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2024.12.29
最前線の子育て論byはやし浩司(07)
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Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●ズケズケ言う子どもたち(教師の威厳はどこに?)
「先生、口、臭いから、あっち向いていてよ。ああ、臭い臭い」と言った子ども(小6女子)がい
た。もともと多動性のある子どもだった。頭の回転はキリキリと早いが、一貫性がなく、ものの
考え方が浅い。幼児のころは、無頓着、無遠慮、無関心などの特徴も見られた。小学校の高
学年になってからは、症状も落ち着いてきたが、ズケズケとものを言うクセは残っていた。
それはそれとして、私はそう言われたとき、喜んでいいのか不愉快に思っていいのか、一
瞬、迷った。そしてその子どもは、いい子なのか悪い子なのか、迷った。さらに私とよい関係に
あるのかそうでないのか、迷った。あえて私の判断はここには書かないでおくので、皆さんで判
断してほしい。ただ言えることは、こういうふうにものをズケズケと言う子どもが、ふえていると
いうこと。そしてそれを民主的になったと喜んでいいのか悪いのか、このところわからなくなって
きたということだ。
口が悪いのは、しかたない。今時の子どもは皆そうで、先生に向かって、「ジジイ」とか「クソジ
ジイ」と言う子どもは、いくらでもいる。冗談だとわかっているから、それほど気にならない。問
題は、相手が気にしていること、あるいは気にしそうなことを、ズケズケと言う場合だ。しかもス
レスレのことを言い、またそれを言い合うことを、親しみの表れと誤解しているような場合だ。ど
こかテレビの低俗番組のお笑いタレントのようだが、今は、そうでない子どもをさがすほうがむ
ずかしい。
最近の子どもは、先生に対して、畏敬の念をなくしたとよく言われる。それはその通りだが、
こういうとき子どもの側ばかりが問題になる。しかし教師の側にも問題がないのか。学校レベ
ル、あるいは教育委員会レベルでもみ消される、教師によるハレンチ事件は、あとを断たな
い。授業にしても、参観用の授業と普通の授業が、天と地ほど違うことを、子どもたちなら皆、
知っている。また教育、教育と言いながら、自分たちが選別されていることを、子どもたちは感
じ取っている。しかもこの傾向は、高学年、さらに中学校になるほど、強くなる。ズケズケともの
を言う子どもは、こういうスキ間をねらって生まれる。
私「臭いか?」
子「臭い」
私「そうか。ありがとう。このところ、女房もそれを教えてくれなくてね。君のおかげで、恥をかか
なくてすむ」
子「もうかいているでしょ」
私「そうだな。申し訳ない。これからも臭かったら、臭いと言ってよ。なおすから」
子「わかりゃ、イーの。わかりゃア」
私が子どものころは、そういうことを言いたくても言えなかった。回ってきた先生が、鼻クソを
ポタリと机の上に落としたこともある。しかし私は黙って、それをがまんするしかなかった。そう
いう時代がよかったのか悪かったのか、それも私にはわからない。(以上、01年記「子育て雑
談」)
(付記)
管理能力という言葉がある。この管理能力には、行動の管理能力、精神の管理能力、情緒
の管理能力などがある。
ここでいう「ズケズケ言う子ども」というのは、行動(言動)の管理能力に欠ける子どもというこ
とになる。言ってよいことと悪いことの判断にうとい子どもということになる。たとえば多動性の
ある子どもには、同時に、多弁性がよく見られる。このタイプの子どもは、相手の気持ちもかま
わず、言いたいことを、そのまま口にする。そのため、それによって相手がキズつくということ
が、よくある。
が、その一方で、こうした子どもには、ウラがない。つまりそれだけ、心の中が、わかりやすい。
教師と生徒の間ではともかくも、親子や兄弟の間では、言いたいことを言うが、信頼関係の
原点である。それがないと、信頼関係そのものを、築くことができない。
そこで重要なことは、(言うべきことは)言う。しかし自分の心の中で処理できるような、(言わ
なくてもよいこと)は言わない。そういう判断を的確にするということ。またそういう判断のできる
子どもにするということ。
ただし一言。「アッ、風が吹いた」「カーテンが揺れた」式の、底の浅い、軽薄な言動について
は、そのつど、たしなめること。
(はやし浩司 子供の多弁性 多弁性 子どもの多弁性)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●しつけの時期(だらしなくなる子ども)
4、5歳ごろに一度、決められたことに忠実になる時期がある。母親が花を切っていたりす
ると、「先生がねえ、お花、切っちゃダメって、言っていたよ」と。あるいは食事をしながらテレビ
を見ていたりすると、「パパは、この前、食べているときは、テレビを見てはダメと言ったじゃな
い」と。
この時期をうまく利用すると、しつけがしやすい。しかしそれが「頂点」。この時期の過ご
し方が悪いと、どういうわけだか、子どもはだらしなくなる。具体的には幼稚園児より、小学生。
小学生より中学生のほうが、概して、だらしない。学校の周囲を見ても、一番空き缶やゴミが多
いのが、中学校だ。
先日も街中を歩いていたら、5、6人の男子高校生が飲んだ空き缶を、道路へポイと捨て
た。そこで私はこれ見よがしにその空き缶を拾って、近くのゴミ箱に入れてやった。すると高校
生たちはすっとんきょうな声を張りあげて、「イーヤーミィ」と声を合わせた。また別の日。どこか
の家のまん前で、犬に便をさせていた女子高校生がいたので、私が注意すると、こう言った。
「ここ、アンタの家?」と。
理由は簡単だ。世間を知れば知るほど、まじめに生きるのがバカらしくなる。子どもたちは年
齢とともに、世間を広げ、それを知る。善か悪かといえば、この世の中、悪のほうがずっと多
い。そういう悪の中でうまく立ち回ることを、スレるというが、子どもたちは年齢とともに、ますま
すスレる。しかもこの傾向は都会ほど強い。そこで私は以前、こんな格言を考えたことがある。
「子どもは社会の縮図」と。
これは社会に4割の善があれば、子どもの中にも4割の善。社会に4割の悪があれば、子ども
の中にも4割の悪が育つという意味だ。社会を是正しないおいて、どうして子どもを是正できる
か。よい例が自然教育。おとなたちが一方でさんざん自然を破壊しておいて、子どもたちに向
かって、「自然を大切にしましょう」は、ない。少し話はそれるが、私は禁煙運動を精力的にして
きたが、息子の一人がどこかで喫煙を覚えたのを知って、その運動はやめた。自分の息子が
吸っているのに、他人に向かって、「タバコをやめましょう」は、ない。反論もあろうかと思うが、
私はそう考えた。
一方、まじめな子どももいる。ある日一緒にバスを待っているとき、「ジュースを買って飲もう
か」と声をかけたら、「私はこれから夕食を食べるから、いい」と言って、断った女の子(小4)
がいた。そこで私は自分なりに、いつどのように子どもが分かれていくのか観察してみたことが
ある。子どもは、いつ頃からだらしなくなるか、と。その結果得た結論が、冒頭に書いた事実で
ある。4、5歳ごろ、である。
この時期までにしつけをうまくして、それに合わせた思考回路をうまく作ってあげると、子ども
はまじめになる。一方、その時期をだらしなく過ぎると、子どもはだらしなくなる。ほかにもいろ
いろな要因があるが、そういうことだ。そして一度だらしなくなってしまうと、なおすのが大変難し
い。身についたシミのようなもので、なかなか落とせない。だからこそ、この時期のしつけが大
切なのだ。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
ジュースを断った女の子については、よく覚えている。ただ、ここで(小4)と書いたが、(小3)
だったかもしれない。名前を、Aさんと言った。
で、そのAさんと、それから10年くらいしてから、それについて話しあったことがある。そのと
きAさんは、オーストラリアの大学に留学していた。が、Aさんは、「覚えていません」と。「そんな
ことありましたア?」と。ケタケタと笑っていた。
そのAさんが、私にこんなことを頼んだ。「いつか結婚するとき、結婚式に来てくれますか?」
と。私は、一も二もなく、「いいよ」とだけ、返事をした。つまり私は、Aさんを、子どものときか
ら、全幅に信頼していた。その信頼感は、あの自動販売機の前でできたものだと思っている。
ただ残念なことに、Aさんは、そのままオーストラリアに居ついてしまった。今は、オーストラリ
ア人の男性と結婚して、パースに住んでいるという。
(はやし浩司 子どものしつけ まじめな子供 まじめな子ども)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●肩書き人間(悪しき学歴人間)
私のいとこの義父に、国の出先機関の長をしていたのがいる。死ぬまで、長の名札をぶらさ
げて生きていたような人で、本人が「自分は偉いのだ」と思うほど、世間は相手にしなかった。
葬式か
ら帰ってきた母は、こう言った。「あんなさみしい葬式はなかった」と。
老人が老人社会へ入るためには、過去の肩書きを捨てなければならない……らしい。過去
の肩書きにこだわっていると、周囲の者が近づかない。恐れ多いからではなく、そういう人とつ
きあっていると、疲れるから。が、こういう人たちにはそれがわからない。どこへ行っても、「私
は
尊敬されるべきだ」というような態度をとる。
戦争をはさんで教育を受けた人たちというのは、とくにこの傾向が強い。「立派な社会人にな
る」ことイコール、善と、徹底的に叩きこまれている。ここで言う立派な社会人というのは、言う
までもなく「肩書きのある人間」をさす。あるいは「肩書きを見せただけで、相手がひれ伏す人
間」をさす。
実際、この日本は肩書きのある人は、それだけで得をする。一方、肩書きのない人は、せっ
かくその力があっても、社会に埋もれてしまう。肩書きのある人は、それはそれでいいと思うか
もしれないが、一方でそうでない人を、いかに虐げているか、それを忘れてはならない。仮にあ
なたはいいとしても、あなたの子どもはどうだろうか。あるいはあなたの孫はどうだろうか。あな
たがもっているような肩書きを手にすることができるだろうか。
人間の価値は、肩書きではなく、何をしたかによって決まる。こんなわかりきったことが、この
日本で住んで、生活しているとわからなくなる。先のいとこの義父も、同年齢の人と会うたび
に、「あなたは何をしていましたか」と聞いていた。よほどそのことが気になるらしく、自分より立
場が上だった人にはペコペコし、そうでない人に向かっては、胸を張った。年下の人に向かっ
ても、少しでもできが悪そうに見えたりすると、「君は、算数が何点ぐらいだったかね」と聞いて
いた。あるいは「こんなのは、簡単な計算で解けるよ。こんなのもわからないのかね」と言った
りした。
唯一の趣味といえば、新聞や雑誌への投書。毎日のようにせっこらせっこらと書いては、新聞
社や雑誌社へ送っていた。たいてい自画自賛で、読むに耐えない文章だったが、私の母は「偉
いもんだ」と言っては、その記事を人に見せていた。
その人はその人で、懸命に生きてきたのだろう。彼とてその時代の価値観に染まっただけ
だ。かく言う私だって、私の生きた時代の流れに染まっている。彼がまちがっているということ
にもならないし、私が正しいということにもならない。あるいは次の世代の流れが正しいというこ
とにもならない。ただ私の立場で言えることは、こうした悪しき肩書き人間は、世界では通用し
ないということ。それだけではないが、それも含めて、こういう過去の流れをここで止めなけれ
ばならない。私のいとこの義父には悪いが、肩書きで自分の人生を見失ってはいけない。……
と私は思う。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
権威主義の人は、電話のかけ方をみればわかる。動物的なカンで(?)、相手が自分より
(上)か(下)かを判断する。そしてそれに応じて、電話のかけ方が、まるでちがう。(上)の人に
は、ペコペコし、(下)の人には、威張った言い方をする。
こうした権威主義が家庭に入ると、親子関係そのものを破壊する。親にとっては居心地のよ
い世界かもしれないが、子どもにとっては、そうではない。その居心地の悪さが、親子の間に、
キレツを入れる。
これからは親の権威だけで、子どもをしばる時代ではない。またそれでは、子どもを指導する
ことはできない。
(はやし浩司 権威主義 肩書き人間 肩書きで生きる人)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●超辛口教育論(子どもには本物を)
音程がズレたような、チャラチャラしたジャリ歌手の歌う歌を、「名曲だ」と思い込んで、
CDやMDを聞き入っている若い人たちを見ると、「かわいそうだ」と思う。「あんな音楽しか知ら
ないのか」と思ってしまう。が、我が身を降り返れば、そうばかりは言っておれない。私たちも中
学生や高校生のときは、そういう歌手の歌う歌を、毎日のように聞いていた。
今朝もテレビのチャンネルを入れると、タレントカップルの破局を大げさに報道していた。見
るからに知性のひとかけらも感じないようなカップルだが、そんなカップルの破局が、日本中の
ニュースになること自体、不思議なことだ。男のほうが名古屋駅を歩く様子が報道されたが、
報道陣に混じって、若い女性たちがキャーキャーと、声を張りあげていたのが印象的だった。
が、私たちだって、同じようなことをしていた。
子ども時代、なかんずく幼児期には、本物を見せておく。画家をしている知人にそのことを話
すと、こう教えてくれた。「絵といっても、子どもを圧倒せんばかりの大きな絵がいい」と。食べ物
も、飲み物もだ。最近の子どもたちは、おいしい食べ物はと聞くと、ファーストフードのハンバー
グ。おいしい飲み物はと聞くと、自動販売機のジュースをあげる。しかしこうした食感覚にして
も、いかに不自然なことか。ニセモノばかり見たり、聞いたり、食べたりしていると、子どもは、
皆、そうなる。
となると、私たちの時代はどうだったのかということになる。私自身もニセモノばかり見て育っ
た。いや、ニセモノしか、周囲になかった。当時はそういう時代だったように思う。5円で買うラ
ムネにしても、10円で買う駄菓子にしても、味はついていたが、それだけのものでしかなかっ
た。今から思うと、「どうしてあんなものばかり欲しがったのか」とさえ思う。
かく言う私も、高校時代に口ずさんだ歌謡曲を聞くと、たまらないほどの懐かしさを覚える。た
だ私の場合、学生時代はずっと合唱団にいたし、その後も、ごく最近までパソコンミュージック
が趣味で、自分で作曲したりして、より高度な(?)音楽を楽しむことができた。そういう視点で
考えると、どこか損をしたような気分にもなる。人生は長いようで短いし、短いなら短いで、もっ
と本物に触れておけばよかったという気持ちだ。つまりニセモノに染まっていた時代の自分が、
何となく一方で、時間を無駄にしていたようにしか、思えない。
さて、子どもたちはどうか。今、本物を見ているだろうか。あるいは本物とニセモノを見分ける
力は育っているだろうか。私はこれについては疑問だ。「たまごっち」というゲームに夢中になっ
ていても、小さな虫を見ただけで、キャーキャーと逃げ回る子どもはいくらでもいた。あるいは
「たまごっち」をしている子どもの横で、「殺せ、殺せ!」とはやしたてている子どもはいくらでも
いた。さらに「たまごっち」が終わったあと、本物の動物を育て始めたという話しは聞かない。果
たしてこのままで、いいのだろうか。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
本物を、いつどうやって見せていくか……。しかし実際には、子どもたちは、親が見せるより
も先に、テレビや雑誌などによって、ニセモノをニセモノと見抜けないまま、それを本物と思いこ
んでしまう。
そこで大切なことは、「子どもに見せよう」「教えよう」と考えるのではなく、親自身が、自分で
本物を見ることではないだろうか。日々の生活の中で、いつも本物だけを見て、それを評価す
る。またそういう目を養っておく。これは子どものためというより、あなた自身のためでもある。
が、だからといって、子どもも本物を見るようになるとはかぎらない。イギリスの格言に、『水場
に馬を連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』というのがある。最終的に、子
どもが自分の世界で、どういうものを見るかは、親の問題ではなく、子どもの問題ということに
なる。
(はやし浩司 本物 本物を見せる)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●教育の裏の、人間ドラマ(女房が妊娠した!)
ある日突然、一人の男が私の部屋に飛び込んできて、こう言った。「うちの女房が、妊娠し
た。どうしてくれる!」と。寝耳に水とは、まさにこのこと。私が驚いて戸惑っていると、その様子
から察知したのか、男は急に態度をやわらげ、「すまん、すまん。カマだ」と。話をよく聞くと、こ
うだった。
私は「幼児教育は母親教育」という信念から、毎日のように母親教室を開いていた。しかしそ
れがよくなかった。その男の妻は、私の話を聞くたびに、家で「はやし先生が……」「はやし先
生が……」と言うようになってしまった。夫であるその男には、あまり愉快なことではなかったら
しい。で、そういう最中にその男と妻は、はげしい夫婦喧嘩をした。喧嘩をして、妻が家を飛び
出してしまった。その男は、妻が私のところに逃げたに違いないと思った。冒頭の話は、そのと
きの続きである。
またこんなこともあった。ある日幼稚園の庭で園児を迎えていると、黒塗りの外車がスーッと
止まった。そして中から細身の紳士が飛び出し、ツカツカと私のところへやってきて、「貴様が、
はやしか!」と。ものすごい剣幕である。私が「そうです」と言うと、いきなり「このヤロウ!」と言
って、数発、殴りかかってきた。避ける間もなかった。気がつくと私は、地面にたたきつけられ
ていた。男はそのまま帰っていったが、私にはまったく身に覚えがなかった。かけつけたほか
の先生たちが、「どうしたの?」「どうしたの?」と。私は、ポカンとするしかなかった。
すぐにその紳士が、A君という子ども(年長児)の父親であることがわかったが、そこで一人
の年配の先生が、「A君と何があったか話してごらん」と。私はA君のことを話した。
「いやあ、A君がいつも忘れ物ばかりするから、昨日も電話して、もう少しけじめのある生活を
してくださいと言いました」と。するとその先生はパチンと手を叩いて、「それよ!」と言った。「け
じめ」という言葉が悪かったのだ、と。A君の母親は、その男の愛人だった。何気なく使った言
葉だが、その言葉が、A君の母親を大きくキズつけてしまっていた。
ほかにB君という子ども(年長児)が、C君という子どもにいじめられていたから、C君の母親
に、それを注意したことがある。私は軽い気持ちで、「何か家庭で不満に思っていることがある
のではないですか」と言っただけなのだが、その父親が、名誉毀損だと騒ぎ始めた。そして何
回か抗議の電話がかかってきたあと、私を裁判所へ訴えるとまで言い出した。結局この事件
は、私が謝罪する形で決着したが、あと味の悪さだけは、いつまでも残った。
こうした事件を通して、私は多少なりとも、利口になった。毎日開いていた母親教室は、週一
回にしたし、使う言葉も慎重になった。もう少し正直に言えば、子どもの教育のことで、出しゃば
るのをやめた。相手から聞かれるまで言わないという姿勢をもつようになった。教育、教育と言
いながら、その裏では、さまざまな人間のドラマが展開している。(以上、01年記「子育て雑
談」)
(付記)
教育の世界には、『問われるまで、言うな』という大鉄則がある。わざわざ火中の栗を拾うよう
なことは、してはいけない、と。拾えば、大ヤケドをする。
先日も、ある小学校で、校長と、こんな会話をした。その校長のほうから、こう言った。「あの
3年B組、金P先生という番組ね。あれほど、教育現場を混乱させている番組は、ありません
よ」と。
「つまり親たちは、ああいう番組を見て、金P先生のような先生こそが、理想の先生だと思い
こんでしまう。そしてそれを現場の私たちに求めてきます。しかし実際には、教育は、そんな単
純な仕事ではありません」と。
私も同感である。それはちょうど、ピストルをバンバンと撃ちあうようなシーンを見て、「刑事の
仕事というのは、そういうもの」と思いこむのに似ている。現実には、ありえない。もっと言え
ば、教育の世界は、無数の欲望が複雑にからみ、ドロドロしている。家庭の事情も、千差万
別。さらに子育てには、その親の人生観や哲学観がすべてからんでくる。
一介の教師の、人生観や哲学観だけで、解決できるほど、子どもの世界の問題は、単純で
はない。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●短気な子ども(引き金は引かない)
短気な子ども、つまりすぐカッとなりやすい子どもというのは、確かにいる。しかしそういう表面
的な症状にだまされてはいけない。どんな人でも、短気なときは短気だし、そうでないときは、
そうでない。では、何がそうさせたり、そうさせなかったりするのか。
子どもたちを観察してみると、こんなことがわかる。子どもたちはカッとなるときは、ほぼ条件
反射的にそうなるということ。何か気にさわることを言われたり、されたりすると、カッとなる。つ
まりある一定の分野で、いつも緊張感をもっている。そしてその緊張感を刺激されたとき、カッ
となる。たとえばある子どもが、「明日の宿題がやっていない」と、心のどこかで思い悩んでいた
とする。子どもはそのことを、心のわだかまりにしている。そういうとき、家族の誰かが「宿題は
やったの?」と声をかけると、それが引き金となって、子どもはカッとなる。「うるさい!」と。
緊張感のない分野については、カッとなることはない。かなりはげしいことを言われても、子ど
もたちはそれを冗談ととらえる。心にまだ余裕があるからだ。わかりやすく言えば、短気な子ど
もはいつも短気というわけではないし、またそうでない子どもでも、痛いところに触れられるとカ
ッとなる。
A子さん(年長児)は、母親が「ひらがなを書いてみようね」と言っただけで、別人のように急
変し、そして暴れた。ふつうの暴れ方ではない。母親に向かって手当たり次第にものを投げつ
けた。
B君(小4)は、父親が何か疑いをかけるようなことを言うと、やはり急変した。「この貯金箱
のお金のことだが……」と。B君は、それだけで「自分が(盗んだと)疑われた」と思ってしまっ
た。父親はこう言った。「ふだんは静かで穏やかな様子なのですが、一度そういう状態になる
と、ピリピリとした雰囲気になります」と。
こうした緊張感は、親子の間、友だちどうしの間、さらには教師と子どもの関係にも生まれ
る。そしてそれが刺激されたとき、それぞれの立場で子どもは、カッとなる。ひどい場合には、
キレる。
もっともこれだけで、子どもたちが「キレる」原因を、すべて説明することはできない。しかし大
半の子どもたちが、「勉強」という言葉に強い反応を示すのも事実で、親が「勉強しなさい」と言
っただけで、カッとなる子どもはいくらでもいる。つまりそれだけ「勉強」に対してわだかまりや、
あるいは緊張感をもっているということになる。あるいはそれ以前の段階として、抑うつ感をた
めこむ。
子どもがカッとなったら、そんなわけで、子どもがどういう分野で、どういうように緊張感をもっ
ているかを判断する。もしそこに何らかのわだかまりを感ずることができたら、そのわだかまり
にはできるだけ、触れないようにする。要するに引き金を引かないようにする。(以上、01年記
「子育て雑談」)
(付記)
情緒が不安定な子どもというのは、それだけいつも、心が緊張状態にあるとみる。その緊張
状態にあるところに、不安や心配が入りこむと、その不安や心配を解消しようと、一気に、情緒
が不安定になる。カッとなったり、グズッたりする。
だから「うちの子は、情緒が不安定だ」と感じたら、何が、その子どもの心を緊張させている
かを、観察、判断する。
(はやし浩司 情緒 子どもの情緒 子供の情緒 情緒不安 情緒不安定)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●ふえる睡眠障害(寝る前は興奮させない)
年長児の子どもたち、10人に聞いてみた。「君たちは、恐い夢を見るか」と。すると、その
中で3人が、「見る!」と答えた。「死体の夢を見る」「ワニに食べられる夢を見る」「迷子になっ
た夢を見る」「ロボットに追いかけられる夢を見る」「誰かに食べられる夢を見る」など。
この答には驚いた。私は幼児というのは、恐い夢を見ないものだとばかり思っていた。見るに
してもときどきで、しかも朝になれば忘れてしまうものだ、と。しかし子どもたちは、あたかもそ
の朝見た夢であるかのように、ワイワイと言って、それを説明してくれた。
睡眠中というのは、本来、もっとも心身ともに、リラックスした状態になる。またそうでなければ
ならない。特に子どもの世界ではそうで、もしそうでないというのなら、どこかに問題がある。
この話とは別に、睡眠障害になる子どもがふえている。「夜更かしする」「朝、起きられない」
「夜中に起きる」「なかなか寝つかない」など。夜驚症(夜中に狂人のようになって、大声をあげ
たり、暴れたりする)や、夢中遊行(ねぼけてフラフラとさまよい歩く)になる子どももいる。わか
りやすく言えば、静かに眠って、ぐっすり休んで、爽快な気分で朝を迎えることができない子ど
もがふえているということだ。私の実感では、約50%の子どもに、その傾向が見られる。恐
い夢を見る子どもを含めたら、もっと多いかもしれない。
原因は、日中のストレスだとよく言われるが、私はもっと身近な問題にあると思う。これはあく
までも「思う」というレベルの話だが、その一つがテレビであり、テレビゲーム。
子どもにとっては、睡眠前の数時間には、特別の意味がある。特に年少の子どもほどそう
で、この時間、子どもを興奮させたりすることは禁物。心を少しずつ落ち着かせ、やがて睡眠
へと導いていく。少なくともごく最近まで、人間は過去数10万年間、そうしてきた。が、それが
乱れた。子どもたちは寝る間際まで、テレビを見ている。テレビゲームをしている。
しかしこの時間帯に興奮させれば、その睡眠そのものが乱される。根拠はないが、こんなこと
は常識だ。幼稚園児でも、平均して午後八時半前後には床につく。しかし平日でも、幼児向け
番組は、午後5時~7時台に集中している。午後七時~九時台には、一応、おとな用とはなっ
ているが、
小学生でも見たがるような番組が、目白押しに並んでいる。こういうものを野放にしておいて、
「うちの子どもは、なかなか寝なくて困る」は、ない。
子ども、特に幼児には、日没後は、静かな生活を大切にする。そして静かな眠りに入るため
の準備をさせる。そのために、一つの方法として、テレビのスイッチは切る。もちろんテレビゲ
ームなど、言語道断。眠る間際まで、「やっつけろ!」「殺せ!」「倒せ!」と叫んでいて、どうし
て静かな眠りに入ることができるのか。ある子ども(小5男児)は、真夜中にガバッと起きて、
テレビゲームをしていた(姉の話)。もちろんこういう症状が見られたら、即刻、子どもからゲー
ムを遠ざけるようにする。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
私も、最近は、午後8、9時以後は、ビデオ類などを見ないようにしている。この時間帯に一
度、脳ミソを興奮させると、そのまま、寝つかれなくなってしまう。そしてさらに一度、眠りそこね
てしまうと、今度は、午前0時過ぎまで、眠れなくなってしまう。(時には、午前2、3時まで寝つ
かれないこともある。)
子どものばあいも、同じと考えてよいのでは……。とくに子どものばあいは、就眠儀式(ベッ
ド・タイム・ゲーム)のあり方に注意する。子どもは、眠る前、毎晩、同じこと(儀式)を繰りかえ
す。そのしつけに失敗すると、睡眠不足を引き起こし、さまざまな症状を見せるようになる。
(はやし浩司 子供の睡眠 睡眠不足 就眠儀式)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●塾ブルース(10%のニヒリズム)
塾を開くのに、認可も許可もいらない。届出も必要ないし、資格もいらない。もしあなたさえそ
の気になれば、明日からだって塾は開ける。塾は通産省の職業区分では、サービス業になっ
ている。
こう書くと、塾は簡単な商売だと思う人がいるかもしれない。事実その通りだが、それだけに
競争もはげしい。毎年雨後の竹の子のように塾は生まれ、そしてつぶれていく。10周年記念
ができる塾は、何割もない。さらに20周年、30周年記念ができる塾は、10パーセントも
ないのではないか。現在、ほとんどの個人塾はつぶれ、残っているのは、中、大手規模の進学
塾か、チエーン化された塾だ。
塾は、通産省ではサービス業になっている。そのことは冒頭で述べたが、塾でしていること
は、教育ではない。指導である。中に「教育だ」とがんばっている塾教師がいるが、がんばらな
ければならないところに無理がある。少なくとも世間は、教育機関とは認めていない。
その塾。毎年あちこちの私塾会に誘われて顔を出すが、酒が入り始めると、本音が出てく
る。おもしろいのは、むしろこちらのほうだ。昼間は「新学力観の問題点とは……」と論じていた
ような教師でも、「塾教師なんて……」と話し始める。そういうところで取材した話をここで書くの
も気が引けるが、たとえばこんなことを言う。「塾教師が教え子の結婚式に呼ばれることはまず
ないよ。いくら苦労した生徒でもね」とか、「中学が受かったとたん、ハイさよならね。あとは塾
へ来たことそのものを、隠す」とか。
この世界には「10%のニヒリズム」という言葉がある。いくら「指導」に専念しても、全力投
球はしない。全力投球すれば、キズつくのは、結局は塾教師。どんなに専念しても、最後の
10%は自分のためにとっておく。生徒に裏切られても、キズつかないためだ。
もっとも10%のニヒリズムを意識する教師は、まだ誠実なほうだ。たいていの塾教師はもっ
とドライ。「生計のため」と、はっきりと割りきっている。むしろこういう塾のほうがわかりやすい
し、今の世の中に受ける。手のこんだ料理よりも、ファーストフードのレストランの料理のほうが
おいしいと思う人は、いくらでもいる。
おまけに塾教師には、当然と言えば当然だが、保障はまったくない。退職金もなければ、年
金もない。30年勤めても、ハクなどつかない。明日病気になって倒れれば、それで塾はおし
まい。収入もそれで途絶える。こういう世界から、学校の先生をながめると、本当に学校の先
生は恵まれていると思う。いろいろたいへんだろうとは思うが、それでも恵まれている。
そうそう学校の先生にそんなグチをぶつけた塾の教師がいる。そしたらその学校の先生は、こ
う言ったという。「くやしかったら、学校の教師になればよかったではないか」と。「私たちは教育
に生
きる。あんたたちは教育で生きる」(塾教師1氏談)とも。
一見気楽な商売(?)に見える塾の世界だが、もの悲しいブルースは、毎日のように聞こえて
くる。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
本当に自由な教育というのは、「塾」でこそ、可能である。しかしその自由な教育をすれば、そ
の塾は、あっという間につぶれる。
そこで本当に自由な教育をするためには、長い時間をかけて、塾教師は、コツコツと、信用と
実績をつみあげるしかない。いきなり自由な教育、というのは、土台、ムリ。反対の立場で考え
てみれば、それがわかる。
ある日いきなり、あなたの近所に塾ができた。自由な教育をするという。そういう塾に、あなた
は、自分の子どもを預けるだろうか。預けることができるだろうか。子どもを預けるということ
は、親にとっても、それほどまでに覚悟のいることなのである。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●代償的過保護(自分のために子どもを愛する)
過保護は過保護だが、親の支配欲を満たすためだけの過保護を、代償的過保護という。い
わば過保護モドキの過保護のことになるが、外見上は、一般の過保護とは区別がつきにくい。
ふつう過保護には、そうするだけの理由、つまり心配の「種」がある。病気ばかりしていたか
ら、子どもを運動面や食事面で過保護にするなど。しかし代償的過保護には、それがない。こ
のタイプの親は、「親に甘えてくれる子どもがいい子ども」と、とらえる傾向がある。つまり子ども
を管理する一方、子どもには依存心をもたせる。そして結果として、子どもを自分の支配化に
置く。Tさんも、そんなタイプの母親だった。Tさんは、こう言った。
「息子(27歳)の結婚相手は、私が選んであげます。ヘンな女にくっつかれると、財産を食
いつぶされますから」と。そして息子が好きになった女性との結婚に猛反対して、それをつぶし
てしまった。今でも息子の帰宅がちょっとでも遅れたりすると、それをくどくどと叱っている。
Tさんが恐れているのは、子どもの自立だった。自立して自分から去っていくことだった。こん
なこともあった。息子が高校三年生のときである。息子が県外の大学に進学したいと言ったの
に対して、Tさんは、反対。そして私のところへ来て、こう頼んだ。「先生のところへ来週にでも
息子をよこしますから、よく説得してやってください。先生の言うことなら聞きますから」と。そし
て帰り際に、「今日、私がここへ来たことは内緒にしておいてくださいよ」と。
このタイプの親に共通しているのは、他人に心を許さないこと。自分の子どもすら信じていな
い。言いかえると、自己中心性が強く、わがまま。その上、気が小さく、おくびょう。「自分」という
ものがあるようで、どこにもない。Tさんも、いつも世間体を気にしていた。「もっと自分の世界を
広くしないと」と、私は言いかけたが、やめた。Tさんは、そのとき、私よりも一〇歳も年上だっ
た。
かつてアメリカの教育者が、日本人の子育て法を観察して、こう批判した。「日本人は、自分
の子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無関心過ぎる」と。つまり子どもに依存心をも
たせながら、平気でいる、と。その結果かもしれないが、同年齢の子どもを比較しても、アメリカ
人の子どもは日本人の子どもよりも、一回りおとなびて見える。反対に日本人の子どもは、幼
稚っぽい。概して甘えん坊が多い。あの成人式にしても、大半の女の子は、親のスネをかじっ
て、美しい着物を着ているという。成人したという自覚すらない。キャーキャーと式場で騒ぐだ
け。
要は子育ての目標をどこに置くかという問題に帰結する。いろいろな考え方があると思うが、
「子どもをよき家庭人として自立させる」ということであれば、こうした代償的過保護は、百害あ
って一利なし。子育ての大敵と考える。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 代償的過保護 代償的愛 真の愛)
(付記)
同じような意味で、私は、よく「代償的愛」という言葉を使う。いわば愛もどきの愛。ニセの愛
をいう。つまりは、親が自分の心のすき間(情緒不安、精神的欠陥)を埋めるために、子どもを
自分の支配下において、溺愛することをいう。
これは一見、愛に見えるが、決して愛ではない。たとえて言うなら、ストーカーが見せる、身勝
手な愛に似ている。相手の迷惑もかえりみず、その相手にしつこく、つきまとう。ストーカー行為
を繰りかえす本人は、「愛しているから」と言うが、それは本来の愛とは、まったく異質のもので
ある。
よくある例は、子どもの受験競争に狂奔する親。一見、子どものことを考えているようで、そ
の実、子どものことは、何も、考えていない。だから代償的愛という。
(はやし浩司 代償的愛 自分勝手な愛 身勝手な愛 溺愛 でき愛)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・
●親孝行の限界(育ててやったではないか)
親をだます子どもはいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。だまして、子どもから
お金を巻き上げる。そうでない人には信じられないような話だが、実際にはある。そういう親を
もっている人に向かって、親孝行論を説いても、かえってその人を苦しめるだけだ。Hさん(4
0歳)も、その一人。
「就職して以来、給料の何割かを、実家の母に送ってきました。母はいつも、『あんたの代わ
りに貯金しておいてやるから』とか、『あんたのかわりに故郷を守ってやるから』と言っていま
した。『先祖を供養せよ』と言って、間接的に、お金を要求してくることもありました。しかしお金
はすべて、自分のために使っていました」と。
さらに悲劇は続く。Hさんが父親から譲り受けた土地の権利書を、言葉巧みに取りあげ、そ
のまま他人に売却してしまった。「もともと死んだ父の土地でしたが、実家を新築するにあたっ
て、私は2000万円、負担しました。そのお金と交換ということで、土地の権利書を受け取っ
たのです。権利書というのは、それです」と。
結果、親子の縁は切れた。ついで、親戚との縁も切れた。親戚の叔父や叔母は、表面的な
様子だけを見て、「親不孝者!」とHさんを責めている。無論、Hさんも苦しんでいる。「しかし母
親のことを悪く言うのは、もっとつらい」と。
子どもは親から生まれる。それは事実だが、子どもの側から見ると、自分が生まれてはじめ
て、親がわかるにすぎない。つまり子どもは親を選べない。このHさんのケースでは、Hさんの
母親は自分の息子を、自分の所有物か何かのように考えているのがわかる。昔はこのタイプ
の親が多かった。しかし一方、子どもの側から見ると、「私は私」であって、決して親の所有物
ではない。親は「産んでやったことを感謝せよ」とか、「育ててやったことを感謝せよ」と言う。「こ
こまで大きくしてやったではないか」とも言う。しかし子どもの側から見ると、そういう親のものの
考え方は、重荷でしかない。
自分の子どもにいい子になってほしかったら、まず自分がそのいい子になって、手本を子ど
もに見せる。これが親孝行の基本だが、こういうHさんのようなケースを見聞きすると、私には
もう言葉がない。もう少し古い世代の人は、「それでも親は親だから、親に頭をさげるべきだ」と
言う。しかしHさんという、一人の人間を中心に考えると、それもおかしい。Hさんもこう言う。
「私も二人の娘を育てていますが、育ててやっているという意識はどこかにあっても、娘たちに
はそれを言わないようにしています。それを言ったら、親として、おしまい。親として当然のこと
をしているだけです」と。
いろいろ考えてはいるが、これ以上のことは、私にはわからない。ただ言えることは、このH
さんのケースを知って以来、私は安易に「親孝行」という言葉を使わなくなった。子育ても難しい
が、親孝行も、それと同じくらい難しい。とくに子どもが成人するころになると、それがつくづくと
わかるようになる。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
少し前のこと。まだ電話による相談を受けつけていたときのこと。数日おきに、あれこれと電
話をかけてくる母親がいた。
「今日は、学校に呼び出された」「おかげで、パートの仕事ができなかった」
「先日は、近所の看板を倒してしまった」「おかげで、その弁償をさせられた」
「今日は、学校から電話がかかってきて、給食費を請求された」などなど。
私はその電話を聞きながら、「その程度の問題なら、どこの家庭にもあるのになあ」と思って
いた。しかしそれを口にすることはできない。その母親は母親なりに、真剣に悩んでいた。
が、ある日、気がついた。その母親は、子どものことをあれこれ問題にしているが、そうでは
ない、と。つまり、その母親にとっては、子育てそのものが、苦痛なのだ。子育てがいやだか
ら、あれこれ問題を自分で作って、それで悩んでいるだけ。あるいは結婚そのものに、問題が
あったのかもしれない。
つまり大もとに1つの問題があり、それがあれこれ姿を変えて、その母親を悩ませていた。…
…というような例は多い。
ここでいう「産んでやった」「育ててやった」と言う親も、そうである。どこかに犠牲的精神がとも
なうということは、すなわち、子育てがそれだけ苦痛であることを意味する。本来なら、親は、子
どもにこう言わねばならないはず。
「おまえのおかげで、人生を楽しくすごすことができた。ありがとう」と。
それがあるべき、子育ての本来の姿ということになる。
(はやし浩司 子育て 親の恩 恩着せがましい子育て)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●サトシ君(いじめ問題の陰で)
サトシ君(中2)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめら
れていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされ
ても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい
た。
そのサトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆(静岡県)にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、サトシ君の祖
母から聞
いた話だ。
祖父はサトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。サトシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とサトシ
君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そこでのこと。帰る道す
がら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、サトシ君は、「高校に合格しますように
と祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの病気が治るように祈らなか
ったか」と。そこでサトシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りなおしたという。
この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「サトシ君」で呼ぶようになった。とても
呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、サトシ君のような子どもも
いる。
今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ
とで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そういう人が、しかっりと
判断する。愚かな人ばかりではない。サトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内の
K高校を卒業したあと、東京のK大学へと進んでいる。サトシ君は、見るからに人格が違ってい
た。
自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ
められながら成長し、そしてたくましくなる。つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐えない
と、子どもがひ弱になってしまう。
今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、こう
いう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超えたいじめ
は別である。しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に
相談。
親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの訴えることに、とことん耳を傾けてやること
でしかない。子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているんだよ」と励ましてあげることでし
かない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、親や教師にも、できることには限
界がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、 親や教師の務めではないかと、私は思う。
(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
人は、ドン底に落ちると、2つのタイプの人間に分かれる。そのときから、徹底した善人にな
るタイプと、徹底した悪人になるタイプである。どちらの道を選ぶかは、紙一重。
そこまで深刻な問題ではないにせよ、子どもの世界でも、同じようなことが起きる。いじめを
受け、それをバネに、ここに書いたサトシ君のようになる子どもと、同じように、今度は反対に、
いじめる側に回る子どもである。「いじめられる前に、いじめてやれ」という考え方である。
そういう意味では、いじめる側の子どもが、すべて「悪」とは言い切れない。(もちろんいじめ
は、悪いことだが……。)抑圧されたうっぷんが、長く蓄積されて、それがいじめに転化すると
いうことも、子どもの世界では、よくある。
それにいじめる側は、それを(いじめ)と認識していないケースも、多い。軽い遊びか、ふざけ
のつもりで、それをする。しかしいじめられる側にとっては、そうではない。ちょっとした相手の
言動を、おおげさにとらえてしまう。そういうケースも、多い。
さらに「A君がいじめる」と言うから、学校の先生に相談して、A君を近くから排除してもらう。
すると今度は、その子どもは、「B君がいじめる」と言い出す。そこでまた今度は、B君を近くか
ら排除してもらう。が、つぎに今度は、その子どもは、「学校の先生がいじめる」と言い出したり
する。そういうケースも、少なくない。
これを「ターゲットの移動」という。つまりその子どもは、もっと大きな心の問題をかかえてい
て、それが原因で、学校へ行きたくないだけである。それがわからないから、親や先生は、子
どもの言うことに、振りまわされてしまう。そういうケースも、多い。
ここに(いじめの問題)のむずかしさがある。
(はやし浩司 いじめ いじめの問題)
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
●教育の「陰」の部分(作られる私たち)
教育には教えて教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。前者を「陽」の部分とす
るなら、後者は「陰」の部分ということになる。たとえばこの日本で教育を受けていると、都会へ
出て、大企業に就職することが大切なことで、反対に、田舎に残り、農業をすることは、つまら
ないことだという意識を植えつけられてしまう。
さらに集団の中で、肩書きをもち、名誉や地位を得ることは大切なことであり、反対に集団から
離れて、一人で生きることは、変わり者のすることだという意識を植えつけられてしまう。これが
教育の「陰」の部分であり、そういう意識が大きな流れとなって、子どもたちの将来像を形づく
る。
こうした教育の「陰」の部分は、外国の教育と比べてみると、それがよくわかる。たとえば軍事
政権が幅をきかせているような国では、当然のことながら、子どもたちは軍人になることイコー
ル、理想の未来像ととらえる。戦前の日本を例にとるまでもない。マルコス政権下のフィリッピ
ンもそうだったし、今のベトナムもそうだ。
一方、オーストラリアでは、自然保護団体の職員の地位が、日本のそれとは比較にならないほ
ど高いし、欧米では福祉団体の職員の地位が高い。この日本では、戦後、一貫して「金儲け」
イコール、善という社会観が定着している。私たち団塊の世代は、就職先といえば、一にも、二
にも、商社や銀行、あるいは大企業を考えた。
教育されるのは、子どもたちばかりではない。親もまたそうで、たとえば子どもが不登校を起
こしたりすると、親ははげしい絶望感に襲われる。この日本では集団から離れることは、恐怖
以外、何物でもない。しかしそういう集団性とて、教育の「陰」の部分に過ぎない。幼児のときか
ら、幼稚園の先生は、こう言う。「(幼稚園を)休むと、遅れますから」と。かくして幼稚園や学校
は、行かねばならないところという無意識の意識を植えつけられる。そういう子どもが親にな
り、それを代々繰り返すうちに、今の日本ができた。
問題は、いつどのような形で、その「陰」の部分に気づくか、だ。気づいた段階で、教育に対
する考え方が、一変する。「私は私だ」と思っているあなただって、「作られた私」を、あなたの
中に発見する。たとえば私の父は、「(天皇)陛下」という言葉を耳にしただけで、いつも体をブ
ルブルと震わせていた。その父とて、結局は戦前の教育で、そのように「作られた」だけなの
だ。
さて、あなたはどうだろうか。あなた自身を冷静にながめてみてほしい。あなたの中に巣くう、
あなた自身の価値観を、ながめてみてほしい。あなたは今、子育てをしながら、どのような価値
観をもっているだろうか。そしてそれは、あなた自身が自分で考えて手にした価値観なのだろう
か。それとも、昔、いつかどこかで、植えつけられた価値観なのだろうか。ひょっとしたら、あな
たが「私の価値観だ」と思っている価値観は、その「陰」の部分によって作られた価値観かもし
れない。(以上、01年記「子育て雑談」)
(付記)
このところ、日本人の意識そのものが、大きく変わりつつある。旧来型の出世主義から、実
力主義へ。それに権威主義も、音をたてて崩れ始めている。そういう意味では、ここに書いた
ことは、実情には、合わなくなっているかもしれない。あくまでも、参考に。
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※
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Last updated 2024.12.29 17:10:21
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