全3件 (3件中 1-3件目)
1
「ねえ、きみ」とうしろから声がした。振り向くとそこには大きな男が立っていた。大きな男。2mほどの背丈と、木の幹のようにがっしりとした体。黒いシルクハットを深く被っているせいで、僕には彼の口元しか確認することができなかった。渇いてはいるけれど決して絶望的でない唇が自然に曲がっていた。不精鬚が見えたが、それはおそらくある程度整えられた、計画的な不精鬚だった。僕は彼の頭からつま先まで観察し、黙った。「名前は?」と、極めて計画的な不精鬚を生やした巨大な男は僕に訊ねた。「知らないです。僕は自分の名前なんか知らない」、とんだ冗談。しかし僕は彼に自分の名前を教えることを恐れた。彼はそういった表現しづらい類の、いわば袋小路にあるゴミ置き場の端に置き去りにされた埃、のような威圧感を持っていた。「そうか」と男は言った。「ともかく、今から三分後に地震が来るよ」「え?」と、中途半端に裏返った声を上げた。社会における「僕」は、どんな状況下でも決して焦ったりしない、冷静で沈着な人間だった。しかし僕はいとも簡単に自らの混乱を露呈してしてしまっている。個性を失うというのは、ある意味ではその事物の本質を消すことになる。ある意味では(それは実に多面的な場合で)、僕の本質はゴミ置き場の端で雨に降られた埃のように溶け、消えてしまう。「あと二分で地震が来るよ」と地震男は言った。彼のその直立ぶりは実に機械的で冷ややかだった。しかし弁慶の動物的な直立よりはずっと素直で堅実に見えた。僕は取り乱している、と僕は思った。こうしてじたばたとしているうちに雨が降ってきて、僕は溺れながら消えてしまう。消えるとどこに行くんだろう?消滅に行き先なんてないよ、と僕は思った。消滅のトンネルを抜けると、そこにあるのは消滅だ。断続的に白い世界は生きつづける。そしてある意味では死に続ける。実に多面的に死に続ける。「あと一分、震度は2ぐらいだから、そんなに怖がることはない」と地震男は僕を慰めるように言った。トーンは変わらず機械的だった。しかし声のスピードは同情的だった。僕は心配されている。心の底がグラグラと音を立てて揺れた。今までこつこつと埋めてきた宿命的な不安と、僕はまた直面しないといけないのだろうか。震度7。頭を抱えてしゃがみ込むと地面が揺れた。微かな揺れだった。電線が多少動いたらしく、カラスの黒い羽音が聞こえた。心の底が揺れ続けている。今まで宿命的な切り傷を覆ってきたかさぶたはベリベリとはがされ、静かに分解された。血小板というのは、個々では屑のようなものだ。それらは切り傷から外の宇宙に排泄された。止まらない揺れに呼応するかのように、大きな古傷からは生臭くて赤黒い血が大量に流れた。グラグラ、ドクドク、グラグラ、ドクドク。「それじゃあ、また来るよ」と地震男の声がした。それからコツコツという靴音がした。だんだん小さくなって、それにつれて心の底の揺れも収まった。僕は裸になっていた。中核を除くすべては僕から失われた。果肉の失われた梅の種ような気分になった。紙の失われたトイレットペーパーの芯のような気分になった。顔をあげて立ち上がった。あれ?と僕は口に出した。体が軽くなっていた。まるで月にいるようだな、と、月に行ったことのない僕は思った。スタートラインが常にゴールラインと重なっているように、損失はいつでも何らかの収益につながっている。たくさんのドーナツが空に浮かんでいる。だからこそ、地球は太陽の周りを上手に回れるのだ。*そこここにナイフが見える。けれども僕は肩の力を抜く。どん底、はまだまだ先にある。そして死、もまだまだ先にある。僕はコーヒーを飲みながら、音楽を聴きながら、本を読みながらしっかり待ちつづける。
2007.09.12
コメント(1)
モバ「イス川」、長編挑戦中。最近PCに座る時間ないです。
2007.09.07
コメント(1)
「愛してるわ」と女は言った。僕は彼女のことを見たことがなかった。「僕も愛してます」と僕は言った。夕立雲が西の夕焼けに見えた。夏の暮れ独特の雨の匂いが、飛行機雲の中にちらほらと光った。女は小さめのスーツを見事に着こなしていた。背筋が伸びていて、半透明の黒いサングラスをかけていた。コツコツと軽快な音を響かせて、公園のベンチで本を読む僕の前で立ち止まったのだ。「私、あなたのことを愛してるわ」「ええ、僕も愛していますよ」と僕は言った。夏の終わりには恋に燃える人間があふれるほどいることを僕は知っていたし、それに今の僕にそういった言葉を言えなくする何かは、残念ながら存在していなかった。「何を読んでいるの?」「フロイトです」「生きることの意味と価値について問いかけるようになると、我々は狂ってしまう。なにしろ意味も価値も客観的に実在するものではないのだから」と女は言った。「私もそう思うわ。あなたはどう思う?」「僕ですか?」「そうよ」「僕は何も言うことはできません。それに何も考えつきません。きっとこの世界から見放されてしまったんでしょうね。僕は宇宙からこの星を見ているのです。『人間が人間の生活を客観的に見ようとしている』世界を、僕は客観的に見ている、だから…」僕は言葉をとめた。途中で自分が何を言っているのか分からなくなってしまった。「あなた面白いわ」と女は無表情で言った。ほどよく化粧された鼻はまるで丁寧に手入れされた造花みたいだった。しっかりと自信を持って鼻はそこにあった。日本人のものにしてはずいぶん高かったが、欧米人のそれのように角のある攻撃的なものではなく、丸みを帯びた美しい無駄なもの、という表現が適当そうな鼻だった。無駄、と言われるものは、ある場合には美しい芸術性を秘めている。「続きが聞きたいわ。あなたは客観的に見ているから?」「僕は客観的に見ているから、何を言う権利も持たないのです。それは僕の考えが正しいのかそうじゃないのかが分からないからです。しかし客観的に見ることのできる立場を得たのと同時に、僕は思考することができなくなってしまいました。それはおそらく、本来人間はそのような立場になるべきではないからです。よって僕は世界の流れを見る目を、厳密に言えば世界の流れを認識してそれに対する考えを持つ能力を失いました」「核心的盲目」と女は言った。「シンディー・リチャードよ」「核心的盲目」と僕はその言葉をしっかりと脳みそにしみこませるために繰り返した。「簡単に言えばそういうことですね」「そんなことよりあなた、今から一緒にディナーでもどう?」と女は言った。「いいですね、僕はあなたを愛していますから」と僕は言った。カラスが喚く。風が吹く。そして雨が降ってくる。「ねえ」と彼女は傘を開きながら言った。「あなたはまだ世界から見放されてなんかいないわ」
2007.09.01
コメント(2)
全3件 (3件中 1-3件目)
1

![]()
