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2004年09月16日
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大和は国のまほろば
たたなづく青垣山隠れる
大和し美し



飛鳥の石舞台古墳に匹敵する石室が見つかった條ウル神古墳から東に、"日本武尊"白鳥陵は村の中にある。

土地の人に聞かないとどこから入っていけるのか判りにくい。

「草薙の剣」で有名なヤマトタケルの尊(みこと)は古事記には「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と表記されており、第12代景行天皇の子とされる。

能褒野(のぼの:三重県亀山市)で亡くなった時、
「大和は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる大和し美し」と歌い、故郷へ還りたいと望んで、白鳥になってそれを果たしたので陵を白鳥陵と称した。





"I really don't want to know"
(知りたくないの)

♪

How many arms have held you
And hated to let you go
How many, how many, I wonder
But I really don't want know

How many lips have kissed you
And set your soul aglow
How many, how many,I wonder


So always make me wonder
Always make me guess
And even if I ask you
Darling don't confess

Just let it remain your secret

No wonder, no wonder I wonder
Though I really don't want to know



1953年にハワード・バーンズが作詞し、ドン・ロバートソンが作曲したワルツ調の歌です。

カントリーの黄金時代のハンク・ウイリアムズと共にカントリー・バラードの代表歌手エディ・アーノルドの歌で1954年にカントリーのチャート一位のヒットとなりました。

日本では最初は「たそがれのワルツ」の題名で菅原洋一が「知りたくないの」の題名でヒットさせ、現在ではそちらの題名で知られています。  



森鴎外(本名・林太郎)は明治十七年から二十一年まで、足かけ五年にわたってドイツに留学しました。

前途有望な官吏、太田豊太郎と踊り子"エリス"との悲恋を描いた『舞姫』は、その留学体験に基づくものとされます。



「舞姫」 by 鴎外


第一回  
石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。

今宵は夜毎にここに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。

五年前の事なりしが、平生の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで来し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、
当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常の動植金石、さては風俗抔をさへ珍しげにしるししを、心ある人はいかにか見けむ。

こたびは途に上りしとき、日記ものせむとて買ひし冊子もまだ白紙のままなるは、独逸にて物学びせし間に、一種の「ニル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。

げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、
浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。

きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ。

これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。

嗚呼、ブリンヂイシイの港を出でてより、早や二十日あまりを経ぬ。

(中略)


第ニ回~第十ニ回 (略)



第十三回  

四階の屋根裏には、エリスはまだ寝ねずと覚ぼしく、烱然たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、乍ち掩はれ、乍ちまた顕れて、風に弄ばるるに似たり。

戸口に入りしより疲を覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這ふ如くに梯を登りつ。

庖厨を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓にひたりしエリスは振り返へりて、「あ」と叫びぬ。

「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」

驚きしも宜なりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪は蓬ろと乱れて、幾度か道にて跌き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪によごれ、処々は裂けたれば。

余は答へんとすれど声出でず、膝の頻りに戦かれて立つに堪へねば、椅子を握まんとせしまでは覚えしが、その儘に地に倒れぬ。

人事を知る程になりしは数週の後なりき。

熱劇しくて譫語のみ言ひしを、エリスが慇にみとる程に、或日相沢は尋ね来て、余がかれに隠したる顛末を審らに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきやうに繕ひ置きしなり。

余は始めて病牀に侍するエリスを見て、その変りたる姿に驚きぬ。

彼はこの数週の内にいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬は落ちたり。
相沢の助にて日々の生計には窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺ししなり。

後に聞けば彼は相沢に逢ひしとき、余が相沢に与へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、
「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵れぬ。

相沢は母を呼びて共に扶けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるままにて傍の人をも見知らず、
我名を呼びていたく罵り、髪をむしり、蒲団を噛みなどし、また遽に心づきたる様にて物を探り討めたり。

母の取りて与ふるものをば悉く抛ちしが、机の上なりし襁褓を与へたるとき、探りみて顔に押しあて、涙を流して泣きぬ。

これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用は殆全く廃して、その痴なること赤児の如くなり。

医に見せしに、過劇なる心労にて急に起りし「パラノイア」といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。

以下(略)



"国栖/国樔/国巣"(くず)

(1)
記紀で、大和国吉野川上流の山地に住んだとされている部族。
また、その村落があった地名。奈良・平安時代、朝廷の節会などに参賀して歌笛を奏したりした。くずびと。くにす。

(2)
能の一。五番目物。
大友皇子に追われて吉野の国栖に乱を避けた大海人皇子(おおあまのおうじ)が蔵王権現の化身である老人の助けで追っ手の難を逃れる。


"クズ"(まめ科)方言・くぞ

クズの根は澱粉を多く含み、葛粉として古来から珍重されていました。
そのツルは籠の材料として用いられてきました。

また、赤紫色の花を咲かせ、「秋の七草」の一つとして愛でられてきました。

古名はクズカヅラだったといわれています。

それがクズという呼び名になったのは、大和国吉野の国栖(クズ)地方から、葛粉が多く産出されたからといわれています。

この説は、大槻家の文彦博士の辞書『言海』で説明されて以来支持され、中村浩著『植物名の由来』(東京書籍)でも、
以下のように説明されています。

「常陸国にも“国巣クズ”というところががあり(中略)常陸国は、特に葛粉の産地として知られていたことはないので、この国巣は植物のクズとは全く関係がない」

そして、「植物名のクズは、大和の国吉野郡国栖の地名にもとづく呼び名である」と断定しています。

漢字表記はさまざまでも、これらのクズ地名は、動詞クヅレル(崩、頽)の語幹で、崩れやすい地形に付けられたといわれています。
(東京堂出版「地名用語語源辞典」参照)




"思川、泪橋"

現明治通り("思川"が流れていた)と吉野通りの交叉する処に架かっていた泪橋。
江戸時代には刑場に引き立てられる囚人のこの世とあの世との別れの橋であった。

その昔、思川(おもいがわ)は、泪橋(なみだばし)という橋の下を流れていた。
いまは、地底に消えている。
ただ、泪橋という名だけを残し、東京都台東区と荒川区を二分する地点となっている。

この泪橋の名の由来は、現在の小塚原回向院のあたりが小塚原刑場であったところから、刑場にひかれていき処刑を受ける囚人たちが、この橋を渡りながら、この世との別れに涙し、また身内たちも悲しんで涙を流したところから泪橋といったという。
これは俗説のようである。
明治通りと奥州街道の交差する地点に泪橋跡がある。
今は、交差点やバス停留所にその名をとどめているにすぎず、橋の面影はなにもない。

文明十八(1488)年、東国に来遊した道興が著した「回国雑記」に、地形的には、泪橋のしたを流れていた川と思われる名前が、歌によまれている。

「浅茅が原といえる所にてうき旅の道にながるる思川 涙の袖や水のみかな 斯くて隅田川のほとりに到りて...」

室町時代に流れていた思川は、後に、一時駒洗川とも呼ばれた。
「武蔵通誌」によれば、思川の流れる方向は、現在の東京都荒川区南千住にある浄閑寺(投げ込み寺)の南で石神井川と分かれ、畑の中を東流して隅田川に合流している。
思川の名の由来を知る由もない。
しかし、思川にかかった泪橋とは、なにか因縁を感じさせるものがある。

『宮下忠子「思川 」』より


"刑場移転の経緯"

お仕置場はもともとは日本橋本町にあったもので、家康の江戸入府後、鳥越神社そばの須賀橋(天王寺橋、地獄橋とも呼ばれた)付近に移された。
さらに正保2年(1645)家光の時、幕府の矢の倉普請の為、鳥越から替地として聖天町の空き地に移された。

刑場の移動は常に死体を処理する人たちの移動をともなっている。
弾左衛門の住居も日本橋本町から鳥越に移り、刑場が鳥越から聖天町に移動すると、鳥越の代替地、新鳥越(山谷堀の北、旧吉野町)に移った。
今戸八幡の裏手の広い土地が俗に新町と呼ばれた。
浅草新鳥越町は北に長く四丁目まであって、その北が山谷であり、はずれに泪橋があった。
泪橋を超えると小塚原の刑場であり、処刑される者との別れの橋であり、また江戸の境界として千住宿への旅の一歩を踏み出す(江戸処払いはここから外へ追い払うのである)分かれの橋なのであった。

千住小塚原に刑場が移った時期は明確ではないが、元禄年間(1688~1703)には聖天町から移転して来たと思われる。


"小塚原刑場と首切り地蔵"

江戸の近傍で磔(はりつけ)、獄門、火罪、斬罪などを行う場所として、品川、板橋と浅草が仕置場として三壁を為していた。
この浅草仕置場は奥州.奥羽街道の小塚原縄手(真直ぐな道を縄手という)の西側にあって、始めは向島回向院の持地であった。
間口は六十間余り、奥行きは三十間余の約二千坪ほどであった。

明治29年、当時の「日本鉄道会社」が上野ー土浦線を計画して、南千住駅が開通した。
この時回向院は東西に分断された。
また昭和38年から地下鉄日比谷線が高架でこの傍を走るようになり、首切り地蔵の位置も少し変わった。

鉄道工事や道路拡幅工事によって、僅か1メートル半位の地中から樽詰めの頭蓋骨が二百ほども掘り出されて、往時の刑場跡地が露呈することになったという。

この地は江戸から明治にかけて、何と二十万人の怨念と血と涙を吸い取った土地なのである。



幼い子供たちの泣き声が聞こえてきます

"Don't so cry, Litle-children"--------

(*~+~*)





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最終更新日  2004年09月16日 07時30分36秒
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