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2024.12.29
●最前線の子育て論byはやし浩司(06)
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●教育の皮肉(教育の原点)
家庭教育では、子どもは使えば使うほど、いい子になる。忍耐力も育つし、生活力もつく。そ
してその上、親の苦労のわかる子どもになる。
子どもは突き放せば突き放すほど、自立する。「あなたの人生だから、あなたはあなたで、勝
手に生きなさい」という姿勢を、親がもてばもつほど、子どもはたくましくなる。
子どもに期待をしなければしないほど、子どもは親の期待を超えた子どもになる。「私が老人
になっても、子どもたちにはめんどうをみてもらわない」と言う人がいるが、そういう人ほど、ま
た子どもたちの愛を一身に集めている。
一方、家庭教育では、子どもは手をかければかけるほど、またお金をかければかけるほど、
ドラ息子化する。生活がルーズになり、自分勝手になる。
子どもは溺愛すればするほど、わけのわからない子どもになってしまう。あるいは親に反発
する。そうでなければ超マザコンタイプの子どもになってしまう。
子どもに期待をかければかけるほど、子どもはどんどんその期待からはずれ、親の望む方
向とは別の方向へ進んでしまう。あるいは親の過剰期待の中で、子どもは窒息してしまう。
皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。親たちがよかれと思ってしていることが、かえって
裏目、裏目に出てしまう。なぜか。私はその理由の一つとして、人間には本来、いじってもよい
部分と、そうでない部分があるように思う。たとえば人間の自立に関する部分はいじってはいけ
ないし、いじればいじるほど、子どもの自立は遅れる。つまりそういう部分は、人間が「教育」を
意識する、ずっとはるか昔から人間に備わっていた「力」だと思う。庭にやってくるスズメにして
も、実にたくましい。犬の目を盗んでは、ドッグフードを盗んでいく。
となると教育とは何か、ということになる。そこで一のヒントとして、スズメの話を続ける。この
スズメは、山バトがやってきても、まったく逃げない。しかしモズがやってくると一斉に逃げ出
す。モズは肉食だ。そこでスズメをよく観察してみると、「逃げる」という行動は、親から子へと
代々教え継がれていることがわかる。親鳥が逃げ出すと、間髪を入れず、子スズメたちが逃げ
出す。そしてやがて子スズメたちはモズがやってきたら、逃げるということを学習する。
わかりやすく言えば、教育とは、先人の知識や経験を、子どもたちに生きる武器として与える
こと、ということになる。またその視点を忘れて、教育はありえないし、またその視点からはず
れた教育は教育ではありえない。たとえば歴史教育にしても、原爆の悲惨さを教えるのは教育
であっても、○○年△△条約成立などという年号を子どもに暗記させるのは、歴史教育ではな
い。教育がそういう視点に立ちかえったとき、教育が本来どうあるべきかがわかるのではない
だろうか。
家庭教育は、あくまでもその一部に過ぎない。(以上、01年記「子育て雑談」)
(補記)
今、このエッセーを読みかえしてみても、「まったく、そのとおり」と思う。そういえば、冬になっ
たというのに、ここ1、2年、そのモズが私の庭に来なくなった。どうでもよいことだが、ふと、
今、そう思った。
また20年来つづけてきた、スズメの餌づけだが、それについては、今年から、やめた。鳥イ
ンフルエンザの問題もある。が、それ以上に、やってくるスズメの数が、あまりにも多くなりすぎ
た。昨年当たりは、数十羽ずつに分かれた群れが、ひっきりなしに私の庭にやってきていた。
朝早く、1~2キロの餌を庭にまいたり、餌台にのせるのだが、午前中には、それがきれいに
なくなってしまった。しかしこういう餌づけは、結局は、野鳥のためにはならないのでは……。野
鳥が、人間に依存するようになり、野鳥が野鳥でなくなってしまう。
それがやっとわかった。それでやめた。私自身は鳥が大好きで、庭に鳥がいないと、さみし
いのだが……。
(はやし浩司 忍耐力 自立 子どもの自立 教育の原点 教育の目的)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●新学力観という、観点(役に立つ教育)
「地面に立てたポールを利用して、太陽の高度を調べるにはどうしたらよいか。図解して説明
せよ」という問題がある。文部省が実施した「新学力テスト問題」の一つだが、中1年生での正
解率は、たったの10・4%。しかしこんなことは、教育が始まる以前から、人間には常識だっ
た。昔の人間は、皆、太陽の位置や影の長さで時刻を知った。今の子どもたちは、そんなこと
も知らないのかということにもなるし、裏を返せば、今の教育は一体、何を教えているのかとい
うことにもなる。
教育の基本は、「将来、子どもたちが生きていく上で、役にたつ知識や経験を、分け伝えるこ
と」ではないのか。そういう視点がないと、受験教育に代表されるように、教育がただ単なる点
数稼ぎのための道具にされてしまう。もっと言えば、教育が人間選別の道具にされてしまう。
ちなみに中学生にこう聞いてみればよい。「君たちは、なぜ勉強するか」と。大半の子どもたち
は、こう答える。「高校へ入るため」「大学へ入るため」と。親にしてもしかり。勉強をしない子ど
もを叱るとき、「そんなことでは、いい大学へ入れないぞ」と叱ることはあっても、「将来、必要な
知識が身につかないぞ」とは言わない。こうした教育がさらにいびつになると、幼稚園で掛け算
の九九を暗記させたり、漢字の読み書きを教えたりするようになる。
一方、これは当然のことだが、子どもたちはその必要性を感じたとき、実に生き生きと自ら学
習し始める。私はときどき、「お金儲けごっこ」をするが、そのときもそうだ。それはこうして遊
ぶ。
まず子どもたち(年長児)に、紙で作ったお金を渡す。そしてそれで折り紙を買わせる。大小
さまざまな大きさの折り紙があって、それぞれ値段が違う。子どもたちはその買った折り紙で、
いろいろなものを作る。絵を描く子どももいる。で、それができたら、今度はこちら(教師)が、そ
のできたものを買いあげてあげる。じょうずにできたのは、高い値段で。そうでないのは、低い
値段で。あとはこれを繰り返す。
ときどき、ほかの子どもが作ったものを、別の子どもに売ってあげることもある。20円で買いあ
げたものを、40円で売りつけたりすると、子どもたちは「ずるい、ずるい」と言うが、「これが資
本主義の原理だ」などと難しい言葉で言ってやると、たいてい静かになる。さらに慣れてくると、
子どもたちどうしで、ものの売買をし始めるようになる。
こうした動機づけがあると、あとは放っておいても、子どもたちは自ら、足し算や引き算をする
ようになる。多い少ないの判断も、そして損得の判断もできるようになる。さらに「労働すること
の喜び」もわかるようになる。
文部省の新学力観では、「知識の獲得量ではなく、自分で考え、表現する力を重視する」とい
うもの。私はこれには大賛成だが、ただし一言。こういう指導が全国一律になされるところに
も、問題がある。皆が同じように自分で考え、表現するようになったら、それこそ、この日本は
どうなる。そんなことも頭に入れておいてほしい。(以上、01年記「子育て雑談」)
(補記)
日本の教育は、全体としてみると、将来、その道の学者をめざす子どもたちにとっては、きわ
めて効率よく、かつ体系的にできている。理由は、わかりきっている。教科書が、その道の学
者たちによって、作られているからである。
たとえば英語という科目にしても、将来、英語の文法学者になるには、たいへん効率よく、体
系的にできている。(最近は、こうした考え方が、大きく変わりつつあるが……。)
しかし今、将来、学者になる、あるいはなりたいと言っている子どもは、いったい、何%いるの
か?
また日本の教育には、「子どもたちに実用的なことを教えるのは、悪」と考えているフシすら、
見受けられる。しかしどうして実用的であっては、いけないのか。アメリカでは、中学校の数学
の時間に、小切手の使い方を教えている。
ここで「将来、子どもたちが生きていく上で、役にたつ知識や経験を、分け伝えること」と教え
てくれたのは、オーストラリアのM大学で、教授をしている私の友人である。
(はやし浩司 日本の教育 実用的な教育 子どもの学力 子供の学力 新学力観)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・
●一つの暴論(教育革命論)
これはあくまでも暴論だが、学校は午前中だけでやめたらいい。午後は、生徒の自由にす
る。そしてそれぞれの特性に合わせて、塾へ行けばいい。何も学習塾や受験塾だけが塾では
ない。ピアノ教室、料理教室、工作教室、釣り教室、水泳教室、フランス語教室、ダンス教室な
ど。学校の中に、塾を呼びこんでもいい。その分、月謝は割安にする。
原則として文部省は、学校の運営管理だけに口を出す。教科書検定は廃止。一方、受験指
導は、それを「よし」とする、業者に任せればいい。生徒の答案用紙を採点するのは、しかたな
いとしても、順位をつけ、進学校へ割り振るなどという行為は、教育者を名乗る教師のする仕
事ではない。
また学校の敷地の3分の1には、樹木を植えさせる。校庭には、緑の芝生をしきつめる。管
理は、授業の一つとして、子どもたちに任せる。また校舎は今後、完全なバリヤーフリー構造
にして、身体障害者や知的障害者を差別することなく入学させる。そして子どもたちどうしで、
互いにめんどうをみあう。
教師のする仕事は、「教える」ことではなく、「引き出す」こと。子どもたちの特性を見極めな
がら、その特性に応じた指導をする。具体的には子どもの特性に応じたカリキュラムを組んで
あげる。読書が好きな子どもは、毎日でも読書ができるようにしてあげる。皆が皆、算数ができ
なくてもいい。算数ができない子どもは、算数ができる子どもを尊敬し、ピアノがひけない子ど
もは、ピアノがひける子どもを尊敬する。互いに皆が、それぞれの立場で相手を認め合う。
そうそうA中学に優秀なスペイン語塾があれば、B中学やC中学からも、自由に越境受講で
きるようにすればいい。そうすればもっと多様性が広がる。また基礎学力(算数の基礎、読み
書きなどの基礎)については、単位制を導入して、義務教育機関中に終了すればよいとする。
クラス担任制度は廃止して、生徒の責任者制度を導入する。その責任者(教師)が、それぞれ
の子どもの指導について、責任をもって指導する。必要に応じて、一日中、行動をともにしても
よい。
高校、大学も基本的には、子どもの多様性に合わせて、多様化する。高校や大学にスキー
学部があってもいいし、釣り学部があってもいい。文学部も、作家部、読書評論部などに分け
る。経済学部も、起業部、ベンチャービジネス部などに分ける。もちろん一方に、アカデミックな
学問を探求する学部があってもいい。哲学や数学の分野で、すぐれた才能を示す子どもにつ
いては、それはそれとして伸ばす。
これは暴論だが、しかしもし実行したら、それはまさしく教育革命というにふさわしい。長い
間、鎖国と封建制度の中で苦しめられてきた子どもたちにとっては、まさに革命。自由を求め
た革命。が、あなたはそれでも今の教育制度がいいと思うか。もしそうならあなた自身の子ども
時代を思い浮かべてみてほしい。あなたは心の中で、どんな学校を求めていたかを、だ。力の
ない子どもの革命を助けるのは、あなたしかいない。(以上、01年記「子育て雑談」)
(補記)
この原稿を書いてから、4年になる。が、実は、こうした(流れ)は、すでに世界の常識になり
つつある。ドイツやイタリアでは、学校外教育が、ますますさかんになりつつある。カナダでも、
そうだ。「教育は学校で」という発想そのものが、もう古い。
ただしこの日本で、教育を自由化するには、1つの条件がある。まず、学歴社会を是正する
こと。それをしないで、自由化すれば、進学塾だけが、学校外教育ということになってしまう。
(はやし浩司 教育の自由化 学歴社会 教師の責任)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●学歴信仰は、迷信?(有M文部大臣への反論)
大学の教授は、高校の先生より、エライ。高校の先生は、中学の先生より、エライ。中学の
先生は、小学校の先生より、エライ。小学校の先生は、幼稚園の先生より、エライ。少なくと
も、大学の教授は、幼稚園の先生より、エライ。誰しも、心の中でそう思っている。こういうのを
学歴信仰という。
家計がひっくり返っても、親は爪に灯をともしながら、息子のために学費を送り続ける。が、
肝心の息子様はそんな親の苦労など、どこ吹く風。少しでも仕送りが遅れたりすると、ヤンヤ
の催促。それでも親は、「大学だけは出てもらいたい」と思う。そしてそれが「親の務めだ」と思
う。こういうのを学歴信仰という。
浜松にもA高校からD高校まで、ランクがある。やっとの思いでD高校へ入れそうになると、親
は「C高校を」と希望する。そしてC高校が合格圏に入ってくると、今度は「A高校。それが無理
なら、何とかB高校を……」と希望する。親の希望には際限がないが、そういう思いが、誰にで
もある。こういうのを学歴信仰という。
新聞記事だけなので、有M文部大臣の発言の真意はわからないが、文部大臣が、母校のA
高校へ来て、「学歴信仰があるというのは迷信」と述べたとか(99年2月)。つまり「日本には
学歴信仰はない」と。東大の総長という学歴の頂点に立ったような人が、しかもその信仰の総
本山の、そのまた法主の立場にある有M文部大臣が、そういう発言をするところに、日本のこ
っけいさがある。学歴信仰がなかったら、誰も、受験勉強などしない。誰も自分の息子を塾や
予備校に通わせない。もし本当にないのなら、成績に関係なく、東大の学生を入学させたらい
い。あるいは文部省は、学歴に関係なく、役人を雇ったらいい。
学歴のある人には、学歴は不要だ。しかし学歴のない人は、それを死ぬほどほしがる。お金
と同じだ。金持ちが、いくら「お金では幸福は買えません」と言ったところで、その日のお金に困
っている庶民には、説得力はない。私もある時期、自分の学歴にしがみついて生きていた。特
にこの教育の世界ではそうで、もし私に学歴がなかったら、私の教育論になど、誰も耳を傾け
てくれなかっただろう。反対に肩書きや地位がないため、いかに辛酸をなめさせられたことか。
話は変わるが、ニュージーランドのある小学校では、その年から手話を教えるようになったと
言う。教室の壁には、手話の仕方が描いた絵が、ペタペタとはってあった(テレビ番組より)。理
由は、その年から、聴力のない子どもが入学してきたからだという。こういう姿勢、つまりその
子どもに合わせて、学校が自由にカリキュラムを組むという姿勢の中に、私は学校の本来、あ
るべき姿を見た。
反対にもし日本の小学校で、こういう身体に障害のある子どもが入学してきたら、教師や父母
は、どのように反応するだろうか。さまざまな問題が起きるであろうし、その起きる背景に、学
歴信仰がある。天下の文部大臣にさからって恐縮だが、文部大臣ももう少し庶民の側におり
て、ものを考えてほしいと思う。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
この原稿を書いた時点(01年)と今では、障害児に対する考え方が、大きく変わってきた。1
5年ほど前のことだが、ある小学校(静岡県)で、1人の身体に障害のある子どもを入学させよ
うとしたことがある。そのとき、「そういう子どもが入ってくると、子どもたちの勉強の進度にさし
さわりが出る」と、反対運動を起こした親たちがいた。テレビなどでも、報道されたので、覚えて
いる人も多いと思う。
たった15年前には、日本はまだそういう国だった。が、今、そんな反対運動をすれば、反対
に、その親たちが袋叩きにあうだろう。日本の教育というより、親たちの意識が、たしかに今、
変わりつつある。
(はやし浩司 学歴信仰 学校神話 受験カルト)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●不気味な思考回路(ポケモン現象)
一時期よりは下火になったが、いまだにポケモンは根強い人気を保っている。年齢的には幼
稚園の年長児から小学2、3年生児が、そのピーク。私の調査でも、約80%の子どもたち
がハマっていたことがわかっている(98年はじめ)。
一度こういう世界ができると、「ポケモンを知らない」とか、「ポケモンなんて、つまらない」など
と言おうものなら、それだけで仲間はずれにされてしまう。当時あの「♪ポケモン言えるかな」と
いう歌を、どこまで歌えるかが、その子どものステイタスを決めていた。たとえばその歌を途中
までしか歌えなかったりすると、その子どもは「バカ」というレッテルをはられてしまった。
問題は、そのハマリ度だ。好きとかファンというレベルならまだしも、中には熱狂してしまう子
どもがいる。現実とゲームの世界が区別できなくなってしまう子どももいる。こうなるとゲームと
は、もう言えない。信仰だ。しかもカルトだ。ある子ども(小3男児)は、親に叱られると、いつも
「♪ポケモン言えるかな」を心の中で歌っていたという。また別の中学生は、毎夜、空に向かっ
て、超能力を授けてもらうよう、祈っていたという。そうでなくても、大半の子どもは、あの黄色い
ピカチューの絵を見ただけで、興奮状態になってしまった。
今はまだよい。今は、まだゲームの世界に収まっているから、よい。しかしもしポケモンが思
想をもったらどうなる。たとえばサトシが、「子どもたちよ21世紀は暗い。一緒に海へ入って
死のう」などと訴えたら、どうなる。それに従ってしまう子どもが続出するかもしれない。ポケモ
ン、いや一連のポケモン現象には、そういう危険性が潜んでいる。
それにもう一つ、心配なことがある。幼児期に一度、こうした思考回路ができると、以後、何
かにつけてその思考回路に沿って、ものを考えるようになるということだ。迷信を信じやすくなっ
たり、カルトにハマりやすくなったりする。低劣な運命論やバチ論を振りかざすようになるかもし
れない。ある妻は、狂信的なカルト教団に身を染め、夫に向かってこう言い出した。「あんたと
私は、前世の縁で結ばれていなかったのよ。それを正すためには、信仰の力が必要なのよ」
と。もしあなたの妻がある日突然、そんなことを言い出したら、あなたはそれに耐えることがで
きるだろうか。こんな例もある。
ある教団では手術そのものを禁止している。私がそのことをその教団に確かめたら、「禁止
はしていないが、熱心な信者なら手術を拒否します」ということだったが、ともかくもそういうこと
だ。そしてその結果として、一人の子どもが交通事故で死んだ。子どもの母親が熱心な信者
で、手術をがんとして拒否したからだ。が、悲劇はそこで終わらなかった。この事件で孫を失っ
た老人はこう話してくれた。
「今は、息子夫婦とも断絶しています。それまでは愛だとか、平和だとか、信仰もそれほど悪い
ものだと思っていなかったのですが……」と。私にはこれ以上のことは何も言えないが、もしあ
なただったらそうするか。それを一度考えてみてほしい。ポケモン現象にはそんな一面も隠さ
れている。(以上、01年記「子育て雑談」)
(補記)
カルト教団と戦うのも、疲れる。本当に疲れる。彼らは、その信仰に、命をかけている。かた
や私の方は、そこまではしない。命をかけてまで戦うということはしない。が、この(ちがい)が、
結局は、カルトをのさばらせてしまう結果となる。
私は、当時、まだカルト教団と戦っていた。で、そうしたカルト教団のもつ、カルト性というか、
危険な側面を、あのポケモン・ブームの中に見た。子どもたちは、狂信的なまでに、ポケモンに
夢中になっていた。
そこで私は「ポケモン・カルト」(三一書房)という本を書いた。
が、反響というか、抗議の嵐は、すさまじかった! 今でも、その世界では、「トンデモ本」とし
て酷評されている。どこか「?」な人たちに、「トンデモ本」と酷評されることは、たいへん名誉な
ことではないか。
このエッセーは、そういうときに書いた。いくら酷評されても、今でも私は、自説をひっこめる
つもりは、まったく、ない。
(はやし浩司 カルト カルト教団 ポケモン・カルト)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・
●わからぬフリをする(うちの子は、どうですか?)
子どもの情緒障害、専門的には脳の機能的障害には、軽重の程度の差がある。重い場合
は別として、軽い場合には、ふつう児との境があいまいで、そのため指導が難しい。いろいろな
ケースがある。
たとえば自閉症にしても、それと明らかにわかる子どももいるが、「どこか心を開かない」「勝手
な行動をして、どうも心をつかめない」という程度の子どももいる。かん黙児にしても、外の世界
ではまったくしゃべらない子どももいれば、ふとしたきっかけで黙りこくってしまう子どももいる。
私にしても、それぞれ何10例もの子どもたちを直接指導してきたが、その私でもいまだに迷う
ことが多い。いや、判断を誤ることはまずないが、親に言うべきかどうかで迷う。「もし万が一に
もまちがっていたら……」という思いと、「治療法も用意しないまま、診断だけをくだすことはでき
ない」という、二つの思いの中で迷う。言えば言ったで、親に与える衝撃ははかり知れない。
だから親は、子どもがどこか変わった症状を示したりすると、子どもを叱ったり説教したりす
る。「どうして静かに落ちつけないの」とか、「皆の前で、もっとハキハキ、しゃべりなさい」とか。
しかし脳の機能的障害というのは、そういうものではない。子ども自身がコントロールできな
い、脳の奥深い部分で起こる。そして次に親は、その矛先を、教師に向けてくる。「先生の指導
が悪いから、こうなったのだ」と。教師がやりきれない気持ちに襲われるのは、たいていこんな
ときだ。
が、教師は知らぬふりをして教える。そういう知識はないという前提で、教える。少なくとも親
のほうから、「どうしてでしょうか?」という質問があるまで、そうする。……こう書くと、無責任な
教師のように思われるかもしれないが、教育には、はっきりとわからなくてもいいことは、山ほ
どある。あるいはわかっていても、わからないふりをして教えることは山ほどある。たとえば子
どもの知能や、家庭問題。性格や気質など。その子どもはそういう子どもなのだということを納
得した上で、教える。仮に情緒に問題があるとしても、ふつう児として自然に扱ったほうが、そ
の子どもにとってはよいということもある。意識すればするほど、逆効果になる。
そうそう、教師が一番いやがる会話を教えよう。何がいやかって、親に、「うちの子、どうでし
ょうか」と聞かれることぐらい、いやなことはない。「うちの子、最近、いかがでしょうか」と聞く人
も多い。親というのは先生と顔を合わせると、たいていそう言うが、言われたほうは答えようが
ない。親は軽いあいさつのつもりでそう言うのだろうが、何をどの程度答えるべきか、その返答
に困ってしまう。私の場合、そういうふうに聞かれたら、たいてい、「おうちではいかがです
か?」と聞きなおすようにしている。そうすると、相手の聞きたいことがわかる。
私「おうちではいおかがですか」
親「最近、家の手伝いをしなくて困っています」
私「ああ、そのことですね」と。(以上、01年記「子育て雑談」)
(補記)
「問われるまで、答えない」……それが、教師の間の不文律にもなっている。いくら子どもに
問題があっても、教師の側から、それを指摘してはいけない。中には、それを正しく受け取って
くれる親もいるが、ほとんどの親は、その瞬間から、狂乱状態になってしまう。
で、最近の教師の傾向としては、こういう言い方をするのが、通例になっている。「一度、専門
医に相談してみられてはいかがですか?」と。あとの判断は、親がすればよいという指導のし
方である。
一見、無責任にみえる指導法だが、現状では、それもやむをえないのではないか。
(はやし浩司 子供の問題 育児の問題 子供の心の問題 教師の対処法)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●溺愛ママ・ブルース(溺愛は愛ではない)
子どもを溺愛する親は、珍しくない。たいていは親側の情緒的欠陥が原因で、親は子どもを
溺愛するようになる。ある母親は、息子(小6)が、修学旅行に行った夜、一睡もせず泣き明か
した。また別の母親は、やはり息子(中3)が初恋をしたことについて、はげしい嫉妬心を燃や
した。
こうしたケースで特徴的なことは、溺愛している母親は、それを「親の深い愛」と誤解している
点にある。ある母親は臆面もなく、こう言った。「息子(高1)の汚れた下着を見ていると、いと
おしくて、頬ずりしたくなります」と。つまりそうすることが、親の鏡というわけである。中に生きが
いのすべてを、子どもに注いでしまう人がいる。考えることといえば、明けても暮れても、子ども
のことばかり。毎月、子ども(幼稚園児)の成長記録を、小冊子にして発行している人もいる。
こういう人は、「子どもは私のすべて」と公言してはばからない。
しかし溺愛は、「愛」ではない。代償的愛ともいう。つまり自己の支配欲を満たすために、子ど
もを愛する。あるいは自分の心のスキ間を埋めるために、子どもを愛する。つまりは親の身勝
手な愛に過ぎない。子どもを愛するということは、子どもが巣立っていくのを見守りながら、じっ
とそのさみしさに耐えることにほかならない。もっともこう書いたからといって、溺愛が悪いとい
うのではない。もちろん笑っているのでもない。
ただ私がここで言いたいことは、親が溺愛すればするほど、子どもの「核」形成が遅れるという
ことだ。核というのは、子どものつかみどころをいう。その年齢になると、その年齢にふさわしい
「つかみどころ」ができてくる。しかし親が溺愛したりすると、そのつかみどころがわからなくな
る。全体にその年齢に比して、幼い印象を与えるようになる。が、それだけではすまない。
子どもはその年齢ごとに、ちょうど蝶がカラをぬぐようにしてカラをぬぎながら、成長を繰り返
す。しかしその段階で溺愛などが原因で、カラをぬがないと、そのツケはあとへあとへと回され
る。しかもあとになればなるほど、その衝撃は何10倍も大きくなる。はげしい家庭内暴力に
つながることもある。
「俺を、こんな俺にしたのは、オマエだ!」
「許して、お母さんが悪かったわ」と。
そうでなければ、そのまま子どもはマザコンタイプの子どもになっていく。30歳になっても、40
歳になっても、親離れできない。これは極端なケースだが、結婚してからも実家へ帰るたびに、
母親と風呂へ入ったり、一緒に寝ている男性がいた。そういうふうになる。
自分自身の中に「溺愛」を感じたら、子育てから遠ざかる。しかしこれは簡単なことではない。
唯一方法があるとすれば、母親であることを忘れ、妻であることを忘れ、ついで女であることを
忘れ、一人の人間として、自分のしたいことをする。そしてその反射的効果として、子育てから
遠ざかる。もちろん自分自身に情緒的欠陥があれば、それと闘う。(以上、01年記「子育て雑
談」)
(補記)
マザコンになるのは、何も男児だけとはかぎらない。女児も、マザコンになるケースは、多
い。しかも女児(女性)のマザコンのほうが、男児(男性)よりも、強烈になりやすい。女性のば
あい、実家に帰って、母親といっしょに風呂に入っても、だれも、おかしいと思わない。(男性だ
ったら、それだけで、大問題になるが……。)そういうスキをついて、女性は、男性よりも、より
強烈なマザコンになる。
さらにファザコンというのも、ある。自分の父親を偶像化する。「オレのオヤジの悪口を言うヤ
ツは、許さない」と、公の場所で、叫んだ男性(50歳くらい)がいた。
でき愛は、「愛」ではない。自分の心の欠陥を埋め合わせするために、親は、子どもをでき愛
するようになる。ご注意!
(はやし浩司 溺愛 でき愛 子どもの成長 子供の成長 子供の心の発達 心理)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●スポイルされる子どもたち(忍耐力のない子ども)
アメリカ人の友人が、「日本の子どもたちは、100%、スポイルされている」という。わかり
やすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、どんなところを見て、そう
言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。
「ときどきホームスティをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャ
ワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、
「日本の子どもは何もしない」と。反対にアメリカへ、ホームスティしてきた高校生が、こう言って
驚いていた。「向こうでは、明らかに不良と思われるような高校生でも、家事だけは手伝ってい
た」と。
日本人は、子どもを使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解している
ようなところがある。だから生活感がない。「水はどこからくるか」と、年長児たちに聞くと、「水
道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「おじさんが持っていってくれる」と。あるいは
「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「おとうさんが、やってくれるから
いい」と答えたりする。
こんな話をある講演会で話したら、一人の母親がこう質問してきた。「何をやらせればいいの
ですか」と。話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの30分ですんでしまう。買物といっても、食材
は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。料理のときも、台所の周囲でうろうろされると、かえって
迷惑だから、テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。
子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親がせんべいを口にして、
寝そべりながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと
動き回り、子どももそれに合わせて、キビキビとすべきことをすることをいう。たとえば次のよう
なとき、あなたの子どもはどういう反応を示すだろうか。
あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたが……。さっと子どもがやってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかしそ知ら
ぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育をかなり反省したほうがよい。
よく誤解されるが、子どもの忍耐力は、「いやなことをする力」をいう。台所の生ゴミを手で始
末できるとか、寒い夜に隣へ回覧版を届けることができるとか。一日中サッカーをしているか
ら、忍耐力があるということにはならない。その子どもは好きなことをしているだけである。その
忍耐力がないと、子どもは学習面でも伸び悩む。勉強するということには、どうしても苦痛がと
もなう。その苦痛が乗り越えられないからだ。またそれ以前の問題として、生活力が身につか
ない。
友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女子)がいた。話を聞くと、
「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないた
めにも、子どもは使って使って、使いまくる。子どもが2~4歳のときが勝負で、それ以後にな
ると、このしつけはできなくなる。(以上、01年記「子育て雑談」)
(補記)
ここに書いたアメリカ人というのは、浜松市に住んでいた、R・ケリーという人だった。4、5年
前にアメリカへ帰っていった。で、一度、彼の家を訪問したことがある。すばらしい御殿のような
家だった。半地下室には、卓球ルームまで作ってあった。
彼が日本へやってきたのは、52歳のとき。ある店で、ぼんやりと外をながめていたとき、私
の方から声をかけた。以来、10年近く、つきあった。
すばらしいアメリカ人だった。彼の送別会には、300~400人近い人たちが、ホテルに集ま
った。この原稿を読んでいるとき、それを思い出した。ここ1、2年、音信がないが、今ごろは、
どうしているだろうか?
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※
●崩壊家庭の中で(ゆがむ子どもの心)
荒れた自分の家を、得意げになって見せていた子ども(小3男児)がいた。敷きっぱなしにな
った破れたふとん。その周囲に散乱するティシュペーパー。割れた窓ガラス。汚れた台所に、
ゴミの山。一定の限界を超えると、子どもの心から「家庭」とのつながりが消える。ふつうなら、
「家庭の恥ずかしい部分は隠そう」という意識が働くが、そういう意識がない。当然、心も荒れ
る。ものの考え方が粗野になり、他人の心の動きに鈍感になる。
いわゆる「家庭崩壊児」はこうして生まれる。家庭が本来あるべき家庭として、機能していな
い。こうした拒否的な環境で育った子どもは、心に深刻なキズを負うことがわかっている。こん
な子ども(高1男子)がいた。いわく、「台風で壊れる家を見ていると、楽しい」と。そこで私が
「本当に楽しいのか」と聞くと、「おもしろい」と。さらに「それが君の家だったら、どうするのだ」と
聞くと、「もっと楽しい」と。
このタイプの子どもは、「世間に迷惑をかける」ということに、たいへん鈍感になる。真夜中に
マフラーをはずしたバイクを、バリバリとふかしても、それが悪いことだという意識がない。ある
いは路上にビンを叩きつけて割っても、それが悪いことだという意識がない。むしろ人に迷惑を
かけることを楽しむようなところがある。善悪を判断する中枢部分が、変調をきたしているため
と考えるとわかりやすい。仮に立ち直っても、その影響は一生続く。俗に言う、ヒネクレ症状と
いうのが、それである。
夫「こんなところに、サイフを置いてはダメだ」
妻「あんただって、この前、ここに置いたじゃ、ない」
夫「だから、ここに置いてはダメだ」
妻「自分だって、ここに置いたクセに、何よ!」
このところの不況で、程度の差こそあるが、このタイプの子どもがふえている。平気で自分の
家族や家庭の恥を口にするから、わかる。
「うちの父ちゃんね、毎晩、エロビデオを見てる」
「ママね、パパの稼ぎが少ないから、苦労してるよ」
「パパが本を投げつけて、ママが頭にけがをした」など。
家庭崩壊を子どもに経験させてはいけない。これは子どもを妊娠したときからの、親の義務
のようなものだ。が、それでも……というのであれば、これはもう個人の問題ではないように思
う。福祉とか、福祉社会というのなら、老人や障害のある人に、こういうタイプの子どもたちも含
めるべきだと、私は思う。客観的に見て、そういう心配のある子どもは、行政による手厚い保
護が必要だ。親の理解と協力が期待できない以上、そうするしかない。
家庭崩壊を経験した人は不幸だ。結婚しても、「よい家庭を作ろう」という気負いばかりが先
行して、結局は失敗しやすい。あるいは結婚そのものができない。子どもをつくっても、うまく子
育てができない。頭の中に「家庭像」や「親像」がないからだ。
繰り返すが、家庭崩壊だけは子どもに経験させてはいけない、……と思う。(以上、01年記
「子育て雑談」)
(付記)
……とは言っても、思うがままにならないのが、生活。だれが、自ら不幸になることを望むだ
ろうか。そんな人はいない。
ただいくら貧しくても、「心」だけは、見失ってはいけない。とくに、子どもの前での、夫婦げん
かは、タブー中のタブー。はげしい夫婦げんかは、子どもに、極度の緊張感と恐怖感を与え
る。それが子どもの心にキズをつける。ときに、トラウマとなり、その子どもを生涯にわたって、
苦しめる。が、それだけではすまない。
このトラウマには、副作用がある。
やがて時間をかけて、親子関係を破壊する。世代連鎖する。そのトラウマが大きければ、そ
の子どもが多重人格性をもつこともある。激怒したようなときに、まったくの別の人格になってし
まったりする。
幼児期においては、すねたり、ひがんだり、ぐずったりしやすくなる。人格の「核」形成が遅
れ、善悪の判断にうとくなることもある。
子どもは、心安らかな家庭環境の中で、親の愛情をたっぷりと受けながら育つのがよい。何
度も書くが、絶対的な信頼関係、絶対的な安心感、この2つが子どもの心をはぐくむ二大要素
と考えてよい。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。
(はやし浩司 夫婦喧嘩 夫婦げんか 家庭崩壊 崩壊児 子供の心理 絶対的な安心感)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・
●信頼関係を大切に(先生の悪口はタブー)
子どもの前では、先生の批判、悪口はタブー。子どもが悪口を言ったとしても、「あんたが悪
いからよ」と言ってすます。もし問題があるなら、それは子どものいないところで、また子どもと
は関係のない世界ですます。あなたが先生を批判したり、悪口を言ったら、子どもは学校で、
その先生に従わなくなる。私にはこんな経験がある。
幼稚園で教えていたころ、まったく私の指示に従わない子ども(年長女児)がいた。ある日そ
の子どもに、「どうして言うことを聞かないのか」と聞くと、その子どもはこう答えた。「だって、先
生は、本物の先生ではないでしょ」と。この話には余談がある。
このことを当時の園長に告げると、私はそれほど気にしていなかったのだが、その園長は激
怒して、その母親に即刻、電話をした。そしてこう怒鳴った。「何てことを子どもに教えているの
ですか! あなたがそんなこと言ったら、指導できないでしょ!」と。当時はまだこういう気骨の
ある園長が、あちこちにいた。
「子どもにこの話は、先生には内緒よ」と言うことは、「先生にこの話をせよ」と言うのと同じ。
子どもが言った先生の悪口に、相槌を打つということは、あなたが先生の悪口を言ったのと同
じ。子どもは先生に、こう言う。「ママもこう言っていた」と。仮に子どもが言わなくても、先生に
はそれがわかる。どういう形であるにせよ、あなたの「思い」は、必ず先生に伝わる。子どもと
いうのは、自分の心を隠すことができない。先生は先生で、この種の話には敏感に反応する。
裏を返して言うと、子どもの前では、先生をたてる。「あなたの先生は、すばらしい先生よ」「先
生のような立派な先生に、あなたが教えてもらえて、とてもうれしいわ」と。
教育は信頼関係で成り立つ。中には「お金(税金)を出しているのだから」という思いからか、
教育を自動販売機のように考えている人がいる。あるいは今では、先生より、特に幼稚園の先
生より、高学歴の人が多い。そういう人は、どうしても先生を下に見る。こういうものの考え方
は、その信頼関係を破壊する。教師だって人間だ。自分を信頼してくれる人には、その期待に
応えようとするし、そうでない人には、熱意そのものが沸いてこない。いくら相手が子どもとわか
っていても、時と場合によっては、「このヤロー」と思うこともある。そうなったら教育そのものが
成りたたない。
たいへんきわどい話をしてしまったが、そうでなくても難しいのが最近の教育。親と教師が信
頼しないで、どうして教育ができるというのだろう。問題のある教師がいるのも事実だが、もし
そうであるなら、冒頭にも書いたように、子どもとは関係のない世界ですます。
一番よいのは、直接、その先生と交渉することだ。今の制度の中では、教育委員会に相談す
ると、どうしてもおおげさになってしまう。校長に訴えるとしても、校長は今、校長というよりは事
務長に近い。アメリカのように教師を選ぶ権利が親にあれば別だが、日本にはそれがない。な
い以上、やはり直接交渉がよい。勇気がいることだが、それが一番よい。……と私は思う。こ
れはあくまでも私個人の一意見だが。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
今でこそ、保育士というのは、一定の地位を確立しているが、35年前には、そうではなかっ
た。私が「幼稚園で働いている」と言っただけで、ほとんどの人は、「あの林は、頭がおかしい」
と言った。
そんなわけで、私は、幼稚園の内部では、自分の過去を隠し、幼稚園の外では、自分の職
業を隠さねばならなかった。
また保母というのは、「母」、つまり女性にかぎられていた。「保父」が生まれたのは、私が30
歳になったころ。現在の保育士という名称になったのは、さらにあとのことである。
ここに書いた園長というのは、恩師の松下哲子先生をいう。すばらしい先生だった。
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