別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

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2024.12.29
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2006年、明けまして、おめでとうございます!
1月4日(水曜日)号をお届けします。
……といっても、このあいさつを書いているのは、
今日、12月5日(月曜日)です。マガジンでは、
こうして約1か月先の原稿を書いています。
こうすることによって、たとえば、3~4日のス
ランプ状態になったようなときでも、みなさんの
ところへ、途切れることなく、マガジンを配信す
ることができます。
で、実は、この3、4日ほど、ほとんど原稿を書
きませんでした。いろいろ、忙しいことが重なっ
たこともあります。1泊ですが、ワイフと旅行も
楽しみました。
が、今日は今朝から調子がよく、朝の7時半から
目標の、20枚分の原稿を書くことができました。
今、時刻は、午前10時45分です。少し荒っぽ
い原稿かもしれませんが、今年も、こうしてみな
さんのところに、マガジンをお届けできることを
喜んでいます。
みなさんのご健康とご多幸を、心より念願してい
ます。今年もよろしくお願いします。
          浜松市  はやし浩司
(追伸)
年賀状は、HTML版のほうに、載せておきます。
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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(010)
【子育て雑談】
++++++++++++++++++++++++
4年前(01年)に書いた原稿を、改めて読みなおして
います。
そのままそれを紹介しながら、(補記)の部分で、あれこ
れ訂正、修正を加えてみたいと思います。
こうして読みなおしてみると、たった4年前の私ですが、
どこか過激で、どこか反骨的なのがわかります。
とくに進学塾に対する意見は、強烈です。なぜこのよう
な原稿を書いたかについては、いろいろな背景がありま
すが、「これも私」と思い、ここにコメントをつけて、
再掲載することにしました。
               はやし浩司
         2005年12月10日(土)
++++++++++++++++++++++++
●敬語と日本の文化論(フレキシブルな日本語?)
子どもに向かって、「産んでやった」とか「育ててやった」とか言う人がいる。妻に向かっては、
「食わせてやる」とか「養ってやる」とか言う人がいる。Y氏(52歳)がそうだ。息子(27歳)と
娘(22歳)がいるが、子どもは子どもで、「産んでもらった」とか「育ててもらった」とか言ってい
る。
さぞかし窮屈な家庭だろうと思いきや、Y氏の妻は妻で、「夫のおかげで生活できます」と言
っている。そのY氏の妻が私の家にやってきて、こう言った。「ウチのダンナなんか、冷蔵庫か
ら牛乳を出して飲んでも、それを冷蔵庫に戻すことすらしない。だから夏なんか、あっという間
に牛乳が腐ってしまう」と。
話を聞くと、Y氏は結婚して以来このかた、トイレ掃除はおろか、トイレットパーパーの差し替え
すらしたことがないという。家庭というのは、そういうものらしい。それでうまくいっているなら、
「あなたはまちがっている」などと言う必要はない。言ってはならない。
が、こういう人に限って、私に猛烈に反発してくる。「君は日本のよさまで否定するのか!」。Y
氏はこう言う。「日本では上の人を敬う。英語には敬語すらない。外国では、親でも先生でも、
『ヘイ、ユー』と言うではないか。そういう国が、本当に理想の国なのか」と。
 こういう人に出会うと、気が遠くなるほど、間に距離を感ずる。順に反論してみよう。人間の上
下意識を支えるのが、権威。「偉い人は偉い」という権威である。理由など、ない。日本人は、
平安の昔からこの権威を徹底的に叩き込まれている。「男は上、女は下」「親は上、子は下」と
いう、日本独特の男尊女卑思想や親意識もここから生まれた。こうした文化は、日本独特のも
のであることは認めるが、それが「日本のよさ」になるかどうかは別問題である。少なくとも、日
本を一歩外へ出た外国では、通用しない。
 次に敬語の問題。英語に敬語がないというのは、ウソ。「ユア・マジェスティ」とか「ハイ・エクセ
レンシー」とかいう言い方はある。「サー」という単語にしてもそうだ。日本語よりはるかに少な
いというだけだが、そのかわり、彼らはそれなりの人に対しては、ていねいな言い方をする。
仲間どうしだったら、「ハイ」かもしれないが、それなりの人には、たとえば「このようにお会いで
きる特権を、私の喜びとします」などいうような言い方をする。むしろ日本語に敬語が多いの
は、平安の昔から、きびしい身分制度をとってきたことによる。敬語があることを、必ずしも喜
んでばかりはおられない。
また敬語というのは、人間関係を飾る道具として使われる。あくまでも飾り。だから敬語を使う
から相手を尊敬しているということにもならない。使わないから尊敬していないということにもな
らない。私などいつも生徒に、「ジジイ」とか、「バカはやし」とか呼ばれている。しかしそのほう
が互いに心を開いているから、ストレートな人間関係を築くことができる。気も疲れない。
 最後に何も、アメリカや欧米が理想の国だとは思っていない。日本は日本だ。しかしここで大
切なことは、世界に理解される日本であるか否かということ。もし日本が今までのように、東洋
の島国でよいというのなら、それはそれで構わない。しかしそれでよくないというのなら、日本の
常識を外国へ押しつけるか、あるいは日本は世界の常識を受け入れるしかない。あるいは英
語の敬語を発明して、それをアメリカ人に押しつけるというのもよい考えだ。しかしそれができ
ないというのなら、日本を少しでも外国の常識に近づけるしかない。
私はそう考えるが、あなたは私の意見をどう思うか。(以上、01年記「子育て雑談」)
(補記)
日本語は、よい意味では、よりフレキシブル(=柔軟性のある)な言語ということになる。いろい
ろな言い方ができる。その点、反対に中国語などは、ガチガチしている。そんな印象を受ける。
たとえば「私はあなたを愛する」は、中国語では、「ウォー・アイ・ニー」となる。が、それだけ。
 しかし日本語のほうでは、「私ね、愛しているわ」「私は、愛しているよ」「ぼく、愛しているか
も」「ぼくさア、愛しているね」などと、いろいろな形で、微妙な表現ができる。
 敬語についても、そうで、これまたさまざまな言い方ができる。しかしそのさまざまな言い方が
できるという部分で、日本語は、より複雑になってしまった。そしてそれが、時をおいて、学者た
ちの間で、話題になったり、問題になったりするのでは?
 ところで、この文の中で、「君は日本のよさまで否定するのか!」と私は書いた。それを言っ
てきたのは、実は、女性である。当時は、まだ生々しい話だったので、「男性」とかえた。その
女性の年齢は、35歳くらいではなかったか。で、そのあと、その女性から、手紙まで届いた。し
かし内容は、支離滅裂。まるで文章になっていなかった。だから「返事を書くまでもない」と思
い、電話で返事をすることにした。
 しかし電話口に出た男性(その女性の夫)は、電話口で、ただ「すみません」「すみません」と
言うだけで、その女性には、電話をとりついでくれなかった。どういう事情になっていたのか、今
でもよくわからないが、多分、その男性(夫)も、その女性(妻)に手を焼いていたのかもしれな
い。
(はやし浩司 敬語 日本語 日本語の問題 言葉)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●壮絶な家庭内暴力(余計なことは、言うな)
 T君は私の教え子だった。両親は共に中学校の教師をしていた。私は7、8年ぶりにそのT
君(中2)のうわさを耳にした。たまたまその隣家の人が、私の生徒の父母だったからだ。いわ
く、「家の中の戸や、ガラスはすべてはずしてあります」「お父さんもお母さんも、廊下を通るとき
は、はって通るのだそうです」「お母さんは、中学校の教師を退職しました」と。私は壮絶な家庭
内暴力を、頭の中に思い浮かべた。
 T君はものわかりのよい「いい子(?)」だった。砂場でスコップを横取りされても、そのまま渡
してしまうような子どもで、やさしく、いつも柔和な笑みを浮かべていた。しかし私はT君の心に、
いつもモヤのような膜がかかっているのが気になっていた。
 よく誤解されるが、幼児教育の世界で「すなおな子ども」というときは、「自分の思っていること
や考えていることを、ストレートに表現できる子ども」をいう。従順で、ものわかりのよい子ども
を、すなおな子どもとは決して言わない。むしろこのタイプの子どもは、心に受けるストレスを内
へ内へとためこんでしまうため、心をゆがめやすい。T君はまさにそんなタイプの子どもだっ
た。
 症状は正反対だが、しかしこの家庭内暴力と同列に置いて考えるのが、「引きこもり」であ
る。家の中に引きこもるという症状に合わせて、夜と昼の逆転現象、無感動、無表情などの症
状が現われてくる。しかし心はいつも緊張状態にあるため、ふとしたきっかけで爆発的に怒っ
たり、暴れたりする。少年期に発症すると、そのまま学校へ行かなくなってしまうことが多い。こ
のタイプの子どもも、やはり外の世界では、信じられないほど「いい子(?)」を演ずる。
 そのT君について、こんな思い出がある。私がT君の心のゆがみを、お母さんに告げようとし
たときのことである。いや、その前に一度、こんなことがあった。私が幼稚園の中にあった自分
の教室で授業をしていると、T君はいつもこっそりと自分の教室を抜け出し、私の教室へ来て、
学習していた。T君の担任が、よく連れ戻しに来た。そこである日、私はT君のお母さんに電話
をした。「私の教室へよこしませんか」と。それに答えてT君のお母さんは猛烈に激怒して、「勝
手に誘わないでほしい。うちにはうちの教育方針というものがあるから」と。しかしT君はそれか
らしばらくして、私の教室へ来るようになった。家でT君が、「行きたい」と、せがんだからだと思
う。私は以後、一年半の間、T君を教えた。
 しかしその「ゆがみ」を告げようとしたとき、お母さんはこう言った。「あんたは、黙ってうちの
息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「余計なことは言うな」と。
 子どもの心のゆがみは、できるだけ早い時期に知り、そして対処するのがよい。しかし現実
にはそれは不可能に近い。指摘する私たちにしても、「もしまちがっていたら……」という戸惑
いがある。「このまま何とかやり過ごそう」という、事なかれ主義も働く。が、何と言っても、親自
身にその自覚がない。知識もない。どの人も、行きつくところまで行って、はじめて気づく。教育
にはどうしても、そんな面がつきまとう。(以上、01年記「子育て雑談」)
(補記)
 このT君は、今でも強く印象に残っている。その後、どうなったかについては、知らない。私は
そのT君をとおして、自分の「すなおな子ども論」を、頭の中で完成させた。
 従順で、先生の指示にそのまま従う子どもを、すなおな子どもというのではない。心の状態
と、表情が一致している子どもを、すなおな子どもという、と。いやだったら、はっきりと、「いや
だ」と言う。それを表情や言葉にして、ストレートに表現できる。そういう子どもを、すなおな子ど
もという。
(はやし浩司 家庭内暴力 すなおな子ども 素直な子供 すなおな子供)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・
●21世紀の子育て論(悪しき画一平等主義)
 頭のいい子どもは、本当に頭がいい。遺伝子が違うかと思うほど、頭がいい。数年前東京の
A中学へ入ったD君も、また昨年同じ中学へ入ったN君も、そうだった。彼らは小学5年のとき
には、すでに中学3年程度の英語と数学をマスターしてしまっていた。と言っても、特別のこと
を教えたわけではない。教科書とノートだけを与えておけば、自分で学習していまう。教える側
からすれば、これほど楽な生徒はいない。ポイントだけを、それこそ雑談混じりに教えれば、そ
れですんでしまう。
 一方、そうでない子どももいる。教えても教えても、ちょうどザルから水がこぼれるように、教
えたことが消えてしまう子どもだ。S君もそんなタイプの子ども(中2)だった。たとえば英語の
単語でも、一時間かけて数個覚えるのが、限度。しかも次の週にはそっくり忘れてしまってい
た。
 誤解がないように申し添えるが、私は午前中は幼稚園の教師を勤め、午後は中高校生の塾
を開いていた。幼稚園の給料だけでは生活できなかったので、当時の園長と話し合ってそうい
うふうにさせてもらった。だから一日の流れの中で、私は幼児から高校3年生まで、見ることが
できた。結果的にそれがよかった。私は幼児を教えながら、いつも「この子どもはこうなるだろ
う」という予測をしながら教えるようになったし、またそれができるようになった。反対に中高校
生を見ながら、「この子がこうなったのは、幼児期のどのあたりに問題があるのか」を考えなが
ら教えるようになったし、それがわかるようになった。
 結論から先に言えば、人間の能力は平等ではない。平等であるという前提で教えるから、話
がおかしくなる。これも誤解があるといけないので申し添えるが、ただし優劣があるというので
はない。先に書いたD君やA君は、たまたま勉強という分野にすぐれた能力を発揮したが、そ
れがすべてではないということだ。D君は運動がまったくダメだったし、N君も、絵がまったく描
けなかった。一方勉強ができなかったS君は、学校をサボって、近くの公園でゴルフばかりして
いた。もし運動や絵画が主要科目ということになれば、D君やN君は、確実に落ちこぼれという
ことになっていたであろう。そのS君にしても、高校を中退したあと、プロゴルファーの道を歩ん
だが、25歳そこそこの若さで、100万円以上の月収を手にしていた(85年当時)。
 こうした子どもたちを見ていると、問題はもっと別のところにあるように思う。D君にしても、N
君にしても、いつも「学校の勉強はつまらない」と言っていた。S君もそうだ。そしてD君もN君
も、そしてS君も、結局は学校とは離れた世界で、自分を伸ばすしかなかった。しかしこれはた
いへんなエネルギーを要することだ。「能力は平等だ」を歌い文句にしている現在の教育が、
一方でこういう子どもたちを生み出している!
 繰り返す。子どもの能力は平等ではない。だからそういう前提で、今の学校教育を再編する
必要があると思う。またしなければならない。もうあの画一平等主義は、21世紀の日本の実
情に合っていない。(以上、01年記「子育て雑談」)
(補記)
 ここに書いたことは、すべて実話である。こうした子育てエッセーを書くとき、気をつけなけれ
ばならないのは、登場する親や、子どもたちが、だれであるか、それを絶対にわからなくするこ
と。その周辺の人が読んでも、わからなくすること。
 が、ここに書いた、D君にしても、N君にしても、彼らの名前の頭文字を、そのままとった。S
君については、本名は、M君である。この「悪しき画一教育」については、そのあとも、何度もテ
ーマとして、エッセーを書いた。
 で、それから4年。今、学校教育は、急速に変わりつつある。恐ろしいほどの変化と言っても
よい。先生たちの意識も、それに合わせて変わりつつある。いわゆる学校教育そのものが、従
来の「画一型」から、多様性をもった、「個性尊重型」に変わりつつある。
 と言っても、日本の教育が変わりつつあると考えるのは、正しくない。日本の教育は、戦後、
あまりにも(世界の常識)に背を向けすぎていた。それがここにきて、急速に欧米化し始めたと
考えるのが正しい。つまり、世界の標準に近づきつつあるということ。またそういう視点で日本
の教育をながめないと、日本の教育のこの変化を、正しく理解できない。
(はやし浩司 画一教育 教育の欧米化 個性尊重 子どもの能力 日本の教育)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●教育界を吹きすさぶ、むなしい風(目標をなくした教育)
 できない子どもがふつうになっても、親は「効果があった」とは言わない。ふつうになればなっ
たで、親は「もっと……」と言う。できないままであれば、親は、「効果がなかった」とか、「あの先
生はダメな先生」とか言ったりする。できる子どもについても同じ。少しでも成績がさがったりす
ると、親は大騒ぎする。考えてみれば、こんなむなしい仕事はない。こうした現象は、算数の世
界でよく見られる。
 計算力というのは、訓練で伸びる。幼稚園児でも掛け算の九九を暗記したり、あるいは小学
一年生でも、計算を即座にしたりする子どもがいる。そういう子どもの親は、「うちの子どもは、
算数の力(=考える力)がある」と思う。しかし計算力と、算数の力は別。基本的な力がないと、
やがてメッキがはがれるように、算数の力は低下する。こういうとき教師は一番、苦労する。親
のきびしい視線を、子どもを通して痛いほど、感ずるからだ。
 教育、教育と言いながら、親の意識の中にも、「育てる」という意識がない。教育とは、勉強を
教えること。子どもの側では勉強をすること。そしてその目的はと言えば、「よい学校に入り、よ
い大学を出て、よい会社に入社するため」と考える。だからどうしてもそこに成績至上主義がは
びこる。成績がよければ善。成績が悪ければ悪、と。こうしたものの見方は明治時代以来、日
本の伝統的な教育観として定着している。あの夏目漱石の「坊ちゃん」の中にも、職員会議の
席で一人の教師が、「我が校の実績も着実にあがってきております」と発言するシーンがある。
この場合、「実績」とは、大学への進学率をいう。
 私は一度、ある塾連盟の機関紙にこんな記事を書いたことがある。「何だかんだと言ったとこ
ろで、日本の教育の柱は人間選別ではないか。もしこの教育界から受験をはずしたら、塾な
ど、あっと言う間につぶれてしまうでしょ。学校教育だってあぶない。もし塾が本当の教育とや
らをしたいのなら、受験科目とは関係ない科目で、生徒を集めてみればいい」と。ふつうならあ
ちこちから反論が殺到するが、このときばかりは何も反応がなかった。塾教育そのものを、ま
っこうから否定したからだ。
 話をもとに戻すが、今のような教育体制を続ける限り、この教育界から、この「むなしさ」は消
えない。そしてこのむなしさがある以上、教師にやる気など、出てこない。だからいくら外部の
人間が教育改革を叫んでも、絵に描いた餅で終わってしまう。考えてみれば昔はよかった。教
育がわかりやすかった。進学率を高めることが、教育の目標だった。しかし今は、その目標が
ない。現場の教師たちが、何に向かって努力したらよいのか、それがわからなくなってしまっ
た。
へたに創意工夫をすれば、隣のクラスの父母から文句を言われる。「どうしてうちのクラス
では、してもらえないのか」と。そうそう毎日のように子どもたちを近くの公園へ連れていき、そ
こで授業をしていた先生がいた。しかし親たちの反対で、あっという間にやめになってしまっ
た。「そんなことすれば勉強が遅れる」と。
 創造力豊かな子どもを育てるといったところで、教師自身にそれが許されていないのに、どう
してそれができるというのだろうか。(以上、01年記「子育て雑談」)
(補記)
 ごく最近(05年夏)でも、こんなことがあった。
 ある小学校に、オーストラリア人の英語教師が派遣されてやってきた。で、そのオーストラリ
ア人教師が、自分の生徒たちを、近くの公園へ連れて行こうとしたとき、教頭が、それにストッ
プをかけた。「授業は、教室でするように」と。
 そのオーストラリア人の教師は、私にこう言った。「野外授業は、オーストラリアでは、みなや
っている。当たり前の授業なのに、どうして日本では、だめなのか?」と。
 その学校には、その学校なりの、いろいろな事情や規則があったのだろう。「事故でもあった
らたいへん」と、その教頭は考えたのかもしれない。オーストラリア人の教師は、こう言った。
「オーストラリアの子どもたちの遊びを教えたかったのに……」と。
 だからといって、私は、全面的に、そのオーストラリア人の教師の言い分を認めたわけではな
い。日本人には、「土俵」という考え方がある。「土俵では、相撲のルールに従え」と。そこで私
はそのオーストラリア人の教師に、こう言った。「本当に自由な教育をしてみたいと思ったら、英
語教室を自分でつくり、生徒を自分で集めること。そこで好きなことをすればいい」と。
 この私の考え方は、少し、保守的かな?
(はやし浩司 教師の自由 教育の自由 教師のやる気 自由な教育)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+





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Last updated  2024.12.29 17:08:41


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