照千一隅(保守の精神)

照千一隅(保守の精神)

PR

×

Free Space

「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

Profile

平成ソクラテス

平成ソクラテス

Calendar

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

まだ登録されていません
2024.02.21
XML
テーマ: 大東亜戦争(220)
カテゴリ: 思想・哲学

丸山眞男は、「ファシズム」の定義もそこそこに、「日本ファシズム」支配の「無責任の体系」として、自身の考えを次のように結んでいる。

《いま一度ふりかえってそのなかに躍った政治的人間像を抽出してみるならば、そこにはほぼ3つの基本的類型が見出される。1は「神輿(みこし)」であり2は「役人」であり3は「無法者」(或は「浪人」)である。神輿は「権威」を、役人は「権力」を、浪人は「暴力」をそれぞれ代表する。国家秩序における地位と合法的権力からいえば「神輿」は最上に位し、「無法者」は最下位に位置する。しかしこの体系の行動の端緒は最下位の「無法者」から発して漸次(ぜんじ)上昇する》(丸山眞男「軍国支配者の精神形態」:『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社)、 p. 129 )

 丸山の目に日本の戦争指導者が無責任に映ったのは、1つには、内閣がコロコロ代わり、誰に責任の主体があったか分からないということ、更には、自分たちが戦争へと突き進んだのではなく戦争へと引き込まれたことが大きいように思われる。つまり、積極的に戦争に打って出る「選択の自由」を行使したわけではないのに、責任云々(うんぬん)と言われても責任の取りようがないということだ。

 勿論、戦争に打って出ずに白旗を上げるという選択肢はあるにはあった。が、選択肢としてあったとしても、白旗を上げれば、連合国側の好き放題になっていたであろうことは想像に難くないのだから、そのような選択をすることは実際上有り得なかったと言うべきだろう。

《「神輿」はしばしば単なるロボットであり、「無為にして化する」》(同)

 要は、天皇は、単なる<ロボット>だと言っているのだ。これが「大不敬」であることは論を俟(ま)たない。また、このような歪(ゆが)んだ思想の持ち主に日本を客観的に分析できるわけもない。

《「神輿」を直接「擁(よう)」して実権をふるうのは文武の役人であり、彼等は「神輿」から下降する正統性を権力の基礎として無力な人民を支配するが、他方無法者に対してはどこか尻尾をつかまえられていて引きまわされる》(同)

 権力者は、天皇の権威を後ろ盾とし、民衆を支配する。が、それでいて、<無法者>の暴力には、怯(おび)えているということだ。

《しかし無法者もべつに本気で「権力への意思」を持っているのではない。彼はただ下にいて無責任に暴れて世間を驚かせ快哉(かいさい)を叫べば満足するのである。だから彼の政治的熱情はたやすく待合的享楽のなかに溶け込んでしまう》(同)






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2024.02.21 20:00:12
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: