水勲著、山川出版社、2001年刊<「BOOK」データベース>より本書は、近代漫画誕生の経過を七つのエピソードで紹介する。【目次】)1 幕末諷刺画の誕生とその発展/2 自由民権期の『団団珍聞』/3 『パック』と日本近代漫画/4 「漫画」という言葉の誕生/5 国際漫画雑誌『東京パック』の登場/6 日本最長寿漫画誌『大阪パック』/7 柳瀬正夢の漫画表現の変遷<読む前の大使寸評>この「日本史リブレット」というシリーズであるが・・・図が多く、薄くて手頃で、元祖ビジュアル本という体裁がええでぇ♪rakuten日本近代漫画の誕生鳥羽絵この本の冒頭を、見てみましょう。p1~3 <日本の近代漫画はどのようにして生まれてきたか> 日本に大衆を対象にした漫画が登場するのは、江戸中期(18世紀初頭)である。大坂の版元が刊行した木版戯画本(鳥羽絵本)が好評を博して全国に行き渡っていく。江戸の人々が、今日の「漫画」を意味する言葉として「鳥羽絵」を使ったのは、この「鳥羽絵」本のヒットによる。 幕末にいたり、幕藩体制がゆるんで幕府が数々の改革を敢行せざるをえなくなると、武士・貴族や幕政を批判するいわゆる権力風刺画が生まれてくる。したがって、江戸時代には、木版刷の大部数による戯画浮世絵・風刺浮世絵が生み出され、内容的にも今日のナンセンス漫画・サイレント漫画など、かなり高度な漫画作品が生まれてくる。 文久2(1862)年、横浜居留地でイギリス人チャールズ・ワーグマンによって木版刷の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』が発行され、居留外国人の間で人気を博す。この定期刊行の時事問題をテーマにした雑誌は、日本人の間でも評判になり、幕末の日本の新聞にも漫画が掲載されるような影響を与える。また、時事的テーマの漫画(カートウーン)を「ポンチ」と呼ぶようになり、明示初期には流行語となって、明治語として定着していく。 明治7(1874)年、仮名垣魯文・河鍋暁斎によって創刊された『絵新聞日本地』は、明らかに『ジャパン・パンチ』をまねたものであるが、時事問題をテーマにした漫画の描法がまだ江戸風であったので、それほど評判にならず数号で廃刊する。 明治十年に広島出身の士族・野村文夫によって創刊された『団団珍聞』は、イギリスの漫画週刊誌『パンチ』をまね、漫画を売り物にした週刊誌として亜鉛凸版印刷で刊行される。また野村と同じ広島出身の洋画家本多錦吉郎は、『パンチ』やアメリカの『パック』などを研究して西洋風の時局風刺漫画を描き、その斬新さで人気を得る。時あたかも自由民権運動の高揚期で、運動に賛同する編集方針を打ち立てて部数を伸ばしていく。 明治十五年、本多の後を継いだ小林清親は石版刷によるすぐれた時局風刺画を描く。しかし、本多にせよ小林にせよ、西洋漫画を研究したとはいえ、漫画は大衆に理解されなければ目的を果たせないのが宿命である。 そのため、江戸の戯画浮世絵・風刺浮世絵に慣れた大衆に理解させるために、江戸スタイルと西洋スタイルが合体したような作品になりがちだった。たとえば、政治家を似顔で表現しても、本当に理解されるか疑念をもって、洋服や着物の上にその政治家の名字の頭文字を家紋風に仮名で入れるといった江戸戯画スタイルで描いた。
2019.10.01
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特にジャズが好きというわけではないが・・・・8日と9日は神戸ジャズストリートがあるということで、三宮に繰り出したのです。ジャズバンドは駅前から北野に向けて、練り歩きます。4500円もする一日券でジャズを聴くほどのジャズファンではないけど・・・・神戸ジャズストリートの雰囲気に浮かれる野次馬というところでしょうか♪ハーメルンの笛吹き男についていく子供のような大使であったが・・・・それほど暇ではないと気づき、途中で切り上げて、ハーバーランドの神戸ビエンナーレに向かったのです。明日から1週間ほど、四国の田舎に帰るけど・・・・デジタルデバイドの鄙の地に下るという感じです。(狭い日本といってもこの落差は大きいな~)
2011.10.09
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本屋の店頭で『定年バカ』という新書を手にしたのです。定年のときの記憶も薄れつつある大使であるがが・・・この本の目次にならんだ数々のバカが気になったので、つい購入したのです。本は図書館で借りるものとなってしまった大使にとって、新刊本を購入するのは久しぶりのことでおます♪【定年バカ】勢古浩爾著、SBクリエイティ、2017年刊<「BOOK」データベース>より定年後に続く、20年、30年という人生を思うと、人はいろいろと考えてしまう。生きがいは?健康は?老後資金は?などなど。しかし、多彩な趣味や交友、地域活動などを通じて充実した定年後を送ろう、いや送るべきという「圧」が昨今やたらと強くなってはいないか?無理して「地域デビュー」なんてしないほうが互いの幸せだったりもする。「なにもしない生活」だってアリなのではないか。<読む前の大使寸評>この本の目次にならんだ数々のバカが気になったので、つい購入したのです。本は図書館で借りるものとなってしまった大使にとって、新刊本を購入するのは久しぶりのことでおます♪rakuten定年バカ最終章「第9章 人生を全うするだけ」で吉武輝子の父親の定年を見てみましょう。p188~191■夫と妻の地獄 どういうわけか男にとって、定年は昔から大きな出来事と考えられてきたフシがある。昔といっても、いまから30年ほど前の小昔のことだ。吉武輝子の『夫と妻の定年人生学』(1987年、集英社文庫)という本がある。これが出たのが30年前である。『孤舟』や『終った人』といった小説なら、多少おちょくっても問題はないが、この本はそうはいかない。(中略) 吉武輝子の父親の死(自殺)は、定年が「セカンドライフ」とか「第二の青春」と喧伝される現在では、ちょっと信じられない話である。人は60ともなれば(ならなくても)、自分で自分の身を修めなければならない、とわたしは書いたが、元三菱銀行名古屋支店長氏は、たかが定年ぐらいで、自分の意味と生きる意味を決定的に喪ったのだろうか、たかが定年くらいで、とわたしなどは思うが、人の心はわからない。 通夜の席から、だれそれさんが定年後急死した。別の人はぼけたというような話が、当時24歳だった吉武の耳に聞こえてくる。客のひとりがいう。「これからは、仕事一筋ではなく、現役時代に、家族とよきかかわりをもったり、地域社会に居場所をつくったり、あるいは人生の楽しみを発見したりしながら働くようにしなければ、先輩諸氏と同様、退職後の末路が悪すぎるってことになるのは目に見えている。それにしても、実に厄介な時代になったものですよ。定年後の人生がやたらと長くなるなんて」 吉武の意見が加味されているようで、会話としてはちょっと説明的で不自然だが、現在いわれているような「地域社会での居場所、家庭とのよき関係、生きがいの発見」がすでにいわれている。というのも、吉武は、定年夫たちの不機嫌は不愛想の理由のひとつをこう考えているからである。男たちは「長年にわたって個人対個人のつき合いの習慣をもつことなくすごしてきてしまった」から、「職場という共通基盤を持たぬ地域の女とどのようにつき合い、なにを話してよいのか、なにひとつ人づき合いの才覚を持ち合わせていない」。 同書には別の定年男の例が書かれている。まあろくでもない男である。大蔵省の高級官僚で、いくつか天下りをして、65歳で定年退職した男である。 妻がちょっとでも出かけると「こんなに長い時間、どこをホッツキ歩いていたのだ」と怒る。妻が、たった2、30分じゃないですか、というとそれが気に食わない。「夫をないがしろにする気か」と湯飲み茶碗を投げつける。(中略) 吉武は「日本の夫族は、大方は、本来の人格を職業的人格にのっとられてしまっている」と言っている。会社では出世していくにつれて名前で呼ばれなくなり、「課長」「部長」「支店長」と呼ばれるようになる。ところが、定年を迎えて周囲からの服従がなくなったとき、かれらは「男だから偉い」という「一点にしがみつき、せめて、もっとも身近な女である妻だけは支配したいと願わざるをえないのだろう」。ウーム アホな定年男とか定年離婚の話なのか・・・定年離婚して夫から得た資産で暮らせるケースなんて、実際あるのだろうか? 大使の場合は純然たる年金生活者であり、「亭主元気で、留守がいい」を励行しているわけで・・・一見、アホとしか見えないのだが。
2018.03.23
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図書館で『写実絵画とは何か?』という本を、手にしたのです。この本には若い女性を、実物どおりにきれいに描いた作品が多いのだが・・・ワイエスといい、ダリといいスーパーリアリズムは、大使のツボなので、借りたわけです。石黒賢一郎「SHAFT TOWER(赤平)【写実絵画とは何か?】安田茂美, 松井文恵著、生活の友社、2015年刊<出版社>より実物と見間違えるほどの圧倒的な描写力で描かれた女性像、風景画、静物画をテーマ毎に紹介。刊行にあわせて11月からホキ美術館では5周年記念展を開催。また2016年にはホキ美術館展が全国6会場を巡回する予定。<読む前の大使寸評>この本には若い女性を、実物どおりにきれいに描いた作品が多いのだが・・・ワイエスといい、ダリといいスーパーリアリズムは、大使のツボなので、借りたわけです。rakuten写実絵画とは何か?ホキ美術館創設者の想いについて、インタビューで見てみましょう。p234~236<日本の写実を世界へ>安田:ホキ美術館は今年で5周年です。保木:もう5年になるのですね。私はこの美術館を、他に写実の美術館がないからという理由で作りました。世界を見ても写実専門美術館はない。ほかと同じことをするのは嫌なのです。またその時に、地下2階にあるギャラリー8ですが、この美術館の目玉になる展示ギャラリーをつくりました。 まず美術館ができる2年前に日本の代表的な15人の写実画家の皆さんに集まってもらって、「私の代表作」を描いてもらいたいとお願いしました。つまり、「私の代表作」となる意気込みで百号以上の大作を依頼したのです。 それから3年経って、またギャラリー8の展示替えのために作家にお願いして新作を描いてもらいました。発表は2013年の秋でした。代表作家の中では少し人選の入れ替えがありました。個々で描いてもらう作品は、特にテーマは決めず、作家の皆さんに自由に決めてもらっています。私は、ただ質のいい絵を描いてもらいたい。そうして日本の写実絵画が良くなればと思っているのです。安田:ギャラリー8の「私の代表作」ですが、1回目と2回目の作品で違いはありましたか?保木:お客様の反応で、良かったものとそうでないものがありましたし、マスコミがこぞって取り上げた作品もありました。2回とも作風、スタイルが変化しなかった画家もいましたし、大きく変化した方もいます。まさに現役の画家なので、隣に展示される画家や周りの画家たちが次に何を描くのか気にする人もいました。企業もそうですが、いい意味で競争は必要なのですね。安田:なるほど、現役の作家の作品を集める美術館でなければできない企画ですね。保木:それで、今回、この本のために所蔵作品の約四百数十点の中から55点の作品を選びました。できれば、この中で人気投票をやりたいと思っています。風景画ではどれが一番なのか、人間を描いた作品ではどれが一番なのか、静物画は誰が一番なのかというふうに作品の順位、また画家の順位を投票することによって決定する。できるだけ平等に、公平に、お客様に選んでもらいたいと思っています。 来年度以降、ホキ美術館のコレクション展として、全国の4,5ヶ所ほどを巡回する予定ですが、そこでも同じ作品について人気投票をして、どの作品が人気なのか調べてみたい。企業でもそうですが、平等な競争を前提に成績競争をすれば、意外と不平は出ないのです。『写実絵画とは何か?』1
2017.08.02
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図書館で『名文を書かない文章講座』という本を、手にしたのです。著者の名前は知らなかったけど、面白くて役に立つ文章読本ではなかろうか♪ 【名文を書かない文章講座】村田喜代子著、葦書房、2000年刊<「BOOK」データベース>より「文章を書くのは難しい」「はがき一枚にも苦労する」―そんな“書けない”人の悩みや疑問を、芥川賞作家がすっきり解決します!夏目漱石や山下清、森茉莉、赤瀬川原平、橋本治などの例文を豊富に引用し、文章の書き方から楽しみ方まで教えてくれる、面白くて絶対役に立つ文章読本。 <読む前の大使寸評>著者の名前は知らなかったけど、面白くて役に立つ文章読本ではなかろうか♪ amazon名文を書かない文章講座文章テクニックになるが、もろにハウツーの箇所を見てみましょう。p172~174<「が」を減らす> 次は多くの質問が寄せられた「が」の使い方についてである。これは私も書いていてときどき神経質になることがある。 例えば次のような文章だ。 同窓会が終って、二次会、三次会とまわってきた夫が、深夜に帰宅した。 一行の文章中に「が」が二ヶ所出てくる。この「が」が気になる。この重複は、どうも次々と戸を開けたまま行くような、妙なだらしなさを感じる。 子供の頃、部屋に入るとき襖や障子を開けたままにしていると、「あとを閉めないのは尻知らずだ」と叱られたものだった。このような文章は「が」を「は」に直すと、締りが出る。また濁音が減ったぶんだけ耳触りも良くなるものである。 同窓会が終り、二次会、三次会とまわって、夫は帰宅した。 次の例を見てみよう。 兄の子供が、成績表が入ったランドセルを背負って帰ってきた。 この場合は次のようにしたい。 兄の子供が、成績表がの入ったランドセルを背負って帰ってきた。 とはいえ、文章にとってこれらはあくまで部分である。内容の薄い文章、つまり思いのこもっていない文章の部分があっても、何になるだろう。要は言葉を発することが先決だ。 初めに言葉があった。後から文法が生まれた。 形より前に思いがある。思念は底力なのである。 もう十年ほど前になるが、私は1ヵ月間アメリカを旅したとき、ドル紙幣を小さくするためホテルのフロントで英会話の本を操っていると通訳が耳打ちした。「スモール、チェンジ!」」 それだけで用は事足りるのだった。また街角で地下鉄はどこかと通りすがりの人に聞くときは、「サブェ?」 で通じた。 毎年、高校入試の時期が終ると、私の小説の載ったテスト用紙がどこからか送られてくる。こういうものは試験の性質上、作者には事後承諾だ。念のため作者自身が解いてみると50点も取れない。自分の作品が設問の対象になっているのに、満足に解けないのである。「あら。あたしもたった65点だったわよ!」 と仲間の作家も言う。「あんなの、解けないわよねえ」 とぶつぶつ。これで作家なのだからおかしい。それからさて国語力の無能をまたひととき忘れて、原稿書きに没頭する。5枚、10枚、百枚、2百枚、3百枚…。 このようにして生まれる文章とは何だろう。 不可解。不可解というしかない。この本も文章修業のインデックスR4に収めるものとします。
2017.12.07
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<再掲:ベルギー奇想の系譜展>図書館で『芸術新潮(2017年5月号)』特集《バベルの塔》の謎という雑誌を借りて読んでいるのです。このフランドル地方が生みだした絵描きたちに惹かれる大使なんですね。一押しはマグリットなんだが、ブリューゲルやヒエロニムス・ボスの奇想画も好きでおます♪・・・ということで、「ベルギー奇想の系譜展」を再掲してみます。********************************************************************<ベルギー奇想の系譜展>昨日、「ベルギー奇想の系譜展」を観にいったけど・・・ええでぇ♪、と太鼓判を押させてもらいます。ベルギー奇想の系譜展より 現在のベルギー・フランドル地方とその周辺地域で中世末期から発達してきた幻想絵画のカテゴリー。ヒエロニムス・ボスが描く悪魔や怪物のような異形のものたちは写実的で、「本物」と感じさせる迫真性に満ちていました。 こうした独特な表現の伝統は現代が進んでもカプリッチョ(奇想画)、象徴主義、シュルレアリスムの中にとどまり、今日のアーティストたちにも脈々と受け継がれています。 本展では、ベルギーに生まれた奇想の表現を、15,16世紀のフランドル絵画から現代のコンテンポラリー・アートまで国内外のコレクションによって紹介します。 ヒエロニムス・ボスやブリューゲルに始まり、ジェームズ・アンソール、ルネ・マグリットらの時代を経て、そして現代のヤン・ファーブルや若手の作家に至る、およそ500年の「奇想」をたどります。大家族大使としては、マグリット《大家族》とボスの幻想画の実物が見えれば充分であり、それにブリューゲルの版画やデルボーの絵がおつりのように付いてくるという大盤振る舞いが…良かった♪さらに言えば、シルバー料金750円で、横尾忠則現代美術館の無料招待券がついてくるので、まったくもって「もってけ、ドロボウ」のような有様でおました。(成人では1500円であるが、2館観えるとあれば、たいへんお得です)でもとにかく、「系譜をたどる」と言うだけあって、これだけ見どころの多い企画展は久々ではなかったかと思うのです。過去の日記から関連のある記事をあげておきます。マグリット展で埋合わせ:ソウル市立美術館『マグリット事典』:横尾忠則さんご推薦『謎解き ヒエロニムス・ボス』:「とんぼの本」シリーズ『芸術新潮(2017年5月号)』 :《バベルの塔》の謎
2018.03.22
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北ミサイル発射へ最終準備かによれば、北朝鮮が予告するミサイル発射の準備は滞りないようです。(4/4~4/8に発射だそうです)核開発とミサイル開発は、北朝鮮がすがる唯一の生き残り策かも知れないが、日本にとって看過できない脅威である。「人工衛星打上げ用のロケットが攻撃を受けたら、開戦とみなす」と北朝鮮が脅しをかけてきたが、核開発を進める国のミサイルが自国の上を通過するなら撃ち落とすのが筋ではないか!(とまで大使は思うのです)ミサイルの1段目は日本海に落下するはずだが、オンボロミサイルなら日本列島に落ちる可能性もあるので、自衛隊の数少ないパトリオットミサイルを飛行コースに移動、配備することがが緊急の課題になっていますね。北朝鮮が予告する飛行コースを急遽変更することも考えられるので、パトリオット配備が空振りになることも考慮しておく必要もあるでしょう。しかし、人工衛星打上げ用ロケットの飛行コースを抜き打ち的に変更するなど、本来ありえない暴挙ではあるが、無理が通れば道理が引っ込む国だからな~。北朝鮮と6者協議を進めながらも、ノドン、スカッドに対して、どれだけの数のパトリオットを配備しておくのがいいか?というのが日本の国防上の難問なんでしょうね。MDの評価として、発射直後のミサイルを撃ちもらしたら、その後の迎撃は困難というのが一般的?のようだから・・・・これも難問ですね。チキンレースを挑む北朝鮮に対してはMDの実力を知らしめる必要があるけど、実力的にどうなんでしょうね?(アメリカがプーチンに対抗して、ヨーロッパにMDを配備しているのは覇権とかビジネスからみだろうから、性能をさほど要求されないのでは?よくしらないけど)ウィキペディアの北朝鮮核問題を見てみます。北朝鮮核問題への各国の反応北朝鮮核問題についての日米韓の利害は微妙にズレがあり、三国の足並みの乱れの一因となっている。米韓にとって日本を狙うノドン弾道弾200基は対岸の火事であり、日本にとって第二次朝鮮戦争の危険は対岸の火事という状況。日本・・主たる懸念はノドン弾道弾200基による核攻撃 テロリストに核が渡ることより、日本を狙うノドンミサイル200基の解体と、ノドン200基を数年で全部核付きにできる能力のある建設中の大型黒鉛炉(50MW/200MW)の解体が国民保護上の最優先課題。弾道弾は実際上はほとんど防げない。韓国と違い核施設空爆が引き金で第二次朝鮮戦争が始まりかねない懸念についてはやや対岸の火事視しているところがある。自国の安保のことなのに米国が何とかしてくれると言う甘い他力本願の意見が依然として多い状況。 韓国・・主たる懸念は第二次朝鮮戦争(核戦争の可能性を含む) 北朝鮮にあまりにも近いため、航空核爆弾がミサイルに悪化するかどうかよりも核爆弾の激増の阻止。現有核爆弾の解体に関心がある。ただし北朝鮮の核量産施設への攻撃は第二次朝鮮戦争やソウルへの報復砲撃を招きかねないために、日本より慎重姿勢。目先の通常戦争やソウル砲撃を恐れるあまり、北朝鮮の核武装を許し、将来の核戦争を招き寄せている傾向がある。 日本にとっては、テポドンよりノドンのほうがより脅威では?
2009.03.19
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腰巻きに書かれた・・・「沖縄から米海兵隊が撤退した。それは米国防総省(ペンタゴン)が、たった一人のテロリストに屈服した瞬間だった。テロリストの名は「12」・・・・・」というコピーに魅かれて買った本ですが、連休の暇にあかせて1日かけて読んでしまった。とにかく腰巻きからは“アメリカに一矢報いる”という怨念のようなパッションが感じられて、私の琴線に触れたわけです。福井晴敏といえば、今掛かっている映画「終戦のローレライ」の原作者ということで気になる作者ですが・・・・'98年江戸川乱歩賞受賞作品だから推理とか冒険が売りだろうけど、予想以上に政治的メッセージの強い作品でした。1951年マッカーサーは上院の聴聞会に出席し、「近代文明の尺度で測れば、われわれは45歳で成熟した人間であるのに比べると、日本人は12歳といったところだ」と発言したそうです。Twelve Y.O.の主人公は「自衛隊はアメリカを守る為に存在しているわけで、一個の国防組織として自己完結していない。12歳の先にある成熟を迎えなければ、次の世紀をこの国が生き延びることはできない。」と言う。母を捨てたアメリカ人の父から言われた「善く在るよう努めよ」ということばに取り付かれたテロリスト・・・・ファザーコンプレックスなんでしょうね。このように主人公のテロリストの名を「12」とした裏にはかなり作者のスタンスが現れているようであり、まだ若い(37歳?)作者はかなりのナショナリストのようです。作者を好戦とまでは言わないが、少なくとも反戦、平和オンリーとは一線を隔しているようです。沖縄生まれのふたりの混血児から、ひとりは自衛隊中枢としてもうひとりはテロリストとして、個人的怨念を秘めて復讐劇が繰り広げられます。主人公の混血児は戦後生まれであり沖縄戦の記憶はないが・・・アメリカの為に存在する自衛隊や、安保タダ乗りに安住した子供なみの国防感覚に憤り、米軍の沖縄基地を攻撃します。この憤りはたぶん作者自身の憤りなのかも知れない。イラク戦争の開戦理由が大量破壊兵器の探索破棄にあったわけですが、この作品では大量破壊兵器を米軍が沖縄に隠蔽していて、テロリストがこの化学兵器を作動させることになります。この作品が世に出た3年後に911テロ、5年後にイラク戦争が起きたわけですが、現在から見ても米軍の情報システム、サイバー攻撃、時代などを読む作者の目はそんなに狂ってないことに驚きます。しかし、事実は小説より奇なりというけど、911テロのフレームアップ疑惑とかはこの小説がかすむくらいであり・・・・作者のスタンスとは違うけど、冷戦終結後のアメリカの行状には“ほんとに一矢報いたい”と思う私が怖い?!この小説では一矢報いる先が沖縄の米軍基地となっているが、天木さんのブログによれば外務省条約局あたりを狙うのが現実的のようです。従来から、外務省の条約局は外交政策の全てにわたって最終的な決定権限を握ってきた。その根源は安保条約の運用、解釈を一手に握ってきたからである。条約局長経験者はまた最高裁判所の判事に天下る慣例にもなっている。その条約局の連中がこの程度の浅智恵で、国家の安全保障政策を恣意的に左右するのである。「法の支配」の重みをあまりにも軽視しているではないか。朝日新聞の内部文書のスクープをきっかけに、この際国内の法学者の英知を集めて、米軍再編をめぐる条約論争を徹底的にやってもらいたい。そうすることによって国民監視の下、米軍再編の受け入れの是非を論じてもらいたい
2005.03.20
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グリーンピアとか、私のしごと館とかの・・・・役所の納税者向け施設というと、概して快適である。建物は綺麗であり、利用者が少ないので混雑がなくゆったりとしている。利用料金が要る場合も、独立採算でないせいか概ね低料金である。聞けば答えるという職員の態度も、厚かましくないという?意味では 許せるものである。難点といえば、利用者が少ないので、役人のための施設か?と勘違いする納税者もいる事ではないだろうか?(県の雇用促進関連下部施設なんぞは、利用者がいなくて滑稽でもある)こういう役所施設の快適さについては、以前から気付いていたので良く利用させて頂いている。全国13ヶ所に点在するグリーンピアもそんな施設だろう。恵まれた自然環境で、ゆったりとした敷地を持つリゾートという看板に・・・偽りはないと思う。兵庫県にはグリーンピア三木があり、私のお気に入りスポットでもある。広大な敷地なので、敷地内で自然散策のハイキングさえ可能であり、ここでワラビ採りを行うのが、ゴールデンウィークの我家の恒例になっている。また 以前ここでデュアスロン大会(ラン+自転車)があり、年代の部で好成績(5位?)を出したこともある。定年後には こういう所に勤められたら、イイナーと思うほどでもある。この快適さは、採算無視の放漫経営の恩恵を受けているからなんだろうと・・・ハイキングの際 感じたが、受益者なので、怒り狂っていたわけではない。しかし、よくよく考えれば このつけは全国民に等しく掛かることになるのだろう。厚生年金、国民年金の資金でグリーンピアを経営しているわけだが、経営が破綻すれば、郵貯の金が、財政投融資を経て年金福祉事業団(今もこの名称かな?)を支えることになるのかも知れない。放漫経営の後始末は、当然のこと国民が補填する以外に手はないのである。グリーンピアの放漫経営は、可愛いいもんであるが、日本道路公団の放漫経営は、犯罪的である。(主犯格は道路族と国交省事務次官か?)・・・・・と思うけど。-------------------------<訂正追記>・年金福祉事業団は今は年金資金運用基金に改称しています。ここの資金運用は国民に対して犯罪的チョンボを犯しているようである。・以前13ヶ所だったグリーンピアは、現在7ヶ所になっています。廃止されたリゾート跡はどうなっているか?その後始末の顛末については、今後 調べてみます。・小規模だが新手の「ハイツ&いこいの村」のほうも放漫経営があったらしく、叩き売りしているようだ。・グリーンピアに関する北沢栄さんの御意見ですが・・・・・政治は、年金官僚の独断専行の責任を問い、年金積立金のムダ遣いを止めさせるところから、年金改革をスタートさせなければならない。・147兆円の積立金は国民の老後は無視して、官僚の老後の安定に寄与しているだけみたいである。
2003.10.05
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図書館で『ロスト・シング』という絵本をみっけ♪日本で2012年に発刊されたこの絵本は、オーストラリアでは2000年に発刊されています。いわば、ショーン・タンの絵本の原点のようです。絵本であるが、大人向けのSF風イラストでもあるわけで・・・・優しいショーン・タンの持ち味がよく表れています。【ロスト・シング】ショーン・タン著、河出書房新社 、2012年刊<商品説明>より少年が海辺で出会った迷子は大きくて赤いだるまストーブとヤドカリとタコが合わさったような奇妙な生き物。街でも目立つのに誰もその存在に気づかない。アカデミー賞受賞映画の原作絵本! <大使寸評>日本で2012年に発刊されたこの絵本は、オーストラリアでは2000年に発刊されています。いわば、ショーン・タンの絵本の原点のようです。絵本であるが、大人向けのSF風イラストでもあるわけで・・・・優しいショーン・タンの持ち味がよく表れています。rakutenロスト・シング訳者あとがきの一部を紹介します。《帰るべき場所》《帰属》というテーマをつねに追い求めていると、訳者から紹介されています。『ロスト・シング』は、オーストラリアのイラストレーターであり作家であるショーン・タンが、『アライバル』(2006年)、『遠い町から来た話』(2008年)に先立つ2000年に発表した、彼の絵本作家としての本格的なデビュー作である。 夏のある日、少年が海辺で迷子の生き物と出会い、その飼い主を探して街を歩きまわる。大きくて赤くて、だるまストーブとヤドカリとタコが合わさったような奇妙なその生き物は、灰色の殺風景な街の中でひどく目立つのに、なぜか誰もその存在に気づかず、関心も示さない。はたして迷子の家は見つかるのか――。 《帰るべき場所》《帰属》というテーマをつねに追い求めるショーン・タンの原点が、『ロスト・シング』にはある。奇妙な迷子は、理由も意味もなく、「ただそこにいる」ものだ。あらゆるものがコントロールされ、無駄や逸脱を認めない社会では、この迷子のように無意味で分類不能なものは居場所を与えられない。人々のセンサーからこぼれ落ち、姿さえ見えなくなってしまう。そんなふうにそんなふうに社会の決まりごとからはみ出してしまった、よるべないものに注がれる作者の目は優しい。 その目になって、少年といしょに迷子の家を探すうちに、この表情のない、言葉も話さない、およそ共感できそうな要素のない変てこな生き物が、むしょうに可愛く見えてくるからふしぎだ。(中略)『ロスト・シング』は作者自身の手でアニメーション化され、2011年度アカデミー賞短篇アニメーション賞を受賞した。監督・脚本・デザイン・美術をすべて自分でつとめ、納得のいくものに仕上がるまでに10年の歳月をかけたというのが、いかにも彼らしい。絵本の一部を紹介します。それらしい場所扉が開いた裏表紙なお、ショーン・タン公式サイト:The Lost Thingでも、英文メモ付きの絵が見られます。“A dark little gap off some anonymous little street” acrylic, oils, collage.
2015.04.17
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最近は、品が無くて騒がしいバラエティ番組が多いので・・・見るに耐えない大使は、即チャンネルをスルーしているのです。 一方で、知っている人は知っている「探偵!ナイトスクープ」という長寿番組があるんですが、関西の視聴率では3位~5位あたりをウロウロしていて健闘しているわけです。とにかく「探偵!ナイトスクープ」では、市井の民がおおらかな可笑しさを謳歌していて、ええでぇ♪ちょっと気に食わないのは、西田某という八方美人の異邦人を局長に据えたことであるが・・・まあいいとしよう。 この番組の黎明期(1991年)に、「全国アホ・バカ分布」を実地調査したことがあり、大うけであったことは関西人はよく覚えているが・・・・民俗学的なフィールドワークとしてもバッチグーであり、学者連中を唸らせたわけですね♪この番組によって結実した「全国アホ・バカ分布図」です・・・すご~い♪蔵書録を作っていたとき「全国アホ・バカ分布考」という本を見つけたので紹介します。なるほど傑作ノンフィクションですか・・・Amazonで買おうかと思っているところです。【全国アホ・バカ分布考】松本修著、新潮社、1996年刊<「BOOK」データベースより>大阪はアホ。東京はバカ。境界線はどこ?人気TV番組に寄せられた小さな疑問が全ての発端だった。調査を経るうち、境界という問題を越え、全国のアホ・バカ表現の分布調査という壮大な試みへと発展。各市町村へのローラー作戦、古辞書類の渉猟、そして思索。ホンズナス、ホウケ、ダラ、ダボ…。それらの分布は一体何を意味するのか。知的興奮に満ちた傑作ノンフィクション。 <大使寸評>番組に依頼した人の着眼がよかったのか、それを採用し追及させた松本修プロデューサーが偉かったのか♪Amazon全国アホ・バカ分布考ノンフィクション100選★全国アホ・バカ分布考|松本修ところで、同志社大学中退にして「永遠の0」の著者でもある百田尚樹さんは放送作家となった後、『探偵!ナイトスクープ』の構成も手がけていたそうです。やはり、どこかアホの雰囲気のある人なんでしょうね(詳しくは知らないけど)さきほど、Amazonに「全国アホ・バカ分布考」を発注したので、14日までに手元に届く予定です。読後の感想は後ほどに♪wikipediaでアホ・バカ分布図の成り立ちを調べました。wikipediaアホ・バカ分布図より 1990年(平成2年)1月、関東人の夫がよく「バカ」という言葉を使うのに疑問を持ったという関西人の女性(自身は「アホ」を使うという)からの「アホとバカの境界線はどこか調べて欲しい」といった内容の依頼が『探偵!ナイトスクープ』で紹介された。この依頼を担当した北野誠が、アホとバカの境界線を調べるべく東京駅から調査に乗り出したものの、名古屋駅前での調査では「アホ」でも「バカ」でもない第三の言葉として「タワケ」が使われていたため、急遽「アホ」と「タワケ」の境界線を探ることに変更。岐阜県関ケ原町の住宅街で「アホ」と「タワケ」の境界線と思われる地域を発見したため、岐阜県関ケ原町が「アホ」と「タワケ」の境界である、といった結論を出した。 ところが、当時局長だった上岡龍太郎は、「では、バカとタワケの境界線はどこなんですか?」と問いかけた。また他の探偵からも「大阪の西の境界線はどうなっているのか」などの質問が相次いだため、上岡は「今年一杯かかっても、きちっと地図に境界線を入れてください。」と北野に継続調査を行うことを命令。こうして、本格的なアホとバカの境界線の調査に探偵局は乗り出したが、視聴者からの情報投稿を元に第一次、第二次の分布図を作成した後、しばらくこの件に関する調査は休止状態となった。・・・・ 追加予算を得た番組スタッフは、言語学者の徳川宗賢のアドバイスを受けつつ、それまでの予算規模では困難だった地方自治体の教育委員会への大規模なアンケート調査を行い、1991年(平成3年)5月に「日本全国アホ・バカ分布図」が完成。アンケート結果に基づく追加ロケを行ったうえで特番として放送された。 そして、1991年(平成3年)日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞受賞・第29回ギャラクシー賞選奨・第9回ATP賞グランプリを受賞した。
2012.07.12
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図書館で『歴史と出会う』という本を借りたのだが・・・中韓がアジる「歴史認識」に押されて(笑)、昨今の大使は、近現代史に加えて歴史全般に目を向けているわけです。網野善彦の仕事は、左翼運動の挫折を乗り越えるための厖大な読書量と、さまざまな人々との出会いから生まれたそうで・・・・この本を読めば、歴史が身近に感じられるかも♪網野さんと宮崎監督が「もののけ姫」を語っています。<エボシ御前は20世紀の理想>よりp145~146網野:この映画はお話としてもたいへんに面白いんですが、深山の麓でタタラ集団を率いている女性「エボシ御前」は、女性たちをはじめ、私から見ると「非人」と思われる人たちや牛飼など社会からはみ出した者たちに仕事をさせて、尊敬を集めています。遊女、白拍子に見えますが、どういうお考えであのような女性を登場させたのですか。宮崎:悪路王をしずめた立烏帽子という絶世の美女の伝説があるんですが、実は私の山小屋のある村が烏帽子といいまして(笑)。案外、出発点はそのあたりだったりするんです。 応仁の乱で明国渡来の火槍という原始的な銃が使われたらしいとか、海外に売られて、中国人の倭寇の大親分の妻になって、腕を磨いて、あげく男を殺して財産を奪って、戻って来た女とか(笑)。僕らの考えはだいたい、その程度でして。網野:山の神は「おこぜ」ともいわれて醜女なんですが、製鉄の神の金屋子神は白鷺に乗ってくる女神なんですね。そこからイメージをつくられたわけではないんですか。宮崎:むしろ、初めは男にしようという考えもあったんです。でも、スタッフに聞いて回ったら「やっぱりきれいな女性がいい」という話になって(笑)。エボシが白拍子の格好をしているのも同じことで、きれいなほうがいいやと(笑)。 エボシという女性は20世紀の理想の人物なんじゃないかと思ってるんです。目的と手段を使い分けて、非常にヤバイこともするけれども、どこかで理想は失っていない。挫折に強くて、何度も立ち直ってというね、そういうふうに勝手に僕は想像したんです。網野:それから男の主人公はヤマト「日本国」の侵略に抵抗する戦いに敗れ、北の地の果てに隠れ住むエミシ一族の長になるべき少年アシタカになっていますが、主人公がそうした「蝦夷」になっており、つまり、ヤマト、「日本国」を相対化されていますね。これがわが意を得たという感じがしましたよ。宮崎:蝦夷の風俗などは僕の道楽でやらせてもらったんですよ。隼人が楯を使ってるから、古い蝦夷も手楯を使ったんじゃないかとか。とにかく、よくわからないところは僕の勝手な空想で埋めただけで。網野:いや、変に事実に即されるよりも、わからないところはどんどん空想で超えていただいたほうがいい。事実にへばりついてるわれわれとしても気分がいいですよ(笑)。『七人の侍』を取り上げて、百姓の武装について語っています<「百姓」も刀を差していた>よりp147~148宮崎:15世紀頃は、刀を腰に差している人間がいっぱいいたに違いないと僕は思ってるんですが。網野:もちろん、あの時代はみんな武装していますね。最近になってはっきり確認されてきたことですが、江戸時代になっても、百姓はみな腰刀を持っていたんですよ。侍の太刀とは違うけれども、武装はしていた。百姓は鉄砲だって持ってましたしね。宮崎:秀吉が刀狩りをやったからって、すぐ片づいたはずはない。なのに、時代劇に見る武装している侍と武装していない農民という図式はいったいいつごろ出てきたんですかね。網野:おそらく近代になってからですね。しかも、そうした武装解除された農民と武装している侍というつくられた図式が映画の時代劇にも強烈に影響している。 藤本久志さんが書いていますが、黒澤明監督の『七人の侍』の設定も、その図式に完全に絡めとられてしまっています。それには歴史家の責任は大きいですね。宮崎:『七人の侍』というのは戦争に負けて帰ってきた男たちが、食糧難で買出しに行ったところでお百姓たちのいろんな態度にぶつかるとか、そういうリアリティーをもった映画で。 あまりにも面白くできているので、以後、呪縛のように日本の時代劇を縛ってしまって、常に侍対農民という階級史観が固定しちゃったような気がしてるんです。網野:あの映画には僕も非常に感動したのですが、武装できない百姓というのはまったく事実ではないのです。それに、百姓の中にはいろいろな生業の人がいた。博打打ちもいたんです。百姓は農民の意味ではないですからね。宮崎:百姓というのはもっと広義の意味で、そこにはありとあらゆる職業を含んでいるわけですね。網野:ええ。百姓の中には商人や職人などいろいろな生業の人がいて、農業は、その中のひとつなのです。だから、「百姓一揆」も困窮した農民が一揆を起こしたと考えるのは間違いですね。実証的にもそうした見方はだんだん崩れてきつつあります。自由民権運動のときでも、秩父事件では博打打ちが先頭に立っていたでしょう。田代栄助という総裁は博打打ちですよ。 そういえば『もののけ姫』には博打打ちは出てこなかったですね。宮崎:いや、僕らが映画を作っていること自体が丁半博打を打ってるようなものですから(笑)。【歴史と出会う】網野善彦著、洋泉社、2000年刊<「BOOK」データベース>より戦後日本の歴史学が生んだ泰斗、網野善彦の仕事は、左翼運動の挫折を乗り越えるための厖大な読書量と、さまざまな人々との出会いから生まれた。その成果は歴史研究の枠をはるかに凌駕してベストセラーを生み出し、さらにその影響力は文学や映像の世界にまで拡がっている。読者と同じ目線で歴史を学び、研究することの愉しさを教えてくれる一冊。<読む前の大使寸評>大使の場合、現代につながる近現代史に関心が大きいのだが・・・網野さんという歴史家の対話を通じて、歴史に対する視野を広げたいと思うわけです。amazon歴史と出会う
2014.11.18
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図書館で『日中戦争とノモンハン事件』という本を手にしたが・・・・・著者は、若年のため日本軍での軍歴はないが、難民生活後に八路軍の軍歴を持つに至ったという異色の人である。この本は従軍戦記ではないけど、戦場の雰囲気は感じられるのです。【日中戦争とノモンハン事件】水嶋都香著、第一書房、2007年刊<カスタマーレビュー>より勉強家であり理解力と洞察力に優れた筆者は、恐らく厚さ2メートルほどに達したかと思われる量の文献を読破し、表題に関係する事実を細部にわたって整理し再構成している。大多数の読者にとって今や仔細への関心が持てない時代の出来事であるが、筆者はそこに現代への教訓があるとしている。 まずノモンハン事件を詳述し、次に日中戦争の経緯を描き、それから敷衍して今の日本の国防・教育問題を論じている。随所に筆者の洞察とバランスある見識が読取れる。<読む前の大使寸評>とにかく、関東軍参謀の独断専行負け戦が腹立たしいのです。著者は、若年のため日本軍での軍歴はないが、難民生活後に八路軍の軍歴を持つに至ったという異色の人である。また、東芝で技師長を勤めた経歴を持つように、どおりでバランスある見識が感じられるのです。Amazon日中戦争とノモンハン事件この本は読みどころが多いので、(その2)として読み進めています。太平洋戦争の敗因というあたりを見てみましょう。キーワードは情報収集・解析ということのようです。p118~120<日本の情報戦対応> ノモンハンの経験が活かされず、太平洋戦争中も日本軍の情報戦対応はいぜん何の改善もされていなかった。主として《昭和陸軍の研究 下》保坂正康著等を参考にまとめてみる。■一 米国戦略爆撃調査団報告から この戦争全般にわたって、情報要員訓練計画が皆無であり、日本の情報活動を阻害していた。 日本では、陸軍大学校や航空将校養成学校にも、情報学級もなければ特殊な情報課程もない。従って情報任務を与えられた将校たちは、自分で会得する以外なかった。 なぜこれほど情報を軽視したのだろうか。 調査団によると、「日本軍は、協力した中国人や特務機関に頼り、怪しげな情報収集屋が持ってくる情報を利用するにすぎなかった。日本は中国との戦争では精密な情報収集・解析システムが無くても事足りた」という。 陸軍に限っていえば、確かに参謀本部に情報部がある。しかしここでは常に「ドイツからの情報は正しい」「ソ連からの情報は誤り」という思い込みだけがあり、米国や英国の情報は開戦後さえ軽視されてきた。■二 元大本営情報参謀堀栄三氏の談話「日本が戦争に負けたというのは、情報についてしっかりした考えをもっていないからです。本の中に、兎の戦力は速い脚であるか、それともあの大きな耳か、という設問があったんです。答えは、大きな耳です。あれがなければ走る前にやられてしまうではありませんか。つまり日本軍は、大きな耳をもたない兎だったのです」。■三 昭和18年4月18日 山本長官機撃墜事件 日本海軍暗号を米軍が解読し、山本機を待ち伏せ攻撃したものである。しかし海軍は、「暗号が解読されて山本機が待ち伏せ攻撃を受けたことはありえない。米軍のP38戦闘機24機が偶然山本機と出合ったにすぎない」と結論づけた。 山本機を護衛していた6機の零戦パイロットは、山本戦死の責任をとらされこのあと執拗に、激戦地に飛ぶよう命じられる。海軍も、山本の戦死から何ごとも汲み取ろうとしなかった。「暗号を解読されている」とか、「情報収集能力の欠如」といった問題の本質を問うのではなく、末端の兵士を「死」に追いやり、軍官僚は責任をのがれるという体質を露呈している。彼等軍官僚の責任は常に隠蔽された。最後の「官僚の責任は常に隠蔽された」というくだりであるが…これは、今も続いているようですね。石原莞爾は戦争責任を免れたが、米軍としても掴みかねた人物だったのか?石原が唱えた満州改革案を見てみましょう。p248~250<満州改革案> 話は前後するが、1931年(昭和6)石原が執筆した《満蒙問題私見》には「満蒙問題解決の唯一方策は之を我領土となすにあり」と記されている。満州を独立国としたのは軍中央の意見によるものであった。しかし、「君子は豹変す」。石原は満州国建国後間もなく、形式的な独立国家ではなく、真の独立国家建設の理想を掲げて、以後その信念を変えることはなかった。 陸軍の統帥から離れ、関東軍参謀長東条英機中将の下に参謀副長として着任した石原莞爾少将は、次のような要旨の満州改革案を出している。一、関東州を満州国へ譲渡し南満州鉄道を満州国法人化とすると共に、日満間の国防及び経済を公正妥当に決定すべき協議機関を東京に設置する。一、関東軍はなるべく速やかに満州国政治に関する干与を撤回するため第四課を縮小し3年以内にこれを廃止する。一、満州国軍を管理する軍政部は皇帝の直属とする。一、満州国産業経済界における日本独占資本家の独占活動を排除する。一、満州国を日本の植民地化する如き政治と少数日系官吏の専攻を排除するため協和会を中心とする国策決定機構及び企画機構を設ける。《古海忠之》 協和会なるものの性格は理解し難いが、石原の「協和会は政府の従属機関でなく、いわば共産国における共産党のように、政府を指導する機関であるべきで、官僚は排除しなければならない」という、強い思い込みが見て取れる。 東条と石原の対立は有名である。石原は関東軍参謀長だった東条を「東条上等兵」、更には「東条二等兵」呼ばわりをした。一方元憲兵司令官であった東条は、私服の憲兵や警察官を使って石原の行動を監視した。実務的で一派の結束を固めた東条の画策で、石原は次第に孤立していく。折角の改革案も、関東軍司令官以下首脳者の全体会議で全面的に否決され、石原は東京に引き揚げてしまう。 理想家石原が去った後の満州に、日本から、資本と共に大勢の利権屋が流れ込む。革新・統制派の軍人や官僚が、統制による経済活動に熱を上げた。満人の犠牲の上に巨利を得ようとする利権屋と官僚が結託した。石原が懸念し阻止しようとした官僚の腐敗堕落で、「王道楽土」の理想郷満州は夢となった。 また満州国建国前後には、日本のジャーナリズムも、小冊子や新聞記事などで、日本の青年の血気を煽るような痛快な大陸冒険談を紹介する。 僕もゆくから君もゆけ 狭い日本に住みあいた 波の彼方に支那がある 支那にゃ四億の民が待つ ロマンティックな夢を抱いて大陸に渡る若者が増えた。松本・小日向といった馬賊の頭目になったいわゆる大陸浪人や、志を失って大陸ゴロに成り下がり、中国人の不快感を買う者も出てきた。 石原の満州改革案が通っていれば、偽満州国でなく、満州国になっていたかもしれない。 現在の日本においても、政・官・財の癒着が、日本の活力を殺ぐ元凶である。 現在日本は少子高齢化等の対応が後手に廻り、我々の子や孫は親より豊かな生活は望めないのではないかという危機的情況にある。政・官・財の癒着を打破するため、政界の一新を図って、長年にわたるしがらみを解くと同時に、官僚の国益より省益を優先するという意識を早期に改革することが、最大の課題のように見える。官僚問題は今の日本でも依然、最大かつ緊急に解決すべき問題なのである。著者の卓見が随所に表れているが・・・言葉の端々に、村上龍の新作『オールド・テロリスト』に出てくる老人のような雰囲気を感じるわけで、なんだか怖いのです(笑)。なお、官僚問題は今の日本でも最大の問題という著者のご意見には、激しく賛同する次第です。『日中戦争とノモンハン事件』1この記事も戦記のインデックスに収めておきます。
2016.01.02
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<アジサイ膨らむ>昨日から当地は梅雨入りしましたが・・・・我が家のアジサイも膨らんできて、ほんのり色がのってきました。アジサイといえば、シーボルトが日本人妻の名にちなんでオタクサと呼んだ花ですね。過去の記事からアジサイのあたりを、蔵書録から「花の男シーボルト」を紹介します。【花の男シーボルト】 大場秀章著、文藝春秋、2001年刊<「BOOK」データベース>より日本に近代医学を伝えた医学者としてのシーボルト。禁制の地図を持ち出そうとした、いわゆる「シーボルト事件」で永久国外追放処分を受けたシーボルト―。だが、植物学者としてのシーボルトを知らずして、その大きな実像は見えてこない。ユリ、ツバキからレンギョウまで数多くの日本植物を、植物相の低いヨーロッパに持ち帰り、それを広めた功績、先見性は、二十一世紀に入った今日、その輝きを増している。多面的に描く全く新しいシーボルト像。 <大使寸評>シーボルトを魅了したのは、日本の植物と日本女性でした。ということで、彼を日本大好き異邦人から外すわけにはいけません。Amazon花の男シーボルト「花の男シーボルト」byドングリ梅雨のうっとうしさの中で、しつらえた舞台装置のようにそこだけが明るい ガクアジサイ「花の男シーボルト」大場秀章著、文春新書、2001年刊第五部 シーボルトが導入した日本の植物<アジサイと日本>p132~135 新緑の季節も過ぎると急にうっとうしさを増し、雨模様の日が多くなる。森も人家のまわりの木立でも花咲く植物の数はぐっと少なくなってくる。こうして長い梅雨へと突入していく。梅雨のうっとうしさの中で、ひととき心のやすらぎを与えてくれるのがアジサイだろう。手まりのような巨大な花序を枝先につけたアジサイの一群は、まるで梅雨の最中にしつらえた舞台装置のようにそこだけが明るい。日本に比べたら少雨のヨーロッパの環境で育ったシーボルトにとって梅雨は苦痛であったろう。そんな中で、シーボルトがアジサイに心動かされたことは想像に難くない。 いまではシーボルトのおかげですっかり洋花となり、ハイドランジェアと名を変えて四季の花になったアジサイは、もともと日本特産の梅雨の花だった。シーボルトといえばアジサイを連想する、といった人がいる。シーボルトはアジサイに、Hydrangea Otaksa(ヒドランゲア・オタクサ)という学名を提唱した。シーボルトはオタクサの名の由来には触れなかったが、それは妻の滝の愛称、オタキさんに因むと考えられている。(中略) シーボルトはアジサイを中国原産と考えていたが、これは明らかな誤りである。彼は日本人が観賞目的で栽培する植物の多くが中国や朝鮮からもたらされてと考えていた。実際にウメやレンギョウのように、中国を原産とする園芸植物も多かったが、日本に自生する植物も観賞の目的で栽培されていたのである。 それはさておき、アジサイとその仲間を含んだアジサイ属の多様さはシーボルトの目をとらえた。『フロラ・ヤポニカ』第一巻で、シーボルトとツッカリーニは12もの図版を割り振って、アジサイ属のほぼ全種である12種について詳述した。他の植物では新種の記載には大変慎重であるシーボルトとツッカリーニは、アジサイ属ではわずかな相違点によって種を区別している。ツッカリーニと共同というよりもシーボルトの主張をツッカリーニが認めて別種にすることに同意したのであろう。それにしてもシーボルトは詳細にガクアジサイを観察している。 そればかりではなく、シーボルトが唯一単独で書いた植物分類学上の論文が、1829年に王立レオポルド・カロリンガー・アカデミーの機関紙のレオポルディーナに掲載された『日本産アジサイ属植物分類提案』であった。この論文は、後のシーボルトの植物学研究が当代一流の植物分類学者ツッカリーニとの共同研究として行われているため、シーボルト個人の植物学者としての資質や知力を知るうえで興味深いものがある。<アジサイとガクアジサイ>p136~137 ガクアジサイ 日本にはアジサイ属植物としてノリウツギ、タマアジサイ、ヤハズアジサイ、ガクアジサイ、ヤマアジサイ、トカラアジサイ、ヤエヤマアジサイ、リュウキュウコンテリギ、コガクウツギ、ガクウツギ、コアジサイの11種がある。 このうち、園芸植物として利用されるのはガクアジサイなど数種に過ぎない。アジサイ属の植物は花は小さいが、枝先に多数が密生してつく。花はでたらめに枝上に着くのではなく、配列には一定の規則性があり、いくつかの型に類型化される。これを花序と呼んでいる。 コアジサイを除くアジサイ属の全種は、その花序の周辺につく花が、花序を飾る額のように大きく変形している。ガクアジサイその典型で、その花序の周辺を飾る変形した花は文字通り、周辺花ともいうが、ふつうは装飾花と呼ばれる。装飾花は、花のガク片が花弁化し、しかも巨大化したものである。だから装飾花をよく観察すると、その花弁状のガク片のつけ根には本来の花弁やオシベ、メシベがつくられ、園芸家はそれを「目」と呼んでいる。いつもではないが、装飾花にも熟した果実がなり、ちゃんと種子がつくられる。 アジサイ属の花序では、ガクアジサイのように装飾花に取り囲まれたかたちが本来の姿だが、花序中の花のほとんどがすべてが装飾花のほとんどすべてが装飾花に変じてしまうこともある。ガクアジサイのこうした変形によって生まれたのがアジサイなのだ。ヤマアジサイにもこうした変形を遂げた変わりものがあり、ヒメアジサイ、マイコアジサイと呼ばれる。ミナヅキ、テマリアジサイはそれぞれ、ノリウツギ、タマアジサイのアジサイ型の変形である。 シーボルトはアジサイがガクアジサイの変異株であるとは理解しなかった。オタクサの名の由来を考えてみるとき、シーボルトのアジサイへの思いの強さが伝わってくる。覚え書きには、セイヨウアジサイから何としても日本のアジサイを区別しておきたかったシーボルトの執念のようなものさえ感じられる。他にアジサイ(お奨め)でアジサイを集めています。
2012.06.09
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芦屋ハーフの結果は残念ながら、サブツー達成ならず2時間3分台でした。大使としては、サブツーは当然であわよくば、1時間40分台を狙っていたのだが・・・レース前の感触は悪くなかったのに、走ってみないとわからないのがマラソンでしょうか。写真を撮るのを忘れていたが、帰途につくランナー達です。戦い済んで、大使の気分はすぐれません。あ~あ。完走証は後日郵送されるとのことで、順位はわからないが・・・ラップタイムを自分の時計から見てみます。(ラップタイム) (1K換算)5K 28’00 5’3610K 58’53 5’4515K 86’22 5’5520K 117’30 6’8ゴール 123分台 約6分西脇の記録より7分ほど悪いが、何が悪かったのだろう?ここで、言い訳を言わせてね(大使、めめしいがな)・半袖で走ったが、それでも暑いくらいの気温。・コースの距離表示が5Kおきだったので、油断した。やっぱり歳の壁なんだろうか?5月の浜坂ハーフでサブツーできるだろうか?なんか良くない予感がしないでもないが・・・自分を信じて練習するしかないで!
2013.04.14
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『朝日デジタルの書評から』フォームや『読みたい本』フォームを作っているのだが、これを市図書館の予約に利用しようと、思い立ったのです。これまでの予約内容と予約候補は以下のとおりです。<予約中>・加村一馬著『洞窟おじさん』(6/07予約、副本2、予約37)現在19位・半藤一利『歴史と戦争』(7/11予約、副本10、予約120)現在48位・与那覇潤『知性は死なない』(7/25予約、副本4、予約23)現在11位・原田マハ『フーテンのマハ』(8/06予約、副本9、予約65)現在35位・円城塔『文字渦』(9/05予約、副本1、予約15)現在2位・サピエンス全史(上)(10/11予約、副本25、予約151)<カートで待機中>・N・ネフスキー著『月と不死』・8月の果て・ミヒャエル・エンデ『モモ』(市立図書館の児童書コーナーで見かけた)・ある日うっかりPTA(副本4、予約39)<予約候補>・サピエンス全史(下)・the four GAFA 四騎士が創り変えた世界・高橋源一郎『ニッポンの小説』・浅田次郎『天子蒙塵1~4』:図書館未収蔵・阿刀田高『ギリシア神話を知っていますか』:芸工大に収蔵・阿刀田高『裏声で歌へ君が代』・オクタビオ・パス『マルセル・デュシャン論』:図書館未収蔵・原田マハ『楽園のカンヴァス』・重松清『ビタミンF』:阿刀田さんが「セッちゃん」をお奨め・デジタルエコノミーはいかにして道を誤まるか:図書館未収蔵・高橋源一郎著「読んじゃいなよ」・南伸坊『シンボーの絵と文』図書館未収蔵・フィリップ・ボール『かたち』・カズオ・イシグロ著『癒されざる者たち』図書館未購入・『ウォルマートがアメリカをそして世界を破壊する』図書館未購入・銃・病原菌・鉄(上)・バーバラ・タックマン著『八月の砲声』外大の蔵書・ネルケ無方著『迷える者の禅修業』・スティーヴ・スターン『どいつもこいつも昼行灯』図書館未購入・ボリス・ヴィアン著『うたかたの日々』:芸工大に収蔵・『都会の鳥たち』図書館未購入・『一汁一菜でよいという提案』・中島岳志著『血盟団事件』・・・西図書館の棚で見た・『排除と抵抗の郊外 フランス〈移民〉集住地域の形成と変容』・フィールドサイエンティスト 地域環境学という発想・禁じられた歌(田)・私家版鳥類図鑑(神戸市図書館では蔵書なし)<予約分受取:8/30以降> ・萩野アンナ『ブリューゲル、飛んだ』(8/24予約、8/30受取) ・カズオ・イシグロ『夜想曲集』(9/09予約、9/13受取)・原田マハ著『スイート・ホーム』(4/16予約、9/16受取)・EVシフト(6/28予約、9/21受取)・野地秩嘉『食の達人たち』(9/14予約、9/21受取)・アマゾンのすごいルール(5/18予約、9/28受取)・渋谷由里『馬賊で見る「満州」』(10/01予約、10/06受取)・佐野洋子『あっちの女 こっちの猫』(10/01予約、10/06受取)・デズモンド・モリス『猫の美術史』(10/06予約、10/11受取)【洞窟おじさん】加村一馬著、小学館、2004年刊<作品情報>より昭和35年、13歳の少年は「両親から逃げたくて」愛犬シロを連れて家出した。以来、彼はたったひとりで、足尾鉱山の洞窟、富士の樹海などの山野で暮らしヘビやネズミ、コウモリに野ウサギなどを食らい命をつないできた。発見されたとき、少年は57歳になっていた。実に43年にわたる驚愕のサバイバル生活。―これは現代のロビンソン・クルーソーの記録である。<読む前の大使寸評>驚愕の自叙伝というか、平成の冒険的ドキュメンタリーではなかろうか。図書館で探してみよう。<図書館予約:6/07予約、副本2、予約37>amazon洞窟おじさん【歴史と戦争】半藤一利著、幻冬舎、2018年刊<「BOOK」データベース>より幕末・明治維新からの日本近代化の歩みは、戦争の歴史でもあった。日本民族は世界一優秀だという驕りのもと、無能・無責任なエリートが戦争につきすすみ、メディアはそれを煽り、国民は熱狂した。過ちを繰り返さないために、私たちは歴史に何を学ぶべきなのか。「コチコチの愛国者ほど国を害する者はいない」「戦争の恐ろしさの本質は、非人間的になっていることに気付かないことにある」「日本人は歴史に対する責任というものを持たない民族」-80冊以上の著作から厳選した半藤日本史のエッセンス。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(7/11予約、副本10、予約120)>rakuten歴史と戦争【知性は死なない】與那覇潤著、文藝春秋、2018年刊<「BOOK」データベース>より平成とはなんだったのか!?崩れていった大学、知識人、リベラル…。次の時代に、再生するためのヒントを探してーいま「知」に関心をもつ人へ、必読の一冊!【目次】はじめに 黄昏がおわるとき/平成史関連年表 日本編/第1章 わたしが病気になるまで/第2章 「うつ」に関する10の誤解/第3章 躁うつ病とはどんな病気か/平成史関連年表 海外編/第4章 反知性主義とのつきあいかた/第5章 知性が崩れゆく世界で/第6章 病気からみつけた生きかた/おわりに 知性とは旅のしかた<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(7/25予約、副本4、予約24)>rakuten知性は死なない【フーテンのマハ】原田マハ著、集英社、2018年刊<出版社>よりモネやピカソなど、美術にまつわる小説をはじめ、精力的に書籍を刊行する著者、その創作の源は旅にあった!? 世界各地を巡り、観る、食べる、買う。さあ、マハさんと一緒に取材(!?)の旅に出よう!<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(8/06予約、副本9、予約65)>rakutenフーテンのマハ【文字渦】円城塔著、新潮社、2018年刊<出版社>より昔、文字は本当に生きていたのだと思わないかい? 秦の始皇帝の陵墓から発掘された三万の漢字。希少言語学者が遭遇した未知なる言語遊戯「闘字」。膨大なプログラミング言語の海に光る文字列の島。フレキシブル・ディスプレイの絵巻に人工知能が源氏物語を自動筆記し続け、統合漢字の分離独立運動の果て、ルビが自由に語りだす。文字の起源から未来までを幻視する全12篇。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(9/05予約、副本1、予約15)>rakuten文字渦【サピエンス全史(上)】ユヴァル・ノア・ハラリ著、河出書房新社、2016年刊<「BOOK」データベース>よりなぜホモ・サピエンスだけが繁栄したのか?国家、貨幣、企業…虚構が文明をもたらした!48ヶ国で刊行の世界的ベストセラー!【目次】第1部 認知革命(唯一生き延びた人類種/虚構が協力を可能にした/狩猟採集民の豊かな暮らし/史上最も危険な種)/第2部 農業革命(農耕がもたらした繁栄と悲劇/神話による社会の拡大/書記体系の発明/想像上のヒエラルキーと差別)/第3部 人類の統一(統一へ向かう世界/最強の征服者、貨幣/グローバル化を進める帝国のビジョン)<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(10/11予約、副本25、予約151)>rakutenサピエンス全史(上)【月と不死】N・ネフスキー著、平凡社、1971年刊<出版社>より著者は日本民俗学界の異色の存在として知られるロシア人学者で,柳田国男,折口信夫らと親交を結び,沖縄,東北などの民俗を採録した。本書は日本語で発表された論文・書簡を網羅した唯一の著作集。<読む前の大使寸評>ロシア人にして、日本民俗学界の異色の存在が気になるのです。<図書館予約:(とりあえずカートに入れておこう)>heibonsha月と不死【8月の果て】柳美里著、新潮社、2007年刊<「BOOK」データベース>より日本統治下の朝鮮・密陽に生を受け、マラソンでの五輪出場を目指した亡き祖父・李雨哲。そのうしろ姿を追い、路上を駆けることを決意した柳美里。ふたりの息づかいが時空を越えて重なる瞬間、日本と朝鮮半島のあわいに消えた無数の魂が封印を解かれ、歴史の破れ目から白い頁に甦る。偉丈夫の雨哲と美丈夫の弟・雨根。血族をめぐる、ふたつの真実の物語が、いま日本文学を未踏の高みへと押し上げる。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(とりあえずカートに入れておこう)>rakuten8月の果て【モモ】ミヒャエル・エンデ著、岩波書店、2005年刊<「BOOK」データベース>より町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります…。「時間」とは何かを問う、エンデの名作。小学5・6年以上。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(とりあえずカートに入れておこう)>rakutenモモ図書館予約の軌跡138予約分受取目録R17中央図書館新着図書リスト図書館情報ネットワーク 蔵書検索システム図書館予約の運用にも慣れて、速攻で入手するコツも何となくつかんだと思うのだ♪・朝日書評欄で探すとしたら、3ヶ月前掲載くらいのモノが狙い目かも。・専門的すぎるほどのモノは、予約0となっていることが多い。・受取館に収蔵しているモノは、移送する手間が省けるので早くなるだろう。・本屋の店頭に出た直後の新刊本・ウィキペディアでめぼしい著作を探す
2018.10.11
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図書館で『作家の猫』という本を、手にしたのです。『作家の猫2』という姉妹本は先に読んでいましたが・・・やっとこの本に巡り合ったわけで、まよわず借りたのです。【作家の猫】平凡社編、平凡社、2006年刊<「BOOK」データベース>より漱石の「吾輩」から、中島らもの「とらちゃん」まで作家に愛され、描かれた猫たちのアルバム。<読む前の大使寸評>『作家の猫2』という姉妹本は先に読んでいましたが・・・やっとこの本に巡り合ったわけで、まよわず借りたのです。rakuten作家の猫お次は池波正太郎さんちの猫たちを、見てみましょう。p92~93<猫が書かせた小説:常盤新平> 池波先生は猫がお好きだった。『鬼平犯科帳』の「猫じゃらしの女」には、長谷川平蔵が可愛がっているトラ猫の五郎がちらりと登場する。 『剣客商売』の「おたま」は、おたまという白い牝猫が主人公のような短篇小説である。秋山小兵衛もまた作者と同じく猫が好きだ。小兵衛も池波先生と同じくこれまでに何匹も飼っていたが、大半は死んでしまった。 おたまは迷い猫である。小兵衛はこの猫を可愛がったが、猫の毛が落ちていたり、泥足で家のなかへはいってくるのが我慢できない、きれい好きの女房、おはるは叱ったり叩いたりしてきた。 おたまは2年前に小兵衛とおはるがすむ鐘ヶ淵の隠宅に住みついてしまったのだが、それから1年あまりたって、梅雨のころに突然、姿を消した。そのおたまが春の日にもどってきたときから、小説がはじまり、小兵衛を事件へと案内する。 その昔、小兵衛はおくろという黒い牝猫を飼っていた。この猫もおはるに邪険に扱われた。 初秋のある夜、居間に寝そべっていた小兵衛が銀煙管を手にして、半身を起こし、煙草盆へ手を伸ばしかけると、居間の片隅でやはり寝そべっていたおくろがむっくりと起きあがり、煙草盆に近づき、それを自分の尻にあてがって、小兵衛の目の前まで押してきた。 おはるが小兵衛の隠宅に女中に来たばかりのころである。おはるが驚いたのはいうまでもない。だが、小兵衛は平然と言う。 「なあに、いつものことだよ」 おくろはかなり年をとっていて、翌年の夏に病死した。小兵衛はおくろをまるで家族の人に対するように看病したという。 おたまもおくろに劣らず利口な猫だ。そして、おくろの利口なところが「おたま」という小説の伏線になっている。 先生の自選随筆集『私が生れた日』(朝日文芸文庫)の目次を見ると、先生がいかに猫を大事にしていたかがわかる。 目次は「私が生れた日」にはじまり「父」、「母」、「家」とつづき、つぎが「猫」なのである。「猫」の冒頭で池波先生は次のように書いておられる。 「私のところでは、むかしから猫を飼っているので、猫のいない自分の家など考えられなくなってしまっている」 「猫」は18年前に書かれたエッセーである。先生がお元気そのものだったころである。 先生は猫をおもちゃ代わりにしたので、猫には嫌われていたようだ。でも、シャム猫のサムだけは先生になついていた。 サムは夜半すぎに音もなく先生の書斎にはいってきて、先生の仕事が終わるまでベッドで眠っている。やがて仕事が終わると、先生が寝酒にウィスキーを飲むのだが、そのとき、サムの小皿にもウィスキーをちょっぴり水割にしてやる。 サムは音もなく飲んでしまう。最初はおもしろがってウィスキーを飲ませた。 池波家ではサムのほかに3匹の猫を飼っていたが、5、6匹の野良猫が飯を食べに来る。奥さまも猫がお好きだったようだ。『作家の猫』1
2018.10.30
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図書館で『ドローイングの教室』という本を、手にしたのです。暇な大使は、かねてより水彩画を始めようとして、必用な画材を取り揃えているのだが、なかなか踏ん切りがつかないのです。・・・で、この本を読んで腰をあげようという目論みでおます。【ドローイングの教室】カーラ・ソンハイム著、ボーンデジタル、2013年刊<商品の説明>よりお絵かきの楽しさを再発見! 小さな教室をめぐるように、1週間に1つずつラボをこなしていけば、1年間かけてじっくりと52個のドローイング(お絵かき)課題に取り組めます。<読む前の大使寸評>暇な大使は、かねてより水彩画を始めようとして、必用な画材を取り揃えているのだが、なかなか踏ん切りがつかないのです。・・・で、この本を読んで腰をあげようという目論みでおます。amazonドローイングの教室p112~113<41 自然散策> 自然を愛する心とドローイングの練習を組み合わせましょう。このラボでは、散歩の途中で出会うさまざまな要素を注意深く観察して描くことによって、小さなドローイングを何点か完成させます。■基本手順1.画材を準備して、お気に入りのハイキングスポットや豊かな自然がある所に行きます。2.このラボでは、リアルに描くことを目指しているので、選んだ題材を時間をかけて注意深く観察します。ざっくりとした、自由な線で描きましょう。3.散策を続け、興味を引かれるものを描きます。4.絵を描いているのであって、写真を撮っているわけではないので、好みに応じて簡略化してもかまいません。アーティストの特権です。5.大小さまざまなサイズ、クローズアップや遠くからの見た目など、いろいろと描いてみましょう。スケールは気にせず、戸外で得た印象で紙を埋めていきましょう。6.紙が埋まるまで作業を続けます。7.自宅の作業場所に戻ったら、ドローイングを何らかの方法で関連付けます。言葉を添えたり、線を引いたり、アリの行列を描き入れるなど、思いついたどんな方法を使ってもかまわないので、散策ドローイングを一つの作品にまとめ上げます。■ペンでドローイングする利点 鉛筆は素晴らしい画材ですし、消しゴムも役に立つ道具です。しかし指導したときに気付いたのですが、消しゴムの使用を許可してしまうと、実際に描いている時間よりも消している時間の方が長くなってしまいます。直接ペンを使って描けば、消せる可能性がなくなるので、描く作業に集中できるようになります。 怖いですか? 確かに怖いかもしれませんが、おかしなことに自由にもなります。このように考えてみましょう。 ペンとインクを使うと、完璧なドローイングを描かなくては、というプレッシャーが弱くなります。1回目から完璧に描けるなんて、誰も期待していないからです。プレッシャーがなくなれば、より良いドローイングが描けるようになることがよくあります。『ドローイングの教室』2:クレー風の転写画『ドローイングの教室』1:「はじめに」から
2019.01.26
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今ではテレビで『カンブリア宮殿』というインタビュー番組を持っている村上龍であるが、小説家のなかでは経済的なセンスはぴか一なんでしょうね。コンビニで『村上龍の質問術』という文庫本を買ったのだが・・・とにかく、対談した経済的成功者の顔ぶれがすごいので、思わず衝動買いした次第です。(消費税値上がり初日に衝動買いするアホな大使でおま♪)・・・ということで、村上龍の対談を集めてみました。・村上龍の質問術(2013年刊)・村上龍(群像日本の作家)(1998年刊)R1:『村上龍(群像日本の作家)』を追加し、全体見直し*****************************************************************************【村上龍の質問術】村上龍著、日本経済新聞出版社、2013年刊<「BOOK」データベース>より人気番組「カンブリア宮殿」のインタビュアーとして、300人以上の経営者と対話し、その人間的魅力と成功の秘訣を聞き出してきた村上龍。対談相手や企業の歴史を「文脈」として把握し、本質的な疑問、質問を発見する作家ならではの手法とは?著者初の文庫書き下ろし。 <読む前の大使寸評>『カンブリア宮殿』という番組の構成、台本なんかは、製作スタッフと村上や小池栄子との共同作業で成り立っているとは思うのだが、メインキャスターたる村上の鋭い洞察力が反映されていると思うわけです。amazon村上龍の質問術この本から、ユニクロの柳井社長との対談を、紹介します。昨今はブラック企業と叩かれているが、わりと欧米的なマインドで勝ち進む柳井社長の秘訣が知りたいわけです。<核となる質問>よりp229~231村上:柳井さんの本のタイトルは『一勝九敗』(新潮社)ですが、相撲でいえば完璧な負け越し、野球だったら二軍落ちです。柳井:そうですね。村上:経営者の場合はどうなのでしょう。柳井:反対に皆さんに連戦連勝だと思われているんですよ。でもどんなに優秀な経営者でも、連戦連勝なんてことはあり得ないでしょう、新しいことをやっていたら、失敗して当然です。1勝9敗でもいいくらいでしょう。実は連戦連勝というのは、自分たちが新しいことをやっていないということであり、失敗した原因を分析していないということなんです。商売をやっていたら、いかに冷静に失敗した原因を追究していくか、それが次の成功につながると思うのです。ですから優秀な経営者は連戦連敗だと僕は思っているのです。小池:失敗ということでいうと、昔はスポクロ、ファミクロというのがあったんですね。柳井:スポクロというのはスポーツウェアとシューズに特化したユニクロみたいなもの、ファミクロというのはファミリーウェア、お父さん、お母さんの服と子供服に特化した店です。小池:ユニクロとは別に?柳井:ええ。売れなかったですね。ユニクロと区分けしたので、同じ地域に3店あると、三つ行かないといけない。そんな面倒なことしないですよね、普通。村上:その前に広島にユニクロの1号店を出されるんじゃないですか。これは失敗できなかったんじゃないですか。柳井:ええ、できないです。村上:もちろん失敗していい事業というのはないのかもしれませんが、1号店とスポクロ、ファミクロではリスクが違うんじゃないかと思うんです。柳井:それは全然違いますよ。村上:スポクロ、ファミクロのときはもうすでにユニクロがあった。その中で、どのくらいの分量で勝負していくわけですか。柳井:3分の1くらいでしょうね。ですから僕は、失敗しても会社が潰れなかったらいいと思うんです。そして失敗するんだったら早く失敗しないといけない。ビジネスというのは理論通り、計画通りには絶対いかないんです。だったら早く失敗して、早く考えて、早く修正する。僕はそれが成功の秘訣だと思います。*****************************************************************************<村上龍(群像日本の作家)3>図書館で『村上龍(群像日本の作家)』というムック本を、手にしたのです。ちょっと古い(群像日本の作家)シリーズであるが、写真も多く、切り口も多彩であり、なかなかのシリーズである。【村上龍(群像日本の作家)】ムック、小学館、1998年刊<出版社>よりドラッグ・セックス・ロック世代の青春を描き颯爽と登場した村上龍。いまデッドロックにのりあげた世紀末日本を根源から問い直す、もっとも先鋭的な作家のすべてを、同時代の作家・批評家が検証した初めてのアンソロジー。<読む前の大使寸評>ちょっと古い(群像日本の作家)シリーズであるが、写真も多く、切り口も多彩であり、なかなかのシリーズである。amazon村上龍(群像日本の作家)中上健次との対談「存在の耐えがたきサルサ」を、見てみましょう。<ジャズと快楽幻想>p211~213村上:ビートというと、ジャズとかロックというけど、モーツァルトにもありますからね、フッとした瞬間とか。もちろんバッハにもある。だから極端に言うと、メロディーも、リズムのあり方もビートから追っていく、そういうのが昔からあったんですよ。中上:だから、音楽をメロディーラインで追うんじゃなくて、リズムで追っていくという感じだな。村上:そうです。坂本からいつもバカにされるんだけども、メロディーは甘ったるいのが好きなんですよ、ほんとにもう感傷的なやつがね。中上:坂本龍一に関しては、もうちょっと後で言いたいね。 俺はクラシックとジャズという、しかもクラシックの一番古いものとジャズがぶつかった、そしてもう一つの俺の背景として、紀州の土俗的な世界とぶつかったというところがあるんだけどね。 日本の作家の場合、龍でリズムというのがはっきり出てきたんじゃないのかな。リズムということをすごく気にしているよね。気にしているというか、それが音楽の第一主義みたいなさ。ロックっていうのはまさにそうだよね。村上:ええ。中上:ロックのメロディーラインなんてバカみたいだよ。ロックのリズムは若くなくちゃできないようなあれだろ。村上:絶対そうですね。中上:絶対そうだよな。年取ったらあんなのは・・・。村上:心臓が丈夫でなきゃね。中上:そうだよな。ジャズは違うけど、ロックなんてさ。それをもって表現したというのは、君が初めてだからさ。村上:そうですかね。中上:うん。それはやっぱり地殻変動を起したよね。それは俺にもないところだったよ。俺はものすごく面白いと思った。村上:それはあれとは違うのかな。中上さんから最初に言われた、「」とか、「」って。あれとは違うんですか。中上:あれとは違う。村上:俺、いまでも気になるんだよね。リアリズム好きだから。映画でも小説でもリアリズムが好きなんですよ。中上:それと違うよ。俺、対談を読み直したら、「これラリって書いたの?」と訊いたら、「中上さん、ヌーヴェル・ヴァーグの画面あるでしょ。こっち側があって、向こうがあって、全く等価に見えるみたいのがあるじゃないですか」って、君はちゃんと切り返しているよ。村上:ちゃんと言ってますか。中上:言ってるよ。あれは25歳ぐらいか。村上:まだ24歳かもしれないですよ。中上:それが悪いなんて言ってないぜ。君の小説はこうだって一応措定する、君はこういう書き方している、村上龍という新しい作家はこういう書き方している、つまり俺にはこう見えるということを言う。それはいいか悪いかとは別なんだよ。俺はそういうことで言ったんだけどさ。ちゃんと答えている。村上:言われたから言うわけじゃないけど、ああいうところはあんまり自分でも好きじゃないんです。たとえばあるところを描写するときに、きれいな映画のパンというのはきちんとビーンといくんですね。ダメなやつというのは、変に凝って、ホッと止めて、スッとズームしたりするの。小説の描写でも、そういうのってあんまり好きじゃないの。中上:ゴダールなんていうのはきれいに撮れるのをもう十分知ってて、つまりアップしたままパンをして、全部平面的に並べて撮るとか、そういうことをやったわけじゃない。村上:ゴダールは知ってたんですか。中上:知ってるよ。そう考えなきゃ面白くないもの。村上:そうですね。中上:そうだよ。村上:でも案外映画ってハードに拠るところが多いというか、状況に左右されるから、たとえばジム・ジャームッシュなんかでも、フィックスが多いったって、フィックスしかできないです、全部ロケ撮影だから。そういう中で、ゴダールにとって、あれしかなかったんじゃないかな。中上:そうだとしても、新鮮だった。それは言ってみれば機械の力だよ。ハードガソフトに影響を与え、どうしても新手法を発見させてしまうみたいな、そういうあれだからさ。村上:あ、そうか。中上:それはひとつもマイナスじゃない。(後略)
2019.02.15
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駅前のバザーでミヒャエル・エンデ著『モモ』という文庫本を、手にしたのです。お値段は100円という「持ってけ泥棒」値段であり、汚れもない状態であり・・・即、購入したのです。ぱらぱらとめくると・・・エンデ自筆の挿絵も載っていて、サービス満点でおます♪【モモ】ミヒャエル・エンデ著、岩波書店、2005年刊<「BOOK」データベース>より町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります…。「時間」とは何かを問う、エンデの名作。小学5・6年以上。<読む前の大使寸評>お値段は100円という「持ってけ泥棒」値段であり、汚れもない状態であり・・・即、購入したのです。ぱらぱらとめくると・・・エンデ自筆の挿絵も載っていて、サービス満点でおます♪rakutenモモアンチヒーローでもある灰色の男たちを、見てみましょう。p82~85<第二部 灰色の男たち><6章 インチキで人をまるめこむ計算> とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それをいっこうにふしぎとも思わないのです。この秘密とは・・・それは時間です。 時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、っだれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか1時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。 なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。 このことをだれよりよく知っていたのは、灰色の男たちでした。彼らほど1時間のねうち、1分のねうち、いやたった1秒のねうちさえ、よく知っているものはいませんでした。ただ彼らは、ちょうど吸血鬼が血の価値を知っているのとおなじに、彼らなりに時間のだいじさを理解し、彼らなりの時間のあつかい方をしました。 灰色の男たちは人間の時間にたいして、ある計画をくわだてていました。大々的な、慎重にねりあげた計画です。いちばん気をつけていたことは、じぶんたちの行動をだれにも気づかせないようにすることでした。彼らは目立たないように大都会の人びとのくらしのなかにしのびこんでいました。そして一歩一歩、だれにも気づかれずに、日ごとにふかくくいこんで、人間の心に手をのばしていました。 彼らは、じぶんたちのもくろみにあないそうな人間のことは、あいてがそれと気のつくずっとまえから、すっかり調べあげていました。そしてその人間をつかまえる潮どきを待つのです。その瞬間がおとずれるように、くふうもこらします。 たとえば、床屋のフージー氏の場合を見てみましょう。名高い理髪師というわけではありませんが、そのかいわいでは評判のいい床屋です。びんぼうでも、金もちでもありません。店は市の中心部にありますが、小さい店で、若い使用人をひとりおいていました。 ある日のこと、フージー氏は店の入口に立って、お客を待っていました。きょうは使用人は休みをとっていて、フージー氏ひとりです。道路にはねる雨をながめていました。いやな灰色の日です。フージー氏の気持ちも、灰色です。「おれの人生はこうしてすぎていくのか。」フージー氏は考えました。「はさみと、おしゃべりと、せっけんのあわの人生だ。おれはいったい生きていてなんになった? 死んでしまえば、まるでおれなんぞもともといなかったみたいに、人にわすれられてしまうんだ」 ほんとうは、フージー氏はべつにおしゃべりがきらいではありませんでした。むしろ、お客をあいてに長広舌をふるい、それについてのお客の意見をきくのがすきだったのです。はさみをチョキチョキやるのや、せっけんのあわをたてるのだって、いやなわけではありません。仕事はけっこうたのしかったし、うでに自信もありました。けれどそんなフージー氏にも、なにもかもがつまらなく思えるときがあります。そういうことは、だれにでもあるものです。「おれは人生をあやまった」フージー氏は考えました。「おれはなにものにもなれた? たかがけちな床屋じゃないか。おれだって、もしもちゃんとしたくらしができてたら、いまとはぜんぜんちがう人間になってたろうになあ!」 でも、このちゃんとしたくらしというのがどういうものかは、フージー氏にははっきりしていませんでした。なんとなくりっぱそうな生活、ぜいたくな生活、たとえば週刊誌にのっているようなしゃれた生活、そういうものをばくぜんと思いえがいていたにすぎません。ウーム 大人びた人生観がみえるけど・・・そのあたりが「小学5・6年以上」といわれる由縁でしょうね。ミヒャエル・エンデ著『モモ』2:ニコラとニノのけんかミヒャエル・エンデ著『モモ』1:円形劇場に住みついた
2019.06.11
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<『アイヌと縄文』3>図書館で『アイヌと縄文』という本を、手にしたのです。弥生文化を選択した現代日本人にとってのアイヌ人、縄文人という視点が、太子のツボに響くわけです。【アイヌと縄文】瀬川拓郎著、筑摩書房、2016年刊<「BOOK」データベース>よりアイヌこそが縄文人の正統な末裔であることが、最近のさまざまな研究や調査で明らかになっている。平地人となることを拒否し、北海道という山中にとどまって縄文の習俗を最後まで守り通したアイヌの人びと、その文化を見ていけば、日本列島人の原郷の思想が明らかになるにちがいない。交易、祭祀、葬制、遺跡とその遺物、言語などの多方面にわたる最新のアイヌ研究を総合し、弥生文化を選択した現代日本人にとって、ありえたかもしれないもうひとつの歴史を叙述する野心的試み。<読む前の大使寸評>弥生文化を選択した現代日本人にとってのアイヌ人、縄文人という視点が、太子のツボに響くわけです。rakutenアイヌと縄文「おわりに」で、別世界のアイヌを、見てみましょう。p221~223<おわりに>■山頂をめざす人びと 私が勤務する博物館の収蔵庫のなかで、長く気になってきた資料があります。 それは、北海道の尾根といわれる大雪山の小泉岳付近、標高2100メートル地点で採集された数十点の縄文時代の石器です。1924年から26年にかけて採集されたその石器は、数千年のあいだ風雨にさらされてきたことを物語るように表面が白く風化しています。 採集されたのは、高山植物の花畑が広がる美しい場所です。しかし、天候が急変しやすい2000メートル級の高山ですから、現代でもそれなりの装備がなければ登ることはできません。 縄文人はなぜそのような山頂に登ったのでしょうか。 調べてみると、山頂に石器が残された縄文時代の遺跡は、大雪山だけではなく本州の各地でも確認されていました。 山梨県甲斐駒ケ岳、栃木県男体山八合目、長野県八ヶ岳編笠山、同蓼科山のほか、標高1000メートル級の山であれば枚挙にいとまがありません。 ただし弥生時代から古墳時代には、このような高山の山頂遺跡は確認できません。高山にふたたび登頂の痕跡がみられるようになるのは奈良時代以降であり、その足跡を印したのは山岳信仰・山の神信仰をもつ修験者たちでした。 では、弥生時代になると山頂をめざす人びとはいなくなったのでしょうか。山岳とのかかわりが希薄な社会のなかで、修験者の山岳信仰が成立したとは考えられません。 弥生時代から古墳時代には集落に近い里山で祭祀の跡がみられますが、中部・北陸地方には、弥生時代前期から中期にかけて、山岳地帯と深いかかわりをもつ人びとのいたことが明らかになっています。石川県と岐阜県にまたがる標高2702メートルの白山や、長野県と岐阜県にまたがる標高3067メートルの御嶽山では、山麓に弥生時代の人びとの移動ルートが確認されているのです。その人びとは山中に暮らし、焼畑と狩猟をおもな生業としていたのではないかと考えられています。 かれらは石器のような痕跡を残さなかったものの、白山や御嶽山の山頂まで足を伸ばすことがあったかもしれません。縄文人の直接の末裔と単純に評価することはできないかもしれませんが、弥生文化に移行してもなお、狩猟をひとつの生業として山中に暮らし、高山地帯を渡り歩く人びとがみられたのです。■私たちの知らない、別の世界 松浦武四郎は、江戸時代の北海道をくまなく調査した探険家です。その『近世蝦夷人物誌』には、山中を住み家としながら、広大な北海道を漂白するアイヌの姿が記録されています。 上川盆地に住むイキツカは、幼少のころから山岳を駆けまわり、大雪山系を住み家としながら太平洋側の十勝、オホーツク海側の常呂、日本海側の天塩まで猟に歩き、15、16歳のころには山刀と発火具だけを手に、三年のあいだ山から帰らなかったといいます。 また同じ上川盆地のヲテコマは、山中にこもって冬から春のあいだはクマ、シカ、キツネ、テンを捕らえ、夏から秋にはサケ、マスを食糧とし、六年のあいだ里に帰らなかったといいます。『アイヌと縄文』2:ニブタニ時代(鎌倉時代以降)のアイヌ『アイヌと縄文』1:続縄文文化や水稲耕作
2019.08.25
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図書館に予約していた『雑草はなぜそこに生えているのか』という新書を、待つこと5日でゲットしたのです。いま森絵都著『カザアナ』という小説を読んでいるところだが・・・その小説では「病によき種をあてる草読」となっています。とにかく、野草あるいは雑草に目がいく昨今でおます。【雑草はなぜそこに生えているのか】稲垣栄洋著、筑摩書房、2018年刊<「BOOK」データベース>より「抜いても抜いても生えてくる、粘り強くてしぶとい」というイメージのある雑草だが、実はとても弱い植物だ。それゆえに生き残りをかけた驚くべき戦略をもっている。厳しい自然界を生きていくそのたくましさの秘密を紹介する。<読む前の大使寸評>いま森絵都著『カザアナ』という小説を読んでいるところだが・・・その小説では「病によき種をあてる草読」となっています。とにかく、野草あるいは雑草に目がいく昨今でおます。<図書館予約:(3/17予約、3/22受取)>amazon雑草はなぜそこに生えているのか「第二章 雑草は強くない」の冒頭を、見てみましょう。p24~26■雑草が持つ共通した特徴 一口に雑草と言っても、さまざまな種類がある。 しかし、「邪魔になりやすい植物」である雑草と呼ばれる植物には、ある共通した特徴がある。それは何だろう。 本を閉じて考えてみることにしよう。 雑草と呼ばれる植物には、さまざまな共通した特徴がある。その中でも、もっとも基本的な特徴は、「弱い植物である」ということだ。 もしかすると、意外な感じに思えるかも知れない。 私たちの周りを見回すと、雑草は強い植物であるような感じがする。「雑草のように強く」という言葉もあるくらいだ。 その雑草が「弱い植物である」とは、どういうことなのだろう。 そもそも、雑草が弱い植物であるとすれば、植物にとって「強さ」とはいったい何なのだろうか?■雑草は弱い? 「雑草が弱い」というのは、「競争に弱い」ということである。 自然界は、激しい生存競争が行われている。弱肉強食、適者生存が、自然界の激しい掟なのだ。それは植物の世界も同じである。 光を奪い合って、植物は競い合って上へ上へと伸びていく。そして、枝葉を広げて、遮蔽し合うのである。もし、この競争に敗れ去れば、他の植物の陰で光を受けられずに枯れてしまうことだろう。 戦いは地面の上だけではない。地面の下では、水や栄養分を奪い合って、さらに熾烈な戦いが繰り広げられている。植物は、太陽の光と水と土さえあれば生きられると言われるが、その光と水と土を奪い合って、激しい争いが繰り広げられているのである。 雑草と呼ばれる植物は、この競争に弱いのである。 どこにでも生えるように見える雑草だが、じつは多くの植物が生える森の中には生えることができない。豊かな森の環境は、植物が生存するのには適した場所である。しかし同時に、そこは激しい競争の場でもある。そのため、競争に弱い雑草は深い森の中に生えることができないのである。 雑草は弱い植物である。競争を挑んだところで、強い植物に勝つことはできない。そこで、雑草は強い植物が力を発揮するすることができないような場所を選んで生えているのである。 それが、道ばたや畑のような人間がいる特殊な場所なのだ。
2020.03.27
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図書館で『ウニはすごい バッタもすごい』という新書を手にしたのです。本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪ところで、帰って調べてみるとこの新書を借りたのは2度目だと判りました。で、この記事を(その6)とします。【ウニはすごい バッタもすごい】本川達雄著、中央公論新社 、2017年刊<「BOOK」データベース>よりハチは、硬軟自在の「クチクラ」という素材をバネにして、一秒間に数百回も羽ばたくことができる。アサリは天敵から攻撃を受けると、通常の筋肉より25倍も強い力を何時間でも出し続けられる「キャッチ筋」を使って殻を閉ざすー。いきものの体のつくりは、かたちも大きさも千差万別。バッタの跳躍、クラゲの毒針、ウシの反芻など、進化の過程で姿を変え、武器を身につけたいきものたちの、巧みな生存戦略に迫る。<読む前の大使寸評>本川さんの著書の素晴らしさは、前著『ゾウの時間 ネズミの時間』で、よく覚えていました♪rakutenウニはすごい バッタもすごい 「第4章 ヒトデはなぜ星形か」を、見てみましょう。この本の表紙に「デザインの生物学」というコピーがあるように、ヒトデの形に注目する著者の研究スタンスが見られるかも。p133~135 海中の「風景画」には、必ずウニやヒトデが描かれている。ウニもヒトデも、ここが生みだということを示す分かりやすいサインとして、画家に愛用されているのであないだろうか。この仲間は海にしかいない。体は結構大きくて、てのひらサイズはあるし、ほとんどが海底にたたずんで露出している。簡単に見つけられ、棘や星形は目立つ。他の動物門から容易に見分けがつき、とくに星形の体はユニークで美しい。 ヒトデは棘皮動物門に属する動物である。棘皮動物の原語はエキノデルマタ。エキノは棘、デルマは皮。棘皮は直訳である。ウニもこの仲間であり、「皮をかぶった棘をもつ動物」とは、ウニがイメージされている。 棘皮動物には五つの仲間がいる(括弧内は英名の直訳)。ウミユリ(海の百合)、ヒトデ(海の星)、ウニ(海のハリネズミ)、ナマコ(海の胡瓜)、クモヒトデ(壊れやすい星)の五つ。英名だと一つを除いて海がついている。これは棘皮動物がすべて海に住むことの反映である。 唯一名前に海のつかないクモヒトデは、ヒトデの腕がごく細くなってクモの脚のようだというので日本語ではクモヒトデであり、その腕にさわると簡単に切れてしまうため英語で「壊れやすい星」と呼ばれている。 この星形(五芒星の形)をしているのも棘皮動物の目立つ特徴である。ウミウリの仲間は大きくウミユリとウミシダに分かれているが、ウミシダの英語は「毛の生えた星」。ヒトデという和名も「人手」で、五本ののび出た腕をもつ特徴を指している。■棘皮動物の形 この仲間の目に見える特徴を、ヒトデとウニを例にとってざっと説明しておこう。 ・星形:なんと言っても目立つ特徴は、星形をした体。中央に口があり、そこから放射状に、五つの方向に体も器官ものび出た形をしている。その典型がヒトデで、円盤状の本体から、放射状に五本の腕がのびている。動物といえば、ふつう左右相称の細長い体をもっているものだ。口が前、肛門が後ろというふうにはっきりとした前後軸があり、その軸に沿って口を前にして進む。腹は下(地面側)、背は上である。 ところがヒトデの口は地面に向いており、歩いていくのは口とは直角の方向。これでは前後や背腹という、ふつうの動物を記載するやり方が通用しない。そこで棘皮動物の場合、口と管足のある面を口面、その反対側を反口面とし、この二つの面を、体を記載する際の基本とする。肛門は反口面の中央にある。 ・管足:ヒトデをもち上げてひっくり返して口面を見てみよう。口から腕の先端まで、腕の中央を通って溝が走っている。これが歩帯溝。しばらくヒトデをもち上げ続けていると、溝が開いて、中から透明で小さな管がたくさんのび出してきてうごめきはじめるだろう。これが管足。ヒトデの足であり、これで歩く。『ウニはすごい バッタもすごい』1:昆虫の骨格p34~35『ウニはすごい バッタもすごい』2:昆虫と水の関係p69~71『ウニはすごい バッタもすごい』3:巻貝の構造p99~104『ウニはすごい バッタもすごい』4:飛翔の仕組みp50~52『ウニはすごい バッタもすごい』5:棘皮動物p211~214『ウニはすごい バッタもすごい』6:サンゴの共生p16~21
2021.04.09
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図書館で予約していた『中国の大盗賊』という本を待つこと5日でゲットしたのです。共産党の中国とは盗賊王朝とのこと・・・これは読むっきゃないで。【中国の大盗賊】高島俊男著、講談社、2004年刊<「BOOK」データベース>より昔、中国に「盗賊」というものがいた。いつでもいたし、どこにでもいた。日本のどろぼうとはちょっとちがう。中国の「盗賊」はかならず集団である。これが力をたのんで村や町を襲い、食料や金や女を奪う。へんぴな田舎のほうでコソコソやっているようなのは、めんどうだから当局もほうっておく。 ところがそのうちに大きくなって、都市を一つ占拠して居坐ったりすると、なかなか手がつけられなくなる。さらに大きくなって、一地方、日本のいくつかの県をあわせたくらいの地域を支配したなんてのは史上いくらでも例がある。しまいには国都を狙い、天下を狙う。実際に天下を取ってしまったというのも、また例にとぼしくないのである。幻の原稿150枚を完全復元。 共産党の中国とは盗賊王朝である。劉邦から毛沢東まで伝説の完全版がよみがえる。<読む前の大使寸評>共産党の中国とは盗賊王朝とのこと・・・これは読むっきゃないで。<図書館予約:(8/01予約、8/06受取)>rakuten中国の大盗賊長征毛沢東の続きで長征あたりを、見てみましょう。p288~290■長征 李自成は南へ逃げたが紅軍は西の人煙まれな地域へむかって逃げた。人煙まれな地域は、自然条件はきびしいし、食いものもとぼしいが、それだけに敵の大部隊もいないから、そっちへ逃げたのである。 ただし根拠地好きの毛沢東は中華ソヴェトを放棄して逃げるのには反対だったが、中央委員会が移ってきてからは、地位をはずされてそれこそ窓際族になっていたので、根拠地撤退を決めた会議には出ていなかった。 逃避行が始まってまもなく、1935年の初めに貴州の遵義という所で会議があり、ここで毛沢東は、こういうみじめなことになったのはトップの軍事指導がまちがっていたからだと、総書記の博古を引きずりおろした。周恩来は形勢を見てとって毛沢東のほうに乗りかえた。毛沢東が博古に勝てたのは、周恩来が大事な時に毛沢東に寝返ったからだと現在の中国では評価されている(〇)。 周恩来あこの時まで党中央軍事委員会の主任で、毛沢東の直接の上司だったのだが、この時から忠実な取り巻きになって、以後40年、死ぬまで重用されることになる。なお、文化大革命の際にも、決定的瞬間に毛沢東を支持して劉少奇を死地におとしいれたのはよく知られるところだ。「不倒翁」(おきあがりこぼし)と言われるゆえんだ。 今日の中国では「偉大な遵義会議」と称して、この時から毛沢東が党と軍の指導権を一手に握ったと言っているが、それは必ずしもそうではない。 というのは、共産党の最高クラスの幹部が全部「長征」に加わっていたのではなく、王明というのがモスクワにいるし、張国濤というのが四川省のほうで自分の根拠地を持っているし、それに何といっても中国共産党は国際共産党(コミンテルン)の支部であって、本部のモスクワに大親分のスターリンがいる。 中国共産党が完全に毛沢東のものになるのは、王明を倒し、張国濤を倒し、国際共産党が解散する1943年、・・・まだ十年も先である。 「長征」に参加した紅軍というのは、全部が初めからしまいまで行動を共にしたのではなく、別のコースへわかれて行くのもあるし、ほかの根拠地から出発したのが途中から合流してくるのもあるし、なかなか複雑なのであるが、毛沢東の主力についていえば、中国の西の端をぐるりと大まわりして、1年後の1935年末に、北西の陝西省の根拠地にたどりつき、その後延安を中心とする「解放区」を作った。 毛沢東にとって「長征」の旅は、もちろんたいへん苦しい旅だったが、一面来る日も来る日も馬に乗ってトボトボと進むという退屈な旅でもあった。「七割の力を党の勢力の拡大に、二割を国民党との対抗に、一割を日本との戦いに」というのが毛沢東の方針だったと言われているそうで・・・思想的な裏付けがあるわけではなくて、農民的な深慮遠謀だったようです。『中国の大盗賊』3:李自成『中国の大盗賊』2:毛沢東『中国の大盗賊』1:「盗賊」とはどういうものか
2021.08.12
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<中沢新一の世界R2>図書館で中沢新一著『アースダイバー 東京の聖地』を借りて読んでいるのだが・・・・これまで、中沢新一の著作をかなり読んでいたことに気付いたのです。で、それらの著作や中沢新一関連本を並べてみます。・アースダイバー 東京の聖地(2017年)・大阪アースダイバー(2012年)・東方的(2012年)・僕の叔父さん網野善彦(2001年)・『見えるものと観えないもの』(1997年)・『ブックライフ自由自在』(1997年)・南方マンダラ(1991年)・蜜の流れる博士(1979年)R2:『見えるものと観えないもの』を追加<『アースダイバー 東京の聖地』5>図書館で『アースダイバー 東京の聖地』という本を、手にしたのです。「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。【アースダイバー 東京の聖地】中沢新一著、講談社、2017年刊<「BOOK」データベース>より海民の二千年の知恵=築地市場、太古の無意識の現出=明治神宮。この二つの場所には、日本人の思考が「聖地」に見出してきた空間の構成原理が、ほとんど純粋な状態で実現されている。その二つの生きた聖地が、深刻な危機に直面したのである。金銭にかえられない「愛」と「富」のありか。建築家・伊東豊雄氏との対談2編収録。<読む前の大使寸評>「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。rakutenアースダイバー 東京の聖地『アースダイバー 東京の聖地』5:築地市場移転問題『アースダイバー 東京の聖地』4:日本型流通システム『アースダイバー 東京の聖地』3:江戸の魚河岸『アースダイバー 東京の聖地』2:魚河岸文化の原型『アースダイバー 東京の聖地』1:関西の魚河岸文化【大阪アースダイバー】中沢新一著、講談社、2012年刊<「BOOK」データベース>より南方と半島からの「海民」が先住民と出会い、砂州の上に融通無碍な商いの都が誕生・発展する。上町台地=南北軸と住吉~四天王寺~生駒=東西軸が交差する大地の一大叙事詩を歌いあげる。<読む前の大使寸評>内容はディープな大阪案内であるが、切り口と本のタイトルが斬新なんですね♪だいたい「ジャンジャン横丁のデュシャンたち」とか「ナニワのミトコンドリア戦略」とかいう切り口は、誰も設けないですよ。rakuten大阪アースダイバー<『東方的』4>図書館で中沢新一著『東方的』という本を手にしたが・・・・目次を見ると、多彩なテーマが並んでいて、何が語られるのか、興味深いのです。【東方的】中沢新一著、講談社、2012年刊<「BOOK」データベース>よりボストークー東の方。人間を乗せた最初の宇宙船の名前である。偉大なる叡智=ソフィアは、科学技術文明と近代資本主義が世界を覆い尽くす時こそが、真実の危機だと告げる。バルトーク、四次元、熊楠、マンダラ、シャーマニズム、製鉄技術、方言、映画とイヨマンテ…。多様なテーマで通底する「無意識」に、豊饒な叡智を探求する。<大使寸評>スラブ民族や熊楠曼荼羅など、果ては四次元的推論まで縦横無尽に書きつくす(あるいは書き散らす?)中沢さんの頭の中は、どうなっているのだろうと、驚いたのです。shogakukan東方的『東方的』4『東方的』3『東方的』2『東方的』1<僕の叔父さん網野善彦>図書館で『僕の叔父さん網野善彦』という新書を手にしたが…おお 中沢新一の本ではないか♪ 最近読んだ『東方的』という本が良かったので、この本もいけるかも。【僕の叔父さん網野善彦】中沢新一著、集英社、2001年刊<「BOOK」データベース>より日本の歴史学に新たな視点を取り入れ、中世の意味を大きく転換させた偉大な歴史学者・網野善彦が逝った。数多くの追悼文が書かれたが、本書の著者ほどその任にふさわしい者はいない。なぜなら網野が中沢の叔父(父の妹の夫)であり、このふたりは著者の幼い頃から濃密な時間を共有してきたからだ。それは学問であり人生であり、ついには友情でもあった。切ないほどの愛を込めて綴る「僕と叔父さん」の物語。【目次】第1章 『蒙古襲来』まで(アマルコルド(私は思い出す)/民衆史のレッスン ほか)/第2章 アジールの側に立つ歴史学(『無縁・公界・楽』の頃/若き平泉澄の知的冒険ー対馬のアジール ほか)/第3章 天皇制との格闘(コミュニストの子供/昭和天皇に出会った日 ほか)/終章 別れの言葉<読む前の大使寸評>最近読んだ中沢さんの『東方的』という本が良かったので、この本もいけるかも。rakuten僕の叔父さん網野善彦『僕の叔父さん網野善彦』1【見えるものと観えないもの】横尾忠則著、筑摩書房、1997年刊<「BOOK」データベース>より最近数年間の著者の過激かつ超絶した対談を集成して、世紀末の狂気と不安と美とを、ことばによって描破する。【目次】生の死と芸術と(淀川長治)/想いはエネルギーです(吉本ばなな)/宇宙の愛(中沢新一)/見えるものと見えないもの(栗本慎一郎)/夢は霊感の源泉(河合隼雄)/宇宙と狂気と愛と(荒俣宏)/ヴィジョンの降臨(草間弥生)/芸術家は畸人たれ(梅原猛)/想念の池にて遊ばむ(島田雅彦)/アートは異界への扉だ(天野祐吉)/芸術は真摯な遊び(黒沢明)<読む前の大使寸評>横尾さんの対談集であるが・・・登場する対談者とアート、宗教、映画、思想などを語っていて、ええでぇ♪<図書館予約:(5/16予約、副本3、予約1)>rakuten見えるものと観えないもの『見えるものと観えないもの』1 で、天使などが語られているのでお奨めです。【ブックライフ自由自在】荒俣宏著、集英社、1997年刊<「BOOK」データベース>より「よい古本に巡り合うのはむずかしい、生涯の恋人に巡り合うほうがよっぽどやさしい」とのたまう貧書生ことアラマタの、悲しくもおかしい古本まみれの人生の来し方。本を愛し、本に癒され、本に囚われたる日々の、知的悦楽に満ちた告白的読書日誌。他に、いかによき古本を手に入れるか、ノウハウをも伝授する。<読む前の大使寸評>この本になんか既視感を感じたが、まいいかと借りたわけで、帰って調べてみると、やはり二度借りでした。・・・で、その4にしています。rakutenブックライフ自由自在荒俣さんと中沢さんは似た者同士というか、お友達のようです。『ブックライフ自由自在』4:蒲原までの旅(続き)p59~62<『南方マンダラ』4>図書館に予約していた『南方マンダラ』という本を、待つこと1ヵ月でゲットしたのです。ぱらぱとめくると、自然科学や民俗学や宗教など、まるで万華鏡のような有様で・・・知の巨人の秘密の一端でも見えるかも♪【南方マンダラ】南方熊楠, 中沢新一著、河出書房新社、1991年刊<商品の説明>より世紀を超えてなお知の巨大な風貌をとどめる南方熊楠。日本人の可能性の極限を拓いた巨人の中心思想=南方マンダラを解き明かす。中沢新一の書き下ろし解題を手がかりに熊楠の奥深い森に分け入る。<読む前の大使寸評>ぱらぱとめくると、自然科学や民俗学や宗教など、まるで万華鏡のような有様で・・・知の巨人の秘密の一端でも見えるかも♪<図書館予約:(5/12予約、6/16受取)>amazon南方マンダラ『南方マンダラ』1『南方マンダラ』2『南方マンダラ』3<『蜜の流れる博士』5>図書館で『蜜の流れる博士』という本を、手にしたのです。目次を見てみると、南方熊楠をメインテーマに据えた随筆のようである。ぱらぱらとめくると「ブレードランナー」を絡めて博物学、民俗学を語ったりして・・・ええやんけ♪【蜜の流れる博士】中沢新一著、せりか書房、1989年刊<「BOOK」データベース>より古書につきデータなし<読む前の大使寸評>目次を見てみると、南方熊楠をメインテーマに据えた随筆のようである。ぱらぱらとめくると「ブレードランナー」を絡めて博物学、民俗学を語ったりして・・・ええやんけ♪amazon蜜の流れる博士『蜜の流れる博士』1『蜜の流れる博士』2『蜜の流れる博士』3『蜜の流れる博士』4
2023.06.04
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図書館で『写真で見る満州全史』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると・・・まさにタイトルにあるとおり写真が満載のビジュアル本となっているのが、ええでぇ♪【写真で見る満州全史】太平洋戦争研究会, 平塚柾緒著、河出書房新社、2018年刊<「BOOK」データベース>より日本は大陸で何をしようとしたのか?…「幻の帝国」の前史から崩壊後まで!満鉄・関東軍・満州事変・満州国誕生・日本人街・開拓移民団・帝国崩壊・シベリア抑留・負の遺産…私たち日本人が今知るべき歴史!【目次】消えた帝国を歩くー現在も姿をとどめる「満州」残影/第1章 満鉄と関東軍/第2章 満州事変/第3章 関東軍の満州支配/第4章 日本人が住んだ街/第5章 満州帝国の繁栄と崩壊<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・まさにタイトルにあるとおり写真が満載のビジュアル本となっているのが、ええでぇ♪rakuten写真で見る満州全史柳条湖付近の爆破地点でのリットン調査団一行「第3章 関東軍の満州支配」からラストエンペラー・溥儀について、見てみましょう。<皇帝・溥儀と満州帝国>p102~103■国の運命を決した建国5日後の密約 昭和7年3月1日、世界の視線が上海事変に引き寄せられている間隙を縫って、「五族協和」「王道楽土」を掲げて「満州国」は誕生した。しかし満州国の運命は、早くも建国式が行われた数日後には決定されてしまった。 昭和7年3月9日の執政就任式を前に、溥儀は一通の書簡に署名している(3月6日)。これは関東軍司令官と交わした重大な密約であった。 内容は次のようなものであった。一、満州国の治安維持および国防は日本軍に委ねる。一、国防上必要な鉄道、港湾、水路、航空路の管理、ならびに新設はすべて日本に委ねる。一、日本人を満州国参事に任じ、中央、地方の官署にも、日本人を任用する。その選任、解任は関東軍司令官の同意を必要とする。 このように満州国は、最初から骨抜き状態で誕生した見せかけの“独立国家”だったのである。ところが、この密約は鄭考胥が勝手に結んだもので、自分は5カ月後になった初めて知らされたと溥儀は『わが半生』に記している。しかし、これは偽りであろう。彼は将来の皇帝就任という確約と引きかえに、新国家の重要な諸権利を引き渡したのである。 昭和7年9月15日、日本政府は正式に満州国を承認、両国の間に「日満議定書」が結ばれる。公表された「議定書」の本文には、「日本の既得権の尊重」「日満の共同防衛」、この二ヶ条しか見られない。しかし、付属協定として先の密約も認め合っていたのだ。それが世人の前に明らかにされたのは、戦後のことである。 後世に売国奴のそしりをまぬがれないと怖れたのだろうか、議定書調印式の満州国代表・鄭考胥総理は、挨拶をうながされても「いたずらに口をもぐもぐさせ、顔面神経をぴりぴり動かし泣かんばかりの」表情を見せるだけで、ひと言も発しなかったという。 ■「五族協和」のスローガンも虚しく 満州国では執政・溥儀を元首とし、国務院という組織が行政の中心とされた。国務院のトップが、すなわち首相である。清朝時代から溥儀の側近ナンバーワンである鄭考胥が、初代の国務総理に任命されていた。 しかし鄭は乗り気ではなく、何回も「辞職したい」と申し出ている。「日満議定書」調印日の6日前にも「今度こそ」と突然いいだし、自宅に閉じこもって登庁しなくなった。あわてた関東軍は、岡村寧次参謀副長を新京に向かわせ、何とか翻意させるというドタバタ劇を演じる。「駒井徳三総務長官の横暴ぶりにがまんできない」ことに、その辞意は発していた。国務総理とは言っても“飾り物”にすぎず、政府の実験は日本人の総務長官が握っていたのだ。ことに駒井は二月に馬占山を帰順させるなど、自らの政治手腕に酔い、大変な高飛車ぶりだった。 駒井について溥儀はこう記している。「当時日本の雑誌『改造』は、公然と彼を『満州国総務総理』『新国家の内閣総理大臣』と呼んだ。駒井は元『満鉄』につとめていた男で、(略)東京の軍務と財閥の目にとまり、『中国通』とみなされたのだということだった」「彼の目から見た最高の上司はもちろん関東軍司令官であり、私という名目上の執政ではなかった」満州国についてはNHKの『プレミアムA「満州 アヘンでできた“理想郷”」がお奨めです。
2023.07.17
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図書館で『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』という本を、手にしたのです。終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。【秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争】井上祐子著、みずき書林、2018年刊<「BOOK」データベース>より戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのかー。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介。陸軍参謀本部傘下の写真工房“東方社”の実像に迫るとともに、当時の日本・中国・東南アジア各国の変動していく社会をとらえる。<読む前の大使寸評>終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。rakuten秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争「第2部 東南アジア編」から占領初期のマラヤ・シンガポールを、見てみましょう。p100~101<第1章 1942年マラヤ・シンガポール取材:光墨弘> 1941年12月8日のアジア・太平洋戦争開戦から約半年で、日本軍は欧米の植民地であった東南アジア各国の攻略に成功し、各地に軍政を敷いた。日本軍は南方占領地に対して、基本的には「残存統治機構を利用し、従来の組織及民族的慣行を尊重」(大本営陸軍部「南方作戦に伴う占領地統治要綱」1941年11月)する方針をとったが、軍政のあり方は、国、地域により違いがあり、また戦局の推移にともなって変化していった。 しかし、いずれにせよ南方軍政の要諦は、「治安の回復」、「重要国防資源の急速獲得」、「作戦軍の自活確保」にあり、現地住民の民生は軽視された。日本は、アジア・太平洋戦争の目的として、欧米支配下にあるアジア諸民族の解放を唱えたが、日本軍の支配の下で、各国とも現地住民はさまざまな苦しみを味わうこととなった。 イギリスのアジア支配の中心地であったシンガポールは、日本軍の最大の攻略目標のひとつであり、陸軍は真珠湾攻撃の約2時間前にマレー半島への奇襲上陸作戦を開始した。アジア・太平洋戦争が対英戦争でもあったことは忘れがちであるが、日本軍は真珠湾攻撃で対米戦争を開始するとともに、マレー攻略作戦も開始しており、真珠湾攻撃より一足先にイギリス領コタバルへの上陸に成功していた。 マレー半島を“銀輪部隊”などで縦断し、1942年2月15日にシンガポールを占領した日本軍は、シンガポールを南方軍政の拠点とし、シンガポール島を昭南島と改称、行政府として昭南特別市設置した。 そして、資源の豊富なマレー半島とともに同地を敗戦まで日本の直接統治下においた。 光墨弘(みつずみひろし)は、1941年11月に陸軍宣伝班に徴用され、マラヤ・シンガポール方面に赴任した。航空部隊付報道班員となった彼は、マラヤ・シンガポール各地で写真撮影を行い、42年末に徴用解除となって帰国する。44年には、この時撮影した写真を集めて、『南方報道写真集マライ』(東亜文化書房)を刊行した。 「東方社コレクション」の中に、同写真集に掲載されている写真と同じものが79点あり、光墨が報道班員として撮影したと思われる写真ネガが、それらを含み788枚存在する。 その大半がシンガポールで撮影されたものであり、『FRONT』「インド号」にも1点利用されている。この写真群が東方社の写真とともに保管されていた経緯は明らかではないが、占領初期のマラヤ・シンガポールの状況を記録した貴重な写真であるので、本章でその一部を紹介したい。 光墨はシンガポールで行われた各種行事や街の様子などをとらえているが、人口の約四分の三を占める中国人の姿は、該当風景に少し見られるだけで非常に少ない。マラヤ・シンガポールでは日本軍は民族ごとに統治方針を決定しており、マレー人やインド人は比較的優遇されたが、シンガポールが華僑の抗日運動の拠点であったため、中国人に対しては強圧的な施策をとっていた。中国人の写真が少ないのは、その影響であるかもしれない。<第1節 軍関係の視察・行事・作業〈ラッフルズ像の撤去作業〉は、トーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿の銅像を、インド系の現地住民たちが撤去する様子をとらえたもので、1942年9月に撮影された。ラッフルズは、シンガポールを貿易の中継地として好適と考え、同地をイギリスの植民地とした立役者である。インド系住民たちがその銅像を撤去する様子は、イギリス支配の終焉を象徴するものであるが、一連の写真からは、作業が丁寧に進められていたことも見てとれる。 撤去作業の様子は、『写真週報』250号「ラッフルス博物館に入る」でも紹介された。銅像の後ろの建物(現ビクトリア・シアター)は、シンガポール市政庁・市公会堂であったが、日本軍占領後は、写真の看板に見えるように日本軍の「やせんいうびんたい」(野戦郵便隊)として使われた。なお撤去されたラッフルズ像は、このあと昭南博物館に移された。光墨は昭南博物館に設置される様子も撮影している。 日本軍は、シンガポール争奪戦の山場となったブキテマ高地を、占領後「武威山」と名付け、そこに忠霊塔を建てた。〈忠霊塔の除幕式〉は、1942年9月10日に行われた、その忠霊塔の除幕式の模様である。小高い山に建てられた忠霊塔は、それを見上げるシンガポール市民たちに支配者が日本であることを示すための装置でもあり、ラッフルズ像の撤去と一体となって支配者の交代を強く意識させるものであった。
2023.08.10
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図書館で『BOOK MARK 2』という本を、手にしたのです。いわゆるブックガイドであるが・・・翻訳者によるガイドとなっているので、ブレイディみかこ、多和田葉子の作品とか、村上春樹訳の作品が載っていて、私のツボがうずくわけでおます♪【BOOK MARK 2】川原瑞人、他著、CCCメディアハウス、2023年刊<「BOOK」データベース>より知らないなんて、もったいない。見たことのない世界、違う価値観、あとをひく楽しさ。だから、翻訳物はおもしろい。いまこそ手に取りたい169冊。<読む前の大使寸評>翻訳者によるガイドとなっているので、ブレイディみかこ、多和田葉子の作品とか、村上春樹訳の作品が載っていて、私のツボがうずくわけでおます♪rakutenBOOK MARK 2「16 ノンフィクション特集」からブレイディみかこさんの作品を見てみましょう。p71~73<現実こそオチがつく:ブレイディみかこ> 事実は小説より奇なり、という使い古された言葉を、これほど世界の人々が切実に感じている年もないのではないか。英国でも、ジョンソン首相が映画のワンシーンさながらの劇的な演説で英国のロックダウンを宣言したかと思ったら、自らコロナに感染し、集中治療室に運ばれるというドラマが起きた。 退院後、ジョンソン首相は、自分が生死の境を彷徨っていたときに昼夜を徹して世話をしてくれた2人の看護師を名指しで讃え、感謝した。一人はニュージーランド出身、もう一人はポルトガル出身だった。 彼は4年前にEU離脱国民投票が行われたとき離脱派のリーダーとして移民制限を訴え、排外主義的な発言で問題になったことのある人だ。また、離脱すれば巨額のEUへの拠出金が浮くので、それをNHS(国民保健サービス)に投資できるという主張を繰り返し、それがデマだと判明しても謝罪しなかった。 そのジョンソン首相が、NHSの移民の看護師たちに命を救われて感謝する映像を発表した。どんな小説家でもこんなに見事なオチをつけることはできないだろう。あまりにも伏線を回収し過ぎているからだ。現実は、たまに恥ずかしげもなくこういうことをする。拙著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』に登場した子どもたちにも、ロックダウンの影響を受け、ずっと家でオンライン授業を受けている。9年生(13歳~14歳)の国語の課題は、「ジョージ・オーウェルの『動物農場』のように動物たちを主人公にして、コロナ危機における人間についてのアレゴリーを書きなさい」というものだ。案の定、「首相のことを描いている子が多いみたい」と息子は言っていた。 良くできた実話はアレゴリーになり、小説になっていく。ノンフィクションがあってフィクションがある、という順番がわたしの持論だが、両者の関係は姉妹のようでもある。一見、妹のほうが派手で面白そうだが、地味な姉が奇なる姿を見せるときには妹はかなわない。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』6
2023.10.07
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図書館で『台湾のことがマンガで3時間でわかる本』という本を手にしたのです。台湾といえば・・・中国、韓国と違って、哈日族が生まれるたりするように日本が好きな連中が多いし、私も台湾が好きなわけです。【台湾のことがマンガで3時間でわかる本】西川靖章×横山憲夫著、明日香出版社、2015年刊<「BOOK」データベース>より世界で一番「好日」な人々。日本の文化と人々がこよなく好まれすでに多くの日系企業が進出し中国本土と太いビジネスのパイプがつながり中国にはない「好日」「自由」「先進国文化」がある。出るなら今!中国、アジア進出の第一歩は安心安全な台湾に決まり!<読む前の大使寸評>台湾といえば・・・中国、韓国と違って、哈日族が生まれるたりするように日本が好きな連中が多いし、私も台湾が好きなわけです。rakuten台湾のことがマンガで3時間でわかる本まず台湾料理にふれたあたりから、見てみましょう。p202~203<台湾の食事>■外食・中食が一般的 台湾は共働き家庭が多いため、外食・中食文化が発達しています。1日3食がすべて外食という家庭も珍しくありません。1日3食すべて外食という家庭も珍しくありません。朝、街には朝食専門の屋台が出てサンドイッチ・ネギ餅などを手ごろな価格で売り、人気の豆乳店には長蛇の列ができていることもしばしばです。 出勤・登校中に昼食を買い、昼は職場近くか学校の食堂で食べ、夜は帰り道にあるショッピングモールのフードコート等ですませるようなライフスタイルが一般的なので、週末以外、家族が皆別々の時間に別々の場所で食事することも珍しくありません。 家で食べる場合も、外で買ってくる人が多いので、多くのレストランで、まず店に寄ると「店内で食べるのか持ち帰りなのか」聞かれるほど、持ち帰りも一般的です。高級レストランでも、食べきれなかった食事を持ち帰りすること(打包)ができます。■キッチンは観賞用 自炊の必要がないので単身者向けにはキッチンが装備されていない部屋も多く、ファミリータイプも部屋でも、キッチンはモデルルームのようにピカピカで生活感が全くないのを目にすることがあります。台湾人にとってキッチンは、客人に豪華な設備を見せびらかす場所という側面もあるのです。 ■日本食も人気 台湾では日本食の人気も高く、定食屋を始めとして寿司屋、懐石、ラーメン、焼き肉と数多くの日系外食店が進出しています。特にラーメン店は近年人気が高く、連日行列ができる店もあります。以前は日本のラーメンはしょっぱすぎると言う台湾人が多かったのですが、10代~20代の若者を中心に日本のラーメンの味が受け入れられつつあります。 ただ、どの形態も日本より高級路線で台湾の物価水準から見ると高めの設定で日本の価格とほぼ変わらないか少し高いくらいの価格で販売されています。この本も台湾あれこれに収めておくものとします。
2023.12.23
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図書館で『世界SF作家会議』という本を、手にしたのです。世界SF作家会議ってか・・・面白そうではないか♪*********************************************************【世界SF作家会議】フジテレビ/早川書房編集部【編】、早川書房、2021年刊<出版社>より新井素子、冲方丁、小川哲、高山羽根子、樋口恭介、藤井太洋という現代日本を代表するSF作家が集結。緊急会議を行い、全人類に突きつけられた課題を徹底討論する。劉慈欣、ケン・リュウほか海外SF作家が緊急参加、提言を行う。司会:いとうせいこう、大森望<読む前の大使寸評>追って記入kinokuniya世界SF作家会議いとう:大森:まず「第1回 世界SF作家会議」で司会のいとうせいこうさんと顧問の大森望さんの対談を、見てみましょう。p11~13<第1回 世界SF作家会議>いとう:こんばんわ、いとうせいこうです。世界SF作家会議、はじまりました。新型コロナウイルスが話題になっていますが、これによって世界が今どういうふうに変わっていくのかかを最もよく知るには、SF作家に集まってもらうしかないんじゃないかと思っておりまして、SF作家の想像力に期待しております。お隣は、世界SF作家会議顧問、大森望さんです。よろしくお願いいたします。大森:顧問の大森です。よろしくお願いします。いとう:確かに、70年代ぐらいまでは、世界の問題はSF作家がよく発言していましたし、訊かれていましたね。大森:そうですね。テレビでもSF作家の人が、アポロが月に着陸してこの先このどうなりますかとか、訊かれてコメントするのが仕事みたいな。いとう:80年代ぐらいから訊かれなくなってしまったのかなと。なんでだかはわからないですけれども。その精神に立ち返ってやってみたいと思います。SF作家は日々、未来のことを考えているのが仕事ですから、『未来のプロ』ともいえるわけで。アフターコロナの世界はどのようになるのか、SF作家の皆さんに考えていただきたいと思います。われわれのやっていることは意義あることなんですよね。大森:もちろんです。どんな突拍子もないアイデアがSF作家から出てくるのか楽しみですね。普通の人が考えないようなことを考えることが仕事なので、なにそれ? と思うようなこともあるかもしれませんが、それがSF作家の役目ですから。いとう:5年、10年して、その通りだったということもいろいろあると思います。大森:千年後に正しかったとわかるとか。地質年代で考えるとか。小松左京さんがよくおっしゃっていましたけど、一億年もすれば人類の痕跡なんて消えてなくなるんだから、地球の歴史にとっては環境問題なんて屁でもないと。いとう:大幅にとりましたね。大森:それぐらいのスケールになるとどうでもよくなるという。いとう:SF作家が一堂に会するといえば、いま小松左京さんの話も出ましたが、今から50年前の大阪万博の時に世界中のSF作家が集まったというのがありましたよね。大森:国際SFシンポジウムですね。当時まだ、鉄のカーテンというのがあって、西側のSF作家が東側のSF作家と会うことは一切なかった。ところが、万博の年の日本で、英米カナダのSF作家とソ連のSF作家が史上初めて同席したんです。いまから50年前、そういう歴史的なイベントが日本で行われていたんですね。いとう:先見的じゃないですか。大森:そうです。このシンポジウムのために来日した、『2001年宇宙の旅』で有名なアーサー・C・クラークが小松左京とテレビで対談したりね。いとう:すごいですね。それから50年ですか、本当にもう一度SF作家の頭脳に頼るときがきたということで、今宵、世界SF作家会議に参加する作家の皆さんをご紹介いたしましょう。
2024.08.27
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図書館で『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』という本を手にしたのです。この本の表紙に「カラー版」の表記がある通りで・・・まったくカラー画像満載となっていて絵本と呼んでも間違っておりません♪<table border="1"><tbody><tr><td width="550" height="50">【1時間でわかるアイヌの文化と歴史】webp画像につき開示できず瀬川拓郎 著 宝島社 、2019年刊<「BOOK」データベース>より神(カムイ)である自然と共生する文化。貴重なビジュアル満載!日本文化のルーツがわかる、あなたの知らないアイヌ!イラスト・写真130点。 <読む前の大使寸評> 追って記入rakuten<a href="https://books.rakuten.co.jp/rb/15906283/">1時間でわかるアイヌの文化と歴史</a></td></tr></tbody></table>「第二章 アイヌと自然」が興味深いので、気になる動物たちを見てみましょう。</a><TABLE border="1"><TR><TD width="550" height="50">p54~62<font color="brown">コタンコロカムイ(島梟・シマフクロウ)</font> 北海道の大自然を象徴する存在のシマフクロウは、現在では、主に北海道東部に少数が生息するのみであるが、かつては全道に生息し、神として崇拝された。シマフクロウのアイヌ語名コタンコロカムイ(村を持つ神) は、重低音の鳴き声で魔を追い払うという信仰に根差したものと考えられている。 各地に伝承されるウポポ(輪唱)の歌詞「チュブカ ワ カムイ ラン イワ テクサム オラン」(東方より神は下る 岩角に降りる)は、シマフクロウが降り立つ場面を描写しているとされる。 神であるシマフクロウに対しては、クマ同様に送り儀礼を執り行う。鳥かごで大雪に飼ったシマフクロウを止まり木に止まらせ、二人の翁が支える周りで村人が踊り唄う。クマのイオマンテ同様に肉体と魂を分離し、肉体は羽毛と肉に分けたうえでイナウを仕込んで「剥製」を作る。 その剥製に酒を捧げ丁重に祈って、神の復活を願った。シマフクロウのイオマンテは作法が厳しく、村人全員が出席できるわけではない。そのため次第にすたれていった。(中略)<font color="brown">カムイチェプ(鮭・サケ)</font> サケはアイヌ語でカムイチェプ(神の魚)、あるいはシペ(本来の食物)。アイヌの信仰では、チェプランケカムイ(魚を降ろす神)が袋から海にサケを撒いて人間に施すとされる。神の魚だからこそ、サケ漁の期間には厳重な物忌みが守られた。 サケの猟期が近づくと、村を挙げての豊漁祈願祭を行う。この祭りが行われるまでは、何人たりともサケ漁をすることは許されない。 初物のサケが上がればマレク(鉤銛)で丁寧に捕え、神々にささげるアシリチェプノリ(初サケの神事)を執り行う。 以降、川を遡上するサケを簗漁、松明漁、網漁など、さまざまな方法で初雪の時期まで捕獲し続ける。サケはもちろん食用である。脂の乗ったサケは美味しいが保存に向かないため、産卵や放精を終えて脂が抜けきった個体を捕る。 干しサケはサッチェプ、もしくはアタッと呼ばれ、食べる際は魚油と一緒に煮込んで旨みを足した。サケは食用とするばかりではなく、皮を衣類にも加工する。サケ皮の靴は靴底の部分にヒレが配置されるように作られているので雪道でも滑りにくい。<font color="brown">サケ漁</font> サケ漁の方法にはマレク漁、簗漁、網漁、松明漁などがある。鉤銛「鉤銛」とも訳されるマレクは棹の脇に鉄鉤を取り付けた漁具で、サケを突くと先端が回転することで獲物を逃がさない仕組みとなっている。 浅瀬や舟上などさまざまな場面で使われたが、晩秋の夜に三人一組で丸木舟に乗り込み、一人が舟を操り、一人がシラカバ皮松明で川面を照らし、残る一人がマレクでサケを突く。松明係は、なぜか女性が良いとされた。 ある程度の規模の川には、流れをまたいで簗(やな)を仕掛けサケを捕える。簗はアイヌ語でウライ、もしくはテシと呼ばれ。晩秋の夜空に見えるヒアデス星団はペッノカ(天の川)を遡るサケ・マスを捕えるための簗と見なされ、ウライノチウ(簗星)と呼ばれる。 暴れるサケは、魚を叩くための棍棒「イサパキクニ」で打って神の国へ送る(とどめをさす)。鎌でひっかけ、石で打つノハチェプランケカムイ(魚を降ろす神)に対する冒涜とされた。</TD></TR></TABLE><a href="https://plaza.rakuten.co.jp/foret/diary/202603070001/">『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』2</a> :アイヌの信仰世界<a href="https://plaza.rakuten.co.jp/foret/diary/202603070000/">『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』1</a> :まえがき
2026.03.09
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図書館で借りた『縄文の思考』という新書を読んだところです。これまで読んだ本、テレビ番組などを以下に並べてみるが・・・縄文人の世界がおぼろげながら見えてくる気がします。・『知られざる縄文ライフ』(2017年刊)・『縄文の思想』(2017年刊)・アジア巨大遺跡(第4集)縄文 奇跡の大集落(2015年放映)・『縄文の思考』(2008年刊)・『縄文農耕の世界』(2000年刊)・『日本人のルーツ』(2000年刊)・『縄文人は飲んべえだった』(1995年刊)ナラ林文化領域R1:『縄文農耕の世界』、『日本人のルーツ』を追加**********************************************************************<『知られざる縄文ライフ』>図書館で『知られざる縄文ライフ』という本を、手にしたのです。火炎型土器、土偶、岡本太郎・・・この流れは、縄文人、縄文ライフにたどりつくわけで、この本をチョイスしたのです。ぱらぱらとめくると、全ページにカラー画像満載のビジュアル本である・・・とにかく、疲れてきたらビジュアル本でんがな♪【知られざる縄文ライフ】譽田亜紀子著、誠文堂新光社、2017年刊<出版社>より 現代を生きる私たちにとって、誰もが知っているようであまり知らない、縄文時代。この本は研究から見えてきた縄文を、小難しいことを抜きにしてザックリ知るための縄文入門です。 縄文時代ってどんな時代だったのでしょう?1万年というとてつもなく長い年月の中、縄文人たちはどのように暮らしていたのでしょうか?ご飯は? トイレは? 服はどんなものだった??そんな身近な疑問をヒントにすれば、意外と知らなかった縄文時代をノゾキ見するための手掛かりがきっと見つかるはず。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、全ページにカラー画像満載のビジュアル本である・・・とにかく、疲れてきたらビジュアル本でんがな♪rakuten知られざる縄文ライフ『知られざる縄文ライフ』3:縄文人はどこから来たの?『知られざる縄文ライフ』2:縄文の美の発見者『知られざる縄文ライフ』1:鬼界カルデラで大噴火があり**********************************************************************<『縄文の思想』>図書館で『縄文の思想』という新書を手にしたのです。岡本太郎が縄文の美を発見して以来、われわれは常に「縄文性」が気になっているのではないか?【縄文の思想】瀬川拓郎著、講談社、2017年刊<「BOOK」データベース>よりアイヌ・海民・南島…。縄文は、生きている!!!われわれの内なる「縄文性」に迫る、まったく新しい縄文論。<読む前の大使寸評>岡本太郎が縄文の美を発見して以来、われわれは常に「縄文性」が気になっているのではないか?yodobashi縄文の思想『縄文の思想』2:海民の誕生『縄文の思想』1:北海道の住人**********************************************************************カリフォルニア大学のジャレド・ダイアモンド教授も、農耕に頼らない縄文人の社会は従来の文明論を根底から揺さぶっていると言っていました。アジア巨大遺跡(第4集)縄文 奇跡の大集落初回放送:2015年11月8日 最終回は、日本人の原点とも言われる、縄文文化。その象徴が、青森県にある巨大遺跡、三内丸山である。巨大な6本の柱が並ぶ木造建造物や長さ32メートルもの大型住居など、20年を超える発掘から浮かび上がってきたのは、従来の縄文のイメージを覆す、巨大で豊かな集落の姿だった。 この縄文文化に、今、世界の注目が集まっている。芸術性の高い土器や神秘的な土偶、数千年の時を経ても色あせぬ漆製品。その暮らしぶりは、世界のどの地域でも見られない、洗練されたものとして、欧米の専門家から高い評価を獲得している。さらに、世界を驚かせているのが、その持続性。縄文人は、本格的な農耕を行わず、狩猟採集を生活の基盤としながら、1万年もの長期にわたって持続可能な社会を作りあげていた。こうした事実は、農耕を主軸に据えた、従来の文明論を根底から揺さぶっている。 なぜ、縄文は、独自の繁栄を達成し、1万年も持続できたのか。自然科学の手法を用いた最新の研究成果や、長年の発掘調査から明らかになってきたのは、日本列島の豊かな自然を巧みに活用する、独特の姿だった。 さらに、縄文とのつながりを求めて、取材班が訪れたのは、ロシアの巨木の森。そして、地球最後の秘境とも言われるパプアニューギニアで進められている、縄文土器の謎を探る調査にも密着。時空を超えながら、世界に類のない縄文文化の真実に迫っていく。農耕とは地球の自然を人為的に破壊するという側面もあるわけで・・・ブラジルやアメリカのような過度な農耕は地球環境に良いわけないのです。ジャレド・ダイアモンド教授の大局的な慧眼は、そのあたりに注目しているのかも。**********************************************************************<『縄文の思考』>図書館で『縄文の思考』という本を、手にしたのです。大陸に比べて、長く続いた日本列島の縄文時代であるが・・・中華文明が栄えていたころの日本列島の縄文文化はどんなだったかと思うわけです。【縄文の思考】小林達雄著、筑摩書房、2008年刊<「BOOK」データベース>より縄文土器を眺めると、口縁には大仰な突起があり、胴が細く、くびれたりする。なぜ、縄文人は容器としてはきわめて使い勝手の悪いデザインを造り続けたのか?本書では土器、土偶のほか、環状列石や三内丸山の六本柱等の「記念物」から縄文人の世界観をよみとり、そのゆたかな精神世界をあますところなく伝える。丹念な実証研究に基づきつつ、つねに考古学に新しい地平を切り拓いてきた著者による、縄文考古学の集大成。<読む前の大使寸評>大陸に比べて、長く続いた日本列島の縄文時代であるが・・・中華文明が栄えていたころの日本列島の縄文文化はどんなだったかと思うわけです。amazon縄文の思考『縄文の思考』3:ムラの生活『縄文の思考』2:縄文語や縄文文化『縄文の思考』1:記念物=モニュメント********************************************************************** <『縄文農耕の世界』4>図書館で『縄文農耕の世界』という本を手にしたのです。なんか既視感のある本やけど、まいいかと借りたのだが・・・帰って調べてみたら1ヵ月前に借りていたことが判明したのです(イカン イカン)【縄文農耕の世界】佐藤洋一郎著、PHP研究所、2000年刊<「BOOK」データベース>より 農耕文化は従来弥生時代の水田稲作の渡来が起源とされてきた。だが三内丸山をはじめ縄文遺跡で発掘されるクリは栽培されたものではないか?縄文人は農耕を行っていたのではないか?著者によれば、「ヒトの手が加えられるにつれ植物のDNAのパターンは揃ってくる」という。 その特性を生かしたDNA分析によって、不可能とされていた栽培実在の証明に挑む。本書では、定説を実証的に覆した上で、農耕のプロセスからそれがヒトと自然に与えた影響にまで言及する。生物学から問う新・縄文農耕論。<読む前の大使寸評>なんか既視感のある本やけど、まいいかと借りたのだが・・・帰って調べてみたら1ヵ月前に借りていたことが判明したのです(イカン イカン)rakuten縄文農耕の世界『縄文農耕の世界』1 <ヒエは日本列島原産か>p84~86、<イネはあったか>p103~107『縄文農耕の世界』2 <「海上の道」の痕跡をどう証明するか>p124~126、<日本列島を巡る複数の縄文街道>p133~134『縄文農耕の世界』3 <ヒトに撹乱されてできた耕地>p171~173『縄文農耕の世界』4 <第2章 縄文農耕の実像にせまる>p82~83、<ヒエは日本列島原産か>p84~86********************************************************************** <『日本人のルーツ』2>図書館で『日本人のルーツ』というニュートン・ムックを、手にしたのです。大使は、日本人のルーツは南方系にあるだろうと漠然と思っているのだが・・・そのあたりの確証を得たいわけでおます。【日本人のルーツ】ムック、ニュートンプレス、2000年刊<「MARC」データベース>より日本人はいつ、どこからやってきたのか。血液型が示す日本人の足跡、遺跡・遺物が語る日本人のルーツ、モンゴロイドの大移動などから日本人の起源を探る。『Newton』誌上に発表してきた文章をまとめる。<読む前の大使寸評>大使は、日本人のルーツは南方系にあるだろうと漠然と思っているのだが・・・そのあたりの確証を得たいわけでおます。amazon日本人のルーツ大使一番の関心事は「日本列島への渡来ルート」である。そのあたりを見てみましょう。p31~33■日本列島への渡来ルート 「PART1」でのべたB型の多いインド・満州型の血液型や、「PART3」でのべた環中国語の分布もまた北方型である。これは今から約1万4000年前に、湧別型細石刃をもって北方からやってきた人たちの血液型がインド・満州型であり、彼らが環中国語を使っていたことを示す。 日本語の文法は環中国語的であるが、基本語はインドネシア語やポリネシア語と似て南方的である。ただし基本語とは、「手」「目」「耳」といった身体語、「日」「月」「雲」といった天体に関する語、「黒」「白」といった色彩語などである。 それとこれまでにのべたこととを考え合わせると、日本語には長い間、基本語だけがあって文法がなかった時代があったことになる。その時代のなごりと思われる特徴が、日本語(古代、現代)やアイヌ語にはみられるという。文法がなく、電報文のように単語だけを並べて意思を通じようとする特徴である。 また角田忠信によれば、日本人とポリネシア人だけが、ロゴス(論理)とパトス(感情)未分の脳の使い方をするという。これもまたここにのべたような日本人の歴史を反映するものではなかろうか。 図18は、7世紀から9世紀にかけて、唐の都長安(西安)へ派遣された外交使節、遣唐使がたどった四つの道を示す。渤海は、7世紀末から10世紀はじめにかけて満州を中心として存在した国であり、最盛期には沿海州、北朝鮮をも支配した。福井県敦賀市にあった松原客院を出発して日本海をよぎり、そのあと渤海国を経て長安へ達する道が渤海路である。 北路は朝鮮半島の西岸を北上して山東半島の北部に上陸し、そこから陸路をたどって長安へ行く道である。しかし7世紀後半に新羅との関係が悪化するにおよんで、東シナ海を直行して長江(揚子江)河口部に上陸する南路や、薩南諸島経由で東シナ海をよぎって長江河口部に上陸する南島路がとられた。 先にのべた剥片尖頭器技術は、華北からおそらくは渤海路をたどって沿海州のウスチノスカ、北路をたどって韓国のスヤンゲへ伝えられたものであろう。またヴュルム氷期には、海水面の低下によって陸続きとなった北路などをたどって、ナウマンゾウなどが大陸からやってきた。■3タイプの弥生人と邪馬台国 「PART3」でまとめてのべた南北端南方型の分布とはちがって、ナイフ形石器の分布は南端南方型、あるいはたんに南方型とよんでよい分布である。これはナイフ形石器が、日本の南方からやってきた南方系の特徴をもった石器であることを示している。 これと似た言い方を使えば、荒屋型彫器をともなった湧別型細石刃の分布は、北端北方型、あるいはたんに北方型といってよい分布であり、それはこのタイプの細石刃が北方からやってきた北方系のものであることを示している。 日本の石刃ヤナイフ形石器は、西へ行くほどより小型になる。とくに九州では、小型ナイフの分布が目立つ。一方、中国の山西省から山東省へかけての地域に、下川、芝寺といった小型ナイフを主とする遺跡がある。その年代は2万6000~2万年前とされている。というわけで、日本のナイフ形石器はこのあたり、つまり華北の地からやってきたのではないかとされている。(中略) 一般的にいって、日本の旧石器人の人骨には、旧石器がともなわない。大分県聖岳洞穴でみつかった聖岳人だけは例外であり、ここでは黒曜石でつくられた10数個のナイフ形石器、細石刃、石核などがみつかっている。「PART3」でのべたように、同時代の日本の旧石器人や華南の旧石器人である柳江人とはちがって、聖岳人の身長は高く、華北の山頂洞人並みである。これらの事実もまた、日本のナイフ形石器が華北起源であることを暗示する。 このように、ナイフ形石器技術を九州へもたらしたのは華北系の人たちである。しかし、これまでにくりかえしのべたことからも明らかなように、その技術をもって日本列島を北上し、ついに本州の北端にまで達したのは「PART3」で南I型と名づけた南方系の人たちである。『日本人のルーツ』1**********************************************************************<『縄文人は飲んべえだった』>図書館で『縄文人は飲んべえだった』という文庫本を、手にしたのです。先日『知られざる縄文ライフ』という本を読んだが、その勢いでこの本を読んでみようと思ったのです。それにしても、「ハイテク考古学」という視点がいいではないか。この本は『週刊朝日』91~92年に連載した記事をもとに加筆して文庫化しているそうだが、なかなか目を引く構成になっています。【縄文人は飲んべえだった】岩田一平著、朝日新聞出版、1995年刊<「BOOK」データベース>よりバイオ、CGなど最新技術が古代史研究を塗り変えた。ユニークで斬新な「ハイテク考古学」の視点から、言語学、環境考古学の研究動向をふまえ、日本人のルーツ、縄文人の食生活、など数々の謎に迫る。話題の三内丸山遺跡についてもふれた“古代史マジカル・ミステリー・ツアー”へようこそ。<読む前の大使寸評>先日『知られざる縄文ライフ』という本を読んだが、その勢いでこの本を読んでみようと思ったのです。それにしても、「ハイテク考古学」という視点がいいではないか。rakuten縄文人は飲んべえだった『縄文人は飲んべえだった』3:根強い日本人南方起源説『縄文人は飲んべえだった』2:落葉広葉樹林が育てた縄文文化『縄文人は飲んべえだった』1:日本語の起源**********************************************************************
2019.03.04
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