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大島真寿美『戦友の恋』(角川文庫) 漫画原作者の佐紀は、人生最悪のスランプに陥っていた。デビュー前から二人三脚、誰よりもなにもかもを分かちあってきた編集者の玖美子が急逝したのだ。二十歳のころから酒を飲んではクダをまいたり、互いの恋にダメ出ししたり。友達なんて言葉では表現できないほどかけがえのない相手をうしなってしまった佐紀の後悔は果てしなく…。喪失と再生、女子の友情を描いた、大島真寿美の最高傑作。(「BOOK」データベースより) ◎読みにくくてすみません 大島真寿美は『ピエタ』(ポプラ文庫)を紹介するつもりでいました。しかし友人から勧められて『戦友の恋』(角川文庫)を読んで、急きょこちらを推薦したくなりました。これまで本書を読まなかったのは、タイトルに魅力がなかったからです。大島真寿美は、作品のタイトルで損をしています。どれ一つ魅力的なタイトルがありません。ただし私は彼女の描く世界が好きです。以前に『ぼくらのバス』(ポプラ文庫ビュアフル)の書評を書きました。ほんわりとした世界が描ける大島真寿美には、ずっと期待しています。 大島真寿美は1962年生まれで、1992年「春の手品師」で文學界新人賞を受賞しています。本作は『ふじこさん』(講談社文庫)に収載されています。そして2014年『あなたの本当の人生は』(文春文庫)で直木賞候補になっています。 会話をカッコでくくらず、一文に埋め込む手法は独特の感性によります。 ――戦友?/とある時、ええと、あれは、そう、たしか亡くなる一年くらい前だったと思うけれど、半分酔っ払った勢いでつぶやいたことがあった。/戦友?/と玖美子も鸚鵡しにつぶやいた。/あたし達は共に戦ってきたわけだからさ。(本文P8) 私はこの文体を好みます。自分の文体について大島真寿美自身は、次のように語っています。 ――ルール無視ででたらめなことをやっているなとは思うんです。センテンスも長くなったり短くなったり。でも自分のリズムで書こうとするとああなるんですね。それが狂うと本当に書き進められなくなる。読者の方、読みにくくてすみません。(WEB本の雑誌106回) 私は大島真寿美の文章を、噴水のように感じます。太陽に向かって高く、そして時には低く吹き上がるイメージです。 ◎2つの恋の物語 『戦友の恋』には、表題作を含めて6つの短篇が連作形式で並んでいます。タイトルは冒頭の短篇からとられたものです。 漫画家志望の山本あかねは、同年代の編集者・石堂玖美子から、絵は下手だけど物語はおもしろいといわれます、そして漫画の原作者になることを、半ば強制されます。駆け出しの編集者と漫画原作者としてデビューする筆名・山本佐紀。大島真寿美は二人にみごとな個性を与えました。玖美子の企画を、佐紀は必死に作品に落とし込みます。この二人の迷走振りが実に読み応えあります。しかし玖美子は、すぐに亡くなってしまいます。後段の物語では、戦友としての玖美子が佐紀の心に宿り続けています。すべての作品に新人の漫画家だったり、玖美子の後任の編集者だったり、と仕事関連の人たちが登場します。しかし『戦友の恋』を貫いているのは、ライブハウスの経営者・律子と亡き玖美子なのです。がむしゃらに仕事と取り組む佐紀は、律子と玖美子の暖かい愛に包まれています。この構成が作品全体を、ピンと張り詰めたものにしています。 本書のタイトルは『戦友の恋』となっていますが、きちんと書くなら「戦友たちの恋」となります。その点について、吉田伸子は次のように書いています。 ――主人公・佐紀の〈戦友〉である玖美子の、胸がきゅっとなる恋と、佐紀と幼なじみの達貴との恋の予感も。(本の雑誌『おすすめ文庫天国2013』) ちなみに上記引用誌で、本書は恋愛小説部門のベスト10に選ばれています。吉田伸子が書いているとおり、二人の恋は実に味わい深いものです。 そして仕事仲間の描写も、いいなって感心させられました。本書に関しては、北上次郎が絶賛しています。大森望との対談に一部を紹介させていただきます。 (引用はじめ)北上 大島真寿美って、今までもハズレはないんですが、これ、いちばんいいんじゃない。(中略)大森 原作者と担当編集者という仕事上のパートナーシップが、一種のバディものとしてものすごくよく書けていますね。(引用おわり。北上次郎・大森望『読むのが怖いZ』ロッキンングオンP201) 大島真寿美は最も直木賞に近い作家です。北上次郎がいうように、これまでの作品はどれも楽しく読むことができました。でも現時点では、『戦友の恋』を一押しさせていただきます。山本藤光2018.02.28
2018年02月28日
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妙に知180228:鳴かず飛ばず「鳴かず飛ばず」の意味は、ほとんどの人がご存知だと思います。では、その語源は? 私は「歌を忘れたカナリア」の歌に関連しているのかな、と思って語源辞典を引きました。 ――三年も享楽にふけっていた荘王(そうおう)を諫(いさ)めて言ったことば「三年飛ばず鳴かず、これ何の鳥ぞや」から。のち、荘王は国政に専念したという。 何の鳥?との質問の回答はありません。ネットでは、ダチョウ説も存在しています。また『史記』にも同じものがありますが、こちらは少しニュアンスが違います。 ――(史記楚世家「三年飛ばず鳴かず」による)将来の活躍にそなえて何もしないでじっと機会を待っているさま、(『広辞苑第7版』) こちらの解釈は、知らない人が多いと思います。2月は本日で終わりです。3月になれば、春は目の前ですね。山本藤光2018.02.28
2018年02月28日
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町おこし316:形式知と暗黙知――『町おこしの賦』第10部:生涯学習の町 二人のやりとりを聞いていて、詩織がいった。「明里、それを勉強したら賢くなれるの? なら、私にも教えて。ただし、わかりやすくだよ」「うん、授業料は高いよ。知には二種類あるの。一つは賢者が文字や言葉にした知。テキスト、データベース、講義などが代表例なんだけど。もう一つの知は、文字や言葉に表しにくい知。こっちは、スキルやノウハウ、名人芸などのことなんだ。テキストなどのことを形式知といって、名人芸などを暗黙知というの」「何となく、わかった」「お母さんは若いころ、お父さんの大好きなキンキの煮つけを、勉強したっていっていたわね。それはテキストという形式知を見ながら、料理というスキル、暗黙知に変換していることなの」「何だか偉そうなことを、している感じだね」「そう、私たちは日常のなかで、知らないうちに形式知と暗黙知の変換をしているの。では、お母さんへの問題。テレビの料理番組を見て、必要なレシピのメモを取るのは、何から何への変換でしょうか?」 詩織は考えこんでしまう。恭二は助け船を出す。「料理番組はスキルだから暗黙知。それをメモにするのだから、形式知にしている」「あたり。お父さん、すごいね」 「ナレッジマネジメントは、形式知と暗黙知を意図的に循環させることなの。たとえば、役場の例で説明すると、こうなる。課長は会議で、部下に成功例を発表させる。これは暗黙知から形式知への変換。経験したことを、しゃべるのだから、わかるよね。次に発表された成功例を、課員がよりよいものに磨き上げる。これは形式知になったものに関するディスカッションだから、形式知と形式知の変換。翌日課員は、みんなで磨いた成功例を、現場で実践している。これは形式知から暗黙知への変換。最後に現場で課長は、やってみせてやらせてみる。これは暗黙知と暗黙知の交換。これでSECIは一回りしました」 詩織は、ため息をついている。SECEは回っていないが、目が回ってきたのだ。恭二は大いに、ヒントをもらったと思った。
2018年02月28日
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妙に知180227:「どんより」の語源?どんよりとした一日でした。ここまで書いて、ハテナマークが灯りました。「どんより」って、どこから生まれた言葉なのでしょうか。広辞苑を引きました。漢字は出ていません。おそらく、「鈍」のイメージなのでしょう。こんなときにネット検索をすると、きっといろいろな解釈が載っていることと思います。でも性急にそれをやりません。考えてみたいからです。鈍夜。ここから、ドンヨリになったのではなかろうか。さて、こんな仮説を見つけたら、いよいよネット検索を行います。ありました。引用させていただきます。――狂言の『附子(ぶす)』「黒い物がどんみりと固まり合うた」とある【どんみり】が語源です。〔黒く濁っているさま〕を言います。(gen_shi_rinさん)山本藤光2018.02.27
2018年02月27日
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町おこし315:個人知と組織知――『町おこしの賦』第10部:生涯学習の町 夏休みに、長女の明里が帰省してきた。わずか半年ほどの間に、明里は大人びた雰囲気になっている。恭二は詩織の若いころに、似てきたと思った。明里は、一橋大学経営学部の一年生である。「本館の前を通ったとき、ちょっと寂しかった。でもお年寄りは、楽しそうに花壇の草むしりをしていた」 電話では経緯を知らせてあったが、看板がつけ変えられているのを目の当たりにしてショックを受けたようである。「おじいちゃんもおばあちゃんも、お友だちに囲まれて楽しそうよ」 「明里、人生の一二三二一って法則、知っているかい?」「そんなのわからない」「一は独身。二は結婚しての夫婦。三は子どもができて家族になる。その次の二は子どもが親離れしてしまったとき。そして伴侶を失ったときが最後の一となるんだよ」「うーん。するとおじいちゃんとおばあちゃんは、最後の二の状態なんだ」「明里は現在、最初の一。だから二に備えなければならない」「お父さん、町長になってから、哲学的になってきたね」「実はお父さんの話には、種本があるんだ。山本藤光という人が書いた『人間力マネジメント』という本に、そう書いてあった」 「その人、知っているよ。私ね、野中郁次郎名誉教授のゼミに入っているんだけど、野中先生が紹介してくれた。読んではいないけどね」「ナレッジマネジメントの世界的、第一人者のゼミに入っているのかい?」「すごく楽しい。知(ち)って、神秘的だよね。個人知を組織知にするあたりのことは、役場でも大いに役に立つと思うよ」 「SECI(セキ)プロセスのことだよな」「お父さん、すごい。SECIを知ってるんだ」「英語の頭文字をつづったものと書いてあった。それぞれの頭文字を循環させると、知のスパイラル現象が起きる」「そう、驚いちゃったな。お父さん、ナレッジマネジメントを勉強してたんだ」「いや、これも山本藤光さんの本で学んだ」
2018年02月27日
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一気読み「ビリーの挑戦」030-039030cut:行きやすいところに偏る――05scene:4月チーム会議影野小枝 太田さんのABC分析表がスクリーンに映し出されています。漆原 さて各ランクの顧客は、特定された。それ以外の顧客はDランクと呼ぶ。では、次の作業。シェアの横に、「月間訪問数」を入力すること。終わったら、それぞれの顧客に月何回行っているかの数字を入れて。考え込まないで、エイヤっていう感じで入れてみよう。影野小枝 太田さんのABC分析表に数字が入りはじめました。C、Dランクにも数多くの2や3の数字が書きこまれています。月間訪問数合計欄に224と出ました。漆原 太田へ質問。合計欄の数字は、何を意味しているのか? 太田 月間の延べ訪問軒数だと思います。漆原 よくできた。では、きみの1日の訪問件数は何軒だろう? 太田 10軒くらいだと思います……。漆原 1カ月の実営業日を23日として、その設定で224を割り算してごらん。.太田(電卓を叩き)9.7軒です。漆原 そう、太田は自分の見こみどおりに、訪問件数を理解している。きみはすごいよ。石川は何軒だった? 石川 11.9軒でした。漆原 太田の表が映っているので、みんなもいっしょに考えてほしい。この表を見て、何か感じることはないだろうか。さらし者にして、太田には悪いけど、ちょっとの間辛抱してよな。太田はどう思う? 太田 2ヶ月に1度しか訪問していない先に0.5と書けば、もっと訪問件数は高くなったと思います。影野小枝 漆原さんは、ちょっと困っているようです。あなたなら、何を感じますか?山崎 太田は、C、Dランクに行き過ぎていると思います。もっとも、他人のことはいえない状態ですが、もう少しBランクに入力すべきだと思います。漆原 いい着眼点だね。みんなも気づいたと思うけど、活動と成果の整合性って大切だよね。太田がCやDへ行っているのは、それぞれを一つでもランクアップさせるためだよな。山崎 私もそうだったのですが、やっぱり行きやすいところに、ついつい行ってしまう傾向があります。漆原 そうだよ。さすが、ベテラン。私もつい先日までは、同じだった。誰だって、そうなっちゃうのさ。031cut:所長っていったら罰金――05scene:4月チーム会議影野小枝 ファミリーレストランでの昼食です。釧路と帯広チームが、2つのテーブルに別れて座ろうとしています。漆原 ダメだよ。寺沢と熊谷はこっちへきて、山之内と乾は向こうだ。寺沢 所長のそばだと、食い物が喉にとおらないので……。漆原 いいから、こっちへこい。(寺沢に向かって)きょうから、所長って呼び名もなしだ。漆原さんでいい。そうだ、今度所長っていったら、罰金を取ろう。熊谷、いくらにする?熊谷 100円では?漆原 低過ぎる。500円だな。ところで、熊谷は月に何回くらい上司同行をしてもらっていた? 熊谷 ほとんどないです。同行してもらっても、用事ができたって、すぐに帰っちゃいますから。漆原 田中は? 田中 ぼくは1回くらいかな。市立病院へはよく同行してもらいましたけど。自分の車できて、そのままオフイスへ戻りますので、あまりゆっくりと話すことはありませんでした。太田 所長は、どのくらい……。熊谷 あ、所長っていっちゃった。太田 罰金ですか。高いランチになりました。漆原 ランチは私がおごるよ。だけど罰金は払いなさい。寺沢 どうも、ごちそうさまです。漆原 全員にごちそうするとはいってないぞ。寺沢 いいじゃないですか。固いこといわないの、漆原さん。032cut:空のダンボール箱が据えられている――05scene:4月チーム会議影野小枝 午後の会議室です。ロの字の真ん中に、空のダンボール箱が据えられています。メンバーの机の上には、新聞が置いてあります。寺沢 何ですか、これは? 漆原 何だと思う。昼食後は眠くなるだろう。午後は全員参加のディスカッションだ。そのための道具なのだが……。影野小枝 みんな首を傾げて、新聞とダンボール箱を眺めています。漆原 まず新聞を丸めて、10個の紙玉を作ること。乾(紙玉を作りながら)わかった。これをダンボールに投げこむのですね。漆原 正解、すごいね、乾は読みが鋭いよ。ディスカッションで意見を発したら、紙玉をダンボールに投げ入れる。全員の紙球がなくなった時点で、ディスカッションを終了する。影野小枝 寺沢さんは紙玉を投げるポーズをしています。漆原 ディスカッションのテーマは、チームの業績アップだ。どうしたら年度内に、現状の月均6000万を1億円まで引き上げられるか。自分はそのために、どう貢献するのか。私に何を期待するのか。遠慮なく提案してもらいたい。資料は、さっきのABC分析表を使う。石川、全員の分をコピーして、配布してくれ。太田が石川に、あと300万は伸ばせると要求するのも構わない。無礼講でやろう。まず、乾が口火を切って。乾 えーと、私は現状の1100万円に、あと200万円上乗せするように努力します。(紙玉をダンボールに放り投げ入れる。以下同様)漆原 具体的なことは聞かないから、とりあえずは気合を示してほしい。乾が200万円のプラス、と。(ホワイトボードに赤字で書きこむ)次は田中だ。1050万円を、さてどうする? 田中 乾さんがプラス200万だから、ぼくは250万といいたいけど、現実を考えると、同じくプラス200万でいきます。漆原 チーム全体で4000万円アップということは、1人につき500万円になるのだが、乾や田中はすでに1000万円を超えているのだから、ちょっと厳しいかな。次は3番目の売上は、だれだ? 山崎(手を挙げながら)私は1000万プレイヤーの仲間入りが目標なので、プラス140万円とします。影野小枝 漆原さんは、おおざっぱな気合を求めたようです。あらあら、結局1400万円で終わってしまいしました。あと2600万円足りないようです。漆原 よし、きみたちには、いま宣言した数字に責任を持ってもらう。それらは、自分一人でできるアップ分だ。残りの2600万円は、私が責任を持とう。きみたちとの同行を通じて、きみたちの計算外のところから捻出したい。では、本格的なディスカッションに入る。チーム強化のために何をすべきか。これを話し合ってほしい。議長は山之内で、記録は石川。私はこれから、貝になる。景気よく紙玉を投げこむように。山之内 エー、議長を仰せつかった山之内です。よろしく。(紙玉を放り込む)寺沢 あいさつだけじゃないですか。紙玉は返却。(笑)影野小枝 紙玉は尽きたようですね。ディスカッションはどんな話になったのでしょうか。それぞれが、いろんな印象を持ち、漆原さんに早くもあだ名がつきましたね。ビリーさん、です。何だか西部劇の世界みたいになってきました。◎漆原の日記 はじめての会議。ABC分析をさせ、顧客別に、訪問回数の見直しをさせた。いちばん若い寺沢はひょうきんで、同期の太田はちょっとのんびりしている。帯広は、山之内の意識改革を第一にすべきだろう。◎太田の日報 漆原所長のもとでの初めての会議だった。自分の市場規模も知らず、ABC分析も知らなかった。C,Dランクにたくさん通っていたことにも、気がつかないでいた。何か、仕事の基本を初めて知ったような気がする。520万円を600万円にしますと宣言して笑われたが、文句はいわれなかった。ちょっと、目標が小さ過ぎたと反省しています。◎山之内から石川へのメール 意外に、まともな所長で安心したよ。ただし数字に厳しそうな感じがする。ぎゅうぎゅう締められそうな、嫌な予感だ。◎石川から山之内へのメール 遊び感覚が強過ぎるけど、まあ悪くはないな。ビリのチームの建て直しにきた、ビリーさんのお手並み拝見といこう。033cut:パソコン機能の4つ――05scene:4月チーム会議影野小枝 ビデオ製作会社打ち合わせをのぞいてみます。監督 数字の羅列の場面は、退屈過ぎるな。これじゃ、視聴者が飽きちゃうよ。中里ちゃんよ、何とかうまい料理を考えてみてよ。助監督 要するにここでは、メンバーの数字に対する関心度が、低いことを強調したいわけです。だれか一人にフォーカスをあてて、全体も同じだと表現すればいいと思います。監督 中里ちゃん、きみは成長したよ。それ採用ね。製作 では太田に絞りこんで、書き直してもらいましょう。監督 ところで、漆原はパソコンの機能のうち、4つだけに絞って指導を依頼したけど、あれってどんな意味があるの? 製作 原作者に説明してもらった。ざっとこんなぐあいになる。◎知のステップアップ知の創出:インターネット知の編集:ワード知の発信:メール「の検証:エクセル助監督 理にかなっていますね。製作(コピー用紙を配りながら)これが、知のステップアップに関する具体例だ。知の創出:顧客ニーズを探る。競合会社の戦略を知る。知の編集:顧客攻略計画を立案する。顧客ニーズにふさわしいツールや話法を準備する。知の発信:顧客と商談を実施する。知の検証:顧客との商談結果を検証する。新たな情報を整理する。助監督 これって「PDCAサイクル」のことですよね。上からAPDCとなっていますけど……・監督 いいね、できれば「PDCAサイクル」に置き換えて説明したいね。その方が一般的だし。製作 なにしろ原作者が頑固なんで、すんなり納得してくれるかな? でもお願いしてみる。 034cut:豊かな生活を思い描く――06scene:部下面談影野小枝 帯広の市民会館の一室です。年度計画について、漆原さんは部下と個別面談をしています。漆原 これが太田の80万円アップ計画だな。日報には、目標が低過ぎたと書いてあったけど……。太田 はい、もっとできると思います。でも……。漆原 でも、何だい? 太田 大きなことを書いて実現しなかったら、最悪の評価になるって、みんなそういっています。だから確実な数字をと思いました。漆原 太田にとって、評価って何だ? そんな手抜きみたいなことまでして、よい評価がほしいのか。太田は、何のために働いているのだ? 太田 生活するために、働いています。漆原 仕事は楽しいか? 太田 楽しくありません。もしかしたら、営業には向いていないかもしれません。漆原 じゃあ、何に向いているのだ? 太田 内勤が……。漆原 内勤職っていっても、いろいろあるけど。太田 営業以外なら何でも……。漆原 どうして営業に向いていないと思った? 太田 いくらがんばっても、売上が伸びないからです。漆原 1年間、私と一緒にやって、それでも仕事が楽しくならなかったら、内勤職への配転を考えてやる。太田とは週1回の同行をしよう。まずは月間購入額の大きな病院リストを作成しておくこと。太田 どうやって調べたらいいのですか? 漆原 調べ方は、石川に教わるといい。ところで「生活するために働いています」は、なかなかの回答だったぞ。太田はいまよりも、豊かな生活を思い描いたことがあるか? 大きなテレビがあって、特性の机やベッドも部屋に鎮座している。そんなぜいたくな生活を、夢見る習慣が必要だな。そうしたら元気が出る。働く意欲が湧く。影野小枝 太田さんは入社2年目ですが、もう営業職には見切りをつけているみたいですね。面談のいちばんバッターがこれですから、漆原さんは大変です。漆原さんはポテンシャルのある顧客を、優先的に攻略したいようです。次の面談をのぞいてみましょうか.035cut:チームの人は怠け者――06scene:部下面談影野小枝 会場は太田さんのときと同じです。漆原 乾はチームの稼ぎ頭だ。入社11年目か。何か知っておいてほしいことがあるかい? 乾 このチームの人は、怠け者だと思います。私個人がどんなにがんばっても、チーム評価の部分で足を引っ張られ、いつも低い評価しかもらえません。漆原(書類を見ながら)きみの評価は、3年連続B(評価は上位からEABCPとなっている)か。1100万にしては、確かに低いな。乾 鈴木所長は、一緒にオフイスにいる部下に甘い評価をしていました。帯広にはめったにこないし、普段の努力を測りようがありません。その点、田中は有利です。私より4年後輩なのに、等級は同じですから。漆原 乾は、何をどうしたいと思う? 乾 漆原さんは駐在経験がありますか? 宅急便で送られてきた荷物を、仕事が終わってから、センターまで取りに行く。ファックスもなく、書類棚もない。ファックスをするために、コンビニまで行かなければならない。書類は並べておくところもない。おまけに、仲間うちで語り合う機会もない。ストレスだらけですよ。漆原 ごめん、駐在の世界は知らない。一度家を、見せてもらうよ。ところで、乾の趣味は何だ? 乾 特別にありません。漆原 仕事以外に、夢中になれる何かを探そう。何でも構わない。仕事と日常のバランスを取ることが大切だ。乾 大学時代は読書が趣味でしたが、最近は読む気力もなくなりました。休みの日はボーとしているだけです。漆原 彼女はいないのか? 彼女ができたら、自然に日常は充実してくる。乾 実は釧路に、結婚したいと思っている女性がいます。なかなか会えないのですが……彼女は炉端焼き屋をしています。銀行員だったのですが、母親が倒れて、その店を継ぐことになりました。漆原 そうか、今度一緒に行ってみよう。乾 そんなわけで、できれば釧路での勤務を希望します。漆原 乾にはリーダー教育を、したいと思っている。そのためには、むかしのように本をたくさん読むこと。釧路は考えておくけど、しばらくはMRとして超一流を目指してもらいたい。乾 今の話は内緒です。まだみんなに、公開してませんので……。影野小枝 乾さん、正直に彼女のことを話しました。炉端焼きのエッちゃんですね。036cut:じっくりと自分を磨いておく――06scene:部下面談影野小枝 会場は帯広市民会館です。3人目の面談がはじまりました。山崎 だいたい、前の所長が長過ぎたのです。私も帯広へきてから5年になりますが、みんな姥捨て山っていっています。いつ戻してもらえるのかが明確だったら、みんなのやる気は変わります。漆原 おいおい、物騒なことをいうなよ。住めば都っていうけど、山崎はダメか?山崎 女房はここでもらいましたし、子どもは小学校です。私は離れたくはないのですが、内地からきた連中には厳しい環境だと思います。やる気のある、若い人を送りこんでほしいと思います。漆原 お子さんは何年生? 男、女? 山崎 女の子で、ぴかぴかの1年生です.漆原 うちとは2年違いだ。山崎はきちんと父親をしているのだろうな?山崎 任せておいてください。これでも子煩悩です。漆原 山崎と山之内は同じ年齢だけど、彼についてどう思う? 山崎 一応帯広のリーダー格ですから、あまり文句はいいたくないのですが、自覚が足りません。彼は新卒で、私は中途採用なので、社内の扱いが違います。売上も一斉テストも、私の方がはるかに上なのですけど……。漆原 焦らないで。あまり早く偉くなると、あとは落ちるだけだから、いまのうちにじっくりと自分を磨いておくことだな。山崎 英会話を勉強しています。やがてはプロダクト・マネージャーになって、海外でビジネスをしたいと思っています。漆原 いい心がけだ。きみがプロマネになれるように、応援させてもらうよ。だから勉強は欠かすな。TOEIC TESTで、700点は目指さなくてはならんぞ。いま何点だ? 山崎 まだまだ、そんなレベルではありません。影野小枝 今度も評価がらみですね。評価に関しては、結構根が深いみたいですね。でも、山崎さんには夢がありました。037cut:きみの嫁探しをさせてもらう――06scene:部下面談影野小枝 帯広組の最後の面談です。山之内さんはサブリーダーです。山之内 私はずっと、帯広を支えてきました。新人だった太田には同行指導をしましたし、実質的にリーダーの仕事をしています。早く正式なリーダーにしてください。漆原 売上が低いのが、ネックになっているのかな? 山之内 乾は基幹病院を担当しています。私は中小病院と開業医が中心ですので、一軒で大きな数字は稼げません。私に大病院を担当させてくれれば、簡単にいまの倍を売ってみせます。漆原 帯広をどうしたら活性化できる? 山之内 私に100パーセント任せてくれれば、必ず活性化します。いまは、ときどき所長がやってきて、私が十分にリーダーシップを発揮する環境にはありません。漆原 山崎とは、同じ年齢だよね。彼とは、いろいろ相談し合っているの? 山之内 彼は家庭第一ですので、誰とも交わろうとしません。みんな駐在員なので、ときどき飲もうと誘うのですが、一度も参加したことはありません。病院の行事も、休日には絶対に参加しません。彼がもう少し、大人になってくれれば、帯広もまとまってくるのですけど。漆原 結婚するつもりはあるのか? 山之内 ありますよ。ただ縁がないだけです。MRって、ほとんどが晩婚ですよ。漆原 よし、迷惑でなければ、私もきみの嫁探しをさせてもらう。山之内 できれば資産家の令嬢をお願いします。影野小枝 ボタンの掛け違い、という言葉があります。何やら、帯広の4人は、そんな感じですね。漆原さんはこの面談を通じて、何をはじめるのでしょうか。嫁探しも約束していましたよね。◎漆原の日記 帯広地区の面談終了。バラバラ。これ以外に、ふさわしい形容は見当たらない。山之内ではなく、山崎をコアにすべきと感じた。これでは人は育たない。帯広への訪問回数を、増やさねばなるまい。038cut:成果の上がる同行――06scene:部下面談影野小枝 喫茶店「場」で、漆原さんは食品会社のJ支店長と話をしています。J支店長 この前の営業会議で、週に何回くらい部下と同行しているかを質問した。3人の課長の平均はどのくらいだと思う? 漆原 同行っていっても朝から晩までのフル同行もあるし、用事があるので1箇所だけというものありますよね。J支店長 部下育成を目的とした丸1日同行のことさ。漆原 3日くらいですか? J支店長 おれも驚いたけど、たった1日だよ。しかもほとんどの同行は、接点だった。つまり、ちょっと顔を出しては、オフイスへ戻ってくるのばかりだった。接点同行では、部下育成はできない。それで週3回のフル同行を義務づけた。漆原 フル同行でも、あいさつ回りみたいなのがありますよね。あれも除外すべきですね。J支店長 そうさ。部下育成が目的のフル同行と、重点顧客攻略のための接点同行。それも事前に部下とゴールを話し合っての同行以外は、今後「同行」といってはならないと説明したよ。漆原 いいですね。部下と事前に話し合うところが、ミソですね。J支店長 思いつきで同行しても、成果は上がらない。おまえをここまでレベルアップさせたい。おれも手伝うから、重点顧客からはこれだけの業績を上げよう。この話し合いがあっての、同行ということだよ。漆原 年度はじめに、部下と活動のレベルアップのゴールを話し合う。同時に連携して攻略する施設を決めるわけですね。参考になります。039cut:営業活動のブラックボックス――06scene:部下面談影野小枝 ビデオ製作会社の打ち合わせです。助監督 営業組織の業績格差は、紛れもない人災である。これテロップで流しましょう。製作 企業はどの営業マンにも、情報、知識、経費など均一のインプットを与えている。しかし売上や利益といったアウトプットは、天と地ほども違う。なぜか? 原因は、プロセス部分にある。この部分は「営業活動のブラックボックス」と呼ばれ、傍から垣間見ることはできない。営業マンのブラックボックスに関与できるのは、唯一営業リーダーだけなのである。ところが多くの営業リーダーは、それを本格的に実施していない……ここがポイントだな。監督 つまり、営業マンのブラックボックスをのぞくには、同行しかあり得ないということだ。製作 そのとおり。あいさつ回りや商談をまとめに行く類の同行では、部下育成ができない。だから、それらを含めて同行とはいうな、ということだ。監督 ところで「人間系ナレッジマネジメント」って何だ? ここまでに何回か出てきたけど、どっかで説明はいらないか? 助監督 おれもそう思います。このシナリオのベースになっているのが「人間系ナレッジマネジメント」ですからね。フラッシュバックで、ところどころに喫茶店「場」での読書会を入れるなどが必要ですよ。監督 それはダメだ。画像(え)が汚くなる。できるだけ、難解な言葉はそぎ落とす。
2018年02月26日
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妙に知180226:牽強付会???ある対談集を読んでいたら、出版社の一人が、自分のしゃべりに対して、「ちょっと牽強付会かな」と付け加えていました。おそらく、こじつけという意味だろうとは思いました。初めて目にした熟語でした。 あなたは「牽強付会(けんきょうふかい)」という言葉をご存知でしょうか。辞書を調べました。「自分の都合のよいように無理に理屈をこじつけること」(広辞苑)とありました。 知らなかったのは、私だけだったりして。でもこんな人はザラにいます。覚えておきたい言葉かもしれません。山本藤光2018.02.26
2018年02月26日
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町おこし314:成果の思い描き――『町おこしの賦』第10部:生涯学習の町 斉藤貢事務局長は、縦割りの町民窓口を廃止した。相談に訪れる町民の、たらい回しを撲滅することが目的だった。町民の相談が三つの窓口にまたがっている場合は、職員が職場を回って解決するように改めたのである。 町民は番号カードを受け取り、呼ばれたら総合窓口へ行く。町民はそこで、座って待っていればいい。職員が動き回って、書類を整えてくれるのである。この制度改革は、町民にメリットをもたらしただけではない。職員同士もお互いの仕事を理解し合い、所内の意思疎通もスムーズになった。 事務局のフロアは、窓際に課長席が並んでいる。それぞれの席の間に、新たにパティションが置かれた。そこには、ホワイトボードが吊り下げられた。職員は毎朝、本日の仕事の最大の成果を、書くことが義務づけられた。 課長たちは部下の記入した目指す今日の成果を見ながら、部下の仕事振りを見守るようになった。それにより、課長たちは時々席を立ち、部下の仕事の進捗状況を確認することができる。これにより、上司と部下のコミュニケーション密度は、飛躍的に向上した。 さらに成果の思い描きボードは、職員の仕事の質と量を高める効果を生んだ。これまで何となくこなしていた仕事に、めりはりがつくようになったのである。 職員たちは退所時に、必ず成果の検証をしなければならない。赤のマジックで、〇か×印をつけて一日を終えるのである。従前の仕事はおそらく○も×もつけられない、△だらけだったのだろう。斉藤は恭二から指導を受けた、毎朝成果を思い描いてから仕事を始めることの威力を実感していた。 二つの局は、競い合うように業務の改善を進めた。二つの局に共通しているのは、町民目線で考えるということであった。
2018年02月26日
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一気読み「町おこしの賦」227-236■227:雪合戦リーグ――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ27役場の会議室で観光推進局の宮本と大岡は、さっきからため息をついている。沢里と中野が担当しているウォーキング・ラリーは、多和平を加えたことで、いつにも増して盛況なのである。二人はそれをうらやましく、横目で見ている。「雪合戦リーグの企画を、今週中に上げなければならない。雪合戦リーグの観戦ハウスの建設が決まったし、おれたちもうかうかしていられない」「それにしても、和田と三島の多和平の全面改修はみごとだったな」「そのお陰で、沢里と中野に弾みがついた」「前回の確認事項の、おさらいをしよう。チーム編成は、成人男女各一名と小学生男女各一名とする」「考えてみたんだけど、豪華な観戦ハウスができるのだろう。家族みたいな単位の戦いでは、盛り上がりに欠けると思う。町内会対抗にしたら、どうだろうか? これなら盛り上がると思う」「うん、いい考えだな。町内会は全部で三十九だ」「よし、企画案を変更しよう」「期間は十一月から三月まで。一試合を三十分として、九時から四時までて、昼休みを除外すると、一日六試合とする」「それでいいと思う」「あのさ、おれ、ふと思ったんだけど、柔らかなボールを使えば、夏場でも競技は可能じゃないか?」「ボールが飛んで行っちゃう」「競技場をネットで囲えば、済むことだよ」「そうか、そうすると一年を通して、リーグ戦が可能になるわけだ。宮瀬町長がいう一年を通して活力のある標茶町の、コンセプトにはぴったりだな」「温水プールの企画に移ろう」「水泳競技大会は、小中高で各一回の開催が決まっている。水泳教室も今、インストラクターを探している。そのほかにはシルバー世代向けの、水中ウォーキング教室についても可能性を探っている」「あとは一般開放として、もっと大きなイベントを入れなければならない」「来月、北海道水泳連盟に行ってくる。冬の合宿に使ってもらいたい、とお願いするつもりだ」「水球はやれないのか?」「プールの底が上下するので、可能な設計になっている」「陸上の人にだって、水泳は立派なトレーニングになる。水泳という枠から離れて、あっちこっちにあたってみよう」 二人は冬場のイベントを、創出する役割を与えられている。何もないところから、ひねり出さなければならない。アイデアが二転三転しているが、少しずつ方向性は見えてきた。■228:クラーク博士――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ28 タウン誌「くしろ」に、標茶町の特集記事が掲載された。筆者は宗像修平である。――標茶町の風雲児とクラーク博士――驚くべき進化の陰に二人の男 こんな見出しの後に、次のような文章があった。標茶町は、人口は約七千九百人と過疎化が深刻な町だった。前町長の宮瀬哲伸は、標茶町を一大温泉郷に変えようと、客室百超のホテルを四棟建設した。これらのホテルは浴室を自由に、行ききできる設計になっている。宿泊客は四種類の温泉を、楽しむことができるのである。これが話題になり、標茶町は大いに賑わいをみせた。 ここまでが、標茶町の変革第一弾である。温泉郷への転換を図った前宮瀬町長が病で倒れ、息子の宮瀬幸史郎が町長職を受け継いだ。幸史郎は標茶町を、近代的な温泉、酪農、農業の町へとさらに変革したいと考えた。 役場には、三つの事業専任局を設けた。観光推進局長の瀬口恭二は、温泉郷のさらなる拡大と観光客の誘致。斉藤貢農業推進局長は、有機栽培とミスト栽培工場の新設。猪熊勇太酪農推進局長は、小規模酪農家を統合して株式会社組織への転換。それぞれの任を担った三局は、次々と役割を実行に移しつつある。 それぞれの事業については、次号以降で紹介させていただく。今回は観光推進局にスポットをあててみたい。局長の瀬口恭二は、現町長の幼友だちである。二人は標茶高校時代に、議会で町の活性化プランを発表している。それが議会の承認が得られ、「標茶町ウォーキング・ラリー」という人気のイベントとなっている。 それが瀬口局長の手で、大きく改善された。標茶町には三百六十度の眺望を楽しむことができる、「多和平(たわだいら)展望台」がある。ところがほとんど人の訪れることのない、閑古鳥の鳴くスポットであった。 ウォーキングラリーでは本年から第二十六スタンプ所として、多和平が追加された。筆者は以前に足を運んでいるが、何もない活気のないところだった。第二十五スタンプ所の標茶高校から、筆者は「どんそく号」というトラクターに引かれたマイクロバスに乗った。スピードを求められている時代に逆行するように、どんそく号は超低速で走る。前記のように、筆者には何の期待もなかった。 多和平に着いた。最初に目に飛びこんできたのは、巨大なクラーク像であった。たくさんの人が、その前で記念写真を撮っていた。子どもたちの大歓声が聞こえた。触れ合いの小動物園があった。山羊、羊、リス、ポニー、アヒルなどがいて、子どもたちは柵のなかに入って、嬌声を上げていた。ポニーの乗馬コースもあった。小動物園の脇には、川魚水族館もあった。 信じられない変貌。閑古鳥の鳴いていた多和平は、みごとなレジャースポットになっていたのである。筆者のインタビューに答えて、宮瀬幸史郎町長は次のように語った。「多和平は、標茶町大変革の序章に過ぎません。これから、すごいことが起こります。うちには瀬口という、クラーク博士がいます。そして斉藤と猪熊という屯田兵がいます。彼らは近いうちに、次々と新しい何かを、目に見える形に変えてくれます」 道東の風雲児といわれている宮瀬幸史郎町長を支えているのは、クラーク博士と二人の屯田兵のようである。次号を待たれ。(文責・宗像修平)■229:加納雪子の取材――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ29 加納雪子は取材のために、瀬口恭二家を訪問している。彼女は今春標茶高校を卒業したばかりで、現在は標茶町広報課に勤務している。「タウン誌『くしろ』には、瀬口さんのことをクラーク博士と書かれていました」「照れちゃうよね。町長がリップサービスで、いっただけのことだよ」「でも瀬口さんは標高新聞時代から、標茶町の活性化を思い描いてきています。私はぴったりの、ネーミングだと思います。町民よ、大志を抱け。多和平のクラーク像から、そんな声が聞こえます。ところで、多和平の大改装には、何かヒントがあったのですか?」「高校時代に家内の詩織と、札幌の羊ヶ丘に行ったことがあります。羊の姿は見あたらず、ただぽつんとクラーク像があるだけのところでした。しかし、観光客はいっぱいいました。これなら多和平の方が、はるかに雄大だと思ったのです」 コーヒーを持って詩織は、恭二の隣りに座った。そして雪子にいった。「標茶町活性化のヒントは、羊ヶ丘にあったのよ。それとね、もう一つはタイかな」「タイ、ですか?」「そう、タイは時間が、ゆっくりと動いているの。足早に見て回るだけの観光ではなく、ゆったりとした時間を味わってもらいたい。この人は、そのことをタイで学んできたのよ」 それを受けて、恭二は説明を加える。「ウォーキング・ラリーは、ただスタンプを押して歩くだけではなく、河川敷でのたこ揚げ時間。標茶高校での乳搾り体験。多和平での動物との触れ合い。そして温泉郷でのんびりと、疲れをいやす。そんな時間をさらに、磨いてみたいと考えています」「河川敷に、大きなシーフードレストランが建設中です。あれもクラーク博士の、アイデアだと聞きました。あの発想はどこからきているのですか?」「あれも、タイからのパクリ。海の上にお店があって、夕陽を見ながら食べたシーフードは、とてつもなくおいしかった」「奥様のホテルにも、タイ料理の専門店が入っていますよね。あそこのタイスキは、絶品でした」「ありがとう。新聞部の後輩から、そういってもらえるとうれしいわ」「標茶町は今、標茶高校の生徒会と新聞部OBが、牽引していると思います。お二人は、大恋愛だったようですね」 「きみきみ、取材が脱線している」 恭二は回収騒ぎになったあの標高新聞が、すべての原点だったと今更ながら思う。あの新聞が学研の高校新聞コンクールで、全国一になっていなければ、議会を動かすことはできなかった。 人生には、めぐり合いと岐路がある。詩織、勇太、幸史郎、宮瀬哲伸など、さまざまな顔が浮かんでくる。そして肩を壊したとき、標高新聞部へ入ったとき……。角折れができた写真集みたいに、一人ずつ、一駒ずつ、恭二はていねいに折れた箇所を伸ばしている。■230:おあしす競技場――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ30 釧路川の河川敷に、紅白のテントが張られた。河川敷への入口には、大きな水色のゲートができた。ゲートの頂上は、白い幕で覆われている。その真下にテープが渡され、宮瀬幸史郎と瀬口恭二が鋏を持って立っている。 二人は同時に、鋏をテープに入れた。テープカットと呼吸を合わせて、天幕が落ちてきた。「標茶町おあしす公園」の文字が表れた。オープニング式典の参列者から、歓声と拍手が起きた。河川敷に、立派な名前がついた瞬間だった。 標茶町役場観光局の宮本と大岡は、誇らしげに参列者を案内している。恭二たちは土手に建てられた、「観戦ハウス」へと進む。内へ入ると急勾配の、階段教室のようになっていた。「こちらは、冬期間の雪合戦リーグの観戦ハウスになります。二百席あり、冬は暖房が完備されています。フィールドの声は集音器でこちらに届きますし、こちらの声援は拡声器でフィールドに送られます。恭二は「観戦ハウス」のガラス越しに、できあがったばかりの雪合戦競技場を眺めた。競技場は緑色のネットで囲われ、百メートルのフィールドには五つの遮蔽壁が立っている。競技場の両端には、和太鼓が据えられている。宮本は競技場を指差し、大きな声で説明する。「雪合戦リーグは、夏場も開催します。柔らかなボールを、雪玉の代わりに使用します。そのために、フィールドの周囲はネットで囲ってあります。遮蔽壁もネットも、取り外しができます。ここでは、バレーボールやソフトボール大会をすることも可能です」 観戦ハウスを出た参列者に向かって、大岡は声を張り上げている。「標茶町おあしす公園のオープンを祝って、町長からごあいさつをさせていただきます。みなさま、シーフードレストランの方へ移動をお願いします」 レストランの入口は、土手と同じ高さになっている。そこから釧路川のなかほどまでに、長い廊下が伸びている。室内に入ると、三方がガラス張りになっていた。左側に釧路川、右側に雪合戦リーグ競技場が見えた。「これはいい」 室内を見回し、幸史郎は感嘆の声を上げた。「飲みながらリーグを観戦できます」 恭二は笑って告げた。幸史郎があいさつに立った。「標茶町のみなさんが冬でも健康な汗を流せる場所として、先におあしす温水プールを建設しました。そして本日は、町民のみなさんが冬でもエキサイティングなスポーツを楽しむことができる施設を、提供させていただきます。標茶町町内会対抗の雪合戦リーグは、『トリプルSリーグ』という名称で、いよいよ開幕を迎えます。トリプルSとは、標茶、スノウ、サマーの三つの頭文字を連ねたものです。本日はこれから、エキジビションマッチがありますので、乾杯だけで観戦ハウスへ戻っていただかなければなりません。では新たな施設『標茶町おあしす公園』の完成を祝って、乾杯させていただきます。カンパイ!」 ■231:トリプルSリーグ――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ31 乾杯を終えた参列者たちは、観戦ハウスに集合した。フィールドからは、宮本の声が聞こえる。「ただいまから、旭町と開運町とのトリプルSリーグ戦エキジビションマッチを行います」 赤と青の鉢巻きをした各五人の選手は、競技場中央に集結した。観戦ハウスを利用せずに、土手で見ている人もたくさんいた。ハウスの応援の声は、賑やかに競技場に降り注いでいる。審判は、三人の男性が担当している。幸史郎と恭二の間に座った安岡は、「まだユニフォームができていません」と悔しそうにいった。 開始の笛が鳴った。競技者は、フルフェイスのマスクを装着している。競技者は自陣に並び、「お願いします」と大声であいさつをした。ふたたび笛が響いた。競技者は柔らかなボールを自陣の籠から取って、目の前の遮蔽壁へと走る。競技中は一個のボールしか、持つことができない。赤鉢巻きの旭町チームは、自陣にボールの配球係を一人残す作戦に出た。四人が第一の壁に身を隠している。壁の高さは二メートル。一人が、第二の壁へと走った。たちまち、青鉢巻きのボールに射止められた。「アウト!」と審判の声が響いた。「なかなか迫力があるね」 幸史郎は、恭二にいった。「ルールなどには、まだまだ手を加えるべきところがあります。しかしこのリーグ戦は、標茶町のイベントとして盛り上がると思います」 二人の間に座っている大岡は、競技に目を向けたまま語った。「こんな立派な観戦ハウスができたので、トリプルSリーグだけでは、あまりにももったいないと思います。夏はさまざまな球技大会、冬はスケートリンクの構想も現在検討中です。トリプルリーブの周囲に、スピードスケート競技リンクを作りたいと思っています」「それはいいアイデアだね。周囲は空いているから、実現は可能だ」 幸史郎が応じた。恭二は大岡たちの、柔軟な思考に舌を巻いている。■232:SSTバトル――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ32 居酒屋むらさきで、宮瀬幸史郎、瀬口恭二、猪熊勇太、斉藤貢、北村尚彦が顔をそろえている。「トリプルSリーグは、十一月から開幕させます。現在参加申しこみのあったのは、三十六町内会です。ほかに弟子屈と中標津から、参加の打診がきていましたので許可しました」 恭二は役所言葉でそう告げて、ビールを口に運んだ。これから先は、いつもの友だち口調になる。「観戦ハウスで見ていたけど、エキサイティングでおもしろかった。隣りのお年寄りが、自分たちができるリーグ戦があったらいいな、といっていた」 勇太は恭二にビールを注ぎながら、ぽつりといった。「実はおれも、それを考えていた。シルバーリーグをやってみようと、あれこれ試していた。詩織と毎朝、カードとサイコロをもてあそんでいたんだ」「クラーク博士、何かアイデアが生まれたのか?」 幸史郎は身を乗り出し、恭二に聞いた。「単純なゲームなんだけど、一年を通しておあしすでできる。二人の対戦ゲームにする。最初に一種類のトランプから、十枚引いてもらう。一種類とは、たとえばハートの十三枚のことだけど。引いたカードは、表向きに自陣に並べる。次に競技者は、交互に二個のサイコロを振る。サイコロの合計数のトランプがあったら、それを伏せることができる。これを十回続ける。伏せた数の多い方が勝者となる」「ちょっと、待て。トランプには一(エース)と十三(キング)もあるぞ。それを引いたら、絶対に裏返せない」「それは、スカだ。スカを引いてしまったことになる」幸史郎の突っこみに、恭二は胸を張って答えた。「たとえばAさんが四枚伏せて、Bさんも四枚だったら、どっちが勝ちになるんだ?」 斉藤が質問をした。「その場合は伏せたカードの合計数が多い方が勝ち。それでも同じだったら、PK戦みたいに二個のサイコロを振って、合計の目が多い方が勝ち」「よくできているよ、クラーク博士。それならお年寄りにもできるし、コミュニケーションの一環になる」 北村が感心したようにいった。「名前も決めてある。SSTバトルだ。SSTは、標茶、サイコロ、トランプの略称。これを希望者全員の総あたりリーグとして、成績はオアシスの壁に貼る」「いいね、シルバーリーグも開催しよう。ではクラーク博士のSSTに乾杯だ」 幸史郎はグラスを上げ、愉快そうに笑った。■233:心のハンディキャップ――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ33 金田じいさんと小松ばあさんは、テーブルをはさんでサイコロを転がしている。「出た。九だよ」 小松が叫んで、自陣のトランプを裏返す。壁の成績表では、三勝一敗と好調である。隣りのテーブルでは、三好ばあさんが対戦相手のくるのを待っている。三好は三連勝と負け知らずであった。一人のばあさんがやってきた。三好は、声を張り上げて呼んでいる。「田口さん、勝負、勝負」 おあしすのシルバーコーナーは、SSTバトル導入で賑やかになった。おあしす温水プールでは、シルバー向けの水中ウォーキング教室が開かれている。田口さんと呼ばれたばあさんは、そこからの帰りである。幸史郎町長になってから、町民向けの施策が急増している。心のハンディキャップを払拭しよう。幸史郎は職員に向けて、いつもそう伝えている。心のハンディキャップとは、田舎だから、年寄りだからといった、マイナスの発想のことである。北村広報課長は、真剣な老人たちのサイコロ裁きを見ながら、町民の心の変化を感じていた。SSTは、ボケ防止の役にも立つかもしれない。北村は、やさしい眼差しで、三好と田口の戦う姿を見ている。瀬口恭二と詩織は、来月の「知だらけの学習塾」の教材作りをしている。「人生には三つの山がある。一つ目は学生期、これは勉強と日常の山。二つ目は会社期、これは仕事と日常の山。そして最後は老齢期、これは日常だけの山。これを一枚目のスライドにしよう」「次は日常の概念だね。日常とは、勉強や仕事以外のすべての時間。通学、通勤時間もここに含まれるのね」「通勤時間に居眠りをするのと、本を読むのとでは、どちらが知的な行為なのだろう。こう問いかける」「日常は、自分自身でどうにでもできるわけね。勉強とか仕事とかは、学校や会社に束縛されているので、自由にはならない時間というわけね」「詩織、おれたちまだ、日常の設計ができていないな。睡眠や食事や入浴以外の時間を、いかに知的なものにするか。これが『人間力マネジメント』だよな」「恭二、今晩シーフードレストランに、連れてってくれない。彩乃さんから聞いたんだけど、とてもおいしいって」「おいしいものを選んで食うのは、知的な活動だよな」 シーフードレストランは、タイの味をそのまま日本で再現している。シェフのタイ人・レイさんは、魚や貝に独特の風味を加えて提供している。温泉客からの評判もよい。「詩織、今年も暮れから正月の三が日を、タイでのんびり過ごそうか? 新婚旅行を兼ねて」「すてき、恭二。目標ができたら、お仕事ももっと頑張れる」■234:邪推――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ34恭二は中標津町の、役場勉強会講師として招かれた。取材と助手を兼ねて、加納雪子が同道した。ウォーキング・ラリー、多和平展望台、トリプルSリーグ、SSTバトルなどについて、恭二はていねいな説明をした。質問タイムになって、会場からは次々に手が上がった。「ウォーキング・ラリーは、七月から九月までの土日曜日開催とのことですが、一日につき三十人の高校生がボランティアで参加しているのですね。どうして、高校生が積極的に参加するのでしょうか?」「標茶町の変革は、高校生の声にあと押しされたのが出発点です。標高生には、そのことに関して自負と誇りがあります。それがボランティアという形で、表現されているのです」「標茶町は、釧路集治監を塘路に移転しています。あれを移転した意図が、見えません」「私にもわかりません。ウォーキング・ラリーで賑わうようになった今、あれがコースのなかにあったらよかったのに、と私も残念に思っています」 講義を終えてから宴席に招待され、そこでも恭二はたくさんの質問を受けた。その夜は用意してもらった、ホテルに泊まった。帰宅した恭二を、詩織は鬼のような形相で迎えた。「雪子さんと一緒に、泊まったんでしょう」「ホテルは一緒だったけど、一緒に寝たわけではない」「あの人、恭二にベタベタしているから、怪しいと思っていた」「それは詩織の邪推だよ」「何もなかった、っていう証拠があるの?」「そんなの、あるわけないだろう」 真っ青になってつめ寄る詩織を押し返し、恭二は天を仰いだ。「恭二、今月、アレ止まっているの」「できたのか?」「明日、病院へ行ってくる」「おれを信じろ。おれには、やましいことは一切ない」「ごめん、恭二。少し動揺しているのかもしれない」 翌日、病院から戻った詩織は、妊娠の兆候はないと報告した。そして続けた。「二人とも忙し過ぎて、すれ違いの生活になっているから、そのストレスで止まったんだね。恭二ごめんね、疑ったりして」「おれが愛しているのは、詩織だけ」「恭二、きて!」 詩織は恭二の手を引き、寝室へと誘っている。■235:三局の決算――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ35宮瀬幸史郎町長は、三人の局長と北村広報課長を集めた。今年最後の打ち合わせである。「一年間よくやってくれました。明日から正月休みになるので、のんびりしてください」 そうねぎらいの言葉をかけてから、幸史郎はうれしそうに告げた。「統計課から報告を受けた。人口はついに八千を越えた。これはホテルに負うところが大きいのだが、最近では移住者が増えている。喜ばしいことだと、みなさんにお礼申し上げる」「温泉郷の方は、一日の宿泊客が平均八百人と安定しています。再来年は二棟が増えますので、千人を見こめます」 恭二は手元の資料で、すばやく報告した。「すると流動人口を含めるとと九千人となるわけですね」 斉藤農業推進局長の目が輝いた。彼はビート工場や麻工場があった、隆盛の時代を知っている。早く一万人に戻したいと、彼は心底思っている。「では、三局長から、現状と来年の展望を発表してもらいたい」。 最初に、瀬口恭二・観光推進局長が発表した。「多和平はウォーキング・ラリーの土日以外にも、平均五百人ほどが来場しています。来年は大型の滑り台などの遊具や、ゴーカートのコースを企画中です。一日の来訪者千人を目指しています。シーフードレストランは、常時満席状態です。温泉客も、相当数利用しています。トリプルSリーグは、現在冬期リーグで雪玉に換わりましたが、大変な盛り上がりです。町内会の結束が強まり、地域のコミュニケーションは格段に上がったとのことです。SSTバトルは、北村課長が担当していますので、お願いします」「SSTバトルは、お年寄りに定着しています。参加希望者が増えているので、来年からはグループ分けしたリーグ戦を検討中です。四つくらいのリーグに分けて、最後は決勝リーグ戦をしたいと考えています」 続いて猪熊勇太・酪農推進局長が発表した。「茅沼A地区は、株式会社として運営をしています。年内に虹別A地区も契約締結となります。来年は茅沼B地区を、既存のAに統合させるつもりです。さらに中茶別と磯分内も、来年早々には株式会社になる予定です」最後に、斉藤貢・農業推進局長が発表した。「標高隣接地の有機栽培工場とミスト大葉栽培工場は、試験操業を終了しました。来春の本格稼働を目指しています。新たに、株式会社酪農かやぬまにも、有機栽培工場を建設予定です。こちらは標高隣接地の、半分のサイズを考えています。さらに磯分内小林地区での、操業も決まりそうです。来年の秋からは、有機野菜直売所への出品と、温泉郷への提供が可能になります。標茶町の有機野菜だけを使用しています、と温泉郷が胸を張れる日を目指します」 報告を受けて幸史郎は、自分の公約が少しずつ形を整えてきていることを実感した。お年寄りが楽しく暮らす町。冬でも手を休めない酪農と農業の町。幸史郎の頭のなかで、課題だった二つの事案に、わずかながら明かりが灯った。■236:恭二と詩織の決算――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ36 十二月二十九日夜。瀬口恭二と詩織は、明日からのタイ旅行の準備をしている。ビールで乾杯をし、赤ワインの栓を抜いた。「恭二、一年間お仕事ご苦労さま」「詩織も一年間、お疲れさまでした」 二人は、グラスを合わせる。怒濤(どとう)のような、一年間が終わった。二人は、心底満足そうだった。「明日はバンコク泊まりで、翌日からはずっとパタヤのホテルで羽を伸ばすのね。プライベートビーチできれいな貝を拾って、プールで泳いで、おいしいものを食べて、ワインを飲んで、ぐっすりと眠って……」「おい、おい、まだやりたいことがあるの? おれたちは骨休みに行くんだぜ」「メインは、新婚旅行です。恭二はお風呂で背中を流してくれて、お姫さま抱っこで私をベッドに運んで……」「それから?」「意地悪。二人でぐっすりと眠るの」「詩織、おれ、標茶に戻ってきて、本当によかったと思う。しばらくはプー太郎だったけど、こうして一番やりたかった仕事をさせてもらい、一番好きだった人と結婚できた」「誰のこと?」「もう一杯ワインを飲もう。そうしたら、その人の名前を教えてあげる」 詩織は二つのグラスに、ワインを注ぐ。そして恭二の隣りに、席を移した。「あのね、恭二。この前、焼き餅焼いてごめんね」 詩織の大きな瞳に、水滴が盛り上がった。恭二は詩織の肩を抱き、耳元でささやいた。「大好きな人の名前は、シ・オ・リ」「うれしい」 恭二のスマホが鳴った。宮瀬幸史郎だった。――明日、新婚旅行へご出発だよな。六時七分の電車で行くんだろう。 酔っている声だった。恭二は、「そうだ」と答えた。――みんなで盛大に、「ばんざい」をさせてもらう。――いいよ。そんなの恥ずかしいから。 電話が切れた。「誰から?」「コウちゃん。明日みんなで、見送りにくるんだって」「何で断らなかったの?」「そうしようとしたんだけど、電話を切られた」 詩織は、くすっと笑いながらいった。「私たち友だちにも、恵まれ過ぎてるよね」「みんな、いいやつばかり。何だか怖過ぎるくらいだよ」 トイレに立った詩織は、リビングの入り口で立ち止まったまま動かない。「恭二、きて!」 呼ばれた。「新婚旅行の練習を、させてあげる。今お風呂に、お湯を溜めたから」(『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップおわり。第8部につづく)
2018年02月25日
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一気読み「町おこしの賦」217-226■217:株式会社酪農 ――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキ 猪熊勇太・酪農推進局長は、部下たちと「株式会社酪農」の説明会会場にいる。会場は標茶町公民館で、百人ほどが出席していた。宮瀬幸史郎町長のあいさつが終り、会場の明かりが落とされた。スクリーンに、「標茶町株式会社酪農の企画」という文字が映し出された。演壇には勇太がいた。「では説明させていただきます。スライドお願いします」標茶町の地図の上に、たくさんの赤い数字が並んでいる。「この数字は、みなさんが経営する農場を意味しています。株式会社酪農の構想は、スライドお願いします」 スライドの数字は、いくつもの丸で囲まれた。「こうして複数のみなさんに、共同で酪農の事業をやっていただくわけです。みなさんには仕事の報酬として、給料をお支払いすることになります。株式会社として発足しますので、好不況によって、報酬が乱高下することはありません。牛舎もサイロも機械も、標茶町が株式会社に貸与することになります。みなさんの居住は現在の住宅のままですが、大きな牛舎や牧場や牧草地やサイロは、標茶町が建設や整備を引き受けさせていただきます。株式会社酪農は、希望者のみに、参画していただきます」 ここまで話した勇太は、会場からの質問を待った。「おれんとこは、夫婦でやっているけど、かみさんにも仕事があるのかい?」「あります。役割は分担されますが、搾乳担当とか、昼食の担当などになっていただきます」「今の収入を下回ることはないのかい?」「最初は少し、低くなるかもしれません。しかし会社は利益が出たら、社員への昇給はあたりまえのことですので、ゆるやかですが給料は右肩上がりとなります」「うちの牛はどうなるんだ?」「会社が買い受けます」「どこに共同の、牛舎や牧場を作るんだね?」「たとえば五軒で共同経営するとします。その場合は効率を考えて、図面を引きます。おそらくほとんどの土地は、株式会社が貸与してもらうことになります」 質疑応答は、延々と続いた。しかし勇太にはほとんどの人が、乗り気になっていることがわかった。誰もが前のめりの姿勢になり、目を輝かせていたのである。後継者に悩む酪農家にとって、町の提案は渡りに船だった。 帰り際に勇太の弟・幸二は、兄の耳元でささやいた。「うちのグループ七軒は、全部賛成だよ」 勇太は弟にうなずき、二人っきりの酪農がその七倍になったときに、どんな様変わりが起きるのかを考えていた。■218:六軒目のホテル――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ18 瀬口恭二は立花温泉の社長と、新温泉ホテルについて話し合っていた。温泉郷の隆盛を見て、笹森旅館はいち早く名乗りを上げていた。「そんなにでかい規模のホテルをやってゆけるか、心配だ」 立花社長は、まだ及び腰だった。「現在、温泉郷の五軒では、予約を裁き切れていません。私たちの試算では、あと二軒は必要なのです。私としては地元の方に、経営をしていただきたいと思います。東京の大手が名乗りを上げていますが、宮瀬町長は地元優先といっております」 膝に置かれていた手が、拳になっている。恭二はあと一押しだと思った。「客集めは、私ども観光推進局が全力を上げます。立花社長は、優秀な人材確保に専念していただくだけで結構です」 新ホテル建設予定の、畑の買収は済んでいる。立花社長が首を縦に振れば、新ホテル建設は完結する。立花温泉を辞して、恭二は随行してきた山田課長と城戸に言葉をかけた。「ご苦労さま。あと一押しだな」「次回にでも、決まりそうな感じですね。これで私たちは、ウォーキング・ラリーの方を考える余裕ができます」「何かアイデアはあるの?」「来月のこども雪中運動会は、今年は弟子屈町の担当ですから気楽です。でも冬の河川敷で、町民のイベントを考えたいと思っています」「理想は高いぞ。札幌の雪祭りみたいなものを、考えてもらいたい」 恭二と山田の会話を聞いていて、城戸が言葉をはさんだ。「雪合戦リーグなんて、どうでしょうか? 五人一組でチームを編成してもらい、毎週一回の試合をするんです。優勝チームには、標茶町長杯を授与すると盛り上がると思います」「城戸くん、それいいかも」 恭二の頭のなかには、北大時代に参加していた軟式野球北大リーグのイメージがあった。恭二は「クレオパトラ」という、弱い軟式野球サークルのエースだった。あのようなクラブチームを、標茶町に導入したいとずっと思っていた。それが城戸の一言でふくらんできた。■219:新町長の手応え――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ19十二月も、残りわずかになった。宮瀬幸史郎は町長室に役場幹部を呼び、個人面談を開始した。北村広報課長が、同席している。最初に、斉藤農業推進局長が呼ばれた。「有機栽培工場とミスト栽培工場については、先のレポートのとおり、大規模にしなければ採算が取りにくいようです。そこで標茶高校に隣接した町有地に、千平米ほどの工場を二棟建設する企画で動いております。一年を通して野菜の連作が可能なプランは、四月ころに提出させていただきます」「四月からは、建設工事をスタートさせたい。三月中には、企画書を提出してもらいたい」 次に、猪熊酪農推進局長が呼ばれた。「現在七軒統合が一件と六軒統合が一件決まっております。現在図面起こしと、予算を計算中です。二件ともに現有の人員で、しばらくは運営できそうです。ほかの統合も、順次交渉中です。来年三月までには、五件を完成させる予定でおります」「新たな雇用は、生まれないのかい?」「現在の規模では、難しいと思います。ただし今回決まった二件をさらに近隣と統合すると、大きなスケールメリットが生まれます。最終的には、一地区一酪農株式会社を目指します」 瀬口観光推進局長は、三番目に呼ばれた。「立花さんと笹森さんは、年明けに契約が締結できます。ウォーキング・ラリーの新企画はまだ手つかずですが、冬期の標茶町だけのイベントとして、現在雪合戦リーグを検討中です。五人一組のチームを結成してもらい、冬期間のリーグ戦を考えています。会場の設営や応援席の設営など、現在図面を作成中です」「この冬は、間に合わないんだね?」「はい。来年度から、実現させたいと思います」 宮瀬幸史郎は、三人の報告を聞いて満足している。株式会社酪農は当面、二つの会社からスタートで構わないと思う。二軒の新設ホテルについては、越川工務店と釧路のパワフル建設にも参加してもらおうと決めた。農業工場は、来春から建設は可能だと判断した。少しずつ公約は、形になっている。幸史郎は確かな、手応えを感じていた。■220:タイでの休暇――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ20 十二月三十一日。瀬口恭二・詩織、宮瀬幸史郎・美和子、猪熊勇太・ミユ、長島太郎・可穂プラス長男宇宙二歳、瀬口恭一・彩乃プラス長女鈴蘭三歳の五家族は、無事にバンコク国際空港に着いた。出発が遅れた関係で、タイに着いたときは午後十時を回っていた。空港内は、冷房が効いていて涼しかった。しかし、強い香料の匂いが、鼻を刺激した。空港には、ミユの兄が迎えにきていた。一行は、大型のマイクロバスに案内された。駐車場に入ると、サウナ風呂のような熱気が充満していた。一行は一斉にセーターを脱ぎ、半袖姿になった。ミユと兄とはタイ語で会話をして、それを勇太に伝えた。「これからパタヤにある、ホテルに向かいます。所要時間は一時間半ですので、年内に着けるかどうかのぎりぎりのところです」 賑やかな笑い声が、車内に響いた。車は信じられないスピードで、高速道路を走っている。詩織は、恭二の手を握る。じっとりと汗ばんでいた。片側五車線の高速道路は、さながらカーチェイスの様相だった。 ホテルに到着した瞬間に、年が変わった。ホテルのロビーには、まったく正月らしい装いはなかった。勇太はミユの兄から、二つのクーラーボックスを受け取った。レストランが閉まっているのでビールなどの飲料を冷やして、持参してくれたとのことだった。「荷物を置いたら、おれの部屋に集合」 勇太はみんなに、部屋番号を告げた。「何だか、正月気分が出ないね」 ロビーを見回して、詩織は残念そうにいった。「一月一日は、タイではお正月じゃないの」 ミユが笑いながら、説明した。 広くて豪華な客室だった。ツインのベッド。バルコニーには、豪華なソファ。眼下には、大きなプールがあった。何人か、泳いでいる人がいた。波音が聞こえる。暗くて見えないが、海はすぐそばのようだ。恭二と詩織は、バルコニーのソファに並んで座った。「いいね。波の音が闇に溶けこんで、すてき」 二人は教えられた、勇太の部屋へ行く。すでに全員が、集っていた。缶ビールの栓が抜かれる。「新年あけましておめでとうございます」 勇太が音頭を取り、みんなで唱和した。ベッドだけでは座り切れず、恭二と詩織はバルコニーのソファに座った。「朝食は八時。案内するので、五分前にはロビーに集合すること。十時にミユのお兄さんが迎えにきます。シラチャにある、有名な動物園を案内します。ここは車で園内を回ることができます」「動物園かよ」 不満げな幸史郎の発言を抑えて、勇太は続ける。「動物を目の前で、見られる動物園です。餌も与えることができます。その後昼食をとって、水上マーケットへ行きます。夜は浜辺で、豪華なシーフードを楽しんでもらいます。翌日はバンコクへ移動します。ワット・アルンとかワット・ポーなど、有名な寺院めぐりをします。アユタヤにも、足を伸ばします。宿泊はバンコクのホテルです」 誰もきちんと、聞いていなかった。■221:タイでの元旦――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ21 酔って部屋に戻った恭二と詩織は、一つのベッドで眠った。移動の疲れとアルコールのせいで、二人ともバタンキューの状態だった。 午前七時。詩織は、目を覚ました。カーテンを開けると、真っ赤に染まった空が見えた。「恭二、きて!」 大声を出した。もぞもぞと、恭二が起きてきた。「初日だよ。拝まなくっちゃ」 大きくてオレンジ色に近い太陽は、真っ青な海の上にあった。二人は、並んで手を合わせる。プールからは、賑やかな子どもの声が聞こえる。プールの先は、紺碧に輝く海だった。ヤシの葉は、少しだけそよいでいる。「すてきね。恭二、泳ごうか」 二人は水着に着替えて、プールへと向かう。詩織は、黄色いビキニを身につけた。「ちょっと照れちゃうな。私、水着は初めて」「似合っているよ。食べちゃいたいくらいだ」バルコニーからは見えなかったが、プールはいくつにも分かれていた。岩場から飛び降りるプール。流れるプール。こども向けのプール。そして、中央にバーカウンターのあるプール。「恭二、こんな豪華なホテルが、一人五千円だよ。うちよりもずっと安い」「ここは三つ星なんだって」 二人はたらいのようなビニールの船に、並んで乗って流れに身をまかせている。「笹森さんと立花さんの浴槽は、これがいいかもな。二軒を合わせると、実現可能だと思う」「恭二、グッドアイデアだわ」午前十時。一行はシラチャにあるカオキアオ動物園へ向かう。動物園はパタヤから、車で四十分ほどの距離にある。すでに気温は三十度を超えているが、湿気が少ないので暑さは感じない。「恭二、見て。三人乗りだよ」 車の間を縫うように、オートバイがひしめいている。ほとんどの運転者は、ヘルメットをかぶっていない。「あれがトゥクトゥクという、タクシーだよ」 ミユが指差す先に、たくさんの三輪自動車が走っていた。パタヤを抜けると、混雑はおさまった。どの車も、時速百五十キロくらいのスピードで走り出した。「ここは高速道路?」 幸史郎は三車線の道路を、カーレースのように疾走する車を見ながらミユに聞いた。「一般の道だよ」午前十一時、カオキアオ動物園に到着。入園料は、外国人大人三百バーツ、タイ人百バーツとなっていた。支払いを済ませてゲートを入ると、ずらっと動物に与える餌の店が並んでいる。一袋五十バーツ。車から降りて、女性陣が買い求める。いきなり大きなキリンに、出迎えられる。車が停まる。一行は車から降りる。キリンは柵から、顔を突き出している。ミユはキリンの頭をなでる。詩織たちはへっぴり腰で、餌を差し出す。「こんな近くでキリンを見たの、初めて」 フラミンゴ、ゾウ、ライオンなども、すぐそばにいた。橋を渡るとカバがいた。水面で大きな口を空けて、投げこまれる餌を待っている。詩織はミユから与えられた、餌を投げこむ。彩乃も可穂も失敗した。「エースの出番だ」 勇太は、恭二に餌を渡した。恭二の投じた餌は、みごとにカバの口中に入った。歓声と拍手が起こった。 約二時間かけて見学して、一行は動物園を後にした。「いやあ、おそれいった。これまでの動物園のイメージが、ひっくり返った。触れる。餌を与えられる。車で回れる。最高だね」 幸史郎は、興奮した声でいった。恭二はカオキアオ動物園を、多和平展望台に再現したいと考えている。キリンやゾウは無理だが、小動物ならこんな空間を作ることができる。■222:タイスキ――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ22 恭二と詩織は、水上マーケットでペアの帽子を買った。狭い水路を行く小舟には、物売りの小舟が群がってくる。パパイアやマンゴーを突き出される。「風情があっていいね」 詩織は買ったばかの、つばの長い黄色い野球帽をかぶっていった。小舟はアメーバーのように、水面を滑って進む。空には灼熱の太陽があった。しかし暑さは感じない。 夜は海に突き出した格好の、シーフードレストランへ行った。潮風が心地よい。「恭二、夕陽が大きくて真っ赤。日本とはスケールが違うみたい」「本当だ。でっかいね」 カニ、エビ、魚、貝。次々に、料理が運ばれてくる。どれもおいしかった。恭二は料理を堪能しながら、釧路川の上にこんなレストランを作れば、風情があっていいかもしれないと思う。そしてリフレッシュのための休暇なのに、行く先々で仕事と結びつけている自分がおかしかった。 二日目はバンコクでの、寺院めぐりを楽しんだ。最後の夜は勇太の希望により、MKで食事をした。ミユの弟が働いていた店である。「本場のタイスキを食べて、うちの味とくらべてください」 ミユは早口のタイ語で注文をしてから、笑ってみせた。「それにしても、スカートは駄目って、止められたのには驚いたな」 幸史郎は妻の美和子が、寺院の入館を阻止されたことを笑いながらいった。「厳しいのは、ワットプラケオだけ。あとは大丈夫だったじゃない」 ミユは、弁解するように告げた。鍋が煮たってきた。と、当然、店員が一斉に通路に並んだ。音楽が流れ、それぞれが踊りはじめた。「歓迎の、ごあいさつの踊りだよ」 ミユが教えてくれた。いいな。恭二は微笑みの国の、おもてなしに感激している。 恭二と詩織は、バンコク市内の夜景を見下ろしながら、ホテルのバルコニーでワインを飲んでいる。「恭二、あっという間だったけど、十分に堪能できたね」「うん、楽しかった。何だか帰るのが、イヤになってきた」「新婚旅行は、ここにこようか? 二人だけで、のんびり過ごしてみたい」「ここでもいいけど、小さな島の方がいいな」「仕事が忙しいからこそ、こんな時間が必要なんだよね」「人生って天秤棒に、二つの荷物を提げて歩いている。片方には仕事。そしてもう片方には日常。日常のなかは、『知だらけの学習塾』みたいな小さな研究と、楽しめる趣味と、こうしたのんびりとした時間が入っていなければならない。山本藤光『人間力マネジメント』に、そう書いてあった」「恭二、日常って、仕事以外の全部のことなんだよね。そこをいかに磨くかが、私たち夫婦の大命題なんでしょう」 仕事以外の時間は、すべてが日常。そこから絶対に欠かせない、睡眠、食事、入浴などを差し引く。そして残った時間を、どう活用するかが問われている。そこを知的ではない活動で満たしてしまうと、味気のない日常に成り下がってしまう。そこまで思考をめぐらし、恭二は一気にグラスのワインを空けた。「詩織、寝ようか」■223:日常磨き――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ23 タイから戻った恭二と詩織の日常に、大きな変化が生まれた。力一杯仕事をして、残った時間を有効活用しよう、と二人で話し合った。早朝の散歩、人間力マネジメントの勉強、そして息抜きの趣味と月に一回の旅行。二人にはこれといって、誇れる趣味がなかった。趣味を持とう、ということになった。「私ね、おふくろ料理に、憧れていたんだ。うちはずっとホテル料理ばかりだったんで、おふくろの手作り料理は食べたことがないの。芋の煮っ転がしとかキンピラとか、そんな料理を勉強したい」「詩織、それはいい。詩織の作ったキンピラを、食べてみたい」「まずはお手軽に、ネットで検索だね。少しずつやってみるわ」「おれの方は、今のところ何もない」「昔みたいに、笑い話の創作でもしたら?」「笑話(しょうわ)のことか。ずっとやっていない」「できあがった作品の審査はしてあげるから、頑張って創りなさいよ」 宮瀬幸史郎は、懸命にリハビリを続ける父を、たくましいと思う。杖にすがって、何とか歩けるようになった。右手は麻痺(まひ)したままであり、言葉もまだうまく発することができない。 幸史郎は毎晩、町政の話を父にしている。父親の目には、輝きが出てきている。幸史郎はタイからの帰りに、恭二が描いた構想を父に語った。「恭二がね、多和平をもっと充実させたいっていうんだ。札幌の羊ヶ丘にはクラーク像があるだけで、ほかには何にもない。でも多和平には三百六十度の絶景がある。あそこにクラーク像を置いて、触れ合いの小動物園を作りたいそうだ。おれ、いい提案だと思ったので、企画をまとめるようにいった」「うん」 宮瀬哲伸は短く答え、大きくうなずいてみせた。「それとね釧路川の上に、シーフードレストランを開設したいんだって。温泉郷にくる客の、昼飯の目玉にするって張り切っていた」「うん」 哲伸はまた、短く答えた。自分は歩行がままならないが、標茶町は着実に歩を進めている。哲伸は幸史郎を見つめ、もう一度「うん」といった。■224:株式会社酪農かやぬま――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ24 猪熊勇太・酪農推進局長は部下たちと一緒に、七組の酪農家夫妻とテーブルをはさんでいる。「家畜は手元にある資料の相場で、会社が買い取ることになります。土地の方は、毎月会社に賃料をお支払いすることになります。手元の図面のとおり、牛舎とサイロを建設します。牛舎の左前は放牧場、右前を牧草地とします。会社名は『株式会社酪農かやぬま』とさせていただきます」 日焼けした十四の顔は、真剣に図面を見ている。自営業から、サラリーマンへの転身。当初は不安だらけだった七家族は、何度も重ねた話し合いで大筋合意している。勇太の弟・幸二が、社長を務めることになった。彼は立ち上がって、新しい提案をした。「先日、斉藤農業推進局長がきて、冬場に野菜の有機栽培をやらないかと打診して行った。冬は牧草の刈り取りなどがないので、規模が小さいものなら可能だと答えた。みなさんの意見を聞かせてもらいたい」「まったくイメージがわかないけど、どんなものなんだ?」「大きなビニールハウスを、連想してもらいたい。室温は一定に保たれ、雪にも絶えられるような工場になるとのことだ」「冬は暇になるんだし、仕事ができるのはありがたい」「みんながオーケーなら、斉藤局長たちが説明にくるそうだ」 全員が合意した。参加している婦人たちの方が、うれしそうにしている。一人の婦人が発言した。「一年をとおして、仕事ができるようになるのね」 瀬口恭二は、部下たちと多和平展望台にいる。図面を見ながら三人は、遠くに視線を送っている。「雄阿寒岳と雌阿寒岳をバックにした、このあたりにクラーク像だな」「小動物園は、こっちですね」 くるっと向きを変えて、部下の三島がいった。「ポニー、山羊、羊、ウサギ、リス、アヒルのコーナーを設けるんですね」もう一人の部下の和田が、両手を広げる。「これだけでは、何かが足りない。すばらしい景色があって、クラーク像があって、動物たちがいる。あと一つ、何かが欲しい」 恭二の言葉に、部下たちの視線は遠くに泳いでしまう。三島は考えをめぐらし、ぽつりといった。「河川敷にある川魚水族館を、こっちに移したらどうですか?」「それ、妙案だよ。それで企画書を整えてくれないか」 恭二は三百六十度の絶景を、ぐるりと回転しながら見渡す。視界に赤い大きな屋根が、飛びこんできた。つぶれた車が、山積みされている。「あそこは大きな木で、隠したいな」「高い木を植えて、隠すことにしましょう」■225:町長の案内――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ25標茶町に春がきた。宮瀬幸史郎は両親を乗せて、新しく生まれようとしている施設を案内している。最初に多和平へ向かった。すでに改修工事ははじまっていた。 車の窓を全開にして、哲伸は身を乗り出している。目の前に、「クラーク像建設予定地」の看板がある。「あそこに、クラーク像を建てます。右腕は標茶高校に向けます。クラーク像のバックには、雄阿寒岳と雌阿寒岳があります」 幸史郎は車の反対側に回る。哲伸は反対側の窓から顔を出す。「ここが触れ合いの小動物園です。今、柵の工事をしてますが、ポニー、山羊、羊、ウサギ、リス、アヒルなどを予定しています。そしてこっちが、川魚水族館の移設予定地です」「河川敷のを、こっちに移すのかい?」 母・昭子の質問に、幸史郎はうなずいてみせる。車のなかから、哲伸のうなるような声が聞こえる。昭子はそばに寄って、哲伸の口元に耳をあてる。「お父さんはね、周囲にポニーの乗馬コースを作ればいい、とおっしゃっている。私はここに、花壇があればいいなと思う」 続いて幸史郎は、大葉のミスト栽培工場と有機野菜工場予定地へと案内する。まだ土台しかできていないが、松並木の間に鉄柱が伸びている。「ここは一年を通して、野菜を栽培する工場群にする予定です。最初は小規模でやりますが、次第に拡大させます」 さらに幸史郎は、釧路川の河川敷で車を停める。「あの水族館は多和平に移して、その後にシーフードレストランを建設します。建物は釧路川の中程まで、伸ばす予定です。それと河川敷には、観客席つきの雪合戦会場を作ります。夏場はバレーボールなどの、球技大会会場にするつもりです」 幸史郎は最後に、藤野温泉ホテル・アネックスで車を停めた。「ここにあと二棟のホテルが建ちます。立花さんと笹森さんのものです」 案内を終えて、幸史郎はアネックスへと両親を招き入れた。タイ料理ミユを、予約していた。猪熊ミユは、笑顔で迎えた。幸史郎はタイでのお礼を述べ、タイスキを注文した。哲伸が倒れて以来、外で食事をするのは初めてだった。■226:多和平の輝き――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ26 七月。ウォーキング・ラリーの季節になった。最近ではこれを目当てに、やってくる温泉客が増えている。今年からは、新しいスタンプ所をもう一つ増やした。札幌時計台の前に、多和平(たわだいら)を加えたのである。標茶高校での体験を終えた参加者には、三台の「どんそく号」に分乗してもらう。どんそく号は、トラクターがマイクロバスを引っ張る形にしてある。 クラーク像、小動物園、川魚水族館は、突貫工事でこの日に間に合わせた。ウォーキング・ラリーの日がきた。午前九時。標茶駅には、大勢の人が集っている。受付が二十人。記念撮影のブースは五つ。規模が倍増されていた。恭二と詩織は時間を見計らって、自家用車で多和平に向かった。自分のアイデアを、来訪者はどう受け止めるのか、確かめたかったのである。すでに多くの人がいた。閑散としていた以前からは想像もできないほど、人群れであふれていた。クラーク像は、陽光を受けて輝いている。その前では、何人もが写真を撮っている。ほとんどがクラーク博士と、同じポーズをしていた。小動物園の柵のなかには、たくさんの子どもたちがいた。そしてポニーの乗馬コースにも、順番を待つ列があった。「恭二、二人で羊ヶ丘に行った日のことが、懐かしいわ。あのとき恭二は、多和平の方がずっとすばらしいっていった。それを実現したんだね」 大歓声が響いてきた。どんそく号が、やってきたのだ。マイクロバスは水色に塗られ、大きく「どんそく号」と書かれている。車なら十五分ほどでこられる距離を、どんそく号は倍の時間をかけてやってくる。バスから降りた子どもたちは、小動物園を目指して駆け出した。 その姿を目にして、詩織は恭二の手を強く握った。目には大粒の涙が、光っている。「新婚旅行、まだだったな」 恭二は胸をつまらせながら、さりげなくいった。「それよりも今は、子どもたちの喜んでいる顔を眺めていよう」 三台目のどんそく号から、町長の宮瀬幸史郎が降りてきた。恭二を認めて、足早にやってくる。「恭二、何じゃ、これは。ものすごいことになっている。やったな、大成功だ」 忙しく周囲を見ながら、幸史郎は恭二の手を握った。そして顔を詩織に向けた。「詩織ちゃん、おめでとう。あんたの旦那は、標茶町のクラーク博士だよ」
2018年02月25日
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一気読み「町おこしの賦」199-206■199:標茶町温泉郷オープン ――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ01 標茶(しべちゃ)駅を出て、駅前商店街を抜けたところに、新たな看板ができた。「標茶町温泉郷入口」の文字の下に、赤い右向きの矢印がある。以前には「藤野温泉ホテル入口」と書かれた、看板があった場所である。 しかし角を曲がろうとしても、道路はテープで遮断されている。九月一日午前八時。「標茶町温泉郷」のオープニング記念式典は、間もなくはじまろうとしていた。 鋏を手にした三人は、テープに向かって歩み出た。宮瀬哲伸町長を中央に、瀬口詩織と吉岡照子が並んでいる。詩織は瀬口恭二と結婚して、現在は藤野温泉ホテル・アネックスの支配人である。吉岡照子は居酒屋むらさきの経営者で、温泉郷の商店街を代表している。 標茶高校ブランスバンド部の演奏が、九月の冷たい空気を切り裂いた。沿道には宮瀬幸史郎(こうしろう)・美和子夫妻、長島太郎・可穂夫妻、猪熊勇太(ゆうた)・ミユ夫妻の顔もあった。テープカットが行われた。たくさんのフラッシュが、またたいた。 宮瀬町長を先頭に、人々は標茶町温泉郷へと歩を進めた。道路の両側には、さまざまな土産店が並んでいる。早めに店を開けた店主たちは、店の前で大きく手を振っている。 宮瀬はついにこの日がきた、と思わず目頭を拭う。たくさんの足音が背後に続き、ブラスバンドの演奏がそれを追いかけてくる。眼前に、真新しい四棟のホテルが現れた。釧路川を背にしたホテル群は、ちょうど雲間から顔を出した太陽に照らされ、オレンジ色に染まっていた。ホテルの前にはたくさんの花輪が並び、「歓迎・標茶町温泉郷」ののぼりが風に揺れている。こも樽が割られた。 宮瀬町長は、酒を満たした升を片手に壇上に立った。「標茶町温泉郷オープンの日が、やってきました。これはひとえにみなさんの努力のたまものと、深く感謝申し上げます。藤野温泉ホテルに隣接した、藤野温泉ホテル・アネックス、セントラル温泉ホテル、満月家ホテル、標茶温泉ホテルの四棟は、すでにお客さまをお迎えする準備を整えております。瀬口観光協会会長の連絡では、本日は千名を越える宿泊予約がありました。冬場でも賑わう郷土作りの第一歩を、みなさまとともに迎えられたことを、このうえなく幸せに思います。では乾杯させていただきます。ご唱和願います。標茶町温泉郷の前途を祈念して、カンパイ!」「カンパイ!」の声が、初秋の空に響いた。瀬口恭二は目に涙を浮かべ、藤野温泉ホテル・アネックスを見上げている。「恭二、ついにこの日がきたね。うれしい」 先導を終えた詩織は恭二の肩に顔を乗せて、感慨深げにいった。気の早いナナカマドの葉が、詩織の頭に止まった。恭二はそれをつまみ上げ、「こいつもお祝いにやってきた」と目の前に差し出した。「もうすぐ本物の冬がくる。でもアネックスは、これからが本番なんだよね」 詩織は笑った。大きな瞳がくるくる動いて、左の頬にえくぼができた。■200:アネックスの初日――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ02オープンの式典が終わるのを待ちかねていたかのように、洗面道具を抱えた親子連れが続々とやってきた。午前八時半から二時間を町民限定の、無料温泉開放としている。標茶町温泉郷は藤野温泉ホテルを含めた、五棟の浴槽が廊下でつながっている。それぞれのホテルは、独特の個性を持った浴槽になっている。宿泊客は自由に、露天風呂、打たせ湯、寝転び湯、ジェット噴流の湯、薬湯、アロマスチームサウナなどを楽しむことができる。さらに憩いの場「おあしす」に新設された、温水プールへも無料で入館できる。藤野温泉ホテル・アネックスは、三種類に強さを分けた打たせ湯とサウナを目玉としている。打たせ湯は温泉の落下場所が異なるので、好みの水量を選ぶことができる。恭二と詩織はロビーでコーヒーを飲みながら、つめかけてくる町民を暖かく見守っている。結婚式直後から、アネックス建設の所用に追われた。そのため新婚旅行へは、まだ行っていない。ロビー脇の喫茶は、風呂上がりの親子で一杯だった。「さっきコウちゃんから、今夜八時ころに『ミユ』に顔を出してくれって頼まれたわ」「誰がくるんだい?」「そこまでは聞いていない。でも忙しいだろうけど、二人揃ってちょっと顔を出して欲しいっていわれた」 フロントの電話が、鳴り始めた。二人は弾かれるように立ち上がり、詩織はフロントへ恭二は外へと向かった。玄関前には、宮瀬町長と斉藤観光課長がいた。「町長、斉藤課長、標茶町温泉郷オープンおめでとうございます」 近寄って、恭二は二人に頭を下げた。「恭二くん、ついにこの日がきたね。ワクワクしてきたよ」 宮瀬町長は目を細めて、うれしそうにいった。「さっき、全部の浴槽を見てきた。渡り廊下でつなげたのは、画期的なアイデアだね」 斉藤は満足げに、うなずいてみせた。恭二たちの結婚式のとき、「標茶の活性化のために不可欠な夫婦が誕生しました」とスピーチしたのは、斉藤だった。 ホテルに戻ると、フロント前に従業員の責任者が整列していた。宿泊部門責任者・フロント担当の坂口、料飲食部門の責任者・レシェプショニストの内藤、宴会部門責任者の中村、営業部門の責任者の安井、管理部門責任者の桧垣というメンバーである。詩織はこれらのメンバーを、足を棒にして集めてきた。「ではあと三十分で、営業開始となります。それぞれがしっかりと部下とともに、立派なスタートを切ってください」 恭二は詩織の声を聞きながら、美人女将の誕生だと思った。電話のベルは、ひっきりなしに鳴っていた。「ありがとうございます。藤野温泉ホテル・アネックスでございます」 大きな声が、詩織の声にかぶさった。恭二は自分の心臓が、高く鳴りはじめたのを感じた。■201:営業開始――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ03 十一時。瀬口詩織はフロントで、オープンの瞬間を待った。客室は本日から、二週間先まではすべて埋まっていた。続々と客がやってきた。フロント係の邪魔にならないように、詩織は一歩身を引いて立っている。三人のフロント係の前に、列ができた。責任者の坂口は、四つ目の窓口を作った。ベルボーイはすかさず、二番目に並んでいる二組をそちらへと誘導した。そして坂口は各列並びを、フォーク並びに変えるように指示をした。ベルボーイが赤いテープのついた、誘導ガイドを設置した。坂口は詩織の父・敏光が、友人に依頼して引き抜いた経験者である。詩織はその手際のよさに、驚きの視線を向けている。客は次々と、客室に誘導されて行く。フロント裏の事務室からは、電話の音が鳴り響いていた。詩織は急いで、事務室へ入る。外線は副支配人の沢村利香子と、アルバイト女性が裁いている。したがって、内線は対応できていない。詩織は利香子と席を替わる。内線の複雑な対応は、彼女にしかできない。「申し訳ございません。当館はあいにく再来週までは予約が一杯でして、お電話を標茶町観光協会へ転送させていただきますので、他のホテルの空き室状況をご確認ください」 詩織は電話を、観光協会に転送する。観光協会には、標茶町温泉郷の空き室状況が一目でわかる、電子ボードが設置されている。恭二は「おあしす」にある観光協会事務室で、忙しく働く社員の姿を見守っていた。三人の女性は、鳴りっ放しの電話の対応に追われている。「はい。十六日一泊お二人さまですね。満月家ホテルに空き室がございます。みながわ・ふみおさまですね。恐れ入りますが、連絡先のお電話番号をお願いします。はい、確かにご予約を承りました。私、加藤と申します」 加藤と名乗った女性はメモを破り取り、机上の「予約客ボックス」にそれを入れた。恭二は取り上げ、予約メモをボードに入力する。万月家ホテルの空き状況が、瞬時に変更された。 詩織のいる事務所に、つかの間の静寂が生まれた。大きく息を吐き沢村利香子は、「詩織さん、これがうれしい悲鳴ってやつですね」と笑った。詩織は自分のことを、「さん」づけで呼ぶように指導している。 猪熊ミユは、藤野温泉ホテル・アネックスのレストラン「タイ料理・ミユ」で忙しくオープンの日を迎えている。ミユは昨年、猪熊勇太と結婚し、本格的なタイ料理のレストラン経営者になっている。 標茶町は、長い長い冬眠から覚醒した。人の数よりも牛の数の方が多い、人口約七千九百人の町は千人を越える観光客で賑わっている。通りには色とりどりの浴衣に丹前姿があふれ、大型バスや乗用車が共同駐車場に乗りつけられている。■202:「ミユ」でのお祝い――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ04 午後七時、タイ料理「ミユ」には、宮瀬幸史郎・美和子夫妻、長島太郎・可穂夫妻、瀬口彩乃、猪熊勇太が集っている。勇太の妻・ミユは本日のために、タイMKレストランの厨房にいた、弟のユウを招き入れていた。MKの代表的料理タイスキを、メニューの柱に据えることにしたのである。 店は満席状態だった。ミユは、タイのビール・シンハー瓶を運んでくる。額には汗が光っていた。グラスにビールが注がれる。「勇太、ミユさん、開店おめでとう」 幸史郎の音頭で、グラスが掲げられる。ミユは口をつけないまま、あわただしく新しい客の対応に追われる。「勇太くん、大繁盛だね。おめでとう」 長島は店内を見回し、改めてお祝いの言葉を述べた。鍋が煮たってきた。勇太は慣れた手つきで、さまざまな具材を鍋に入れながらいった。「ありがとうございます。心配していましたが、無事に開店できました」 具材はすべて一口大になっており、海産物の練り物、肉団子、野菜、緑の麺などが、沸騰している湯のなかで泳いでいた。「もういいかな。手元の金網タモで好きなものをすくって、食べてみて。タレには刻みニンニク、ライムの絞り汁、唐辛子などを入れるとおいしくなる」 勇太は見本を示すように、具材をすくって隣席の彩乃の皿に入れた。エビのすり身を海苔で巻いたものを口に運び、彩乃はうれしそうな顔になった。「おいしい。勇太、すごくおいしいわよ」 午後八時ちょうどに、瀬口恭二・詩織夫妻が顔を出した。二人は出迎えたミユにお祝いを述べ、席についた。「勇太、すてきなお店ね。お客さんもいっぱい。おめでとう」 詩織の言葉を待って、改めて乾杯する。「藤野温泉ホテル・アネックスの開業。そしてタイ料理ミユの開店。おめでとうございます」 代表して、幸史郎があいさつをした。再びグラスが持ち上げられた。「きみたちのグループは、すごいよ。元担任として誇らしい」 長島は具材をすくいながら、みんなの顔を見回す。すでに顔は、真っ赤になっている。「先生のご指導のお陰です」 恭二の言葉に、みんなは笑った。「実は、今年の正月をタイで過ごさないか、という提案をしたかったんだ。大晦日と正月の三日ほどを、暖かいところで迎えるのもオツなものだ。一生懸命に働いてきたんだから、自分たちへのごほうびだよ」 全員が賛成した。うなずいて、勇太はいった。「宿泊予約やスケジュールは、おれが引き受ける。たまには、のんびりとするのもいい」「タイは一万円が三万円の価値になるんだよね。安月給のうちにとっては、ありがたいことだわ」「可穂、それはないだろう」 真っ赤な顔の長島は、妻に向かって笑いながらたしなめた。詩織はホテルのことが気になり、ビールを口にすることなく中座した。■203:恭二と詩織の日常――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ05 嵐のような、一週間が過ぎた。瀬口恭二・詩織夫妻は久しぶりの休みで、自宅でくつろいでいた。「恭二、お疲れさま。目の回るような一週間だったね」「観光協会の電話は、鳴りっ放しだ。オペレーターを増員することにした」「うちも宴会部が、手薄になっている。近いうちに募集の折りこみを入れなければならないわ」「毎日がこれでは、おれたちは仕事漬けの一生になりかねない」「そうね。日常がやせ細っている。でも正月のタイ旅行、楽しみだね」「コウちゃんは、仕事バリバリ家でゴロゴロを一番嫌っている。仕事と日常を両立させるのが、豊かな人生だといっている。中学を出てから、仕事ばかりで苦労しているので、ことさらその思いが強いみたいだ」「恭二、タイ旅行のメンバーで、毎月勉強会をしたらどうかしら?」「勉強会?」「勉強会といっても、お互いが講師になってレクチャーし合うような感じ。朝食を一緒にとって、語り合うのよ。たとえばコウちゃん講師なら、日常磨きのレッスンとか、恭二だったら健康に関する講師になるの」「おれが健康について、みんなにレクチャーするのか?」「たとえ話よ。一家族が一つのテーマをしっかりと勉強して、それをみんなに伝えるって感じかな」「詩織、それグッドアイデアだよ」 仕事バリバリ家でもバリバリ。忙しさのなかで二人が見つけたのは、そんなイメージの世界だった。恭二は詩織が、「疲れた」といわないことに気づいていた。詩織はその気持ちを、「楽しかったね」という言葉で代替させている。豊かな日常を創出する。ものすごく大切なことだと、恭二は思う。■204:小さな研究――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ06 瀬口恭二は長島太郎先生に会うため、標茶高校へ行った。あらかじめ電話で用件は伝えてあった。応接室に通され、恭二は自分の思いを伝えた。「このままでは、仕事一辺倒の毎日になりかねません。仕事をしながらコツコツ続けられる、何かを見出したいと思って、相談にきました」「一家族が、一つのテーマの講師になる。それをみんなにレクチャーし、みんなで学び考え合う。それはすばらしい企画だ。私も参加させてもらうよ。たとえば私と可穂なら、読書への誘いあたりかな。一ヶ月に一冊の本をみんなで読んで、その感想を語り合う。前からそんな場が欲しかった」「それいいですね。忙しくて本を読む暇がなかったんですが、それなら何とかなりそうです」「瀬口と詩織ちゃんなら、いい出しっぺなんだから、知的な日常あたりがいいかもね」「知的な、ですか?」「そう。知的な日常の最終ゴールは、ライフワークを持つか、小さな研究を継続させることなんだ。たくさんの趣味があることは大切だけど、ゴルフなどは知的な活動には含められない。知的な活動は、誰かの役に立つものでなければならない」「以前にライフワークの本を、読んだことがあります。やがては社会貢献できるもの、と書いてありました」「そのとおりだ。たとえば、私が担当するかもしれない読書なら、第一回目は『桃太郎』にしたいと思う。みんなには絵本でも岩波文庫でもいいから、何か一冊読んでもらう。それなら、単なる読書という趣味の世界だ。しかし私は講師役になるので、知的な世界を提供しなければならない」「おれたちが『桃太郎』を読むんですか?」「そうだ。桃がいくつ流れてきたのか。これだけでも選んだ本によって違う。一個だけ流れてきてばあさんがそれを拾った。最初に一個流れてきてばあさんがそれを食った。もう一つ流れてこい、といったら、また流れてきた。二個同時に流れてきた。どのストーリーが、正しいのか。私たちは推測を交えて、考えることになる」「おばあさんは流れてきた桃を、食っちゃうんですか?」「その設定が主流だよ。でも講師である私は、あらゆる『桃太郎』本を集めなければならない。小さな研究の出発点は、集める。それから整理する。それをまとめる。そして発信するというステップになる。発信するという最後のプロセスがなければ、単なる趣味で終わってしまう」「何だか難しい話ですね」「私の友人に、切手収集が趣味だった男がいた。集めて切手帳に整理するだけなら、それは趣味の世界だ。ところが彼は国別に並べた切手帳を、絵柄で分けることを思いついた。人物や建物や動物などに、区分したんだ。すると彼は、人物は誰でその国はどんな時代だったのかまで、調べたくなった。つまり、集める、整理するの先へと、ステップアップしたんだ。それが考える、まとめるのステージだ。そして彼は自費出版で一冊の本として発信した。これが趣味と小さな研究との違いだよ」 恭二の胸のなかに、むくむくと闘志がわいてきた。幸史郎や勇太たちを巻きこんで、小さな研究をしなければならない。恭二は強い決意を固めた。■205:五家族の小さな研究――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ07 恭二の提案は、全員の賛同を得られた。毎月第三土曜日の午前七時から九時半までを、「知だらけの学習塾」の開催日とすることが決まった。恭二は四家族と何度も電話で相談して、それぞれの小さな研究テーマを次のように決めた。 瀬口恭二・詩織=人間力マネジメント長島太郎・可穂=これだけは読んでおきたい名作宮瀬幸史郎・美和子=日本語の研究猪熊勇太・ミユ=おふくろの味の研究瀬口恭一・彩乃=病気と健康 瀬口恭二夫妻の研究テーマは、長島太郎の半ば命令によるものだった。「恭二、すごいことになったわね。私たちは『人間力マネジメント』を研究するのね。何のことなのか、私にはさっぱりわからない」「まずは『人間力』とタイトルがついた本を集めることだな。おれにもさっぱりわからない。きっとコウちゃんとおれの違いを、浮き彫りにすることになるのかな?」「恭二は、コウちゃんと同じくらいすてきよ。人間力が豊かだと思う」「てへへへ。では、おれ自身の人間力を分析するわけだ。第一回は長島家の担当で、それまでに絵本でも何でもいいから、『桃太郎』を読んでくるようにとのことだ」「この歳になって、『桃太郎』を読まなければならないのね。そんな絵本を読んで、長島家は何をさせたいのかしら?」「わからないけど、二人で一冊ずつ買い求めることにしょう」「私、図書館で借りてくる」 二人は突然生まれた、知的な集いを楽しみにしている。漫然と過ごしていた毎日に、知的な洗剤をつけたスポンジを、放りこまれた感じだった。これで無味乾燥な、毎日を洗い流せ。第三土曜日の集まりは、大いに刺激的なものであった。「私ね、ゆとりのない毎日は嫌だって、ずっと思っていた。こうして二人でお勉強ができるのは、大歓迎だわ」「集める、整理する、まとめる、発信する。これが知のステップアップなんだって。とりあえずは、アマゾンで『人間力』の本を検索してみよう」 詩織はパソコンに向かって、「人間力」とキーワードを入力した。「きゃあ、恭二。ものすごい数の本がある」「二人で一冊ずつ読んでみよう。二冊を合わせたら、何かが見えてくると思う」「でも恭二、ワクワクしてきた。日常を充実させるのって、とても大切なことよね」 長島太郎と可穂は、十冊の『桃太郎』を前に話し合っている。「みんなには事前に、読んだ本の内容を書き抜いてきてもらわなければならない。そのうえで、私たちがコメントをする。たとえば、流れてきたのはなぜ桃なのか、柿ではまずいのか、などを説明する」「難しそうね」「そこは私がするから、可穂は事前書きこみ用紙を作ってもらいたい」 可穂は長島のいうことを、書き取った。Q1・流れてきた桃は何個でしたか?Q2・二個としたら、時間差で流れてきましたか?同時でしたか?Q3・流れてきた桃の大きさを、推察できますか?Q4・桃太郎はきびだんごを、何個持っていましたか?Q5・家来にした動物は、どの順序で登場しましたか?Q6・動物たちは桃太郎の腰につけているものを、きびだんごだと、どうして知りましたか?Q7・なぜきびだんごだったのでしょうか? いも団子では駄目なのですか?Q8・鬼が島には、鬼は何匹いましたか?Q9・桃太郎は鬼が島から、何を持ち帰りましたか? 可穂は育児休職中であるが、二人とも教師である。長島は人生とまじめに向かい合っている、元教え子たちの力になってあげたいと思っている。■206:桃太郎の謎――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ08夕食を終えて恭二と詩織は、片づけた食卓に本を広げた。恭二は、こども向けの絵本。詩織は、岩波文庫を開いている。「Q1.流れてきた桃はいくつですか? おれのは一個。それもバレーボールくらいに大きい」「岩波文庫では二個だった。最初に流れてきた桃をお婆さんは食べてしまうの。それでもう一個流れてこい、というのよ。するとまた流れてくるの」「長島先生がいうように、本によって違うんだな。おれ、以前にネットで読んだんだけど、二個同時に流れてきて、小さい方の桃は流れて行ってしまうんだ。そこには妹の桃子が入っていて、鬼ヶ島の鬼に拾われる。それで大きくなった桃太郎は、妹を取り返すために鬼ヶ島へ行くのさ」「恭二、おもしろい。そっちのストーリーの方が、物語らしいわ」 第一回「知だらけの学習塾」は、賑やかに終わった。講義と意見交換を通じて、長島太郎はたくさんの新しい発見をした。家来になったのはなぜ、サルとイヌとキジなのか。こう投げかけたとき、宮瀬幸史郎がユニークな見解を発表した。動物で日本の冠がつけられているのは、犬と猿とカモシカだけである。カモシカは洋物なので、昔話の時代には存在していない。そしてキジは国鳥である。だから日本犬と日本猿と並んで選ばれたのだ。「楽しかったわね」 彩乃は三歳になる娘をあやしながら、愉快そうに笑った。「ミユも絵本の桃太郎を読んだ。タイでは日本昔話は、タイ語で放映されているんだって」 勇太の話を受けて、ミユはいった。「だからお話は知っていたわ。でも今日の話は、日本語が難しかった」「来月はおれたちの当番だな。日本語の研究担当としては、助詞の『が』と『は』に迫ろうかと考えている。恭二、ちょっと日本昔話の冒頭を、しゃべってみてくれないか?」 幸史郎夫妻は、日本語の研究をしている。かなり勉強が進んでいるとみえて、幸史郎は自信満々だった。恭二は投げかけられた問いに応えた。「昔あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山に芝刈りに行き……」「はい、そこまで。恭二は最初に『おじいさんが(・)』といい、次に『おじいさんは』といった。このあたりについて、レクチャーしてみたい」「幸史郎くん、国語の先生でもわからないよ。昔あるところにおじいさんとおばあさんは(・)住んでいました。おじいさんが(・)山に芝刈りに……とは絶対にいわないよな」「そうなんです。最初に『が』がくる決まりになっているんです」 恭二には、さっぱり意味がわからない。詩織の顔をのぞきこんだが、首を横に振ってみせた。
2018年02月25日
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一気読み「町おこしの賦」191-198■191:新築祝い――『町おこしの賦』第6部:雪が26 瀬口恭一・彩乃夫妻の、新居が完成した。二人は女の赤ちゃんを抱いて、恭二と幸史郎を出迎えた。先客がいた。彩乃の親友の国枝美和子だった。彼女とはウォーキング・ラリーで、顔を合わせている。 恭二は新築の匂いをかぎながら、部屋のなかを歩き回る。リビングは、南向きで広々としている。キッチンは対面式になっており、明るい陽光が差しこんでいる。ベッドルームには、小さなベビーベッドもあった。いたるところに収納があり、恭一の書斎には作りつけの書棚が、天井まで伸びていた。「いいな。コウちゃん社長の、初仕事だよね。立派なもんだ」 恭二がほめると、幸史郎は自慢げに胸を叩いてみせた。「恭二、忙しくなってきたみたいだな」 兄の恭一は、まだ視線を泳がせている弟に語りかけた。「うん、お陰さまで。藤野温泉ホテルの隣りに、あと三軒の建設が決まった。いよいよ故郷は、一大温泉郷へと変身だよ」 トイレに立った幸史郎を確認して、彩乃は恭二の脇に座り、小声でささやいた。「恭二さん、美和子はね、兄貴と交際したいんだって。ウォーキング・ラリーのときに見そめて、それからは眠れない毎日なんだって。だから力になってあげてくれない?」彩乃は美和子を見ながら、恭二の脇腹を軽く突いた。美和子は赤面して、下を向いてしまった。「わかった。まずは席替えだな。美和子さんは、ここに座って。コウちゃんはその隣りだ」 いいながら恭二は、席の移動をはじめる。 帰りは幸史郎が、美和子を車で送るように仕向けた。恭二は用事があるといって、電車で帰ることにした。走り去る幸史郎の車を見送って、彩乃は「恭二さん、ありがとう」と頭を下げた。 秋の空には、満月があった。温泉郷完成までは、あと二年。その日も満月だったらいいな、と恭二は思う。■192:文芸誌新人賞――『町おこしの賦』第6部:雪が27 新築祝いのあと、駅の売店で新聞を買った。第一面に、文芸誌の宣伝が掲載されていた。何気なく目を落とした恭二は、思わず飛び上がりそうになった。文学界新人賞のところに、浅川留美の名前を見つけたのである。恭二は驚いて、待合室を飛び出した。標茶行き電車の発車までは、あまり時間がない。大急ぎで書店まで駆ける。文芸誌は、標茶の書店には置かれていない。 目的の雑誌を買い、全速力で駅へと戻る。発車二分前。改札を抜け、階段を猛スピードで下り、ホームへの階段を駆け上がった。間に合った。肩で息をしながら、呼吸が整うのを待つ。もどかしい思いで、ページを開く。――『同棲ごっこ』浅川留美 タイトルと著者名の下に、笑顔の留美がいた。プロフィールでは、ニューヨーク在住となっている。「小説を書く」といっていた留美は、夢を実現させたのだとうれしい気持ちになった。ところが本文を読みはじめて、恭二は胸が押しつぶされるような気持ちになった。 主人公「わたし」と同棲しているのは、まさに恭二そのものだったのである。名前こそ京太郎にしてあるが、留美と暮らした日々がそのまま表現されていた。京太郎は、臆病で早漏で怠惰な男だった。主人公の「わたし」は、同棲相手の京太郎のそうした欠陥を、調教する使命に燃えている。 恭二は途中で、読むのを止めた。怒りのために雑誌を持つ手が震え、息苦しくなってしまったのである。活字から目を離し、窓外に視線を向ける。そこには欠陥だらけの、モデルの顔が映っていた。 気持ちを切り替えて、恭二はもう一度活字に目を落とす。図書館での出会い。予備校からH大学へ。二人のマンション探し。同居。粗末な調度品。みんな現実と同じだった。夜の営みもそう書かれてしまえば、そうなのかもしれないと思えてくる。京太郎は入社した会社を、すぐに退職してしまう。その報告を聞いた「わたし」は、自分の調教が失敗に終わったことを悟る。 これは小説というよりも、ねじ曲げられた暴露記事のようなものだ。読み終えて、恭二は雑誌を激しく叩きつける。■193:留美の話――『町おこしの賦』第6部:雪が28 浅川留美の『同棲ごっこ』はベストセラーになり、芥川賞の候補にも上げられた。恭二が留美の帰国を知ったのは、タウン誌『くしろ』の宗像修平からの電話でだった。釧路市出身の芥川賞候補作家というインタビュー記事で、取材をしたとのことだった。そのときに宗像は、作品中の京太郎のモデルが瀬口恭二だということを知った。だから少し、話を聞きたい。宗像は電話口でそう告げた。恭二は留美と一緒の取材なら受ける、と答えた。 宗像はあっけないほど素早く、明後日に釧路の留美の自宅でインタビュー、という段取りをつけた。 留美との、再会の日がきた。恭二ははやる気持ちを抑えて、留美の自宅を訪れた。いきなり留美は、玄関に現れた。「恭二、久しぶり」 屈託なく笑って、留美は恭二に抱きついてきた。リビングにはすでに、宗像とカメラを抱えた男の姿があった。恭二は宗像の向かいに、留美と並んで座った。待ち構えていたように、フラッシュが光った。「さて『同棲ごっこ』のお二人がそろったので、インタビューをさせていただきます。最初に浅川先生に確認させていただきますが、あの小説の京太郎のモデルは瀬口恭二さんで間違いありませんね」「はい。でも京太郎は、私が創り上げた架空の人物です。私と恭二が一緒に住んでいたことは事実ですが、作中の京太郎は恭二とは違います」「では、瀬口さんイコール京太郎ではないわけですね?」「恭二は、臆病でも早漏でもありません。嘘のつけない、まじめな人です。主人公の『わたし』を強い女にしたために、脇役の京太郎はとことん駄目な男にしなければならなかったわけです」「いやあ、あまりにも人物造形がみごとだったので、てっきりモデルが存在すると思っていました」「京太郎が恭二だったら、恭二はかわいそう」 久しぶりに聞く声だった。物語の進行は事実だけれど、小説のなかで「わたし」に寄り添う京太郎は架空の人物である。留美はそう断言した。恭二は心の澱(おり)が、消えてゆくのを感じた。そして留美に質問した。「小説を読んで、京太郎はおれだと思った。正直、侮辱されたと腹を立てていた。でも話を聞いて、納得した」「ごめんね、恭二」 忙しくノートにペンを走らせながら、宗像は質問を続ける。「瀬口さんとの出会いや、同居などは事実である。しかし小説のなかの京太郎は、瀬口さんとは別物で、想像上の人物である。これでいいですね」「はい、そのとおりです」「浅川先生の今日に、瀬口さんの存在はどう関与していますか?」「小説家になると決めたのは、二人で将来の夢を語り合ったときです。小説ではH大としていますが、浪人時代も北大に一緒に入ろうと励まし合っていました。恭二はまぎれもなく、今の私を育ててくれた恩人です」「釧路で執筆活動をなさるわけですが、いろいろ不便はありませんか?」「原稿はメールで送れますし、ほとんどのことは電話で用が足ります。不便は感じません」「瀬口さんにとって、浅川先生はどんな存在ですか?」 質問の矛先が、恭二に向いた。恭二は少し考えてからいった。「当時は、とても大切な人でした。しかし現在は思い出のなかにのみいる、大切だった人です」「恭二、何だか意味深な発言ね。いい人ができたんだね」 留美は屈託なく笑って、恭二の膝に手を置いた。置かれた左手の小指には、光る大きなリングがあった。■194:高校の文化祭――『町おこしの賦』第6部:雪が29 標茶高校の文化祭に招かれ、恭二は懐かしい部室に足を運んだ。「瀬口です」といってなかに入ると、三人いた女子高生が一斉に立ち上がった。「お待ちしていました。瀬口先輩」 そのなかの一人が深々と頭を下げて、歓迎の言葉を発した。彼女が新聞部長らしい。そう思った恭二に、彼女は自己紹介した。「新聞部部長の、阿部かりんといいます。これから、文化祭のご案内をさせていただきます。その前に、これをご覧ください」 壁に並ぶ表彰状を指差し、「これは瀬口先輩が獲得したときの、全国高校新聞最優秀賞のものです。回収騒ぎになった新聞も、貼ってあります」 賞状と新聞を眺め、ついこの前のことのように思った。南川愛華がいて、詩織がいて、可穂がいた。「ずいぶんたくさんの賞状があるね」 恭二の言葉に阿部は、「先輩たちが築いてくださった、伝統のお陰です」といった。 文化祭会場を一通り見た恭二は、阿部にお礼をいって高校を後にした。校門を出たとき、クラクションが鳴った。運転席から手を振っているのは、幸史郎だった。「文化祭の帰りか? 送って行くよ。乗りな」 恭二は勧められるまま、助手席に座った。「コウちゃんと辺地校を、訪問した日がよみがえってきた」「そんな日もあったな」 車は札幌時計台を通過し、オランダ坂に差しかかった。突然、幸史郎がいった。「恭二、詩織ちゃんのこと、どう思っているんだ?」「今も好きだよ。大切な友だちだと思っている」「それだけか?」「それ以上、何だっていうんだ」「実はな以前、おれ詩織ちゃんに、プロポーズしたことがある。前に冗談めかしていったけど、あれは事実だ。あっさりと断られたよ。私にはずっと、思っている人がいるって。魔が差して変な結婚したけど、その人が許してくれるまで、待つんだってよ」「コウちゃん、変なこと知らせてくれるなよ。何だか切なくなってきた」「詩織ちゃんのところで、降ろしてやろう。ちょっとくらいお話ししてから、家へ戻ったって遅くはならない」 強引に、下車を命ぜられてしまった。恭二は、藤野温泉ホテルを見上げた。隣りには赤い鉄骨柱が、空に向かって伸びていた。 恭二はホテルには入らず、そのままきびすを返した。その二が完結するまでは、会わない方がよいと考えたのだ。■195:残された二人――『町おこしの賦』第6部:雪が930 長島可穂は、無事に男児を出産した。猪熊勇太は日本では結婚式をしなかったが、タイでは三百人を招いての、豪華な結婚式をあげた。もちろん相手は、ミユさんである。恭二と詩織は出産と結婚のお祝いを持って、それぞれの家庭を訪問した帰りである。詩織は車の運転をしながら、助手席の恭二に話しかけた。「みんなどんどん、幸せになってゆく。可穂も勇太も、うれしそうだったね」「コウちゃんも、彩乃さんの親友と熱愛中だ。考えてみれば、残されたのはおれと詩織だけになってしまった」 急に車が停まった。「新しいレストランができたんだ。ちょっとのぞいてみようよ」 目の前には、赤い三角屋根のしゃれた建物があった。「ずっときてみたいって思っていたんだけど、くるなら恭二と一緒に、とがまんしていたの」 二人は窓辺のテーブル席に座る。「まだ新築の匂いがする」 コーヒーを注文して、恭二は店内に目を向ける。天井からは、氷柱の形をしたライトが吊されていた。壁面には、さまざまなコーヒーカップが並べられている。室内は黄色で統一されていた。「詩織の色の、お店だね」「うん、入った瞬間にそう思った」 コーヒーが運ばれてきた。店内には低い音で、ジャズが流れている。新しい客が入ってきた。空気が揺れた。「恭二、明日の夜、時間取れる?」「大丈夫だけど」「その二が完成したの。だから明日、きて」 詩織の大きな瞳に、氷柱ライトの光が映っていた。「それは楽しみだ。喜んで、明日おじゃまするよ。ところで詩織、明後日は空いてる?」「うん、大丈夫」「朝から時間を取っておいてくれないかな」「どうするの?」「内緒」 詩織は笑った。「恭二ったら、じらしてばかりなんだから」■196:その二――『町おこしの賦』第6部:雪が31 翌日、恭二は約束の時間に、藤野温泉ホテルを訪ねた。詩織が迎えてくれた。レストランに案内された。「ちょっと待っててね。さっきまで、必死で料理していたんだ。私の作ったその二を運んでくるから。その前にビールだね」 ジョッキのビールが、テーブルに置かれた。二人は乾杯した。「じゃあ、運んでくるね」 ほどなく詩織は、大皿に盛りつけられたキンキを運んできた。みごとな色つやで、甘い香りが鼻孔に広がった。「詩織、見た目は最高だよ」 恭二の向かいに座り、詩織は目を輝かせている。箸をつける。口に運ぶ。咀嚼(そしゃく)する。完璧な味だった。「詩織、おいしい。これまで食べたなかで、一番おいしいよ」 詩織の大きな瞳から、涙がこぼれた。恭二は詩織の隣りの席に移動して、揺れる肩を抱いた。そしていった。「詩織、合格だよ。最高の味だ」 詩織の肩に回した手に、力を入れる。その肩は、激しく揺れていた。恭二は元の席に戻る。そしていった。「詩織、一緒に食べよう」恭二は自分の箸を、詩織に渡した。前髪をかき上げながら、詩織は箸を動かす。口に運んだ。「恭二のキンキ、とてもおいしい」 涙顔はしっかりと、恭二をとらえた。また新しい涙が浮き出てきていた。恭二は、詩織を愛おしく思った。詩織がキンキを乗せた箸を、恭二に差し出している。恭二は口に入れた。涙腺が緩んだ。恭二は手のひらで、目頭を拭う。そして、告げた。「明日、九時の電車で釧路へ行こう。その三の日がきたんだよ、詩織」■197:その三――『町おこしの賦』第6部:雪が32瀬口恭二と藤野詩織は、手をつないで釧路駅に降り立った。詩織は、黄色いハーフコートを着ていた。恭二は白のコート姿である。「詩織、覚えているよね。釧路でのデート」「ストラップのプレゼントを、し合ったよね」「それを、またやろうと思っている」 二人は、駅ビルのお店に向かった。店内の様子が変わっていて、ストラップの売り場が見つからない。向こうから、詩織の声が聞こえた。「恭二、きて!」 すでに詩織は、二本の黄色いストラップを手にしている。「恭二、これよ。あのときのものと同じ」 詩織は二つをレジに持って行って、値札タグを切ってくれるようにお願いした。店を出ると二人は並んでベンチに腰をかけ、自分のスマホにそれを取りつけた。「何だか、あの日に戻ったみたい」 詩織はスマホを振りながら、目を輝かせている。恭二はあの日が今日に、つながることを演出したかった。それまでの時間は、全部抹消してしまったのだ。寒風のなかを、二人は抱き合いながら歩いた。詩織もあの日と、今がつながったと感じていた。恭二はやさしい儀式で、私を迎え入れようとしてくれている。詩織は恭二からの、その三を待っている。 幣舞橋は、霧に覆われていた。何も見えない。二人は橋の真ん中で、立ち止まった。恭二は詩織を真正面にすえて、じっと詩織の目を見た。「詩織、愛している。結婚してもらいたい」 詩織が飛びついてきた。二人は抱き合い、キスをした。詩織は泣いていた。「恭二、うれしい。ありがとう」 霧のなかに、二人だけの濃密な空間が生まれた。霧のなかから、汽笛が聞こえた。二人はまだ抱き合ったままだった。時は止まった。■198:恭二、きて!――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら33 ストラップの交換をした一週間後、恭二と詩織は阿寒温泉ホテルの宿泊客になっていた。恭二は記帳カードに、妻・詩織と書いた。入浴と食事を済ませ浴衣姿の二人は、窓辺のソファでビールを飲んでいる。部屋には二つの布団が並んでいた。「恭二、妻って書いてくれてありがとう。ものすごくうれしかった」「中学生のときから、詩織はおれの嫁さんになるって信じていた」「幸せ過ぎて、何だか怖い」 恭二は詩織の肩を抱いて、布団の方へ誘った。そしてカバンから小箱を取り出した。「詩織、プレゼント」 ていねいに包装を解き、詩織はなかのものを取り出す。「開けてみて」 詩織は蓋を開ける。「恭二、指輪だ。イエローダイヤの指輪だ」 恭二は詩織の左手を取り、薬指にそってはめる。「ぴったりよ、恭二。うれしい」 詩織は泣きながら、恭二に飛びついてきた。反動で倒れた恭二の上で、詩織は左手を宙にかざしている。恭二は詩織の背中に手を回し、きつく抱き締めた。また、時が止まった。「恭二、きて!」 詩織は自分のカバンを、探りながらいった。詩織は細長い包みを、恭二に手渡す。黄色のネクタイだった。「詩織、ありがとう。おれの勝負ネクタイにする」 二人は再び熱い抱擁を交わす。恭二がトイレから戻ったら、部屋の電気は消されていた。暗闇のなかで、詩織が呼んでいる。「恭二、きて!」 這いつくばって、声の方に身を進める。詩織がいた。抱き寄せる。長いキスをした。詩織の浴衣に手をかける。そして胸元を開く。「詩織、ちゃんと見たい」 詩織は何もいわない。恭二は枕元の電気スタンドに、手を伸ばす。詩織の裸身が横たわっていた。白い乳房は記憶のものよりも、ずっと成熟して大きかった。美しいと思った。恭二はピンク色の乳頭を、そっとつまんでみる。詩織の身体が揺れた。唇をそこにあてる。詩織が何かを叫んで、動いた。電気スタンドの明かりが、消えた。そして暗闇のなかから、今度ははっきりと、詩織の声が聞こえた。「恭二、きて!」(『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら。終わり。第7部につづく)
2018年02月25日
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一気読み「ビリーの挑戦」020-029020cut:最初が肝心だ――04scene:前任者の送別会影野小枝 釧路管内標茶町の藤花温泉ホテルです。チーム全員が、浴衣がけでくつろいでいます。前任者・鈴木さんの送別会です。もちろん、漆原さんは参加していません。鈴木 おまえたちには、好きなようにさせてきた。おかげで実績は伸び悩んだが、これも運だ。今度の漆原は、新任で超張り切っているので、覚悟しておけ。石川 鈴木さんにはゴルフや女遊びなど、楽しいことをたくさん教えていただき、感謝するとともに恨んでもいます。鈴木 おいおい、ぶっそうなことをいうな。おれがどう恨まれるようなことをした? 石川 鈴木さんは独身で金持ちだけど、うちは貧乏所帯です。遊びを覚えた分、散財が多くなって、いまや危機的な状態です。山崎 石川さんは、母ちゃんが怖いのです。完全なるカカア天下だから。乾 鈴木さん、山梨は売れていますね。鈴木 部下は4人で、このチームの半分だけど、売上はここと同じくらいだ.山之内 漆原さんって、どんな人ですか? 鈴木 MRとしては全国区の実力者だ。ただし名選手が必ずしも名コーチとはかぎらない。自己顕示欲が強いし、何といっても態度が横柄だ。おまけにおまえたちの実績をみて、クズ集団だといっていた。熊谷 オフィスで顔を合わせたのであいさつしたら、いきなり月売が500万の熊谷くんだね、といわれました。石川 嫌味なやつだよな。山之内 かき回されないように、出鼻をくじかなければならないな。何たって、最初が肝心だからな。鈴木 親がいなくなって初めて親のありがたみがわかる、っていうじゃないの。おまえたちはきっと、おれのありがたみを痛感することになるだろう。そうなったら、連絡をよこせ。いつでも拾ってやるから。寺沢 えー、山梨ですか。東京なら喜んで行きますけど……。熊谷 ゆううつだな。競走馬みたいにケツ叩かれたくないよ。乾たちはいいな。毎日、顔を合わせなくてすむんだから。影野小枝 みなさん、漆原さんを警戒していますね。ぬるま湯的な、このチーム体質は改善されるのでしょうか? 021cut:指示も命令もしない――04scene:前任者の送別会影野小枝 藤花温泉ホテルの、浴槽での会話です。石川さんと山之内さんのようです。私は女湯にいます。山之内 漆原さんがきて、オフィスは変りましたか? 石川 まったく変っていないよ。漆原さんって、指示も命令もしない人みたいだ。山之内 口うるさくないのなら、楽でいいじゃないですか。石川 だから不気味なのさ。山之内 あの人、MR時代に、月2000万円以上売っていたようです。石川 売りやすいテリトリーだったのと違うか。がんばったところで、給料が変るわけでもなし、まあのんびりとやろうぜ。山之内 張り切って、飛ばさないでください。MRの仕事は営業じゃないのですから。ドクターの薬剤パートナーとして、正しい情報を伝えればいいだけです。石川 わかっている。おれには、人を出し抜いてまで、やるだけの気構えはない。山之内 MRの業績を、売上で判断するのはまずいですよね。石川 おれもそう思う。影野小枝 のぼせてきました。聞き耳はこのあたりまでに、させていただきますね。022cut:典型的な昔タイプのリーダー――04scene:前任者の送別会影野小枝 送別会の帰りです。太田さんが運転する車に、帯広のメンバーが同乗しています。太田 鈴木さん、何だか寂しそうだったですね。乾 生まれてから、ずっと北海道だからな。それに、ここよりも小さなチームの担当になるのだから、内心は穏やかではないさ。太田 左遷でしょうか? 乾 まあ、成果が出なかったのだし、仕方がないよ。太田 責任の一端は、我々にもあるってことですね。山之内 いっちゃ悪いけど、鈴木さんから何を学んだ? お昼どきに、家の前に車があるのを何度も見たって聞いたことがあるし、リーダーとしては失格だよ。山崎 ほら、サボってマスターズを見に行って、テレビに映っちゃった話。あのときは、始末書を取られのだろう。山之内 あれは、ドクターと一緒だったと逃れたのだが、支店長がドクターの名前をいえって迫って、適当にいったら確認をとられた。乾 それでウソがばれちゃって、始末書となった。山崎 同行しても途中で用事ができたと帰っちゃうし、移動の車中では自慢話か小言ばかり。会議では一方的にしゃべりまくり、終わったらなじみのエッちゃんの店へ、みんなを引き連れて行く。典型的な、昔タイプのリーダーだったよな。山之内 今度の人は、数字にはうるさそうだ。熊谷が、怒っていただろう。500万円に満たない、熊谷かっていわれたって。023cut:個人が竹やりを持って――04scene:前任者の送別会影野小枝 送別会の帰りの釧路組の車です。寺沢さんが運転する車に、鈴木リーダーと釧路のメンバーが同乗しています。鈴木 チームメンバーの住まいが分かれているのは、大きなハンデだよな。メンバーが顔を合わせるのは、月に1回のチーム会議だけだから。石川 帯広の連中を、釧路から通わせるのはまずいんですか? 鈴木 支店長にお願いしたことがあったのだが、訪問効率が悪いって、ぜんぜん聞く耳を持たない。最悪の環境だよな。石川 我々にはオフイスがあるからいいけど、帯広の連中はかわいそうです。鈴木 部下に指示するにしても、集めて1回しゃべれば済むことを、何度も繰り返さなければならない。フェイス・トゥ・フェイスと電話では、まったくニュアンスが違う。田中 乾さんともっと情報交換できれば、実績アップになるのですが。どちらも担当先が、札医大の同じ医局の先生たちですし……。熊谷 だいたい、札幌の大学担当者から、まったく情報が入らないのもおかしいよ。石川 せめて、我々のチームだけでも、きちんと情報交換したいものだ。寺沢 何だか、個人が竹やりを持って突入している感じです。チームがひとつにまとまらないと、負け戦になります。鈴木 月に1回の会議では限界があるし、毎週1回集めるには遠すぎるからな。まあ、漆原リーダーのお手並み拝見といこう。熊谷 失礼なやつだよ、漆原って。地域の特殊事情も知らないで、数字のことで嫌味をいいやがる。鈴木 石川をおれの後任にしたかったけどな。おまえたち、覚悟しておけ。数字を上げるためには、何でもありで絞られるぜ。024cut:ダメはどこへ行ってもダメ――04scene:前任者の送別会影野小枝 漆原さんは喫茶店「場」にいます。常連客が昨日の選挙結果で盛り上がっています。常連C 民主党の敗北原因は、選挙戦略の失敗だな。常連D Cさんのところの薬は、夏の天気次第なのだから、戦略とは無縁じゃないの。常連C バカいうな。長期天気予報を見て猛暑ならそれなりの戦略、冷夏ならそれにふさわしい対応をするのが、トップマネジメントの役割だろうが。常連D 去年は冷夏で売れなかったって、盛んに嘆いていたのは誰ですか? 常連E それにしても小選挙区で落ちたやつが、比例でよみがえる制度は理解できない。常連F 営業職でダメだったやつが、内勤職に替わったらトップクラスの評価になった。常連E ちょっとたとえが違うと思うけど。でも、そんなケースはあるのか? ダメはどこへ行ってもダメと違うか? 漆原 がっかりするようなことをいわないでくださいよ。うちは全国最下位のチームだけど、1年間でよみがえらせなければなりません.常連C 営業格差はまぎれもない人災である。『人間系ナレッジマネジメント』に書いてあったよな。ウルちゃんなら、きっと変えられるよ。漆原 教え、育てているのに、成果が上がらないやつがダメな営業マン。それをしていないで部下にダメの烙印を押すのが、人災リーダーということですね。常連E 何だか耳が痛いよ。ウルちゃん、耳の薬持っていない? ◎漆原の日記 休日だったけど、刺激をもらいに「場」へ行ってきた。相変わらず、凛(りん)とした言葉のキャッチボールが小気味よい。チームメンバーは鈴木リーダーの送別会で、昨夜から温泉三昧である。喫茶店「場」の雰囲気を、何としてでもチーム内に移植したい。025cut:古い概念に凝り固まっていて――04scene:前任者の送別会影野小枝 ビデオ製作会社の打ち合わせ風景です。製作 標茶(しべちゃ)町は、釧路から摩周湖方面に向かって一時間ほどのところにある。ここは画像(え)になると思う。釧路湿原を縫うように走ると、キタキツネやエゾジカが飛び出してくる。澄んだ水辺では、丹頂鶴の親子が餌をついばんでいる。監督 いいね、いいね。教育用ビデオって、自然と無縁なのが普通だからな。ここはきれいに、バシッと決めたいね。製作 藤花温泉ホテルも、実際に存在する。モール温泉といって、植物性の温泉のようで、お湯が黒ずんでいるのが特徴だ。さらにここには、日本一の敷地面積を誇る標茶高校がある。敷地内には、トラクターの運転練習コースや乳製品の加工工場まである。助監督 既存の温泉ホテル名を、そのまま使うのには抵抗があります。製作 変更は許されない。何でも原作者の親友が経営しているらしく、友情の証だとか、古い概念に凝り固まっていて……。監督 浴衣がけのむさくるしい男ばかりが9人、車座になって酒を飲んでいるカットはいただけんな。標茶ってところには、芸者はいないの? 製作 断言できるが、いるはずがない。監督 中里、何とか華を探せ。大広間の隣席にピチピチの女子大生がいるなど、何でも構わん。助監督(原作に赤を入れながら)わかりました。 026cut:全員にノートパソコンを支給する――05scene::4月チーム会議影野小枝 釧路営業所の会議室です。4月会議の前日です。8人の部下が勢ぞろいしています。室内には、水色のケーブルが横たわっています。漆原 明日は、はじめてのチーム会議です。その前に、みなさんにプレゼントがあります。こちらは、本社システム部の木村さんです。これから、全員にノートパソコンを支給します。影野小枝 歓声が上がりました。漆原 チームの半分が駐在員です。このハンデを克服するために、支店長にお願いして許可してもらいました。これからは、チームのコミュニケーションをパソコンでおこないます。パソコンをすでに、持っている人はいるかい? 山之内 持っています。チームでは、私と石川さんしか持っていません。漆原 これから、木村さんに指導してもらいます。このチームが有効活用できたら、全社導入になるとのことです。責任は重いよ。しっかりと学ぶように。木村 昨日は、釧路名物の炉辺焼きを堪能しました。私としては、みなさんの覚えが悪く、長いこと滞在できればとの邪心もあるのですが。石川 そうなるって。太田とパソコンって、絶対にミスマッチだから。太田 バカにしないでください。いまどきパソコンを使えないのは恥ですよ。木村 漆原さんからの指示で、みなさんには、ワード、エクセル、メール、インターネットを覚えていただきます。ただしインターネットで、エッチなサイトは見ないでください。見たら記録が残りますからね。石川 太田、分かったな。見ちゃいけないのだよ。影野小枝 チームに、ノートパソコンが導入されました。これが、チーム再建の武器になるのでしょうか。チームのみなさんには、結構インパクトのあるプレゼントだったようですね。027cut:数字に関心を持たなければならない――05scene::4月チーム会議影野小枝 初めてのチーム会議の朝です。8人のチームメンバーは、席についています。会議室はホワイトボードに向かって、スクール形式に座席が配置されています。漆原さんが入ってきました。漆原 おはよう。はじめてのチーム会議だけど、この机の配置ではダメだな。ロの字型に並べ替えてもらいたい。石川、なぜこの形式ではダメなのだろうか?石川 講義みたいな形式では、ディスカッションがしにくいからだと思います。漆原 そう、そうだよな。お互いの顔を見ながら意見交換をするには、これではちょっと不向きだよな。影野小枝 チームメンバーが席の移動をはじめました。その間、漆原さんはホワイトボードの左隅に全員の名前を記入しています。漆原 よし、ありがとう。これから、いくつかの質問をするので、大きな声で答えてもらいたい。いいね、回答の順番は、(ホワイトボードを指差し)この通りとする。影野小枝 漆原さんは横軸に「月平均売上」と書きました。部下たちは、ざわざわとノートを広げはじめています。漆原 ダメだ。ノートは閉じる。自分の頭で考えて、答えてほしい。まずは、前年度の月平均売上だ。はい、石川から。石川(電卓を叩きながら)650万円くらいだと思います.漆原(手元の書類に目を落として)725万円だよ。(電卓を叩き)誤差率12%だ。影野小枝 漆原さんはホワイトボードに、月平均売上と誤差率の数字を記入しました。漆原さん、始動したようですね。展開を見てみましょう。漆原 誤差率がいちばん低かったのは7%の山崎だ。逆に太田は28%。これはひど過ぎる。もっと自分の数字に関心を持たなければならない。きみたちは何を評価されて、給料をもらっているのだ? 影野小枝 続いて、漆原さんは横軸に「市場規模」と追記しました。そして、その横に「シェア」と書きました。漆原 太田、きみの担当先は、どのくらいの市場規模だい。市場における医薬品の購入額は、いったい月間で何億円くらいなのだろう? 太田 わかりません。漆原 正直でよろしい。では山崎は、どうだ?山崎 12億だと思います。以前に調べたことがあります.漆原 正解だ。正確には12.6億円。では、きみの市場シェアは、何パーセントだ? 山崎 860万円割る2.6億円だから……0.72%となります。028cut:実績は日計表で管理をさせる――05scene::4月チーム会議影野小枝 細かい数字が出てきましたので、少し筆者の山本先生に解説していただくことにします。漆原さんは月平均売上とシェアに、関心を向けさせたいようですね。それにしても、自分の市場規模や月間売上を知らないなんて驚きです。筆者 私が若いころは、売上伝票から帳簿に写し取ったものです。いまはコンピュータが全部やってくれるので、営業マンが数字に無頓着になっています。自ら計算することがない分、数字に関する気づきも生まれないのです。影野小枝 どうしたら、自分の数字に責任を持つようになりますか? 筆者 日計表で管理をさせるのが、最善でしょう。今日の売上に関心を持たせ、それを帳簿で管理させる。時代に逆行するようですが、これが営業マンの基本です。影野小枝 漆原さんは、どうするつもりなのでしょうか。そんなことをさせたら、部下からの反発は目に見えています。何か秘策があるのですか? 筆者 こっそりと、教えてあげます。毎月の実績が出揃ったら、全員が100円以下の金額分を、集金箱に入れるルールができます。太田のアイデアなのですが、そのお金を忘年会の費用にします。これで毎月の数字への関心が、高まることになります。影野小枝 最高は999円の負担。ゼロが3つ揃ったら、お金は入れなくてもいいわけですね.筆者 そうです。楽しそうなやり取りが、目に浮かぶでしょう。029cut:活動と成果の整合性は大切――05scene:4月チーム会議影野小枝 再び会議室の場面に戻します。漆原 ABC分析を知っている人? 誰もいない。今度は売上の大きな顧客から、順番に並べてもらう。ノートパソコンを立ち上げ、私からのメールを開くこと。(自らのパソコンを立ち上げ)これがみんなの、昨年度における顧客別売上実績だ。これから送信するから、売上の大きい順番に並べ替えること。山之内 すごい。計算式まで、入っている。漆原 やり方がわからない人は、手をあげて。山之内、教えてあげてくれるかな。影野小枝 太田さんが手を挙げています。山之内さん、パソコンをのぞきこみ、指導をはじめました。山之内 これがいちばんだろう。まずここをクリックして、上へ移動する。2番目は……これをその下に移動する。すると、自動的に累計実績が計算されて、全売上に占める割合が出る。太田 これが3番目だから……。漆原 累計シェアが50%を超えたら、そこでいったん中止すること。太田 あれ、3番目で52%になりました。漆原 太田、シェア52%の意味はわかるか? 太田 えーと、全売上に占める割合ですから、この3軒で、私の実績の半分以上を占めているということだと思います。漆原 そのとおり。そこまでが、Aランクの顧客だよ。山崎 私は7軒でした。漆原 では、山崎に質問しよう。きみと太田では、どちらが効果的な営業をしているのかな? 売上は別にして、との条件つきだけど。山崎 太田の方が楽だと思います。たった3軒で、半分を稼ぎ出しているのですから。漆原 よし。それでは別の質問をしよう。どちらのリスクが高いと思う? 山崎 太田の方です。1軒でもこけたら、大変なことになります。漆原 そうだよね。次はBランクの顧客を選定したい。シェア75%までを整理してみること。それが済んだら、今度は90%まで並べ替えること。そこまでがCランクの顧客となる。影野小枝 顧客のABC分析は、順調に進んでいるようですね。漆原さんは質問を投げかけ、MRに考えさせようとしています。ABC分析から、何を導き出そうとしているのでしょうか。
2018年02月25日
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妙に知180225:文学は「実学」である「文学」とは何か。なぜ私は本ばかり読んでいるのだろうか。そんな私にピタリとくる記述がありました。紹介させていただきます。 ――「人間とは何か」「人間が抱え込む欲望や本能とは何か」という問いに対して、何らかの答えを差し出してくれる学問が文学です。その意味では「文学は実学である」と言えるでしょう。(島田雅彦『深読み日本文学』インターナショナル新書P9) 実学とは社会生活に役立つ学問のことです。つまり文学は、私が大切にしているす「人間力」を磨く武器なのです。山本藤光2018.02.25
2018年02月25日
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町おこし313:白タク――『町おこしの賦』第10部:生涯学習の町 巡回バスでの一日の仕事を終え、加納雪子は満足感にひたっていた。買い物籠を抱えて、バスに走り寄る子どもたち。満面の笑みを浮かべて、迎え入れる老人たち。 そんな加納雪子を、現場局長の猪熊勇太が執務室に呼んだ。「どうだった? 巡回バスの一日は?」「やりがいを感じました。みんな喜んでくれています」「職員の巡回体験が一巡したら、バスはワンマンに戻すつもりだ」「え? なぜですか?」「あの仕事は一人でこなせる。体験を終えた職員には、自分の持ち場で町民のために、さらになにができるかを考えてもらう」「加納にはそのための個人面談をしてもらいたい」「巡回バスの乗車は、そのための体験だったんですね。局長、私にまで内緒にして、ずるいです」「先入観を入れない。その方がよいアイデアがでるからね」雪子は一週間に一度の巡回バスを楽しみにしていた、佐藤老婦人のことを思い出していた。そしてひょっこりと「白タク」という言葉が浮かんだ。老人を買い物や病院へ連れてこられる、運転手の存在がちらついたのである。お金をとらなければ、それは白タクとはいわない。ボランティアとして運転できる人を募るのは、違法じゃない。雪子はそんなことを考えていた。
2018年02月25日
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妙に知180224:郭公、悪い閑古鳥が鳴く。私も小説のなかで用いたことのある表現です。閑古鳥ってどんな鳥のことなのでしょう。調べてみると、カッコウ(郭公)のことでした。郭公は5月中旬から7月中旬までしか鳴かないようです。したがって忘年会シーズンなどで、「この店、閑古鳥が鳴いている」というのは誤用となります。郭公はずるい鳥で、自ら巣作りはしません。他の鳥が産卵したら、卵を一つ抜き取り自分の卵を一つ入れます。これを繰り返して、他の鳥の巣をすべて抜き出し、完全独占してしまいます。他の鳥の卵は、自らの背に乗せて巣外に放り出すようです。エサは他の鳥が、郭公の雛に与えます。恰好悪いは、郭公、悪いから生まれた言葉なのでしょうか。えげつない鳥でした。山本藤光018.02.24
2018年02月24日
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町おこし312:巡回バス ――『町おこしの賦』第10部:生涯学習の町猪熊勇太現場局長は、幹部職員会議で次のような方針を述べた。「町内巡回バスを導入します。このバスには運転手以外に、現場局の職員に乗務してもらいます。目的は週一回の一人暮らしの老人訪問と、依頼を受けた買い物の配達となります。一人暮らし老人の住まい地図を作成し、曜日ごとの順路を決めてもらいたい」「私たちが丸一日、バスに乗って地域を回るということですか?」「携帯とノートパソコンがあれば、バスのなかでも仕事はできます。お年寄りの元気を確認する。困っていることを聞き取る。頼まれた品物を届ける。私たちは現場で、もっと汗を流さなければなりません」「たとえばAさんの家だったら、毎週月曜日の十四時ころにうかがう、という形にするわけですね?」「そのとおり。お年寄りは、職員の訪問を心待ちすると思います」 ピンクの車体に「標茶町役場ほほえみ号」と緑色で書かれたバスは、運行を開始した。当初は抵抗を示していた幹部たちだったが、若い職員から新たな提案が加味されていた。 虹別地区に入るとバスは、ゆっくりとした走行に変わった。外づけのマイクから、移動販売を知らせる「しょうじょうじのたぬきばやし」が流れた。 若い職員のアイデアで、バスには米や水やパンや野菜なども、積みこまれたのである。有機野菜工場で規格外になったものも、安価で並べられている。 現場局広報課長の加納雪子は、金曜日の巡回バスに同乗している。ほほえみ号への乗車は、ローテーションで二ヶ月に一度ほどであった。彼女は町民の生の声を、聞きたいと思っている。バスは中茶別地区を走っている。小学校前で、「しょうじょうじのたぬきばやし」のメロディが流れた。校門から紙切れを握った、児童が走り出てきた。 運転手の徳田は、児童の求めに対して、かいがいしく商品を渡しお金を受け取る。「お父さん、お母さんは仕事で手が離せないんで、この子たちが買い物係をしているんですよ」「どの地区もそうなの?」「はい、このメロディが鳴ったら、どこも授業を止めます」 雪子には想像できない、世界だった。バスは、佐藤という表札の家で停まった。一人暮らしの老人の家だという。「佐藤さん、標茶町役場です」 引き戸を開けて、徳田は大きな声で告げた。背中の曲がった、白髪の老女が出てきた。うれしそうに、顔がほころんでいる。「佐藤さん、身体の具合はどうですか?」 徳田はやさしい声で、口を耳に近づけていった。「大丈夫だ。お米持ってきてくれたかい?」「はい、ちゃんと。何か困っていることはありませんか? また来週のこの時間にくるから、欲しいものがあったら、教えてください」「ミルクチョコレートを二枚、お願いします」 徳田はメモに書き留め、「あとで欲しいものを思い出したら、町民電話相談に連絡してください」と告げた。 雪子はうれしかった。そして標茶町役場で、働いていることが誇らしかった。住民へのやさしい心遣いは、町の財産なんだと実感もした。
2018年02月24日
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一気読み「ビリーの挑戦」011-019011cut:業績格差は人災である――02 scene:2つの約束影野小枝 宮内支店長の案内で、漆原さんは喫茶店「場」へ顔を出しました。一通りのあいさつをすませ、常連の会話に耳を傾けています。常連C それにしても売れない。だんだん首が危うくなってきたよ。常連D 業績格差はまぎれもない人災である。この前の読書会で、勉強したばかりじゃないか。業績が悪いのは、すべてはあんたの責任だよ。常連C まいど、厳しいご指摘をありがとう。(カバンから一冊の本を取り出しながら)この本はうちの課長連中にも、強制的に読ませたよ。そのうちに効いてくるさ。漆原 新人営業リーダー研修で、私が勉強したのも、その本でした。マネジメントを「管理系」から「人間系」にシフトせよ、という主張ですよね。。宮内 先月の読書会で取り上げたのが『人間系ナレッジマネジメント』でした。それ以来、この店では「暗黙知」や「形式知」という単語が飛び交っています。常連E 働く場所をオフィスから現場へ。部下指導を一律から個別へ。命ずるから考えさせる。どれも簡単なようで、一筋縄ではゆかない。『人間系ナレッジマネジメント』って奥が深い世界だよな。常連F 多用する人称は、一人称から二人称。おれの世界を、きみたちはどう考えるというふうに変える。これがなかなかできない。影野小枝 山本藤光先生の『人間系ナレッジマネジメント』(医薬経済社)は、みなさんの底本になっているみたいですね。漆原さん、とてもうれしそうです。自分が実践しようとしていることに、取り組んでいる人たちがいた。これって、自信になりますよね。自分がやろうとしていることは、間違ってはいなかった。漆原さんは、そう確信したようです。 ◎漆原の日記宮内支店長に紹介された喫茶店「場」には、さまざまな企業の支店長や営業所長が集まる。毎月勉強会を開催し、普段は集まって議論をしている。偶然にも、新任リーダー研修で学んだ『人間系ナレッジマネジメント』が話題になっていた。よい仲間にめぐり合ったと思う。あの人たちの力を借りて、チームの再建に全力を尽くしたい。 012cut:意識と行動を変える――02 scene:2つの約束影野小枝 釧路営業所の昼時です。少しだけ漆原さんに質問させていただきますね。影野 いよいよ新しい生活がはじまりましたね。いかがですか? 漆原 まずは、メンバーの意識と行動を変えることからはじめます。影野 意識と行動ですか? 漆原 そうです。意識と行動が変われば、業績は自然についてきます。影野 具体的には、どうするのですか? 漆原 意識と行動は、命令では変わりません。またすぐに変化するものでもありません。しかし気長に接して、彼らの意識と行動を変えるのが、営業リーダーの大切な役割だと思います。影野 そのために、何をなさるのですか? 漆原 彼らに問いかけ、彼ら自身が考える。これを繰り返すしか方法はありません。影野 ところで漆原さん、ここには事務員がいないのですか? 漆原 当社の営業所には、一切事務員はおりません。だから営業リーダーは、事務員を兼務しているわけです。影野 ということは、荷物の出し入れや電話番も営業リーダーの方がやっているわけですよね。漆原 そうです。影野 それって、営業リーダーが部下と現場同行をする阻害要因になりませんか? 漆原 私の前任者はそれを理由に、あまり同行をしていませんでした。やっぱり、意識の違いだろうと思います。影野 漆原さんはたくさんの雑用をどう整理して、現場同行を実現するのでしょうか? 013cut:トップとドンケツのギャップ――02 scene:2つの約束影野小枝 ビデオ製作会社打ち合わせを、のぞいてみます。監督 1人あたりの売り上げ750万円を、1年間で1250万円にしてほしい。札幌支店長の要求がベラボウなものだということが、視聴者には伝わりにくくないかい? 製作 私もそれは感じた。漆原が支店長に、「それは無茶ですよ」と抵抗する場面を入れるように希望したが、原作者が頑なな人で……。「営業の世界では、どんな数字でも甘受するのが常識だ」って拒絶された。監督 とてつもないハードルを超える『完全版・ビリーの挑戦』は、視聴者にトップとドンケツのギャップを理解してもらうことがすべてだと思う。製作 その通り。私も750万円の人が、1年間で500万円引き上げることの大変さを強調したかったけど……。監督 中里、ここは演技力でやるしかないよな。漆原を飛び上がらせるとか、大げさなリアクションが必要だろう。考えておいてくれや。助監督 わかりました。監督 喫茶店「場」は、おもしろい設定だな。早朝の喫茶店だろう。霧に包まれる幣舞橋のあたりで、窓からは海が見えるシチュエーションでいきたいな。それにしても、店名がダサすぎるよ。製作 私も店名を変えたいと申し出たが、原作者は首をタテには振ってくれなかった。相当に頑固な人だ。助監督 どんな店名を候補にあげたのですか? 製作 丹頂鶴とか、湿原とか、まちこなどを提案したのだが……。助監督 「まちこ」って、何ですか? 監督 『挽歌』だよ。原田康子という作家が書いた、昔はやった物語を知らんのか。この放送が始まると、銭湯がガラガラになったほどの人気番組だった。その舞台が霧の街・釧路だったのだ。まちこ巻きというスタイルまで生まれたほどだ。助監督 ロの字型のテーブル配置は、お客さん同士が自由に話し合えるという配慮ですよね。真ん中の空間設定が難題ですね。監督 それを考えるのが、おまえの仕事だろうが。毎日くる客が楽しめるものを、考えておいてくれ。助監督 回転するテーブルが置いてあり、そこには新聞や週刊誌が並んでいる。監督 バカもの。話をするためのロの字なのだろう。ちゃんと考えろよ。 014cut:前任者にスポットがあたる――03scene::引き継ぎ 影野小枝 午前の診療を終えたG開業医の診察室です。漆原さんは前任の鈴木所長とともに、引き継ぎのあいさつで訪問しています。2人が着席すると同時に、医師が話し始めました。医師 (鈴木に向かって)転勤だな。鈴木 そうです。相変わらず、鋭い洞察力で……。医師 この時期に2人連れでくるのは、転勤のあいさつしかない。それで、どこへ行くのだ? 鈴木 山梨です。医師(椅子を回転させ後ろ向きになって)そうか、山梨へ行っちゃうのか。ずいぶん、遠くだな。鈴木 先生には、公私に渡ってお世話になりました。ご恩は一生涯忘れません。医師 山梨にはゴルフ場はあるよな。富士山のふもとだから、きっと難コースだろう。鈴木 ぜひ、きてください。先生とは、永遠のライバルですから。医師 10年早いよ。明治の大砲みたいなスイングでは、いつまでたっても、おれに勝てっこないさ。影野小枝 看護師さんが、新たな名刺の束を医師の机の上に置きました。待合室には、競合メーカーが待っています。しかし、2人の会話は途切れません。鈴木 山梨に、先生の知り合いはいませんか。いたら紹介してください。その代わり、難コースへご招待させていただきます。医師 確か、根本が県立病院の副院長のはずだけど。(婦長さんに向かって)ちょっと、同窓会名簿を持ってきてくれ。(暗転)影野小枝 おやおや、漆原さんは寂しそうですね。引き継ぎって、だいたい前任者にスポットが当たってしまうもののようです。それにしても、前任者の鈴木さんは、楽しそうですね。個人的にも、ずいぶん親しいみたい。みなさんは、この場面に何を感じたでしょうか? 何か変でしょう。 015cut:あんな引継ぎは無意味――03scene::引き継ぎ影野小枝 G開業医の玄関です。漆原さんだけが出てきました。前任者はまだ中にいるようです。ちょっと、漆原さんに質問してみましょうか。漆原さん、この前は意識と行動のことをおうかがいしましたが、今日は現状についてお話を聞かせてください。漆原 とてつもなく、ゴールは遠くにある。それが現状です。影野小枝 担当チームの生産性は、全国でも最低ですよね。漆原さんは、そこを再生するために抜擢されたと聞いていますが。漆原 そうなのです。チームの月均売上が6000万円と、トップのチームの3分の1しかないのですから、これからが大変です。影野小枝 漆原さんのところは、ひとり平均750万円ですよね。トップのチームは、1人あたり2000万を超えているのですか? 漆原 すごい格差でしょう。先が思いやられます。でも、これ以上落ちることはないので、気楽に楽しみながらやりますよ。影野小枝 鈴木さんが出てきました。話が聞こえていたみたいです。鈴木 うちのチームはクズの集まりだから、漆原くんは苦労するよ。支店長は、優秀なMRを札幌に集めて、こっちにはロクなメンバーを寄越さない。影野小枝 鈴木さん、捨てゼリフを残して車に向かいました。漆原さんはそれを目で追いながら、外国人がよくやるように、両手を宙に広げてみせました。漆原 …………影野小枝 がんばってくださいね。クズばかりですって。業績格差は人災である、ってことに気づいていないみたいですね。それにしても、金魚の糞みたいについて歩くだけの引き継ぎは、疲れましたでしょう? 漆原 こんな引き継ぎは、無意味です。まあ、つまらないセレモニーも終わりましたので、改めて市場分析からはじめますよ。 016cut:出る幕はありませんでした ――03scene::引き継ぎ影野小枝 千葉市内の喫茶店です。今後の展開について、筆者の山本藤光先生にインタビューさせていただいています。筆者 ネタバレになるような質問以外は、何でもかまいません。影野小枝 漆原さんは、どうチームの再建に取り組むのでしょうか。初めて部下を持つ立場となり、気合十分と見ました。空回りしなければいいのですが……。それにしても、引き継ぎって、どうあるべきなのでしょうか。筆者 ここで紹介した営業リーダーの引き継ぎ模様は、もっとも一般的なパターンです。新旧の担当者が同道し、あいさつ回りをするこの光景は、定期人事異動のシーズンによく見かけます。影野小枝 新任の漆原さんは、出る幕がありませんでしたが……?筆者 新旧の2人で行くと、顧客は前任者にフォーカスを当てます。これまでの労をねぎらい、思い出話や赴任地の話と展開されるのが普通です。前任者に若干の思いやりがあれば別ですが、顧客ベースでやると必然的にそうなります。 私は新旧担当者がそろって、引き継ぎあいさつに回ることには反対です。まず前任者が単独であいさつをし、その後後任者は、上司や部下と同行訪問する。この形の方が、はるかに有効です。確実に新任担当者にフォーカスが当たるのですから。影野小枝 顧客財産を失わないためにも、引き継ぎは極めて大切なものです。ところが担当交代とともに、顧客を喪失したという話をよく聞きます。「顧客情報」は、どういう形で引き継げばいいのでしょうか? 筆者 多くの企業は、「顧客情報」なる資料を整えています。しかし、あまり有効活用されていないのが現状です。営業職は自ら収集した情報しか、信じない傾向にあります。信じられるのは、自分の直感だけだというわけです。 顧客情報は、企業の財産である。だから、せっせと情報を蓄積しなさい。駆け出しのMR時代から、耳にタコができるくらいいわれ続けてきました。しかし、前任者が作成した顧客情報は、役に立つことはありませんでした。 出身大学、家族、趣味などを知って、どうなるというのですか。大切なのは、顧客との間合いです。アウンの呼吸というのでしょうか。これは、データでは示せない世界のものです。影野小枝 漆原さんも、MR時代の担当先を引き継いできたのですよね。どんな引継ぎだったのですか? 筆者 では、彼の引継ぎ模様を再現してみましょう。 017cut:事前の転勤あいさつ ――03scene::引き継ぎ影野小枝 漆原清明さんの千葉時代の引き継ぎです。M開業医の診察室にいます。漆原 先生、先日お話させていただきましたが、私の後任の阿部です。製品知識も豊富ですし、きっと先生のお役に立てると思います。どうかよろしくお願いします。阿部 先生のことは、漆原から何度も聞かされております。前任者同様、精一杯努力をいたしますので、引き続きよろしくお願い致します。それからH病院の吉田先生が、先生とお会いしたらくれぐれもよろしく伝えてほしい、とおっしゃっておりました。医師 吉田先生か、懐かしいな。元気でやっているのだね。阿部 はい、吉田先生にはずいぶん可愛がっていただきました。医師 阿部くんはゴルフをやるの? 阿部 ヘタですけど、足を引っ張らない程度にはできます。漆原 先生、阿部はウソをついています。おそらく、先生の連覇が止まるかもしれませんよ。医師 それは楽しみだな。では漆原くんのかわりに、阿部くんにM杯のメンバーになってもらおうか。影野小枝 この前のとは、ずいぶん流れが違いますね。漆原さんは事前に転勤のあいさつを済ませているから、2人で訪問しても会話が新任者に向いたのでしょうか? 筆者 そのとおりです。よもやま話は済んでいるのですし、その後の訪問ですから、当然話題は新任担当者に向けられます。 018cut: チーム力を上げる――03scene::引き継ぎ影野小枝 喫茶店「場」です。漆原さんは国内大手製薬会社の富永所長と話をしています。富永所長は50歳後半くらいの方です。富永 先日、生保の釧路支店長と話をしたんだけど、あそこのライフプランナーのトップクラスは年収3千万円超えがザラだという。漆原 ライフプランナーって、保険の営業マンのことですよね?富永 MRと同じだよ。給料体系がフルコミッションなんで、やればやるだけ実入りになる。だから彼らは、マネージャーにはなりたがらないようだ。漆原 すごい営業マンは、上司をはるかに超える年収なんですね。富永 MRもそうした給料体系にできないかと、うちの本社でも検討したことがある。でもMRという仕事は正しく薬の情報を伝えることだから、露骨に売り上げだけで差はつけられない。漆原 処方箋が調剤薬局に流れて、個人の実績も把握できなくなりましたしね。富永 だからうちの評価体系は、量よりも質のほうが高くなっている。漆原 質の評価ですか? どうやって測るのでしょうか?富永 MRの日報や上司の同行などで、質の評価をしているんだけど、評価者によってバラツキがあるのは事実だ。影野小枝 山本藤光さんの著作に『MRの質を測るものさしあります』(エルゼビア・ジャパン)があります。興味がある方は、ぜひ読んでみてください。 漆原 質の評価ですか……。うちの評価は量7割質3割なんですが、本来なら質にウエイトがおかれるべきですよね。MRの仕事の質を上げるには、やっぱり同行するしかないですよね。富永 同行も大事なんだが、チーム力を上げると、個々のレベルは確実に上がる。だからチームのレベルアップも個人同様に重要なんだ。影野小枝 漆原さん、考え込んでしまいました。チーム力を上げるという点に、何かひらめいたみたいです。 ◎漆原の日記 前任の鈴木所長は部下であるMRについて、クズを回されたと吐き捨てた。猛烈に腹が立った。自分の部下だろう、といってやりたい衝動にかられた。何としてでも、強力な集団に再生する。本日富永所長の言葉で、それを痛感させられた。業績格差はリーダー格差。この言葉を肝に命じて、やってやる。ダメだったら、責任のすべては私自身にあるのだ。 019cut:前任者の心がけ次第――03scene::引き継ぎ影野小枝 ビデオ製作会社打ち合わせです。監督 ポイントを整理してください。製作 前任者の心がけ次第で、引き継ぎは有益なものになる。まずはこの点をきちんと表現すること。次に前任の鈴木が、「クズばかり」と吐き捨てる場面。ここは大きな問題提起となる。外国でも国内の生保でも、人材の採用と育成は、大切なマネジャーの使命だ。製薬企業の弱点は、支店長などが採用に積極的に関与しない点だ、と原作者がいっていた。助監督 鈴木は典型的な昔タイプのリーダーですよ。自己中心的であり、都合の悪いことは、いとも簡単にヨソに責任を転嫁してしまう。まじめな漆原との対比を際立たせるためにも、結構重要な場面だと思います。監督 それにしても、ここまでは動きに乏しいな。視聴者をムンズと引きつける仕掛けがほしいな。それと、カフェテラスでナレーターと筆者が話をする場面だが、あれは不自然過ぎる。カットしちゃえよ。製作 ダメだ。原作者は頑固な上に、出たがり屋だ。あの場面を飛ばしてしまったら、ヘソを曲げてしまう。監督 ヘソが曲がったら、どうなりますか? 製作 ビデオ化の許可が、もらえなくなる。影野小枝 ビデオには私も出させていただけるのかしら? いくらカゲの声でも、せっかくの美しい顔は露出させたいと思います。
2018年02月23日
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一気読み「ビリーの挑戦」005-010005cut:まったく聞く耳を持たない――01 scene:全国最下位チーム 影野小枝 翌日の朝、釧路営業所です。鈴木リーダーは、マネージャー会議のために不在です。石川 二日酔いで頭が痛いよ。お前たちは、何時まで飲んでいた? 寺沢 午前2時までです。鈴木さんが離してくれなくて、往生しました。熊谷 カラオケで終わりだと思っていたら、例のヨウコちゃんのスナックへ行って、いつもの自慢話を聞かされました。石川 大丈夫なのかな? ちゃんと札幌に行けたのかな?田中 そのことは何度もいったけど、ダメですね。まったく聞く耳を持たない。熊谷 それにしても、あの人はタフだよ。石川 仕事で手抜きしている分、余力があるのと違うか。田中 そういえば、転勤かもしれないっていっていましたよ。会議が終わったら、残るように支店長にいわれたようです。石川 本当か、それはビッグニュースだ。熊谷 他人ごとみたいにいっているけど、おれたちだってどうなるのかわからない。田中 全国最下位チームのメンバーなんて、どこにも引き取り手がないさ。寺沢 駅裏においしいスープカレーの店が、オープンしました。先週の昼に行ったのですが、行列ができていて入れないほどでした。石川 早めに行けば、並ばなくて済むだろう。よし、今日の昼飯はそこで食おう。二日酔いにスープカレーか、絶対にアルコールが抜けるぞ。影野小枝 寺沢さんはカバンからマンガ雑誌を2冊取り出し、鈴木リーダーの机に乗せました。石川 それ今週号か? 鈴木さん、いないのだから、おれに貸せ。影野小枝 静かになりました。石川さんはマンガを読み、熊谷さんはスポーツ新聞を広げています。田中さんはパソコンに向かっていますけど、どうやらゲームをしているみたいです。寺沢さんはサンドウィッチを食べています。今朝はだれひとり、代理店には行っていないようですね。 006cut:全国最下位のとんでもないチーム――01 scene:全国最下位チーム影野小枝 ビデオ製作会社打ち合わせです。今後も時々登場します。製作『完全版・ビリーの挑戦』を、教育ビデオにすることが決定した。台本は読んでもらっていると思うが、視聴者は「異議あり」と思った場面で、イエローカードを上げる仕組みにしたい。賛同の場合も、ハートマークのようなカードを考えている。監督 立派な仕事の様子を見せるのが、我々の役目じゃないですか。それをこんなデタラメなチームの映像を見せるのですか?製作 ダメなのは最初だけだ。社長が本を読んで、感動したようだ。きれいごとを見せるよりも、ずっとインパクトのある研修ビデオになるといっている。助監督 イエローとハートカードとのセット販売。レッドカードもつけちゃいますか。製作 原作自体がシナリオ仕立てなので、台本はいらないだろう。20分もので、4巻シリーズにまとめてもらいたい。監督 暗い、暗すぎですよ。これじゃ、視聴者が引いてしまう。製作 昔あるところに、全国最下位のとんでもないチームがありました。そこに若き営業リーダーが乗り込んできて……。原作者は「業績格差は人災である」と断言している。暗闇のなかから、旭日が姿をあらわすような感じで、チームが少しずつ明るくなる雰囲気を表現してもらいたい。助監督 会社の金は遣い込む。来期を見込んで、今期の売上にはブレーキをかけてしまう。リーダーがいなければサボってしまう。腐っていますよ、このチームは。監督 全国最下位のチームなのだから、根本的な欠陥があるのはわかる。しかし、これだけのシチュエーションで、どん底チームを表現するのは難しい。中里、何かいい案はないか? 助監督 もっとネガティブな事例が、蔓延している方がいいですね。少し脚本に手を入れられますか? 製作 あまりいじると、原作者がヘソを曲げる。原作が長いので、少しカットしなければ研修ビデオとしては価値がないことは説明した。それでも「できるだけ原作に忠実に」と主張して、なかなか妥協してくれない。監督 視聴者が集中して見ていられるのは、15分前後といわれている。このままをそっくり映像にするのは、見ないでくださいといっているのに等しい。製作 原作者については、こっちで説得する。だから思う存分、よいものにしてもらいたい。舞台は製薬会社だが、それ以外の企業にも売り込むつもりだから。 007cut:漆原清明の日記――01 scene:全国最下位チーム影野小枝 鈴木さんの後任の漆原清明さんは、釧路入りしました。日記を紹介させていただきます。 ◎漆原清明の日記(3月24日) 釧路空港から、新しいわが家へレンターカーで移動した。もうすぐ4月なのに、吐く息は白く曇る。子どもたちも「寒い、寒い」といって、体を丸めていた。車のヒーターを入れて、新居を目指す。路面に雪はないが、ところどころアイスバーンになっている。慎重にハンドルを握り、カーナビの誘導にしたがう。 荷物を片づけたら、月曜日には札幌支店に顔を出す。それまでに学校の手続きや転入届けをしておかなければならない。MRから営業リーダーへの昇進。うれしいけど、最果ての地には一抹の寂しさを覚える。子どもたちが、はしゃいでいるのだけが救いだ。全国最下位チームの再建。厳しい挑戦がはじまる。 008cut:1年間で立て直してもらいたい――02 scene:2つの約束 影野小枝 R製薬の札幌支店長室です。新任営業リーダー・漆原清明さんの初出勤の日です。支店長 漆原くんは何歳になるの? 漆原 38歳です。札幌支店の新谷リーダーとは、同期入社です.支店長 お子さんは? 漆原 上が男で小学5年、下が女で小学3年です.支店長 そうか、いちばんかわいい盛りだね。漆原 スキーができるって喜んでいますが、道東はスケートのメッカだったのですね。支店長 寒いところだから、くれぐれも体調には気をつけてくれ。もっとも、業績の方も寒いけど。(紙片を渡しながら)これが担当してもらうチームの業績だ。月間6000万円と、全国で最下位の生産性だ。何としてでも、1年間で立て直してもらいたい.漆原 1人あたり月に750万円ですか。それしか売れてないのですか? 支店長 きみは千葉県時代に、どのくらい売っていた? 漆原 月2000万円ちょっとです。支店長 それはすごい。支店長がきみを出すのを渋っていたけど、うなずけるよ。まあ、一挙にそこまではムリだとしても、せめて1人月均で1250万までは引き上げてもらいたい。(漆原が見ている紙片のズームアップ。氏名と年齢に添えて、月均売上が書かれている) 石川 釧路地区のサブリーダー。36歳。既婚。売上750万円/月。熊谷 釧路地区担当MR。32歳。既婚。売上480万円/月。田中 釧路地区担当MR。28歳。既婚。売上1050万円/月。寺沢 釧路地区担当MR。24歳。独身。売上790万円/月。山之内 帯広地区のサブリーダー。34歳。独身。売上475万円/月。山崎 帯広地区担当MR。34歳。既婚。売上860万円/月。乾 帯広地区担当MR。32歳。独身。売上1100万円/月。太田 帯広地区担当MR。24歳。独身。売上520万円/月。 漆原 支店長、このチームの最大の弱点は何ですか? 支店長 はっきりいって、前任鈴木リーダーの指導不足だと思う。彼はほとんど同行指導をしていなかった。だからMRたちは、仕事の基本を学んでいない。漆原 月均1000万円以上は、2人だけですか。釧路の田中が1050万円と帯広の乾が1100万円。え、山之内は475万円ですか。彼が帯広のサブリーダーですよね.支店長 帯広の全員が駐在というハンデはあるが、この業績では出張所も出せない。釧路の石川は、何とかやってくれている。きみには帯広に住んでもらうことも考えた。しかし、リーダーが営業所にいないというのも変な話なので……。漆原 釧路と帯広って、どのくらい離れているのですか? 支店長 特急で1時間半くらいかな。車なら2時間ほどはかかる。漆原 そんなに遠いのですか。帯広のメンバーがオフィスへくるのは、チーム会議のときだけということですね。支店長 そう、変則的なチームなので何かと大変だろうが、すべてはきみに任せる。何としてでも、1億円のチームになるようにしてほしい。期限は1年、いいな.影野小枝 いまの実績に、4000万円の上乗せですね。ということは、1人500万円をアップしなければなりません。いまの1人あたりの実績が750万円ですから、ほぼ倍増となりますね。大丈夫なのでしょうか? 漆原 最大限の努力をします。支店長、ひとつだけお願いがあります。支店長 何だい? 漆原 ノートパソコンを9台欲しいのですが…….支店長 どうするんだ? 漆原 コミュニケーションの手段です。リアルの場で会えない分、バーチャルの場で、彼らと積極的に交わりたいと考えます。支店長 よし、許可しよう。きみの就任祝いだ。漆原 ありがとうございます。必ず支店長の期待に、応えさせていただきます。影野小枝 新任チームリーダー・漆原さんの船出が始まったようです。8人の部下を抱え、どうチームを立て直すのでしょうか。みなさんなら、真っ先に何をしますか? 漆原さんはノートパソコンで、MRとのコミュニケーションをはかりたいようですね。どんな方法を取るのでしょうか。みなさんなら、ノートパソコンをどう活用しますか? 009cut:チームの足を引っ張っているのか――02 scene:2つの約束影野小枝 ススキノの居酒屋さんです。支店長との面談を終えて、漆原さんは同期入社の新谷リーダーと並んでお酒を飲んでいます。漆原さんの昇進祝いと歓迎を兼ねての席です。新谷 よりによって、全国最下位のお荷物チーム担当か。きみなら何とかできるだろうが、あのチームは腐っている。簡単なことではないぞ。漆原 そんなにひどいのか? 新谷 支店内キャンペーンが入っても、通常月と何ら売り上げに変化がない。医局説明会はほとんど実施されていないし、医師会など地域単位の企画もやったことがない。まったくやる気が感じられないチームだよ。漆原 だんだん酒がまずくなってきた。釧路と帯広に、チームが分断されているせいなのかな? 新谷 それもあるけど、サブリーダーたちに覇気がない。優秀なチームには、ぐいぐい引っ張るサブリーダーの存在がある。ところがきみが担当する釧路営業所は、引っ張るはひっぱるでも、チームの足を引っ張るサブリーダーしかいない。漆原 チームを引っ張るのではなく、チームの足を引っ張っているのか。新谷 こんなことをいうのはいやなのだけど、きみの前任の鈴木さんはお山の大将っていう感じだった。あれでは部下が育たない。管理系から、人間系マネジメントへのシフト。プロモーション(昇進)のとき、課題図書・山本藤光『人間系ナレッジマネジメント』(医薬経済社)を読まされただろう。一刻も早く、あの世界にシフトすべきだな。影野小枝 本書は絶版になっています。かわりに『MRの質を測るものさしあります』(エルゼビア・ジャパン社)をお読みください。MRは製薬企業の営業マンのことですが、他の業種でも応用できます。漆原 おれもそう思う。とにかく徹底的に、『人間系ナレッジマネジメント』を実践するよ。新谷 きみならできる。必ずやりとげられる。期待しているし、応援するよ。影野小枝 いいですね、同期って。『人間系ナレッジマネジメント』とは、どんなものなのでしょうか。管理とは対極にある概念みたいですが、漆原さんはそれを実践すると断言していました。 ◎漆原の日記 支店長と面談。それにしても、ひどい業績でショックを受けた。帯広が駐在員だから、まとまりが悪いのかもしれない。1年間で1億円のチームにすること。それが支店長との約束だ。どん底チームの実績を、ほぼ倍増しなければならない。どん底って、これ以上落ちることがないという意味だろうか。それとも、2度とはい上がれないという意味なのだろうか。不安である。でもやるしかない。そのためには、営業リーダー研修で教えられた「人間系ナレッジマネジメント」を活用したい。あとは、ノートパソコンで、チームを変えるしかない。 010cut:何とか底上げをお願いしたい――02 scene:2つの約束影野小枝 R製薬の重点代理店・宮内支店長へのあいさつを終え、漆原さんは宮内支店長と世間話をしています。宮内 釧路管内の支店長や所長が、たくさん集まる店があります。毎朝7時から8時の間に集まり、朝食をとりながらさまざまな情報交換をしています。参加をお勧めします。といっても、漆原所長は単身赴任じゃありませんよね。無理強いはしませんが。漆原 興味があります。教えてください。宮内 「場(ば)」という古風な名前の喫茶店ですが、ユニークな人がたくさんいますよ。よろしかったら、明日にでもご案内しましょうか?漆原 ぜひお願いします。実は前任地でも、KEN研という異業種交流会に参加していました。猛烈な刺激を受けて、たくさんのことを学ばせてもらいました。宮内 ケンケンですか? 漆原 ナレッジ・エンジョイ・ネットワーク研究会という意味なのですが、とにかく勉強になりました。宮内 社外の優秀な人たちと交わる。よい本をたくさん読む。きわめて大切なことですよね。ところで、漆原所長にお願いがあります。R製薬のメーカーランキングは、全道の支店のなかで最下位です。他の支店は30位前後なのですが、釧路は極端に業績が悪いのが現状です。もちろん私どもも努力をしますが、何とか底上げをお願いしたいと思います。漆原 頭の痛い問題ですね。MR活動を大幅に病院にシフトさせ、開業医は御社でカバーしていただく。そんな企画書を用意し、改めてご相談させてもらいます。宮内 商売はギブ・アンド・テイクが基本です。うちは開業医をしっかりやりますので、所長は安心して病院攻略をしてください。漆原 支店長、提案というかお願いがあります。釧路と帯広の当社のプロモーターを交えて、四半期に1回、戦略会議をさせてください。釧路と帯広のサブリーダーも参加させます。必ず支店長の期待にお応えしますので、ぜひご協力をお願いします。影野小枝 おやおや、ここでも漆原さんは、大きな課題に直面しました。この代理店でのメーカーランキングは、46位とのことでした。翌朝、漆原さんは、宮内支店長と喫茶店「場」でメンバーにごあいさつをしています。不思議な喫茶店で、テーブルがロの字型にセットされていました。会話を弾ませる工夫なのでしょうね。ちょっとのぞいてみましょうか。
2018年02月23日
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一気読み「ビリーの挑戦」000-004■完全版・実話「ビリーの挑戦」第1部 最下位営業チームがトップになった ■第1部の主な登場人物 漆原清明 新任の釧路営業所長。38歳。新谷 札幌1課長。漆原と同期生。38歳。石川 釧路地区のサブリーダー。36歳。既婚。売上750万円/月。熊谷 釧路地区担当MR。32歳。既婚。売上480万円/月。田中 釧路地区担当MR。28歳。既婚。売上1050万円/月。寺沢 釧路地区担当MR。24歳。独身。売上790万円/月。山之内 帯広地区のサブリーダー。34歳。独身。売上475万円/月。山崎 帯広地区担当MR。34歳。既婚。売上860万円/月。乾 帯広地区担当MR。32歳。独身。売上1100万円/月。太田 帯広地区担当MR。26歳。独身。売上520万円/月。鈴木 釧路の前所長。44歳。独身。エッちゃん(梶山悦子)炉端焼き経営。31歳。独身。 000cut:まえがき 強いチームには、明るく前向きな共通言語があります。私の長い営業体験から得た、紛れもない実感です。『完全版・ビリーの挑戦』は、そのニュアンスを味わっていただきたくて、あえてシナリオ版にしました。 本作は2部構成になっています。第1部「全国最下位営業チームがトップになった」は、医薬経済社から2005年に上梓させていただいています。何度か増刷していただきましたが、現在は絶版になっています。第2部「伝説のSSTプロジェクトに挑む」は、2015年半ばから1年間『医薬経済』に「帰ってきたビリーの挑戦」というタイトルで連載させていただきました。 『完全版・ビリーの挑戦』は、これらの作品を大幅に加筆修正したものです。物語の90%は実話です。そして主人公の漆原清明は、「人間系ナレッジマネジメント」の実践者です。本書にはふんだんにその考えやスキルを盛りこみました。 第1部での漆原清明は、全国最下位の釧路営業所長として赴任します。本書の舞台は製薬会社ですので、部下はMRと表記しています。MRは薬の営業マンです。読者はMRを、営業マンと読み替えてください。やる気のないどん底チームをいかによみがえらせるのか。若き漆原清明の手腕に注目してください。 第2部「伝説のSSTプロジェクトに挑む」は、これまでに2冊の著作(『暗黙知の共有化が売る力を伸ばす。日本ロシュのSSTプロジェクト』『同行指導の現場・日本ロシュのSSTプロジェクト』(ともにプレジデント社)で紹介させていただいています。いずれも絶版ですので、あえて別の形式で第2部に組み入れました。。 これまでのマネジメントは、「命じる」「提出させる」の世界でした。漆原清明はそれを、「考えさせる」「聞き取る」のマネジメントに改めました。多くの企業はナレッジマネジメントと称して、システムに投資をしてきました。ところが、そのシステムが活用されていません。システムを活用する側に、フォーカスを当てていなかったのですから、当然の帰結ともいえましょう。 ぎこちないやりとりは、次第に弾む会話に変わります。バラバラだったジクソーパズルのピースが、少しずつ形を整えはじめます。覇気のないチームが一つにまとまってゆく過程を、臨場感のある会話で伝えたつもりでいます。 001 cut:気合で数字を積み上げろ――01 scene:全国最下位チーム影野小枝 ナレーターを担当します影野小枝です。長いお付き合いになりますので、どうぞよろしくお願いいたします。では物語の世界にご案内させていただきます。ここはR製薬の釧路営業所会議室です。3月1日、決算月を迎えて、殺気立った雰囲気がただよっているはずです。釧路の冬は厳しいので、室内のエアコンはフル稼働しています。鈴木所長 いよいよ決算月を迎えた。年間目標に対して、23%の積み残しだ。これでは絶対に年間目標をクリアできない。しかも先月までは、全国79チーム中で最下位を独走している。今月は目いっぱい努力をしてほしい。では、今月の積み上げをおこなう。(ホワイトボードを叩きながら)見込み数字を記入してくれ。(鈴木所長退室)影野小枝 鈴木さんは来月転勤になります。釧路では最後の営業会議です。でもこの時点で本人は、まだそのことを知りません。会議室には8人のMR(エムアール。医薬営業マン)が集まっています。メンバーがホワイトボードの前で、それぞれの数字を記入しはじめました。30分が経過しました。鈴木所長が戻ってきます。鈴木(数字を一瞥して)おいおい、勘弁してくれよ。決算月だというのに、全体で7%しかできないのかよ。もっと気合を入れろ。ダメだ、やり直し。影野小枝 メンバーがホワイトボードの数字を書き直しています。鈴木所長はそれを見ながら、盛んに電卓を叩いています。鈴木 7.5%、冗談じゃないよ。おまえたちは、おれに恥をかかせるつもりか。こんな積み上げ数字を、明日の支店マネージャー会議に持って行けると思っているのか。1時間だけ時間をやるから、石川と山之内はそれぞれの地区数字をまとめておけ。影野小枝 鈴木さん、会議室をまた出て行きました。釧路と帯広のサブリーダーである石川さんと山之内さんは、顔を曇らせ、示し合わせたかのように天を仰ぎました。石川 まいったな。釧路と帯広とで、それぞれあと1%ずつ積み増すことにするか? 山之内 帯広は先月がんばった分、今月は苦しいですよ。釧路が1.5%、うちは0.5%くらいで手を打ちませんか? 石川 1.5%は厳しい。1.3%でどうだ? 山之内 ということは、うちが0.7%まで、引き上げるってことですね。わかりました。それで手を打ちましょう。石川(3名の釧路地区メンバーに向かって)もう少し積み増すぞ。気合で、ちょちょいのちょいと、数字を増やしてくれ。山之内(3名の帯広地区メンバーに向かって)おれと太田がプラス100万、山崎と乾がプラス50万。これでどうだ。適当に、顧客別に上乗せしてくれ。影野小枝 積み上げ会議って、ずいぶんいい加減なものですね。単なる数字合わせみたい。これってみなさんにとって、有益なものなのでしょうか。何だか時間がもったいない感じがします。部下のレベルアップのために、ほかにやるべきことはないのでしょうか。このチームには、全国最下位の危機感がまったく感じられません。 002cut:売れるまで帰ってくるな――01 scene:全国最下位チーム 影野小枝「積み上げ」は終わっています。鈴木さんはホワイトボードの数字に目をやってから、振り向きました。鈴木 おまえたちは知らないだろう。おれの若いころは、売れるまで帰ってくるなといわれた。決算月は戦場と同じだ。倒れるまで、数字をかき集める。おまえたちからは、そうした気合いが感じ取れない。いいか、今期はこれで妥協するけど、来期は許さんぞ。どんなことをしてでも、全国ドンケツの汚名を晴らす。山之内 今期はどうせ未達成なのでしょう。だったら、あまりムリをすることはないじゃないですか。来期が苦しくなりますから。石川 営業の世界は、1年間が終わったらリセットされます。嵐が過ぎ去るのを待って、来期にかける方が利口ですよ。鈴木 おまえたちは、ワルじゃのう。山之内 お代官ごっこをしている場合じゃないです。来期踏ん張らなければ、おれたちの首が危なくなりますよ。鈴木 まあ、おれが何とか切り抜ける。だからおまえたちは、来期の種まきをすることだ。影野小枝 とんでもない展開ですね。営業マンは1年間を終えると、年間目標数字がリセットされます。つまり全員がゼロに戻り、ほかと同じスタートラインに立てるということですよね。こんな話を聞くと、何だか寂しくなります。 003cut:経費で落としておいてくれ――01 scene:全国最下位チーム 影野小枝 メンバーは鈴木さんのなじみの店・炉辺焼き「エッちゃん」に勢ぞろいしています。会議を終えると、決まってやってくるお店です。お魚や貝が焼ける、香ばしい匂いが立ち込めています。鈴木 今日は高いものを頼んでもいいぞ。今期の予算が残っているので、ごちそうしてやるよ。帰りはタクシーの使用もオーケーだ。エッちゃん、おれはキンキとホタテとタラバ。山之内 おれは、ハッカクとハラス。石川 おごりとなると、急に豪華な注文になった。鈴木 石川、経費で落としておいてくれ。おれがしっかりとサインするから。石川 お任せください。適当にやっておきます。山崎 ところで、定期人事異動の内示は、まだはじまっていないのですか? 鈴木 まだ聞いていない。異動の希望があったら、早めにいってくれ。支店長に話を通すから。太田は札幌支店の業務課希望でいいよな。太田 お願いします。鈴木 おまえには細かい仕事は不向きだと思うけど、たっての希望なのだから努力するよ。熊谷 鈴木さんが動くことはないですか? 鈴木 まずないな。こんなところの内示をもらったやつは、その場で退職届を出すさ。乾 それはないでしょう。現におれたちは内示を受けて、ここで働いているのですよ。失礼ですよ。鈴木 また始まった。酒が入ると、かみついてくる。乾 みんなは恥ずかしくないのか。全国最下位の地位に3年間も甘んじて、それで満足だっていうのか。いつも最悪の評価で、給料もポジションも上がらない。山之内 まあ、まあ、抑えて、抑えて。東京に比べて、こっちは物価が安いし、十分に暮らしてゆけるだろう。あくせくせずに、のんびりとやろうぜ。影野小枝 乾さんは32歳の独身で、帯広駐在員です。どうなっているのでしょう。この時点で後任の漆原さんは。すでに内示を受けています。鈴木さんへの内示も、もうすぐあるはずです。 004cut:呼称が「あいつ」になっている――01 scene:全国最下位チーム影野小枝 2次会の席です。サブリーダーの石川さんと山之内さんは、スナックのカウンターでウイスキーを飲んでいます。ほかには誰もいません。石川 みんなどこへ行ったのだろう? 帯広組は帰ったし、残りは鈴木さんとカラオケだろうな。疲れたよ、鈴木さんと乾のバトルに加えて、鈴木さんの自慢話。まったく、相も変わらぬ展開だ。山之内 噂では、すでに内示が始まっているようです。鈴木さんのことだから、内示があったらペラペラ喋っているよね。石川 彼にはまだ内示がない。ということは、支店長の目はないということだ。支店長クラスの内示は、終わっているようだ。山之内:当たり前でしょう。どうして全国最下位のチームリーダーが、抜擢されますか? 石川 毎年それなりの人に、釧路の海産物をしこたま贈っている。ああ見えても、取り入るのはうまいからな。会社の金を使っての中元歳暮は、上司と自分の両親や親戚向けだ。めちゃくちゃだよ、あいつのやることは。山之内 成績が悪いのは、すべてロクでもない部下のせいです。あいつの常套文句ですよ。それにしても、明日は札幌でマネージャー会議でしょう。だいじょうぶなのかな、まだ飲んでいて。石川 さっきエッちゃんに、モーニングコールを頼んでいた。明日いちばんの飛行機を、予約しているらしい。山之内 そういえば、エッちゃんと乾ができているの知っていましたか? この前、山崎が十勝川温泉で2人を見たといっていました。石川 それ、あいつの耳に入ったら、大事になるぞ。何しろあいつは、エッちゃんにぞっこんだからな。山之内 エッちゃんは、病気の母親のかわりに店を切り盛りしていて、けなげだよ。石川 おれもエッちゃんには、幸せになってもらいたいと思う。あいつにだけは渡したくない。山之内 最悪の上司ですよ。サブリーダーのおれを、信用していない。いまだに大病院を担当させてくれない。帯広にはほとんどこないのだから、任せてくれてもいいのに、たまにくると威張りくさって……。影野小枝 あら、あら。相当根が深いようですね。いつの間にか鈴木さんの呼び方が、「あいつ」になっています。
2018年02月23日
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妙に知180223:三日坊主昔こんなことを書いています。(引用はじめ)葬儀のときに、仙台のお寺でもらってきた冊子があります。「かるな」(2006夏号)というタイトルで、ページをくくると線香の匂いがします。発行は浄土宗。サブタイトルには、「あなたとお寺をむすぶふれあいマガジン」とありました。そのなかに、「なむちゃん教室」という連載があります。「三日坊主」について触れていました。こども向けに書かれており、ひらがな表記が目立ちます。引用してみます。-――「ぼうず」というのはお坊さんのこと。そして「三日」というのは、このばあいはみじかい日にちのこと。お坊さんになろうとして、しゅぎょうをはじめたけれど、とってもきびしくって、たえられなくって、「もうダメだ!」ってすぐにあきらめてやめてしまった人のことを、「三日坊主」といったんだ。 三日は、三日目のことではありません。短い日にちのことをさします。タバコを止めると宣言します。三日目まで耐えました。四日目に吸ってしまいました。「あなたって、やっぱり三日坊主だね」と妻がいいいます。「いや、おれは四日坊主だよ」。こんな会話は成立しないということです。世の中には、おもしろい雑誌(冊子)が無数にあります。たまには、手にとって読んでみることをお勧めしたいと思います。(引用おわり)山本藤光2018.02.23
2018年02月23日
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町おこし311:田代美紀のインタビュー――『町おこしの賦』第10部:生涯学習の町『月刊標茶新聞』の田代美紀は、町長室でインタビューをしている。録音テープをテーブルに置き、彼女はていねいに頭を下げた。「では質問させていただきます。町長の生涯学習は、刺激的な施策だと思います。そうお考えになった動機というか、きっかけは何だったのでしょうか?」「仕事バリバリ家でゴロゴロ。これは最悪のパターンです。この人は仕事と日常が両立していません。こうした人の末路は、家庭が崩壊するか、仕事に身が入らなくなるかの、どちらかになります」「仕事バリバリ、家でもバリバリ。これが町長の理想型なんですね?」「日常を知的に過ごすって、極めて大切なことです。それが本人の血肉となって、仕事にも好影響をもたらします」「知的な日常を、具体的に教えていただけませんか?」「読書をする。優れた人と交わる。この二つは、知を磨くための二大ツールです」「本はわかりますが、優れた人と交わる、は難しいですね。こんな地方にいると、なかなかそうした人には、お目にかかれません」「私は山本藤光さんとか野中郁次郎さんとか梅棹忠夫さんとか、本の著者を師と仰いでいます。本の著者なら、アポなしでいつでも会えるのですから、そういう先達に教えを請えばいいわけです」 「生涯学習センターには、夜間大学を誘致するようですが、標茶町民にそうしたニーズがあるのでしょうか?」「標高の卒業生の多くは、大学に進学していません。彼らには、もっと上の学校で学びたいとの強い希望があります」「センターには、高校生の進学塾も入るのですね?」「標高の大学進学率を、上げたいと考えています。彼らが大学で専門課程を学んで、故郷に戻ってきてもらいたいのです。町おこしの根本は、そこに関わる人たちの人間力にあります」 「人間力って、何ですか?」「ものすごく仕事ができる、上司がいたとしましょう。しかしこの人は、独善的で部下の提案に耳を傾けないとしましょう。この人に、部下はついていきますか。人間力は、傾聴力、共感力、包容力など、人間としての総合的な資質のことをいいます。部下が上司に求めているのは、仕事力よりも人間力だと思います」 「駅前にある『知だらけの学習塾』を、センターに移すと聞いています。すると現在地は、元のシャッター通りになってしまいます」「全部、屋台にしようと考えています。町民が気楽に利用できるお店というイメージです。そこは町民の憩いの場であり、外からきた人との触れ合いの場にもなります」
2018年02月23日
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妙に知180222:言葉を丸める我が家のトイレには、ありがたい言葉と絵のついた日めくりがあります。昨日何気なくそれを見ていて、ハテナマークが点灯しました。まったく意味がわからないのです。「こだわる心が世界をせまくしている。さわやかな心をもとう」 こだわる心、さわやかな心。これらは、何だろう? 私には理解できません。人に教えを説くときは、美辞麗句を並べてはいけません。言葉を丸めてはいけません。「言葉を丸める」の典型例はケンカの場面です。テメェ、コノヤロウ。周囲の人間にはなにをいっているのかわかりません。部下と同行をした上司が、「あんな話し方ではダメじゃないか」と吐き捨てます。部下は何がダメなのかがわかりません。これが言葉を丸める世界です。こだわる心、さわやかな心。何を訴えたいのだろう? 考えこんでしまって、長トイレになりました。山本藤光2018.02.22
2018年02月22日
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町おこし310:月刊標茶新聞 瀬口恭二が町長になって、加納雪子は広報課長に配属転換された。広報課は現場局の組織下にあり、猪熊勇太が直属の上司になる。雪子は広報誌『標茶だより』の誌面刷新を、勇太に提案している。 慶弔やイベント紹介などは、標茶町のホームページに移管して、『月刊標茶新聞』としてリニューアルさせたかったのである。『月刊標茶新聞』構想は、簡単に許可された。雪子は標高新聞部での経験を活かし、読者にも参画してもらえる新聞を目指すことにした。スタッフは、諸橋園絵、田代美紀、山田宗一の三人だった。三人とも標茶高校を卒業して、まだ二、三年しか経っていない。 『月刊標茶新聞』は、タブロイド版四ページでスタートさせることになった。創刊号は九月一日とすることも決まった。創刊まで三ヶ月しかなかった。雪子はホワイトボードに向かって、「創刊号に掲載すべき記事」の提案を求めた。 瀬口恭二町長のあいさつ。生涯学習センター建設の告知。フォト・ラリーの報告。おあしすの里の現在。標(しるべ)通貨の状況。中学生による小学生塾の現状。大葉のミスト栽培の紹介。 ホワイトボードには、たくさんの候補が上げられた。 「山田くん、このなかで町民が、一番関心のあるのは何だと思う?」「やはり新しく生まれる、生涯学習センターだと思います」「鋭いわね。みんながワクワクして、自分も参加したいと思ってもらえる記事を、最優先すべきよね」「いずれ、夜間大学の学生募集がなされるのですから、入学したいなと思ってもらえる記事にするんですね」「そう、では諸橋さんが生涯学習センターの記事担当。いいわね」「町長はきっと生涯学習の尊さを、創刊のあいさつで述べると思います。常識的には、町長のあいさつがトップで、生涯学習センターは二番記事にすべきだと思います」田代美紀の発言に、雪子は次のような質問を投げ掛けた。「田代さんが新聞の読者だとして、何ヶ月か前に就任した町長のあいさつと、これからできる生涯学習センターの記事との、どちらに興味がある?」「やっぱり、センターの方だと思います」「そうよね。田代さんは生涯学習センターのみについて、町長から熱い思いを引き出してくださらない。それなら読者の興味を引くと思うの」
2018年02月22日
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妙に知180221:有終の美冬季五輪のスピード女子500で、大きな感動をもらいました。滑り終えた小平奈緒は、唇の前に指を一本あて、観客に静かにしてくださいと訴えたのです。後ろの組にはライバルであり友人でもある韓国の李相談花(イ・サンファ)が控えていたのです。その後勝負を終えた二人は、それぞれの国旗を背負い、熱い抱擁をしました。ぐっとくるすばらしい映像でした。この場面は韓国でも大きく報道されています。これぞオリンピック。金メダルよりもはるかに美しい友情物語でした。これが有終の美。山本藤光2018.02.21
2018年02月21日
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町おこし309:恭二と詩織――『町おこしの賦』第10部:生涯学習の町恭二が町長に就任してから、初めての休日だった。七月二十四日は、抜けるような青空に恵まれた。恭二と詩織は連れ添って、朝の散歩に出た。おあしすの里の前を通ると、懐かしい体操の音楽が聞こえてきた。おあしすの里の居住者が、自主的にはじめたようだ。 二人はその様子を眺めながら、突き上げてくる笑いをこらえている。まるで音楽と動作が合っていないのである。そこには、詩織の両親の姿もあった。「恭二、みんな幸せそうだね。お父さんもお母さんも、楽しそうだよ」 詩織は振り返って、小さな声で告げた。 「あのあたりに、生涯学習センターを建設する。落ち着いたら、長島先生と北海道学園大学へ行ってくる。何としても夜間部を誘致したい」 恭二が指差す先を見ながら、詩織の気分も高揚してくる。標茶駅の方から、人の波が押し寄せてきた。「今日はフォト・ラリーの日だった」 恭二は長い帯になってやってくる人たちを、まぶしそうに眺めた。すると二人に向けて、一斉にカメラが向けられた。「恭二、みんな私たちを、撮っているよ」 不思議に思って、恭二はそのなかの一人に質問した。「道行くカップルを撮れ、と指令されているんです。さい先よく、お二人が歩いていたので、ぶしつけで申し訳ありません」 答えた中年の女性は、少し照れたようにいった。詩織は笑っている。「なあんだ。町長だと知っていて、撮影されていたんじゃないんだね」 はりまや橋は、記念撮影の人たちでごった返していた。「すみません、写真撮っていただけますか?」 若い女性がカメラを差し出して、恭二に声をかけてきた。朱色の橋を背に、三人の女性が並んでいる。恭二は「チーズ」と合図して、シャッターを押した。「恭二、今日の散歩は、ここまでだね。ずっとカメラマンやモデルを、やらされそうだから」 詩織は肩を揺すって、笑っている。 散歩を中断した二人は、早々と家に戻ってきた。二人で冷たい水を飲み、詩織は窓を全開にした。生ぬるい風が、待ち構えていたように入ってきた。「恭二、きて!」 詩織が呼んでいる。恭二は新聞から目を上げ、詩織の方へ歩み寄る。青空に揺れるたこが見えた。子どもたちの歓声も聞こえる。「みんな楽しそうだね。いいな、子どもたちの笑い声が聞こえるし、お年寄りたちは元気に身体を動かしている」「おれ、詩織のお陰で、町長になった」「いやね、しんみりとして。でも、私は恭二と一緒になれて、幸せ」「この町を笑顔と歓声の響く町にしたい」「恭二、笑顔は響かないの。その見出しは没だね」 詩織は新聞部時代の二人のことを思い出しながら、恭二の肩に自分の頭を乗せた。
2018年02月21日
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妙に知180220「間髪をいれず」をなんと読む?「言葉の作法辞典」をめくっていて、赤面した単語がありました。「間髪をいれず」をあなたはなんと読みますか? 私は「かんぱつ」と読んでいました。これは間違いでした。正しくは「かんはつ」。間髪は一語ではないので、もっと正しくは「かん、はつ」と切って発音しなければならないとのことです。ちなみに「言葉の作法辞典」は、カシオEX-word DATAPLUS10に搭載されています。山本藤光2018.02.20
2018年02月20日
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町おこし308:生涯学習センター――『町おこしの賦』第10部:生涯学習の町 瀬口恭二、宮瀬幸史郎、猪熊勇太の三人は、祝賀会を終えて、居酒屋むらさきにきていた。「お疲れさまでした」 勇太は二人にそう告げて、おいしそうに焼酎の水割りを口にした。「コウちゃん、病気の方はどうだい?」「恭二が町長になってくれたお陰で、何だか頭のもやもやが吹き飛んだ感じだ」「それはよかった。もしかして、コウちゃん、仮病じゃなかったのかい?」「そうならありがたい」 恭二と幸史郎の会話を聞きながら、勇太はこの二人は怪物だと思った。 「それにしても、生涯学習の町構想は立派だった。宮瀬建設が格安でビルを建てさせてもらうよ」「生涯学習センターにしたいんだ。一階には観光局、町民電話相談室、フォト・ラリー事務局を置いて、現在の標茶駅にある撮影ブースなども移転させたい。二階はこれから誘致する夜間大学教室、三階は高校生の進学塾、そして四階には現在の知だらけの学習塾をまとめたい」「生涯学習センターの全貌(ぜんぼう)が見えたな。標茶町はアカデミックに変身するわけだ」「そこのセンター長として、長島先生にきてもらいたいと考えている」「それはいい。でも長島先生、高校を辞めてくれるかな?」「さっき、打診してみた。オーケーだったよ」 幸史郎と勇太は、恭二の夢に耳を傾けている。恭二は続けた。「役所を現場局と事務局の二つに分けようと思っている。観光課、広報課、酪農推進局、農業推進局、福祉課などは、全部現場局に組み入れる。ここの責任者は勇太だ」「おいおい。そんな人事を、ぺらぺらしゃべっていいのか?」「二人はおれと一心同体。秘密など存在しない」「事務局の責任者は、誰を考えている?」 幸史郎が尋ねた。「斉藤貢さんに就任してもらおうと思っている」「それは適任だ」「そして北村尚彦さんには、助役をお願いするつもりだよ」「参謀を北村尚彦で、現場は勇太、事務は斉藤貢か。すばらしい布陣だと思う」 幸史郎は満足そうにうなずき、水割りを口に運んだ。恭二はふがいない社会人としてのスタートを思い起こし、深くため息をついた。
2018年02月20日
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妙に知180219:「600+α」へ書評は企業人時代から、ずっと書きつづけています。現在は廃刊になりましたが、PHPメルマガ「ブックチェイス」で毎週発信していました。私の担当は若手の日本人作家の作品でした。それが縁で、当時の若い作家と親しくもなりました。高嶋哲夫、黒岩比佐子、盛田隆二などは、作品が発表されるたびに、応援歌のつもりで書評を書いていました。現在は自分好みの作品を読み、その関連本を読んで、幅広い書評を心がけています。これからも匍匐前進させていただきます。「山本藤光の文庫で読む500+α」は、すでに508作の発信をしています。近いうちに「600+α」に名称変更しなければなりません。まだまだ紹介させていただきたい作品は、たくさんあります。山本藤光2018.02.19
2018年02月19日
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町おこし307:恭二の公約――『町おこしの賦』第10部:生涯学習の町 越川翔の立候補を予想していたが、彼は町長選挙に名乗りを上げなかった。七月、瀬口恭二は標茶町町長に就任した。お祝いの席は、藤野温泉ホテルに設けられた。本館がおあしすの里になったので、アネックス(別館)の文字は外されている。 壇上には恭二と詩織、宮瀬幸史郎と美和子夫妻が並んでいる。恭二の両親、詩織の両親、宮瀬哲伸と昭子夫妻、猪熊勇太とミユ、瀬口恭一と彩乃夫妻、長島太郎と可穂夫妻なども顔をそろえている。 北村広報課長は、司会席でマイクを握った。「ただいまから、瀬口恭二標茶町町長の就任祝いを開宴させていただきます。最初に元標茶町長の宮瀬哲伸さまより、ごあいさつをお願いいたします」 宮瀬哲伸が壇上に立った。二組の夫婦に丁重に頭を下げてから宮瀬は、少しだけどもりがちに話しはじめた。「恭二くん、詩織さん、標茶町町長ご就任おめでとうございます。そしてコウちゃんと美和子さん、長い間標茶町を引っ張っていただき、誠にありがとうございます。お陰さまで、わが町標茶は、全国の自治体から注目される、豊かな町になりました。前町長のコウちゃんは、私の自慢の息子です。そしてコウちゃんがここまでやれたのは、大親友である恭二くんの熱烈な支援があったからです。私は二人のバトンタッチはわが町標茶を、さらに発展へと導いてくれる、理想的な形であると断言できます。どうかみなさん、新しい町長、瀬口恭二くんを支えてください。では乾杯させていただきます。ご唱和ください。瀬口恭二標茶町町長のますますのご活躍を祈念して、カンパイ!」 恭二がマイクの前に立った。最初に感謝の言葉を述べてから、自らの思いを伝えた。「標茶町を、生涯学習の里にします。最初に通信教育と定時制を持つ、大学の誘致を行いたいと思います。標茶町の大人の大半は、高校を卒業してから、学問とは無縁の世界にいます。私はそうした人たちが、学ぶ機会を欲していることも知っています。そのために、まずは大学の誘致を約束させていただきます」 恭二はここで、いったん話を止めた。拍手が起きた。 「続いて、標茶高校の大学への進学率を、五十%まで引上げたいと思います。さらに駅前にずらりと並んでいる『知だらけの学習塾』は、環境を整えた大きな建物に、まとめたいと考えております。ドイツには、マイスター制度があります。名人技を弟子に、伝承できた人に与えられる称号です。私は標茶マイスターの導入を、約束させていただきます。人は死ぬまで、楽しく学ばなければなりません。標茶町にはそんな思いを、抱いております。宮瀬哲伸元町長は、標茶町を温泉郷へと導いてくださいました。そして宮瀬幸史郎前町長は、そこに酪農と農業という、二大産業を確立してくださいました。私はさらに、生涯学習の町を重ねさせていただきます。コウちゃん、長い間ありがとうございます。しっかりとコウちゃんからの、熱いバトンを受け取りました。みなさん、今後ともご支援ご鞭撻(べんたつ)をよろしくお願いいたします」 大きな拍手は、鳴り止むことを知らなかった。席に戻り、恭二はビールを口に運ぶ。「恭二、すてきな演説だったよ」詩織は、小さな声でささやいた。大きな瞳に、涙の粒が光っていた。
2018年02月19日
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一気読み「町おこしの賦」191-200■191:新築祝い――『町おこしの賦』第6部:雪が26 瀬口恭一・彩乃夫妻の、新居が完成した。二人は女の赤ちゃんを抱いて、恭二と幸史郎を出迎えた。先客がいた。彩乃の親友の国枝美和子だった。彼女とはウォーキング・ラリーで、顔を合わせている。 恭二は新築の匂いをかぎながら、部屋のなかを歩き回る。リビングは、南向きで広々としている。キッチンは対面式になっており、明るい陽光が差しこんでいる。ベッドルームには、小さなベビーベッドもあった。いたるところに収納があり、恭一の書斎には作りつけの書棚が、天井まで伸びていた。「いいな。コウちゃん社長の、初仕事だよね。立派なもんだ」 恭二がほめると、幸史郎は自慢げに胸を叩いてみせた。「恭二、忙しくなってきたみたいだな」 兄の恭一は、まだ視線を泳がせている弟に語りかけた。「うん、お陰さまで。藤野温泉ホテルの隣りに、あと三軒の建設が決まった。いよいよ故郷は、一大温泉郷へと変身だよ」 トイレに立った幸史郎を確認して、彩乃は恭二の脇に座り、小声でささやいた。「恭二さん、美和子はね、兄貴と交際したいんだって。ウォーキング・ラリーのときに見そめて、それからは眠れない毎日なんだって。だから力になってあげてくれない?」彩乃は美和子を見ながら、恭二の脇腹を軽く突いた。美和子は赤面して、下を向いてしまった。「わかった。まずは席替えだな。美和子さんは、ここに座って。コウちゃんはその隣りだ」 いいながら恭二は、席の移動をはじめる。 帰りは幸史郎が、美和子を車で送るように仕向けた。恭二は用事があるといって、電車で帰ることにした。走り去る幸史郎の車を見送って、彩乃は「恭二さん、ありがとう」と頭を下げた。 秋の空には、満月があった。温泉郷完成までは、あと二年。その日も満月だったらいいな、と恭二は思う。■192:文芸誌新人賞――『町おこしの賦』第6部:雪が27 新築祝いのあと、駅の売店で新聞を買った。第一面に、文芸誌の宣伝が掲載されていた。何気なく目を落とした恭二は、思わず飛び上がりそうになった。文学界新人賞のところに、浅川留美の名前を見つけたのである。恭二は驚いて、待合室を飛び出した。標茶行き電車の発車までは、あまり時間がない。大急ぎで書店まで駆ける。文芸誌は、標茶の書店には置かれていない。 目的の雑誌を買い、全速力で駅へと戻る。発車二分前。改札を抜け、階段を猛スピードで下り、ホームへの階段を駆け上がった。間に合った。肩で息をしながら、呼吸が整うのを待つ。もどかしい思いで、ページを開く。――『同棲ごっこ』浅川留美 タイトルと著者名の下に、笑顔の留美がいた。プロフィールでは、ニューヨーク在住となっている。「小説を書く」といっていた留美は、夢を実現させたのだとうれしい気持ちになった。ところが本文を読みはじめて、恭二は胸が押しつぶされるような気持ちになった。 主人公「わたし」と同棲しているのは、まさに恭二そのものだったのである。名前こそ京太郎にしてあるが、留美と暮らした日々がそのまま表現されていた。京太郎は、臆病で早漏で怠惰な男だった。主人公の「わたし」は、同棲相手の京太郎のそうした欠陥を、調教する使命に燃えている。 恭二は途中で、読むのを止めた。怒りのために雑誌を持つ手が震え、息苦しくなってしまったのである。活字から目を離し、窓外に視線を向ける。そこには欠陥だらけの、モデルの顔が映っていた。 気持ちを切り替えて、恭二はもう一度活字に目を落とす。図書館での出会い。予備校からH大学へ。二人のマンション探し。同居。粗末な調度品。みんな現実と同じだった。夜の営みもそう書かれてしまえば、そうなのかもしれないと思えてくる。京太郎は入社した会社を、すぐに退職してしまう。その報告を聞いた「わたし」は、自分の調教が失敗に終わったことを悟る。 これは小説というよりも、ねじ曲げられた暴露記事のようなものだ。読み終えて、恭二は雑誌を激しく叩きつける。■193:留美の話――『町おこしの賦』第6部:雪が28 浅川留美の『同棲ごっこ』はベストセラーになり、芥川賞の候補にも上げられた。恭二が留美の帰国を知ったのは、タウン誌『くしろ』の宗像修平からの電話でだった。釧路市出身の芥川賞候補作家というインタビュー記事で、取材をしたとのことだった。そのときに宗像は、作品中の京太郎のモデルが瀬口恭二だということを知った。だから少し、話を聞きたい。宗像は電話口でそう告げた。恭二は留美と一緒の取材なら受ける、と答えた。 宗像はあっけないほど素早く、明後日に釧路の留美の自宅でインタビュー、という段取りをつけた。 留美との、再会の日がきた。恭二ははやる気持ちを抑えて、留美の自宅を訪れた。いきなり留美は、玄関に現れた。「恭二、久しぶり」 屈託なく笑って、留美は恭二に抱きついてきた。リビングにはすでに、宗像とカメラを抱えた男の姿があった。恭二は宗像の向かいに、留美と並んで座った。待ち構えていたように、フラッシュが光った。「さて『同棲ごっこ』のお二人がそろったので、インタビューをさせていただきます。最初に浅川先生に確認させていただきますが、あの小説の京太郎のモデルは瀬口恭二さんで間違いありませんね」「はい。でも京太郎は、私が創り上げた架空の人物です。私と恭二が一緒に住んでいたことは事実ですが、作中の京太郎は恭二とは違います」「では、瀬口さんイコール京太郎ではないわけですね?」「恭二は、臆病でも早漏でもありません。嘘のつけない、まじめな人です。主人公の『わたし』を強い女にしたために、脇役の京太郎はとことん駄目な男にしなければならなかったわけです」「いやあ、あまりにも人物造形がみごとだったので、てっきりモデルが存在すると思っていました」「京太郎が恭二だったら、恭二はかわいそう」 久しぶりに聞く声だった。物語の進行は事実だけれど、小説のなかで「わたし」に寄り添う京太郎は架空の人物である。留美はそう断言した。恭二は心の澱(おり)が、消えてゆくのを感じた。そして留美に質問した。「小説を読んで、京太郎はおれだと思った。正直、侮辱されたと腹を立てていた。でも話を聞いて、納得した」「ごめんね、恭二」 忙しくノートにペンを走らせながら、宗像は質問を続ける。「瀬口さんとの出会いや、同居などは事実である。しかし小説のなかの京太郎は、瀬口さんとは別物で、想像上の人物である。これでいいですね」「はい、そのとおりです」「浅川先生の今日に、瀬口さんの存在はどう関与していますか?」「小説家になると決めたのは、二人で将来の夢を語り合ったときです。小説ではH大としていますが、浪人時代も北大に一緒に入ろうと励まし合っていました。恭二はまぎれもなく、今の私を育ててくれた恩人です」「釧路で執筆活動をなさるわけですが、いろいろ不便はありませんか?」「原稿はメールで送れますし、ほとんどのことは電話で用が足ります。不便は感じません」「瀬口さんにとって、浅川先生はどんな存在ですか?」 質問の矛先が、恭二に向いた。恭二は少し考えてからいった。「当時は、とても大切な人でした。しかし現在は思い出のなかにのみいる、大切だった人です」「恭二、何だか意味深な発言ね。いい人ができたんだね」 留美は屈託なく笑って、恭二の膝に手を置いた。置かれた左手の小指には、光る大きなリングがあった。■194:高校の文化祭――『町おこしの賦』第6部:雪が29 標茶高校の文化祭に招かれ、恭二は懐かしい部室に足を運んだ。「瀬口です」といってなかに入ると、三人いた女子高生が一斉に立ち上がった。「お待ちしていました。瀬口先輩」 そのなかの一人が深々と頭を下げて、歓迎の言葉を発した。彼女が新聞部長らしい。そう思った恭二に、彼女は自己紹介した。「新聞部部長の、阿部かりんといいます。これから、文化祭のご案内をさせていただきます。その前に、これをご覧ください」 壁に並ぶ表彰状を指差し、「これは瀬口先輩が獲得したときの、全国高校新聞最優秀賞のものです。回収騒ぎになった新聞も、貼ってあります」 賞状と新聞を眺め、ついこの前のことのように思った。南川愛華がいて、詩織がいて、可穂がいた。「ずいぶんたくさんの賞状があるね」 恭二の言葉に阿部は、「先輩たちが築いてくださった、伝統のお陰です」といった。 文化祭会場を一通り見た恭二は、阿部にお礼をいって高校を後にした。校門を出たとき、クラクションが鳴った。運転席から手を振っているのは、幸史郎だった。「文化祭の帰りか? 送って行くよ。乗りな」 恭二は勧められるまま、助手席に座った。「コウちゃんと辺地校を、訪問した日がよみがえってきた」「そんな日もあったな」 車は札幌時計台を通過し、オランダ坂に差しかかった。突然、幸史郎がいった。「恭二、詩織ちゃんのこと、どう思っているんだ?」「今も好きだよ。大切な友だちだと思っている」「それだけか?」「それ以上、何だっていうんだ」「実はな以前、おれ詩織ちゃんに、プロポーズしたことがある。前に冗談めかしていったけど、あれは事実だ。あっさりと断られたよ。私にはずっと、思っている人がいるって。魔が差して変な結婚したけど、その人が許してくれるまで、待つんだってよ」「コウちゃん、変なこと知らせてくれるなよ。何だか切なくなってきた」「詩織ちゃんのところで、降ろしてやろう。ちょっとくらいお話ししてから、家へ戻ったって遅くはならない」 強引に、下車を命ぜられてしまった。恭二は、藤野温泉ホテルを見上げた。隣りには赤い鉄骨柱が、空に向かって伸びていた。 恭二はホテルには入らず、そのままきびすを返した。その二が完結するまでは、会わない方がよいと考えたのだ。■195:残された二人――『町おこしの賦』第6部:雪が930 長島可穂は、無事に男児を出産した。猪熊勇太は日本では結婚式をしなかったが、タイでは三百人を招いての、豪華な結婚式をあげた。もちろん相手は、ミユさんである。恭二と詩織は出産と結婚のお祝いを持って、それぞれの家庭を訪問した帰りである。詩織は車の運転をしながら、助手席の恭二に話しかけた。「みんなどんどん、幸せになってゆく。可穂も勇太も、うれしそうだったね」「コウちゃんも、彩乃さんの親友と熱愛中だ。考えてみれば、残されたのはおれと詩織だけになってしまった」 急に車が停まった。「新しいレストランができたんだ。ちょっとのぞいてみようよ」 目の前には、赤い三角屋根のしゃれた建物があった。「ずっときてみたいって思っていたんだけど、くるなら恭二と一緒に、とがまんしていたの」 二人は窓辺のテーブル席に座る。「まだ新築の匂いがする」 コーヒーを注文して、恭二は店内に目を向ける。天井からは、氷柱の形をしたライトが吊されていた。壁面には、さまざまなコーヒーカップが並べられている。室内は黄色で統一されていた。「詩織の色の、お店だね」「うん、入った瞬間にそう思った」 コーヒーが運ばれてきた。店内には低い音で、ジャズが流れている。新しい客が入ってきた。空気が揺れた。「恭二、明日の夜、時間取れる?」「大丈夫だけど」「その二が完成したの。だから明日、きて」 詩織の大きな瞳に、氷柱ライトの光が映っていた。「それは楽しみだ。喜んで、明日おじゃまするよ。ところで詩織、明後日は空いてる?」「うん、大丈夫」「朝から時間を取っておいてくれないかな」「どうするの?」「内緒」 詩織は笑った。「恭二ったら、じらしてばかりなんだから」■196:その二――『町おこしの賦』第6部:雪が31 翌日、恭二は約束の時間に、藤野温泉ホテルを訪ねた。詩織が迎えてくれた。レストランに案内された。「ちょっと待っててね。さっきまで、必死で料理していたんだ。私の作ったその二を運んでくるから。その前にビールだね」 ジョッキのビールが、テーブルに置かれた。二人は乾杯した。「じゃあ、運んでくるね」 ほどなく詩織は、大皿に盛りつけられたキンキを運んできた。みごとな色つやで、甘い香りが鼻孔に広がった。「詩織、見た目は最高だよ」 恭二の向かいに座り、詩織は目を輝かせている。箸をつける。口に運ぶ。咀嚼(そしゃく)する。完璧な味だった。「詩織、おいしい。これまで食べたなかで、一番おいしいよ」 詩織の大きな瞳から、涙がこぼれた。恭二は詩織の隣りの席に移動して、揺れる肩を抱いた。そしていった。「詩織、合格だよ。最高の味だ」 詩織の肩に回した手に、力を入れる。その肩は、激しく揺れていた。恭二は元の席に戻る。そしていった。「詩織、一緒に食べよう」恭二は自分の箸を、詩織に渡した。前髪をかき上げながら、詩織は箸を動かす。口に運んだ。「恭二のキンキ、とてもおいしい」 涙顔はしっかりと、恭二をとらえた。また新しい涙が浮き出てきていた。恭二は、詩織を愛おしく思った。詩織がキンキを乗せた箸を、恭二に差し出している。恭二は口に入れた。涙腺が緩んだ。恭二は手のひらで、目頭を拭う。そして、告げた。「明日、九時の電車で釧路へ行こう。その三の日がきたんだよ、詩織」■197:その三――『町おこしの賦』第6部:雪が32瀬口恭二と藤野詩織は、手をつないで釧路駅に降り立った。詩織は、黄色いハーフコートを着ていた。恭二は白のコート姿である。「詩織、覚えているよね。釧路でのデート」「ストラップのプレゼントを、し合ったよね」「それを、またやろうと思っている」 二人は、駅ビルのお店に向かった。店内の様子が変わっていて、ストラップの売り場が見つからない。向こうから、詩織の声が聞こえた。「恭二、きて!」 すでに詩織は、二本の黄色いストラップを手にしている。「恭二、これよ。あのときのものと同じ」 詩織は二つをレジに持って行って、値札タグを切ってくれるようにお願いした。店を出ると二人は並んでベンチに腰をかけ、自分のスマホにそれを取りつけた。「何だか、あの日に戻ったみたい」 詩織はスマホを振りながら、目を輝かせている。恭二はあの日が今日に、つながることを演出したかった。それまでの時間は、全部抹消してしまったのだ。寒風のなかを、二人は抱き合いながら歩いた。詩織もあの日と、今がつながったと感じていた。恭二はやさしい儀式で、私を迎え入れようとしてくれている。詩織は恭二からの、その三を待っている。 幣舞橋は、霧に覆われていた。何も見えない。二人は橋の真ん中で、立ち止まった。恭二は詩織を真正面にすえて、じっと詩織の目を見た。「詩織、愛している。結婚してもらいたい」 詩織が飛びついてきた。二人は抱き合い、キスをした。詩織は泣いていた。「恭二、うれしい。ありがとう」 霧のなかに、二人だけの濃密な空間が生まれた。霧のなかから、汽笛が聞こえた。二人はまだ抱き合ったままだった。時は止まった。■198:恭二、きて!――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら33 ストラップの交換をした一週間後、恭二と詩織は阿寒温泉ホテルの宿泊客になっていた。恭二は記帳カードに、妻・詩織と書いた。入浴と食事を済ませ浴衣姿の二人は、窓辺のソファでビールを飲んでいる。部屋には二つの布団が並んでいた。「恭二、妻って書いてくれてありがとう。ものすごくうれしかった」「中学生のときから、詩織はおれの嫁さんになるって信じていた」「幸せ過ぎて、何だか怖い」 恭二は詩織の肩を抱いて、布団の方へ誘った。そしてカバンから小箱を取り出した。「詩織、プレゼント」 ていねいに包装を解き、詩織はなかのものを取り出す。「開けてみて」 詩織は蓋を開ける。「恭二、指輪だ。イエローダイヤの指輪だ」 恭二は詩織の左手を取り、薬指にそってはめる。「ぴったりよ、恭二。うれしい」 詩織は泣きながら、恭二に飛びついてきた。反動で倒れた恭二の上で、詩織は左手を宙にかざしている。恭二は詩織の背中に手を回し、きつく抱き締めた。また、時が止まった。「恭二、きて!」 詩織は自分のカバンを、探りながらいった。詩織は細長い包みを、恭二に手渡す。黄色のネクタイだった。「詩織、ありがとう。おれの勝負ネクタイにする」 二人は再び熱い抱擁を交わす。恭二がトイレから戻ったら、部屋の電気は消されていた。暗闇のなかで、詩織が呼んでいる。「恭二、きて!」 這いつくばって、声の方に身を進める。詩織がいた。抱き寄せる。長いキスをした。詩織の浴衣に手をかける。そして胸元を開く。「詩織、ちゃんと見たい」 詩織は何もいわない。恭二は枕元の電気スタンドに、手を伸ばす。詩織の裸身が横たわっていた。白い乳房は記憶のものよりも、ずっと成熟して大きかった。美しいと思った。恭二はピンク色の乳頭を、そっとつまんでみる。詩織の身体が揺れた。唇をそこにあてる。詩織が何かを叫んで、動いた。電気スタンドの明かりが、消えた。そして暗闇のなかから、今度ははっきりと、詩織の声が聞こえた。「恭二、きて!」(『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら。終わり。第7部につづく)――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ■199:標茶町温泉郷オープン ――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ01 標茶(しべちゃ)駅を出て、駅前商店街を抜けたところに、新たな看板ができた。「標茶町温泉郷入口」の文字の下に、赤い右向きの矢印がある。以前には「藤野温泉ホテル入口」と書かれた、看板があった場所である。 しかし角を曲がろうとしても、道路はテープで遮断されている。九月一日午前八時。「標茶町温泉郷」のオープニング記念式典は、間もなくはじまろうとしていた。 鋏を手にした三人は、テープに向かって歩み出た。宮瀬哲伸町長を中央に、瀬口詩織と吉岡照子が並んでいる。詩織は瀬口恭二と結婚して、現在は藤野温泉ホテル・アネックスの支配人である。吉岡照子は居酒屋むらさきの経営者で、温泉郷の商店街を代表している。 標茶高校ブランスバンド部の演奏が、九月の冷たい空気を切り裂いた。沿道には宮瀬幸史郎(こうしろう)・美和子夫妻、長島太郎・可穂夫妻、猪熊勇太(ゆうた)・ミユ夫妻の顔もあった。テープカットが行われた。たくさんのフラッシュが、またたいた。 宮瀬町長を先頭に、人々は標茶町温泉郷へと歩を進めた。道路の両側には、さまざまな土産店が並んでいる。早めに店を開けた店主たちは、店の前で大きく手を振っている。 宮瀬はついにこの日がきた、と思わず目頭を拭う。たくさんの足音が背後に続き、ブラスバンドの演奏がそれを追いかけてくる。眼前に、真新しい四棟のホテルが現れた。釧路川を背にしたホテル群は、ちょうど雲間から顔を出した太陽に照らされ、オレンジ色に染まっていた。ホテルの前にはたくさんの花輪が並び、「歓迎・標茶町温泉郷」ののぼりが風に揺れている。こも樽が割られた。 宮瀬町長は、酒を満たした升を片手に壇上に立った。「標茶町温泉郷オープンの日が、やってきました。これはひとえにみなさんの努力のたまものと、深く感謝申し上げます。藤野温泉ホテルに隣接した、藤野温泉ホテル・アネックス、セントラル温泉ホテル、満月家ホテル、標茶温泉ホテルの四棟は、すでにお客さまをお迎えする準備を整えております。瀬口観光協会会長の連絡では、本日は千名を越える宿泊予約がありました。冬場でも賑わう郷土作りの第一歩を、みなさまとともに迎えられたことを、このうえなく幸せに思います。では乾杯させていただきます。ご唱和願います。標茶町温泉郷の前途を祈念して、カンパイ!」「カンパイ!」の声が、初秋の空に響いた。瀬口恭二は目に涙を浮かべ、藤野温泉ホテル・アネックスを見上げている。「恭二、ついにこの日がきたね。うれしい」 先導を終えた詩織は恭二の肩に顔を乗せて、感慨深げにいった。気の早いナナカマドの葉が、詩織の頭に止まった。恭二はそれをつまみ上げ、「こいつもお祝いにやってきた」と目の前に差し出した。「もうすぐ本物の冬がくる。でもアネックスは、これからが本番なんだよね」 詩織は笑った。大きな瞳がくるくる動いて、左の頬にえくぼができた。■200:アネックスの初日――『町おこしの賦』第7部: 心のハンディキャップ02オープンの式典が終わるのを待ちかねていたかのように、洗面道具を抱えた親子連れが続々とやってきた。午前八時半から二時間を町民限定の、無料温泉開放としている。標茶町温泉郷は藤野温泉ホテルを含めた、五棟の浴槽が廊下でつながっている。それぞれのホテルは、独特の個性を持った浴槽になっている。宿泊客は自由に、露天風呂、打たせ湯、寝転び湯、ジェット噴流の湯、薬湯、アロマスチームサウナなどを楽しむことができる。さらに憩いの場「おあしす」に新設された、温水プールへも無料で入館できる。藤野温泉ホテル・アネックスは、三種類に強さを分けた打たせ湯とサウナを目玉としている。打たせ湯は温泉の落下場所が異なるので、好みの水量を選ぶことができる。恭二と詩織はロビーでコーヒーを飲みながら、つめかけてくる町民を暖かく見守っている。結婚式直後から、アネックス建設の所用に追われた。そのため新婚旅行へは、まだ行っていない。ロビー脇の喫茶は、風呂上がりの親子で一杯だった。「さっきコウちゃんから、今夜八時ころに『ミユ』に顔を出してくれって頼まれたわ」「誰がくるんだい?」「そこまでは聞いていない。でも忙しいだろうけど、二人揃ってちょっと顔を出して欲しいっていわれた」 フロントの電話が、鳴り始めた。二人は弾かれるように立ち上がり、詩織はフロントへ恭二は外へと向かった。玄関前には、宮瀬町長と斉藤観光課長がいた。「町長、斉藤課長、標茶町温泉郷オープンおめでとうございます」 近寄って、恭二は二人に頭を下げた。「恭二くん、ついにこの日がきたね。ワクワクしてきたよ」 宮瀬町長は目を細めて、うれしそうにいった。「さっき、全部の浴槽を見てきた。渡り廊下でつなげたのは、画期的なアイデアだね」 斉藤は満足げに、うなずいてみせた。恭二たちの結婚式のとき、「標茶の活性化のために不可欠な夫婦が誕生しました」とスピーチしたのは、斉藤だった。 ホテルに戻ると、フロント前に従業員の責任者が整列していた。宿泊部門責任者・フロント担当の坂口、料飲食部門の責任者・レシェプショニストの内藤、宴会部門責任者の中村、営業部門の責任者の安井、管理部門責任者の桧垣というメンバーである。詩織はこれらのメンバーを、足を棒にして集めてきた。「ではあと三十分で、営業開始となります。それぞれがしっかりと部下とともに、立派なスタートを切ってください」 恭二は詩織の声を聞きながら、美人女将の誕生だと思った。電話のベルは、ひっきりなしに鳴っていた。「ありがとうございます。藤野温泉ホテル・アネックスでございます」 大きな声が、詩織の声にかぶさった。恭二は自分の心臓が、高く鳴りはじめたのを感じた。
2018年02月18日
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一気読み「町おこしの賦」181-190■181:温泉郷への第一歩――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら17 宮瀬哲伸は議会の就任あいさつで、標茶町温泉郷の構想を語った。「標茶町は人の数よりも、牛の数の方が多い町になってしまいました。そしてこの町は、冬期の半年間は死んでしまいます。農業も林業も建築も、冬場は仕事を失っています。そんな標茶町を、何としてでも活性化させたい。そんな一心で、町長選挙に立候補させていただきました。 標茶町を一大温泉郷にする。私の公約は、冬場も活気を取り戻す標茶町の建設であり、観光客が押し寄せてくる標茶町の創造であります。幸い標茶には、良質なモール温泉があります。これを活用して温泉ホテルを建設し、観光客の誘致を図ります。冬場に職を失っていた人の雇用を回復し、標茶町民への収益還元も実現させます。 町議のみなさんにも、標茶町温泉郷実現に尽力していただきたいと思います。ゴールは三年後の九月一日。この日に標茶町は生まれ変わります」 町長の演説が終わった。議場は大きな拍手で包まれた。傍聴席にいた恭二は、宮瀬哲伸のとてつもないパワーを実感していた。「空気まで死んでいる」といっていた、亡き南川理佐の言葉がよみがえる。宮瀬町長は、大型で強力な扇風機を持ちこんだ。それで死んだ空気を、一掃しようとしている。恭二の胸のなかに、新しい空気が送りこまれてきた。「いい演説だったな。恭二、長い間選挙の応援をしてきたけど、やっと報われたな」 隣りの幸史郎は、耳元でささやいた。宮瀬町長に続いて、斉藤観光課長が演台に立った。「宮瀬町長からお話のあった標茶町温泉郷構想の具体例を示します。現在藤野温泉ホテルのある地区を、温泉郷といたします。そこには客室数百くらいの規模の、温泉ホテルを四軒建設します。藤野温泉ホテルの現在の客室数は五十ですので、倍の規模のホテル建設となります。そして藤野温泉ホテル前の空き地に、観光客のためのお店を作ります。釧路からの電車の本数が少ないので、送迎用のバスを二台用意します。このバスは単なる送迎だけではなく、町民の足としても活用してもらえるように、現在ルートを検討中です」 恭二の脳裏にはくっきりと、新しい標茶町の絵が浮かんだ。大きな転換に、何としてでも寄与したい。萎んでいた胸に、新たな活力がみなぎってきた。恭二はそう感じた。 ■182:町長からの委託――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら18 宮瀬哲伸町長から呼ばれて、瀬口恭二と宮瀬幸史郎は町長室に入った。「二人には、標茶町温泉郷の推進室に入ってもらいます。臨時雇用ですが、二人にはその中心メンバーになってもらいたい。瀬口くんには、私の後任として標茶町観光協会会長および『おあしす』の館長をお願いしてある。幸史郎には、宮瀬建設の社長を継いでもらうと頼んだ。ただし今回の温泉郷の建設事業は、越川多衣(たい)良(ら)社長の越川工務店とジョイントビジネスとして実施してもらいたい。町民から後ろ指を差されないように、これだけはしっかりと厳守すること、いいかな」「ありがとうございます。喜んで引き受けさせていただきます」 恭二はいった。気合いのこもった声だった。「ありがとうございます。多衣良社長とは力を合わせて、温泉郷建設にあたります」 幸史郎も、きっぱりといった。「標茶町には二人の力が必要だ。観光課の斉藤課長と広報の北村課長が、温泉郷推進委員会の責任者だから、二人とは綿密な連絡を取り合うようにしてもらいたい」 町長室を出た二人は、「おあしす」の喫茶コーナーで向かい合っている。「明日から、恭二がここの館長だ。夏場はすごい賑わいだけど、冬になるとスカスカになってしまう。まずはその対策が必要だな」「ここも大切だけど、何としてでも四軒のホテル誘致が難題だ。セントラル温泉や満月家ホテルなどと、早急に交渉しなければならない」「おれの方も、多衣良社長とは選挙で争っている。前町長の越川さんの長男の応援で、あっちもずいぶん汚い手を使っていた。殴り合いにはならなかったが、まずは血みどろの町長選挙の後始末が必要だ」 二人は思い思いに、胸のうちを語り合った。二人の肩には、ずっしりと責任という重しが乗った。■183:温泉郷推進室――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら18 標茶町役場の一室に、「標茶町温泉郷推進室」の看板が掲げられた。本日が第一回目の会議である。瀬口恭二と宮瀬幸史郎の顔もある。責任者の斉藤観光課長から、温泉郷構想の具体的な説明がなされた。「オープンは三年後の九月一日。それまでに、客室百超のホテルを四軒建設します。観光客向けの商店は、当面二十軒を予定しています。ここまでで何か質問はありますか」 恭二が手を上げた。「藤野温泉ホテルの客室数は五十ですが、増築するなりの対応が必要ですか?」「そこまでは検討していません。四軒並べることが現状での最大の課題です」「四軒のホテルをフル稼働させるための、具体策をおうかがいしたいんですが」 幸史郎は、北村広報課長の方に顔を向けて質問した。「団体客を集めるための方策を、現在検討中です。大手旅行会社への働きかけを含めて、修学旅行や同窓会なども誘致したいと考えています。あとは新聞などのメディアの活用と、テレビコマーシャルも念頭に入れています。そのほか駅などでのポスター掲示なども、視野に入れています」 恭二は、また手を上げた。「温泉を訪れる客のウエイトは、団体よりも個人が増えているという話を耳にしています。個人客に向けた有効なメッセージも必要だと思います」「個人客の誘致には、観光資源と料理を含めたホテルのもてなしが重要になります。見る、体験する、食べる、を満喫していただくしかけは大切でしょうね」 北村の話を引き取って、斉藤が続けた。「これは過去にない、標茶町の大事業です。町民の一人ひとりも、観光客誘致の大使になってもらわなければなりません。先日議会で承認されましたが、冬場対策の一環として、『おあしす』に温水プールを建設することになりました」 恭二は初めて聞く構想に、驚きを隠せない。手を上げて、質問する。「冬でも活用できる温水プールは大賛成ですが、規模とか併設施設とかはどうなっていますか?」「五十メートルで八レーンの競泳大会が可能なサイズです。二階には、スポーツジムとサウナとシャワー室を予定しています」 宮瀬町長は力強く、標茶町を引っ張っている。恭二の脳内に、標茶町の地図が広がる。まだ白地図だったが、「おあしす」と温泉郷の部分に、淡い色が浮き出てきた。恭二は力になりたい、と思った。ホテルと商店街の誘致は、恭二の役割になった。ここに固有名詞を書きこむのが、恭二に期待されている役割だった。■184:アネックスの建設――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら19 路肩の雪が溶け、標茶町に春がきた。瀬口恭二は宮瀬町長と、藤野温泉ホテルを訪問した。恭二は何度も、社長の藤野敏光とは交渉してきた。本日は、その決裁が下りる日だった。「宮瀬町長の標茶温泉郷プランは、願ってもないものです。信用金庫の支店長とも、相談しました。増築ではなく思い切って、別館を建設しようとの結論になりました。藤野温泉ホテル・アネックスとして、百室規模とさせていただきます」「それはありがたい。町として観光客誘致は、大々的にやらせていただきます。藤野社長に承諾していただいたので、これで温泉郷プランに弾みがつきます」 宮瀬は満面の笑みを浮かべて、頭を下げた。傍らの恭二も、自然に顔がほころんでいる。「アネックスの方は、娘の詩織を支配人にします。今後の交渉は、詩織とやっていただきます」 藤野は恭二に目をやり、何度もうなずいてみせた。今日も詩織の姿はなかった。宮瀬家からの帰り道、恭二は本物の春になったら、大切なことを告げるといった。しかしそれ以降、詩織とは会っていない。これまでに何度か訪問しているが、どうしたのかと心配になっていた。そんな恭二の胸中を察したように、藤野は恭二に向かっていった。「詩織は東京で、ホテル経営の教室に通っています。三ヶ月コースなので、来月には戻ってきます。だから交渉はそれからにしてください」 詩織は恭二に何も告げずに、東京へ行っている。恭二はそこに並々ならぬ、詩織の固い決意を見た。おれたちは温泉郷に向けて、走りはじめたのだ。恭二は満ち足りた気持ちで、宮瀬とともに藤野温泉ホテルを辞した。宮瀬が玄関に向かって、両手を広げた。「ここに五階建てくらいの、ホテルが並ぶんだよ、瀬口くん」「町長、青空に向かって伸びる、赤い鉄骨が見えるようです」 宮瀬町長は恭二に腕を差し伸べ、「頼むよ」といった。恭二は力強く、「はい」と返した。■185:それぞれのお祝い――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら20 居酒屋むらさきには、宮瀬幸史郎、宮瀬可穂、藤野詩織、猪熊勇太、そして瀬口恭二が顔をそろえている。招集をかけたのは勇太だった。「ゴールデンウイーク中なのに、全員が顔をそろえてくれてありがとうございます。本日は喜ばしい報告がたくさん聞けると思って、声をかけさせていただきました。では座っている順番で、最初はコウちゃんから」「このたび、宮瀬建設社長に就任しました。合わせて標茶町温泉郷推進委員にもなりました。温泉の町標茶を目指して、一生懸命頑張ります」「プー太郎だった瀬口恭二は、標茶町観光協会会長とおあしす館長、そして温泉郷推進委員の職をいただきました。標茶町発展のために、身を粉にして頑張ります」 続いて藤野詩織が立った。「再来年オープン予定の、藤野温泉ホテル・アネックスの支配人に任命されました。まずは、料理人や従業員のスカウトからはじめます。どなたかいい人がいたら、ぜひ推薦してください」 「赤ちゃんを授かりました。お腹が目立たないうちに結婚式をあげます。来週式場と相談しますので、決まったら案内させてもらいます。ぜひきてください」可穂は上気した顔で、そう報告した。また拍手が鳴り響いた。世話役の勇太が立った。「おれにも、めでたい話ができました。酪農の勉強にきてくれていた、例のミユを嫁さんにすることにしました。以上」 拍手をしながら、恭二は満たされた気持ちになった。それぞれの道を歩き、それぞれが幸せをつかまえている。いい仲間だなと思う。ミニ同窓会からわずか数ヶ月で、みんなの今は大きく様変わりしている。それがうれしかった。 恭二は、詩織の隣りに席を移した。「詩織、お帰りなさい。黙って東京へ行って、帰ってきても連絡もくれない。冷たいな、詩織は」「春に何かが起こる。それだけを楽しみにして、勉強してきたんだ。雪が溶けるのを、ずっと今か今かと待っていたのよ」「伝えたいことのその一はね……」「ちょっと待って。伝えたいことはいくつあるの?」「その三で完結する。今日はその一だけ、伝える」「何だか、ドキドキしてきちゃった」「詩織へ、その一。結婚したことも旦那のことも、一切合切を消し去ること。今後はなかったこととして、おれと詩織のなかには絶対に、カケラすら見せないこと。それがクリアしたら、知らせてもらいたい」 詩織はじっと、恭二の目を見ていた。瞳のなかには、私がいる。詩織はきっぱりと告げた。「恭二、絶対に実現させる」■186:郷土のために――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら21 恭二の日常は、にわかに忙しくなっていた。観光協会会長として、現在六カ所に分散している温泉ホテルと旅館を、一カ所に集約させなければならない。移設には、多額な資金が必要になる。どこも簡単には、首を縦に振ってはくれない。町の信用金庫支店長を説得して、資金融資の段取りはつけた。それでも藤野温泉ホテル・アネックス以外は、承諾してくれない。 恭二はあと一軒が賛同してくれれば、雪崩現象が起こると踏んでいた。恭二はウォーキング・ラリーの宿泊客を受け入れてくれた、セントラル温泉と満月家ホテルに集中することにした。標茶町温泉郷のオープンは、二年半後の九月一日と決められていた。したがって、恭二は今年の夏までには、ホテル移設の承諾を得なければならなかった。同時にホテルを取り巻くように形成される、土産物店の入居者も決めなければならない。居酒屋むらさきと佐川民芸店は、いち早く賛同してくれている。「温泉客をどう迎えるのか。その青写真が見えない。あまりにもリスクが大き過ぎる」 これがセントラル温泉の社長・万代徹の、懸念であった。恭二は北村広報課長とともに、何度も万代のもとに足を運んだ。事態が進展しないまま、時は空しく流れた。 恭二は最後の賭けのつもりで、先日北村から聞いた話を万代にぶつけた。「実は東京の大手ホテルチェーンが、名乗りを上げてきています。私としてはできるだけ、よそ者の参入は防ぎたいと思っています。生まれ育った故郷の再建は、地元の私たちが担わなければなりません。万代社長、どうかリスクを取ってください。もちろんお客さんのことは、私たちが全力をあげてやり抜く覚悟でいます」 恭二は深々と頭を下げた。空気が動いたような気がした。顔を上げた恭二に、万代は大きくうなずいてみせた。「乗ったよ。標茶町の再建の話に。生まれ育った郷土のために、尻ごみをしているわけにはいかない」 万代の手を取り、恭二は思わず宙を仰ぐ。「万代社長、ありがとうございます」■187:町民への説明会――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら22 標茶町公民館には、二百人ほどの町民が集っている。標茶温泉郷構想についての、町民説明会がはじまった。会場には、藤野敏光・詩織親子や万代徹の姿もあった。宮瀬町長のあいさつの後、斉藤観光課長が壇上でマイクを握った。そしていきなり本題に入った、「標茶町に、新たな温泉ホテルを四軒新設します。いずれも大小百室を備えた、団体から家族までが宿泊可能な規模の予定です。隣りの弟子屈町には、大小十八の温泉施設があります。しかしいずれも団体客は、収容できない規模のものです。阿寒町は二十二施設ですが、一日の収容客数は約六千六百人となります。標茶町の新たなホテルは、一軒あたり三百人は収容可能なものです。したがって四軒で千二百人は収容できます。これに既存の温泉ホテルをプラスすると、千五百人程度の温泉客の誘致が可能になるわけです」 会場からは、大きなどよめきが起こった。斉藤はここで、温泉郷創設の目的へと話を展開する。「みなさんご存じのとおり、標茶町の人口減少は著しく、移住者への町営住宅無料貸与などの対策では、歯止めが利かない状況にあります。現在夏場限定で開催している標茶町ウォーキング・ラリーと冬の雪中運動会は、それなりに効果を示しています。しかし冬場は観光客のない閑散とした町であることは、みなさんご存じのとおりです。幸い標茶町には、珍しい水質のモール温泉があります。標茶温泉郷はそこに着目し、一年を通して観光客を呼べる町への転身を、意図したものであります」 斉藤はここで、一呼吸おいた。会場を埋める町民の顔を眺めながら、斉藤は少し安堵して続ける。「たくさんの観光客がくると、必然土産物店がなければなりません。四軒の新設ホテルの向かいには二十軒ほとの新たな商店街を建設いたします」 平穏だった会場から、ブーイングが起きた。会場の前列に陣取っていた、駅前商店街のメンバーからであった。斉藤はあらかじめ用意していた、駅前商店街に向けたメッセージを語りはじめる。「駅前商店街のみなさんの商いは、これまでは町民に限定されたものでした。そこに新たな観光客が、加わるわけです。つまり、新たな顧客ができることになりますから、プラスアルファの収益が生まれます」 司会から「質問を受けます」と告げられた。駅前商店街の会長・佐々木隆介が質問に立った。「お客さんの大半は車できます。つまり新設の温泉郷へ直行する人が、ほとんどでしょう。私たちの駅前商店街は、おいてきぼりとなります。ここにどんなメリットが発生するのか、はなはだ疑問であります」 さらにびっくり食堂の経営者が、質問に立った。「私の食堂を含めて飲食店は、ホテルに客を取られることは歴然としています。駅前商店街の飲食店は、今でも目立っているシャッター店と同じことになってしまいます」 北村広報課長がマイクを持った。「ホテルの宿泊客は、あらかじめ朝と夕食は予約時に申しこみがあります。したがってホテルの宴会場は、これらのお客さんで満席になります。町民の入りこむ余地はありません。だから既存のお客さんが、奪われることは考えられません。それよりも観光客の昼食は、ホテル外でとられることになります。駅前商店街の飲食店のみなさんは、ここに新たな可能性を見出していただきたいと思います」 多少の反対意見はあったが、町民への説明会は無事に閉会された。会場にいた恭二は、一歩前進と胸のなかでつぶやいた。■188:味がすべて――『町おこしの賦』第6部:雪が23 瀬口恭二は、満月家ホテルの契約にもこぎつけた。これはセントラル温泉ホテルに刺激されたもので、大きな苦労はいらなかった。既存の藤野温泉ホテルを含めた、四軒の形は整った。恭二はあと一軒の交渉を、急がなかった。追って先方から、申し出てくるだろうと思っていた。 駅前商店街からは、積極的に参加を申し入れてくる店が多発した。抽選での入店になるかもしれない、と危惧するほどだった。 宮瀬幸史郎は、越川多衣良とジョイント・ベンチャーの契約を交わした。三軒のホテル建設には、さらに大きな建設会社との提携が必要であった。幸史郎は今手がけている、瀬口恭一・彩乃夫妻の新築工事を見守る傍ら、釧路市のパワフル建設に何度も足を運んでいた。社長の郷原稔は、「でっかい仕事を請け負ったな」と驚きながら、「よっしゃ、ジョイントに乗ろう」といってくれている。そして次のような疑問を呈した。「建設の方だって作業員の確保が大変なのに、新たな三軒のホテルは厨房スタッフを集められるのか?」「その点はホテルの経営者任せなので、わかりかねます。しかし調理人を探すのは、そんなに大変なことなのですか?」「味が悪ければ、客は逃げる。ホテル業界は、コックの引き抜き合戦をしている。一流の料理人を雇ったところが、勝つとの常識があるくらいだ」■189:共同厨房――『町おこしの賦』第6部:雪が24 恭二、幸史郎、詩織の三人は、藤野温泉ホテルの会議室で長い話し合いを続けている。「ホテルは料理人の人選が、すべてだと聞いた。詩織のアネックスは、メドがついているの?」 幸史郎の問いかけに、詩織の眉間にしわが生まれた。「まったく、見通しが立っていないの。まだ先のことだから本格的にあたってはいないけど、どっかから引き抜くしかないと思っている」「おれのところも、建設作業員の確保が大変だ。釧路のパワフル建設が手伝ってくれることになったので、なんとかなりそうだが、結局腕の立つ経験豊かな人は必要だ」「コウちゃん、四軒共同の厨房なんて、どうかしら? 特別料理は自前でやるとしても、定番の料理なら一カ所でやる方が、合理的だと思うの」「それは、名案かもしれない。検討の価値ありだな」「朝のバイキングなら、確実にそれでいけるね」 恭二が口をはさんだ。詩織はうなずき、さらにひらめきを口にした。「最近はね、温泉ラリーという企画があるの。何軒かの温泉が話し合って、他のホテルの客にも温泉を開放するの。お客さんは、いろいろな温泉を楽しみたいじゃない。結構人気がある企画なの」「浴室も一気通貫にしちゃえば、それは実現可能だな」 ホテル経営教室で勉強した詩織には、たくさんのアイデアがあった。各ホテルが定番の浴槽を持つよりも、それぞれが凝った浴槽を持つ方が効果的だろう。恭二は詩織の発想の豊かさに、心を揺さぶられた。そして恭二は、こうして大人の会話ができるようになった、自分たちを誇らしく思う。「問題はセントラルさんや満月家さんが、賛成してくれるかどうかだな。詩織のところの本館も当然つなぐことになるのだから、一度お父さんと相談してみたら?」「うちは絶対に、賛成してくれる」「ではそのアイデアで図面を書き直してもらって、その上でセントラルさんたちと相談することにしょう」 まだ紙の上とはいえ、標茶町温泉郷は少しずつ形が整ってきた。 会合が終わって、恭二と詩織は居酒屋むらさきへ行った。二人は隅のテーブル席に陣取り、額を寄せ合った。「恭二。その一は完全に、心から追い払ったわ。すべてなかったこと。それが私の心のハンディキャップには、なっていない。消えてしまったのよ。だから、その二を教えて。あんまり小出しにされると、私、おかしくなっちゃう」「その二はね、おいしいキンキの煮魚が作れるようになること」「何それ?」「おれのお祝い料理なんだ。大好物だけど、高いからお祝いのときにしか、出してもらえない」「わかったわ、恭二。練習する。それがクリアできたら、最後の課題だよね。でも私ね、恭二が何をいうのかを、知っている。ドキドキ、ワクワクしながら、その日を待っているわ」■190:キンキの煮魚――『町おこしの賦』第6部:雪が25 藤野詩織はホテルの厨房で、料理長からキンキの煮魚料理を習っていた。キンキは高級魚で、一匹二千円ほどする。鱗をていねいに落とし、内臓を抜く。肝は捨てない。背ビレと尾ビレに切れ目を入れる。飾り包丁を入れる。頭が左で、腹は手前。詩織は料理長の指示どおりに、手順を整える。「キンキの煮魚をおいしく仕上げるには、ここからが大事になります」 料理長はそういい、お玉で熱湯をかける手順に入る。「熱湯はお玉でていねいに。熱湯の温度は八十度から九十度くらい。全体にかけ終わったら、その湯は捨てます」 詩織の額に、汗が浮かぶ。真夏の厨房はただでも暑いに、緊張しているので汗が止まらない。「利尻昆布を置き、肝もキンキの傍らに添えます。それから水を注ぎ、強火で煮ます。あとで説明しますが、調味料は水を注いだときに入れます。灰汁(あく)取りをしながら、煮汁をていねいにキンキに注ぎます」 詩織は料理長が書いてくれた、レシピを見ながら調味料を加える。強火から中火への切り替え。煮ている時間。落とし蓋の仕方。料理長はそれらの作法を教えた。「さて、盛りつけだけど、身が柔らかい魚は崩れやすいので、二本のフライ返しでていねいに扱わなければなりません」「詩織さん、一般的に男性は濃い味を好みますが、相手の好みの味を調整するのが、おいしいキンキの煮魚のポイントです。レシピに書いておいたのは一般的なものなので、詩織さん流のものに修正しなければなりません」 詩織は毎日、キンキの煮魚に挑戦した。そのたびに料理長にできばえを見てもらい、味見もしてもらった。「おいしいです。とてもおいしいですよ、詩織さん」 合格が出たのは、六日目だった。「ところで詩織さん、誰のために猛特訓したんですか?」 料理長は、いたずらっぽく質問した。「内緒」 詩織は短く答えた。
2018年02月18日
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一気読み「町おこしの賦」171-180■171:一緒に暮らした痕跡――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら09 しっぽを丸めた恭二は、札幌のマンションへと戻った。チャイムを鳴らした。応答はない。カバンから合い鍵を取り出し、鍵穴に差しこむ。動かない。扉の上の、ネームプレートを見上げる。あるはずの、「瀬口・浅川」の名前はなかった。 不思議に思った恭二は、管理人室へ急行する。留美は先週引っ越した、といわれた。行き先は、聞いていないという。携帯をかけた。つながらない。なぜ黙って消えてしまったのか、恭二には心あたりはない。混乱する頭で、おれの荷物はどうしたのだろうか、とふと思う。 行き場を失った恭二は、釧路行きの夜行バスに乗ることにする。バスのシートに身を任せると、どっと疲れがやってきた。二間のマンションは、一人暮らしにはもったいない。留美はそんな気持ちで、どこかに転居したのではないか。落ち着き先は、いずれ知らせて寄越すつもりなのではないか。そんな思いは、携帯がつながらない現実に気づくと、粉々に砕け散ってしまう。そして姿を消した、という確信が支配してくる。 実家では事情の知らない、両親に迎えられた。「札幌から、どさっと荷物が届いている」 二階を顎で示して、父がいった。恭二は脳天に大きな石が、落ちてきたような衝撃を受けた。留美からの最後通牒(つうちょう)。できるだけ冷静を装って、恭二は食卓椅子に腰を下ろす。恭二は手短に、現在を伝える。「おれには、営業職は向いていなかった。だから辞めてきた。落ち着いたら、どこかで調剤の仕事を探すから心配いらない」それだけを告げると恭二は、二階の自室に上がった。信じられない光景を目にした。狭い部屋に、ベッドと机が二組並んでいる。段ボールも、山積みにされていた。開ける気にはならない。以前からのベッドに横になると、急に悔しさがこみ上げてきた。それは留美に向けられたものではなく、ふがいない自分に向けられたものであった。ふと思いついて、恭二は留美が勤めていた会社へ電話をかけた。所属部署がわからないので、人事部へつなげてもらった。浅川留美の名前を告げると、「どちらさまですか?」と質問された。恭二はとっさに「兄です。ちょっと急用があって」と告げた。しばらく間があって、男性が「浅川はアメリカ支社へ、転勤になりました」と答えた。謎は解けたが、なぜ電話の一本もくれなかったのかは、不可解なままだった。留美が失踪し、一緒に暮らした痕跡だけが、今この部屋にある。■172:都落ち――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら10一月の標茶は、寒波に支配されていた。エアコンの温度を上げても、恭二はベッドから出られないでいた。屈辱的な、長崎での日々が浮かんできた。アメリカに消えた、留美の顔も浮かんだ。気合いを入れて、布団を跳ね上げる。ハローワークへ、行かなければならないと思う。こんな姿を誰の目にもさらしたくないと思いつつ、宮瀬幸史郎に電話をかけている。――会社を辞めて、戻ってきた。ハローワークに行って、仕事を探す。――そうか、長崎へ行ったと聞いていたけど、帰ってきちゃったのか。――うん、営業の仕事は、てんで向いていなかった。――これからこいよ。積もる話がある。――まだ誰とも、会いたくないんだ。こっちにきてくれないか。――わかった。すぐに行く。 幸史郎は恭二の部屋へ入るなり、目を見張った。ベッドと机が二つずつあった。「何じゃ、これは」 幸史郎は、遊んでいる机の椅子を引いて腰を下ろした。恭二は真顔になって、これまでのできごとを包み隠さず語った。聞き終わった幸史郎は、大きなため息をついた。そしていった。「会社は辞めてくる。同居していた彼女には、逃げられる。苦労して北大に入ったのに、恭二は何てお粗末なんだ」「面目ない」「恭二には薬剤師の資格があるから、仕事はすぐに見つかると思う」「おれ、調剤の仕事はしたくない。新薬の研究をしたい、と思っている」「まあ、焦らずに探すことだな。せっかく戻ってきたんだから、歓迎会をやるか」「いや、仕事が決まるまでは、ほかの人に会いたくない」 釧路のハローワークに通う以外に、やるべきことは何もなかった。係員の前に座り、希望職種の求人状況を確認してもらう。「研究、開発という求人は、釧路ではめったにありませんよ。北大薬学部卒業という立派な資格があるんだから、希望を調剤に変えたらどうですか。それなら求人は、たくさんあります」 恭二は調剤の仕事だけは、したくなかった。「しばらく通って、チャンスを待ちます」 そんな繰り返しで、一ヶ月が過ぎてしまった。その間身についたのは、読書の習慣だけだった。釧路の書店で買い求めた『文学界』という文芸誌が、ハローワーク通いの友になった。 釧路から標茶までの電車のなかで、恭二は七十歳くらいの婦人から話しかけられた。頭髪は帽子に覆われて見えなかったが、目尻の小じわで年齢の想像はついた。「ごめんなさい。読書をしているところを」 そう断ってから、老婦人は熱心に鉛筆を走らせていた本に目を落とした。「どうしても解けない、クロスワードがあるの。わからないままだと、イライラしちゃうから、教えていただこうと思って」 恭二は開かれたままの本を受け取る。「横の十六なんだけど、都を追われて地方に逃げて行くこと。何だかご存じ?」「ああ、都落ちのことですよ。平家物語で有名です」「都落ちか。これで胸のつかえが取れましたわ。ありがとう」 老婦人はそういうと、本に鉛筆を走らせている。何とも皮肉な言葉を、突きつけられたものだ。恭二は、自分の本に視線を戻す。これ以上のおつき合いは、ごめんだとの意思をこめて。 ■173:トライアングルの形――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら11恭二の兄・恭一は、北大医学部を卒業した。現在釧路市立病院で、内科医をしている。幼なじみの、宮瀬彩乃と結婚した。彼女のお腹にはもうすぐ生まれてくる、赤ちゃんが宿っている。恭二と幸史郎は、そこの家へ向かっていた。幸史郎から電話があって、「仕事の打ち合わせに行くんだけど、一緒に行かないか」と誘われた。恭二は誘いに同意した。幸史郎は大学を出て、宮瀬建設の専務となり、父・宮瀬哲伸を支えている。彼は三十一歳になるが、まだ独身である。「コウちゃん、早く結婚しなさいよ」恭二の言葉に少し間をおいて、幸史郎はハンドルをリズミカルに叩いてみせた。「おれさ、詩織ちゃんを嫁にしたい、と思っているんだけど。彼女にはその気がない」 決して忘れることのない、名前が飛び出した。恭二は中学三年から高校までの四年間、詩織と交際していた。「詩織ちゃん、元気なの?」「ああ、病気も完治して、元気に藤野温泉ホテルで働いている。恭二、まだ会っていなかったのか?」 詩織には、「彼女ができた」と伝えている。しかも会社を辞めた。彼女に逃げられた。そんな報告までをも、重ねたくない。「会いたくないんだ」 恭二は、心とは真逆のことをいった。「詩織ちゃん、おそらく結婚する気はないと思う。別れた旦那からすごい暴力を受けて、それがトラウマになっているようだ」「コウちゃんと詩織なら、お似合いだよ」 また心にないことを、いってしまった。詩織の名前を聞いた瞬間から、恭二の心は乱れている。幸史郎は何も答えず、前方を見ている。と、いきなり急ブレーキを踏まれた。「ごめん、キタキツネだ」車の前を、細長い身体が横切って行った。詩織を中心にした、トライアングルの図形が頭に浮かぶ。恭二は目を閉じ、あわててその図形を消去する。幸史郎と勇太、そしておれも残りの一辺にいる。「コウちゃん、仕事を選ぶって、嫁さん選びと同じくらい重要だよな。おれは安直に仕事を選び過ぎた。だから今度は、慎重に選ぼうと思う」「恭二は、仕事のバツイチ。詩織ちゃんは、結婚のバツイチ。お似合いのカップルだよ」■174:彩乃の設計図――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら11 カーナビが目的地周辺です、と伝えた。表札を見ながら、幸史郎はゆっくりと車を走らせる。「ここだ」 表札には、瀬口恭一・彩乃とあった。平屋で、瀟洒(しょうしゃ)な家だった。チャイムを鳴らす。彩乃が顔をのぞかせた。「お待ちしていました。あら、恭二さんも一緒だったの」 彩乃は恭二を認めて、驚いたような声を出した。兄の恭一は、勤務で不在だった。恭二はバレーボールでも入れているようなお腹に視線を向け、「予定日はいつ?」と尋ねた。「三月。あと二ヶ月ね」 コーヒーを入れながら、彩乃は愛おしそうにお腹をなでている。「彩乃、これが設計図か?」 テーブルにあった図面を拾い上げて、幸史郎は質問した。「そう。二階建てにしようと思ったんだけど、屋根の雪下ろしが大変だからって、平屋にすることにしたの」 コーヒーをテーブルに乗せて、彩乃は笑顔で兄の顔を見ている。「よくできている。セントラルヒーティングにするんだから、平屋の方が効率はいい」「恭一さん、どうしても書斎が欲しいっていうから、クローゼットを譲ってあげた」 恭二は二人のやりとりを聞きながら、貧しかった兄妹の昔に思いをはせている。二人は宮瀬哲伸・昭子夫妻の養子となり、それぞれ幸せな今がある。恭二は自分だけが取り残されてしまった、と情けない気持ちになった。「これで正式な図面を起こす。見積書は、そのときに持ってくる」「兄妹の関係なんだから、うんと安くしてよね」「わかってる。見積りには手抜きをするけど、工事は絶対に手抜きはしない」「恭二さん、お仕事見つかったの?」 彩乃の声に、我に返る。「探している最中。でも研究開発の仕事は、なかなか見つからない」「恭一さん、心配していたわよ。病院の薬局なら、紹介できるっていっていた」「調剤はやりたくないんだ。親父の仕事をずっと見ていて、そう思った」 設計図を見ていた幸史郎は、彩乃に声をかけた。「あのさ、子ども部屋がないけど、これでいいの? 子どもって、すぐに大きくなるぜ。ベッドルームは、こんなに広くなくてもいいだろう。やがてここを、分割できるようにしたらどうだ?」「そうね、名案だわ。さすが宮瀬建設の専務だね」 またお腹に手をやり、彩乃は大きくうなずいている。 兄・恭一は幼いころから、秀才と呼ばれていた。現役で北大医学部に入学し、医者として凱旋(がいせん)してきた。初恋の人と結婚し、もうすぐ赤ちゃんが誕生をする。そして自分たちの家を、新築しようとしている。恭二はとんとん拍子の兄を思い、自分自身の今を重ねている。つらかった。■175:どん底って――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら11二月になった。暦がめくられるのを、心待ちしていたかのように大雪が降った。恭二は、釧路のハローワークに通い続けている。希望の仕事は、見つからないままだった。留美からは何の連絡も入らなかったし、詩織とも一度も会っていない。無職のままで、春を迎えてしまうかもしれない、という焦りが出てきた。釧路からの帰りの電車で、恭二はばったり詩織に会った。詩織は藤野温泉ホテルの備品を、買いに行っての帰りだった。二人は誰もいない、ボックス席に座った。開口一番、詩織はいった。「水臭いわよ、恭二。帰ってきているのは、コウちゃんから聞いていた。でも私から連絡するのは、恭二に失礼かと思って……」 詩織はモスグリーンの、オーバーを着ていた。くるくる回る大きな瞳に射すくめられ、恭二は言葉を失ってしまう。「詩織とは、立派な社会人になってから、会いたかった。ごめん、連絡しなくって」「恭二、他人を見るときに使っていた不幸の色眼鏡で、今度は自分を見ている。色眼鏡のこと、以前に注意したじゃないの」 ずっしりと、重い言葉だった。以前は臀部(でんぶ)をくっつけて、並んで座っていた。電車のなかで、詩織と向かい合わせに座るのは、初めてだった。恭二は遠くなってしまった、詩織を思う。「おれ、プー太郎で、彼女にも逃げられてしまった。完全なるどん底状態だよ。でもどん底って、それ以上落ちることのない場所なんだ」「少しだけ、恭二らしさが出てきた。恭二は安っぽい、ポエムの世界が似合うのかもしれない」 二人はこれまでの空白を埋めるように、お互いの思い出したくないことを披露し合った。詩織は別れた旦那の、暴力を語った。恭二は会社を辞めて、同居中のマンションに戻ったら、もぬけの殻だったことを話した。「お互いに、つらい日々を過ごしてきたんだね」 詩織は笑って、つけ加えた。「恭二、元気を出そうね。このままだと、負け犬で終わっちゃう」 警笛を鳴らしながら、電車は急にスピードを落とした。「エゾシカが通過中ですので、しばらく徐行します」との、アナウンスがあった。 恭二は向いの席に座っている、詩織の目尻に薄いしわを発見した。詩織は四月で、二十七歳になる。恭二は詩織から視線を移して、小さな咳払いをした。■176:航空便の封書――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら12二月中旬、浅川留美から、思いがけない航空便の封書が届いた。ニューヨークからの発信だった。――恭二へ。今、ニューヨーク支社で働いています。支社といっても単なる店舗で、私はそこの店員というわけです。突然、居なくなってしまって、心配かけたと思います。ごめんなさい。 恭二が長崎へ赴任している間、私は寂しさのあまり、職場の部長の強引な誘いに応じてしまいました。その関係が何度か続き、目撃されたこともあって、社内で大問題になってしまいました。 人事部長に呼ばれた私は、その関係を認めました。そして翌日、突然アメリカ支社への転勤を命ぜられたのです。いわゆる追放、島流しというわけです。辞めさせようとの、意図が見え見えでした。 恭二、本当にごめんなさい。あなたを裏切ってしまいました。先日会社に電話をして、あなたの退職を知りました。どこに住んでいるのか、わかりませんので、とりあえず実家宛に送ることにしました。 ときどき恭二と過ごした、六年間を思い出しています。その延長線上に、会社勤めの恭二がいて、キッチンには私がいるの。私は食卓で、せっせと小説を書いている。そんな未来を私は、軽薄な行為で吹き飛ばしてしまいました。 もうお会いすることは、ないと思います。楽しいたくさんの思い出を、ありがとうございます。どうか幸せになってください。アメリカは、結構住みやすいところです。楽しく店員をしていますので、ご安心ください。恭二、さようなら。浅川留美。 留美の手紙を封筒に戻し、強い女だなと思った。身の処し方が、毅然としているとも思った。そして恭二は、留美と詩織が似ていることに、初めて気づいた。頭のなかで、留美の丸くて右肩上がりの文字が躍っている。恭二はもう一度、便せんを引き出す。最後に書かれいる、「さようなら」の文字を眺める。これは二人で過ごした、あの日に対する決別なのか。おれに対する決別なのか。恭二は測りかねてしまう。恭二は便せんを封筒に戻し、もう会うことはないだろう留美を封印する。■177:ミニ同窓会――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら13 宮瀬幸史郎から、電話があった。――同窓会、行くだろう。 出席するつもりはなかったので、完全に失念していた。標茶高校の同窓会は、農閑期の三月に毎年開催されている。恭二は一度も出席したことがなかった。返事を渋っている恭二に、幸史郎は告げた。――同窓会の前日に、おれたちだけでミニ同窓会をすることに決めた。勇太も詩織も可穂も出席だ。当然、恭二もメンバーに入れてある。同窓会は欠席でも構わないが、こっちには必ず参加してくれ。 恭二の家まで、幸史郎の車が迎えにきた。宮瀬可穂が乗っていた。詩織は、勇太の車でくるという。約束時間よりも早めに、川湯温泉ホテルに到着した。すでに詩織と勇太は、ロビーで談笑していた。「やあ、田舎落ちの恭二、しばらくだな」 勇太は詩織の隣りを指差し、恭二が座るなりいった。恭二は電車のなかの、クロスワード老婦人を思い出した。「都落ちならわかるけど、田舎には落ちるべきところがないの」 恭二も笑いながら、いい返した。そのやり取りで、あっという間に、過去と現在がつながった。「恭二、明日の本番は、欠席なんだって?」 詩織が問いかけてきた。「みんなには、会いたくない。でも今日のメンバーは別だ。元気をもらいにきたよ」 受付を済ませた幸史郎は、女性陣に鍵を渡しながらいった。「食事は六時。部屋へ運んでもらうことにした。それまでは温泉に入るなり、のんびりと過ごしてもらいたい。おれたちは、ビールを買ってから部屋へ行く」 詩織と可穂が姿を消したのを確認してから、幸史郎は「サプライズを用意してある」と笑ってみせた。恭二には、想像ができない。 ビールを飲みながら、お互いの近況を語り合った。勇太はタイから酪農研修にきている、ミユさんの話をしきりとした。「初めて雪を見て、みんな大はしゃぎだよ。タイ人は礼儀正しいし、まじめだ」幸史郎は冬場に働けなくなる、土建業の変革について熱く語った。「冬期間、たとえばオオバとかカイワレを栽培するなど、建築業も新たな事業を手がけるべきだ」 しかし恭二には、語るべきことが何もなかった。■178:宮瀬家のマジック――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら14 六時きっかりに、浴衣姿の詩織と可穂がやってきた。恭二たちの部屋には、すでに食膳が並べられている。「可穂はここ。詩織はそっちで、恭二の隣り」 幸史郎は、席の指図をしながら笑っている。全員が座ったのを確認して、可穂は首を傾げる。「私の隣りが空いている。人数を間違えて注文したんじゃないの?」 可穂の疑問に答えず、幸史郎は一方的に開会を宣言した。「では一番親しかった、高校時代の仲間とのミニ同窓会をスタートさせます。その前に、ゲストをお呼びしています。どうぞ、お入りください」 上がり口の襖に向かって、幸史郎が声をかけた。襖が開いた。長島太郎先生だった。標高新聞が全国一になったときの顧問であり、E組の担任だった。照れたような顔をして、長島は可穂の隣りに座った。「では兄貴から、妹可穂について発表させていただきます。このたび可穂は、長島先生とめでたく婚約しました」 大きな瞳をさらに大きくして、詩織はいった。「可穂おめでとう。びっくりしちゃった。そして長島先生、おめでとうございます」グラスが持ち上げられ、「おめでとう」と乾杯した。可穂と長島は上気した顔で、「ありがとう」と声をそろえた。「知らなかった。長島先生が可穂の旦那さんになる。これはビッグニュースだ」 勇太は驚いた表情を、二人に向けた。可穂も長島も、幸せそうだった。「可穂、馴れ初めを語りなさい」 詩織の要求に、可穂はまた赤くなりながら語りはじめた。高校三年のときの標茶町ウォーキング・ラリーに、長島は東京から遊びにきていた、姪っ子を連れてきた。可穂は、オランダ阪の担当だったので、そこで出会った。夕食を誘われ、長島と大学生の姪っ子と一緒に食事をした。それがおつき合いの、きっかけだった。「標茶町ウォーキング・ラリーは、きみたちが生み出したものだ。姪っ子は、すごく喜んでくれた。その誕生秘話というのかな、そんな話を可穂にしてもらいたかったんだ」 長島は可穂のグラスに、ビールを注いだ。「日本三大がっかり名所が、縁結びになった。あれも、捨てたもんじゃないな」 勇太の言葉に、みんな笑った。高校時代には、こうしてよく笑い合った。恭二は場を盛り上げなければならない、と自らを鼓舞する。そしていった。「宮瀬家って、マジシャンみたいだ。宮瀬哲伸さんは可穂から、母の昭子さんを奪った。そして当時の菅谷兄妹を、養子に迎えた。長男の幸史郎は専務として宮瀬建設を支え、長女の彩乃さんはうちの兄貴と結婚した。そして長島先生まで、宮瀬家との縁組みをしてしまった。つまりおれと長島先生は、親戚になるということだ」「恭二、複雑な人間関係を、整理してくれてありがとう。そうだよね、みんな親戚になっちゃったんだ。宮瀬家のマジック、か」 詩織は恭二のグラスにビールを注ぎながら、感慨深げだった。恭二は心のなかで、つぶやいていた。ひょっとしたらきみも、宮瀬家と縁戚になるかもしれない。■179:町長選挙――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら15 四月を目前にして越川町長の死去に伴う、標茶町長選挙が行われた。立候補したのは、前町長の長男・越川誠一と宮瀬哲伸の二人だった。父の弔い選挙の越川の方が、下馬評では圧倒的に有利だった。越川誠一は、越川ミート販売の社長であり、標茶町商工会議所の理事長だった。 宮瀬には標茶町を阿寒や川湯や弟子屈のような、温泉郷にしようという夢があった。幸い標茶町に湧く湯は、植物性のモール温泉である。宮瀬は近隣の温泉と、十分に差別化ができると読んでいた。藤野温泉ホテルを中核として、その周辺に温泉ホテルを並べる。ところが宮瀬の主張は、突拍子もない夢物語と、首をかしげる人が多かった。宮瀬の選挙事務所には幸史郎が陣取り、恭二も事務所の手伝いをした。劣勢は明らかだった。酪農の町から、温泉の町への大変身。これは壮大なプランだった。街頭や電話での調査の結果、標茶町での支持者が少ないことが判明した。磯分内や虹別などでは、宮瀬はそれなりに善戦していた。恭二は幸史郎と相談して、中心部の票の掘り起こしに全力を注入した。選挙戦が後半に入ったとき、宮瀬に神風が吹いた。北海道新聞の地方版に、「おあしす」が取り上げられたのである。――未来空間「おあしす」に学ぶ――子どもと老人が笑顔で交流する場の奇跡 新聞にはこんな見出しが躍り、老人と子どもが額を寄せ合い、笑っている写真が掲載された。宮瀬は、訴えを切り替えた。標茶町ウォーキング・ラリーと雪中運動会、町民に開放した「おあしす」の実績を、前面に押し出したのである。多くの人は、宮瀬の実績を認めている。温泉の町構想は有権者にとって、現実味を帯びたものに変わった。流れはこっちにきた。票読みをしながら、恭二はそう確信した。 そして宮瀬哲伸は下馬評を覆して、標茶町長に就任した。宮瀬は当選祝いの席で、幸史郎に宮瀬建設社長のポストを譲った。そして恭二には、標茶町観光協会会長と「おあしす」の館長就任を委託した。■180:雪が溶けたら――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら16 当選後の宮瀬家は、あいさつの客が絶えることがなかった。恭二と詩織は幸史郎に招かれて、リビングでお祝いをしていた。客がくるたびに、宮瀬哲伸は席を立った。「大変なことになったね。これじゃ先が思いやられる……私はね、絶対に落選すると思っていたから、安心していたんだけど」 宮瀬の妻・昭子は、玄関に向かう夫の後ろ姿を見ながら、小声でいった。「これでは、部屋のなかが暖まらない。玄関が開くたびに、冷たい風が入ってくるんだから」 可穂の隣りには、婚約者の長島がいた。長島は可穂の話を受けて、ぶるぶる震える格好をしてみせた。「宮瀬さんが町長になったんだから、標茶は大変身する。詩織のところを中核にして、一大温泉郷を建設するのは、普通の人ではできない発想だよ」 恭二の言葉を受けて、詩織はすぐに続けた。「私も同感。うちのお父さんは、宮瀬町長が決まった日に、一人で祝杯を上げてひっくり返っちゃった」「恭二の仕事も決まったし、めでたい春になったな」 幸史郎は手酌で冷酒を注ぎ、うれしそうな視線を恭二に向けた。「感謝している。責任は重いけど、頑張るよ」 宮瀬が玄関から戻ってきた。「たまらないね。こんなにあいさつ客が多いのは、初めての経験だ」「仕方がないわよ、町長さんになったんだから」 昭子の言葉と重なるように、またチャイムが鳴った。ため息をついて、宮瀬は玄関へ向かう。そして大きな声で告げる。「昭子、彩乃と恭一さんだ」 リビングに姿を現した彩乃のお腹は、バレーボールからビア樽に変わっていた。「お父さん、町長就任おめでとうございます」 恭一はそうあいさつしてから、恭二を認めて「何だ、恭二もきていたのか」といった。「恭二くんはね、今年から標茶町観光協会会長兼『おあしす』の館長だよ」 宮瀬の説明に、恭一の顔がほころんだ。「それはよかった。恭二、おめでとう」 恭二は詩織と一緒に、宮瀬家を辞した。「詩織、家まで送って行くよ」「久し振りだね。恭二と並んで歩くのは」 残雪に足を取られかけて、詩織は恭二の腕にしがみついた。そしてそのまま、腕を組んで歩いた。外は冷え冷えとしていたが、詩織の体温は暖気を跳ね返していた。「詩織。おれの人生を、宮瀬さんの構想に賭けてみる。やっとやりたいことが、見つかったって感じだ」「よかった。恭二の決意表明は、私がしっかりと聞いたからね」「詩織、おれたち、やり直せるかもしれない。本物の春になってもこの気持ちが変わっていなかったら、おれ、きっと大切なことを詩織に告げそうな予感がする」「恭二、雪が溶けたら何になるか知ってる?」「水だろう」「ブー。春になるのよ」 笑った拍子に、二人は手をつないでいた。
2018年02月18日
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一気読み「町おこしの賦」161-170■161:五人の誓い――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻38勇太から電話があった。自宅でジンギスカンパーティをするからこないか、との招待だった。幸史郎、詩織、可穂も、くるとのことである。恭二は指定された時間に、電車で茅沼へ行った。一番乗りだった。席は屋外に作られていた。ミユは、ビール瓶を下げてやってきた。「おあしすで味をしめちゃって、うちでもジンギスカンやろうって、うるさいんだ」 勇太は、うれしそうに説明した。やがて詩織が運転する車で、幸史郎と可穂が到着した。「恭二の家へ寄ったら、電車で行ったとのことだった。前もって伝えておけばよかった」 幸史郎の弁解を受けて、詩織は説明した。「迎えにきてくれって、急に電話をしてきたのよ。運転すると飲めなくなるって断ったら、コウちゃん、足をねんざしているって、だましたの」勇太はメンバーにミユを紹介し、改めてカンパイといった。鉄鍋ではなく、網焼きのジンギスカンは美味だった。イカ、ホッキ貝、カキも焼かれた。そのたびに炭火は、ジュージューとせわしない音をたてた。「いいな、大自然のなかでの、バーベキューは最高だね」 可穂は周囲を見渡し、大きな深呼吸をした。「この前、ウォーキング・ラリーに行ってきた。恭二とばったり会ったら、すごい美人と一緒だった」 勇太の話を皮切りに、一気に近況報告へと話題が変わった。「彼女は大学の同級生。釧路に住んでいるので、招待しただけ」 恭二はあわてて、そういいつくろった。「ウォーキング・ラリーは、年々規模が拡大しているわ。うちやセントラルさんだけではまかない切れなくなったので、来年からは宿泊コースは中止にするらしい」 詩織は、胸の動揺を隠していった。恭二が連れ歩いていた、美人が気になって仕方がなかったのである。「おれは大学を卒業したら、親父の会社を継がなければならないから、標茶の発展はうれしい。でもまだ、何かが足りない。ウォーキング・ラリーと雪中運動会だけでは、人を呼ぶメニューとしてはちっぽけ過ぎる」 幸史郎の話を受けて、勇太が続けた。「やがてはコウちゃんが、町長になればいい。そうなれば、標茶の発展は間違いない」 大きな笑い声が起きた。恭二は現在の延長線上に、標茶で生活をしている自分を置いてみる。居場所はなかった。詩織は恭二の彼女のことが、まだ気になっていた。■162:詩織の謝罪――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻39 帰りの車では、恭二が助手席に座った。後部座席からは、幸史郎のいびきが聞こえた。恭二は詩織に語りかけた。「おれ、大学を卒業したら、ここへ戻ってくるような予感がしている」「どうしたの、急に?」「コウちゃん町長を、応援するためかな」 詩織は笑った。後部座席からは、勇ましいいびきが続いている。恭二は、詩織がいるから、という言葉を飲みこんだ。幸史郎と可穂を宮瀬家で降ろし、詩織は助手席の恭二にいった。「ちょっと、つきあってくれない? 図書館で借りたい本があるんだ」「いいけど。何ていう本?「『菜根譚(さいこんたん)』。岸田書店を探したんだけど、なかったの」「おれ、読んだことがないけど、どんなことが書いてあるの?」「人生の困難を乗り越えるための指南書らしいわ」「詩織は今、困難に直面しているの?」「そんなわけじゃないけど……」 本を借りた詩織は、ちょっとちゅうちょしてからいった。「聞いてもらいたいことがあるの。そこでお茶しない?」「いいよ」 二人は図書館の隣りの、喫茶店に入った。コーヒーを注文してから、詩織はしっかりと恭二の目をとらえた。「恭二にちゃんと、謝っておきたかったの。私の結婚で恭二を傷つけ、裏切ってしまった。ごめんなさい、恭二。私、病気でどうかしていたんだと思う。つらかったし、苦しかった」 コーヒーが運ばれてきた。恭二はすぐに口をつけた。詩織は砂糖を入れ、ミルクを注いだ。「本当にごめんなさい。自分のこと、ばかだなって思っている。でも、あのとき、私は……」「もういい。おれ、まだ詩織のこと、好きかもしれない。でも、今はつき合っている人がいる」「うん、大切にしてあげて」「毎年、夏休みと正月は帰省するんだから、そのときは詩織に声をかける」「私、待っている」 恭二には詩織が、何を待っているといったのかがわからない。帰省を待っているのか。それとも、何かの告白を待っているのか。(『町おこしの賦』第5部:クレオパトの鼻・おわり)著者より 長い間おつきあいいただきありがとうございます。このあとは、恭二が社会人になってからを描きます。ちょっとだけお休みさせていただき、五年後の恭二と詩織の世界へとご案内させていただきます。『町おこしの賦』をたくさんの方に読んでいただきたいので、友人にもご紹介ください。明日からは『ビリーの挑戦』などを中心に発信する予定です。――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら■163:MRとしての出発――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら01 北大薬学部を卒業して、瀬口恭二はR製薬へ入社した。スイスに本社のある外資系製薬会社で、世界で三番目の売上を誇る。ガンの領域に特定すると、世界でナンバーワンの製薬企業である。恭二は、ここの研究所へ入りたかった。しかし面接のときに「営業経験をしておくと、その後の研究に役に立つ。MRなら即採用できる」と説明されて、「はい」と答えている。MRとは医師の薬剤パートナー、という位置づけである。しかし実際には、他の業種の営業マンと変わらない。 半年間の、新人MR導入研修が終了した。恭二は長かったな、と思いながら配属発表を待っている。配属希望先は、札幌支店と書いた。佐藤営業部長が、紙片を広げた。発表は北の支店から、順番になされた。札幌支店には、恭二の名前がなかった。仙台支店にも東京支店にも、名前はない。読み上げは、関西の支店に移った。まだ呼ばれない。残るは福岡支店だけになった。「福岡支店、瀬口恭二」 頭のなかが、真っ白になる。研究所勤務のはずがMRになり、札幌支店配属の希望が福岡になってしまった。瀬口恭二、二十六歳。社会人としては、不幸な出発となった。配属発表が終り、パーティがはじまった。宮原正晴がやってきて、固く恭二の手を握った。彼は四年制の理科系大学を卒業しているので、二十三歳である。研修中、恭二とは同室だった。宮原は第一希望の、名古屋支店に配属された。「悪いな、ぼくだけが希望どおりで。でも福岡は、住みよいところだと聞いている」「担当先が福岡市内ならまだいいけど、どこへやられるのかわからない。沖縄だって、福岡支店の管轄なんだから」「沖縄なら、いつでも喜んで遊びに行くよ」 しゃべりながら、恭二の胸の中に暗雲が立ちこめる。正式な担当地区は、まだ発表になっていなかったのである。沖縄を含めた、九州の地図を思い描いてみる。北海道しか知らない恭二にとって、それは異国の地図に思えた。 希望に満ちた、社会への旅たちのはずだった。恭二は札幌で待っている、浅川留美を思う。そして六年間のルームシェアに、終わりがきたことに初めて気づく。■164:留美の去就――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら02 長い研修から解放された恭二を、浅川留美は熱い抱擁で迎えた。二人は札幌の北大近くのマンションで、六年前から同居している。留美は二年前に、北大文学部を卒業した。現在は札幌本社の、食品会社に勤務している。「福岡支店に、配属が決まった」「札幌はダメだったの? 恭二、福岡に行っちゃうの?」「仕方がない。会社の命令なんだから」「私、イヤ。別れるのはつらい」 留美の瞳から、涙がこぼれた。恭二は留美をきつく抱きしめて、耳元でささやく。「休みには帰ってくるし、電話だってできる」 留美に抵抗されることは、予測していた。しかし恭二には、なす術がない。「私も行こうかな」 くぐもった声が聞こえた。「ダメだよ。留美はせっかく、いい会社に入ったんだから」「恭二がいない生活なんて、考えられない。だいいち研修中の半年だって、寂しくて、ずっと泣いていたんだから」 留美とは、予備校時代に知り合った。二人で北大を目指し、合格した。それ以来ずっと、一つ屋根の下で暮らしている。大学時代はそれぞれアルバイトをしながら、少しずつ家財を整えていった。恭二は留美の背中に手を回し、食卓へと移動した。すでに寿司折りが並べられており、恭二の好物のキンキの煮ものもあった。「とにかく乾杯だよ、留美。長い研修から、やっと開放されたんだから、明るくお祝いしなくちゃ」 留美は冷蔵庫から、缶ビールを運んできた。栓を開け、二人は勢いよく、缶を合わせた。一緒に暮らしはじめたときは、冷蔵庫もテレビもない部屋だった。がらんとした部屋にあったのは、こぼれるような笑顔の留美だけだった。「MRって、具体的に何をするの?」「お医者さんに、薬の宣伝をするのさ」「恭二は嘘がつけないし、やさし過ぎるから営業は向いていないと思っていた」「薬の営業は、絶対に嘘をついてはいけないの。だからめちゃ、向いているんだよ」「でもやがては、瀬口薬局を継ぐことになるんでしょう。おうちの方は大丈夫なの?」「まあ、親父は元気だし、一生を標茶で過ごす気はないね」 答えながら恭二は、留美が意図的に核心から離れてくれたのを感じた。明日になったら留美は、どんな結論を出すのだろうか。来週には福岡支店に初出勤し、担当先の内示を受ける。それから、住まいを探さなければならない。■165:最後の晩――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら03 キャリーケースに荷物をつめているところに、留美が帰ってきた。「ただいま」と部屋をのぞいて、留美はそのまま自室にこもってしまった。ドア越しに、声をかけた。「最後の晩だから、ススキノに出てうまいものでも、食わないか?」「ちょっと具合が悪いから、先に寝る」 くぐもった声が、返ってきた。仕方なく恭二はキッチンに立ち、夕食の準備をはじめた。幸い冷蔵庫には、豚肉と何種類かの野菜があった。野菜炒めでも、作ろうと思った。米をといで、炊飯器のスイッチを入れる。お湯を沸かす。野菜を切る。留美との生活も今日で最後かと思うと、妙に感傷的な気持ちになる。 食卓に料理を並べても、留美は起きてこない。料理をしていることは、音でわかっているはずである。ドアを叩き、「ご飯だよ」と声をかける。「食べたくないから、一人で食べて」ぶっきらぼうな、返事が戻ってきた。一人で食事をはじめたとき、ドアが開いた。トイレに立ったようだ。しかし何もいわない。トイレから戻ったら、食事にするのだろうと思った。インスタントの味噌汁に、熱湯を注いだ。しかしトイレから戻った留美は、そのまま自室に消えた。 最後の晩なのに。恭二は感動的な、一時的な別れを想像していた。殻にこもった留美を、引っ張り出す方法はないものだろうか。黙々と食事をしながら、考えた。名案は見つからない。 夜になったらベッドに潜りこんでくるだろう、と期待して床についた。しかしいくら待っても、留美はやってこなかった。夜中に何度も、目を覚ました。傍らには、留美の姿はなかった。 出発の朝がきた。頭の芯が重かった。食卓に紙切れが、置いてあった。――早朝出勤なので、起こさないまま出かけます。福岡で、立派なMRになってください。さようなら。留美。 何だ、これは、と思ってしまった。せめて起こして、あいさつくらいすべきじゃないか。急に腹立たしくなる。留美の豹変(ひょうへん)ぶりが、理解できない。こんな別れは、たまらない。結婚の約束こそしていないものの、必然的にそうなると思っていた。何か書き残して行こうか、と思ったが止めた。こんなむごい仕打ちを受けて、甘い言葉など思い浮かばない。うらみつらみなら、書ける。しかしもはや留美からの一方的な別れを、甘受するしかないのだろう。身支度を調え、恭二はマンションの鍵をかけた。■166:オランダ坂――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら04 瀬口恭二は、長崎県担当を命じられた。長崎県には営業所はなく、四人のMRと営業リーダーは、すべてが駐在員扱いである。恭二は吉村リーダーと連絡を取り合い、長崎駅で待ち合わせた。「改札を出たところで、『週刊文春』を頭上にかざしているから、それを見つけること」 吉村からは、そう指示された。駅構内はすいており、恭二はすぐに吉村を見つけた。四十前後の細身の男だった。「責任者の吉村だ。これからおれの車で、家探しをする。物件については、二つほど選んである」 吉村は高飛車にそういって、坂の多い街へと車を走らせた。吉村はヘビースモーカーらしく、立て続けに二本のタバコを煙にした。 最初に案内されたのは、オランダ坂の近くのアパートだった。木造二階建ての、粗末な部屋だった。六畳間に小さな台所とシャワーが、ついているだけである。 窓を開けると、オランダ坂が眼下にあった。本物のオランダ坂は、標茶にあるまがいものよりも、ずっと風情があった。恭二は、そこを借りることにした。「明日はチーム会議があるから、八時四十五分にここにきてくれ。メンバーはそのときに紹介する」 吉村はそういって、紙片を渡した。「今日は休んでくれ。必需品などを買いそろえたらいい。では明日、遅れるな」 大家に入居のあいさつをし、恭二は「いろいろ買いたいので」とデパートの所在地を聞いた。 両手に大量の荷物を持って、部屋に戻ると午後七時を回っていた。夕食はすませてきた。恭二は何もない部屋を見回し、みじめな出発だなと思う。 翌朝、場所がわからないので、タクシーで会場に行った。吉村と四人のMRは、すでに会議室にいた。恭二は「おはようございます」と、大きな声であいさつをした。会議は九時にはじまった。「今日からみんなの仲間になる瀬口MRだ。北大の薬学部出身の超エリートだから、おそらくみんなよりは賢いだろう」 吉村は笑いながら、恭二をメンバーに紹介した。恭二を含めて、一通り自己紹介が終わった。「では会議をはじめる。まずは、先月の売上の検証だ。チーム全体では、月次目標をかろうじてクリアしている。しかし柴田MRは、達成率八十七パーセントと低迷した。先月の反省と今月の見通しを、発表してくれ」 会議の午前中は、数字のオンパレード。恭二にはさっぱりわからない世界で、戸惑うばかりだった。昼はみんなでうどん屋へ行き、午後も数字の荒海に放りこまれた。MRの発表のたびに、吉村の罵声が響く。 ようやく会議が終わったと思ったら、吉村なじみの店へ連れて行かれた。他のメンバーも、一緒である。会議のときの罵声や怒号は霧消し、一転笑いの多い賑やかな場になった。 年配の男がやってきて、「明日からはおれとの引き継ぎだから、八時十五分におまえのアパートまで迎えに行く」と告げた。午前中に追求されていた、柴田MRである。 ■167:MR活動――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら05一週間の引き継ぎを終え、恭二は単独でのMR活動を開始した。新人MRは来年四月まで、車をあてがわれない規則になっている。地理に不案内な新人の事故が多いために、設けられた規則ということだった。恭二は与えられた病医院地図を片手に、パンフレットがぎっしりとつまったカバンを持って、坂の多い街を徒歩で歩いた。十一月になろうとしていたが、額からは汗が噴きこぼれた。開業医は受付で名刺を出し、やがて医師とは一対一で面談できる。新人の恭二にとって、比較的やりやすい環境だった。ところが病院は、医局での面談となる。医局にはたくさんの医師がいて、それを取り囲むように他社MRであふれている。どうしても、医師に近づくことができない。必然、恭二は、壁のシミにならざるを得ない。留美からは、何の音沙汰もなかった。六年の同居生活は、置き手紙で解消されたのかもしれない。札幌からは、何一つ持ってこなかった。一時的に離れるだけ、ということを示したかったからだ。おれの痕跡が残った部屋で、留美は何を考えているのだろうか。こっちからは、意地でも連絡はしない。恭二はそう決めていた。毎朝八時十五分には、代理店に顔を出さなければならない。代理店とは、医家向け薬剤の卸問屋のことである。恭二はここで、営業マンと開業医の情報交換を行う。――A先生は現在処方中の抗炎症剤に、不満を漏らしていた。 こんな情報を得たら、MRはA先生に素早いアプローチをすることになる。しかし代理店の営業マンは、親しいMRにしか的確な情報は流してくれない。代理店での恭二は、営業マンと親しくなることだけを目指した。 午前、病院を訪問する。廊下ですれ違う医師にあいさつし、パンフレットを差し出す。医師の机の上に、パンフレットを置く。診療前の医局でくつろいでいる医師には、容易に近づけない。他社MRは、親しく医師と笑い合っている。恭二は、それを遠巻きにするしか術がない。――先生、Fの処方をよろしくお願いします。 こういわなければならない。頭のなかでそう繰り返しながら、恭二は新聞を読んでいる医師に、近づくことができない。さっぱり成果の上がらない日が続いた。 重いカバンを持つ手には豆ができ、靴底もたちまちすり減った。MRには向いていないのかもしれない、と弱気になってくる。■168:同行の日――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら06吉村リーダーから電話があって、恭二は同行してもらっている。今日は歩かなくてすむとほっとする反面、上司と一日過ごすのかと思うと、うっとうしい気持ちになる。移動の車中、吉村はひっきりなしにタバコを吸う。最初の訪問先B開業医を出て車に戻った瞬間に、いきなり罵声を浴びせられた。「あんな話し方では、処方してもらえるはずがない。研修所でちゃんと、ロープレやったんだろう。パンフばかり見ていないで、先生の目を見て訴えるんだ」 いい終わると、すぐにタバコに火をつける。そして続ける。「蚊の鳴くような声では、相手に響かないんだ。気合いを入れろ」 病院に着いた。恭二は最初に、薬局に顔を出す。薬局長は不在だった。部屋を出ようとした恭二に、吉村は「大声で調剤室にあいさつしろ」といった。「R製薬です。医局へ行ってきます」 恭二は調剤室に向かって、大声を張り上げた。医局へ入る。二人の医師がソファに座り、歌番組を見ていた。他社MRは五人。みんなソファの周りに立って、テレビを見ていた。吉村は空いている、医師の向かいのソファに座った。恭二も促されて隣りに腰を下ろす。こんな無遠慮なことが許されるのだろうか、と恭二は不安になる。コマーシャルになった。医師同士の会話が始まる。「パソコンの立ち上がりが遅くて、イライラする」「先生のパソコンは、古いから仕方がない。新しいのを、買いなさいよ」 吉村は、すかさず言葉をはさんだ。「先生、古いパソコンでも、立ち上がりを早くする方法はあります。ちょっと見てあげましょうか?」 吉村は医師と、ノートパソコンをのぞきこむ。「先生、画面トップに、こんなにファイルを並べちゃダメですよ。まずはファイルの整理を、してみてください」「そうか、後でやってみるよ」「やってみてもダメだったら、R製薬の瀬口がまた別の対応をさせていただきます。先生、Fの処方、よろしくお願いします」吉村は、恭二とは別次元の活動をした。あんなことは、自分にはできない。厚かましく、医師の座るソファに腰を下ろす。すかさず話に割りこむ。施しの後に、図々しく薬剤の宣伝をする。おれにはムリだと恭二は思う。 午後六時半。恭二は、アパートの前で降ろされる。「今日一日、同行ありがとうございます。勉強になりました」 恭二は深々と頭を下げて、車を見送る。どっと疲れが、こみ上げてくる。スーツの袖を、鼻にあててみた。きな臭い。■169:チーム会議――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら07 長崎市内の貸し会議室で、恭二にとって二回目のチーム会議が開催された。スクリーンには、前回見た棒グラフが映し出されている。グラフには、瀬口の項目が新たに加えられていた。「先月は福岡支店で、最下位だった。前回ダメだった柴田MRは頑張ってくれたが、あとはダメのオンパレードだ。特に瀬口MRはひど過ぎる。達成率五十四パーセント。これでは、仕事をしたとはいえない」「しっかりと訪問しているのですが、なかなか成果が出ません」「しっかりやっているだと。十年早いよ。おまえには、やる気のかけらさえ認められない」恭二は下を向いて、叱責に耐え続けるしか方法はなかった。「おまえが入ったお陰で、チームの生産性がガタ落ちになった。しっかりやれよ。これじゃ、給料泥棒だ」 やり過ごしていたはずの罵声が、心のなかにまで入りこんできた。もう吉村の声は、聞こえなかった。 午後は今月の売上見こみを、発表させられた。恭二は先月の売上に、十パーセントほど上乗せした数字を発表した。とたんに怒声が飛んだ。「ばかもの。もっと大きな数字に挑め。おまえはサラリーマンなんだ。自分の給料分くらいは自分で稼げ。いいか、いつまでも学生気分を持ち続けるんじゃないぞ」会議が終わって、全員で焼き鳥屋に移動した。次々とお酌をされ、恭二はしたたか酔ってしまった。どうやってアパートに帰り着いたのか、記憶が欠落していた。翌日はひどい二日酔いで、起き上がれなかった。枕元の携帯が鳴った。表示を見ると、リーダーの吉村だった。「今どこにいる? これから合流して、同行するぞ」 しまったと思った。時計を確かめると、九時を回っていた。「あのー、ひどい二日酔いで、起きられません」 正直にいった。「ばかもん、おまえみたいなやつは、辞めっちまえ。甘やかしておいたら、図に乗りやがって」 電話が切れた。吉村の怒声を耳に残したまま、恭二はそっと頭を持ち上げる。割れそうに痛んだ。それでも喉が渇いているので、台所まですり足で移動した。とんでもないことをやってしまった、と後悔した。■170:辞めっちまえ――『町おこしの賦』第6部:雪が溶けたら08 二日酔いの翌日、恭二は吉村に呼ばれた。指定された喫茶店に入ると、タバコの煙が充満していた。吉村は恭二が座ったとたん、速射砲のようにまくしたてた。「二日酔いで休む。業績は上がらない。おまえは怠け者だ。早いうちに見切りをつけて、しっぽを丸めて帰りな。おまえがいると、生産性がガタ落ちになる。一流大学の学士さんには、この仕事は向いていない。さっさと辞表書いて、退散することだ」 退職勧告をされている。線香花火のように、頭の暗部で、何かが弾けた。返すべき言葉はなかった。線香花火の燃えかすが、抑止力の上に落ちた。「わかりました。辞表は郵送します」 絞り出すような声で、恭二はそう告げた。映画の最後の場面みたいに、「完」という文字が脳内を支配した。急に吉村があわてた。「まあ、短気を起こすな。おれが同行してやるから、もう少し辛抱してみることだ」 一度火がついてしまった恭二には、そんな言葉は受け入れられない。「辞めさせていただきます。短い間でしたが、お世話になりました。足を引っ張って、申し訳ありませんでした」 恭二はそう告げると、席を立った。「待てよ、瀬口」という声が、背中から聞こえた。おれは会社を辞めるんだ、と他人ごとのように思った。空しさとさばさば感が、同時に押し寄せてきた。 アパートに戻り、辞表を書いた。大家さんのところへ行き、退去を伝えた。荷物は全部置いていくので処分してください、とお願いした。MRに未練はなかった。そして長崎にも、未練はなかった。 おれは負け犬。落伍者だ。どんな顔をして、留美の待つ家へ帰ればいいのか。恭二は事態を意外に冷静に受け止めながら、このいきさつをどう物語ろうかと考えている。
2018年02月18日
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一気読み「町おこしの賦」151-160町おこし151:お互いのルール――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻28 翌日、二人は桑園駅付近の、中古品販売店を見て回った。恭二はここに住んでいたので、土地勘はあった。予備校生相手の店が多かった。机や椅子の品ぞろえは、豊富だった。恭二と留美はそれぞれ、机、椅子、電気スタンドを買った。留美はスチール製の六段の書棚とノートパソコンも、買い加えた。配達は明後日だといわれた。 続いて二人は布団屋へ行って、留美用の布団一式を買い求めた。「これでよし。恭二、私のお部屋には、絶対に入ってきちゃダメだからね。ルールはお互いに尊重すること」 歩きながら、留美は愉快そうに念押しした。 注文してあった荷物が、運びこまれてきた。留美は不在だったので、恭二が業者に采配した。二つの机は、窓辺においてもらった。留美の布団は、押し入れに入れた。何もなかった二つの部屋は、やっと呼吸を開始したかのようだった。 自分の机に座り、電気スタンドをつけてみる。カバンから「知だらけの学習塾」ノートを取り出し、開いてみる。食卓のテーブルのときよりも、すらすらペンが運びそうな気になる。昨日のページを読む。――三月二十九日。もうすぐ北大の入学式である。この日のために、一年間を全力で過ごした。一年間持続できる集中力があったことに、自分自身が一番驚いている。昨日公園でキャッチボールをしていた子どもの、ボールが転がってきた。「投げて」といわれたので、投げ返してあげた。そして驚いた。左肩の違和感は、なくなっていたのである。ノートを閉じて恭二は、人間の運命はわからないものだと思う。中学時代に肩を壊さなかったら? 高校時代に新聞部に入らなかったら?詩織との仲が終わっていなかったら? おれは今とは別の道を歩いていたことになる。そして、流されるままの人生は、つまらないと考える。目の前の時間を、自らの意思で切り開く。体内から熱い血潮がわきだしてきた。恭二は唇をかみ、大きな伸びをした。■町おこし152:北大の入学式――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻29 四月一日。二人はそろって、北大入学式に参加した。留美は入学式の後、北大文芸部というサークルに加入を決めた。中庭には、部員募集の立て看板が林立していた。恭二はそれれを横目に見ながら、決めかねていた。「恭二、サークル活動はするべきよ。勉強だけでは、片輪になってしまう」「うん、おれもそう思う。でも留美みたいに、やりたいことが見つかっていない」「私はこれから、文芸部の部室に行ってくる。さっき地図をもらったから、大丈夫だと思う」 恭二は留美と別れ、立て看板を見ながら家路を急いだ。そのとき「軟式野球部クレオパトラ」という文字が、目に飛びこんできた。足を止めて看板を見ていると、ユニフォーム姿の男が近寄ってきた。「軟式野球に、関心がありますか?」「中学まで硬式やっていたんですが、肩を壊してそれ以来ボールは握っていないんです」「一度遊びにきてみてください。北大には、六つの軟式野球サークルがあります。それに小樽商科大の一チームを加えて、北大リーグというのをやっています。うちは週二回の、朝練だけです。夕方はすべて自由ですから、あまり負担はないと思います」 男は恭二の手に、紙片を押しつけてきた。見ると練習の日時や試合予定が書かれていた。「どの日でも、構いません。今度の土曜日あたりは、いかがですか? ちょこっと顔を出してくれるだけで、いいですよ」 恭二は求められるまま、カードに名前と学部と連絡先を記入した。 翌日の朝、恭二は留美に「軟式野球部に入るかもしれない」と伝えた。留美は驚いたような顔になり、「恭二、野球ができるの?」と質問した。恭二は中学時代の、硬式野球の話をした。そしていった。「昔みたいに、投げられるかどうかわからない。でも今度の土曜日に、顔を出してみようと思っている」「投げられればいいね。恭二が試合に出られるようになったら、私、応援に行く」 恭二は探しものが、見つかったような心境になっている。しかし見つけたものの、それが本当に探していたものかどうかは、あやふやな状態だった。■町おこし153:軟式野球部の朝練――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻30 本格的な授業がはじまってからは、留美との接点はたちまち希薄になった。顔を合わせるのは、平日の朝と休日くらいだった。朝食は一緒だったが、平日の夕食は別々に外食をしていた。 土曜日の朝、恭二は軟式野球部クレオパトラの、朝練に行ってみた。留美は、まだ起きてこなかったので、食卓にメモを残してきた。 グラウンドでは二十人ほどが、キャッチボールをしていた。恭二が近づくと、立て看板の男が手を上げて迎えた。「きてくれて、ありがとう。私は柴田竜輔といいます。マネージャ兼ブルペンキャッチャーです」 そうあいさつしてから、男はキャプテンを呼んだ。「主将の大迫薫です」 日焼けした、がっちりとした男だった。「瀬口恭二です。中学までは、ピッチャーをやっていました。肩を壊して、それ以降は投げたことありません」「ちょっと、やってみようか?」 白いボールと、自分のグラブを差し出した。渡されたボールは、とても軽く感じた。恭二はコートを脱ぎ、右利のグラブを右手にはめた。「悪い悪い。サウスポーだったのか。近藤、ちょっとおまえのグラブを、貸してくれないか」 左利のグラブが届いた。恭二はそれをはめて、待っている柴田竜輔のグラブに投げこんだ。肩に違和感はなかった。少しずつ、相手との間隔を伸ばしてゆく。まだ大丈夫だ。恭二は慎重に、ボールのスピードを上げる。異常なし。主将の大迫薫が寄ってきた。「ピッチングしてみるか?」「はい」と、恭二はいった。柴田がしゃがんだので、恭二は大きく振りかぶって、ミットを目がけて白球を投げこんだ。球は大きく外れたが、みごとにミットに収まった。久しぶりの感覚だった。続けて、何球かを投げた。「いいね。フォームがきれいだ」 額から、汗が噴き出す。恭二は本格的に、投げてみたくなった。大きく振りがぶって、渾身の直球を投げこんだ。ミットから、乾いた音が響いた。「ストライク」捕手の後ろから見ていた、大迫が大きな声を上げた。恭二は、カーブを投げる合図をする。柴田は、ミットを叩いた。ひねった球を送り出す。ボールは鋭く曲がって、ミットに収まった。「ストライク。すごいカーブだ」 大迫は、驚いたようにいった。恭二の方も、驚いていた。投げられた。昔のように投げられた。そのことが、うれしかった。柴田が近寄ってきて、恭二の肩を叩いた。「すごいカーブだった。少し練習すれば、間違いなく立派な戦力になる。合格だよ、瀬口くん」 「戦力どころか、うちのエースになれる」 主将の大迫は何度もうなずいて、断言してみせた。休憩時間に大迫は、恭二をメンバーに紹介した。すると輪のなかの、一人がいった。「瀬口って、標茶中学のエースだった、瀬口か?」「はい」「おれ、白樺中学のときに、きみと戦った。うちは、完封負けをした。あのときの瀬口なんだ」 メンバーから、どよめきが起こった。男は法学部二年の、平村智己だと自己紹介した。「瀬口くんはね、北海道中学校野球大会のベストエイトのピッチャーだったんだ」 平村はうれしそうに、言葉をついだ。空は青かった。雲間から太陽が顔をのぞかせた。恭二の額に貼りついた汗が、虹色に光った。■154:天狗になってはいけない――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻31 恭二は、背番号21をもらった。スパイクは自前で調達した。朝練に参加するたびに、恭二の球速は上がった。肩は快調だった。そして、シート打撃練習のときがきた。守備位置に控え選手がつき、恭二はマウンドに立った。柴田が、マスクをかぶっている。レギュラー選手は、一番から打撃ボックスに立った。主将の大迫は、アンパイアーを務めている。 一番、城戸、右打ち。恭二は、第一球を投げた。「ストライク」 大迫の右手が、上がった。第二球は、スライダーのサインだった。恭二は放った。バットは空を切った。そして第三球は、内角への直球のサインである。恭二はミットを目がけて、内角へボールを投げこんだ。打者の腰が引けた。「ストライク」 大迫の右手が上がった。「瀬口、すごいボールだ。これでは、誰も打てない」 大迫は笑いながら、マスクを外していった。展開は、そのとおりになった。九人のバッターで、内野ゴロが二つだけ。あとは全員三振だった。 練習後、恭二は大迫に誘われて、喫茶店に行った。柴田も一緒だった。全員が、モーニングセットを注文した。「瀬口、今日は圧巻だった。肩の具合は、どうだ?」 大迫が聞いた。「大丈夫です。怖いのでまだ八割ほどの力しか入れていませんが、もう少したったら、本格的に投げてみます」「あれで八割か? 十分だよ」 柴田は水のおかわりを頼んでから、驚いた視線を恭二に向けた。「大エース誕生だな。来月は、シーラカンスとの試合がある。これまで、一回も勝ったことがない相手だ。瀬口、きみが先発だ」「ありがとうございます。ところで、クレオパトラというチーム名の由来は、何ですか?」 宮瀬彩乃の顔が、浮かんだ。彫りの深いエキゾチックな容貌から、中学時代の彼女はクレオパトラというあだ名だった。「クレオパトラは、もう少し鼻が高かったら、っていわれているだろう。つまり鼻が低い。俺たちのチームは、めちゃ弱い。だから鼻が高くはない。そんなところからの命名だよ」 柴田の説明に、大迫が続けた。「今期は来月開幕だけど、前期は七チームで最下位だった。一年間で十二試合やるんだけど、前期は一勝十一敗。でも瀬口が入ってくれたので、夢が膨らんできた」 頼りにされていることを実感した。久しぶりに味わう感触だった。同じことに夢中になれる仲間。そして大切なことは、そのなかで抜きんでることなんだ。恭二はぬるくなった水を飲み、熱くこみ上げてきた思いに水を差した。天狗になってはいけない。これは詩織から受け取った戒めである。■155:クレオパトラの鼻――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻32 北大リーグが、開幕した。恭二たちのクレオパトラは、初戦でシーラカンスと対戦した。前期準優勝の、強豪である。恭二は、九番投手で出場した。クレオパトラは、後攻めだった。マウンドには恭二が立ち、捕手には柴田が抜擢された。主将の大迫は、四番で一塁手だった。スタンドはまばらだったが、そのなかには留美の姿があった。抜けるような青い空には、小さな雲が水玉模様に浮かんでいた。かすかに吹く風には、甘さが混ざっている。 恭二は、第一球を投じた。どよめきが起こった。ど真ん中の、ストライクだった。二球目は柴田のミットが、内角を要求した。直球を投じた。バッターは、もんどり打って倒れた。「ストライク」がコールされた。三球目は、外角へのカーブのサインだった。恭二は、そのとおりに投げた。空振り三振。クレオパトラは柴田のポテンヒットで、八回に一点を入れた。恭二の投球は、完璧だった。八回までヒットを、一本しか打たれていない。外野へは一度もボールが飛んでいない。 九回のマウンドは、これまでエースだった坂井に譲った。坂井は四球でランナーを出したが、ゼロ点で締めくくった。整列してあいさつを終え、メンバーはベンチに戻った。「歴史的な快挙だ」 大迫は恭二の肩を叩いて、叫んだ。「瀬口、完璧なピッチングだった」柴田はそう伝えて、クールダウンのためにミットを構えた。恭二はゆるいボールを返し、探しものが見つかったかもしれないと思った。祝勝会には、留美も同伴した。ほとんどのメンバーは、彼女を連れてきた。ビールジョッキが、運ばれてきた。大迫が立ち上がり、あいさつをした。「昨年は一勝しかできなかった弱小チームが、みごとに初戦を完封勝利しました。これは今期から加入した、瀬口くんの力投のお陰です。今日でクレオパトラの鼻は、少し高くなりました。それと万年ベンチウォーマーだった柴田が、みごとなポテンヒットを打ってくれました。それでは初勝利を祝って、乾杯したいと思います。カンパイ!」 豪快にジョッキが、打ち鳴らされた。どの顔も、喜びに満ちていた。「恭二、すごかったね。ほれ直しちゃった」 留美はジョッキを口に運び、泡のついた口を恭二に向けた。「楽しかった。おれがやりたかったのは、野球だったと実感したよ」「私ね、恭二のユニフォーム姿、好き。似合っているよ」「あのさ、今晩背中、流してくれる?」「うん」 留美は、少し照れながら答えた。■156:酪農家のセミナー――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻33 標茶町役場主催の「酪農学セミナー」が開催された。五十人ほどの酪農家が集っていた。そのなかには、猪熊勇太や穴吹健一の姿もあった。講師は帯広畜産大学の門脇准教授だった。 門脇は世界一の酪農家といわれるフィル・ヘルフターの話から始めた。――酪農経営は姿勢が第一。投入する資材が同じでも、最終的な平均乳量が違うのはなぜでしょうか。それは姿勢の違いです。姿勢は牛にも伝染し、牛は皆さんの姿勢を受け継ぎます。皆さんが積極的な管理をすれば、牛も積極的な態度をとるようになる。積極的な管理をすれば餌の摂取量を上げることができ、搾乳量をあげることができる。(『世界一の乳量フィル ヘルフターの酪農経営』より) 勇太は最初のスライドから、いきなり衝撃を受けた。門脇は、酪農家の基本姿勢は、アティチュードにあると語った。アティチュードとは、精神的な姿勢や態度だと説明が加えられた。父の仕事を見様見まねで継承してきた勇太にとって、門脇の講義は新鮮だった、 講義が終わって、勇太は隣席の男から声をかけられた。「ただ牛を飼って、乳を絞っていればいいという世界じゃないんだね。おれ、虹別の穴吹健一」 健一は感激で上気した目で、話しかけてきた。「おれ、茅沼の猪熊勇太です。穴吹さんはおれの一年上ですね」「遺伝学、繁殖、生理、分娩、栄養、飼料学、牧草、経営学など、あんなに足早にしゃべられたら、まったく頭に入らない」「うん、きちんと学んでみたいですね」 勇太はそう答えて、酪農学の勉強会を立ち上げようかと考えた「穴吹さん、一緒に勉強会をやりませんか? 月に一回くらいのペースで、教本の勉強をしたくなってきました」「それ、いいね」 二人は一年違いで、標茶高校定時制を卒業している。■157:ベコのヨダレ――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻34 猪熊勇太と穴吹健一が中心となって、酪農学勉強会が誕生した。第三土曜日の六時が開催日と決まり、最初の集いに八名が参画した。 参加者の自己紹介と現状報告がすんだとき、磯分内の小林博行はユニークな話を披露した。小林は六十歳で、メンバーのなかでは最年長である。「ねじめ正一という作家がいる。彼の書いた『ヨダレ』(『ニヒャクロクが上がらない』思潮社所収)という詩は、牛のヨダレは少しくらいの風が吹いても切れない。辛抱の象徴として表現されているんだ」「それいいですね。この勉強会の名前にしましょう」 穴吹健一がすぐに反応した。勇太が続けた。「ベコのヨダレ。いいね。それにしても、小林さんは博学ですね」 小林は、エッセイストとしても活躍している。ときどき北海道新聞に名前が載っている。「ベコのヨダレ」の立上げを決めて、八人は居酒屋むらさきへと席を変えた。穴吹健一と小林博行は、本の話で盛り上がっている。「ネット古書店を開設しているんですが、本が集められなくて困っています」 穴吹の嘆きに、小林は熱燗を口に運んでからいった。「おれの本をネットでさばいてくれてもいいよ。本の繁殖で、置き場がなくて困っているんだ」「小林さんの本を売らせてください。売上は折半という条件でいいなら、ぜひやらせてください」「いつも捨てているんだから、売ってもらえるならありがたい」 猪熊勇太は、塘路で酪農をしている寺田徹と、にぎやかに話をしている。寺田は勇太と同学年である。第1部では中学時代に、藤野詩織にラブレターを渡したと紹介されている。「たとえばだな、おれのところと猪熊のところが隣接していたら、二つを合体させて株式会社にした方が効率的だ。いくら愛情をこめて牛の世話をしたところで、零細ではたかがしれている」「おれは廃業する近所の同業者から譲渡されて、規模を拡大したが、人手不足で体(てい)をなしていない。おまえが塘路を手放して、こっちで酪農をやってくれれば、鬼に金棒なんだけど」「うーん、検討の価値あり、だな。株式会社か、いい発想だよ」■158:「のほほんのほんのほん」本格稼働――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻35 穴吹健一は、自室の壁面に書架を作った。床から天井にまで達する十二段の書棚は、コの字型に三つ並んでいる。中学生の双子の妹に手伝わせて、一昨日小林博行から預かった本を並べるのである。書棚には通し番号が振ってある。姉の茜(あかね)は、本の状態を入念に確認し、ネット書店「のほほんのほんのほん」への出品を担当している。妹の萌(もえ)は、「在庫管理ファイル」に、本の出品価格と棚番号を入力している。健一は「のほほんのほんのほん」の運営を、二人に任せたのである。「お兄ちゃん、棚が足りなくなるかもしれない。それにしても、すごい量を預かってきたね」 書棚に本を収めながら、萌は作業をのぞきにきた健一にいう。「農具置き場を書庫に改装しようと考えている。だから心配しないで、せっせと出品してくれ」「売れるといいね」 茜はパソコンから顔を上げて、本に提供価格を書いた紙片を挟みこみながらいった。萌はそれをノートパソコンに打ちこみ、書棚に本を並べる。書店のように、出版社別やあいうえお順には並べていない。どこにどの本があるか、わかればいいのである。「萌、一日一冊売れたとして、平均の提供価格が五百円だから、一万五千円くらいになるわ」「でも半分は小林さんに返さなければならないんだから、売上はその半分ということよ」「萌、出品点数を増やさなければ、ならないね」「この段ボールを全部整理し終えたとして、出品点数はざっと千冊というところだよね」 二人は同時に天を仰ぐ。そして申し合わせたように、声をそろえて笑い出した。「のほほんのほんのほん」の運営を任されたことがうれしく、ちょっと誇らしかった。「お姉ちゃん、私たちの力で、本をもっと集めなければならないね」 萌の一言は、茜を経営者のような表情に変えた。■159:夏休み――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻36 夏休みに、恭二は帰省している。標茶町ウォーキング・ラリーに、留美を招待していた。恭二は駅で、留美を待っていた。標茶町ウォーキング・ラリーの受付では、十人ほどのセーラー服が待機している。 改札口へくる前から、留美は恭二に手を振ってみせた。「恭二、すごい人だね」 赤い小さなリュックを背負い、同色の帽子をかぶっていた。受付をすませ、願いごとの記念写真を撮った。出てきた写真を、留美は恭二に見せた。――小説が新人賞に、入選しますように。 そう書かれたホワイトボードを持った留美は、照れくさそうな顔をしていた。駅を出ると、真夏の太陽が頭上にあった。二人は二番スタンプ所の、瀬口薬局に向かう。「二番は、おれの実家だ。親父がいるから、紹介するよ」 店内に入ると、すでに参加者で一杯だった。恭二は父のところへ留美を連れて行って、「友だちの浅川留美さん」と紹介した。父はあいさつもそこそこに、押し寄せてくる参加者の対応に追われていた。ここにも、セーラー服のボランティアがついていた。 二人は、はりまや橋へ行った。途中はパスをしていた。「これね。日本四大がっかり名所の第一号だね。笑っちゃうわ」 参加者の多くは、記念写真を撮っていた。恭二は留美をうながし、開運橋の欄干へと案内した。河川敷には、百人ほどの親子がいた。青空には無数のたこが、泳いでいる。大きな歓声が絶えることなく、響いていた。「いいわね、みんな楽しそう。こんなすごいイベントを、恭二たち高校生が議会に提案したんだよね。それもすごいことだわ」 その後恭二は、オランダ坂、守礼門、札幌時計台を案内した。そのたびに、スマホで留美の写真を撮った。「笑い過ぎて、お腹が痛い。恭二、これで日本一周したんだね」「留美、ここがおれの高校」 標茶高校の前で、二人は並んで自撮りをした。校舎の裏に回ると、おびただしい人がいた。「これが高校なの。まるで農場だね」 牛の乳絞りを見て、チーズ工場をのぞいた。二人で松の植樹をした。根元に「留美・恭二」と書いたプレートを埋めた。プレートには年号が印刷されていた。 植樹の奥では、昆虫採集をしている子どもたちの網が揺れていた。「広いね、全部高校の敷地なの?」「広さだけは、日本一だよ」「恭二、くたびれちゃった」 売店でソフトクリームを買い、なめながらどんそく号に乗った。「トラクターが引っ張っているんだ」 留美は、大はしゃぎだった。溶けたソフトクリームが、留美の胸元にこぼれた。恭二は首に巻いていたタオルで、それを拭いた。「エッチ」と留美は笑った。■160:ジンギスカン――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻37恭二は留美を、「おあしす」に案内した。レストランは満席だった。バルコニーをのぞくと、一つだけ席が空いていた。二人はそこに座った。「恭二、さっきのたこが見える」 見上げるとたくさんのたこが、青空に浮いていた。肩を叩かれた。振り返ると猪熊勇太だった。「帰っていたのか、久しぶり」 勇太の隣りには、ほっそりとした女性が立っていた。「彼女はタイからの研修生。ミユちゃん」 女性はぺこりと頭を下げて、「こんにちは」といった。「席を探してるんなら、ここで一緒にやらないか」「サンキュウ。すごい賑わいだな」 勇太たちは、恭二たちのテーブルに腰を下ろした。「彼女は留美さん」 恭二の紹介を受けて、留美は笑顔で頭を下げた。「高校へ連れて行ったら、ミユちゃんは興奮してすごかった」 勇太はやさしい視線を、彼女に向けた。「びっくりした」 ミユは抑揚の違う言葉で、驚きを語った。「勇太、おれ軟式野球部に入った。肩はもう大丈夫みたいだ」「それはよかった。おまえが投げているところを、また見たいものだ」「勇太は中学時代、おれとバッテリーを組んでいたんだ」 恭二は、留美に説明をした。注文を取りにきたので、四人はビールとジンギスカンセットを注文した。「恭二はね、おれの親友。シンユウって、わかる?」「仲がいい、かな?」「ものすごく仲がいい、友だちのこと」 勇太はゆっくりと、発音して説明する。ジンギスカンが、運ばれてきた。四人は紙製のエプロンをつけ、ビールで乾杯した。鉄鍋が焼けてきた。恭二は立ち上がって、ラム肉を並べた。白煙が上がり、肉からジュッという音が出た。勇太は肉の上に、もやしやにんじんなどを乗せる。そして肉をつまんで、ミユの皿に入れた。「おいしい」 ミユは、うれしそうにいった。肉汁で唇が光っていた。二人は結婚するかもしれない。恭二はまぶしそうに、視線をミユから勇太に移した。勇太の目は線になって、ミユを見ていた。
2018年02月18日
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町おこし306:不満の芽――『町おこしの賦』第10部:生涯学習の町 詩織の両親・藤野敏光と菜々子は、おあしすの里で楽しい毎日を過ごしていた。自分たちが経営していた藤野温泉ホテルが、おあしすの里になったことを、ちっとも寂しくは思っていなかった。詩織からは再三、同居を勧められていた。しかし二人には同年代の仲間と、触れ合う日々の方が好ましかったのである。おあしすの里には、十六組の夫婦と五十二人の一人暮らしの老人が住んでいる。入居者の平均年齢は、ちょうど藤野夫妻と同年齢の七十四歳であった。里長の村田善治は、八十四人の入居者を巧みにまとめていた。 新しいサークルが、次々と生まれていた。藤野敏光は囲碁サークルに参加し、菜々子は俳句サークルを選んでいる。村田善治はおあしすの里クレドを作成して、入居者に配布もしている。 ――おさしすの里クレド・私たちは健康で楽しい毎日を過ごします。・私たちは年寄りくさい生活を放棄します。・私たちはお互いが決めたルールを尊重します。・私たちは誰かの役に立つことに労を惜しみません。 クレドには、これだけのことしか書かれていない。細かなルールは、毎月一回開催される総会で決められるのである。午前の飲酒禁止は、総会で決められた。朝から食堂に、お酒を持ちこんでいる入居者がいたためである。 村田善治は町長から託された、信頼を誇りに思っている。彼は食堂でたくさんの人たちと、語り合うことを習慣にしていた。不満の芽は、早いうちにつまなければならない。
2018年02月18日
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妙に知180218:3つの助詞昔覚えたことで、今も大切にしている教えがあります。 「米をとぐ 私のまえ※ 蛍二つ三つ」 放送大学で金田一教授が、講義をしていました。※マークのなかに、「を」「で」「に」のなかの1つを入れると別々の情景になる、という説明でした。あなたはそれぞれの助詞を入れたときの情景を説明できますか。 「に」は飛んできて、じっととまっている状態。「で」は、飛んできてとまり、さらに飛び立つ状態。「を」は、飛んでいる状態。 毎日たくさんの文章を書いています。3つの助詞の使い分けは、大変役に立っています。山本藤光2018.02.18
2018年02月18日
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ホーソン『完訳・緋文字』(ワイド版岩波文庫、八木敏雄訳)胸に赤いAの文字を付け、罪の子を抱いて処刑のさらし台に立つ女。告白と悔悛を説く青年牧師の苦悩…。厳格な規律に縛られた一七世紀ボストンの清教徒社会に起こった姦通事件を題材として人間心理の陰翳に鋭いメスを入れながら、自由とは、罪とは何かを追求した傑作。有名な序文「税関」を加え、待望の新訳で送る完全版。(「BOOK」データベースより)◎重苦しい幕開けナサニエル・ホーソンは、1804年生まれの米国の作家です。今回取り上げる『緋文字』(ワイド版岩波文庫、八木敏雄訳)は、世界的な名作として幅広く読まれています。もちろん、W.S.モームも本書について、著作『読書案内』(岩波文庫)で多くのページを割いています。『緋文字』の舞台は、17世紀初頭のアメリカ。アメリカがイギリスの植民地だった時代です。清教徒がたくさんいて、法は宗教に支配されていました。主人公のヘスター・プリンは生後三ヶ月の赤ん坊を抱いて、絞首刑台にさらし者として立たされます。彼女の胸には、姦通罪を意味する緋文字「A」がぬいつけられています。Aは姦婦の印であり、生涯それを外してはならない刑罰を与えられたのです。 町の群衆に囲まれたヘスターは、そのなかに初老の男の姿を発見します。さらし台に将来を嘱望されている、若い牧師ディムズディルが上がります。彼はヘスターに不倫相手の名前をいうようにと説きます。しかし彼女はそれをきっぱりと拒絶します。 本書の主な登場人物は、冒頭段階で出そろいます。重苦しい幕開けですが、読者は赤ん坊が誰の子どもなのかを推測しながら、先を急ぐことになります。その後獄舎に戻されたヘスターは、極度の興奮状態に陥ります。そこへ医者が呼ばれます。その男は、さきほどヘスターが絞首刑台で認めた初老の元夫・ロジャー・チリングワースだったのです。チリングワースは彼女に自分が夫であることを内密にするように伝え、不倫相手への復讐を誓います。そしてヘスターの不倫相手が、若い牧師のディムズディルであるとこと知ります。チリングワースは巧みにディムズディルに接近し、彼の主治医となります。やがてヘスターは刑期を終え、町はずれの小さな小屋に住みます。針仕事に精をだし、娘のパールとともにひっそりと暮らします。彼女は針仕事で得た報酬の一部を、貧しい人への施しとします。バールは自由奔放に育ちます。人々はパールを悪魔の子と呼びます。しかしパールは妖精のように、かわいらしい子になっています。これから先の展開については、触れないでおきます。ただし結びの文章だけは、紹介させていただきます。――黒字ニ赤キAノ文字。この部分は新潮文庫(鈴木重吉訳)では、「暗い色の紋地に、赤い文字A」となっています。そして訳者あとがきで、「暗い色はヘスターの生涯の象徴」と書いています。◎再びの絞首刑台私は本書を一度,新潮文庫で読んでいます。その後、W.S.モーム『読書案内・世界文学』(岩波文庫)の次の文章に触れて、愕然としました。――(『緋文字』を読んで)わたくし自身の読後感を申せば、本文の物語よりは、「税関」と題する序の文章のほうがおもしろく思えた。(同書P118) 序の文章を再読しようとしましたが、なんと新潮文庫にはないのです。仕方がないので、岩波文庫を買い求めて再読せざるをえませんでした。『緋文字』には、二つの深い謎があります。ヘスターはなぜ、胸の緋文字をはずさなかったのか。ヘスターは一度外したことがあります。しかし再びそれを胸につけて、一生を送ります。この理由を探りながら、読んでください。もうひとつは出獄したヘスターは、なぜ町にいつづけたのかという点です。この理由についても、注意深く読んでください。モームがいうように「序」は、明るくユーモアさえ認められる文章です。しかし本文は、硬く重々しい筆運びになっています。 読書に際して、理解しておかなければならないことがあります。――『緋文字』という小説は、キリスト教の清教徒の間にできた形式主義道徳の中に閉じこめられた人間の苦しみを描いたものである。(伊藤整『改訂文学入門』光文社文庫P84)ヘスターの苦悩は、清教徒なるがゆえのものであることを、おさえておかなければなりません。『緋文字』が単なる三角関係の物語ではない点について、次のような解説文があります。――作中の男性が精神(ハート)のディムズデールと、知性(マインド)のチリングワースにいわば分裂し、はじめから終わりまで滅ぼしあうのとは対照的に、ヘスター・プリンはアメリカの大地に根ざした強い女の原型になっている。(明快案内シリーズ『アメリカ文学』自由国民社P31)本書の構成で目を見張るのは、冒頭の絞首刑台がクライマックス場面でも用いられている点です。台に立っているのは、ヘスターとパールと若い牧師のディムズディルです。◎「A」の変化何人もの批評家が書いていますが、ヘスターの胸についている「A」の文字は、物語の進展にしたがいイメージが変化します。ここでは清水義範の文章を紹介させていただきます。――普通には「A」は姦淫(Adultery)の頭文字だろう(だがこの小説中には一回もそうは書かれていない)。それがだんだん、何でもできる有能なヘスター・プリンの可能性を表すAbleの「A」のように思えてくる。そしてついには、天使(Angel)の「A」であってもおかしくない、というぐらいになるのだ。(清水義範『世界文学必勝法』筑摩書房P103) 前記のとおり、私は本書を2つの訳文で読みました。娘のパールはやがて幸せな結婚をし、一人になったヘスターは町はずれの小屋へと戻ってきます。この場面が心を打ちます。ホーソン『緋文字』は、絶対に読んでいただきたい名著です。山本藤光2018.02.16
2018年02月17日
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妙に知180217:オノマトペを避ける川がサラサラ流れている。風がゴウゴウ吹いている。雨がシトシト降っている。これらのカタカナ部分を「オノマトペ」といいます。文章ではなるべくオノマトペを用いないようにしたいものです。むかし文章指導をしていたとき、ひんぱんに直面したのがオノマトペでした。オノマトペは、擬声語を意味するフランス語です。 また手垢にまみれた表現があります。すがすがしい朝。賑やかな通り。これらに出くわしたときは、自分の表現に変えてくださいと注意していました。人は安直な古い表現で、朝や通りを語ってしまいます。自らの感性で、それらを語ってほしいものです。そのためには、感性を磨きましょう。「妙に知の日記」は、そのお手伝いのつもりで発信しています。山本藤光2018.02.17
2018年02月17日
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町おこし305:ウォーキングストック――『町おこしの賦』第10部:生涯学習の町 六月に入って、雨の日が続いた。瀬口恭二と詩織夫妻は、雨合羽を着て散歩に出た。いつものとおり、オランダ坂の上で恭二は引き返そうとした。「恭二、きて!」 詩織は、恭二の手を引いていった。「川上神社でお参りして行こう」 恭二は、詩織にしたがった。朱色に塗られた守礼門をくぐり、詩織は財布から千円札を抜き出して恭二に渡した。神殿の前で賽銭を入れ、二人で合掌した。「恭二、いよいよだね。コウちゃんは、誰も対抗馬に立たないっていっていたけど、蓋を開けるまではわからない」「おれよりも詩織の方が、町長にふさわしいと思うんだけど」「恭二はすごいよ。もう昔みたいに、やるべきことが見つけられない、恭二じゃないもの」「おれ、おあしすの里を見ていて、楽しく学びながら生活してもらいたいと、痛切に感じた。あそこは、ケアスタッフがくるようなところにはしたくない」 二人は雨のなかを、のんびりとした歩調で歩いた。前方から、お年寄りの集団がやってきた。全員が、ウォーキングストックを持っている。「おはようございます」と、先方から声がかけられた。村田善治の姿もあった。「おそろいのストックを持って、どこまで行くんですか?」 恭二が尋ねた。「毎朝、多和平までの一時間が、私たちノルディック散歩のコースです」 村田は、ストックを振って答えた。「一汗かいての温泉は、最高だからね」「朝からのビールは、禁止と決めたんだからね」 老婦人の突っこみに、笑いが起きた。「いってらっしゃい」 詩織は老人たちの背中に向かって、大きな声でいった。あの人たちのパワーを、標茶町に取りこむんだ、と恭二は考えている。 川上神社で恭二は、町長選挙に勝てますようにと祈った。祈りながら、必勝祈願をするのは初めてのことだと気づいた。
2018年02月17日
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妙に知180216:電子辞書を新調ジャパネットたかたで、電子辞書を購入しました。カシオ20000モデルとほとんど同じ型で、はるかに安かったので驚きました。なんといっても、「新明解国語辞典」と「広辞苑」の最新版が入っているのが魅力です。カシオ20000はずっと欲しかったのですが、高くてちゅうちょしていました。「語源辞典」や「漢検ドリル」なども収載されていて、しばらくおもちゃになりそうです。今使っているのは、くたびれているので、古希のお祝いにおニューを買いました。山本藤光20187.02.16
2018年02月16日
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町おこし304:幸史郎の家――『町おこしの賦』第9部:おあしすの里28 宮瀬幸史郎の家は、オランダ坂の奥にあった。道すがら恭二は、何の相談だろうかと考えている。仕事がらみのことなら、役所でこと足りるはずだ。ゴールデンウイークを目前にして、ずっと顔を見せていなかった太陽は、弱い日差しで照りつけてくれるようになった。 おあしすの里は、三倍の抽選を終え、オープンにこぎつけている。マスメディアの取材は一段落し、標茶町にも落ち着きが戻ってきた。 宮瀬家のドアチャイムを鳴らすと、妻の美和子が顔を出した。「ごぶさたしております」とあいさつをする。応接間に通された。壁面にはアイヌ衣装が飾られ、様々なアイヌの木彫りが並んでいる。幸史郎がやってきた。「マスコミ攻勢は、一段落したかい?」「やっと落ち着いたよ。うれしい悲鳴というやつだった」「助かるよ、恭二がいてくれて」 二人は、友だちの会話になっている。美和子がコーヒーを運んできた。そのまま戻るのかと思ったら、幸史郎の隣りに座った。それを待っていたかのように、幸史郎は語りはじめた。「実は、昨日病院へ行った。最近、もの忘れがひどくて、気になっていた。いろいろな検査のすえ、若年性認知症だと診断された。あと一年ほどで、記憶が消えてしまう可能性があるそうだ。その前に、恭二に伝えておきたくて、今日きてもらった」 幸史郎は寂しそうに、そう伝えた。美和子が口をはさんだ。 「先生はまだ断定はできないけど、ほぼ間違いないとおっしゃっていました」「それで恭二にきてもらったのは、おれの後継者になってもらいたいと、お願いをしたかったからだ。頼む」「辞めちゃうのか?」「進行を止めるためには、仕事のストレスから離れることが大切らしい」「町をここまで引っ張ってきたのに、残念だな」「仕方がない。恭二がいたから、ここまでできた。感謝している」「おれは、トップには向かない男だ。とてもじゃないが、コウちゃんみたいにはできない」「昔のグズ恭二になったな。詩織ちゃんに、きてもらおうか。彼女がいれば、恭二はしゃきっとなる」「いつ辞めるんだ?」「今月いっぱいのつもりだ」 宮瀬家を辞して、恭二はオランダ坂を下っている。頭は混乱している。帰りがけに、幸史郎は「頼む」といって、恭二の手を握った。力強さは、微塵も感じられなかった。 恭二は美和子の言葉を、はんすうしている。――恭二さんが町長になって、幸史郎の思いをつないでくれることが、この人の病状の進行を止める唯一の方法なの。 家へ戻って、恭二は詩織に告げた。「コウちゃん、おれに町長になってくれっていった。そうしなければ、若年性認知症は進んでしまうとのことだ」「恭二、引き受けることにしたの?」「コウちゃんの頼みだ。仕方がない」「私、反対はしない。でも賛成もしない」(第9部終わり。第10部に続く)
2018年02月16日
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一町おこし001:九月の雪虫――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 釧路発網走行き電車の朝は、華やいでいる。塘路(とうろ)や茅沼(かやぬま)、五十石(ごじっこく)といった沿線の駅から、多くの学生が乗ってくるからである。電車は釧路湿原を縫うようにして走り、標茶(しべちゃ)駅で通学生をまとめて吐き出す。 標茶町は北海道の東に位置し、釧路と網走の中間あたりに存在している。広さは、東京都のほぼ半分。全国では、六番目の敷地面積を誇る。国立公園に指定されている釧路湿原の半分は、標茶町をしなやかな曲線を描いて流れている。世帯数は約三千七百。人口は約七千九百人と、過疎化が深刻な町である。 瀬口恭二はいつものように、駅前商店街の入口で友人を待っていた。恭二は標茶中学三年。本日は、二学期の始業式である。標茶駅からは、百人ほどの通学生が出てきた。そのなかの一人が、猪熊勇太(ゆうた)だった。彼は二つ先の、茅沼駅からの通学生である。駅から中学校までは、徒歩で三十分ほどを要する。 勇太は「おはよう」とあいさつして、恭二と肩を並べる。恭二と勇太の背丈は、百七十五センチとほぼ等しい。しかしやせ形の恭二に対して、勇太はがっちりとした体格である。 駅前の通りは、閑散としている。通学時間に開いているのは、豆腐店と新聞配達所くらいである。九月になると空気はたちまち、ひんやりと張り詰めてくる。二人は制服の上に、コートを羽織っている。「F高から入学までの、自主トレ・メニューがきていだだろう。毎日十キロのランニング、五百本の素振り、それに腹筋百回。たまらないね。学校へ行く前から、ヘトヘトだよ」「ランニングと腹筋は一緒だけど、おれには素振りではなく、シャドーピッチング五百回が課せられていた。濡れタオルでやること、と書いてあった」「恭二、ちゃんとやっているんだろうな?」「やっていない」「一流の野球選手になるためには、とことん自分自身をいじめる必要がある。中学までは、才能で何とかなるかもしれない。高校になったら、基礎体力が大切になる。だから恭二、悪いことはいわない。ちゃんと、トレーニングしなきゃダメだ」「わかった。努力するよ」 二人は、野球部のバッテリーである。標茶中学を北海道大会の、ベストエイトに導いた立役者であった。そのため二人は、札幌のF高校への推薦入学が決まっていた。 川のない舗道に置かれた、朱色の派手な橋を渡る。しばらく行くと、とってつけたような石畳の急な坂道に行きあたる。さらに進むと今度は、時計のついた白亜の建物が現れる。すべてが最近建造されたものである。標茶中学校は、それらの先にある。 坂の上に藤野詩織の姿を認めて、勇太は肘で恭二の脇腹を突く。「彼女のお出ましだ。おはようのキスでもしてやれよ」「ばか」 恭二は勇太から離れて、詩織と肩を並べる。セーラー服は、ベストに替わっていた。二学期からは、冬の制服になったのである。「セーラー服もかわいかったけど、ベストも似合っている」 恭二がそういうと、詩織は持っていたコートを着こんだ。「恭二に見せようと思って、寒いのに我慢してたんだ。かわいいでしょう」「食べちゃいたいほど、かわいい。ところで、日曜日の壮行試合は、応援にきてくれるよね」「理佐もきてくれるって。彼女、勇太に気があるみたい」 突然耳元で、勇太の野太い声がした。「リサって、転校生の南川理佐ちゃんのこと? おれも好きだって、伝えておいて」 後ろを歩いているとばかり思っていた勇太は、いつの間にか並んで歩いていた。「何だ、おまえ、聞いていたのか。油断も隙もない」「キャッチャーっていうのは、研ぎ澄まされた神経の持ち主でなければ務まらないの。理佐ちゃんか、おれにもついに春がきた」 コートの襟を立てながら、勇太は屈託なく笑ってみせる。こいつがいるから、おれの投げるボールが活かされていた。恭二は全道大会で、投げ抜いた日のことを思い浮かべる。「恭二、ほら雪虫」 目の前を、白い綿毛のようなものが舞っている。「勇太には春がきて、おれたちには冬の使者がやってきた、ってところかな」 詩織は笑った。大きな瞳が細くなり、左の頬にえくぼができた。中学校の玄関脇の噴水は、凍結防止のために、荒縄が巻かれて止まっていた。もうすぐ本物の冬がくる。 町おこし002:空気も死んでいる――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 南川理佐が標茶中学校へ転校したのは、三年一学期の後半、先々月のことである。父が標茶町虹別小学校の校長に赴任したため、札幌北高進学を断念している。 虹別から標茶町への交通手段は、一日四往復のバスしかない。住民のほとんどは、酪農か農業に従事している。虹別小学校の児童数は三十八人。虹別は歴史の古い開拓村であるが、過疎化に直面している。 南川理佐には、愛華という姉がいる。姉は札幌北高校から、標茶高校一年生に編入してきた。二人は見た目も性格も異なるが、仲のよい姉妹である。理佐は、百五十センチにちょっと足りない小柄。いっぽう愛華は、百六十五センチと大柄である。成績も理佐は学年の平均であるが、愛華はいつもトップクラスにいた。二人は毎日バスで三十分かけて、標茶町まで通学している。「学校慣れた?」バスの震動で、問いかける姉の声が跳ね上がる。車窓には延々と、牧草地が広がっている。理佐はあくびをかみ殺し、放牧されている牛の群れに目をとめる。白黒のまだら模様の牛の乳は、搾乳(さくにゅう)がすんでいるらしく張りがない。「うん、学校には慣れたけど、この田舎の空気にはなじめない」「私も。田舎の空気には酸味があって、張りつめたものがないの。人の吐息や車の排気ガスが、少ないせいかもしれないね」「お姉ちゃん、高校生活は楽しい?」「標茶高校は、受験生にとっては地獄よ。英語と数学の授業は、まだ一学期のところが終わっていない。この前、大学進学希望者への説明会があったんだけど、参加したのはたったの十八人。同級生の九割以上は、就職希望なんだから」 道端で手を上げている詰襟を認めて、バスは停まる。手を上げると、どこからでも乗せてくれるのである。酪農家の息子・穴吹兄弟が乗りこんでくる。「おはよう」といつものようにあいさつをして、指定席になっている後部座席に座る。穴吹健一は愛華と同学年だが、農業科の生徒である。彼はかばんから分厚い少年漫画を取り出し、あっという間に周囲を遮断してしまう。 弟の健二は、標茶中学の三年生である。理佐とは同学年であるが、クラスが違うために話をしたことはない。「この前『標茶町だより』で読んだんだけど、ついに町民の人口は、牛の数に抜かれたんだって」 愛華は鼻を手のひらで覆い、くぐもった小声で理佐に語りかける。穴吹兄弟が運んでくる、サイロの臭いが嫌いなのだ。「何だか、活気がないよね。学校もそうだし、町の空気も死んでいる」「お父さんはいつも、空気がおいしいっていっているけど」 理佐の言葉に、姉は少しだけ笑ってみせてから、「こんなところにいると、だらけちゃうよね」と相槌を求めた。「お父さんの学校の児童たち、弁当はほとんどが麦ごはんに生味噌だけなんだって。みんな貧乏なんだ。でも……」「でも、何?」 理佐が飲みこんだ言葉を、愛華は問い正す。「でも誰一人、貧乏だなんて思っていない。きっと、おおらかなんだろうね」「ほんと。おおらかの代表格が、見えてきた」「ばかだね。あんなもので観光客を誘致できる、と思っているんだから。私、札幌でも、見たことがなかったのに」 理佐は白々とした気持ちで、白いまがい物の建造物を眺める。いつものように時計の針は、七時四十分ぴったりだった。「標茶高校って、日本一敷地面積が広いんだよ。校内には牛舎や牛乳の加工工場があって、トラクターの練習コースまであるの。高校を観光客に開放すれば、受けると思うんだけど」「中学校には、何にもない。誇れるのは野球部が、道内でベストエイトになったことくらいかな。今度の日曜日に、そのバッテリーの壮行試合があるんだ。詩織から、応援に誘われている」「薬局の次男坊が、エースでしょう。そのお兄さんが私と同じクラスで、成績はいつも一番。ただし私が入ったので、うかうかできないようよ」「瀬口恭二はイケメンだけど、お兄さんもそうなの?」「ちょっとイケてる」 理佐は姉に猪熊勇太の存在を、教えてあげたいと思った。勇太の日焼けした顔とたくましい体を思い出すと、胸が自然に脈打ってくる。 高校前で愛華は下車し、理佐は次の中学校前でバスを降りる。角を曲がるときに、恭二たちと歩いてくる勇太の姿が見えた。理佐は足早に、校門をくぐる。理佐は自分の臆病さを、情けなく思う。背後から、勇太の笑い声が聞こえた。理佐はもっと近くで、その声を聞いてみたいと思う。町おこし003:遠距離交際になる――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 二学期の始業式を終えた瀬口恭二と藤野詩織は、藤野温泉ホテルのレストランにいる。詩織はこのホテルの一人娘である。「あと半年で卒業だね。そうしたら、恭二と別れ別れになってしまう」 詩織はコーヒーカップをおいて、悲しそうな表情を浮かべた。まずい展開になってきた、と恭二は警戒する。普段楽天的な詩織は、何かを考えこむと深刻な話を突きつけてくる。中学を卒業すると同時に、恭二は札幌のF高への進学が決まっている。「夏休みには帰ってくるんだし、いつだってスマホで話はできる」「遠距離交際は必ず破綻するって聞いたわ」「標茶と札幌は遠距離じゃないよ」「遠いわ」 詩織の大きな瞳に、涙の玉が盛り上がった。恭二はそんな詩織を、愛おしく思う。「おれ、絶対に甲子園に行く。詩織はおれの夢を応援する、っていってくれていた」「そうだけど、現実が近づいてくると、つらくて」 止まっていた涙が、頬を伝った。恭二はテーブルのナプキンを抜いて、詩織に渡す。「ごめんなさい。私ね、札幌の私立に行きたいってお母さんに頼んだんだけど、一蹴されちゃった。私も華やいだところで、高校生活をしてみたい。こんなダサい田舎で、大切な青春を埋没させたくないの」「高校を卒業したら、二人とも札幌の大学へ通って……」「一緒に暮らすんだったわね」「だから、それまでの辛抱」「恭二のユニフォーム姿は、今度で見納めだね」 浴衣姿の集団が入ってきた。詩織はそれを見て、立ち上がり腕時計に目をやった。「いけない。こんな時間だ。お手伝いがあるから、今日はこれまでだね。恭二、日曜日は応援に行くからね。私に恥をかかせないように、しっかりと投げるんだよ」「わかってる」 恭二も立ち上がり、詩織の後ろ姿を目で追う。そして、詩織のいない半年後を想像する。寂しいけど、おれには野球がある。町おこし004:耳慣れない診断名――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 恭二と勇太の壮行試合は、標茶中学校の野球グラウンドで開催された。対戦相手は、隣町の磯分内(いそぶんない)中学校である。ネット裏には、詩織がいて理佐がいた。恭二の父・恭平の姿もあった。恭平は息子の中学最後の勇姿を見たくて、店番を妻・園子に託してきていた。 底冷えのする、日曜日だった。校庭のナナカマドの木は、赤い実をつけていた。詩織は黄色いセーター姿、理佐は緑のハーフコートを着て、同色のマフラーをしていた。勇太は目ざとく、理佐の存在を認めていた。「理佐ちゃんが、きてくれている。気合いが入るな」 勇太は快活にいって、拳で強くミットを叩いた。乾いた音が、朝靄のなかに響いた。「色気は試合がすんでからだ」 恭二にたしなめられても、勇太はまだでれでれしている。恭二は中学最後の野球とあって、意気ごんで試合に臨んだ。勇太を相手にマウンドで何球か投げているとき、肩に違和感を覚えた。寒いせいだろうと思って、恭二は構わずに投げた。 捕手の勇太も、いち早く恭二の変調に気づいていた。何度もマウンドに足を運び、「大丈夫か?」と肩の調子を質問している。そのたびに恭二は、「大丈夫」と答えていた。 九回、最後の打者への初球を投げたとき、恭二の肩に激痛が走った。恭二はそのままマウンドに、しゃがみこんでしまった。マスクを外して、勇太は素早く駆け寄った。「肩が動かない」 額から脂汗がしたたり落ち、左手はしびれたままだった。父の恭平は、マウンドに駆けつけた。「病院へ行くぞ」 父は恭二を抱えて、病院に向かった。 さっきからうつろな目は、活字の波を泳いでいるだけである。上方肩関節唇損傷。初めて耳にする診断名は、両手を広げて行く手をふさいでいる。もうボールを投げてはいけない。手術で完治する可能性もあるが、一年間はリハビリに費やす必要がある。ただし手術には、大きなリスクが伴う。頭のなかで医師の言葉を、何度も並べ変えてみる。 医師の言葉を耳にしたとき、恭二は何かが折れる音を聞いた。生まれて初めて味わう挫折感。震える肩に置かれた、父の手がうっとうしかった。恭二は天を仰ぎ、「誤診に違いない」という言葉を飲みこむ。 目の前の医師の姿が、急に遠くなる。損傷のない方の肩に置かれた、父の手に力が入ったのを感じた。とたんに、意識が遠のいた。気がついたときは、病院のベッドで点滴を受けていた。 家のベッドで仰向けになり、恭二は何度も医師の最後通牒(つうちょう)を思い浮かべる。――手術をしても完治する確率は低い。――野球を断念することだね。 誤診に決まっている。恭二は浮かんでくる医師の言葉を、そのたびに拒絶する。しかしその言葉は、水に浮かべたコルクように、いくら押してもすぐに浮かび上がってくる。突然しゃっくりが出る。恭二はそれで、自分が泣いていたのだと気がつく。 野球を失っては、F高へ行く意味はない。肩への不安の少ない、野手へのコンバートはどうだろうか。絶望の泥沼のなかに手を突っこみ、恭二は野球への未練をつまみ出す。そしてすぐに、それを放り投げる。打つのはからっきしダメなのは、自分が一番よく知っていた。 ただ持っていただけの新聞を放り投げ、恭二はスマートフォンを開く。着信はない。階下からは、魚の煮物の匂いが漂ってくる。母はおれの好物を、用意しているらしい。恭二はそれが母の心からの激励なのか、願いがかなってのお祝いなのかと、ひねくれた思いを脳内天秤にのせてみる。――大好きな詩織。応援ありがとう。無様な姿を見せて、心配かけた。もう野球はダメらしい。恭二。 一通を送信した後、恭二はもう一通の入力をはじめる。――勇太。投げてはいけないといわれた。ディエンドだよ。おまえとは、もうバッテリーを組むことができない。おれの分まで、F高で頑張ってくれ。恭二。町おこし005:月夜の散歩――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!「恭二、詩織ちゃんだよ」 店舗から、父の声が聞こえた。スマホを胸に抱いたまま、うとうとしていたらしい。恭二はベッドから飛び起き、階段を駆け下りる。恭二の家は、小さな調剤薬局を経営している。両親は恭二に薬剤師の資格を取らせて、店を継いでもらいたいと切望している。 兄の恭一は成績が優秀で、北大医学部を受験する予定だ。それゆえ、恭二に寄せる親の期待は大きい。 詩織は薬局カウンター前の、ソファに座っていた。昼間見たのと同じ、黄色いセーターを着ている。「やあ」 恭二は、並んで腰を下ろす。「びっくりしちゃって、返信しないで飛んできちゃった」 走ってきたのだろう。詩織の声はくぐもっており、肩が激しく上下に揺れている。「ごめん、心配かけた。歩きながら話そう」 恭二は詩織をうながして立ち上がると、調剤室の父に告げた。「ちょっと出かけてくる」「もうすぐ、夕ご飯だぞ」「わかってる」 九月の戸外は冷凍庫の扉を開けたときのように、冷たい風を身体に浴びせかけてくる。満月だった。足下のおぼろな影を踏みながら、二人は黙って歩いた。歩みに合わせるように、二人の口からは白い吐息がこぼれた。 駅前の商店街を抜けたところに、「藤野温泉ホテル」の案内看板があった。「おれ、めちゃくちゃ混乱している」「もうピッチャーはできないの?」「完治するには、時間がかかるようだ。重度の損傷だっていわれた」「恭二、ぐずぐず未練を持ってちゃダメ。野球をどうするのか、はっきりといいなさい」 立ち止まって問いつめる詩織の目に、涙がたままった。「おれ、断念する。F高へも行かない」「恭二、かわいそう」 詩織は恭二を見上げて、深いため息をついた。そして独り言のようにつぶやいた。「野球がなくなる恭二は、想像できない」「小学生のときから、野球ばっかりだったからな」 詩織の指が遠慮がちに、恭二の右手に触れた。恭二はそれを握りしめる。そのとき恭二は手をつないだのは、初めてだったことに気がつく。詩織の手は、温かかった。痛んだ自分の心を、包みこんでくれるような確かさがあった。「恭二と一緒に、標高(しべこう)へ通えるの?」「もう迷っていない。標高にも入学願書を出してあるから、明日から受験勉強をしなければならないな」「安心した。恭二はぐずだとばかり思っていたけど、見直しちゃった。野球に代わる何かを、探すお手伝いしてあげるね」「まずは受験だ。おれ、受験勉強はしたことがない。大丈夫かな?」「私が特訓してあげる。農業科は競争率が高くて難関だけど、普通科は楽勝だよ」 目の前に、藤野温泉ホテルのネオンが見えてきた。玄関前には、マイクロバスが停まっている。詩織の父・敏光が、応対に出ていた。詩織はあわてて、恭二の手を離す。「恭二、『月夜の散歩』をプレゼントするわ」 そういうなり、詩織は歌い始めた。――落葉のじゅうたん敷き詰められた/月夜の小道を散歩する/ムーンライトに照らされて/黙って黙って寂しく歩く/頬に涙がきらりと光り/リリリリ、リーリーとコオロギ鳴いた「これ恭二のお兄さんが、作った曲だよね。去年の文化祭で一緒に聴いた。ちょっと寂しいけど、すてきな曲。私から、今の恭二へのプレゼント。落ちこんじゃダメよ」 詩織の姿が見えなくなるまで、恭二は立ちつくしていた。手のひらに、詩織の温もりが残っていた。メールでは平気で「大好き」と書いていたが、それを形にすることができないでいた。初めて手をつないだ。そう思うと、心臓がピクっと跳ね上がった。町おこし006:穴吹家の決断――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 穴吹貞雄の家は、虹別で酪農業を営んでいる。長男の健一は、工面して高校へ入れた。健一の下には、標茶中学三年の弟・健二と双子の姉妹の茜(あかね)と萌(もえ)がいる。姉妹は、虹別小学校の四年生である。 貧しい夕食を終えて、健二は父・貞雄に食い下がっている。「兄ちゃんは高校へ行かせたのに、おれはなぜ行かせてもらえないんだ」「兄ちゃんはうちの跡継ぎだから、酪農や農業の勉強をしてもらわなければならない。おまえは、学校で就職先を探してもらえ」「高校へ行きたい!」「うちには、もうそんな余裕はない」 二人のやり取りに耐えかねて、健一が口をはさんだ。「おれ、高校を中退して、ここを手伝う。だから、健二は高校へやってもらいたい。健二はおれよりも、ずっと優秀だ。どこかに就職するにしても、中卒では肩身が狭い。なあ、父さん。おれがバリバリ働いて、健二の入学資金は稼ぐから」 健二は泣き出した。おろおろしていた母の美津子は、泣きながら貞雄に訴えた。「私が毎日、卵の行商に行く。だから、健二を高校に行かせて。健一も、せっかく入った高校を辞めたらダメだ」「おれ、定時制に編入する。そうしたら、昼間はここで働ける。だから、健二を高校に行かせて」「健一がそうしてくれれば、母さんは標茶町へ働きに行ける。健一、本当にそうしてくれるのかい?」「高校を中退しないで、この問題を解決するには、それしか方法はないさ」 貞雄は腕組みを解き、咳払いをしてからいった。「母さんも健一も、よくいってくれた。おれがふがいないばかりに、みんなに迷惑をかける。すまん。健一は定時制への編入。母さんは標茶で仕事を探す。おれはもっともっと働く。だから、健二、標高へ行け。金はみんなでなんとかする」 健二は、しゃくり上げて泣いている。美津子は健二の肩を抱き、「健二、よかったね。しっかりと勉強しなさいね」と泣きながら告げた。 健一は大好きな、漫画の定期購読を止める決心をした。一円でもムダにはできない。何としてでも、弟を高校へ行かせたい。健一はまだ泣き止まない弟に視線を向け、貧乏の底にわずかな光を見出している。町おこし007:夢と妄想――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 瀬口家の夕食は、店番の関係で二組に別れる。「キンキじゃないか、今日は豪華な夕食だな」 食卓についた兄の恭一は、ことさら明るくいった。恭二のことは、すでに母親から聞かされている。店にお客さんらしく、父の大きな声が聞こえてくる。恭二は父の声に覆い被せるように、きっぱりと告げた。「母さん、おれ、F高へ行かない」「野球を諦めることにしたの?」「辞める」「おいおい恭二、そんなに簡単に夢を諦めてしまっていいのか?」 口をはさんだ兄に向かって、恭二は自分にいい聞かせるように告げる。「いつまでもかなわない夢に、しがみついていたくないんだ」「恭二、おまえは強いよ」「今は空っぽだけど、野球以外の夢を探してみる」 恭二は兄の言葉を、胸のなかで転がしてみる。そしてかなわぬ夢を追いかけるのは、単なる妄想だろうなと思う。夢って努力すれば、届くところにあるものだろう、とも思う。さっき開いた猪熊勇太からのメールを思い出す。――恭二。ずいぶんあっさりとした決断だな。おまえが行かないのなら、おれもF高へは行かない。おまえがどんな新しい夢を拾うかを、見届けなければならないからな。勇太。 母と交代に、父が食卓につく。そして悲しげな声を出した。「恭二、母さんに聞いたけど、野球と決別するんだな。未練を断ち切るのは難しいけど、おまえの決断を尊重しよう」「おれ標(しべ)高へ行く。そこで夢中になれる、何かを探す」「久しぶりで見たけど、詩織ちゃんきれいになったな」 胸がチクリとした。恭二は黙って、脂がのったキンキの身を口に運ぶ。そして夢中になれる何か、の存在を意識しはじめている。今のところそれは、詩織の存在なのかもしれない。町おこし008:2つのプロジェクト――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 喫茶の看板を、「居酒屋むらさき」に変えたと同時に、二人の男が入ってきた。店の主は秋山昭子、四十五歳。早くに夫を亡くして、女手ひとつで店を切り盛りしている。一人娘の可穂は、標茶中学の三年生である。 昭子は二つのグラスに、ビールを注ぐ。二人とも無言で、一気にあおった。背の高い方の男は、ポケットから紙片を取り出す。そして小柄で太った男の眼前に、ひらひらさせている。「町民の数は、牛の数に抜かれた。何でこんな記事を、広報に載せたのですか?」 標茶町町長の越川常太郎を詰問しているのは、標茶町観光協会長の肩書きを持つ宮瀬哲伸である。彼は『標茶町だより』の記事に、腹を立てている。「ショック療法っていうやつだよ。町民に対する一種の、カンフル剤のつもりだ」「これは逆療法ですよ。ますます町民の士気は、低下してしまいます」「流出人口を抑えるためには、ショック療法が必要になる」「観光客の誘致に全力をあげているとき、それを迎える町民に、情けない思いをさせてはまずいですよ」「相変わらず手厳しいな。ところで、きみの方の建物は、町おこしのカンフル剤になっていないのかい?」 越川町長は地方再生予算の半分を、宮瀬哲伸の経営する宮瀬建設に投資している。もう半分は弟・多衣良(たいら)が社長を務める、越川工務店へ配分している。「オープンして半年ですので、まだまだ認知度が低いのが現状です。釧路管内はもとより、札幌の企業にまでダイレクトメールを配信しています。そろそろ効果が表れるころです」「頼むぞ。あれがコケたら、おれの首が危なくなる」 標茶町は地方再生予算で、二つの大きなプロジェクトを実行した。町議会では一部の反対があったものの、すんなりと予算は承認されている。しかし住人の減少を、観光客の誘致で補おうとする企画は、大きな成果を上げていない。 居酒屋むらさきに、新たな客が顔を出す。町長の弟・越川多衣良だった。「噂をすれば何とかというやつだ」 軽く手を上げて、宮瀬は笑いかけた。「どうせ、悪いウワサ話だべさ」 多衣良は、コートを脱ぎながら笑い返す。標茶町には、越川工務店と宮瀬建設の二つの建設会社がある。標茶町の土木工事の入札は、この二つの会社が交互に落札している。「ところで、兄貴、いや町長。例の三大スポットに、四つ目を追加しようと考えている。川上神社の鳥居が朽ちかけているので、建て直したいとのことだ。それで、無償でやってあげるから、朱色にさせてもらいたいとお願いしてきた」「神主は了承したのか?」 越川常太郎は弟のグラスに、ビールを注いで尋ねた。「ばっちりだよ。これでうちのプロジェクトに弾みがつく」 越川工務店と宮瀬建設は、表面的には仲がよい。しかし宮瀬は、多衣良にだけは負けたくなかった。宮瀬は四十五歳、多衣良よりも十七歳も若い。ただし双方ともに、二代目という共通点がある。父親から受け継いだ汗まみれのバトンは、次へつながなければならない。 ところが宮瀬には、渡すべき相手がいない。妻と死に別れ、子どももいないのである。宮瀬哲伸は孤独であった。仕事以外に、生きがいを見出せないでいる。 町おこし009:ハートのストラップ――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 標茶から釧路までは、電車で一時間ほどかかる。ボックス席には、瀬口恭二と藤野詩織が並んでいる。向かいの席には、南川理佐が座っている。電車が動き出し、座席からきしんだ音が響いた。高校受験の参考書を、買いに行く約束になっていた。 恭二が詩織と一緒に、釧路へ行くのは初めてだった。並んで座っていると、詩織の臀部(でんぶ)の温もりが伝わってくる。それだけで恭二の心は、電車が鉄路を刻む音に共鳴してくる。 電車は茅沼駅に停まる。猪熊勇太が乗りこんできた。「おはよう」とあいさつを交わし、勇太は理佐の隣りに腰を下ろす。外は冷えているとみえて、勇太の頬は真っ赤になっている。「寒かったよ、理佐ちゃん。抱いて温めておくれ」「いやね、勇太くん。通路を走ってくれば、温かくなるわよ」 じゃれあっている二人を見て、詩織はうらやましく思う。どうも私たちは、感情を素直に発露できない。電車は、塘路駅に停まった。乗降客はいない。「あれが寺田徹の家」 勇太が指差す先には、粗末な平屋と赤いサイロが見える。「寺田は農業科を、受験するんだって」 転校して間もない理佐には、寺田のことはわからない。寺田は中学二年のときに、詩織にラブレターを渡している。恭二は誇らしげな詩織から、それを見せてもらった。きみのことが大好きです。そう書かれた文章を見て、恭二は初めて詩織が好きだったことに気がつく。そして自分の胸のうちを告げたのだった。――おれの方が何倍も、きみのことが好きだよ。 それが二人の、交際のはじまりだった。甘酸っぱい思い出が、よみがえってきた。恭二はそれを、嚥下(えんげ)してからいった。「農業科の受験倍率は高いらしいから、あいつ猛勉強しているのと違うか?」「あいつは大丈夫だよ。寺田が落ちたら、誰も残らない」 釧路駅からは、二組に別れた。昼にフィッシャーマンズワーフで待ち合わせることを決めて、恭二と詩織は駅ビル内へ入る。スマートフォンのストラップを、プレゼントし合う約束になっていた。 恭二は詩織の好きな、黄色を選ぶことに決めていた。あれこれ品定めをしているとき、詩織は恭二に一本のストラップを見せた。黄色いバンドに、真っ赤なハートが二つついている。「これ、恭二のストラップに決めた」「ハートなんて、恥ずかしいよ」「これにしなさい」 ベンチに座って、買ったばかりのストラップを、スマートフォンに結んだ。「恭二、すてきよ」 赤いハートがついたスマートフォンをのぞいて、詩織は快活に笑った。店を出ると、肌を刺すような寒風に迎えられた。釧路の風には、魚の匂いが混じっている。 信号が青に変わるのを待っていると、詩織は突然立ち位置を右に移した。そして詩織は、恭二の手を握った。つないだ手をリズミカルに揺すりながら、詩織はいった。「恭二、私がなぜ並ぶ位置を変えたのか、気がついている?」「わからない」「私はいつも、恭二の左側を歩いていたんだ。でも今日から、右側にすることにしたの。だからつながっているのは、私の左手と恭二の右手」 詩織の左手に、力が加わった。恭二もそれを、強く握り返す。恭二は詩織の、細やかな心配りをうれしく思う。おれの左腕は、もうボールを投げられない。恭二はポケットのストラップを、左手でまさぐる。 受験参考書を買い求め、フィッシャーマンズワーフへ着くと、勇太と理佐は並んでベンチに座っていた。勇太の上気した表情を認めて、恭二は二人の初デートが順調だったことを悟る。「幣舞(ぬさまい)橋をバックに、写真を撮ろう」 恭二は二人を促して、ハートのついたストラップを、ポケットから引き抜く。理佐はこぼれるような笑顔を、カメラに向けている。肩までの長い髪は、風に揺れている。 二組の写真撮影がすむのを待ち構えていたかのように、その場は中国語の集団に飲みこまれてしまった。「おれたち何だか、よそ者みたいだな」 勇太は中国人のグループに一瞥をくれ、理佐の背中に手を回した。詩織は目ざとくその様子を眺め、またうらやましく思った。 カモメの群れが、釧路川の上を舞っている。遠くから、引きずるような汽笛が聞こえた。それは四人の新たなステージへの、出発の合図だったのかもしれない。町おこし010:にわか受験塾 ――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 釧路から戻ってから、瀬口恭二、藤野詩織、猪熊勇太、南川理佐の四人は、詩織の家で受験勉強を開始した。受験勉強とは無縁の世界にいた恭二と勇太には、野球の練習よりもつらい時間となった。 藤野温泉ホテルの玄関脇の会議室が、にわかの受験塾である。温泉特有の硫黄の匂いが、室内にも流れこんでくる。「普通科は、無試験かもしれないって。農業科は試験があるようだけど、普通科は募集人数に満たないようよ」「ということは、受験勉強はいらないということだ。理佐ちゃん、トランプしよう」 持っていた鉛筆を放り出し、勇太は笑っている。玄関ホールが、騒がしくなった。団体を乗せた、マイクロバスが到着したようだ。 受験勉強は、あっという間に打ち切られた。トランプが用意され、恭二・詩織対勇太・理佐組の神経衰弱大会になった。恭二組は、あっけなく負けてしまった。 コーヒーを運んできた詩織の母・菜々子は、トランプを見てあきれたような表情を浮かべた。「もう休憩しているの。お勉強がすんだら、温泉に入ってから帰りなさいね。タオルはフロントに置いておくから」「いいな、温泉か。詩織は毎日温泉に入っているから、肌がきれいだよね」 理佐はうらやましそうに、詩織の顔に視線を向ける。そして続ける。「詩織のお母さんも、肌がつやつや。そして目が大きくて、詩織とそっくりだね。美人だしとっても若いわ」 詩織は母がほめられたのを、自分のことのようにうれしく思う。父・敏光と母・菜々子は標茶高校バレーボール部の先輩後輩で、大恋愛のすえ結ばれた。 恭二と勇太が男湯に入ると、湯船には三人の先客がいた。「何だい、あれは。お笑いだよ。ガラクタばかり並べて、五百円だぜ。こいつは詐欺だな」 頭にタオルを乗せた男の大声は、浴室に響き渡っている。恭二はすぐに、さっき到着したお客さんだと思った。そして話題は、例の建物に違いないと思う。恭二と勇太は、並んで浴槽に入る。真っ黒な、ぬるぬるした温泉だった。「ここの水質は、モール温泉っていうんだ。植物性の温泉は、珍しいらしい」 恭二が勇太に解説していると、頭タオルの男が口をはさんできた。「きみたち、地元の人? この温泉は入っているときはぬるぬるしているけど、出るとさっぱりしている。いい湯だよ」 恭二は温泉をほめられ、少し照れながら満足げにほほ笑む。「細岡展望台からの、釧路湿原は絶景だった。道中、丹頂鶴もキタキツネもエゾシカも見た。それが最後にあの博物館だ。すっかり興ざめしてしまったよ」 タオル男は、またぐちりはじめた。よほど腹が立ったらしい。体を洗っていたもう一人も、負けないほどの大声でいう。「三大がっかりスポットは、笑えたよな。あんなばかばかしいものを、いっぺんに拝むことができたんだから」 今度はもう一つの、観光目玉のことのようだ。恭二は湯のなかに身を沈めたいほど、恥ずかしくなった。
2018年02月15日
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一気読み「町おこしの賦」011-020011:借りていた消しゴム――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 温泉から出ると、フロント前のソファに詩織と理佐の姿があった。髪の毛が濡れて黒光りしている。湯上がりの詩織の顔は赤く染まり、いつもより美しく見える。恭二はくるくる回る、詩織の大きな目を見つめる。「お客さん、ぼやいていたでしょう。女湯まで、大声は筒抜けだった」「手つかずの自然が一番なのに。変なものを建ててしまって、これでは逆効果だわ」 理佐は立ち上がり、ポツリといった。「町おこしのはずのプロジェクトなのに、あんな評価では最悪だよな」 理佐の言葉を引き取って、勇太が重ねる。町おこし。恭二は勇太の言葉を、胸のなかで転がす。そのとき恭二は、長田・野球部監督の言葉を思い出す。長田は何度も恭二に、標高野球部にきてほしいと懇願している。――故郷の活性化のために、きみが必要だ。恭二は標茶町の活性化のために、自分でできることがあるのだろうか、とちょっとだけ考えてみる。 手を振って帰りかけたとき、詩織に呼ばれた。「恭二、きて!」 手のひらを、差し出している。角が欠けた消しゴムだった。「小学校のときに、恭二から借りたものよ。昨日机の整理をしていたら、出てきたの」 恭二に記憶はなかった。何だかうれしくなって、恭二は詩織の手にゆっくりと触れてから、消しゴムをつまみ上げた。そしてポケットに入れた。「確かに貸したものは、返してもらった」 詩織はクスッと笑った。左頬にえくぼが生まれた。湯上がりの身体は、カイロを抱いているみたいに、ポカポカしていた。詩織が温泉に入っている姿を、想像してみる。湯気のなかから、真っ白な裸体が浮かび上がった。胸の膨らみは、想像できない。恭二は大きく息を吐き出し、勇太たちの後を追った。012:標高新聞の特別号――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!高校受験日は、間近に迫っていた。恭二たちの受験塾は、相変わらず続いている。しかし標茶高校普通科の入試はない、というのがもっぱらの定説になっていた。完全に定員割れ状態らしい。 そんな折りに恭二のもとに、標高新聞が送られてきた。タブロイド版で、「標茶高校志願者特別号」と名打ってある。噴水のある正面玄関の写真のほかに、牛舎やサイロや乳製品加工工場の写真が添えられていた。校長のあいさつがあり、あとは部活の紹介が延々と続く。野球部の写真には、長田監督のメッセージが重ねられている。――野球を通じて、健康な体と心をはぐくみましょう。ケッと思う。まるで陳腐なカタログを、読んでいるような気になる。恭二はうさんくさそうに、新聞を放り投げる。高校へ入って、おれは何をすべきなのだろうか。ふとそんな考えが、頭をよぎる。翌日の下校路、恭二と詩織は肩を並べて歩いている。詩織は恭二の右側を歩きながら、自分よりも二十センチばかり背の高い恭二を見上げる。「標高新聞きていたでしょう。恭二、部活決めたの? あのね、理佐のお姉さんが新聞部にいるんだって。私、新聞部へ入ろうかと思う」 あんなカタログみたいなものを作って、何がおもしろい。恭二はそういってみたかったが、その言葉を飲みこむ。「ちょっと、お茶して行こうか」喫茶むらさきの前で立ち止まり、恭二は詩織の背中を押す。中へ入ると、タバコの煙が充満していた。あわてて出ようとしたとき、中から呼び止められた。「瀬口じゃないか。かわいいスケと一緒か」 兄の恭一の同級生で、標茶高校へ通っている前島豊だった。学生服の胸をはだけ、堂々とタバコを吸っている。幼いころは、兄と一緒に遊んだ仲間である。無視して店を出ようとすると、背後から抱きとめられた。左肩に激痛が走った。振りほどこうとした瞬間、右のひじが前島にあたった。彼はもんどり打って倒れ、恭二もその上に後ろ向きに乗った。 仲間の学生たちは、椅子を蹴り倒して迫ってきた。恭二は詩織を外に押しやり、彼らと対峙した。背筋に、冷たいものが走った。相手は三人。「止めなさい、前島くんたち。未成年がタバコを吸っているって、通報するよ」 前島くんという固有名詞をつけたのが、効果的だったようだ。秋山可穂の母・昭子の仲裁で、難は逃れた。恭二は会釈をして、外に出た。「怪我はない?」 詩織は、涙目になっている。「うん、秋山さんのお母さん、すごいね。助かったよ」 二人は肩を寄せ合い、並んで歩く。あんなに親しく遊んでいた前島は、どんな理由でぐれてしまったのだろうか。自暴自棄にさせた何かが、きっとあるはずだと思う。そして、おれは野球ができなくなっても、ぐれていないもんね、と自らをたたえる。野球のかわりに、おれには詩織がいる。口のなかにキャンデーを放りこんだときみたいに、恭二の心に甘いものが広がる。「恭二、きて!」 写真店の前で、手を引っ張られる。詩織はショーウインドーに飾られた写真を指差し、「これ七歳のときの私」と照れたように告げた。ピンクの着物に、赤い帯を締めている。おかっぱ頭だった。「このころから、かわいかったのよ」 離れていた手を結び直し、詩織は屈託なく笑っている。詩織はどんなきっかけで、黄色が好きになったのだろうか。詩織はどんな本を読み、どんな音楽を聴いているのだろうか。詩織について、もっとたくさんのことを知りたい。ピンクの着物の詩織は今と同じ大きな瞳で、恭二に微笑みかけていた。左の頬にはちゃんと、マッチの頭のような小さなえくぼもあった。恭二は幼い写真を、スマホで撮った。012-2:新たな共通の世界――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!十月になって猪熊勇太は、標茶高校野球部の練習に参加するようになった。彼は恭二と同様に、札幌F高へ入学辞退届を出している。それを知った標高野球部の長田監督から、練習に参加するよう求められたのである。勇太はそのことを、恭二には告げなかった。恭二の心中をおもんばかってのことである。普通科の入試がないことが決まり、恭二の毎日は弾力を失ったゴムボールみたいになった。下校途中、そんな恭二を心配した詩織は、彼を図書館へと誘った。「おもしろかった本があるから、恭二、借りて読みなさい」「おれ、読書は苦手だ」 詩織はカバンから一冊のノートを取り出し、恭二に差し出す。表紙には「恭二のための読書なび」と書いてある。「これ、私から恭二へのメッセージ。野球時代は体力が勝負だったけど、これからは頭脳の勝負なのよ。だから私が読んだ本の感想を書いているの。それを読んで恭二は、興味のある本を選ぶの」 ノートを受け取った恭二は、パラパラとページをくくり、びっしりと書きこまれた文字に圧倒された。「これ、全部詩織が読んだ本の感想文。すごいな」「恭二のため。授業でも感想文は大嫌いだけど、恭二のためならエンヤコーラってとこかな」 恭二は詩織の思いやりに、深く感動している。そして日常のこと以外に、二人が語り合うべき新たな共通の世界が生まれたことを悟った。012-3:新たな楽しみ――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!恭二は図書館で、ストウ『アンクル・トムの小屋』を借りた。詩織ノートの最初のページにあった本である。詩織は「残酷な運命の後日談に、胸が詰まった。トムは恭二の性格に似ていると思った。丸谷才一の訳文に感動した」と書いていた。 恭二はその本を一週間かけて、なんとか読みこなした。そして詩織の文章の下に、自らの感想を記入した。――トムの自己犠牲は、いただけない。おれは、他人のために自らを滅ぼす道は選ばない。でも感動したよ。何だか生まれて初めて、読書ってやつを体験した。詩織、ありがとう。 恭二はノートを閉じて、まだ感動に酔いしれている。活字の世界に没頭していた自分を思い出し、ささやかだけど新たな楽しみを見つけたと感じていた。013:お祝いのホットケーキ――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! ちょっと身構えて、恭二は喫茶「むらさき」のドアを開けた。前島たちの姿はない。安堵の息が白く染まった。店内は暖かかった。すでに三人はテーブルについていた。「ごめん、一番乗りのつもりだったのに」 弁解した恭二に、詩織は隣の椅子を指差した。「モーニングセット四つお願いします」 勇太が大きな声で注文した。厨房から「はい」という声が響いた。コップが触れ合う音がして、秋山可穂が姿を見せた。喫茶むらさきの一人娘で、四人とは同級生である。「みんな合格おめでとう。今朝の道新に名前が載っていたね」「可穂も合格おめでとう」 詩織は笑いながら、受け取ったコップを掲げてみせる。「無試験だったから、うれしさも半分だな」 勇太がいった。「母さんがね、今日は合格のお祝いだからサービスするって。お金はいらない」 そのときドアが開いて、大柄な中年の男が入ってきた。「昭子さん、おはよう。いつものやつ、お願い」姿の見えない主に向かって声をかけると、男はおもむろに持参してきた新聞を開いた。「おじさん、地方欄に私たちの名前が出ているの」 可穂は、おじさんと呼んだ宮瀬哲伸の席に水を置いて、照れくさそうに告げた。「そうか、可穂ちゃんの高校合格発表の日だったのか……えーと、秋山可穂。あった。可穂ちゃん、合格おめでとう」 宮瀬は鼻眼鏡を指先で上げて、厨房に向かって大声を発した。「誰? あの人?」 理佐は小声で、詩織にたずねる。「宮瀬建設の社長で、観光協会の会長さんよ」 詩織はさらに声を低くして、理佐に説明した。「例の評判の悪い建物の責任者でもある」 恭二も声を抑えて、続けた。「あの博物館の、館長でもあるの」 詩織は内緒話をするように、声をくぐもらせた。厨房から昭子が、ホットケーキを運んできた。「今日は特別サービス。だからトーストではないの。みんな合格おめでとう」「ありがとうございます」「おー、ホットケーキか、楽しみだな」 奥の席から声が上がった。「あなたはおめでたくないんだから、いつものトーストだよ」 昭子は笑いながら、奥の席に声を放った。喫茶「むらさき」で、話がまとまった。四人で卒業旅行に、行こうというのである。北海道の二月は、真冬のど真ん中である。春の気配は、みじんも感じられない。「暖かいところに行きたいね」 詩織のひょんな一言が、みんなの気持ちに火をつけた格好である。「暖かいところっていうと、沖縄とかグアムになるよ。そんなのムリ」 理佐は自らの提案を否定し、「札幌におじいちゃんとおばあちゃんがいるんだけど、札幌なんてどうかしら。地下街なら暖かいし、泊まり賃がいらない。卒業旅行と説明したら、うちの親は許してくれると思う」といった。「卒業旅行か。何とか実現したいな」 恭二の言葉を受けて、勇太はつないだ。「うちは固いから、恭二と二人で卒業旅行に行くということにする。それならオーケーだと思う」「おれのところは大丈夫だ。四人で行くって、ちゃんとお願いするよ」 恭二の話を聞いて、詩織は考えこんでいる。大きな瞳が、宙を見上げている。上向きの長いまつげが揺れた。「私は理佐と旅行に行く、っていう。恭二の名前を出すと、反対されそうな気がするの」「おい、おい。おれはそんなに危険人物かよ」「そうじゃないけど、思春期の男女って、親の心配の種なんだから」 理佐は深い二重の瞳を詩織に向けて、「私はどうせばれちゃうんだから、正攻法でお願いするわ」といった。いいな、このグループは。恭二はそう思ってから、このカップルは、と頭のなかで訂正を加える。014:でめんとり――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!店の配達を手伝った帰路、恭二はばったりと亀井正輝と顔を合わせた。亀井は恭二と同級生で、野球部でいっしょだった。青い厚手のジャンパーを着て、肩からは黒いバッグを提げている。空には福笑いの眉のような、黄色い月があった。「壮行試合のときは驚いたよ。その後、どうなんだ?」 あのとき亀井は、セカンドを守っていた。「もう野球はできない」「そうか、残念だな。北海道では指折りの大エースだったのに」「カメはどうするんだ?」「おれは麻工場へ就職が決まっている。正社員じゃなく、出面とりだけどな」亀井は口もとをゆがめて、ずり落ちそうになったショルダーバッグを引上げた。「正社員にはなれるのか? いつまでも日雇いじゃ心もとないよな」「うちの死んだおやじは、ずっと出面とりのままだった。だからサラリーマンに憧れていたんだけど、役場も消防も落ちちゃった」「野球はどうするんだ?」「麻工場にはソフトボール部しかない。それも男女ミックスのチームだ」「みんなバラバラになっちゃったな」「おれ、強がりじゃなくて、学校から解放されたのをほっとしている。おまえはあと三年、勉強がんばれよな」 そういって、亀井は片手を上げた。同級生の四分の一は進学しない。しないというよりは、進学できない。恭二は亀井のいった「でめんとり」という単語を胸のなかで転がす。枯葉を踏んだときのような音が聞こえる。亀井の鼻の下には、無精ひげがあった。恭二はふだん寡黙な亀井が、饒舌だったことに気がつく。世の中って残酷だな、と思う。中学からの進路は本人の意思ではなく、親の資産で決まってしまう。肩を壊して野球を断たれてしまった自分と、野球ができなくなった亀井を比べて、胸が痛くなった。もうすぐ卒業旅行だ。恭二は胸のわだかまりに、そっと砂をかける。くすぶった火種は、なかなか消えそうもない。015:卒業旅行――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 卒業旅行の日がきた。南川理佐は朝一番の電車に間に合うバスがないので、前夜から詩織の家に泊まっていた。二人は申し合わせたように、赤い大きなかばんを持って、恭二が待つ標茶駅に現れた。理佐の首にはピンクのマフラーがあったが、詩織の首には何もない。首筋が寒そうだな、と恭二は思う。朝一の電車が動き出す。車両はほぼ、貸し切り状態だった。勇太は茅沼駅から、乗りこんできた。オレンジ色のダウンを着て、大きなリュックを背負っている。「おはよう」とあいさつを交わすと、理佐のいる隣りのボックスに座る。理佐は勇太の背に手を回し、リュックを下ろすのを手伝う。「恭二と二人っきりっていってきたので、何だか後ろめたい気がする」 荷物を網棚に乗せながら、通路越しに勇太は照れたように笑った。塘路駅で赤いアノラック姿の女性が、乗車してきた。通路をやってきた彼女は、恭二と詩織の座るボックス席で足を止めた。「失礼だけど、瀬口くんかしら?」 突然声をかけられてどぎまぎしながら、恭二はうなずいてみせる。「やっぱり、恭一さんとそっくりなんで、思わず声をかけてしまった。ごめんなさいね」菅谷彩乃(あやの)さんだ、と恭二は確信した。中学時代の兄貴の彼女。彩乃は恭二の一年先輩で、みんなからは「クレオパトラ」と呼ばれていた。「私、菅谷彩乃といいます。あなたは弟の恭二さんね。ずいぶん立派になったね」 恭二は兄の部屋にいる、セーラー服姿の彩乃を何回か見ていた。しかし口紅を塗りイヤリングをつけた彼女とは、なかなか重ならなかった。彩乃は会釈して、向いの席に腰を下ろす。かすかに化粧の香りが、漂ってきた。「恭一さんは、今どうしているの?」彫りの深いエキゾチックな顔が、目の前に迫ってくる。「元気に標茶高校へ通っています」「お兄さんに、伝えてくれない? 私ね、釧路湖陵高校の定時制に通っているの。お仕事も勉強もちゃんと両立させているから、安心してって」「はい、ちゃんと伝えます」「あなたは今度、高校一年になるのよね。うちの兄さんは、四年間お仕事をしていたんだけど、どうしても勉強したいって、標茶高校へ進学することになったの。きっと同級生だわ」「お兄さんは、普通科ですか、農業科ですか?」「普通科。無試験だったって、喜んでいた。じゃあね、おじゃましちゃって、ごめんなさいね」彩乃は立ち上がり、後部座席へと歩み去った。それを見届けてから、詩織が感嘆の声をもらす。「すごい美人だね。ドキドキしちゃった」「兄貴がいっていたんだけど、アイヌの血が混じっているそうだよ。家が貧しいので、高校へは進学しないって聞いていた。でも偉いね。働きながら定時制で、勉強しているんだ」「あの人のお兄さんが、私たちと同級生になるのね。きっと彫りが深くて、イケメンだろうな」「おいおい、浮気はご法度(はっと)だぞ」 賑やかな笑いが弾けた。電車は乗換駅の釧路を目指して、ひた走る。電車は何度も警笛を鳴らしながら、スピードを緩める。キタキツネが、朝の散歩中らしい。「詩織、この前返してもらった消しゴムだけど、あれで印鑑を作っている」 小学校のときに、おれの手から詩織の手に渡った消しゴム。貸した消しゴムのことは忘れていたし、詩織の存在もその他大勢のなかに埋没していた。詩織はお下げ髪だっただろうか、とふと思う。「何を彫っているの?」「詩織という、大切な人の名前。できあがったら、プレゼントするね」「うれしい。楽しみにしている」 車内放送が、「間もなく釧路」と告げた。恭二は網棚から、詩織の赤いかばんを下ろす。ずっしりと重かった。 016:打ちこむべきもの――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!釧路から札幌までは、特急電車で四時間半。前後になっている指定席を回して、四人は向かい合わせに座っている。電車が発車する前に、詩織は赤いかばんからおにぎりを取り出し、みんなに配った。塩鮭の入ったおにぎりをほおばりながら、勇太は思い出したようにいう。「おれたちの名前が載ったあの新聞、切り取ってお袋が神棚に置いた。無試験だったから、照れくさかったよ」「あら、勇太は試験があった方がよかったの?」 理佐がまぜかえす。猪熊くんの呼称は勇太くんになり、いつの間にか勇太に変わっている。呼称の進化は恋の進度と、併走しているのかもしれない。恭二は、そんなことを考えていた。「さっき塘路から乗った、あの美人は誰?」ペットボトルのお茶を飲んでから、勇太は尋ねた。「うちの兄貴の元カノ。今は働きながら、湖陵の定時制に通っているんだって」「あの人のお兄さんは、今度標茶高校の一年になるんだよ。四年間働いて、高校進学を実現させたんだって」「すごい人がいるんだね、何て名前?」「お兄さんの名前は、聞かなかった。彼女の名前は、菅谷彩乃さん。うちの兄貴によろしく伝えてくれっていわれた」車掌が検札にやってきた。一度途切れた話を、恭二はふたたび引き戻す。「兄貴がいってたけど、ここ十年ほど北大へは誰も入っていない。だからうちの兄貴や理佐のお姉さんは、学校の希望の星なんだそうだ」「理佐のお姉さん、顔がよくて、頭もいいって評判だよね」 詩織の言葉に理佐は一瞬笑みを浮かべ、すぐに眉間にしわを寄せた。「そこまでは間違いないんだけど、一本気で猪突猛進タイプだから、いつもハラハラさせられている」「理佐のお姉さんは新聞部だよね。私、新聞部に入ろうと思っている」「新学期からは、部長になるっていっていた」「わあ、すごい。恭二もやっぱり新聞部だね」「おれはごめんだ。なんだか湿っぽくて暗い感じがするから、詩織一人で入ればいい」「野球に代わるものを、早く見つけろよな。何か打ちこむべきものがなけりゃ、恭二は腐り果ててしまうから」 勇太がいった。これは本音である。恭二の怠け癖については、勇太がいちばんよく知っている。車内放送が、「間もなく札幌」と告げた。四人の気持ちを映したのか、車窓の風景が急に華やいだものになった。町おこし017:ラーメンとジンギスカン――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 札幌に着いたのは、昼過ぎだった。恭二と詩織は、修学旅行で一度きている。大勢の人波に翻弄されながら、四人は改札口を出る。「お昼はラーメンだよね。ではラーメン横丁に向かって、出発進行だ」 詩織は張り切って、音頭を取った。「その前に、本物の時計台を、拝んでおかない?」 理佐の提案に、みんながうなずく。札幌の舗道には、まったく雪がない。時計台の前は、記念写真を撮っている集団であふれている。「いっしょだ」と、詩織が甲高い声を上げる。藤野温泉ホテルで耳にしたような、酷評は聞こえてこないか、と恭二は耳をそばだてている。「ここからいったん地下にもぐろう。外はやっぱり寒いから」大通公園から、地下街へと入る。さっきまで頬を刺していた、冷たい風が消えた。二組ともしっかりと、手を握り合っている。ラーメンを堪能し、喫茶店で一休みすることにする。店内は暖房がきいており、暑いくらいだった。外で電話をしていた、理佐が戻ってくる。「おばあちゃんに連絡したら、夜はジンギスカンだって」 歓声がわく。さっきラーメンを食べたばかりなのに、恭二の腹は歓迎の音を立てている。「卒業、おめでとう」 配られた水を持ち上げて、詩織はおどけたようにみんなを見回す。恭二たちもグラスを持ち上げる。合わせたグラスから、勇太は金属バットが球をとらえる音を聞いた。恭二が立ち直ってくれてよかった。勇太は恭二の隣りの詩織に目をやり、そっと理佐の横顔をうかがった。頬が赤く染まっていた。電話をかけに行った外は、寒かったんだろうなと思う。 店内の暑さに耐えかねて、申し合わせたように一斉に上着を脱ぐ。理佐は二重に巻いていた、マフラーを外した。雪のように白くて細い、首筋が現れた。赤いセーターによく映えた色だった。恭二はそっと、詩織の首筋に目をやる。黄色いハイネックセーターを着ている、詩織の首筋は見えなかった。 018:クラーク博士の像――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 四人は、別行動をとることにした。集合時間は午後五時、テレビ塔の下と決めた。詩織は羊ヶ丘に行ってみたい、といった。修学旅行で行っているはずだったが、恭二の記憶にはクラーク像しか残っていない。バス時間を調べて、二人は羊ヶ丘へ行った。駐車場には、大型バスが五台停まっていた。売店に入り、小さな展望台に上がる。眼下に、広大な空間が広がっている。どんよりとした空の下の風景は、ちょっとかすんでいた。 展望台から下りて、クラーク博士像を眺める、なじみのポーズで、はるかかなたを差し示していた。傍らでは中国語の観光客が、同じポーズをしてカメラに収まっていた。石原裕次郎の「恋の町札幌」の碑があった。曲が流れていた。柵の中には、羊の姿は見あたらない。「たったこれだけ?」 失望した表情を浮かべて、詩織がいった。恭二も同感だった。こんな風景は、標茶で見飽きている。恭二はコートの襟を立てながら、標茶町にある三大がっかり名所を思い出している。羊ヶ丘にこんなに観光客が集るのは、ひとえにクラーク像のお陰ではないか。それを取り除けば、標茶の風景の方がずっと雄大だと思った。 恭二は観光客誘致の、ヒントを得たと思った。「がっかりだな。何にもない」 建物に戻ると、強烈なジンギスカンの臭いがした。「こんなにすごい臭いをたてるから、羊は怖がって逃げちゃったんだね」と詩織がいった。恭二は詩織の背中をそっと押し、「帰ろう」と告げた。019:多和平の再評価――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 大通り公園まで戻ってきた二人は、地下街で時間をつぶすことにした。「恭二あれなら、標茶の多和平(たわだいら)の方がずっといいよね。何といっても、三百六十度の地平線が見られるんだから」 たくさんの人波を避けるために、詩織は恭二の右腕にしがみついている。胸の膨らみが、ひじにあたる。「多和平にクラーク像があれば、絶対に羊ヶ丘に勝っている」「クラーク像もついでだから、標茶に持ってきたらどうかしら?」「がっかり名所を、まだ増やしたいのか」 二人は声に出して、笑い合った。ひじに感じる膨らみは、遠いのいたり密着したりを繰り返していた。恭二は詩織の裸体を見たい、と強烈に思う。「恭二、高校でも同じクラスになれればいいね」「普通科は二クラスなんだろう? 確率五割だ」「しっかり勉強して、札幌の大学へいっしょに行こうね」「おれ、勉強嫌いだ」「ダメよ。恭二は瀬口薬局を継がなければならないの。だから北海道薬科大をねらうのよ」「それだけは勘弁してもらいたい。おれは標茶みたいなド田舎で暮らしたくない。見ろよ、札幌の熱気を」「私は一人っ子だから、ホテルを継がなければならない」 一本道が突然、Y字路になってしまった。おれたちはこの先、どうなるのだろうか。恭二は軽く頭を振って、浮かび上がった考えを振り払った。「恭二、ダイソーがある。ずっと憧れてたんだ」 入ろうとしたが、店内は籠をいっぱいにした人群れで、通路を進めないほどだった。荒々しい中国語が、飛び交っている。「諦めたわ、恭二」 残念そうに、詩織はため息をついている。020:入れ替わり――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 理佐の祖父母の家は、藻岩山の麓にあった。四人は理佐の祖父母から、熱烈な歓迎を受けた。食卓には、大きな毛ガニが並んでいた。今朝二条市場で、買い求めてきたという。「カニはね、食べはじめるとみんな寡黙になるから、最後にだすことにしているの。だからカニの存在を意識しながら、ジンギスカンを召し上がれ」 理佐の祖母はそう説明して、カニを補助テーブルに移した。「うちもそうしています。温泉ホテルをやっているんですが、カニはいつも宴会の最後です」 食卓の上に新聞を敷きつめ、窓を全開にして鉄カブト型の鉄鍋が置かれた。火力を最高にして、祖母は脂肉で表面をなでつける。それからていねいに野菜を敷きつめる。開放された窓からは、冷たい風が吹きつけてくる。「あれ、理佐のところは、野菜が先なんですね」 恭二は祖母にいった。「こうすると、お肉が焦げないでしょう。家によってはお鍋の周りに、お野菜を並べるところもありますよね」「うちはそうです」と恭二は応じた。ジンギスカンとカニで満腹になった恭二と勇太は、先に指定された二階の部屋で足を投げ出している。布団は少し離して、二組が用意されていた。恭二は詩織と一緒の部屋がよかったのに、と少しだけ寂しく思う。 詩織と理佐は階下で、洗いものの手伝いをしている。水音が絶え間なく、響いてくる。天井を見ていた勇太は、反転して恭二にささやく。「寝る段階になったら、おれがコンビニへ行こうといって、理佐を外へ連れ出す。だからおまえは、すかさず隣りの部屋に移れ」 大胆な勇太の提案だった。男同士の部屋を、カップル用に模様変えしようというのである。恭二もずっと、そんなことを考えていた。すかさず同意した。
2018年02月15日
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一気読み「町おこしの賦」021-030町おこしの賦021:……はずだ――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!恭二たちの部屋で、トランプをした。しかし恭二の頭のなかは、別のことでうつろになっている。十時を回った。女性陣は「おやすみ」といって、部屋を出ようとした。勇太は理佐に向かって、「歯ブラシを持ってくるの、忘れた。ちょっとコンビニまで、つきあってくれないか」と告げた。「先に寝ているぞ」 恭二は勇太の背中に向かって、声をかけた。声が震えた。詩織には「おやすみ」と片手を上げてみせる。詩織も手を振って、隣りの部屋へと消えた。ついていこうと一瞬思ったが、ぐっと自制した。部屋に残った恭二は、ひたすら時を待つ。セーターを脱いでいる。ズボンも脱いだ。パジャマに着替えた。電気を消した。布団に入った。情景を思い描いているうちに、心臓がドクンドクンと鳴りはじめる。電気を消して、詩織は目を閉じている、はずだ。大きく深呼吸をして、恭二はそっと詩織のいる部屋のドアを開ける。彼女は布団に仰向けになって、スマートフォンの操作をしていた。黄色い水玉模様の、パジャマを着ていた。電気は消えていない。恭二はすかさず、理佐の赤いかばんを廊下に運び出す。ドアを閉めて、電気を消した。そして、詩織の横に滑りこむ。詩織は、「あっ」と声を上げた。抵抗はしない。スマートフォンをもぎ取り、恭二は詩織を抱き締める。石けんの匂いがした。唇を重ねる。詩織は、目を閉じている。長いまつげは、ピクピク震えていた。動悸が激しくなった。「好きだよ」と告げた。背中に回った詩織の手に、力が入った。「好きよ」と、上気した声が聞こえた。 勇太たちは、部屋にやってこなかった。恭二と詩織は一組の布団で、手を握り合ったまま眠った。何度も唇を重ね、恭二は白桃のような胸にも触れた。小さな隆起を、手のひらに包みこんだ。乳首を軽く、ひねってもみた。詩織の吐息が、乱れるのを感じた。しかしそれ以上の行為は、自制した。■町おこしの賦022:卒業とは――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!カーテン越しに、朝の日差しを感じた。詩織はそっと、目を開ける。恭二の寝息が、耳元で聞こえた。小さな胸の隆起には、恭二の右手が乗ったままだった。熱いものが、こみ上げてくる。恭二が最後まで求めてきたら、どうなっていたのだろうか。詩織はそんなことを考えて、赤面してしまう。詩織はそっと恭二の手を持ち上げ、はだけた胸を隠して、静かに起き上がる。幸せって、これなんだわ。カーテン越しの日差しに目をやり、詩織は満たされた気持ちで、大きな伸びをする。身体が、こわばっているように思う。恭二の寝顔を見下ろし、詩織は甘酸っぱい何かを飲みこむ。気配で恭二は、目を覚ました。少し照れくさそうに、「おはよう」と告げる。詩織も真っ赤になりながら、「おはよう」と返す。詩織の長い上向きのまつげが震え、大きな目から大粒の涙がこぼれた。詩織はあわててパジャマの袖でぬぐい、照れたようにいった。「うれしかったの。恭二と二人っきりで、朝を迎えたのね。ごめんね」 初めてのキス。初めての抱擁。そして初めて詩織の胸に触った。昨夜のことを詩織の涙に映し、おれたちは、まだ卒業していないと思う。高校生になって、まだ詩織との仲が続いていたら、卒業だよな。それまでは、ピュアなままの詩織でいてもらいたい。手のひらに、昨夜の温もりが残っていた。卒業って、すべてが終わってしまうことなのかもしれない。あるいは新たなステップへの、第一歩なのかもしれない。恭二はこんがらかってきた思考に別れを告げ、トイレへ向かった。勇太たちが眠る、部屋の前を通る。廊下には、昨夜のジンギスカンの匂いが残っている。恭二はドアに向かって、心のなかで「おはよう、お二人さん」とつぶやく。そして、思わず微笑んでいる。廊下には朝の陽光が、横たわっていた。新しい朝。最高の朝。廊下の日だまりを踏み、恭二は窓越しの藻岩山に向かって、大きな伸びをした。■町おこしの賦023:黄色いマフラー――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 午前十時、理佐の祖父母に見送られて、四人はバスに乗る。席が別れたせいで恭二は、勇太に成果を問いかけることができない。バスを待つ間、何度も目で合図をしてみた。伏し目がちの勇太は、何も語ってはくれなかった。札幌駅に着いてから、帰りの電車の時間までは、二時間ほどの余裕があった。二組は、別行動をとることにした。そのときにも恭二は、勇太に目の信号を送っている。二人は優秀な、バッテリーだったのだ。目だけで十分な、意思疎通ができるはずだった。しかし勇太は、何も返してこなかった。二人と別れて、恭二と詩織はマフラー売り場へ直行する。売り場はごった返している。詩織は恭二の手を引き、ぐいぐいと進む。つないでいた手が、混雑のなかで離れた。「恭二、きて!」詩織の呼ぶ声が聞こえる。詩織の声を追いかける。お目あての、黄色いマフラーがあった。詩織はサイズの違う、二つを選ぶ。「恭二、これすてき。これにしようよ」 詩織は愛おしそうに、大きな瞳を恭二に向ける。そして二つを持ってレジに進み、店員に値札を外してくれるようにお願いする。店を出た二人は、さっそくマフラーを首に巻く。「暖かいね、恭二、似合っているよ」 詩織は弾んだ声でいい、わざとマフラーを鼻までずり上げてみせる。そして、いたずらっぽく笑った。「恭二のマフラーの方が高かったんだけど、割り勘でいいよね」 恭二は苦笑し、自分の財布から詩織にお金を渡す。「ありがとう。このマフラーは、恭二と私の卒業記念。それから……」「それから、何だい?」「初キスの記念かな。でも春はそこまできている。だから今日が最初で最後の、マフラー日和になるかもしれないね」■町おこしの賦024:恋の町札幌――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて 停車中の電車の指定席に着くと、理佐の姿はなかった。勇太は一人で、ぽつねんと座っていた。恭二の胸のなかに、ざわざわとした風が起こる。やっぱり、何かがあったんだ。「理佐は?」 詩織は、無頓着に質問する。恭二に緊張が走る。触れてはいけない闇に、詩織は踏みこんでしまった。「お姉さんへのお土産を、買い忘れたんだ。あわてていたけど、間に合うよ」 返ってきた答えに、恭二は胸をなで下ろす。小さな紙包みを抱えて、息せききった理佐が飛び乗ってくる。「ごめん、心配かけちゃって」 ペコリと頭を下げた理佐は、「勇太の買い物がのろいから、肝心なお土産を買い忘れたのよ」と矛先を変えた。電車はゆっくりと、ホームを滑り出した。恭二と詩織の首に巻かれたそろいのマフラーを認めて、「お似合いよ」と理佐は目を細めた。その理佐の首には、ペンダントがぶら下げられていた。小さな額縁のなかに、モネの睡蓮の絵がはまっていた。理佐が大好きだ、といっていた絵である。「勇太、おれからおまえに、プレゼントがある」 恭二は勇太に、紙包みを手渡す。「マスクだ。ずっと欲しかった、キャッチャーマスクだよ」 勇太はつばを飛ばして、理佐にいった。進行方向に向かって右の窓に、テレビ塔が現れた。勇太はその光景を、マスク越しに見ている。詩織は心のなかのオルゴールを、そって開いた。いつもなら、「月夜の散歩」が聞こえてくる。しかし今、詩織の聴いているのは、――時計台の下で逢って/私の恋は はじまりました/黙ってあなたに ついてくだけで/私はとても 幸せだった/夢のような 恋のはじめ/忘れはしない 恋の町札幌という曲だった。それは羊ヶ丘の石碑から、聞こえてきたメロディである。(第1部『恭二、きて!』終り)■町おこしの賦025:高校一年の初日 ――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!01 瀬口恭二たちは無試験で、標茶(しべちゃ)高校普通科への入学を決めた。農業科の方は一・三倍の競争率だった。恭二はD組、詩織はC組とクラスは別々になった。恭二のクラスには、南川理佐がいた。猪熊勇太(ゆうた)は、詩織と同じクラスだった。そしてC組には、菅谷彩乃(あやの)の兄・幸史郎(こうしろう)がいた。彼は、十九歳になったばかりである。中学を出てからすぐに働き、学費を貯めて入学してきている。同じ詰襟を着ているが、勇太にはまるでおっさんに見えた。幸史郎には、勇太の方から声をかけた。「菅谷さんですよね。お姉さんから話を聞いています。おれ、猪熊勇太」「姉、ですか? 私には妹しかいませんが……」 その言葉で気がついた。彩乃さんの方が、妹だったのだ。「ああ、すいません、妹の彩乃さんでした。湖陵高校だと聞いていたんで、つい間違えてしまいました」 勇太は自分の軽率さを恥じ、彼を詩織の席に連れて行く。「彼女は藤野詩織さん、こちらは……」「紹介されなくても、わかるわよ。彩乃さんのお兄さんでしょう」 詩織は幸史郎の精悍な顔立ちを見て、やっぱりアイヌの血が混じっていると思った。眉が濃く、目は深い二重で、顎のひげそり跡が青々しい。しかも勇太よりも、さらに筋肉質の身体をしている。恭二のD組では、初めてのホームルームが開かれていた。標茶中学からの顔見知りが半分で、あとは隣町の磯分内(いそぶんない)中学校などから進学してきている。担任の指示にしたがい、それぞれが自己紹介をした。出身中学校名と入りたいと思っているクラブ活動名を、あげるのがルールだった。南川理佐は、「標茶中学出身、美術部を希望しています。趣味は絵を描くことです」と、落ち着いて自己紹介した。恭二の番がきた。「瀬口恭二、標茶中学出身。新聞部へ入部しようと思っています。兄がいます。標高の二年生です」一通りの自己紹介がすんだ時点で、担任は伝えた。「便宜的にクラス委員を決めてある。落ちついたら選挙で選ぶけど、それまでは瀬口恭二に委員長、南川理佐に副委員長をやってもらう。何か相談ごとがあったら、二人を通すように。瀬口と南川は、突然の指名で悪いけど、みんなに顔を覚えてもらうために、壇上に並んでくれないか」二人は教壇に立ち、頭を下げた。ホームルームが終わると、さっそく「委員長!」という声に呼ばれた。磯分内中学校出身で、柔道部希望の野方智彦だった。「あのさ、委員長。おれ、目が悪いんで、黒板の字が見えないんだ。だから席を前に変えてもらいたいんだけど」「わかった、担任に伝えておくよ」 面倒な役職を、与えられたと思う。クラス委員長というのは、頭がいいやつが選ばれるのが常識じゃないか。何で、おれと理佐なんだ。そう思いながら恭二は、クラス日誌に席替えの件を書き留めた。 校舎から校門までの道の両脇には、さまざまなクラブの看板が並んでいた。執拗に、勧誘している生徒もいた。まるで繁華街のぽん引きみたいだった。恭二は足早に、そこを通り過ぎる。■町おこしの賦026:穴吹兄弟の始業式――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!02 午前八時。穴吹健二は、標茶高校農業科一年B組の教室にいる。中学時代の同級生だった、寺田徹も同じクラスだった。徹の実家は、塘路で酪農業を営んでいる。「合格おめでとう」 徹は白い歯を見せて、健二にいった。中学時代、徹はバトミントン部、健二は卓球部だった関係で、二人は体育館でよく顔を合わせていた。「一度は高校進学を諦めていただけに、合格はすごくうれしい」 健二は徹に応えながら、入学した喜びをかみしめている。「よかったよな、進学できて。やっぱり高校ぐらいは、卒業しておきたにものだ」「兄貴はおれを高校へ行かせるために、昼間働くことになって、定時制に編入した。頭が上がらないよ」「おまえの家、厳しいんだな」「零細酪農家は、どこも大変だ。おれは毎朝五時に起きて、牛舎の掃除と餌やりを手伝っている。夏休みはアルバイトで、学費を稼ぐつもりだ」始業式を終えて健二は、卓球部員募集の看板の前に立った。中学時代の卓球部の先輩だった、越川翔が「おう」といって迎えてくれた。越川翔は町長の息子・誠の次男である。「入部したいんですが」「穴吹が入ってくれれば、大きな戦力になる。歓迎だよ」「よろしくお願いします」「また鍛えてやるよ。ところで兄貴の健一は、今日は欠席していた。具合でも悪いのか?」 翔と健一は、農業科で同級生だった。「いえ、定時制に編入したんです。働かなければ、ぼくを高校へ進学させられなかったからです」 健二は正直に告げた。「貧乏はつらいな」 翔は口中の食べカスを吐き出すように、顔をしかめて見せた。 午後六時。穴吹健一は、標茶高校定時制二年の始業式の列にいる。全日制からの編入は容易だった。二十一人の生徒は一年からの進級で、健一だけが新顔である。健一は、担任から自己紹介を求められた。「穴吹健一です。三月までは、全日制の方にいました。家庭の事情で、昼間は働かざるを得なくなりました。それで定時制に編入しました。昼間は実家の酪農を、手伝っています」 拍手が起こった。■町おこしの賦027:新聞部への入部――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!03恭二は詩織の誘いもあり、新聞部への入部を決めている。新聞部は年に四回、ブランケット版の「標高新聞」を発行している。ブランケット版とは、朝日新聞などと同じサイズのことである。恭二は文章を書くのも、本を読むのも苦手だった。しかしこれといって入りたいクラブもないので、強引に誘う詩織にしたがったまでである。新聞部は佐々木部長が卒業し、後任の部長として南川理佐の姉・愛華(あいか)が就任したばかりだった。愛華は二年生で、恭二の兄と同級生である。「今年は瀬口恭二くん、藤野詩織さん、秋山可穂さんの三人が入部してくれました。佐々木先輩がいなくなったことだし、これからの標高新聞は、標茶町の活性化をテーマに、新たな紙面作りに挑戦します」愛華は肩まで届いている髪を、かきあげてから続けた。目元は理佐とそっくりだった。「これまで、学校内のニュース以外は書いてはいけない、というしばりがありました。しかしそれって、おかしいと思います。標高(しべこう)は標茶町という過疎化が進んでいる、貧乏な町にあります。だから私たちの若い力は、町の発展に必要なんです」 過去のことはわからないまま、恭二は愛華の演説を心地よく聞いた。せっかくの地方再生予算を、とんでもないプロジェクトでムダにした大人たちが、許せなかった。めらめらと、闘志がわいてきた。 最後に顧問の長島太郎先生が、あいさつに立った。長島は国語が専門で、教師になって二年目とまだ若い。「私は南川の標茶町の発展にも寄与したい、という考えに賛成だ。この町は空気だけではなく、樹までも死んでいる。若い力で、死んだ町を活性化させる。それを標高新聞編集の中核にすえた新たな企画を、楽しみにしている」恭二の胸のなかに、熱いものがストンと落ちた。■町おこしの賦028:町の活性化のために――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!04新聞部の会議を終えて、恭二、詩織、可穂の三人は「喫茶むらさき」に席を移していた。以前、前島たちにからまれた一件があるので、恭二は入るときにちゅうちょした。ほかに客はいなかった。「お母さん、同じ新聞部に入った瀬口くんと藤野さん。二人は相思相愛らしいわ」 とんでもない紹介に顔を赤らめながら、二人はあわてて冷たい水を飲んだ。可穂の母はこの前の騒動には触れず、初対面のようにいった。「瀬口さんって、瀬口薬局の息子さんね。藤野さんは、藤野温泉ホテルの娘さんかしら?」「はい」二人は、声を合わせたかのように答える。「あら、やっぱり息が合っている」 可穂の突っこみに、二人はまた頬を染める。「愛華部長は前の顧問の柳田先生と、大げんかしたみたい。それで今年から顧問は、長島太郎先生に代わったんだって」 可穂はさっき先輩から聞いたばかりの情報を、二人に披露した。コーヒーを入れながら、可穂の母が口をはさむ。「おまえたちはアカか、って柳田先生が激怒したようよ。この前、長島先生がお見えになって、町の発展を願う若者に、アカはないでしょうと反発したら、じゃあ、おまえが顧問になれ、っていわれたらしいの。それで長島先生は、引き受けることにしたんだって。長島先生はここで、ときどきモーニングセットを召し上がっているのよ」恭二の胸のなかで、小さな何かが破裂した。おもしろいかも、新聞部。「長島先生はテレビに出てくる先生みたいで、若くて正義感がいっぱい。すてきだよね」 可穂はうっとりとした表情で、そういった。「愛華部長は、標高新聞で町を変えると張り切っているけど、そんなことができるのかな?」 詩織は、砂糖を入れたコーヒーを口に運んだ。小首は傾げたままだった。「ただ文化祭がありました。体育祭がありました。こんなニュースの後追いばかりじゃ、つまらない。私は愛華部長を信じて、新聞でどこまで町の活性化に寄与できるのかに、挑戦してみたい」 可穂の熱のこもった話を、恭二は冷めた思いで聞いた。みんなで力を合わせれば、ちょっとくらいは大岩が動くかもしれない。たかが高校生が発信した記事は、予防注射の針が刺さったほどの、刺激にしかならないだろう。 愛華部長の演説を聞いたときは熱くなった恭二だったが、風呂に入れた雪みたいに、もう跡形もなくなってしまっているのである。■町おこしの賦029:液状化現象を起こしている――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!05 高校へ入学して最初の日曜日、恭二はプロ野球のデイゲームを観ていた。ファイターズの猛打が爆発し、一方的な展開になっている。店舗から父の大きな声が聞こえた。「母さん、戸田さんがお立ちになるって」 鼻眼鏡で新聞を読んでいた母は、立ち上がりざま「戸田さんが引っ越すんだよ」と恭二に告げた。恭二も母のあとを追った。店舗には、戸田さん夫妻がいた。戸田さんは瀬口薬局の隣で、靴店を営んでいた。不景気で閉店するという話は聞いていた。「寂しくなるわね。お店の借り手は見つかったの?」 母が尋ねた。「貼り紙をしてあるので、瀬口さんのところへ問い合わせがくるかもしれません。その際はよろしくお願いします」 戸田さんはそういって頭を下げた。 戸田さん夫妻を見送って、居間に戻った母は大きなため息をついた。「明日は我が身だね。また、シャッターがひとつ降りてしまった」「戸田さん、どこへ引っ越すの?」 恭二が聞いた。「釧路の息子さんのところだって。商いって自己責任でするものだけど、こうも町が寂れると、町の責任にもしたくなるわ」「地方活性化予算を、あんなばかげたものに投入しちゃうんだから、情けないよ」 お茶を飲んで、父はそういい捨てて店舗へ消えた。居間には父の残した声が、どんよりとただよっていた。恭二はテレビを消して、父の言葉を胸のなかではんすうしている。この町は液状化現象を起こしている。傾いてゆく、瀬口薬局の映像が浮かんだ。■町おこしの賦030:生徒会長選挙――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!06六月になった。高校生活に慣れてきたとき、生徒会長選挙の候補者募集が行われた。例年なら学校側が推薦する誰かが、生徒会長に就任する。しかし今年ばかりは違った。何と一年生の菅谷幸史郎(こうしろう)が、名乗りを上げたのである。対立候補は学校側推薦の二年生・越川翔だった。彼は標茶町町長・越川常太郎の孫である。学校側は菅谷幸史郎に、立候補の撤回を求めた。一年生では校内のことが、わからない。だから立候補を、取り下げるように。表向きは、そのように説得された。しかし菅谷には、学校側の底意が見えていた。彼は頑として、説得を聞き入れなかった。昼休みの恭二のクラスにも、生徒会長候補の菅谷は、たすきをかけてやってきた。「生徒会長に立候補しました、菅谷幸史郎です。四年ばかり、土木作業員をやっていました。理由は高校へ進学する、お金がなかったからです。やっと資金が貯まったので、標茶高校を受験しました。無試験でしたが、合格しました。私は標茶中学の卒業生ですが、日本一雄大な標茶高校に憧れていました。今回生徒会長に立候補させていただいたのは、標茶高校を名実ともに日本一の高校にしたいからです。そのためには、勉強もクラブ活動も、そして何より標茶高校のみなさんが、町の活性化に貢献できるような学園を目指さなければなりません。どうか、みなさんの清き一票を、おっさん、菅谷幸史郎へとお願いします。私なら、できます」 大きな拍手が、巻き起こった。恭二は彩乃さんのことを、思い出していた。働きながら、定時制高校に通っている。彼女も、兄も、何と強い自分を持っているのだろう。菅谷は標茶町の活性化のために、といった。恭二の心のなかで、また新たなうねりが起こった。標茶町のために、自分ができる何か。まだ磨りガラス越しにしか見えないが、おぼろげながらやるべきことが、見えてきたような気がする。
2018年02月15日
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一気読み「町おこしの賦」031-040町おこしの賦031:研究テーマ――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!07放課後、恭二は新聞部部室をのぞいた。二年生の田村睦美がいた。「こんにちは」 恭二はあいさつをして、窓辺の椅子に座る。原稿から顔を上げて、睦美は思い出したようにいった。「瀬口くんはいいときに、新聞部に入ったのよ。前の佐々木部長のときは、書きたいことは一切書かせてもらえなかった。きれいごとばっかり。私が一年の時、抜き打ちテストの是非という記事を書いたんだけど、批判的だと没にされた。今度の愛華部長は真逆の人だから、やりがいがあるわ」 詩織が入ってきた。恭二を認めて、手を振る。「二人ともそろそろ、研究テーマを決めなさいね」 睦美は鉛筆をワイパーのように、左右に振り続けた。「もし決まっていないのなら、私たちの『文学のなかの高校生』に参加してくれてもいいよ」 睦美は何人かの部員と、小説のなかに登場する高校生像を収集している。読書が苦手な恭二には、歓迎できない誘いである。 帰り道、恭二は詩織に、研究テーマについて質問した。「まだ何も浮かばない。でもせっかく何かの研究をするのなら、恭二と二人でやりたい」「おれも同感だけど、何を研究したらいいんだ?」「義務じゃないんだから、焦る必要はないよ」「それにしても、菅谷幸史郎の演説はすさまじかった。詩織の教室にもきた?」「うん。標茶の活性化のために、貢献できる高校を目指すといっていた」「愛華部長と一緒だよな。二人とも前向きだ」「菅谷さん、勝てるかしら?」「越川さんには運動部の票があるし、微妙だと思う。でもあの演説を聞いたら、何としても勝ってもらいたいよね」■町おこしの賦032:靴箱のビラ――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!08 翌日、新聞部の緊急会議があった。全員が集ったことを確認して、南川愛華は一枚の紙片をひらひらさせて語りはじめた。「菅谷幸史郎さんを中傷するビラが出まわっています。みなさんの靴箱にも、入っていたと思います。これは明らかに、対立候補の越川翔側がばらまいたものだと思います。許せません。菅谷さんは町の活性化に寄与できる高校を目指すと主張しています。これは新聞部の目指す方向と完全に一致しています。だから、私たちは力を合わせて、菅谷さんが生徒会長になれるように応援したいと思います」 ビラは恭二も見ている。菅谷幸史郎は共産思想を持ったアイヌである、と書いてあった。「同じクラスの猪熊勇太くんが推薦人代表だったのですが、野球部の顧問から運動部の推薦は越川だといわれて、推薦人を外されました」 詩織は、着席した愛華に向かっていった。「知っているわ。だから菅谷さんは独りで演説して歩いているの」「菅谷さんは勝てますか?」 田村睦美が質問した。「一年生では、学校のことはわからない。先生たちも、みんな越川を応援している。だから私たちが力を合わせて、菅谷さんを応援するの」「おれたちもビラをまきますか?」 愛華の言葉を継いで、恭二がいった。「ダメよ。ビラまきは校則違反なんだから」 愛華はきっぱりと拒絶してから、「明日から私が、推薦人の応援演説をします」といった。どよめきが起こった。愛華は続ける。「みなさんは個別に、生徒を説得してください。ビラの件はみんな知っているんだから、それが校則違反だと伝えてください。そして菅谷さんの標茶町を元気にしたい、というメッセージを広げてください」 ■町おこしの賦033:ちん入者たち――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!09 翌日から南川愛華は菅谷幸史郎と一緒に、熱心に昼休みの教室回りを実町行した。愛華はビラを頭上にかざして、その不当性を訴えた。幸史郎は胸を張って「私にはアイヌの血が流れています。もう一つの共産思想については、残念ながら正しくない情報です」と笑い飛ばした。 放課後の新聞部部室に、三人のちん入者が現れた。前島豊とその仲間たちだった。「南川はいるか?」 入るなり、前島は室内を見回した。愛華は不在だった。前島は恭二を見つけて、「越川がビラをまいたなんて、デマを流しやがって。あれは菅谷が自分でやったことだ。南川にそう伝えろ」と吐き捨てた。「票を稼ごうとして、菅谷が自作自演したんだよ。汚い手を使った」 背の高い色黒の学生服がいった。「前島くん、変ないいがかりはつけないで。出て行きなさいよ。私たちは編集で忙しいんだから」 田村睦美は、顔を紅潮させて指を突きつけた。前島はひるまず部屋を歩き回り、「この印刷機でビラを作ったのか」と印刷機を叩いてみせた。「出て行きなさいよ。先生を呼ぶわよ」 秋山可穂が甲高い声を発した。 三人が消えてから、恭二は情けない思いにかられた。何も反発できなかった自分が、情けなかったのである。同時に越川グループに対する怒りも、ふつふつとわき上がってきた。そこへ愛華が入ってきた。「前島たちが乗りこんできたでしょう。今、そこで会ったわ。菅谷さんがビラを自作したんだって、血相を変えていた」「そんなことをするはずがないのに、とんでもないいいがかりだわ」 田村睦美はため息まじりにいった。「ビラのことはもういわない。さっき菅谷さんとそう決めたの。だから堂々と政策で闘うわ」「あいつらの政策は、何なんですか?」「クラブ活動の活性化。その予算を厚くするんだって」 恭二の質問に、愛華は笑いながら応えた。下校時間を告げるチャイムが鳴った。「こうなったら、絶対に負けられないわね。がんばろうね」 愛華は大きな伸びをしてから、また笑ってみせた。勝利を確信している顔つきだった。■町おこしの賦034:選挙結果――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!10一年生が異例の立候補という、生徒会長選挙は大変な盛り上がりをみせた。越川翔は卓球部の主将ということもあり、運動部の熱烈な支援を集めた。さらに数多くの先生たちは、さりげなく越川翔への一票を、生徒たちに促した。これまでの生徒会選挙では、高々と公約をうたうことはなかった。しかし菅谷幸史郎の場合は違った。標茶町の活性化のために寄与する、と宣言したのである。菅谷は低学年の生徒と文化系クラブから、大きな支持を受けた。標茶町の活性化にまで言及したのは、開校以来菅谷が初めてだった。多くの教員は困惑した表情で、選挙の成り行きを見守るしか術がなかった。菅谷はアカだ。菅谷はアイヌだ。誹謗中傷の声は鳴り止むことがなかった。菅谷はそれらと、真っ正面から対峙(たいじ)してみせた。「私のことを、アカだといっている人がいます。おそらくどこかの国のような、独裁君主になるといっているのでしょう。そんな気は、毛頭ありません。生徒と先生が同じ土俵で課題について意見を交わし、解決できる学園にしたいだけです」「私には、アイヌの血が流れています。アイヌの何が、いけないのですか。私はアイヌの血を、誇りにすら思っています。だいいち、標茶という地名はアイヌ語のシペッチャがなまったものです。アイヌ語では、大きな川のほとりという意味なんです」 これらの演説は、確実に生徒たちの心をつかんだ。そして菅谷は、圧倒的な多数票を集めて当選した。一年生が生徒会長に就任するのは、初めてのできごとだった。 菅谷は生徒会顧問と相談して、副委員長に柔道部の野方智彦、書記に農業科の寺田徹を選んだ。二人とも、以前にちらっと登場した人物である。■町おこしの賦035:僻地小学校訪問――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!11標茶町の過疎地で学ぶ、小学生や中学生に夢と元気を与えたい。菅谷幸史郎は、生徒会長就任のあいさつで、こう述べた。標茶町には、六つの小学校がある。標茶小学校を除くと、ほかの五つの児童数はきわめて少ない。それらの小学校を、ブラスバンド部、合唱部、人形劇部が中心となって、訪問しようということが決まった。新聞部部長の南川愛華は、諸手をあげてこの企画に賛成した。愛華には、別の取材が入っていた。当日の随行メンバーとして、瀬口恭二が指名された。最初の訪問先は、南川愛華の父が校長を務める、虹別小学校であった。児童数三十八人。派遣されたのは、生徒会役員三人、ブラスバンド部十八人、合唱部十二人、人形劇部十二人。それだけでも児童数を上回った。恭二は首からカメラをぶら下げ、取材用のノートを持って、二台のトラックの片方の荷台に乗りこんだ。標茶町を抜けると、たちまちアスファルト道が消えた。小刻みに揺れる荷台では、人形劇部のセリフ稽古が続いていた。幸い二台のトラックの先頭車両だったので、土埃の襲来はまぬがれた。「きみは瀬口くんだよね。生徒会長の菅谷です。本日の取材、よろしく」 彩乃さんのことを伝えようと思ったが、菅谷は話を続ける。「この企画は新聞部の南川さんから、アドバイスされたものなんだ。子どもたちの弾けるような笑顔が撮りたいって、張り切っていた。私たち高校生にできることは、まず後輩へのやさしい眼差しだっていっていた」「部長は町議会の取材なので、今回はこられません。残念がっていました」「新聞部は町議会まで、取材をするのかい?」「『私たちにもいわせて』という企画を連載することになって、今回は会社の博物館と日本三大がっかり名所に、フォーカスをあてることになっています」「あれは、とんでもない税金の無駄遣いだよな。あんなものこしらえたって、町の活性化にはつながらないさ」■町おこしの賦036:それが普通のことなんだ――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!12 子どもたちの大歓迎を受けて、「三匹のこぶた」の上演が終り、合唱とブラスバンドの演奏も終わった。昼食時間には、児童との弁当の交換が行われた。これは恭二が提案したもので、菅谷が受け入れてくれた。菅谷は恭二の隣りに座って、児童と交換した弁当を見せてくれた。麦ごはんの上に、生味噌が乗っているだけの質素なものだった。あっちこっちから、児童の「白いご飯だ!」という喜びの声が聞こえた。 恭二は自分の発案が、児童に受けたことに満足していた。しかし、持参した弁当の蓋を開けかけて、すぐに閉じてしまった。児童の弁当を見た瞬間から、胸が痛んでしまったのだ。 帰り際、南川小学校校長に、インタビューをすることができた。愛華と目元がそっくりだった。「合唱も、ブラスバンドも、人形劇も、子どもたちは大喜びだった。あんな笑顔は、運動会のときにしか見られない。このあと阿歴内(あれきない)や中茶別(なかちゃんべつ)にも行くんだよね。老婆心ながら伝えておくけど、あの弁当交換はいただけない。子どもたちは自分たちの弁当を、普通だと思っていた。ところが白いご飯だと叫んだ彼らは、自分たちの弁当の貧しさを知ってしまったんだよ。今度行く先では、ご飯の炊き出しとか芋煮とか、子どもたちと一緒に作る方がいいね」 話を聞いて恭二は、自分の企画が浅はかだったことを知った。「申し訳ありませんでした。今後の参考にさせていただきます」「こういうところの小学生は、労働力なんだ。だから朝早くから起きて牛の世話をし、収穫期には学校にもこられない児童がいる。働くことも、麦だけのご飯も、彼らにとってそれが普通のことなんだよ」恭二は南川校長のいう「普通のこと」という言葉が身にしみた。もう一度、「すみません」を繰り返した。。「いいってことさ。すんでしまったことなんだから。ところできみは、うちの愛華のところの新聞部なんだろう」「はい。愛華さんは、部長をしています。妹の理佐さんとは、同じクラスです」「よろしく頼むね。二人とも田舎に引き連れてこられて、いまだにブーブーいっているんだ」■町おこしの賦037:社会的な貢献――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!13放課後、恭二は夏休み中に読む本を選ぶために、部室に顔を出す。新聞部の部室には書棚があり、先輩たちの代からの寄贈本が並んでいる。長島太郎先生の姿があった。窓辺で本を読んでいた。「長島先生、こんにちは」「瀬口か、今日は藤野と一緒じゃないのか」「ええ、いつも一緒ってわけでは……」「おまえたちの時代が、うらやましいよ。社会人になったら、社会的な責任というのがのしかかってくる」「社会的な責任ですか?」「働いて報酬を得る。これは自分や家族の幸せだけを、意味しているのではない。困った人を助けるための、税金を稼いでもいる。しかしその税金は、的確に配分されていない」 恭二はとっさに、二つのプロジェクトのことを思う。貧しい菅谷兄妹のことを思う。「つまり社会的な責任とは、税を納めることだ。そして誰かのためにつくすことだ」「誰かのために、つくすですか?」「そうさ、瀬口は今、誰かのためにつくしているか?」 頭のなかに、いろいろな人の顔を浮かべてみる。適当な人が見あたらない。「辺地校への訪問。あれはこどもたちに、夢と元気を与えたかったんだろう。会社の博物館の件も、町の人たちに喜んでもらえる場にしたい、と話し合ったよな。今の新聞部には、そんなやさしい眼差しが芽生えつつある。ただし、何かをやったときには、その行為に社会的な責任が生ずる」 恭二は考えこんでしまう。自分たちの提案を、長島先生は社会的な責任を持って、受け止めてくれていた。おれたちには、まだ社会的な責任はない。何と甘っちょろい、世界にいるのか。そう考えて、恭二は質問した。「先生、おれたち高校生に、社会的な責任はないのですか?」「ある。親の期待に応えること。しっかりと勉強して、やがて社会の役に立つようになること。そして、若い力を誰かのために活用することだ」「誰かって、誰のことですか?」「すべての人だよ。両親、兄弟、クラスメート。そして、近所の人や困っている人。これらの人を全部まとめて、社会は形成されている」廊下から、足音が聞こえた。詩織が顔を出す。「瀬口、藤野くんだ。彼女以外に関心を抱く人、関心のある現状を、どんどん増やさなければならない。きみたちは豊かだけど、世の中には困っている人がたくさんいる。底辺を見ろ。そこに暖かな手を、差し伸べられる人になることだ」「長島先生、こんにちは」 快活にあいさつをして入ってきた詩織の笑顔を、恭二はまぶしく見つめる。■町おこしの賦038:マシュマロみたい――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!14 恭二は詩織と一緒に、部室を出る。「長島先生と何を話していたの?」 さっそく、質問の矢が飛んでくる。恭二は頭のなかを整理してから、詩織に告げる。「詩織と一緒に、世の中に貢献できる何かを探しなさい、っていわれた」「私と恭二とで、どんな貢献ができるの?」「おれ一人では、何もできない。でも詩織と一緒なら、何かができる。でも二人だけでは、限界がある。だから、新聞部の仲間とやる。これをどんどん、広げていくわけだ」「何だか、よくわからない。でもみんなで力を合わせてやる、っていうところは理解できる」「自分たちでできないことは、誰かに委託する。それが選挙だよ。衆議院や参議院の選挙、この前あった生徒会長選挙。みんな委託する行為だったんだ」「恭二、だんだん賢くなってきた」「てへへへ。実はおれも、そう思っている」「恭二、きて!」 戸外に目をやり、詩織が叫んでいる。雨だ。詩織はかばんから折りたたみ傘を取り出し、恭二に聞いた。「恭二、傘持っていないの?」 うなずいてみせる。「天気予報は、雨っていっていたでしょう。ちっとも、賢くないんだから」 詩織の小さな傘に、潜りこむ。恭二は自分のかばんのなかにある、傘を手のひらで確認する。詩織の傘をかざしたとき、ひじがやわらかいものに触れた。マシュマロみたいだ、と思った。恭二はその弾力を楽しみながら、長島先生っていい人だなと思う。「底辺を見ろ」という言葉が、心の片隅をわしづかみしていた。 雨が強くなってきた。二人は小さな傘のなかで、二つの磁石のように密着した。恭二は傘を低く修正して、ひじの位置をマシュマロに固定した。高まった鼓動は、傘を叩く雨音で消された。冷たい雨だったが、恭二の心臓は熱く早鐘を打っている。 中学の卒業旅行の夜が、脳裏をよぎった。あの日恭二は、捕手から投げ返されるボールを受け取るみたいに、詩織の隆起を手のひらに包んだ。■町おこしの賦039:町長へのインタビュー――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!15南川愛華新聞部長は、藤野詩織と秋山可穂と一緒に、町議会の控え室にいる。議会が始まる前に、越川常太郎・標茶町町長にインタビューすることになっていた。前回のアポイントのときは急用が入ったとのことで、インタビューは実現しなかった。約束の時間に十五分ほど遅れて、ビア樽のような姿態の町長は、北村広報課長とともに現れた。「標茶高校新聞部のみなさん、ようこそ」 秘書にかばんを渡して、町長は重い体をソファに沈めるなり、笑ってみせた。遅れたことへの、釈明はない。「では、遠慮なく質問させていただきます」胸のポケットから紙片を取り出し、愛華の質問が始まった。詩織はペンを握り、可穂はカメラのレンズを向けた。「標茶町の人口ですが、人の数より牛の数の方が多いというのは事実でしょうか? 事実だとしたら、人間が減ったせいなのか、牛が増えたためなのか、その理由を教えてください」「いきなり突っこんでくるね。ここのところ冷害続きで、離農する人が増えたこと。逆に酪農は規模を拡大するところが増えたこと。この二つが、人と牛の数の逆転現象を生んだ要因だよ。いま町営住宅を移住希望者に開放するとか、流動人口を増やすとかの対策をしているんだけど……」「流動人口って何ですか?」「ごめん、定住していないけれど、観光や仕事などで訪れてくる人の数のことだ」「そのための手段が、会社の博物館と日本三大がっかり名所の、建設だったわけですね」「三大スポットは、現在四つ目を検討している」「二つの事業は、ともに大失敗だとの噂ですが……?」 それまで黙っていた北村広報課長は、顔色を変えて割って入った。「きみ、高校生の分際で、大人の世界を論評してはいけないよ」 餌に魚がかかったときの釣り糸のように、愛華の背筋が伸びる。愛華はすかさず、北村課長の放った言葉を釣り上げている。「高校生の分際、聞き捨てならない言葉です。なぜ高校生は、町の噂の真相に関心を持ってはいけないのですか?」 一瞬沈黙が訪れる。詩織の筆記音が大きくなり、可穂のシャッター音が響いた。「きみたちは、北海道立の高校生だよ。いわば税金で、保護されている身分だ。だから軽々しく大失敗の事業、などといってはいけない」「おっしゃっている意味が、わかりません。若者は口をつぐめという、理論の根拠を教えてください」 愛華は北村課長の目をしっかりととらえて、質問を加えた。「きみたちの本分は、しっかりと勉強すること。町政に口をはさまないでもらいたい。これからという事業を、大失敗などと軽々にいってもらっては困る」「では、いつごろに投資の効果があがるとお考えですか?」 北村の眉間に、しわが刻まれた。愛華はさらに背筋を伸ばした。越川町長は、手のひらを差しだし、愛華の質問を制した。そしていった。
2018年02月15日
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一気読み「町おこしの賦」041-050 町おこしの賦041:標高新聞の編集会議――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!17 夏休みを目前にして、新聞部部室はあわただしかった。壁に貼られた割りつけ用紙を前に、南川愛華は腕組みをしながらいった。「一面トップは、これでいいわね。でもこの見出しはダメ。だいたい僻地小学校という言葉は、差別用語じゃないの。僻地ではなく、辺地としなさい」 瀬口恭二はすかさず、見出しに朱を入れて変更する。「写真は生徒会長がノートや鉛筆をプレゼントしている方がよくない? この写真よりも、ずっとインパクトがあると思うけど」「ちょっと、入れ変えてみますね」秋山可穂は、新たな写真と貼り変える。「いいね、こっちにしましょう。では見出しと本文の検討をします。瀬口くん、見出しからゆっくりと朗読してください」「大見出し。辺地に響く児童の歓声と笑顔」「歓声は響くけど、笑顔は響かないよ」 愛華の鋭い指摘に、恭二は考えこんでしまう。「辺地に響く児童の歓声、だけでいいと思います」 藤野詩織が助け船を出す。「辺地ではなく、原野の方がいいと思います」可穂が続ける。僻地が辺地となり、それを原野に改めようとの提案である。結局、大見出しは詩織の提案したものに収まる。「小見出し。標高生徒会の第一回企画大成功」 恭二は壁に貼ってある、割りつけ用紙を読み上げる。我ながらよくできた見出しだ、と思っていた。「漢字ばかりで、ちょっと硬い感じがするけど」 「虹別小学校に咲いた善意の輪、なんてどうですか?」 愛華の投げかけに、詩織はすかさず新たな提案をする。「どこへ、を入れるのは、大正解だと思います。でも善意というのは、上から目線でいただけないと思います」「交流の輪、ではどうですか?」 恭二の提案を無視して、愛華はすかさず新たな単語をつまみだす。「さっき抹消した、笑顔をここに持ってくるのよ。虹別小学校に咲いた笑顔の輪。これならばっちりと決まっている。いいわね、これで決まり。では、本文。かなり手を入れておいたので、訂正されている原稿を読んでください」 渡された原稿は、真っ赤に染まっていた。恭二が初めて手がけた記事は、まるで別物になっていたのである。■町おこしの賦042:私たちにもいわせて――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!18 新聞部編集会議は続いている。開け放された窓から、せわしないセミの声が聞こえている。風はまったく入らない。「では二面の特集は、今回からシリーズをスタートさせる『私たちにもいわせて』です。今回は標茶町の二大プロジェクトの、現状を取り扱います。町長のインタビューは、私が行いました。時間がなくて、何も取材できませんでした。だから、インタビュー記事はなし。町長と面談、くらいに止めたいと思います。野口くんと田村さん、現地レポートの発表をお願いします」「ぼくは、『会社の博物館』へ行ってきました。日曜日の昼どきだというのに、お客さんはゼロ。館長の宮瀬さんに、インタビューをしました。入館者は現在、月平均で百人ほどです。研修室の利用は、月に五件ほどあるくらいです。売店の売り上げも低調で、いわば閑古鳥が鳴いている状態です」 野口猛の報告が終り、愛華は田村睦美へ報告を求めた。「私は『日本三大がっかり名所』をめぐってきました。ちょうど釧路から、婦人会の団体十二人がきていました。一緒に歩きましたが、みんな爆笑の連続で、結構受けていました。高知のはりまや橋で記念写真を撮り、長崎のオランダ坂で一休みして、札幌の時計台まで、だいたい一時間ほどで回れます。時計台の売店の、高知や長崎や札幌の名産品には、みなさん満足していました。食堂ではビールで乾杯したり、撮った写真を見せ合ったりと、にぎやかでした。ただみなさん、二度とこなくていいね、とおっしゃっていました。つまり、リピーターは望めないということです」「野口くん、田村さん、ありがとうございます。会社の博物館は行ったことがないんだけど、どんなふうになっているの?」「玄関を入ると、タイムレコーダーがあります。これが入館の記録です。一階には売店しかありません。二階は展示室で、古い会社の備品が展示されています。壁面は社員旅行の写真や朝礼の写真などが、展示されています。三階は企業に使っていただく、研修室になっています」「なんだか、つまらなそうだな」 報告を聞いて、恭二が口をはさんだ。「ねらいは企業の研修に、活用してもらうことにあるのね。でも、閑古鳥が鳴いている。瀬口くんも見たことがないのなら、今度の日曜日に見学しない? 記事は足で書け。百聞は一見にしかず。ほかに行って見たい人、いる?」 詩織が手を上げた。■町おこしの賦043:会社の博物館――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!19瀬口恭二たちは、「会社の博物館」の看板を確認して中へと進む。玄関脇の売店は、シャッターが閉ざされている。正面には青銅の胸像があり、その横に「受付」と書かれたブースがある。南川愛華は、胸像を指差して笑い出した。「町長だ。ビア樽みたいなお腹はみっともないので、胸から上だけにしたんだね」 藤野詩織もインタビューのときに、顔を見て知っている。それにしても、なぜ会社の博物館に、町長の胸像が設置されているのだろう。詩織には、その必然性が思い浮かばない。無人の受付には、トースターのような器械が置いてあった。「入場券を購入し、そのカードを表向きにして、この器械に挿入してください」と書かれたプレートがある。自動券売機で入館券を買い求め、指示どおりにする。カードには赤字で「2017・07・26・10:14」と刻印された。「何ですか? この数字は?」 詩織はカードを見ながら、首を傾げている。 「これはタイムレコーダーといって、社員は出退社時にこれを押さなければならなかったのよ」 愛華は笑いながら、解説する。まだ醜悪な胸像の残像から、抜け切っていないようだ。 二階への階段の前に、黒い電話が置いてある。「展示コーナーへ行く前に、この電話で三六番にご連絡ください」と書かれたプレートが添えられている。「藤野さん、電話をしてみて」 愛華にうなずいて見せた詩織は、たちまち電話の前で硬直してしまう。「この電話、ボタンがありません」「ダイヤルだよ、ダイヤル」 受話器を受け取って、恭二が代わりにダイヤルを回す。テープレコーダーの声が聞こえた。――会社の博物館にようこそ。それでは二階にご案内させていただきます。まずはエレベーターの方へお進みください。「愛華部長、おかしな貼り紙があります」詩織が指差したところに、一枚の紙片があった。――このエレベーターは、荷物専用のものです。あなたは、会社のお荷物ですか? 違いますよね。それならば、年功序列という階段を、着実に上ってください。「お荷物」と「年功序列」が、赤文字になっている。笑いながら、三人は階段へと向かう。そのとき玄関から、一人の男が入ってきた。■町おこしの賦044:ヒラメの水槽――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!20「きみたち、高校生かい? おじさん、ここの館長なんだ。勉強にきたとは、感心なことだね。ちょっとだけ、案内させてもらうよ」受け取った名刺を見ると、標茶町観光協会長・宮瀬哲伸とあった。彼は宮瀬建設の経営者であり、会社の博物館の館長を務めている。宮瀬は三人の返事を待たずに、スタスタと階段を上り始める。「長い階段ですね。何段あるのですか?」二階にたどり着いて、詩織は質問をした。恭二の息は、すでに上がっている。野球を離れてからの、運動不足が響いているようだ。「全部で三十六段だよ。それには、ちゃんとした意味があるんだけど、わかるかな?」「三十六に意味があるのですか? 恭二、わかる?」 わからない。恭二は詩織に、それを告げる。「労働基準法の第三十六条だよ。現在の労働環境に異議はありません、と従業員の代表が署名捺印するものを意識しているわけさ」「そのために、わざわざ螺旋(らせん)階段にしたのですか?」額の汗を拭い、愛華は独りごとのようにいった。壁にはセピア色の写真が、貼られている。朝の体操、朝礼、給料袋、社員旅行、腕抜きをした社員……。どれもこれも、愛華には興味のわかないものばかりである。足早に通り過ぎると、目の前に大きな水槽があった。「魚がいる」 のぞきこんだ詩織に、宮瀬館長は「ヒラメだよ」と教えた。詩織には、ヒラメの意味がわからない。「ヒラメって、上に目がついているだろう。だから上しか見えない。サラリーマンには、上しか見ていないヒラメがたくさんいる、というシャレだよ」 恭二の説明に、愛華のあきれたような声が割りこむ。「ここには、ゴマすり器がたくさんある。どこまでやるの、って感じだよね」 三人はあ然として、会社の博物館を出る。通りに出た瞬間に、愛華は大声で笑い出した。そしてこれでは、お客さんを呼べないと思う。こんなものに五千万円も投じたのかと考えると、情けなくなってくる。目的は企業研修の受け皿としての、施設建設だったはずである。粗末な陳列物を思い出し、愛華の心は痛んだ。 恭二は愛華の笑い声を耳にしながら、頭タオルの男の言葉を思い出していた。あんなものに五百円も払った。詐欺だよな。■町おこしの賦045:右、ひだり、みぎ、左――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!21 北海道にも、駆け足で通り過ぎる夏がきた。瀬口恭二、藤野詩織、猪熊勇太、南川理佐の四人は、塘路(とうろ)まで足を伸ばした。カヌーを体験しようとの約束だった。四人は申し合わせたように、ポロシャツとジーンズ姿で帽子をかぶっている。 恭二は詩織から受け取った弁当をリュックに背負い、額には玉の汗を光らせている。真夏の太陽は、容赦なく照りつけている。「詩織、弁当が重いよ」「恭二のために、早起きして一生懸命作ったんだから、がまんしなさい」 恭二の訴えを、詩織は笑ってたしなめた。 カヌー乗り場で三十分の研修を受けて、四人は支給されたオレンジ色の救命ジャケットを身につけた。首にタオルを巻いた麦わら帽子の男が、四人をカヌーに案内してくれた。四人は二艘のカヌーに分乗した。アメンボのような船艇は、ゆっくりと釧路湿原へと滑り出た。 教わったとおりに、オールを交互に水面にくぐらせる。右、ひだり、みぎ、左。オールはきしんだ音をたてて、動き続ける。岸辺の緑は、目の高さにあった。雑草の葉裏が陽光を受けて、虹色に光っている。水面からは、釧路湿原の腐葉土の香りが立ち上っている。「気持ちいいね、恭二」詩織は少し声を弾ませて、大きな深呼吸をした。並んでいた勇太たちのカヌーが、先頭にたった。オールさばきはスムーズだった。「勇太、さっきの係の人、穴吹健二くんだったよ」 勇太にはその名前に心あたりがない。「穴吹って誰?」と質問をする。「通学バスでいつも一緒の、農業科の同級生よ」と理佐が答えた。「偉いな。アルバイトしているんだ」と勇太はいった。「恭二、ほら丹頂鶴だよ」 もう一艘のカヌーで、詩織が叫んでいる。親子の丹頂鶴が、水辺で餌をついばんでいた。「ラッキーだな。釧路湿原の主を拝めた」 真夏の太陽に照らされ、つややかな白い身体が輝いている。頭頂の赤が神々(こうごう)しい。前方から、折り返してくるカヌーがきた。二人は「お早うございます」と声をそろえる。先方からも、あいさつが返ってくる。水にくぐったオールは、大量の水玉を拾って跳ね上がる。先を行く勇太たちのカヌーからは、かなり離れてしまった。「恭二、少しスピードを出そうよ」 詩織がいった。「いいんだよ、のんびりやるのがいちばん」 恭二はペースを上げようとしない。二つのオールの速度が乱れて、船体が少し揺れた。「詩織、おれのペースに合わせなさい」 振り向いて、恭二は詩織をたしなめた。「今朝、愛華部長から電話があって、今日は菅谷さんのお見舞いに行くんだって」 詩織は、思い出したように告げた。「生徒会長がどうしたんだ?」「アルバイト先の建築現場で、怪我をしたようよ。重傷ではないみたいだけど」「生徒会長は、夏休みにアルバイトをしていたんだ」「菅谷さんはいつも、貧乏神と同居しているって、教室のみんなを笑わせている」 勇太と理佐のカヌーが、折り返してきた。すれ違いざま、理佐が声をかけた。「カヌー乗り場の係の人は標高(しべこう)の同級生だから、返却するときはていねいにやりなさいね」「誰?」「虹別の穴吹健二くん。農業科だよ」「わかった」 詩織は短く応じた。「夏休みにアルバイトか」 そうつぶやいた恭二の胸のなかに、ひとつの言葉が浮かんできた。そうなんだよな、怪我をした菅谷や今聞いた穴吹にとって、アルバイトをすることが「普通なんだ」。恭二は南川校長がいっていた「ここの児童は働くことも麦だけの弁当も、普通のことなんだ」という言葉を思い出している。 オールをこぐ手に力が入った。「恭二、呼吸を合わせなきゃ危ないわ」 ■町おこしの賦046:失意のなか――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!22 穴吹健二は、失意のなかにいた。密かに思いを寄せていた南川理佐の登場は、あまりにも残酷だった。遠ざかっていく理佐の背中を目で追い、健二は唾を吐き捨てる。おれが働いているときに、男とたわむれやがって。こみあげてくる怒りが収まらない。早朝に牛舎の掃除をして、麦だけの飯を食い、アルバイト先へと駆けつける。夏休みは、学資を稼ぐために存在している。 健二は、生まれ落ちた家のことを思う。育った環境のことを思う。みじめな思いのなかで、魔がさした。健二は預かり荷物のなかの、理佐のピンクのリュックに手を伸ばす。震える手でチャックを開ける。 化粧ポーチや菓子袋があった。化粧ポーチを開ける。手鏡や化粧品と混じって、生理ナプキンが二つある。健二は一つを抜き取り、ポケットに入れる。呼吸が乱れ、首筋に汗が噴き出す。 釧路川のゆるやかな流れをさかのぼり、カヌーは岸辺へとたどりつく。穴吹健二が待ち構えていて、カヌーを引き寄せる。勇太が飛び降り、理佐に手を差し伸べる。よろけた理佐は、勇太の胸のなかに倒れこむ。 健二は顔を上げない。「ありがとう。楽しかったわ」 理佐の快活な声が、汗のにじんだ健二の背中に向けられる。汗だらけで働いている姿を見られたことが、健二にはみじめに思えた。健二は無言で、預かった荷物を二人に手渡す。「ありがとう」と、また理佐がいった。恭二と詩織のカヌーが、やってきた。二人は手を振り、それを迎えた。健二は足早に近寄り、カヌーを引き寄せた。「ありがとう。楽しかったわ」 詩織は目を輝かせて、カヌーを抑えている健二に告げた。 二組の姿が消えるのを、健二はいらいらして待った。「楽しかったね」と、女の声が遠のいていく。健二はカヌーのとも綱を固定し、鋭い視線を二組の背中に向けた。喉が渇いていた。水道の蛇口を大きくひねって、直接口をつけた。水はぬるかった。健二はそれをすくって、頭から降りかけた。小さくなった背中から、大きな笑い声が響いた。健二はポケットから、たばこを取り出し火をつけた。足下に落ちていた小枝を拾う。くわえたばこのまま、健二は力任せに小枝を折る。バキッと乾いた音がした。■町おこしの賦047:標高新聞のゆくえ――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!23九月になった。学校は二学期を迎えている。越川常太郎町長の部屋に、弟の多衣良(たいら)が飛びこんできた。手には、「標高新聞」最新号が握られている。「兄貴、これ見たか?」 多衣良は町長室の机の上に、新聞を放り投げた。「読んだ。新聞部の顧問と山際校長に、きてもらうことになっている」「ガキどもが、とんでもないことをしでかしてくれた。許さん!」 新聞には、大きな活字が躍っている。――閑古鳥の鳴き声が聞こえる、会社の博物館――日本三大がっかり名所で、さらにがっかり「学校は検閲もなしに、こんな記事を許しているのか」多衣良は、日本三大がっかり名所の施工責任者である。怒りは収まりそうにない。町長は受話器を取り、北村広報課長を呼ぶように秘書に伝えた。町長室に入るなり、北村は「標高新聞」に目をやり、呼ばれた理由を察した。「さっき、校長から連絡がありました。本日の緊急職員会議で、全数回収の方向で動くとのことです」「当然だ。こんな悪質な新聞は回収させなければならない。そのうえで、新聞部は活動停止にさせる必要がある」「新聞部の部長は、この前町長のインタビューにきた子です。あのとき、物騒な思想の持ち主だと思いました」 北村は怒りの収まらない多衣良に向けて、同調するように話した。多衣良は大きな音をたてて、ソファに腰を下ろした。北村も向いの席に座った。そしてメモを膝のうえに広げて、説明を始めた。「越川翔くんと生徒会長を争ったやつは、町の活性化のために貢献すると公約しているそうです。こいつは四年間も、飯場暮らしをしています。アカに染まった貧乏人だとのことです。おまけに新聞部長は、札幌からの転校生です。父親は虹別小学校の校長をしています。さらに、新聞部顧問の長島は、新任教師でアカです。この三人が結託して、生徒を扇動しはじめています」■町おこしの賦048:緊急職員会議――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!24そのころ、標茶高校の職員室も、大騒ぎだった。先ほどの緊急職員会議で、標高新聞最新号の全数回収が決められたのである。糾弾の急先鋒は、新聞部前任顧問の柳田だった。「高校生は、勉学に励めばいい。事件記者のような糾弾記事を許した、長島先生の責任を問う」 柳田は激しい口調で、長島に弁解の余地を与えなかった。全数回収は長島を除く、圧倒的多数で決議された。長島は部長になったばかりの、南川愛華の純粋な気持ちを考えた。あの記事のどこが、不適切なのか。事実をそのまま書いて、私たちも標茶町の活性化のために、力を注ぐべきだと結んである。元々は議会のロートル石頭たちが、まいた火種である。愛華たちはそこに、若い息を吹きかけた。ダメだなんて、一行も書いていない。私たちも力を合わせて、観光客が集まる場所にしたいとしか書いていないのだ。 標高新聞の回収とともに、新聞部には無期限活動禁止処分が下された。長島顧問からの説明を聞いて、みんな泣いていた。「私たちの記事のどこが、謹慎にあたるのか、理解できません」二年生の田村睦美は目を真っ赤にして、みんなの気持ちを代弁した。長島は腕組みをしたまま、黙りこんでいる。「おそらく、高校生は町政に口を出すな、というのが校長の見識だと思う。でも私たちには、それを考える自由がある。校則でビラ配りとか政治集会は駄目とあるけれど、標高新聞はビラじゃないし、編集会議は政治集会ではない」二年生の野口猛は口をとんがらせ、テーブルを叩いていった。「前の部長だった佐々木さんがよくいっていたけど、批判記事は書くなということが、今回の処分の原因だと思う」「おれたちの記事の、どこが批判なんですか?」 野口猛の言葉に、田村睦美はすばやい反応をみせる。「たとえば私の記事の閑古鳥とか、野口くんのさらにがっかり、などの表現は、そう感じさせてしまうかもしれません」 それまで黙っていた長島顧問が立ち上がった。「きみたちには、これっぽっちの責任もない。私の検閲が、甘かったんだ。だからきみたちは、謹慎が解けたら、またいい記事を書くことだ」「町の活性化のために、私たちは何ができるのか。そう問いかける新聞にしたかった。でも、もう終り」 愛華はそういって、床に崩れ落ちてしまった。詩織は駆け寄り、抱き起こした。「おれたちは、町を元気にしたい。そんな思いで新聞を作った。あの新聞のどこが、悪いんだ」 恭二も、テーブルに突っ伏した。室内には嗚咽(おえつ)だけが響いた。恭二は長島先生がいっていた、「社会貢献」という言葉を思い出している。「ぼくたちは、標茶を活気のある町にしたい。その思いを新聞で発信した。そのどこが、まずいのかがまったくわからない」野口猛は目を真っ赤にして、天を仰いだ。「悔しい!」田村睦美は、絶叫して部室を出て行った。 睦美と入れ替わるように、生徒会長の菅谷幸史郎が飛びこんできた。「とんでもないことになった。絶対にこんな暴挙を、許してはいけない」 幸史郎は怒りの形相で、口早に告げた。誰も反応しない。「みんな、泣き寝入りをしてはダメだ。闘おう」 誰も反応しない。「菅谷さん、ありがとう。でも、私たちのこと、そっとしておいてくれない」 愛華は涙顔で、幸史郎に懇願した。「おれは許さない」 幸史郎は、きっぱりとそう宣言した。翌朝、菅谷幸史郎が率いる生徒会は、いち早く新聞回収反対の声明を発信した。校庭でビラ配りをしていた菅谷は、校則違反として自宅謹慎をいい渡された。■町おこしの賦049:退部届け――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!25 翌日の部室は、お通夜のような雰囲気だった。「誰もいなくなっちゃったね。みんな退部届けを出したんだって」 がらんとした部室を見渡し、詩織は恭二にいった。「残ったのは、可穂とおれたちだけ」「愛華部長まで、退部届けを出した」「謹慎はいつ解けるのかな?」「謹慎が解けても、余計なことは書くなってことだ。やってられないよ」 そう嘆いた恭二に、可穂は深刻な顔になって告げた。「長島先生と校長は、町長に呼び出されたんだって」「回収に、町もからんでいたのか?」「町長の命令だって。お母さんがそういっていた」 部室の引き戸が、乱暴に開いた。前新聞部顧問の柳田が腕組みをして、にらみつけている。「きみたち新聞部は、謹慎処分中だぞ。部室への出入りはいかん」 それだけをいって、柳田はきびすを返した。あ然として見送る恭二に、詩織が声をかけた。「恭二、きて!」振り向くと、大量の原稿用紙と割りつけ用紙を抱えている。「これ、うちへ持って行って、とりあえず三人だけで編集会議をやろうよ」 放り出そうとした縄に、また力がこもった。恭二はうなずき、ちょっとだけ縄を引いた。■町おこしの賦050:個人的にやろう――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!26 標高新聞の全数回収から、一週間が経過した。放課後、恭二はいつものように部室に顔を出す。謹慎は、新聞を発行する行為に向けてのものだ。部室への出入りは、構うものか。これが恭二の下した結論だった。部室には藤野詩織と秋山可穂がいた。「新聞部を解散させるって、柳田先生は息巻いているらしい」 詩織は窓外に目をやりながら、まるで独り言のようにつぶやく。壁には次号の、割りつけ用紙が貼られている。何も書かれていない。窓から吹きこむ風に、紙片の端が神経質そうに揺れている。「標高新聞のの使命は、町の活性化のために寄与することだ。不人気なスポットに焦点をあてて、自分たちで何ができるのかを考えてもらう。その問題提起のどこが悪い」 詩織と並んで窓辺に立ち、恭二は外を向いたまま怒っている。校庭では野球部が、シートノック練習をしている。捕手の位置には、猪熊勇太の姿があった。「標高新聞はもうダメかもしれない」 詩織は白球を目で追いながら、ポツリといった。野球を断念したときのことを思い出し、恭二は南川愛華の胸中を探ってみる。そしてふと浮かび上がった、ひらめきをつかまえる。「詩織、おれたちで個人的なマガジンを発行しないか? 続けるんだよ。標茶町の未来について、発信しよう。個人的なレベルでやるなら、誰も文句はいえない」「マガジンか、名案かもしれないね」「明日にも、愛華部長に提案してみよう。標茶町の未来を考える、高校生の広場みたいなタイトルで、大人まで巻きこんだものにしたい」 詩織の横に、いつの間にか可穂の姿があった。「来週から、菅谷さん戻ってくるらしい」「菅谷さんにも、参加してもらえるといいね」 詩織は愛華と菅谷の顔を交互に思い浮かべ、うつろな目でつぶやいた。新聞部という荷車は、今急な坂道に放置されている。このままでは、転げ落ちるしかない。荷車の先頭を引いていた上級生は、みんな抜けてしまった。それを恭二は、引上げようとしている。いつも荷車の後ろにいて、手加減していた恭二は、渾身の力でそれを引き始めたのだ。 詩織は、そんな恭二を頼もしく思う。この騒動で恭二に本気モードに、火がついたのかもしれない。詩織はそんな恭二を愛おしく思う。
2018年02月15日
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妙に知180215:ガラケーってどんな意味?友人から「まだガラケーを使ってる」とばかにされました。以前はスマホでしたが、使いこなせなくて戻した携帯です。「ガラケー」と蔑まれた私の携帯。ところで「ガラ」は、ガラクタの意味なのだろうか。調べてみました。――日本独自の進化を遂げた日本製の携帯電話を、他の島との接触が無かったために独自の進化を遂げたガラパゴス諸島の生物となぞらえた用語。ガラケーの意味を知らなかったのは、私だけなのでしょうか。山本藤光2018.02.15
2018年02月15日
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町おこし303:おあしすの里への入居――『町おこしの賦』第9部:おあしすの里27 おあしすの里への、入居がはじまった。加納雪子は一階の団らん室で、搬送される荷物と居室番号を照合し、「廊下の前に置くように」指図をしている。隣りには、瀬口恭二・詩織夫妻と村田善治が座っている。 ほとんどの入居者には、息子や娘たちが同伴していた。おあしすの里の来客室では足りなくて、藤野温泉ホテルや満月家ホテルなどの手配は、恭二たちが担当した。「ここが団らん室だね。卓球台があって、掘りごたつの畳もある。おじいちゃん、ここで囲碁ができるよ」 四十くらいの女性は、室内を見回しながら語りかけている。「うん。囲碁友だちができるのが楽しみだ」「すぐにできるわよ。おじいちゃん、こっちが保健室だよ」「世話にはなりたくないけど、安心だよな」 詩織は、村田と談笑している。「村田さんが、一番乗りでしたね」「町長から、おあしすの里の会長を命じられて、感激したからね。私でお役に立つならと思って」「町長は入居前に、会長をお願いしたんですか?」「そう。情熱にあふれた手紙だった」 詩織は、幸史郎の細やかな気配りに感服した。 恭二は「これからみんなで食事をしたいんだけど」などの質問に、応対している。おあしすの里は、老人ホームではない。ここから何かを発信するような、仕組みが必要だな、と思う。村田善治は、幸史郎が履歴書の山から見出した逸材に違いなかった。恭二は入居者に向ける彼のやさしい眼差しを見て、この人なら立派にやってくれると思った。
2018年02月15日
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一気読み「町おこしの賦」141-150 町おこし141:恭二、きて!――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻18 自室のベッドに寝転びながら、恭二は詩織に「会いたい」とメールを入れた。返信は、期待していなかった。詩織は今おれに会いたくない、という確信があった。予想外の返信は、すぐにきた。――会いたい。詩織。 藤野温泉ホテルのロビーで待っていると、詩織が手を振りながらやってきた。紺色のスーツ姿で、首には黄色いスカーフが蝶のように結んである。「恭二、久しぶり。北大合格おめでとう」 座るなり、大きな瞳に射すくめられた。心臓の鼓動が、少し乱れる。どこも変わっていなかった。昔のままの詩織だった。唯一違っているのは、化粧をしているくらいである。「ありがとう。やっと自由の身になった」「ご両親、喜んでいたでしょう」「うん、立派に親孝行ができた」「恭二、ものすごく頑張ったんだね」 きみのお陰で頑張れた、という言葉を恭二は飲みこむ。恭二は詩織の面影を封印し、それを復讐心という力に変えていた。復讐心ほど、エネルギーが高まる感情はない。恭二はそれを使った。団体が入ってきて、ロビーは賑やかになった。詩織は立ち上がり、呼んだ。「恭二、きて!」 詩織は恭二を、自分の部屋へと誘導した。恭二には椅子を勧め、詩織はベッドに腰をかけた。別れた日と同じ、シチュエーションである。「私ね、結婚して、すぐに離婚した。聞いているでしょう」「昨日、コウちゃんから聞いた」「ばかだと思うでしょう。十八で結婚し、十八でバツイチになったんだから」「失敗は、誰にでもある。失敗したら、やり直せばいいだけじゃないか」「恭二も一度は、大学受験に失敗した。そしてやり直して、すごく頑張ったんだね」 詩織は笑った。左頬に、えくぼが浮かんだ。「こんな小さな田舎だから、最初のころは哀れむような人の視線が、気になっていた。どの目もみんな離婚のことを、笑っているように見えたんだ。でもやっと、乗り越えた。本当はね、恭二と会いたくなかった。恭二って、そんな目の代表格だから」「プロポーズされているんだ、と詩織がいった日に、おれはダメだといわなければならなかった。詩織はおれのものだ、というべきだった」 詩織は笑った。そしていった。「すてきな展開ね。そういわれたら、私、どうしたんだろうな」「転んだら起きる」「起きたら走る」「走ったら転ぶ」「人生って、その繰り返しなんだね」「おれ、彼女ができた」「よかったわね。恭二の彼女は、きっと幸せになれるよ」 詩織は立ち上がり、机の引き出しを開ける。そしてそっとつまみ上げたものを、恭二に差し示す。消しゴムだった。詩織と彫られた、消しゴムだった。「これね、千回押すと、願いごとがかなうって決めたの。こっちに戻ってきてから、手帳に毎日押している」 詩織の大きな瞳は、もう未来に向いていると確信できた。恭二は、会ってよかったと思った。そして詩織の願いごとって、なんだろうと思った。■町おこし142:理佐の笑顔――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻19 宮瀬幸史郎の運転で、虹別の南川家へ行った。理佐に、線香をあげるためだった。案内されて居間に入ると、以前辺地校訪問で面識のある父親がいた。そして愛華がいた。恭二を認めて、愛華は抱きついてきた。「瀬口くん、北大合格おめでとう」 荒々しい歓迎を受けてから、恭二は仏壇で手を合わせる。目の前に、あの笑顔があった。「わざわざきていただいて、ありがとう。理佐は喜んでいる」 父はそういって、頭を下げた。横から愛華が、父に説明をはじめた。「瀬口くんは、私と一緒で新聞部。菅谷くん、ごめん、宮瀬くんになったんだね。宮瀬くんは、生徒会長だったの。新聞部の記事が、最終的には議会で承認されて、現在のウォーキング・ラリーとして花開いたのよ。宮瀬くんはね、そのために議会で演説したんだから」「私も行ってみたが、年寄りにはしんどいコースだった。マイクロバスか何かで、巡回してもらいたいものだ」「お父さん。それでは、ウォーキング・ラリーにならないよ」 愛華の突っこみに、父は頭に手を置いて笑った。その背後に、理佐が描いたポスターが貼ってあった。それを見ながら恭二は、ずっと気になっていたことを質問した。「仏壇の理佐ちゃんの写真ですけど、どこで撮ったものですか?」「いろいろ探してみたわ。あの笑顔が一番すてきだった。隣りには猪熊くんがいたけど、もちろんカットさせてもらったの」 愛華の説明に、恭二はやっぱり幣舞橋の写真だと納得した。「あの写真のころ、理佐が最も幸せだったと思う。すてきな笑顔だよね」 恭二はうなずく。帰りにもう一度、仏壇で手を合わせる。そして心のなかで、ささやきかける。勇太はね、高校をちゃんと卒業したよ。お父さんの代わりに、立派な酪農家になるっていってくれた。写真の理佐は、笑っていた。 南川家を辞して、二人は標茶町へと戻っている。急に風が強くなり、灰色の空からは激しい雪が落ちてきた。雪は上から下へではなく、真横に降っている。そして下から上へと、激しく舞い上がる。一寸先が見えなくなった。前を走っていた車の、テールランプが消えた。強烈な地吹雪である。幸史郎はハンドルに覆い被さり、顔を前方に突き出す。シャッターを下ろされたように、前方には白い壁がそびえている。「恭二、窓を開けて、腕を突き出していてくれ。そっちの雪山に触れながら走れば安全だ」 運転席の方は、崖になっている。理佐が命を失った場所だ。スピードを落とし、車は慎重に進む。窓からは、うなりを上げて雪が入りこむ、ワイパーは水を払う犬の首のように、超高速で左右に動いている。しかしフロントガラスは、あっという間に雪で閉ざされてしまう。「もう少しだ」 幸史郎がいった。町へ入れば、地吹雪から解放される。次第に視界が開けてきた。幸史郎は深い息を吐き出し、「抜けた」と叫んだ。恭二は痺れた腕を引き抜き、窓を閉じた。腕にまとわりついた雪は、凍っていた。急に静寂がやってきた。恭二は前方に目をやり、幸史郎にいった。「こうちゃん、あんな地吹雪のなかで考えることって、生か死しかないんだね」「おれは、死は考えない。生きることだけだ」 恭二はこわばった腕を、さすりながら笑った。コインがくるくる回っている。どちらを向けて倒れるか。おれの考え方を、幸史郎は強く否定した。恭二は幸史郎に、たくましさを感じた。表向きのコインを、突き出された感じだった。■町おこし143:不幸の色眼鏡――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻20 恭二が居酒屋むらさきに入ると、すでにメンバーはそろっていた。宮瀬幸史郎、猪熊勇太、宮瀬可穂、宮瀬彩乃、南川愛華、そして藤野詩織がいた。「この前はわざわざ、理佐にお線香をあげにきてくれてありがとう」 入るなり愛華は、恭二に頭を下げた。「恭二、主役の席はここ」 幸史郎に手招きされて、恭二は上座へ座る。幸史郎が口を開く。「先日、恭二と、理佐ちゃんのところに、線香をあげに行ってきました。そのときにみんなが集る話をしたら、理佐を連れてってあげたいといわれました。それで本日は愛華さんに、理佐の写真を持ってきてもらいました」 愛華は上座の後ろにあるカウンターに、理佐の写真を置いた。「まずは改めて、瀬口さん、北大合格おめでとうございます。可穂さん、教育大合格おめでとうございます。理佐もきっと、喜んでいると思います。理佐はみなさんのことが、大好きでした。特に勇太くんのことがね。今日はみなさんの顔を見て、きっと笑っていることでしょう。ちっとも変わってないねって」 恭二と可穂への乾杯と理佐への献杯をして、いつものように思い思いのおしゃべりがはじまった。そしていつしか、発言の矛先は恭二に向かった。火をつけたのは、勇太だった。「恭二はおれが大学受験を断念して、家業を継いだので、おれがかわいそうだと思っている。それでおれに、遠慮している。おれはそんな、ちっぽけな人間ではない。おれを不幸なやつ、と決めこんでもらいたくない」 二の矢は、詩織が放った。「改めて、恭二、北大入学おめでとうございます。自分のことのように、うれしく思っています。白血病になって、そのときに面倒をみてくださった先生と結婚して、あまりの暴力に耐えられずに、すぐに離婚してしまいました。でも私の人生は、これからだと思っています。勇太くんもいっていましたが、恭二にひとつだけお願いがあります。自分だけの眼鏡であいつは不幸だ、と決めつけないでもらいたいということです。勇太くんは不幸ではありません。そして私も、失敗はしましたが、不幸ではありません。理佐だって遠くへ逝ってしまったけど、不幸ではありません。理佐はきっと……」 詩織は肩を揺すって、嗚咽(おえつ)してしまった。恭二は詩織の言葉に、胸がつまった。不幸の色眼鏡を外せ。詩織は、そういっている。心あたりが、あり過ぎた。愛華は、恭二の隣りに席を移した。そして恭二にいった。「瀬口くん、優しすぎるのかもしれない」 詩織と勇太は、額を寄せ合ってスマホをのぞいている。そして何度も、理佐の写真と見くらべている。恭二ものぞきこんで、勇太にいった。「勇太、あの理佐の写真、このときのじゃないか?」 恭二は知らないふりをして、ヒントを投げ与えた。「おれもそう思う。恭二が転送してくれたのと、同じ笑顔だって思っていた」「お二人さん、お年寄りの同窓会じゃないんだから、昔のことはもういいの」 おどけた詩織は、ビール瓶を持っていた。グラスに注いでもらいながら、恭二は詩織に聞いた。「今度帰省したら、また会ってくれる?」「もちろんよ、恭二と私は、大切なお友だちなんだから」「恭二、詩織さんはおれが見守っているから、安心して勉強しな」 勇太は笑いながら、そういった。標茶には、そこに残った人なりの人生がある。そして自分には、札幌での新たな人生がある。恭二は肩に乗っていた重いものが、するすると滑り落ちるのを感じた。「恭二、きて!」 部屋の隅でごそごそやっていた、詩織が呼んでいる。カバンから黄色い手帳を取り出して、差し出している。のぞきこんだ。本日の日付のところに、詩織スタップが押されていた。「あと九百二十三回、カウントダウンの数字も書いておいたの。ゼロになったら、きっとメールするね。恭二、私シアワセって」 ■町おこし144:外観ではない――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻21 恭二は昼休み時間を狙って、久しぶりに高校まで足を運んだ。新聞部顧問であり三年E組の担任だった、長島太郎先生に会うためである。恭二は三年間通い続けた道を、ゆっくりと歩いた。いつも傍らには、勇太や詩織がいた。オランダ坂へ差しかかって上を見たとき、人影が動いた。恭二は一瞬、詩織だと思った。しかし坂を上ってみると、誰もいなかった。札幌時計台と標茶中学校を横目に見ながら、恭二は少しずつ気持ちが高ぶるのを感じた。職員室には、長島先生の姿があった。近寄る恭二を目ざとく見つけて、「おお、北大生のお出ましだ」と大きな声を上げた。職員室の先生たちは、一斉に恭二に視線を注いだ。「先生、ご報告にあがりました」恭二に椅子を勧め、長島先生は右手を差し伸べた。「よかったな。合格おめでとう」「ありがとうございます」「瀬口は新聞にエネルギーを注いだので、現役では難しかったけど、あのエネルギーを受験勉強に費やしていたら、恐らく現役合格していたと思う」「新聞部は、楽しかったですから」「私は標高新聞が、標茶を変えたと信じている。南川や瀬口はよく頑張った」「久しぶりに帰ってきましたが、標茶は何も変わっていません。むしろさらに、寂れたという感じでした」「瀬口、外観だけで、判断してはいけない。そこに暮らす人が満足しているか否かに、目を向けるべきなんだ。下ろされた、シャッターの数ではない。もっと踏みこめば、人の心はのぞくことができるんだよ。私は町民の満足度は、非常に上がってきていると判断している」 長島先生と話をすると、いつも何かが心に刺さる。もっと踏みこめという戒めが、心のなかでむくむくと立ち上がってきた。 高校を辞して、恭二は急に標茶町霊園へ行ってみようと思った。ここには、瀬口家の先祖代々の墓がある。線香を持参しなかったことを悔やみながら、恭二は長い坂を上る。 額から汗が、噴き出してきた。やっとの思いで、霊園に着く。恭二は墓の前で、両手を合わせた。北大に合格しました。心のなかで、先祖にそう報告した。それから石段を上り、霊園の高台に立った。そこからは、標茶町の全景が見渡せた。この広大な大地の上には、わずかに八千人弱の人がいるだけである。凍てついた風景を見ながら、いつかこの町に戻ってくることになるのだろうか、と恭二は思う。■町おこし145:標茶町の歴史――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻22 霊園の高台に立って、恭二は授業で習った標茶町の歴史を思い起こしている。千八百八十五(明治十八)年に、この町に釧路集治監が開設された。網走刑務所の前身地は、標茶町なのである。町には二千人の囚人たちが、収容されていた。彼らは釧路と網走間の道路を建設し、川湯の硫黄山で硫黄の採掘に従事させられた。硫黄山から標茶町までの線路も、彼らが建設した。採掘された硫黄は標茶まで運ばれ、今度は船に積み替えられる。標茶からは釧路川に浮かべた船で釧路まで運ばれるのである。このころの標茶は、釧路と匹敵するほど繁栄していた。千九百一(明治三十四)年に、釧路集治監は廃止される。その後、標茶町はたちまち寂れてしまう。しかし七年後の千九百八(明治四十一)年に、軍馬補充部が開設される。それにより標茶は、再び息を吹き返したのである。 標茶高校は囚人たちが収容されていた、監獄と軍馬補充部の広大な跡地に建てられた。標茶高校の入り口には、釧路集治監の本館だけが残されていた。それは郷土資料館となって、現在は塘路に移設されている。 囚人たちと馬が消えた町は、たちまち活力を失ってしまった。眼下に広がる町並みを眺め、恭二はこの町のために、何かをしたいと強烈に思った。■町おこし146:ライフワーク――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻23標茶霊園の高台に立った翌日から、恭二は薬学の勉強以外に夢中になれる、何かを模索しはじめている。大学生になって、おれは何をなすべきなのだろう。そこまで考えて恭二は、幸史郎にも詩織にも勇太にも、それがないことに気がついた。いやそれどころか、うちの両親だって同じことではないか。人生って勉強や仕事以外の何かが、潤っているか否かが、分岐点のように思えた。 近所の書店で、「ライフワーク」という本を買ってくる。ライフワークとは、生涯楽しみながら続けられるもの。しかも、社会貢献できるものでなければならない。思いついたときに書き留めている「笑話(しょうわ)の時代」は、ライフワークといえるだろうか。笑いを提供するのだから、わずかながら当確かもしれない。でも、と恭二は考える。そして「おあしす」三階の、各種教室を思い浮かべる。自分が楽しみながら継続した何かは、やがて子どもたちに指導できるものであるべきだろう。ふと留美の言葉が浮かんできた。勉強しながら小説を書く。そんな世界を、おれも持たなければならない。恭二は読んでいたライフワークの本を閉じ、時間はたっぷりとできたんだと思い直した。焦ることはない。突然、恭二は日記を書こうと思った。決めたこと、思いついたこと、悩んだことなどを赤裸々につづる。日記は新たなスタートに、最もふさわしいものかもしれない。恭二は青山文具店まで足を運び、一番厚いノートを一冊買ってきた。いろいろ迷った末、恭二はタイトルを「知だらけの学習塾」と書いた。何だか血生臭いタイトルではあったが、恭二は結構ネーミングに満足していた。■町おこし147:穴吹家の前進――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻24 午後六時。穴吹家の夕食時間である。穴吹健一と老いた両親と双子の妹が、食卓を囲んでいる。 穴吹家の食卓は、以前よりも少しだけ豊かになっている。標茶高校を卒業してから、健一は飼育する牛の数を増やし、牛舎の隣りで養鶏業もはじめた。事業の拡大は、順調に進んでいる。健一の弟・健二は、釧路の水産加工所で働いている。健二からは、毎月仕送りがある。「お兄ちゃん、白米が入ったご飯はおいしいね」 茜は母におかわりを催促しながら、にっこりと笑ってみせた。妹の萌は卵焼きに箸を伸ばして、「毎日お誕生日なら、白いご飯が食べられるのにね」とおどけていった。麦飯だった穴吹家のご飯は、白米と麦が半々になっていた。双子の姉妹・茜と萌は、標茶中学校に通っている。二人は始発のバスで標茶へ向かい、鶏卵の配達をしている。「うちの卵、黄身が大きくて、温泉客にも評判なんだって」 姉の茜は、自慢げに話した。「藤野温泉ホテルだけじゃなく、ほかにも売ったらいいのに」 妹の萌は、真剣な視線を健一に向けた。「おれもそうしたいんだけど、牛の世話でめいっぱいなんだ」「私たちが鶏の世話を手伝う。だから鶏を増やそうよ」「おまえたちに、きちんと世話ができるのかい?」 母はいぶかしげに質問した。「手伝う。新しい服だってほしいし、毎日白いご飯も食べたい」 茜は、きっぱりと宣言した。「母さん、二人にやらせてみよう。自分たちで稼いだお金は、おまえたちの好きなことに使えばいい」「本当、うれしい。萌と責任を持って、鶏の世話をします」 父は黙って、酒を飲んでいる。ときどき、ビチャという音がする。二人の妹たちを見ながら健一は、二人を高校へ進学させてやりたい、と熱い思いを固めている。 健一が開設したネット書店「のほほんのほんのほん」は、わずかに十冊しか出品できないでいる。もちろん注文はない。■町おこし148:知だらけの学習塾――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻25 北大の入学式に備え、恭二は明日札幌へ発つ。さっき浅川留美から、電話があった。札幌行き電車の指定席が、取れたとのことである。明日釧路駅で、待ち合わせることにしている。 恭二は父の晩酌につき合い、焼酎の水割りを飲んでいる。母は店番である。「今年から、ウォーキング・ラリーは、六月開催に早めるようだ」「町のイベントとして、それだけというのは寂しいな。一年間を通して、観光客のあふれる町にしたいよね」「隣りの弟子屈や川湯はあんなに賑わっているのに、この町は死んでいる」「標茶にはモール温泉があるのに、もったいない話だよね」「地域おこしで、あんなムダなものをこさえて、ここの行政はずれている」「ウォーキング・ラリーは、そのムダなものを活かすために考えたものだよ。つまり負の後追い」「駅前商店街は、次々とシャッターを下ろしている。うちの店も、客の数は減っている」「おれと兄貴が卒業するまでは、頼むよ。国立といっても、医学部と薬学部はお金がかかるんだから」「心配するな。おまえは、一生懸命勉強していればいい」 恭二は空になった父のグラスに、氷と焼酎を注ぐ。そして「おやすみなさい」といって、立ち上がる。部屋へ入って、生まれたての「知だらけの学習塾」ノートを開く。恭二は自分の思いを、頭のなかでまとめた。そしておもむろに書きはじめた。――三月二十六日。本日から、ライフワーク探しの旅に出る。勉強と両立させて、一生涯楽しみながら続けられる、何か。しかもそれは、やがて標茶町の発展に貢献できること。現状では、おぼろげな影さえ認められない。■149:ルームシェア――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻26 瀬口恭二と浅川留美は、札幌行きの電車に乗りこんだ。これまで住んでいたアパートを引き払い、新しい住まいを探さなければならない。電車が釧路駅を離れるのを待ち構えていたように、留美はいった。「私、彼氏と別れてきたの」 幼なじみで、高校卒業まで交際していた。彼は釧路教育大の二年生だったが、留美が浪人中に新しい彼女ができた。だから別れるといっても、たいした意味はない。でもケジメって大切でしょう。そんな話を留美は、少し照れくさそうに語った。恭二も詩織のことを、包み隠さず留美に語った。「これで二人の過去とは、決別だね。ここからは、恭二と二人で歩く。異存ないわよね」 異存などなかった。みそぎを終えた二人は、晴れやかな表情で見つめ合った。留美の唇が伸びてきた。恭二はしっかりと、それを受け入れた。 電車は左の車窓に太平洋をとらえて、希望に満ちた明日へと走り続ける。「私ね、高校時代に、小説を書いたことがあるの。それを『文学界』という文芸誌に応募したら、最終選考まで残ったの。結局、入選はしなかったんだけど。うんと文学を学んで、また小説を書きたい」留美は、自分の夢を熱く語った。恭二は何かを伝えたい、と思った。しかし伝えるべき何かが、まだないことを思い知らされた。暗い調剤室にたたずむ、自分の姿が目に浮かんだ。「おれ、今のところ何にもない。これから何をすべきか探すことにする」「応援するわ、恭二。でも笑い話作家には、なれると思う」 札幌へ着いてすぐに、留美のアパートに向かった。大家立ち合いでの検査をすませ、敷金などの精算をしてもらった。留美は必要なものを段ボール二個に納め、残りをすべて大家さんに処分してもらうように依頼をした。机も布団も茶碗も、すべて置いて行くことにしたのである。浪人生ばかりが入る、アパートである。大家さんは、歓迎してくれた。今度は、恭二のアパートへ向かった。留美の二個の段ボールは、恭二の部屋へ移された。三月分の家賃は前払いしているので、まだ居住可能である。二人は北大近くの、物件を探すことにしていた。「この前はここで、正月を迎えたんだったね」「留美は、ホームレスみたいだった」 二人で笑った。「恭二、別々に住まいを借りるのはもったいないから、ルームシェアにしようか?」 小さな台所で、インスタントコーヒーを入れながら、留美は背中を向けたままいった。「おれも考えていた。二間あるマンションを借りて、部屋は不干渉領域にする。いいね、留美さえよければ、おれは大歓迎だ」「料理は交代制だよ。それと同棲とは違うんだから、夜這いはダメ」「夜這いなんかしない。その気になったら、ちゃんと伝えるさ」 その夜、二人は一つのベッドに潜りこんだ。「私、汗臭くない?」「いい匂いだ」「お風呂のついているところが、絶対条件だね」「それとエアコンは、絶対だな。これでは寒くて、留美を裸にすることができない」 恭二は留美の腰に手を回し、細身の身体を引き寄せた。「電気消して」と留美はいった。■150:買い物ゲーム――『町おこしの賦』第5部:クレオパトラの鼻27 翌日二人は、北大の周辺マンションを見て回った。三件目に、手ごろな物件が見つかった。風呂とトイレが別になっており、二つの部屋はともに北に面していた。しかしリビングは南向きで、日当たりがよかった。「部屋は寝るだけだから、暗くても構わない。恭二、リビングが明るくて、気持ちがいいよ」 マンションは、恭二の名義で賃貸契約をした。本日から入居しても、構わないといわれた。二人は恭二のアパートに戻り、荷物の整理をした。明朝、引っ越すことに決めた。 大型のタクシーは、定刻に恭二のアパート前に停まった。二人は四つの段ボールを運びこんだ。冬だというのに、額から汗が噴き出した。部屋の鍵を開け段ボールを運び入れて、二人は床に座りこんでしまった。「留美の段ボール重過ぎる。腕が抜けるかと思ったよ。何が入っているの?」「全部、本。予備校の教材は捨てたので、小説ばっかり」「ここがおれたちの、新しいお城か」 恭二はがらんとした部屋を見回し、感慨深げにいった。「では恭二、買い物リストを作成するよ。扉を開ける場面から、実演してみよう」 二人はいったん外に出る。「下の郵便ボックスとここに、名前を入れなければならない。二人の名字だけを並べよう」 扉の上のカードケースを指差して、恭二は最初の備品を確認する。留美は、すかさずメモを取る。ドアを開けて、中へと入る。「玄関マット、スリッパ二つ」「お客さん用がいるよ」「じゃあ四つ」「食卓、椅子四個つき、電気、エアコン、テレビ、掃除機、ゴミ箱」 恭二は窓へと目を転じる。「カーテン」キッチンへと回る。「冷蔵庫、鍋、フライパン、炊飯器、トースター、電子レンジ、コーヒーメーカー、コーヒーカップ、包丁、茶碗、箸、まな板、コップ、スプーン」 今度は奥の部屋へと移動する。「ベッドに布団と枕。それにシーツと毛布。お客さん用もいる?」「恭二、そんなに買う予算がない」「でも夢だから、続けよう」今度は洗面所をのぞく。「タオル、バスタオル、足ふきマット、洗面器、石けん、シャンプー、ヘアドライヤー、櫛、ヘアリキッド、歯ブラシと歯磨き粉、それにトイレットペーパー」「恭二、洗濯機、忘れてる」 楽しい買い物ゲームだった。恭二はふっと息を吐き出し、「優先順位をつけるべきだね」といった。留美も手元のメモをのぞきこんで、大きなため息をついている。リビングの外は、小さなベランダになっている。恭二は素足で出て、「ものほしざお」と告げる。「ハンガーもいるわね」と留美はメモを取りながらいう。食卓テーブルとイス四脚、布団一組、枕二個。カーテン、リビングの電気、鍋とフライパン、トースター、炊飯器、食器と箸とコップ。最初に搬入したのは、それだけだった。二人の仕送りから家賃を払い、食事をして、学費を払うと、我慢せざるをえなかった。調度品にあふれた生活は、夢物語に終わった。「アルバイトをしなければ、やってゆけないね」 留美は食卓の椅子に腰かけて、宙を見上げる。「私、机と椅子とスタンドと本棚は必要だな」「留美の方が仕送りは多いんだから、買いなよ。おれはここで勉強する」 食卓のテーブルを叩いて、恭二はいった。「二人の共有財産は、この箱に入れることにしよう。そして欲しいものメモも、入れておくの」「明日、中古品を売っている店へ行ってみない? 机や椅子電気やスタンドなら、格安で買えると思う」 二人は一緒に風呂に入り、真新しい布団に潜りこんだ。ふわふわの布団は、二人を温かく迎えてくれた。いよいよ新しい生活がはじまる。恭二はしっかりと、留美を引き寄せた。「恭二、やっぱり布団はもう一組必要だね。このままじゃあ、同棲と同じになっちゃう」
2018年02月14日
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