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以前も少し書いたが(参考)、ガスプロムがロマン・アブラモヴィッチ(ミルハウス・キャピタル)からシブネフチの株式を72.663%取得することで合意した。買収額は131億ドル。これによってガスプロムのシブネフチ株保有率は75.679%になる(残りはおそらくユコスが保有していると思われる)。※ シブネフチはアブラモヴィッチが率いるミルハウス・キャピタルが約72%を保有している。シブネフチを設立したのはボリス・ベレゾフスキー。※ ロマン・アルカディエヴィッチ・アブラモヴィッチは、フォーブスが今年の3月に発表した「世界の長者番付」で21位にランクされその資産は133億ドルという1966年サラトフの生まれの38歳。2004年のサンデータイムズ長者番付では、英国1位、欧州6位、世界22位であった。持ち株会社ミルハウス・キャピタルをロンドンに設立したのは2001年。9月21日に明らかにされた報道では、シブネフチは140億ドル程度での売却を提示しているが、ガスプロムはその半額程度を提案しているとのことだったので、131億ドルで合意したということは、アブラモヴィッチの要求にかなり近いかたちで決着したことになる。今回の買収はロシア史上最大規模の企業買収と報じられているが、今後ガスプロムは、国営のロスネフチを通じて国営化されるのである。ロスネフチは9月8日に、蘭ABNアムロやJPモルガン・チェース、ドレスナー・クラインオート・ワッサースタインなど欧米の4つの銀行から75億ドルのロシア企業としては史上最大の融資を取り付けている。この融資がガスプロムの株式購入費に充てられる。ロシア政府はこれによってガスプロムの株式過半数を確保する。ガスプロムは今年1月~7月でロシア全体の天然ガス産出量の85.6%にあたる3194億立方メートルを生産しており、欧州全体のガス流通量の約25%のシェアを確保している。欧州向けのガス輸出は、ウクライナ経由が75%で、残りの25%がポーランドを経由して輸出されている。ウクライナにとって政治的に強みでも弱みでもあったウクライナ経由のガスプロムのガス輸出だったが、ここをロシアに脅されたことでティモシェンコ(前)首相を含む全閣僚を解任する事態にまで発展した。また、親米のポーランドでも25日の選挙によって政権交代が確実になった。この背景には、バルト海ガスパイプライン建設が大いに関係していると私はみてる。これが実現すると、ウクライナとポーランドは、料金は入らなくなるしロシアに対する発言力が低下することになる。このパイプラインは、ポーランドやバルト諸国を迂回してロシアとドイツを繋ぐ(海底)パイプラインだからである。これは総工費40億ユーロ(50億ドル)をかけ、パイプラインは総延長1200キロにおよび、完成予定は2010年という一大プロジェクトなのだ(この計画は、ロシアの天然ガスをドイツ・オランダを経て、英国まで輸送する「北欧ガスパイプライン」計画の一環)。プーチン大統領とシュレーダー首相は、今月8日にこのバルト海経由の天然ガスパイプライン建設事業を最終承認している。そして欧州委員会もこの承認を歓迎している。この事業に参加するのは、ガスプロムと、ドイツのエーオンとウィンターシャルの3社である。出資比率(権益)は、ガスプロムが51%、ドイツの2社がそれぞれ24.5%に決定している。パイプラインは今秋から建設がはじまり、2010年から操業開始の予定になっており、最初は年間275億立方メートルが搬送され、最終的には年間500~550億立方メートルが搬送されることになる計画。ガスプロムが石油大手買収 巨大エネルギー企業に【モスクワ28日共同】ロシア政府系の天然ガス独占企業ガスプロムは28日、同国の石油大手シブネフチの約73%の株式を約131億ドル(約1兆4800億円)で買収することで最終合意したと発表した。ロシア史上最大規模の企業買収。プーチン政権の支配下にあり、天然ガス生産量が世界一のガスプロムは石油部門を大幅に強化し、世界有数の総合エネルギー企業となる。石油産業への国家統制が一層強化される。巨額の買収資金は西側大手金融機関から調達する。今回の買収でガスプロムが保有するシブネフチ株の比率は約76%となる。(共同通信)- 9月28日23時12分更新ガスプロムが石油大手買収 巨大エネルギー企業に2005年09月28日 14:12米国東部時間ロシア政府系の天然ガス独占企業ガスプロムは28日、同国の石油大手シブネフチの約73%の株式を約131億ドルで買収することで最終合意したと発表した。ロシア史上最大規模の企業買収。プーチン政権の支配下にあり、天然ガス生産量が世界一のガスプロムは石油部門を大幅に強化し、世界有数の総合エネルギー企業となる。石油産業への国家統制が一層強化される。巨額の買収資金は西側大手金融機関から調達する。今回の買収でガスプロムが保有するシブネフチ株の比率は約76%となる。シブネフチはロシア有数の富豪アブラモビッチ氏が所有。同氏はプーチン大統領の政敵であるホドルコフスキー氏の石油大手ユコスとの合併を計画していた。しかし、巨大な民間エネルギー資本の誕生を警戒したプーチン政権は、ユコスを解体、シブネフチを政府の支配下に組み込むことに成功した。買収価格は市場価格を下回っており、プーチン政権がシブネフチに圧力をかけたとの見方が強い。(共同)http://www.usfl.com/Daily/News/05/09/0928_014.asp?id=448301兆4,800億円で露ガスプロム 石油大手買収2005年09月29日(木)ロシアの国営天然ガス会社のガスプロムは28日、国内5位の石油会社シブネフチを買収すると発表しました。買収金額はおよそ1兆4,800億円で、ガスプロムは天然ガスと石油を併せ持つ総合エネルギー企業になります。石油・ガス産業を国営や政府に近い企業で固めたことで、プーチン政権の業界支配体制が完成した形となりました。http://www.tv-tokyo.co.jp/biz/obell/days/050929/f2.htmロシア・ガスプロム、国内第5位の石油会社を買収【モスクワ=栢俊彦】ロシア国営天然ガス会社のガスプロムは28日、国内第5位の石油会社シブネフチを買収すると発表した。買収金額が130億9100万ドル(約1兆4800億円)に上る大型案件。ガスプロムは天然ガスと石油を併せ持つ総合エネルギー企業になる。石油・ガス産業を国営や政府に近い企業で固めたことで、プーチン政権の業界支配体制が完成する。 ガスプロムはミルハウス・キャピタル社からシブネフチ株72.663%を買い取る。両社が同日、共同声明を発表した。ガスプロムはすでに3.016%の株式を同社の関連会社から購入しており、合計持ち株比率を75%超とする。買収資金は現在、欧米銀行団から120億ドルの融資(最長5年)を受ける方向で最終調整している。 2004年のガスプロムの天然ガス生産量は5451億立方メートル、売上高は8872億ルーブル(310億ドル)で世界最大の天然ガス埋蔵量を誇る。シブネフチの昨年の原油生産量は3404万トン(日量68万バレル)と中堅産油国1国の生産量に匹敵する。 (22:49) http://www.nikkei.co.jp/news/main/20050928AT2M2802D28092005.html露ガスプロム 設備投資43%上方修正 対欧・中輸出を強化FujiSankei Business i. 2005/9/29【サンクトペテルブルク=黒川信雄】世界最大の天然ガス生産量を持つロシアのガスプロムは、2005年度の設備投資費額を当初計画に比べ43%増加させることを決めた。9月のプーチン大統領訪独の際決定したドイツ向け海底パイプラインの建設が主要因とみられるが、欧州だけでなく中国への天然ガス輸出も増加させる方向で中国側と調整を進めており、設備拡充で利益の拡大を図る。インフラ整備などに当てる05年の総投資額は当初の2126億ルーブル(約8376億円)から3050億ルーブル(約1兆2017億円)に引き上げる。この中には、初めて欧露間を直接つなぐ総延長1200キロの海底パイプラインの建設費に充てる約25億ドル(約2750億円)も含まれる。このパイプラインの総工費は50億ドルで、同社が51%を負担することになっている。このほか、北極海沿岸地域のガスパイプライン建設も進める。ロシアは世界最大の天然ガス生産国で、同社は同国の資源輸出戦略の中枢にある企業とみなされている。同社は欧州で流通する天然ガスの約25%をまかなっているが、今年1-8月の輸出はドイツ、チェコ、トルコなどの需要増を受け前年比11%増となった。またガスプロムは、中国との関係強化を急ピッチで進めている。ブルームバーグによれば、今月には経営陣が北京入りし中国石油天然ガス(CNPC)と、同社に対する天然ガス供給で協議に入った。ガスプロムは中国をアジアの「最重要顧客」と位置づけ中国市場への進出を加速する。◆4-6月期、純利益倍増ガスプロムの4-6月期決算は天然ガス価格の高騰で純利益が前年同期比で2倍強を記録するなど、世界的なエネルギー需要の高まりを受け増収増益を続けている。ただ、急激な設備投資拡大が、将来的に収益に結びつくかに懐疑的な見方もあり、一部には「法人所得税の軽減を狙ったもの」との指摘もある。化学大手BASFとエネルギー大手エーオンは、世界最大のガス会社であるロシアのガスプロムと、バルト海の天然ガスパイプライン建造事業に調印した。(ジェトロ)http://www.jetro.de/j/hp2005all/doko/Juli-Sep/doko15092005.htmガスプロムhttp://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200506050000/※ 少し気になった記事健竜会の中田会長逮捕http://blog.livedoor.jp/ayaka222a/archives/50108454.html三菱とメリルリンチが合弁会社を設立http://blog.livedoor.jp/ayaka222a/archives/50109873.html
2005年09月29日
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グリーンスパンFRB議長の後任が誰になるのか興味をもってみているが、有力候補として聞こえてくるのは、マーティン・フェルドシュタイン米ハーバード大教授、ベン・バーナンキFRB理事、グレン・ハバード米コロンビア大教授の3人である。3人は、FRB議長の登竜門と言われるCEA(大統領経済諮問委員会)委員長を経験している点で共通点がある(バーナンキは6月に就任したばかりだが)。CEAは米国大統領直属の行政機関であり、経済に関する情報を集め分析し、経済政策に関する助言を行うことを目的とする。CEAは大統領の指名と上院の承認を受けた3名の経済専門家から構成され、うち1名が委員長となる。これまでバーンズとグリースパンがCEA委員長経験後にFRB議長を務めていることから、FRB議長への登竜門とも言われている。【戦後のFRB議長】マリナー・エクルス(1934年11月~1948年1月)13年3ヶ月トーマス・マッケーブ(1948年4月~1951年3月)3年ウィリアム・マーティンJr.(1951年4月~1970年1月)18年10ヶ月アーサー・バーンズ(1970年2月~1978年1月)8年G・ウィリアム・ミラー(1978年3月~1979年8月)1年5ヶ月ポール・ヴォルカー(1979年8月~1987年8月)8年1ヶ月アラン・グリーンスパン(1987年8月~2006年1月)18年5ヶ月グリーンスパンの後任候補と言われているのは以下の人物たちである。ちなみに、FRB議長職の「年俸」は、確か日銀総裁の半分ほどである。● ベン・バ-ナンキ(51歳)CEA委員長元FRB理事、元プリンストン大学教授● グレン・ハバード(46歳)コロンビア大学ビジネススクール学長、元CEA委員長● マーティン・フェルドシュタイン(65歳)ハーバード大学教授、元CEA委員長● ジョン・テイラー(58歳)スタンフォード大学教授、元財務次官● ドナルド・コーン(62歳)FRB理事、カンザスシティ連銀エコノミスト出身● ロジャー・ファーガソン(53歳)FRB副議長、元マッキンゼー役員● ウィリアム・マクドナー(71歳)バーゼル銀行監督委員会委員長、前ニューヨーク連銀総裁FRB議長の後任者の賭け率を賭博サイト「BetRoyal.com」と「PaddyPower.com」で調べてみた。【Next US Federal Reserve Chairman】(BetRoyal.com)Ben Bernanke +125Glen Hubbard +200Martin Feldstein +400John Taylor +700Donald Kohn +700【To replace Alan Greenspan?】(PaddyPower.com)Ben Bernanke 4 - 5Glen Hubbard 9 - 4Martin Feldstein 4 - 1John Taylor 8 - 1Donald Kohn 10 - 1どうやら今現在は、どちらもバ-ナンキが本命のようである。実は上に挙がっている候補者以外で、ロバート・ルービンという声もあるようである。ついさきほどのブルームバーグから「コラム」を転載する。その下にはグリーンスパン関係の記事を。ブッシュは誰を指名するのであろうか。なぜルービンの名前がいまごろ出てくるのか、これも気になるところである。【米経済コラム】米大統領、意中の次期FRB議長は-C・ボーム2005年9月26日(月)15時26分(ブルームバーグ)9月26日(ブルームバーグ):ブッシュ米政権は当然のことながら、アラン・グリーンスパン連邦準備制度理事会(FRB)議長の後任問題への言及を避けているが、投資家たちは既に自らの選択を口にしている。米経済調査会社ストーン・アンド・マッカーシー・リサーチ・アソシエーツが先週、同国金融界の専門家104人を対象に行った調査によると、ベン・バーナンキ米大統領経済諮問委員会(CEA)委員長が38%の支持を得て後任候補のトップになった。米ハーバード大学のマーティン・フェルドシュタイン教授が31%で2位。3位は、クリントン前米大統領の下で「強いドル」政策を標ぼうしたロバート・ルービン元米財務長官(現・米シティグループ経営委員会会長)で11%の支持を獲得した。共和党のブッシュ大統領が、党派を超えて民主党員を選択するとの見方がゼロ%でなかったことをどう考えればいいのだろう。ストーン・アンド・マッカーシーの質問は、「FRB議長に最も適している人物は誰か」ではなく、「ブッシュ大統領がグリーンスパン議長の後任に選択する人物は誰か」だった。グリーンスパン議長は来年1月に任期切れとなる。減税政策のブッシュ大統領にとって、財政赤字削減推進派のルービン元長官をFRB議長に据えるのは相容れないだろう。ルービン元長官の理論ルービン元長官が有名になった宣伝文句は、少なくとも経済理論のなかでは、増税は景気を刺激するというものだ。反対に聞こえるかもしれないが、これはこれでいい。同元長官は増税と歳出削減によって財政赤字が削減されれば、長期金利は低下し、投資が刺激されると考える。クリントン前大統領の最初の予算では、最高課税税率の31%から36%への引き上げなど増税案が盛り込まれ、1993年8月に上下両院を通過した。長期金利は90年から低下傾向で、1993年10月に底を付けた。30年物国債の利回りは5.77%と最低を付け、その後共和党が1952年以来となる上下両院での過半数議席獲得を成し遂げた94年11月の選挙当日、8.17%でピークを打った。金利と増税の関係を説明しようとすれば、誰もがルービン元長官の因果関係理論は間違いだと結論付けざるを得ないだろう。両者はいっしょに上昇した。もちろん、長期金利の動向には他の要因も加わる。金融当局は1994年2月から1995年2月までの間に3ポイントの利上げを実施した。ルービン長官のように、増税が90年代後半の景気拡大と財政黒字に寄与したと主張することは、労働生産性の伸びとキャピタルゲイン(資産売却益)の増加に伴う税収増を無視するものだ。ルービン元長官は、クリントン時代の経済政策の立案者として、その成功について過度の評価を得ている。これは、現時点でブッシュ政権がまさに欲しているイメージかもしれない。ブッシュ大統領の支持率は、イラク戦争の対応やハリケーン「カトリーナ」被害への対処のまずさから、大きく打撃を受けている。大統領は輝かしい経歴の持ち主を抜てきしたいところだろう。ルービン元長官は米誌タイム(99年2月15日号)の表紙を、グリーンスパン議長やラリー・サマーズ財務副長官(当時)と3人で飾るという栄誉に浴している。同元長官は危機に際しても冷静沈着で、人脈も幅広い。結局のところ、元長官は奇抜な選択ではないだろう。ただ、同元長官を指名するということは「ブッシュ政権が守りに入ること」を意味すると、ライトソン・アンド・アソシエーツのチーフエコノミスト、ルー・クランドール氏は語る。「(ポール・)ウルフォウィッツ氏を世界銀行総裁に指名できる人物なら、民主党からFRB議長を選出するために宗旨替え(党派超え)などしないだろう」と語る。求む、危機管理者とは言っても、バーナンキCEA委員長はテレビで良い印象を与えることができない。同委員長は、月次の雇用統計を解説するのに苦労しているようだ。私は、ブッシュ大統領はバーナンキ委員長のような学者ではなく、実社会に精通し、市場経験豊かな人物を議長に選出すると考える。絞り込まれたありふれたリストから外れた人物、ストーン・アンド・マッカーシーの調査で投資家のレーダーから漏れた人物など。クランドール氏は「枕を高くして眠れるようにしてくれる、危機を適切に処理できる人物」が望ましいと語る。要するに、ルービン元長官のような人物だ。(キャロリン・ボーム氏は、ブルームバーグ・ニュースのコラムニストです。このコラムの内容は同氏自身の見解です)http://money.www.infoseek.co.jp/MnJbn/jbntext.html?id=26bloomberg22aTFvWjFRlxkAグリーンスパンFRB議長の”最後の警告”http://www.redcruise.com/nakaoka/index.php?p=137FRBが来年初めのFOMC日程を変更、予定通りの議長退任を示唆http://www.worldtimes.co.jp/news/次回G7、グリーンスパン氏花道説 退任前の12月開催http://www.asahi.com/business/update/0924/039.html米の財政赤字は制御不能=米FRB議長が仏経済財務産業相に語る2005年09月26日 月曜日 10:07 JST[ワシントン 24日 ロイター] グリーンスパン米連邦準備理事会(FRB)議長は、ブルトン仏経済財務産業相に対し、米国の財政赤字は「制御不能になった」と語った。経済財務産業相が24日に明らかにした。同相は記者団に対し、「制御不能になったというのが彼の言い方だった」としたうえで、「米国は、(議会が)制御することなしに赤字の蓄積が承認される中で」財政の規律を失っており、「われわれは債務管理が優先的な政策でなくなったことに失望している」と語った。この日は、7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)で、貿易・投資勘定の不均衡是正への積極的な取り組みが確認され、米国の財政赤字削減がその方法のひとつとされた。グリーンスパン議長が10月来日、日銀総裁と会談2005年 9月 7日 (水) 18:53米連邦準備制度理事会(FRB)のアラン・グリーンスパン議長が日本銀行の招待で10月17、18日に来日し、福井俊彦日銀総裁らと会談する。日米の金融政策や経済問題について意見を交わす見通しだ。18日には、日本経団連など経済3団体が主催し、経営者向けに、グリーンスパン議長の講演会も都内で開く。米南部を襲った超大型ハリケーンや高騰する原油が景気に与える影響などを中心に講演するとみられる。グリーンスパン議長の来日は、2000年1月に東京で開かれた先進7か国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)以来で、今回で8回目となる。I too will be looking for a job(世界を読み解くキーワード)http://www.tbs.co.jp/newsi_sp/keyword/050516.htmlバーナンキVSハバードに絞られたFED議長(2005年5月27日)http://www.rakuten-sec.co.jp/ITS/Depths/V_VIL_Depths_20050527.htmlグリーンスパンの魔術http://www.ycaster.com/chat/greenspan.htmlグリーンスパンは神様かhttp://www.ycaster.com/chat/god.html
2005年09月26日
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米経済誌フォーブスは22日、米国内の資産家400人をランキングした恒例の長者番付を発表した。いつものようにフォーブスのサイトからトップ10と目にとまった数人を紹介させてもらう。1.ビル・ヘンリー・ゲイツ(510億ドル)12年連続2.ウォーレン・エドワード・バフェット(400億ドル)3.ポール・ガードナー・アレン(225億ドル)4.マイケル・デル(180億ドル)5.ラリー・エリソン(170億ドル)6.クリスティ・ウォルトン(157億ドル)6.ジム・ウォルトン(157億ドル)8.ロブソン・ウォルトン(156億ドル)9.アリス・ウォルトン(155億ドル)10.ヘレン・ウォルトン(154億ドル)11.スティーブン・バルマー(140億ドル)32.ルパート・マードック(67億ドル)40.マイケル・ブルームバーグ(51億ドル)61.ジョージ・ルーカス(35億ドル)78.モーリス・グリーンバーグ(28億ドル)83.スティーブン・スピルバーグ(27億ドル)83.ドナルド・トランプ(27億ドル)93.デヴィッド・ロックフェラー(25億ドル)133.ウィリアム・ランドルフ・ハースト三世(20億ドル)164.ジェームズ・R・カーギル(18億ドル)164.マーガレット・A・カーギル(18億ドル)235.サンフォード・ワイル(14億ドル)283.ロイ・ディズニー(12億ドル)283.ウィリアム・クレイ・フォード(12億ドル)283.ウィンスロップ・ポール・ロックフェラー(12億ドル)283.リチャード・メロン(12億ドル)93.デヴィッド・ロックフェラー283.ウィンスロップ・ポール・ロックフェラーちなみに2004年の米長者番付トップ10は以下でした。1.ビル・ゲイツ(480億ドル)2.ウォーレン・バフェット(410億ドル)3.ポール・アレン(200億ドル)4.アリス・ウォルトン(180億ドル)4.ヘレン・ウォルトン4.ロブソン・ウォルトン4.ジョン・ウォルトン4.ジム・ウォルトン9.マイケル・デル(142億ドル)10.ラリー・エリソン(137億ドル)ゲイツ氏12年連続首位 フォーブス誌長者番付 米経済誌フォーブスは22日、米国内の資産家400人をランキングした恒例の長者番付を発表し、ソフトウエア最大手マイクロソフトのビル・ゲイツ会長が資産総額510億ドル(約5兆6700億円)で、12年連続でトップに立った。株価が急上昇し、注目されているインターネット検索大手グーグルの創業者、セーゲイ・ブリン氏とラリー・ペイジ氏はともに16位(110億ドル)と、昨年の43位から上昇。両氏ともに32歳で、昨年に続き400人の中で最も若い資産家となった。市場占有率(シェア)を伸ばしているパソコン最大手デルのマイケル・デル会長も昨年の9位から4位(180億ドル)に浮上した。2位は著名投資家ウォーレン・バフェット氏の400億ドル、3位はマイクロソフトのポール・アレン共同創業者の225億ドルで、上位3人の順位は昨年と変わらなかった。(共同)(09/23 14:55)http://www.sankei.co.jp/news/050923/kei059.htm※ 以下は、過去に取り上げたいろんなランキングです。米長者番付(2004年09月24日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200409240000/【2005年版】世界の長者番付(2005年03月11日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200503110000/【2005年版】世界優良企業番付(2005年04月01日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200504010001/「世界で最も影響力のある女性100人」(2005年07月29日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200507290001/世界で最もセクシーな女性100人(2005年03月26日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200503260000/米スポーツ界の長者番付(2005年07月01日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200507010000/【2005年版】セレブリティ100(2005年06月20日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200506200000/オーストラリアの長者番付(2005年05月20日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200505200000/2004年度の法人申告所得ランキング(2005年08月26日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200508260000/【長者番付】日本の富豪40人(2005年06月10日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200506100000/【2004年高額納税者番付】(2005年05月17日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200505170000/【タイム誌】ベスト映画100(2005年05月23日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200505230001/ベスト映画100……続きhttp://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200505230002/ウィリアム H. ゲイツ3世http://www.microsoft.com/japan/presspass/BILLGATES/bio.aspx
2005年09月23日
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政府系金融機関とは政府出資の特殊法人であるが、その政府系金融機関の統廃合案がどうやら加速しそうである。その「青写真」によると、現在ある政府系8機関を2機関に統廃合する。8機関とは以下の8つである。・日本政策投資銀行(日本開発銀行と北海道東北開発公庫が統合)・国際協力銀行(日本輸出入銀行と海外経済協力基金が統合)・国民生活金融公庫(国民金融公庫と環境衛生金融公庫が統合)・商工組合中央金庫・中小企業金融公庫・農林漁業金融公庫・公営企業金融公庫・沖縄振興開発金融公庫※住宅金融公庫は、2001年12月の閣議決定から5年以内に廃止されることが既に決まっており、衣替えをした住宅金融支援機構が07年4月に設立される。これらの8機関を国内向けと国外向けの2機関に統廃合するというのが、小泉内閣の次の目玉のようである。つまり、国内向けが日本政策投資銀行で国外向けが国際協力銀行を軸にと考えている。「廃止を含む大幅縮小の方向」なので、これによって中小企業向けの融資が大幅に圧縮される恐れが出てくるとも言われている。中小企業の資金繰りに支障を生じさせることになるようであれば、日本経済を支えてきた中小企業という土台を通じ日本経済そのものを揺るがすことになることが懸念される。小泉次の標的…政府系金融機関を統廃合、8機関対象“天下り先”維持に懸命の財務省と激突へ 「郵政3事業」の次は「政府系金融8機関」-。衆院選の圧勝で郵政民営化法案成立を確実にした小泉内閣の次の目玉が政府系金融機関の統廃合だ。財務省幹部の有力な天下り先でもあり、強い抵抗も予想される。これまで親密な関係とみられてきた小泉首相と財務省の“内戦”が勃発するのか?小泉内閣は「国民の資金の流れを官から民へ変える」を旗印に掲げるが、資金の「入り口」が合計340兆円の郵便貯金・簡易保険。そして「出口」にあたるのが、この資金を原資に活動する政府系金融機関だ。このうち住宅金融公庫は平成19年に独立行政法人化されることが決まっているが、公営企業金融公庫や国際協力銀行、日本政策投資銀行、中小企業金融公庫など8機関が統廃合の対象となる。8機関合計の貸出残高は90兆円、住宅金融公庫を含めると144兆円と、10月に誕生する国内最大のメガバンク、三菱UFJフィナンシャル・グループの貸出残高80兆円を上回る規模だ。政府から低金利で資金調達ができ、税金で赤字を補填。不良債権が発生するという構図に、中小企業向け融資などで競合する民間金融機関から不満の声が高まっている。小泉首相は21日の記者会見で、政府系金融機関の改革について、「民間の活力を阻害しないような金融体制をつくるよう、しっかりとした方針を打ち出す。誰がわたしの後を継いでも実現していく路線を敷く」と強調。11月にも「政策金融のあるべき姿」を盛り込んだ統廃合シナリオが提示されるとみられる。もっとも、現在、8機関中5機関のトップに所管官庁の次官や局長経験者が就任しているほか、理事クラスにも官僚出身者が多数、天下っている。中でも3機関のトップを旧大蔵事務次官経験者が占めるなど、財務省の牙城(がじょう)となっていることから、改革は一筋縄では進みそうにない。「小泉首相自身が旧大蔵族で産業再生機構の設置など、これまでの経済政策でも財務省の意向を汲んできたとみられるだけに、どこまで切り込めるのか」(市場筋)。「財務省が焼け太りする結果にならなければいいのだが」(銀行関係者)との冷静な声も聞かれるのだが…。ZAKZAK 2005/09/22http://www.zakzak.co.jp/top/2005_09/t2005092231.html≪今後の主な政治日程など≫【2005年】9月26日 首相所信表明演説 28日 各党代表質問(29日まで)10月1日 道路公団民営化がスタート 4日 郵政民営化法案審議入り 中旬? 郵政民営化法案成立 23日 参院神奈川補選投開票 末 ? 日朝対話再開11月1日 特別国会閉幕、テロ対策特別措置法期限切れ 初旬? 内閣改造・自民党役員人事 18日 アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議 (韓国・釜山、19日まで) 20日 プーチン・ロシア大統領来日(22日まで) 22日 自民党結党50年大会、憲法改正草案公表12月14日 自衛隊イラク派遣期限、初の東アジア首脳会議 (クアラルンプール) 下旬 2006年度予算案決定【2006年】9月30日 小泉首相、自民党総裁の任期切れ 政府系金融機関 統廃合(グーグルでニュース検索結果)平成17年第4回経済財政諮問会議議事要旨(平成17年2月28日)○政策金融改革について (本間議員)資料「政策金融機関の統廃合に向けて」を説明させていただく。政策金融改革については、平成14年12月の経済財政諮問会議におけるとりまとめでは、平成17年度から19年度までをあるべき姿に移行するための準備期間とし、その上で、平成20年度以降、速やかに新体制に移行するとなっている。これを受け、政府は、経済財政諮問会議の結論を踏まえ、経済情勢を見極めつつ、さらに検討を進めるということを、平成14年12月に閣議決定したところである。その後、平成17年1月28日の衆議院予算委員会において、総理より「政策金融機関については、これから経済財政諮問会議で統廃合を議論する」旨の御答弁があり、それを受けて、今般有識者議員として、政策金融機関の統廃合に向けての今後の進め方について提案をさせていただく。政策金融機関は、不良債権の集中処理期間である16年度末まで、ある意味では民間金融機関が頼りないから、政府の政策金融機関をきっちり活用しようということで議論を先送りしてきたわけだが、御承知のとおり、不良債権比率の着実な低下が見られ、民間金融機関の機能も回復強化されている。また、民間企業においても収益の増加が続き、資金繰りが大きく改善しているというのが実態である。その意味で、我が国の経済金融情勢は、危機的な状況から脱したという評価をしてもよいと考えている。経済財政諮問会議が平成14年12月にとりまとめた「政策金融改革について」で既に指摘しているが、民間にできることは民間に委ねる、これを基本として、平成17年度から、政策金融機関の組織改革に関する検討を再開すべきであると考えている。その際、具体的には以下のような検討の進め方であるべきだと考える。平成20年度からの新体制の移行のために十分な準備期間を確保するため、経済財政諮問会議において「あるべき姿の実現」に関する基本方針をとりまとめる。そして、必要に応じて、政策金融機関から経済財政諮問会議において意見を聞く。さらに、個別的・専門的な検討を要する部分もあろうかと思われるため、民間有識者の知見も活用するととともに、内閣府に政策金融機関8機関を改革するための準備室を設置する。そういう体制の整備が必要になってくると思う。(以下略)※ これに続く、麻生・中川・谷垣・福井・竹中・小泉の発言は以下でも読める。第4回経済財政諮問会議議事要旨(抜粋)http://www.jasme.go.jp/jpn/summary/council/4_3.pdf※ 以下、おまけ(笑)「いいとも」生放送中に珍事発生フジテレビの看板番組「笑っていいとも!」(月~金曜、正午)の生放送中、司会者のタモリ(60)に観客席から質問した男性が退席させられるハプニングが21日、起きた。いきなり「番組は年内に終了するんですか?」という予定外の質問をぶつけられ、タモリが失笑。退席後、番組サイドが男性の席にくまのぬいぐるみを置く緊急措置をとった。この日で放送5887回を迎えた長寿番組で前代未聞の騒動だった。今年10月で開始から丸23年を迎える長寿番組で「過去にはなかったと思いますが…」(フジ広報担当者)という珍事が発生した。騒動は、定番コーナー「テレホンショッキング」で起きた。ゲストの山崎邦正(37)とタモリがトーク中に、観客席から「いいともが年内に終了すると聞いたのですが、本当ですか?」との質問。タモリは「聞いてないですよ」と冷静に反応。同じ男性が間髪入れずに「終了するって本当なんですか?」と繰り返したため、スタジオは“微妙”な雰囲気に包まれた。普段から、タモリが観客に突っ込みを入れたり、会話をしたりする光景はよく見られる。しかし、この日だけはスタッフが騒動の男性客に退席を申し入れた。CM明けには男性の姿はなく、席にクマのぬいぐるみが置かれ「あの人、クマに変わっちゃった」(山崎)とギャグにして、放送を乗り切った。クマのぬいぐるみは、他局の日本テレビで1960~70年代に一世風びした幼児番組「ロンパールーム」の手法。言うことを聞かない子どもを退場させた時のきり返し技として伝説化。今回、スタッフがこれをまねて機転を利かせたようだ。同局では「進行業務の妨害ということで、CM中に話し合い、ご理解いただいた上でご退席いただいた。ぬいぐるみはたまたまそばにあったので使ったようです」(広報担当)と説明。観客は番組HPなどで募集され、高校生不可で18歳以上なら誰でも申し込める。生放送ならではのハプニングだが、坪田譲治プロデューサーも「番組は1万回を目指してまい進中ですから、終了はしませんよ」とコメント。この日ばかりは、笑って「いいとも!」とはいかなかったようだ。(スポーツニッポン) - 9月22日6時3分更新http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050922-00000018-spn-ent※ そのときの動画が以下の3つ(右クリックして新しいウィンドウで開くで観れるはず)。iitomo.wmviitomo2.wmviitomo3.wmvいいとも生放送中にキチ●イが突然乱入http://blog.livedoor.jp/uranewsoku/archives/50276632.html
2005年09月22日
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これは(1)と(2)から続いてるひとつの文章です。(1)→(2)→(3)と順番に読んで下さい。レビーの死後、レビーの遺書が読まれた。そこには、ホワイトヘッドとワインバーグが遺産の共同執行人に指名されていたという。2人は一緒に会社を経営することにした。担当分野を二分するかわりに、2人が共同シニア・パートナーとなったのである。いずれか1人が決定したことは2人の決定と考えるようにと、彼らは社内に通告した。1984年の終わりにジョン・ホワイトヘッドは62歳で引退した。引退後、彼はレーガン政権に加わった。ホワイトヘッドが去った後、スティーブ・フリードマンとロバート・ルービンが経営に重要な役割を果たすようになっていった。2人は共に66年に入社し、85年に債券部の共同責任者、87年には共同副会長兼共同COOに選ばれた。財務長官として知られるルービンについては少し詳しく取り上げたい。ロシア系ユダヤ移民の子として生まれたルービンは、ハーバード大学とエール大学を出たあと、2年ほど弁護士として働き、28歳でゴールドマン・サックスに入社し、5年後の1971年には早くも準経営者のパートナーというポストを得た。入社14年後には経営委員会のメンバーとなっている。79年からニューヨーク先物取引所の理事を兼務し、83年にはウォール街の“番犬”SECの顧問となっている。87年にはゴールドマン・サックスの最高執行責任者となり、一方で89年から連邦準備制度理事会の国際資本市場顧問委員となった。ゴールドマン・サックスの共同会長に就任したのはその翌年で、ついにルービンはトップに立った。“究極のトレーダー”として知られるルービンの師匠は、おそらくレビーだろう。91年にソ連が完全崩壊すると、92年にはエリツィン大統領がロシア民営化の経済顧問にルービンを指名し、ロシアの投資ビジネスを委託した。その後、ロシアが石油・ガス企業の民営化に踏み切ったことでロシアに何が起こったかについては、私もここでさんざん書いてきたので省略するが、この時代のロシア貿易やロシア企業の民営化、そして投資という名の“泥棒ビジネス”を取り仕切ったのがルービンだったということになる。同時期、アメリカでは、ロスチャイルド家のパメラと組んでクリントンを大統領に仕立て上げ、クリントン政権では経済担当の大統領補佐官となり、95年からはアメリカ経済を動かす財務長官に就任した。円ドル相場は1ドル80円台という超円高にされ、ルービンはウォール街の株価上昇を存分におうがし、99年に退任する。ホワイトハウスを退任したルービンは、その99年から全米最大の金融機関シティグループの共同会長に就任した。ご存知の通り、シティグループはエンロンを破綻に導いた薄外投資に重大な責任を持つ金融機関である。ルービンはニューヨークで生まれマイアミで育った。1970年代以降、大統領選挙のつど、彼は民主党の選挙資金調達に大きな力を発揮してきた。1992年の民主党全国大会をニューヨークに誘致したのもルービンである。ルービンの妻ジュディは、元ニューヨーク市長デイビッド・ディンキンスのアドバイザーを務めている。ルービンの父は成功を収めた裕福な弁護士で、祖父はブルックリンで民主党のリーダーを務めた。ゴールドマン・サックスのルービンのオフィスの壁には、歴代大統領の署名入りの写真が飾られていたという。一方、ルービンのパートナー、スティーブ・フリードマンはレスラーである。フリードマンは学生時代に全米アマチュア・スポーツ協会のレスリング・チャンピオンだった。コロンビア・ロースクールを卒業した彼は、しばらく法律事務所で働き、その後、ゴールドマン・サックスに入社した。M&Aのスペシャリストであるフリードマンは、当時、M&Aはまだ主流ではなく、社内ではよそ者的な存在だったという。ゴールドマン・サックスは、M&Aの分野で、敵対的買収劇で乗っ取りの対象とされた会社を防衛するビジネスを作り出した。1970年代から80年代にかけて、このおそろしく儲かるビジネスでゴールドマン・サックスは、マーケットシェア50%以上を獲得し、その首位の座を今日まで守り続けている。1970年代から80年代にかけては、M&A部門が会社を成功に導く原動力となった。モルガン・スタンレーが買収側に立ち、ゴールドマン・サックスが“ホワイトナイト”(白馬の騎士)を連れてくるなど防衛側に立つ戦いが次々と繰り広げられていったのである。これはモルガンとゴールドマンの“やらせ”もあるのではないかと私は想像するが、実際はどうであろうか。企業買収防衛のビジネスがゴールドマン・サックスにとっていかに重要な意味を持ったかは、いくら強調しても強調しすぎることはないという。フリードマンが入社した66年にはM&A部門の売上は60万ドルだった。それが80年には9000万ドルに増加し、89年には3億5000万ドルとなり、97年には10億ドルを越えるビジネスになっていたからと説明されている。ルービンも登場したのでこの辺でひとまず終わろうかと思ったんだけど、次回に持ち越すのは面倒なので、最強外資「荒稼ぎの手口」でも登場したゴールドマン・サックスの現会長ヘンリー・ポールソンについてごく簡単に取り上げて終了します。ポールソンは熱心な共和党員である。ハーバードでMBAを取得したのち、70年代にはニクソン政権で働いたことがある。74年1月、彼はゴールドマン・サックスのシカゴ支店に入社した。8年後、パートナーに選ばれ、90年には投資銀行部門の共同責任者に任命され、経営委員会のメンバーにもなった。99年1月、ポールソンはゴールドマン・サックスの単独CEOとなった。1999年5月4日、ゴールドマン・サックスの株式上場日である。前日の3日には、株式公開価格は1株あたり53ドルと決められた。4日のニューヨーク証券取引所での初値は53ドルを遥かに上回る76ドルをつけた。この日、ゴールドマン・サックスはパートナー制の終焉を迎えたのである。公開によってパートナーたちは巨万の富を手にした。公開時の株式時価総額を221人のパートナーで割ると、それは1人あたり約68億円に達したのである。トップの数人にいたっては240億円もの資産を手にしたという。1万3000人の従業員にも平均で4600万円分の株がくまなく割り当てられるという大盤振る舞いであった。このIPOの2ヶ月後である、ルービンが財務長官の座を去ったのは。ヘンリー・M・ポールソン(ゴールドマン・サックス会長兼CEO)http://www.nikkei.co.jp/hensei/ngmf2000/speakers/05.htmlゴールドマン・サックスhttp://www.gs.com/japan/our_firm/ceo_coo.htmlゴールドマン・サックス・アセット・マネジメントhttp://www.toushin.com/firms/k0000360.htm★ 参考書籍『ゴールドマン・サックス──世界最強の投資銀行』リサ・エンドリック(著)本書は、ゴールドマン・サックスの元為替トレーダーでヴァイス・プレジデントの著者が、膨大な資料に基づき、ゴールドマン・サックスの130年にわたる歴史を、初めて一般に紹介したものである。(訳者あとがき)ブックレビュー社130年の歴史をリアルに表現。ルービン前財務長官を輩出した独自の企業文化が見えてくる本書を手にした時に感じた興味は次の2点だった。(1)金融市場からの評価がきわめて高かったルービン前財務長官はゴールドマン・サックスの出身である。財務長官を輩出する企業文化とはどのようなものなのか?(2)ガルブレイスの名著「大恐慌」は,ゴールドマン・サックスを1920年代のウォール街のユーフォリアを具現化した代表的な企業として取り上げている。同時に,株価のクラッシュとともに同社が大きく傷ついていく様子も描いている。だが,現代においてゴールドマン・サックスは誰もが認める世界屈指の名門インベストメント・バンクである。このいちじるしいギャップは何なのか? ゴールドマン・サックスは,その経営形態が非公開のパートナーシップ制であったがゆえに,これまで神秘のベールに包まれていた感がある。しかし,本書の著者はゴールドマンサックスにバイスプレジデントとして実際に勤務していた元為替トレーダーであり,同社の130年の歴史を丹念かつリアルに表現している。本書の英語の副題は「The Culture of Success」。現在の成功に至る独自の企業文化の系譜が描かれ,冒頭の評者の興味に十分に答えてくれた。1929年の大暴落だけでなく,ペンセントラル倒産事件,共同経営者によるインサイダー取引疑惑など同社はこれまで幾度も深刻な経営問題に遭遇してきているが,そのたびに「顧客第一主義」の理念を再確認しながら新たなリスクを果敢にとって乗り切ってきている。その過程はスリリングでさえある。なお,インベストメント・バンクの内幕本としては,80年代のソロモン・ブラザーズを描写した「ライアーズ・ポーカー」(マイケル・ルイス,角川書店)が有名である。これと比較しながら本書を読むと(マイケル・ルイスに比べ本書の著者の視線は素直過ぎるきらいもあるが)ゴールドマン・サックスの企業文化の特徴がより際立ってくると思われる。 (東短リサーチ上席研究員 加藤 出)(Copyrightc2000 ブックレビュー社.All rights reserved.)内容(「BOOK」データベースより)「世界最強の投資銀行」と呼ばれ、金融市場で絶大な力をふるうウォール街の名門投資銀行、ゴールドマン・サックス。だが、そのビジネスの実態は、非公開のパートナーシップ経営という秘密のベールに包まれ、今日までほとんど知られることはなかった。本書は、自らヴァイス・プレジデントとして同社に勤務した著者が、創業以来130年にわたる波瀾万丈の企業ドラマを再現するとともに、その驚異的な成功の秘訣を明らかにするものである。日本版金融ビッグバンの始動、自己責任による資産運用の時代を迎え、いま日本で最も注目される国際的投資銀行の歴史と実力を初めて明かす注目の書。内容(「MARC」データベースより)ちっぽけな同族経営の銀行は、いかにして有能な人材を集め、ウォール街で最強の地位を確立したのか。独創的なビジネス文化で知られ、日本とも深いつながりをもつ投資銀行をめぐる真実のドラマ。★ 06年6月29日、追記。(4)をアップしました。ゴールドマン・サックス(4)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200606290000/
2005年09月19日
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これは「ゴールドマン・サックス(1)」から続いていますので(1)からお読み下さい。シドニー・ワインバーグはまぎれもなく近代ゴールドマン・サックスの父である。1930年から他界する1969年まで会長として君臨し続け、大恐慌の後始末をこなし、同社を全米に知られる存在とし、揺るぎない名声を打ち立てたからである。「ワインバーグは、一流の投資銀行、ゴールドマン・サックスのシニア・パートナーである。と同時に、他に例を見ないほど多数の大手企業の社外取締役を務め、さまざまな財界人のアドバイザーであり、彼の言葉には大統領も熱心に耳を傾ける。ウォール街の外ではその名前はあまり知られていないが、彼は全米でも有数の影響力を持つ男である」(1956年のニューヨーカー誌)シドニー・ワインバーグは、酒の卸業を営む移民、ピンカス・ワインバーグの11人の子供の3番目に生まれた。1891年に生まれ、ブルックリンで育ち、公立第13小学校で教育を受け、中学を2年で中退した。これが彼の最終学歴である。1907年、安定した職を求めて、彼はニューヨークで1番背の高いビル、25階建てのビルに行き、2階にあったゴールドマン・サックスのオフィスにやってきた。同社の総務部長は、掃除人の手助けとして週3ドルの給料で彼を雇い入れた。痰壷を洗い、パートナーのハットにブラシをかけ、パートナーのシューズの泥をふき取ることが彼の仕事になったのである。第一次大戦のころのワインバーグは、ゴールドマン・サックスを離れて海軍に入り、料理人となってヘンリー・ゴールドマンの船に乗り込んだ。後に海軍諜報部に異動している。戦争が終わると、既にゴールドマン・サックスを離れていたヘンリー・ゴールドマンに仕事はないかと尋ね何か手伝いたいことを伝えた。するとヘンリーは、ゴールドマン・サックスに戻る方がよいとワインバーグを諭し、ワインバーグはそれに従った。1920年にはヘレン・リヴィングストンと結婚し、その後2人の息子が生まれた。2人の息子は、後にゴールドマン・サックスのパートナーとなっている。1927年、ワインバーグは35歳でゴールドマン・サックスのパートナーとなった。入社後20年のことである。キャッチングスが去った後、ゴールドマン・サックスの資本の殆どがサックス家によるものとなっていた。サックス一族はキャッチングスの後任にワインバーグを選んだ。サックス家は、後に「20世紀最大の投資銀行家」となる人物が目の前にいることに気づいていたのであろうか。ウォルター・サックスは、「この会社は3人の天才を輩出した。ヘンリー・ゴールドマン、ワディル・キャッチングス、そしてシドニー・ワインバーグだ。その中で、水火も辞さず、試練に耐える男はシドニー・ワインバーグただ1人だった」と述べている。1934年4月、ゴールドマン・サックスの共同創業者であるサム・サックスが世を去った。ワインバーグはフォードなど30社以上の会社の取締役を務め、彼は1年間に平均250の役員会や委員会に出席した。ワインバーグはまさに「役員の中の役員」であり、「ミスター・ウォール街」であった。彼が役員を務めた会社のすべてがゴールドマン・サックスの顧客だった、或いは後に顧客となった。ワインバーグは1932年と36年の大統領選挙でルーズヴェルトを支持し、大統領は彼を非公式の顧問として頻繁にアドバイスを求めたと言われている(第二次大戦と朝鮮戦争の期間には、戦時生産委員会の副会長として、ルーズヴェルト、トルーマン、アイゼンハワー各大統領に仕えている)。ルーズヴェルトはワインバーグにソ連大使になってくれないかと打診したことがあったが、ロシア語を話せないことを理由に断ったらしい。トルーマン政権下では、司法省が当時の上位17銀行を反トラスト法違反で訴えたが、ゴールドマン・サックスのシェアは1.4%で12位だった。当時の上位は、現在の最大のライバルであろうモルガン・スタンレーがトップで16%を占め、ファースト・ボストンが13%であった。ディロン・リードとクーン・ローブ商会もトップグループの一員で、注目を集める企業買収の案件のすべてに加わっていた。1947年1月、ワインバーグはヘンリー・フォード二世と出会い、その後の関係からワインバーグはフォード家のアドバイザーとなっていた。フォード・モーターはアメリカ最大の会社ではあったが、フォード家とフォード財団が株式を支配しており非公開企業である。フォード社の株式上場に向けてワインバーグはフォード家と秘密裡に話を進めていたのである。最終的にフォードは6億5千万ドルの株式上場を行なうことに決定したが、その規模は当時史上最大の株式公開であり、ゼネラル・モーターズを顧客とするモルガン・スタンレーを除き、殆どすべての投資銀行が引受団に招かれ、その数は722社にものぼったのである。後にパートナーとなるジョン・ホワイトヘッドは、「株式公開、私募債発行など、シドニー・ワインバーグ以外に投資銀行の仕事を取れる人間は誰もいなかったんじゃないかな。彼には世の中に知らない人がいないみたいに思えた。アメリカで1番知られた経済人だったし。投資銀行を使いたいと思えば、誰もがシドニー・ワインバーグに面会を申し入れてきた。彼はほとんど出張しなかった。なにしろ、みんな、向こうから会いにやってくるんだから」と語っている。ゴールドマン・サックスは、ワインバーグこの男1人がもたらした無形の遺産の恩恵に、その後数十年と浴してきている。ワインバーグはまぎれもなく「ミスター・ゴールドマン・サックス」であろう。彼に匹敵するほどの同社に貢献する者は、この先も現われないだろうと伝えられている。1969年7月23日に彼が死去したとき、彼の死亡記事はニューヨーク・タイムズ紙の1面に掲載された。その横には、アームストロング、オールドリン、コリンズら飛行士が、月から生還した記事があった。1969年、ワインバーグの後を継いでシニア・パートナーとなるのは、グスタフ・リーマン・レビー通称ガス・レビーであることは明らかだったという。ガス・レビーはワインバーグに続く稼ぎ頭だったからである。レビーをシニア・パートナーに任命すると同時に、ワインバーグは6人からなる経営委員会を設立し、年長のパートナーで固めた。彼らの仕事はレビーを監視し牽制することだった。レビーについては簡単に。レビーは1910年にニューオリンズに生まれた。父シグムンド・レビーは木製の籠を作って生計を立て、妻べラとの間に3人の子供を持った。父が亡くなると、16歳のレビーと2人の姉妹は母に連れられパリに移った。レビーは教室よりも競馬場で過ごす時間の方が長く、アメリカに戻ってトゥレーン大学に入学しても熱心に競馬に賭け、父の生命保険金を使い果たし、わずか3ヶ月で大学を辞めたという。18歳でニューヨークに移り、1933年に週給27.5ドルでゴールドマン・サックスに雇われ、部員が1人しかいなかった外国債券部に配属された。彼は裕福な家庭の子女ジャネット・ウルフと結婚した。息子ピーターは、後にゴールドマン・サックスのパートナーとなっている。レビーは真珠湾攻撃の直後に陸軍航空隊の地上勤務の士官となり、中佐で退役した。1945年ゴールドマン・サックスに戻り、翌年にはパートナーに選出されている。ちなみに、レビーはユダヤ人コミュニティのリーダーである。1976年10月、ニューヨーク州およびニュージャージー州港湾局の会議の議長を務めているときに、レビーは脳卒中に襲われて倒れ昏睡状態に陥り、2度と意識を取り戻すことはなかった。ゴールドマン・サックスは、ワインバーグに続いてガス・レビーという指導者を失った。このときレビーの右腕になっていたのは、シドニーの息子ジョン・ワインバーグであった。レビーの後継者は2人である。「2人のジョン」と知られたジョン・ホワイトヘッドとジョン・ワインバーグである。2人ともハーバード・ビジネススクールを卒業すると同時にゴールドマン・サックスに入社したが、入社はホワイトヘッドの方が3年早い。ホワイトへッドは、ニュージャージー州モンクレアで育ち、第二次大戦中は海軍に所属してノルマンディ、硫黄島、沖縄で戦った。ゴールドマン・サックスで38年間過ごした後、ホワイトヘッドはレーガン政権入りし、その後はニューヨーク連邦準備銀行総裁も務めている。ホワイトヘッドがパートナーに選ばれたのは1956年である。シドニー・ワインバーグの息子であるジョン・ワインバーグは、ホワイトへッドと学校こそ同じ出身であったが、彼は特権階級にあり育った世界はまったく違っていた。彼は生まれたときから会社とともに育ったも同然であった。ワインバーグは、まぎれもなくアメリカの金融ファミリーの首領であり、彼の父シドニーは、JPモルガン、モルガン・スタンレー、ファースト・ボストン・・いずれの銀行の会長も、さらに大統領さえも個人的な友人である。ジョンは海兵隊に所属し、第二次大戦と朝鮮戦争のときに大尉として従軍している。ホワイトヘッドとワインバーグは、入社した最初の日から向かい合わせの机に座っていた。1976年にレビーが永眠したとき、2人のジョンは既に25年間も一緒に働いていた。2人がゴールドマン・サックスのパートナーになったのも1956年で一緒であり、2人は同じようにキャリアを積んでいった。同じ給料、同じ割合の資本比率、同じ肩書き。レビーの死後、2人の資本の持ち分が最も大きくなっていたことからも、彼らが後継者になることは明らかだった。問題は、どちらを選ぶかである。ホワイトヘッドの方が年長であり経験が長く、証券業協会の会長を務め、最重要顧客のフォードを担当していた。ワインバーグは会社の象徴的な存在であり、彼の父シドニーはゴールドマン家とサックス家の両方と働き、同社を育ててきた人物である。(3)に続きます。ゴールドマン・サックス(3)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200509190002/
2005年09月19日
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以下は、前回アップした週刊ポストの記事に関連させて書いたものです。したがって前回から続いているものとしてお読み下さい(一方しか読まなくても意味は通じますが・・)。本当はポスト記事を引用という形にして、引用の下に続けてこの文を載せたかったのですが、なんせ楽天ブログには文字数制限というどうにかしてほしいものがありまして、仕方なく別々にアップしているのです。そしてこれは、ゴールドマン・サックスに務めヴァイス・プレジデントの肩書きを得た人物が書いた本を参考にし大量に引用している(全内容ではありません)ので、以下は、最低でも“身内が書いた伝記”的な部分を割り引いて読むことをお勧めします。なにしろこの本はトップに就いた人物を“絶賛”している内容ですのでね、どんな本でもそうですが、文面通りに受け取らず、気をつけて読まなければなりません。ゴールドマン・サックスについて詳しく書かれた日本語本を、私は1冊しか持っていないのでこの本に多くを頼るしかなかったのですが・・※ ゴールドマン・サックスの“したたかさ”は、旧長銀(新生銀行)の買収時に集約されてると思っている。新生銀行(2005年01月22日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200501220000/長銀「われらが血税5兆円」を食うユダヤ資本人脈ついに掴んだ!http://blog.livedoor.jp/ayaka222a/archives/16461401.html高橋治則が死去(2005年07月20日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200507200000/ゴールドマン・サックスの歴史は、ゴールドマン家、サックス家、ワインバーグ家、この3つの家族に集約できるだろう。長くなりそうなので、今回は、ロバート・ルービンが登場するあたりまでのところで区切ろうかと考えている。マーカス・ゴールドマン(妻バーサ・ゴールドマン)には、レベッカ、ジュリアス、ヘンリー、ローザ、ルイーザという5人の子供、ジョーゼフ・サックス(妻ソフィア・ベア)にも、ジュリアス、サム、エミリア、ハリー、バーニーという5人の子供がいた。ゴールドマン家のローザはサックス家のジュリアスと、同様にルイーザはサムと、両家は婚姻によっても結び付いている。そして、ルイーザとサムの間には、アーサー、ポール、ウォルター、エラという4人の子供が生まれた。マーカス・ゴールドマンは、1848年にユダヤ人が大挙してアメリカに移住したとき、彼もドイツからアメリカに渡ってきたユダヤ系である。マーカスの妻バーサ・ゴールドマンも1848年にドイツから移住してきたが、同姓ながら2人に血縁関係はないらしい。マーカスは妻と5人の子供を連れて1869年にフィラデルフィアからニューヨークに移り、借用証書(手形つまりCP)のブローカー業を行なうマーカス・ゴールドマン商店を開業する。これが21世紀の現在「世界最強の投資銀行」と言われる銀行の創業である。ちなみに日本では1868年が明治維新つまり明治元年を迎えてた年であった。日本銀行の設立は1882年である。マーカスは娘ルイーザの夫つまり義理の息子サム・サックス(サックス家もドイツから移住したユダヤ人)を招き入れ、社名をM・ゴールドマン・アンド・サックスに変更した。後にサムの息子アーサーとポール、ウォルターの3人はともに「家業」に加わり、特にウォルターは1980年に96歳で亡くなるまで72年間にわたって会社に関与した。創業から50年ほどの期間は、この両家の人間だけでゴールドマン・サックスのパートナーが構成されていた。1885年、マーカスは自分の息子ヘンリーと娘レベッカの夫であるルートウィヒ・ドレイフュスをジュニア・パートナーに招き入れると同時に社名をゴールドマン・サックスに変更した。1894年にハリー・サックスが入社し、1896年にはニューヨーク証券取引所の会員となった。ゴールドマン・サックスが扱ったCPは、1890年は3100万ドル、1894年には6700万ドルと急増し、1960年代後半にはアメリカのCP全体の50%を扱い1日2億ドル以上を販売するまでになる。マーカスが引退すると、会社を託されたのは、息子のヘンリー・ゴールドマンと、義理の息子サム・サックスであった。サムは1897年6月にロンドンを訪れ、マーチャント・バンクのひとつ、クラインウォート・サンズのハーマン・クラインウォートとアレキサンダー・クラインウォートに会って海外での資金調達に機会を見いだそうとした。このときクラインウォート家の2人は、NMロスチャイルドのニューヨーク代理人であるオーガスト・ベルモントを通じてゴールドマン・サックスの調査を行なったという。ベルモントの評価は「非の打ち所のない会社だ」である。ここからクラインウォートとの関係が始まったらしい。つまりこの関係があったからゴールドマン・サックスは1970年までロンドンに事務所を開設しなかったということになるようだ。彼らは相互に経済状況や相場、新規事業の機会に関する意見を交換しており、ゴールドマン・サックスのパートナーがイギリスに行くと、クラインウォート家の郊外の家で週末を過ごしたりするといった関係である。1904年、サム・サックスの息子アーサーとポールがハーバード大学を卒業して入社した。その夏、創業者であり2人の祖父にあたるマーカス・ゴールドマンが世を去った。サム・サックスとともに会社を託されたヘンリー・ゴールドマンは、28歳のときゴールドマン・サックスに入社した。ヘンリーは仲の良い友人フィリップ・リーマンと深い関係を築いてゆく。2人はマンハッタンのダウンタウンのレストランで毎日昼食を共にし、ゴールドマン・アンド・リーマンという名前で会社を設立することを検討したほどの仲であった。この話は、結局はそれぞれの家族が経営する会社が「提携」することになったが、この関係に基づいて、ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズは株の引受業務を共同で行ない、その利益を折半した。長く両社のこの関係が続いたのは、ゴールドマン・サックスが顧客を持ち、リーマン・ブラザーズが資金を持っていたためであったと言われている。例えば、小売業の巨人シアーズ・ローバックの資金調達や株式公開にはゴールドマンとリーマンが成功に導いているが、株の大半はサム・サックスの関係でクラインウォートを通じてヨーロッパで売ったり、シアーズ社はゴールドマン社とリーマン社に役員になってほしいと依頼してきたりといった“親密”ぶりであった。なぜこれを「親密」というのかというと、シアーズ社をリチャード・シアーズとともに同額出資して設立したジュリアス・ローゼンワルドは、サム・サックスの妹エミリアの夫のいとこだからである。シアーズの株式公開を成功裡に終えたゴールドマン社とリーマン社は、FWウルワースの株式公開引受主幹事の地位を勝ち得た。その後30年間、1936年に覚え書きを交わして正式に関係を清算するまで、ゴールドマンとリーマンは、あたかも1つの会社であるかのように、発行体56社、発行案件114の引受を共同で行なった。第二次大戦前のころには、両社の案件は公募価格が決まる前から完売されるまでになっていた。第一次大戦がゴールドマン・サックスを二分した。ヘンリー・ゴールドマンはドイツ系ユダヤの出自だったからか?、ドイツを支持し戦争でもドイツを支援した。サム・サックスは、クラインウォートに対して、会社はイギリスを支持する立場をとると表明した。サックス家もドイツから移住してきたが、サムが忠誠を誓うのはイギリスでありフランスであった。戦争が長引くにつれヘンリー・ゴールドマンとサックス家の関係は悪化していった。そしてついに、クラインウォートが電報で、ロンドンでブラックリストに載せられる危険があると伝えてきた。クラインウォートの目にもゴールドマン・サックスがドイツと積極的にビジネスを行なっているのは明らかだった。イングランド銀行は、クラインウォートがゴールドマン・サックスと外国為替業務を行なうことを禁じ、戦争が終了するまでゴールドマン・サックスがロンドンで業務を行なう道を絶った。その後、ヘンリー・ゴールドマンは「世界を動かし世論となりつつある意見に、私は同調いたしません。私は会社と全社員に対する暖かい思いと、35年間の思い出を胸に辞職します」と書いた辞表を提出し、ヘンリーはパートナーたちに、謝罪と共に辞職を願い入れた。そしてパートナーたちはそのいずれをも受け入れた。ヘンリー・ゴールドマンとサム・サックス、そしてヘンリーの妹ルイーザ・ゴールドマン・サックスとの関係は断ち切られ修復することはなかった。ヘンリーとサムの2人は、再び口をきくことはなかった。「両家の敵対関係は次の世代にも受け継がれ、今日(1967年)でもゴールドマン家でサックス家と口をきくものはいない」(スティーヴン・バーミンガム)ゴールドマン・サックスでゴールドマン姓を名乗る者はヘンリーが最後であった。1922年、彼はドイツ共和国に推薦されて名誉市民となっている。1930年代はじめ、彼は愛するドイツに戻り永住するつもりであったが、ヒトラーが権力を持つようになるとニューヨークに戻り、ヘンリー・ゴールドマンは1936年に永眠した。1929年の大恐慌時に権力を握っていたワディル・キャッチングスが会社に大変な損害を与えたことで追い出されると、大恐慌時に「ウォール街の諸悪の象徴」とされていたゴールドマン・サックスを甦らせたのは、中学を中退した“小卒の男”シドニー・ジェームズ・ワインバーグであった。まだ30代だったワインバーグは、その後、40年間ゴールドマン・サックスでリーダーシップを取ることになるのである。文字数オーバーなので3つに分けます。続きは以下です。ゴールドマン・サックス(2)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200509190001/
2005年09月19日
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ニッポンの国富を飲み込む「ファンドの魔術師たち」伊藤博敏(週刊ポスト 2005-09-23)ゴールドマン・サックス最強外資「荒稼ぎの手口」かつての旧長銀処理においては米外資リップルウッド・ホールディングスが悪名高い瑕疵担保条項を密約したことが後に発覚し、「ハゲタカ外資」「不平等買収」の批判を浴びた。そして05年夏。ファンドを使って、USJの事実上の買収に踏み切ったゴールドマン・サックスにも「隠された契約条項」があることが判明した。スクープである。郵貯マネーの獲得に早くも足場米大手投資銀行ゴールドマン・サックスの東京支店は、日本の新しい富の象徴ともいえる六本木ヒルズに、やはりある。ライブドアなど著名企業が入居するオフィス棟の中でもゴールドマンはさらに別格。フロア階に専用の入口を持ち、その奥に同じく専用エレベーターを持っている。1869年、アメリカ・ニューヨークで創業した手形商は、いつしか世界の金融界をリードする存在となり、大きな取引を意味する「ビッグ・ディール」には、毎回のように顔を出し、成果を上げてきた。ゴールドマンが「最強外資」と称される由縁である。日本では98年、NTTドコモの株式公開で主幹事を務めたあたりから実績を示し始める。当時は、上場企業の主幹事は国内大手証券が務めるという時代であり、日本の証券界に激震が走った。日本の大型M&Aにも関わってきた。リップルウッドによる長銀買収の際には政府側の、ソフトバンクによる日本テレコム買収ではソフトバンク側の、それぞれアドバイザー役を務めた。ごく最近では、郵政公社が10月から郵便局の窓口で販売する投資信託の委託・運用会社3社のうちの1社に選定された。民間金融機関が狙う郵貯マネーの獲得に、いち早く足場を築いた格好になる。東大生が殺到するという採用試験、「できる社員」は「億」を稼ぐという高収入、反面、無能の烙印を押されれば、即、解雇の厳しさなど、ゴールドマンの存在は、優勝劣敗の法則が貫徹する直接金融の時代の象徴だ。そのゴールドマンが、今度はユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)の増資に応じ、上場の際には、有利な株式の転換で、事実上のオーナーになるという“荒業”を披露、再び金融関係者を驚かせている──。ハリウッド映画の世界で遊べるUSJには、照りつける太陽と青空がよく似合う。今年の夏も、関西圏最大のこのテーマパークは家族連れやカップルで賑わい、「ジュラシック・パーク」「ジョーズ」「スパイダーマン」といった人気アトラクションには長蛇の列ができた。そんな入場者の歓声をよそに、巨額負債を抱えて経営再建中のUSJではひと夏をかけて増資を柱をする再建案をまとめていた。7月7日、第三者割当増資で総額250億円分の優先株の発行を内定。同月21日に開いた臨時株主総会で、引き受け先をゴールドマン・サックス系投資ファンド(200億円)と、日本政策投資銀行(50億円)にすることを承認した。ゴールドマンの参入で再建への道は加速する。8月19日には、金融機関と交渉していた事業資金650億円の借り換えに合意。三井住友銀行、ゴールドマン、政策投資銀行の3社が主幹事となって、金利の軽減や債務返済の先延ばしに成功。それまで経営の重荷となっていた年間元利返済額を約140億円から約80億円とし、早くも成果を上げて見せたのである。「払い戻し期限付き」の増資大阪の市街地近くという立地、米国で3ヶ所が開業しているユニバーサル・スタジオの人気から、東京ディズニーランドと並ぶテーマパークになると期待されたUSJだが、爆発的人気となった01年のオープン初年度を除くと、赤字基調が続いていた。様々な理由が考えられる。リピーターの確保が容易ではない、というのはテーマパークにとって致命的である。また2年目に、水飲み器への工業用水の混入、賞味期限切れ食材の利用、ショーで使う火薬量の許可以上の使用など不祥事が連続したこともある。ただ、それ以上に問題だったのは、USJの経営母体が責任の所在がハッキリせず、それゆえ思い切った決断のできない第三セクターだったからだろう。大阪市が25%、米ユニバーサル社のテーマパーク部門が24%、残りを地元企業が出資していた。大阪市関係者ですら、開業前からこの第三セクター形式での運営を危ぶむ人は多く、結果、怖れた通りになった。「コスト意識がないから、仕入れやメンテナンスはネゴなしの丸投げ。不祥事が起きれば責任回避に務め、改革のリスクを冒そうとしない。そんな役人根性で、どうしてサービス業ができますか」(大阪市役所幹部)USJが再建に向け、崖っぷちの調査を進めている最中、大阪では市役所職員の過剰な手当や怠慢な勤務態度が問題になっていた。カラ残業にヤミで支払われる退職金や年金、そしてスーツの支給──この問題を調べている調査委員会は、8月26日、328億円の返還を求める報告書をまとめた。税金をかすめとるのが“習い性”となっている「官」に、民間企業の経営などできるわけがない。が、代わって登場してきたのが、「民」の中でも厳しさは折り紙付きで、資本市場の論理を世界で体現するゴールドマンであるは、実に示唆的である。ゴールドマンが得意とするのは、市場と企業の“歪み”を発見、そこにリスクマネーを投じて“歪み”を修正、上場などを通じて果実を得る戦略である。USJはサービスに縁のない役人が運営にあたっているところに“歪み”があり、そこにビジネスチャンスがあった。しかも、仮に再生や修正に失敗しても、リスクを最小限に抑える「条項」を契約に盛り込んでいたのである。250億円の増資には、「2012年までに上場できない場合は全額払い戻す」という違約条項があった。また、優先株の価格は1株4万5000円と、大阪市などが出資した時から1割ダンピング。しかも株式上場時に優先株1株が2株になる転換条件がつけられていた。いずれもこれまでまったく明らかにされていないことだが、その結果、上場時に株式を転換すれば、ゴールドマンは46.5%を所有して筆頭株主となり、所有権を握る。ゴールドマンは弱った獲物を狙ったという意味ではハゲタカである。しかし、面倒な経営から逃れたいという大阪市にとっては、待ち焦がれていた救世主となった。繰り返された市の過大投資USJの増資の舞台裏を調べるきっかけは、大阪市議会関係者からの1本の電話だった。「USJが外資のゴールドマンに乗っ取られることになったんや。えらい有利な条件で増資を引き受けるらしい。結局、また役所の失敗を、市民の税金で処理することになるんちゃうやろか」それが、ゴールドマンが無利子融資などでUSJに深く突っ込んでいる政策投資銀行を巻き込んで増資を引き受けるとともに、金融機関の利害を調査、650億円を借り換えるという今回のスキームだったわけだ。「また」というのは、昨年、破綻状態に陥ったアジア太平洋トレードセンター(ATC)など大阪市の第三セクター3社が、大阪地裁に特定調停を申し立て、市や金融機関が調停案に同意、金融機関が900億円余りの債権を放棄する一方、市が追加融資で463億円の金融支援を行なうなど、市民の負担が増した例があるからだ。この失敗も、行政の「甘い見通し」に基づく過大投資が原因だった。USJもまた年間入場者数を甘く見積もり、その数字をもとに返済計画を立てたため、年間返済額が収益を圧迫、市は開業以来、支援を続け、その融資総額が230億円にも達していた。「もうこれ以上は支援できません」と、市長は昨年3月、「白旗」を掲げ、6月にそれまでの大阪市OBに代わって社長に就任したのが、米国ユニバーサル社の最高経営幹部のひとりとしてテーマパーク事業全般に携わっていたグレン・ガンペル氏だった。テーマパークのプロであるガンペル氏が手掛けたのは、コストダウンを含めた財務構造の改善とエンターテインメント性の向上である。USJの本社事務所は、若いクルーが出迎えるエントランスを下りた1階部分にある。高橋丈太広報室長が、「ガンペル戦略」を説明する。「8月24日に増資の払い込みが完了、借り換えの融資も実行されました。これで財務負担が減り、一定レベルの年間入場者数が維持できれば、順調に業績は回復、上場も視野に入ってきます。営業面では、大きなアトラクションを投入するだけでなく、イベントを含めたソフトを充実、ハローキティなどのキャラクターを増やすファミリーエンターテインメント戦略を取っています」高橋氏もゴールドマン広報も、「契約」の具体的な中身については口が重い。ただし、1株5000円のプライスダウンや、優先株1株につき普通株2株の転換条件という、私が入手した情報が事実であることの確認はとれた。しかし、それはあくまで“確認”であり、積極的な開示ではない。大阪市の融資230億円は、11年間、支払を猶予した後、2016年の元金一括返済だが、これも開示情報ではない。大阪市の譲歩に次ぐ譲歩であり、そんな「再建策」は世論の「ハゲタカ外資」批判を再燃させかねず、積極的には表に出したくないということだろう。日本経済の“歪み”全てが標的では、200億円を投じたUSJの増資引き受けにはどんな「経済合理性」があるのか。7年後までに上場しなければ全額払い戻し条件がついていたり、普通株への転換条件が有利であったりするために、どうしても「したたかさ」が強調されるが、逆にいえば上場しなければ200億円を金利なしで“寝かせた状態”にしているわけで、そこには間違いなくリスクがある。もちろんゴールドマンには、上場を見通せるだけの計算があるわけだが、上場後、筆頭株主として運営にあたるかどうかは未定だという。「将来について確かなことはいえませんし、現在想定しているということでもありませんが、上場後において、1部の株式を売却する可能性はありえます」(ゴールドマン・サックス広報)この計算された「経済合理性」と、時々の政治・経済の状況に翻弄されたあげく、最後は自己保身に走る大阪市の一貫しない態度を比べるのは意味のないことである。経営権を失い、12年後の一括返済を呑まされ、上場益すら希薄化されながら市の役人にあるのは、一刻も早くUSJの“重荷”から逃れたいという安堵だけである。この第三セクターの無責任体質、日本の金融機関が抱えるしがらみ、マーケットの原則を無視した規制や談合などが生み出す市場の“歪み”は、ゴールドマンにとって全てビジネスになる。株式や債権の自己売買、M&Aのアドバイザーとして知られてきたゴールドマンが、今回の投資ファンドを活用した増資引き受けのように、ゴルフ場、ホテル、温泉旅館などへの投資を活発化させている。それは、会社をあげての戦略であるとともに、確実なリターンを見込めるだけの“歪み”が、未だに日本経済に漫然と存在するからだ。ゴールドマンを率いるヘンリー・ポールソン会長は、経済紙の直近のインタビューで「日本は重要な戦略拠点であり、今後、さらに積極的に投資していきたい」(『日本金融新聞』05年6月27日付)と述べており、今後も様々な手法を駆使したゴールドマンの攻勢が予想される。カネにものをいわせ、ビッグ・ディールに溺れ、手続きを無視、収益のためなら手段を選ばないと批判されることもある「ゴールドマン商法」だが、ビジネスチャンスを与えているのは、「経済合理性」を失った“狙われた企業”の側である。その実態を知ることなしに、「ハゲタカ批判」を展開するほど、虚しいものはない。ゴールドマンサックス六本木ヒルズ店
2005年09月18日
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ナゼ読めない…「アマゾン」で1年超も品切れの本米が日本に提出する「年次要望書」の存在を暴く日本最大の書籍販売サイト『アマゾン・ドット・コム』で、ある本の品切れ状態が続いている。絶版本や希少本ではない。昨年4月に発売され、今年6月にも9刷となったロングセラーで、版元も大手の『文藝春秋』。ただ、郵政民営化を含めた小泉政権の規制緩和政策が、なぜ、“米国追従”なのかを種明かしする内容だけに、憶測が飛んでいる。この本『拒否できない日本』(関岡英之著、文春新書)=写真=は、米国政府が毎年10月に日本に提出する「年次改革要望書」の存在を暴く内容。10年来、日本の規制緩和政策が、独占禁止法や郵政民営化、先に成立した会社法など、すべて「要望書」通り実現していく様を描いている。もっとも、「要望書」自体は、米国大使館のサイトで日本語訳が読め、同書は《数年後の日本になにが起きるか知りたいときには必読の文献である》と指摘する。一方で、その要望実現過程では“内政干渉”もどきの手法もあるようで、日本政府としてはあまり国民に知られてほしくない代物らしい。実際、竹中平蔵郵政民営化担当相は平成16年10月19日の衆院予算委で「存じ上げております」と答弁しながら、郵政法案の審議が大詰めを迎えた8月2日の参院郵政特別委で「見たこともありません」と一転させた。同書は、「3万8000部売れています。昨年は社内ベスト10に入っています」(担当者)ながら、巨大サイトのアマゾンで買えないのだ。米国系の日本最大の検索エンジン『グーグル』に“拒否できない日本”と入力すると、最上位に掲示されるのがアマゾンの書籍販売サイト。クリックすると、新品は出品されていない旨の断り書きとともに、定価の4倍以上(3300円)もの中古本の案内が出る。「街の本屋や他の書籍サイトでも買えます。ですが、定番の検索方法の結果、こんな案内を見せられたら、地方では購入をあきらめる人がいるでしょう」(関係者)一体、なぜか。文藝春秋の担当者は、アマゾンでこんな状態になっていることを知らなかった。取次ぎを通じて調べてもらったところ、「アマゾンからの注文が来ていないようです。理由は分かりません」という。ネット上では、「米IT企業の代表格として日本に進出したアマゾンは小泉改革を推し進めたい。先の総選挙では、小泉陣営の邪魔になるから売らないのだ」との憶測が飛び交っている。著者の関岡氏は「私も売れ行きが気になり、しばしばアマゾンを訪れました。昨年4月の発売直後は問題なかったのですが、数カ月後から品切れ状態が続いている。もう1年以上です。中古本も経済原則を無視した高値が付けられており、作為的なものを感じます」と指摘する。1年以上となると、総選挙を標的にした陰謀説は退けられるが、関岡氏は「アマゾンは、私の本が読まれると、要望書の存在が広く知られ、嫌米論調を刺激することになるのを避けたいのでしょうか」と推測する。アマゾンにはメールで質問したが、回答はない。そして16日も品切れ状態は続いている。【年次改革要望書】 平成5年、当時の宮沢首相とクリントン大統領の首脳会談で、相手政府への要求を提案しあうことで合意した。実際は米国からの一方的な“ガイアツ”を制度化するもので、毎年10月、個別産業分野から行政、司法制度まで具体的要求が盛り込まれる。その達成度合いは『外国貿易障壁報告書』として米議会でチェックされる。ZAKZAK 2005/09/16http://www.zakzak.co.jp/top/2005_09/t2005091623.html『拒否できない日本』関本英之(著)アメリカの日本改造が進んでいる◆数年後の日本を知る必読の文献これから数年後の日本に何が起きているか。それを知りたいと思ったとき、必読の文献がある。アメリカ政府が毎年十月に日本政府に突きつけてくる『年次改革要望書』である。日本の産業の分野ごとに、アメリカ政府の日本政府に対する規制緩和や構造改革などの要求事項がびっしりと書き並べられた文書である。『年次改革要望書』では、最近まで五つの優先分野が指定されていた。通信、金融、医療機器.医薬晶、エネルギーとならんで住宅分野がそのうちのひとつだったのだ。しかし二〇〇一年版以降の『要望書」からは住宅分野が優先分野から姿を消した。住宅分野に関しては、アメリカは欲しい物をすでに手に入れた、というわけである。住宅分野に関してアメリカ政府が日本政府へ要求していたのは、ひとことで言えば木材製品の輸入拡大、ということに尽きる。もともと日本はアメリカにとって木材製品の最大の輸出市場なのだが、アメリカはビジネス・チャンスを更に拡大しようとして、過去数年さまざまな要求を日本に突きつけていたのである。日本政府がこれまで建築基準法の改正、「定期借家権制度」の導入や「住宅性能表示制度」の導入など一連の規制改革を進めてきた最大の理由はここにあったのである。◆日本政府はなぜ外国業者の利益をはかるのか私はなにもそれをインサイダー情報や内部告発などによって知ったのではない。アメリカの情報公開法のお世話になったわけでもない。アメリカまで行く必要さえなかった。自宅に居ながらにして、インターネットで誰にでも公開されているアメリカ政府の公式サイトから簡単に知ることができた。アメリカ政府自身が、その事実を公式文書のなかで堂々と公表しているのだから。それにしても日本の政府はなぜ、外国業者のビジネス・チャンスを拡大するために、審議会に諮問して答申書をつくらせた上で法改正まで行うという、手の込んだ手続を踏んでいるのだろうか。なぜそこまでする必要があるのか。◆クリントン政権の考え出した「年次改革要望書」そもそもこの『年次改革要望書』とはいったいどういうシロモノなのか。日本とアメリカとの外交関係において、それはどのように位置づけられているのだろうか。アメリカ通商代表部の『外国貿易障壁報告書』二〇〇〇年版に、『年次改革要望書』というものが毎年提出されるようになったいきさつが書いてある。それによると、これは一九九三年七月の宮沢首相とクリントン大統領の首脳会談で決まったことらしい。個別産業分野の市場参入問題や、分野をまたがる構造的な問題の是正を日本に迫るための、アメリカ政府の包括的なアプローチである、と説明されている。わかりやすく言えば、アメリカが日本に外圧を加えるための新しい武器として、クリントン政権が考え出したもの、ということらしいこの宮沢・クリントン首脳会談のときの政府間合意を根拠として、一九九四年に最初の『年次改革要望書』が提示された。それは三十二ぺ-ジの英語の文書で個別産業分野としては農業、自動車、建築材料、流通、エネルー、金融、投資、弁護士業・医薬・医療・情報通信など、分野横断的なテーマとしては規制籍や行政改革、審議会行政や情報公開・独占禁止法と公正取引委員会、入札制度や業界慣行、そして民事訴訟制度などが網羅され・まさに日本の産業、経済、行政から司法にいたるまで、そのすべてを対象にさまざまな要求を列挙したものだった。◆マスメディアが今まで報道しなかったこと(中略)二〇〇三年十月にもアメリカ政府から日本政府へ『年次改革要望書』が出されているが、なぜか主要な新聞はそのことを報道しなかった。二〇〇一年十月のときは・シンガポールで開催されたWT0」の非公式閣僚会議の際に田中真紀子外務大臣(当時).がゼーリック通商代表部代表と『年次改革要望書』を交換し合ったということを、十月十五日付けの日本経済新聞が小さなベタ記事で報道した。しかし「米国側の要望内容は明らかになっていない」として、内容にはいっさい踏み込んでいない。日本の将来にとってこれほど重要な意味を持つアメリカ政府からの公式文書である『年次改革要望書』の全文が日本のマス・メディアで公表されたことはないのだ。それでは、アメリカ政府が日本政府に毎年どんな要求を突きつけているのか、われわれ一般の国民はどうやったら知ることができるのだろうか。◆内政干渉を隠そうともしないアメリカ種明かしをすればどうということはないのだ。アメリカ政府の日本政府に対する『年次改革要望書』は誰でも簡単に読むことができるのである。全文が日本語に翻訳され、在日アメリカ大使館の公式ホームページで公開されているからだ。過去数年のバックナンバーも、すべてそこで日本語で閲覧することができる。私は大学院の修士論文を書くために、建築基準法の改正についてインターネットでいろいろ調べているときに偶然それを見つけたのだ。なるほどアメリカという国は堂々と構えているものだ。内政干渉の事実を隠そうともしない。伏せようと努力しているのは、干渉している側ではなく、もしかしたらされている側の方なのかもしれない。◆要求の進捗状況は日米当局者が点検『年次改革要望書』は単なる形式的な外交文書でも、退屈な年中業事でもないアメリカ政府から要求された各項目は、日本の各省庁の担当部門に振り分けられ、それぞれ内部で検討され、やがて審議会にかけられ、最終的には法律や制度が改正されて着実に実現されていく。受け取ったままほったらかしにされているわけではないのだ。そして日本とアメリカの当局者が定期的な点検会合を開くことによって、要求がきちんと実行されているかどうか進捗状況をチエツクする仕掛けも盛り込まれている。アメリカは、日本がサボらないように監視することができるようになっているのだ。これらの外圧の「成果」は、最終的にはアメリカ通商代表部が毎年三月に連邦議会に提出する『外国貿易障壁報告書』のなかで報告される仕組みになっている。アメリカ通商代表部は秋に『年次改革要望書』を日本に送りつけ、春に議会から勤務評定を受ける、という日々を毎年過ごしているわけである。(P47-P53)株式日記と経済展望http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu70.htm日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本政府への米国政府の年次改革要望書(2003年10月24日)http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20031024d1.html日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書(2004年10月14日)http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20041020-50.html日米関係情報http://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/n_america/us/index.htmlアメリカが進める日本改造政府、マスコミあげての「年次改革要望書」隠しに抗議する(盛田実)『年次改革要望書』というものがある(深夜のNews)石原知事定例記者会見録(平成17年7月29日)
2005年09月16日
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ウクライナでユーシェンコ大統領がティモシェンコ首相を含む全閣僚を総辞職させるなど現政権に大きな動きが起こっている。大統領がティモシェンコ首相ら全閣僚を解任したのは9月8日である。絶大な人気を誇るティモシェンコ前首相は新内閣への参加を拒否している。大統領はティモシェンコ前首相に新政権への参加を打診したがティモシェンコはそれを拒否。ティモシェンコは新党を結成し、政治運営では大統領と一線を画す考えを明らかにした。「国営企業の民営化」の急先鋒であったティモシェンコが新内閣への参加を拒否したことで、ウクライナは国営企業の民営化を決定していたが、この行方が分からなくなってきたのである。これによって、ウクライナが年内に目指していたWTOへの加盟問題も雲行きが怪しくなったと言われている。ウクライナの加盟審査を行うWTO担当者は、英紙フィナンシャル・タイムズに「仮に不可能でないにせよ、極めて困難になった」と語っている。ウクライナ大統領、全閣僚を解任9月8日、ウクライナのユーシェンコ大統領は8全閣僚を解任。代表撮影(2005年 ロイター)(ロイター)11時38分更新[キエフ 8日 ロイター] ウクライナのユーシェンコ大統領は8日、ティモシェンコ内閣の全閣僚を解任し、ドニエプルペトロフスク州のエハヌロフ知事に新政府の組閣を命じたと述べた。大統領は、昨年クチマ前大統領政権下の汚職拡大に対する抗議による「オレンジ革命」で誕生した現政権について、支持者の熱い期待に応えられていないとして、新たなスタートを切るため人事刷新に踏み切ったと説明した。しかし、2006年3月の議会選挙に向け、大統領と、民主化の主要人物の1人で今回解任されたカリスマ的存在のティモシェンコ前首相との間で対立が生じる可能性も出てきた。(ロイター) - 9月9日11時38分更新http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050909-00000139-reu-int辞職したティモシェンコ首相首都キエフでテレビ出演を終え、花束を手に笑うウクライナのティモシェンコ前首相。ユーシェンコ政権内の混乱で同氏ら急進改革派閣僚が事実上“追放”された。「大統領は側近の人質になった」と批判(9日)(EPA=時事)11時05分更新http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050910-02682903-jijp-int.view-001今回のウクライナの動き(全閣僚解任:ティモシェンコはガスの女王と呼ばれるほど天然ガスとの関わりが深い人物である)には、ロシアの天然ガス輸出に関するウクライナとの「ガス供給契約の締結」が大いに関係していると私は見ている。ようするに、対ロシア関係についての(旧)政権内での対立である。先月ロシアの産業エネルギー省は、ガスプロムがウクライナに対して来年度のガス供給契約の締結を前にこれまでのバーター取引による決済方法をやめるように請求していることを明らかにしていた。つまり、07年度以降のガス供給価格についての合意が得られない状態では、06年度の契約は結べないとウクライナ側に伝えていたのである。※ ガスプロムは欧州が必要としているガスの4分の1を供給しており、その殆どとなる80%近くをウクライナ経由で運び出している。これまでは、ガスプロムがウクライナ経由でガスを欧州に輸出した際、ウクライナでかかる関税分をウクライナが支払うガス代金の一部として相殺させてきていた。ガスプロムについては、以前、詳しく取り上げましたので、興味のあるひとは次をお読み下され。ガスプロム(2005年06月05日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200506050000/ウクライナ大統領、対露関係改善へ傾斜 前首相は対決姿勢強める【モスクワ=内藤泰朗】ウクライナのユシチェンコ大統領は、八日の全閣僚解任後、ロシアとの関係改善を目指す姿勢をみせ始めた。エネルギーをロシアに頼るウクライナが、エネルギー価格の値上げを打ち出したロシア側との妥協を模索する動きとみられている。しかし、昨年のオレンジ革命の立役者の一人で、国民的に人気が高い女性指導者、ティモシェンコ前首相は、大統領との対決姿勢を強めている。 ユシチェンコ大統領は十一日、キエフで、イエハヌロフ首相代行率いる新内閣が「現実主義」に基づいた構成となると表明するとともに、「国民福祉と法に基づく規律、言論の自由を実現し、裏経済を消滅させる」と訴え、改革継続の決意を示した。その首相代行は九日、キエフで記者会見し、ロシアが主導する旧ソ連圏の経済的連携強化を狙った「統一経済圏」構想への参加を示唆するなど、対露関係を大幅に改善させる姿勢を示した。欧州連合(EU)加盟を最優先に掲げるユシチェンコ大統領も、同首相代行に対露関係に特別な配慮をするよう指示したという。一方、チェルノムイルジン駐ウクライナ露大使は十一日、プーチン大統領が十月下旬にウクライナ訪問を予定していることを明らかにし、「この訪問が、両国の政治、経済関係の発展に寄与することになるだろう」と述べ、両国の関係が改善に向かうとの見方を示した。ウクライナでは、一月の新政権発足後、民営化された旧国有資産の再民営化に絡んで政権内の大規模汚職疑惑が発覚したのに加え、ガソリンや砂糖の値段が急上昇する経済危機に見舞われていた。ロシアでは、ウクライナの“ロシア傾斜”について、「経済安定のために、天然ガス価格の据え置きを引き出そうとしているに過ぎない」(独立国家共同体研究所のザトゥーリン所長)といった冷めた見方も根強い。一方、ティモシェンコ前首相は九日、「汚職が蔓延(まんえん)しているのは大統領の周辺だ」として、汚職や内部対立の拡大を理由に内閣解任に踏み切った大統領を激しく批判。来年三月の議会選挙に向けて独自の政治活動を開始すると表明し、大統領の政治的ライバルとなった。ウクライナでは、大統領をしのぐ強大な権力を持つ新議会が、来年一月にも誕生することが決まっている。来年三月の議会選挙では、昨年のオレンジ革命を主導した、ユシチェンコ氏ら民主化勢力を二分した骨肉の争いになることも予想される。(産経新聞) - 9月14日2時34分更新http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050914-00000013-san-int※ 以下はサムネイルなのでクリックで拡大します。 ユリア・ティモシェンコのサイトhttp://ww2.tymoshenko.com.ua/eng/index/ウクライナ経済黄信号 政変で企業民営化不透明(2005/9/15)http://www.business-i.jp/news/world-page/news/200509150006a.nwc※ 「灼熱」内での関連記事ユリア・ティモシェンコ(2005年02月10日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200502100000/ロシアのエネルギー動向(2005年06月01日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200506010000/
2005年09月15日
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フランクフルトはブンデスバンクの本拠地としてもっともよく知られている。終戦時点では、ベルリンとハンブルクがライバルの金融センターになっていた。米国占領軍がドイツ官僚と協力し、フランクフルトに本拠を置く新たな中央銀行制度を設立したときに、フランクフルトの金融センターとしての地位が再確立する。地方分権的な銀行制度が導入されたので、長い間、ドイツでは大きな金融センターが育たなかったが、徐々にフランクフルトが中心地となっていった。1948年6月20日、駐留米軍は厳重な警戒の下、フランクフルト本部にライヒス・マルクにかわる107億マルク相当のドイツ・マルク新札を配送した。1984年にドイツ銀行は本店をフランクフルトに移し、現在、そのツインタワーは市内でもっとも目立つ高層ビルだ。フランクフルトにあるドイツ銀行の本拠ドイツ銀行の移転は、フランクフルトがドイツの金融センターという地位を取り戻した証拠ともいえる。今日、フランクフルトには400を超える銀行が居を構えている。欧州中央銀行(ECB)の所在地はフランクフルトになるが、「カイザー通り29番地」これがユーロタワーのある場所である。1992年半ば、ECB本店の話が議題に上ると、ロンドン、フランクフルト、アムステルダム、バルセロナ、リヨン、リール、ストラスブールなどの都市が立候補宣言を行なった。ドイツ政府はフランクフルトを強く押し出したが、フランス政府は代案さえもっていなかったのである。フランスがドイツの要望を叶える方針だったため、他の都市の出る幕はなくなり、1993年10月のブリュッセルにおける欧州理事会(欧州サミット)でフランクフルトに決定された。 マーストリヒト条約は、ECBの前身として1994年に欧州通貨機構(EMI)を創設することを規定している。そのEMIがECBの規約、金融政策手段および運営方式を起草することになっていた。その意思決定機関(EMI評議会)は、EU各国の中銀総裁とEMI総裁で構成される。総裁には国際決済銀行(BIS)総支配人であったベルギー人のアレクサンドル・ラムファルシーが選出された。EU各国の中銀総裁たちは、長年にわたって中央銀行総裁会議の下で定期的に顔を合わせており、「中立的」な場所と考えられるスイスのバーゼルにあるBIS本店内に小さな事務局を置いていた。最初からドイツの影響力が大きかった。元ブンデスバンク職員で、中央銀行総裁会議に勤務するため1993年にBISに来ていたハンスペーター・シェラーが、EMIの事務局長に任命された。ラムファルシーの下で、彼は金融政策戦略の草案作りを含め、単一通貨への移行にかかわるもっとも重要な準備作業を監督する。P・W・シュリュターというもう1人のドイツ人がブンデスバンクから移動してきて、EMIの事務部門を統括し、EMIの本部として高層ビルの「ユーロタワー」を選定する。市の南部にある35階建てのビルは、2、3フロアしか空いておらず、最初は一時的な居所と考えられていた。しかし、1998年初めには永住場所とする決定が下された。市外の高速道路のインターチェンジ近くにある、要塞のようなブンデスバンクとは違って、そこは市内の金融センター地区の真中に位置する。 Bundesbank Frankfurtカイザー通り29番地、すなわちユーロタワーのある場所には、いろいろ入り組んだ興味深い歴史がある。近接地区全体がそうであるように、この通りは1871年にドイツ帝国が建国されてからはじめて開発・建設されたところで、フランクフルトの歴史のなかでは比較的新しい。1880年代末のカイザー通り29番地には、プロシアの王族にちなんだ「ホレンツォレルン・ハウス」という名前の建物があり、当時はかなりの名所であった。この建物は、最初はオッペンハイム・ウント・ヴァイルというユダヤ系不動産会社が所有していた。そのパートナーの1人にサイモン・E・M・オッペンハイムという銀行家兼実業家がいた。彼はあの著名なユダヤ系銀行家オッペンハイムの縁者である。その建物にはヤコブ・ジヒェルというユダヤ系銀行家の事務所も入っていた。市の公文書によれば、ヒットラーが権力を掌握した1933年に、市の戸籍簿からジヒェルの名前が突如消え去っている。ジヒェルの消滅に加えて、近隣地区にはもうひとつの不吉な変化があった。ホレンツォレルン・ハウスから北に向かう通りの名前が「アドルフ・ヒットラー通り」に変更され、終戦までその名称が続くことになったのである。1970年に大戦中に空爆で破壊されたホレンツォレルン・ハウスの廃墟は取り除かれた。翌1971年からはじまる高層ビルの建設に場所を譲るためである。新築ビルの最初の入居者はバンク・フュア・ゲマインヴィルトシャフトという労働組合系の銀行であった。最近、ドレスナー銀行の子会社である不動産会社がそのビルを購入した。ECBはビル全体の賃貸を要請して交渉中である(99年)。2階部分を占めているソロモン・ブラザーズと、ドイツの銀行であるコメルツ銀行が入居しているだけなのである。その間ECBは、通りの向かい側にあるイタリア系のモンテ・デイ・パスチ・ディ・シエナという、世界最古の銀行のフランクフルト支店に会議室を間借りしている。モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行の謎に迫るhttp://www.love-italy.net/topics/siena_read/02.htmlユーロタワーの玄関はまったく目立たない。ECBが入居していることを示す看板は外にも内にもない。警備主任によれば「保安上の措置」だそうだ。ビルの外はあまり魅力的とはいえない。カイザー通りはフランクフルトの南西端に位置し、その辺りのおもな特徴にちなんで「駅前地区」と呼ばれている地域のなかを通っている。戦争中、金融センター地区のほとんどを含め、市の半分以上は破壊された。元の姿に回復するのではなく、再建に携わる人々は高層ビルが林立する地平線を作ることにしたのである。フランクフルトは欧州でもっとも米国的な都市として知られるようになった。 フランクフルトの造幣史は、神聖ローマ帝国の皇帝がそこで選挙され、戴冠されていた1562年から1792年に起源をもつ。ユーロタワーから東に数ブロック行ったところに、歴史的かつ地理的に市の中心に当たる「レーマーベルク(ローマの丘)」がある。カール大帝が要塞を築き、その後、皇帝たちの戴冠式が執り行われるようになったところだ。戴冠式の後、13世紀に建造された赤い砂岩でできたゴシック様式の聖バルトロマエウス大寺院から市庁舎に向かう際、群衆から逃れるために皇帝が使用したという地下道が残存している。市庁舎で皇帝は再び姿を現わし、自分の横顔が刻まれた鋳造したばかりの貨幣を市民に配ったのである。欧州のなかで、フランクフルトほどお金のおかげでその重要性を勝ち得てきたという都市はほかにない。何世紀にもおよぶユダヤ人に対する相対的な自由主義を背景に、フランクフルトは重要な金融センターに発展していった。神聖ローマ帝国およびその都市国家にはじまる初期の近代国家では、貨幣流通を司る効率的な銀行制度がどうしても確立できなかった。ユダヤ人だけは利息受け取り禁止の適用除外になっていたので、信用の提供者としては必要不可欠な存在であった。フランクフルトは8世紀末にかけて国際貿易の要衝に発展していった。793年の冬にカール大帝がフランクフルトに滞在したが、記録によれば、彼はユダヤ人を取引の代理人として使っていた。30年戦争(1618~48)のとき、さまざまな政治勢力がユダヤ人を攻撃した。フランクフルト市議会は彼らの財力を支配しようと、ユダヤ人は皇帝ではなく市議会に対して忠誠すべきだと主張する。さらに、当時の欧州では一般的だった反ユダヤ主義政策を導入しようとして、ユダヤ人の移動の自由を制限する特別条例の制定を要求する。皇帝はこの制限の緩和を求めて戦う。「帝国ローマ皇帝および神聖帝国の保護」と刻まれた楯が、ユダヤ人街の3つの門にかかっていた。皇帝たちは何といっても、ユダヤ系オッペンハイム家に大きな恩義を負っている。レオポルト1世の対トルコ戦争に必要な戦費を調達したのは、宮廷御用商人、別名「宮廷ユダヤ人」のサミュエル・オッペンハイムであった。フランクフルトは非常に豊かになり、ドイツ人の愛する詩人ゲーテは、ドイツの「秘密の首都」と呼んだ。ゲーテはここで生まれ育ち、現在、彼の像が通りを挟んで「ユーロタワー」の向かい側に建っている。※ 参考書籍『ザ・バンク』ウィム・ドイセンベルクhttp://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200509100000/ジーメンスとドイツ銀行http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200508230000/トリシェ欧州中央銀行総裁商品価格高騰が世界の経済成長を抑制=ECB総裁(ロイター)- 9月12日22時7分更新http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050912-00000433-reu-bus_allECBの金利政策では、原油高が及ぼす悪影響に対処できない=独連銀総裁(ロイター)- 9月9日7時21分更新http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050909-00000104-reu-bus_all欧州中銀が現時点で利下げする理由はない=IMF欧州局長(ロイター)- 9月14日8時46分更新http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050914-00000571-reu-bus_all
2005年09月14日
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※ これは下から続いてます。次をクリックしてそちらを先にお読み下さい。「ウィム・ドイセンベルク」大蔵大臣になった翌年の1974年、「タイム誌」は、明日の指導者となる可能姓が高い45歳以下の150人の1人としてドイセンベルクを選んだ。選ばれたオランダ人は彼1人で、ドイセンベルクはまだ39歳であった。大蔵大臣ドイセンベルクはケインズ政策を推進した。支出拡張政策を積極的に推進したのである。ドイセンベルクは全国民1人ひとりに100ギルダーの小切手を送付することさえ提案した(これはボツになった)。ある記者からGDPに占める政府のシェアは限界を超えたのではないかと質問されたときドイセンベルクは、「経済に占める政府の比重が限界に達したとは思わないね。限界があるとも思わないよ。かりにあるにしても、考え方があまりに静態的だよ。まるで経済がこれ以上やってはいけないような最終ゴールがあるみたいにさ。私はそういう風には考えないよ」と返答している。しかしドイセンベルクは、徐々にケインズ主義信奉者つまり政府介入の積極派から消極派へと転向してゆく。当時の経済政策次官のノウト・ヴェリンクは言う。「誰もがケインジアンだったなかで、ドイセンベルクはケインズ主義の終焉に気づいた先駆者の1人だったんだ。総理や閣僚と本気でやり合ったんだからね。税金・財政赤字・経済の役割などに関する彼の保守的な態度は嫌われたもんだ」その後、ドイセンベルクは次期内閣への不参加を発表した。首相後継者だと囁かれた時期もあったし、タイム誌にも大物になると書かれたのに。ドイセンベルクは国際金融界でもっとも強力な地位のひとつであるIMF暫定委員会の委員長を目指したのである。さらに高い国際舞台への進出である。なぜそんなにIMFの職に就きたいのか尋ねられると、「権力を振るえるからだよ。権力が欲しいんだ」と答えた。大蔵省があるじゃないかと言われると、「そう、僕にも権力があるさ。でもIMFの議長のほうが強大だよ」と応じた。ドイセンベルクはその「憧れ」の地位を獲得できなかった。もう大蔵大臣ではないのでまたの機会もないだろう。しかし、代替策がひとつだけある。IMFの会議に参加しているのは大蔵大臣だけではない。中央銀行総裁も出席しているからである。動きは素早かった。オランダ最大の銀行ラボバンクの会長ゲラルト・メルテンスが副会長職にドイセンベルクを招いた。ドイセンベルクは議員を辞職した。2年後、彼は中央銀行の理事職に移籍することを公表した。理事の1人に任命されたのである。さらに1981年の中央銀行入りから1年後、彼は総裁に昇進した(中銀総裁は正式には女王が任命する)。総裁になった彼は政府の財政支出政策を批判するようになったと言われている。ケインジアンからフリードマンの「マネタリスト」への転向なのだろう。米国ではポール・ヴォルカーが79年になってはじめてマネタリスト理論を実行に移したと言われている。「刺激策をとって経済を不況に陥れただけだったんだから、刺激策で再び不況から脱出しようというのは馬鹿だよ」と彼は1985年に述べている。ドイセンベルクは総裁を15年間にわたり務めた。ドイセンベルクの後任は、上にも登場したノウト・ヴェリンクである。1998年5月、ブリュッセルにおいてドイセンベルクがECBの総裁に指名された(ECBの前身EMI総裁には97年7月に指名)。ECBは議決記録や政策決定委員の見解の公表を拒否している。議事録は30年間は秘密とされている。2005年7月31日、フランス南部のオランジュ近郊にある別荘で、「ミスター・ユーロ」と呼ばれた70歳のウィム・ドイセンベルクが死体で発見された。以前も少し書いたが、私は“事件性”を疑っている。ECB総裁の任期は8年だが、ドイセンベルクは98年の就任から任期半ばの2003年10月にフランスのジャン・クロード・トリシェに総裁職を譲って辞職した。現在の欧州中央銀行の役員会の構成は次のようになっている。カッコ内は任期。【総裁】ジャン・クロード・トリシェ(2011年10月末)フランス中央銀行総裁【副総裁】ルーカス・パパデモス(2010年5月末)ギリシャ中央銀行総裁 【専任理事】トゥンペル・グッゲレル(2011年5月末)オーストリア中央銀行副総裁 オットマー・イッシング(2006年5月末)ドイツ連邦銀行理事 ロレンツォ・ビニ・スマギ(2013年5月末)イタリア経済財務省国庫総局国際部長 ゴンザレス・パラモ(2012年5月末)スペイン中央銀行理事 「ミスター・ユーロ」の死http://www.tbs.co.jp/newsi_sp/eu/050809.htmlEUの金融政策http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/eu/ecb_gaiyou.html国際決済銀行http://www.tabilinks.com/basel/bis.htmリッパー・リポート(PDF)http://www.tisec.co.jp/pub/pw/service/Lipper/report/※ 参考図書『ザ・バンク』単行本: 568 p ; サイズ(cm): 20 出版社: 万来舎 ; ISBN: 4901221027 ; (2000/10) 内容(「MARC」データベースより)ECB創設における陰謀・内紛、金融政策をめぐる虚々実々の駆け引きなど、ユーロ誕生による国家間の対立を描いたノンフィクション。グローバルな金融情勢を知る上で役立つ一冊。出版社からのコメント翻訳出版直後から銀行家や機関投資家が注目し、書評家を徹夜させた1冊です。金融のことは難しくて、という方を念頭にひらたく書かれていますので、特別な知識は必要ありません。円・ドル・ユーロなどの言葉が気になったら一度読んでみてください。新聞の金融面や国際面が面白くなること請け合いです。カバーの折り返し欧州と話をしたいとき、いったいだれに電話をかけたらいいのか? ヘンリー・キッシンジャーのこの有名な問いに対して、ついに答えが出た。欧州中央銀行(ECB)の総裁に話をすればいいのである。『ザ・バンク』では、ECB設立にかかわる当事者たちとの直接インタビューに基づき、ECBの総裁の指名にまつわる陰謀・内紛、金融政策のあり方をめぐる国家間の対立をドラマチックに再現している。一九九八年五月、欧州の首脳たちはウィム・ドイセンベルクの初代総裁指名をめぐって激しく争っていた。ドイツがECBの青写真としてブンデスバンク・モデルを押しつけたため、自尊心と国家意識が強いフランスは躊躇し、警戒心を強めたのである。ここに国の威信をかけた虚々実々の駆け引きが繰り広げられていく……。グローバルな金融情勢を知る上で必読の一冊。著者について1966年、米国・カリフォルニア生れ。ワシントンDCのジョージタウン大学外交大学院でドイツおよび欧州問題について博士号取得。1995年、ウォール・ストリート・ジャーナル欧州版に入社。ボン特派員として、ブンデスバンクや欧州金融問題に関する報道に携わるとともに、「ワシントン・ポスト」紙、「ニューズウィーク」誌、「ロサンゼルス・タイムズ」紙など、米国や世界の主要な新聞・雑誌にも寄稿。現在はフリーのジャーナリストとして世界の舞台で活躍中。※ 本書の主な登場人物ウィム・ドイセンベルク(ECB総裁)クリスティアン・ノワイエ(ECB副総裁)エウヘニオ・ドミンゴ・ソランス(ECB専任理事)オトマール・イッシング(ECB専任理事)シルッカ・ハマライネン(ECB専任理事)トマソ・パドア=スキオッパ(ECB専任理事)アレクサンドル・ラムファルシー(EMI総裁)ジャック・ドロール(欧州委員会委員長)ハンス・ティートマイヤー(ドイツ中央銀行総裁)ヘルムート・シュレジンガー(ドイツ中央銀行総裁)ヘルムート・コール(ドイツ首相)ヘルムート・シュミット(ドイツ首相)オスカー・ラフォンテーヌ(ドイツ蔵相)テオ・ワイゲル(ドイツ蔵相)ハンス=ディートリッヒ・ゲンシャー(ドイツ外相)ジャン=クロード・トリシェ(フランス中央銀行総裁)ヴァレリー・ジスカールデスタン(フランス大統領)フランソア・ミッテラン(フランス大統領)ジャック・シラク(フランス大統領)リオネル・ジョスパン(フランス首相)エデュアール・バラデュール(フランス蔵相)ピエール・ベレゴボア(フランス蔵相)エディ・ジョージ(イギリス中央銀行総裁)トニー・ブレア(イギリス首相)アントニオ・ファッツィオ(イタリア中央銀行総裁)ジウリオ・アンドレオッティ(イタリア首相)イヴ・メルシュ(ルクセンブルグ中央銀行総裁)ジャン=クロード・ユンカー(ルクセンブルグ首相)アルフォン・ヴェルプラエ(ベルギー中央銀行総裁)ノウト・ヴェリンク(オランダ中央銀行総裁)モーリス・オコネル(アイルランド中央銀行総裁)クラウス・リープシャー(オーストリア中央銀行総裁)マッティ・ヴァンハラ(フィンランド中央銀行総裁)ルイス・アンヘル・ロホ(スペイン中央銀行総裁)アントニオ・デ・ソウサ(ポルトガル中央銀行総裁)アラン・グリーンスパン(FRB議長)【日本語版によせて】本書は、欧州の歴史を書き換えた重大な事件の経過を扱ったものである。執筆にあたってのそもそもの動機は、神秘のベールに包まれた国際金融の仕組みを、欧州の一般の人々に理解してもらおうというものだった。同時に、現代欧州の主人公たちの素顔を描き出したいとも考えていた。ここに登場するのは、欧州通貨同盟の創設に尽力し、現在、欧州中央銀行の首脳陣として活躍しているバンカーたちである。この面々は、本書第1章において一堂に会する。舞台となっているのは、1997年にスイスのバーゼルで開催された、先進諸国の中央銀行総裁会議という馴染みのない情景である。このシーンについて、日本の一般読者のために若干コメントしておこう。私がECBに関する本をこの会議から書き起こしたのは、単一通貨導入を目指す欧州の中央銀行家たちにとって、精神的にもっとも落ち込んでいた時期だったからだ。このときバンカーたちは、1999年に予定されていたユーロの発足に疑念を抱くまでになっていた。しかし、そのどん底から抜け出すべく歩を進め、欧州の名のもとに再び前進していくことを、同じ会議の場で暗黙裡に合意したのである。もう1つ、この会議を取り上げた理由は、後にECBの初代総裁となるドイセンベルクが、ユーロ計画の延期を実際に示唆したことにある。私は数多くのインタビューに基づいて、非公開の会議で取り交わされた会話を再構成した。この運命的な会議のことを記述したものとしては本書が唯一無二である。当初の意図からすれば、本書の内容にはそれなりの自負をもっている。しかし、1999年半ばに出版されてから、ドイツでビジネス書のベストセラーになり、日本、中国、台湾でも翻訳される運びとなったのはうれしい驚きであった。(以下略)2000年7月 マット・マーシャル
2005年09月10日
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1997年2月9日の日曜日の夜、世界最強の中央銀行家たちがスイスのバーゼルにある国際決済銀行(BIS)の高層ビル最上階のダイニングルームに集まっていた。1930年に設立された“中央銀行の中央銀行”として知られるBISは、中央銀行総裁たちが金融界の重要問題を「議論」するために集まるフォーラムへと変質してきた。合意されているルールでは、参加者はメモを取ることも補佐役を連れてくることも認められていないという。ただし例外がひとつだけある。それは、米連邦準備制度理事会議長アラン・グリーンスパンだけは、ニューヨーク連邦準備銀行総裁ビル・マクドナーを同道することが許されているということである(現在のニューヨーク連銀の総裁はティモシー・ガイトナー)。※ ニューヨーク連銀のガイトナー総裁は2003年11月17日に42歳で9代目ニューヨーク連銀総裁に就任した。ニューヨーク連銀総裁になったと言うことは、FOMC(連邦公開市場委員会)の副議長にもなったと言うことである。ガイトナーはニューヨーク連銀に入る前は、2001年9月からIMFで政策企画審査局長を務めていたが、その前の1998年から2001年までは財務次官(財務長官はロバート・ルービン)である。ガイトナーは1983年にダートマス大学の学士、1985年にジョンズ・ホプキンス大学の修士を取得している。そして日本や中国などアジアに住んだこともあり、日本や中国に精通している人物である。以下は、2003年10月の記事。新総裁にガイトナー元財務次官=11月中旬に就任-NY連銀【ニューヨーク15日時事】ニューヨーク連銀は15日、先に退任したマクドナー総裁の後任として、クリントン前政権下で財務次官を務めたティモシー・ガイトナー氏(国際通貨基金=IMF=政策企画審査局長)を指名したと発表した。同連銀総裁ポストは今年6月以来空席で、スチュワート第1副総裁が暫定総裁を務めていた。同連銀によると、ガイトナー氏は11月中旬に総裁に就任する。同氏は「総裁指名とともに、(ニューヨーク連銀で)働けることを光栄に思う」と述べた。 (時事通信)[10月16日7時4分更新]日本とカナダおよび欧州8カ国の中央銀行総裁は単身であるのに、米連邦準備制度理事会議長だけにはニューヨーク連銀の総裁が同道するのである。これは、米国の「中央銀行」の実質トップが連邦準備制度理事会議長ではなく、ニューヨーク連邦準備銀行の総裁であるということを示唆している出来事だと私は思っている。ニューヨーク連邦準備銀行については、次の「三菱商事フューチャーズ」の説明が参考になるので興味のあるひとはどうぞ。ニューヨーク連邦準備銀行(Federal Reserve Bank of New York)についてhttp://www.mcf.co.jp/kawase/news/mamechishiki/mame_13.htmlこの日は、欧州中央銀行(ECB)の前身である欧州通貨機構(EMI)総裁アレクサンドル・ラムファルシーとBISの総支配人アンドルー・クロケットも招かれていた。これらのバンカーは、合計すると世界全体の流通通貨の95%を支配し、為替市場や株式市場さえも左右することができる中央銀行家たちである。集まった者たち以外の記者なども完全にシャットアウトしているので、ガードを緩めて本心を語ったはずである。当時のBIS総裁であるウィム・ドイセンベルク(BIS総裁職は中央銀行の世界ではもっとも尊敬される職務であるが、ドイセンベルクは任期3年を2回務め歴代最長である)がディナーのホスト役を務め、大きな卵形テーブルの北側の真中に座った。ドイセンベルクの向かい側は、G10議長の席で、ドイツの中央銀行総裁ハンス・ティートマイヤーが座った。グリーンスパンはドイセンベルクの横である。当夜のテーマを発表するのは、イングランド銀行の総裁エディ・ジョージであった。ジョージは咳払いをしたあと、「欧州経済通貨同盟(EMU)に関して議論するよう提案します」と語った。欧州の単一通貨移行に向けての議論のために、この日、世界の中央銀行家が集まったのである。イングランド銀行総裁のジョージは、不参加を決定している国の中央銀行総裁である。ジョージは次のようにも語っている。「失業問題は悪化の一途をたどるだけだ。そのような状況下で単一通貨を導入するのは危険な試みといわざるを得ない」ECBは欧州で最大の権力を誇る機関となる。金利を設定する権限を有し、それに伴ない何兆ドルという資金を動かして景気を加速あるいは減速させる力をもつことになる。FRBを除けば、いかなる機関よりも、世界中の人びとの命運に直接的なインパクトを与える力をもつことになるのである。欧州委員会とは異なり、各国政府の拒否権に遭わずにすむECBは、たんなる操り人形的な機関ではなく、きわめて独立的で、独自に目標を設定し、そして誰に対する説明責任もないのである。まさに超国家機関であり、権力そのものである。ECB政策メンバーが欧州金融界の主役となるはずである。ジョージに続いてディナーのホスト役であるオランダ中央銀行総裁ウィム・ドイセンベルクが発言した。「これについてはまだ誰とも相談していないが、2年間延期するのが賢明だと思っている。どうかな?」他の欧州人は仰天した。ドイセンベルクはECB総裁の最有力候補で、その張本人がプロジェクトに冷水を浴びせようというのだ。さらに悪いことに、米国・日本・カナダ・スイスという“部外者”がこの欧州内部の自信喪失劇を見物しているのである。イタリア銀行のアントニオ・ファッツィオ総裁は延期案に賛意を表明した。欧州随一の影響力をもつ中央銀行家であるドイツ中央銀行総裁ハンス・ティートマイヤーは発言を考えていた(悩んでいた)が、ちょうどそのとき、フランス中央銀行総裁ジャン=クロード・トリシェの激しい反論で解消された。トリシェは延期はとんでもない考えだと言ってEMU擁護論を展開したのである。「延期は条約の精神にも文面にも反する」トリシェは、フランス大蔵省の国庫局長として、ドイツのコール、フランスのミッテラン、イタリアのジウリオ・アンドレオッティが、EMUの期限を2000年以前に設定することに合意したのを目撃していた人物である。そのときから、トリシェはコールとミッテランが共有する「ビジョン」に仕える“聖職者”となっていた。トリシェを支持したのは、ベルギー中央銀行総裁アルフォン・ヴェルプラエと欧州通貨機構(EMI)総裁ラムファルシーという2人のベルギー人であった。ラムファルシーはEMIのトップとして過去4年間にわたり単一通貨の準備に全精力を傾けてきた人物で、「延期はたいへんな信認の失墜になる」と述べた。バーゼルにおけるこの日の議論は、大きな意見の相違が存在することを示しただけで、問題の解決には繋がらなかった。BIS総支配人のクロケットは、EMU計画も終焉段階にあるのかと意気消沈しながら夕食会を後にした。ニューヨーク連銀のマクドナーは、「われわれにできるのは、関心をもちつつも沈黙していることがせいぜいだと感じたよ。あれは欧州内部の議論だったからね」と語った。翌月の3月3日、フランクフルトで授賞式が行なわれた「バンカー・オブ・ザ・イヤー」で、ティートマイヤー、ドイセンベルク、ラムファルシーの3人は、延期に対して公然と強く反対した。これによって問題は解決されたのである。ティートマイヤーは「EMU延期に関する市場の懸念や噂はまったく馬鹿げており、私には理解できない」と語った。ラムファルシーは「延期の噂は根も葉もない」と主張した。ドイセンベルクは「懸念や噂は現実とは何の関係もない。EMUは1999年1月1日に発足する」、「マーストリヒト条約が批准されてから、単一通貨の誕生は確実なものになった。繰り返すが、確実なものになったのである」と語った。この年の「バンカー・オブ・ザ・イヤー」は、ドイセンベルクが受賞した。1年以上経ってからのインタビューで、ドイセンベルクは1997年2月のバーゼルでの出来事はあまりよく覚えていないと語り、計画延期を提案したことを否定した。ドイセンベルクはECB初代総裁となり、1999年1月に参加国(オーストリア、ベルギー、フィンランド、フランス、ドイツ、アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、ポルトガル、スペイン)における単一通貨の円滑な導入を指揮した。ドイセンベルクは「中央銀行は外部の影響からは独立性を維持すべし」という信念をもっていたと伝えられている。ドイセンベルクは1935年7月9日、オランダのフリースラント西端にある人口4万人のへーレンヴェンという町で、地元の水道事業を管理する父親の息子として生まれた。10代のときドイセンベルクは夏休みにタバコ工場・コーヒー工場のラインで働いた。ブタの食肉工場で働いたこともあり、自転車工場でも働いた。19歳のときグラマー・スクールを卒業し、フローニンゲン大学で経済学の勉強をはじめた。26歳のとき国際経済関係論専攻で経済学の学位を修得、4年後には博士号を授与される。関係ないが、彼は193センチもの長身である。博士号を取得したあと、ワシントンにあるIMFに応募し、欧州デスクに採用される。彼はIMFで34歳まで4年間勤務した。IMFを去ってからは、アムステルダムにあるオランダ銀行(中央銀行)に採用されて、理事会のアドバイザーとなる。1年の任期終了後、顧問職を去り、アムステルダム大学の教授になり、3年間マクロ経済学を講じた。その後、社会民主党の党員となったドイセンベルクは、わずか3年後に経済学教授から大蔵大臣へと大躍進を遂げるのである。※ 続きます。続きは以下。「ウィム・ドイセンベルク──その2」
2005年09月10日
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なんと国粋会が山口組に入ったようである。六代目山口組の動きが速いと感じている。毎日新聞の記事によると、これで山口組の都内の勢力が稲川会を超えたとのこと。読売の記事によると、国粋会の工藤会長は山口組の『最高顧問』に就任するもようである。私もつい先日、『週刊実話』の記事を基に六代目山口組の最高幹部を並べたばかりだったのだが、早くも“増員”されたことになる。いや、これは単なる“増員”と見るべきではないだろう。今後の関東でのヤクザ間の動きは要注意(注目)である。【山口組】司六代目「新執行部」の全貌http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200509030000/六代目山口組本家直系若衆http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200509040000/国粋会が山口組傘下に-東京での勢力拡大を警戒東京に本拠を置く指定暴力団国粋会が、6代目組長が就任したばかりの国内最大の指定暴力団山口組(神戸市)の傘下に入ったことが7日、警視庁の調べで分かった。警視庁は、山口組が東京での勢力拡大を狙った動きの1つとみて警戒を強めている。警視庁によると、国粋会は構成員約470人。今後、都の公安委員会などの手続きを経て暴力団対策法に基づく指定が取り消される見込み。山口組は7月に篠田建市(通称司忍)6代目組長の就任を決定し、8月に神戸市灘区の総本部で継承式が行われた。さらに、ナンバー2のポスト「若頭」に、篠田6代目組長が初代会長を務めた山口組の二次団体・弘道会(名古屋市)の高山清司会長が就任した。警察庁幹部によると、国粋会は現会長が弘道会と数年前から親交があり、弘道会の影響下にあったという。警視庁は「6代目組長の就任で、東京での勢力拡大をもくろむ山口組の動きが本格化しているようだ。今後、関東地方の暴力団との勢力争いを懸念している」と警戒感を強めている。http://www.sanspo.com/sokuho/0907sokuho088.html山口組、国粋会を傘下に…警視庁が警戒強化指定暴力団国粋会(本部・東京都台東区)が、同山口組(同・神戸市)の傘下に入ったことが7日、警視庁組織犯罪対策3課の調べで分かった。同課では、首都圏の山口組勢力が一気に拡大するのに伴い、他の指定暴力団などとトラブルが起きる恐れもあるとみて、各警察署に情報収集と警戒強化を指示した。同課や関係者によると、国粋会の工藤和義会長(68)と山口組の司忍こと篠田建市組長(63)が7日、山口組総本部で会合し、〈1〉国粋会は山口組傘下に入り、山口組国粋会となる〈2〉工藤会長は山口組の最高顧問になる――ことなどを確認し合ったという。同課によると、国粋会の組員と準構成員を合わせた勢力は今年6月現在、東京、千葉、埼玉など1都6県で計約1060人。このうち都内勢力は約560人。同会の組員らがすべて山口組傘下に入ると、山口組(全国勢力約3万9200人)の都内勢力は約900人から1400人余に拡大する。山口組の篠田組長は先月、新組長に就いたばかり。(読売新聞) - 9月8日3時5分更新http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050908-00000401-yom-soci暴力団国粋会、山口組傘下に 2005/09/08 東京に本拠を置く指定暴力団国粋会が、六代目組長が就任した国内最大の指定暴力団山口組(神戸市)の傘下に入ったことが七日、警視庁の調べで分かった。警視庁は、山口組が東京での勢力拡大を狙う動きの一つとみて警戒を強めている。警視庁によると、国粋会は構成員約四百七十人。今後、都の公安委員会などの手続きを経て暴力団対策法に基づく指定が取り消される見通し。http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/00035805sg200510080900.shtml<指定暴力団>国粋会が国内最大の山口組の傘下に 指定暴力団国粋会が、国内最大の指定暴力団山口組の傘下に入ったことが、警視庁などの調べで分かった。国粋会は銀座、渋谷、六本木など都内の主要な繁華街を「縄張り」に持つ組織で、都内の山口組の勢力は一気に拡大。国粋会が傘下に入ることで、稲川会を超え、住吉会、極東会に次ぐ都内3番目の勢力となる見通しだ。(毎日新聞) - 9月8日12時40分更新http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050908-00000041-mai-soci東京の国粋会、山口組傘下に 対立組織を刺激の恐れ2005年09月08日06時10分東京に本拠がある指定暴力団国粋会(工藤和義会長)が、国内最大の指定暴力団山口組(総本部・神戸市)の傘下に入ったことが警察当局の調べでわかった。東京には住吉会、稲川会という二大団体がある。国粋会以外にも山口組傘下に入る団体があるなどの情報もあり、警察当局は対立抗争の恐れもあるとみて警戒している。 山口組では7月末、渡辺芳則・5代目組長(64)が引退し、篠田建市(通称・司忍)被告(63)=銃刀法違反の罪で実刑判決、上告中=が6代目組長に就任。これを機に山口組の傘下に入ったり、関係を強めたりする団体があるとされる。 警視庁などによると、工藤会長は7日、篠田被告と「兄弟」分の関係を結んだ。6日には、住吉、稲川両会など関東に拠点を置く暴力団6組織の懇親団体で、山口組の東京進出に対抗する「関東二十日会」からの脱退をほかの組織に通知したという。 国粋会は東京、埼玉、茨城など1都6県に1060人の構成員と準構成員がいる。01年春、工藤会長の組織運営をめぐって内部抗争が発生、東京・銀座などで銃撃戦が相次ぎ、死者も出た。だが、03年10月に山口組の仲裁で収束。その後、双方の組の間で親密な関係が続いていたという。 警察庁によると、全国の暴力団の構成員と準構成員は04年末現在、8万7000人。このうち広島、沖縄を除く45都道府県に勢力がある山口組は3万9200人おり、全体の45.1%を占める。2位の住吉会1万2600人、3位の稲川会9500人を大きく引き離している。 http://www.asahi.com/national/update/0908/TKY200509070370.html国粋会が山口組傘下に 東京での勢力拡大を警戒東京に本拠を置く指定暴力団国粋会が、6代目組長が就任したばかりの国内最大の指定暴力団山口組(神戸市)の傘下に入ったことが7日、警視庁の調べで分かった。警視庁は、山口組が東京での勢力拡大を狙った動きの一つとみて警戒を強めている。警視庁によると、国粋会は構成員約470人。今後、都の公安委員会などの手続きを経て暴力団対策法に基づく指定が取り消される見込み。山口組は7月に篠田建市(通称司忍)6代目組長の就任を決定し、8月に神戸市灘区の総本部で継承式が行われた。さらに、ナンバー2のポスト「若頭」に、篠田6代目組長が初代会長を務めた山口組の2次団体・弘道会(名古屋市)の高山清司会長が就任した。First upload: 9月8日2時14分http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2005090701005098_National.html
2005年09月08日
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これは下の続きです。次をクリックしてそちらを先にお読み下され。「ロックフェラー財団」さて、ようやく“財団中の財団”であるロックフェラー財団の話になる。下院銀行通貨委員会の委員長をつとめたライト・パットマン議員は1967年の公聴会でロックフェラー系の14の財団がスタンダード石油の株券で10億ドル以上の資産を保有していることを証明した(らしい)。もちろん財団はこの株式に関する税金は支払っていない。財団が株を所有することで競合する資本家たちはスタンダード石油の株を買い集めることはできなかった。ロックフェラーは巨額の税金の支払を免除されたので、通常の税率で税金を支払わざるをえなかった他の会社に対する、とても太刀打ちできないほどの市場優位性をロックフェラーに与えた。これでは法人税を引き上げる世論を盛り立てても、ロックフェラーが優位になるばかりである。「財団は投資」なのである。ロックフェラー財団の憲章は1913年5月22日に著名認可された。ロックフェラー財団の設立発起人は次の人たちである。ジョン・D・ロックフェラー、ジョン・D・ロックフェラー二世、ヘンリー・プラット・ジャドソン(シカゴ大学総長)、サイモン・フレックスナー、スター・ジェームソン、ジェローム・D・グリーン(パリ講和会議賠償委員会事務局長)、ウィクリフ・ローズ(ピーボディ大学教授、ピーボディ基金事務局長、スレイター基金と一般教育委員会の理事)、チャールズ・W・エリオット(エレン・ピーボディと結婚、ハーバード大学名誉総長)。1913年から63年までの50年間でロックフェラー財団の理事長を務めたのは、ジョン・D・ロックフェラー二世、ウォルター・D・スチュアート、ジョン・フォスター・ダレス、ジョン・D・ロックフェラー三世の4人である。ウォルター・D・スチュアートとは、戦時産業調整委員会でバーナード・バルークに仕えた人物で、1922年から25年までは連邦準備制度理事会の理事を務めている。28年からはイングランド銀行経済顧問、31年からは国際決済銀行の特別顧問、53年から56年はアイゼンハワー大統領の経済諮問委員会、その後、プリンストン高等研究所所長となった。ジョン・フォスター・ダレスについてはご存知の通りである。彼の恩師はウィリアム・ネルソン・クロムウェルと言われており、ダレスが上級共同経営者として務めたサリヴァン&クロムウェルの創立者である。ジョン・フォスター・ダレスはジャネット・ポムロイ・エーヴリーと結婚してロックフェラー家の一員となった。国務長官ロバート・ランシングはダレスの叔父である。ダレスは、J・P・モルガン商会、ナショナル・シティ、クーン・ローブ商会、ディロン・リード、ギャランティ・トラスト、ブラウン・ブラザーズ・ハリマン、これらの顧問を務めウォール街の法律顧問を独占していた。上に挙げた4人以外のロックフェラー財団の歴代理事長は、ジョージ・E・ヴィンセント、マックス・メーソン(シカゴ大学総長)、レイモンド・ブレイン・フォスディック、ハリー・エマーソン・フォスディック(レイモンド・ブレインの兄弟)、チェスター・I・バーナード、ディーン・ラスク(国務長官)、J・ジョージ・ハラーなどといった顔ぶれである。事務局長には、ジェローム・D・グリーン(ロックフェラー医学研究所事務総長、ブルッキングズ研究所理事、ローレンス・ロックフェラーが事務局長を務める太平洋問題調査会議長)、エドウィン・R・エンブリー(ジュリアス・ローゼンウォルド財団設立者)の2人がいる。理事には次の人びとがいる。オリヴァー・シューエル・フランクス男爵(英国駐米大使、ローズ基金理事、シュローダー銀行役員、ロイズ銀行会長、イーストアングリア大学総長)、チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ(ニューヨーク州知事、最高裁判所長官)、ジェームズ・R・エンジェル(国民調査会議議長、カーネギー財団理事長、エール大学学長、娘がウィリアム・ロックフェラー夫人)、トレヴァー・アーネット(国際教育委員会理事長)、ハリー・プラット・ジャドソン(ミネソタ大学総長、中国のアメリカン大学総長)、ヴァーノン・ケロッグ(フーヴァーの補佐官、ブルッキングズ研究所理事)、スター・マーフィー、ウィクリフ・ローズ(ピーボディ大学学長)、A・バートン・ヘップバーン(ナショナル・シティ・バンク副頭取、チェース・ナショナル・バンク頭取)、ジュリアス・ローゼンウォルド、マーティン・ライアソン、カール・T・コンプトン、ジョン・W・デーヴィス(駐独大使)、ジョン・スローン・ディッキー、ハロルド・W・ドッズ、ルイス・W・ダグラス(英国大使、メトロポリタン生命会長)、オーヴィル・ドライフース(ニューヨーク・タイムズ会長)、リー・A・デューブリッジ(カリフォルニア大学学長、英国より国王勲章授与)、デーヴィッド・レオン・エゾール、チャールズ・ウィリアム・エリオット(エレン・ピーボディと結婚、ハーバード大学学長)、サイモン・フレクスナー(ロックフェラー医学研究所を設立)、ダグラス・フリーマン、ハーバート・S・ガッサー、フレデリック・T・ゲイツ、ウォルター・S・ギフォード(カーネギー研究所理事長)、ロバート・F・ゴヒーン(プリンストン大学総長)、ハーバート・スペンサー・ハドリー(ミズーリ州検事総長、ミズーリ州知事)、ウォレス・K・ハリソン(ロックフェラーセンターおよび国連ビルの設計者)、セオドア・へスバーグ(ノートルダム大学総長)、アーネスト・M・ホプキンズ(ダートマス大学学長)、アーサー・A・ヒュートン、クラーク・カー(カリフォルニア大学総長)、ロバート・A・ロヴェット(ブラウン・ブラザーズ・ハリマンの共同経営者、国務次官、国防長官)、ロバート・S・ロヴェット(前記の父親)、ベンジャミン・マッケルウェイ、ヘンリー・アレン・モウ(グッゲンハイム財団を運営、近代美術館会長)、ウィリアム・マイアーズ(ニューヨーク連銀役員)、トーマス・I・パーキンソン、トーマス・パラン(合衆国軍医総監)、アルフレッド・N・リチャード、ディーン・ラスク(国務長官)、ジェフリー・S・スミス、ロバート・B・スプロール(カリフォルニア大学総長、兄弟のアラン・スプロールはニューヨーク連銀総裁)、フランク・スタントン(CBS社長)、ロバート・B・スティーヴンズ(ニューヨーク連銀)、ジョージ・G・ウッズ(合衆国陸軍参謀幕僚)、アーサー・M・ウッズ、オーウェン・D・ヤング(GE会長、ニューヨーク連銀役員)、ウィンスロップ・オールドリッチ(ロックフェラー家、チェース・ナショナル・バンク会長、ウエスティングハウス・ニューヨーク連銀・ロックフェラーセンターの各役員、駐英大使)、バリー・ビンガム、チェスター・ボールズ(インド大使)、ロイド・B・ブレース(ファースト・ナショナル・バンク頭取)、リチャード・ブラッドフィールド、ディーター・ブロンク、ウィリアム・H・クラフリン、ラルフ・バンチ、C・ダグラス・ディロン(ディロン・リード会長、フランス大使、財務長官、娘はオレンジ公ウィリアム三世の直系子孫と結婚したルクセンブルグ公妃ヨアン)、ケネス・ワーニモント、チャールズ・W・コール(アマースト大学学長、チリ大使)、トーマス・B・アップルゲート二世(国務省極東部長)、エドモンド・E・デー、ジェームズ・C・フレッチャー(海軍戦争会議議長)、ジェームズ・D・ウルフェンソン(J・ヘンリー・シュローダー銀行商会頭取、そのロンドンの親会社シュローダー商会社長、世銀総裁)。ロックフェラー財団は正確には「ロックフェラー・シンジケート」と呼ぶべきであるが、この組織は、主要な銀行・企業・大学・政府機関に密接に繋がっている。このネットワークが米国を統治する組織である。この財団が税金から逃れることによって米国の納税者全員に途方もない重荷を負わせているとも言えるのだ。ロックフェラー財団の1971年度の役員名簿には次の名前がある。W・マイケル・ブルーメンソール(財務長官)、ダグラス・ディロン(財務長官)、ヴァーノン・ジョーダン、ロバート・V・ローザ、サイラス・ヴァンス(国務長官)。ロバート・V・ローザは、ニューヨーク連銀の役員だった人物であり、ポール・ヴォルカーの親分である。ブラウン・ブラザーズ・ハリマンの共同経営者でもあったローザは、デイヴィッド・ロックフェラーと一緒に、ヴォルカーを連邦準備制度理事会の議長に任命するようにカーター大統領に“アドバイス”した人物であり、さらにローザはブルッキングズ研究所の会長でもあった。ブッルキングズ研究所の創立者はバーナード・バルークの補佐官ロバート・S・ブルッキングズであるが、設立発起人は、フレデリック・A・デラノ、ハロルド・G・ムールトン、レオ・S・ロウの3人である。ブルッキングズはカーネギー国際平和基金の創立理事でもある。フレデリック・デラノはフランクリン・ルーズヴェルトの叔父である。ブッルキングズ研究所の目的は政策の立案である。会長ローザの前任者はダグラス・ディロンであった。長くなったのでこの辺で終わりにするが、日本にも多くの財団があるように、本来なら国家が徴税して国家が使うべき莫大な金額なのに、それを財団にほぼ自由に使わせその影響力を行使させるということは、私は国家のためにも国民のためにもならないと判断している。(消費税などで)増税する前に、各財団や宗教法人から徴税してもらいたいものである。以下、参考。米国財団の発展とTax Reform Act-米国財団小史-http://www.spf.org/report/040816.html20世紀産業資本の成立、カーネギー(鉄鋼)とロックフェラー(石油)http://homepage2.nifty.com/sumee/america0403b.htm信頼と和解、大義と謙虚さ(船橋洋一)http://www.asahi.com/column/funabashi/ja/TKY200410140187.html「石油王」ロックフェラー一族http://www1.ttcn.ne.jp/~fujiyan/manhattan/un/memo_rock_main.htmロックフェラー財団からのメッセージhttp://www.humansecurity-chs.org/activities/meetings/first/j-rockefeller.html米国ロックフェラー財団理事長・コードンコンウェー教授、遺伝子組み換え食品を巡る論争についての見解を表明http://www.pure-foods.co.jp/GMOinfo/RFspeach.html『世界権力の構造の秘密』http://books.rakuten.co.jp/
2005年09月06日
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支配層は、税金を免除された財団を手段とし利用することであらゆる機関や制度を支配する。財団は、政府の政策をつくりあげ、行政・立法・司法の重要な地位に財団のメンバーを配置し、政策を実行する。財団は、教育制度のあらゆる階層の重要な地位に財団のメンバーを配置し、教育制度をつくりあげる。財団は、主な宗教各派の重要な地位に教団のメンバーを配置し、宗教の教義を支配する。米国内だけでも数万の財団があり、それぞれがさまざまな莫大な「寄付」を行なっている。しかしこの「寄付金」は、財団の計画を「実行」する者(だけ)に“分配”されるのである。多くの財団は、「人類の福祉」「貧困の根絶」「病気の根絶」・・・などというような“同情・親切・慈善”といったスローガンで満ち溢れている。財団が本来納めなければならない莫大な額になる税金を納めないかわりに、その国の国民が税金を納めているとも言えるのに、やっかいなことに、財団を「慈善団体」だとか、慈善事業のふりをしている“犯罪シンジケート”の代表者を「慈善家」だとか認識してしまうのである。慈善活動は重要であるし、そこに所属し活動する職員の悪口を言うつもりもない。しかし、米国を代表とする「統治権力」とは実は政府機関でも法律でも政党でもないのであるという極めてやっかいな事実を把握できる者は少ない。米国の代表的な財団といえば「ロックフェラー財団(Rockefeller Foundation)」であろう。その目的は、・人類の福祉の増進・人口と保健・国際紛争解決への寄与・教育・アメリカにおける環境改善・平等な機会・芸術、人道などの分野で、大学・研究機関などへの寄付……などとされている。支配者は既に支配権を握っているのにどうして「権力支配」の手段となる財団が必要なのだろうか。その答えは、支配者は自らの権力を隠蔽するからこそ支配できるのであるとなろう。外交問題評議会(CFR)の存在に気づく人間が多くなりすぎたら、ビルダーバーグなどに権力行使機関(会議)を移行してきたように。大金持ちとなった富豪たちの多くは、財産を蓄えるために冷酷な人生を歩んだ末、突然、深く回心して善意の人に変身するようである。ここでは「慈善活動家」としての顔はどうでもよい。善意の裏に回って裏の顔に光を当ててみたい。20世紀の初め頃、「アメリカのビジネスを動かすのは7人の男」であった。7人とは、J・P・モルガン、ジェームズ・J・ヒル、ジョージ・F・ベイカー、ジョン・D・ロックフェラー、ウィリアム・ロックフェラー、ジェームズ・スティルマン、ジェイコブ・H・シフのことである。これらの代理人が連邦準備制度を設立した。1914年のニューヨーク連邦準備銀行の株主は、ナショナル・シティ・バンク(3万株)、ファースト・ナショナル・バンク(1万5千株)、ナショナル・バンク・オブ・コマース(2万1千株)、ハノーヴァー・ナショナル・バンク(1万200株)、チェース・ナショナル・バンク(6千株)、ケミカル・バンク(6千株)などである。1983年のニューヨーク連邦準備銀行の持ち株比率は、シティバンク(ナショナル・シティとファースト・ナショナルが合併)が15%、チェース・マンハッタンが14%、モルガン・ギャランティ・トラストが9%、マニュファクチャラーズ・ハノーヴァー(ハノーヴァー・ナショナル)が7%、ケミカル・バンクが8%となっている。ナショナル・シティ・バンクのおもな株主は、ジェームズ・スティルマン(4万7498株)、J・P・モルガン商会(1万4500株)、W・ロックフェラー(1万株)、M・T・パイン(8276株)、パーシー・パイン(8276株)、J・D・ロックフェラー(1750株)、J・S・ロックフェラー(100株)、W・A・ロックフェラー(10株)、J・P・モルガン二世(1000株)である。ナショナル・バンク・オブ・コマースのおもな株主は、ジョージ・F・ベイカー(1万数千株)、J・P・モルガン商会(7800株)、メアリー・W・ハリマン(5650株)、ポール・ウォーバーグ(3000株)、ジェイコブ・シフ(1000株)、J・P・モルガン二世(1100株)である。ハノーヴァー・ナショナル・バンクのおもな株主は、ジェームズ・スティルマン(4000株)、ウィリアム・ロックフェラー(1540株)である。チェース・ナショナル・バンクのおもな株主はジョージ・F・ベイカーで、彼は1万3408株を所有していた。以上のように“ロスチャイルド人脈”はニューヨーク連銀の支配的な株式を握った。ロスチャイルド商会の米国における3人の代理人が、J・P・モルガン商会とクーン・ローブ商会、そしてオーガスト・ベルモントだったからである。ロックフェラーはロスチャイルド・インターナショナル・バンク(N・M・ロスチャイルド&サンズ、ロスチャイルド銀行、ランベール銀行、ニュー・コート証券、ピアソン・ホールディングの5社の合併した銀行)の子会社であるクリーヴランド・ナショナル・シティ・バンクの支援(融資)を受けて商売敵の乗っ取りが可能になり、全鉄道の95%を支配していたJ・P・モルガンとクーン・ローブ商会から石油運賃の特別割引を受けたのであるから、ロックフェラー帝国もロスチャイルド家の支援(融資)で「成功」したのである。ロックフェラー兄弟の財政顧問にクーン・ローブ商会のシュトラウスが任命されたように、ロックフェラーの投資はクーン・ローブ商会の承認を受けていたのである。シュトラウスの後任がJ・リチャードソン・ディルワースであり、彼もクーン・ローブ商会の共同経営者であり、ディルワースはロックフェラー一族全体の財政担当となり、ロックフェラーセンタービルの56階で1981年までロックフェラー家の口座のすべてを監督していた。つまり、ロックフェラー家やモルガン家、ハリマン家などはロスチャイルド家に仕える家臣的な存在であり、ハリマン家に仕えるブッシュ家などはさらに下のグループに属することになる。財団がテーマだったのに話がそれてしまったので財団に話を戻す。米国にある財団の形態は、「ピーボディ教育基金」を設立したピーボディ家のあり方が起源となっているようである。ピーボディ家とは、自分の商会の後継者にジュニアス・モルガンを選んだあのジョージ・ピーボディのことである。「ピーボディ教育基金」は1865年に創設されたが、理事会には次の人物の名前がある。ユリシーズ・グラント将軍(18年間、理事を務めた)、グローヴァー・クリーヴランド(14年間)、マッキンレー(2年間)、セオドア・ルーズヴェルト(13年間)、J・P・モルガン(28年間も理事を務め、理事会に1度も欠席なし)、アンソニー・ドレクセル(12年間。モルガンの共同経営者)。ジョン・F・スレイターも「ジョン・F・スレイター解放奴隷教育基金」を設立した。当時の理事は、ラザフォード・ヘイズ大統領、ダニエル・コイト・ギルマン、モーリス・K・フェサップの3人。ジョン・D・ロックフェラーはピーボディ基金を規範とし、「南部教育委員会」を設立し、前述のピーボディ基金とスレイター基金を合併した。そして「一般教育委員会」を設立して、これら3つの基金を吸収してしまったのである。一般教育委員会の設立発起人は、ウィリアム・H・ボールドウィン二世(初代理事長)、フレデリック・T・ゲイツ、ダニエル・コイト・ギルマン(ピーボディ基金とスレイター基金の副理事長、カリフォルニア大学総長、ジョンズホプキンズ大学初代総長、カーネギー協会の初代理事長、ラッセル・セージ財団とカーネギ協会の設立発起人)、ジョージ・フォスター・ピーボディ(ニューヨーク連邦準備銀行の初代理事)などである。ネルソン・オールドリッチが一般教育委員会の憲章の議会通過の音頭を取った。ギルマンが米国でもっとも影響力の大きかった3つの財団の設立発起人だったということは、いかに常に少数の人間たちによって集中的支配されてきたかを示している。ギルマンは「ラッセル信託基金」も設立しているが、ラッセル信託基金はご存知、スカル・アンド・ボーンズの中核である。ボーンズについては過去に何度も書いているのでここでは詳しく取り上げない。ギルマンは、ジョン・デューイにジョンズホプキンズ大学で「集産主義教育理論」を叩き込み、デューイはシカゴ大学に移って教育学部長となり、その後、コロンビア大学師範学校の校長になった。ギルマンはリチャード・エリーも訓練し、エリーはウッドロー・ウィルソンを教えた。ギルマンは20世紀になってからもデューイやエリーを通じて米国の教育を支配したらしい。ちなみにウィルソンは、連邦準備制度をもたらした人物である。※ どうも書き出すと長くなってしまう癖が私にはあるようで、また文字数がオーバーしてしまった。続きます。続きは「ロックフェラー財団は財団の中の財団である」です。
2005年09月06日
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インドネシアで旅客機墜落 30人以上が死亡か 【13:05】 【ジャカルタ5日共同】AP通信によると、インドネシアのメダン発ジャカルタ行きの旅客機が5日、離陸直後に墜落した。30人以上が死亡した恐れがある。ロイター通信によると、同機には乗客ら100人以上が乗っていた。旅客機墜落60人死亡か インドネシア・メダン【ジャカルタ5日共同】インドネシア・スマトラ島のメダン発ジャカルタ行きのマンダラ航空の旅客機ボーイング737-200型(乗客乗員計109人)が5日午前9時半(日本時間同11時半)すぎ、メダンの空港を離陸した直後に住宅地に墜落、炎上した。AP通信が病院当局者の話として伝えたところによると、60人以上が死亡した。事故機に邦人が乗っていたかどうかは不明。メトロ・テレビが伝えた目撃者の話では、住宅約10軒が炎上した。マンダラ航空は国内便を運航している小規模な航空会社。メダンはスマトラ島最大の都市で人口約188万人。国内の主要都市のほか、シンガポール、マレーシア・クアラルンプールとの間に国際便が飛んでいる。http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=HKK&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2005090501001109<旅客機墜落>離陸直後 死者60人以上 インドネシア【ジャカルタ岩崎日出雄】5日午前9時40分(日本時間同日午後1時50分)ごろ、インドネシア北スマトラ州(スマトラ島)のメダン発ジャカルタ行きマンダラ航空機(乗客約120人)がメダン空港を離陸直後に市街地に墜落、炎上した。付近の民家20、30軒に激突しており、乗客や住民に多数の死傷者が出ている模様だ。目撃者への電話取材や航空会社などによると、同機は小爆発とともに炎上し、空中分解しながらメダン市の大通りに墜落したという。航空機は主翼と尾翼がなくなり、胴体しか残っていないという。AP通信は病院関係者の話として少なくとも60人が死亡したと伝えた。在メダン日本総領事館は邦人の乗客の有無を確認中。同飛行機には同州知事が乗っていたという。(毎日新聞)- 9月5日13時40分更新インドネシアで国内線が墜落・炎上、乗客・乗員は全員死亡か2005年 09月 5日 月曜日 14:22 JST9月5日、インドネシアのマンダラ航空の旅客機が離陸直後に墜落。消火活動に当たる消防隊。写真はロイター・テレビが報じたメトロ・テレビの画像(2005年 ロイター)[ジャカルタ 5日 ロイター] インドネシアのスマトラ島で5日、乗客・乗員109人を乗せたインドネシアのマンダラ航空の旅客機(ボーイング737─200型機)が5日、同島メダンを飛び立った直後に墜落した。スマトラ島北部の自治体スポークスマンは、「航空機は住宅地に墜落、道路に止まりばらばらになった。生存者がいる、との報告はきていない」と述べた。この事故で地上でも犠牲者が出ているかどうかは不明。テレビの映像では、事故機は道路上で炎上、付近の住宅も燃えている様子が映し出されている。地元テレビによると、事故機はメダンからジャカルタに向かっていた。http://www.reuters.co.jp/newsArticle.jhtml?type=worldNews&storyID=9557747§ion=newsスマトラ島で旅客機が住宅地に墜落 http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3110619.htmlスマトラ島で旅客機が住宅地に墜落date:9/5 14:51インドネシア・スマトラ島のメダンで5日、常客乗員少なくとも117人を乗せた国内線旅客機が離陸直後に住宅地に墜落しました。当局者はおよそ100人以上が死亡した、としています。墜落したのは、インドネシア・スマトラ島のメダン発ジャカルタ行きのマンダラ航空のボーイング737型機で、5日、離陸からおよそ1分後に墜落し、機体が炎上しました。事故機には、乗客乗員少なくとも117人が乗っていて、当局者はおよそ100人以上が死亡したとしています。今のところ、事故機に日本人が乗っていたという情報はありません。事故機は付近の住宅街に突っ込み多くの家屋から黒煙が上がっていて、地上で巻き添えになった犠牲者もいる、との情報もあります。また、墜落前に大きな爆発音がした、との目撃情報もあり、当局で墜落原因についても調べています。http://tuf.co.jp/i/news/mori/0905/09051451.htmインドネシアで旅客機が住宅地に墜落、死者60人超か【ジャカルタ=黒瀬悦成】インドネシア・スマトラ島の最大都市メダンで5日午前10時(日本時間同正午)過ぎ、メダン空港を飛び立った旅客機が離陸直後に付近の住宅地に墜落、炎上した。旅客機には109人が乗っており、同国の民間航空会社「マンダラ航空」の国内線と見られている。地元メディアが伝えた目撃者の話や墜落地点の住民らによると、機体の破片と乗客らの遺体40体以上が一帯に散乱。現地の病院関係者がAP通信に語ったところによれば、少なくとも60人が死亡した。住民らの間に犠牲者が出たかは不明だ。別の目撃者によれば、旅客機は離陸後に尾翼が吹き飛んできりもみ状態となり墜落した。機体の一部が送電線に接触したとの目撃情報もある。事故当時、空港周辺には深い霧がかかっていた。メダンは人口約200万で、インドネシア第3の都市。(読売新聞)- 9月5日14時39分更新インドネシアで旅客機墜落、乗員乗客全員が死亡か2005.09.05Web posted at: 15:05 JST- CNN/AP墜落現場に散乱する機体の残骸=インドネシア・メダンジャカルタ――インドネシア・スマトラ島のメダン近郊で5日、マンダラ航空の旅客機が住宅地に墜落、炎上した。AP通信は当局報道官の話として、乗員乗客117人が全員死亡したと伝えている。墜落したのはジャカルタ行きのボーイング737-200型機。午前9時40分(日本時間同11時40分)ごろメダン空港を離陸した直後だった。ラジャサ運輸相によると、墜落現場は滑走路から約500メートルの地点。同空港は市中心部に近く、周囲には住宅が密集している。救出作業に当たっている医師らによると、現場には火災が広がり、作業は難航している。マンダラ航空はインドネシアの格安航空会社。運航機の多くは10年以上経過しているとされる。同国では今年2月、別の格安会社ライオン航空の旅客機がジャワ島の空港で着陸に失敗し、20人以上が死亡した。http://www.cnn.co.jp/world/CNN200509050009.htmlインドネシアで国内便墜落、110人余り死亡か2005年09月05日15時54分5日、インドネシアのスマトラ島メダンの空港で、離陸直後に墜落した飛行機。機体が大破し、炎上した=APインドネシアの国内線旅客機が5日午前10時(日本時間正午)ごろ、スマトラ島メダンの空港を離陸直後に墜落、炎上した。AP通信や現地での報道などによると、乗員、乗客は117人とみられる。地元テレビによると、ほぼ全員が死亡したとみられる。この旅客機は、マンダラ航空のジャカルタ行きのボーイング737で、メダンの空港を離陸して1分後にすぐ近くの住宅地に墜落したという。日本外務省によると、乗客名簿に日本人らしき名前はない。http://www.asahi.com/international/update/0905/006.html旅客機墜落、100人死亡かインドネシア・マンダラ航空の旅客機が、スマトラ島北部メダン近くの住宅地に墜落した。当局によると、死者は約100人に上るとみられる。写真は墜落機の残骸の中に生存者がいないか捜索する救助隊や住民ら(5日)(AFP=時事)15時57分更新スマトラ島で旅客機が住宅地に墜落[5日15時4分更新]http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn/20050905/20050905-00000029-jnn-int.htmlインドネシア・スマトラ島で117人を乗せた旅客機が住宅街に墜落 少なくとも60人死亡[5日15時25分更新]http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn/20050905/20050905-00000618-fnn-int.htmlスマトラ島で旅客機が離陸直後墜落、100人超死亡スマトラ島で旅客機墜落 政府関係者は全117人全員死亡の見方[5日16時58分更新]http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn/20050905/20050905-00000050-nnn-int.htmlインドネシアの旅客機墜落、日本人らしい名前はない=官房長官9月5日、細田官房長官はインドネシアで墜落した旅客機の搭乗者名簿に日本人らしい名前がなかったことを明らかにした。写真は事故現場(2005年 ロイター/Avie Erleno)(ロイター)18時40分更新インドネシア・スマトラ島で国内線の旅客機が住宅街に墜落 少なくとも130人死亡FNN [5日19時2分更新]相次ぐ旅客機墜落(2005年08月17日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200508170000/ペルーで旅客機墜落(2005年08月24日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200508240000/
2005年09月05日
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これは下から続いてます。次をクリックしてそちらからお読み下さい。『司六代目「新執行部」の全貌』今回、新しく4人の組長が直参に昇格した。井上邦雄・四代目山健組組長(神戸)、掛野一彦・二代目近藤組組長(岐阜)、江口健治・二代目健心会会長(大阪)、茶谷政雄・茶谷政一家総長(北海道)の4人である。一方で、司六代目が誕生したのを機に、桑田兼吉・三代目山健組組長、近藤慶文・近藤組組長、坂井廣・坂廣組組長、杉秀夫・健心会会長、池内満・二代目松野組組長の5人が引退した。【六代目山口組本家直系若衆】地蔵吉一(地蔵組組長)京都青野哲也(国領屋一力一家七代目)浜松山田照雄(山田組組長)伊丹中島利一(中島組組長)大阪・淀川森田昌夫(森田組組長)大阪・天王寺須藤 潤(須藤組組長)大阪・中央小林 治(二代目難波安組組長)堺北中野雅巳(中野組組長)堺東中村天地朗(二代目大平組組長)尼崎松岡義雄(松岡組組長)大阪・城東白川孝郎(二代目熊本組組長)岡山尾崎勝彦(尾崎組組長)徳島川下 弘(川下組組長)東大阪野崎 圓(野崎組組長)三重盛力健児(盛力会会長)大阪・浪速浜尾将史(浜尾組組長)横浜堀 義春(堀組組長)大阪・西奥浦清司(奥浦組組長)東大阪仲里正秋(二代目真鍋組組長)宝塚山田忠利(二代目矢嶋組組長)愛媛大原宏延(大原組組長)大阪・生野細川幹雄(細川組組長)尼崎浅川桂次(浅川会会長)大阪・吹田根本辰男(二代目川内組組長)福井中村伍男(中村組組長)岐阜正木年男(正木組組長)福井平山桂次(三代目南一家会長)大阪・中央福島末博(勝龍会会長)大阪・北渡辺啓一郎(瀬戸一家九代目総裁)愛知岸上剛史(平井一家十代目総裁)愛知柴田健吾(柴田会会長)加古川大嶋 巽(大嶋組組長)神戸浅井昌弘(浅井組組長)大阪・北池田孝志(池田組組長)岡山井奥文夫(井奥会会長)神戸大西康雄(大西組組長)姫路江口 亨(三代目石井一家総長)大分島村國光(二代目稲葉一家総長)熊本小野守利(六代目奥州会津角定一家総長)福島西畑晴夫(六代目佐々木組組長)和歌山剣 政和(二代目黒誠会会長)大阪・北北島 虎(二代目杉組組長)名古屋三谷省一(伊勢志摩連合会会長)三重金光哲男(金光会会長)福岡水田元久(水心会会長)長崎奈須幸則(三代目大門会会長)熊本亀井惟茂(二代目松山組組長)東大阪川崎昌彦(二代目一心会会長)大阪・中央正田 悟(二代目松山会会長)愛媛玉井武雄(三代目小山組組長)和歌山島田俊正(二代目益田組組長)横浜細見孝夫(二代目佐藤組組長)神戸浅川睦男(二代目淺川一家総長)福岡毛利善長(毛利組組長)大阪・吹田川口和慶(三代目小車誠会本家会長)大阪・西成天野洋志穂(天野組組長)大阪・天王寺小條鎮生(倉心会会長)大阪・大正津田功一(貴広会会長)奈良貝本 健(貝本会会長)愛知船木一治(三代目誠友会会長)札幌光安克明(光生会会長)福岡野村 孝(三代目一会会長)大阪・北篠原重則(二代目若林組組長)香川高木康男(二代目美尾組組長)静岡高木廣美(五代目早野会会長)大阪・浪速原口武己(三代目北岡会会長)熊本布川浩二(二代目中西組組長)大阪・中央岡本久男(二代目松下組組長)神戸佐達秀正(三代目大野一家総長)大阪・港菱田達之(二代目愛桜会会長)三重山本克博(五代目豪友会会長)高知太田守正(太田会会長)大阪・生野田保伸一(二代目昭成会会長)石川井上邦雄(四代目山健組組長)神戸掛野一彦(二代目近藤組組長)岐阜江口健治(二代目健心会会長)大阪・中央茶谷政雄(茶谷政一家総長)札幌※ 新しく直参に昇格した4人を『週刊実話』から簡単に紹介すると、井上邦雄組長は、三代目山健組若頭から跡目を継承。松田組との“大阪戦争”で長期服役した功労者で、渡辺五代目の“秘蔵っ子”といわれ、早くから直参昇格が確実視されていた逸材。掛野一彦組長は、引退した近藤慶文組長の跡目を継承。長年に渡って組長代行を務めてきた実力者として知られている。江口健治会長は、山健組出身の有力組長だった杉秀夫会長の跡目を継承した。“大阪戦争”で長期服役した“戦勲者”の1人。10年以上に渡って健心会の若頭として組織を切り盛りしてきた実力派組長である。茶谷政雄総長は、三代目誠友会(船木一治会長)の最高幹部から直参昇格した。同会の舎弟頭を務めていた実力者で、札幌を本拠に勢力を張っており、道内で3人目の直参となった。以下、関連。中野会が解散(2005年08月08日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200508080000/六代目山口組(2005年07月28日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200507280000/【五代目山口組】新若頭補佐のプロフィール(2005年06月30日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200506300000/山口組若頭とは何か(2005年06月06日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200506060000/五代目山口組の若頭が決定した(2005年05月11日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200505110000/どうなる五代目山口組若頭(2005年02月01日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200502010000/
2005年09月04日
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山口組 「盃直し」「継承式」山口組の新時代を告げる六代目体制構築に向けた“親子、兄舎弟の縁儀式”、いわゆる「盃直し」は、8月27日の大安の日、山口組総本部で厳かに執り行われた。五代目から六代目への「継承式」も同時に執り行われ、新体制になった山口組はここに、六代目時代の新たなスタートを切った。山口組トップに就任した司忍組長(63)と直系組長が改めて「兄・舎弟」や「親・子」の盃を交わす『盃直し』の盃儀式と、先代の渡辺五代目から司六代目に山口組当代を禅譲する『継承式』が、8月27日午前、神戸市灘区の山口組総本部で執り行われた。ヤクザ社会では、8月度は、冠婚葬祭などの義理事は行わないのが慣例である。一般社会同様、“夏休み”となるのだが、その8月に決行されたのである。「司六代目は今年5月に若頭に就任したあと、矢継ぎ早に組織改革を行ってきたが、六代目に就任した以上、一気に体制を固めようということではないか。まして自身、銃刀法裁判を抱えているだけに、最高裁判決が出る前に、1日でも早く六代目体制を確立したいということだろう」(事情通)『盃直し』は組織内部のことなので、ヤクザ社会の慣習にとらわれなくてもいいかもしれないが、『六代目継承式』ともなると、友好団体の親分衆も列席する。さらに、後見人、取持人、推薦人、見届人、媒酌人などの人選もあるし、こうした関係者への依頼も多少の時間がかかるため、8月中に執り行うのは不可能ではないか、と見られていた。ところが、山口組関係筋からの情報によると、「盃直しと継承式を同時に行うことになった」ということだった。渡辺五代目の引退・司忍組長の六代目就任の電撃人事から1ヵ月。名実ともに全国最大のヤクザ組織のドンとなった司六代目の胸中に去来したものは、はたして何だったのだろうか。この日の儀式をつつがなく終えたことにより、山口組は六代目という新体制をスタートさせた──。【司六代目「新執行部」の全貌】組長 司 忍最高顧問 岸本才三(岸本組)顧問 石田章六(章友会)顧問 大石誉夫(大石組)顧問 西脇和美(西脇組)顧問 尾崎彰春(心腹会)舎弟頭 野上哲男(二代目吉川組)舎弟 英 五郎(英組)舎弟 古川雅章(古川組)舎弟 後藤忠政(後藤組)舎弟 石川 尚(名神会)舎弟 玉地健治(玉地組)舎弟 堀内伊佐美(堀内組)舎弟 川合康允(川合組)舎弟 勝野重信(勝野組)若頭 高山清司(二代目弘道会)総本部長 入江 禎(二代目宅見組)若頭補佐 瀧澤 孝(芳菱会)若頭補佐 橋本弘文(極心連合会)若頭補佐 鈴木一彦(旭導会)若頭補佐 寺岡 修(侠友会)若頭補佐 青山千尋(二代目伊豆組)※ 三代目山健組の桑田組長は、跡目を井上邦雄・若頭に譲って組長を退き、「山健組総裁」という立場になった。したがって山健組は、井上氏が組長となって四代目山健組がスタートしているが、現在までのところ最高幹部にその名前を見つけることはできない。総本部長(若頭と舎弟頭を兼務)として組織運営の中心を担ってきた岸本才三(岸本組)組長は『最高顧問』に就任し、司六代目ならびに新執行部の“相談役”的な立場で六代目体制を支援していく。『顧問』には、五代目体制で「舎弟頭補佐」として執行部を支えてきた石田章六(章友会)、大石誉夫(大石組)、西脇和美(西脇組)に加え、三代目時代からの直参で“五代目舎弟”だった尾崎彰春(心腹会)の計4人が就任した。注目の『舎弟頭』には、野上哲男(二代目吉川組)が就任した。当初は、山健組の桑田氏が就くのではないかという見方もあったが・・・。野上組長は五代目体制で総本部長の補佐役である「副本部長」として執行部を支えてきた1人。当初は六代目体制での顧問就任も噂されていたという。野上舎弟頭のほか、司六代目から舎弟盃を受けた六代目舎弟は、英五郎(英組)、古川雅章(古川組)、後藤忠政(後藤組)、石川尚(名神会)、玉地健治(玉地組)、堀内伊佐美(堀内組)、川合康允(川合組)、勝野重信(勝野組)である。英組長、古川組長、後藤組長の3人は、五代目体制で司六代目と共に若頭補佐を務めていたことから、“六代目舎弟”に直った。石川会長は三代目時代からの直参で、五代目誕生と同時に舎弟に直ったが、司六代目からも舎弟盃を受けた。他の4人の舎弟は、いずれも三代目時代から山口組三代に渡って若中となっていた直系組長たち。「今のところ、舎弟頭補佐の人事については何も伝わってきていないが、いずれ“六代目舎弟”のなかから選出されるのではないか」という見方もあるが、三代目時代、舎弟頭が存在していても舎弟頭補佐はいなかった歴史もある。従って、舎弟頭のポストがあるから舎弟頭補佐ポストも必要、というわけには必ずしもならないようだ、と『週刊実話』は書いている。高山清司若頭と共に新執行部の重要な役割を担う『総本部長』には、若頭補佐の入江禎(二代目宅見組)組長が就任した。※ 高山清司・若頭、入江禎・総本部長、橋本弘文・若頭補佐の3人の“軌跡”は「新若頭補佐のプロフィール」にあります。入江総本部長と共に高山若頭を支え、執行部の中核メンバーとなる『若頭補佐』には、瀧澤孝(芳菱会)、橋本弘文(極心連合会)、鈴木一彦(旭導会)、寺岡修(侠友会)、青山千尋(二代目伊豆組)の5人が就任した。瀧澤総長は五代目体制から引き続いての就任だが、他の4人はいずれも五代目体制で直参に昇格した“五代目世代”の直系組長であり、大幅な世代交代が図られたことになる。現在の5人から年内にもあと2~3人、若頭補佐に昇格させるかもしれないという話もあるようだ。5人の新若頭補佐の簡単なプロフィールを『週刊実話』から紹介(転載)する。● 瀧澤孝総長は、昭和59年、竹中四代目誕生で直参に昇格しており、若頭補佐の中では唯一の“四代目世代”。三代目山口組直参だった実兄が引退し、その地盤を引き継ぎ、名門博徒・国領屋下垂一家の九代目を継承しての直参昇格だった。平成元年、五代目体制発足と同時に、その実績を買われて若頭補佐に登用され、関東ブロックのブロック長に就任。平成3年には渡辺五代目が名付け親となって、「芳菱会」と改称した。「宅見事件」後、銃刀法違反事件で共犯に問われ、長期社会不在を余儀なくされた。だが昨年3月、1審で無罪判決を受け、ようやく現場復帰を果たした。銃刀法裁判(控訴審)を抱えているが、山口組の活発な関東進出で何かと外交的に大変な関東地区の若頭補佐だけに、調整能力に長けた瀧澤総長の手腕に期待が寄せられている。● 橋本弘文会長は、今年4月に渡辺五代目の出身母体である山健組の組長代行から直参昇格。6月に若頭補佐に抜擢されたばかりで、新進気鋭の若手幹部だ。初代山健組当時から若手行動派として知られ、二代目山健組では長年に渡って若頭補佐として活躍。のちに若頭代行を務め、三代目山健組では若頭として勢力拡大に手腕を発揮した。平成9年に桑田組長が銃刀法違反事件で逮捕されて以来、組長不在の大組織を統率し、15年5月には組長代行に就任した。「喧嘩には負けたことがない」という典型的な武闘派。● 鈴木一彦会長は、五代目舎弟だった赤石秀雄総長が平成3年10月に除籍処分となったことから、旧関保会の地盤を引き継ぐ形で「旭導会」を結成、同4年2月に直参昇格した。旭川で愚連隊として暴れ回ったのち、17歳で稼業入りし、20歳で赤石総長の盃を受けた。その後、数年間は旭川を離れて関東で生活し、関東ヤクザの手法を学んだりして旭川に戻った。すぐに頭角を現し、昭和47年には、赤石分家として親分の名乗りを許されたという。金融・不動産などを手がけて経済力をつけ、昭和55年頃には関三代目の跡目代行となり、赤石総長の有力な跡目候補となった。旭川を本拠に、旧関保会当時からの地盤をしっかりと守りながら、道内に揺るぎない勢力を張っている。山口組では初めて北海道で最高幹部が誕生したことで、周辺関係筋に与える影響力は大きいとあわれている。● 寺岡修会長は、舎弟頭補佐を務めていた西脇和美組長の西脇組(神戸)から平成4年2月に直参昇格したが、もともとは三代目山口組直系だった細田組の出身である。昭和58年7月に細田利明組長が引退、組解散となったことから、縁あって西脇組長の盃を受けて西脇組に加入した。細田組傘下だった昭和57年10月、淡路島を舞台に五代目大嶋組との間で流血の“淡路島抗争”を繰り広げ、若手武闘派として一躍、注目されるようになった。この抗争をきっかけに勢力を拡大し、同島に勢力を張っていた大嶋組が解散してからは洲本市を本拠に揺るぎない地盤を構築した。直参昇格後、若手実力派としてメキメキと頭角を現し、「総本部当番長」に登用された。まもなくして「組長秘書」に抜擢され、将来の山口組を担うホープとして将来を嘱望されるようになり、最高幹部候補の1人と目されていた。● 青山千尋組長は、平成5年3月に死亡した五代目山口組顧問の伊豆健児組長の跡目を継承して直参昇格した。福岡県飯塚市の出身で、少年期より暴れん坊で鳴らした。昭和53年頃、“九州のドン”と呼ばれた伊豆組長の知遇を得て、盃を受けないまま伊豆組長に付いて回るようになったという。その人柄に惚れ込み、54年末に正式に盃を受けたが、伊豆組長は青山組長の器量を高く買い、若衆ではなく初めから舎弟として迎え入れたほどだった。当時、33歳の若さだった。持ち前の才覚を発揮し、やがて「伊豆組の参謀」と呼ばれるようになり、平成元年からは同組若頭として組織の発展に貢献した。直参昇格後、着実に地歩を固め、戦後生まれの若手実力派組長として注目されるようになり、長らく「総本部当番長」を務めていた。若頭補佐昇格で、今後「中四国・九州ブロック」が新たに「中四国ブロック」と「九州ブロック」に分割されるようなことがあれば、「九州ブロック」のブロック長に就任するものと思われる。※ 続きます。続きは以下です。「六代目山口組本家直系若衆」
2005年09月03日
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『実話GON! ナックルズ』2005年10月号政治家スキャンダル口にするのもはばかられる“独身総理”小泉純一郎異常なる血の結束と最後のタブー総理大臣である前に人間として取材・文・宮城正樹評価の善悪は別にして「記憶に残る」首相であることは間違いない(写真提供・共同通信)日本の総理大臣は小泉純一郎──久々に定着した日本の「顔」だ。だが、誰もが知るはずの「顔」でもその「心」となると皆目不明。わずかな近親者以外には決して見せないという“変人総理”の真の姿。それは、人間としていかがなものか、といった絶対的タブーだった。「殺されてもいい。それぐらいの気構えでやっている」8月8日、郵政法案が否決され、衆院解散が決まった。総選挙を控え、小泉首相は造反組を潰しにかかっている。右は8月8日の夜、衆院解散を回避すべく説得に向かった森元首相に小泉が浴びせた暴言。森は清和会(森派)時代から小泉を補佐し、首相就任後はお目付け役として影で尽力してきた男である。それにも拘わらず小泉は、以前から森の政治的助言を無視してきた。自分のやり方に与せぬ者、異論を唱える者は容赦なく斬り捨てる。小泉はかつて、尊敬する人物として織田信長の名を挙げたが、そこからは改革者というよりは“殉教者”のイメージが浮かび上がってくる。「異常なまでの孤独癖、信じるのは家族だけ」ある政治記者は、小泉の人柄をこう説明する。「盟友ってのがいない人だね。要は誰も信用しない人なんだよ」物事は独りで決める。心を開かない。話が10分と持たない・・・小泉を知る人は口々にこんな特徴を挙げる。一国の首相でありながら、独断で政治判断を行う。「殺されてもいい」という独りよがりな発言からしても、異常な事態といわざるを得ない。「信じるのは家族だけ。事務所にいるのは家族ばかりで異常なまでの血の結束を感じる」(同)小泉の事務所では、公設秘書に義弟の鍋倉正毅、政策秘書に姉の信子を配し、さらには弟の正也、妹の純子が勤務する。政治家が近親者を配するのは当然にも思えるが、政治記者はこうも懸念する。「首相が唯一心を許せるのが姉。キャリアは上だし、今の地位に昇りつめたのも彼女のおかげ。頭が上がらないんだな」姉の信子は、父の純也が防衛庁長官に就任した(19)64年、女性初の大臣秘書となった。小泉が衆院議員に初当選して以来、30年以上秘書を歴任し、政界でのキャリアはトップクラス。永田町では“女帝”で通っている。2002年4月、自民党は「秘書制度の運用指針」にて「近親者の公設秘書への登録は避けることが望ましい」と取り決めたにも拘わらず、小泉は「要は実態だよ」と撥ねつけた。党の方針に反してまで身内に執着するのはなぜか。レイプ騒動で姉に頭が上がらない「首相は慶大時代にレイプ騒ぎを起こしてね。ほとぼりが冷めるまでロンドンへ留学させられたのだが、それをすすめたのが信子さんって話だ」(前政治記者)小泉レイプ騒動──昨年、各誌がいっせいに報じたスキャンダルであり、実際に裁判も起こされている有名な事件だ。ジャーナリストの木村愛二氏が訴えを起こし「日本国民である原告に計りがたい屈辱と苦悩を与えた」として慰謝料100万円を請求した。この問題は国会でも取り上げられたが、官邸はノーコメントを貫き、小泉自身は「勝手にやらせておけ」とばかりに無視を決め込んだ。レイプが親告罪であるうえ、時効が成立していた。しかも、原告や各誌も、確たる証拠がつかめないでいたのである。しかし、本誌はここにきて新たな情報を入手した。警察関係者にあたったところ、驚くべき証言が得られたのだ。「当時の事件の調書が消えているんです。強姦事件クラスだと、学生で未成年でも所轄には全部調書があるはず。それが小泉の場合、消滅している。レイプ疑惑が報道された際、反対勢力がその書類を手に入れようとしたが、すでに無くなっていたといいます。小泉の息のかかった公安筋が証拠隠滅に動いたのでしょう。ということは、やはり、婦女暴行は間違いなくあったと。警察の上層部もそのような認識であると聞いています」この関係者によれば、小泉レイプ疑惑の証拠書類は当時防衛庁長官だった父親の政治的圧力により隠蔽されたとされる。これが事実なら、マスコミが血眼になっても証拠がつかめないはずである。離婚の原因は姉と弟の“ただならぬ関係”そして、さらに驚くべき証言がある。小泉の離婚原因についてのものである。小泉は、1978年に前妻と結婚。長男、次男を授かり、はた目には幸福そうに見えた。しかし4年後、離婚に踏み切る。当時、前妻は、妊娠3ヶ月で、三男を宿していたにも拘わらず、である。いくら姉に「政治の方が大事よ」と言われようが、妊娠中の妻に離婚届を突き出す法はないだろう。三男は以前からたびたびメディアに登場し、「父と会いたい」と発言しているが、小泉は決して会おうとしない。堪りかねた三男が事務所に電話した際、信子が「血のつながりはあるけど、親子関係はない」とつき放したというのは有名な話だ。その点に 関して首相周辺関係者はこう説明する。「前の奥さんと息子さんが出てきちゃ困るんですよ。なぜなら、彼女は純一郎と姉の信子さんの秘密を知っているからです。2人のただならぬ関係を見てしまい、それが離婚のきっかけになったと…奥さん側の関係者の間では知られた話です」関係者はそれ以上コメントはできないと口を濁した。仮にこれが事実であれば、秘密を知られた2人が、身重の妻を追い出す暴挙に出たのも理解できなくはないだろう。小泉が三男に会わないのは、まさに血で塗り固めた姉弟の愛情が露呈することを恐れたためなのかもしれない。小泉の座右の銘は「無信不立」。国民の信用がなければ政治家としてはやっていかれないといった意味だが、これまで見てきた小泉のどこに信用があるのだろうか。なるほど、衆院解散後の支持率は意外なほど安定してはいる。しかし、それは表面的な数字にすぎない。小泉は「国民に信を問う」とアピールする前に、自身の信を問うべきではないのか。 (文中敬称略)“独身総理”小泉首相がひた隠す本当の離婚原因「前の奥さんが出てきちゃ困るんですよ・・・純一郎と(姉の)信子さんの秘密を知っているから」(前妻を知る関係者)小泉純一郎ゾッとするスキャンダル:シスコン疑惑『実話GON! ナックルズ』2005年10月号記事http://www.jca.apc.org/~altmedka/2003aku/aku1090.html小泉純一郎婦女暴行逮捕歴損害賠償請求事件http://www.jca.apc.org/%7ealtmedka/koizumi-rape.html小泉純一郎愛人小はん変死事件の真相(2005-07-04)http://www.pressnet.tv/log/view/6172小泉純一郎ファイル(隠された真相)(2005-08-30)http://www.pressnet.tv/log/view/6451小泉純一郎ファイル、1967年4月、都立松沢病院、病棟名はD-40棟(2005-08-31)http://www.pressnet.tv/log/view/6457<小泉氏の入院歴>小泉純一郎氏は、1967年の4月に婦女暴行事件を引き起こした後、都立松沢病院に入院している。 強制的な入院であり、父親が入院させている。精神分裂病であると診断されている。都立松沢病院側にも「婦女暴行事件を引き起こしたから」と説明がなされている。そのときの入院病棟はD-40棟である。これは事実であるため、小泉氏に対する名誉毀損罪には該当しない。<D-40棟について>このD―40病棟は社会生活の中で精神疾患のために激しい精神症状があって入院する患者さんが最初に入院する病棟であり、<ほとんどが強制入院患者>ほとんどの患者さんが精神保健福祉法で規定されている医療保護入院か措置入院の強制入院の患者さんであり、完全閉鎖病棟である。ブッシュ米大統領の「レイプ疑惑」(2004年10月22日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200410220000/慎太郎と純一郎、良純と孝太郎(2005年03月15日)http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200503150000/
2005年09月02日
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