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《現在の女性皇族は、結婚したら皇室を離れる前提で人生を歩んできたため、皇室に残るかの選択は、本人の意思を尊重する。これは当然だ》(2026年7月18日付朝日新聞社説) 皇族は権威の存在である。ここに権力が入り込む余地はない。だから、一般人男性と結婚すれば女性皇族は皇室を離脱しなければならないのだ。つまり、皇室に残るかどうかは本人の意思を尊重するなどという話にはならないということだ。 今回の改正のように、一般人男性と結婚後も女性皇族が皇室に残るとすれば、世俗に属する夫と神域に属する妻が1つ所に住まうこととなり「矛盾」である。女性皇族が皇室を離脱することなくこの矛盾を解消しようとすれば、夫たる一般人男性を皇族化するしかない。が、一般人男性が皇族となってしまえば、皇位継承問題が発生する。つまり、一般人男性が天皇となる道を開くこととなってしまう。場合によっては、外国人が天皇となるということも有り得ない話ではない。《女性皇族の配偶者や子の身分は、改正典範では皇族とはならない。政府の説明は「取りまとめに記載がなかったから改正典範にも書いていないだけ」という内容で、将来どうなるかはわからないという》(同) つまり、今回の改正は、世間の反発が大きくならないよう、女性皇族が一般人男性と結婚後も皇室を離れないことを決めただけで、次の改正時に「矛盾」を解消すべく配偶者や子供を皇族化しようと企んでいるのではないかと推察されるのだ。一般人が皇室に入り込めるようになれば、つまり、権力が皇室に入り込めるようになれば、皇室の権威は失墜し、皇統は途絶えてしまうだろう。天皇の存在を快く思わない人達にとっては好都合なのだろうけれども。《改正支持派にうかがえるのは「女性は決して皇位継承にかかわらせないが補佐的な役割を果たすため皇室にとどまってほしい」「養子は、男系で血がつながっている男性が存在していればいい」という考えで、個人を皇室制度の手段とみなす色彩が濃い。 天皇もそれを支える皇族も「生身の人間」だ。一人の人間として、本人の意思や人権を尊重することが不可欠だ》(同) が、半神半人の存在と見ることによって天皇は天皇足り得るのであって、天皇もまた「生身の人間」だなどと言っていては、国民を統合することなど叶わない。天皇は人権などという薄っぺらな観念を超越した存在なのだ。 森鴎外は、世の中は「かのように」で成り立っていると言った。天皇もまた「半神半人」であるかのように考えることによって成り立っているということだ。 国民を統合するためには、天皇は国民よりも高次の存在でなければならない。つまり、天皇は超越的存在たる「神」でなければならないのだ。【続】
2026.07.27
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ここで注意しなければならないのは、日本国憲法第1条は、伝統的存在たる天皇を規定したものであるから、抽象的な意味合いで読まなければならないということだ。天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 当たり前だが、天皇が<日本国の象徴であり日本国民統合の象徴>であるのは、憲法がこのように規定しているからではない。憲法で規定しているからといって天皇が日本国民を統合できるわけではない。天皇が日本国民を統合できるのは、天皇が「権威」を有すればこそだ。 ではどうして天皇に権威が宿るのか。これも当たり前だが、主権者たる国民が憲法によって天皇に権威を附与したからではない。権威は誰かに付与されることによって身に纏(まと)えるようなものではない。権威は、歴史伝統の積み重ねによって付帯されるものなのだ。その意味で、権威は、権力者の恣意(しい)から免れている。 権威を纏った天皇は、一般国民とは住む世界の異なる存在である。つまり、天皇は、超越的存在だ。言い換えれば、天皇は、観念の世界における「神」ということになる。勿論、ここで言う「神」とは、一神教における「ゴッド」とは異なり、一般人とは異なった超越的な力を有する存在という意味だ。天皇は<日本国の象徴であり日本国民統合の象徴>なのだから当然のことだ。 天皇が神だというのは抽象的次元における話である。このことは、天皇陛下を抽象的次元における神としての天皇と、具体的次元における人としての陛下に便宜的に分けて考えると分かり易いだろう。詳しくは、拙著『天皇論入門』に譲るが、要は天皇は半分「神」であり半分「人」である「半神半人」(demigod)と考えるべき存在なのだ。 また、1条に言うところの「国民」は、天皇の地位に関する限りにおいて、伝統的なものであり、「死者をも含めた国民」でなければならない。伝統とは、チェスタトン言うところの「死者の民主主義」なのだ。死者は、生者よりも圧倒的多数派である。であれば、死者の意見を最大限慮(おもんぱか)ることが必要となるのだ。それは伝統を尊重するということだ。皇室の伝統について考える際、生者が自分たちの意見や考えを死者に押し付ける、すなわち、伝統を軽視するということは避けなければならないということだ。 ついでに言えば、1条における主権在民ないしは国民主権も抽象的次元で捉えるべきものであって、今を生きる国民が主権という絶対権力をもっているなどと考えることは慎まねばならない。国民を死者を含めて考え、死者を含めた国民に主権があるということは、生者は日本の歴史伝統を尊重しなければならないということを意味するのだ。【続】
2026.07.26
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日ごろ国会の内外で,「人権,ジンケン」と声高に唱えていらっしゃる方々の声がチベット問題では小さいのはどうしたことか。今国会に人権擁護法案の上程を考えておられるセンセイたちは,与野党を問わず「チベット人の人権を守れ」と中国大使館に押しかけても不思議ではないのに,そういった話は寡聞にして聞かない(3月17日付産經新聞『産經抄』)こう産經抄子は皮肉るのであるが,私も同じ印象を持つ。 これはマスコミが情報操作を行っているということも多少影響しているのであろうが,とにかく中国における人権侵害については,それが明らかな人権蹂躙であったとしても黙殺するというのが日本の人権主義者の遣り方だということである。 否,世界的にも中国の人権問題には腰が引けている。イラクに民主主義をということで攻撃を加えた米国も,事中国となると知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。 否,米国など二枚舌の典型なのだから,米国に首尾一貫性を求めても無理というものであろうが,他の国も大きな声をあげて非難したりしない。ミステリーである。 インド亡命中のチベット仏教指導者ダライ・ラマ14世は,中国当局の弾圧を「恐怖による統治だ。平和を装うため武力に頼っている」と批判,「国際的な組織がチベットの状況を調査する努力をしてほしい」と訴えた(同,1面)。 非暴力の活動を続けるダライ・ラマ14世を見殺しにするような「依怙贔屓(えこひいき)の人権」など迷惑でしかない。
2008.03.18
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政治の貧困について(1)笹川陽平氏は、政治が劣化した原因として、私も昨日指摘した「小選挙区制度の欠陥」に加え、<国民・マスコミを含め社会全体が政治家を育てる努力を怠ってきたこの国の政治風土>(6月9日付産經新聞正論)というものを挙げられている。 代議制としての政治家は、国民の代表なのであるから、政治家には国民の意識レベルが反映されている。 現在のどうしようもない政治の空転を生んだ原因は、突き詰めれば国民の政治意識の貧困にたどり着くであろう。 そして今や国民を主導し、政治家に喝を加えるべき立場にある第1権力としての「マスコミ」が、組織としての商業主義というべきか、個人としての欲情主義というべきか、むしろ国民や政治を政策よりも政局へと煽り立てることによって、政治が翻弄されている。 もっとも問題なのは「世論調査」なるものである。「世論」(moral sentiments)という当座の感情を逐一集積して、時の権力に加勢したり批判を加えることが、政治を表層的な対応に終始させ、本質をなおざりにしてしまっている。 求められるのは、「輿論」(public opinion)である。歴史の流れに棹差して、物事を判断することが必要なのである。《政治家になって何をするかより、政治家になること自体が自己目的化した結果、政治家として国家国民に貢献する志より、権力の上にあぐらをかき、「自身の明日」を優先する独善的態度ばかりが目立つようになった》(同)(続)
2011.06.09
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《審理した15裁判官のうち4人は、逆に違憲とする見解を明らかにした》(6月24日付朝日新聞社説) 具体的に検討してみよう。三浦守裁判官の意見 本件各規定は夫婦同氏を婚姻の要件としているが、現実の社会において家族のあり方が極めて多様化しており、家族の一体性や子の利益等を考慮するにしても、夫婦同氏制の例外をおよそ許さないことの合理性を説明できないこと、夫婦同氏制が現実に女性に対し不利益を与えており、婚姻前の氏の維持に係る利益が一層切実なものとなっていること等の事情の下では、法が夫婦別氏の選択肢を設けていないことは、憲法24条1項が保障する婚姻の自由を不合理に制約する点で、同条に違反する。 そもそも「別氏の夫婦」なるものは、「夫婦」と呼び称するに値するのだろうか。一組の別氏の男女は「カップル」ではあっても「夫婦」ではない。だから「事実婚」と称しているのである。「カップル」に「夫婦」と同等の権利を与える必要がどうしてあるのか。 選択的夫婦別姓を容認するということは、「夫婦」の定義を変えるということだ。が、果たして「夫婦」の定義を変えることの「合理性」はあるのだろうか。2015年12月の大法廷判決は、明治期から夫婦に同姓を義務付けた規定は「社会に定着しており、合理的」とした。<夫婦同氏制の例外をおよそ許さないことの合理性を説明できない>などと言うのは負け犬の遠吠えに過ぎない。<法が夫婦別氏の選択肢を設けていないことは、憲法24条1項が保障する婚姻の自由を不合理に制約する>というのも同様である。宮崎裕子裁判官、宇賀克也裁判官の共同反対意見 本件各規定は、当事者双方が、生来の氏名に関する人格的利益を喪失することなく、婚姻中かかる人格的利益を同等に享受するために、夫婦同氏とせずに婚姻することを希望する場合であっても、夫婦同氏を受け入れない限り当事者の婚姻の意思決定を法的に認めないとする制約を課す規定である。 しかし、その制約に合理性があるとはいえず、これは、当事者の婚姻の意思決定は自由かつ平等であるべきことを求める憲法24条1項の趣旨に反する不当な国家介入に当たり、同項の趣旨に反する法律制度は、そのことのみで同条2項に違反する。 <不当な国家介入>とは強く出たものだ。が、何をもって<不当>と称するのかをもっと説得的に語らなければ只の「扇動」(agitation)である。このようなおどろおどろしい言葉を用いて司法判断を攪乱(かくらん)するのは止めるべきだ。草野耕一裁判官の反対意見 選択的夫婦別氏制を導入することによって向上する国民の福利は、同制度を導入することによって減少する国民の福利よりもはるかに大きいことが明白であり、かつ、減少するいかなる福利も人権またはこれに準ずる利益とはいえない。それにもかかわらず、同制度を導入しないことは、あまりにも個人の尊厳をないがしろにする所為であり、もはや国会の立法裁量の範囲を超えるほどに合理性を欠くから、本件各規定は憲法24条に違反する。 草野裁判官は、<選択的夫婦別氏制を導入することによって向上する国民の福利は、同制度を導入することによって減少する国民の福利よりもはるかに大きいことが明白>だと言うが、これは<国民の福利>というものを非常に狭い範囲でしか見ていないか、社会というものが分かっていないからだと思われる。 選択的夫婦別氏制を導入すれば<家族>は揺らぐ。<家族>の安定が社会の安寧秩序にどれほど貢献しているのかが草野氏は分かっていない。伝統や慣習を継承する主体は個人ではなく社会であり、その社会の最小単位が<家族>である。選択的夫婦別氏制の導入は「文化破壊」である。【了】
2021.07.08
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《改正皇室典範が成立した。(1)女性皇族が結婚後も皇族の身分を保てる(2)旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎えることができる――の2つが柱だ。皇族数確保をめざしたはずが、今後の皇位継承を規定する内容が埋め込まれた。 衆参正副議長による「立法府の総意」のとりまとめでは正面から議題になっていなかったことが、法案化の段階で明示されたため、野党側には「だまし討ち」との不信感が強く残り、参院で野党第1党が反対するなど国会の総意は崩れた。国民の総意に基づくはずの重要法案が強引な手法で通ったのは極めて遺憾だ》(2026年7月18日付朝日新聞社説) 言いたいことは山ほどあるのだが、取り敢えず<国民の総意>について確認することにしよう。言うまでもなく、<国民の総意>とは、憲法第1条にある文言だ。天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。このように憲法に定められているのだから、皇室典範を改正するためには<国民の総意>が必要だと社説子は言いたいわけだ。が、そもそも権威の存在たる皇室を権力の規約集たる憲法によって規制しようとしているのが間違いなのだ。 参議院憲法調査会において、日本共産党の井上哲士議員は次のように述べている。《日本共産党の立場は、1人の個人が世襲で国民統合の象徴となるという現制度は、民主主義及び人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則を今以上に花開かせるためには、将来の方向として、民主共和制の政治体制の実現を図るべきだと考えています。しかし、現在の天皇制は憲法に定められている制度であり、その廃止は、国民の間で情勢が熟し、国民の総意で解決されるべきだと思います。 今大事なことは、天皇の権能を制限する憲法の条項を厳格に守って、その逸脱を許さないこと、そして天皇の政治利用などをさせないことだと思います》(2004年5月26日) GHQが敷いた戦後体制からすればもっともな主張ではある。さらに言えば、<現在の天皇制は憲法に定められている制度>だと明確に述べていることにも注目すべきだろう。「天皇制」なる用語は、天皇の存在を制度と見、制度である限り、これを政治的に廃絶することも可能だという理屈を成り立たせるために造られたものである。 が、天皇は憲法によって定められているから存在しているのではなく、悠久の歴史の上に、伝統的に存在してきたものだ。つまり、明治政府が天皇を政治利用するために帝国憲法に天皇大権を規定したのも間違いであったし、GHQがこの天皇大権を無化するために天皇を象徴化したのも間違いだったということだ。 天皇は伝統的に存在しているのであって、憲法に規定されているから存在しているのではない。このことをちゃんと理解している国民はほとんどいないように思われる。でなければこれほど安易に皇室典範を改正するなどということが出来るはずがないのだ。 中には権力によって皇室の有り様(ありよう)を改変することに異議を唱えておられる有識者もおられるには違いない。が、如何(いかん)せんそれを広く知らしめる役割を担うはずのマスコミが機能せず、偏った情報を流し続けているから多様な意見が公に出てこない。これは自由主義にとって致命的なことだと思われる。【続】
2026.07.25
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