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八木哲郎

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2009/10/27
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カテゴリ: カテゴリ未分類
25日の日曜日は富岡製糸場を見学する。観光バスのルートで結構な人が来ていた。

この工場は明治3年に着工され、1年あまりで完成し、明治5年には操業を開始している。すべてフランスの技術で進められた。
どうしてこれほどの大施設が草深い田舎に突然できたかということは、このあたり一体が繭の産地だったからである。
幕末から日本の生糸、繭は欧米に大量に売られていた。絹はアジアが原産で、それがシルクロードを通ってヨーロッパに伝えられ、絹産業は南フランス、イタリアが本場になるほど栄えた。アジアでは木製の糸繰り機を個人が操作してやっていたのを無効では産業革命の進展で機械による織機で能率よく大量生産が始まっていた。ところがなんとヨーロッパの蚕が伝染病で全滅し、それで向こうの商人が一斉にアジアに買い付けにきた。しかし中国は太平天国の動乱のさなかで、それで日本に集中した。生糸、繭は鰻登りに高騰して、繭ブームが起こった。悪徳商人らが不良品をたくさんつくったために日本の生糸は暴落して評判をおとした。それで明治政府は名誉挽回と国策のためにこの富岡製糸場をつくったというがいきさつである。
しかし、開国してすぐであるからこの工場建設は並大抵の事業でなかったらしい。煉瓦がないので瓦職人に工夫して作らせ、大きな梁も遠くから大木を運んできた。石は近くの山から切り出して礎石にした。大工、職人、土工など数千人があつまって作業したので、富岡はいっぺんに活性化し町ができた。
ガラスと窓枠はフランスから何百枚も運んできた。
機械もすべてフランス製で、フランス人の工場長、技師、管理者、男女の作業監督など数十人が常駐した。工場長の月給は850円というべうな高さ。
工場はほとんど今の工場のつくりと同じである。原型がここにあったと思った。

この工場は官営から三井の経営に移り、なんと昭和63年まで片倉製糸が操業していた。片倉製糸はその後10年毎年1億円かけて施設を保存していたが、平成17年、国の史跡に指定され、富岡市に寄贈された。いまでは世界遺産に登録を申請している。

とにかく見に来てよかった。こういうものを見ると歴史を如実に感じる。
しかし、富岡市の商店街は日曜だったせいもあるにせよ、ほとんどシャッターが下りていた。たまたまお祭りで山車が数台にぎやかに練り歩いているのに、それを見る市民がほとんどいない。まるで死の街をお祭り行列が歩いているみたいだ。地方の疲弊をここでもなまなましく見た。





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Last updated  2009/10/27 07:03:03 AM


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