『とんとこひ・セクスアリテ』

November 19, 2005
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中世~戦国時代、猿楽師、節季候に限らず、賤民身分に生まれてきた子は必ずしも、親の職業を継いでいなかったようだ。





猿楽師

猿楽師  (さるがくし)



「大久保長安(金春流猿楽の血をひく二代目大蔵太夫信安の子)は金春流から出た大蔵流の家元の子どもだが、武士となって武田信玄に仕え、武田家滅亡と共に徳川家の代官となった男である。
 関ヶ原以後、石見銀山の銀山奉行となり、今までの採鉱量の十数倍という驚くべき銀を掘り出し、一気に家康の代官頭に上った。
 以後、佐渡・伊豆の金銀奉行を兼ね、大和を中心に西国の代官頭をつとめ『天下の惣代官』と呼ばれた。

 死後床下から七十万両という莫大な金銀が発見され、謀反の企みあり、と云うことで・・・長安の遺児たちのうち男子七人は既に捕えられ、ばらばらに譜代大名たちにあずけられているが、その閨閥関係だけ眺めても尋常ならざる拡がりがある。
 長男藤十郎は信州松本八万石石川康長の娘を妻としている。
 次男藤二郎の妻は播磨、備前で八十万石を領する池田輝政の娘だ。
 三男健之助は場ウ府の閣老青山図書助成重の養子になっていたし、
 六男右京の妻は、家康の第六子で越後福島七十五万石松平忠輝の城代家老として川中島二万石を領する花井三九郎吉成の娘だ。・・・」

隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より



(猿楽師の)大蔵夫七郎が子供二人を武士にした理由は何だったのだろうか。残された記録は一切なく、今となっては推量するしかないが・・・

 戦国期の武将たちにとって、これら『公界(くがい)往来人』又は『道々の者』くらい始末に負えぬ者はなかった。彼等にとって領国の国境いは重要である。・・・その国境いをこれら『公界往来人』たちは軽々と越えてゆく。・・・

 武将たちがその城下町にひとしく職人町を作ったのは・・・『公界往来人』たる職人を一ヵ所に定住させ、束縛するためであった。

 同じ『公界往来人』として、・・・見すごすことが大蔵夫七郎には出来なかったのではないか。だが一介の猿楽師では、いかに主君が天下をとったところで、彼等の身の上を救う力はない。その力を持つには武士になるのしかない。それが七郎の本心だったのではないか。

隆慶一郎氏『捨て童子松平忠輝』より



節季候  (せきぞろ)




「世良田二郎三郎元信は、ものごころのついた時は府中(後の駿府、今の静岡市)の宮の前(みやのさき)町にいた。・・・父母ともに死んだわけではなく、父は加持祈祷を世すぎとして旅から旅を重ねる漂泊の徒であり、母は自分を産むとすぐ、他家へ嫁ついでいったという。・・・

 宮の前町というのは、ささら者の住む町だった。ささら者とは本来説教師である。この説教とは説教節である。『山椒大夫』や『石童丸』『百合若』などの語り物のことだ。
 祭りの日などに、寺社の境内や門前で、竹の先を細かく割った『ささら』をじゃらじゃらすり鳴らしながら、この説教を語る者を説教師といい、『ささら者』という。もともとは祭りから祭りを追って諸国をわたり歩く漂泊の芸人だったのが、いつ頃からかこの町に定着するようになったらしい。
 一所に定着しては、説教師だけでは喰ってゆけない。だから、この宮の前町の『ささら者』たちは、今川時代から牢番をつとめたというし、また灯心、付木などの専売を許されていたという。
 歳の暮になると『ささら者』の女たちは、笠の上に裏白の葉としめ飾りをつけたものをかぶり、八寸の破竹を叩きながら『節季候(せきぞろう)』という次のような唄をうたって市中を歩き、銭を集めたという。

 さっても、めでたい、節季候、御佳例替わらず、檀那の御庭へ、飛び込め、はね込め、サッサとござれや、節季候

 そんな町の子供たちが生命力が強く、敏捷で喧嘩好きなのは当然である。生き残ってゆきにはしぶとさしかないのである。・・・」
隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より



「国松(二郎三郎の幼名)が人買い又右衛門に売られた先は、酒井常光坊という・・・いわゆる『願人(がんにん)坊主』である。
 願人とは本来勧進聖(かんじんひじり)と呼ばれた人々のことだ。
 この人々は、奈良・平安の昔から、小は一つの寺の仏像や鐘をつくるために、・・・大は橋を架け、港をつくるために、全国を行脚し、人々の喜捨を仰いで廻ったものである。だがこうして集める金の額はたかがしれている。
 そのため後代になると、時の権力と手を結んで、ある時は関を設けて通行料をとり、ある時は・・・確かにこの方が早く莫大な鐘は集るが、権力と結びつくという点が、本来の勧進の意味からはずれている。・・・嘗て日蓮が 鎌倉七道に木戸を構えて銭をとりたてた良寛上人忍性(にんしょう)を非難攻撃したのもこのためだ。
 しかし現実的に考えれば、莫大な金を集める者の方が世俗的な力をもつのは当然の成り行きで、やがて一匹狼的な勧進聖は卑小化し、遂に『願人坊主』などと軽蔑される境遇に落ちていった。」

隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より



「・・・『願人坊主』にはもう一つ役割があった。諸国隠密稼業、つまり情報蒐集業である。
時代はあたかも戦国。・・・正確な情報は何よりも価値があった。そして情報を集めるには、この『願人坊主』のような漂泊の民が一番便利な地位にいた。

 中世からこの時代にかけて、全国を漂泊してなりわいをたてて歩く多くの人々がいた。『道々の者』『道々の輩』『公界人(くかいにん)』又は『公界往来人』と呼ばれ、時に『渡り』と呼ばれたが、この人々のほとんどが『天皇供御人』(なんらかの形で天皇に奉仕する人々)か、神社の神人(じにん)、寺の寄人の肩書をもち、『諸国往反(おうばん)勝手』という特権を与えられていた。
 これは敵対関係にある大名相互の土地にも自由に出入りが出来るし、関所や川、港でも、咎められることなく、金を払う必要もないという特権である。
 どうしてそんなことが出来たかというと、彼等が『無縁』だったからだ。つまり俗世間とは縁を切られて、一切の利害関係をもたない、中立の人間だったからだ。
 この時代、戦国大名同士の戦いの仲裁人として必ずといっていいくらい僧侶が出て来るが、それは殆どが無縁の『公界僧』である。・・・『願人坊主』にはそれほどの力はなかったが、その同類だったことに間違いはない。」

隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より



「『道々の者』の特性は、その漂泊性のほかに『上ナシ』の心であるといわれる。『上ナシ』とは自分の上に他人を認めない、自分が誰かに使われるのを好まないということだ。・・・

 だから成人すると酒井常光坊も捨てた。自ら世良田二郎三郎と名乗り、純粋に一匹狼の野武士になった。当時の野武士は野盗ではない。・・・本来は傭兵である。きまった大将を持たず平時はぶらぶらしていて、いくさが始まるとどちらかに、金で傭われて槍働きをするのがそのなりわいである。」

隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より



「・・・永禄(一五六三)九月、二郎三郎の人生を一変させる事件が起こった。三河一向一揆である。・・・
 一向一揆を単なる宗教上の戦いと考えることは間違いである。・・・およそこの時期から三十数年間にわたって、一向一揆は天下を統一しようとする時の政権と執拗無残な戦いを繰りひろげることになるのだが、この戦いは、乱暴ないい方をすれば、『自由』の『統制』に対する抵抗の戦いであったということが出来る。
『道々の者』の特徴は『上ナシ』の心だったと先に書いたが、当時の農民も同じ心の傾斜をもっていた。
・・・検地などという余計なことをして貰いたくない。検地とは税金を取り立てるための方便だからだ。・・・土地を捨て、税金のない土地へゆくか、流浪して『道々の者』の仲間に入ってやる。・・・

隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より



「事実、この土地を捨てる行為を『逃散(ちょうさん)』といい、中世からこの頃まで、農民の国主・守護・大名に対する最も有力な抵抗の手段だったのである。
 こうして『主ヲモタジモタジトスル』農民たちと、『上ナシ』を生活条件とする『道々の者』たちが、自然に集ってゆく場所はどこか。それは『(権力)不入ノ地』といわれた『公界』か、同様に世俗の権力の入らない『寺内(じない)』である。
 堺の町、桑名の港などがこの『公界』に当り、摂津三島郡(現在の高槻市)の富田(とんだ)、伊勢の長島などが『寺内』になる。・・・

隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より





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Last updated  November 29, 2005 11:34:35 AM
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