山口小夜の不思議遊戯

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2005年12月05日
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 がき大将は夏休みが一番の活動期である。夏休みは遊ぶ時間が豊富だからだ。逆にいえば遊ぶ時間があるからこそ、がき大将が成り立つのである。

 彼らは子供たちが成員の小国家において階級や法律のトップであり、いわば大統領みたいなものなのだ。それはすなわち、子供の世界のことは子供の世界で解決する、ということだ。だから相生の子供たちはみな、田中綾一郎というのは日本の総理大臣のつぎくらいに偉いように見ていた。

 また、がき大将同士の関係は国家と国家との関係とよく似ていた。平和な昨今は国交をもち、一緒に遊んだりもする。
 夏休み前の分校において、子供たちにまとまりができ始めていたことも相俟って、今や大将同士も他の集落のことを、互いに友邦と考えるようにまでなっていた。

 そして、これらの交流が深まるにつれて、それぞれの遊び場を自由に開放するという新しい秩序も自然に出来上がった。
 季節の遊び場のない亡国の民は人心も荒廃するらしく、夏には海や砂丘を求めて小競り合いを絶やさなかった神生(かにゅう)でさえ、そのなかでの平和を忠実に守った。

 相生の子供たちにとって、‘総理大臣のつぎ’の同朋である己生(おのき)の砂漠の王者佐々木俊介などは、さながら騎馬民族の若頭であった。
 皆生(かいけ)の海岸線をつかさどる池田和彦は七つの海をせましと航たる倭寇の勇者、神生(かにゅう)の森雅弘は草原を縦横無尽に駆ける匈奴の族長である。



 ───

 さてその日、四天王らはそれぞれの小国民を率いて、皆生の浜で海水浴を楽しんでいた。

 そこへどういうわけか沖から畳が流れてきた。大将たちは争って遠泳し、全員泳ぎつくとその上に乗っかって、砂合戦やら小さなもりで魚をつついたり、貝やウニを割って食べたりしているラッコの群れのような子供たちを見回りはじめた。潮流のせいでまるで舟のようにすいすいと進む。磯からそれを見ていためっかちが、乗ってみたいと騒ぎ出した。

 大将たちは我が意を得たりというようにお互い意味深ににやりとし、めっかちに近づいていってひょいと畳に乗せてやった。彼らがあまりにやすやすと願いを叶えてくれたことを、めっかちは少なからずいぶかしむべきであった。だが大将たちは心得たかのようにかまわず沖へこぎだし、畳をひっくり返す遊びをはじめた。

 大将たちには面白いだろうが、弱冠8才で、その上、‘かなづち’のめっかちにはかなわない。沈むと死なすわけにはいかないから助けてくれるが、また海に投げ込まれる。これを何回もくり返すのだ。投げ込まれるほうはたまったものではない。塩水は飲む、目は痛む。

 5,6回目のときだった。

 ざっぶーんと畳をひっくり返し、海にはじき出されるや、めっかちはなすすべなく底まで沈んでいってしまった。苦しまぎれに必死で手足を動かすと、海の底に足が触れた。あわてて蹴りかえすと、あとは上にあがる一方だった。するとなんだか空に浮いたような気持ちになった。

 ──あっ、泳いどるが!
 ──めっかちが泳いだっちゃ!

 大将たちが畳の上で大笑いしている。
 そのとき初めて、めっかちは泳げたのだった。

 その次からはもう完全に一人で泳げるようになっていたのだから、がき大将の教育の力もたいしたものだ。後日談としては、のちにめっかちが相生のがき大将になったとき、自分の体験にならい、泳げない子をいきなり海に投げ込んだら、やはり30分くらいで泳げるようになったそうだ。

 つまり、泳ぎなんていうものは、必死にもがけば海の神さまが浮くようにしてくれるものらしい。



 本日の日記---------------------------------------------------------


 鳥取は昨日初雪が降ったというに、夏の盛りの話を書いてごめんよ。

 【剣片喰揚羽蝶】

 さて、昨日のコメント欄で連想させていただいたとおり、不二一族の神紋は「剣片喰揚羽蝶」です。「けんかたばみあげはちょう」と読みます。

 この紋所を分析してみると、まず「蝶」は奈良時代から、好んで文様に用いられたことがわかっています。
 正倉院御物の遊猟絵文様には、すでにこれが描かれ、平安・鎌倉時代には、盛んに衣服・調度に使われています。源平合戦のころ、平重盛や畠山重忠が、鎧などの文様に用いていたために、誤って平家の紋と信じられていますが、平氏の代表的家紋となったのは、『大要抄』によると平頼盛の一門(六波羅党)が、車の文様などに好んで用いたため、後世、平氏の末裔を称する者が、これにならって家紋にしたからといいます。

 江戸時代には、大名・池田家の家紋として名高いものとなります。
 大名・旗本で蝶紋を用いたのは約三百家にのぼり、うち平氏から出たものが三十余家を数えました。

 蝶紋はその姿によって大別され、飛び蝶、揚羽蝶(一つ揚羽蝶、対い揚羽蝶、三連蝶)、輪蝶(一つ輪蝶、二つ輪蝶、三つ輪蝶)および蝶星などがあります。また、本家・分家の別は、足の数、翅の模様、輪郭、その姿勢などに変化を加えて区別されています。

 桓武平氏の代表的な家紋で、その流れをくむ伊勢氏、関氏も、戦国時代にこれを家紋とするようになりました。また、織田氏も平氏の出で蝶紋を用い、岡山・鳥取の池田氏は、信長から贈られた幟に三連蝶紋があったところから、これを家紋に用いました。

 さて、ここから鑑みるに、不二一族の神紋である「剣片喰揚羽蝶」(けんかたばみあげはちょう)の「蝶」の文様は鳥取という土地柄の一門、剣の部分は、神官の一党であるだけに、神器の剣を表わしていると考えられます。

 あまりに日常的なお話しで申し訳ないのですが、実は私の父は不二屋敷で陶芸を習っていました(笑)。いや、不二屋敷が陶芸教室を開いていたわけではなく、趣味で陶芸をなさっている方がいて、立派な窯もあったので、かねてから興味のあった父は頼み込んで弟子入りさせていただいたのです。

 そこで「砂丘焼き」と称して(これ、Yahooの検索にも引っかからんだろうな)、世界でたったふたりだけの陶芸に丹精を込めていました。

 初めて出来上がった作品を、父は試みにその年の県展に出品してみました。ところが、それが入賞して、一時期、県博のその一角に飾られることになったのです。

 そして、この時に入賞した壷の文様が、不二一族の「剣片喰揚羽蝶」の神紋を描いたものでした。父の初戦入賞に、家族の者は皆、父の実力ではなく、「不二の魔法だ」と言い合いました──とさ。


 明日は●実直の人●です。
 あの人の話でないことは確かだよね(笑)。
 タイムスリップして、砂丘でめんこ遊びしにきなんせ。


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最終更新日  2005年12月05日 07時00分19秒
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