川本美器のお買い物ブログ

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2009年07月25日
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いえ、私ではありません。


7月25日は何の日?

今から115年前に朝鮮の北西岸豊島沖で清国艦隊と日本の吉野艦隊が激突、日清戦争が勃発した日なのです。
朝鮮半島の扱いを巡っての清国と日本のこの戦争は、約10ヶ月続きました。戦争終結において、条約が締結されたのは、下関でした。
いわゆるアメリカを仲介にした下関条約の締結に当たって、当時の全権を委ねられた日本側の人物は、伊藤博文と陸奥宗光です。
陸奥宗光は、このとき第二次伊藤内閣の外務大臣でした。
「カミソリ大臣」と呼ばれ、社会科の教科書にはよく出てきますが不平等条約の改正に辣腕を振るった不世出といわれる人物です。外務省には、外務大臣時代の洋装の陸奥宗光の銅像が建っています。

実はこの陸奥宗光、幕末には坂本龍馬の右腕として「海援隊」の会計係と外交を担った人です。

2010年の大河ドラマ「龍馬伝」にはきっと出演します。

陸奥宗光の生家は、紀州和歌山藩(御三家)の重臣伊達家です。
奥州伊達家の古い分家なのだそうですが、宗光の父親は宗広といい、紀州家の財政を立て直した人物です。
その父の失脚で一家離散、ホームレス中学生(?)とまではいきませんが、宗光は大変な苦労を強いられました。
江戸へ出て勝海舟に会い、坂本龍馬の紹介を経て神戸の操練所に入り、その後は龍馬と運命をともにします。
しかし、龍馬の死によってまたしても宗光の人生は転機を迎えました。
写真などで見る限り、背が高くスマートで理知的な雰囲気の宗光ですが、実は子供の頃はケンカっぱやい性格でもあったようで、彼は龍馬の仇を取ろうとして、「天満屋事件」の首謀者ともなっています。
かつて、宗光一家を窮地に追い込んだ反対派の紀州藩士らの中にいたとされる三浦休太郎を襲撃したのです。
三浦を護衛していたのは、新選組でした。襲撃は失敗に終わったのですが、いやはや見かけに寄らず熱い男ですね。

その後、大坂で外務に携わりつつも、藩閥政治の為に不遇の時代を長く送り、西南戦争ののちの政府転覆事件にかかわったというかどで投獄され、漸く芽が出たのはヨーロッパ留学ののちの42歳の外務省任官です。
駐米公使となってからの宗光は目ざましい活躍をしました。

志半ばだったと思いますが、それはそれで思い残すことはない人生だったかもしれません。

この時代に興味もあり、いつだったか、日清戦争から三国干渉にかけての外交記録を残した自著の『蹇蹇録』を読みました。
若い頃テロリストまがいのことをやっていた人物とは思えないほど、実に理性に満ちたニュートラルな文章だと思います。
あまりにドラスティックなので、感情や怨念で活動するような政治家にとっては、ウソ臭く思えるかもしれません。
冷徹だけれども、才能ある者には人情深いアニキ的な人物だったともいいます。


教科書以外では、あまり縁がなく、しかも幕末の志士としてはマイナーな和歌山出身の人物ですが、陸奥宗光は和歌山では意外と(?)愛されているんですよ。和歌山城公園には、晩年の着物姿の宗光像が建っています。

最後に、お酒にちなんだ陸奥宗光のエピソードを一つ。
宗光が米国に公使として赴くにあたり、当時すでに役目を終えていた鹿鳴館を宿としたそうです。
宗光のなみなみならぬ世話により同志社が立ち上がったことから、新島襄らが出立前の小宴を鹿鳴館で催すことになったそうです。
ところが新島は禁酒家だったので酒抜きの会を考えていたところ、ドイツ仕込みのクリスチャン青木周蔵は、「せっかく人を集めて置いて、ビールも飲ませぬなどばかばかしきことがあるものか」と盛んに異論を唱え出したそうです。その解決法は、宗光が「青木等が酒が飲みたければ、予の室に備えておくから、飲ませても差支えない」という妥協案だったそうです。

焼酎玄人 完熟南高梅 「とろとろの梅酒原酒 紀州」 

紀州の名産はやはり梅。梅酒は紀州梅がしっくりきます。
夏場はソーダ割りがおいしいですね!
陸奥宗光もお酒はイケル口だったようです。
紀州の梅酒を飲んだかもしれませんね。





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最終更新日  2009年07月25日 23時17分52秒


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