浜松中納言物語 0
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「年老いて心も枯れ果てて」 今日の「中国写真ライフ」は、懐かしの「甘粛省蘭州」の写真を公開します。「黄河母親像」を見てより、黄河まで降りて行ったが、黄河を遊覧する羊の皮を膨らませた筏を見た後、私はガイドと一緒に河川に造られた歩道を歩いた。歩きながらも歩道両脇の柳の木より綿状の花が、ふわりふわりと飛んで来て歩道の隅や芝生の上に落ちて来ていた。その光景はまるで雪が積もったかのよう。ガイドからも、今年の柳絮(りゅうじょ)は例年より多いですよと口を押さえながら言った。柳絮が一杯に飛び乱れるのも温暖化が進んでいるのかもと・・、私は、呼吸するのも支障を来たすような柳絮を見たのは、初めてであるが、訪れた観光客にとっては情緒溢れる光景で何よりの贈り物だった。6年ほど前は北京へ出張に行く機会があり、5月初め、出張の合間を見ては北京の紅楼夢大観園へ行き、そこで柳絮を見かけた。だが、これほど沢山の柳絮を見たのは初めてだったが、蘭州黄河の歩道でも柳絮が飛び交い風情が感じられた。中国では古来より歓迎や旅立ちに際して柳の枝を輪にして手渡す習慣がある。柳には歓迎や別れのイメージがある。ましてや柳絮(りゅうじょ)のように花が舞うような折には、その歓迎や旅立ちの思いに拍車をかけているようだった。中国の唐代の詩人「白居易」が柳の詩を作っているが漢文なので訳してみよう。私の思いも込めて訳しているので、かなり感傷的になってしまった。「年老いて心も枯れ果てて、昔遊んだ跡を訪ねると、至る所で魂の消えいるような思いに駆られるが、柳の長い枝やその花が、昔馴染みのように棉を降らせ、私の頭を優しく撫でてくれることは有りがたい事だ」
2012.01.18
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「周庄旅情27」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。水郷古鎮周庄に風変わりな建物の軒下に怪楼と書かれた提灯が掲げられている。全福講寺から橋を渡り周庄の通りを暫く歩くと現れて来るのが怪楼の建物である。外見から見ても歴史ある建物だが怪楼はミステリアスワールドのような体験ができる。怪楼の施設の中に入ると見学するだけではなく娯楽や面白味、また参加して楽しめる。一階は視覚館で逆さ部屋、横部屋やトリックアート部屋、鏡迷路部屋、また斜め部屋と不思議な空間を体験できる。二階は聴覚館で日本の3Dサウンドの遊戯設備があり不思議感覚が体験出来る。「中国の旅」
2011.11.29
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「次の旅は雲南シーサバンナ」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ウルムチ」の写真を公開しています。私はこの時、とても急いでいた。なぜならば上海へ飛ぶ飛行機の時間が迫っていたからだ。旅に出て写真撮影に気を取られていると、時間は驚くほど早く過ぎ去っている事に気付く。そんな時に結婚記念写真のカップルが、色々なポーズを取っていたので急ぎ撮影した。結婚前に記念写真を撮る事は各地の観光地で見られる。上海の地でも特に植物園などで見られる光景である。今回の旅は、この辺で終わりとしよう。次の旅は雲南シーサバンナに飛ぶ予定。では、また~ ブーザン@上海
2009.09.26
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「家族を一番大切にする」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ウルムチ」の写真を公開しています。中国では家族を一番大切にし、親族関係は驚くほどに守り支えあっている。中国の道教から来る教えなのかどうかは、別にして、他人にはかなりあくどい事も行うが、身内に対しては、これまでもと思うほどである。また何かに関して縁に関しても、必ず重んじているのも中国の面白い所である。やっと見つけた寺の入り口の階段横に、女人の像が作られ建てられていた。その両脇には花が綺麗に咲いていた。
2009.09.25
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「寺へ行く道を間違えてた」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ウルムチ」の写真を公開しています。ウルムチ市内の公園で暫し雰囲気を楽しんだ。とても手入れされた公園だと思いながら歩いた。胡錦祷主席の皆で力を合わせ、一緒に発展しようの、言葉が蘇るような、モニュメントを撮影した。水を撒くのもゴルフ場にあるような、自動噴水装置で水を撒いていたので、身体に掛からないようにと避けながら撮影した。公園内には沢山の石碑が建てられたり、埋め込まれたりしていたが読む時間も無く、先へと急いだが、急ぐあまりに、寺へ行く道を間違えてしまった。かなり大回りをして辿り着いたが、この公園の上に寺が建てられていた。
2009.09.24
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「展望台へ上がった」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ウルムチ」の写真を公開しています。ウルムチ市内中心街の国際大バザールの展望台へ上がった。高さは200mほどあるのだろうか正確な所分からない。その展望台を案内してくれたのがウイグル族の女性で、日本語が上手だったが、中国語共通語も上手だった。手荷物をテーブルの横の椅子の上に置いて、まずは、窓からモスクの屋根越しにウルムチ市内の風景を撮った。次に、展望台内に展示してある写真に興味を持ち見て周り、ガイドから説明を受けたが、外の景色も気になり、レンズを交換して撮影をした中の一枚が上の写真。ウルムチウイグル自治区の今の女性たちは、イスラム信仰で、イスラムの教えに従うような規律もある。しかし、その昔、殆どの女性は、写真のように目だけ出し、口元も隠して他人には見せないようにしている。河の魚は今回の旅行でも、この魚を焼いてもらって、とても美味しく食べさせてもらったが、ウルムチや周辺でも、有名な魚なのかも知れないと思った。下の写真はウルムチの列車の駅で、30年以上前のウルムチ駅のスナップである。
2009.09.23
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「笑顔で握手を求めてきた」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ウルムチ」の写真を公開しています。「新疆--ウルムチ53」で3人の子供たちの撮影をしたが、そのページが、私のキーボード操作ミスで消えてなくなった。なんとも、遣り切れない思いで、以前の画像を探す気力も無く、ページナンバーを詰めて、次の画像を更新した。その昔マレーシアのクアラルンプールのモスクを、訪れて、中へ入ろうとした所、信者以外は、中へは入っては駄目だと制止された事を思い出した。ここは新疆ウイグル自治区ウルムチイスラムの、モスクであるし、新疆では一番大きなモスクである。入れた事だけでも、ラッキーと思ったが撮影の許可を、無理矢理に取ってモスクの中に入り中まで撮影できた。始めは、いかつい顔のウイグル人が、写真は駄目だと、厳しく止められたものの、私の分からない素振りに、人を呼びに行ったようで、鍵の掛かったモスク3階の、扉の前で待っていた所、写真の実に素朴なウイグル人が、笑顔で握手を求めてきたので、私も手を出し握手した。彼の中国語はまあまあで、片言の日本語も話した。写真を撮りたいのですか?と中は何にも無いですよと、鍵を開けてくれたので、了解を得たものと、話しながらも、シャッターを押し続けたが、もうその位でいいでしょうと、鍵を扉に掛け、またニコッと笑うので、貴方はきっと、幸せになれますよと言うと更に笑った。ウイグルウルムチ暴動の1ヶ月前の事である。
2009.09.22
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「扁吻魚の塩焼きを食べた」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ブルジン」の写真を公開しています。カナスのモンゴル図瓦村でガイドたちと落ち合い、ブルジンまでの帰路に着いたがツアー客達は皆さん、疲れた様子で、面白かったですか?の質問に、行かない方が良かったかもしれないですよと、私に気を遣っている様子が伝わってきた。逆に中国人たちから、4時間以上何をしていたのですか?の、質問に、色々な所を見て回り、それぞれの人達と語らい、楽しい4時間でしたよと伝えると、カザフスタンでは、中国語が通じない人が多いので、面白くなかったそうだ。皆は私も含めて、疲れが出てきたのか、ブルジンまでの、道のりを殆ど眠ったままのような感じがした。途中のトイレ休憩でもバスの中で寝ている人もあった。写真はブルジン市内のホテルの前とホテルの横にある、中国各地のお食事処が店を出していた。私は新疆で獲れる扁吻魚の塩焼きを食べたが上手かった。魚の塩焼き方法は中国では珍しい。殆どが蒸す料理法である。
2009.09.21
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「4キロを歩いて来た」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「カナス」の写真を公開しています。どこの国の国境でも通関検問所があり入境手続きをし、その国へ入る事ができ、ごく当たり前の事である。だが、ツアーバスの中の一人の為に皆が迷惑を被り、その本人も何とも気分の良くない出来事である。中国の旅行社もこの路線はこれから先の旅行客には、十分に注意する事であろうし、ガイドにも徹底され、今回のような出来事が、再発しないようにしてほしい。そんな事を考えながら歩いて来たら蒙古ジンギスハンの、末裔の村へ着いた。4キロを歩いて来たことになる。たった一人で村の中へ入って行ったが、昨日食事をした所の、人達やその子供たちが居たものの、私の姿を見ると、他の中国人と観光へ行かなかったのか?など心配して、質問されたが、出来事の内容を話すとそれは残念だったねと、彼らが自分たちで作ったという独特のお菓子を出してくれた。私は次の旅行客のための準備をしているのだろうと思った。モンゴルの人達と話しをしていると時間が直ぐにたった。彼らが私に、少し横になり睡眠を取ったらどうですか?などと、言われたものの一人で眠る気持ちにはなれなかった。
2009.09.20
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「警官はライフル銃を構えている」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「トルファン」の写真を公開しています。上海から新疆の旅行社へ事前に情報を得ようと、メールを送って回答を得ていた事があった。今回新疆の旅の4番目の目的は、カザフスタンへ、行く事であったがアクシデントが起こってしまった。メール文は全て中国語なので旅行社の人も中国人と、信じて疑わなかったようである。その事が裏目に出た。と言うのも、中国人はカザフスタンへ入る場合ビザは要らず、ノーチェックなのだが、外国人はビザが必要だった。ガイドさえも知らない事を私が知る由もなく中国側の、国境検問所の人に何度もお願いをして、中国人と同じ、バスでカザフスタンへ入ろうとカザフスタン側の検問所で、全員バスを降り、一人一人パスポートを調べられた。検問所の警官はライフル銃を構えているので怖かった。私の番になり日本のパスポートを見せると、中を見て直ぐに、受話器を取り連絡しているが、その時間が長く感じた。その時、検問所の前で待っていたガイドに駆け寄り、話しをしていたが、ガイドの表情で、ただ事ではないと思った。つづく
2009.09.19
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「本心が聞きたいものだった」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「カナス」の写真を公開しています。人類未開の浄土と呼ばれていたカナスは99年から、中国新疆の開発がはじまりモンゴルチンギスハンの、残した子孫たちが住む村が見つかったのもこの頃である。モンゴルチンギスハンの残された兵や老人、幼子や病人、また負傷した人達がモンゴル語を、育てながら800年以上も生き延びてきた村だった。開発されるまでは草原や林の中で生活を送っていた。見つかってよりは道路が引かれ、電気も引かれ、彼らたちの生活習慣も一変したのは言うまでもない。中国人たちはモンゴル人の宿に泊まったが、私は、車で30分ほど走った簡易ホテルで泊まった。自然は美しく感動するが、皆の泊まったモンゴルの宿は、トイレまで200mほどあり、電気も無くあちこちに、こんもりと便が盛ってあり、その中を歩く勇気は、いくら私でも湧いては来なかったし、あくる日中国人に、聞いてみると「泊まらなかって良かったですよ」と・・。更に聞くと「転んでこんもりの上に手を付き大変だった」と、もし泊まる人があるならば、夜の水分は控えめに・・。ある人はビニール袋の中に水分を出したとの事で、彼ら中国人も一生忘れられない思い出が出来ましたと、語ってくれたが、生活水準がある程度高い彼らにとって、中国新疆ウイグル自治区の置き去りにされた人達が、どのように目に映ったのか、本心が聞きたいものだった。
2009.09.18
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「光景はあたかも絵画のよう」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「カナス」の写真を公開しています。アルタイから西へ100キロのブルチンは、今から15年ほど前まで人里離れた辺鄙な所だった。ブルチン北部のカナスが国家級自然保護区として、開発されたため一躍有名になった。中国中の旅行社や雑誌社に話しが広まると、人や金や物が集中して集まるようになった。最近のブルチンの財政は観光収入で財政の、半分ほどをを支えており20年前とは全く違う。ブルチンからカナス自然保護区までは、さらに北へ165キロほど行った所にあり、新疆ウイグル自治区ではその道路建設のために、複雑な地形や急勾配の険しい所へ莫大な資金を投資した。緑の草原には牛や羊の影もまばらだが、澄み切った綺麗な空気を胸いっぱいに吸い込み、車窓に映る色彩も薄緑、青緑、深緑、黄色、褐色と、さまざまに変化していく光景はあたかも絵画のようだった。
2009.09.17
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「羊の群れが隊列を成す」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「カネス」の写真を公開しています。新疆ウイグル自治区の高原ではよく見掛ける光景。実際に牛の群れや羊の群れが道路を塞ぎ群れが、渡り終えるまで車はただ待つしか術がない。このような光景をいくつも見たのは初めてだった。ホテルを朝7時半に出発し、目的のカナスへ向かった。羊の群がしばしば道路を塞ぐとは聞いていたが、放牧に向かう途中の羊の群れだがバスの運転手も苦笑い。道幅の広い所を羊の群れが隊列を成して移動する。このカザフでは毎日の朝と夕方に見られる光景である。バスは大きくカーブしながら先を急ごうとしていた。私は一番前の運転手の横に行き「こんな機会は、滅多に無いので少しバスを止めて下さい」とお願いした。私はすぐさま後ろを振り向くと私と同じように、カメラを抱えて前を見ている中国人たちの姿。やはり彼らにとっても珍しい光景なのだろうと、自分勝手に思いながら連続シャッターを押していた。
2009.09.17
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「期待していたより悪い画像」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「五彩灘」の写真を公開しています。レインボービーチなどと英語で書いてあった。7色の虹までは行かないが、確かに虹のような色である。向かい側の林の緑や河のブルー土の色も何色かある。昔ほどではないが同じ光景のシャッターを切る回数は、相当減ったが、それでも最低3度はシャッターを押す。撮影しカメラで確認した折には綺麗に撮れたと思っても、実際にアップしようとテレビである程度探そうと、試みたが、思っていたより悪い画像にがっかりする。写真撮影結果は色々な条件や偶然が重なり、思ってみなかった情景を残す事もできる。この五彩灘はかなり広い公園であるので10人が、バラバラになった折、探すのに苦労をする。ましてや中国人の中にはビデオカメラを持ってきており、ナレーションを自分で話しながら撮影しているので、更に置いてきぼりになっている人も出てきた。撮影会なのか7人ほどの中国人グループが、ニコンやキャノンのカメラを提げて撮影していた。彼らは三脚を持ちかなりの重装備といった所。私もその昔は重装備をして旅したが結局重たいだけで、一度しか使わず持ち帰った事もあったので機材は、出来得る限り最小限にした方が他人に迷惑を掛けない。 「懐かしくも新鮮な光景」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「五彩灘」の写真を公開しています。大自然が造り出した五彩灘の上に立ち夕陽を見ていると、放牧してあった牛たちを牧場の牛小屋に、連れて帰る牛追いの人と出会った。肉眼で見た夕陽はもっと赤く、雲をもっと赤く、照らしておりとても懐かしくも新鮮な光景だったが、こうして写真を張り付けてみるといま一つ不満が残る。だがその場の臨場感は感じれるのではないだろうか。辺りはもう少し明るかったように記憶しているが、カメラの絞りを絞って撮影しているので暗く感じる。何となくモンゴルの匂いがする景色でもあるが、この辺りは、日本で言う鎌倉時代に蒙古の元が統一した歴史もあり、その時の蒙古軍の負傷兵や老人達が隊列から取り残され、一つの部落を形成し、その後800年間生き延びている。 「新疆地元女性との散歩」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「五彩灘」の写真を公開しています。私は新疆ウイグル自治区のアルタイ地区の五彩灘での、景色や情景に感激し長居したため皆から取り残され、気が付けば辺りは薄暗くなっていた。五彩灘で働く中国人も帰りの時間が来たようで、忙しくしていたが私は「五彩灘の出口までどれ位?」と、聞いた所「ゆっくり歩いて13分ほどかしら」と回答。回答をくれた女性も「門を出ないと帰宅できないので、一緒に行きましょう」と肩を並べ話しながら歩いていると、私の携帯が鳴ったが、ガイドからの電話である。電話の内容は、「皆さん大分前に集まっていますよ」と、私は「今出口へ向かっている」と告げると「早くホテルへ着き食事がしたいと言っていますよ」と少し慌てた様子だが、私は新疆地元女性との折角の散歩を楽しみながら歩いた。
2009.09.16
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「肉眼で見た光景と写真では」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ブルジン五彩灘」の写真を公開しています。五彩灘は布璽津からバスで40分ほどの時間で行けた。既に夕方近くになっており急ぎ五彩灘へ入ったが、太陽が徐々に西に傾きかけた時間帯なので、自然が造った美しさを堪能する事ができた。夕陽の光が前に広がる光景を照らすと、色鮮やかな景色が目前に広がり、シャッターを、押し続けたが、肉眼で見た光景と写真では、写真の方が劣っており、実際の景色は数段良い。始めは3人の中国人女性たちと歩いていたが、気が付くと彼女たちはかなり前方まで行ってしまっていた。如何に私が景色に感動し、同じシーンを何枚も、撮影していたと言う事が、離れた距離で察しれた。五彩灘や五彩河岸と呼ばれる河流域は新疆アルタイと、布尓津(ブルジン)の境界内に位置している。何万年もの風食や浸食などの自然の作用の影響で、典型的な風化土堆群地形が形成され美しかった。この写真は、あと4回に渡り公開したいと思っている。
2009.09.15
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「風食現象により削られた」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ヤルダン」の写真を公開しています。中国のシルクロードは新疆のタクラマカン砂漠の、縁辺に沿って伸びるオアシスルートが有名である。またグルバンテュンギュト砂漠は中国内の砂漠の、タクラマカン砂漠に次ぐ第2の規模と呼べるだろう。 写真の奇妙な岩群の名を「魔鬼城」と呼ぶが、大規模な、地殻変動で大地が隆起し湖の水は干上がってしまい、長い年月を経てでき上がったのが「魔鬼城」である。奇妙な岩は長い間に風食現象により削られて出来上がった。遠くから見た「魔鬼城」は土で出来ているものと思った。だが、実際に自分の足で大地を踏みしめると土ではなく、紅褐色の岩で出来ており、所々侵食が進み土に変わっていた。殺風景に見えた景色も実際に上に上って辺りを眺めると、大自然が造り出した造形美を楽しむ事が出来た。ガイドの話では陽が沈む頃がきれいだと説明するが、いつまでも魔鬼城に居る訳にも行かず次へと旅立った。
2009.09.14
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「葡萄栽培の歴史は2000年」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「トルファン」の写真を公開しています。トルファンの葡萄栽培の歴史は2000年と言われる。中国5000年の歴史から比べれば半分も満たない。しかし、日本の2000年前と比較してみるとすぐ分かる。記念館のような中では葡萄菜園ばかりでなく、各家庭で使ったランプや火を点ける油灯と、呼ばれるものまで色々と展示されていた。葡萄畑と言っても、その収穫は新疆一であり、衛生カメラで撮影するとトルファンの砂漠とは別に、緑に覆われた大地がハッキリと写り、その広大さを物語る。新疆トルファンで採れる葡萄の品種は何百もあり、ワインも多く作られ、また干し葡萄が各家庭で作られ、観光客を相手に商売をし、重要な収入源となっている。
2009.09.13
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「火焔山に炎が立ち上がり」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「トルファン」の写真を公開しています。西遊記で牛魔王と孫悟空が芭焦扇を巡って、戦った火焔山がモデルとされている。トルファンのシンボルである火焔山は赤い山とも呼ぶ。三蔵法師一行の行く手を阻むように、火焔山に炎が立ち上がり、先へは行けなくなった。羅刹女の持っている芭蕉扇を使えば炎を消す事が出来る。孫悟空は羅刹女の芭蕉扇の事を聞きつけ羅刹女の、所へ扇を借りに行くが、以前息子の紅孩子が、孫悟空に敗北した事を恨み、扇を貸してくれない。金の延べ棒で術を使って扇を手に入れるが、今度は羅刹女の夫の牛魔王が襲って来る事になる。そんな苦難を乗り越え、火焔山の炎も消して、三蔵法師一行の旅は続ける事ができた。
2009.09.12
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「孫悟空の金の延べ棒」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「トルファン」の写真を公開しています。火焔山の事をウイグルの人々は赤い山と呼んでいる。トルファンのシンボルでもある火焔山の標高850m。山と言っても一つの山ではなく赤色砂岩で出来ている。赤い岩肌が110キロに渡り山と言うより屏風のように、広がっており、火焔山の山肌には深いシワが刻まれ、長年にわたる地殻変動と風雨による侵食により作られた。地元ガイドの話では、極端な乾燥地帯だが、その昔には、この乾燥した土地にも雨がよく降ったとの事。この地域では最高気温が50℃にも達し、陽炎が立ち上る。写真は孫悟空の「金の延べ棒」を模り気温計を作っている。何ともユニークではあるが、それほど昼と夜の気温の差がある。火焔山へ出て一番に飛び込んで来たのは孫悟空達の像だった。
2009.09.11
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「裕福ではないウイグル族の生活」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「トルファン」の写真を公開しています。子供の頃から、ブドウ作りの勉強を受けているような、ろう人形のブドウの実が豊作の中で、子供が父の姿を、見上げるシーンが何とも上手く表現されていた。ウイグル族の一家団欒の茶の間のようである。まだまだ現在でも裕福ではないウイグル族の生活だが、50年以上前は、もっと大変な暮らしが見え隠れする。小麦粉を捏ねて、それを油を塗りながら、台の上を、小麦粉で叩いて、だんだん伸ばしていく麺つくりである。中国の各地で見受けられる麺はこの手法である。また子供たちの玩具から家の中のもの全て手作りである。中華民国時代は中国の貨幣は22の省と5つの自治区の、各省で発行されていたので、写真のように新疆省と、名前が印刷されているが、中華民国時代の新疆は、新疆ウイグル自治区ではなく、新疆省であったようだ。
2009.09.10
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「遺跡の中心は幅3mの大道」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ウルムチ」の写真を公開しています。トルファンのなかでも有名な景観は、「西遊記」の小説が生まれた火焔山である。高昌古城、べゼクリク千仏洞の北を東西に、100kmにわたって連なり、地表の侵食と地殻変動で、崖全体に炎のような奇妙な模様が入っている。その前に交河古城の中に入ったが、高さ30mの崖上という立地が天然の要塞を、成し、遺跡の中心は幅3mの大道が貫いている。西北部に寺院遺跡、東北部に一般住居が集中する。交河古城は世界でも珍しい「彫刻都市」で、黄土の台地を上から掘り下げてつくられている。そのため日干しレンガを積み上げた街とは異なり、建築から1000年以上を経たいまでも保存されている。だが保存状態が良いといっても、風化は進行している。
2009.09.09
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「ウイグル族の子供たち」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「トルファン」の写真を公開しています。トルファンへ行く途中で葡萄園に立ち寄った。もし一人でバスに乗って行っているならば、直接トルファンへ向かっていただろう。井戸を掘ってその井戸と井戸を溝を掘りつなげた。イスラムからの指導との事だったが、砂漠の中で、水を汲み出すことが如何に大変で難しかったかが伺える。ウイグル族の子供たちが、学校の休みを利用し、葡萄園で採れた干し葡萄を売っていた。中国人の、子供たちとは違ってイスラム社会の表情をしている。砂漠近くでは珍しい青々とした大きな木が聳え立つ。その横を通り抜けると、博物館の前に出た。同じツアーの若い二人が中へ入って行く所である。
2009.09.08
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「見ざる、言わざる、聞かざる」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「トルファン」の写真を公開しています。中国各地の旅行先で見掛ける翡翠のブレスレットである。だが偽物が多く出回っていて、最近の偽物作りの技術は、日本の技術など中国の足元にも及ばないと最近思う。「見ざる、言わざる、聞かざる」という3匹の猿は、左甚五郎が日光東照宮の門に3匹の猿を寄進しており、日本独特のものと思っていたが、シルクロードを経由して、中国から伝わったものだという見解があり、トルファンのブドウ畑の土産物売り場で見掛けて信じるようになった。トルファンの途中で入った葡萄園の博物館と土産物屋で、見掛けたブドウの成る木を撮影したが、本物の葡萄のような、錯覚を起こすほど精巧に作られた葡萄が成る木だった。この絵が描かれた時代を聞いた所、130年ほど前だという。130年前と言えば日本では明治11年で、こう考えると130年前が、かなり前のような気がするが、新疆では油絵の絵の具があり、油絵を描く技術が有ったのかと思うと信じがたかった。
2009.09.08
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「新疆の民族弦楽器」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「トルファン」の写真を公開しています。道順に沿って歩いて行くと、新疆の民族弦楽器が展示され、ラワープ、ドタールと言われる弦楽器や、ダブと呼ぶ、タンバリンの皮に絵が施してあり、上海からの大学講師が、買えるかどうか聞いていたが、非売品と言う事だった。ラワープという弦楽器はマルベリーという名の木材から、本体が作られ、高級品にはスネークスキンが張ってある。展示品の横に置いてあるラワープという弦楽器を弾いてみた。高校時代からギターを弾いていたので簡単だった。マンドリンのような弦楽器とスネークスキンが張ってある、ラワープという弦楽器とでは、ラワープの方が澄んだ音が、何とも三味線の高い音にも似ており、その独特の響きに、安心感と楽しさが湧く感じだったが、このトルファンなので、マッチしているが、上海へ持ち帰れば違和感が出ると思った。中国のどの地方でも見られる丸木を干し乾いてから、丸木の部分を少しずつ削りながら作り上げた置物である。中国の観光地の中でも雲南省や河南や湖南などで見掛けたが、こちら新疆トルファンのはまた見事な彫りかたであった。一人の中国人が記念にと小さい彫り物を買っていた。
2009.09.07
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「トルファンでは海抜がマイナス」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「トルファン」の写真を公開しています。トルファンはトルファン盆地の中央辺りになり、北の方を眺めると5000メートル級の天山山脈が見れる。海抜2500メートルの所にあった湖を旅してきたが、トゥルファンでは海抜がマイナスになってしまう。トゥルファン市街の近くにあるアイディン湖の水面は、海抜がマイナス154メートルと、中国で最も低い。トルファンに向かう途中でブドウ園とカレーズを見るため、バスを降りてブドウ園の中に入ると先に土産物屋へ入る。中国の何処の旅行社でも同じように、観光地の土産物屋と、つながっており、必ず土産物屋に入る仕組みになっている。もし土産物屋の中に入らず、先を急いだ場合には、土産物屋のサインがなくガイドはチップをもらえない。私が不思議に思いガイドに質問した事があるが、私たちの仕事の手助けをして下さいという内容の説明を、受けた事があるが、買い物が目的ではない旅なので、いつも時間が勿体無いと思うのは私ばかりではないと思う。 「天山山脈の雪解け水」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「トルファン」の写真を公開しています。トルファンへ行く途中にある葡萄園へより土産物屋に、入ったが、買い物意欲が湧かないので直ぐに外へ出た。外では葡萄園と言うだけあって、多くの葡萄の棚があった。暫しの間ブラブラしながら、私を除いた11名を待ったが、外に出てきた中国人の手には沢山の買い物品が握られ、これからトルファンへ向かい観光をするという感じが、見受けられず、彼らの話はもっと買えばよかったと・・。この一帯は農業が主で、ブドウ・綿花・ハミウリが特産。だが砂漠地帯に水をどうやって運んで来るのか興味を持った。博物館に入り、古来よりの農耕器具や井戸の説明を受けた。水源は天山山脈の雪解け水を、山の麓から持って来る。山麓から30mほどの間隔で、並ぶように井戸を掘っていく。その井戸の底部分を掘りつなげて水路としたものである。10世紀後半にイスラムよりウイグルへ伝わったと言う事で、その井戸や掘りつなげた地下の仕組みをカレーズと呼ぶ。 「雨花石と呼ばれる石」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「トルファン」の写真を公開しています。写真の石は、10年ほど前に南京を旅した折に南京郊外で、見た雨花石と言う名の石に似ていた。雨花台というのは、中国共産党と国民党とが争い、戦闘が一番激しく、多くの兵の流血があり、兵の礼を敬う為に建てられた。 その雨花台の雨花石と呼ばれる石は、水に浸けると、メノウのように光沢があり、半透明の飴のような石で、写真の石は、雨花台で聞いた話しでは、南京の地でしか、取れない石との事だったが、何処でも採取出来ると思った。10世紀の後半に砂漠の水が少ない地方へ水を運ぶ方法が、イスラムより伝えられ、現在豊富な農作物が出来る。ブドウ棚の手前には、イスラムより伝授された井戸を掘り、その井戸の水を溝を掘りつなげたカレーズがあった。イスラム世界のイランやイラクまたカイロなどは確かに、砂漠化して水の供給に困る地方が多く、生きるための、知恵から生まれた方法なのであろうと思ったが、次々に、井戸を掘り、その井戸の底をつなげていく方法は、当時としては画期的な方法だったろうし今に受け継がれる。
2009.09.06
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「上海から来たと言った」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ウルムチ」の写真を公開しています。ウルムチ市内のホテルへ戻り、ホテルの近くにある、羊肉の串焼きを焼いてもらい食べたが、上海で食べる羊肉とはまた違い、新鮮な感じの羊肉に、更に、焼いてもらいホテルの部屋に持って帰って食べた。ホテルの部屋に持って帰る分は5本で十分だろうと、「5本焼いて下さい」頼むと「5本でいいの?」と、不満そうな感じだったが、座ると笑顔が戻った。ウイグル語で隣の友人と話していたが突然に、「あんた何処から来たのか?」と聞かれた。日本からと言うと、また説明が面倒なので、「上海から来た」と言うと、「上海は良い所だ」と、上海へ出稼ぎに行っていた頃の事を話していた。写真はウルムチ郊外の風力発電のプロペラである。数え切れないほどのプロペラが至る所に立っていた。日本の風力発電はアメリカや中国郊外に比べると、遅れていると思ったが、ふと「北の国から」の風力、発電を富良野の田舎で作り電球が灯った事を思い出す。
2009.09.05
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「食べてみますか?」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ウルムチ」の写真を公開しています。中国新疆の天池の標高は2000メートルほどあり、バスで登って行く毎に寒さが増し雪が積もっていた。南方から来た若い二人は雪を始めて見るかのように、雪だ~とバスを降り、その後期待通り滑って転んでいた。気温が急に上がっているのか道路から蒸気が昇り、辺りは何となく幻想的な雰囲気に包まれていた。写真は首を取られた羊が無造作に吊るされていた。私は何か食べなければと思ったが、さすがに羊は、食べる気がせず、ビスケット類を買い食べた。写真はナンと呼ぶウイグル族のパンの一種であるが、同じツアーの上海から来た上海大学非常勤講師の夫婦が私に「食べてみますか?」と手渡してくれた。手渡しなので閉口したが、食べると美味しかった。小麦粉をこねて発光させ、円形状にしたものを、大きな炉の内側に貼り付けて焼いたものであるが、何となくフランスパンのようでもあり、ピザのような、舌感で噛めば噛むほど味が出るような感じだった。
2009.09.04
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「共に成長共に発展をしよう」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ウルムチ」の写真を公開しています。一人旅のために中国人寄せ集めの中に入った。勿論、行き先は現地の中国旅行社へ連絡をする。全てのやり取りは、中国語のみでやり取りされるので、中国語の話せれない人や片言の人は参加出来ない。チベットや新疆ウイグルウルムチ方面は騒乱後、現地での旅行参加は更に厳しくなっている。私がウルムチを旅した頃はデモ騒乱の1ヶ月程前の事。5月末頃にウルムチ市内に居たが平穏な街だった。現在では胡錦涛主席がウルムチでウイグル族の幹部と、会談しその後の演説で、我々と共に努力し同じように、共に成長共に発展をしようと2009年8月下旬に語り掛け、大きな希望の拍手が舞い上がるシーンを写していた。ウイグル族の人々の中国語も非常に癖がある。日本人の中国語発音より悪いような印象を受ける。写真は沢山の馬を放牧し自然の中で伸び伸びした感じ。私たちは大型バスに11名で行動を共にする事になった。一組の夫婦は上海大学の教鞭を定年退職し非常勤講師。若い夫婦とその子供は北京から参加の会社社長夫妻で、結婚前の2組のカップルと一人旅の38歳ほどの女性。そして私を入れた合計11人で、これから「天池」へ向かう。
2009.09.03
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「ここのマントウは上手いぞ」 「中国上海写真ライフ」では、新疆自治区「ウルムチ」の写真を公開しています。敦煌から嘉峪関までバスで砂嵐の中を4時間掛けて走り、何とか嘉峪関の火車站まで着いたが、嘉峪関でも異常な、気象のため気温が一気に15度も下がり真冬のような、冷たい強い風が吹いていた。薄着の私はリュックより、薄いセーターとウインドブレーカーを取り出し羽織った。嘉峪関では夜7時45分発のウルムチ行き列車なので、付近の値段の安そうなレストランを探したが体の良い、レストランは無く、仕方なしに一杯飯屋風の店に入る。横にスライドさせるガラス張りサッシが砂のために、中々開ける事が出来ず、店の中から開けてもらった。中に入って椅子に座っても、皆地元中国人か旅行中の、中国人が座っており、目が合うと頭をぺこりと下げた。ウルムチの駅に着いたのは朝7時15分ほどであった。ウルムチを漢字で「烏魯木斉」と書き、烏魯木斉とは、地元ジュンガル部の言葉で「美しい牧場」を意味する。ウルムチは古くから周辺の遊牧民族と漢民族による、領土の奪い合いが続けられ、清朝時代の光緒帝の時の、1880年代に新疆省が設置され迪化は省の省都となった。私は一人でポツンと立っていると「朝食は食べたか」と、聞いてくる中国人のコックに聞かれたので「まだだ」と、答えると、「ここのマントウは上手いぞ」と進められ、ホテル兼レストランの中に入って進められたマントウを、注文した所、驚くほど早く出てきたのでマントウを食した。思ったより口に合い、食べ終わってより外に出て、話しをしながら撮影したのが上下の写真である。
2009.09.02
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「エキゾチックな語源の響き」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「月牙泉」の写真を公開しています。私はシルクロードとは前回行った西安(長安)から今回旅した甘粛省から新疆ウイグル自治区を通り、遠くはローマまで、通じていると思っていたが、どうやら日本にも達しており、奈良も含むようで中国製やペルシャ製の貴重な宝物が、遣唐使に随行してペルシア人が日本に来ていたようである。友人の学者の話では、唐代当時の日本飛鳥京や平城京は、シルクロードの日本の玄関でありシルクロードの東の、終着点と呼ばれていた事もあるようだ。私はNHKで、特集を組まれたシルクロード-絲綢之路の番組を良く見た。お客様との商談の折に見れない時には留守録をしていた。シルクロードという言葉自体が醸し出す何とも言えない、エキゾチックな語源の響きと、西安や敦煌、新疆などの、まだ見た事の無い中国の国に行きたい思いが増した事も、事実であったし、友人が北京へ旅行に行って来たと聞き、友人に会い何とも言えない嫉妬も抱いた事を思い出す。私は寺男のおじさんと色々と話をしながら下りてきた。その途中でも何枚もシャッターを切っていたら「同じ所で、何枚も写真を撮るのだね~。一枚で良いのではないか」と、問われたが、不思議に思われても仕方がないと思った。実際、同じシーンを6枚ほど撮影し、最終選ぶのにも苦労する。亡き父がプロカメラマンでモデルを何枚も撮影していた事を、何度も見ていたので、そのクセが自分にもあるのかも。
2009.09.01
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「砂漠に取り残されてしまったら」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「月牙泉」の写真を公開しています。宗教は阿片との見解を下していた中国共産党は文革時代に、清華大学附属中学の学生を筆頭とした紅衛兵組織により、寺廟などの宗教施設を徹底的に破壊した。歴史と言ってしまえばそれまでだが、国宝級の寺院や仏像が、破壊された事は、中国の各地を回って見て本当に残念に思う。後漢時代に建立され中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の、寺や後漢時代から残る貴重な文物の数々は全て破壊された。住職や住民達は仏像を守ろうと小さな仏像は壁の中に隠し、文革の嵐から仏像を守ったと実際に聞いたことがある。再度建立された現在の寺には探しても住職の影さえなかった。時々砂嵐が止み月牙泉の砂丘滑りで中国人女性の叫び声が、聞こえて来たが、私たちのグループなのかどうか分からない。このまま砂漠に取り残されてしまったらという不安も過った。そんな事を考えていた時、後ろから「一人で来たのか」と、寺男風の老人が私に話し掛けて来たので非常に驚いた。私は言葉を失い「トイレってあります」と思わず聞いていた。おじさんは指でトイレの方向を指して「あっちにある」と、教えてくれたので、そのトイレへ向かい中へ入った。トイレの写真を撮るほどではないが思ったよりも綺麗だった。トイレから出て来ると、寺の片隅に座っていた寺男風の人は、立ち上がり私の方を見ているので「この寺は新しいですね」と、分けの分からない事を言うと、以前の寺は文革で破壊されたと、一言だけ言うと「私は家に帰るがアンタはまだ居るのか」と、私はその人と一緒に小高い丘から降りて、皆の居る方へ、歩いて行き、電気自動車が止まるところまで送ってくれた。
2009.08.31
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「月牙泉の小高い丘には寺院」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「月牙泉」の写真を公開しています。「オアシス」とは「住みか」という意味であり最初に、用いたのは古代エジプト人だが、語源はギリシャである。世界各国にも多くの砂漠が存在しオアシスも存在する。敦煌は砂漠のオアシス都市として世に知られている。鳴沙山の麓に泉があり中国沙漠第一泉の月牙泉がある。三日月形の月牙泉は古代より敦煌の目とされてきた。古来より時を刻みながら、毎日5トンの水が湧き続けて、今まで砂漠の砂に埋もれてしまった事がないが、このまま砂漠化が進めば50年後には埋もれる危機にあるという。過去2千年以上の時を刻み、またシルクロードに立ち寄った人々の心を潤してきたオアシスが、あと50年の命とは・・。古来より神聖な場所として月牙泉の小高い丘には寺院が、文化大革命時代に古き文化を新しい文化へと破壊された。その後、世界文化遺産の候補に上がる声と共に再建立された。私は寺の中心地点に立ち、いにしえのその昔多くの人が、破壊された寺を眺めていたのではと思いながら撮影した。だがガイドにはこの方向へ来る事は伝えてあったが、砂嵐の音や風で舞う砂も緑の木々や三日月の泉に遮られ、寺院の中はまた違った空間の雰囲気に包まれていた。
2009.08.30
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「イメージとしては神秘的な感じ」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「月牙泉」の写真を公開しています。鳴沙山は、その昔「神沙山」と呼ばれていたようである。鳴沙山の砂はサラサラの茶色の砂ではなく、よく見ると、赤、黄、緑、黒色などの何色もの土砂が堆積しており、私が訪れた時には、砂嵐が特に激しく尾根の砂が嵐で、吹き飛ばされ、まるでナイフで削り取られているようだった。鳴沙山は敦煌より南へ6キロほど下がった所に位置する。砂漠化は今尚進んでいるが、800キロ平方mにわたる広大な、砂の山々が陸続と続いているとの事でそれを鳴沙山と呼ぶ。鳴沙山という名前は砂山を人が降りるときに沙が鳴る所から、名前が付いたのかは不明だが、砂嵐の鳴る音はすごかった。この日、砂嵐ではなく穏やかな日であったならば駱駝に乗って、目的地の月牙泉まで優雅に楽しんだのかもしれないが、この嵐では、その想いも叶う事はなかった。鳴沙山中腹より、砂漠の中のオアシスである月牙泉を撮影したが、砂嵐のお陰か、イメージとしては神秘的な感じで撮影できたのではと自讃する。月牙泉は、鳴沙山の谷あいに湧く三日月形の泉で長さ200mあり、幅50mで深さ5mの砂漠のオアシスで一度も枯れたことがない。泉のほとりには楼閣が有ったが文化大革命で破壊されてしまった。文化大革命後15年を過ぎた頃に復興されて今の寺の姿になった。月牙泉の上に復興された寺にも、砂嵐の中一人でたどり着き、撮影した画像があるので、明日以降写真を公開したい。 「目の前の景色を一人占め」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「月牙泉」の写真を公開しています。私と同じようにホテルから参加したツアー客が何処に、行ったのかも分からず集合時間も聞き逃した私は少し、焦ったが私一人を残して去ってしまう事はないと信じて、いつもの悪い癖である一人歩きが始まってしまった。ガイドにとって、何より一番心配な事は外国の旅行客が、一人でフラフラ何処かへ行ってしまう事なのではあるが、また血が騒いでしまった。一枚目の何でもない石碑に、第一泉と彫られ赤のペンキで彫られた跡を塗られている。観光写真の快晴の時に見る画像と今回のような砂嵐の中で、見る石碑とでは感じ方が違った。初めて訪れた砂漠のオアシスで、シルクロードの本の表紙にも載る様な月牙泉であるが、砂嵐の中一歩一歩砂の中を歩き、やっと水中カメラを、構えて撮った第一泉の写真である。砂漠の中のオアシスで一度も枯れた事のない月牙泉だけあり、月牙泉の小高い原っぱに入ると一面の緑に心動かされた。砂嵐の中でやっと辿り着いた砂漠のオアシスにホッとすると共に、人の声が聞こえず、不安な気にもなったが、目の前の景色を、一人占めしたような錯覚にまで陥った事も隠し切れない事実だ。
2009.08.29
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「寝る前に童話の本を」 「中国上海写真ライフ」では、敦煌鳴沙山「月牙泉」の写真を公開しています。鳴沙山と彫られた石を撮影しようとカメラを構えていた。その後ろを10頭ほどの駱駝の列が通り抜けたので、慌てて後ろへ下がり駱駝の全貌を撮影しようとしたが、左右に中国の観光客が立っており仕方なく望遠側で撮影。私は3歳半から9歳半まで3軒の親戚を回りながら育った。その時に親戚のおばさんより、寝る前に童話の本を、親戚の子供と一緒に、よく読んで聞かせてくれた中に、月の砂漠の話しと駱駝の話しだったが、家族の居ない、私にとって夢のような物語だったし子供心にも、行って見たい気持ちが逸った事を今でも鮮明に覚えている。実際の月の砂漠の話しは日本の海岸での話しで、砂漠の字が、月の沙漠と「沙」の字になっている。2頭の駱駝に乗った王子と、姫の像は千葉県の御宿海岸には海岸の浪打の音を聞きながら立つ。何となく月の砂漠からイメージする国がアラブの国のような、気がしてならないが、保育園に上がる前の幼い心に、焼きついた思い出が蘇って来たのは確かである。子供の頃の想い出に浸る間もなく、砂嵐の猛攻撃が容赦なく頬を、たたきつけ、痛みさえも感じる中で、一人列から離れて、色々な場面の景色を撮影して回った。あまり離れないで下さいと、ガイドの声が聞こえたが、砂吹雪でその声も直ぐに消え失せた。ウインドブレーカーのフードの紐を締めると周りの音が静まり、自分の世界だけが砂漠の中にあるような錯覚にまでなった。
2009.08.28
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「足から頭まで完全に防備」 「中国上海写真ライフ」では、敦煌「月牙泉」の写真を公開しています。一枚目の写真を見て驚いた人もいるのではと思う。何となくインフルエンザの消毒に行くために、足から頭まで完全に防備をした姿であるし、撮影している私も全く同じ格好をしている。旅行する前にネットで鳴沙山の状況を調べていた。鳴沙山は市内から近いのでチャーターの必要はなく、タクシーで行って(10元ほど)、帰りも同じく、客待ちしているタクシーで帰って来れば良いとの事。しかし、私は現地の中国人ツアーに申し込んだ。もし自分一人でタクシーで行っていたら、このような、写真の装備も考え付かなかっただろうし、強い砂嵐の、情報も全く知らなかったので、中国人と一緒で、ホッとしたような、何となく助かったような気もした。カメラはCANON5Dとレンズ3本、また事前の砂漠情報で、水中カメラを寸前に手に入れ持参した為、砂嵐の中で、ツアーに参加した中国人のようにレンズが回り難いという、アクシデントには遭わずに済んだが、鳴沙山と月牙泉の、為だけにカメラを購入した事は浪費のような気もした。
2009.08.27
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「四面の壁面には壁画」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「莫高窟」の写真を公開しています。「莫高窟」の出口でカメラを旅行客に返している所を、見た私は急ぎ出口へ急ぎカメラを頂くと「莫高窟」の、外観を柵から身を乗り出して撮影した石窟であるが、石窟の中の様子は残念ながら撮影出来ていない。366年に鳴沙山の東に夕日を浴びて輝く千仏の姿を感じ、石窟を築き修業したとの事であるが、そんな簡単に岸壁を、彫れるものではないと思いながら代表的な石窟を見学した。366年から1366年まで石窟は掘り続けられ石窟の数は、最終1000個までになったが現在は492の石窟が保存されている。古い時代の石窟は中心部にあり、両端部へ行くに従い新しい、石窟が集中しているとの事で、どの石窟も正面奥の上に、塑像が並んでおり、また四面の壁面には壁画が描かれていた。造られた時代によって、石窟の構造や仏像の顔やポーズが、それぞれに違っていると説明を受けたが中国語の理解度は??左端を歩いて来る女性が敦煌「莫高窟」の専属ガイドである。大学を卒業して2年になる24歳の女性で、ガイドをするために、石窟の彫られた時代背景や仏僧画、仏の生涯を伝える絵や、伝統的な神話・伝説の内容を絵、また仏教史跡画などの内容を、覚えるのに時間が掛かったとの事で、今でも勉強を続けている。
2009.08.26
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「心洗われる思いがした」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「莫高窟」の写真を公開しています。敦煌「莫高窟」を象徴する朱紅色の楼閣「九層楼」の中を、今回始めて見たが、大仏が中にありその大仏を覆う楼閣と、いうことは分かっていたが、実際に中に入ってみて驚いた。誰もが知る奈良の大仏様の高さは14.7メートルである。私が始めて奈良の大仏を見たのが小学校の修学旅行で、こんなに高い仏像をどうやって作ったのだろうと、相当長い間見ていた記憶があるが、それよりも遥かに高い。まだ訪れていないが四川省の楽山大仏は71mで世界一。アフガニスタンで爆破されたバミヤン西大仏が55m。四川省の栄県大仏37mで、敦煌の大仏は34.5mである。奈良の大仏を始めて見たときは12歳の時で、世の中の、何たるかも分からない時で大きく見えた事は確かである。私は12歳の何も知らない無垢な時に敦煌の大仏を見ていたら、さぞ衝撃的に心に刻まれていた事だと思う。3歳半で母を、無理心中で亡くし、その後、紆余曲折の人生を歩んできたが、敦煌の大仏を見て心洗われる思いがした。ただ、カメラを、没収され撮影禁止で中の画像が無いのが心残りである。
2009.08.25
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「敦煌の映画を見た時」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「莫高窟」の写真を公開しています。敦煌の街より車で30分ほど走ると世界文化遺産の敦煌、莫高窟へ着いた。敦煌へは中国へ来た当時より是非にも、行って見たかった所であったので望みが叶い嬉しかった。敦煌に関しては中学や高校時代にも地図で見ていた。学生時代には仏閣や仏像に興味を持つようになると、写真ではなく敦煌の石窟をどうしても見てみたかった。自分で工場を始め100人近くの従業員を抱える頃には、敦煌の事など全く頭に浮かばなかったが、西田敏行の、敦煌の映画が放映されると真っ先に映画館へ見に行った。井上靖の原作の敦煌の映画を見た時には感動した。2回映画館へ行ったしテレビでも放映したので、もしも、中国へ行くような事があったら真っ先に敦煌へ行きたいと、その頃には、ただ漠然と思っていたが、4年後には、中国行きが現実のものとなったが、広東省で遠過ぎた。広東省に居る頃には毎日のように中国の地図を見ていた。地図を見ると行きたい所ばかりだったし実際旅の計画を、立てる頃には休み日数の制限を受け、中々思うような、旅が出来なかったが、今回敦煌へ来れて本当に嬉しく思う。
2009.08.24
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「後進に道を譲る5」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「敦煌の街」の写真を公開しています。「嘉峪関」より5時間の道のりをバスで敦煌へ向かった。夕方敦煌の街へ着いたが、何故か辺りは明るかった。時計を見ても中国時間7時近かったので暗くなってもと、思ったが、この辺りまで来ると日本との時差が3時間あり、暗くなるまでに時間があり、何となく得した気分がした。街は思ったよりは綺麗に掃除されホテルより少し歩くと、ロータリーの中央に琵琶を弾く天女の像が立っている。莫高窟の石窟の壁画にある反弾琵琶の図を彫刻にしたもので、下の写真の反弾琵琶を弾く天女は敦煌のシンボルである。その後、何人もの演奏家が背中で琵琶を弾こうと試みたが、誰人も背中で琵琶を弾く事ができなかったエピソードもある。 「後進に道を譲る4」のつづきより私の左眼球内よりの鮮血出血が気になり病院へ行ってきた。毎回思う事ではあるが、中国の病院は患者が多い。私は眼科の中でも専門の医師を頼んで診察して頂いた。診察結果は「結膜下出血」との事で、目薬とビタミンEの、薬が出され、医師よりは10日間ほどすれば治るとの事。原因は何かと聞いた所、ハッキリとは分からないとの事を、話しながらも、疲労から来る左眼球の出血だろうと思うと。何か思い当たる節が有りますか?と逆に質問された。思い当たる節が、この3週間有り過ぎて、何が何だか自分でも、正直分からない。しかし、壮年に多く発生するので注意が、必要で安静にしているよう言われたが、心は焦る。つづく
2009.08.23
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「後進に道を譲る4」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。今日は、私の後の仕事を引き継ぐ若い二人を連れ、日本料理店へ行って来たが、一人が気分が悪くなり、長居をせずに帰ってきてしまった。私にとっては久方ぶりの日本料理ではあったが、気分が悪くなった一人が中国人の刺身を食べる様子を、興味深げに観察していた所、刺身を食べるのに醤油と、油をたっぷり入れた中に刺身を付けて食べていた。日本では刺身に油を付けて食べる習慣はないが、こちら中国では油がなければ食べられない人もいる。私は「郷に入れば郷に従え」の言葉を持ち出し説明した。しかし、気分が優れずに焼き魚にしたが駄目だった。帰りの車の中で、部長はインドネシアへ行けて良いですね。などと、思った事をそのまま口にする若者たちに今後4ヶ月で、この二人をどうやって教育すれば良いかと考えながら、帰宅したが、この二人はインドネシアでは長続きしないという、本社の見解にも頷け納得できたが前途多難である。つづく
2009.08.22
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「後進に道を譲る3」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。私よりインドネシアは若手に任せても良いのでは?と、尋ねたところ、若い者では直ぐに嫌になり辞めてしまう。そこで、経験豊富な貴方なら問題ないだろうと決定した。私に打診もなく先に決定されてもと言いかけて、その言葉を、飲み込んだ。現在のサラリーマンの世界で文句を言えば、この時とばかり解雇されてしまう事になってしまうからだ。私から言葉の問題が一番心配である事を伝えたところ、普通の人は食事とか生活の事を心配するのに言葉ですかと、今度は専務に電話を代わって、勉強好きな貴方なら問題ない。言葉に関しては、こちらでは何も心配していないとの事。小さい会社でも派閥があり、専務派と新社長派と・・・。私は何か事が起こると専務に良くは思われなかったようで、その事から言うならば、私は新社長派に属するのかも知れない。今回の事で、上海から新社長まで電話を入れたが、今回の、インドネシアは大切なプロジェクトで何とか手を貸してくれと、どの道、逃げられないと悟った私は、1週間ほど前に本を購入し、インドネシア語の勉強に入ったが、左眼球より出血し真っ赤に、染まり左目が重苦しくてたまらない。つづく
2009.08.21
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「後進に道を譲った2」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。インドネシアへ行き新しく工場を立ち上げるとしても、私の一番心配になるのが、やはり言葉の問題である。中国へ来て既に1年間を越え、15年目に入った。中国語はいつも学習をして来たために通訳なしで、全く問題ないが、インドネシアではこうは行かないだろう。今回のような更迭にも似た移動は考えても見なかった。私が会社を経営していた時点では、サラリーマンが、こんなにも精神的に辛い思いをしなければ、ならないとは、思ってもみなかった事である。やはり、その立場に立ってみなければ何も見えないと、今回ほど痛切に思った事はなかったが、本社より、「シンガポールが嫌なら辞めて頂いても良いですよ」と、言われた時には、さすがに笑ってしまった。つづく
2009.08.20
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「後進に道を譲る1」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。先日、日本より後進に道を譲ってはどうかと打診された。まだ働ける事は分かるが、ある日突然辞職されても、会社としては困ってしまうので、どうだろうか?との内容。私は今辞職になった場合、何をするべきか考えていないし、あまりにも急な話なので考えさせて欲しいと返事をした。だが、その返事に対して直ぐに返答が来た。上海を後進に譲ると言っても最低3ヶ月間は後進の教育に、当たらないと、若い者がいきなりでは、直ぐに会社を、辞められても困るので、ぜひ教育に当たってほしい。ある程度、やれると判断したら、あなたにはインドネシアへ、新規立ち上げの仕事で行ってもらう予定でいる。だから今後何をするのかとの心配は要らないとの回答。つづく
2009.08.19
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「雄雌の区別がハッキリしない」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。「威宣中外」と書かれた大きく厚い木の板が、軒下に掲げてあり、写真を撮ったが意味が分からない。中外とは東西の意味で、東西に威勢よく広がる意味か。中国では建築物の屋根の先が尖り反り返っている。その上には、色々な神話の中の動物が並んでいる。これは魔除けとして古来より迷信化され来ている。750年前の獅子像であるが、現在の凝った彫り方ではない。簡単に彫られていると言えばそれまでだが、また現在の獅子像とは違い雄雌の区別がハッキリしない。現在の獅子は子供をあやしている雌獅子像と、鞠で遊ぶ雄獅子像とに分かれている。入口の獅子を撮影した後で振り返ると、かなり古い建物が、建っており直ぐに駆け寄り撮影したが、文字が薄れて、ハッキリと見えないが、道教の教えが記されている。またその頃の武将の絵が壁の下側に描かれていた。
2009.08.07
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「建築物は皆古く風化しかかっていた」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。嘉峪関を中国語のピンインで書けば「jia1yu4guan1」日本語で読んだら「かよくかん」と読むのだろうか?嘉峪関は「A」が「AAAAA」と5つ並び世界遺産にしても、おかしくは無いと思うが、国家級保護に名を連ねる。中国人のツアー客は、先ほどの奇石展示場で買い物。沢山の石を購入していたが、私には理解できない。売っているから買うと言うのは理解できる。だが、4キロほどはあろう石を購入して「重たい」と、嘆いている姿も、気の毒と言うより哀れな感じだ。私達は万里の長城最西部に位置する関所を見て回った。万里の長城で要衝であった嘉峪関は嘉峪関市の、南西6kmに位置し西寄りの最も狭い土地にある。建築物は皆古く風化しかかっているから感動した。
2009.08.06
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「こんな所までもお金次第なの」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。蘭州の観光は取り敢えず終了し、その夜の列車に、乗ることにし、駅のホームで待つ事1時間ほどして、駅員が「30元(450円)で先に列車に乗れるよ」と、拡声器を手に急ぎ足で行過ぎたので隣の女性に聞いた。「先にお金を払えば早く列車に乗れますよ」と、話していたが「お金出して先に行きますか?」と、今度は女性から聞かれたが、こんな所まで、お金で格差をつけるのかとも思ったが、手には、30元を握り締めている自分に苦笑していた。その寝台車も翌朝には万里の頂上の最西部に、位置する「嘉峪関」に着いた。最西部の関であり、この駅の名前や街の名前も、万里の長城の関である「嘉峪関」から付いた。「嘉峪関」の駅前で暫しの間、歩き写真を撮った。駅前広場でも蘭州駅と同じように馬が像にしてあり、人がその馬の上にまたがったブロンズ像であった。何とも凛々しい姿の武将と躍動感溢れる馬像だった。 「青い河を眺めながら歩いた」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。「方古歩行街」と書かれた嘉峪関へ向かう手前で、観光目的の旅行者用に造られた歩道で降りた。何処にでも売られているような光景だった。簡単な道案内図が立てられていた。5月半ば過ぎで天気は上々で、30度を超える気温に、汗ばんだが、私にはちょうどよいと思いながら歩いた。この嘉峪関では、私を入れ8人のツアー客だった。ガイドは20歳ほどの女性で中国語しか話せなかった。奇石の展示売り場では、南京の雨花台の雨花石に、似た石も売られており懐かしささえ覚えた。私は嘉峪関の予備知識は殆どなかったので聞いても、しっくりこなかったが、万里の長城の最西端との事で、ガイドの横に付き、青い河を眺めながら歩いた。
2009.08.05
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「偽物作りは何処にも負けない」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。白塔山公園から下りて来て瓢箪彫刻品の販売店に、立ち寄りガイドと店の夫婦に挨拶した。店主は「どうでしたか?」私は「一人だったので、見逃した箇所があったかも知れません」と話すと、「白塔は見れましたか?」「はい」「白塔が見れたら、それで十分ですよ」と元気付けられた感じだった。一枚目の写真は、中山橋から蘭州市内へ戻ろうとし、白塔山公園の方へ振り返り撮影した一枚である。上下の写真は、銀行の前に置かれた雄雌の獅子像。ポピュラーな中国獅子像とは違い抽象的な、獅子像に何度も左右に行ったり来たりした。一般の獅子像と言えば威厳がある感じだが、この獅子像は何度見ても見飽きない感じがした。少し歩くと歩行者天国があるとの事で進んだ。一瞬、ここは蘭州かなと思わせるほどに、上海南京路の道並みに似ていた。歩行者道路の両側に建つ店の構えやデザインも、斬新な感じで、14年前とは大きく変貌していた。商社時代に南通市南大街付近のマンションに、住んで各工場への活動をしていた時代があった。近くに「大娘水餃」の一号店があったが、蘭州では、159店舗目であり、ファーストフードチェーンの、この店は「早くて安くて上手い」と評判の店である。「三希堂古玩城」と言うショップの写真を撮った。少し中を覗き見したが、大きな掛け軸が並び、その一角には骨董品が並べられ、全体感はかなり、質の高い物が売られている感じがした。街で売られている偽者の骨董品にも類似していたが、偽物を作る技術はどの国にも負けない中国である。 「民族、皆平等の精神で」 「中国上海写真ライフ」では、青海省の「肺ペスト」に関してちょっとコラム。青海省海南チベット族自治州は私が旅に出向いた所だ。今回、発生した肺ペストですでに3人が死亡した。更に9人が隔離治療を受けているとのニュースが流れた。また治療中の9人のうち1人は危篤状態で、1人は咳や、痰、また胸痛などの症状が出ているという。 話には聞いていた貧しい所、青海省は訪れてみて、初めてその暮らしぶりに驚いたほどである。私は中国生活16年目に入り、色々な所を見聞きした。そんな私でさえ、中国の貧富のあり方を思った。貧しい地方の伝染病のトップはペストとコレラである。1910年から1911年、中国東北部で肺ペストにより、6万人以上が死亡し、また、1920年から1921年にも、肺ペストの大流行が起こり、約1万人が死亡した。第一次・第二次大戦の前ではあるが、今回中国では、少数民族は勿論の事、貧しい暮らしを虐げられている、漢族の皆さんにも存分なる追跡管理と検診・検疫を実施を、成し遂げて頂きたいものである。特に今回肺ペストが発生した地域はチベット族の村々で、力で抑え付けるのではなく、民族、皆平等の精神で、少しでも感謝を抱く行動を取って頂きたいものである。------ブーザン@上海-------
2009.08.04
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「風化し形を留めていない」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。白塔山公園の頂上にはチベット寺院の白塔寺がある。その白塔寺はチベット高僧がチンギスハーンの孫を、訪ねて来たが、蘭州にて命尽き果て、元の命により、白塔山にチベット寺院を建立しチベット僧が供養した。白塔山から少し降りた所より黄河と中山橋を撮影した。登って来る時にも足を休めるために石段途中で、何度も立ち止まっては、黄河と中山橋を眺めた。だが、上に登れば登るほど高さが増すのは当然だが、高さが増すに従って感激度も比例して増した。写真は白塔山公園へ登ったのとは違うルートで、下りてきた所にある寺院のようで、この少し上は、全て鍵が掛けられており、生活空間はなかった。更に石段を下りた所にある獅子の像を撮影した。獅子の頭は風化し形を留めていなかった。一般に風化といえば600年ほどから始まるが、この石像の風化は相当前から始まっているようだ。元の時代に建立されたものなら750年ほど前で、それ以前に立てられていたのではないかと思う。「力強い牛」という意味を書いた「牛の像」の所へ、戻って来たが、ここは白塔山公園二階の広場である。中国での牛の存在は大きく人と牛が共存し、また、役牛として農作業では運搬役・牛車として使われ、また牛糞は乾燥して燃料とし、焼いた後の灰は、時に薬になり、鍋や釜を磨く材料になった。
2009.08.03
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「不安に駆られ余計に疲れる」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。蘭州市から中山橋を渡り、白塔山公園まで来た。白塔山公園の中腹に禅寺の法雨寺があり、山頂にチベット寺院の白塔寺がある。私は久しぶりに友人に会ったガイドの事を思い、一人で白塔山へ登ってきたものの登り口の、ガイドの道案内図をノートに控えず登ったため、何となく、この道で良いのかなど不安に駆られた。法雨寺の中に入り、禅寺にある四天王像を探したが、小さく建てられた寺では、見つからなかった。大雄宝殿の中に安置してある釈迦像にレンズを向けた。本堂内は思ったより暗いのでカメラセットした。カメラの絞りのみ変更し連続シャッターは変更せず、撮影した釈迦像の一枚の絵であるがピンとはイマイチ。この一枚で、私の後ろに立った寺の係りの人から、大きな声で「こらっ!」と怒鳴られて一枚しかない。次にはいよいよ白塔寺の写真を編集更新する予定。
2009.08.02
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「溢れる笑みが一杯」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。白塔寺の境内に入る弦楽器を演奏している人々と、その演奏を聴きながらなのか食事をしている人々の、光景を見て急ぎシャッターを切ったり、彼らの中へ、入り込み幾分興奮気味に撮影している自分に苦笑。演奏している中国人の表情は皆溢れる笑みが一杯で、中国を作って来た彼らの楽器を見ると、真新しいとは、言えない年季の入った楽器で手馴れた演奏振りである。楽団を退役した人達が集っているようにもみえた。私は彼ら演奏している輪の中心で撮影している為、皆と目が合ったが、それでも笑みを絶やさず、演奏し、傍らではご婦人達がグループで懇談会をし、更に遠くを見ると、4・5人で剣舞をしていた。歌を歌う人が楽団の演奏に合わせて歌っていた。公園は階段を上がった直ぐの広場に沢山の椅子が、それぞれのテーブルを中心に並べられており、持ち寄ったお菓子類がテーブルの上に雑然置かれている。すでに帰った人達が捨てた菓子袋を見てみても、中には半分以上残っているから勿体無さを感じる。階段を登って上の寺へ行こうと壁を見ると、これから、私が旅をするルートの大まかな地図が貼ってある。蘭州付近と敦煌や嘉峪関もあり部分的に撮影したが、精彩糸路と魅力甘粛と書かれた文字もアピールしてあり、意味は「すばらしいシルクロード」と「魅力の甘粛省」本当に甘粛省は斜めに細長い省と言う事が分かる。
2009.08.01
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