浜松中納言物語 0
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「南京事件5」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。私が2回目に大虐殺記念館を訪れたのは2006年4月の事で、2ヶ月すれば建替えの為半年以上見学できなると思ったからだった。3回目に訪れた時には建物が立派になり驚いた。中国南京の子供たちは社会科の授業の一環として南京大虐殺記念館へ見学に行き感想文を書かせる。中国の歴史教科書に至っては1冊の40%を割いて旧日本軍の侵略を学び反日感情を植え付けている。コメント欄でも書いたが、南京大虐殺記念館は建築資金が無く難色を示していた中国共産党幹部は日本が設計と資金提供で建てる密約を結び建った。1983年当時中国側は記念館建設には乗り気でなく社会党から資金援助をするという事で中国共産党も納得し日本の設計と建設で1985年オープンした。社会党も村山総理が連立政権で担がれ総理になった。だが総理引退後の1996年以降社会党は見る影もない。
2012.03.18
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「桂林旅情25(完)」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。「印象・劉三姐」はチャン・イーモウ監督により映画が公開され中国で大ヒットとなり劉三姐の悲恋物語は中国の誰もが知るところとなった。上の画像は望遠で撮影しているのでブレを起こし見にくい画像だが、皆一人が一つの筏に乗り演技をする姿は感動的だった。「印象・劉三姐」の物語は「桂林旅情24」の所で少し触れた。劉家の三女である三姐は美人で心根も優しく誰からも慕われていたが地主の番頭が「掛け合い歌」に負けた事を腹いせに主人に妾にする女性がいると話す。金持ちの主人である老人は三姐を見るなり一目惚れし妾になるよう強要したが、三姐には村の「歌垣」で出会った青年に恋をしていたため断り続けた。劉家は裕福ではなく兄が金を目当てに妾になれと強く勧めるが三姐は恋人を慕っており幾度も拒絶する。だが、執拗に迫られた三姐は仕方なく「掛け合い歌」に負けたら妾になってもいいと答え「歌垣」対決が始まる。 金持ちの爺さんは三人の秀才を雇って三姐に対抗するが全て負かされ、今度は役人と結託し三姐が歌う事を禁じた。三姐は村の娘達に写真のように陣を張らせ抵抗するが追い詰められた三姐は崖から身を投じ死んでしまった。だが、三姐は水底から魚に乗って昇天し天女となり村人を守り続けたという物語で代々受け継がれて来た。これで桂林旅情は終わりとなり、明日よりは今問題の南京大虐殺記念館の写真を元に私なりに書いてみたい。ちなみに、私は南京虐殺は無かったと信じている。「中国の旅」
2012.03.13
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「桂林旅情24」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。「印象・劉三姐」のチケットを360元で購入。日本円に換算すると約6000円ほどであるが前の方がチケット代が高いのかと思ったら屋根付きの座席が一番高く650元もする。「印象・劉三姐」の「三姐」とは三女の事で広西自治区桂林に受け継がれる悲恋物語である。「歌垣」に似たような感じで、若い男女が集まり互いに求愛の歌謡を掛け合う風習が今も残る。(写真は山にライトを点け大掛かりな舞台)万葉集に「山に雪が降ったのかな~、それとも愛しい彼女が白い布を干しているのかな~」と「歌垣」に似た歌詞もあり遣唐使の時代からである。唐代から語り継がれる「劉三姐」は唐のころ広西チワン族の娘で歌と踊りが上手だったので「歌仙」と呼ばれ美人でとても人々に慕われていた。劉三姐が兄と船に乗って親戚の所へ行く途中に地主に仕える番頭が村人を苦しめているのを見かけ三姐は掛け合い歌で番頭をやり込め漁民の妹を助ける。つづく「中国の旅」
2012.03.12
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「桂林旅情23」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。夕方になると「印象劉三姐」の野外ショーを見るためにチケットを購入する事になった。初めは「印象劉三姐」と言われてもパンフレットを見せられても、どのような物語か分からなかった。出発まで2時間あったのでホテルのフロントにお願いして「劉三姐」のDVDを見せてもらった。ミュージカル風の物語だったが時間もなくなり簡単に説明をしてくれたものの意味が分からない。会場となる漓江山水劇場へ着くまでの間に二人の中国人が早口で教えて頂いたが分からない。開園までまだ時間があり山水劇場の写真を撮った。辺りは、かなり薄暗かったが数値を換え撮影した。野外ステージで漓江の山並みが目の前にあり一枚目の画像の山にライトアップされ本当に自然劇場である。会場には筏に乗った多くの若者たちが長い布を巧みに操っていたが水上での動きが乱れず目を見張るものがあったが丁度雨が降り出した。松明の火で小雨と風が吹いているのが分かる。「中国の旅」
2012.03.11
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「桂林旅情22」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。筏のあとガイドは私の前を歩こうとはせずぴったり後について歩いたために他の中国人の女性達も同じようにガイドについて歩いていた。私が振り返ると「貴方の所為ですからね」と言わんばかりの表情であったり指差す女性もいた。だが、写真の鍾乳洞へ入るとワクワクする表情に変わったり、中には「暗いからブレないようにしっかり撮りなさいよ」などと、言葉は違えども心は皆同じと思った。引率していた地元旅行社のガイドは暫し休み鍾乳洞専属のガイドが付いて説明してくれていた。蘆笛岩と呼ばれる全長2kmの巨大な鍾乳洞で800mが観光客用のルートとして許可されている。洞内には数多くの鍾乳石や石柱、また石の花が見られ七色のライトアップで幻想的である。 広大な中国の中でも桂林の蘆笛岩ほどの大きさは他に類を見ないとの説明であったが、鍾乳洞の出口の所に赤提灯が飾られており居酒屋を思い出す。「中国の旅」
2012.03.10
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「桂林旅情21」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。漓江下りの船着場から少し川沿いを見渡し石段を下り写真のような二人乗りの筏が岸に繋がれているのを見ていた。女性現地ガイドが日本人は何処へ行ったのと大きな声で探しているようだった。私が手を振りながら声を掛けると「そんな所で何やっているんですか」と「皆さんバスへ乗って貴方が最後ですよ」と声高らかに言う。バスに乗り込んでより「日本人早くしろよ」と言うので中国人からは大きな笑い声が上がった。あんな筏に乗る人なんか居るんですかねとガイドに聞くと「何言っているの、明日あの筏に乗るんですよ」と言うと、また笑い声が起こった。上の写真は筏から望遠で撮影したが鵜飼の鵜を間近で見たのは、この時が初めてだった。長良川の鵜飼は夜舟遊びした事があるので鵜匠が鵜を巧みに操り魚を獲って来るのかと思ったら鵜匠が魚を川へ投げ込み、鵜が潜って魚をくわえて上がって来ると言っていたが日本もそうなのかな。「中国の旅」
2012.03.09
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「桂林旅情20」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。陽朔のホテルで一夜を明かし朝食を食べようとバイキングレストランへ行った。大きな皿に少しずつ野菜類を載せて目玉焼きコーナーで目玉焼きが出来るのを待っていると昨晩も食事をご一緒した女性から今日は筏乗りですからご一緒して頂けませんと声を掛けられたので、宜しくとお願いした。彼女は50半ばの裕福な中国家庭の奥さんで一人旅で来ていたが、何度も食事をご馳走して頂き申し訳ないような心持ちがしていた。筏乗り場まで地元ツアーのバスで行くと沢山の二人乗りの筏が連なり泊められていた。私と女性の二人で筏に乗り込み、女性から色々と話をされるが、私はただ相づちを打つだけで、もっぱらカメラのファインダーを覗き見ながら切り取る構図を探していた。ふとカメラを太腿に乗せ、辺りの風景を見渡すと目の前には陽朔特有のパノラマに山が連なる。筏は静かに陽朔の川を下り船頭の竹竿が川面に跳ねる水の音が気持ち良さに拍車を掛けていた。「中国の旅」
2012.03.08
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「桂林旅情19」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。桂林市の漓江西岸に陽朔県があり陽朔県には秀麗な景観があるとのこと。「桂林山水」の詩に「陽朔は桂林で一番」と詠われるほどに中国内では有名な所である。 改革開放を打ち出して以来、対外開放の観光都市の第一番として、陽朔はその美しく独特の風景により多くの観光客を呼んだ。陽朔一帯の自然景観は独特であり桂林山水の真髄で精華が集まっていると言われている。張芸謀(チャン・イーモウ)監督の映画の「劉三姐」の撮影が行われた大榕樹景区も陽朔地区にあり監督指揮による大規模な山水を背景にした野外ショー「印象劉三姐」に多くの観光客が訪れている。夜に「印象劉三姐」の中国初の野外ショーを見たが野外でもあり途中から雨に降られた。写真はホテルの前の道路から街並みを撮影した。陽朔中心から少し離れているので田舎町の風情。「中国の旅」
2012.03.07
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「桂林旅情18」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。各観光地の土産屋売り場の定番商品は写真の小物入れの巾着袋であろう。桂林では桂林山水と刺繍がしてあり雲南のシーサンバンナでは西双版納と巾着袋に刺繍ミシンで地名が刺繍してある。マチが付けてある巾着や小さなポケットが付けてあるものなど3種類ほどあるようだ。巾着の価格は1袋10元(150円)と言われて買おうかなと思っていると、隣で中国人が値切り倒しているのを聞いていた。束の間の時間だったが最終4袋10元で買い私は思わず10人民元を財布に仕舞い込んだ。土産屋の人は2袋10元にするからと言っていたがあまりに衝撃的なシーンを見てニッコリ笑った。生地やデザインなどは少数民族のものであり各観光地で売る人達も少数民族の人達が多い。中国の少数民族は55民族あり、漢族と併せ56の民族で構成されているが一番多い漢族が無国籍を含まず13億人で少数民族は1億人いる。その中で一番多いチワン族が1600万人であり満州族が1000万人と回族950万人が続いている。「中国の旅」
2012.03.06
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「桂林旅情17」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。漓江から陽朔までの漓江下りを終えた後中国人ガイドから「ここからは徒歩で行きます」「出来るだけ近くまでバスを呼んでありますからまた写真ばかり撮って遅れないようにね」と釘を刺されたが、やはりシャッターを切っている。写真の記念壁飾りは少数民族の女性を刺繍で表現したものであり、少数民族のチワン族の女性の手作りで他にも沢山刺繍を施した物が並んでいた。 桂林市の人口は約480万人で少数民族は約70万人いる。桂林は多くの民族が集まって住む街で漢族以外にチワン族、ミャオ族、ヤオ族、トン族が暮らしている。この少数民族の中でも取り分け一番人口が多いのがチワン族で手織の生地を使って多種多様なデザインの服を作り女性は色とりどりのロングの巻きスカートを穿いたりウェスト切り替えのワンピースを着ている。若者は前にチャイナボタン式の中華民国時代とよく似た上着を着て腰に紐を結び肩から織物に刺繍を施したバッグを提げる事も多い。「中国の旅」
2012.03.05
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「桂林旅情16」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。2億5千年前の地殻変動によってできた無数の山が海水のひいた後に、そのまま残され出来た地形との事だが目を奪われる。漓江下りは桂林観光のハイライトで船の上から観る何百という奇峰奇巌の風景は正に壮大なパノラマであり、小雨降る中で船が進む事で風が吹き、衣服が直ぐに濡れてしまった。カメラにはビニール袋をかぶしレンズ部分のみ穴を空け出していた。他の中国人を見ると連れ合いが傘を差し出して微笑ましかった。 桂林は黄山に並び賞される中国屈指の景勝地の一つであり花鳥風月で、正に山水画の世界である。男性的な黄山、女性的な桂林と写真的には興味が尽きないが、思ったより早く陽朔へ着いた。桂林が歴史の舞台に登場するのは紀元前214年秦の始皇帝が広東と広西地方を統一し運河を造った時まで遡り、その頃の桂林は街中を漓江が流れているため「南連海域、北達中原」と呼ばれる軍事上の基地として栄えた。また宋代には広西地方の政治文化の中心地として賑いをみせていた。「中国の旅」
2012.03.04
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「桂林旅情15」「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。「では、もし船に乗る時、他の係官が発見したらどうなります」と続けて聞いたところ・・。「先程私共のチーフが書類に書き込みましたので貴方がしゃべらない限り発見されませんよ」と。どうして質問を受けて話してはいけないのだろう?その疑問に彼はこう答えた「貴方は、口が不自由で話が出来ないと明記しました」と言う。上手い方法を考え付いたものだと思い、また、あのタクシーの運転手も粋な計らいをするものだと感心した。小雨が降るデッキに立ち川風に吹かれながら目の前に繰り広がれる奇観を眺めていると不思議な気分に。下から「食事の用意が出来ましたよ!」と呼びに来てくれた。「私達には見慣れた景色でも、始めての方は感動されますね~」「早く食事にしましょうか?」と催促する。まだシャッターを切っていると「何処も同じ景色ですよ!先に行けばもっと良い景観の所が有りますよ!」私を早く下へ降ろさんがための方便とも受け止めれた。桂林は中国屈指の景勝地として中国のみならず世界から知られており「山青し、水清し、石美しく洞窟奇異なり」といわれる山水画の世界が広がる。「中国の旅」
2012.03.03
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「桂林旅情14」「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。写真は今回の桂林の旅で撮影した画像だが出来事の内容は1995年始めて一人で桂林へ来た時の事を思い出しながら書いている。現地旅行社の人は忙しそうに、小走りで列の先頭へ行ったが助手の人を私に付けてくれた。私は「ここでは中国語で話しても良いですか?」と「問題ないですが問題は船に乗るときです」と語る。彼は「8年間この仕事やってますが、初めてですよ!」「何がですか・・?」ととぼけて聞くと困ったように「日本人と同じ船に乗るとはな~・・・」と・・。 今の日中問題など起こっていない時であるので彼も深い意味合いで話したのではなく、日本からの観光客ツアーは全て旅行社が便宜を図り日本語の話せるガイドを付け、当時中国人専用の船に日本人が紛れ込みフォローをしている彼の真実の言葉だった。「もし、貴方が日本人と発見された場合、私達の責任になってしまいます」説明では「並んでいる間に私達が船会社に替わって身分証明書等検査し、その時に発見できれば切符を買い直して頂くことになります」「もし故意に乗せた事が発覚した場合、会社が罰金刑にされます」と「では、もし船に乗る時、他の係官が発見したらどうなります」と続けて聞いたところ・・。つづきは明日更新します。「中国の旅」
2012.03.02
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「桂林旅情13」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。「漓江下り」は桂林の旅で最も人気の観光スポットであり出発地の竹江が近づくにつれて奇岩奇峰を縫うようにタクシーは走った。1995年当時の事柄で今回の旅の話ではありません。船着場は幾つも有り、外国人用の船着場と中国人用の船着場と違っていたために自分が乗る船の船着場を運転手と探した。ツアーの場合にはガイドの指示に従えばよいが個人の場合は運転手も不安で「何が起こっても私は知りませんからね?」と船まで案内してくれた。私の乗る船の前の船がまだ出発してないし全てが中国人である。10分くらい待ったところで中国人2人が私の所へ来て「貴方は日本人ですね?」といきなり中国語で聞いてきたので少し驚いた。私に「日本人ですね」と声を掛けた人は運転手の友人で「偶然にもここで出会い、貴方を守ってやってくれ」と言い残したそうだ。「船着場で、係官が一人ずつ切符を確認し中国人かどうか検査しますから貴方が話せば外国人と分かってしまうので何も話さないように」「船に乗ってしまえば、何を話しても良いですから必ず守ってください」と丁寧にゆっくりと話してくれた。「中国の旅」
2012.03.01
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「桂林旅情12」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。私が18年前始めて桂林を訪れた時は桂林の空港出口にタクシーの客引きが並んでいた。駆け引きをして一番料金の安いタクシーに乗り「最後の日に漓江下りをしたい」と言った所最初に「漓江下り」を楽しんだ方が良いと言う。原因は、最後に「漓江下り」を残して、観光地を目一杯見て廻り疲れた身体で「漓江下り」をしても軽い船酔いでも景観を楽しむどころではないと言う。地元運転手の意見を聞いたほうが無難と同意した。外国人用の切符を買う段階になって売り切れており考えた末に、運転手の身分証明書で中国人用の切符を購入してほしいと頼んだが不安そうな表情をした。 今でこそ外国人と中国人の切符価格の差は半分だが当時は3分の1という安さも手伝ったのと外国人用は旅行社が押えていて、切符がなかなか取れなかった。余談だが当時の航空チケットも中国人の倍額だった。運転手からは「もし見つかっても知りませんよ!」今回の「漓江下り」は中国人現地ツアーに入り込み問題なかったが、18年前はかなり厳しかった。「中国の旅」
2012.02.29
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「桂林旅情11」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。漓江は桂林市内を南北流れ438キロあり漓江下りは桂林から陽朔までの83キロを遊覧船で下り奇峰を縫うように行く。晴れた日には川面に山が映え美しいと言うが1995年に来て以来3回共、小雨日よりであった。だが、雨の日には水墨画のような世界が現れる。私は展望デッキに上がり、雨に濡れながらもシャッターを切り続けたが「奇山秀水」の言葉通り、何とも言えない景色が続く。私の乗った遊覧船は中国人観光客用の船で全て中国語だが外国人観光客用の船で日本語のガイドがついて説明する船もある。外国人と中国人と船の料金が違うのが難点で中国人は外国人の半分の料金で乗れる。私は中国での就労証明書あるのと中国語が理解出来ないと面白さも半減してしまう。写真の女性はヨルダンから中国人に嫁いで来たと話してくれたが実に中国語が上手かった。「中国の旅」
2012.02.28
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「桂林旅情10」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。桂林独秀峰の写真画像も最終ページとなり明日よりは船に乗り漓江下りの画像になる。岩肌に彫られている「桂林山水甲天下」が一番知られている石刻であるが、上の画像は「読書岩」と書かれており423年の南北朝時代の文学者である顔延之が読書岩の下の洞窟の中で読書をしたと言い伝えが残る場所で知られる。顔延之は桂林の市長として都より赴任し後に後漢の第2代皇帝の幼き頃の教育係をした。独秀峰を有する靖江王府は明王朝の建国後10年の歳月を掛けて1393年に完成している。城壁の表には石を積み上げ固められている。東西南北にそれぞれ門が設けられている。清代に科挙の試験場として使われ、中華民国では孫文が北伐の司令部を置いたことでも知られる。現在では広西師範大学のキャンパスになっており門を出る時に広西師範大学と気付いたほどに敷地は広く自然があふれ心地良い印象だった。「中国の旅」
2012.02.27
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「桂林旅情9」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。明の第一代皇帝朱元璋は桂林の靖江王を甥の朱守謙に任命し1370年、築城した。 清代には科挙の試験場として使用され孫中山が北伐時の拠点とした事でも知られる。独秀峰は広西師範大学の敷地内にあり別名を「紫金山」とも呼び、南京の紫金山と同じである。科挙とは現在の国家公務員採用試験の受験と同じではあるが、写真でも分かる通りに試験を行う所が一人一人壁で仕切られている。私も中へ入り座ってみたが、これなら容易にカンニングが出来そうな気がした。高校の頃はカンニングする小道具を1週間前から真剣に作り、当日机の下に画鋲でスライドさせ試験官が遠ざかると引っ張り出し試験官が近付くと腹で机の中へ押し込んでいた。実際には小さな字で各教科ごとに厚紙で作りポイントを書き込んだので自然に覚えてカンニングをしなくとも問題は無かったが冷汗もののスリル感からは抜け切れなかった。「中国の旅」
2012.02.26
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「桂林旅情8」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。独秀峰の洞窟から出て孔子の廟へと向った。孔子の論語の中で誰もが知る言葉は吾十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。中国では孔子や孟子の論語の心や儒教の精神が礎となり礼儀正しい国を創り上げた。だが、文化大革命で孔子や孟子の思想は徹底的に破壊され、子供達に孔子の人形を銃で撃たせたという行為にまで発展した。現在の中国を支える50.60代の国民のほとんどが文化大革命で儒教の精神は無残に破壊され礼儀を忘れ去り、その子供達が社会に出て来ている。孔子は、過ちは仕方のないこと。過ちを犯しても改めようとしない事こそ真の過ちと説いた。また孔子は、人が自分の事を知らないことなどは気にしなくとも良い、自分自身が人の事を知らないという事を気にせよと説いている。写真の孔子の石板を背負っているのはヒイキと呼ぶ龍の1番目の子供で重きを負うことを好むと言われる。ヒイキを漢字で書くと「贔屓」で、日本では江戸時代の頃から歌舞伎で使われていたが「ご贔屓に預かり有難うございます」など現在でも多くの商売人や役者が使う言葉でもある。また贔屓の前に「依怙」を付けた「えこひいき」が龍の1番目の子供の贔屓からかどうかは分からない。「中国の旅」
2012.02.25
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「桂林旅情7」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。独秀峰の岩盤を打ち抜き造られた洞窟には60体の「太歳」が彫られており生まれ年で自分の「太歳」が決まる民間宗教である。太歳は古代中国の天文暦学において設けられ木星の鏡像となる仮想の惑星から成る。木星は古代から知られ観測されてきた。中国の文明でも神話や信仰の対象となった。 木星は天球上を西から東に約12年で1周し十二支を作り出し太歳紀年法へと進んだ。洞窟には道教が信奉する60名の星宿神が彫られており各星宿神の名前は十天干と十二地支とを用い日本でもお馴染みであり自分の生まれた太歳の前で手を合わす。洞窟内は撮影禁止でシャッターに手を乗せてもかなり大きな声で制止されるので、一旦外へ出てレリーズを付けて警備の者と会話しながらもポケットの中でシャッターを切った。下の写真は洞窟を囲う壁に空気口が開いておりそこからレンズを入れ撮影したが、案の定、後から「こらーっ!」と、私は笑うしか術がなかった。「中国の旅」
2012.02.24
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「桂林旅情6」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。独秀峰を下って行く途中の険しい岩肌に中華民国の時代に彫られた石刻が沢山見られた。かなり険しく切り立った岩肌へ一体どうやって彫ったのかと考えてしまうほど危険な場所にある。中国の山々の岩肌に文字を彫り付ける石刻は中華人民共和国成立した1949年10月1日以降暫くしてより景観を損ねる事から禁止された。「秀奪群峰」と彫られた文字の意味は、山々が連なり美しい景色だが、独秀峰は麗しく峰々の中で勝ち誇っていると解釈すればよい。「卓然独立天地閣」は桂林の山並みの中でぽつんと一つだけ立っており、またその姿は天と地にも一際優れていると詠んだ詩である。下の石刻になると書体そのものも違い私には一部分の文字しか分からない。「中国の旅」
2012.02.23
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「桂林旅情5」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。桂林に聳える山は奇峰と呼ばれ、今までにも多くの詩人を迎えて来た所である。その山並みは海抜も高くは無く今私が立つ独秀峰で70mほどの高さでしかない。だが、日本の北アルプスのように高い山でも山頂付近は別にして登山道は急ではない。明王朝時代に造られた靖江王城跡は東西に250mと南北に500m程の城壁の中に独秀峰は聳え立っている。高さ70mと大した事はないと登り始めたが西側から300段以上の石段を登って行く。石段が思ったより高さがあるので思いっきり太腿を上げて登っては休みながらまた登った。写真の藍色のリボンには「健康長寿」や「一生平安」などと書かれたリボンが登り口で販売されており、記念と祈りを託し結んであった。よく二人の愛が硬く結ばれ、離れませんようにと鍵が掛けられているが独秀峰では見掛けなかった。「中国の旅」
2012.02.22
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「桂林旅情4」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。独秀峰の近くまで来たところの岩盤には歴史のある彫り物が施されていた。「寿」と彫られているが寿の意味合いは日本と少し趣が違うようにも感じる。中国での「寿」は葬儀用や死後の物品を指して言う事が多いが、日本と同じに長寿や寿命、年配者の誕生祝いなどにも使う。独秀峰へ登り出したが思ったより急勾配で至るところに転落防止の鎖が張られていた。画像の門の扉の握り輪をくわえた動物が鎖と鎖を繋いでいたが、この動物は龍の9人の子供の9番目のショウズである。9番目に生まれたショウズは怠け者で何をやらせても働かず動こうとしない。困り果てた竜は、門の見張りをさせて暫くの間様子をみた所、全く動かないのが功を奏し神々の至る所の門番をし、後に写真のような姿になった。「中国の旅」
2012.02.21
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「桂林旅情3」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。朱元璋とは中国の明朝の創始者であり初代皇帝であり治世の年号を取って洪武帝と呼ばれ、南京で中国統一を成し遂げる。中国統一後、一族を各地に配置し明王朝の安定を図り、今の桂林も明が滅亡するまで朱守謙の子孫によって治められていた。今、その王城に来ており桂林観光の中心である独秀峰に登ろうとしている。独秀峰は南北朝の詩人の詩に詠まれ天をつくばかりに高くそびえ寂しい峰から名づけられているが、峰が聳え切り立って高くて険しく迫力があり、また雄大でもある。王城に孫中山が駐屯した跡が残されていたが孫中山は革命の父と呼ばれ日本では孫文と呼ぶ。「中国の旅」
2012.02.20
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「桂林旅情2」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。上海から午前の便で桂林空港へ着いた。私が初めて桂林を訪れたのは1995年の頃。その当時の桂林飛行場は桂林の素晴らしい山並みが滑走路から間近に見え感動した。今回訪れてみると飛行場は移転し、あの素晴らしい光景は見られず残念な思いを残した。 ホテルに早く着いてしまいフロントで聞き一人で王城独秀峰へ行って見ることにした。独秀峰は桂林市の市街の中心部にあった。明代の靖江王府であり明の朱元璋の甥の子の朱守謙が靖江王として赴任された。明が滅亡するまで桂林は朱守謙の子孫の王達によって治められていた。「中国の旅」
2012.02.19
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「桂林旅情1」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。「桂林」というと墨絵師が多く訪れ多くの大作を世に送り出して来た。その桂林が、いったい何処に在るのか20年ほど前までは知らなかった。地図で話すと桂林は広東省の西隣に位置しており15年ほど前は中国の中で取り分け桂林は物価が高い所と言われた。桂林へは四度訪れているが今回は明代に栄えた桂林の王城へ来た。桂林は広西チワン族自治区の東北部に位置し2000年以上の歴史がある都市で1100年ごろの宋代から清代までの800年間広西の政治や経済、文化の中心でもあった。中国人ならば誰もが知る「桂林山水甲天下」意味は「桂林の山水は天下一」という事である。まずは王城がある独秀峰から紹介して行こう。「中国の旅」
2012.02.18
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「アモイ市内の旅17(完)」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。昨日は早めにアモイ繁華街へ着いた。ホテルに寄りカメラバッグを置いた後、中心街にあるいつもの居酒屋に向かった。居酒屋で酒を飲む前にDVDショップへ行った。そこで中国の連続テレビドラマを買った。私の中国語学習方法の一つに中国のDVDを見て会話を覚える方法を取っていたからだ。中には四川省の方言で会話する場面などのDVDに出会ったりすると面喰ったりする。中国のDVDの場合、必ず中国語の字幕が入り聞きなれない単語が出てくると字幕の単語から辞書をタイプして意味を覚えることができる。私の買うDVDは会話の多い青春恋愛物語が多い。戦闘シーンの多いDVDも時には購入するが学習するというより娯楽のためである。今までに購入したDVDは100枚を裕に超えている。だが、日常会話に応用できる事柄は少ない。今回の旅は12日間に及んだが帰る日になった。アモイ空港にて厦門(アモイ)航空の飛行機を撮影したが、私のチケットは中国南方航空である。フライトまで待つ間、各航空会社の飛行機を眺め、ぼんやりとしていたが、椅子に座り直し中国語の単語の学習を続けた。次の更新は「南京大虐殺」の有ったという南京の市内の写真を公開したいと思う。
2011.02.14
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「アモイ市内の旅16」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイ国際マラソンの歴史は新しい。第1回の開催は2003年3月29日だった。気温は21℃で真冬のマラソンに比べると15℃も高く記録も期待できなかった。だが南国春の花が咲き乱れる海岸通りを走るランナーを応援する側に立ってみると春に行われるマラソンは人気があった。2003年から2007年までは3月末の土曜に開催されていたが、2008年を境に1月の第一土曜日に変更になった。アモイ国際マラソンの開催時期が3月末より1月頭に変更になった事で参加ランナー数に変化が生じ、8500人前後の参加数が3万人とホノルルマラソン級の参加人数になった。更には年々参加数は増え続け2009年6万人2010年7万人、2011年8万人になった。また大会記録も年々塗り変えて来ている。毎回8位以内に入るのはエチオピアやケニアの招待選手達だが記録を伸ばして来ている。男子では2時間08分07秒の大会新記録が出て女子では2時間31分49秒のタイムでゴール。マラソンの世界記録はエチオピアのセラシェの2時間03分59秒で未だ破られてはいない。女子ではイギリスのラドクリフが出した記録の2時間15分25秒だが2003年以降破られていない。中国ではスポーツで優秀な成績を収めた生徒に対し大学受験時に点数を加算する制度がある。2011年1月2日に行われたアモイ国際マラソンで、山東省の高校生による集団替え玉事件が発覚しネット上で不正を告発する書き込みが相次いだ。替え玉事件は高校生30人以上がICチップを足の速い選手に手渡し、自分の記録として登録。だが不正行為で失効処分となり受験にも影響する。
2011.02.13
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「アモイ市内の旅15」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイ国際マラソンのスタート地点はアモイ国際会議展示場からでゴールもまたアモイ国際会議展示場へ戻ってくる。北京から参加した知名度の高いランナーもアモイマラソンはかなりハードである、記録も重要だが、それより海岸線を走り、雰囲気を十分に堪能できることの方が重要だと走りぬいた後コメントした。私は日本にいる時も中国へ来てからもマラソンはニュースでしか見なかった。だが、人工的に作られたとはいえ中央分離帯に設置されたブロンズ像を大自然の中で見ているだけで胸が躍った。マラソン自体、42.195キロを走り抜ける競技であり体力を消耗する前に相当の汗を流す。特にアモイは南方に位置しているので南国の風はランナーにとって辛い闘いになる。大会に参加した中国の友人は記録なんて意識せず、ただ完走する為だけに参加したが、もう少し気温が低ければと話していたことを思い出す。
2011.02.12
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「アモイ市内の旅14」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイ国際会議ホテル前の広々としたグラウンドを後にし少し歩くと海岸へ出た。海から吹き付ける冷たい風を受けながら海岸線に造られた遊歩道を歩いた。幅10mほどある中央分離帯が続いておりその中を歩いていた所、ブロンズ像が見えて来たので撮影を始めた。更に報道カメラマンのブロンズ像達の前方を見るとマラソン選手達のブロンズ像が立っており、私は分離帯沿いに歩いて行った。マラソンランナー達のブロンズ像は1キロを過ぎても延々と続いており、等身大のブロンズ像に魅せられ歩いて行った。世界のマラソン大会の中でホノルルマラソンやニューヨークシティマラソンや東京国際マラソンなど多くのマラソンが知られている。だが参加者数は3万人前後であるのに対してアモイ国際マラソンの参加者数は8万人と多い。2011年は1月2日午前8時にスタートした。昨年は7万人で今年は8万人だった。
2011.02.11
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「アモイ市内の旅13」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイインターナショナルシーサイドホテルを出てホテル前の広場で凧上げをする家族に出会い色々と言葉を交わす事ができた。凧上げをしている最中に寝そべっていたご主人と話しをしたが何とも中国風の愚痴が多かった。ご主人は上海の人で、奥さんはアモイ地元の人だったが、中々上海へは帰省出来ないとの事。IT関係の仕事をしているとの事で普段の帰宅は夜遅くになってしまうとも話してくれた。私は、ご主人を手招きした所、何ですかと笑顔で来てくれたが、私は奥さんの視線が気になり、ゴルフクラブを持ち素振りをしてみせた。ご主人にゴルフをされるのですねと念を押した所ハイと答えたので、ゴルフボールを出しアプローチの練習を試合形式でしませんかと持ちかけた。約50mと30mの所に凧を置き、その凧にボールを近付けた方が勝つという遊びを提案した。私は21歳からゴルフコースに出ており自信はあったがこの4年間というものクラブは触ってはいなかった。だが、私がアプローチでは勝ったものの試合には勝ってはいけなかった。奥さんや子供たちやご主人まで不機嫌な思いをさせてしまい気まずい思いをした。
2011.02.10
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「アモイ市内の旅12」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイ国際貿易会議ホテルの中へ入りカメラを構えると、写真撮影は禁止ですとホテルの副支配人が手を横に振り現れた。ロビーは撮影せず花だけ撮影させてほしいとお願いしたが首を縦には振ってはもらえない。折角中へ入ったので何とか撮影したく3分間で撮影する事と撮影後画像を見せる条件を提案して許可を取り付けた。ロビーの配置やフロントの撮影はせずに花の中で水仙とツツジ・胡蝶蘭を撮影した。花の名前は余り知らないが水仙と胡蝶蘭やツツジ位は知っていたので、その花の近くへ行き露出優先にし構図を決め素早く撮影した。撮影している間の短い時間、副支配人は私の後ろにピッタリ着いて歩いてきた。撮影を終え時計を見ると4分程経っていた。私はモニターを見せるため手招きをした。副支配人は案内係の女性に指図してあったのかお茶を持って来させソファーに座るよう促した。私がモニターを見せると、見なくても結構とお茶を一緒に飲みましょうと私に勧めた。10分程会話をしたが、時折流暢でない日本語を話してくれたりもし、握手を交わして外へ出た。写真の水仙を「雪中花」と呼び、花言葉は自己愛・自惚れ・うぬぼれ・神秘・プライド。ツツジは細長いプランターに植えてあった。花言葉は、愛の喜び・節制や情熱・初恋など。胡蝶蘭の花言葉は「幸せが飛んでくる」とか「あなたを愛しています」や「機敏な人」。私は、胡蝶蘭を買った事はないので幾らするかは知らないが高級な贈り物の印象がある。
2011.02.08
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「アモイ市内の旅11」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。写真はアモイ国際シーサイドホテルである。ここへ来るまでのバスの中でも昨日のレストランでの事柄を思い浮かべていた。別荘レストランが昼の休憩に入ったためにオーダーを断られたものの何でもよいからと半ば無理やりお願いし食べさせてもらった。満腹になり先ほどの無礼を許してもらおうと謝罪をし勘定を払おうとしたが、結構ですと受け取っては下さらないので店で売っている土産物を買い丁寧にお辞儀をして外へ出た。来るときはバスを乗り継ぎ、挙句の果て行く方向を間違えて乗車してしまい予定より2時間弱遅れで博物館へ着いた。帰りもバスを乗り継ぎ帰ろうと思っていたが面倒になった私は帰りはタクシーにしようと20分程待ったが、だがタクシーが全然来ない。来たと思って手を挙げても人が乗っていた。こんなふうならバスにすればよかったと後悔。思い直しバス停へ向け歩き出したところへ空のタクシーが虚しく通り過ぎて行った。写真はアモイで貿易国際会議に使われたホテル。
2011.02.08
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「アモイ市内の旅10」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。昨日はアモイ海滄大橋の橋梁博物館に午前11時頃に入り午後2時頃までいた。博物館の人に昼食を取りたいが近くに食事をする所がないものか聞いてみた。だが近くには食事をするところはないとのことだったので、このまま帰ろうかと思ったが別荘のレストランが浮かんだ。橋梁博物館近くの別荘のレストランへ行きランチを食べさせて頂けないか交渉した。だがコックさんが既に休憩に入っており満足なものが出来ないと断られた。私から「ごはん」は有るか聞いたところライスはたくさんあるとの事で、おかずは残り物で良いからとお願いした。ライスとビーフに野菜の炒めものとスープを出して頂いたが、お金は残り物だからと取らなかった。何度もお金を手渡そうとしたが残り物だからとお金は受け取って下さらなかった。写真はアモイ国際シーサイドホテルで、アモイ最終日朝より市バスを乗り継ぎ訪れた。
2011.02.07
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「アモイ市内の旅9」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。博物館の中には建設工事の写真がたくさん掲示されていた。興味深かったのは工事の作業員達が描いた絵の佳作以上の作品が展示されその絵を見ているだけでも感動を覚えた。 階上に上がりガラス張りのテラスから港を眺めるとクレーンが並んでいた。クレーンは陸揚げに使われているのだが40フィートコンテナを船から陸揚げしていた。博物館のガラス張りのショーケースに展示されている工作物を撮影した。工事に使われたと思われるボルトやナット・ワッシャーなどを組み合わせたボルト人形が展示されており心惹かれた。ボルトやナットをバラバラにすれば、きっと何でもない金属の冷たさしか感じられないだろう。だが、このように同じ金属であっても組み立てると妙に愛嬌があって温か味さえ感じるから不思議である。
2011.02.06
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「アモイ市内の旅8」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイ島と海滄区とを結ぶ海滄大橋。第8次5ヵ年計画では155億ドルの赤字が出たものの第9次5ヵ年計画期の後半には1億ドルの黒字に転じている。第9次5ヵ年計画は1996年~2000年まででこの5ヵ年計画の中に組み込まれたのが全長6キロの海滄大橋の建設であった。江沢民がアモイと海滄へ訪れたのは1994年の事で当時、アモイ港へ陸揚げされた貿易資材を海滄まで運ぶには交通の便が悪く迂回するか渡し船を利用するしかなかった。アモイ島から対岸に見える海滄は近くて遠いイメージがあったが海滄大橋が完成して大きく変わった。海滄大橋は橋脚を利用しワイヤーで吊り上げた橋であるがワイヤーの太さは直径5.7センチでその中に5ミリほどの太さのワイヤーが120本ほど詰まっている。鋼鉄のワイヤーに30m間隔でワイヤーと橋の欄干を吊り下げている。車で走行したがとても吊り橋とは感じない。
2011.02.05
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「アモイ市内の旅7」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。橋梁博物館には、海滄大橋建設の設計を紹介する模型があり、また百年間の橋梁建築に関する資料コーナーもある。海滄大橋の高さは橋の下を船が通るようになっているので、かなり高い。 海滄大橋は、中国独自の技術だけで建設されたのではなく、日本からの無償技術協力のもと出来上がった。船が通り抜けるゲートの部分の強度はたとえ船が衝突したとしても問題ない。また、震度7級の地震にも耐えれる。その上、空港が近くにあるのでゲートを開けた時のゲート端が飛行機と接触しないほどの高さに設計してある。尚且つ、最大級の船が通れるくらいのゲートの高さの設計で協議を重ねた。また、飛行機がゲート上を通り過ぎる時の風圧を考慮し風洞試験で橋の揺れを実験。実際の工事会議に使われたノートが展示されており読める人には興味深い。
2011.02.04
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「アモイ市内の旅6」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。海滄大橋の撮影を終えたのち海滄大橋の建設工事過程に使われた鋼材やワイヤーや中国内の橋建設の歴史などを説明した橋梁博物館へ入った。 橋梁博物館の中に入ると人影はなく女性スタッフが一人で出迎えてくれた。私が入った時に博物館の照明が消されていたがスタッフが着いて来て照明のスイッチを指差した。各コーナーにスイッチがありますからこれを押して下さいと照明を付けてくれた。曇り空で窓も少なく光が入らず館内は薄暗かったがコーナー毎に点く照明で華やいだ。写真は江沢民の筆字による海滄大橋と厦門大橋を額に入れてあったものを撮影。厦門大橋とはアモイ大橋のことでアモイ大橋は海滄大橋のことを指している。海滄大橋の建設は1996年に着工し4年後の2000年に完成している。海滄大橋は橋脚を利用した吊り橋である。また橋梁博物館は中国で唯一の橋梁をテーマにしている博物館である。2002年に橋梁博物館が出来た当時は、近隣から多くの人が訪れていたようだが、最近では学校の遠足で賑わうほどで平日は閑散としていて残念と話していた。写真は黒縁メガネを掛けた江沢民が建設工事の説明を受けている写真を撮影した。
2011.02.03
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「アモイ市内の旅5」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイで宿泊するホテル近くのバス停から海滄大橋行き直通バスを探したがなかった。バス停で待っている人に聞いてみたところ途中でバスを乗り換えて下さいと言われメモした。メモしたバス停で降り言われた路線番号のバスに乗ったが、何となく様子がおかしいので前まで歩いて運転手に聞いてみた。何処から乗車し何処へ行きたいのかと聞かれた。運転手は反対方向のバスに乗ったねと笑い出した。バスを降り陸橋を渡り反対車線でバスを待った。バスに乗った後、すぐに海滄大橋までどれ程掛かるか聞いた所、バス行程表を見てと言われた。バスの窓の上に貼ってあるバス行程表を目で追い海滄大橋バス停を見つけたが、心配になりノートに海滄大橋までの5つの停留所の名前を書き出し座席に座ろうとした。だが私がバス停の名前を書き写している間に空き座席がなくなってしまい吊り革を握り苦笑した。写真は、海滄大橋の日中の画像であるが曇り空だった。
2011.02.02
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「アモイ市内の旅4」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。中国の朝のパワーを感じる事柄の一つは朝6時半頃から始まる出店の食事だ。朝7時から10時ごろに出店が並ぶ。また、その出店に行くユーザーも多い。私は肉マントウを2つ買い袋に入れたままバス停まで歩いて行った。その歩く道すがら肉マンを食べるのがまた楽しく美味しいものであるし人の目を気にして歩いていても気恥ずかしさはなかった。その一角には30mほどのスペースに屋台が並んで美味しそうな香りが立ち込めていた。急ぎ足で先を急いでいる人も、その前を通るとその足が緩やかになったり立ち止まる人もいた。私も同じように立ち止まり、その場の雰囲気を満喫して、つい食べ物を買ってしまっていた。日本でも学生が好きなヌードルが売られていたが中国人が多く群がっているのが、写真のヌードルはインスタントではないが、唐辛子が沢山入っていて薄味好きの私にはとても食べれそうにはない。この一角を過ぎると海滄大橋行きバス停である。
2011.02.01
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「アモイ市内の旅3」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイで宿泊しているホテルから歩いて3分足らずのところに夜遅くまで開いている飲み屋があった。その飲み屋のご主人が作った地酒を飲みながら食事をしてホテルへ帰った。深夜0時過ぎに床に就き朝7時に起床。ホテルのレストランで軽く朝食を取った後昨夜訪れた海滄大橋まで再度行くためバス停まで徒歩で向かった。ホテルの向かい側へ行くために陸橋を渡ったが、写真はカルフール前の陸橋の上からホテル方向を撮影した。朝早いと道路も空いているが、アモイに限らず中国の交通事情も車が多くなり渋滞がひどくなって来るばかりである。中国各都市の人口も段々多くなり、バスは昼間でも混雑しているが特に朝9時頃など身動きが取れない。混雑したバスの中でもスリが財布や携帯電話を狙っているので盗られ易い所には入れないようにしたいものだ。中国人の友人も少なからずスリに遭遇しており注意が必要だが、私も3回スリに遭遇している。
2011.01.31
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「アモイ市内の旅2」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。海滄大橋は、アモイ島と海滄とを繋げた都市橋梁の機能を兼ねている。海滄大橋はアジア第一で世界第二位。アモイ島を出る第二の通路として、直接海滄の台湾系企業投資区に通じている。海滄大橋は全長約6キロで主橋が3キロ。車で走ると6分ほどで通り過ぎてしまう。海滄大橋の文字は、胡錦濤主席の前の江沢民が書いた筆字である。夜も8時近くにもなると冷え込んで羽毛ジャケットを着ていても寒さを感じるほどだった。ホテルへはバスで帰ろうとバス停までの500mほどの道を歩いた。寒い夜空の下では人通りも少なかった。バスでアモイ繁華街まで行き飲み屋で紹興酒を飲み体を温めてより帰った。
2011.01.30
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「アモイ市内の旅1」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。夕方5時の便に乗るため武夷山のホテルを3時過ぎに出て空港へ行った。フライト時間は40分程でアモイ空港へ着き、ホテルへ帰って来たのが6時近くになっていた。ホテルに荷物だけ置いてタクシーで海滄大橋の夜景を撮影に出向いた。予定を組んでいたのは、明日は一人で海滄大橋を見て回りたいと思っていた。海滄大橋を撮影するために別荘のレストランゲートを通らなければならずガードマンに許可を得るため苦労した。ねばり勝ちで何とか中へ入れた。レストランは終わりに近づき従業員が忙しそうに動き回っていた。レストラン私有地の道路から5mほどの高台に登り、そこより撮影した。
2011.01.29
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「武夷山探訪28」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山の画像もこれで最後になった。飛び石の上を歩きながら「石乳香」と呼ぶお茶の話を思い出していた。説明では、茶杯を口に近づけるだけで、甘くミルクのような香りがするとの事だったが、岩茶のミルクの香りで石乳香と呼ぶのか・・。兎に角、ゆっくりと時間を掛け、お茶を味わうそんな優雅な境遇になりたいものである。著名な高級茶の大紅袍が見える岩まで来た。写真は岩の高い所の猫の額ほどの土地に自生する大紅袍の茶畑があった。その大紅袍は高級で中央政府の幹部クラスが飲むとか言っていたが、一般には街に出回ってはいないとの事だった。お茶の堤や袋には特殊な原産地域産品の専用マークを使用することった。偽物の出回りを防いでいるとも話していた。私のガイドではなく現地のガイドはどんな薬も効かなかった皇后の腹の痛みが岩壁の上の「大紅袍」のお茶を飲ませ治ったというエピソードを話していたが詳細はメモしていなかったので分からない。 写真は武夷山の出口のゲートである。この日は、ガイドとホテルに帰りホテルのレストランで一緒に飲んだ。翌日の昼過ぎ武夷山からアモイ空港まで帰った。
2011.01.28
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「武夷山探訪27」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山の大紅袍景区の中に入って来た。写真は、大紅袍の親樹がある九龍茗叢園で、九龍茗叢園には様々な岩茶が植えられている。「肉桂」という名のお茶について肉桂の中国語を訳すとモクセイやシナモン。肉桂のお茶からはキンモクセイの香りがし、少し経つとシナモンのような香りがする。 岩茶の「佛手」という名の茶は柑橘系のスッキリとした香りがするとの事。また柑橘系の他に甘さも感じる事ができる。色々と説明を受けても果実のような甘さや苦さや香ばしさは私の味覚度合では理解できない。 「野生北斗」と呼ぶお茶にも出会った。 お茶の樹は挿し木をするが、野生の茶樹から摘んだ茶葉で作ったお茶を野生北斗と呼ぶ。 説明では熟した果実の濃厚な香りの後に、華やかな味わいの香りがするという。写真の文字は「入らないように」と書いてありその下に「違反した人は罰金になります」と・・茶畑の中に入り記念写真を撮る人も多い。
2011.01.27
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「武夷山探訪26」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山の岩茶は、福建省の武夷山市で生産される烏龍茶の1種である。お茶の樹が山肌を縫うように育ちまた山肌の岩に生育していた。青茶と呼ばれ烏龍茶の中でも最も貴重な岩茶一つで、香木にも似た独特な香りに富んでおり、また甘みまで感じる物が多く香りや味わいが持続する。武夷岩茶の生育する山肌は一枚岩が多く、その岩肌に岩茶を賛美した詩や題字が彫られており、その画像を載せた。17年ほど前、香港で生活していたがはじめは食事の時間が楽しみで時計を何度も見ながら待っていたこともある。飲茶と呼ぶ朝食時に、自分で選んで小皿に盛った料理をテーブルまで持って来る。1か月ほどすると油っこい匂いが鼻につき喉を通らないこともあったが、その時に香港人から教えてもらった事が料理を口に運んだあと烏龍茶を飲むことだった。私の日本での食習慣は食事を終えた後でお茶を飲む事であったので違和感を感じた。飲茶のときに飲む烏龍茶の器は大きくはなく杯のように小さく一口か二口で飲んでしまう。その岩茶烏龍茶の中でも知られているお茶が「晩甘居」と呼ぶお茶と岩に彫られている。
2011.01.26
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「武夷山探訪25」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山の大紅袍景区へのバス停から大紅袍景区の中へと入っていった。写真は寒椿の花なのだろうか?花に近寄り目を凝らしてみると花弁の外回りが茶色く枯れていた。少し離れて撮影してみたがその枯れた花弁は映ってはいなかった。下の画像の左側は切り立った岩山がそびえ立ち右側の狭い土地に烏龍茶の中でも最高級クラスの武夷山岩茶大紅袍を栽培していた。小ぶりの茶壷に大紅袍の茶葉を5g入れ、85度程のお湯を注ぎいれ飲むが、色が出なくなるまで5回ほどお茶を楽しむことができる。これより左側の岩肌に掘られた文字が印象的で次の更新ページでは岩肌に掘られた文字を公開したい。
2011.01.25
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「武夷山探訪24」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山のゲートを出て昼食を終えまたゲートを通るときにチケットを見せ、中へと入って行った。3日共通チケットを購入していたためゲートは何度出入りしても問題ない。はじめガイドは空腹での山歩きには問題ありと引き返して昼食を取った。だが食べ過ぎても山歩きは辛いもの。ガイドも食べ過ぎ辛そうにしていた。大紅袍景区へのバス停へ来たところで、食堂らしきものがあるので近くへ行きその光景を望遠で撮影した。ガイドに、わざわざ外に出なくても先程、引き返した近くに食堂が、あったのですねと聞いてみた。ガイドは、この中間地点の食堂は知っていたが、よく入るところで外の食堂には行った事がなかったため行きたかったのですと笑顔をみせた。私が普段食事をする10倍ほどの勘定を支払った私の気持ちは何も考えていない。何とも割り切れない思いでバスを待った。
2011.01.24
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「武夷山探訪23」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山で採れたであろう新鮮な山菜が並んでいたが、私はウィンドウに並べられた出来合いの物に目が行った。ガイドは海鮮ものに目移りしていたが私は海辺からと遠い武夷山で海鮮料理もないだろうと断った。それよりも肉料理の方がよいとガイドに告げて聞いてもらうとイノシシの肉ではと聞かれたので鍋料理かどうか確認した。注文を取る女性から注文された量が多いので鍋にすると食べきれない思いますから焼き物にされた方が良いのではと・・。一体どれだけ注文したのかと思いながらも串焼きに出来ないかと聞いても通じない。A5のノートに串焼きの絵を描いて見せた。絵には肉の間にネギを描いたが上手ですねと口を手で押さえて、そのようなものは有りませんと出来なく塩焼きで落ち着いた。下の画像は、雑穀パンのような饅頭で中には何も入ってないが、かりんとうのような味がしたものの食べきれず持ち帰った。
2011.01.23
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「武夷山探訪22」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山の別荘風の土楼家宴のレストランに入りバンガロー風の部屋に通された。ウェイトレスが入って来て私にメニューを見せるがメニューに書かれている料理の内容が分からず、視線はプライス欄へ。ほとんどが一品で60元と高いのでメニューをガイドに手渡した。ウェイトレスがガイドに話していたがウェイトレスは地元から来ているのではなく他省から来ていたので、彼らの言葉は分かった。その内容は調理場脇に採れたばかりの山菜やすでに調理できるように皿の上に盛った物も沢山あるので来て頂き選んで下さいとの事。私もガイドの後をついて行ったが豊富に山菜が洗われ籠に並べてあった。
2011.01.22
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