山口小夜の不思議遊戯

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2005年12月06日
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 ぺったい、つまり手作りのメンコである。
 ぺったいにはマルとカクがあり、マルには色々な大きさがあった。マルの大盤は直径25センチくらいで、なかにはブリキを重ねて縫い合わせたものもあり、大盤は不敗といわれていた。大盤が出ると、中盤、小盤や小さなカクはみんなやられる。

 今までは集落内の5,6人でやっていたのだが、この夏からはぺったいも統合されてその倍数くらいの人数で遊べるようになった。
 相手の集落とぺったいで遊ぶときには、遊びといえども対戦のかたちをとることになる。味方の集落内でぺったいを集めるだけ集めて、巨大な資本で戦ったほうが燃えるからだ。このぺったいの流行を見るようになったのも、人数が拡大してより熱中できる状況が生まれたためであった。

 だが、なんといってもぺったいの中心地は、己生(おのき)の砂丘だった。己生でぺったいをやるときは、砂丘をわたる風が台風のように動き、そのひと吹きであたちのぺったいがころころとまくれるのだ。それがどんでん返しにつながることもままある。
 そういうわけで、己生の子供たちは、この風土を活用してより
スリリングな勝負を楽しんでいた。

 ──あかえ(尚敦)が勝ったら、元手に応じてまきあげたぺったいを分けてやるわ。



 雨があがり、今度は蝉時雨の降るなか、己生と相生の熱戦は開始された。
 己生のぺったい師は最初から大盤を出した。この大盤はうちわほどもある大きさで、二枚重ねのあいだにブリキが入っており、さらにはおりからの雨水を吸って重くなり、まるで超重量戦艦のようなとてつもないシロモノになっている。尚敦はみるみるうちに負けていったが、しかし大盤どころか中盤すら出さず、あくまで一番小さい豆だけで攻めるのだ。やがて豆が尽きると、四角いカクで向かっていった。

 あたりは夕方になり暗くなってきたが、勝負は殺気すらおび、やめる気配など毛頭ない。ほかの己生の連中も相生を囲んで見物しているから、逃げ出せばコロサレルのでもはやあとには引けない。

 やがてカクも全部やられると、尚敦はマルの中盤を出した。もう尚敦の敗色は濃かったが、己生の超重量級大盤にも疲労のあとが見えてきた。こればかり使ってすり減ってきた上に、はじめは有利だと思われていた地面の水分が逆に災いして、いたみがひどくなってきたのだ。

 しかし、己生の財力、つまりぺったいの所要量は底知れぬものがあるといわれていた。勝負はとことんまでやるのが普通だったから、本当にこのまま尚敦のほうが弱いということになると大変なことになる。
 己生が財力を背景に攻撃してくると、手持ちの分をやられるだけでなく、次の日には相生まで乗り込んでこられて、すっからかんにされてしまうのだ。相生の財産はおびやかされた。

 こういう激烈な勝負だから、ついケンカ腰になってもめたりするのだが、尚敦は実業家ふうにすべてを計算してついに勝負をかけ始めた。
 夕暮れがせまると子供たちのなかに自然に焦りの色が見え始める。相生村では日没の時刻は逢魔ヶ刻と呼ばれていた。夜は夜で天の川がけむり、川面には金星も映る満天の星空であるのに、百鬼夜行の迷信が村人の関心を夜空へ向かせなかった。万葉の世界からそうであったように、人々は星を忌み嫌った。万葉集にはそれゆえ星の記述がまったくない。

 夕闇がせまつにつれ、子供たちの恐怖が倍化してくるのを尚敦は気がついていた。彼の作戦は、勝負を夕暮れにまで長引かせ、心理戦に持ち込むことであった。

 あたりがまっくらになる頃、己生の大盤が悪い場所に行った。尚敦は口を引き結んだまま、まずは技術の品定めが出来た、といった風におもむろに挑戦してきた。砂丘の不安定な位置に落ちた己生の大盤は、尚敦の中盤にとうとうひっくり返されてしまった。


 超重量級大盤は相生の手に落ちたのだ。

 そして圧巻なのは次からである。
 己生にとっては今までとってきた分を、大盤によって全部取り返されてしまうことになる。尚敦はこれまで大盤を一枚も出してこなかったから、己生は小さいものは取っているが、大盤はもはや一枚も手元にないのだ。すなわち、戦艦がなくなったようなものだ。
 尚敦はそうとう巻き返しだした。あたりはすっかり夜であるが、周囲の無言の圧力で、己生のほうももうやめようとはうかうか言えない。ぺったいのルールでは、いったん大盤を取られると、全部なくなるまで勝負はやめないということになっていた。最も手っ取り早いと思われていた大盤での勝負は、実は最も危険な賭けであったのだ。

 己生のぺったいはすっかり尚敦に取られ、結局そうとうな儲けになった。


 相生の子供たちのずだ袋というずだ袋はぺったいとぺったいについていた泥でいっぱいになった。

 家に帰って引き出しに入れると、うれしいかな・・・・・・いっぱいになった。



                                 この章のおわり


 本日の日記---------------------------------------------------------

 綾一郎ってね、成長して大阪の大学に行って、経済学を修めたのです。
 なんか、ここにその片鱗が見えるような気がします。株の論理ってやつ?

 さて、本日は番外編に向けての備考のような内容を、ちょっとだけ長く記させていただきます。
 というのは、まことに勝手ながら番外編では本日の日記をつけることができないと思うのです。おそらくは一節ずつが本編よりも長くなるので、日記までの容量が(一回の更新で全角5000字がリミット)入らないのではないかと懸念されるのです(←今日もあぶない)。
 ちょうど今日は本文の方がかの人の話ではないので、内容的にもくどくならないとも思いますので、どうかよろしくおつきあいのほど、お願い申し上げます。

 【豊という言魂】──全国の‘豊’さんへ──

 大きな神社へ行くと、参道の鳥居や神門をくぐった所の左右に、小さな祠があります。

 両社は正面を向いていたり、向かい合っていたりと様々ですが、共通しているのは「対」の社であるということです。これら通常、「門神」「門守」と呼ばれ、悪神や鬼の侵入を防ぐ働きのある神社の門番とされる神将たちです。

 この二神は、「忍日・来目」だとか「 櫛石窓神・豊石窓神 」と呼ばれています。
 「忍日・来目」とは、高皇産霊神の末裔である、大伴連の遠祖、天忍日命と来目連の遠祖、天津久米命のことで、『日本書紀』の一書に記されている、瓊瓊杵尊(ニニギ)の天孫降臨の時、先導した武神です。

 『古事記』の邇邇芸命(ニニギ)の天孫降臨の場面では、随伴した神々の中に、「…次に天の岩戸別の神、またの名を櫛岩窓(くしいはまど)の神といひ、またの名を豊岩窓(とよいはまど)の神といふ。この神は御門の神なり。」と「天岩戸別神・櫛石窓神・豊石窓神」が一柱の神として記述されています。

 「櫛石窓神・豊石窓神」は、また、忌部氏伝来の御門祭の祝詞では「櫛磐間戸神・豊磐間戸神」と記され、延喜式神名帳宮中神の条の「御門巫祭神八座」の中にあって、外敵侵入を防塞する機能をもつ神将であるとされています。

 さて、この、「 」と「 」の一対の概念、なにか匂いませんか? 
 古代のあらゆる書物にこの一対の概念が記されているのだとしたら、ここに、いかなる真意が隠されているのでしょう。

 推理の手始めとしては、「櫛」と「豊」という字は神名に良く使用される美称である事実です。

 「豊」は、そのまま、「豊かな」「豊穣」「充ちた状態」を意味する美称。 豊受大神 豊玉姫 がその例です。
 特に豊受大神は、豊宇賀能売(とようかのめ)とも呼ばれますが、豊穣の神(稲荷大神)である宇迦之御魂(うかのみたま)にさらに「豊」を冠したイメージであるとされています。

 「櫛」は、「奇」とも書かれ、「豊」と同様の美称で、 奇稲田姫 は、美田・豊穣の姫の意味であり、。あるいは「奇跡」の意味合いも含まれることが予想されます。

 この、「奇」という文字と、祭神の機能・神徳を考えると、「奇霊(くしたま)」という概念に通じるらしいのです。

 神道の教義で、神や人間の霊魂は「一霊四魂」、つまり、一つの霊と四つの魂から成るとされています。

 一霊は「直霊(ナオビ)」で、四魂は「 荒魂・和魂・奇魂・幸魂 」である。
荒魂 アラタマ:神霊の機能としての、荒々しい側面。台風や洪水といった自然災害に代表される、怒れる神の作用。
和魂 ニギタマ:荒魂に対するもの。神霊の機能として、人間に対する平和的側面。雨や日光の恵みなど。神の加護。
奇魂 クシタマ:和魂の一つ。神の奇跡。神霊の機能として、特に医薬の分野で用いられる。人命に対する神の恵み。
幸魂 サチタマ:奇魂と同じく、和魂の一つ。豊穣・豊漁など。神霊の機能として、特に人のなりわいに関わる分野で用いられる。

 「櫛」=「奇魂」とする説は、実は多くの資料に見られます。
 ここで注目されるのは、「幸魂」の機能が、「豊」に充てられる点です。

 地域の名称という観点からも考えてみましょう。
 「 豊の国 」という地名があります。今でも「豊後」「豊前」として通用する地域、大分県の美称です。

 「豊」を、その「豊の国」と考えるとどうでしょう。

 あいにく、「櫛の国」というものはありませんが、似た名の地名はすぐに見つかります。
 「 筑紫の国 」──「筑紫」は、広義には九州全体を指すが、狭義では、今の福岡県にあたります。地図上では、このふたつの地域は隣同士ということになります。
 つまり、「 筑前・筑後 」と「 豊前・豊後 」が、九州の中心から、本州への経路上、先駆け的な位置に配されているのです。
 神話のように、九州の高千穂へ降臨した天孫の末裔達が、本州(奈良)へ東遷することがあるならば、その位置関係は重要です。
 また、本州(出雲や大和)に敵対する王国が存在すると考えると、その位置は、守りの要であり、「門神」としての名を冠するに相応しい土地であろうとも思われます。

 門神の「櫛」と「豊」は、地名から来ているのかもしれません。
 あるいは、先に門神としての「櫛」と「豊」という言葉があり、それを地名としたとも考えられます─。

 以下、やっぱり入らなかった!
 この後の怒涛の展開は明日に回します。

 ちなみに、ご訪問者のなかでご本名が「豊」さんって、いらっしゃいますか? いや、これも名乗り出にくいですよね・・・・・。


 明日は第九章「画竜点睛す」のはじまり、●玉三郎、豊を見い出す●です。
 陽の目を見たってことかなぁ・・・・・。
 タイムスリップして、分校の前に集まりなんせ。


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最終更新日  2005年12月06日 07時34分34秒
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