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左翼の巨頭も右翼の巨頭たちと同じく、そういう無法な生き方を生きて来た。だが、彼らは屑(くず)ではない。ただの犯罪者ではない。犯罪者とすれば確信犯であり、破廉恥漠(はれんちかん)ではない。
その無頼(ぶらい)性にもかかわらず、責任をもって為すべきことはなし、行うべきことは行った。無頼漢と聖者を同時に内蔵し、その故に、常に一党の首領(しゅりょう)であり、指導者であった。
しかも、青年たちは彼らの聖者性よりも無法性の方に強い魅力を感じたという点に歴史の秘密がある。青年と大衆は聖者と悪党に同時に惹(ひ)かれる。しかも、聖者性よりも悪党性の多い人物の方が人気の的となるという点に人間の歴史の暗さがあるのだ。(林房雄『大東亜戦争肯定論』(番町書房)、pp. 235f)
光があるところに影があり、光がなければ影もない。光と影は表裏一体なのだ。同様に、無頼もただ無頼としてだけ存在するのではなく、聖なるものと不離一体なのだ。無頼の裏に聖なるものが見え隠れするからこそ人々は無頼に惹(ひ)かれてしまうのではなかろうか。
丸山眞男教授は清潔な学者であり、学生そのものの如くに純真無垢であるから、ファッシストと右翼の無法者性を許せない。(同、 p. 236 )
が、丸山がファシストと右翼の無法者性を許せないのは、丸山が純真無垢だからではなく、イデオロギー上の問題ではないか。おそらく丸山は、共産主義に共鳴するがゆえに、右翼が許せないのだ。
それはそれでよろしいとしよう。ただ、左翼人にも右翼人におとらぬ無法性があることを発見しながら、これを例外的な頽廃(たいはい)的現象と解釈して、共産党の聖化を試みる。この左翼聖化の努力は丸山氏自身の学問にとって危険だと私は考える。(同)
学者は中立でなければならないなどということはない。丸山が共産主義贔屓(ひいき)の学者であってもなんら問題はない。問題があるとすれば、丸山を communist (共産主義者)と見ずに、 liberal (自由主義者ないしは進歩主義者)と評価してしまうことの方であろう。
左翼の主流をなす無法者たちはいつか丸山理論に反発する。あまりに紳士すぎるブルジョア学者あつかいされる時が必ず来る。いや、その前に丸山学説そのものが崩壊する。現に崩壊しはじめていると私は観察している。
反権力を御旗として権力に立ち向かっている間は良い。が、一旦その運動が世間に認められるようになると、自らが権力的となり、逆に批判の対象となってしまうのだ。つまり、批判が新たな批判を呼び、明日は自分が批判に晒(さら)されることになりかねない。明日は我が身、反権力運動とは、そういう構造にあるということだ。
丸山氏はアメリカン・デモクラシーとソ連コンミュニズムを同等に聖化し、東京裁判における検察官側の反ファッシズム理論を、ほとんどそのまま受入れて「日本ファッシズム」の実在を論証するために多くの労作を発表したが、この努力は空しかったようだ。(林、同)
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