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高校同期との上海旅行 2002.2.定年退職後帰岡した私は第2就職の新幹線通勤を1年で退き完全リタイヤした。以来長年病院生活を続けている母を見舞う傍ら高校同期とのスポーツを中心とした交流の年金生活を送っていた。そこで3年目の本年ペタンク仲間の難波,津崎,岩戸,河本、江国、渡辺、大賀夫妻と武漢生まれで中国旅行の好きな丹下夫妻の11名で上海及び周辺の4泊5日の安ツアーに参加した。 この数年後私は相次いで岡山市日中友好協会、長春会、安東会に入会し中国旅行にはまったのである。初日(2.16)車2台で関空に向った我々は近畿ツーリスト催行のこのツアーの参加者16名と合流し午後13時40発中国東方航空機に搭乗、中国時間14時55分上海紅橋空港に着いた。紅橋空港ビルを出た途端に私は60数年ぶりに見た高層ビルの林立した辺りの風景に吃驚した。私の頭の中には窓が小さくて平屋の土か煉瓦の民家のイメージしかなかったのだ。一行27名は専用車で杭州へ向かったが高速道路が四方に伸び沿線に見える農家は殆どが大きな3階建てだった。後で聞いたところによるとこの辺りの農民は農地を奥地からの出稼ぎ農民にまかせて自分達は杭州とか上海で現金収入を稼ぎこの様な大きくて立派な家を建てているらしい。只不思議な事に殆どの家に車庫が無い。何故なら驚異的な発展を続ける中国もこの時期はまだ一般道路の整備が遅れており都会には駐車場がすくないので車はかえって不便なのだそうだ。この夜は杭州料理を食べてホテルに入っただけであったが安ツアーだけに食事は野菜が多かったが我々には脂っぽい肉料理が多いよりもかえって口に合うと云って食事が進んだが結局初日だけだった。2日目(2.17)この日の午前中は西湖、六和塔、西冷印社観光だった。西湖は大きな美しい人造湖で如何にも中国らしいきらびやかな観光船に乗って遊覧した後六和塔に向かったが一行の一人が行方不明となりガイドは慌てたが間もなく見つかった。六和塔は西湖湖畔の丘に在る。北宋年代に銭塘江の逆流を鎮める目的で建てられたが銭塘江を行きかう船の灯台の役目も果たしていたと云う。尚現在の木造13層の建物は清代末期に増築された。私は最上階まで徒歩で上って銭塘江大橋を始め辺りを眺望した。西泠印社と云うのは中国内外の著名な書画作家400名超が社員として参加し広い敷地内に多くの特異な建物を有し著名な書画を蔵している。併せて印章ほか文具の製造販売を行っている。昼食を紹興の民族楽器によるLIVEショウを聴きながら摂った後蘭亭、魯迅故居、紹興酒醸造所を観光、見学した。蘭亭には王義之親子の「鵝池」の碑があり岡山の後楽園にもある「曲水」は此処が本家である。魯迅故居は日本の仙台で医学を勉強後一念発起文学を志した魯迅の生家である。最後に紹興酒の醸造所を見学したが下戸の私は貯蔵倉庫に入っただけで酔っ払いそうだった。私は此処で最高級の20年物の紹興酒を義兄の土産として買った。此の後再び杭州に帰り夕食に名物の東坡肉(豚の角煮)を食べた。 3日目(2.18)朝食後世界遺産の街蘇州へ向かった。奇岩(太湖石)と各楼閣を回る石畳の回廊等が有名な留園は北京の頤和園等と並び称される世界遺産である。蘇州の街を巡る運河の遊覧に乗ったが些かヘドロ臭かった。寒山拾得と張継の七言絶句「月落啼烏満霜天・・」で有名な寒山寺を参観した後国立茶葉博物館では龍井茶を試飲し併設されている絹製品や玉を売っている商場を見て回り私は絹のパジャマと玉のタイを買った。またシルク研究所では蚕から糸を紡いでいる所や絹布 団を造っている所を見学した。最後に刺繍研究所を参観したが裏表の柄が違う見事な細工品を観賞した。夕食は「松鼠桂魚」の蘇州料理を食べた。4日目(2.19)朝食後無錫 へ。先ずは市内の亀頭渚公園に在る無錫名誉市民の緒方大作の無錫旅情の歌の碑を見た。次いでジャンクが走っている太湖と鹿頂山を遠望した。上海ガニを養殖していると聞いたが湖畔は何となくヘドロ臭がした。遥かに見えた元蒋介石の別荘は現在毛沢東の別荘兼迎賓館だそうだ。此の後泥人形の加工所で制作風景を見学し次いで淡水真珠工場を見学した。私は真珠に興味が無かったので小さい泥人形を記念に買った。午後は上海に戻り豫園を観光する一行と別れて我々は春節の余韻の残っている豫園の街をぶらぶらして不二の上海事務所の後輩に迎えに来て貰って上海ガニ専門餮庁「百蟹園」で蟹ずくしの食事をしたが小ぶりな上海ガニは食べ難く私は北海道の毛ガニの方が美味いと思った。食後皆で和平飯店の上海OLDJAZZを聴きに行った。満員の盛況だったがプレーヤーが相当な老年なので迫力に欠けていて評判ほどではなかった。それでも私は記念にCDを50元で買った。 最終日(2.20)早朝紅橋空港に向かい予定の機に搭乗し無事帰国した。今回の旅行は総じて値段が安い割に盛り沢山の観光が出来た上に食事もマズマズ満足出来たと云う意見だった。謝謝。
2014/01/31
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高校同期会ゴルフコンペ雨が心配されたが幸い傘をさすほどの事もなく数ホールで止んだ。しかしみんな年には勝てず揃って大叩きで自分も決してよくなかったがハンデに恵まれて1打差で準優勝した。このコースは元々安いうえにサービスが良く4回目は割引きがあり準優勝の賞金とでネット2千円でプレーが出来た。しかし疲れて帰宅後ダウンした。
2014/01/30
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「自分史」第5部第2の人生 その2『阪神淡路大震災』それは平成7年1月17日の早朝でした。当時我々は大阪の豊中に住んでいましたが私は異様な気配で目が覚め何とも言えない、猛獣の唸り声のような音が聞こえたような気がした途端物凄い揺れが来ました。地震と感じた私は咄嗟に飛び起き玄関に走って行き扉を開けようとしましたが床から僅か数メートルの間に恐らく3度は転び擦り傷だらけになりました。娘は2階でしたがブランコのように横揺れがしていた階段を半ば転げ落ちるような状態で私が下から受け止めました。所が気が付いてみたら驚いた事に妻は地震が完全に収まってから悠々と自分の部屋から「長かったねえ」と寝ぼけた声で出て来る豪傑振りでした。枕元に本棚が倒れ本が散乱しているにも拘らずです。そして「どうしてテレビを点けないの」と言う落ち着き振りでした。そう云う彼女の枕元の本棚は倒れて本が散乱していました。しかしこう書いていると時間的に長いようですが実はほんの数分間の事でした。テレビでは「神戸方面で地震があった模様です」というだけでした。近所も静かで何時もの朝と変わらない様子なので私は会社へ向かいました。然しモノレールが来ません。通り掛ったタクシーに乗って千里中央に行ったらだ大混乱で地下鉄は止まったままでした。そこでただ事ではないと感じ直ぐタクシーで帰宅しました。その時はテレビで神戸方面の大惨事を放映していました。我が家でも南北に面した食器戸棚の中は散々でテレビは台から落ちかかっておりピアノも足台からずれ落ちかかっていました。壁も数箇所斜めにヒビガ走っており屋根の棟瓦も蛇行していました。近所でも半径百メートル範囲内で10軒程家屋の倒壊が発生していました。豊中でも2番目に被害が大きい地域でした。近くの大阪大学のグランドや公園に亀裂が走って液状化現象が発生していました。不二の六甲アイランドにある関係会社のヒット製品の生産ラインが壊滅的被害を蒙ってその後の数期の業績に重大な影響が出ました。幸いなことにグループ全従業員に死亡者や怪我人は出ませんでしたが家屋が倒壊した人は数名居ました。会社では暫らくの間は丁度大阪湾の対岸にある阪南工場から毎日漁船をチャーターして被災した関係先に水を運びました。『子供達の事』私がリタイアーした翌年の暮れ二人の子供が相次いで結婚しました。二人とも我々の頃とは違い共に自分で相手を探し事前の相談も無くいきなり直前になって連絡して来ました。如何しようもありませんでした。ご時世でしょう。息子の相手の娘の父親は三菱系の空調機器の販売会社の社員でした。結婚式の日取り、場所形式等も息子たちが一方的に決め我々は只出席しただけでした。一方姉娘の方は我々が岡山へ帰った際母娘だけで相談して彼女は一人大阪へ残った結果何かの若者のパーティーで知り合ったとかである日突然電話をしてきて私は初めて知ったような次第でした。彼は親から引き継いだ自動車のプラスティックの部品の極零細な加工工場を経営していました。矢張り結婚式は彼らが全て決めて我々はだた出席しただけでした。此れもご時世と私は一人納得するしかありませんでした。母親である我妻はこの事には全く無頓着です。然し考えてみれば二人とも人並みに落ち着いてくれた事を良しとすべきでしょうか。私が61歳一寸の時でした。『母の死』平成12年7月の頃になると93歳になっていた母は日毎に疎くなりテレビのリモコンの操作が出来なくなり好きだった相撲も自分からは見ようとしなくなり時折あらぬことをしゃべるようになって来ました。そして8月には食欲も無くなった為母は嫌がりましたが鼻から栄養剤を入れるようになり夜が心配なので夜間のみ看護婦の詰め所に近いベットへ移してもらいました。更に11月になるとMRSA菌が出たため個室へ隔離され常時点滴を打つようになりました。回復は早くて半年先になろうとの担当医の診断でしたが12月にはいるとは母は肺に水が溜るようになり河田親子の診断も「もう余り長くは無いのでは」と言い出したところで年もせまった12月29日の朝私は病院からの電話で母の臨終を告げられた。母の縁者は県北で雪深くしかも年寄りが多いので会葬者が少ない中私の高校同期のペタンクとゴルフ仲間が10数名来てくれた上に不二製油からも会葬者や供花等が届き母に寂しい思いをさせずに済んだことは誠に幸いでした。『その後の事』かくして私は本当の意味で自由となりその後はペタンク、ボーリング、ゴルフ等のスポーツと中国を主に海外旅行を思う存分楽しむことになりました。一方では長らく途絶えていた小中学校の同期会が開催されて旧友や先生との再会が果たせました。『スポーツ』ボーリングでは次第に昔のレベルに戻って200点を何度も出すようになりました。只ゴルフは依然として腕前が上がる事は無く高校同期会のコンペでもホームコースのコンペでも多くのハンディを貰いながら常にBBを争っています。一方ペタンクでは多少勲章を貰っています。此れまで岡山のローカル大会での優勝は何度かありましたが2007年は当り年で岡山市シングル選手権を獲った後全国福祉大会のペタンクの部で5位タイとなった後岡山国体でもデモンストレーション種目ではありましたが優勝する事が出来ました。 2005年ねんリンピック全国大会5位入賞 同年岡山市シングル大会優勝『DUHS』(同志社大学ハーモニカンソサイアティー)私が帰岡した2年後の99年3月多忙の高野会長に代わってOB会を招集した所20名を越すOBが参集してくれました。その時高野君から存続が危ぶまれていたソサイァティーがまだ10名ほどの部員が頑張っているというグッドニュースがあり一同大いに喜びました。尚今回を以ってOB会長を若い後輩で同じ京都在住の後藤君に交代して貰った。この年の8月私は同期の長村、中尾、岩見と湯郷で1泊して麻雀とゴルフを楽しみました。更に2000年に京都で飯尾を除く同期5人と一期下の高野とで食事会をしました。『その他』不二在職時仕事上世話になった加藤工業の社長がこの年の暮れに亡くなり残念なことをしました。又この年と翌年にかけて広島時代一緒だった岡村氏と同期の福岡在の井原氏が相次いで亡くなり私は何れにも会葬しました。尚福岡の井上氏も亡くなっていたことを後で知りました。なお11月不二製油50周年と銀杏会25周年の記念の式典が関西空港の日航ホテルで全員費用会社持ちで招待されて参加したがこれを機会に銀杏会が中四九支部会を創るに当って担当幹事を依頼され就任する事に致しました。此れがその後会長就任の機縁となりました。完
2014/01/29
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留学生たちと2世今まで私が付き合ってきた中国人留学生は5,60人になるが彼らから子供が生まれたと教えてくれたのはまだ少ない。既に帰国している者や結婚後も日本に居る者両方である。このうち1人の子供は昨年の9月から日本の保育園に通っていて日本語の方が中国語より達者になっている。さらに今年になって日本に居る2人から懐妊したと連絡を貰った。5月と8月が予定日なので楽しみにしている。
2014/01/28
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最近の中国語のレッスン中国語の特徴は何と言っての発音が4声ある事だろう。この他にも中国語は発音が違うと意味がまるっきり違うことは非常に多いのでややこしい。また中国語にはかなが無いので外来語は意味を表す当て字と発音だけの当て字とがある。日常中国語としては殆んど、或は全く使われない半ば外来語専用に近い字すらあるのである。更に発音が違うと動詞と名詞の違い或は口語と述語の違いもあるのでややこしい。最近の授業では以上の事を教えてもらっているが日頃発音がいい加減な私には大変である。
2014/01/27
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『自分史』第5部 岡山での第2の人生 その1満洲から引き揚げて以来我が家は苦しい生活が続いたが両親が親類、縁者の助けを得ながらも次第に立ち直りそのおかげで私も何とか人並みの教育を受け社会人となった。私は父のお蔭で大学卒業の年不二製油に就職し無事定年まで勤め上げ郷里の岡山へ帰った。大阪へ第二の仕事に就いたが1年間のみで全ての仕事から解放されて文字通りの毎日が日曜日の年金生活者となった。この後は主な事項を簡単に箇条書きしていきます。「朝日30会」(岡山朝日高校30年卒同期会)不二製油退職後の1年間だけの第2就職も終わっていよいよ本当の「毎日が日曜日」の生活が始まりました。日々母を見舞う傍ら母校朝日高校の同期との交友が結構忙しく此れが生活の基盤となりました。同期が50歳になった頃から30会では修学旅行と称して毎年国内旅行をするようになっていました。同期が還暦になった年に還暦記念旅行と称して初の海外旅行が実施されニュージーランドへ行きました。一方ペタンク(仏発祥の球技)は朝日高校同期のK.M.に薦められていやいやながら始めたのだがたちまち嵌まってしまいました。この年の秋彼女の好意でダブルスを組んでもらったところ比較的大きな大会でなんと3位となったのが嵌る要因でした。又朝日高校同窓会でこの年からボーリング大会をする事になったため30会でもチームで参加する事になり急遽メンバーを集め練習をしました。私がコーチとなって練習に励みこの年は駄目でしたが翌年は最年長ながら団体優勝するまでになりました。札幌時代ボーリングが全盛で私も一度だけでしたが3G600点を超えた事もあり後年本社での社内大会のミックスダブルスで2年連続優勝したこともありました。 1998年9月の大会で3位に入賞した時の表彰式ゴルフの会員権は帰岡後も私が持っていた大阪の愛宕原GCはその頃不二銀杏会(OB会)のコンペの場所になっていた為幹事に頼まれた為に会員権を売るに売れずそのまま保持して新たに岡山でも河田の義兄に薦められて長船CCを300万で購入しました。しかし後年バブル崩壊により会員券相場が下がり両方とも僅か数分の一になってしまい売る気にもならず其のその後も持った儘になっています。又この年私は長年苦労していた痔をとうとう高校時代の親友の外科医の奥村君に切って貰い以後随分楽になりました。「妻の兄と私の姉の死」一方妻のも私同様昔の学校友達との再会を楽しみながら我が家の庭作りに精を出し見事に表は花で飾り裏は野菜畑に再開発しました。翌年の夏家内の歯科医である次兄が肺がんに侵されている事が判ったが手術も薬も効かず僅かな期間で逝ってしまいまた。妻は発病以来毎日のように見舞いに行っていましたがその甲斐もありませんでした。更に追いかけるように私の姉もその年の12月に思いもしなかった脳出血でたった一晩で逝ってしまいました。彼女は女学生時代肺結核に罹り幸にも回復しましたが戦後の栄養事情の悪化もあってか結婚後再発し些か無理とも思えた肋骨切除と言う大手術をしたため結核自体は完治したものの肺機能が著しく衰えた事により無理の利かない身体となり60歳の頃からは常時酸素を鼻から補給する生活になっていたでまさか脳出血で逝くとは思ってもいませんでした。私はたまたまその前日に県北にお墓参りに行った帰りに買った彼女の好物の小豆を妻と届けに行ってお互いに近状を話し合って野菜などを貰って帰ったばかりでした。それでも直前に会えた事は僥倖でした。そんな訳で誠にあっけない死別でした。母の嘆きは大きかった。尚義兄は10年前に歯医者になる寸前の次男を交通事故で亡くし昨年は自分の母親が逝ったばかりで今回の不幸ですからさらに気の毒でした。「母の事」この頃母は年老いてすっかり子供返りをして周囲にやんちゃを云って困らせていましたが満州から引き揚げる前後からの母の頑張りには子供心にも敬意すら覚えるほどでした。私が社会人になった年の秋交通事故に遭いその後遺症を何とか克服しようと頑張り一時はぼんやりして計算も出来なかった頭も遂には株の売買をするほどの回復を見せ父が膀胱癌で逝ってからは極僅かの間私達の所へ来ていただけであとは一人で頑張っていました。それでなくともこの母には戦後の生活苦の中でどれだけ苦労を掛けてきたかを思うと少少世話がやけると云っても文句を言うわけには行かないと私は自分に言い聞かせながら毎日の様に病院に通いました。特に姉が逝った時の母の嘆きようは言葉に書き尽せぬものがありそれ以来次第に心身が衰えて行き3年後94歳で消え入るように逝きました。思えば母は父が逝ってから実に40年近くの大半が病院生活でしたから長い長い闘病の晩年だったように思います。そんな母でしたが父と協力して私に仕送りをしながら倹約して元金を作り何と株で儲けて今私が住んでいる家を新築したのでした。私が不二製油入社の年でした。「妻の事」妻と私の母とは最初から上手く行かず私の頭痛の種でした。然し若い頃の朝子は妻としても母親としても充分その役割を果たしてくれました。仕事で出張の時は勿論の事遊びでゴルフに行く時も朝どんなに早くてもちゃんと朝食を用意してくれました。又広島時代に息子が今で言う「いじめ」に遭った時の学校や虐めの相手の母親等に対する折衝には驚くべき力を発揮し見事に短期間に解決させました。更に退職後の年金生活の中で私がスポーツは兎も角年回のも中国旅行にも文句を言いながらも何とか協力してくれています。
2014/01/26
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岡山市日中友好協会総会と互礼会総会での年次事業報告と決算の発表後互礼会の立食パーティーがあった。本年は私の中国遼寧省同郷の二胡奏者の楊雪の賛助出演があり私も友情出演をした。多忙なうえに東京が本拠である彼女なので事前の私との音合わせは始まる前に一寸だけリハーサルめいたものをしただけだった。幸い何とか無事に終えることが出来たが皆さんからは「二胡とハーモニカのコラボを初めて聴いたが素晴らしかった」褒められた。実はリハーサルでは全然問題なかったのだが本番では2か所も私がトチッチャッたので些か忸怩たる思いがした。以前私がハーモニカで慰問に行ったことがある大きな病院の院長から「何時か私の病院にも来てほしい」との要請を受けたので一応本人に伝えておいた。この病院にはそれ用のホールがありしばしばプロ、アマのミュージシャンが慰問を行っている。患者や職員だけでなく一般にも公開しているので彼女のPRにはなるだろう。なお今年9月28日岡山の天神ホールで彼女の岡山初コンサートがあるので私の挨拶の中で確りPRさせて貰った。何しろ私は楊雪ファンクラブの理事を仰せつかっており会員やコンサートの聴衆を集めるのが役務と心得ている。謝謝。 曲は「シルクロード」
2014/01/25
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旭公民館ハーモニカ教室月2回のこの教室に係るようになって以来もう何回遅刻しただろうか。今回も昨夜まで覚えていて万一再度の遅刻をしないよう目覚ましの時間をセットしたまでは良かったのだが成らなかった。何の事は無い、リンが鳴らなかったのである。このセットを忘れていたのだ。結局20分遅れで到着。昨年末主催者が軽い脳梗塞で倒れて以来私が代理講師を務めていたのでその責任上遅れてはいけないにも係らずこの間今回でもう2回目の遅刻である。トホッホッ。
2014/01/24
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「自分史」第2部私の満州引き揚げ録 下一時我が家の前の道をシベリヤに連行される日本の兵隊さんの行列が連日通った事がありました。私たちが彼らの通り過ぎた後に行ってみると石ころを包んだ紙包みが落ちていました。彼らが家族宛に書いた連絡メモです。私達は其れを拾って父達が日本人会に届けましたが果たしてそれ々の家族に届いたか如何か。その後長春は国府軍と八路軍(中共)との争奪の場となり何度か入れ替わりました。戦闘が激しくなりそうな時は住民は後方へ避難したのですが此れは今考えると何故そのような情報と言うか連絡があったのか不思議に思います。兎も角翌年の夏以降暫く国府軍が新京を確保している間に日本人の引き揚げが始まりました。先ず北から避難して来ていた人達を優先して送り出し10月なってから我々も出発して先述の如くほぼ1ヶ月位掛かって佐世保港に着き検疫のうけて上陸した。佐世保港から数km歩いて南風崎と云う駅から列車に乗って岡山へ向かった。列車は木の座席だったが客車だった。 帰郷列車に乗るため南風崎(はえのさき)駅へ向かう引き揚げ者 上陸した時貰ったお米のおにぎりと味噌汁が美味しかった事と真っ白なコナを頭からかけられた事を覚えています。それから広島が文字道理焼け野が原だった事も覚えています。原子爆弾の事は新型爆弾としてうすうす聞いていました。しかし岡山駅から津山線に乗り換えた際に見た岡山の街も大同小異で一面焼け野が原でした。さて漸く帰り着いた父の生家は父の姉弟の家族に占領されていて我が一家は父が長男でありながら肩身の狭いおかしな状況に置かれました。其れから父が岡山に出て職を手にする迄の約半年間の生活は惨めでした。食べる事だけなら戦後の満州のほうがまだましな位でした。しかし思い起こせば私自身1つ運命の歯車が狂っていたら今の私は居なかったかもしれません。命を無くしているか残留孤児になっているかでしょう。こう思うと全てが忸怩たる想いに駆られます。これらの事は『自分史』第2部としました。『付記』1.「私だけの体験」終戦直前のある日私が一人庭で遊んでいた時の事です。突然一機の戦闘機が急降下して私目掛けて機銃掃射して来たのでした。気が付いた私は丁度傍にあったコンクリートの井戸枠の影に隠れ難を逃れました。もし気が付かなかったら今日の私は居なかったかも判りません。見上げるとパイロットの顔が見え気のせいか私を見てにやっとしたように見えました。米軍機でしたが恐らく偵察の帰りの悪戯だったのでしょう。後で見たら傍に大人の小指大ほどの機銃弾がコンクリートに当たって先が歪で落ちていました。何故かこの事ははっきりと覚えていますが不思議な事に怖かったか如何かは余り覚えていません。尚この後米軍機が時折飛来し機銃掃射をするようになっていました。我が家の斜め前に郊外に行く幅の広いガードがあって其処へ逃げ込んだ満人たちを米軍機が機銃掃射して大勢が死傷したのを私は我が家の窓から見た事も覚えています。なお戦争終結間際には新京の郊外にある飛行場等には何度か爆撃もあったようですが市内にはありませんでした。『付記』2.「大遣返とは」そして丹東と長春への想い大遣返とは「大規模な引き揚げ」と言う中国語だそうです。私は早いうちに生まれ故郷の安東(現丹東)と引き揚げまで居た新京(現長春)や引き揚げ船に乗船した葫蘆島にもう1度行ってみたいと思っていますがいまだにその機会がありません。しかし数年前大阪で家内が友人の紹介で親しくなった中国のハルビンからの留学生の両親から長春に来たら案内してあげましょうと言ってくれているので何とかして取敢えず長春だけでも行ける機会を狙っています。尚彼らは清朝の愛新覚羅家の八旗(親衛隊)の中の一家である白家の末裔だそうで現在は哈爾濱で共に医者を生業としているそうです。引き揚げルート「後記」 私は1936年5月安東(現丹東)に生まれ4歳頃父の転勤で新京(現長春)に移り開戦1年前に父を新京に残して母と姉と3人は一度帰国しました。しかし昭和19年の夏日本の食糧事情が悪化した事により再度渡満した結果父と共に敗戦を迎える事になりました。
2014/01/23
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「自分史」第2部私の満州引き揚げ録 上先の大戦の敗戦後旧満州に残された約105万人の日本人がこの葫蘆島から敗戦の翌年以降数年をかけて日本へ引き揚げました。引き揚げは戦後再開した中国内戦の合間に国共両陣営の協力と日本駐留米軍の思惑によって実現されたと聞いています。敗戦翌年の夏が過ぎた頃のことでした。しかし文字通り身一つ、リュックと手に持てるだけの荷物で南新京駅(当時)より無蓋貨車の列車で機関手や警備乗車の中国兵から賄賂を要求されながら10日程も要して葫蘆島近くの錦州にたどり着き迎えの引き揚げ船(米軍の上陸用舟艇の母艦)を又10日ほど待ちました。従って祖国日本(佐世保)には新京を出発してからほぼ1ヶ月近くかかりました。それでも我が一家の様に一人も欠けずに帰国出来たのは全く幸運でした。北満の開拓団の人々は言うに及ばず新京辺りでもソ連参戦直後朝鮮に向かって避難した人達の中にも多くの犠牲者が出ていました。特に酷かったのは北満の開拓団の人達で命からがら何百Kmもしかも略奪を避ける為山間を徒歩で新京や奉天迄南下して来た人が多いのです。彼らは道中食べる物にも事欠き病気になって命を落たり泣く泣く我子を現地の人に渡した母親も大勢いました。若い男は招集されていたりソ連軍に捕らえられたりして殆ど居ませんでした。 全てではありませんが多くの中国人達は貧しい中でこの子達を大切に育てて呉れたようです。しかし文化大革命の時養父母達が実の親から預かっていた何らかの証拠品を密かに処分した儘逝ったので彼等が後年親や親族を求めて一時帰国した際に決め手が無くて確認が出なかったケースが多くなっています。一方終戦直前にソ連国境へ学徒出陣して行った学生達の中にも多くの犠牲者が出ています。原因は弱体化していた関東軍が逸早く朝鮮国境迄撤退していた事によります。それだけではありません。 我々残留邦人は時の日本政府より新京大使館へ訓令があり「残留邦人は現地に同化せしめよ」、つまり棄民された訳です。これ等の事はこの度「葫蘆島大返遣」と言うドキュメンタリー映画を観て知りました。兎も角も漸くこうして我々は父の生まれ故郷(岡山県北)に落ち着き地元の小学校へ約1年半のブランクを無視して4年の2学期の途中に復学しました。昭和21年11月の事です。田舎の学校とは言えこの間10数ヶ月全く勉強をしていなかったのですから当初算数など全然解らず追いつく迄は大変だった事を良く覚えています。尚私の父は長男で既に財産は相続していましたが戦後の農地改革で田畑の殆どを失っており在満財産も全て失くし引き揚げ時の一人千円のみだったので帰国当時は食べる事にも事欠く有様でした。話が飛んでしまいましたが引き揚げのため葫蘆島に向かった列車は無蓋車だったので予め用意していたテントで風雨を凌ぎ柵をもって転落防止をしましたが道中が長くて風雨を充分には凌げず途中病気になって亡くなった人も大勢いました。 最大の悲劇は列車が停車した際用を足すために若い女性が列車から離れ過ぎて発車に間に合わず乗り損ねて置き去りにされた事です。彼女は余程幸運であれば後続の引き揚げ列車に拾われたかも判りませんが悪くすると命を落としたり良くて残留夫人と言われる事になったのではないでしょうか。 我々もこのような板1枚の貨車に乗って葫蘆島を目指しました尚病死が伝染病と判断されるとその団体は引き揚げ船乗船へ乗船を差し止められるとの噂が流れた為事実を伏せた団体もあったと聞きました。更には漸くにして錦州又は葫蘆島までたどり着いても引き揚げ船乗船の直前或いは乗船出来ても日本到着を前に亡くなった人も少なくなかったのです。更に話を戻します。新京では我が家は幾多の幸運に恵まれ引き揚げこそ最後の方になりましたが朝鮮への避難を父の判断で回避した為最後まで自分の家に住めたお陰で引き揚げまでの生活を家財の売り食いで凌げました。実は新京の日本人達はソ連参戦により朝鮮へ避難する事になり私達も新京駅に集結し避難列車への乗車を待っていた時何故か父が関東軍から除隊されて新京駅に現れて朝鮮への避難に反対したために我が一家は家に帰ったのでした。この時避難列車へは軍関係と満鉄関係者が優先され我々はなかなか乗れずにいたのが幸して父に会えたのです。幸運の第1と第2です。 家に帰った数日後終戦となりその夜から毎夜貧しい中国人の集団が日本人の家を襲うようになりました。その後進駐して来たのがシベリヤ編成のソ連軍だったのですが毎夜頻発する様々な事件に日中両国人共になすすべもない有様でした。私の姉も頭の髪を切って男装して不審者が侵入する気配があったら直ぐ天井裏に避難すべく天井裏に布団を敷いていました。姉が天井に登るのに使った椅子を外すのが私の役目でした。兎も角我が家はこの集団強盗にも間一髪免れました。と云うのは前夜隣の町がやられ明日は我が町内必死と覚悟したのですが不思議な事に彼らは我が町内を跳び越えて隣の町を襲ったのでした。此れが第3の幸運です。又ソ連兵が2人我が家に侵入しようと玄関の補強材を外すべく夜中ゆすったり叩いたりした事がありましたが夜が明け出して辺りが明るくなって諦めて行ってしまった事もありました。その後国府軍がソ連軍に代わって進駐して来て新京は長春の名に戻り街は完全に中国人の支配するところとなりました。所が父は「公金横領と中国人虐待」の容疑で逮捕されましたがその時の長春警察署長が父の元の職場の守衛長だった事と父が日頃から中国人への差別をしなかった事が幸して直ぐに釈放されました。此れが第4の幸運です。実際撫順で炭鉱の責任者だった義伯父(父の姉婿)は父と同じ容疑で八路軍の人民裁判によって路上銃殺されています。又この年の冬の暖房用石炭の確保が食料と共に死活問題でした。お金で購入できる状況ではありませんでしたから町内の朝鮮へ避難しなかった人達が共同でソ連軍や中国軍の兵営或いは駅の貯蔵炭を無料で頂に行きました。此れは運が悪かったら警備兵に銃で撃たれる危険な仕事でしたが幸な事に此れによる被害者は出ませんでした。兎も角こうしてやっとその年の冬を何とかし凌ぐ事が出来ました。
2014/01/22
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恒例のペタンクだったが今日は寒いので確り服装を整えて出かけた。私自身の出来はまあまあだったが勝ち運なく練習試合とは言え全敗した。とほっほっ相手が上回ったと云えばそれまでだが。まあこういう日もある。
2014/01/21
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「自分史抄禄」 第1部出生から生い立ち『始めに』平成9年秋今までの人生で最も長い期間を過ごした不二製油を定年退職して郷里の岡山へ帰り半年間吾身のオーバーホールと母の看病をしながら1年間だけだった第2就職で大阪へ新幹線通勤をした。その後は日々病院の母の見舞と余暇を岡山朝日高校の同期連とのスポーツを中心とした交友で過ごしてきた。一方妻も旧友との交友や庭弄りを楽しんでいたが平成10年の夏突然妻の次兄が肺癌で亡くなったのに続き年末に私のたった一人の姉も脳出血により急逝しました。私はこれを機会に以前から考えていた「自分史」に取り掛かる事にしました。実はこの直後私の人生に於ける最も大きな出来事であった満州引き揚げに関するドキュメンタリー映画「葫蘆島大返遺」を見た事が大きなきっかけになったのです。第1部 出生から満州引き揚げ迄「出生から敗戦まで」私は11年5月12日旧満州帝国安東市掘割南通り出生した。当家は摂津池田城主の一属だったが木村村重の乱で一族離散し我が一族は一時岐阜の森家に仕官し主家の移封に因り津山に移りのち故あって帰農し岡山県の久米に土着し天領の庄屋を務めていたが明治以降祖父が事業に失敗した後政治にに手を出し県会議員迄なったが結局家財の大部分をなくした。母の寿は岡山県真庭郡で村長を務めていた旧家の四女である。結婚当時父母は東京の中野に住んでいたが父の転勤に伴い鮮朝の京城、満州のハルビン、安東、新京と移り住みその間姉が京城で生まれ七年後私が安東で生まれた訳である。開戦1年余前に父を新京に残し我々母と姉弟は一度帰国したがの日本の食糧事情の悪化により1944年の再渡満しその儘新京で敗戦を迎えた。この間私は岡山県北の勝山国民学校に入学し新京の八島小学校に転校し次いで西広場小学校に転校後間も無く敗戦となった。「敗戦から引き揚げまで」当然のことながら終戦の日から全てが変わりました。先ず中国人と日本人の立場が逆転し何時の日からかは定かではありませんが一部の貧しい満人(当時の呼称)たちが集団で日本人の住宅を襲い命以外の全てをさらって行く恐ろしい夜が続きました。私も子供心にあの「わっー」と云う叫びをはっきりと覚えています。何とも云えない恐ろしい雄叫びでした。何しろ大集団なので後ろの方は目ぼしいものは残っておらず着ている衣類まで脱がされたそうです。我が家は奇跡的に彼等の襲撃を免れました。我が家では16歳の姉は頭の髪を切って男装し外出は一切せず何かを感じたら直ぐに天井裏に逃げれるように布団を引いて待機しており私が使った踏み台の椅子を外す役でした。敗戦後新京から長春に名前が元に戻り先ずソ連軍が進駐し彼らが撤収した後国府軍,中共軍が長春の争奪戦を繰り返し我々日本人達は必死に生きるための努力をしました。其の後引き揚げが始まったのは翌年の夏以降でしたがそれ迄は全く予測もつかず只その年の極寒を如何に過すか、食料と石炭の確保が死活問題でした。幸にも我が家は自分の家に住めた事で家財の売り食いで何とか凌ぐ事が出来たのでした。だんだん寒くなってきた頃ソ連参戦時北朝鮮へ避難した人達がぼつぼつと帰ってくるし北満からは着る物も無く僅かに穀物を入れるドンゴロスに首と両手の穴を開けて身につけただけの集団が続々と新京に逃れ込んできました。何百Kmも歩いての逃避行です。新京の邦人たちは極力部屋を提供したり食事の炊き出しをして迎えましたが何しろ大勢であり自分たちも余裕があるわけでもないので彼の殆どは窓ガラスも無くまして暖房も無い学校や倉庫であの極寒の冬を過したため寒さと飢えにより多くの人が命を落としました。新京に辿り着く前にお年寄りや幼児の多くが亡くなっていました。この後すぐ長春は八路軍(中共軍)と国府軍との争奪戦の場となって数回か入れ替わりました。丁度我が家が面していた大通が両軍の最前線となったので我が町内は激戦時は何故か通報があって後方まで避難しました。そうこうしている間に1年が経過し国府軍が新京を確保して何時間に日本人の引き揚げが始まったのでした。新京の日本人会では先ず北からの避難者を先に出発させて比較的余裕のあった我々の町内は最後の方でした。昭和21年の秋で新京はもう薄寒くなっていました。荷物は持てるだけでしたから私は子供ながら自分の着替え等が入った大きなリュックを背負わされた記憶があります。お金は既に日本が新円になっていたとかで一人1千円のみでした。引き揚げ列車に乗った駅が南新京駅だったとは後日知りましたが当時私は幼少だったので知りませんでした。乗った列車は板だけの無蓋貨車でしたが予め聞いていたので落ちないように柵と雨を凌ぐテンを我が町内では用意しました。この間の事情は第2部(「私の満州引き揚げ録」)に記載した。尚当時の写真は中国側の命令で1枚も持って帰ることが出来なかったので現存しているのは父の実家にあった僅か数枚だけです。その中の一枚です(満1歳の私と7歳の姉)
2014/01/20
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岡山ハーモニカクラブ新年会先週間違えて行った岡山ハーモニカクラブの新年会に今日も時間を間違えて3時間も前に行ってしまった。思い込みも此処まで来ると我ながら呆れ果てた。兎も角家で一休みしてから出直した。日頃定日の練習日には出てこない高齢者達も年に1度の新年会には出てくる人もいて参加の浅い私は初めてハーモニカ演奏を聞かせてもらった人もいた。やれやれ。
2014/01/19
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「自分史」をブログ用に再編集旧ブログ鴨緑江丹東生まれのブログにアップしたことがあるが何年も前の事なので再編集してもう1度このブログにアップする。結構長いので少しづつアップしていくが全部ではなく取捨選択してアップしよう。何れこのブログも写真庫が一杯になるだろうからまた新々ブログに移行する日が来よう。その時はまた再々編集する積りだがその時に果して気力と体力が残っているかどうかはその時の事。明日からネタの無い日にアップしていこう。
2014/01/18
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高校同期のM宅を訪れて・・・先日行われた高校同期の新年会の写真を編集してPCのメールで送ったのだが・・・上手く開けないいと云う電話があったので聞くと新しいPCを買ったばかりだと云うので様子を見に訪れた。なるほどWINDOWS8.1と云う最新式だったがこれが聞きに勝る難物だった。私のWINDOWS7と違何処がどうなっているのかわからないが操作がやたら面倒である。送ったメールの添付写真集を開くと各写真ばらばらに表示される。従ってプリントするためには何回も指示に従ってクリックを繰り返し元の写真集に戻す必要があったがなかなかA4の袋とじスタイルにならない。しかもここまで辿り着くのにもかなりの時間がかかった。兎も角2時間後奮闘の末ヤット思い通りにプリント出来た。私も熟達している訳ではだ無いので苦労したがMはまだ自分のPCを使いこなす迄でには達していないので大変だろう。もっと購入時に取り扱いをよく聞いておかないとこういう事になる。何はともあれ今日の目的を達することが出来てめでたしめでたし。
2014/01/17
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娘からの宅急便今日娘から宅急便が届いた。買い物の好きな娘は年に何度かバーゲンで買った衣類やお菓子や自分が着れなくなった(サイズが合わなくなった)衣類を送ってくる。家内は其れを喜んでいる。今日はその中に有った徳利襟のセーターが気に入ったので早速着てペタンクに行った。着心地もよく寒くなかった。娘よ謝謝。
2014/01/16
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高校同期のMの書簡彼からは10数年前からかれこれ20余りの書簡をメールで送って貰っている。一緒に行った旅行記やら、自分の旅行やらまた自分の絵画の習作についての書簡等々様々である。私はその都度適合する写真を添付したり感想文を挿入して返送してきた。今回その中で13を選んで袋とじ形式に直して印刷して1冊にまとめて彼に進呈することにした。袋とじに直すのは文章と写真が勝手にあちこちに飛ぶのでそれらを再編集するのは思った以上に難事だったが今日1日かかってやっと半分で来た。彼を驚かせるつもりだったがブログに書くとこの企みは彼に筒抜けになるので駄目になる。彼は毎日当ブログを点検して私の転換ミスをチェックしてくれているのである。読み返すと結構楽しい。恐らく彼もこれ迄自作を読み返すことは余りなかったであろうから多分喜んでくれること思う。乞うご期待。
2014/01/15
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ペタンク昨日京都で大会があったので今日は少ないかと思ったが結構大勢来た。週3回自分も含めて皆さん飽きもせず来るもんである。しかし流石に真冬である。3時を回ると少し風が出て寒かった。
2014/01/14
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新年会の思い違い今日はてっきりハーモニカクラブの新年会と思い込んで定刻会場に行ったがそれらしき様子が見受けられなかった。不審に思い聞いて見たらなんと19日の予約になっているではないか。おかしいなと思いつつ帰路につきふと携帯を見たらメッセージが入っていた。聞くと高校同期からで定刻を過ぎても私が現れないので確認のメッセージだった。ありゃ~間違えたかと急いで会場へ向かった。幸い会場が近くだったので急ぎ参上。記念の集合写真には少々待ってもらったもののやっと間に合った。お陰で約40名の同期と旧交を温めることが出来た。悲しいかな近年このような思い込みが時々ある。我ながら情けない。終わって親しい仲間と2次会のカラオケに行き間違ったために持って行っていたハーモニカをカラオケの合間に数曲ご披露できた。家内に笑われてしまった。何と申しましょうか!?
2014/01/13
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ハーモニカ演奏録音のDVDラベル作成デジカメによる録音なので音質は良くない上に頭が切れていたり雑音が入っているが。それでも今までに何曲かある。昨年末初めてプロの二胡奏者との共演した録音も一応あるのでこの際これらのうち数曲抜粋してDVDを作った。そこで初めてこれに張る円形ラベルを作ってみた。真中が空くのでこれに合う写真の選択が難しい。何枚か作ってみたが如何もよくないので1部の写真を改造してみたら何とか真中が空いても様になる物が出来たので紹介する。 此れだと真中が空くので「そのほか」の文字が切れるだろうが
2014/01/12
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高校同期とペタンクをした高校同期のペタンカーは数年前までは10数名居て若干名の後輩等を加えて独自のクラブを作って県協に加入していた。しかしその後2名が亡くなり若干名が脱会したので県協から市況へ1クラブとして鞍替えした。今日はその仲間だけで久しぶりにペタンクをした後近くのホテルでお茶をした。朝家内を公民館まで(短歌の会)乗せて行った時は結構寒かったがペアンクをしているときは晴れ渡っていて寒くなかった。
2014/01/11
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いろいろ忙しかった1.午前中はハーモニカ教室で主宰者が病欠の間臨時代理としてメンバーの演奏の評価と留意点を指摘。2.午後は先ず証券会社で最近の株式市場の好転による1部利食い売り。これによって過去の損失をいくらかを取り戻した。3.若干次の予定時間に余裕が生じたので電気量販店に行き写真用光沢紙を買った後ノートパソコンとそれに繋ぐ動画用拡声器を物色した。勿論購入までには至らない。4.続いて日中友好協会で事務局長と25日の二胡演奏と私のハーモニカ共演の打ち合わせ。 序に今年は昨年中断した洛陽訪問が再実施されることを確認した。5.最後は心臓薬を貰いに病院に行ったのだがここで思わぬ災難に遭い一旦帰宅して再度出なおした。 災難とは尿意をもよおしたのでトイレに行ったのだが何とズボンのチャックが下りなくなっていたのである。いろいろ試みたが駄目なので止むを得ず帰宅しラジオ用ドライバーでこじ開けて何とか用を足し得た。お陰でズボン1本OUTにしてしまった。やれやれ。今日はいろんな意味で忙しかった。
2014/01/10
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プロの二胡奏者からの電話聞こえてきたのは中国語だったので予期していなかった為一瞬聞き取れなかった。声の主は懇意にしている楊雪だった。この25日の岡山日中友好協会賀詞交換会で来演してもらうことになっている。その時1曲だけ私もハーモニで共演してもらうのでその打ち合わせと云うか相談だった。彼女とは昨年の安東会で1度共演の経験があるが今回は曲が違う上に事前の練習なしでやるので彼女のリードに頼る私である。 東京の大塚を本拠に岡山にも教室を持っている楊雪
2014/01/09
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早々と中止決定早朝6時前携帯が鳴った。今日のペタンク交流大会の中止連絡だった。60歳代までと違ってこの年になると雨中のペタンクは最早やる気になれない。本年最初なのでやりたい気持ちもあったので降雨中止は嬉しくもあり残念でもある。このころ小ぶりだった雨はやがてお昼頃までには殆んど上がっていたので中止決定は早すぎたかとも思ったが午後になると結構降り出したので・・・主催者の皆さんもさぞ悔やんだことでしょう。兎も角ご苦労様でした。
2014/01/08
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本年初のペタンク交流会最近は齢のせいか昔のように積極的にパートナーを募って大会に参加することが減っている。なので明日の県交流会も何方からもお誘いが無いまま不参加の予定だった。所が今日公園で初練習に行った所世話人から1組キャンセルがあったので参加して欲しいと頼まれた。幸か不幸か来ていた一人が行ってもよいと云うので急遽参加することにした。明日の天気予想は午後から雨模様らしいのであまり嬉しくは無いのだが此れも仲間内のお付き合いである。
2014/01/07
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本年最初の中国語教室中国語教室が今日から始まった。昨年最後の授業が終わった時何時もの駐車場で料金精算して車をスターさせたらがりがり音がして進まないの下りてみたら車止めが下りていなかった。仕方がないのでもう1度お金を入れて清算したがやっぱり駄目だった。緊急連絡しようとしたが精算機に連絡電話が書いて無い。どうにもならず困ったが幸い隣が空いていたので車を寄せて何とか出車で来た。さて今日の事だが、今度は清算手続きをし手も料金表示が出ないのでも1度やったが矢張り金額表示が出ない。おかしいと思って車の下を見たらなんと車止めが下りていた。前回倍の金額を投入して損をしたが今日は無料になった。丁度チャラにはなったがおかしな駐車場である。?
2014/01/06
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お見舞いに行く家内の姪が母親に施設へ会いに行くのに家内と付き合った。久し振りに会ったがすっかりちじこまっているので吃驚した。この後彼女の叔父、家内の弟を教会に迎えに行って昼食を一緒にした。私は近親者はほ余りいないので親類付き合いは家内の関係が多い。間もなく高校、ハーモニカ、日中友好関係の新年会が幾つも始まる。今年は年始(年末)から忙しい年になりそうだ。
2014/01/05
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中国人の知人、朋友2002年岡山市日中友好協会以来今日まで知り合った中国人は60名を優に超えている。このうち現在も交友を続けているのは40数名で中国に行った時の知人は20名くらいである。岡山で知り合った留学生は20名で帰国(7名)してからも行った時会うかメールを交換している。帰国してしばらくして音信不通になった留学生も数名居る。尚近年facebookで知り合って文通のみの留学生等が20数名になった。多くは彼らからの友達の申し込みである。しかし時たまの文通のみでは印象が薄く何処の誰だったかすぐにはピンとこない人が多い。中国での知人は出生地丹東、住んでいた長春、行く回数の多い大連、洛陽が多い。しかし上海はあまりいない。滞在時間が短い為親しくなる時間だ無い為であろう。なお家族ぐるみの付き合いは東北地区が多く10家族くらいある。この家族とは何時も向こうに行った時家を訪ねたり食事をしたりするが日中関係の状態とは無関係に常に友好的なのが嬉しい。
2014/01/04
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今日は休息日年末からの忙しい1週間、やっと元の静かな生活に戻った。夜中の3時目が覚めてトイレに行こうと立ち上がったら自分ではそうは思わなかったが立ちくらんだようで尻もちをついていた。思わずベットの側にある用箪笥に掴まったらしく一緒にひっくりかえたったのだろう。いろんなものが散らばっていた。くわばらくわばら。ゆっくり朝寝坊をして遅い朝食後ひっくり返った用箪笥を起こして散らばっていたものを整理した。そのあと年賀状の返事を10枚ほど書いたが投函は明日にして1歩も外出せずPCとTVに取り付いていたので完全休息にはならなかったが。
2014/01/03
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今日は子供たちのお土産配りの運転手年末から子供たち2家族が持ってきた親類への土産を配って歩いた。まあ新年でもあり日頃御無沙汰の親類への新年の挨拶を兼ねて訪ねるのも無意味ではなかろう。明日から数日は何処にも行かずゆっくり休養できるだろう。来週からまた何時ものようにいろいろとやる事が始まる。
2014/01/02
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長女夫婦数年ぶりに来る第1陣が今日、元旦の朝帰路に向かい入れ替わりに第2弾が昼前来襲。我ら2人3日間の第1陣の御守で疲れた身を奮い立たせ数年ぶりの来岡を迎えた。今年の中国仲間からの年賀状に自称後期高齢者ならぬ末期高齢者と書いてあったが末期高齢者とならずとも若い時と違い連続1週間若いの連中との付き合いはしんどい事だ。とは言え元気な子供たち一家との団らんはその時だけは楽しい。 くつろぐ長女夫婦 ホテルでの夕食
2014/01/01
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新年になりましたブログの皆さん本年もどうぞよろしくい願いします本年が穏やかな年であってほしいですね
2014/01/01
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