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1
僕は寝ながらにして、僕の体がいつものようにベッドの上にあることを認識している。そして世界における闇の支配率を感じ、大体の時刻を把握している。午前三時あたりであろう。どこにあるのか分からない時計の音が心臓の真ん中から聞こえる。秒針が血液を止めることなく体内に流し、僕はその動きに合わせて静かに呼吸をする。 時間におけるある一点を境に、意識は徐々に肉体から剥離していく。乾燥した皮膚のようにそれは剥がれ、気が遠くなるほどゆっくりと解体を進める。 一切の乱れは生じない。空気は波を立てずに息を止め続け、僕の肉体は真夜中の生命維持に最低限のエネルギーを費やす。秒針は退屈そうに回り、部屋は沈黙を守る。 やがて、意識は完全に肉体とは別の存在になる。ベッドに横たわる塊の上をふわふわとしばらく浮き続け、意識は今度は分裂を開始する。その動きもまたゆっくりと進められるが、剥離のような過度な慎重さはそこには見受けられない。海苔を、折り目を付けずに破るような分裂は、確実にその速さを強め、ついにそこに二つの意識としての僕を生む。 片方の意識はゆらゆらと沈みながら消えてゆく。もう片方の意識は、同じ動きをしながら、天井を突き抜け上にのぼってゆく。 意識との分裂を終えた肉体は変わらず呼吸をゆっくりと続け、夜の闇は変わらず部屋を満たし続ける。 * 片方の意識としての僕は、深海に沈んでいる。ゆっくりではあるが幅の大きい、重い波にゆらされて、徐々に浮遊をし始める。しかし僕自身は動こうとしない。全てを流れに任せ、口をつぐんで水面があると思われる方向を見上げる。闇。紫色の闇が視界を満たして、僕はわずかな震えの存在を確信する。 * もう片方の意識としての僕は、空に浮かんでいる。真っ暗な雲の下にはおそらく地面があって、僕の頭上には地球以外の何かが存在しているはずだ。しかし僕は上に何があるのかを正確に確認することができない。視点を変えたところで、それはぼやけて霞んで、雲の色となんら違いのない闇が浮かんでいるようにしか見えない。何かの気配は感じる。 僕はなんのきっかけもなく、いつの間にか落下を始める。落下とは呼べない、ゆるやかな落下を。 * 肉体としての僕。 時計は間もなく四時を知らせるのではないだろうか、と僕は思う。しかしそれは正確な意味での思う、ではなく、おそらく無意識的に、本能的にそう感じているのだと考える。 四時を知らせる、というのも、正確な意味での知らせる、ではない。時間も正確ではない。全てが歪み、部屋とベッドと肉体のみが、絶対的な意味を持って存在している。それ以外の何かを信用すると、きっと世界はヒビの入った洗面器に注ぎ込まれたシャワーの水のように、深い深い淵に落ちるだろう。 時間は確実に経過していく。 * 深海を揺れる意識としての僕は、相変わらず不規則なペースで水面を目指している。時間の経過と共に、わずかずつではあるけれど圧力が小さくなり、そして海の生物も姿を見せるようになる。目の無い深海魚が通り過ぎて、正体のつかめない巨大な黒い影が僕の背後を横切っていく。でも全ては僕の存在に気付くことなく、いつもと変わらない動きをしている。 あるいは僕は存在しないのかもしれない。しかし確かに僕は水の圧力を感じ、波の静けさを感じている。存在しながらも、存在していないのだ。僕は意識としてのため息をつく。気泡は生まれない。沈黙は破れない。 * 空。雲が少しずついなくなっている。言い方を変えれば、僕は間違いなく、緩やかな降下を進めている。鳥の羽のようにひらひらと揺れながら、僕の意識は風に乗って地面を目指す。 雲がいなくなると、薄い空気の膜を通して夜の街が見えてくる。ネオンの海と化した街ではあるものの、それは確かに美しい光景であった。海を行く大型客船、高速に列を作るトラック、この時間になっても息をし続ける街は、ある意味では昼間よりも活発で生き生きとしているようにさえ見える。 なおも僕は落下を続ける。なおも地球は僕を求める。 * 僕は今、三つのパーツに分かれている。しかしどこに本当の自分がいるのか、僕には分からない。どこにある自分が物事を考え、光や熱を感覚としてとらえているのか、僕は異様な内容の三角形の中心で戸惑う。僕という存在は今どこにあり、何をしているのか。混乱はやがて怒りに変わり、頭を散々掻き毟り血だらけになった末に、それが悲しみに変わるのを見る。自分はここにあるはず。重さも感じる。しかし肝心の統一感がない。バラバラになったパーツは神秘的な動きをし続けるだけで、何も示唆しようとしない。あるいは、僕は“僕ら”が何を言おうとしているのか、理解できないでいるのだろうか。考え、混乱し、傷つけ、泣く。絶望的なサイクルを死ぬまで続けるのかと思うと、僕はまた混乱する。そして、また、回る。 * 肉体は影を落とさずに、暗闇の中で息を潜めている。秒針は一種の表現手段として12の文字を指し、午前五時の到来を呼びかける。 少しずつ空気が動き始めると、闇の終わりが近づいているのを感覚のかけらとして感じる。しかし僕はまだ、絶望のぬかるみにはまり込み、真っ暗闇を見上げてある喪失感に心をとらわれている。どちらにせよ、夜明けは近い。 * 深海の僕は急速に浮上スピードを速める。それはわざとではなく、海がそのように促すのだ。波が小さく頻繁になり、生物も多く視界に映るようになる。僕は方向的に上であるはずの面を見上げる。するとわずかに光の気配を感じる。カモメの声が聞こえたような気がするけれど、再び沈黙がしがみつく。 * 上空の僕は急速に落下スピードを速める。朝が近づき、地球は太い重力を取り戻し、より一層僕を求めるようになる。地平線の向こうがわずかに白み始め、僕は疲れを思い出し、安堵の息を漏らす。それからネオンの波がゆっくりと沈んでいくのを眺める。 * 心配することはない、と僕は思う。パーツは確実にその全体を取り戻そうとしているし、闇はあと少しで終わる。永続的であると思った暗黒のサイクルは地球の回転によって効力を失い、僕は今に目を開ける。確かに今の僕は多くの違和感を持って、不安定なままで中途半端な存在ではあるけれど、急がなくていいのだと思う。大抵のことは時に押し流されて元に戻り、昨日と同じ環境の中であり続ける事ができるのだから。 僕は肩の力を抜いて、疲れを癒そうとする。 * やがて太陽が昇り始める。分断されていた意識は、横たわる僕の肉体の上で当たり前のように総合し、そしてゆっくりと、落ち着いて僕の体に入り込んでいく。その儀式は僕の分からないうちに行われ、沈黙の中に根拠を消す。 僕は目を覚ます。違和感などかけらもない、快い朝。うんと伸びをして、僕は自分が確かに自分であることを確かめようと手のひらを眺める。僕は全てのパーツを取り戻したことを確認し、ゆっくりと、新しい呼吸を感じる。僕は新鮮で、僕は呼吸をしている。 次の闇まで、まだしばらく時間がある。
2008.02.13
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