鍋・フライパンあれこれ美味
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
2728184
HOME
|
DIARY
|
PROFILE
【フォローする】
【ログイン】
別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司
PR
×
< 新しい記事
新着記事一覧(全11288件)
過去の記事 >
2024.12.29
●最前線の子育て論byはやし浩司(08)
カテゴリ:
カテゴリ未分類
●天下の大暴論(子ども知らずの教授たち)
「子どもにはナイフを持たせろ。親が子どもを信頼している証(あかし)として」と書いた、評論
家がいた。あるいは「子どもとの絆(きずな)を深めるために、子どもを遊園地でわざと迷子に
させろ」「子どもにやる気を起こさせるためには、子どもを、2、3日、家から追い出してみれば
いい」「夫婦喧嘩は子どもに見せよ。意見の対立があることを教えるのに、よい機会だ」「命の
尊さを教えるために、お墓参りをしたら、故人の遺骨を見せるとよい」と書いた、大学の教授が
いる。ともに、日本を代表する(?)、著名な教育評論家であり、教授だ。
こういう暴論を書くと、本は売れる。またそういう暴論を書かないと、本は売れない。しかし子
どもには、ナイフなど持たせるものではない。幼児教育の現場では、「マッチやカッターで、遊ん
ではいけません」と教える。またわざと子どもを迷子にすれば、それが子どもにわかったとき、
(わからなくても)、親子の信頼関係は、崩壊する。2、3日、家から追い出してみるとよいとい
う考えにしても、実際には実行不可能だ。もしあなたの子どもが、半日いなくなったら、あなた
はどうするだろうか。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。さらに夫婦喧嘩など、子ども
に見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするなら、話は別だが、そんな夫婦がどこにいる
だろうか。
さて「命の尊さ」だが、命の尊さは、たとえば身の回りの生き物を通して教える。故人の遺骨
を見せるとは、何事か。私は死んでも、私の骨など、誰にも見せてほしくない。もし子どもに教
えるとするなら、それは教えるのではなく、たとえばペットの死などを、ていねいに弔うことで教
える。「死」があるから、「生」がある。「死の恐怖」があるから、「生きる喜び」がある。もしあな
たがペットの死骸を紙でまるめて、ゴミ箱にポイと捨てるようなことがあれば、子どもは、「死」と
いうものはそういうものだと思う。同時に「生」とはそういうものだと思う。が、もしあなたが死ん
だペットを、ていねいに弔い、その死を悲しめば、子どもは同時に、生きていることの尊さを学
ぶ。そしてそれが命の尊さを学ぶということにつながる。
私はこういう評論家や教授は、実際には、子どもを教えていないのではないかと思う。もっと
はっきり言えば、どこかの研究室の奥で、子どもの世界を想像しながら原稿を書くから、こうい
う原稿になる。が、世間は、こういう評論家や教授の意見をありがたがる。そして心のどこかで
は「おかしい」と思いながらも、それに従ってしまう。
暴論は確かにおもしろいが、こと子育てに関する限り、この種の暴論にはじゅうぶん注意した
ほうがよい。子育てに王道はないし、近道もない。流行もないし、時代性もない。あるわけがな
い。人間は、何10万年もの間、子育てを繰り返してきたし、その子育てが、ここ10年や1
00年ぐらいで、質的に変化したと考えるほうがおかしい。要するに子育ても、常識の範囲で
すればよいということになる。その常識があれば、子育てがゆがむということはない。(以上、
01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 暴論 教育の暴論)
(付記)
「子どもとの絆(きずな)を深めるために、子どもを遊園地でわざと迷子にさせろ」「子どもにや
る気を起こさせるためには、子どもを、2、3日、家から追い出してみればいい」「夫婦喧嘩は子
どもに見せよ。意見の対立があることを教えるのに、よい機会だ」「命の尊さを教えるために、
お墓参りをしたら、故人の遺骨を見せるとよい」と書いた大学の教授がいたというのは、事実で
ある。
最近でも、日本を代表する、教育(幼児教育)者として、別の新しい本を書いている。しかしそ
の教授(現在は、元教授)の言っていることが、いかに暴論であるかは、ほんの少しだけ常識
を働かせてみれば、わかるはず。
しかしその本を読んだのがきっかけで、私も育児論を書く気になった。体中に充満した怒りを、
抑えることができなくなった。恐らくその教授は、肩書きはともかくも、実際には、子どもを指導
した経験がないのではないか。経験がほんの少しでもあれば、とても、そんな本は、書けない。
また「子どもには、ナイフをもたせろ」(A新聞社刊行の小冊子)と書いた評論家は、そのあと、
派手なパフォーマンスをいろいろしてみせた。が、その直後、中学校などで、ナイフ殺傷事件が
つづくと、その評論家は、自説をいつの間にか、ひっこめてしまった。
ときとして、こうした暴論が、社会をにぎわす。そのほうが、(受け)がよいからである。それを読
む親たちは、じゅうぶん、注意したほうが、よい。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●学級崩壊の陰で(学校教育相対論)
「わしら昔は、学校へ行くのが楽しみだった。学校へ行けば、家の仕事はしなくてすんだから」
と。引佐町(静岡県)で石材屋をしているK氏は、そう言う。私にも、それに似た覚えがある。
たとえば学校の運動会や遠足が、何よりも楽しみだった。運動会には、巻き寿司を食べること
ができた。また当時は、学校で遠足に行くこと以外、旅行で町を出るということはまずなかっ
た。学校で出される給食のほうが、家の食事より、ずっとおいしかった。
しかし今は違う。子どもにとっては、毎日が盆と正月のようなものだ。食べ物も豊富だし、家
族旅行も、そのつど、している。学校の外には、おもしろいものが、山のようにある。つまり相
対的に、学校の地位がさがった。と、同時に相対的に、学校がおもしろくなくなった。
幼稚園児とて例外ではない。少しでも作業っぽい学習をさせようものなら、すぐ「つまんナ~
イ」とか、「もっと、おもしろいの、ナ~イ?」とか、言い出す。それでも無理に刺せようとすると、
勝手に席を離れて、どこかへ行ってしまう。あるいはほかの子どもを巻き込んで、騒ぎ始める。
最近の子どもは忍耐力がないとよく言われるが、ないと言えば、まったく、ない。
誤解がないように言っておくが、子どもの忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。たとえ
ば台所の生ゴミを手で始末できるとか、寒い夜に隣の家に回覧版を届けることができるとか。
そういうことを平気でできる子どもを、忍耐力のある子どもという。一日中、サッカーをしている
からといって、忍耐力のある子どもということにはならない。その子どもは好きなことをしている
だけである。
こうした子どもたちを取り巻く環境の変化に対して、学校教育は、それに応えていない。旧態
依然のまま、30年前、あるいは40年前の教育を繰り返している。子どもたちに「おもしろく
ない」とソッポを向かれても、「子どもたちのほうが、おかしい」と言わんばかりに、文部省も、そ
して学校の教師たちも、努力を怠ってきた。結果、これはあくまでも相対的な変化だが、学校
教育がつまらないものになった。K氏の時代には、学校へ行くのが楽しかったが、今は反対
だ。「明日は学校は休みです」と先生が言おうものなら、子どもたちは、大声で「バンザーイ!」
と叫ぶ。学校が休みになることについて、それを悲しむ子どもなど、まず、いない。
これだけではないが、つまりほかにも、いろいろな要素がある。が、しかし私は、これが学級
崩壊の大きな原因の一つだと思う。それは自由を知った小鳥を、再び籠の中に押しこめるよう
なものだ。押しこめれば押しこめたで、子どもたちにはストレスがたまる。そしてそのストレス
が、形を変えて校内暴力やいじめに発展する。唯一、子どもをしめつける手段があるといえ
ば、受験でおどすことだが、今はその神通力も消えつつある。
このままでは学校教育は、完全に崩壊する。あるいはその前に、学校の教師たちが皆、神
経症か何かで倒れてしまう。現在、学校がかかえる問題は、それくらい根が深い。(以上、01
年記「子育て雑談」)
(付記)
この原稿を書いたあと、「ゆとり教育」が叫ばれるようになり、「総合的な学習」の時間がもう
けられるようになった。
学校教育も、質的に大きく変動し始めた。今は、その過渡期にあると考えてよい。もちろん失
敗もあるだろうが、試行錯誤の段階と考えるべきではないか。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●進学塾VS親(殺伐とした人間関係)
進学塾の月謝は、平均して2万~2万5000円(月刊「私塾界」)。しかしこの額では、決
してすまない。すまないことは、入塾してみると、わかる。入会金、教材費、光熱費、模擬テスト
代、補講費などが、「万」単位で、次々とかかってくる。しかも支払いは、銀行振り込み。大半の
進学塾は、そういう支払いをカモフラージュするためにか、「ガクヒ」という名目で引き落とす。
親が通帳を見ても、学校の「学費」なのか、塾の「学費」なのかわからないしくみになっている。
まだ、ある。どこの進学塾も、夏休みや冬休みの特訓を、定例コースにしている。そういう連絡
は小さな文字で生徒に連絡し、お金は前もって自動的に引き落とす。親が、「特訓授業を申し
込んだつもりはない」と抗議しても、あとの祭り。「今からではキャンセルできません」と言われ
るだけ。
こうした進学塾のやり方は、ほぼどこの塾でも同じ。……とまあ、こう書くと、進学塾の悪どさ
ばかりが目立つが、もともと進学競争の底流では、人間のどす黒い欲望が渦巻いている。「他
人を蹴落としてでも……」、あるいは、「他人に蹴落とされる前に……」と考えて、親は、子ども
を進学塾にやる。進学塾はそういう親の心理を、たくみに利用して、それを金儲けにつなげる。
現在ある進学塾の現実は、親と進学塾の、醜い闘いの結果ともいえる。塾経営者に言わせれ
ば、「親なんて、信用できない」ということになるし、親に言わせれば、「塾は必要悪」ということ
になる。もともと良好な人間関係が育つ土壌など、どこにも、ない。
一方、塾には塾の存在意義があると説く人たちもいる。塾こそ、自由教育の砦であると説く人
たちである。事実、すばらしい教育を実践している塾もあるには、ある。しかしそういう塾でも、
「教育」と「受験指導」のジレンマの中で、もがき苦しんでいる。藤沢市在住の塾教師のI氏は、
「塾教育は、矛盾と錯覚の連続だ」と結論づけている。矛盾というのは、今言った、ジレンマをさ
す。錯覚というのは、「大切でないものを、あたかも大切なもであると、思いこんでいること」だ
そうだ。具体的には、受験教育そのものをさす。
この進学塾業界も、かつてない不況に見舞われている。少子化に不況。それにエリートの凋
落に見られる価値観の変動。それに中高一貫教育に見られる、制度の改革など。そういう中、
したたかな進学塾は、対象学年を、より低年齢化させ、一方大学受験にまで触手をのばし始
めている。金集めを、さらに巧妙化させている。親たちは、そういう事実を知りながら、「この時
期だけだから」とあきらめる。進学塾は、さらにそれを逆手にとる。もうそこには、「教育」という
概念は、どこにもない。商売、だ。I氏はこうつなげる。
「この世界では、経験など、一片の価値もありません。親に教育論を説いても無駄です。そも
そもそういうものを期待していない。生徒集めのチラシにしても、4色を使ったカラフルで、豪
華なものでないと、生徒は集まりません。そういう目でしか、教育をながめていないのですから」
と。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 進学塾 受験競争 受験の弊害)
(付記)
この日本では、受験は避けては通れない。しかしやり方は、あるはず。そのやり方を考えるこ
となく、子どもたちをただ、競走馬のようしにて競争させることが、本当に(教育)なのか。私た
ちは、もう一度、冷静に、考えなおしてみる必要がある。
たとえばアメリカでは、成績だけでは、有名な大学には入れない。そこで各学校や、指名され
た教師に、推薦権なるものが与えられる。その推薦を受けて、人格的にもすぐれた子どもが、
その有名大学へと進学していく。
もちろんこの推薦権を濫用すれば、その推薦権が剥奪(はくだつ)されたりする。だから各学
校は、こぞって真剣に、どの子どもを推薦するかを、独自の立場で検討する。
日本ではそれにかわるのが、内申書ということになる。が、その大前提として、教師自身に、
子どもを見る目がなければならない。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●教育も適当に!(やり過ぎは、かえって……?)
当初は喜んでくれた父母も、それが長く続くと、当たり前になる。そしてそれを前提として、父
兄はものを考えるようになる。教育というのは、そういうものだが、問題はそのあとに起こる。
やがて教師はその重圧と多忙から、ふつうの状態に戻ろうとする。しかし父母はそれを許してく
れない。いろいろな例がある。
ある教師は子ども(小3男児)が、掛け算がまだ苦手なことを知って、毎日授業が終わると、
その子どもを残して、九九を教えた。掛け算でつまづくと、割り算ができなくなり、この二つでつ
まづくと、その子どもは算数がまったくといってよいほど、できなくなる。
で、やっとのことで掛け算の九九を覚えたころには、割り算の授業は終わっていた。そこで今
度はその教師は、割り算の特訓をしたが、やっとその割り算ができるようになったころには…
…、あとはこの繰り返し。こういうケースでは、子ども自身も、先生の努力を評価しない。子ども
は先生の特訓を「バツ」ととらえる。「できないから、先生はぼくにバツを与えているのだ」と。適
当にしておかないと、かえって子どもを苦しめることになる。
親は親で、掛け算ができるようになると、「もっと……」と、先生に期待する。そしてその期待
が要求に変わり、要求に答えるのが、教師の努めだと考えるようになる。が、教師とて人間。
聖人ではない。スーパーマンでもない。生徒といっても、30人もいる。できることにも限界が
ある。そこでそういう子どもから手を引こうとすると、親は、「何という教師だ!」となる。
以前、熱血教師という言葉がもてはやされた。武田T也が扮する、金P先生という人気番組が
あった。しかし教育に携わったことがある人なら、誰でもわかることだが、あれはドラマ。ピス
トルをふりかざして、バンバン撃ち合う、刑事ドラマの類だと思えばよい。あんなことは現実に
は、ありえない。もし金P先生のような先生がいたら、その先生はあっという間に、身も心もズ
タズタにされてしまう。現実の世界は、もっと毒々しい。
私も教師になりたてのころは、親のウソに、さんざん引き回された。すでによその幼稚園へ入
園届けを出したあとに、「今の担任の指導についていけません。先生のほうから、クラス替えの
ことで、園長にお口添えいただけないでしょうか」と。こんなこともあった。
明らかに過保護児特有の症状を見せている子どもがいた。原因は、おばあちゃんだったが、
その日は、たまたま母親が、迎えに来ていた。そこでその母親に、「少し、おばあちゃんから離
したほうがいいですよ」と言ってしまった。が、この一言が、そのあと大問題になってしまった。
ほぼ一か月後、再び母親に会うと、母親は別人のようにやつれた形相をしていた。そしてこう
言
った。「先生、あれから大変だったのですよ。祖父母と別居か、さもなくば離婚かということにな
りまして、結局、祖父母も別居に同意してくれました」と。
私の一言が、それまでくすぶり続けていた嫁・姑戦争に火をつけた形になってしまったが、こう
いうケースは日常茶飯事。適当にすますところはすます。教育には、そんな面も必要だ。(以
上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
それぞれの家庭には、外からは見えない、複雑な問題がある。100の家庭があれば、それ
ぞれの家庭がかかえる問題は、100種類、ある。そういう家庭の中へ、独断と偏見だけで、一
介の教師が、土足であがりこんでいってよいものか。私が見た、金P先生の番組の中には、金
P先生が、その子どもの親と、その子どもの家で、酒を飲みながら、子どもの教育について論じ
あうシーンがあった。いかにもテレビドラマといった感じのシーンだったが、しかし現実には、そ
んなことはありえない。また、教師たるもの、そこまでしてはいけない。
教師の本分は、学校という場で、教育をすることである。その点、カナダでの学校教育は、徹
底している。教師は、教室の中で、自分のする教育には、全責任を負う。しかし生徒が一歩、
教室を出たら、何が起きても、それはもうその教師の責任ではない。そのため、学校側は、教
師の住所はもちろん、電話番号すら、教えない。
日本の病院の中における、医療制度を思い浮かべてみればよい。医師が、それぞれの家庭
にあがりこんで、健康について、患者と議論するなどということがありえるだろうか。もしそんな
ことをすれば、病院における医療行為そのものに、さしさわりが出るようになる。
今、学校の教師たちは、本当に、いそがしい。そのため、肝心の教育そのものが、おろそか
になる傾向さえ見られる。が、だれも、それでよいとは、思わない。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●受験に狂奔する親たち(学歴信仰の陰で)
「期末試験のころになると、お粥しかのどを通りません」と言った親がいた。「進学塾の光々と
した明かりを見ただけで、頭の中にカッと血がのぼります」と言った親もいた。さらに「子どもが
寝そべってテレビを見ていたりすると、それだけで子どもがダメになっていくようで、不安でなり
ません」と訴えた親もいた。自分の子どもが選別されていくというのは、親にとって恐怖以外、
何物でもない。こういう親を、一体、誰が笑うことができるか。
ある親は子どもの塾通いのために、免許を取り、軽自動車まで買いそろえた。また別の親
は、子どものテストで採点ミスがあったりすると、学校まで乗り込んでいって、それを訂正させて
いた。子どものために、子ども部屋を増築したり、コピー機を買い入れたりする親になると、い
くらでもいる。ふつうは質素な生活をしていても、子どもの教育のこととなると、惜しみなくお金
を使う親も多い。30万円もする英会話教材をそろえたり、40万円もする百科事典をそろえ
たりするなど。休みのたびに、外国へホームスティさせる親もいる。
念のために申し添えるなら、こういう親を、私は批判しているのではない。それぞれの親に
は、それぞれの思いというものがあり、その思いをこめて、親は、子どもを育てる。私のような
立場の者が、とやかく言う問題ではない。教育の世界には、「内政不干渉」という大原則があ
る。しかも教育というのは、まさにその人の人生観そのもの。他人が「まちがっている」とか、
「おかしい」などと言うほうが、まちがっている。
しかしこれだけは言える。自分の意思でそうしていると思っている人でも、結局はもっと大きな
力によって動かされているに過ぎないということ。そしてその力とは何かと言えば、自分の心の
奥底に潜む、無意識の意識であるということ。ある女の子(小5)は、首にお守りをさげてい
た。私が不用意にそれに手をかけ、「これは何?」と聞いたときのことである。その女の子はギ
ャーッと、ものすごい声を出して私の手をはらいのけた。そしてこう言った。「汚(けが)れるか
ら、よして!」と。私は「ごめん、ごめん」とあやまったが、その女の子をそうさせたのは、その無
意識の意識である。つまりそれと同じことが、教育の世界でも起きている!
私「あなたは、本当に自分の意思で、子どもに勉強をさせているのですか」
親「私の意思です。勉強は必要だと考えるし、それを子どもにさせるのは、正しいことです」
私「誰かにそう操られていると、考えたことはありませんか」
親「ありません。あくまでも私の意思です」と。
私は同じような会話を、いつか、どこかで、カルト教団の信者としたことがある。彼らもまた、
自分たちが絶対に正しいという信念のもと、自分の意思で動いていると主張してやまなかっ
た。学歴信仰が信仰と言われるゆえんは、そこにある。 (以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 教育カルト 学歴信仰 教育のカルト性)
(付記)
「私はカルトとは無縁」と思っている人でも、無数のカルト的信仰をもっている。その1つが、
学歴信仰ということになる。が、ほとんどの親たちは、学歴信仰が何であるかもわからないま
ま、それを信仰している。信仰しているという自覚すら、ない。
さらに信仰であるがゆえに、その人から、そのカルト性を抜くのは、容易なことではない。中
には、学歴そのものを、本尊か何かのように、大切にしている人もいる。そういう人から、学歴
信仰を抜くと、かえってその人は、大混乱を起こす。精神不安になる人さえいる。その前に、猛
反発する。私に向って、「あなたにとっては、他人の子どもだから、何とでも言える。自分の子ど
もに向って、同じことが言えるか!」と、食ってかかってきた父親さえいる。
私が、その子どもの父親に、「受験勉強はあきらめたほうがよい」とアドバイスしたときのこと
である。その子どもは、過負担が原因で、燃え尽きる一歩、手前にいた。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●恐るべき集団性(思考回路の形成)
80~90%の子ども(年長児から小2児)が、「ポケモン」にはまった(99年春)。その前
は、やはり同じくらいの子どもが、「たまごっち」にはまった。この原稿を書いているとき(99年
3月)には、「だんご3兄弟」という、たわいもない歌が、子どもたちの世界を支配し始めてい
る。
私たちの時代にも、フラフープや、ダッコチャンが、流行したことがある。そういう時代を知っ
ているから、今の時代だけが特殊だとは思わない。しかしどこか違う。私たちは流行にハマり
ながらも、流行は流行として、現実の世界との間に、一線を引いていた。……引くことができ
た。しかし今は、違う。
子どもたちは流行にハマりながら、現実と空想の間の垣根をとっぱらってしまう。そして現実の
世界に、空想、あるいは空想の世界に、現実を持ち込んでしまう。あるいは空想の世界に、逃
げ込んでしまう。そういう子どもが少数派であれば、まだいい。互いにブレーキをかけることが
できる。しかしそれが全体となったとき、ブレーキをかける人間がいなくなってしまう。子どもた
ちは暴走するまま、仮想現実の世界に入り込んでしまう。
「超能力がほしい。そういう力があれば、ビルを吹き飛ばすことができる」と言った子ども(中
1)がいた。そこで私が、「吹き飛ばしたいと思うのは、君の勝手だが、それが君の家だった
ら、どうするのだ」と聞くと、「ぼくの家は、だいじょうぶ。超能力で守るから」と。ずいぶんと身勝
手な考え方だが、そう答える子どもは真剣だ。真剣にそういう「力」があることを、信じている。
信じた上で、自分の論理を組み立てる。が、問題はここから始まる。
脳には思考回路というものがある。人間は自分の思考回路に従って、ものを考えるという傾
向がある。たとえばかつて和歌山市で、「ヒ素中毒事件」というのがあった。誰が犯人かは知ら
ないが、犯人は「ヒ素でものごとを解決する」という手法を見につけた人物であることには、まち
がいない。ヒ素と遠い距離にある人には、想像もつかない。が、その犯人は、ヒ素と、近い距離
にあった。……と思う。ほかにたとえば私は物を書くのが仕事だから、何か問題があれば、文
を書くことによって解決しようとする。つまりそれぞれ自分の思考回路に従っているにすぎな
い。
一度、仮想現実の世界でものごとを考えるくせのついた子どもは、以後、何かにつけて、そ
の思考回路に沿ってものごとを考えようとする。あるいは問題を解決しようとする。これがこわ
い。たとえば幼児期に論理的なものの考え方を見つけた子どもは、ものの考え方が論理的に
なる。そうでない子どもは、そうでない。つまりこの時期に、仮想現実の世界でものごとを考え
るくせのついた子どもは、以後、何かにつけて、そういう世界でものごとを考えようとする。そし
てそれが、いつカルト(狂信)へと発展するかもしれない。
私は子どもたちの流行を見ながら、それを心から心配している。(以上、01年記「子育て雑
談」)
(付記)
この日本では、テレビゲームを批評したり、批判したりすると、たいへんなことになる。猛烈な
抗議の嵐がわき起こる。珍現象といえば、珍現象。しかも抗議してくるのは、20代を中心とし
た若者たちである。
ゲームの世界にハマっている若者たちにすれば、そのゲームが批評されたり、批判されたり
するということは、自分を否定されるのと同じということになる(?)。だから猛烈に反発する
(?)。私のほうは、親切心で、「ゲームには、あぶない部分もありますから、注意したほうがい
いですよ」「とくに子どもに与えるゲームには、注意したほうがいいですよ」と言っているだけで
ある。が、それに対して、反発とは!
私の息子の友人などは、ゲームにはまりすぎて(?)、現在、おかしくなってしまった青年すら
いる。精神病院に入退院を繰りかえしながら、もう3か月になるという。そういう事実があること
も、忘れてはいけない。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●国家論(よき家庭人)
欧米の子育ての柱は、「自立したよき家庭人を作る」こと。このことについては、もう何度も書
いたが、「家庭人」と言うと、日本人は、すぐ「小市民的な生き方」を連想する。しかし家庭人イ
コール、小市民ではない。
たとえば戦争が起きたとする。そして他国が日本を侵略してきたとする。そのとき日本人は、
「国のために戦う」と言うかもしれない。しかし欧米人は、「家族を守るために戦う」と言う。あの
ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」でも、最後のシーンの中で、主人公のアメリカ人は、
「(国のためではなく)、マリアのためになら死ねる」と叫んで、機関銃を撃ち続ける。
「国」という言葉が出たので、もう少しつけ加えるなら、日本人は「国があっての国民」と考え
る。一方、欧米人は、「家族を守るために、その集合体としての国がある」と考える。もう少し具
体的には、戦前の日本では、「国」というのは、「天皇」をさしていた。(今も、そう考えている人
は多い。)つまり私たち国民は、あくまでも天皇の臣下に過ぎない、と。
しかし欧米人にとっては、国というのは、あくまでも一つの単位に過ぎない。オーストラリアの友
人とこんな会話をしたことがある。「君たちは北からインドネシア軍が攻めてきたら、どうする
か」と聞いたときのことである。彼はこう言った。「故郷のスコットランドへ家族を連れて逃げる」
と。そこで「国を守らないのか」と聞くと、「オーストラリア人が横一列になって手をつないでも、
オーストラリアの端から端まで、カバーできない。どうやって守ることができるのか」と。彼らが
国を意識するとすれば、それは思い出のしみこんだ国土をさす。日本人のように、抽象的な概
念としての「国」を想定しない。
こうした国民意識の違いは、そのまま教育の場にも反映される。日本は明治以来、「国(=天
皇)のための国民づくり」が、教育の柱になっている。今もそうだ。国が栄えれば、国民も自動
的に豊かになれる。あるいは企業が栄えれば、社員も自動的に豊かになれる。宗教団体の中
にも、そう考える教団は多い。教団が栄えれば、信者も自動的に幸福になれる、と。さらに県レ
ベル、市町村レベルでも、そう考える人も多い。つまり教育は、常にそういう視点、言いかえる
なら全体主義的な視点で、子どもをとらえてきたし、今もとらえている。しかし、こんな考え方
が、21世紀に通用するはずがない。
「よき家庭人」というのは、まさに個人主義的な生き方そのものを象徴する。また子どもにそう
教えたからといって、それは決して、子どもに「小さくまとまれ」と教えるのでもない。「よき家庭
人」というのは、「まず自分を大切にせよ」と教えることをいう。そしてその視点で、社会を考え、
国を考え、また社会や国がどうあるべきか考えよと教えることをいう。繰り返すが、国や社会が
あるから、あなたがいるのではない。あなたがいるから、国や社会がある。そういう視点の基
本となるのが、ここでいう「自立したよき家庭人」という考え方なのである。(以上、01年記「子
育て雑談」)
(付記)
家族主義を主張する人たちが、ここ5、6年の間に、急速にふえてきた。99年前後には、ど
んな調査をみても、30~40%だったのが、最近では、80%以上の人が、家族主義を唱える
ようになった。日本人の意識が、革命的に変化しつつあることを示す。
考えてみれば、当然のこと。今までの出生主義、権威主義のほうが、まちがっている。幸福な
どというものは、遠くにあるのではない。私たちの身のまわりに、じっと息をひそめて、そこにあ
る。それに私たちは、気がつき始めた。
そのため、これまた当然のように、「国」に対する考え方も、変わってくる。今までは、「国あっ
ての民」と考えた。しかしこれからは、「民あっての国」と考える。つまり日本人も、やっと、民主
主義の意味がわかるようになった。
こうした(流れ)に対して、もちろん抵抗勢力もある。旧態依然の考え方に、固執している人も
いる。決して、年配の人たちばかりではない。が、ここで重要なことは、こうした(流れ)を、私た
ちは、守ることはあっても、決して、後退させてはならないということ。
国、民、そして国の基本法である憲法のあり方は、その結果として、自然に決まる。
(はやし浩司 国家論 民主主義 民主主義論 家族主義)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●進学塾の合格発表(子どもは宣伝のダシ)
今年も新聞紙2面を使って、高校入学試験合格者の名前が、発表された。ただし新聞社自
身がそうしたのではない。どこかの進学塾が、それをした。
いわく「今年度、S塾出身の合格者」と。その下にはすぐ、「ここに名前をあげた子どもは、中途
退会者を含まず。模擬試験だけを受けた人を含まず」とある。つまり「正規の(?)塾生の名前
だけだ」と。その進学塾としては、精一杯の良心(?)を演出したつもりなのだろう。以前は、模
擬試験だけに参加した子どもまで合格者に並べて、世間のひんしゅくを買った進学塾がたくさ
んあった。
しかし、こういうことが堂々とできるところに、問題がある。いくら言論や出版の自由があると
はいえ、そこには教育に携わる者の、一片の良識が感じられない。たとえば合格者名を発表
するぐいらいなら、不合格者名も発表すべきでないか。あるいは、その人数だけでもいい。どこ
の病院が、治療成功者の名前など、新聞紙上で発表するだろうか。もう少し、身近な問題で考
えてみよう。
仮にあなたに10人の生徒がいたとしよう。そしてそのうち、7人が合格し、3人が落ちたと
しよう。そういうときあなたは合格した子どもに向かって、「よくやったね、おめでとう」と言うこと
はできても、祝賀会など開けるものではない。祝賀会など開けば、残りの3人がキズつくだけ。
もともと受験指導というのは、一人の生徒を合格させれば、別のどこかで1人の生徒を不
合格にさせるだけだ。その底辺では、毒々しい、人間の醜い欲望が渦巻いている。そういうこと
も考えると、ますます祝賀会など、できなくなる。
もし本当に合格者を祝いたいのなら、こっそりとすればいい。その進学塾がこうして、大々的
に新聞紙上で、合格者の名前を発表するのには、もっと別の意図がある。つまり宣伝である。
「うちの塾は、これだけの合格者を出している。もし受験を考えるなら、うちへ来い」と。わかり
やすく言えば、名前を出された子どもは、宣伝のダシに使われたに過ぎない。ダシになる子ど
もも子どもだが、そういうふうに子どもをダシにしながら、みじんも恥じない進学塾も進学塾だ。
そうまでして、お金を稼ぎたいのか!
まだある。進学塾は、A高校、S高校など、静岡県下の主だった、進学高の合格者だけを発
表していたが、こういう形で、世間が必死になって忘れようとしている高校の序列を見せつけて
いる。
こういう高校を受験して不合格になった子どももかわいそうだが、そういう序列を見せつ
けられて、不愉快に感じている親や子どもは、その10倍はいる。進学塾にとっては、序列の
低い高校など、高校ではないのだ。まだある。こうして進学校に入り、名前を出してもらった子
どもは喜びながら、ゆがんだエリート意識を植えつけられる。「ぼくたちは、ほかの人間とは違
うのだ」と。皆が皆、そうなるとは思わないが、子どもがそうなる危険性は高い。
どこをどう考えても、そんなわけで、こういう進学塾の合格者発表は、異常である。こういう宣
伝がなくなったとき、日本の教育は正常になる。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
4年前には、かなり過激なことを書いていた……と、自分でも、そう思う。しかし進学塾のあく
どさは、私自身も20代のころ、その進学塾で講師をしていたことがあるので、よく知っている。
で、その当時の印象があまりにもよくなかったので、今でも、その印象を、心からぬぐい去るこ
とができない。
しかし今では、ふつうの私立高校などが、進学塾から講師を招いて、教育指導を受ける時代
になった。つまり高校自体が、進学塾化している。
しかしここで誤解していけないことは、進学塾があるから進学競争が過熱しているのではない
ということ。それを求める親や子どもたちがいるから、過熱する。そしてなぜ過熱するかといえ
ば、そこに不公平社会があるからである。親たちは、日々の生活をとおして、その不公平さを、
肌で感じている。
そのことは今の中国をみれば、わかる。拡大する貧富の格差の中で、進学競争は、今の今
も、過熱の一途をたどっている。つまりこの不公平社会が是正されないかぎり、進学競争もま
た、是正されない。
もちろん努力した人や、がんばった人たちが、それなりによい生活をするのは、当然である。
しかし今のこの日本では、そうではない。ないことは、あなたの周囲を見れば、わかる。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●去り際の美学(わだかまりをつくらず)
教育には入り口と出口がある。学校でいえば、入学式と卒業式がある。この二つの行事がい
かに大切なものであるか、それは教育をしてみると、わかる。まず入学式だが、そこで教師が
生徒や父母に与える、第一印象は、その後の教育のあり方全般にわたって、大きな影響を与
える。反対にこのときに「わだかまり」をつくると、それを取り除くのに、何倍もの努力とエネル
ギーを、必要とする。
もう一つは卒業式だ。この卒業式のやり方をまちがえると、これまた大きな「わだかまり」をつ
くってしまう。「どうせ別れるのだから、どうでもいいではないか」と思う人がいるかもしれない
が、そうはいかない。不愉快な別れ方をすると、自分の人生そのものを無駄にしたような感じ
てしまう。もともと教師というのは、どんな立場の教師であれ、自分の時間を切り売りしているよ
うなところがある。仮に4年間、教えた子どもがいたとしよう。そうすると教師というのは、「あ
あ、自分の人生の20分の1は、この子どもとともに過ごしたのだ」と考える。
これは教師側の意見だが、しかし問題は、父母のほうにある。いくら教師側がそう思っていて
も、父母の中には、机を蹴っ飛ばすようにして去っていく人がいる。それぞれ、いろいろな思い
があってそうするのだろうが、しかしこういう別れ方は、その後の人間関係を完全に破壊する。
ある塾の教師はこう言った。「何が頭へ来るかといってですね、小さな紙切れ一枚、あるいは
電話一本で、『やめます』と言ってくるケースですよ」と。「中には、月末の最後の授業のあと、
つかつかと私のところへやってきて、『今日でやめます』と言ってくる子どももいます。まだある。
『今度、B塾へ行くことになったけど、そちらがおもしろくなかったら、また戻ってきます』と言うの
もいる」と。
塾教師にとっては、「やめる」というのは、「クビを切られる」ことと同じである。それが親にはわ
からない。親にとっては塾というのは、どこまでも自動販売機。それに近い存在。私も「形」は、
塾という形で子どもの指導をしているから、その教師の気持ちはよく理解できる。
昔から「初めよければ、終わりよし。終わりがよければ、すべてよし」と言う。私の場合、相手
が幼児だから、よけいにそうなのだろうが、100人教えて、10年後に連絡を取り合ってい
る生徒は、1人ぐらいなものではないか。20年後となると、さらに少ない。もちろん連絡を取
り合っていないからといって、人間関係が消えたというわけではない。最近では、教え子たち
が、息子や娘を連れて、私のところへ来てくれる。
さて私の場合だが、去り際の美学というのを、常に考えている。いくら頭にきても、あるいは
内心では不愉快に思っていても、きれいに別れるようにしている。人生は長いようで短い。人
の出会いも、多いようで少ない。こちらにもいろいろな「思い」はあるが、別れたとたん、その子
どものことはすべて、忘れるようにしている。そういう形で、自分の心を整理したり、あるいは掃
除したりして、また次の子どもを迎えるようにしている。 (以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
私も若いころは、紙切れ一枚でやめていく生徒がいたりすると、がく然とした。今でもそういう
生徒がいないわけではない。それに今でも、そういう気持、つまりがく然とする気持ちが、消え
たわけではない。
が、この世界はそういう世界であると、ずいぶんと前に、割り切った。不愉快な思いをするだ
け損だし、不愉快な思いをしたところで、その生徒がもどってくるわけではない。だから不愉快
な思いをするといっても、その瞬間だけ。あとは忘れる。何もかも忘れる。その生徒の思い出
も、名前も。つまりそうして、私は、自分の心を守る。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●医学志願(理想と現実)
A高校二年の担任が、こう言った。「うちの生徒のうち、20人が、医学部をめざしている」
と。20人といえば、約50%弱ということになる。実は私の三男もそうだったので、ある日こう
言った。「本当になりたいと思うなら、E病院へ行って、その二階の待合室で、一日を過ごして
みろ」と。あそこは消毒薬と悪臭、それに患者の体臭がプンプンと臭う。廊下にポタポタと血が
落ちていることもあるし、ベッドの上で、で、ゲーゲーと吐いている人もいる。「そういうところで
もよかったら、医者になれ」と。
一方、日本では今、おかしなことが起きている。静岡県は豊かな県だからあまり目立たない
が、鳥取県や島根県へ行ってみると、それがよくわかる。さびれた寒村や町の中で、病院や医
院だけが、やたらと目立つ。虫歯だらけの口の中に、ところどころ金歯があるようなもの。立
派な建物と言えば、病院や医院だけ。それらが周囲の建物とは不釣あいなほどに、目立つ。
言うまでもなく、それだけ国によって手厚く保護されているためである。
こういう現実を見せつけられると、誰しも、医者になりたいと思う。「医者は儲かる」と。実際、
医者は高額な所得を手にしている。そういう部分だけを見ると、不公平な感じがするが、では、
本当にいい仕事なのかどうかと言えば、疑わしい。世の中には、(汚い・きつい・臭い)という三
Kの仕事があるというが、医者の仕事は、まさにその三K。そういう職場に、優秀な人材を集め
ようと思えば、待遇面で優遇するしかない。要はバランスの問題だが、それでもなおかつ、医
者には魅力があるらしい。それが冒頭で述べた、「50%弱」である。
私「お金が儲かるから医者になりたいと思うと、まちがえるぞ」
子「そうではないけど」
私「世の中には、世間の評判とはまったく違うが、すばらしい仕事はいくらでもある」
子「たとえば……」
私「ぼくは幼児を教えているが、これほどすばらしい仕事はないと思う。子どもは健康だし、純
粋だ。生きる力が満ち溢れている」
子「でも……」
私「でも、何だ?」
子「みんなが笑う……」
私「どうして笑う? あのタレント業にしても、ぼくたちが子どものころは、役者と呼ばれて軽蔑さ
れていた。が、今は違う。そういう目で職業を考えなくてはダメだ」
それから一年。結局私の息子は医学部をめざすのをやめた。今は、宇宙飛行士になりたい
などと言っているが、それはあくまでも夢。宇宙飛行士だって、命がけだ。私などたった一度、
飛行機事故に遭遇しただけで、以後、飛行機恐怖症になってしまった。現実はそんなに甘くな
い。そうそう戦時中は、医学部はどこも定員割れをしていたそうだ。今から思うと、信じられない
ような話だが、事実は事実だ。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
その三男だが、自分の入った大学がどうも肌にあわなかったらしい。そこである日、突然、
「ぼくは、パイロットになる」と言い出した。
私は、内心では、当初は、迷った。しかし私は三男を支えるしかない。が、ただ一言、こう言っ
た。「お前は、金メダルを捨てて、銅メダルを買うようなものだぞ。それでもいいのか」と。すると
三男は、「ぼくはそうは思わない」と言った。
私の考え方のほうが、まちがっていた。
で、今は、そのパイロットになるべく、がんばっている。毎日三男のBLOGを読んでいるが、
生き生きした文面を読むたびに、「これでよかった」と、自分に言い聞かせている。あとは、事
故でも起こさないように願うだけ。親としてできることは、ここまで。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●一流大学は出たけれど……(ゆがんだエリート意識)
こんなエピソードが、新聞に載っていた。ある東大の学生が、就職試験で落ちた。それについ
てその学生が、「どうして私をとらないのか」と聞いたら、その試験担当の社員はこう答えたとい
う。「君は、もっとも一緒に仕事をしたくないタイプの人間だから」と。
学歴さえあれば何とかなる時代は、もう終わった。あるいは学歴をひけらかして生きる時代
は、もう終わった。この私にもこんな経験がある。もう20年以上も前のことだが、私は小さな
翻訳事務所を出していた。そこでのこと。時々、外部の人に仕事を頼んだことがあるが、4年
制の英文科を出た人は、まったく役にたたなかった。むしろ外国で数年、遊んできた人のほう
が、ずっと役にたった。実戦力もあった。通訳についても同じ。
こう書くからといって、教育を否定しているのではない。私が否定しているのは、立身出世主
義のために利用される教育だ。学歴させ身につけておけば、社会的地位や名誉、さらには富
を手にすることができるという考えだ。こういう考えで、教育が利用されたら、たまらない。
私の同年齢で、T大やK大を出た人が何人かいる。一緒に仕事をしてきた人も多い。たとえ
ばあの出版社のS社にしてもG社にしても、東大や筑波大の社員がゴロゴロしている。大半が
そうであると言っても過言ではない。ただ救いなのは、そういう人たちでも、ごくふつうの社員と
して、仕事をしているということだ。特別のエリート意識を感じさせる人はいない。世間を「下」に
見ているということもない。大企業か中小企業かの違いを除けば、私の町にある会社の社員
と、区別がつかない。
高い学歴があるなら、あるでいい。しかし人間は、その中身。その中身で決まる。そういう意
味で、大学を卒業したら、知識や学力(学ぶ力)だけを残して、一度、学歴を捨ててみることが
大切ではないか。あるいは学歴そのものを忘れてしまう。そして一度、裸になったところからス
タートする。
日本のエリートは、エリートはエリートでも、何かが欠けている。冷たいというか、ドライという
か、どこか人間味が薄い。ものごとをソツなく、合理的にできるが、万事、事務的。その理由を
すべて受験勉強にもっていくことはできないが、私は、あの受験勉強が大きな影響を与えてい
ると思う。勝てば勝ったで、へんなエリート意識をもつし、敗れれば敗れたで、へんな挫折感と
劣等感を植えつけられる。どちらにころんでも、それは人間が本来もっているはずの、「やさし
さ」とは、相容れないものだ。
もちろん子どもたちには罪はないが、問題は子どもたちのCPU(中央演算装置)が狂っている
ため、子ども自身が自分の「狂い」に気がつかないことだ。それが本来の人間の姿であり、ま
たそれが当然だと思いこんでしまう。そしてそのままそれを、次の世代に伝えてしまう。そして
冒頭に述べたような大学生を作ってしまう。つまり「勉強ができれば、社会は自分を優遇すべ
きだ」という、実に鼻持ちならぬゆがんだ、エリート意識をもってしまう。 (以上、01年記「子
育て雑談」)
(付記)
中国には、「小皇帝」と呼ばれる子どもたちがいるそうだ。裕福な家庭に生まれ育ち、勉強し
か、しない。勉強しか、できない。勉強だけがすべてで、家庭の中では、皇帝のように振る舞っ
ている子どもたちである。
先日もそういう子どもがテレビ(NHK)で紹介されていたが、まさに「皇帝」といった感じだっ
た。自分は学校から帰ってくると、デンとソファに座っているだけ。そこへ母親や父親が、かし
づくようにして、お菓子や果物をとどける。
……実にこっけいなシーンだったが、20年前、30年前には、この日本でも、同じようなシー
ンが、あちこちの家庭でも見られた。中国は、そういう点では、日本の20年、30年前を再現し
ているのかもしれない。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●幼稚園児のかけ算(見かけの力)
幼稚園児でもかけ算の九九を、ペラペラとソラで言うことができる子どもがいる。同じように足
し算や引き算を、スラスラすることができる子どもがいる。あるいは本をスラスラと読むことがで
きる子どもや、漢字を読み書きできる子どもがいる。そういう子どもを見ると、「優秀な子ども」
と思いがちだが、本当にそうか。私にはこんな経験がある。
ある日のこと。年長児になったばかりのTさんが、本をもってきて、それをスラスラと読んでみ
せた。そこで私は別の本を渡し、「これを読んでみてごらん」と言うと、Tさんは、その本もスラス
ラと読み始めた。私はTさんをほめたが、しかしすぐ、それがまちがいであることに気がつい
た。私が「どんな話だったの?」と聞くと、Tさんは、「わかんない」と。そこでさらに「クマさんはど
こへ行ったのかな?」と聞くと、それも「わかんない」と。Tさんは、文字を音に変えていただけだ
った。
ついでに言うと、読みの深い子どもは、むしろ一文ずつ意味を考えながら読んだり、挿し絵を
見
て考えながら読む。子どもにとって大切な「力」というのは、そういう力のことをいう。が、親たち
はそれがわからない。わからないから、いわゆる見かけの力でも、それが力だと思いこんでし
まう。幼児ばかりではない。この傾向は大学へ入るまで続く。
子(小5)「分数の割り算ができるよ」
私「ほう、それはすごいね。それは小学6年生が、勉強するところだよ。どうやってやるの?」
子「分数をひっくり返して、かければいい」
私「なるほど。でもさ、どうしてそうすればいいの?」
子「わかんない」
話を少し戻すが、計算力は訓練によって伸びる。できない子どもはできないが、しかしそうで
ないなら、訓練によって伸びる。少しずつでも毎日すれば、効果的だ。しかし計算力は計算力。
それだけのものであって、それ以上のものではない。が、問題はここから始まる。
多くの親は、そういう表面的な力(?)を見て、自分の子どもは算数が得意だと思う。そしてそ
れを前提にして、子どもの勉強を組み立てる。そして少しでもその力に陰りが見えたりすると、
無理をする。あるいは新たな学習を強要する。そして一度こういう状態になると、親にも子ども
にも、安らかな日々はもうない。山のようなワーク。転々と移り変わる教育方針。そしてお決ま
りの塾めぐ
り。
こういうケースでは、最終的に行きつくところまで行かないと、親は気づかない。子どもが多少
できるようになればなったで、親の意識はさらに先へ行く。一度できたものの考え方、つまり子
育ての筋道というのは、そんなに簡単に変えられるものではない。「小さいころは、もっとでき
た」「うちの子は、やればできるはず」「こんなはずは、ない。何かのまちがいだ」を繰り返しなが
ら、行きつくところまで、行きつく。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
子どもに、見かけの力をつけることは、それほどむずかしいことではない。説明すると長くな
るが、しかしそれをすると、今度は、子どもに、依存性ができてしまう。
家庭教育の柱は、「よき家庭人として、子どもを自立させること」だが、同じように、教育の柱
は、「子どもの心に灯をともし、その能力を引き出すこと」。
そのためには、ある時期がきたら、子どもを自立させなければならない。「こんな先生に習うく
らいなら、自分で勉強したほうが、まし」と、子どもが思うようになったら、しめたもの。そういう
方向に、子どもを、誘導していく。
それに見かけの力は、いわばメッキのようなもの。やがてすぐはがれてしまう。子どもの本当
の力は、子ども自身が、自ら自分の力を引き出そうとしたときに発揮される。時間はかかる
が、そういう力を、ていねいに育てていく。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●ドラ息子(N君の場合)
生意気で、教師を教師と思わないような生徒がいる。態度もおうへいで、ふてぶてしい。その
くせわがまま。おとなの世界そのものを、なめきっている。こちらからあいさつをしても、「フン」
と横を向いたりする。概してこのタイプの子どもは頭がいい。何かを教えようとしても、「そんな
の知ってっらア」と、吐き捨てたりする。
その分、生活を楽しんでいるかと思いきや、不平、不満だらけ。何かにつけて、「たいくつだ」
「つまらない」「もっと、おもしろいことはないか」「何かほしい」「何かしてよ」を繰り返す。口をと
がらせて、露骨に不快感を表現することも多い。いわゆるドラ息子だが、N君(小三)も、そんな
タイプの子どもだった。
両親は共働きだったが、同居している祖父母に、N君は溺愛された。恐らく幼児期において
は、蝶よ花よとかわいがられ、何一つ家事の手伝いはしなかったのだろう。使った道具を片づ
けさせようとしても、両手を下へくるりと巻いて、それを見おろすだけ。片づけようという意識そ
のものが、ない。ほかの子どもの使った道具について、「一緒に片づけてよ」と指示しようもの
なら、「何で、ぼくがしなきゃア、いかんよオ!」と、大声で抗議したりする。
こういう生徒と対峙すると、相当気の長い教師でも、頭にくる。大のおとなが、どうしてこんな
子どもを相手にしなければならないなかとさえ、考えたりする。いや、自分がなさけなくなる。
「教育なんて、やっておられるかア!」という気分にすら、なる(失礼!)。
しかし問題はそのことではなく、親自身に、その自覚がまったくないことだ。親は自分の子ど
もしか見ていない。N君が一人息子だったこともある。教師というのは、それぞれの子どもを比
較しながら、その子どもの位置づけをすることができるが、親にはそれができない。そういう
「問題のある子」でありながらも、それに気づくことがない。せいぜい私が言えることは、「もっと
家事を手伝わせなければいけない」という程度のことでしか、ない。が、それとて、この年齢
になると、手遅れ。だから自然と口が、重くなる。
そのN君は、小学4年生になるとき、私の手を離れたが、彼の将来を予測することは、そん
なに難しいことではない。このタイプの子どもはいくらでもいる。私も、何10例と経験してき
た。で、その予測。まずこのタイプの子どもは、やがてすぐに家の中でも、手がつけられなくな
る。親は、そういうわがままな態度に手を焼くが、体力的にも、もう追いつけない。「うるせエ!」
とすごまれただけで、震えあがってしまう。そして親の期待と夢はことごとくつぶされ、結果的に
は、「人様に迷惑さえかけなければ……」というレベルまで、落ちる。
勉強については、そこそこにはできるようになるが、あくまでも「そこそこ」。本人も、自尊心と現
実のギャップで悩むのだろうが、しかし自分自身に原因を求めない。おとなになってからも、社
会や世間、あるいは親を逆恨みしながら、不平、不満タラタラの人生を送る。要はそういう子ど
もにしないこと。そういうことを知ってもらいため、私はこの原稿を書いた。(以上、01年記「子
育て雑談」)
(付記)
教えていて一番、虚しさを感ずるのは、いわゆる、ドラ娘、ドラ息子に接したときである。この
タイプの子どもは、たとえば料理人が、丹精(たんせい)こめて作った料理を、食い散らすような
ことを平気でする。いくらお金のためとはいえ、がまんするにも限度がある。
そこで私のばあいは、(つまりBW教室では)、小学生以上の子どもについては、紹介のある
人以外は、入塾を認めていない。実際には、小学生になってから入ってくる子どもは、ほとん
ど、いない。
こうしたドラ息子、ドラ娘になるかどうかの分かれ道は、年中児から年長児にかけてある。つ
まりこの時期の指導が、きわめて重要。
で、今、この原稿を読みなおしながら、なぜN君はN君のようになってしまったかについて考え
ている。が、そのN君は、たしか、小学2、3年のときに、私のところにやってきたのではなかっ
たか。決して責任のがれをするわけではないが、私のところへきたときには、すでに、手のほ
どこしようがないほどのドラ息子になっていた。
それにこのN君の話は、今からもう10年以上も前の話である。なぜ4年前に、そのN君のこ
とを書いたのか、よくわからない。多分、何か、いやなことがあって、そのうさ晴らしのために、
この原稿を書いたのだと思う。自分の生徒のことを、こうして悪く書くのは、私のやり方ではな
い。それに今、読みかえしても、どうも、あと味が悪い。
削除することも考えたが、これも、私の(一部)。このままこの原稿を、ここに残しておくことに
する。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●「女」になる子どもたち(これも時代の流れ?)
女子の性体験は、16歳がピークだという。それはそれとして、その子どもがセックスを経験
しているかどうかは、男の教師なら、すぐわかる。「男を見る目つき」そのものが、ほかの子ど
もと違う。ものの言い方や考え方が、「男」をなめた感じになる。「今度のテストは、がんばった
か?」「フフフ、いいじゃん、どうでも……フフフ」と。
Tさん(中3)が、大きく変化したのは、中学2年の夏ごろだった。ある日爪を見ると、マニキ
ュアをしたあとがついていた。眉にソリを入れ、しかもかすかだが口紅をしていることもわかっ
た。Tさんは、明らかに「おとなの世界」で遊び始めていた。どういう形で遊んでいるかは、私に
はわからなかったが、携帯電話を始終大切そうに持ち歩いていたから、そういう方面で遊んで
いることは、察しがついた。
こう書くとTさんのことを、不良(?)と思う人がいるかもしれないが、そういうことはまったく、な
い。頭もよかったし、勉強もまあまあできた。家庭もごくふつうだった。いや、両親が別々に外
車を乗り回していたから、平均的な家庭よりもずっと裕福だったかもしれない。いつかTさん
が、「おやじのマンション」と言ったのを覚えている。父親はマンション経営もしていた。そのTさ
ん、性格も明るく、何かにつけて、大声でよく笑った。
が、この種の問題は、止めて止められるものではないし、親に言えば、かえってやっかいなこ
とになってしまう。男の「カン」だけで、子どもの指導はできない。そこで私は何度かTさんに、ア
ドバイスを試みた。「同年齢の男の子とつきあったら」と。しかしTさんは、同年齢の男子を、「ガ
キんちょ」と呼んだ上、「あんなガキんちょたち、つまんない」と。そしてこの傾向は、Tさんが中
学3年生になるころには、もっと激しくなった。まさに遊びまくっているといった感じになった。
もうそのころになると、筆箱の中の指輪類を隠そうともしなかった。私が「これは何だ?」と、
指輪の一つをつまんで声をかけると、「いいじゃん」と、あやしげな目つきで、それを私の手
からパッと取り返したりした。もしその場だけのやり取りを見た人がいたら、どこかのスナッ
クか、バーでの男と女の会話だと思ったかもしれない。私自身がドキッとするほど、Tさんの
目つきは「女」のそれになっていた。
こういうケースを、あなたならどう考えるだろうか。またどうTさんを、どう指導したらいいと考え
るだろうか。あるいは、そもそも指導する必要があるのだろうか。ないのだろうか。男と女で
は、判断のしかたも違うだろう。ある人(女性)は、「親のほうから相談があるまで、放っておくし
かないわね」と言った。また別の人(女性)は、「それも時代の流れでしょうか」と笑った。私は男
だから、もう少しシビアな見方をするが、正直言って、まったくわからない。ただ言えることは、T
さんは今、高校2年生だが、今は何ごともなかったかのように、ごくふつうの学生として、学校
に通っている、ということだ。いやいや、男と女の関係などというのは、もともとそういうものかも
しれない。セックスを楽しむことを、悪と決めてかかるのも、正しくないのかもしれない。
それぞれの子どもは、それぞれの方法で、おとなになっていく。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
少し前だが、道で、男子高校生の落としたサイフを拾ったことがある。中を見ると、その学生
証のほかに、コンドームが2つ、入っていた。
それを見て、そのサイフを交番へ届けるのが、バカ臭くなった。それでそのサイフを、落ちて
いたところの近くにあった自動販売機の上に、のせた。
今は、そういう時代である。で、この話を、私の生徒(当時、女子高校生)にしたら、その生徒
は、こう言った。
「先生、あのね、放課後の教室って、ラブホテルみたいよ」と。「学校の先生は、何も注意しな
いのか?」と聞くと、「だって、先生はこないもん」と。
こういう問題でカリカリする、私のほうが、おかしいということになる。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
いいね!
0
シェアする
Last updated 2024.12.29 17:11:12
< 新しい記事
新着記事一覧(全11288件)
過去の記事 >
ホーム
フォローする
過去の記事
新しい記事
新着記事
上に戻る
【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね!
--
/
--
次の日記を探す
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
広告を見てポイントを獲得する
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
エラーにより、アクションを達成できませんでした。下記より再度ログインの上、改めてミッションに参加してください。
ログインする
x
X
© Rakuten Group, Inc.
X
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Design
a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
楽天ブログ
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
ホーム
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: