浜松中納言物語 0
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〔100〕戸外の地下の座でも調子の笛などを吹く「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。双調の調子で、「安名尊(あなとうと)(催馬楽)」、次に「席田(むしろだ)(催馬楽)」「此殿(催馬楽)」などを謡う。楽曲は、鳥の曲の破と急を演奏する。戸外の地下の座でも調子の笛などを吹く。歌に拍子を打ち間違えて、とがめられたりする。つぎに伊勢の海(催馬楽)を謡う。右大臣は、和琴が実に見事だなどと、聞きながらお褒めになる。戯れておられたようだが、そのあげくにひどい失態をなさった気の毒さは、見ていたわたしたちも体がひやりとしたほどだった。殿からの帝への献上物は、横笛の「歯二(はふたつ)」で、箱に納めて差し上げられたと拝見した。右大臣藤原顕光が酔って御膳の鶴の飾り物を取ろうとして折敷をこわしてしまったことをさす。笛は道長が、去る十一日に花山院御匣殿(みくしげどの)から賜った名笛である。紫式部日記(完)源氏物語1話桐壺の研鑽に入ったが時間が掛かる。
2024.05.01
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〔99〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。橘(たちばな)の三位の君をはじめとして、典(ないしの)侍(すけ)たちも大勢参上し、中宮付きの女房たちは、若い人々は廂の長押の下手に、東の廂と母屋の間の南側の襖を取り外して御簾をかけてある所に、上臈の女房たちは座っていた。御帳台の東側の隙がわずかにあいてる所に、大納言の君や小少将の君が座っていらっしゃる、そこにわたしは訪ねていって祝宴を拝見する。 帝は、平敷のご座所につかれ、御食膳が差し上げられ並べられた。お膳の調度や、飾りつけの様子は、言いようがないほど立派である。縁側には、北向きに西の方を上座にして、公卿たちは、左・右・内の大臣たち、東宮の傅(ふ)、中宮の大夫、四条の大納言と並び、それより下座は見ることができなかった。 管弦の遊びが催される。殿上人は、こちらの東の対の東南にあたる廊に伺候している。地下(じげ)の席は決まっている。景斉(かげまさ)の朝臣(あそん)(藤原景斉)、惟風(これかぜ)の朝臣(藤原景斉)、行義(ゆきよし)(平行義)、遠理(とおまさ)(藤原行義)などというような人がいた。殿上では、四条の大納言が拍子をとり、頭の弁が琵琶、琴は□(不明)、左の宰相の中将が笙(しょう)の笛ということである。
2024.04.30
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〔98〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。 その日の女房たちの衣装は、だれもかれもが華麗を尽くしていたが、袖口の色の配色のよくない人でも、御前の物を受け取る時に、大勢の公卿たちや、殿上人たちに、袖口をまじまじと見られてしまったと、あとになって宰相の君なども、悔しがっていたようだとはいっても、それほど悪いというほどでもなかった。ただ色の取り合わせが引き立たなかっただけだ。小大輔(こだいふ)は、紅の袿一重に、上に紅梅の袿の濃いのや薄いのを五枚重ねていた。唐衣は、桜襲。源式部(げんしきぶ)は濃い紅の袿に、紅梅襲の綾の表着を着ていたが、唐衣が織物でなかったのを悪いとでもいうのだろうか。それは禁色だから無理というもの。公の晴れの場でこそ、過失がはた目にちらりと見えた場合なら、批判されてもよいだろうが、衣装の優劣は身分上の制約もあることだから言うべきではない。弟宮にお餅を献上なさる儀式なども終わって、御食膳なども下げて、廂の間の御簾を巻き上げる、そのそばに帝付きの女房たちは、御帳台の西側の昼の御座の向こうに、重なるようにして並んでいた。
2024.04.29
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〔97〕紅の袿に萌黄、柳、山吹の袿を重ね「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。弟宮の陪膳役は橘の三位(内裏女房、橘仲遠の娘徳子)。取次役は、端の方に小大輔(中宮女房)、源式部(中宮女房)、内には小少将の君が奉仕する。帝と、中宮さまとが、御帳台の中にお二人で一緒にいらっしゃる。朝日がさして光り輝いて、まばゆいばかり立派な御前の情景である。帝は、御引直衣(おひきのうし)に小口袴(こぐちばかま)をお召しになり、中宮さまはいつもの紅の袿に、紅梅、萌黄、柳、山吹の袿を重ねられ、上には葡萄染めの織物の表着をお召しになり、柳襲の上白の御小袿の、紋様も色合いも珍しく当世風なのを着ていらっしゃる。あちらはとても目立つので、わたしはこちらの奥にこっそり入りじっとしていた。 中務の乳母が、弟宮を抱かれて、御帳台の間から南面の方に連れて行かれる。よく整っていてすらりとはしていない容姿で、ただゆったりと、重々しい様子で、乳母として人を教育するのにふさわしい、才気の感じられる雰囲気がある。葡萄染めの織物の小袿と、紋様のないの青色の表着の上に、桜襲の唐衣を着ていた。
2024.04.28
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〔96〕幾重にも建ち並んだ殿舎の軒「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。つぎの日の、夕方、早くも霞んでいる空を、幾重にも建ち並んだ殿舎の軒が隙間もないので、ただ渡り廊下の上の空をわずかに眺めながらだが、中務の乳母(中宮女房、源隆子)と、昨夜の殿が口ずさまれたこと(野辺に小松のなかりせば)をほめあう。この命婦は、ものの道理をわきまえた、よく気がきくお人です。敦良親王の乳母である中務の命婦にとっても、道長が「野辺に小松のなかりせば」と口ずさんだことは当然嬉しいことだった。二の宮の御五十日―正月十五日 ほんのちょっと里に帰って、二の宮(敦良親王)の御五十日のお祝いは、正月十五日なので、その明け方に参上したが、小少将の君(源時通の娘)は、すっかり夜が明けた間が悪いほどのころに参上なさった。いつものように同じ部屋にいた。二人の部屋を一つに合わせて、一方が実家に帰っているときもそこに住んでいる。一緒にいる時は、几帳だけを仕切りにして暮らしている。殿はお笑いになる。お互いに知らない男でも誘ったら、どうするつもりだなどと、聞きづらいことをおっしゃる。だが、ふたりとも、そんなによそよそしくはないから、安心である。日が高くなってから中宮さまの御前に参上する。あの小少将の君は、桜の綾織の袿に、赤色の唐衣を着て、いつもの摺裳をつけておられた。わたしは紅梅の重袿(かさねうちき)に萌黄(もえぎ)の表着、柳襲の唐衣で、裳の摺り模様なども現代風で派手で、とりかえたほうがよさそうなほど若々しい。帝付きの女房たち十七人が、中宮さまのところへ参上した。
2024.04.27
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〔95〕すぐに歌を詠んだら、みっともないことだ「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。正月三日に典薬寮から膏薬献上の儀があり、天皇はこれを右の薬指で額と耳の裏に塗る。式後人々にも配り、父親のかわりに、その罪が許されるほどの和歌を一首詠みなさい。今日は初子(はつね)の日なので、詠め、詠めと責められる。すぐに歌を詠んだら、みっともないことだろうと思い、またひどく酔っておられるので、ますます顔色が美しく、灯火に照らされた姿は輝き映えて素晴らしく、ここ数年来、中宮が寂しそうな様子で、一人でいたのを、侘しく見ていたが、このようにうるさいほどに、左右に若宮たちを拝見するのは嬉しいことだよと言われ、お休みになっている若宮たちを、帳台の垂絹を何度も開かれては見てらっしゃる。そして、野辺に小松のなかりせばと口ずさまれる。新しく歌を詠まれるより、こういうときにぴったりの歌を出してこられる、そんな殿の様子が、わたしには立派に思われた。 子の日する 野辺に小松の なかりせば 千代のためしに なにを引かまし 若宮たちがいなかったら わが世の千年の繁栄の証を何に求めよう[拾遺集]春、壬生忠岑 二皇子を得た道長の喜びに紫式部も共感している。
2024.04.26
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〔94〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。二間の東の戸に向かって、帝が若宮たちの頭上にお餅を丁寧に乗せるのである。若宮たちが抱かれて帝の前に参上したり退下したりする儀式は、見物である。母宮さまはおのぼりにならなかった。 今年の元日は、御薬の儀の陪膳役は宰相の君で、例の衣装の色合など格別で、実に素晴らしい。御膳を取りつぐ女蔵人は、内匠(たくみ)と兵庫(ひょうご)が奉仕する。髪上げした容貌などは、陪膳役の方が格別立派に見えるけれど、そのおつとめの胸中を察すると、わたしはたまらなくせつない気持ちになる。御薬の儀の女官の、文屋(ふや)の博士(内裏女房、文屋時子)は、利口ぶって才がありそうにふるまっていた。献上された膏薬(唐薬)が配られたが、それは例年行われることである。膏薬(皇薬)を忌んで唐薬という。正月三日に典薬寮から膏薬献上の儀があり、天皇はこれを右の薬指で額と耳の裏に塗る。式後人々にも配った。
2024.04.25
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〔93〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。渡り廊下に造ってある部屋に寝た夜、部屋の戸をたたいている人がいると聞いたが、恐ろしいので、返事もしないで夜を明かした翌朝に殿から、 夜もすがら 水鶏(くいな)よりけに なくなくぞ まきの戸ぐちに たたきわびつる 昨夜は水鶏以上に泣く泣く槙まきの戸口で、夜通したたき続けたよ と文に、 返歌、 ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ あけてはいか に くやしからまし 熱心に戸をたたかれたあなただから、戸を開けたらどんなに後悔したことでしょう藤原道長は紫式部にとって尊敬できる人間味にあふれた殿であったが、このように夜更けに戸を叩いて、強引に肉体関係を持とうとする老醜の男でもあったのだ。今年は正月三日まで、若宮たち(敦成〈あつひら〉親王、敦良〈あつなが〉親王)の御戴餅(いただきもちい)の儀式のために毎日清涼殿におのぼりになる、そのお供に、みな上臈(上皇や御台所への謁見が許される女中)女房たちも参上する。左衛門の督(かみ)(藤原頼通十九歳)が抱かれて、殿が、お餅を取りついで、帝(一条天皇)に差し上げられる。
2024.04.24
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〔92〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。人にまだ折られぬものを 源氏物語が中宮さまのところにあるのを、殿がごらんになって、いつもの冗談を言い出さしたついでに、梅の実の下に敷かれている紙に、すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふと書いて見せる。意味は、浮気者と評判がたっているので おまえを見た人で口説かないですます人はいないと思うという歌をくださったので、 (換毛期で家の中はももの毛が散らばり都度掃除機を掛ける)人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ だれにもまだ口説かれたこともないのに、だれがわたしを浮気者などと言いふらしたのでしょうなどと心外なことと申し上げた。道長と紫式部の関係はさまざまな解釈がされており、紫式部にとって道長より物語を書くのに必要な和紙を提供されており、かなり気を遣う必要があった。和歌のやり取りだけを見ると、藤原道長は紫式部にとってどのような関係だろうと思ってみたが道長の要望で源氏物語を書く事になり物語の登場人物は道長をモデルにして書いて行ったのであろう。道長は、物語の世界でさまざまな恋愛を書く式部を恋愛や物語に精通したものとして書かせては宮中で読ませて政治にも利用していたのではないだろうか。
2024.04.23
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〔91〕説教の仕方がそれぞれ異なっている「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。後夜の御導師の祈願は、説教の仕方がみなそれぞれ異なっていて、二十人の僧たちがみな中宮さまがこのように身重でおられる旨を、一生懸命に祈って、言葉につまって、笑われることもたびたびあった。仏事が終わって、殿上人たちは舟に乗って、みな次々と漕ぎ連ねて管弦の遊びをする。お堂の東の端の、北向きに押し開けてある戸の前に、池に降りられるよう造ってある階段の欄干を押さえるようにして、中宮の大夫は座っていらっしゃる。殿がちょっと中宮さまのところへ行かれたときに、宰相の君などが中宮の大夫の話し相手をして、中宮さまの前なので、打ち解けないように気をつけている様子など、御簾の内も外も趣のある雰囲気である。 月がおぼろに出て、若々しい男たちが、今様歌(平安中期から鎌倉時代にかけて流行した、多く七・五調4句からなる新様式の歌謡)を歌うのも、かれらはみなうまく舟に乗ることができる。若々しく楽しく聞こえるが、大蔵卿(藤原正光五十三歳)が、その中に年がいもなく入って、さすがに若い人たちに一緒に歌うのも気がひけるのか、ひっそりと座っている後ろ姿がおかしく見えるので、御簾の中の女房たちも秘かに笑う。舟の中にや老をばかこつらむ(舟の中で老いを嘆いているのでしょうか『白氏文集』巻三「海慢慢」の詩の一句の「童男丱女舟中老。徐福文成多誑誕」による)」とわたしが言ったのを、聞かれたのか。(撮影に行かれなかったので画像が少ない)中宮の大夫(藤原斉信〈ふじわらのただのぶ〉)が、「徐福文成(じょふくぶんせい)誑誕(きょうたん)多し(徐福や文成は嘘が多い)」と、朗唱なさる声も様子も、格別新鮮に感じられる。池の浮き草(今様歌の一節)などと謡って、笛などを吹き合わせているが、その明け方の風の様子さえも、格別の風情がある。こんなちょっとしたことも、場所柄、時節柄で趣深く感じるものである。
2024.04.22
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〔90〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。万が一この手紙がひと目に触れるようなことになったら、ほんとうに大変なことでしよう。世間の耳も多いことで、このごろはいらなくなった手紙もみんな破ったり焼いたりして捨ててしまい、雛遊びの家を作るのに、この春使ってしまってからは、人からの手紙もないですし、紙にわざわざ書くことはないと思ってるのも、人目に立たないようにしているからです。でもそれは悪い事情からではなく、意図してやったことで、この手紙を見られたら早くお返し下さい。あちこち読めないところや、文字の抜けたところがあるかもしれません。そういうところは、構わないので読み過ごして下さい。このように世間の人の口の端を気にしながら、最後に書き終えてみると、わが身を捨てきれない未練な心が、こんなに深くあるものですね。われながら一体どうしようというか。御堂詣でと舟遊び 十一日の明け方に、中宮さまは御堂(土御門邸の池のほとりにある供養堂)へお渡りになる。中宮さまのお車には殿の北の方(倫子)が同乗なさり、女房たちは舟に乗って池を渡った。わたしはそれには遅れて夜になってから参上した。祈願の仏事では、比叡山や三井寺(ともに天台宗の本山)の作法どおりに大懺悔(滅罪のための作法)をする。上達部は白い百万塔などをたくさん絵に描いて、遊び興じていらっしゃる。その多くは退出して、少しだけ残っている。
2024.04.21
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〔89〕ただ阿弥陀仏を信じてお経を習おう「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。今は言葉を慎んでかしこまるのはやめよう。他人が、とやかく言っても、ただ阿弥陀仏を信じて、お経を習おう。世の中の厭わしいことは、すべて露ほども未練はなくなったので、出家しても、仏道修行をなまけることはない。ただそう思って出家しても、来迎の雲に乗らないうちは心が迷うこともあるかもしれない。そんなわけで、出家をためらっている。年齢も、出家に適したころあいになってきた。(ももは換毛期に入り廊下や台所など抜毛が塊になっている)これ以上老いては、目もかすんでお経も読めないし、読経すら億劫になっていくから、信心深い人の真似事のようだけれど、今はただ、仏道方面のことだけを考えている。それにしても、わたしのような罪深い人間は、必ずしも出家の願いがかなうとはかぎらない。前世の罪を思い知らされることばかり多いので、なにごとにつけても悲しいことだ。出家を望みながら、俗世を離れられない人間の宿命的な苦悩を書いているが、これが後々『源氏物語』の最末尾にあたる第3部のうち後半の橋姫から夢浮橋までの宇治十帖で深く展開されることになるだろう。手紙にうまく書き続けられない良いことでも悪いことでも、世間の出来事や、身の上の憂えでも、残らず言っておきたいと思います。(家から車で6分程の青少年の森公園内の喫茶店)いくら不都合な人を念頭におき書き上げたとしても、こんなことまで書き立ててよいのでしょうか。しかし、あなたもすることがなくて退屈でしょうから、どうかわたしの所在ない気持ちをごらんになって、思っていることで、こんな無益なことはなくても、書いてください。拝見しましょう。
2024.04.20
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〔88〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。中宮さまもお隠しになっていたが、殿も帝もその様子をお気づきになり、殿は漢籍などを立派に書家に書かせられて、中宮さまにさしあげられた。中宮さまがこうしてわたしに漢籍を読ませられていることまでは、さすがに、あの口うるさい内侍も、聞きつけていないだろう。もし知ったなら、どんなに悪口を言うだろうと思うと、何事においても世の中というものは煩わしいことが多く厭なものである。惟規(のぶのり)を式部の弟とする説が多いし、「光る君」では惟規(のぶのり)は弟として脚本されている。晦日の夜の引きはぎでは、わたしは兄だと理解している。原文では、「かの人はおそう読みとり」となっていて、弟がなかなか理解できなかったことを、そばで聞いていた姉が弟よりも早く理解したというのでは、わざわざ日記に認めなくてもいいと思う。兄よりも年少の式部のほうが早く理解したから、あえて日記に認めたのであり、父の為時も残念がったのであろう。『紫式部日記』を読んできて、『源氏物語』のすさまじい肉迫力と、骨身をけずるような描写力は、類まれな詩魂と学才を持った、ひとりの容赦ない女流から必然的に生み出されたと妙に納得してしまう。
2024.03.28
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〔87〕子供のころに漢籍を読んでいた「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。わたしの兄の式部の丞(藤原惟規、引きはぎ事件では兵部の丞)という人が、子供のころに漢籍を読んでいた時、そばで聞いて覚えていて、兄が時間をかけて理解したところや、忘れたりしたところでも、わたしは不思議なほど早く理解したので、学問に熱心だった父は、悔しい。この娘(こ)が男の子でなかったのは不運だと、いつも嘆いていらっしゃった。 それなのに、男だって学問をひけらかす人は、どういものだろうか。栄達はしないだろうよと、だんだん人が言うのを聞いてからは、一という漢字でさえ書いてみせないので、あまりにも無学で、あきれるほどだ。かつて読んだ漢籍などというものは、目にもとめなくなっていたのに、さらにこんなあだ名を聞いたので、こんなことでは人も伝え聞いて憎むだろうと、恥ずかしいので、屏風に書いてある文字さえ読まないふりをしていた。なのに、中宮さまが御前で、『白氏文集』のところどころをわたしに読ませられたりして、この方面(漢詩文)のことを知りたそうにしていらっしゃると思われたので、極力人目を避けて、女房の伺候していないあい間あい間に、一昨年の夏ごろから、楽府(がふ/白氏文集の巻二、巻三)といふ本二巻を、きちんとではないが教えさせていただいているが、このことも隠している。
2024.03.26
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〔86〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。慈悲深い仏様だって、三宝(仏・法・僧)をそしる罪は重いと説かれている。まして、これほど濁りきった世俗の人は、こちらに辛くあたる人には辛くしてもよいとおもう。それを、じぶんのほうが上だと言わんばかりに、ひどい言葉を言って、面と向かって険悪な表情でにらみ合ったりするのと、そうではなくて心の中を見せず、表面は穏やかにしているのとの違いによって、心の良し悪しはわかるものだ。 紫式部にとって人間の差は、本心を露にするか、包み隠して寛大にふるまうかの違いにあるようだ。日本紀(にほんぎ/日本書紀)の御局(みつぼね)・楽府(がふ/漢の武帝の時代に設けられた音楽の役所の名称)御進講 (天皇への講義) 左衛門(さいも)の内侍(ないし)(内裏女房、橘隆子)という人がいる。この人がどういうわけかわたしのことを不快に思っていたのを、知らないでいたところ、いやな陰口がたくさん聞こえてきた。帝(一条天皇)が、『源氏物語』を女房に読ませてお聞きになっていたときに、この作者は、日本紀(にほんぎ/日本書紀)を読んいるにちがいない。実に学識があると仰せられたのを、内侍が当て推量して、とっても学問があると、殿上人などに言いふらして、日本紀の御局(みつぼね)とあだ名をつけたが、まったくばかばかしいことだ。じぶんの実家の侍女の前でさえ、漢籍を読むのを隠しているのに、宮中のようなところで学識をひけらかすことなんかしない。
2024.03.25
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〔85〕すべて女は穏やかに心の持ち方も「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。人の心はさまざま 見苦しくないよう、すべて女は穏やかに、心の持ち方もゆったりとして、落ち着いていることを基本としてこそ、品位も風情も、魅力的で親しみがもてる。あるいは、色っぽく移り気であっても、生来の人柄にくせがなく、周囲の人にもつきあいにくい様子をしないようになってしまえば、憎いことはない。じぶんこそはちがうと、人の関心を引くことに慣れて、態度が仰々しくなった人は、立ち居振る舞いだって、じぶんで気を配っているときでも、その人には目がとまる。目がとまれば、かならずものを言う言葉の中にも、来て座る動作にも、立ってゆく後姿にも、かならずそうした癖はみつけられるものだ。言うことが少しちぐはぐな人と、他人のことをすぐけなしてしまう人とは、なおさら注意深く聞いたり見たりされるようになる。悪い癖のない人であれば、なんとかして、ちょっとした批判の言葉も聞かなかったことにして、形だけでも好意をかけてあげたくなる。 人が故意に、いやなことをした時は、悪いことを誤ってやった時でも、これを笑っても、遠慮はいらないと思う。とても心の美しい人は、他人がじぶんを憎んでも、自分は尚更、その人を思って世話をするかもしれないけれど、普通の人はとてもそんなことまではできない。
2024.03.24
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〔84〕自信満々で人を見下すそんな人「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。自信満々で人を見下すそんな人は、ほんとうの心とは裏腹のわたしの表情を恥ずかしがっているのだと見るけれど、そんなことはなく、面と向かって人に真向かいで座っていたこともあるが、あんなようなものだと非難されないようにしようと、恥ずかしいわけではないけれど、弁解するのが面倒だと思って、ぼんやり呆けてしまった人間のようにみせかけていると、こんな方だとは思わなかった。ひどくあでやかに取り澄ましていて、気難しげに、よそよそしい感じで、物語を好み、風流ぶって、なにかというと歌を詠んだりして、人を人とも思わないで、憎らしいほど人を見くだす人なんだと、だれもが言ったり想像したりして反感を持っていたのに、会ってみると、不思議なほどおっとりしていらっしゃって、まるで別人かと思われるほどと、みなが言うので、きまりが悪い。人からこうまでおっとり者と見下されのだと思うけれど、ただこれがじぶんの本心だというように、ふるまっているわたしの様子を、中宮さまも、ほんとうに打ち解けてはつきあえないと思っていたけれど、ほかの人よりずっと仲良くなったわねとおっしゃる時もある。個性的で、優雅にふるまい、中宮さまに尊重されている上流の女房の方たちにも、反感を持たれたりしないようにしなければと思う。紫式部は、宮廷生活の中で、じぶんを隠すことに懸命だった。なぜなら、内面にはびこる魔を、作品のほかの世界で放てば、人間の顔をした怪物みたいに思われてしまうからだ。これは古典近代期の芸術家たちの内心の仮装と似たものといってよいのではないだろうか。
2024.03.23
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〔83〕女が経を読むのさえ止められた「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。もう一方の厨子には、漢籍類、大切に所蔵していた夫も亡くなってしまった後は、手を触れる人も特にいない。漢籍類を、どうしようもなく寂しくてしょうがないときに、一冊二冊引き出して見ていると、女房たちが集まって、ご主人さまはいつもこんなふうだから、幸せが少ないのです。どういう女が漢籍を読むのでしょう。昔は女が経を読むのさえ止められたのにと陰口を言うのを聞いても、縁起をかついだ人が、将来長寿だということは、見たこともないと言ってやりたい。それでは思いやりがないし、幸せが少ないと侍女たちの言うのももっともなので。何事も人によってさまざま。得意そうに派手で、楽しそうに見える人もいる。すべてにあてもなく寂しい人が、気のまぎれることもないままに、思い出の手紙を探し出して読んだり、仏への勤めに身を入れて、お経を絶えず唱え、数珠音(じゅずおと)高くもんだりするなど、あまり好感が持てないやり方だと思うので、わたしはじぶんの思うままにしてよいことまで、侍女たちの目を憚って、心の中におさめてなにも言わない。まして宮仕えで人中にまじっては、言いたいこともあるけれど、言わないほうがいいと思えて、わかってくれそうもない人には、言っても無駄だし、なにかと人を非難し、じぶんこそはと思っている人の前では、面倒なので、口をきくのもおっくう。特になにもかもすべてに通じている人はめったにいない。ただ、じぶんがこうと決めこんだことで、他人を無視しているようなものだ。
2024.03.22
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〔82〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。 世間の人が忌むという鳥もきっと渡ってくるだろうと思われて、すこし奥に引っ込んでも、やはり心の中では際限もなく物思いを続けている。 風の涼しい夕暮れに、聞くにたえない琴をひとり鳴らしては、嘆きが増すと琴の音を聞いてわたしの思いをわかる人もあるだろうと、忌まわしく思われるのは、愚かで哀れだ。 わび人の 住むべき宿と 見るなべに 嘆きくははる 琴の音ぞするわび住いをしている人が住んでいるのだろうと見ていると、嘆きが増すように琴の音がする 古今集寂しく暮らしている人の家だと思って見ていると、そこに嘆きが加わるような琴の音が聞こえた それにしても、見苦しく黒ずんで煤けた部屋に、筝の琴(十三絃の琴)、和琴(六絃の琴)が、調律したままなのに気づいて、雨の降る日は、琴柱を倒せなどとも言わないのでそのままに、塵も積もって、寄せて立てかけてあった厨子と柱との間に首をさし入れたまま、琵琶もその左右に立てかけてある。大きな厨子(ずし)一対に、隙間もなく積んであるのは、一つには古歌や、物語の本が言いようもなく虫の巣となってしまったもので、気味悪いほどに虫が逃げだすので、開けて見る人もいない。
2024.03.21
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〔81〕よく見れば、まだいたらないところが多い「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。清少納言こそ、得意顔に偉そうにしていた人。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしているけれど、よく見れば、まだいたらないところが多い。清少納言は一条天皇皇后定子に仕えた才媛で、『枕草子』の作者。晩年は不幸落魄の身。紫式部はすでに『枕草子』を著して才女として名高い清少納言を痛烈に批判している。このように、人より特別に勝れようと意識的にふるまう人は、かならず見劣りし、将来は悪くなるばかりだし、風流を気取る人は、ひどく寂しくつまらない時でも、しみじみ感動してるようにふるまい、興あることを見逃さないようにしているうちに、しぜんと見当はずれの浮薄な態度にもなるだろう。そういう軽薄になってしまった人の最後が、どうしてよいことがあろうか。わが身をかえりみて このように、あれこれにつけて、なにひとつ、思い出となるようなこともなくて、過ごしてきたわたしが、夫を亡くして将来の希望もないのは、慰めるすべもないが、だからといって心寂しいだけのわが身だとは思わないようにしよう。そんな荒んだ心が依然として消えないのか、物思いがます秋の夜、縁近くに出て空を眺めていると、ますます、あの月が昔は盛りのじぶんをほめてくれた月なのだろうかと、老いたわが身を誘い出すように思われる。
2024.03.20
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〔80〕世に知られている歌はすべて「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。(ハクモクレンはまだツボミ状態)世に知られている歌はすべて、ちょっとしたときの歌も、それこそこっちが恥ずかしくなるような詠みっぷりである。それに対し、上の句と下の句がつながらない「腰折れ歌」を詠んで、なんとも言いようがない気取ったことをしても、じぶんこそ優れた歌人だと得意がってる人なので、憎らしくも気の毒にも思われる。赤染衛門 道長家女房。大江匡衡の妻。歌人で三十六歌仙の一人。『栄花物語』正編の作者と伝えられる。赤染衛門集に六一四首の歌がのっているが、残念だがわたしの琴線に触れる秀歌感動や共鳴を与えるといえる歌はない。和泉式部の歌は難解だが心に迫るものを感じるのだが・・・。赤染の歌を読んでいくうちに気づいたのは、赤染の歌には代作が多いから、歌が真に迫らないのではないかということである。光る君では、姫君たちに学問を指南する凰稀かなめが赤染衛門を演じている。百人一首には、家集四の「やすらはで 寝なまし物を 小夜更て かたぶく迄の 月を見し哉」があげられているが、この歌も当たり前のことを詠っただけで秀歌とはいえない。 清少納言こそ、得意顔に偉そうにしていた人。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしているけれど、よく見れば、まだいたらないところが多い。
2024.03.19
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〔79〕和泉式部が紫式部に贈った歌と返歌 「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。和泉式部が紫式部に贈った歌は、 夢にだに 見で明しつる 暁の 恋こそ恋の 限りなりけれ夢でさえ恋人の姿を見ることができないで明かしてしまった暁 この恋こそ 悲しい恋の極みだろうこれに対して、紫式部の歌は、澄める池の 底まで照らす かがり火に まばゆきまでも うきわが身かな澄みきった池の底まで照らす篝火が 恥ずかしいほどに映しだす不幸せなわが身 藤原道長邸の栄光を見るにつけても、式部はそれを単純に、めでたいなどとは思えない。篝火の光の中に闇を見てしまう。「まばゆきまでも うきわが身かな」と嘆くのは、紫式部独自の人生観である。和泉式部は恋を情熱的に歌い上げる。紫式部は輝きの中に闇を見てしまう。歌人と物語作家の歌は、交換不能の秀歌といえる。丹波の守(大江匡衡〈おおえのまさひら〉)の北の方を、中宮さまや、殿などのところでは、匡衡衛門(まさひらえもん 赤染衛門)と言っている。歌は格別優れているわけではないが、じつに風格があり、歌人だからといって、すべてにおいて詠み散らすことはしないが、世に知られている歌はすべて、ちょっとしたときの歌も、それこそこっちが恥ずかしくなるような詠みっぷりである。
2024.03.18
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〔78〕他人が詠んだ歌を非難したり批評したり「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。和泉式部のような歌人であっても、他人が詠んだ歌を、非難したり批評したりする場合、歌というものをよくわかっていないようだ。口からしぜんと歌が出てくるような、そんな感じの歌人。こっちが恥ずかしくなるような素晴らしい歌人とは思えない。和泉式部は、越前守大江政致(おおえのまさむね)の娘。情熱的な歌人で三十六歌仙の一人。中宮彰子への出仕は寛弘六年の初夏ごろ。紫式部と和泉式部は、歌においてはまさに対極にあるといえる。例を挙げると和泉式部が詠んだ歌。夢にだに 見で明しつる 暁の 恋こそ恋の 限りなりけれ現実はもちろん 夢でさえ恋人の姿を見ることができないで明かしてしまった暁 この恋こそ 悲しい恋の極みだろう 和泉式部終生の名歌である。初句から三句まではゆったりと運び、四句から結句まで、恋こそ恋の 限りなりけれ(コイコソコイノカギリナリケリ)とカ行音を駆使して、たたみかけるようなリズムは、彼女の直情的、情熱的な心情をあますところなく表現し、しかも結句「限りなりけれ」で急転直下、修復不能な嘆きに変わる。
2024.03.17
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〔77〕じぶんに気を配るのは難しい「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。すべて非難するのはたやすく、じぶんに気を配るのは難しいはずなのに、そう思わないで、じぶんは賢いと、他人を無視したり、世間を非難しているところに、浅はかな心がはっきりと見える。まったく見せてあげたいような斎院の中将の手紙の書きぶりだった。ある人が隠しておいたのをそっと取り出し、こっそり見せてくれて、すぐに返してしまったので、手紙を見せられないのが残念である。紫式部は藤原実資に信用され、しばしば取次を頼まれ、斎院の中将の手紙に対する批評には、激しい憤りがあるが、斎院と中宮のそれぞれの環境と特質を分析した上で反論を進めているので説得力がある。相手の非だけを責めるのではなく、中宮方の短所も素直に自己批判している所へ常に自己凝視をする式部の特性がある。和泉式部、赤染衛門、清少納言の批評 和泉式部という人とは、趣深い手紙のやりとりをしたが、和泉には倫理的に感心しないところがある。気軽に手紙を走り書きしたときに、その面で文章の才能のある人で、ちょっとした言葉にも、色艶が見えるようだ。和歌は、とても上手い。でも古歌の知識、歌の理論などは、ほんとうの歌人というわけではなく、口からでるにまかせて詠んだ歌などに、かならず面白い一点の、目にとまるものが詠んである。
2024.03.16
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〔76〕ひどく弱々しく子どもっぽい「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。中宮の大夫(藤原斉信〈ただのぶ〉)がお越しになって、中宮さまに啓上なさるような時に、ひどく弱々しく子どもっぽい上臈(じょうろう/身分の高貴な人)たちは、応対なさることはめったにない。また、応対に出られても、どんことも(意味が分からなかった)てきぱきと応対しているようには見えない。言葉が足りないでも、心配りができないのでもなく、気がひける、恥ずかしいと思って、間違ったことを言うのを心配するあまり、できるだけ聞かれないように、ちょっとした姿も見られないようにしようとするのだろう。上臈以外の女房たちは、それほどでもない。男たちと対面しなければならない宮仕えに出たのなら、とても高貴な方でも、宮仕えのしきたりに従うものだが、中宮付の女房たちは、宮仕え以前の姫君の時のままの振舞いで、みないらっしゃる。下級の女房が応対に出るのを、大納言(藤原斉信)は快く思っていらっしゃらないので、大納言に応対しなければならない上臈の人たちが実家に帰っていたり、局にいても、やむをえず暇がない時には、応対にでる者がいなくて、大納言がそのままお帰りになるときもあるようだ。そのほかの上達部で、中宮さまの御所に来られて、なにか啓上なさるときは、それぞれ、贔屓の女房と、いつのまにかそれぞれ昵懇にしていて、その女房がいないときは、つまらなそうに、帰ってゆくが、そんな人たちがなにか機会があると、この中宮方のことを、引っ込み思案だなどと言うのも、無理もないことである。 斉院あたりの人も、こんなところを軽蔑するのだろう。だからといって、じぶんの方が、優れていて、他の人はものを見る目がない、風雅もわからないだろうと、侮るのも、筋が通らない。
2024.03.15
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〔75〕貴公子たちも斎院などのような所では「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。この貴公子たちも、斎院などのような所では、月を見たり、花を愛でたり、ひたすら風流のあることを、じぶんから求めて、想像したり口にしたりする。中宮方は、朝夕出入りして、心惹かれない所で、普通の会話でも歌や詩に関係づけて聞いたり、言ったり、或いは、男たちから興味あることを話しかけられて、返事を恥ずかしくなくできるような女房は、ほんとうに少なくなったと、殿上人たちは批評しているようだ。これはわたしが直接見たわけではないから、よくはわからない。斎院方は風流で奥ゆかしく、中宮方は地味で趣がないという殿上人たちの世評。みづからえ見はべらぬことなれば、え知らずかしわたしが直接見たわけではないから、よくはわからない「え知らずかし」は、中宮方への悪評に対する強い反発がある。人が立ち寄って話しかけてきたとき、ちょっとした応対をして、相手の気持ちを損なうのは困りもの。上手に応対して当然である。ところがこの当然のことができない、それだけ気立てのいい人はめったにいないということなのだろう。だからといって、とりすまして引っ込んでいるのが賢いといえるだろうか。また、どうして慎みなくあちこちしゃしゃり出るのがよいことなのだろうか。そのときどきの状況に応じて、配慮するのはとても難しいようだ。
2024.03.14
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〔74〕中宮さまはまだ十八歳と、とてもお若い「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。たしかに、何かの時に、つまらないことを言う方が、何も言わないより劣っているに違いない。とりわけ思慮深くない人で、中宮御所で得意顔をしている者が、ひどく見当違いのことを、なにかの時に言ったのを、中宮さまはまだ十八歳と、とてもお若い時で、ひどく聞き苦しいことと心から思われたので、それ以後、ただこれといった過ちがなくて過ごすのが、無難なことと思っていらっしゃるお考えに、子どもっぽい良家の子女たちが、みなとてもよく中宮さまの考えにあわせようと仕えているうちに、こんな中宮方の気風(地味で控え目)になれてしまったのだとわたしは思っている。 今では、中宮さまは二十三歳になり、だんだん大人らしくなられるにつれて、世の中のことも、人の心の良し悪しも、出過ぎるのも控えめなのも、すべておわかりになっていて、この中宮御所のことを、殿上人だれもが見なれて、特におもしろいこともないと思ったり言ったりしているらしいと、すべてご存じでいらっしゃる。だからといって、女房たちは奥ゆかしさに徹することもできず、ちょっと気を緩めれば、軽薄なことも起こってくるので、無風流に引きこもってばかりいるのを、中宮さまも、もっと積極的になってほしいと思ったり言ったりもなさるが、この中宮方の控えめな習慣はなおりにくく、また、現代風の若い貴公子たちときたら、この気風に順応して、中宮御所にいる間は実直にふるまう人ばかりである。
2024.03.13
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〔73〕中宮彰子の唯一の競争相手は皇后定子「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。中宮彰子(あきこ/しょうし)の唯一の競争相手は皇后定子(さだこ/ていし)だったが、定子は彰子が中宮になった長保二年(1000)の十二月に崩じている。こういうと上臈・中臈(上級・中級)の女房の欠点を、わたしがよく知っているようだが、人はみなそれぞれで、ひどく劣ったり勝ったりするものでもない。このことが優れていれば、あのことが劣る、といったようなものだ。けれど、若い人たちでさえなるべく重々しくふるまおうと真面目にしているのに、上臈・中臈(上級・中級)の人たちが見苦しくふざけたりするのも、ひどくみっともない。とにかく中宮方の雰囲気を、このような無風流にはしたくないと思う。人はみなとりどりにて、こよなう劣り勝ることもはべらず(人はみなそれぞれで、ひどく劣ったり勝ったりするものでもない)」式部の確かな人間観察で得たことだろう。とはいっても、中宮さまのお心はなにひとつ不足なところがなく、聡明で奥ゆかしくいらっしゃるのに、あまりにも内気な性格だから、気づいても言わないことにしよう。言ったとしても、なんの心配もなく後悔しないですむ人は、めったにいないと思っていらっしゃる。
2024.03.12
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〔72〕埋もれ木のような引っ込み思案な性格「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。わたしのような埋もれ木をさらに埋めたような引っ込み思案な性格でも、あの斎院方にお仕えしたのなら、そこで知らない男と出会って、話をするにしても、人が軽薄な女だという評判を立てるはずがないと、心をゆったりとさせて自然と優雅なふるまいをするだろう。まして若い女房で、容貌も、年齢も、引け目を感じることのない人が、それぞれ思う存分色っぽくして、歌を詠むのもじぶんの趣向のままにしたら、斎院方の人たちに劣ることはないだろう。 ところが、こちら中宮方では、宮中で明け暮れ顔をあわせて、競いあう女御や后もいらっしゃらず、そちらのお方、あちらの細殿のお方というように、並べて言う相手もいなく、男も女も、争うこともなくのんびりしていて、中宮さまの気風として色っぽいことを、ひどく軽薄なことと思っていらっしゃるので、中宮さまのご意志に少しでも背かないようと思っている女房は、めったに人前に出ることはない。尤も、気軽に、恥ずかしがったりもしないで、ああだこうだという人の評判を気にしない女房は、中宮さまのお考えとは違った気持ちを見せないわけでもない。ただそのような女房には、気軽に男たちが立ち寄って話をするので、中宮方の女房たちは引っ込み思案、あるいは、奥ゆかしさがない などと批評するのだろう。たしかに上級、中級の女房は、あまりに引っ込みすぎてお高くとまってばかりいるようだ。それでは、中宮さまのために、なんの引き立て役にもならず返って見苦しい。
2024.03.11
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〔71〕晦日(つごもり)の夜の引きはぎ―一月二日「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。たとえ手紙の文面であっても、和歌などの趣のあるものは、わが斎院さま(村上天皇の第十皇女選子内親王四十六歳)よりほかに、だれが見わける人がいるだろうか。世の中に情趣豊かな人が出現するとすれば、わが斎院さましか見わけることができないでしょうなどと書いてある。 なるほどそれももっともだけれど、じぶんの方のことをそれほど誇って言うのなら、斎院方から作り出された歌はどうかというと、優れて良いと思えるものは特にない。ただ斎院はとても趣があり、風情がある生活をなさっている所のようだ。だが、お仕えしている女房を比べて優劣を競うなら、中宮さまのまわりの人たちに、必ずしも斎院方の女房が勝ってはいないはずで、斎院は神域だから、斎院方をいつも内部まで見ている人はいないので、美しい夕月夜とか、風情ある有明の時とか、花見のついでや、ほととぎすの名所として行ってみると、斎院さまはとても趣味豊かな心があって、御所は浮世離れがして、神々しい。また世俗の雑事にとらわれることもない。こちらは中宮さまが帝のところへおあがりになったり、殿がいらっしゃったり、宿直なさるなど騒々しいことが多いが、あちらはそのような俗事に煩わされることなく、ふるまいが、しぜんと風雅を好むようになっているので、優雅のかぎりをつくしたとしても、軽率な言い間違いをすることもないだろう。
2024.03.10
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〔70〕優れて気品があって思慮深く才覚や風情も「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。 小馬(こま)という人、髪がとても長かった。昔は美しい若女房だったが、今は琴柱(ことじ)に膠(にかわ)をつけたように融通がきかなく実家に引っ込んでいるよう。 このように言っているが、さて気立てはとなるとこれはと思う人はいない。それも、それぞれに個性があって、ものすごく悪いのもいない。また、優れて気品があって、思慮ぶかく、才覚や風情も、信頼も、将来性も、すべて持っているような人もいない。みなそれぞれで、どの人をとるべきかと迷う人ばかり多い。五節の弁の宮仕えは式部よりも後。五節の弁の髪が抜け落ちたのは、父平惟仲の大宰府での横死による悲嘆と傷心が原因のようだと言う。とすると彼女が出仕したのは父が死んだ寛弘二年三月以前であり、式部との出会いもこの春と推定される。斎院と中宮御所 賀茂の斎院に、中将の君(斎院女房、斎院長官源為理の娘。歌人で式部の兄の惟規の愛人だったらしい)という人が仕えていると聞いているが、つてがあって、この人が誰かに書いた手紙を、人がこっそりと取り出して見せてくれた。その手紙はひどく思わせぶりで、じぶんだけが世の中でものの情趣を知っていて、心が深く、比類なく、世間の人は、深い心も分別もない と思っているようで、手紙を見たら、無性にむしゃくしゃして、憤りをおぼえ、下賎な人が言うように、ほんとうに憎らしく思えた。
2024.03.09
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〔69〕若い人たちの中でも容貌が美しい「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。若い人たちの中でも容貌が美しいのは、小大輔(こだいふ)、源式部(げんしきぶ)など。大輔は小柄な人で、容姿はとても現代的、髪は美しく、とても豊かで、丈に一尺以上も余っていたのに、今では抜け落ちて細くなっている。顔もひきしまって、なんて素敵な人と思われる。容貌はなおすところなし。源式部は、背丈もちょうどよく、すらりとして顔も整っていて、見れば見るほど素敵で、可愛らしい風情、清々しくさっぱりして、 宮仕えの女房よりどこかの娘のようにみえる。 小兵衛、少弐なども、とても美しくきれい。それらの美しい女房たちは、殿上人が見すごすことは少ない。誰もまかり間違うと知れ渡ってしまうが、見られないところでも用心してるので、知られずにすんでいる。宮木(みやぎ)の侍従は整った美しい人。とても小さくてほっそりしていて、まだ童女のままにしておきたいようだったが、じぶんから老け込んで、尼になって宮仕えをやめてしまった。髪が、袿の丈に少し余り、その下を華やかに切りそろえて参上したのが、宮仕えの最後のとき。顔も美しかった 五節の弁という人がいる。平中納言(平惟仲)が、養女にして大事にしていたと聞いている人です。絵に描いたような顔して、額が広い人で、目じりがとても長く、顔もとくに個性があるわけでなく、色白で、手つきや腕の様子は風情があって、髪は、私が見た春は、背丈に一尺ばかり余って、豊かにたくさんあったが、父惟仲の横死が原因で、あきれるほど抜け落ちてしまい裾の方もさすがに誉められたものではなく、長さは丈に少し余っているようだ。
2024.03.08
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〔68〕とても清楚な人で背丈もちょうどよい「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。宮の内侍(橘良芸子/たちばなのおきこ)は、とても清楚な人で、背丈もちょうどよいほどで、座っているとき、姿格好、とても堂々としていて、現代的な容姿で、細かに、とりたてて素敵だとは思えないが、とても清楚で、すらりとしていて、中高な顔立ちで、黒髪に映えた顔の色合いなど、ほかの人より優れている。頭髪の格好、髪の生えぐあい、額のあたりなど、華やかで愛嬌がある。ごく自然にありのままにふるまって、気立てなどおだやかで、つゆほどもやましいところがなく、すべてあんなふうでありたいと、人の手本にしてもいい人です。風流がったり気取ったりはされない。宮の弁侍までは式部より上位の女房。人物批評にも敬意と憧憬の念がうかがわれ、式部のおもと(橘忠範の妻)は、宮の内侍の妹。ふっくらし過ぎるほど太っている人で、色はとても白く艶やかで、顔は整っていて趣がある。髪も非常に美しく、長くはないので、付け髪などして、宮仕えしている。出仕の当時はその太った容姿が、とても美しかった。目もと、額のあたりなど、ほんとうにきれいで、微笑んだところなど、愛嬌もいっぱいだった。当時、肥満はかならずしも美人のマイナス条件ではなかったようで、適度のふっくらとした愛らしさはむしろ好まれた。
2024.03.07
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〔67〕人々の容姿と性格 賢い過ごし方「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。人々の容姿と性格 このついでに、人々の容姿のことをお話ししたら、遠慮がないということになるだろうか。それも現在の人のことを。顔をあわせる人のことは、差し障りがあるし、どうかと思われるような、少しでも欠点のある人のことは、言わないことにする方が賢い過ごし方なのかも。宰相の君は、豊子様でなく、北野の三位(藤原遠度)の娘のほう、彼女はふっくらして、とても容姿が整っていて、才気ある理知的な容貌で、ちょっと見たより、見れば見るほど、格段によくて、かわいらしくて、口元に、気品がただよい、こぼれるような愛嬌もそなわってる。立居振舞いもとても美しく、華やかにみえる。気立てもとてもおだやかで、可愛らしく素直で、こっちが気おくれしてしまうような気品もそなわっている。小少将の君(源時通の娘)は、なんとなく上品に優雅で、二月ごろの初々しいしだれ柳のよう。容姿はとても美しく、物腰は奥ゆかしく、性質なども、じぶんでは判断できないように内気で、ひどく世間を恥ずかしがり、見てはいられないほど子どもっぽい。意地の悪い人で、悪しざまにあつかったり事実とはちがうことを言う人があれば、それを気に病んで、死んでしまいそうなほど、弱々しくどうしようもないところが、頼りなくて気がかりです。
2024.03.06
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〔66〕殿が若宮を抱いて若宮のお守刀を捧げ持って「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。 宰相の君(豊子)が、若宮のお守刀(まもりがたな)を捧げ持って、殿が若宮を抱いてこられるのに続いて、清涼殿に行かれる。紅の三重五重、三重五重とまぜつつ、おなじ色のうちたる七重に、ひとへを縫ひかさね、かさねまぜつつ、同じ紅色のつやを出した七重襲の打衣に、さらに一重を縫い重ね、重ねまぜて八重にして、その上に同じ紅色の固紋の五重の表着をつけ、袿には葡萄染めの浮紋で堅木の葉の紋様を織ってあるが、縫い方まで気がきいている。紅色の固紋の五重の表着に緑を三重に重ねた裳をつけ、赤色の唐衣は菱の紋様を織って、意匠も唐風にしゃれている。とても美しく髪などもいつもより念入りに繕ってあり、容姿、態度も、上品で美しい。背丈もちょうどよく、ふっくらとした人で、顔はとても可愛く、色艶も美しい。 大納言の君(廉子)は、とても小柄で、色白で美しく、まんまると太っているが、見た目にはすらっとして、髪は、背丈に三寸ほどあまっている裾の様子、髪の生えぐあいなど、すべて個性的で、神経のゆきとどいた美しさだ。顔もとても可愛らしく、身ぶりなども、可憐でやさしい。 宣旨の君(中納言源伊陟〈みなもとのこれちか〉の娘)は、小柄な人で、とてもほっそりしていて、髪の毛筋は細かいところまできれいで、垂れ下がっている髪の末が袿の裾から一尺ほど余っている。こちらが恥ずかしくなるほど、際限なく気品がある。物陰から歩いてこられた姿も気品に満ちていて、自然と気にかけてしまう。上品な人はこのような人だろうと、気立てのよさが、ちょっとしたことをおっしゃっても、わかる。宰相の君、大納言の君、宣旨の君の容姿や人柄への賞賛は、続いて他の女房たちの人物批評に移っていっている。
2024.03.05
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〔65〕晦日(つごもり)の夜の引きはぎ―一月二日「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。式部の丞資業(すけなり)がやって来て、あちらこちらの灯台の油を、ただ一人で注いでまわる。女房たちは、ただ呆然として、顔を見合わせて座り込んでいる。帝から中宮さまにお見舞いの使いがあった。ほんとうに恐ろしいことだった。中宮さまは納殿(おさめどの 財宝・衣服・調度を納めた蔵)にある衣裳を出させて、この二人に賜った。元日用の晴着は盗っていかなかったので、二人ともなにもなかったようにしているけれども、あの裸姿は忘れられず、恐ろしいものの、今になってみればおかしくもあるけれど口に出してはいえない。新年御戴餅(いただきもちい)の儀―寛弘七年正月一日 元旦なので不吉な言葉は避けるべきだが昨夜のことをつい口にしてしまう。元旦は坎日(かんにち 陰陽道で凶の忌日)にあたっていたので、若宮の御戴餅(小児の頭上に餅をあてる)の儀式はとりやめになった。それで三日の日に若宮は清涼殿におのぼりになる。今年の若宮の陪膳役は大納言の君(廉子)。その装束は、元日は紅の袿、葡萄染めの表着、唐衣は赤色で地摺りの裳。二日は紅梅の織物の表着、打衣の掻練は濃い紅で、青色の唐衣に色摺りの裳。三日は綸子(りんず 滑らかで光沢がある絹織物)の桜がさねの表着、唐衣は蘇芳の織物。掻練は濃い紅を着る日は紅の袿は中に、紅の掻練を着る日は濃い紅の袿を中に着るなど、いつもの決まりどおりである。女房たちは萌黄襲、蘇芳襲、山吹襲の濃いのや薄いの、紅梅襲、薄色襲など、ふだんの色目を一度に六つほど、これに表着を重ね合わせて、とても体裁よく着こなして控えている。
2024.03.04
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〔63〕晦日(つごもり)の夜の引きはぎ―一月二日「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。晦日(つごもり)の夜の引きはぎ 大晦日(おおみそか)の夜、鬼やらい(悪鬼払い)の行事は早くすんでしまったので、お歯黒をつけたりなど、ちょっとしたお化粧などしようとして、くつろいでいると、弁の内侍(藤原義子)がやってきて、話をし休まれた。内匠(たくみ)の蔵人(くろうど/中宮女房、女蔵人)は長押の下座に座って、あてき(童女の名)が縫う仕立物の、折り込み方を教えたりなど、いそがしくとしていたときに、中宮さまのところで、はげしい悲鳴がする。内侍を起こそうとするが、すぐには起きない。だれかが泣き騒いでいるのが聞こえるので、とても恐く、どうすることもできない。火事かと思ったが、そうではない。内匠(たくみ)の君を、先に押しやり、ともかく、中宮さまは下の部屋におられます。まずそこへ行ってみましょうと、弁の内侍を荒々しくつついて起こして、三人がふるえながら、足も地につかないほどうろたえて行ってみると、裸の人が二人いる。靱負(ゆげい)と小兵部(こひょうぶ)だった。引きはぎに着物を奪われたのだとわかると、ますます気味が悪い。御厨子所(みずしどころ 食膳を調達する所)の人たちもみないなく、中宮付きの侍(さぶらい)も、滝口の侍(警護の武士)も、鬼やらいがすむとすぐに、みんな退出していた。手をたたいて叫んでも、返事をする人もいない。おものやどり(御膳を納めておく所)の老女を呼んで、殿上人の詰所に、兵部の丞(ひょうぶのじょう/式部の兄、藤原惟規〈のぶのり)という蔵人(くろうど)がいるから、呼んできてと恥も忘れて直接に言ったので、老女はすぐに行ったが、兵部の丞はやはり退出しており、こんな情けないことがあるものかと思う。
2024.03.03
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〔63〕五節(ごせち)の舞姫―十二月二十九日「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。年末独詠(どくえい)―十二 月二十九日の夜 師走の二十九日に実家から宮中に参上する。はじめてわたしが宮中へ参上したのも十二月二十九日の夜だった。あの時はまるで夢の中を彷徨い歩いているようだったと思い出してみると、今ではすっかり宮仕えに慣れてしまっているのも、じぶんながらいやな身の上だと思われる。夜はたいそう更けた。中宮さまは物忌にこもっておられるので、御前にも行かないで、心細い気持ちで横になっていると、一緒にいる若い女房たちが、宮中はやっぱり違うわねと、さらに実家にいたら、もう寝ているはずなのに、寝つかれないほど女房の局をたずねる男たちの沓音のしょっちょうすることと、どきどきして言っているのを聞いて和歌を詠む。年くれて わが世ふけゆく 風の音に 心のうちの すさまじきかな今年も暮れて、わたしも老いてゆく。風の音に心が荒れて寂しい 年が暮れて、夜が更ければ、わたしもまた一つ年を取って、老けてしまうのだ。そんなことを思いながら風の音を聞いていると、心の中は荒涼としてくるとひとり言をいう。老いゆく身の荒涼たる絶望感を詠む。
2024.03.02
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〔62〕賀茂神社臨時祭---十二月二十七日「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。臨時祭(りんじのまつり) 賀茂神社の臨時祭りの神に奉献する使者は、殿のご子息の権の中将道長の五男教通〈のりみち〉である。当日は宮中の物忌なので、殿は、宿直(とのい)をなさった。公卿たちも舞人をつとめる人たちも、宮中にこもって、そのため一晩中、女房の部屋があるこの細殿のあたりは、酷くざわついた気配だった。祭りの日の早朝、内大臣(公季)の随身が、こちらの殿の随身に贈り物を渡して帰っていったが、それは先日の左京に扇を贈ったときの箱のふたで、それに白銀の冊子箱が置いてある。その箱の中に鏡を入れて、沈(じん)の香木製の櫛、白銀製の笄(こうがい/髪をかきあげる用具)など、使いの権の中将が髪を整えるようにしてある。箱のふたに葦手書き(仮名を図案化した書風)で浮き出ているのは、あの「日陰」の歌の返事らしい。文字がふたつ抜けていて、なんだか変だなと思えたのは、内大臣(公季)がてっきり中宮さまからの贈物だと思われて、このように大袈裟になさったのだと聞いた。ちょっとした悪戯が、気の毒なことに、こんなに大袈裟にされた。殿の北の方も、参内して使者の儀式(晴れ姿)をごらんになる。教通(のりみち)さまが藤の造花を冠に挿し、とても立派で大人びていらっしゃるのを、内蔵(くら)の命婦(教通の乳母)は、舞人たちには目も向けないで、成人した教通さまをつくづくと見ては感涙にむせんでいた。宮中の物忌なので、賀茂の社(やしろ)から、使いの一行が内裏に丑の刻(午前二時ごろ)に帰ってくると、還立(かえりだち)の神楽などもほんの形ばかり行われた。舞の名手の兼時(尾張兼時)が、去年までは舞人として素晴らしかったが、今年は老けて衰えた動作は、わたしには関係のない人のことだけれど、あわれで、じぶんの身になぞらえることが多かった。
2024.03.01
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〔61〕五節(ごせち)の舞姫―十一月二十七日「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。特別に内々に贈るのでしたら、顔の知られていない者を使いにやって、これは中納言の君(弘徽殿の女御付の女房)から預かった女御(義子)さまからの手紙です。左京の君にと声高に言って手紙置いてきた。使いの者が引きとめられたらいけないなと思っていると、使いは走って帰ってきた。先方では女の声で、舞姫の付添で来てるなんて誰も知らないはずなのに、使いはどこから入ってきたのだろうと下仕えにたずねているようだったが、女御さまの手紙と、疑いなく信じてることだろう。もと内裏の女房が舞姫の付添でやって来ているのを見ていたずらをしてくる。虚栄や嫉妬や競争に明け暮れる宮廷女房社会の一端である。五節、大嘗祭(だいじやうさい/五人の舞姫)新嘗祭(しんじやうさい/四人の舞姫による舞を中心にして行われた行事)も過ぎて何も耳をとどめることもなかったこの数日間だが、五節も終わってしまったという宮中の様子は、急に寂しい気がするけれど、二十六日の夜にあった臨時祭の雅楽の練習は、ほんとうにおもしろかった。若々しい殿上人などは、どんなに名残惜しい気持ちだろう。高松の上(道長の第二夫人、源高明の娘明子)の若い子息たち(頼宗十六歳、頼信十五歳、能信)さえ、中宮さまが宮中にお入りになった夜からは、女房の部屋に入ることを許されて、すぐ近くを通って歩かれるので、ひどくきまりが悪い思いをして、わたしは盛りが過ぎたのを口実にして隠れていた。若い子息たちは五節が恋しいなどとは思ってはいないで、やすらい(中宮付の童女の名)や、小兵衛(中宮の若女房)などの、裳裾(もすそ/着物の裾)や、汗衫(かざみ)にまつわりつかれて、まるで小鳥のようにきゃあきゃあとふざけている。
2024.02.29
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〔60〕五節(ごせち)の舞姫―十一月二十三日「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。なにかの縁があって左京のことを聞きたい女房たちが、おもしろいことだと言いながら、知らないふりはしていられない。以前上品ぶり住み慣れていた宮中に、こんな介添役なんかで出てくるなんて、本人はわからないと思ってるでしょうが、暴露してやろうということで、中宮さまの前にたくさんある扇の中で、蓬莱山(不老不死の仙境)の絵が描いてあるのを特別に選んだのは、なにか趣向があるに違いないが、その趣向を左京にはわかっただろうか。箱のふたに扇をひろげて、日陰の鬘(ひかげのかづら)を丸めて載せ、それに反らした櫛や、白粉など、とても念入りに端々を結いつけた。少し盛りを過ぎた人だから、これでは櫛の反りようがたりないなと、男の方が話しているので、今流行りの両端がくっつくくらいみっともないほど反らして、黒坊(薫香の名)を押し丸めて、不細工に両端を切り、白い紙二枚を重ねて立文(正式の書状)にした。手紙は大輔(たいふ)のおもとにつぎのように書かせた。おほかりし 豊の宮人 さしわきて しるき日かげを あはれとぞ見し大勢いた宮廷人の中で、とりわけ目立った日陰の鬘のあなたを、とても感慨深く見受けた中宮さまは、同じことならもっと趣向を凝らして、扇ももっとたくさんあげたらと話しておられるけれど、あまり大げさなのも、趣旨にあわないと、中宮さまが特別にお贈りになるのでしたら、このように内々にして意味ありげになさるものではありませんよ、これはほんの私事なのですからと申し上げた。
2024.02.28
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〔59〕五節(ごせち)の舞姫―十一月二十三日「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。みんな濃い紅の衵(あこめ)を着て、表着は様々である。正装の上衣は、みな五重がさねを着ているのに、尾張の守は童女に葡萄染めを着せている。それがかえって由緒ありそうで、衣装の色合いや、光沢など、とても優れている。下仕えの童女の中にとても顔のいいのが、その扇をとらせようと六位の蔵人が近寄ると、自分から扇を投げたのは、しっかりしているけれど女らしくないと感じた。もしわたしたちが、あの人たちのように人前に出ろということだったら、こんな批評めいたことを言っていても上がってしまい、ただうろうろしているだけかもしれない。わたしも以前にはこんなに人前に出るとは思わなかった。だけれど、目の前に見ながら浅はかなことは、心の常だから、わたしもこれからあつかましくなって、宮仕えに慣れすぎて、男と直接顔を合わせても平気になるだろうと、じぶんのことが夢のように思い続けられて、乱れた異性関係などあってはならないことまで想像して、怖くなるので、目の前の華やいだ儀式も、例によって目に入らなくなってしまう。童女への同情は自己への反省となる。つまり、他人への同情、批評は必ず自分の心と向き合い、自己批判をしてしまい、これが式部の精神の特徴なのだろう。左京の君 侍従の宰相(藤原実成)の舞姫の控所は、中宮さまの御座所から見渡せる近くにある。立蔀(たてじとみ/縦横に組んだ格子の裏に板を張り目隠しや風よけとしたもの)の上から、あの評判の簾の端(出衣〈いだしぎぬ〉)も見える。人々の声もほのかに聞こえ、あの弘徽殿の女御(実成の姉、藤原義子)のところに、左京の馬という人が、慣れた様子で交じっていたねと、宰相の中将(源経房)が、昔の左京を知っており話しているのを聞いて、あの夜、侍従の宰相の舞姫の介添役で、東側にいたのが左京ですよと、源少将(源済政)も見ていたと知った。
2024.02.27
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〔58〕殿上の淵酔--2月26日誕生日研鑽再開「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。童女御覧(わらわごらん)の儀―二十二日 今年のように舞姫の美しさを競うわけではない普通の年でも、舞姫に付き添っている童女御覧(わらわごらん)の日の童女たちの気持ちは、並大抵の緊張ではないのに、今年はどうだっただろうと、気にかかって早く見たいと思っていると、舞姫たちが付添の女房と並んで出てきたのには、訳もなく胸が詰まって、本当に気の毒な気がする。だからと言って、特別に好意を寄せる人もいないのだが。我も我もと、あれほどの人々が自信たっぷりにさし出したからであろうか、目移りしてしまい、その優劣も、はっきりと見分けられない。現代的な感覚の人には、きっと見分けがつくだろう。ただこのような曇りのない日中に、扇も満足に持たせず、大勢の男たちがいる所で、相当な身分、才覚のある人とはいえ、人に負けないよう競い合う気持ちも、どんなに気後れがするだろうと、無性に気の毒に思われるのは、全く時代遅れの融通の効かない事だ。 丹波の守の童女の、青みがかった緑色の正装が、素敵だと思っていたところ、藤宰相の童女は、赤みがかった黄色を着せて、その下仕えの童女に唐衣に青みがかった緑色を対照させて着せているのは、嫉妬したくなるほど気が利いている。童女の容貌も、丹波の守の一人はそれほど整っているとは見えない。宰相の中将の方は、童女がみな背丈がすらりとして、髪も素敵だ。その中の馴れすぎた童女の一人を、人々は、どうだろう、あまり良くないのではと言っている。
2024.02.26
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「〔57〕殿上の淵酔(えんずい)―十一月二十日「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。殿上の淵酔(えんずい)・御前の試み―十一月二十一日 寅の日の朝、殿上人が中宮さまの前に参上する。例年のことだが、ここ数ヶ月の間に里住まいに馴れたせいか、若い女房たち殿上人を珍しいと思っている様子である。きょうはまだ青摺り衣(神事の祭服)も見えない。その宵、中宮さまは東宮の亮(すけ 高階業遠)をお呼び寄せになって薫物を賜る。大きめの箱ひとつに、うずたかく入れられた。尾張の守には、殿の北の方がつかわされた。その夜は御前(五節の舞)の試みとかで、中宮さまも清涼殿へ行かれてごらんになる。若宮も一緒なので、魔除けの米をまき散らし、高らかな声をあげるが、例年とはちがう気がする。わたしは気が進まないので、しばらく局で休んで、そのときの様子をみて伺おうと思っていたところ、小兵衛や小兵部なども囲炉裏のそばにいて、とても狭いので、よく見えないなどと言ってるときに、殿がいらして、どうしてこんなことをしてる、さあ、一緒に行こうと急きたてられるので、その気はなかったが御前に参上した。舞姫たちは、どんなに苦しいだろうと見ていると、尾張の守の舞姫が、緊張のあまり気分が悪くなって出てゆくのが、現実のこととは思えず夢の中のことのように見える。御前の試みが終わって中宮さまは退出なさった。この頃の若い人たちは、もっぱら五節所(ごせちどころ 舞姫の控室)の趣あることを話している。簾の端や帽額(もこう 一幅の布)さえも、それぞれの部屋ごとに趣がちがっていて、そこに出仕している介添の女たちの髪格好や、立ち居振る舞いさえ、さまざまに趣があるなどと、聞きづらいことを話している。華麗な舞姫の内心の苦しさを思わずにいられない式部だった。
2024.02.18
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「〔56〕朝臣の舞姫の介添役―十一月二十日「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。業遠(なりとお/高階業遠/平安時代中期の貴族。左衛門権佐・高階敏忠の子)の朝臣の舞姫の介添役は、錦の唐衣を着て、闇夜でもほかに紛れないで、立派に見える。衣装をたくさん重ね着して、身動きもしなやかでないように見える。それを殿上人が、特に気を配って世話をしている。こちらの中宮さまのところに帝もいらっしゃって舞姫をごらんになる。殿も忍んで、引戸の北側にいらっしゃっているので、わたしたちは気ままにできないので面倒だ。藤原中清(藤原北家長良流、備中守・藤原為雅の長男)の舞姫の介添役は、背丈も同じくらいそろっていて、とても優雅で奥ゆかしい様子は、他の人にも劣らないと評定される。右の宰相の中将(藤原兼隆/関白右大臣・藤原道兼の次男)の介添役は、しなければならないことはすべてしてある。その中の下役の女二人のきちんとした身だしなみが、どこか田舎じみていると人々は笑っている。最後に、藤宰相(とうさいしょう 藤原実成/太政大臣・藤原公季の長男)のは、そう思って見るせいか現代的でとてもお洒落である。介添の女房は十人いる。孫廂(まごひさし)の御簾をおろして、その下からこぼれ出てる衣装の褄なども、得意げに見せているよりは、いっそう見栄えがして、灯火の光の中で美しく見える。五節の舞姫が注目されて、平静を装っている辛い心を思いやり、それが他人事でなく、じぶんも同じ境遇であると胸をつまらせる。このように、他人事をじぶんに引きつけ、内省して沈んでゆくのは、式部特有の精神構造である。
2024.02.17
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「〔55〕五節(ごせち)の舞姫―十一月二十日「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。五節(ごせち)の舞姫―十一月二十日 五節の舞姫は二十日に内裏に入る。中宮さまは侍従の宰相に、舞姫の装束などをお遣わしになる。右の宰相の中将が、舞姫に日蔭の葛(ひかげのかずら 飾りの組紐)のご下賜をお願いなさったのをお遣わしになるついでに、箱一対にお香を入れ、飾りの造花に梅の枝をつけて、美しさを競うようにお贈りになる。さしせまってから急いで準備する例年よりも、今年はいっそう競い合って立派にしたと評判なので、当日は東の、御前の向かいにある立蔀(たてじとみ 板張りの目隠しの塀)に、隙間もなく並べて灯してある灯の光が、昼間より明るくて恥ずかしい感じなのに、舞姫たちが静かに入場してくる様子は、あきれるほど、平然としているとばかり思うけれど、他人事とばかりは思えない。中宮さまの還啓の時も、ただこのように、殿上人が顔をつき合わせたり、脂燭を照らしていないというだけだ。幔幕を引いて人目を遮っているとしても、わたしたちのだいたいの様子は、舞姫たちと同じように見えただろうと思い出すと、胸がつまってしまう。この年の舞姫は四人(侍従宰相藤原実成の娘、右宰相中将藤原兼隆の娘、丹波守高階業遠(たかしななりとお)の娘、尾張守藤原中清(ふじわらのなかきよ)の娘)
2024.02.16
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「〔54〕言葉ではいえないほど立派―十一月十九日」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。殿から宮への贈物昨夜の殿からの贈物を、中宮さまは今朝になってていねいにごらんになる。御櫛箱(髪の道具一式をいれる二段重ねの箱)の道具類は、言葉ではいえないほど立派である。手箱が一対、その一方には白い色紙を綴じた本類、『古今集』『後撰集』『拾遺集』などで、その歌集一部はそれぞれ五帖に作って、侍従の中納言(藤原行成・三蹟の一人)と延幹(えんかん 能書の僧)とに、それぞれ冊子一帖に四巻をあてて書かせていらっしゃる。表紙は薄絹、紐も同じ薄絹の唐様の組紐で、箱(懸子〈かけ〉ご)の上段に入れてある。下段には大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)や清原元輔(きよはらのもとすけ 清少納言の父)のような、昔や今の歌人たちの家集を書き写して入れてある。延幹と近澄(ちかずみ)の君(清原近澄か)が書かれたものは、立派なもので、これらはもっぱら、身近において使われるものとして、見たこともない見事な装丁になっているのは、現代風で変わっている。『紫式部日記』上巻が終わる。
2024.02.15
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「〔53〕体が冷えきった同士―十一月十八日」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。一条院の東の対の部屋に入って横になっていると、小少将の君(源時通の娘)もこられて、やはり、こういう宮仕えの辛さなどを語り合って、寒さで縮んだ衣裳を隅にやり、厚ぼったい綿入れを重ねて着て、香炉に火を入れて、体が冷えきった同士が、お互いの不恰好を言い合っていると、侍従の宰相(藤原実成)、左の宰相の中将(藤原公信三十二歳、為光の子)、公信(きんのぶ)の中将など、つぎつぎに寄って来ては声をかけるのも、かえって煩わしい。今夜はいないものと思われて過ごしたいのに、ここにいることをだれかに聞かれたのだろう。明日の朝早く来ましょう。今夜は我慢できないほど寒くて、体もすくんでるから などと、こちらの迷惑がっているのに気づいて、それとなく話されて、こちらの詰所より出ていかれる。それぞれ家路を急がれるけれど、どれほどの女性が待っているのだろうと見送る。こんなことを思うのは、じぶんの身の上から言うのではなく、世間一般の男女関係、小少将の君が、とても上品で美しいのに、世の中を辛いと思っているのを見るからです。この方は父(右少弁源時通)が出家(永延元年987年)されたときから不幸が始まって、その人柄にくらべて運がとても悪いようです。還啓の乗車は身分の順で、式部は中位より上だが、儀式で役目があるわけではなく、冊子作りなどで主任格といえる彼女の身分はやや別格である。
2024.02.14
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「〔51〕宮仕えでなんとなく話―十一月十五日」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。今のわたしは、ただ、宮仕えでなんとなく話をして、少しでも心にかけてくれる人とか、細やかに言葉をかけてくれる人とか、さしあたってしぜんと仲良く話しかけてくる人ぐらいを、ほんの少しばかり懐かしく思うのははかないことだ。 大納言の君(源扶義の娘廉子)が、毎夜、中宮さまの近くにお休みになって、お話をなさったのが恋しく思われるのも、環境になれてしまう心なのだろうか。浮き寝せし 水の上のみ 恋しくて 鴨(かも)の上毛(うわげ)に さへぞおとらぬ中宮さまとの夜が恋しくて、ひとり実家にいる寂しさは、鴨の上毛の露の冷たさに劣らないのです) 返歌には、うちはらふ 友なきころの ねざめには つがひし鴛鴦(おし)ぞ 夜半(よわ)に恋しきおしどりが互いに露をはらうような友のいないこのごろのねざめには、いつも一緒にいたあなたのことが恋しくてならない歌の書き方までがとても素敵なのを、すべてによくできた方だと思って見る。中宮さまが雪をごらんになって、よりによってあなたが実家に帰ったのを、残念がっていると、女房たちも手紙で言ってくる。殿の北の方からの手紙には、わたしが引きとめた里帰りだから、特に急いで帰り、すぐに帰ってくると言ったが、実家にいつまでもいるようで、それが冗談としても、手紙もわざわざくださったのだから、悪いと思って宮廷にもどった。宮廷生活を嫌だと思いながらも同僚を慕い、宮仕えという境遇に流されてゆく式部。
2024.02.13
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「〔52〕お産のために簡素であった―十月十八日」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。中宮内裏還啓(かんけい)―十一月十七日 還啓(皇太子、三后などが出先から帰ること)中宮さまが宮中にお入りになるのは十七日である。戌(いぬ)の刻(とき)(午後八時ごろ)と聞いていたけれど、延びて夜も更けてしまった。みんな髪上げして控えている女房は、三十人あまり、その顔など、見分けられない。母屋の東の間、東の廂に、内裏の女房も十人あまり、わたしたちとは南の廂の妻戸をへだてて座っていた。 中宮さまの御輿には、宮の宣旨女房がいっしょに乗る。糸毛の車に殿の北の方、それに少輔(しょう)の乳母が若宮を抱いて乗る。大納言の君、宰相の君は黄金づくりの車に、つぎの車には小少将の君と宮の内侍、そのつぎの車にわたしが馬(うま)の中将(中宮女房・左馬頭藤原相尹の娘)と乗ったのを、中将が嫌な人と同乗したと思っているのを見ると、なおさら宮仕えの煩わしさを感じる。殿守(とのもり)の侍従の君、弁の内侍、そのつぎに左衛門の内侍と殿の宣旨の式部までは順序が決まっていて、そのほかは、例によって思い思いに乗り込んだ。車からおりると月がくまなく照らしているので、なんと恥ずかしいことだろうと、足も地につかなかった。馬の中将が先輩だから先に行くので、どこへ行くかもわからずたどたどしくついてゆく格好を、わたしの後姿をどう見たのだろうと思うと、ほんとうに恥ずかしかった。式部は内気で、穴のあくほど人間を観察し、これが人によっては知的な冷たさとして嫌われたのではないか。
2024.02.12
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