曹操注解 孫子の兵法

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May 5, 2005
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カテゴリ: 戦略
 閣下は憲法記念日に、教育セクハラ問題の最終手段として武力闘争を決意し、丸一日かかって、「公立学校制度の原則廃止」の趣意と戦略出師表を書きあげた。

 ちなみに公立学校・普通教育制度を実質的に計画し、明治時代につくりあげたのが、わが母校・成城学園創立者の澤柳政太郎博士だった。

澤柳博士は文部省官僚時代に、文部大臣の大木喬任・海軍大将に進言し、日清戦争の賠償金の半分を全国の小学校建設のために勝ち取った。

 大木提督は、明治大帝が臨御された御前会議で、伊藤博文・山県有朋ら長州閥の重臣たちに薩摩弁マルダシで大声で発言した。

 「おいっに半分くいやいっ(私に償金の半分をくれ)」

 せっかくの戦争賠償金を何に使うか。
 軍艦を買うか。工業機械を買うか。
 みんなが悩んでいた。

 そこに海軍大礼服姿の薩摩隼人の大木提督が「半分よこせっ」というのだから、みんなが緊張した。


 「大木君、そんな大金を何に使うんじゃい」

 大木は言った。

 「おいは小学ッコのセンセたちにあげる」

 山県と伊藤はアッケにとられた。
 松下村塾で、吉田松陰や高杉晋作から教育の大切さを叩き込まれた彼らは、大木提督の提案に心打たれた。

この大木の一言を、最もお喜びになったのが明治大帝であった。

 「大木の考えはよろしい」

 普通、御前会議では発言されない明治大帝の、異例の勅語だった。

 それで日本の普通教育制度は巨大な財政的な基盤をもって始まった。

 「日本は戦争賠償金の半分を国民の普通教育に使う」

 このニュースに驚嘆したのは、イギリスとドイツであった。


 両国は欧州列強というべき当時の最先進国家だったが、王国の封建的階級社会を抱えていたので、農奴制度の残滓ものこっていたし、普通教育の定着に複雑な悩みを抱えていたのだ。

 このことが澤柳博士を国際的な著名人とした。
 新渡戸稲造が晩年に取り組んだ日米対話の有識者・賢人会議、「太平洋問題調査会」は澤柳政太郎がホノルル設立総会に初代代表として参加し、第三回会議を新渡戸に引き継いだのである。
 また、この調査会では韓国も正式代表で参加していた。
 第三回の日本主催の会議では、新渡戸議長は韓国代表の発言を拒否したが。


 しかし、澤柳博士は、自分でつくりあげた公立学校制度の問題点に早くから気がついていた。
 彼はペスタロッチ教育思想を最も早く日本に紹介した人物でもある。
 広島大学学長で、ペスタロッチの墓の隣りに埋葬された被爆者の長田新博士は、澤柳の書生であり、秘書だった。
 澤柳博士は画一的教育システムを勝ち残って、文部官僚になったわけだが、彼自身は相部屋仲間の清澤満之(東本願寺改革派の祖)にエピクテトスの読書をすすめ、ジョン・スチュワート・ミルの『自由論』を愛読し、その「官僚の専制・独善」の被害にも目を向けていた。

 そこで文部省の高官に出世した澤柳博士は、「教育現場の生の声を把握したい」ということで、明治時代に各学校にアンケート調査まで実施していた。

 まだ制限選挙の時代である。
 教師の大半には選挙権もなかった。
 しかし、あえて当時最新の世論調査の方法を応用した。

 国語教科書の基礎研究のために実施された全国の方言調査と分布地図も明治時代に作成された。
 これもよくできていて、今では全く完全な歴史資料といえる。
 もちろん調査員は、各学校の教師たちであった。

 しかし、多くの教師は「画一的な普通教育」の仕組みに、ようやく慣れたばかりであったから、文部省の澤柳次官から「生徒の個性を重視せよ」といわれても困惑してしまった。
 「個性の重視はどうしたらいいのか、文部省が具体的に(つまり画一的に)決めるべきだ」
 そんなトンチンカンな意見も少なくなかった。
 いろいろなことで反発も多く、公立学校の改革問題をあきらめざるをえなかった澤柳博士だったが、それでは終わらなかった。

 彼は晩年になって、画一的な公立学校と全く正反対の建学理念を持った成城小学校を創立。
 旧制成城高等学校を創立し、第一回の入学式に出席してから、その直後の昭和二年に亡くなった。
 その入学式辞演説は、すべての成城生の学生手帳に刷り込まれている。

 この「澤柳パラドックス」ともいうべき複雑な部分は、先月のNHK特集で紹介されたので、思い出す人もいるだろう。

 そのため、成城学園では大正時代から「日本でただ一つ国定教科書を使わない小学校」として有名だった。
 これは岩波文庫の「平塚らいてう(雷鳥)評論集」の『息子を成城小学校に入れた理由』という一文に明らかだ。
 彼女は成城小学校の「ブルジョワ学校」というイメージを否定し、「ここは国定教科書のいらない自由な教育をやっているからです」と抗弁している。

 もちろん、「教科書なし」でやっていたわけではない。
 戦後にみんな学園創立者や大学教授になったような知性のある教師たち、澤柳の新学校設立の呼びかけに集まった人々が海外の教育文献や教科書を研究し、それをもとに「手づくり教科書」をつくって、当時の文部省から独自に検定認可を受けていたのだ。
 これも大したものだ。
 今、こんな学校がどこにあるか。

 そこには玉川学園を創立する小原国芳、明星学園を創立した赤井米吉もいた。
目白学園、雲雀ヶ丘学園、自由の森学園なども成城小学校の教師たちが独立して建てた自由教育精神の城なのだ。
 和光学園の歴史も、「1933年に成城小学校から分かれた」と書かれている。
http://www.wako.ed.jp/e/02/history.html

 ちょっと書き忘れたが、よく梅若能に連れていってくれた恩師も、旧制成城学園高等学校の卒業生、大先輩だった。
 フローベール研究の先生、パスカル研究の先生、ルター研究の先生など、成城学園の大先輩たちは多士済々、本当にいい時代だなあ。
 私の文士風の文章も、大岡昇平先生から受け継いだものだ。
 大岡さんは小林秀雄から冗漫な表現を削り落とした文体を受け継いだ。
 ちと自慢が過ぎたかな。



 私は経営学者であり、法律の知識もあるわけだから、公立学校教師たちが騒ぎを起こしている「国旗・国歌」の問題は全く筋違いだと思うが、別に国粋主義的に国旗・国歌に愛着があるわけでもない。
 「君が代」以外の歌や曲を国歌にしてもいいと思うぐらいだ。

 「国歌を否定する公立教育」という大きな矛盾を直視しない役人教師たちのほうが頭がおかしい。

 要するに彼らはただの「君が代嫌い」なんだよ。
 その実態といえば、ただ嫌いになる理由を、変な考えを持ったカルト老人たちから、時代錯誤の憎しみをぶつけ、あることないこと教え込まれただけのこと。
 ヤクザまがいの若いエセ国粋主義者たちと、その発生理由と原因は大差がないじゃないか。
 反日カルトと野犬の遠吠え。同じ穴のムジナだよ。
 決して上等なもんじゃない。何か深い教養や学識の基礎があるわけもない。
現実さえ直視する勇気もない。

 「だったら、公務員試験や教員試験なんか受けて、税金でムダ飯を一生喰っていこうなんて考えるなよ」と言いたい。

 私は、その意味で、澤柳精神の大きな後継者でもあるのだ。
 そして日本全国の公立学校施設を使って、晩年の澤柳博士がめざした自由理念教育の理想を実現しようとしているわけだ。



 成城学園の有名なエピソード(学生時代に閣下が発掘した☆)を紹介しよう。

 日中戦時下のこと、社会の風潮になびくものがあって、ついに生徒たちを休日の天長節(天皇誕生日)に集め、昭和天皇の御真影(写真)を崇拝するという、何のことはない儀式が挙行されようとした。

 もともと「天長節」は成城学園では休日だった。
 成城小学校から学習院女子に進学した社会学者の鶴見和子さん(上智大学名誉教授)は、うっかり天長節に休んで、家族と遊びに出てしまった。
 それを素直に告白したら、体面や形式にこだわる教師たちは「あなたは不忠の臣であります」とヒステリックに叱責したものだ。
 鶴見さんは老境七十のご老人になっても、学園史を研究していた私の問いに「あんなひどいことはない」と滅法憤激されていた。懐かしいなあ。

 この最初で最後の「伝説」の天長節儀式も、成城学園のことは何も知らない退役軍人の軍事教練教官の某氏が企画して実施したものだった。

 さて、いよいよ天皇陛下の写真が壇上にあがり、「拝礼」というカケ声がかかろうとしたところである。

 生徒の中から突然、軍事教練式に
「回れーッ右いいいッ」 という素っ頓狂な叫び声をあげた少年がいた。
 生徒みんなは、日ごろの訓練よろしく、スパッと 壇上から背を向けた。

 ここからが「ホントの伝説」なのだが、別の生徒が続いて、
「皇居を遥拝するううッ。礼いいいッ」 とまた大きな叫び声をあげた。
 もちろん、皇居は別方向だ。

 つまり、 壇上の軍事教官の目の前には成城学園の生徒たち、数百人が突き出した「お尻」が向けられたということだ。
 同窓会事務局に電話して、「天ちゃん尻向け事件」と聞けば、みんな知っている歴史的大事件だ。

 閣下はこのエピソードはおもしろいと思った。
 ユーモアもあるし、「やったなあ」という感じもする。

 しかし、彼らは知っていた。
本当の愛国心は、細かな形式にとらわれるものではない。
 いざというときに国家のために人生をかけ、生命を捧げることができるかということだ。
 国家のために、生命がけの仕事がやりぬけるかということなのだ。
 これが澤柳精神なのだ。

 最初に叫び声をあげた生徒は、後に志願して特攻兵としてアメリカの艦艇に突っ込んだ軍神である。
 ベルリン・オリンピックのサッカー・チームに参加した「成城ボーイ」も、敗戦間際に志願して特攻機で空母に突っ込んだ。


 さて、彼ら悪童たちを「不敬だ」と自分勝手に激怒していた人は。
 空襲を無難に逃げ回り、戦後数十年も全く健康に生きのび、相当な天寿を全うしてお亡くなりになったとさ。
 ずいぶんとまあ、「ご立派な愛国者」じゃないか。
 ハッハッハッ。

 これらのエピソードを先輩たちから聞き出て発掘したのは、成城学園六十年史の編集メンバーだった学生時代の閣下の仕事だった。

中国の人々が靖国神社について話す時に、私はこういうエピソードも紹介することにしている。
 そして、靖国の前を通り過ぎるたびに、私は巡洋艦に突っ込んで撃沈させた先祖の姿と、この成城学園の先輩たちのことをいつも思う。

 立ち上がろう。
 そして日本を変えよう。





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Last updated  May 13, 2005 12:58:59 PM
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