『とんとこひ・セクスアリテ』

June 30, 2005
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カテゴリ: ヒジリ地名図鑑




『ヒジリの精神史』赤坂憲雄氏(『いくつもの日本5』より)








『毛坊主考』
柳田國男




・・・いかんせん諸国に散在するヒジリという部落はあまり感心した階級ではなかった。現に紀州の中にも三昧聖(さんまいひじり)とていわゆる隠坊(おんぼう)の類なる一族もあった。日高郡東内原村大字萩原のヒジリなども人の賤しむ部落であった。三昧聖の三昧は墓地のことであろう。すなわちこの徒も し骸の取片付けを役としたのだる。大阪にもこの類の者がいた。・・・しかし必ずしもこの類の職務には限られてなかった。『職人尽歌合』には墓露(ぼろ)のことを馬聖(うまひじり)と言っている。



・・・紀州熊野でハチまたはハチンボという階級はシクの下エタの上におかれていてその婦人はあるいは口寄巫(くちよせみこ)を業としている。

伊賀では隠坊のことをハチといい土師(はじ)と書いたものがあった。穢多ではあるが昔は僧形であったという。この点はまだすこしく疑わしい。・・・
竹細工をもって渡世とし・・・百姓町人とは縁組はせざれども穢多非人の類にはあらずとある。・・・

伯州のハチヤは・・・穢多ではないと言われたが、もちろん番太(ばんた)専業ではこれだけの人口は食えぬから他の職もいろいろあったろう。・・・
この領内では茶筅と鉢屋とは同じものである。牢番を職とし取扱いは穢多に近い。・・・



伊勢のシュクなどは平民と通婚こそはせぬが、穢多やササラのごとく低い者とは考えられず、次第に普通人と接近して区別がなくなった。すなわちこの県ではシュクはもはや特殊部落ではないのである。・・・

いわゆる新平民を村はずれの悪い処に住ませることは、全国一般の現象であるのに、ひとり近畿諸国の一種類にのみシュクの者の称があるのは、あるいは反対者の物言いの種かも知れぬから・・・
宮崎県の特殊部落調に・・・
伊予の隣の土佐国でも、古くより宿神あって、また穢多の氏神であった。・・・


自分はこれまでの数章においていわゆる特殊部落を特殊ならしめた主たる原因は境遇であることを力説したつもりである。夙もヒジリだ、鉦打もヒジリだ、と何でもかでもヒジリにすることは、あまりに題目に熱中すると危ぶむ人があるかも知れぬ。しかし・・・



自分は毛坊主の前身がヒジリであることを述べた。・・・

最後にこれが類例として数うべきものは院内という特殊部落のことである。・・・これは三河国院内村より出た者ゆえにこの名があるという。三河の院内村はすなわち有名なる三河万歳の本土である。・・・



(「郷土研究」大正三年三月~四年二月)















『俗聖沿革史』柳田國男



・・・日本中世の国情は、この種の人を多数に作り出すに適していたのである。俗ヒジリに対立して僧ヒジリとも名づくべき者ももとより数多くあったが、近世に至ってはヒジリは僧侶の中の特に徳の高い者を斥していうようになった。・・・

この名称の起こりはそれほど単純なものではなかったようである。
まずヒジリという語が最も盛んに用いられた鎌倉時代の前後について言うと、 ヒジリはすなわち浄行僧の別名であって 、上人というのもまったく同意味であった。・・・



『沙石集』の中に・・・独身生活をするのを「ひじる」などといってみたのである。・・・
これは要するにある時代に限って、ことにヒジリの独身生活に重きをおいたという事実を示すまでであって、・・・いくらも経たらぬ時代に、・・・『梁塵秘抄』の二の巻にはヒジリの好むものという歌がある。・・・





木蓮子(もくれんじ)の数珠を携え、苔の衣で岩窟の中に修行をするヒジリは、すなわち我々のいう山伏である。・・・
かくのごとく世間的には最も賤しい服装をして、低い境遇に甘んじ、しかも熱心に念仏の信仰を宣伝してあった一種のヒジリが、田舎には多かったとある。・・・


高野山の麓の村里には、さらに一種のヒジリが近い頃まで住んでいた。・・・家を構える以上は生業がなければならぬが、・・・この地方においてヒジリと称し、たとい農作をもって主たる活計としていても、なお常民が縁組を躊躇する一種の家は必ず別に特殊なる職業を兼ねていた。・・・



紀州北境のヒジリ村については『緘石録(かんせきろく)』という随筆にオンボウはすなわち焼亡師(しょもじ)であるといっている。ショモジは普通には唱門師と書き、・・・おそらくはどこかでか・・・唱門師にして火葬を掌っていた者があったからいうのであろう。・・・



備中地方には死人の取扱いをするオンボウを、俗に茶筅(ちゃせん)と呼んでいた村が少なくなかった。・・・



関東の平原においては、カネウチというのが一派の俗聖であった。・・・文字では鉦打・・・などと書いている。これを表向の文書には、被慈利と書いてヒジリと呼んでいる。すなわち高野山でヒジリを非事吏と書いていたと同じく、聖の字を付与するのは上等過ぎるゆえに、便宜このような当て字を誰かが発明したもので、こじつけには違いないが、仏法の慈悲利益を被る者という意味に、解釈させようとした努力の痕は窺がわれる。・・・


(「中央仏教」大正十年一月~五月)





「あしびきの 山に行きけむ山びとの心も知らず。やまびとや、誰(舎人親王----万葉集巻二十)
この歌では、元正天皇がやまびとであり、同時に山郷山村(添上郡)の住民が、奈良宮廷の祭りに来るやまびとであつた。この二つの異義同音の語に興味を持つたのだ。仙はやまびととも訓ずるが、「いろは字類抄」にはいきぼとけとも訓んでいる。いきぼとけの方が上皇で、山の神人の方が、山村の山の神であり、山人でもある村人であつた」
(『ほうとする話』折口信夫)


日本の神の原型をマレビトにみる折口は、天皇とマレビトを関連づけねばならなくなる。・・・
折口にとって、天皇をマレビトとしてとらえることは、天皇の神性を確信することであった。しかしそれは他方、天皇をホカヒビトと同系統に置くことでもあった。 したがって折口の天皇観は、その意図はともかく、当時の状況からすれば不敬罪に値するほどのものであった。・・・

近代日本思想体系『折口信夫集』の解説(廣末保さん)



まず定住者と漂泊者を分け、定住者の中に常民とエリートを分ける。常民、エリート、漂泊者が、柳田の階層分化の三極構造だと考えられる。・・・すくなくともこれまでの日本社会の歴史はそのようなものであった、と柳田は考えていたのだと思う。階級史観とはかなり遠い考えである。・・・

毛坊主の起源を辿ってゆくうちに、柳田は被差別部落の問題につきあたった 。・・・

『毛坊主考』の中で柳田は・・・毛坊主をはじめとして歩き巫女、男巫、山伏、修験者、唱門師など信仰に関係のあるものから、茶筅売、ササラ、革屋、籠屋、番太、傀儡師、鳥追、万才、猿廻などの職人、遊芸師からホイト(乞食)にいたるまでの・・・あらゆる種々雑多な職業を、被差別部落と同列に扱っているのである。その理由は、差別が漂泊と結びついており、いかにいわれないものであるかを示すためだという。もともとは常民であったものが、なにかの理由で移動民となり、その一部が悪い条件で定着させられたために起こったことなのだから、ふたたび常民にくりいれて、常民として遇すればよいという主張なのである。・・・

近代日本思想体系『柳田國男集』の解説(鶴見和子さん)



あるものは首斬りであった先祖のことを語り、あるものは金持で金貸しをしていたといい、またあるものは、先祖が世直し一揆に参加したという話をする。またあるものは、昔は侍であったといい、またあるものは一般から分かれて分家して部落に来たともいう。柴田道子は、これらの話を聞いていると、「大昔から部落民という人種がいたわけではなく・・・」がわかると書いている。


柴田道子は・・・英文学出身の児童文学者で「本気で部落解放のことを考えている」(部落開放同盟長野県連書記長のことば)人である。・・・彼女の聞き書きをよむと、被差別部落の人々は、固定した身分というよりも、常民又はエリートからなにかの事情で、移動した人々であることがわかる。柳田の、エリート→常民→漂泊民(その中に被差別部落が含まれる)という移動の仮説は、今日でもためすことができる。・・・


差別に対する柳田の分析に弱点があるとすれば、もともと被差別部落は常民であるから、常民にかえればよいという解決策の楽天的にすぎる点である。・・・被差別部落が常民に融和することを望むのではなく、むしろ、常民が被差別部落に、どのように自己を同化させうるかを、柴田道子は探求しているように見える。・・・柳田をもって、柳田をのりこえるという方向に向って、その仕事をうけつぎ発展させることが有望な道だとわたしは考える。

近代日本思想体系『柳田國男集』の解説(鶴見和子さん)








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Last updated  March 11, 2008 10:47:13 AM コメント(4) | コメントを書く
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